世界史認識と植民地(III) : レナール『両インド史』の検討をとおして
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(2) . 世界史認識と植民地 ( 1 ) 1 1 -- レナール 『両イ ン ド史』 の検討をとお して --. 忠. 浜. 目. 雄. 次. は じめに 1. レ ナ ー ル, 人と 著 作. 1巻第1号〕 2. 『両インド史』 の問題観 〔以上第3 3. 『両インド史』 における植民地解放主体論 1巻第2号〕 4. 『両インド史』 におけるフランス旧植民地体制論 〔以上第3 5. 『両インド史』 における世界史認識 〔以下本号〕 むすび. 5. 『両イ ンド史』 における世界史認識. 「植民地の百科全書」 とも別称される如く, 『両イン ド史』 が叙述する問題領域はきわめて多岐に. わたるが, 本稿は, そのうち, わずかに, 筆者が 「植民地解放主体論」 と命名した論点とその周辺 について検討したにす ぎない. しかしながら, 前述のように 『両イン ド史』 の立脚する中心的問題 ‐界の発見」 とこれを起点とするヨーロッパの対外進出の 「功罪」 に対する反省的回顧に 観が 「新世 あったとすれば, 近代ヨーロッ パによる植民地主義的膨張の過程に関する網羅的かつ批判的叙述を. とおして植民地の独立と植民地における解放主体形成の不可避 (ないし不可欠) 性に論及している 点は,『両イン ド史』の結論的核心をなすものであり, かく して, 本書がつとに,18世紀における「反. 植民地主義の記念碑」 あるいは 「反植民地主義理論の兵器庫」 と呼ばれてきた所以も了解されるで あろう. 筆者が 『両イ ン ド史』 における 「植民地解放主体論」 に注目する理由のいく つかは, 既に前章ま でに記したが, 本章 では, これをさらに広く植民地をめ ぐる思想史とりわけ 「反植民地主義」 思想. 史において考察することを試みたい. とはいえ, 今なお未開拓の研究領域に属する「反植民地主義」 思想史を全面的に跡づけながら論述することはできない. ここでは, 『両イン ド史』の「反植民地主 義 論」 を, ラ ス ・ カ サ・ス, ロ ベ ス ピ エ ー ル, カ ー ル・ マ ルク ス の そ れ と 対 比す る こ と で満 足 し な け. ればならない. 私見によれば, 大まかにいって, 「反植民地主義」的思潮の高揚期は, 16世紀, 18世 紀, フ ラ ン ス 革 命 期, お よ び19 世 紀 に 求 め る こ と が で き る と 考 え る が 上 記 の 3名 は レ ナ ー ル と , ,. ともに, 各々の時代を代表する人物と考えられ, しかも, 利用 しうる研究が比較的豊富に存在する. 1 } なお 行 論 では カ ー ル・マ ル ク ス か ら ロ ベ ス ピエ ー ル ラ ス・カサ ス ヘ と 遡 行 す る か ら であ る( , , . , ..
(3) . 浜. 忠. 雄. 1 ( ) カ ー ル ・マ ルク ス. 代表的には, 山之内靖氏が 「一元的・単層的・平面的認識」 から 「多元的・多層的・立体的認識」 への 「転換」 と特徴づけ, あるいは氏利健三氏が 「普遍化的世界史像」 から 「重層的世界史像」 へ. の「深層化」と特徴づけたように, マルクスの世界史認識がほぼ186 0年代を境として転換ないし深 2 ( ) 化したとする見方は, 今日では常識となっている . 重要なのは, これまた周知のことに属するが, マルクスの世界史認識にかかる転換をもたらしたのが, 植民地論わけてもアイ ルラン ド論, すなわ ち, マルクスが「アイ ルラン ド問題についての自身の見解を創造的に訂正した◎」ことにあったこと であ る.. 研究史上いく度も言及されたことのある余りにも有名 なものばかりだが, マルクスにおける世界 史認識の転換の旋回軸としての植民地論の断片的章句を年代順に引用しておこう. 「す べ て の 国 の う ち で, イ ギリ ス こ そ は, プロ レ タ リ ア ー トと ブ ル ジ ョ ワ ジ ーの 対 立 がも っ と. も す す ん だ国 で あ る. だか ら, イ ギリ ス の プ ロ レ タ リ ア ー トの イ ギリ ス の ブ ル ジ ョ ワ ジ ー に 対 す. る勝利は, 全被圧 迫者の, その圧迫者に対する勝利にと って決定的である. だからポーラン ドは ポーラン ドで解放されるのではなく, イ ギリス で解放されるのである.」 (マルクス 「ポーラン ド に つ い て の 演 説」 3 0頁) , 1847 年 11月 29 日, 『全集』 第4巻, 4. 「一個人による他の個人の搾取が廃止されるにつれて, 一国民による他の国民の搾取も廃止さ. れる. 一国民の内部の階級対立がなく なれば, 諸国民のあいだの敵対関係もなくなる.」 (マルク 3頁) ス, エンゲルス 『共産党宣言』 , 1848年, 『全集』 第4巻, 49 「これらの小さな固定した社会組織は……イ ギリスの蒸気力やイ ギリ スの自由貿易の作用に よ って, 大部分解体されたし, 消滅しつつある. ……イ ギリスの干渉は……この小さな半野蛮, 半文明の共同体の経済的基礎を爆破したの である. ……なるほどイ ギリスがヒン ドゥ スタンに社. 会革命をひきおこした動機は, もっ ともいやしい利益だけ であり, その利益を達成する仕方もば かげたものであっ た. しかし, それが問題なのではない. 問題は, 人類がその使命を果たすのに,. アジアの社会状態の根本的な革命なしにそれができるのかということ である.できないとすれば,. イ ギリ スがおか した罪がどんなもの であるにせよ,イ ギリスはこの革命をもたらすことによって, 無意識に歴史の道具の役割を果たしたのである.」 (マルクス「イ ギリスのイン ド支配」 85 3年, ,1 『全集』 第9巻, 126~127頁) 「われわれにとってむずかしい問題は次の問題だ. 〔ヨーロ ッ パ -- 引用者〕 大陸において革 命は切迫しており, そしてまたす ぐに社会主義的特徴を帯びるだろう. ところでこれよりずっ と 広大な地域において ブ ルジョワ社会はまだ上昇線をたどっているのだから, この片隅におこった. 革 命 は, 当 然 粉 砕 さ れ ざる を え な い の では な い で し ょ う か, と.」 {マ ル ク ス か らエ ン ゲ ルス へ, 185 8年1 0月 8 日付, 『全集』 第29巻, 282~283頁). 「アイ ルラン ド人が必要としているのは次のことだ. ①自治とイン グラン ドからの独立. ②土 地革命. イン グラン ド人は, 最大の善意をも ってしても, 彼らのためにこの革命をおこなうこと はできないが, 彼らにそれを自分自身でやるための合法的手段を与えることは できる. ③イング ラ ン ドに た い す る 保 護 関 税. … …」 (マ ル ク ス か ら エ ン ゲ ルス へ, 1867 年 11 月 30 日付, 『全集』 第 31 巻, 335~336 頁). 「僕は以前はイ ギリスからのアイ ルラン ドの分離は不可能だと考えていた. 僕は今ではそれは.
