著者
加藤 諭, 清水 翔太郎, 曽根原 理, 村上 麻佑子
雑誌名
東北大学史料館紀要
巻
14
ページ
113-135
発行年
2019-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10097/00126879
113 展示記録 会期 2018年(平成30)9 月28日(金)~2018年12月14日(金) 会場 東北大学史料館 2 階展示室 主催 東北大学史料館 協力 東北大学キャンパスデザイン室、東北大学学友会応 援団、旧制第二高等学校をレスペクトする会、伊藤 正浩(野球史家) (1)企画の趣旨と開催の経緯 旧制第二高等学校は、新制東北大学に包摂された旧制高校で、東北大学の源流の 1 つとなっ ている。学校としての歴史は1950年 3 月に廃校を迎えたものの、尚志同窓会の活動など、その 後も長く同窓活動は継続されることとなった。この間、東北大学史料館では、その前身となる 東北大学記念資料室期より、旧制第二高等学校が設立された1887年からの節目の周年において は企画展示を開催してきた。本企画展以前には2006年に、第二高等学校創立120周年を記念して、 「学都・仙台 明治の学生群像 東北大学がなかった頃」を開催している。その後、尚志同窓会 は解散を迎えるなど、旧制高校出身者の高齢化も相まって、旧制高校に関する情報に触れる機 会は相対的に少なくなってきている。 こうした中で130周年は過ぎたものの、改めて旧制第二高等学校のあり様を紹介する機会を持 ち、東北大学の成り立ちのルーツを辿る企画展示を開催することは、大学アーカイブズとして 重要であると考えた。一方、東北大学片平キャンパスは、2017年度の都市景観大賞(主催:「都 市景観の日」実行委員会、後援:国土交通省)において都市空間部門特別賞を受賞、同年片平 キャンパス内の 5 つの建物が、国の「登録有形文化財」として登録されることになった。また 2018年には旧制第二高等学校第五代校長を務めた三好愛吉の子孫より関係資料の寄贈を受けた。 こうした機会を捉え、2018年の企画展示では、キャンパスの変遷、そして旧制第二高等学校 の学風を軸に、「蛮カラ学生の学び舎~片平キャンパスと旧制二高~」と題して企画展を開催、 開催初日にはテレビ報道もあり、多くの一般市民にも周知する機会となった。 (2)展示の構成や関連行事など 展示構成は、全体を 6 つの部分から構成した(詳細は(3)参照)。 A.二高の誕生 B.キャンパスの歴史 C.北六番丁時代 D.二高の終焉 E.第二高等学校の新資料 F.二高野球部と「試合前挨拶」 G.その他二高関連資料 展示パネル18枚用意し、構成 B のキャンパスに関するパネル 4 枚を東北大学キャンパスデザ イン室が作成し、構成 F のパネル 3 枚を伊藤正浩氏に原案・監修頂いた。構成 A、C、D のう ちパネル 3 枚分を常設展示からのパネルを流用活用し、そのほかのパネル及び展示ケース内の 東北大学史料館紀要 第14号(2019. 3 )
「蛮カラ学生の学び舎~片平キャンパスと旧制二高~」展
加藤 諭・清水翔太郎・曽根原 理・村上麻佑子
資料の選定・配置と解説作成を史料館教職員が担当した。また展示においては学友会応援団所 蔵の旧制二高の長さ 4 メートルほどの幟(のぼり)(「第二高等学校」「鎧袖一觸(がいしゅう いっしょく)」「雄大剛健」) 3 本を天井照明下に吊るし展示のアクセントとした。 展示期間前には、旧制第二高等学校をレスペクトする会主催、東北大学史料館、仙台尚志懇 話会協力のもと、東北大学片平北門会館 2 階「エスパス」で野球史家・伊藤正浩氏による「野 球道の美徳『試合前挨拶』は仙台発祥である」と題する講演会を開催した。また展示期間内には、 9 月30日に「片平キャンパス歴史散歩」を行い(加藤・曽根原担当、総合学術博物館、社会連 携課と合同※台風により午前 1 回は中止、午後は参加 1 名)、その後、SMMA 見験楽学ツアー 「片平キャンパス歴史散歩」(加藤担当、参加25名)を行った。