沖繩の神女の婚姻制について
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(2) 2. 宮. 城. 栄. 昌. 柁をつかさどるものはコデと称した。コデは混効験集1)に,. 「さしぼ(又はむつき)はく. かみんちゆ. お. くでん(・わ. での事,又くでとは託女の事也,今神人と云是也」とあり,敬称して御託女子ともいっ ている。ただし古くは一門内から2人の女子を択び,男神に仕えるのを「おめけいおこ で」 (兄弟御託女),女神に仕えるのを「おめないおこで」. (姉妹御託女)といい,祖先の 神霊によって択ばれる終身職とされていたが,現在では多く一門1人が残されているo つぎに沖縄の社会ほ,部落の守護神-祖先神が鎮座していると信ぜられているお数ある に-辛. いは森・杜を中心に形成されていった。草分けの家を根尾・元屋などといい,その家の女 にがみ. につちゆ. が根神となってお寂の祭柁にあたったoその場合,彼女の兄弟の1人が根人となって行政 あ. をつかさどり,祭政一致の体制で村落を支配したoその村落が発展して領主たる按 配される過程で,根神はノp-祝女という政治的存在の神女と化した。按司の胎動期は9. じ. 司に支. 世紀ころとされ,ノロはその保護神であった。 さらに12世紀になると,按司の中の按司すなわち大世の主が王統を樹立するが,その とき彼のおなり神たるノpほ最高の神女となり,依然として祭政一致の体制が維持されて さ. 明治時代に至ったo最高神女は第1尚民時代(1406-1469)あるいほそれ以前は佐司笠で, あ. ふ. り. や. え. しがさ. きこえおおきみ. ついで阿応理最悪をこかわり,第2尚氏時代(1470以後)に聞得大君に固定した.第2尚 氏時代は沖縄が著しく政治社会化したときで,神女組織もその中に組みこまれて確立した。 ノロが官人として,国王から辞令を以て任命されたのも,そのころからであった。 最高神女のもとには普通三十三君と総称される多数の神女がいた。僧袋中が著わした琉 球神道記にほ, 「託女三十三人-皆以テ王家也,妃モソノーツナ.),聞補君(聞得大君の 事ヲ長トス,都テ君卜称ス」とあが). 地方村落の祭面巳はノロ中心におこなわれたが, ■ノロが官人化する過程で,そのもとに非 し. ど. 官人的な神女組織が成立したo著ノロ・根神・勢頭神などから,小間使にあたる散な者ま で多数の階層がある。一例を示すと国頭村奥間にほ,現在,ノp. ・若ノロ・根神・綻ダモ ト・国万勢・サンナモノがおり,同村安波にはノロ・若ノp・根神・捷神・勢頭大神・イ. ソコ神(5人) ・ビラ元(数人),それに託女子(各一門から1人)がいる。 このように沖縄には厳然たる神女組織があり,全女性が神女たる性格を有していた.そ の天地開聞説も全女性を神職老として伝えている.中山世譜に,. 「天帝子生二三男二女_, (君老婦女,掌二神職⊥者之称也.君君老,令≡貴族婦女数十人各 --長女為二君君之始-o 掌二神職-,故合≡称之一日二君君-o康照之初,議減=英数_,而今有二教職_存意)o次女為二祝 視之始-o. (祝着亦掌二神職一着之称也o祝祝着,諸郡諸村,各右上婦女掌二神職_者下.故合≡ 称之一日二祝祝-,至レ今尚存)o而倫道始臭」と記してあり8', 「三男為二百姓始_」に対する 女子の百姓はない。 神職は世襲を原則としているo伯叔母から姪に伝えられるのも世襲制であるが,母から 娘に伝えるのが一般的であったであろう.ノロ制度確立以後はそれが圧倒的であったo 沖縄社会にほ乙女たちが交わる場としてヤガマヤと称する寝宿が古代からあり,夜軒こな るとそこに集まって夜なべをした。また若い男女の間にはモ-遊びと称して,村はずれの モー(毛-野原)で歌い舞い明かす娯楽をもっており,それが恋愛と結姫の媒介体ともな.
