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旧慣温存の臨界 : 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」 利用統計を見る

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旧慣温存の臨界 : 植民地朝鮮における旧慣温存政

策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」

著者

吉川 美華

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

49

ページ

64-43

発行年

2014

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007388/

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旧慣温存の臨界

− 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」−

吉 川 美 華

はじめに 本稿の目的 本稿は植民地朝鮮における親族相続をめぐる 朝鮮総督府の司法政策に対する評価を再考する ための視角を提供することを目的としている。 1912 年に施行された朝鮮民事令は,第1条 で日本法の「依用」1を規定する一方で,第 11 条では朝鮮人の能力,親族及相続に関する規定 について例外的に日本法を適用せず慣習に依る とする「旧慣温存政策」がとられた2。しかし ながら第 11 条は改正する可能性があることに より,旧慣習の法的効力を調整し,結果として 皇民化とのバランスを自在に操作することを可 能にする側面を持つ条項となり,正反対の二つ の批判を生み出す原因となった。 一つ目の批判は旧慣習そのものが日本の統治 によって歪曲されてきたとの指摘であり,日本 人司法官の旧慣習の扱いをめぐるもので,植民 地政策に対する批判の主流といえるものであ る。もう一つは反対に旧慣温存という建前が統 治する側とされる側の立場の固定につながった とする旧慣温存政策そのものを否定的にみるも のである。 前者の立場からは,朝鮮総督府と内地議会と の権力バランスの変化によって,朝鮮民事令 は当初の朝鮮旧慣主義から日本民法主義へと 変更され,旧慣習をめぐる方針に一貫性がな かったことが指摘され[李昇一 2003], 朝鮮 民事令の第 11 条の 1939 年の改正や,慣習に 違背する判決が下されたことが「慣習の歪曲 行為である」[鄭肯植 2002:282-329,李丙洙 1977:147-169]と批判された。 特に 1939 年の改正に対する代表的な批判 は,「家が血統的連続性の媒体である戸主相続 を通じた男系の単線的かつ連続的に父系継承制 度を支える機能によって,男性戸主を中心とし た一つの小規模核家族を形成し,弛まなく広が る原理をとおして,朝鮮に従来あった宗法的家 族制度が持っている大家族主義的要素を制御し 戸主とその家族だけを家族と制度化する小家族 主義的性格を持つものへと転換した」との指摘 が挙げられる[홍양희 2005:167-205]。 また,日本主導の旧慣調査が判例の基準に なることで,解放後の韓国の民法典で成文化 さ れ る ま で に 影 響 力 を も っ て い た[ 尹 大 成 1992:37-72]との指摘がなされている。 反対に旧慣温存政策そのものを批判する立場 からは,この政策が統治する側とされる側とを 分かつ指標となったことを前提に「朝鮮民事 令第 11 条の『慣習』と呼ばれるものが朝鮮時 代,あるいは韓末の遵守規範ではなかったの にもかかわらず,朝鮮民事令第 11 条によって 「慣習」の温存は朝鮮民衆に積極的に肯定され 歓迎したかどうかは疑わしい。さらには,朝鮮 の慣習が強固に「守られていた」のは他でもな い植民地期の前半 30 年間であった」[李丙洙 1976:147-169]とするものである。 この指摘は,先の慣習の歪曲とも連続性を持 つもので,その基底にあるものは,朝鮮総督府 が何を以て慣習とみなしたのかといった,現代 韓国で自明視される「慣習」に潜在する不確か さへの指摘でもある。