(4) . 1 1 1 ) 世界史認識と植民地 (. 不 可 避 だ と 考 え て い る.」(マ ルク ス か ら エ ン ゲ ル ス へ, 1868 年 11 月 2 日付 『全集』第3 1巻,315 ,. 頁). 「僕が長いあいだ考えてきたことは, 可能なのは, アイ ルラン ドの体制をイ ギリスの労働者階 級の興隆によっ てくつがえす, ということだった. 僕は絶えずこうした見解を 『ニュ ーヨーク・ トリビュ ーン』 紙上で主張してきた. もっ とつっこんだ研究によ って, 僕は今では正反対のこと を確信するよう になっている. イ ギリスの労働者階級は, それがアイ ルラン ドから免かれないう. ちは, けっ してなにごとも達成しはしないだろう. 榎梓はアイ ルラン ドに据えられなければなら な い.」 (マ ル ク ス か ら エ ン ゲ ルス へ, 1869 年 12月 10 日付 『全集』 第3 2巻, 336頁) , 「イ ギリス人は社会革命に必要なあらゆる物質的条件をもっている. 彼らに欠けているのは,. 一般化する精神 と革命的情熱である, それを補足し, これによってこの国, したがってあらゆる ところの真に革命的な運動を促進することの できるのは, ただ総評議会だけ である. ……イ ギリ. スはたんに他の諸国とならぶ国として扱われるべき ではない. -- イ ギリスは資本の本国として 扱われるべき である. イ ギリスがヨーロ ッパの地主制度と資本主義の爆塁であるとすれば, アイ ルラン ドこそは, 公的イ ギリスにたいして大きな打撃をくわえるただひとつの地点である. ……. 他の民族を隷属させる民族は, 自分自身の鉄鎖を鍛えるのである. だからアイ ルラン ド問題にた. いする国際協会の立場はきわめて明確 である. その第1になすべきことは, イ ギリス で社会革命 をおしすすめること である. そのためには, アイ ルラン ドで大きな打撃をく わえなければならぬ.. このアイ ルラン ドの大赦にかんする総評議会の決議は, 別の諸決議, つまり, あらゆる国際正義 を問題外としても, 現在の強制された合併 (すなわちアイ ルラン ドの隷属) をできるなら自由で. 平等な連邦に, 必要なら完全な分離に変えることが, イ ギリス労働者階級の解放の前提条件 であ ることを主張する諸決議を, みちびきだすのに役立つだけである.」(マルクス「非公開通知」 87 0 ,1. 年, 『全集』 第1 6巻, 409~411頁, 傍点原文) 「各国民の自立と統一を復活しなかっ たなら, プロレタリアートの国際的な団結も, 共同の目 的を達するためのこれらの国民の平静な,分別ある協力も不可能であったろう.」(エンゲルス「『共. 産党宣言』 イ 89 3年, 『全集』 第4巻, 6 0 .タリアの読者へ」 7頁) ,1. 以上のわずかな引用か らも明らかなように, マルクスは, 自らの世界史認識 (マルクスにあって ・理論であるが) を形成する際, 二大契機として 「階級」 と 「民族」 を は, それはすぐれて世界変革 設定している. この点では終始一貫しており, 1860年代以前と以後に違いはみられない. 問題は, 両契機の関係についての認識が変化したこと である. 1 860年以前には, 先進国のプロレタリアート が遂行する 「階級の揚棄」 が先行し, 植民地あるいは従属国における「民族の解放」は, かかる「階 級の揚棄」 に依存する, あるいはその必然的帰結たるべきものとして把握される. 仮りに図式化す るなら, 《「階級」 ÷→ 「民族」》とでもしえよう. しかるに, 1 860年以降には, 「民族の解放」 の. 意義がことのほか重視されることとなる結果, 「民族の解放」 はむしろ 「階級の揚棄」 のための 「前 提条件」 でさえある -- すなわち, 《「民族」 ÷→ 「階級」》 -- ないしは 「民族の解放」 は 「階 級の揚棄」 とともに壮大な世界的変革のための相互補完的契機 -- すなわち, 《「民族」 Fコ 「階 級」》 -- と認識されるに至るのである.. 植民地論の訂正を旋回軸とするマルクスの世界史認識の転換は, 同時に, 近代史像わけても 「地 理上の発見」 についての認識にもなにがしかの変化が生 じてはいまいかという ことも ・予想させる.. マルクス (エンゲルスを含め) の著作において 「発見」 そのものについて論じた箇所はけっ して多 くはないが, やはり, 186 0年代を境としてニュアンスが生じているように思われる..
(5) . 浜. 忠. 雄. 1860年代以前の 「発見」 観を端的に表現しているのはやはり 『共産党宣言』 である. すなわち, 「ブルジョ ワジーは, 歴史上きわめ て革命的な役割をはたした」 という有名な一文の前段 一一 「ア メ リ カ の 発 見, ア フ リ カ の 回 航 は, 勃 興 し つ つ あ っ た ブ ル ジ ョ ワ ジー のた め に 新 天 地 を ひ. らいた. 束イン ドや中国の市場, アメリカへの植民, 植民地との交易, 交換手段と商品一般の増 加, これらは商業に, 航海に, 工業に, 空前の飛躍をもたらし, こう して, 崩壊しつつあった封. 建社会の内部の革命的な要素を急速に発展させた. ……大工業は世界市場をつくりだした. これ は, アメリカの発見によっ て準備されたの であっ た. 世界市場は, 商業に, 航海に, 陸上交通に, はかりしれない発展をもたらし, この発展は逆に, 工業の拡大に反作用した. そして, 工業, 商 業, 航海, 鉄道が拡大する程度におう じて, ブルジョ ワジーが発展し, その資本をふやさせ, 中. 世からうけつがれたあらゆる階級をうしろにおしやった.」 ( 『全集』 第4巻, 476~477頁). みられる如く, 「発見」 は, 第一義的に, 「革命的」 ブ ルジョ ワジー, 大工業, 世界市場創出のた めの 一大契機とされるのである. たしかに, 「発見」をもっ て民族対立の歴史的起点とする指摘もみ. られなくもないが, 特殊に, 植民地あるいは従属国の問題としての民族対立についての言及は明示 的には存在しない. したがって植民地問題の揚棄は,「諸国民の対立」の揚棄一般のなかに包括され, また, 「諸国民の国民的な隔離と対立とは, ブルジョワジーが発展するにつれ, すなわち自由貿易,. 世界市場が発展し, 工業生産とこれに照応する生活関係が一様化するにつれて, す でに しだいに消 滅しつつある」 とされるのである, 一言 でいうならば, 『共産党宣言』 の段階においては, 「世界市. 場論的視点」 に立脚しつつ, ア ダム.スミス的 「発見」 観= 「自由貿易的世界の予定調和的平和観」 4 } を 継 承 し て い る と い っ てよ か ろう{ .. 1 つ ぎに『資本論』 ( 86 7年) , これまた有名な, 「資本は, 頭から爪先ま で毛穴という毛穴から血と 汚物をしたたらせながら生まれてくるのである」 という 一文 で総括される, 「いわゆる本源的蓄積」. の章一一. 「アメリカの金銀産地の発見, 原住民の掃滅と奴隷化と鉱山への埋没, 東イン ドの征服と略奪 との開始, アフリカの商業的黒人狩猟場への転化, これらのできごとは資本主義的生産の時代の. 曙光を特徴づけている. このような牧歌的な過程が本源的蓄積の主要契機なのである. これに続 いて, 全地球を舞台とするヨーロッ パ諸国 の商業戦が始まる.」「キリスト教的植民制度について は, キ リ ス ト 教 の 研 究 を 専 門 と す る 人, W・ノ・ウ ィ ッ トは 次 の よ う に 言 っ て いる. 『い わゆ る キ リ. スト教人種が,世界の至るところでまた自分が隷属させることのできたすべての民族にたいして, 演じてきた蛮行と無法な暴行とは, 世界史上のどの時代にも, またどんなに野蛮で無教育 で無情 で無恥な人種のもと でも,比類のないことである.』」(さらに,この箇所へのマルクスの注 --「ブ. ルジョ ワが世界を遠慮なく自分の姿にかたどることができる場合には自分自身と労働者とをどん なものにつくりあげるかを知るためには,こんなことま で詳しく研究しなければならないのだ.」 ) 「原住民の取扱いが最も狂暴だっ たのは, もちろん, 西イン ドのように輸出貿易だけを使命とし. た栽培植民地であり, メキシコや束イン ドのように豊かな富と綱密な人口をもちながら強盗殺人 の手に任されていた国々 だっ た. とはいえ本来の植民地でも本源的蓄積のキリスト教的性格は争 『全集』 第23巻B, 980~98 われないものがあっ た.」 ( 3頁). ここ での筆致は, 『共産党宣言』 とはきわめて対照的であり, 先に訳出・引用しておいた 『両イン.
