『いてふの実』と『いちょうの実』 : 宮沢賢治と大島弓子
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(2) 『いてふの実』と『いちょうの実』 一宮沢賢治と大島弓子. 西 原 千 博. 大島弓子の『いちようの英一原作富沢賢治−』(「月刊コミックトム」1986年 3月号)は、副題にもあるように宮沢賢治の『いてふの実』(生前未発表。なお、 2つの作品を区別するために賢治の方は作品名を旧イ反名遣いとする。ただし、本文 の引用は新字・新仮名遣いとする。)をマンガにしたものである。しかし、大島弓. 子は単に宮沢賢治の童話をマンガにしたというのではなく、ほとんど原作に忠実に マンガ化しながら、そこに彼女独自の世界を作っているのである。そこで、この2. 作品を細かく比較しながら、大島弓子がどのように独自の世界を作ったのか明らか にしたい。また、2作品を比較する場合、単に作者の個性の遠いだけではなく、マ. ンガと小説というジャンルの遠いが大きく係わっていることは言うまでもない。そ の違いについても併せて考察していきたい。なお、これまで賢治の Fいてふの実』. については、先行研究があるが、大島弓子のマンガについては宮川健郎氏が「いて ふの実」(「国文学」2003年2月)において、マンガ化されていることを簡単に紹介 しているだけである。(インターネット上には、この作品及び賢治の作品との比較 について言及しているものがある。) ll. 富沢賢治の Fいてふの実』は状況を説明する語りの部分といちょうの実たちの会 話から成立しており、会話は5ケ所ある。馬場董行氏は「〈読み〉の挑戦一宮沢賢治 『いちょうの実』論」(「米沢国語国文」35号)において、これらを11のプロットに. 分けている。 本稿でも馬場氏にならい全体を11に分けて、具体的に宮沢賢治の本文を引用しな. がら、それがどのように大島弓子のマンガになっていったかを検証していくことと する。 ① そらのてっぺんなんか冷たくて冷たくてまるでカチカチの灼きをかけた鋼で す。 そして星が一杯です。けれども東の空はもう優しい桔梗の花びらのようにあや しい底光りをはじめました。 −1−.
(3) その明け方の空の下、ひるの鳥でも行かない高い所を鋭い霜のかけらが風に流 されてサラサラサラサラ南の方へ飛んで行きました。 実にその微かな音が丘の上の一本いちょうの木に聞える位澄み切った明け方で す。 いちょうの実はみんな一度に目をさましました。そしてドキッとしたのです。 今日こそはたしかに旅立ちの日でした。みんなも前からそう思っていましたし、 昨日の夕方やって来た2羽の烏もそう云いました。 大島弓子のマンガでは、この冒頭の部分は簡略化されており、「2羽の烏」も登 場しない(「昨日の夕方」なので、難しいだろうけれど)。一方で、後の③にあるお. 母さんが悲しみのあまり「黄金の髪の毛」をみんな落としたことが、いちょうの葉 の散る描写とともにここに善かれている。また、賢治の方は語り手が物語を語って いく、説明していくのに対して、大島弓子の方は「かなしいと/いちょうの木はい います」、「そのあまり/髪が全部落ちたと/いちょうの木はいうのです」と「いちょ. うの木」が主体として語っている描写になっている。 ② 「僕なんか落ちる途中で眼がまわらないだろうか山一つの実が云いました。 「よく目をつぶって行けばいいさ。」もーつが答えました。 「そうだ。忘れていた。僕水筒に水をつめて置くんだった。」 「僕はね、水筒の外に薄荷水を用意したよ。少しやろうか。旅へ出てあんまり 心持ちの悪い時は一寸飲むといいっておっかさんが云ったぜ。」 「なぜおっかさんは僕へは呉れないんだろう。」 「だから、僕あげるよ。お母さんを悪く思っちゃすまないよ。」 小説をマンガにする場合、一番大きな問題は、具体的な映像化であることは言う までもない。「一つの実」という言葉をどのような映像にするか。顔や服装など具 体的に描写しなければならない。朝を絵で示さなければならない。朝といっても人 によって無数のイメージがあり、その中から作品のイメージを措かなくてはならな い。賢治の作品には子どもたちの外見についての具体的な描写はない。読者の想像. に委ねられている。マンガではその想像の一 つを選択することになる。当然、賢治の作品 の個々の読者のイメージとは違ったものにな ることだろう。読者のイメージを裏切ること にもなるだろう。しかし、同時にそれが大島 弓子の個性を示すものであることはいうまで もない。そして、それが岡1(図像は『ロン グロングケーキJ白泉社文庫による)である。. 幼稚園、もしくは小学校の低学年の男の子が −2一.
