『平家物語』
巻八
「妹尾最期」
・ 寿 永二年幽十月一日、平家追討のために義仲の追した討手、矢 田判官代義消と海野の弥平四郎行広の軍勢が、水叫合戦に大敗す ろ。その知らせを聞いた 義仲は、自ら一万閑を率いて山勘近を釉 せ下る 。その手の中に、かつて北因の戦いに、加賀の園の住人g 光の次郎成澄の手にかかって生捕りにされ、成澄の舎弟三郎成氏 に預けられてい た、俯中国の住人妹尾太郎兼碩がいた。義仲は、 放甜の 大剛を惜しみ、伺時か役に立つ時もあ ろうかと、梢をかけ て命を助けていたのである。 涼腹が平家の家人 とし て登場す る 最初は、 「 保元物語 」 の「 官 軍勢汰へ」の条で、安芸守洒盛に随う兵の一人に「類尾太郎」と あり、次いで、「平治物語」の「待賢門のm
のm
」の条に、大内 へ向う殴盛の手の中に「妹尾太郎炊殿」と見え る。これらは、大 勢の家人の中の一人に名を挙げられただけであって、特に兼眼が 目立った動きをしたというのではない。r平家物 語」になると、 竺「殿下乗合」の条に、重盛の子資盛 が関白基房から受けた恥 辱をすすぐた めに 、沌盛が召し寄せた侍の中に「難波・覇尾」と 見える が、具体的な行動は記され ていな い。ただこの仕返しに参 加した侍を後に瓜盛が勘当しているので 、燎寂もその貨め受けたし
であろうと推察される。巻二になると、鹿谷の防謀に加憎した新 大納宮成設を消盛が折檻する「小教釧」の条に、消盛の命令で、 成親を庭へ引き落とす役を兼康が仰せ つかっている。この時液碩 は、「小松殿の御気色いかゞ候はんずらん」と、重盛に遠慮すろ 態度を示すので、消盛の怒りを買う。このように、米頃は、浙盛 と重盛の間に挟まって雖儀をするが、平家に忠哭な彼の立場は変 らない。結局泄康は、難波経遠とともに、成親を預って伽中に下 り、吉備の中山で成親を殺宮してしまう。 米碩が平家の軍勢を率いてやや表立った活躍 をするのは、巻五危
の「奈良炎上」の条である。治承四年五月の以仁王を奉じての源 穎政の蜂起の後、平家に楯をつく南都の個侶を鎖めるために、涼 晋、大和国の感詔詔醤せられ、五百騎をもって南都に発向す る。しかしこの時は、あら かじめコ諮字、紬街は鰍呵をいたすの舞台
赤
羽
学
とも、汝等はいたすぺからず」という消盛の厳命を受けていた の で、大衆に六十余人を討た れても、抵抗することなく都に引き掲 げる。その結果、かの有名な、平狙衡を大将取とする南都の焼討 が決行される。その後、寿永二年四月の袈仲追討の耶に、兼腹も 加わって、北国に下向する。しかし、平家は、倶梨迦紐谷の合戦 で大敗を茨し、放腹は、義仲の手に生捕りにされる。そのことは、 務七「倶梨迦羅落」の条に、「認ーいふ眠 ゆる却功も 、そこに て蕊効喝匹成認翠邸甑絲屯か手 にか ヽっ て . いけどりにせら る3と見える。それまで、平家の家人として名前 だけ 記されるに過ぎなかった兼康が、ここで「聞ゆる大力」とし て大きく取り上げられたのは、その後の義仲と兼困の抗争を描く ための伏線として、瓜要な意味を持つ。
二
「保元」「平治」「平家 」 と、源平の盛哀を語る証記物に引続 いて 豆場する 兼甜は、その苗字を妹尾とも、瀬尾とも記されろ。 顧尾はともかくとして、どうして妹尾 は「セノヲ」と読まれるで あろうか。このことを明快に説 いた のは 、本居 宜長の r 玉勝 間」 セノ 三の巷「怯字の平」である。いまその全文を掲げる。 イザt) ィ炉ナダi
釦火ノ祭ノ祝詞に、伊邪那oo
命の御召に、伊 那岐命を、吾 ナセノて?r 了”ナセノさ1 ィそセ3
