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アナキズム詩の地方ネットワーク : 『クロポトキンを中心にした芸術の研究』における<相互扶助>

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(1)Title. アナキズム詩の地方ネットワーク : 『クロポトキンを中心にした芸術の 研究』における<相互扶助>. Author(s). 村田, 裕和. Citation. 語学文学, 53: 11-20. Issue Date. 2014. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7650. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) アナキズム詩の地方ネットワーク 『クロポトキンを中心にした芸術の研究』における〈相互扶助〉. 村 田 裕 和. 日本では幸徳秋水や大杉栄がその代表的思想家として著名で あるが、その大杉栄が、クロポトキンの思想を紹介するかたち. 本稿では、一九三〇年代に刊行されたいくつかの詩雑誌や詩 集を対象として、 「地方」という視点からアナキズム詩を考察. のは九〇年以上前のことである。. に最も有力な進化の要素となつてゐる」(*3)と書いていた. はじめに. したい。およそ「アナキズム詩」なるものは明確に定義されて. このように、アナキストみずからも〈自由合意〉や〈相互扶 助〉を重視しており、こうした基本理解はこの百年間大きく変. で「自由発意と自由合意」が、「人類史の民衆生活の中に、常. おらず、一般に認知もされていない状況であるが、地方におけ は何か──「アナキズム」はどのような土壌に芽生え実を結ぶ. あろうか。. わらない。では、文学における「アナキズム」の場合はどうで. る創作活動と相互交流に注目することで、 「アナキズム詩」と のか──を考え直す契機としたい。. 日本における「アナキズム文学」の出現は、一九二〇年代後 半のマルクス主義文学の台頭に触発されたものであった。一九. している。また、アナキストの大澤正道も「相互の会議、自由. 組 織( ア ソ シ エ ー シ ョ ン ) や 相 互 扶 助 の 思 想 」 (*1)と要約. はじめに、政治思想としての「アナキズム」について確認し ておく。近年の研究では、竹内栄美子が「自治にもとづく協同. 『文芸解放』が創刊される。マルクス主義者たちが、異端分子. る。これに対抗する形で一九二七年一月にアナキズム系の雑誌. 雑誌だった『文芸戦線』を機関誌化したことが直接の原因であ. 芸術聯盟が設立され、それまでは思想的に幅広いプロレタリア. 一 アナキストのアナキストによる. な合意による行動、連帯感、同胞愛」 (*2)といった要素を. をことごとく排除することによって思想を先鋭化させたこと. 二六年十一月に非マルクス主義者を排除した日本プロレタリア. 指摘している。. -  - 11.

(3) 「権力否定の闘争」 を積極的に押し進めようとする意見の対立」. に単にダダイズム的、 ニヒリステックな情感だけで満足せずに、. 当時を知る塩長五郎は、マルクス主義に「対抗する雑誌」と して生まれた『文芸解放』が廃刊に至ったのは、 「従来のよう. がわずか一年の短命に終わったことも同じ理由からであった。. 出現したことがその何よりの証拠である。またその 『文芸解放』. ズム」を標榜する文芸雑誌が、右のような受動的経緯によって. したがって、多くの者は従来から政治思想としての「アナキ ズム」を自覚的に信条としていたわけではなかった。 「アナキ. と目覚めさせたのである。. が、結果として、排除された側の一部を意識的なアナキストへ. たらん事」をもってアナキズム文学の存在根拠とするかのよう. つまり一九二九年後半に至っても、「アナキズム文学」は、 運動としての組織も理論も持ち合わせておらず、「アナキスト. 還元するしかなかったのである。. 芸確立のための要件を、 「〔私が〕アナキストであること」へと. への予想」が、 「むしろまづ一人のアナキストたらん事を心掛. しかなかった。