(4) 描かれている。「いちょうの実」という言葉から想像されものとはまるで異質の世 界が措かれている。この『いちょうの実』という作品が単なる賢治の作品の絵本化 ではなく、一つの独立したマンガであることを思わせるものでもある。(『いてふの 実』の絵本は何冊もある。)また、朝は、ベッドから起きる場面で表現されている。. また、服が幼稚園のモック服のような制服を思わせる。 ただし、宮沢賢治の作品の場合、ここでは「一つの実」といい、「も一つ」と書 いてある。⑤以下では「一人」になっている。大島弓子の場合この点についての区 別はない。なぜ賢治が最初「一つ」としたのか。この後の「子ども」という言葉を 受けて「一人」としたのか。しかし、①に「みんな」とあり、擬人化はすでにその 段階でなされていたと考えられる。この点はこの作品が生前未発表のものであり、 完成稿ではない可能性もあることを付け加えておく。 また、「薄荷水」を一人の子どもしか持っていないのはなぜだろうか。先に引用 した馬場氏はこのことについて このあとすぐ語られるように「千人」の子どもがいっぺんに旅立つために、全 員に十分な準備をしきれない母親の様子も想像されよう。あるいは〈実〉の片割れ にのみ用意を施せば、それで必ず子どもらは分け与えあって共有していくことを この母は知っているのかも知れない。 と、述べている。確かに子どもたちは対になっている(いちょうの実の形態を受 けていることは言うまでもない)が、半分の子が薄荷水を持っているわけではなく、. この子だけが持っているのではないか。とすれば、むしろ、母親の子どもたちに対 する差別が読み取られてもしかたなかろう。マンガではこの点が強調されている。 図2にあるように「おっかさんは. 子供千人を平等にあつかうべきだと おもう……」という画をわざわざ措 いているのである。 この違いはあえて言えば、その前 にある「お母さんを悪く思っちゃす まないよ」という言葉が、親孝行を. 図2. 示しているが、その孝の意識が現代では薄れ、むしろ、平等の意識が強くなってい るためと想像される。二人の作者の時代の差とも言える。とはいえ、あくまでも想 像程度のものにすぎないが。 ④ そうです。この銀香の木はお母さんでした。 今年は千人の黄金色の子供が生れたのです。 そして今日こそ子供らがみんな一諸に旅に発つのです。お母さんはそれをあん まり悲しんで扇形の黄金の髪の毛を昨日までにみんな落してしまいました。 先に述べたようにこの最後の部分は最初の描写に措かれている。そして、その前 −3−.