(6) . ) 1 世界史認識と植民地 ( 1 1. ド史』 の 序 文や モ ン テ ス キ ュ ー, ボ ル テ ー ル, コ ル ネ リ ウ ス ・ ドゥ ・ パ ウ, ベ ル ナ ル ダン ・ ドゥ ・ サ ン = ピ エ ー ル・な どの そ れ と 類 似 して い る. マ ル ク ス の 「発 見」 観に は 変 化 が生 じ て い る. の ち に. エンゲルスは 「猿が人間になるについての労働の役割」 ( 1 876年) の中で次のように書いた. 「しか し, われわれの生産行動からおこる遠い自然的結果についてさえ, われわれがそれをある程度考慮 にいれることができるようになるまでには, 数千年の労働が必要であっ たとすれば, これらの行動 の社会的結果についてそう するのは, はるかに困難なことであった. (中略)しかし, この分野でも. われわれは, ながい, ときにはきびしい経験をつう じて, また歴史的材料の収集と研究をつう じて, しだいにわれわれの生産活動の間接的な,遠い社会的結果をはっきり理解できるようになっており,. 『全集』 第2 その結果われわれがこの結果をも 支配 し規制する 可能性 が生ま れてい る.」 ( 0巻, 4 82~483頁, 傍点原文) . 途中省 略した部分で「行動の社会的結果」についての認識の困難や遅れの 事例 を いく つ か あ げ て い る が, そ の ひ と つ に, 「コ ロ ン ブ ス がこ の ア メ リ カ を 発 見 し た と き, 彼 は そ. れによってヨーロ ッパ ではとっくに克服された奴隷制をよみがえらせ, 黒人貿易の基礎をおいたの だと は知 ら なか っ た」 こ と を あ げ て い る. こ の 一 文 は, 単 に ひ と つ の 事 例 であ る に と どま ら ず, マ. ルクス, エンゲルスの世界史認識においても, 「歴史的材料の収集と研究をつう じて」はじめて, そ の認識の深化が可能であっ たことをも示唆していると解されよう. 周知のように, マルクス, エン ゲルスのアイ ルラン ド論は, 当時の文献の偏頗のゆえに, 独自の史料蒐集による困難かつすくれて 5 〉 そのような事情は「発見」 を起点とするヨーロッ 「創造的」な研究の結晶にほかならなかっ たが( , パの植民地主義的膨張に関する分析についてもあてはまる であろう. 筆者の当面の関 心に則してい えば, マルクスは, レナールの 『両イン ド史』 もあるいはラス・カサスの諸作品も利用した形跡は ない. しかし, それも故なきこと ではない. 先述の如く, 『両イン ド史』は, 初版刊行後, 翻訳を含 め て 総 計 61 の 版 を 重 ね た もの の,1823 年 以 降 の 刊 行 は なく, マ ルク ス, エ ン ゲル ス の 時 代 は ま さ に. 「沈黙と忘却」 の時代にほかならなかった. また, ラス・カサスの作品も, いわゆる 「黒い伝説」 のただ中にあり, 客観的・実証的な研究によっ て, 彼の 思想と行動のより正確な評価と歴史的意義. を明らかにしようとする試みがあらわれるのは,ようやく今世紀40年代になっ てからのことなの で あ る.. ヨーロ ッパの思想史において, こと植民地支配や民族抑圧の問題に関する限り, とりわけ批判的 思想の蓄積, 継承性が一般に稀薄であるように思われる. それはマルクス以後についても同様に指 摘しうるところである. マルクス, エンゲルスの植民地=世界史認識が, これを継承すべきのちの 社会主義者たちによっ て, 十全かつ正当に継承されなかっ たことは, 第二インターナショ ナルにお ける植民地をめくる論争の在り方をみれば明らか であろう. 紙幅の都合で詳論できないが, 最も重 要な点として, カウツキーに代表される 「原則的反植民地論」 と ダーフィ トやフ ァン・コルに代表. される「社会主義植民地政策論」との対立において, 両者の分岐点が, 「原則として『植民地の放棄』 6 { 〉にあっ を承認するか否か, そして植民地民族の主体性を, 少なくとも理論的に, 尊重するか否か」 たこ と に 注目 して お き た い. ( 2 ) ロ ベ ス ピエ ー ル 1794 年 2 月 4 日の国民公会による黒人奴隷制廃止宣言は, 封建的土地所有の廃棄宣言や人権宣言. な どと と もに, フ ラ ン ス 革 命 の 重 要 な 事 蹟 のう ち の ひ と つ であ り, そ の 点 では, ひ と しく ブ ル ジ ョ. ワ革命たるアメリカ独立革命が黒人奴隷制を温存したのとは対照的である. しかし, フランス革命 における黒人奴隷制の廃止は, それが人権宣言の採択から4年半後のこと であることから推察しう に リ.
(7) . 浜. 忠. 雄. るように曲折があっ た. 筆者は旧稿 で黒人奴隷制廃止論争をやや詳しく追跡したことがあっ たが, そこ で得られた小括は以下のよう であっ た.「黒人奴隷制問題に対するフランス革命の対応は, 終始 受動的で徹底性に欠け, 結局, 人権宣言の理想主義と植民地のもつ実際的利益の現実との板挟みか ら脱出しえなかっ たのに比して, 〔仏領サン・ドマン グの〕 黒人の蜂起が黒人奴隷制廃棄の直接的契. 機となっ たという意味で, 黒人の運動には, 『ロ ベ スピエールを含めて本国のもっ とも革命的 ブル 7 ) ジ ョ ワ ジ ー を も の り こ え た』 契 機 を 含 ん でい た.{ 」. フランス革命におけるこのような植民地問題への対応の在り方を象徴する人物をかりにひとりだ け求めるとすれば, それは, ロベ スピエールであろう. かつてエーメ・セゼールが指摘した如く,. ロ ベ スピエールの登場によっ て 「植民地問題, そしてまたフランス革命そのものの問題が, その幅 8 ( )といっ てよいからである と次元において初めて正しく措定された」 . 791 ロベ スピエールの 「反植民地主義」 を検討しようとするとき, 好箇の素材となるのは, 彼が1 年5月13日の国民議会で行なっ た演説に由来して, 後につく られた「原則よりも植民地が滅んだほ. う が よ い」 (Pきrissentles colonies plut6t qぜun principe) と い う ア ポ ス ト ロ フ であ る.. こ の 点に. ついても, 別稿 でやや立ち入って検討したことがあり, 詳細は省か ざるをえないが, 要点はこうで 9 ) -- ①「原則よりも植民地が滅んだほうがよい」というアポストロフだけからは あたか ある( , . もロベスピエールが, 革命の原則と植民地領有とを原理的に対立するものと把えたうえ で, 革命の 原則を擁護すべく植民地の放棄を主張したかのように受け取れ, 実際, そのような理解に立つ研究 も存在する. しかし, はたしてそうか.1791年5月13日のロベ スピエール演説に関しては, テクス ト・クリティ クを含め, いささか吟味を必要とする. ②ロベスピエ ールの演説は, 直接には, 植民 地コロンや黒人奴隷制擁護論者たち, とりわけ 「マシャック・クラ ブ」 の領袖たるモロ・ ドゥ・サ ン=メリが,「人権宣言か植民地か」の二者択一論に立っ て, 植民地領有を国是とすること, したがっ. て「植民地には権利の宣言が適用されないことを表明」するよう迫っ たことに対する回答であっ た. その場合, ロベ スピエールはサン=メリ流の二者択一論そのものを批判し, そう した論理こそ 「植 民地の喪失」に帰着させるものであるとし, 「われわれは国民も植民地も人道も彼らのために犠牲と しないこと」 , つまり, 「人権宣言と植民地」 の両立を主張したのである. ③ 「原則よりも植民地が 滅 ん だ ほ う がよ い」 と いう ア ポ ス ト ロ フ は, ロ ベ ス ピエ ー ル 演 説 の 本 意 を 正 しく 伝 え て い な い し,. いわんや, これをもってフランス革命の植民地問題に関する基本理念を直裁に表現したものとする こ と は でき な い の で あ る.. 当時, ロベ スピエールはたしかに, もっとも徹底した黒人奴隷制廃止論者であったが, 彼を 「反 植民地主義者」 と規定するのはひかえなければならない. また, 植民地黒人における解放主体形成 を軸とする黒人奴隷制廃棄というレナール的路線は, ロ ベ スピェールによっても継承されなかった の であ る. しか し, い さ さ か 逆 説 的 な い い 方 が許 さ れ る な ら ば, ロ ベ ス ピエ ー ルに お い て は (その. 限り では彼の対極に位置するサン=メリとともに) , 植民地解放主体論が意味するもの, すなわち, 黒人奴隷自身がみずからの解放のために蜂起するのを是認ないし唱道することは, 単に黒人奴隷制. の廃止にと どまらず, 植民地の放棄をも肯定することとなる, そのような論理必然性を洞察してい たといえないであろうか. ロベ スピエールが9 4年の時点で宵言採択に「沈黙」 した事実, あるいは. ブリ ッ ソや ダントンを, 植民地問題をめ ぐる言動を理由に 「イ ギリスのス パイ」 と断定し告発した 事実はこれを裏書きしているように 思われる. その意味では, かつて G・アルディ が指摘したよう. に, 「理論家としてのロベスピエール」 と 「政治家としてのロベ スピエール」 の 二面性を看取するこ 1 0 ) と も 可 能 で あ る( .. このように, フランス革命の黒人奴隷制問題に対する対応は 「膿賭」 の連続であり, きわめて不.