奈扶乃命、また吾名扶乃命とあり、又その上の文に、妹行二 パシフ 柱とある、背ノ字も、困紀ノ釈元々集などに引るには、妹と あれば、古き本に然有しなるぺし、さて和名抄備中ノ国賀夜 「妹」を「セ」と読むのは、「扶」を「妹」に 誤まっ た 結果であること は、右の宜長の考証で明らかであるが、古代の文 ニヒセ ノ郡の郷ノ名に、庭妹 と書て、祖比世としろしたろあり、今 ノ世に庭面といふ所也、此妹ノ字も、妹を誤れる也、又同国 クレセ ヒロセト巾セ 下辺ノ郡呉妹、下野ノ国芳只ノ郡に、広妹迫妹などいふ知ノ コ`‘ 名あり、これらは説をしるさざれば、いか ならんしられねど も、妹ノ字なるに、いもとよまずして、せと仮字を つけたる、 まことにせなるぺ<闘 ゆる名ど も也、それにとり て、又備中 ノ国下町ノ郡に、弟罰と柑て、勢とよむ知ノ名もあるに准ふ れば、これら も妹とむて、せなるにやとも思 はる れど、古ヘ 七 男女の兄弟のあひだ にて、女は、男をば、弟をも、勢といひ *ヒ し例なれば、かの弟ノ字は、さるよしなど有て、負たろ名と せば、いはれたる を 、妹とむて、 せとよむぺきよしは、さら にな ければ、皆炊ノ字を写し誤れることしろし、又源平盛衰 セノ‘、 記に、平家の侍に、妹尾太郎といふ有り、これも同じ、扶ノ 字はめなれぬ故に、みなかく妹に誤れ る也、又同盛哀記に、ャ
平ノ時忠ノ卵の印をいへる所に、故建春門院の御ン扶にてお はしま ししかばと、これには、せうとに扶ノ字を書たり、そ も/\此字は、妹にむかへて、夫兄の意に、皇国にていにし ヘ造れる字と見えたり、さろ たぐひほかにも多し、字宙を考 フるに、此字、淡屈にもあれども、夫兄などの汲は、かつて なき字なり、 現 在 、献に更にもう一っ例を加えろ. r日本這異記」上務「殷懃侶ーー信 ・観音 i 願_ I 福分ー以現得 1 ー大福徊こ絃第州こに、死んでゆく ・安が兄の娘、即ら姪を自分の夫の後表にすすめ、往生するくだり がある。興福寺本「囚異記」は、この兄のことを「妖」と記すが、 群む類従本などは、これを「妹」 に直して、意味を通じなくさせ ている。これは、小学館の日本古典文学全集「日本霊 異記 」 の頑 注に、 ・ 「 扶」は国字、つまり日本製の漢字。頌火md祭祝詞呼、 「妹扶3も」「奈炊3」。字況集「扶セウト」。名義抄「妹 扶
1:-」 。年 齢 の 上下に関係なく、姉妹から見た、男の兄 弟。rrl
は、兄をいう。爽から夫をいうこともあろが、ここ はそれではない。兄の 娘、つまり姪9を自分の代りに疫にさ せようというので、年齢も遮合する。「扶」を「妹」とみな す説は大きな誤り。 と指摘があろよう に、「扶」を兄ととって始めて忠味が通ずろ。 セワr 宜長の挙げた、平時忠を「故建春門院の御ン扶」と記した『源平 盛哀記』の例は、その巻第四十六に、ではのと
と
彼の時忠と申すは、出羽前司知信が孫兵部の権の大輔時信が 七`なん 匁七£ ”にしヱ 忌男なり。故建存門院の御妹にて 坐 し しかば、耳倉上 こ A、i 旦には御外戚なり。 と見える。こ のように 、「源平盛哀記」は、「妖」を正しい意味 に使って いる所もあろが、兼田の苗字は、すぺて「妹尾」と誤ま 「妹尾」と正し って記されていろ。r平家物語」の諸本の中で、 く使われているのは、延慶本と長門本であろ。 一方、地名の「庭顧」は、「和名抄」那波本に「庭妹g 比」と あるが、高山寺本に「庭扶嗜」とある。r吉協瑯史」所収の、 紐久四年正月の日付のある古文び「神主賀陽朝臣譲状」に「庭扶」 と由いた例の見えることを もってしても、那波本の「妹」は、「妖」 の誤り である 。近lltになっても、吉俯津神社の神官屈井石尚 は 、 「天保+醤巴(ヰ牲畔蝶l 「m