そのほか12月 2 日には、SMMA クロスイベントによる仙台市博物館第37回市史講座・東北大学史料館企画展公開講座『近代の 風景-地図・古写真・公文書でみる仙台-』を開催(参加者148名)、同日片平キャンパス建物 ツアーも行った(参加者54名)。 (3)展示資料・展示解説(パネル・キャプション)一覧 A.二高の誕生 A - 1 .二高の誕生(解説パネル) 1887年(明治20)、全国 5 つの「高等中学校」の一つとして、仙台に「第二高等中学校」 が設置されました。1889年(明治22)には仙台市片平に校舎が完成。片平キャンパスの歴 史は、この時代までさかのぼります。1894年(明治27)からは「第二高等学校」と名前を 変えています。 発足時の二高には、帝国大学への進学コース(本部)に加え、専門医師の養成コース(医 学部)が置かれていました。1893年(明治26)には校友会「尚志会」が発足し、この頃か ら運動部の対校戦などが盛んに行われ、「雄大剛健」と呼ばれる独特の校風が、次第に形成 されてきます。 A - 2 .第二高等中学校事務例規類纂 1893年(明治26) 3 月東北大学史料館所蔵 創設から明治25年12月までの示達や決議などを事務員の参考のために編纂したもの。第二高 等中学校職員にのみ頒布された。創設期の儀式の次第などがわかる。 A - 3 .第二高等中学校学年成績表 1891年~1892年(明治24~25) 東北大学史料館所蔵 授業開始から 5 年目の1891年 7 月から1892年 7 月までの学年成績表。当時は本部と医学部に 分かれ、本部は本科 2 年、予科 3 年の在学期間が定められていた。 本科の 1 年生には、後に浜口雄幸・若槻礼次郎内閣で大蔵大臣を務めた井上準之助や母校の 英語教授を務め、明治文壇で活躍した高山林次郎(樗牛)らがいた。予科の 3 年生には土井林 吉(晩翠)の名も見える。 A - 4 .齋藤阿具「萬国歴史」受講ノート 1898年(明治31) 1 月 東北大学史料館所蔵 法科 2 年生だった芳野四郎が作成した斎藤阿具「萬国歴史」の受講ノート。斎藤阿具は阿刀
展示記録「蛮カラ学生の学び舎~片平キャンパスと旧制二高~」展 115 田令造の前任で、1897年から1906年まで西洋史を担当した。夏目漱石とも交流があったことで 知られ、第一高等学校の教授となってからは芥川龍之介や久米正雄らを教えた。 A - 5 .片平時代① 学生生活について(解説パネル)→次ページ A - 6 .片平時代② 盛んな部活動(解説パネル)→次ページ A - 7 .柔道部員の体重調査 1916年(大正 5 )12月~1917年 3 月 東北大学史料館所蔵 1916年から翌年にかけて柔道部が部員の体重を調査し、学校に報告した書類。 1 年生部員の 体重が貫( 1 貫 =3.75㎏)を単位に記されている。当時は対一高戦が白熱し、猛稽古が行われた が、体格の良い選手も少なく健康を害した部員も多かったという。本資料からは平均体重55㎏ 前後、最小で42㎏前後の部員もいたことがわかる。こうした状況を問題視し、学校において体 重を調査したことも考えられる。 A - 8 .一・二高合同夏稽古記念メダル 1924年(大正13)東北大学史料館所蔵 1920年(大正 9 )、一高から対二高戦の廃止の申し入れがあった。理由は従来の対校試合で多 数の犠牲者が生じていたこと、選手たちが大学入学後も反目すること、スパイ行動の横行など が挙げられていた。実際には、修業年限の短縮を理由におおげさな対校試合を二高教授会が禁 止し、一高の応戦を断ったことが動機となったとされる。 この後、一高から合宿合同稽古を通じて「本来の柔道」に精進したいとの申し入れがあり、 1922年(大正11)から1928年(昭和 3 )まで毎年 7 月に合同夏稽古が行われた。