(8) . 世界史認識と植民地 (m). 徹底なものであっ たが, あとから振り返るならば, のちの第二インターナショ ナルの社会主義者た ちの試金石となっ た 「植民地の放棄」 と 「植民地民族の主体性」 の問題を内在し, かつ端緒的なが. ら表出していたといってよかろう. さて, ここで革命勃発後のレナールと 皮の革命批判の問題に言及しておかなくてはならない. 『両イン ド史』の出版停止としナー ルの身柄拘束を決めた1 781年5月 25 日 パリ高等法院判決は,. 1 90年8月15日の国民議会において撤回された. これを提案したのはマルウエ である. 彼は, 『両 7 イン ド史』 を 「不朽の作品」 と賛し, 「自由の先駆者にして使徒たる尊敬すべき老人」 レナールの名. 誉回復を提案したのであった. しかし, この提案はすんなり受け容れられたのではなか っ た. 主と し て 問 題 に な っ た の は, レ ナ ー ル の カ ト リ シ ズ ム 批判 に 関 して であ っ た. デ ュ フ レ ス = デ ュ シ ェ は. 「レナールの著作の価値は認めるが, そこには, 過度にして危険な, また善良の習俗に反する意見 が含まれている. 人権宣言には遡及力がないから, レナール師がまずこれらの誤まりを認め, 撤回 することが必要 である」 と発言し, ついでクレルモンの司教 ドゥ・ボナルは, 「宗教を攻撃し, 教会 l e to ) の実例を 自体の廃止をも って誇りとする」 ごときレナールの名誉回復は 「危険な寛容 ( r ance ヨーロッ パ中に示すことになる」 として提案に反対した. 再提案を求められたマルウエは, 反対論 を考慮して, 「憲法の諸原理は政治的・宗教的意見の自由およ びこれを印刷によって発表する自由を. 祝聖していること, この自然権の行使は各市民の正当の権利を傷つけ, 国家の法に反するものでな い限り抑制されない」 などとあった原案文を, ただ 「〔パリ高等法院の〕 判決は人権宣言第10条に 銘記された自然にして時効にかかることのない人の権利に反する」 と修正し, 国民議会はこれを可. 1 1 ) 当 の レ ナ ー ルは 約 20 日後の9月 4 日 国民議会議長に宛てた書状において 決 し た の で あ る( , , , .. 議会の裁可に謝意を表明したあと,「勇敢なる友人が, 私の著作には誤まりがま ぎれ込ん でいると発 言した」ことにふれて, 「私は, 非難を免がれうることについては卒直に撤回する」ことを表明した 1 2 ( ) のであっ た (この書状は議会に報告された) . レナールの「変節」の兆しはこの時点で表面化しているが, 翌1791年には公然たる革命批判へと 転化した. 1 791年5月31日, 国民議会議長を介して議会に宛てられ代読された「訴え」は次のよう な内容 であっ た. 「私はこれま では王に 対して, その なすべきこと を話してきた. 今, 私 が人民. l ( )に対して彼らの誤まりを, また人民の代表者たちに対してわれわれを脅かしている危険 e s peup. に つ い て 語り か け る こ と を 許 さ れ た い. … … 私 は, こ の 国 が 罪 悪 に 満 ち て い る こ と に 心 を 痛 め て い. る. ……とん でもないことだ. われわれは, 哲学の大胆な概念を, 立法行為という苛酷な手段とし て提示したの ではない. それは, われわれの原理についての誤っ た解釈である. ……宗教の混乱, 市民の不和, 一方での荘然自失と他方での暴政と不敵, 民衆の暴政の奴隷と化した政府, 規律を失. なっ た兵士, 権威のない指揮官, 無能な官吏, 人民の第一の友たるべき王の苦悩, 公権力はクラ ブ に牛耳られ, そこでは無知にして無作法な人間たちがあらゆる政治問題について決議している有様 1 3 ( ) だ. -- これが, 現在のフランスの真の状況である.」 「訴え」 の朗読は, 拍手と失笑と野次 (そのなかには 「これはマルウエの報告ではないのか」 と いうのもあっ た) で幾度も中断されたが, 最後まで続けられた. 「訴え」 は結局, 「老令に免じて許. して や ろ う」 と いう ロ ベ ス ピ エ ー ルの 発 言 が 支 持 さ れ, 黙 殺さ れる こ と と な っ た が, の ち に ア ン ド. レ・シェニエは, レナール宛の書状において, 「哲学と自由の背教者」 , 「変節者」 として批難した. レ ナ ー ルの 革 命 批判 も さ る こ と な が ら, こ こ で は 次 の 点 に 注 目 し て お き た い.1791 年 5月 31 日と い. 791年5月15日の法令が国民議会で採択された直後 えば, 「有色自由人」の参政権を一部承認した1 の こ と で あ る が, 「訴え」は こ の 法 令 の こ と に つ い てま っ た く 言 及 して い な い, ま た, 同 年 8 月 22 日. 未明には じまるサン・ ドマン グ黒人蜂起の報は, 遅ればせながら, 同年末には本国に届けられ, 砂.