研)に、「挺扶をしらせたも・ ふ板倉の君」と、正しい使い方をしている。 とこ ろ で、「庭妹(扶)」を「碩比llt」と読んだ那波本の発音 は注窓されねばならない。「庭」は、格通に続めば石山寺本の如 く「ニハ」とあるぺきだが、そうなってい ない点に、むしろその 発音の独自性が茄み取れる。つまり、この元 は新断であり、その 表記が庭扶に変った後も、「ニヒセ」という発音は残存したとみ るのであ る。「ニヒセ」が渓字の「庭」に引か れて 、高山寺本の 如く、「ニハ」となろのは容易であるのに対し、反対に「ニハ」 が「ニヒ」と変わろのは、考えられない 。庭瀬が新瀬であったろ うという推定は、既に、明治の三十年代に編稟された吉田東伍の 「大日本地名辞世」に、 碩比世とは新瀕の義にして、古への加夜国の新船漸にやあら ん、本郷の北に接して吉仰律宮あり、南に妹尾品あり、後llt 江湾埋塞して、船舶の出入少しと雄、 洞梨猶在りて、航消 のと記されている。「妹尾」は「妖尾」の放りであり、「妖」は 、 「顛」に通用したから、「セノヲ」は、瀬の尾、つまり新瀬の流れ の末を意味する地名ではな かったろ うか。穎の尾は、「万葉 集」 巻七 に「 郎配属戒 ル加即ZI廊乎ぎ (I 10八) とあるに 等 し く、水の流 れてゆく先のことである 。妹尾がそのように元来水路 にかかわる地名であったとすれば、それを苗字に冠すろ妹尾氏も •その水路と切り雌せない関 係をもったと想像される。
三
「日本也紀」仁街天旦六十七年に、「吉似喉国の川嶋河の碑『 に、大虹が有って人を苦しめ ていた。時に路人、その処に阻れて 行けば、必ずその函を被って、多く が 死んだ 。 是 に、 索謡fの祖叫ti
」 守は、勇担にして強力であ った。派淵に臨んで、三つの全債を 水に投げ入れて苔った。r汝は 、しばしば花を吐いて、路人を苦 われみg じめる。余は、tLを殺そうと思 う。 汝がこの釦を沈めれば、余は さ Cつ 避ろう。沈めることができなかったら、その時は汝の身を斬そう」 な . すると、水乱は、鹿に化って 、缶を引き入れたが、国は沈まなか 更に乱の冠認を ぁ .った。そこで剣を挙げて水に入り、iLを斬った。 . 求めると、多くの乱の認炉、淵 の 底 の 磁fハ に 充満 していた。 誕と かぢ ぁた くを斬った。河の水は血に変った。そこで、その水を号けて、県 bっ . 守 淵 といった9という話がある。これは恐らく備中に伝わる古 い伝説であ ったろ う。笠臣が虹を斬って血に染まった川とは、或 i"`:''ー L や 便あり。 賀夜郡 うら は混雑伝説に登場すろ血吸川がこれに比せられる。 それはともあ れ、佃中の平野には、川嶋川と名づけられ、部分 的に淵をな す程の大河が 流れてい た。 それについ て、 「椛中泊井 十二箇郷用水史」(匹諜埠畔甜)に、 古代の高梁川には総社市井尻野字六本抑付近から東へ分流す る河道があった。その東 流河道は総社平野を蛇行しながら窪 屋・都宇両郡と貿賜郡の境界を通って児島湾に注いでおり、 従って窪屋・都宇両郡は高梁川 の本流と東流に囲まれた地域 であった。川島という県(あが た)名 から辿想され るのは、 このような川に囲まれた地域であり、その位四はこの高梁川 本流と東流に囲まれた窪屋・都宇の地にあたっていたのでは ないであ ろうか。 