同じ第五号の佐上明子の評論「プロ文芸と将来. を持たず、その「文化運動」の内実はきわめて不十分なもので. がなされたかのようである。しかし、彼らは実質的な運動組織. 対して果敢なる対立抗争を開始した」と主張されていて、一見. ルヂヨア文化、実践的破綻に瀕しつゝあるマルクス主義文化に. な状態だった。次の二つの詩は、いずれも『黒色戦線』の巻頭. けたい」と述べていたように、当時の状況下ではアナキズム文. すると資本主義・マルクス主義双方に対する華々しい文化闘争. (*4)があったためだと証言しているが、これは言い換えれ のレベルに留まっていて、思想や理論として確立されたもので. に掲載された詩の一節である。. ママ. ば、『文芸解放』に現れた「アナキズム」は、いまだ「情感」 はなかったということであろう。塩によれば、 こうした中で 「無 が叫ばれ、やがて一九二九年二月に塩ら自身によって雑誌『黒. 俺なんだ! 俺の理想と俺の力なんだ!. 黒旗は俺達なんだ!. 政府個人主義を排し無政府共産主義へ」 (同前)という掛け声 色戦線』が生み出されるに至ったのである。. 黒旗の進むことは 俺も 俺も 俺も. 俺達の生きてゐると云ふ証拠を現してゐる事なんだ. 化運動内の整理すべき諸問題」では、 「時代の進展と共に正し. たとえば『黒色戦線』第一巻第五号(一九二九年八月)の植 田信夫の評論「矛盾と混乱を排して蹶起せよ──無政府主義文 き文化の方向を認識した全国同志の固き意志が、自由聯合の精. そ こ ら 中 か ら 自 由 聯 合 主 義 の 戦 ひ が 戦 は れ て ゐ る 事 な ん だ!. 神を基調として結びつき、 〔中略〕その支配力を全く失つたブ. -  - 12.

(4) ×××××やつちまうことなんだ!. とは正反対の方向へとそのベクトルを伸ばしていたことになる。. 「アナキズムの文学」は、 その誕生の瞬間に、〈連帯〉や〈協同〉. おれらの力はこの都会に氾濫する. かったことも当然指摘できるが、 それもまた「アナキズム」が、. 九 二 九 年 十 二 月 の 第 七 号 で 終 刊 す る。 雑 誌 経 営 上 の 基 盤 が 弱. の指導的雑誌は、どれも長続きしなかった。『黒色戦線』も一. なぜ「アナキズム」は「文学」と結びつかねばならないのか。 そうした根本的な疑問を露呈するかのように、アナキズム文学. 二 アナキズム系詩雑誌のネットワーク. 萩原恭次郎「黒旗は進む!」 ( 『黒色戦線』第一巻第二  号、一九二九年四月) おれらはおれらの力を知る. 澎湃たる街を望んで. 中央集権的な組織運動を志向すること自体の矛盾の現れであっ. 黒い黒い群集の. おれらは堅く肩を組み. た。. 誌が続々と創刊されたのである。この現象はアナキズム団体に. 二七年以降活発化し、いずれも小規模ながら数十タイトルの雑. 年草野心平が広東で創刊) 。. -  - 13. おれらの黒旗を立てゝゆく. 右の詩は、いずれも「黒旗」に自己同一化しようとする「俺 達・おれら」が歌われている。 「黒旗」はいうまでもなくアナ. 対する一斉弾圧が行われた一九三五年頃までつづいた。雑誌創. だが、アナキズム文学の活動そのものがこれで消滅したので はなかった。反対に、アナキズム詩人やそれに思想的立場の近. キズム・アナキストの象徴であり、 「黒旗は俺達なんだ」とい. 刊の状況を年ごとに示すと以下のようになる。. 局清「メーデーに」 ( 『黒色戦線』第一巻第三号、一九  二九年五月). う端的な断言は、いわば〈アナキスト宣言〉である。この宣言. 号で終刊 (. をめざす。九月『バリケード』③。. 〈アナキズム系文芸雑誌・略年譜〉 年 一月『文芸解放』創刊⑪、アナキスト文学者の統一機関. い人たちが参加している「アナキズム系」雑誌の創刊は、一九. は宣言行為そのものが宣言された内容を証明するような行為遂 行的発話であり、それはまた、その限りにおいて、他者の応答 をあらかじめ拒絶する孤独な叫びであった。後者の詩では、「お れら」の連帯が歌われているが、アナキストではない者は、路. 年 六月『銅鑼』第. 25. 傍に立ってこの「黒旗」を見送るしかない。これらの詩は、ア ナキストによるアナキストのためのアナキズム詩なのである。. 16. 27. 28.