(9) . 浜. 忠. 雄. 糖, コーヒーなど植民地物産の欠乏=高謄もあって, 植民地問題はにわかに政治問題化することに なるが, レナールがこれについてなにがしかの論評を行っ た形跡はない. さ らに, レナールの存命 1 5 } 「ス パ ルタ ク ス の 中 に 発 布 さ れ た 1794 年 の 解 放 宣 言 に つ い て も ま っ たく 沈 黙 して い る の であ る( .. 再来」 を待望してやまず, その不可避性を確信 していた 『両イン ド史』 の叙述を知 っているわれわ れには予想だに できぬこと であり, それは事実上, 「植民地解放主体論」の放棄を意味すると考えて. よかろう. 革命期に至っ てレナールをして革命批判や「植民地解放主体論」の放棄へと導くひとつの要因を, その 「植民地解放主体論」 の論理構造そのもののうちに見出すことも不可能ではあるまい. すなわ ち, 「植民地解放主体論」 は, ヨーロ ッパへの懐疑, 不信, 無力感と表裏をなしていたという事情,. これである. 別言すれば, それは, 植民地主義や黒人奴隷制の揚棄を, 植民地を領有する本国にお ける変革との関連を無視した立論であっ たということ, さらに一般的にいえば, 「民族」 と 「階級」 との相互関連という視角を欠いた立論であっ たということを意味するであろう. 『両イン ド史』 に対する 「沈黙と忘却」 はほかならぬレナール自身によっ てなされた. もっとも 有力な協力執筆者と目されるディ ドロならどうしたろうか. しかし, 彼は1 784年にはすでに没して おり, 知るよしもない. ともあれ, レナールのこうした 「変節」 は次にみるラス・カサスとは対照 的である.. ( 3 ) バ ル トロ メ ・ デ ・ ラ ス ・カ サ ス. 近代ヨーロッ パの植民地主義的膨張・征服に対するヨーロッ パ人自身による最初の批判は, 16世. 紀の,主として スペイ ン人聖職者たちのもの であっ たが,なかでも重要なのは,「イ ンディ オの使徒」 , 「アメリカの父」 として高く評価される神父ラス・カサ ス ( 14 66年) である. 筆者は独自の 74~15 ラス・カサス研究をもっているわけではない. 以下 では, 最近のわが国での研究に依りつつ, 『両イ ン ド史』 との対比を念頭しながらラ・ ス・カサスの 「反植民地主義」 の特徴づけを試みるにすぎない. さて, 筆者はいま 「ラス・カサスの 『反植民地主義』」 と書いたが, ラス・カサスを反植民地主義. 者と規定することからして, やや検討を要するよう である, 被見の限りでは, ラス・カサスを反植 民地主義者と断定している例は稀である. ルイ ス・マルティ ンが 「残酷なコンキスタ ドルの権化た 1 6 ( )としているほかは るピサロ」 と対極をなす人物としてラス・カサスを 「痛烈な反植民地主義者」 , すべて慎重論である, 例えば, 増田義郎氏は, ラス・カサスをもって 「近代ヨーロ ッパの植民地主 義に対する最初の批判として 評価すること」については, 「ただ単に彼の行動や批判のはげしさ のみ を見ておこなうのではなく, 彼のインディ アス改革運動を支えた歴史観, 国家観を慎重に検討して 試みられるべき であり」 とし, ラス・カサスの思想と行動の意義を, 「苛酷な植民地の現実社会の問 題と真正面から取組み, ビトリアのような偉大な思想が生み出されるた めに必要な地ならしを試行 1 7 } 染田秀藤氏の場合も同様に慎重論であり 錯誤をかさねながらおこなっ たこと」 に求めている( , . 氏 は, ラ ス ・ カ サ ス の 思 想 は 「当 時 き わめ て 急 進 的 なも の であ っ た が, だ か ら と い っ て, ラ ス ・ カ. サ スを反植民地主義者 であると容易に 断定してはならない. ラス・カサ スは被征服者インディ オの 自由と生存権を擁護したが, 他方, イ スパニアの植民政策を全面的に否定したわけではない」 し, また, 「われわれはラス・カサスが16世紀のイス パニア人で, しかも, キリスト教の使命を絶対視 1 8 ) する聖職者であっ た事実を忘れてはならない」 ともされている( . ラス・カサスに対して安易に反植民地主義者の名を冠しえない中心的問題は, 彼が夢み, かつそ の実現可能性を確信していたといわれる, いわゆる 「神聖ローマ・インディ アス帝国」 と, この構.
(10) . 世界史認識と植民地 (m). 想に象徴されるラス・カサ スの国家観, 歴史観にあると思われる . 「神聖ローマ・インディ アス帝国」 とは -- 既往の研究でも必ず しも十分に解明さ れていないよ. うに思われるが, さしあたり, 増田氏の叙述に従がえば -- 「インディ オの王国の主権と自治は , 守られ F …’同時に, インディ オの諸王国の上に スペイン国王が 『多くの王たちの上に立つ神聖 , , ローマ皇帝』 として君臨する」 そのような 「 世界帝国 」 である 増田氏は , , かかる枠組み のなかで . は,「イン ディ オのユートピアは, けっ して 民主的な共和国ではなく むしろ中世的な世 界帝国のヒ , エラルキーの部分」 にすぎず, ラス・カサ スの思想はその意味 で 「決定的なアナクロニズム」 であ 1 9 ) 染田氏も ラス.カサスの政治思想を トマ り, むしろ 「うしろむきであった」 とされている( . , , ス・アキナス的制限君主論 を踏襲した 「本質的に中世的」 なものと把えている ただし染田氏の場 . 合, そのような「伝統的な規範」をもっ てラス・カサスが エンコミエンダ制を中核とするイ ンデ ィ ,. アス支配=征服に対する批判の理論的根拠としたことについてやや積極的に評価し 「ラス・カサス , はそのような伝統的 な規範をキリスト教世界という 狭い 範囲を越えて普遍化したのであり そこに , 2 0 )」 と さ れ て い る ラ ス ・ カ サ ス の 偉 大 さ が存 在 す る( .. ス ペイ ン人征服者の残虐非道を告 発し, インディ オの救済とそ の 人権の擁護を 終生貫ぬいたラ ス・カサスの行動は, 「キリスト教的良心の最初の発露」 として永久に記念されるべき であろう 反 . 面, 理想社会をか かる 「神聖ローマ・インディ アス帝国」 として描くほかなかっ た点に ラス・カ , サスにおけるある種の不徹底性を看取できるように思われる 時代的制約や彼の聖職者としての立 . 脚点を問わぬとすれば, その不徹底性は, 究極的には イ ンディ オの主体性に関する認識 態度に , , 由来すると思わ れる.. それは, かの『インディ アスの破壊についての簡潔な報告』からも 端的にうかがうことが できる . 周知のように, 『報告』 は, 征服者たちの所業を告発することによっ て 「その諸悪が根絶さ れ 新 , , 世界が救わ れる」 ようスペイン国王に進言したものであっ た (ちなみに 『報告』 は次のような言葉 , で結ばれる. 「全能なる神よ, ローマ教会のため, また 陛下の御魂が最後に救われるために 陛下 , , の栄光に輝く幸福な生活と帝国にとこしえに繁栄がもたらされますよう アーメン 」 2 1 ( ) したがっ . . ) . て, 『報告』 の主要なモチーフは, 征服者たちの 「残忍」 「板槍」 「無法」 「裏切り」 「非道」 な所 , , , , 業を詳説することにある. 筆者が注目したいのは 征服者とは対照的に イ ンディ オたちがいかに , , 「素朴」 で 「温厚」 かつ 「忍耐づよく」 , 「理性に富む」 かを叙述しながら, 随所 で, インディ オた ちによる消極的あるいは積極的な抵抗 (いわば 「原初的反抗」 ) の事実に言及していることである . たとえば, 「インディ オたちの中には, 食糧を隠したり 妻子を匿っ たりする者や 残虐 で恐ろしい , , 仕打をするキリ スト教徒たちから遠 ざかろうと山中 でひっそりと暮す者も でるようになっ た」 (邦 訳, 25頁) , 「スペイン人の手中に落ちて苦 しめられた 挙句に殺されるよりも, いっそのこといちど きに死んだ方がましだと考えています」( 105頁) , 「キリスト教徒を自分たちの土地から追放しよう といろいろ策を練っ た」( 25頁) ,「無数 のインディ オは集結し, 何日間もキリスト教徒たちに総攻撃 をかけた」( 6 「 8頁) 大勢のイ ンディ オは集結し, 妻や娘をとり返そうとしてキリ スト教徒たちのあ , とを追い, 彼らに戦いを挑んだ」( 51頁)など牧挙にいとまがない, しかも, インディ オたちがキリ スト教徒たちに対して行なう 戦争, 殺数といえども, すべて例外なく 「正当な理由と正義にもとず , く行為」 であり, 「神聖」でさえあるとされている しかしながら このようにインディ オの抵抗の . , 正当性を無条件に承認しているにもかかわらず 『報告』には スペイン人征服者たちによる不正な , , インディ アス支配を揚棄しイ ンディ オの解放を実現すべく その担い手をイ ンディ オ自身に求め , , あるいはこれと共同するという論調は発見 できない それは あながち スペイン国王への進言と , . , しての 『報告』 の性格にのみ帰 因するの ではないと思われる 染田氏によれば 晩年のラス・カサ . ,.