(3) 3. 沖縄の神女の熔解制をこついて. った。そこには神女の後継者に擬せられている乙女たちも自由に集まった。また沖縄社会 の思想的構造として,仏教や儒教の影響が弱かったことを注視すべきである。これらが移 入されたのは記録的にほ13世紀後半後であり,しかもこれらほ上層階級の一部にしか浸 透しなかった.そのため儒仏思想による恋愛則罪悪の思想がなく,神に仕える老は終身処 女でなければならないという拘束性もなかった。 以上述べたように,沖縄の女性ほすべて神であったo神女に独身を強要Lた場合の神女 ほ,政治的組織の中で宮人化したものを指すのであろうが,その場合でさえ,婿姻を拘束 した積極的な史料はないo. (2)神女の婚姫 神女の婚姻の実例をみるまえに,神女の恋愛について記すことにする。おもろに次のよ うなものがある4)。 きこ-,ばてんのろ. -. 間得馬天(地名)のろ. 一. みやけ,ぼしやの. 見たく逢いたい. わかいきよ. 若い人. しのび,あ(oみちよに. 偲びあぐむ(若い)人に. まぶる,かみ,そぁて. 守る神,寄り添いて. まぶられて. 守られて. かよい,ふさよわちへ. 通いて,思いをとげ給い とよ. 又. とよむ,ばてんのろ. 叉. 響む馬天のろ. -折り返し-. この馬天ノロほ第1尚氏王統の初代尚思紹王(1406即位)の妹で,えけりが王,おな りがその守護神たる形をよくあらわしている。そして馬天ノロほ格式高いノロであったが, そのノロに猛烈な恋愛があったわけである。馬天ノpのように積極的でなくとも,男性の まぎりわきいな(・に. こちんだ. 恋愛に負けた神女もある。大里間切湧稲国ノロほ容顔美麗な神女であった。隣間切東風平 富盛城主伊茶謝按司の求愛を拒絶し続けていたが,策略により城内に連れこまれ,ついに 側室の一人となった5'。神女は絶対独身でなければならないという社会規範が徹底してお れば,城主の行為はその地位の破滅につながるはずである。その他にも神女の恋愛の物語 が伝わっている。. ま. 最高の神女たる聞得大君ほ尚円(1470即位)の王女にはじまるが,その3代目に真和 し. 志聞得大君がいた。彼女は尚元王の妃にして尚永王の母である。女官御双紙(1709編) にみえる聞得大君は以下のとおり, 3代から7代までいずれも既婿婦人であるo 1尚円王女月清(独身) 3 尚元王妃(浦添演方女). 2. 浦添王子朝満女(独身). 4. 大里王子朝長夫人梢永王女). 5. 6. 尚貞王妃(宜湾親方正信女). 7. 国頭王子正則夫人(金武王子朝貞女) 尚純王子妃(座苦味親方盛貞女). 以後に知られている聞得大君ほ次のごとくである6)o 2 尚敬王妃(仲里宋方良直女) l尚益王妃(国頭親方朝姿女). わ.