(5) 年)⑦。同月『犀』 (山形、~. 年) 。. 年)⑦、 十月『黒色文芸』②。十二月『学. 同月『単騎』③。同月『黒旗は進む』①。七月『矛盾』 (千葉県、~ 校』(前橋、~. 29 29. 年)⑧。. 年)⑦。. 年)⑫。二月第二次『黒線』 (千 年)⑯。. 年)⑦。二月第一次『弾道』 (~. 年)⑧。同月▽満洲事変。. 年 一月▽昭和恐慌(農村恐慌) 。九月第二次『黒色戦線』 (~. この年『婦人戦線』 (~. 葉 県、 ~. (釧路・弟子屈、~. 年 一月『南方詩人』 (鹿児島、不詳) 。同月『北緯五十度』. 第一次『黒線』①。この年『馬』 (千葉県、~. 年 二月第一次『黒色戦線』⑦、統一機関を自認する。同月. 33. 31 31. 35 31. 31. 等に』③。八月『文学通信』 (~ 文学者の再統一をはかる。. 年)⑲、アナキズム. 圧)。. 年 四月『詩作』①。七月▽農村青年社事件(アナキズム弾. くの誌名を挙げている。アナキズム系詩雑誌は地方で花開いて. ( 「ききがき渓文社」)(*6)でもタイトルのみだがさらに多. (~. 36. 弾圧) 。. いたのである。. 年)⑭。十一月▽無政府共産党事件(アナキズム. すると、北は北海道から、南は鹿児島に及ぶ。秋山は別の文章. 外 に も 多 数 の 誌 名 を 挙 げ て い る。 (*5)それらの情報を総合. おける雑誌の活況に言及していて、右の年譜に含まれるもの以. にはかなりの数のぼっていた」( 『弾道』について)と、地方に. 詩雑誌『弾道』を発行していた秋山清(局清)は、当時を振 り返って、「われわれの仲間の詩雑誌と目すべきものが、地方. 地方雑誌の大部分はガリ版刷りであったものと思われる。. かの形で関係を持った地方の雑誌である。地方のものほどその. 年)⑪。九月第二次『弾道』 (~. 詳細が明らかでなく、今日では所在の分からないものも多い。. 年)⑤。. 同月『解放文化』 (~. 月『クロポトキンを中心にした芸術の研究』 (前橋)④。. ここに挙げた二十五の雑誌は、主に著名なアナキズム詩人が 関わって東京で刊行されたものと、そうした中央の雑誌と何ら. (一九八二年) 、『秋山清著作集』 第十一巻(二〇〇六年) 。. 芸総覧』上巻(一九六九年)、『プロレタリア詩雑誌総覧』. 成にあたっては主に次の文献を参照した。『現代日本文. 地は特に記述のない場合は東京。▽は事件・出来事。作. 数。特に記述のない場合は同年内に終刊している。発行. (注)誌名の下の○囲み数字は確認されている範囲での全号. 36. 年 三月『詩行動』⑦。六月『反対』③。十月『エクリバン』. 動き活発化。. 年 二月▽日本プロレタリア文化聯盟解散。左翼統一戦線の. 35. 年 二月▽小林多喜二築地署で虐殺される。六月『自由を我. 33. 年 五月▽五・一五事件。六月『アナーキズム文学』④。同. 32 33. -  - 14. 29 30 31 32 33 34 35.