(11) . 浜. 忠. 雄. スは, イ ス パニア国王のイ ンディ オ支配を正当化する 基盤を, ロ ーマ教皇の贈 与大勅書よりも, イ 2 2 ).また 増田氏が引用するところによれば, ン ディ オの自発的な臣従に求めるようになるという( , , ラス・カサスは 死の前年, フ ェリ ペ2世に提出 した論文を次のように結んだという. 「イ ンディ オた ちはわれわれに対 してこの上ない正義の戦争をしかけ, われわれから土地を取り戻す権利 があり, 2 3 こ の 権 利 は 審判 の 日 ま で続く だ ろ う」 と(}. こ の よ う に, 晩 年 の ラ ス・カ サ スに は, イ ン ディ ア ス. の征 服に対する一層徹底した批判や 「理論的な深化」 もみられるとはいえ, インディ オにおける 解 放主体形成にインディ オ解放の 方途を求める論調は見出しえ ないし, 少なくとも既往の研究は問題 に して い な い. だ と す れ ば, む し ろ 次 の よ う に 言う べ き で あ ろう か. ラ ス ・ カ サ ス に あ っ て は, イ. ンディ オにおける征服や不正は, それがキリス ト教徒によるものである以上, あくまでも 「キリス ト教的良心」 によ っ て解消されなければならず, その意味で 「キリスト教徒の使命」 を自覚し, 追. 求してやまなかった, と. ところで, ラス ーカサスの歴史観を 『両イン ド史』 のそれと対比するにあた っては, 石 原保徳氏 の近業 『イ ンディ アスの発見 -- ラス・カサスを読む --』 にふれておかなく てはならない. 本 書は, 従来のわが国のラス・カサス研 究において未だ本格的に利用 されることがなく, 最近ようや くその邦訳の刊 行がはじまっ たばかりのラス・カサス晩年の大作 『イ ンディ アス史』 を駆使して, ラ ,ス・カサスの 思想と行動のうちに, 「人類史」 批判としての独自の 「世界史」 の構想が存在するこ 16世紀問題」例 の重要性をかさ とを読みとりつつ, さらに, いわゆる「 →ねて力 説されたもの である. 本書の内容を詳しく紹介する 余裕がないの で, 結論的部 分を引用するにと どめ ざるをえない, 「ラ ス・カサスは, このヨーロッパ主導による 『人類史』 造出運動の端緒に, その最前線で立ち合うこ とになる. 彼は運動の先頭に 立つカスティ リア王国の中心都市セビリヤに 生まれ, 若く して身をイ ンディ アスの空間に 投じたのである. 当時, イ ンディ アスは, ヨーロッ パ 人からみれば, 新世界と して豊かな鉱物や 『人的資源』 をひめた野心や欲望の対象と なる地域ではあったが, 『文明』 のもっ と も おく れ た 空 間 で あ っ た. しか し, ヨ ー ロ ッ パ 文 明 の 侵 入に よ り, こ の 地は, 同 時 代 に あ っ て 最. 先端の問題をはらんだ場へと転化 した. このイン ディ アスから, たえず問題をとらえかえそうとす るラス.カサス晩年の思索が, も っと鋭く 『人類史』 と対決したのも当然であ った. 晩年の大作 『イ ンディ アス史』 は 『人類史』 の批判の総 決算 であり, そこには独自の 『世 界史』 の構想がみられる. て 「独自の 『世界史』 の構想」 が可 のである.」 (傍点原文) . 石原氏によれば, ラス・カサスにおい 能となっ たのは, 彼が, キリスト教徒に よるイ ンディ アスの破壊と征服を「『無知と盲目』の増殖過 程」 ととらえ, かつヨーロッ パとラ ス・カサス自身の 「無知と盲目」 に 「容赦ない追及」 を向けた 15・16世紀 以 からであり, かく して, ラス・カサスの思想は, 同時代批判たるをこえて, 同時に, 「 降にかたちづく られてきた欧米人の世 界認識と深いかかわりをもつ近代歴史学への批判を含意する 2 6 ) も の に ほ か な ら な か っ た」 と さ れ る{ .. ラス・カサスの諸作品のうち, 『報告』 と 『インディ アス史』 の邦訳既刊 分 (第1巻) しか読みえ ていない筆 者には, 本書について論評する能力はない が, 筆者自身の当面の関心から, 石原氏が, 「後世の人々に引き渡される遺書」 たるべき 『インディ アス史』 とラス・カサスの 「世界史の構想」 が, 「後世にどのようにひきつがれているの であろうか」と問い, その端緒を, 『両イン ド史』とディ ドロ (石原 氏は 『両イン ド史』 の協力執筆 者ディ ドロが果たした役割をことのほか重視している) に見出し, 両者を対比してい る点に注目したい. 氏は「『両イ ン ド史』を読む作業がなお残されてい るいま, しばらく結論はひかえたい」 と前置きしたうえで, 次のように指摘されている. 「『しいた げられ, 抑圧された人々』 には げしく共感する 心をもつディ ドロは, 『政治家』 ラス・カサスを顕彰 発見 することは できても (あるいは, できたがゆえに) , 『歴史家』 ラス・カサスをその十全な姿で lo.