本メダルは 1924年に一高で開催された第 3 回合同夏稽古を記念して作成されたものである。両校柔道部の 親睦の証である。 A - 9 .大正10年 3 部 3 年甲組卒業アルバム 1921年(大正10)東北大学史料館所蔵 大正10年卒業 3 部 3 年甲組の卒業アルバム。集合写真の他、行事、片平校舎の写真などが収 録されている。大正期の仙台市内や松島の様子も窺い知ることができる。 B.キャンパスの歴史 B - 1 .キャンパスの歴史① 片平時代のキャンパス(解説パネル)→次ページ B - 2 .キャンパスの歴史② 北六番丁時代のキャンパス(解説パネル)→次々ページ B - 3 .寄宿舎褄図「第二高等中学校校舎図面」 1888年(明治21)11月 東北大学史料館所蔵 1890年(明治23)に設置された寄宿舎の設計図面。片平校舎構内の南端に位置し、三棟から 成っていた。一棟は食堂と寝室、二棟は自習室であった。これ以前、学校創設時に南六軒丁に 仮寄宿舎が設けられたが、翌年には廃止されていた。第二高等学校では寄宿舎制度が根づかず、 この寄宿舎も 4 年後には定員の増加を理由に廃止され、教室に転用された。その後1898年に誠 之寮として使用されるが、これも 4 年後に廃止された。第二高等学校では、学生が民家を借り
切り共同生活を行う「自炊寮」が発達し、寄宿舎制度が定着する契機となったのは、1906年に 清水小路に設けられた自治寮「明善寮」の創設であるとされる。 B - 4 .キャンパスの歴史③ 三神峯時代のキャンパス(解説パネル)→次ページ B - 5 .キャンパスの歴史④ 二高ゆかりの地・記念碑(解説パネル)→次ページ B - 6 .北六番丁校舎新築記念写真帖 1925年(大正14)頃 東北大学史料館所蔵 片平から北六番丁への移転の時期に校長を務めていた岡野義三郎が所持していた写真帖。新 築、あるいは建造中の校舎の様子を撮影した写真がまとめられている。 B - 7 .北六番丁新校舎落成記念メダル 1926年(大正15) 東北大学史料館所蔵 大正15年10月 9 日に挙行された、北六番丁新築校舎および尚志会運動場建設落成式に際して 作成された記念メダル。前面には蜂章、後面には正面玄関が彫られている。 B - 8 .二高校舎引渡関係書類「将来の資料関係」 1945年~1950年(昭和20~25) 東北大学史料館所蔵 三神峯移転後、北六番丁の所有をめぐり、第二高等学校と東北大学で交わした書類などの綴。 1945年(昭和20)11月の段階で、東北帝国大学総長熊谷岱藏と第二高等学校長野口明の間で覚 書が交わされ、土地の移譲及び被災を免れた寄宿舎を東北大学生の収容のために使用すること などが合意されていた。この後宮城県の申請により、一部土地が宮城県第一高等女学校(現宮 城県第一高等学校)の校舎として使用されたため、その移転問題が浮上したが、県との折衝を 経て、1949年に設置された農学部のキャンパスとして、2017年の新青葉山キャンパス移転まで 使用された。 C.北六番丁時代 C - 1 .北六番丁時代(解説パネル) 大正期における教育政策の転換により、1920年代以降高等学校が全国的に増設されてい きます。二高ではその影響が入学生徒の低年齢化や東北出身者の割合上昇などの形で現れ ていきました。 また東北帝国大学への法文学部設置に伴い、1925年(大正14)二高は片平校舎を大学に 譲り、市内北部の北六番丁(2016年度まで東北大学雨宮キャンパスが置かれていた)へと 移転します。校舎の正面には、二高のシンボルである蜂章が飾られていました。 C - 2 .『同窓会報』第26号 1928年(昭和 3 ) 6 月 東北大学史料館所蔵 岡野校長排斥のストライキ問題が解決した1927年 6 月27日には在京二高同窓会が開催された。 翌年発行された『同窓会報』には幹事花岡敏夫の挨拶速記が掲載されている。本同窓会は元校 長沢柳政太郎の送別会(国際会議出席のため外遊)、卒業生井上準之助の日本銀行総裁就任祝賀