(5) の部分については苦かれていない。単にこの場面だけではないが(特に最後の場面 に対する描き方など)、全体として大島弓子の方は母親のいちょうの木についての. 描写が少ない。これまで賢治の作品の主題として、例えば、宮川健郎氏が「子ども たちの自立と母親の子別れの主題」(「いてふの実」)と指摘しているように、母親. の存在に注目し、母子関係を中心にしたものが多い。それに対して大島のマンガで は、結果として母親の存在、ひいては母子間保という主題がが薄められているので はないかと考えられる。 (9 「ね、あたしどんな所へ行くのかしら。」一人のいちょうの女の子が空を見あ. げて呟やくように云いました。 「あたしだってわからないわ、どこへも行きたくないわね。」も一人が云いま した。 「あたしどんなめにあってもいいからお母さん所に居たいわ。」 「だっていけないんですって。風が毎日そう云ったわ。」 「いやだわね。」 「そしてあたしたちもみんなばらばらにわかれてしまうんでしょう。」 「ええ、そうよ。もうあたしなんにもいらないわ。」 「あたしもよ。今までいろいろわが偲ばっかし云って許して下さいね。」 「あら、あたしこそ。あたしこそだわ。許して頂戴。」 女の子たちは細部は違うがみんなよく似た形のワンピースを着ており、ここでも 制服を思わせる。この場面については大島弓子は大きな変更をしている。一つは引 用の最後の2行を措いていない。そして、「今までいろいろわが偲ばっかし云って. 許して下さいね。」という言葉をいささか変えて、作品の最後の方に移動させている。 この点についてはその場面の分析の際に述べるが、このこと が大島弓子の作品の大きな特徴となり、独自の主題の提示に 繋がっている。(この変更自体はすぐに気付くものであって、 すでにインターネット等で指摘されている。). もう一つ、マンガでは、さらに飛ばされていった先につい ての描写が付け加えられている。 図3には「うまくいけば/おっかさんのような/木になれ. るわ」という明るい希望を示す言葉が書かれている。これは 賢治の方にはない。この髪を三つ編みにした少女の図像がそ のような明るい言葉を言うのに相応しいものかどうかは、読 者個々の見方によって変わるだろう。ただし、この後この女 の子はみんなにおどかされていて、そのような楽天的な態度 が椰冷されているとも読める。 この後には図4のように「コンクリートに」とか「ゾンビ」 −4一.
(6) とかかなり現代的な言葉が書かれてい る。作者の違いは、当然作者の生きて いる時代の違いに繋がるものではある が、それぞれの作品の時代設定はどの ようになっているのだろうか。宮沢賢 治の作品の場合は同時代を想定してい るとしてよいだろう。一方、大島弓子 図4 の方は現代を想定しているのだろう か。服装などはたしかに現代的である。「コンクリート」なども同様である。ただし、 この部分はギャグになっているので、他の場面の描写とは質の違いが生まれている 可能性はある。物語の展開とは逸脱した場面なのであり、この場面を根拠に時代設 定を考えるのは危険があるかもしれない。むしろ、時代も場所も分からないような 世界を設定していると考えておこう。寄宿舎らしい部屋の様子といい、少女マンガ にはよくある設定と言ってしまえばそれまでであるが。 ⑥ 束の空の桔梗の花びらはもういつかしぼんだように力なくなり、朝の白光りが あらわれはじめました。星が一つずつ消えて行きます。 この場面は簡単な一コマの描写ですませている。すでに述べたように大島弓子の 場合は総じて会話の場面が中心でそれ以外は簡略化されている。 ⑦ 木の一番一番高い処に居た二人のいちょうの男の子が云いました。 「そら、もう明るくなったぞ。嬉しいなあ。僕はきっと黄金色のお星さまにな るんだよ。」 「僕もなるよ。きっとここから落ちればすぐ北風が空へ連れてって呉れるだろ うね。」 「僕は北風じゃないと思うんだよ。北風は親切じゃないんだよ。僕はきっと烏 さんだろうと思うね。」 「そうだ。きっと烏さんだ。烏さんは偉いんだよ。ここから遠くてまるで見え なくなるまで一息に飛んで行くんだからね。頼んだら僕ら二人位きっと一遍に青 ぞら迄連れて行って呉れるぜ。」 「頼んで見ようか。早く来るといいな。」 その少し下でもう二人が云いました。 「僕は一番はじめに杏の王様のお城をたずねるよ。そしてお姫棟をさらって行っ たばけ物を退治するんだ。そんなばけ物がきっとどこかにあるね。」 「うん。あるだろう。けれどもあぶないじゃないか。ばけ物は大きいんだよ。 僕たちなんか鼻でふっと吹き飛ばされちまうよ。」 「僕ね、いいもの持ってるんだよ。だから大丈夫さ。見せようか。そら、ね。」 −5−.