(12) . 世界史認識と植民地 (m). することは できなか っ たのではなかろうか 1 . 8世紀人でありながらディ ドロは, 彼とあまりにも同 質な世界をラス・カサ スに見出し, そのために, かえってラス・カサスにおける1 6世紀独自の問題 を見失い, 16世紀から固有の問題をうけとる機会を失いはしなかったか 『後世』は かならずしも . , 先行する過去よりも, さらに鋭い感性 を身につけ より深い認識に到達す るとはかぎらないのであ , る, 歴史家ラス・カサ スのきびしいいとなみを前にするとき そのおもいを強くする( 2 6 }」 と , . 『両イン ド史』 における世界史認識の検討を当面の課題とする筆者にとって教示されるところの. 大きいこの一文に関わって, 感想の域を出ないが 2・3の私見を述べて本章のむすびとしたい , . 第1. 石原氏が 『両イン ド史』 (あるいは とりわけ晩年のディ ドロ) に ラス・カサ スを継承す , , べき 「後世」 (あるいは, その緒) を発見しておられる点 筆者もまったく同意見であ る それは , . , 端的には 『両イン ド史』 の第3版で 「ラス・カサ ス頒」 が挿入されたという 事実によるが それだ , けではない, 「世界史」を「両イン ド」=植民地の問題を基軸に かつ批判的に叙述しようとする『両 , イン ド史』 の問題観は, 「インディ アス」 から 「世界史」 を構成しようとする 『インデ アス史』 の ィ それと同一のものであり, しかも 『インディ アス史』以降では最 初のもの であるからである 『両イ . ン ド史』 がラス・カラスを顕彰しえたのも かかる基本的視座 の一致を共鳴盤としていたからに他 , な ら な い, だ が, こ こ では む し ろ 両 者 の 間 に は 実 に 2世紀以上の時間的な隔たりが存在すること , を, 一層強調 しておきたい 私見によれば ヨーロッ パにおいては 一般に 植民地支配や 民族抑 . , , , 圧の問題に関する批判的思想の輩出は 連続性 系統性に欠け 思想的蓄積や継承性が稀薄 である , , , ように思えるのである. 石原氏が指摘される如く 「『後世』は かならずしも先行する過去よりも , , , さらに鋭い感性を身に つけ, より深い認識に到達するとはかぎらない」とすれば それは 「先行す , , る過去」 の思想的遺産を 「後世」 が目からのものとすることにおいて ヨーロ ッ パの思想は重大な , 弱点をもっていたことに帰 因する であろう しかも 間歓的にしか表わ れない批判的思潮をはさむ . ,. 中間の時代(たとえ ば, 16世紀後半から1 8世紀中葉ま で, フランス革命からマルクスの時代ま で) は, 文字通り植民地主義的膨張の時代であり (石原氏の表現を借りれば) 「無知と盲目」 が増殖さ , れる. したがって, 「後生」 の思想は白紙 の状態から構築さ れるほかないのである . 第2. ディ ドロが 『歴史家』 ラス・カサスをその十全な姿で発 見すること」 に成功したか否か , -- 石原氏は否定的に見ておられるようだが 筆者は回答を出しえない ただ これにかかわ て , っ , . 指摘しておきたいのは, 本稿でやや詳細に検討したよう に 『両イン ド史』には「植民地解放主体論」 , という, ラス・カサスには見出すことのできない (と思われる) 独自の論点が存在すること である . 「歴史家ラス・カサス」 の思想と行動のうちに 「きびしいいとなみ」 があっ たとすれば 『両イン ド , 史』 にも, 別の意味での思想的な 「きびしさ」 あるいは 「深刻さ」 を見出してよいと思われる す . なわち, 植民地黒人それ自身のうちに, 植民地黒人の解放のみならず 「人類の諸権利 の再建」 とい. う「世界史的課題」を成就すべき変革主体を求めよう とする 『両イン ド史』の「植民地解放主体論」 , は, 一面 では自らの責任の放棄 という安易さも なくはないが 他面では 啓豪思想家を含め ヨーロ ッ , , パに支配的な, 自己中心的歴史認識の否定に ほかならないから である . 第3. 『両イン ド史』 の最終篇最終章は次のような文章 で結ばれている -- 「より天分に秀で . た人物がなす傑 作によ って, 私の試論が手がけた事柄が完成さ れんことを ′哲学の庇護のもと い , , つの日か, すべての文明国民をつ なぐ連合と 慈善の鎖が 世界の端々まで拡がらんことを ′文明国 , , 民は決して未開国 民の中に悪徳と抑圧をも ち込むことがないように ′私は この幸福なる革命の時 . , にあたって, たとえ私の名 が忘れられずに残 っていたとしても それを贈りとすることはないであ , ろう. この拙ない書物はき っ と忘れ去られることだろう もしこ の書物になに程かの取り柄がある . としても, それは, より秀れた著作を生み出す緒になるというにす ぎないから しかし 少なくと . , 11.
(13) . 浜. 忠. 雄. うことができるであろう. 私は, 能力の限り を尽して, 同胞の幸福に寄与し も, 私は次のように 言. ようとし, 久しい以前からその 運命の改善を準備しようとしたというこ とを. それは, 私の如き老 ( 2 7 } 令の身にとっては, 喜びであり, 余生の慰めとなるであろう, 」 『両イン ド史』 もまた, 問題を 「後世にひきつがれるべき」 ものとしている. 『両イン ド史』 がラ ス・カサスを継承すべき 「後世」 であっ たとすれば, 『両イ ン ド史』 を継承すべき 「後世」 は, ヨー ロ ッ パ の 思 想 史に 限 定 す る な ら ば, マ ル ク ス に 求 め ら れ る の では な か ろう か, ラ ス ・ カ サ ス と 『両. イン ド史』 とマルクスとは, 植民地 (あるいは植民地問題) を視野に 入れた世界史認識の形成史に お い て リ ン ク しう る の では な か ろ う か. 本 章 は, そ の た め の 試 論 で あ っ た. 前 述 の よ うもこ, マ ル ク. スには, ラス.カサ スの作品や 『両イ ン ド史』 を (おそらくその 存在は知 っていたろうが) 利用し た形跡はない. また, 1860年代を境とする, 植民地論の訂正を旋回軸としたマルクスの世界史認識 の転換は, なによりも, 当時のヨーロ ッ パとその植民地をめ ぐる現実把握から生起したもの である. しかしその過程は, いうなれば, ラス・カサスの 「問題」 , 『両イ ン ド史』 の 「問題」 を理論的に追 体験するものであっ たと思えるのである.. 註 0余 6世紀から19世紀中葉に至る7 ( 1 ) 反植民地主義論の思想的流れや系譜を全体的に論じた研究は存在しないが,1 ’ l M I M e r e 抜粋した a r c e 主義思想にかかわるものを ,L 名の思想家の著作, 論篇, 演説などから, 多少とも反植民地 i i l l l in s on U.》,Par ect /の“”′ ! sq s # Mの× s CQ zdeL” ,1969は 参照 に 値する. s i i z e E潜りの彰; の冴えo ,《Co ,ArmandCo. 19世紀中葉を下限としていること, とりあげられる人物 の位置づけの是否, あるいは, たとえば「マルクスの反植 7年の論篇を収録するにとどまるなど, 細部にわたっては不満や異議もなくはな 3年と185 民地主義」 の項では185 8世 いが, ひとつのガイ ド,ブックとはなりうるであろう. 筆者が, 反植民地主義思想の高揚期として, 16世紀, 1 ちなみに ている 本書からの示唆によ っ 9世紀中葉を設定しているのは, ひとつには, ,本 紀, フフンス革命期, 1 . La 」( i i l 「 i i 反植民地主義諸理論の集中 i d t ) e e n a 書では, 各時期は, 「良心の最初の発露」 a crs e con丈ence , dきessousla f i 混 (L on desi i i i lon t ) al s es co esant convergencedesthes , 「フ ラ ン ス革 命下の 諸思 想の 乱」 acon us i l ec ) と特徴づけら lass e l nl onsau XIXes L mentdesop r e c e i 思潮の再分類 」( Revol 「 e 1 9 世紀における諸 on) ut , れて い る.. 8 7 969年) ( 2 ) 山之内靖『マルクス,エンゲルスの世界史像』(未来社, 1 , 毛利健三『自由貿易帝国主義』(東大出版,19 富沢 ) 他には --」 自由貿易論の再検討 , 年, とくに第2章 「イギリス自由貿易主義と 『低開発』 -- マルクス , 0号, 1968年) 植民地主義の歴史的役割 --」(『思想』53 賢治「マルクスと植民地主義 , 淡路憲治 『マルクス 1年) も参照. の後進国革命像』(未来社, 197 ( 3 ) ドイツ社会主義統一党中央委員会付属マルクス=レーニン主義研究所 「『マルクス・エンゲルス全集』 第16巻へ i頁. なお 『全集』 か ) 大月書店, 第16巻, xxv の序文」 , 邦訳 『マルクス・エンゲルス全集』(以下 『全集』 と略 , ら引用する際, 一部変えたところがある. 4 ( ) 山之内, 前掲書, 12頁. ( 5 } 1857 年 7月 か ら 1860 年 11月 に か け て, マ ルクスと エ ン ゲル スは 『ニ ュ ー・アメ リ カ ン・サイ クロ ペ ディ ア』 に. ゞ「ビルマ」 4巻所収) 『全集』 第1 , 多数の論考を書いている ( , 「アルジェリア」 . そのなかには, 「アフガニスタン」 「ポリ バ ル,イ ・ ポン テ」 な ど, ヨ ーロ ッ パ に よ る 征 服の 対 象と な っ た, ア ジア, アフ リ カ, ラ テ ン.ア メリ カ の. いくつかの国とその民族解放運動 を論じたものがあるが, 代表的には 「ポリバル・イ・ポンテ」 のように不正確 かつ誤まった人物論もある. それは, 当時普及していた文献の偏頗に起申している. 2年) 9 1号, 1 7 『歴史学研究』38 } 西川正雄 「第2インターナショナルの植民地問題」( ( 6 , 9 75年) 9号, 1 『歴史学研究』41 --」( る論争 黒人奴隷制の廃止をめぐ 地問題 -- . ( } 拙稿 「フランス革命の植民 7 16 頁. i ′ s /覆お’ i o i ”′ カメβ ′““’ ′c”′彫 琢 / .110 eかめ信用e m/ ,1961 ,P ( 8 ) A.Cesai , Par r e ″s班わけ L併用er . Lq 尺のo ,霞フ ・ロフについて」(北海道教育大学史学会 『史流』 ( ) 拙稿 「同期1 1よりも植民地が滅んだほうがよい』 というアポス1 9 17 号, 1976年). 12.