展示記録「蛮カラ学生の学び舎~片平キャンパスと旧制二高~」展 123 会などを兼ねて開催する予定であった。ところがストライキ事件などもあり延期していたとこ ろ、前々日に問題解決の見込みが立ったことから新聞広告で報知の上開催された。井上準之助 が事件について非常に心配していたことなども花岡は述べている。国内にとどまらず、ロンド ンと上海でも二高会が開催されており、同窓会の結束力の強さが窺われる。 C - 3 .ストップウォッチ 昭和初期 東北大学史料館所蔵 1934年(昭和 9 )12月25日、松島湾遭難の際、コックス(舵手)であった持田辰弥が所持し ていたストップウォッチ。 C - 4 .護国尚志会勲功章賞状・メダル 1940年(昭和15) 東北大学史料館所蔵 科学部員だった小林浩一が気泡の発生の研究で卒業時に授与されたもの。小林は東北大学理 学部助教授を経て東京大学物性研究所教授などを歴任した。 C - 5 .北六番丁時代① 自由と自治の追求(解説パネル)→次ページ C - 6 .北六番丁時代② 試される二高精神(解説パネル)→次々ページ C - 7 .護国尚志会勲功章賞状・メダル 1940年(昭和15) 東北大学史料館所蔵 科学部員だった小林浩一が気泡の発生の研究で卒業時に授与されたもの。小林は東北大学理 学部助教授を経て東京大学物性研究所教授などを歴任した。 C - 8 .学徒勤労動員日誌 於船岡 1945年(昭和20) 6 月21日~ 8 月20日 東北大学史料館所蔵 船岡(宮城県柴田町)の海軍火薬廠における勤労動員の様子について監督教官が記した日誌。 昭和20年 6 月21日から、 8 月20日に仙台に帰着し、野口明校長の訓示後解散するまでの様子が 記されている。 6 月29日には遊休人員が多い状況をふまえて、手の空いた学生は引き上げて勉 強させるか、農村で作業させるべきとの意見が記されている。一方でこの時期には警戒警報に よる退避が連日に及び、「聊カ疲労気味ニテウンザリス」ともあり、緊迫した様子も窺える。 7 月 9 日の仙台空襲についても「火焔、星月夜ノ空ニ映ズ。寮ヨリ見テ北東ノ方ニ当ル」とその 様子が記されている。 D.二高の終焉 D - 1 .二高の終焉(解説パネル) 1945年 7 月、仙台空襲により二高の北六番丁校舎は壊滅的な被害を受けました。校舎を 失った二高は、終戦直後富沢村三神峯の旧陸軍幼年学校校舎に移り、復興の第一歩を歩み 始めます。しかし間もなく、戦後学制改革の一環として、旧制高等学校の廃止が決定。二 高は1949年に東北大学に包括され、翌1950年春に廃止されました。三神峯の新校舎は東北 大学の第一教養部に引き継がれ、1958年教養部が川内キャンパスに移転するまで使用され ました。
D - 2 .野口明絵葉書 1946年(昭和21) 6 月13日(左) 1946年(昭和21) 8 月 3 日(右) 東北大学史料館所蔵 10代校長野口明が在任中に出した絵葉書。広瀬川落合の風景とおにぎりを食べる男性が描か れている。戦後の混乱期にあって校務は多忙を極めたが、その合間を縫って同僚や学生たちと 写生の小旅行で息抜きをしていたことが想像できる。野口は絵に秀で、1965年と1978年に個展 を開催し、『野口明自選画集』も刊行された。『二高尚志』などに掲載された追想も『追憶の二高』 として、2001年(平成13)に同窓生らによって刊行されている。 D - 3 .『野口明画集』 1979年(昭和54) 9 月30日 東北大学史料館所蔵 D - 4 .三神峯移転記念徴章① 創立六十周年記念徴章② 蜂章バックル③ 帽章(大・小)④・⑤ 制服上着ボタン⑥ 1946年(昭和21)前後 東北大学史料館所蔵 最後の卒業生宇田尚が所持していたもの。宇田は東北大学に進学し、後に東北大学反応科学 研究所教授などを歴任した。 D - 5 .三神峯時代① 戦時体制下の二高(解説パネル)→次ページ D - 6 .