(4) 4. 宮. 城. 栄. 4. 伊江王子朝俺夫人(尚敬王女). 5. 具志頭親方廷儀夫人(尚敬王女) 識名親雲上朝睦夫人(尚穆王女). 6. 尚哲王妃(高嶺朝景女). 7. 尚温王妃(国頭演方朝慎女). 8. 3. 玉城按司朝敵夫人(尚帝王女) 王妃を聞得大君に任命したのは尚元時代であるが,尚貞時代にはそれを固定化した.そ れは王女を任命すれば,知行がその子孫に継承されるおそれがあることが理由とされた7)0 ちねん. 大君ほ知念間切の惣地頭に任命され,. 200石の知行が給せられ,人によっては更に加増さ. れることがあった8)。王妃任命の方針は維持されたが,王女を任命することがあったこと ほ上表でも知られる。ただし知行が王女の子孫に継承されることを不安とするのは,聞得 大君の婿姻を是認してのことである。 つぎに聞得大君以外の高級神女の熔解を女官御双紙についてみると,つぎのとおりであ るo. あふりやゑ(阿応理屋恵) 佐すかさ(佐司笠). 9人中8人(恵良部・今帰仁あふりやゑ含む) 9人中8人(恵良部・首里さすかさ含む). しゆりおふきみ(首里大君). 3人中2人. うわもり(上森). きみとよ見(君皇). 5人中4人 3人中3人. うしかけ(宇志嘉慶). 3人中3人. 世よ勢き見(世寄君). 3人中2人. せたかきみ(世高君). 1人中1人. めづらしきみ(珍君). 1人中1人. みものきみ(見物君). 2人中1人. おふにし大きみ(大西大君). 1人中0人. ふみあがり(路上). 2人中1人. もちつき(望月). 2人中1人. きみつじ(君辻). 1人中1人. きみきよら(君清良). 2人中2人. せちあらきみ(世治新君). 1人中1人. きみ(君). 1人中1人. つかさくもい(司雲上). 2人中2人. 51人中42人が既嬉婦人である。. その中,阿応理星恵ほ聞得大君以前の最高神女名で あったといわれ,さらにそれ以前は佐すかさであったとされている。また路上の中,尚春 久王(1454-1460在位)の王女「ももとふみあがり」. (百十路上)ほ,神女路上名の早い 時期のものであるが,彼女は連勝按司阿麻和利の夫人となっている。また首里大君となっ あ. く- しかわ. ま ぁ. り. ま. ぶ. に. た尚畳王女ほ,はじめ具志川按司朝安に嫁し,離別されて摩文仁按司朝明に再嫁した人で あった。. 地方(間切)のノpに関しては,. 16世紀後半の万暦年間の辞令がかなり残っており,そ. のころノpの官人化が腐著であったことを示しているが,その辞令によりノロの婿姻事実.
(5) 5. 沖縄の神女の婿姻制について. が知られる.次のほその一例である. 首里の御詔. しよりの御ミ事 きんまぎりの. 金武間切の. おんなのろ-. 恩納のろほ 元ののろの子. もとののろのくわ ー人まかどうに. 一人まかどうに. たまわり申供. 腸わり申侯. しよりよりまかどうが方-まいる 万暦十二年五月十二日 全く同じ形式の万麿33年(1605). 首里よりまかどうが方-参る 万暦十二年五月十二日9) の今帰仁間切中城のも「もとののろのくわ」となっ や が. ているが,天啓5年(1625) 首里の御ミ事. の羽地間切屋我ノpに関する辞令ほ,次のようになっている。 首里の御詔. はねしまきりの. 羽地間切の. やかのろ-. 畳我のろほ. もとののろのうまか. 元ののろの御孫. 一人おとうに. 一人おとうに. たまわり申し侯. 賜わり申侯. 天啓五年四月廿日. 天啓五年四月廿日10). 「元ののろの子」同様ノロの婿姻制を前提とし,しかも娘継 「元ののろの孫」にしても, ぎを前提としている。ただこの辞令の形式は,前記万暦12年のとはいくらか異なり, 「しよりよりおとうが方-まいる」という文句がない。これは1609年沖縄が薩摩に侵略 されて以来,支配者が首里でなくなったことから生じた新形式と思われる。 これらに対して,万暦10年(1582)の那覇大あむの場合は,. 「もとの大あむがめい」 だいくま. となっておりu),万暦15年(1587)の名瀬間切(奄莫大島)大熊ノロの場合も,. 「もと. ののろのめい」となっているl乏)o. これらの場合は伯叔母の方に女子がなかったために姪に 譲ったとみられ,現に那覇の大阿母は若くして夫を失ない,子がなかったことが史料にみ えている.辞令以外にノロが有夫であった史料として琉球国由来記中城間切条のユキヤノ ロのことがある(巻14)1さ)0 おどん とんち 聞得大君や三平等大あむしられは,御殿・殿内という祭殿に住していたoその他の中央 神女も同じであったであろうoただし彼女たちが有夫の身であった場令,その祭殿の一角 にしても夫と同棲していたとは思えず,神女の地位につ桝ぎ,事実上の独身生活にほいっ たとみられる。あるいは未亡人であったが故に,その地位についたものもあったであろう。 尚益王妃が1723年に死去した聞得大君尚純王子妃の後をついだとすれば,尚益死去後で あり(尚益は1712年に死去),そのとき彼女は44才であった。その尚益王妃死去後を 尚敬王妃が継いだとすれば,彼女の就任も尚敬王死去後である。そのときの年令は41才。 神女は前人の死去後に継承するのが一般的であっ・たから,それを踏まえると,尚敬王妃の 後を継いだその長女の具志頭夫人は61才で,更に次の二女の伊江夫人ほ65才で就任し.