と述ぺられている 。また、この川品川と関係す るであろ うと思わ れる宮瀬川が、総社 平野には流れていた 。即ら、r俯中国風土記 逸文」に、 如 1A 備中国風土記二苔 河西者 名 ー一 宮 瀬川― 之故 伯 名 1 一宮瀬― と見える。これは、取り あえず、「神名帳頭註 J から引いた日本 古典文学大系本に従ったが、内容的に疑問が多く、果してとの川 がどこを流れて いたか 、見当がつかない。 しかし、川の存在その ものまでも否定すろことは、どうかと思われろ。総社市南部の小 吉俯建日子命之 宮 伊勢御神社東 有レ河 造ーー此一―-llt王宮 1-74-古墳が骰在すろ三輪の「ワ」が拗音化して「ミャ」となったとす れば、その川筋は、三輪の北を流れていたと考えられ、川島川の それとほほ一致する。 と こ ろで、Cの高梁川 の東分流は、時代と共に退化し 、その跡 文r‘ に新たに.用水路が開盤されていったものと思われる 。 その過程は、 前記、藤井・加原両氏の記述に詳しいので、それによっていただ きた いが、要するに、総社市郡崎ハの合同井堰に発し て、醗攀 . 距 虚.虚茄.武t.翠t.誓 .罰震.誓.幣嗚.趙 妹尾の十ニカ邸六十八村を貰流する十ニヵ郷用水の起源は、遠く 平安時代の初期に遡る。そ の井堰の存在は‘r弘仁式」の巻廿五 主税上に 、 備中国、正税公窮各州万束、国分寺料三万束、修造堰溝料一 と記されている。更にr延喜式」になる と、 巻廿六主税上に、「彬 造堰溝料一万七千束」とあり、七千束の増加が 行 な われて いる。 備中の中枢部を灌漑する十ニカ 郷用水の末端に位図する妹尾を所 領とする妹尾氏が、この用水 の保守・管理に携わっていたことは 当然予想される。後年のものであるが 、嘉永七年に十ニカ郷惣代 出役十七名が迎 署 した 、 r 備 中国賀閤郡堪井堰起立井明細粉上術 」 でやヽ こ 、 往昔ハ、当時ノ井堰楊ョリ凡―二百問下、字六本柳卜申所二井 堰ヲ入、用水取入候趣、今以テ同所下二井路ノロト唱候古川、 万束 田地中二相残り罷在候。全体湛井川筋之儀ハ国中第一之長流 大河ニテ、延喜式弐拾六番主税上備中国堰溝料稲壱万七千束 ト有之分、当堰へ被__宛行こ嵌旨、従 1 一古来 1 申伝候。寿永 元壬寅年褐所替ノ上、 当堰所二相成恢ハ、妹尾太郎兼頌御目 論見ニテ、井堰中興之開基卜称、則鎮守井大明神之社内へ兼 腹ノ霊ヲ崇勧請仕、例歳初堰前当日祭礼執行仕来リ申候。 に見えるように、現在の 堪井堰の構築は、妹尾太郎液康の功紐と して語り継がれてき た。 その故に 、堪井堰の東山際に鋲座する井 神社には、兼康神社が合祀され、用水の末踏の妹尾の盛隆寺には、 その穎彩碑が建てられている。 四 「平家物語」巻八「妹尾最期」における燎頌と義仲の抗争を考 えるに当たっては、兼康の十ニカ郷用水とのかかわりを抜きにし て語るこ とは できな い。寿永二年阻十月、水烏合戦の敗北を挽同 するために、一万駒を率て山陽道を馳せ下る義仲 の軍勢の中に、 兼碩も加わっていた。液殴は、表向き義仲に従いつつも、何とか して義仲を討ら、いま一度旧主にまみえんと隙を うかがっ ていた。 播磨の閲に至った時、兼康は、義仲に道察内を申し出て、自分を 捕えた愈光次郎成澄の舎弟三郎成氏の勢州駒と共に先行し、備前 みつじ の三石の宿に止まった 。こ こで放康は、 倉 光の勢に酒を振探 っ て 酔わせ、全員を刺殺して、故地備中に走り、兵を催して、義仲に はむか っ た 。
・ 含光の殺された所を三石とするのは、流布本の「平家物語」で、 び喝ゎけセ 合の