三神峯時代② 戦後から現代まで(解説パネル)→次々ページ D - 7 .第二高等学校創立九十周年記念事業 実行趣意書 1975年(昭和50) 東北大学史料館所蔵 1976年の創立九十周年に際して、同窓会組織強化のため、記念式典、資料展のみならず、校 史編纂、寮歌集およびレコード作成、榴ヶ岡公園内でのしだれ桜の植樹会なども企画、実行さ れた。本実行趣意書では第二高等学校関係資料の提供が呼びかけられている。この後、120周年 まで10年ごとに記念資料展などが開催され、こうした活動のもとで関連資料の収集、公開が積 極的に進められた。 D - 8 .第二高等学校史 1979年(昭和54) 東北大学史料館所蔵 1979年(昭和54)に刊行された第二高等学校の校史。1976年の創立九十周年の記念事業の一 環として編纂された。第十代校長野口明が監修委員を、同窓生の高橋佐門が編集長を務めた。 すでにない学校の校史を編纂することに反対もあったというが、高橋は同窓生が減少していく 中で二高の全体像を後世に残すためには校史が必要であると考え、個人資料なども収集して編 纂にあたったと言う。
展示記録「蛮カラ学生の学び舎~片平キャンパスと旧制二高~」展 129 E.第二高等学校の新資料 E - 1 .三好愛吉関係資料①(解説パネル) E - 2 .学資保管規程/学資調査概算表 1900年代頃 東北大学史料館所蔵 授業料の送金に関する規程および、旧制第二高等学校在学中にかかる諸経費についての一覧 表。三好愛吉が舎監を務めていた頃のものと思われる。入学時には 7 万~ 8 万(現在の25~30 万円程度)の費用がかかっており、制服は11円(現在の約 4 万円程度)であるなど、当時の高 校生に必要な教育費がわかる貴重な資料。 E - 3 .明善寮々則/道交会自治寮々則 1900~1910年 東北大学史料館所蔵 明善寮は1906年に清水小路に二階造り一棟の寄宿舎として設立されたもので、その名は現在 の東北大学の寮にも引き継がれている。道交会自治寮は明治期よりあったが、三好愛吉の伝手 により1913年東三番丁の東北別院境内に新設された寮である。飲酒が禁止など明治末から大正 初期の寮の規律が分かる資料となっている。
E - 4 .三好愛吉関係資料②(解説パネル) E - 5 .三好愛吉送別会名簿/停車場見送人名 1915年(大正 4 ) 東北大学史料館所蔵 旧制第二高等学校校長であった三好愛吉は皇子傳育官長の任を受け仙台を去ることになる。 これを受け送別会が 4 月 9 日に行われ、同月11日に見送りがなされた。送別会に集まった数は 411名、発起人は早川智寛第三代仙台市長と後任の武藤虎太第六代校長。片山正夫、日下部四郎 太など東北帝大草創期の教授陣の名もみられる。 E - 6 .勲三等瑞宝章勲記 1917年(大正 6 ) 東北大学史料館所蔵 三好愛吉が叙勲した勲記。大正天皇嘉仁の御名が記されている。これが三好愛吉の生前にお ける最後の叙勲の勲記となった。1919年に死去時に正四位勲二等瑞宝章が授与されている。 E - 6 .三好愛吉肖像画 東北大学史料館所蔵 旧制第二高等学校第五代校長を務めた三好愛吉の肖像画。左の油絵は小林万吾の筆によるも の。小林万吾は、穏健な画風で知られる日本洋画家。東京美術学校教授(現在の東京藝術大学)、 帝展審査委員、帝国芸術陰会員を務めた。制作年は不明であるが三好晩年を描いた肖像画であ ると思われる。1973年に尚志同窓会を通じて寄贈を受けた。右の油絵の作品は、三好愛吉の子 孫に長く伝わってきたもので、2018年に國安幹明氏を通じて東北大学史料館に寄贈された。作 者は不明であるが、衣装等が小林万吾の作品と酷似しており、ほぼ同時期に作成されたものと 思われる。