(6) 宮. 城. 柴. 島. たことになるoこの両夫人がそのとき未亡人であったかどうかは不明であるが,老令であ ったことほ事実であるoしかしこのように閲得大君が未亡人となってから,あるいほ夫と 別居してから大君の地位にあることを以て,神女ほ独身制であり,しかもそれでその霊力. を独占することが七きたと解釈されるであろうか. 地方神女たる阿母やノロも各々殿内を祭殿として火の神を示巳り,同屋敷内や近隣に居住 していたoそしてその居室を宿舎とする招賭婿がおこなわれ,この形態ほ司を世襲する宮 古・八重山地方でもみられたo殿内の別座を居室とする場合もあった。 以上沖縄の神女はむしろ婿姻制を本体としていたのに,何故独身制を重視し,あるいほ それを強制したといわれるのであろうかoその独身制の端緒について紘,おなり神が結解 するとその霊力が兄弟に対して稀薄化するので,政治的実権暑が政治的権威を強固ならし めようとす■る実際的願望から発したといい,その時期を沖縄が政治社会化した按司時代, すなわち根神がノロに転化した時代におく見解がある14'.しかし按司時代にノpが独身で あったという適確な史料はなく・先に推測したように沖縄社会の構造ほノロの独身を強要 するような性格のものでなかったoその按司発生時代から舜天・英祖・察度・第1尚民時 代を経て・中天集権がすすむ第2尚民時代初期に,聞得大君以下ノpの婚姻事例が多くみ られるのである。それほ神女の霊力が政治的に不必要になった結果でない。尚貢が1500 年に八重山の赤蜂を征した際,聞得大君をはじめ,沖縄本島・久米島・宮古・八重山の神 女が如何に活躍したか,尚真をはじめ将兵が如何に神女たちの霊力に期待したか,史料の 証するところである。 沖縄の神女が強いて独身制であらねばならない理由が生じたとすれば,. 1609年(慶長 14)の薩摩の琉球侵略後における統治政策に関係があったと思う。薩摩の示した綻十五条 の中に,. 「女房衆え知行達ほさるまじきこと」の一条がある。これは役知・役俸まで含む. であろうが,当時知行を受ける女性といえば,ほとんどが聞得大君以下の神女関係のもの であった。薩摩ほ彼女たちの収入を枯渇させることによって固有的盾仰を衰亡させ,薩摩 の意図する宗教政策を実施させようとしたのである○この綻の実施により,神女とその家 族の経済生活が打撃を受けることは必然であったo独身制の有利性が主張される根拠がこ こにあったoしかし知行を停止しても,神女とくに農村で生活するノpの生活が破綻した とは考えられない。したがってそれと神女の独身制とを結びつけるのには無理がある。 役知・投俸の停止ほ一般には官人全体に適用されていたが,それは1666年(寛文6) 羽地親方朝秀が摂政となった以後解除されたo女房衆のも復活したとみえ, ,1677年(鍾 宝8)に就任した聞得大君尚貞王妃は,知念間切惣地頭としての知行高300石のほか200 石が加増されている15'。羽地親方が死去した2年後の1677年,既述の如く,王女を聞得 大君に任命するのを停止し,もっぱら王妃(王后)を任命することにしたo王婿の子孫へ の知行権譲渡を防止するためであった。これはかえって聞得大君の婿姻制を条件としたも のであるが,既嬉王女の任命禁止すら実行されなかった。 一方・羽地親方ほ政教分離を強行し,神女の活動を政治的勢力下に隷属させたoそれは 薩摩の専制的支配によって,沖縄の支配体系が幕藩体制的なものに移行せしめられたため.