(6) 記したように、「アナキズム」とは、「自由合意」や「自由聯合」. 全国の読者に届けようとしたこととは対照的であった。冒頭に. こうした雑誌刊行のあり方は、マルクス主義系のプロレタリ ア文芸誌が、組織化された講読網を駆使して指導的な機関誌を. 的なネットワーク〉と言い換えられるだろう。. が指摘できる。アナキズム系詩雑誌の〈地方性〉は、 〈脱中心. 時には論争し、時には消息を伝え合って交流を図っていたこと. 雑誌が相互に、 多角的に雑誌を交換し、 作品や文章を送り合い、. に地方で雑誌の刊行が行われていたこと。第三に、それらの詩. かったこと。第二に、中央からの指導ではなく、自発的自律的. 整理すると、第一に、中央における統一機関設立の動きが断 続的ながら続いていた(*7)ものの、その影響力は相当に弱. 性──が垣間見えてくる。. ずしも偶然の結果とは言い切れない要素──アナキズム的必然. も接続しつつ相互にネットワークを築いていく過程からは、必. しながら、地方の文芸誌が中央(東京)のアナキズム文芸誌と. 継ぐものであって、参加者の思想的立場からみても、意識的に. ていた。こうした形式は、従来からの文学同人誌の特徴を受け. しかし他方では、雑誌というメディアの刊行やその交流のあ り方において、 「アナキズム」的な実践が地方において実現し. 返しでしかなかったのである。. たが、それはアナキズム文学そのものの存在根拠の希薄さの裏. れ」はどこまでも強固な「アナキスト」でなければならなかっ. ズム文学の統一機関)に参加し、「アナキズム」を教条化する(か. 模倣でしかなかった。したがって、その組織的受け皿(アナキ. 文学を政治に従属させるマルクス主義的なプロレタリア文学の. を見てみよう。 (*8). 個人で発行した雑誌『クロポトキンを中心にした芸術の研究』. 脱中心的なネットワークの特徴をよく示す例として、一九三 二年六月に群馬県前橋市外上石倉(現前橋市)で萩原恭次郎が. 三 消息. 「アナキズム」の思想を実践したものとは言い切れない。しか. ナキズム理念の実現であるとする論理を担保するためにも、「お. を合い言葉にして、国家や宗教など、人間を支配する(と彼ら がみなした) 組織と権力を否定する思想であった。「アナキズム」 と「文学」のなかば強いられた出会いは、文学活動を、アナキ. のような)行為そのものが、アナキズム的理念と背馳するので. 評論と詩からなるガリ版刷り数十ページの薄い雑誌(それで も大変な労力だ)であるが、最初に注目したいのは、各地に散. ズム的理念実現のための手段とするよう動機づけたが、それは. はないかという疑いは避けることができない。. 息」欄には、次のようにある。. らばる仲間たちの状況を知らせる消息記事である。創刊号の 「消. 萩原恭次郎や局清の詩が象徴的に示していたように、主体的 心情的にはアナキズム文学は手段ではなく、活動そのものがア. -  - 15.

(7) 雑誌『馬』を発行していたが、一九三〇年九月に千葉県高神村. いた。 (*9). 評論によって支援し、そのため、右にあるような判決を受けて. (犬吠埼一帯)で起こった農漁民蜂起事件を『馬』誌上で詩や. 伊藤和君 懲役二年(四ヶ年間執行猶予). 千葉県に於ける雑誌「馬」の同人である両君の秘密出版、 不敬事件 田村栄君 懲役三年(東京衛戊監獄). 消息欄には、他にも、詩人仲間の苦しい生活状況が記されて いて、互いの苦境を分かち合おうとする様子が見て取れる。雑. 重要なのは、地域での活動に対する彼らの認識のあり方だ。. 誌にこうした「消息」欄があることは珍しいことではないが、. 証人として萩原恭次郎、田村栄君の証人として (伊藤君マの マ ) 神谷暢 呼び出された。. 鈴木致一君 父母を亡ひ致一君を頭に五人の兄弟で百姓す る。. 全体性に於て高めることだ。われ〳〵は特殊性を尊重すると共. 第三号(一九三二年一〇月発行)の「最近出版された詩集」 欄には、 「各地域が活発に活動することは、われ〳〵の芸術を. に、全体性をも看過してはならない。」とある。地方(地域). 草野心平君 ヤキトリ屋芳しからず。男子生る。大作君。 