E
「 源平盛哀記」は、「他'国和気の渡より東に、藤野寺と云ふ古 さ御堂」があり、そこだとする。また、成氏は兼光となる。どら らが本当かわからぬが、現在和気町の藤野に、実成寺という寺が あり、「東他那村志」には、 実成寺は元禄年中の珀創也。其已前は目にて土人七本盆と号 す。足寿永二年十月、平家の士妹尾太郎茉印が倉光三郎成粗 を夜討にせしは此地なり。此寺内に塚あり ” 叫辺炉間ゃ経塚と . 名 く。上に三十番神の堂を立つ。これ三郎成澄が項なりとも、 和気消麻呂即の寇とも云ふ。 とあって、ここを倉光戦死の跡とする。その寺から北方へ五百メ ートル程行った田圃の中に、「倉光三郎成澄之塚」と刻まれたニ メートル程の碑が立つ。その裏面に、g
光三郎者源袈仲之臣也. 紺中之士与妹尾太郎兼寂 哄子藤野寺而死央 とある。この成沿の名は、「平家物諮」とも「源平盛哀記」とも 遠うが、多分r東伺那村志」に従ったものだろう。 もさ たばかってg
光を殺した妹尾は、裳佐の渡り(g畔市)を越え、 さかbぎ さ8かせ5 福綸寺 細 手に逆茂木を引き、佐々迫に城を構えて立て 籠 った。福 輪寺は、「源平盛衰記」にそうあるが、流布本「平家物語」に福 隆寺、長門本に福龍寺とあ る。 いずれにせよ寺は現存せぬが、佐 々迫を今の笹ケ瀬とすれば、そこまでの山沿いの所を福綸寺縄手 といい、妹尾の構えた城5は、真低石校の裏山の烏山にあったら しい。 福陰寺趾(常圏寺)見取圏 暮鳩 さてそ の研輪寺もしくは福隆寺•福龍寺の跡はどこかというに、 r 岡山市史」は、 「 扱 要 録」廿 九 、廃 寺 社 之部 ‘ r 和 気絹 」、『松 田氏系梢』、『備尚閲誌』を引いて、 要之、補隆寺•福龍寺又福綸寺・梃林寺は第一に福居の福隆 寺、第二に市場の福輪寺、第三に奥坂の妙善寺、第四に現在 の妙善寺と前後、寺地を四転し、第一の福隆寺趾に建てられ たる常円寺が一時妙善寺の下寺となり、究文六年妙菩寺と共 に廃絶したる也。 と総括し、左記の如き見取図を掲げる。この図だけではその所在 がよくわからぬ が、実地を探訪 してみろと、半 禰f
lB 田病院の東北 に 迎なろ砥地の中 に、註灰岩の古 い面が二基残る 。 これを土地の人は、福隆寺(常円寺)趾とい ってい る。その東に、 常円寺分地という一画があり、日朗・日蓮・日像の名の刻まれた 石碑、或は大党大俯正・日奥大型人と刻まれた石碑が立つ。大党大僧正については 、r岡山市史」に、r松田氏系譜」を引いて、 暦応二年秋日像上人の弟子大覚大僧正妙実上人津島郷に来り 街道にて辻説法あり里民 大に帰依す。又同郷真言宗福輪寺寺 住良遊法印との間に法論あり良遊忽ら口を絋す乃ち宗を改め て大僧正の徒弟となり其寺 を妙実上人に譲り此寺の開山と為 す一山の衆徒悉く 妙実上人の弟子と為り法華を唱ふ云々。 とみえる 。暦応二年は、北朝光明天堕の年号で、一三三九年に当 たる。この頃、福輪寺は 、日苅宗に改宗したのである。 .福隆寺純手の様子は、r平家物語」に、 ゅt ふくりう寺細手は、はたばり弓杖一たけばかりにて、とをさ さう ふ 歴 む ぁし ぜん は西 国一 里也。 左右は深田にて、 馬 の足 もをよばねば、三千 よさこら れK 余騎が心 はさきにす Aめども、 馬次第 にぞあゆませける。 と宙かれている。「弓杖一たけ 」とは七尺五寸(約二、三メート ル) 、「西国一里」とは六丁(約六五四メートル)である。つま り、岡山大学辺から笹瀬へ抜ける幅ニメートル程の細道が福隆寺 縄手であった。その一本道を三千余騎が進んで行った。妹尾の城 廓は、その果の烏山にあった。義仲の軍勢は、今井四郎兼平を先