(7) 7. 沖縄の神女の婿姻制について. であるoそれによって神女の霊力が弱くなり,聞得大君が国王の保護者-おなり神たる観 念も稀薄化しでいったが,そのことの故紅神女の独身制解除,つまり霊力がなくなったか ら婿姻を認めたということにはならない○沖縄の神女ほ初めから終わりまで婿姫制が本体 であった。. (3)廃藩置県以後の婚姻制 1879年(明治12)の廃藩置県によって琉球王国が崩壊したとき,聞得大君ら高級神女. の地位も喪失した。 1884年(明治17)聞得大君御殿ほ尚家の私有財産に編入され,その み. ひ. ら. 下にあった三平等の大あむしられ御殿(首里・真壁・儀保腰内)も廃止されたo地方のノ pも廃止すべきであったが,ノロの地方民衆に対してもつ宗教的・社会的影響力が,沖縄 の支配体制維持に必要なことを知った県当局は,暫くノロの存続をはかることとし・ノロ を県令の監督下に移し,県令の辞令によって任命し,官費による役俸を給した。役俸は 4月28日の「沖縄県諸緑処分法」によって国旗化され・またノpの 1910年(明治43) 地位は拝所(御敦・お拝所・ノp殿内)の管理者と規制され・それに1899年(明治32) から実施されたノp地の私有財産化もあって,ノロはその公的性を完全に失なった。しか しノロに関する諸制度の大部分は,以後も慣習的に前制度を踏襲して太平洋戦争前に至っ 2, 3の実例をみることにしようo たo嬉姻制度もその一つに属しているo 中城相星宜ノロ継承国(○印ノロ). ○韻幣姦悪㌍端 夫石平村 (新垣). ○. 夫畳宜村 (新垣). 11. 未熟田村 (比嘉). I. (1h188J:l品警). 男=○嫁. (1880死亡). 女. 男-嫁○女. 夫桃原一門. ○. 是宜ノpは正徳年間(1711-15)以来の世襲家である.娘継ぎ時代を経て1880年(明 治13)ノpが死亡したとき,ノp家と分家の間に相続争いが起きたが,世襲の事実が明 白であるとして,死亡したノpの孫が継承したoそれ以後は嫁継ぎとなって現代に至って いる.. 1881年に相続したとき,その母は死亡していたのか,父に姉妹がなく母は嫁とし. て人家していたのかほ不明である.いずれにしてもノロの婿姻制ほ継続されていた16'.今 帰仁村親泊ノロの場合は次のとおりである。 今帰仁村親泊ノp継承国(数字は代数) (7). 男-㈱嫁. ㈱女-梧. 一一. 嫁-男㈲女=醇. 紬女=婿.