小野十三郎君 地図の行商をやってゐる。. ぞれの地域で詩集を刊行し雑誌を経営していて、場合によって. と、この雑誌に詩や評論を書いている人たちは、他方で、それ. 注意しておきたいのは、『クロポトキンを中心にした芸術の 研究』という前橋の雑誌が、何ら指導的立場に立っていないこ. 識していた様子がうかがえる。. 彼らが地方の活動を重視し、それをいわば文芸方法論として意. に「全体」が存在するのではない。このわずかな表現からも、. の活動が、すなわち「全体」なのであり、どこか抽象的な場所. 小林定治君 失業 この程子供生る。男子。大造君。 岡本潤君 平凡社にゐる。十時間から十二時間働かせられ てゐる。 坂本七郎君 失業中、 「第二曙 竹内てるよ君 病気依然重し、気でもってゐる。 の手紙」出す。 植林諦君 放浪中、詩集出版。. は、そこにも各地から文章が寄せられていたことである。たと. 神谷暢君 無政府主義文献出版年報出版(発禁) 南十路薫君 馘首、失業中。. 草野心平の雑誌『学校』はすでに廃刊しているが、ここには萩. えば、伊藤和は、 『クロポトキンを…』に毎号詩を送っている。. 石田小三郎君 馘首、失業中。 千葉県の農民詩人である伊藤和・田村栄らは、ガリ版の文芸. -  - 16.

(8) 要とせずに、地方同士で多元的・多角的におこなわれていたの. 著名な萩原恭次郎が求心力となったであろうことは否定でき ないが、雑誌を通した交流は、全体を統御するような機関を必. が詩や評論を寄せている。. 緯五十度』を出していた。同誌には草野心平や後出の坂本七郎. 二号に通信が載っている更科源蔵は北海道弟子屈村で詩誌『北. 原恭次郎らが頻繁に詩を書いていた。 『クロポトキンを…』第. 不足である」 ( p.22 ) と 述 べ て、 残 酷 な 生 存 競 争 に 人 間 を 耐 え させるのはそこに「生の歓喜」があるからだと考察している。. しつつ、 「社交性の起原を、単に「本能に」帰納するのみでは. 「相互扶助」を生物的本能から説いたクロポトキンの説を紹介. 求の有機的なつながりを解明しようとしたものである。 坂本は、. 扶助論』を中心にして、人間の社会性(相互扶助)と芸術的欲. 構築しようとしていた。この考え方は、ダーウィニズム的・資. 「相互扶助」を生物全般の生得的な能 クロポトキン自身は、 力(本能)と捉えた上で、それを人間社会の新たな倫理として. である。. 本主義的な競争原理に対抗して、 「相互扶助」の普遍性や優位. を生得的なものと捉える考え方は、共同体のために犠牲を強い. 「相互扶助」を生物学 坂本七郎の評論は、素朴ではあるが、 的に根拠づけるのではないやり方で社会の基本的な原理とする 方法を模索したものである。. -  - 17. 四 生の歓喜. るような全体主義的システムに容易く組み込まれてしまう。(*. 性を主張するためになされたものだった。しかし「相互扶助」. 雑誌『馬』の同人たちが、地元の農漁民たちに同情し、それ を少し離れた場所から支援したように、前橋の萩原恭次郎たち. ). も、『馬』の同人たちを少し距離を置いて支援した。この小さ な支援の連鎖は、結論から言えば、大きな運動に達することは なかったが、 ここに独自の文学実践があったことは確かである。 かつて萩原恭次郎は、有島武郎から資金提供を受けて、詩雑 誌『 赤 と 黒 』 (全四号=一九二三年一月~五月、号外=一九二 四年六月)を刊行していた。大正期アバンギャルドの先駆けと. 第 二 号( 一 九 三 二 年 八 月 ) に 載 っ た 伊 藤 和 の 詩「 赤 ん ぼ 産 る . では、坂本が述べた「生の歓喜」とはどのようなものであろ うか。その一例として 『クロポトキンを中心にした芸術の研究』. け継がれた「相互扶助」の思想は、 『クロポトキンを中心にし. 納戸の暗い板敷の上でおやぢは産婆のかはりになり. 隣りに六人目の子供が生れた」を見てみよう。. なった詩雑誌『赤と黒』は短命に終わったが、有島武郎から受. 11. た芸術の研究』にも流れ込んでいる。 創刊号(一九三二年六月)に載った労働者詩人坂本七郎(* )の「『芸術の社会性』の研究」は、クロポトキンの『相互. 10.