§
として、苦戦に苦戦を重ねて、一 日戦って漸く篠の迫りの城を攻 め落す。 「佃前古城址探訪」 篠の迫りの城の調査は、正宮安治氏の )におい てな さ れ て いる 。 それに 『願戸内面研究』十三・十 /四合併号昭和三十六年六月 よれば、城跡は、烏山とテッペン山に挟まれた千切谷の奥に二段 に分れてあり、テッペン山には、五つの 塚が南北に並び、その北 から二番目の塚が最も大 きく 兼康の塚と言われる。この古塚のこ とは、「東備郡村志」に、 妹尾太郎兼康の硲。烏山城址の東の山足、南へさし出たる処 にあ り。碑石なく古塚五つあり。究文年中此塚壊れて古鋭出 づ。銘に妹尾太郎兼腹硲と記せり。これより始て兼譲が基な ること をしれり。而れば備中宮内にある所の迷は、後世仮に 作るものか。 と見える。 兼腹の名を刻んだ古鋭は現存するであろうか。その所 在を知らない。五
笹ケ顧111を越えた向いの首部の白山神社の境内に首塚が残る。 これについて、「東備郡村志」は、 予按に、寿永の乱に木曾義仲篠ケ迫の城を攻落し、備中迄妹 尾太郎兼瞑を追討せしことあり。但し首は備中板臼鷺の森に 懸ると源平盛衰記 にみ えたれ ば 、其首塚にあらず。 として、並康の首塚でないとす るが 、兼腹の首塚であ るかないか は別として、これも椋平合戦の折の 戦死者の首塚のように思える。 というのは、白山神社が袈仲に従っ た北国勢の奉じてきた白山権 現の定箸したものではないかと考え られるからである。 篠のせまりの 城廓を破ら れた兼康は、備中国の板倉111の硝に、 鴫即をか い て待ら かけ る 。今井四郎は、これ を速攻し、兼寂主従は三豹に討らなされ、板倉川の踏についてみどろ山の方に裕ち てゆく 。それに、弟を討たれ た0光次郎成泣が追いつき 、二人は 糾み肘らになる。兼紺も成澄もいずれ劣らぬ大力であったか ら 、 罵から括ら て こ ろ び合ううらに、放山は、川 船の淵のあ る所にこ ろび入って、誓郊竿の成登の頚を取る。そして自分の馬は乗り肌 じたので、念光の馬に乗って落らて行く。しかし、嫡子小太郎宗 出は、馬にも乗らず、徒歩であったので、遂に歩けなくなり、兼 店は、これを見 拾てるに しのびず、取って返し親子と もども討死 .をする。 l 人の郎等も主に劣らず戦ったが、これも生価りにされ、 やがて死ぬ。義仲は、この三人の恋を備中のぼの森に懸け、「あ ぢお 浜 心を合芯つ閤 っばれ剛の者かな。 をこそ一人当千の兵ともいふぺけれ。あ
ぉ
←、ヤ汁・
ったら者どもを助て見で」と咬惜した。 この 義仲の態度は、納を泊
りで返された恨みを思わず、液腹の武士らしさをはめにたえ たさ わやかなも のである。 液康が板8川の淵に ころび込んで成泣を討ら 取った話は、流布 本 r 平家物 語 」 の み に 見え る特殊なものであ ろ 。この板 臼 川の聞 は、かのに徳紀のiLの住んで いた中島川の淵を思わせる。両者の 閑が同所だというのではない が、このあたりには、淵に住むtLを → 殺す品が残っていて、そ の英 雄を 源 ばに 当 て嵌め 、茄の中で成 沿 を殺す話に作り変えられたのではあるまいか。少し余談になるが` 藤戸の合戦で渡沙の場所を佐々木盛緞に教えた梱夫が口封じのた めにかえって殺され、洞に沈められ たので、悪制になって恨みを これは、全く何を-Jaっていろかわから ない。 「 みどろ 山 」 が延 桜 昭らそうとする話が謡曲『必一F」に見える。藤戸は、元米副であ り、この茄にはnu