(8) 8. 宮. 城. 栄. 昌. 6代目ノpの後には娘がいなかったので,嫁にきていたその母が継ぎ,ついで6代目の 男子の嫁が継いだ。次にはその娘が継ぐことになっているが, 1960年(昭和35)現在ま だ継承していなかったo娘継ぎを維持しつつ,婿姻制をつづけている17'o 先島の例として,八重山竹富町西表船浮御蘇(屋号戸其伊家本司の最近における継承ほ, 次のとおりである。 八重山西表船浮御東本司継東園(数字は代数) 与那国加郡(婿入) 池田伊加糞 -クマヤ(二女) lI -- -・・・----. 池田某. (5)八重子(内縁). 戸真伊加美. -(1)山田ブナ1) (山田家に嫁入). 書見某 -(3)ヲナリ(三女). (4)西村カマド. 与那原孫慶. (西村家に嫁入). 大司ほ山田ブナリに始まるのではないが,それ以前の継承関係ほ不明。ここでほ娘継ぎ, 嫁継ぎが錯綜している.. (3)ヲナ1)の次には池田家関係の誰かが継く1tベきであったが,適当 な継承者がなかったか,ヲナ1)の婿家に伝えられ,ついでクマヤが再婚した戸真伊家の (5)八重子に伝えられることになった.しかし婚姻制は維持されている18'。 琉球大学の中山盛茂・富村実演教授と私が, 1960年以来調査した130か所ばかりのノ ロでは,婿姻制・独身制とりどりであり,婿姻制でも招婿婿・嫁入婿が錯綜している。こ れらにほ1899年(明治32)以来実施した土地私有制と,以後の社会情勢の変化がから まっている。 ちんペ-. や. いとかず. ぶ. こ. う. り. 独身制を称していたのほ久米島君南風,玉城村糸数,名護市足部,今帰仁村古宇利,東 あるめ. 村有銘,伊江村東江上ノpであるが,君南風の先代ほ嫁にいき,現糸数ノロも他家に嫁し ているo尾部・有銘ノpは夫や子供がありながら正式結解せず,子供ほ認知の手続きをと な. か. ま. り,あるいほ私生子のままになっている。恩納村名嘉其ノロは4代続いているが,秦l代 かんな. ぎ. ま. み. だけ独身であった。金武村漢部,座間味村阿嘉ノロも先代は独身で,現ノロほ他家に嫁し ぐ. しかわ. た. ば. ている。高嶺村大里,具志川市田場ノpはかつて独身者がいたが,密通した詰も伝わって おり,現在は嫁入りしている.また宮古平良市大神島のうやがみ(祖神)は50才以上の 者が選ばれるが,選ばれると夫と事実上の別居をしている。現ノロで独身でいるものに, 久米島君南風,名護市東江,国頭村安波(ただし1970年死亡)などである。君南風や安 波ノロほ病弱が理如こなっている。以上のような事例だけでほ独身制が†般的であったと はみられず,むしろ特例であったと思われる。 足部ノロや有銘ノpが正式結婿できなかったというのは,ノロの独身制のためでない。 ノpは霊力高い存在であるが故に男側が結婚を敬遠するため,ノロ自身が私的な夫婦関係 を求めるか,ノロは結解すべからずという綻があるとの社会的風潮に基づき,私的な男女 関係を営むからである。与部国鳥で比川司や野底司が沖縄本島人を夫に持ち,浦野司が薩 摩税理役人と姫を通じたのほ,,そこからきたのである.ノロが霊力強い存在であることを ノロ自身が自覚していた例として,前記中城間切ユキヤノロである。彼女は自分の家に立.