展示記録「蛮カラ学生の学び舎~片平キャンパスと旧制二高~」展 131 E - 7 .文机 東北大学史料館所蔵 旧制第二高等学校で第五代校長を勤め、「雄大剛健」の校風を樹立した三好愛吉(1871~ 1919)が使用していた文机。2018年に御子孫から寄贈された。 F.二高野球部と「試合前挨拶」 F - 1 .二高野球部と「試合前挨拶」の誕生-日本野球独特の習慣は仙台発祥-(解説パネル) 今年で100回を迎えた夏の甲子園大会をはじめ、全国各地の試合で行われている日本野球 独特の習慣である「試合前挨拶」は、二高野球部によって仙台で生み出された。 従来は1911年(明治44年)12月に 三高(京都)で開催された 京都帝国大学主催の旧制 高校の全国大会(第一回文部省直轄学校大会)において、二高の提案が採用され実施した のが初めとされており、このことは、「尚志会全史」(1937年・展示史料 1 )や宮城県史(第 18巻)などに記されている。 しかし、史料の掘り起こしの結果、当時の野球部マネージャーであった三鬼隆の回想録 (1952年・展示史料 2 )や二高野球部 OB 会の機関誌「五城」第22号(1981年・展示史料 3 ) の記載から、近年では従来の説より 1 ヶ月前の1911年(明治44年)11月に、二高が主催し て仙台で開催された旧制中学の大会(東北六県中学大会)で初めて行われたと思われるこ とが分かっている。 この大会は、当時の二高グラウンド(現在の片平公園・仙台市青葉区米ケ袋)で行われ た。 「試合前挨拶」は、東北の野球普及の中心であった二高が、地元で主催した旧制中学大会 で実施した実績をもとに、京都での旧制高校大会で採用を提案したのであった。 F - 2 .野球害毒論争と三好愛吉校長-学生と野球を信じた教育者の矜持-(解説パネル) 「試合前挨拶」の導入は、「野球害毒論」という当時の野球批判に対する危機感を反映し たものであった。 1911年(明治44年)8 月29日、東京朝日新聞は「野球と其害毒」と題するネガティブキャ ンペーンを開始。新渡戸稲造(一高校長)や乃木希典(学習院院長)といった教育界・医 学界の重鎮の談話が22回にわたって連載された。 明治初めに伝来した野球が、学生スポーツとして広く浸透するなかで、その人気のあま り学生が熱中しすぎて学業成績を崩したり、選手がスター扱いされて生活を乱したり、試 合を巡って応援団がトラブルを起こすなどの事例が全国的に問題になっており、そのよう な背景を踏まえての批判であっただけに、この連載は球界に危機感を与えるには十分なも のであった。 東京朝日新聞の「野球害毒論」に対して、野球擁護派は東京日日新聞や讀賣新聞などで 論陣を張った。 野球の是非について論争が行われるなか、二高野球部は行動で野球の健全性を示す道を 選ぶ。それが、新たな大会(東北六県中学大会)の創設と「試合前挨拶」の導入であった。
実は「野球と其害毒」の連載の中には、三好愛吉 二高校長の談話もあった。 しかし、その内容は、当時の野球が抱えていた問題は認めつつも、その弊害の多くは学 校当局者の責任であって、教育者は野球を貶めるのではなく、悪習を脱するようにする責 任がある。「教育者は常に駻馬に鞭って進む趣を忘れてはならぬ」と、他の論者のように野 球を一方的に指弾するものとは趣を異にする格調高いものであった。 教育界の重鎮たちが野球を非難する中で、学生たちを信じ、新たな野球大会の創設を許 可した三好愛吉校長の決断は、談話での主張を有言実行する、教育者としての矜持を示す 英断であった。 F - 3 .「試合前挨拶」を生んだ雄大剛健の校風 -現代・未来に生き続ける二高精神-(解説パネル) 「試合前挨拶」を誕生させた二高野球部の精神的な支柱は、14年間にわたって二高の教 頭・校長を務め、「雄大剛健」の校風を確立した 三好愛吉校長であった。 「バントは武士道精神に反する。男子のやるべきことではない」 「いかなるボールでも打て」 このように三好校長の薫陶を受け続けていた二高野球部は、のちの「雄大剛健」の校風 にも通じる武士道精神を意識した無骨とも言うべき気質を強く持っていた。 