(9) おふくろは苦しみをこらひておまへを産んだ (これで六人の子供を持つおやぢとおふくろ) 月も星も見えないローソクを立てた納戸の板敷に 初めて 声を上げボロにくるまって おまへの泣く声がおやぢとおふくろの胸に矢張り喜びにひ びえたらうか なんとしても子供が生れるたびに死んでくれればいいって 考へも起る. 一団は育つ. そして無いものは世間の乳母車や絹の紅いウブ着やクルク ルまはるガン具. ナニ 赤んぼが産れたってお祝ひごとに何するものか. 贅沢はあっちのこと こちらは番茶でやる おやぢは世間に恥ぢるなく. ネンバリ強いやりかたで五十年を考へる. そうだ景気やお天気ばかり考へるんぢやねえ. ). 実際もっともっと沢山うまれた方が好いぢやないか こいつらが やがて. 確認している様子も印象深い。. 生を振り返り、人生のスタイルとでもいうべきものについて再 泣く声が太くボロにくるまってやがてスヤスヤ眠る. 満州事変の翌年。国内にあっては農村が窮乏を極め、それが 大陸侵略を正当化する根拠となっていく時期である。六人目の. 子供を迎える親の複雑な思いは、日本中の「百姓」たちにつな. おまへの兄弟たち 幾人の子供もかうして産れ 骨太く丈 夫になり 暗い しかし百姓はだのネンバリ強いおやぢ やおふくろのぬくもりの中に愕く程きっ揃ひ ます〳〵. -  - 18. が、胸をくんで考へてみりや矢張りそうぢやなくって生か して置かふといふことになる 「マアマア 安産でよか. 百姓の土台骨になる。(*. 納戸の暗い板敷きの上で、近所のおかみさんたちに取り上げ られた百姓の子供が番茶で祝福される様子を歌った詩である。. つた」 おふくろは床からあれこれとおやぢにさし図し 馳けつけた近所のおかみさん達がウブ湯をつかはせたり汚. 「村全体」が「一家のやうに」「相互扶助的」であると述べて. 雑誌の第四号では、匿名の同人の一人がこの詩を高く評価し、 いる。 (*. )「おやぢ」が子供の誕生をきっかけに五十年の人. その間にコンロに鉄瓶が煮立つ. 物一切かたづけてくれる. 12. 』 『サア サア お茶をのんでおくんなさい。. 13.