(7) 「これお母さんの髪でこさえた網じゃないの。」 「そうだよ。お母さんが下すったんだよ。何か恐ろしいことのあったときは此 の中にかくれるんだって。僕ね、この網をふところに入れてばけ物に行ってね。 もしもし。今日は、僕を春めますか春めないでしょう。とこう云うんだよ。ばけ 物は怒ってすぐ呑むだろう。僕はその時ばけ物の胃袋の中でこの網を出してね、 すっかり被っちまうんだ。それからおなか中をめっちゃめっちゃにこわしちまう んだよ。そら、ばけ物はチブスになって死ぬだろう。そこで僕は出て来て香のお 姫様を連れてお城に帰るんだ。そしてお姫様を貰うんだよ。」 「本流にいいね、そんならその時僕はお客様になって行ってもいいだろう。」 「いいともさ。僕、国を半分わけてあげるよ。それからお母さんへは毎日お菓 子やなんか沢山あげるんだ。」 最初の一行は会話ではないので、本 来は⑥に入れるべきものだが、マンガ ではいかにも「一番高い処」を示すか のように、「明るくなったぞ」という のが、コマの枠から上にはみ出て措か れている。(図5)そこで、ここから ¢)としたい。. ここには二つのエピソードが書かれ ている。一つは「お星さま」になると いうものと、もう一つは化け物退治で ある。まず、前者について、宮沢賢治の場合、星と言えば、すぐに『よだかの星』 が思い浮かぶ。しかし、この子どもの言葉には「よだか」のような悲壮感はない。 それは、「なるんだよ。」とこともなげに言っていることによるだろう。そこを大島 弓子はとらえてナルシズムとしているのである。それは、この子どもの楽天的なと ころを強調するためなのか、邦輸するためなのかは判然としないのだが。図5のよ. うに話を聞いた相手はずっこけて、「ナ・ナルシスト」とつぶやいている。それで も二人の繋がりには変わりがないのだけれど。 また、女の子よりも男の子の方の服装が個性的である。男の子の発言の方が個性 的で、その個性に合わせて顔や服装などの外見を措いているからなのだろう。外見 についてさらに言えば、この子どもは髪がもしゃもしゃで、これは男女を問わずこ の作品ではどこかおっとりとした、あるいはぼお一つとした子どもを表している。 もう一つのお化け退治の方について、マンガの方では「香」のお姫様が具体的に 措かれている(図6)。賢治の場合、単なるお伽噺にすぎない感があるが、こちら はお姫様が措かれることで、より現実的になっている。ただ、「ある朝見たら/お. 姫様いなかったね」とあるのは、必ずしも怪物に連れ去られたのではなく、結婚し てしまったのかもしれず、怪物退治とお姫様との結婚というのが、子どもらしい夢 −6−.