が住むと背から伯ぜられたのであろう。虹は龍 の一種である。 液康がg光の島に兼って逃げたという、そのIiiズの塚のことが、 『備中誌」奴脱郡滞手村の条に、 糀手村の内加似野に有。松壱本塚 印に生たり 。 と見え る。この加屈野がどこか`必ずしも明 確ではないが、南滞 3なん 手の門悩寺がそれではないかと思われる。この寺は、況在無住と なり流脱してい るが、その悦内の西南の隈に大木の 松が ある。門な苔
満寺は、古代から巾枇に栄えた鉗脱氏の氏寺柏寺の跡と苫われ、 近年発堀が行なわれ、培の心礎などが確認さ れて いる。中枇初期 にこ の寺は存在したと思われるから、.案外涼出は、この寺に逃げ 込もうとしたのか もしれない。 六 義仲に追われた兼康が 逃げようとした「みどろ山」がどこか、 またその 類 の怨けら れ た 「 代が森 」 がどこか、今の 「 平家 物拍 j の研究家の間では、全然わかっていない。まず、日本古典文学大 系 r 平 家物詔 し の 「 みどろ山」の頭注は次の如くである。 熱田木に「三一戸(ミト 0) 山」、延桜本に「、:トリ山」とあ ろが、店松町付近にあり、板gから万寿庄への通路に当った 禄山であろう。本に「ミトリ山」とあるという指摘は鉗重であろが、それが蒻松 町にあろといい、同時に板gから万寿庄への通路に当った禄山で あろうともいう。 Tr 回松町は板臼から万寿へ抜ける通路にもないし、 緑山だと言われる禄山という山は、いったい何処から持ち出され たのだろうか。 更に、日本古典文学全集了平家物話 J には次のようにある。 底*「みとろ山」 。延疫本「ミトリ山」、熱田木「三戸四卜 山」、元和版「緑、芹山」、正節本「みどり山」。院山から 臼敷への逝路に当たった緑山か。 これも、猪木の異同は絆しいが、山自体の位凶は曖味である。 蚊後に注の最も詳しいiblg徳次郎氏の『平家物語全注釈いを引 いてみる。 みとろ山 板gから万寿荘(g敷)への通路にあたった緑山 であ ろう。r延炭本」「ミトリ山」`r平松家*」「弥度呂 ‘、A' ロ 山」‘r熱田本」「三一戸山」と ある。 これも、前二者と大同小異である。いずれも「みどろ山」の確実 な場所を知らず、岡山からg敷へ向うどこかにあるだろうといっ た無責任極まるむき振りである。 それでは、「懃が森」についてはどうか。巳本古典文学大系・ 日木古典文学全集は「未詳」 とし 、梃U氏のものには、 殻森 位四未詳。 r 延 裂と「備 中 国鵞が森へ引 退 き万牙荘 二陳ヲ取テ」とあり、万寿壮と同位muになるのであろうか。 兼ぬ之誼塚 烈の森の地に有。或は山の上に行。頭を埋たる 処にし ろしの松打。里民放りて斎條災盛が塚と云へり。或 況に此誼を岡山莉勝と云者宮内村に拌り、寺を姓て岡山道 勝寺と号す。今悦内に、妹厖太郎兼腹ががぶとて打。"心は奥 御前のしるしなるを、誰か冨ひ触しけん。妹厖が時代には、 此辺洵辺にて絆りすべき地に非ず。栖委敷は宮内村の条に 出せり。 緑山 r惣社行印本」(応永三十年 土地の伝に、宮内村といい、あるいは日幅(日畑)ともいう。 )に「汽の 森まで八町」とある ので実在の地名とは思われる(r軍記と語り物」3所収、石 田拓也「妹迅太郎放山聞の系滋叫」参照) 。 とある。これも 「位訟未詳」とするが、後に石田拓也氏の論文を 引いて 、土地の伝を紹介する。そこで石田氏の「妹尼太郎兼康甜 の系膳ー伝承と巾実との関迎から1(正螂酔誌窃紐叫 l-)に当っ てみる。しかし、石田氏の論もおおむねr伽中志’iの引Jllで、さ したる新兄はない。パ空末の編話で祈者不明であろが、最終的に は 地元の地誌 r 備中 志 」 に頓らざるを囮ない 。 その 窪駐 郡 巷 之八 の 条に、「糾山」「放康之狩塚」「惚之森」について、次のように 見える。 妹出太郎切腹の地也。或 は三須村の内共いふ。 松林緑の色をなせり。依て緑山といふ。代の森の上なる山 なり。