旧制高校大会で鳥打ち帽を被って現われた相手チーム(山口高商)に対して、「学生らし く無い」として対戦を拒否したり、二高が創設した東北六県中学大会では、拍手以外の野 次などを禁止し、観客には羽織あるいは洋服の着用を必須として品位を保とうとしたエピ ソードからは、彼らの頑なな気質がうかがわれる。 そんな彼らだからこそ、「野球害毒論」の逆風に対して、野球の健全性を示す方法として、 あえて言論ではなく行動を選び、「試合前挨拶」という形で、「礼に始まり礼に終わる」武 士道の美風を野球に取り入れることを考え出し得たと言えよう。 言わば、「試合前挨拶」は、二高の「雄大剛健」の校風が生み出したものなのである。 「試合前挨拶」は、その後、試合前後の挨拶として日本野球独特の習慣として普及し、現 代に引き継がれている。「試合前挨拶」によって、日本的な精神性を帯びた「野球」は、米 国発祥のベースボールの単なる訳語ではなく、日本の「国技」としての「野球」となった と言えるであろう。 三好愛吉校長が確立した「雄大剛健」の校風から生み出された「試合前挨拶」が日本野 球の慣習として続くかぎり、二高は、その精神において現代に生き続けており、そして、 これからも未来永劫に生き続けるのである。 F - 4 .五城第13号 二高野球部解散記念号 1943年(昭和18)東北大学史料館所蔵 1911年に選手監督を務めていた前田亀千代氏が、野球の「試合前挨拶」について自身が初め て行ったことを述べている。この記事の存在は知られていたが、実物が見つかったのは初めて で、今回史料館の未整理資料から新発見された。
展示記録「蛮カラ学生の学び舎~片平キャンパスと旧制二高~」展 133 F - 5 .五城第22号 1986年(昭和61)東北大学史料館所蔵 二高野球部の OB 会である「五城倶楽部」の会報。本号刊行当時の会長の佐々木五郎氏が、 1911年(明治44)当時の選監(応援団長兼マネージャー)であった前田亀千代氏が「試合前挨 拶」は仙台発祥であるとしている記述を見つけたと記されている。 F - 6 .尚志会全史 野球部史 1937年(昭和12)東北大学史料館所蔵 1911年(明治44)12月に京都で開催された旧制高校の全国大会(第一回文部省直轄学校大会) において、「試合前挨拶」が二高野球部の提案によって初めて導入されたことが記されている。 これが長らく「試合前挨拶」発祥の定説とされてきた。 F - 7 .三鬼隆回想録 1952年(昭和27)個人蔵 「試合前挨拶」発祥当時の野球部マネージャーだった三鬼隆氏が、八幡製鉄社長在職中に急逝 した後に刊行された書籍。「試合前挨拶」が仙台で開催された旧制中学の大会(第一回東北六県 中学大会)で誕生したと三鬼氏が語っていたことが記されている。 G.その他二高関連資料 G - 1 .二高最後の校舎に飾られた蜂章 東北大学史料館所蔵 二高では創立時から蜂のデザインが校章として使われた。この校章は戦後新たに校舎となっ た三神峯校舎に飾られたもの。生徒自身の手による作品という。 G - 2 .蜂章紋付羽織 東北大学史料館所蔵 G - 3 .蜂章浴衣 東北大学史料館所蔵 G - 4 .尚志会応援団の高下駄 東北大学史料館所蔵 応援団長のみが履くことを許される高下駄。対部ボートレースなどの行事では弊衣破帽のバ ンカラスタイルにこれを履いた団長が、応援パレードで市中を歩いたりした。 G - 5 .二高理科組章 1937~1940年(昭和12~15)頃 東北大学史料館所蔵 東北大学史料館で所蔵している唯一の二高組章。理科の学生が付けていたものである。 G - 6 .佐藤忠良作「尚志」二高生像 1986年(昭和61)東北大学史料館所蔵 片平キャンパス学徒記念公園にある「尚志」二高生像の制作の素材となったもの。本作は創 立百周年記念事業の一環として制作された。像の襟元には文科を表す L の組章が彫られている。 佐藤忠良の作業に立ち会った同窓生は皆、理科出身者で、多数決で決めれば理科を表す S とな るところ、「それじゃ二高生らしくない、少数の方の L を採用しろ」との意見が出て文科の組章 が採用されたという。