(8) であることには違いはない。 また、ここでも網を持っているのは この子どもだけである。母親はすべて の子どもに対して平等なわけではな い。. もう一つ、細かいことだが、ここで 注意したいのは、rいてふの実』では「お. 母さんへは毎日お菓子やなんか沢山あ げるんだ」とあるが、マンガの方では 「お茶やなにか」となっている点であ る。木にお菓子を持っていってもしょ うがなく、お茶の方がまだしも合理的だということだろうか(一応、お茶は水もの だから)。『いてふの実』では人として捉えられているのに対して、マンガの方では. あくまでも木として捉えられていているとも捉えられる。擬人化がされていないと いうことにもなる。実際に「実」の方は完全に子どもとして措かれているが、いちょ うの木は母親として、人物として描かれることはなく、常に木として措かれている。 このことはすでに述べたように、マンガでは母親と子どもという関係が希薄になっ ていることにも繋がっている。 ⑧ 星がすっかり消えました。東のそらは白く燃えているようです。木が俄かにざ わざわしました。もう出発に間もないのです。 この場面は前半についての描写はなく、後半のみが1ページの画として措かれて いる。. (9 「僕、靴が小さいや。面倒くさい。はだしで行こう。」. 「そんなら僕のと替えよう。僕のは少し大きいんだよ。」 「替えよう。あ、丁度いいぜ。ありがとう。」 「わたし因ってしまうわ、おっかさんに貰った新しい外套が見えないんですも の。」 「早くおさがしなさいよ。どの枝に置いたの。」 「忘れてしまったわ。」 「困ったわね。これから非常に寒いんでしょう。どうしても見附けないといけ なくってよ。」 「そら、ね。いいばんだろう。ほし葡萄が一寸顔を出してるだろう。早くかば んへ入れ給え。もうお日さまがお出ましになるよ。」 「ありがとう。じゃ貰うよ。ありがとう。一語に行こうね。」 「困ったわ、わたし、どうしてもないわ。ほんとうにわたしどうしましょう。」 −7−.
(9) 「わたしと二人で行きましょうよ。わたしのを時々貸してあげるわ。凍えたら 一諸に死にましょうよ。」 マンガではま ず、出発の慌ただ しい描写があり、 そこに靴のない男 の子や外套をなく した女の子が登場 する。(図7)先. にも触れたが外套 をなくした女の子 の髪はもしゃもしゃしている。また、みんなの服装は制服のようで、特に、この女 の子はセーラー服を思わせる服装である。そのせいか年齢も中学生程度に上がって いるかに見える。さらに、ここでも「外套がない」とだけあって、賢治の方にあっ た「おっかさんに貰った新しい」という部分が省略されている。ここでも、母親の 図7. 存在が希薄化されているのである。 この後、みんなが大あわてで支度をしている様子と靴の挿話 が措かれている。ぱんの挿話は位置を変えて最後に移されてい る。その方が外套をめぐる挿話に一貫性がでるとも考えられる。 さらに、これに続いて原作にはない子どもたちの不安が描かれ ている。(図8)「こわいわ」と旅立ちに対する不安が善かれて いるが、最後には「元気を出して!」と積極的な言葉も措かれ. ている。ここには集団としての少女たちの姿が措かれている。 母親と別れるということよりも、友達と別れることの不安が見 られるとさえいえるだろう。 そんななかで、この外套をなくした子だけが「ボー」として. 図8. いる。(図9)女の子の集団には、いつもこのように周りの行動か .. ら遅れてしまう子がいるものだ。当然そういう子が肝心なものをど こかに置き忘れてしまう。この寒さでは外套なしでは凍えてしまう。 みんな旅立ちで忙しいのだから、この子はそのまま凍えて死ぬこと. ヽ. すら想像される。図9はそんなドジな子のイメージを具体的に表し. ている。 そこに「わたしと/二人で行きましょう」と言ってくれる女の子 l. r■ が現れる。(囲10)この女の子はやさしく年上のように見える。無論、 ■−. いちょうの実たちは同時に生まれたのだから姉も妹もない。しかし、 これまで述べてきたように姉妹というよりも、生徒同士のように見. 図9. えるので、優しい先輩のようにも見える。それは、顔が似ていない −8−.