(10) 言い、赤ん坊を迎え入れる。本人の知らぬ間に、彼/彼女は、. がっている。それでも彼らは「景気」だけがすべてではないと. 思わぬ相手から助けられる(そのことにすら気づかない)こと. 対関係にはならない。助けた相手からは裏切られたように感じ、. た相手から(その返礼として)助けてもらうという閉じられた. ロポトキン研究』アルス、一九二〇年)。. 2 大澤正道『アナキズム思想史』 (現代思潮社、一九六七年) 。 3 大杉栄「クロポトキン総序 無政府主義と近代科学」 (『ク. 1 竹内栄美子編『コレクション・モダニズム詩誌』2(ゆま に書房、二〇〇九年)。. 注. 互扶助〉は貸借対照表を持たないのである。. は、 「近所のおかみさん達」の番茶の祝いを知らずに眠る。〈相. さえ、〈相互扶助〉と呼んでいい。生まれた六人目の「赤んぼ」. 二重の意味で救助されたのである。. おわりに 村人たちの〈相互扶助〉を引き起こし、「贅沢」 子供の出現は、 な「あっち」とは違う「百姓」としての生き方や流儀を再認識 させた。一つの命を、親であれ村人であれ、他者が受け入れる (祝福する)こと。そしてその存在を、それぞれの場所で支援 するという態度。自分の持ち場で粘り強く仕事と生活を続ける こと。これはアナキズム詩人たちの脱中心的な交流のあり方と 相似形をなしている。 坂本七郎のいう「生の歓喜」は、必ずしも伊藤の歌うような 生命の「誕生」だけを意味するとは限らない。坂本は、 「生の. 助者なしには生き残れないことは、人間の〈生〉の根源的で普. は助ける側に沸き上がるはずだ。決定的に弱いこと、脆弱で救. 古屋) 、社会詩人(名古屋) 、子供(群馬)、地下鉄(東京) 、. 児島) 、北緯五十度(北海道) 、学校(前橋) 、一千年(名. ている。「第二(八王子) 、 十二番街(名古屋)、南方詩人(鹿. 5 秋山清「 『弾道』について」 (『秋山清著作集』第十一巻(ぱ る出版、二〇〇六年)所収)に以下のタイトルが列挙され. 4 塩長五郎「「黒色戦線」について」 ( 『「黒色戦線」解説』 (黒 色戦線社、一九七五年)所収)。. 遍的な条件である(程度の差はあってもこの弱さは死の瞬間ま. 未踏地(東京) 、 壁(水戸) 、農民小学校(静岡)、 馬(千葉) 、. 歓喜」があるから〈相互扶助〉が発生するとは言っていなかっ. で続く)。隣りに寄り添って助けるということは、人間の命の. 解放自治(栃木)」 。. た。むしろ、助けを必要とする者を助けることで、 「生の歓喜」. 連続につながることを意味し、だからこそ、それは根源的な喜. 6 前掲『秋山清著作集』第十一巻所収。. びとなる可能性を持つ。この〈生〉の連鎖と地続きの救助行為 に参与するという意味での〈相互扶助〉は、したがって、助け. -  - 19.

(11) 清らの『弾道』がややそれに該当し、一九三二年の『解放. 7 アナキズム文学の統一機関は『黒色戦線』分裂の後、秋山. 照。. 以上全文。仮名遣いはすべて原文のまま。引用は戦旗復刻 版刊行会による復刻版を用いた。. 第四号、一九三二年十二月、. )。 p.36. 無木鳥「伊藤和君の詩に就いて──本誌1号2号3号掲載 の作品に依って」(『クロポトキンを中心にした芸術の研究』. 12 13. 文化』と、その後継誌の『文学通信』へと受け継がれた。 いずれも小規模な雑誌 (後者はタブロイド判) に留まった。 8 萩原恭次郎は前掲のような詩を書いて「アナキスト」とし ての自覚を強めながらも、その後は地元(前橋近郊)の村 に戻って農民たちに寄り添う詩を書いた。雑誌の主な執筆 者は、萩原恭次郎、小野十三郎、伊藤和、小林定治、坂本 七郎、杉山市五郎、大島友次郎、前田貞宗、更科源蔵、鈴. -  - 20. 木致一、秋田芝夫、竹内てるよ、猪狩満直、高山慶太郎(秋 山清)。 いては、拙稿「北総の詩人伊藤和はいかにして一揆の鐘を. 9 『馬』事件と呼ばれるこの筆禍事件および伊藤和の詩につ 響かせたか」 ( 『立命館文学』第六三〇号、 二〇一三年三月) で言及した。 。群馬県生まれ。火力 坂本七郎(一九〇七~一九六九年) 発電所の建設現場や八王子市の水道部技手、三菱重工の飛. ──蟻塚ユートピアの向 拙稿「残余としての「相互扶助」 こうへ」 ( 『有島武郎研究』第十六号、二〇一三年六月)参. 目執筆者は黒川洋。. ズム運動人名事典』 (ぱる出版、二〇〇四年)を参照。項. (一九二九年)に個人詩誌『第二』を刊行。 『日本アナキ. 行機製作所などで働く。萩原恭次郎に心酔し、八王子時代. 10 11.

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