鷺之森 一宙に鷺の森を日幅に有といふ。又、宮内也といヘ ど、応永三十年惣社行事本の端也に鷺の森迄八町と記した り。宮内にても日畑としても町数不都合な り。 ここにもいろいろな説が列挙してあって、車実を掻むのはむつ かしいが、緑山が三須村にあり、鷺の森の上なる山 という記事、 惣社行事本に、鷺の森まで八町と記してある記田が、その場所を 確定する目安にな る。ここで注目すぺきは、旧一二須村の三須小学 校々歌(三宅誠一氏作詩)の一番と二番の歌い出しに、それぞれ、 「若葉芽をふくみどり山」「平和鉛もる鷺の森」とあ ること であ る。即ら三須小学校は、黛 の森にあ り、緑山を望む所に建ってい た。三須小学校は、昭和四十七年四月廃校となり、総社東小学校 に統合されたが、その校舎は今に残り、その周囲は 、鬱蒼た る森 に囲ま れている。その中に、山本神社・諏訪神社 の二社がある。 また その近くの水田の中に建つ祠は、太郎荒神と呼ばれ る。線山 は、そとから其南に見える小丘をいう。この地は 、総社宮から直 線距離にして 七百メートルで あり、惣社行事本の八町 とい うにほ ぽ符号する。 最後の決め手として、総社市史編纂委員の細田孫一氏から捉供 を受けた 、総社市の土地台帳所戟の小字名 を記 した地図を 掲げ る。 今の総社東小学校の西が上サギセ、南が下鷲瀬、上サギセの西が 西鷺顧、その西が鷺 瀬と広がる。この地名は、恐らく鷺の栖息し ねら た水路を意味し 、そ の鷺の時を鷺の森と呼 んだの であろう。その 鷺の森は山本にあり 、そ の南が緑山である。この緑山 は、自敷の 万寿庄への通路に当る。それで、「平家物語」の「妹尾殷期」に 続くユ語」の冒頭の、 さる程に、木曾殿は伽中国万寿の庄にて勢ぞろへして、八島 ヘ既によせむとす。 という文句が支阻なく理解され る。 ここで茉殴がどうして板g川に防衛線をし き、破れた後、「み どろ山 」の方へ逃げた か、その必然性が理解され る。即ち、兼康 が逃げた窪屋・都宇の二郡は、か れの管理する十ニカ郷用水の湘 紐する重要な穀g地帯であり、かつ万寿庄を経て屋島へ通ずる要 街だったからである。兼困は、 この地の地理に最も明る<、逃走 するのに便利であり、またかれを既う人も少なくな かったに違い ない。しかし、義仲 の追撃が急で、遂に逃げおうせな かった。 ・ 義 仲は、兼匝を追って、屋島を うかがう恰好の地を占拠しなが ら、その間に都に叛乱が起ったとの報に接し、急拠耳を返し、 そ のま ま 、鎌倉から迎わされた範穎・ 義経に攻められ、寿永三年正 月廿一日、近江の粟津の露と消えた。 本稿は、昭和五十七年二月から五十八年七月まで、十五回にわ たって「内海春秋」に迎載した 「岡山 と平家物語」の中から、兼 康
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係の記事を抜き 出し、屈成し直して、更に考察を深めたもの である。十五回の連載は、殆どが岡大昭和五十五年卒菜の植木博子さんの同伴によって、 宙き継がれたものであ る。 また鷺の森の 地を教えてくれたのも植木さんであった。―