(10) という単純な理由もあるけれども、すでに述 べてきたように制服を着ているためと、この 場面があたかも寄宿舎から一斉に旅立つ少女 たちのように見えるからでもある。それはま た母親のイメージがマンガの方に希薄である ことにもよる。(それにしても、そもそも賢. 治はどうしてこのようなあたかも少女マンガ に出て来るようなせりふを書けたのだろう か。). そして、その女の子はやさしく「凍えたら /いっしょに/死にましょうよ」と言う。原 図10. 作では姉妹という繋がりにおいてこの言葉を 捉えることになるのだろう。しかし、マンガ では姉妹というよりも、先から述べているように友情として据えられるのである。 友情として捉えた方が二人の結びつきの強さが際立つ。なぜなら、姉妹なら血の繋 がりからこのようなことを言う場合もあるかもしれないが、友達のために、しかも その友達がミスをしたために「いっしょに/死にましょうよ」と言ってくれること. は希ではないだろうか。この女の子の首を少し傾けた優しげな画こそが大島弓子の マンガの本質を示している。そのせりふの後には無言で泣いている少女が描かれて いる。無論、賢治の方にこの絵に相当する描写はない。そして、この言葉のない一 枚の画が、このマンガのなかで一番心情を表している。(読者もまたこの子のよう に涙を浮かべるかもしれない。). その心憎はページをめくった次のページの最初に、外 Tl■t. さ し. ● いて h h. ■. 套の画とともに苦かれている。「許して/下さいね/あ たし/今まで/わがままばかり/いった」(図11) 言うまでもなく、この言葉は(彰に出ていた言乗である。. 大島弓子はあの場面ではこの言葉を書かずに、この最後 の場面にこの言葉を書いている。その結果、「いっしょ に死にましょうよ」という言葉に対する感動を示すもの となっている。いわば、賢治は「いっしょに死にましょ う」という女の子を措いたのに対して、大島弓子はこん なことを言われた女の子の気持ちを措いているのであ る。というより、賢治の作品を読んでその先の情景を描 いている、と言うべきかもしれない。(大島弓子にはそ の先の情景が見えていたのかもしれない。)その結果、 一. ノ Y. 園11. }. 賢治の方は単なる別れの感傷を示している感があるのに 対して、マンガの場合は特定の少女たちの強い結びつき を表すものとなっているのである。それは④にあった「あ ー9−.
(11) ら、あたしこそ。あたしこそだわ。許して頂戴。」という言葉を苦いていないこと にもよる。しかも、「今まで/わがままばかり/いった」という言葉からは、二人. の長い時間すら想像されるのである。賢治の作品にあった母親と子どもという主題、 稚の関係が、友情という主題、横の関係へと変わったと言えるだろう。大島弓子の 作品は彼女独自の主題を提示しているのであり、賢治の描く世界とは別の、独自の 少女マンガの世界を措いていたのである。 ⑲ 東の空が白く燃え、ユラリユラリと揺れはじめました。おっかさんの木はまる で死んだようになってじっと立っています。 突然光の束が黄金の矢のように一度に飛んで来ました。子供らはまるで飛びあ がる位輝やきました。 北から氷のように冷たい透きとおった風がゴーッと吹いて釆ました。 「さよなら、おっかさん。」「さよなら、おっかさん。」子供らはみんな一度に 両のように枝から飛び下りました。 この場面もマンガでは「おっか さんの木」はほんの少ししか措か れておらず、「まるで死んだよう に」という母親の気持ちを示す言 葉もなく、それに対応する図像も ない。ただ飛び立っていく子ども たちが描かれているだけなのであ る。(図12)ここでも母親の存在. は希薄なものとなっている。そし て、これまで何度か繰り返してき たように子どもたちは同じ服(外 套)、つまり制服のようなものを. 着て飛び立っていくのであり、そ れはすでに述べたように寄宿舎か ら卒業していく子どもたちを思わ せる。言うまでもなく寄宿舎とは 少女マンガに登場する常套的な場所なのである。1ページを越えて巣立っていく子. どもたちを描いているが、むしろ風に乗って楽しげにさえ見えるのである。それは この後の⑪についての描写がなくて、「悲しむ母親」のイメージがないためとも考 えられる。 ⑬ 北風が笑って、 「今年もこれでまずさよならさよならって云うわけだ。」と云いながらつめた −10−.