(9) 9. 沖縄の神女の嬉姫制について. 「薮ナドト名付ナガラ農相威儀. 寄った寺僧と密通したと夫に疑われたために自害するが,. 無之処-,」と言っているところからそれがうかがえるo以上はノpの婿姻制のむしろ異 例的なものである。 はとんどが婿姻制をとっている中で,娘継ぎで招婿嬉のところほ数えるはどしかない. き や ざ つ拝ん. ま. ていま. ま. み. 具志川市栄比野,勝連村津堅,名護市真書畳・汀問,座間味村座間味ノpがその例である。 真書畳以外はノp地が既に処分されていながら,結婚形態だ桝ま招宿婿を残している.そ れに対して嫁入嬉は絶対的で,調査の範囲内でほ次のようなものがある。 高嶺村大里,大里村大城,コザ市胡鼻,石川市伊波,勝連村平安名・平敷屋・浜・比嘉, 与那城村西原・上原・伊計,美里村美里,読谷村瀬名妓,恩納相恩納・山田,本部町瀬 底,大宜味村謝名城,国頭村奥間・与部,石垣市長崎お款・天川お寂 このうち,平安座・平安名・山田ノロなどは,現代に至って招播磨から嫁入掛こ変じた ものである。その他は嫁継ぎで,先島では抽せんで大司や司になっている妹も多い。 現ノロは土地整理以後むこ就任したのが大部分であるが,財産ほほとんど所有していなし.、。 しかも家督は長男が継ぐので,彼女たちは嫁入りするようになった。ただ糸数・平敷屋・ 謝名城では,少量の土地をノロに分与している。大部分のノpは財産を与えられずに他家 に嫁ぎながら,祭事にはノロ殿内に通い,費用の一部を自弁して伝統的な祭柁権を行使し ている現状である。ノロが嬉姻した場合の磨域はいかなるものであったか当然問題になる。 沖縄での解域ほ一般的に村内嬉であり,間切・村の内法は対外婿を規制している。しかし 前記畳宜ノロの継承表では対外嬉がみられ,またそれに関する物語も多く残っているo霊 力高いが故に村の若者から敬遠されることがあったとみられる。 ノロ制度は日に日に崩壊しつつある。それはまたノロとしての鱒姻制の崩壊過程でもあ る.元来沖縄の神女(神人)ほ祭妃のときの神女であ.り,平時はおなり神とみられる一般 的女性に過ぎない.だからその社会機能の中において,全女性の一員として婿姻の自由を 有していた。今後はさらに解放された人間としての自由な恋愛と婚姻をかち得るはずであ る。 鼓 1). 1711年(正徳1)に編集された琉球古語の辞書で,その中にほ源氏物語・伊勢物語・徒然草・ 太平記・県竹集・節用集その他の日本文学書が引用されている。 2)君異物粂。琉球国神道記ほ1608年編集された。 1726年その子葉温によって改訂 3)巻1歴代絶記o中山世譜ほ1706年禁鐸によって編集され, された.球陽(1743年編)にも同記事があるo (うちいては,みかなしてだのふし)0 4)巻13の117 5)琉球国由来記巻13,大里間切稲嶺村「稲義之殿」粂。 6)王代記。. 7)球陽巻之九尚貞羊9年粂。 8)女官御双紙上巻。 9)島袋源一郎著「伝説補遺沖縄歴史」所収.そのころ恩納間切ほ独立せず,恩納村は金武間切に 属していた。 10)琉球政府立博物館所蔵。.
(10) 10. 宮. 城. 栄. 昌. ll)女官御双紙「那覇の未あむ」粂。 12)名瀬市大熊とねや(大月氏)所蔵。 13)このほか口碑的なものであるが,金丸(尚円王)の母は伊平屋島のノロで故あって首里から同 島に渡った金丸の父の後妻となり,間に生れた男子2人,女子1人のうちの長男が金丸である (伊波普獣著「琉球古今記」一琉球史上に於ける武力と魔術との考察一参照)o また辺土名 ノロにして尚清の大島遠征に関係のある根差部親方の妻となった老もいる(座安親方由来記参 照). 14)鳥越憲三郎著「琉球宗教史の研究」第3編第2牽第2節「盤女の独身制」参照o 15)女官御双紙上巻o 16)沖縄県日誌明治14年8月27日,同年11月8日粂o中山盛茂・富村真演・宮城栄昌「の ろ調査資料第1輯」鼻宜ノロの項参照。 17)中山盛茂・宮村真浜・宮城栄昌「のろ調査資料第1輯」親泊ノロの項参照o 18)同上第2輯船浮御敦の項参照。.
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