(14) . 世界史認識と植民地 (m) ” i ionno ( l o ) GHardy i tlaques t 1920 er r ee r e” ) , Robesp .12( ,A mmをs 尺 ジ山 中αmmカセ .364一369 ,t ,Pp ( 1 1 ) Aだ脳〃 尺 s Pロメセme 0 β ; ′わ′ ” e s dg お壌7ダヱ86 ′des 煽ろ ! ′お 鐸 卿/ f顔 燃 庇s αmmらだs, ′ z〆8 ”お/宅な/ ” . β昭司 の′ e r i ′ fond巷Par Mav i da l l 1787一1799 tB1ave I 1 ) ente e( Aカc i ! メe/ i B z ,Laur ,l S邑r ,XVI .82一84;尺彦初め形霜お; ,t ,PP ′ ハイの′ ′ ! f / g”γ 鰹”/ 〃/ z s ’ セ””抜の“! o′ ′言 2de/ ” 尺勿o ””o“ 野川“ α窓ed砂”な/ f 夕”β メ ル旧〃百 ” 川”“′ o〃 〆β s E旧態Gみ通用!ば ’ /〆 (ma i ノ ′ ) z r s〃 ′ ” z r Co i z s z f .1789-nov .1799 . V,p ,401 ,t. ′粥s Pαγ ( ) A’dz ′のi I 工 1 2 r鰭だs t 4; 肌o〃′ ′ I 1 ′ e i z β〃〆 では, t ,XVI . 57 , ,VI ,568 ,p ,p. ( 1 ) 屑o 3 i z″ e ! ‘”,V互Z pp.553一557 1 ( 4 ) 1791 年 5月 15日の法令については, 前掲拙稿 「フランス革命の植民地問題」 1 3頁を参照されたい. , 0~1 ( 1 5 ) フランス革命期における植民地=サン・ドマング問題に対する民衆の反応を知るための文献はきわめて少ないが, ’i Raymond Auber きd t ( ) i i 1974 (河 zふ i f s 函 尺 の電 飾i り z f oな 霞 凡mssoz z s r e ge . ,お!mm/〆ば , ,Par ,Ed , FranceEmp , 盛好蔵監訳『フランス革命下の-市民の日記』 中央公論社 1 9 )が興味深い情報を与え 8 0年 てくれている , , , 『日記』 の 著 セレ スタ ン ・ ギター ルは, サ ン・ ドマ ン グの プラ ン テ ーシ ョ ン に 投 資 して いるこ と も あ っ てか サ ン ・ ドマ ン , グ情勢と国民議会の動向を注視し, かなり詳細に記述している 例えば 彼は 17 4年2月 4日の解放宣言につい , , 9 ,. て「永く記念すべき法令」と書き (邦訳では1 8 1頁) , また同年2月18日には, 解放宣言を記念する「盛大な式典」 がノートル・ダムで行なわれ, これには, 「槍旗やプラカードをかかげた全区, 各区の革命委員会, クラブの代表の ほか, 婦人達, 鼓手, 市会議員, オペラ座の楽団員, パリ在住の黒人男女」 など 「大勢の人」 が参加したことを書 いて い る (182~183頁).. ( ) ルイス・マルティ ン, 小林珍雄訳 「植民地主義とキリスト教的良心 -- ラス・カサス没後四百年記念 --」(上 1 6 智大学 『ソフィ ア』 第1 5巻4号, 19 6 6年) , 22頁. ( 1 ) 増田義郎 「インディ オの人権問題とラス・カサス」( 7 『思想』5 67号, 197 1年) 1~65頁. ,6 1 ( 8 0 染E 日秀藤 「バルトロメー・デ・ラス・カサス -- 生涯と作品 --」( 2 )(英知大学 『サピエンチア』1 0号, 197 6 年) ~ なお 9 6 9 7頁 染田氏の前作 「 ラ ス・カサスとエンコミエンダ制の研究 『 歴史学研究 」( 』3 8 5号 1 ) 9 7 2年 , , . , では, 「ラス・カサスが本国の植民地政策に反対し, インディ オの人権拝援護運動の先頭に立ち, イスパニアのアメリ カに於ける支配の正当な梅原を否定した所に反植民地主義的態度がみられると言えよう」( 43頁, 傍点筆者)とされ てい る,. 1 ( 9 ) 増田, 前才号論文, 63~6 4頁.. 卿) 染田, 前掲 「バ ルトロ メ ー・ デ・ ラ ス・カ サ ス」( 2 ) , 95~96頁.. 1 { 2 ) ラス・カサス 『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(梁田秀藤訳, 岩波文庫) 68頁, ,1 { ) 染田, 前掲論文 「バルトロメー・デ・ラス・カサス」( 2 2 5 )(『大阪外大学報』40号, 197 8年) 1 ,7 , 81頁. ( 3 ) 増田, 前掲論文, 60頁, 2 例 参照, いしはらやすのリ 「世界史の 『深さ』 について --16世紀と 『西インド』 のなげかけるもの --」( 『歴 史学研究』440号, 1 977年) . 筋 ) 石原保徳 『インディ アスの発見 -- ラス・カサスを読む --』(田畑書店, 19 80年) 2 5~2 6頁. , 22. @の 同 上 書, 221~222頁 . 1.F.Rayna l f ( 2 7 ) G, /市昭f /なsの; s oカセP/ z″o so かね′塑像 〆 Po e d総 務qb z ems メ メ z ′ ”′ i z ′ i zのでe de s E泊り汐彰i z s dq i i s をお ,″/ De z f ギ/ i zde s ‐ ,10 ,479一480 , ,Geneve ,1780 ,t ,pp. むす び. 以上, 植民地 (あるいは植民地の問題) を基軸とした 『両イン ド史』 における世界史認識につい て, とりわけ, 筆者が植民地解放主体論と命名 した論点を中心に素描してきた 行論中で述べたよ . うに, 『両イン ド史』 における植民地解放主体論には, 理論的な未熟さ=不徹底性が存在すること , また, 著者レナールにも首尾一貫性が欠如していることは確か である. しあし, 1 8世紀後半の時点 で, かような論点が提出されていた事実は, きわめて注目に値するものと考えるのである . 『両イン ド史』 には, 他にもとりあげるべき諸問題があるが, それらについては稿を改めて考察 す る こ と と した い.. (本学助教授・岩見沢分校) 13.
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