(12) いガラスのマントをひらめかして向うへ行ってしまいました。 お目様は燃える宝石のように東の空にかかり、あらんかぎりのかがやきを悲し む母親の木と旅に出た子供らとに投げておやりなさいました。 ⑲でも触れたように、ここについては、いちょうの木の図像と「そして/まず/ 今年も/終わるのでした」という言葉があるだけである。この言葉は一応「北風」. の言葉に対応したものとして捉えられる。しかし、「北風」の言葉には「つめたい ガラスのマント」や⑦に「北風は親切じゃないんだよ」とあったように、この場面 でも、皮肉なニュアンスが含まれているのに対して、マンガの方にはそのようなニュ アンスはなくもっと単純な言葉として苦かれている。さらに、「悲しむ母親の木」 については措かれていないのであり、ここでもこれまでも何度か繰り返してきたよ うに母親の不在、存在の希薄さが読み取れるのである。また、結果として先に述べ た、寄宿舎からの巣立ち、卒業という、むしろ前向きな、楽しそうな見方を可能に しているのである。 iii. これまで見てきたように、宮沢賢治の『いてふの実』は母親と子どもの関係が主 題となって描かれていたのに対して、大島弓子の Fいちょうの実』の方は母親の存. 在感が薄くなっていて、友情こそが描かれていると言えるだろう。それは、一つに はマンガの場合子ども個々に具体的な図像があり、個性が際立つことになったため に、兄弟ヤ姉妹という読み方がしづらくなっていることがあげられる。これは結果 としてそうなっているのか、最初から作者の計算なのか明確に指摘することができ ないが、子どもたちが同じような形式の服、制服のような服を着ていることは、作 者が意識的に兄弟というよりも友達、同級生として設定したと考えられなくもない。 寄宿舎を思わせる部屋の様子なども同様の効果をもたらしている。このことは、賢 治の童話を基にした絵本などに描かれている子どもたちとの比較によっても明かで ある。例えば、川村みづえ氏の絵による『やまなし/いちょうの実』(岩崎貴店 2004 年)では、子どもたちはみな、いかにもいちょうの実のような、まん丸顔の同じ外. 見をしており、年齢もかなり低く設定されている。このほかの絵本などでも『どん ぐりと山猫』の「どんぐり」の外見を基にしたと思われるものなどもあるが、子ど もたちは皆同じ外見である。当然「千人の黄金色の子供」という言葉からは全く同 じような外見で措くべきなのだろう。しかし、大島弓子は子どもたちの会話のなか に子ども一人一人の個性を見て、それにあわせた外見を措いている。大島弓子が単 に賢治の童話をそのままマンガにしたのではなく、そこに自分の世界、少女マンガ の世界を作ろうとしたということを示している。 この友達同士を措いているということは、子どもたちの外見だけではなく、母親 の木をめぐる描き方にも繋がっていた。すでに何度も強調したように、大島弓子は 母親の心情を示す場面を削ったりして、その存在感を希薄化させていたのである。 −11.
(13) それもごく細部においてさえ行われていたのである。それによって、母親と子供の 関係という主題自体が希薄になっていたのである。 さらに、何よりも注目すべきは、「許して/くださいね/あたし/今まで/わが ままばかり/いった」という言葉を最後に持ってきたことである。これによって少 女たちの友情がくっきりと描かれることになったのである。また(9や(勤のように原. 作にない少女たちのやりとりが書き加えられており、それによって、少女というも のが措かれたといってもよいだろう。そして、子どもたちの服装、母親の存在感の 希薄化といったすべての描写は、この言葉のためにあったと言えるのである。 すなわち、大島弓子の Fいちょうの実』というマンガは、一見、賢治の原作に忠. 実に措いているようで、実は、一つ言葉を生かすために計算されつくされたマンガ だったのである。それによって少女の友情、少女というものを措いたマンガだった のである。. −12−.
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