G - 7 .二高生が使用したマントと学帽 東北大学史料館所蔵 マントは酒井清一郎氏(昭和11年文科 1 組卒)が着用していたもの。御遺族から寄贈された。 G - 8 .二高記念品 法被と手ぬぐい 東北大学史料館所蔵 旧制第二高等学校の創立125周年を記念して作成されたもの。沼田俊則二高尚志同窓会推薦萩 友会(東北大学全学同窓会)代議員(元東北大学教授、東北学院大学名誉教授)を通じて寄贈 された。 G - 9 .第二高等学校帽章 東北大学史料館所蔵 二高生が制帽に付けた帽章。帽子は卒業生が結成した二高ゴルフ会で着用されていたもの。 G -10.二高理科組章 1937~1940年(昭和12~15)頃 東北大学史料館所蔵 東北大学史料館で所蔵している唯一の二高組章。理科の学生が付けていたものである。 G -11.『杜都回想』(昭和二十年卒同期会誌)1986年(昭和61)10月発行 東北大学史料館所蔵 第17代総長・西澤潤一は1943年(昭和18)に旧制第二高等学校理科に入学している。戦時中 の措置として高等学校の修業年限が短縮され、西澤とその学友は二年で卒業した唯一の学年で あった。卒業後四十年を記念して発行された文集に収められたクラスの写真からは在学当時の 様子がうかがえる。西澤にとって二高の「尚志」の理念はその後の研究姿勢に大きな影響を与 え、二高精神は近年の社会においてこそ見直されるべきであると説き続けている。 G -12.加藤陸奥雄とメダル 【右】「名誉賞 明治三十七年八月制定」「尚志」 【左】「1932尚志」「科」 ともに1932年(昭和 7 ) 東北大学史料館所蔵 ともに、第13代総長・加藤陸奥雄が所蔵していたもの。【右】の「名誉賞」は尚志会が功績あ りと認めて個人に授与したメダル。【左】のメダルは1893年(明治26)に結成された科学部のメ ダル。加藤は懸賞論文「蛾虫を中心とする昆虫」で1931年(昭和 6 )に名誉賞を受賞している ことから、それに関するメダルであると思われる。加藤の聡明さがうかがえる資料である。 G -13.「二高合格と母の死」(『黒川利雄-その人と思想-』より) 1975年(昭和50)頃 東北大学史料館所蔵 1914年(大正 3 ) 7 月、黒川利雄は旧制二高の第三部医学科を首席で合格した。しかし喜び も束の間、病床の母親は既に瀕死の状態で合格発表の 1 週間後に亡くなってしまう。このエッ セイにはそのときの様子や、旧制二高の友人の思い出などについて綴られている。 G -14.瀧川亀太郎筆「雄大剛健」 1928年(昭和 3 )東北大学史料館所蔵 滝川(1865-1946、字は資言、号は君山)は著名な漢学者で、『史記』の研究などで知られる。 1897年(明治30)に第二高等学校教授、1926年(大正15)に大東文化学院教授。額の裏書によ ると、昭和 3 年卒の二高生13名が瀧川に依頼して製作されたものとわかる。
展示記録「蛮カラ学生の学び舎~片平キャンパスと旧制二高~」展 135 G -15. 3 本の幟「第二高等学校」「雄大剛健」「鎧袖一触」 東北大学学友会応援団所蔵 二高の同窓会などを開催する際に、繰り返し掲げられてきた 3 本の幟(のぼり)(「第二高等 学校」「鎧袖一觸(がいしゅういっしょく)」「雄大剛健」)。第二高等学校尚志同窓会は、2012年 3 月末の解散に先立ち、 2 月16日、東北大学学友会応援団に和太鼓及びこれらの幟を継承した。 G -16.大正天皇即位を記念し二高生の寄附でつくられた鐘 1915年(大正 4 )11月 東北大学史料館所蔵 東北大学史料館で所蔵している唯一の二高組章。理科の学生が付けていたものである。 G -17.忠愛之友倶楽部寮大太鼓 1956年(昭和31)東北大学史料館所蔵 G -18.ビデオ『第30回仙台寮歌祭』 1997年(平成 9 ) 8 月 9 日東北大学史料館所蔵