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− また,この批判が朴正煕政権期における日本 型の経済政策を進めていた,韓国社会が近代的 なものに価値を置く時期においてなされた少数 派の見解であり,現在の韓国の世論とは正反対 であることも注目に値する。 一般に外地における旧慣温存政策は,被統治 住民のそれまでの営みを表面上は尊重すると いった統治側の意向を示すことで,被統治者の 精神的な安定を維持し,このことが植民地社会 の安定へと繋がると認識される。これらは支 配上のコスト削減につながり,住民の反発の抑 制,さらには統治側と被統治側の序列を維持す る意味で統治側には大変都合の良い統治戦略で ある。イギリスのインド,エジプト統治にその 前例があり,当時の日本人知識人の間でこうし た認識は半ば常識のようなものであった。こう した点から見れば旧慣温存政策が後の韓国に負 の影響を与えたとした李丙洙の批判は極めて重 要な意味を持つといえよう。 では、朝鮮総督府は慣習をとおして属性によ る差異化に重点を置いていたのにもかかわら ず,なぜ日本の植民地統治が長らく「同化政策」 であると名指されていたのか。 その原因は,創氏改名というインパクトの強 さと,旧慣温存政策と,「同化政策」あるいは 皇民化政策の代名詞である創氏改名という正反 対の性格を持つ政策が実は朝鮮民事令第 11 条 という,たった一つの条項によって操作されて いたことにある。そのため,これまでの研究で は旧慣温存政策と皇民化政策を分離して分析さ れがちであった。 例えば,創氏改名のみに焦点を当てた論考で は,宮田節子らによって政策過程から創氏改名 が徴兵制を目的としたことを明らかにされてき た[宮田節子,金英達他 1992]。水野直樹は 政策過程で戸籍内の小家族で動員をかけるほう がより統治を速やかに進めることができると いう意図から宗族と支家を分離することを目 的としていたことを指摘している[水野直樹 2008]。近年の論考では青野正明が総督府の創 氏の目的が種類の少ない朝鮮の姓に対し,氏を 以ってその種類を増やすことであったとしてい る[青野正明 2012:147-175]。 こうした先行研究の問題点を踏まえ,本論文 では旧慣温存政策と皇民化政策について,改め て朝鮮民事令第 11 条の枠組みの中で捉えなお すことで,総督府側が政策の矛盾をどのような レトリックによって解消し,朝鮮人がそのレト リックをどのように利用したのかを明らかにす ることで,この法律の効果を再考することとす る。 第1章  旧慣習について ① 旧慣温存政策の背景 日本主導による韓国民法典の編纂は,当初は 治外法権の撤廃を目的に,国籍に関係なく韓国 内の居住者を対象としたものであったた。しか しながら韓国の日本への司法権委託に伴って 韓国人のみを対象とした簡略なものへと変更さ れ,さらに韓国併合3を機に民法そのものは編 纂せずに朝鮮民事令によって日本民法を「依用」 し,条項の一つに朝鮮人相互間の法律行為は慣 習に依ることと規定されることになった。この ように,編纂事業そのものが周辺の状況に左右 されつつ段階的な変更を余儀なくされた経緯が ある4 朝鮮民事令は,その一部に属人的な条項を挿 入することで,一つの法律によって日本の民法 を日本人と朝鮮に住む外国人に適用し,朝鮮人 に対しては日本民法の適用を除外することを可 能にした。かわりに慣習温存の建前でこれまで とは「変化のない」生活を朝鮮人に提供するこ とで,朝鮮人が排除の論理を意識せずに受容す ることを容易にした。しかしながら,こうした その時々の都合による改正を通じた旧慣習の適 用範囲を調整する制度設計は植民地統治が長く なるにつれ足枷となってきた。それがまさに 1939 年の朝鮮民事令の改正,創氏改名へとつ

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− ながることになった。 朝鮮での旧慣調査が明治日本の旧慣調査と決 定的に異なるのは,韓国法典の編纂を目的とし ていたとはいえ,その関心が日本との違いを明 確にすることに集中していた点にある。同じ儒 教的な基盤を持つ日本であったからこそ,文化 の違いを強調することは民族間の序列を形づく るための必須要件であった。本論文との関係で いえば,日本の場合,婚姻によって妻が夫の姓 を名乗ることが正式に規定されたのは旧民法制 定以降のことである。それまでは夫婦は「別氏」 でもよかったが,夫が家督を相続した場合,妻 は夫の氏に従うとしたものであり,明治民法が 制定される 1890 年までは効力があったとされ る。明治民法の夫婦の氏の導入経緯を考える と,1905 年以降の朝鮮における旧慣調査にお いて,日本との「違い」が姓不変 ・ 同姓同本不 婚 ・ 異姓不養といった「姓の原則」に集約され たことは,日本の朝鮮に対する「先進性」への 焦りが見て取れる部分でもあろう。 さて,旧慣調査に深く関わった当時の法部次 官であった倉富勇三郎は朝鮮民事令の制定につ いて法官を前に行った演説で,その主旨を,国 籍によって適用する法律が異なっていた不便を 改め,朝鮮民事令の制定によって国籍に関係な く法の適用が可能となったとし,さらに旧慣を 温存する目的で第 10 条から第 12 条のような 特別法規を設定する理由を次のように説明して いる。 朝鮮ノ法規ヲ統一スルニ付テ固ヨリ一定ノ方 法アルニ非ス。例ヘハ特ニ朝鮮ノミニ施行スル 為新ニ法規ヲ制定スルモ一ノ方法ナリ。又朝鮮 ノ為ニ特別ノ法規ヲ設ケス内地ノ法規ニ依準ス ルコトト為スモ亦一ノ方法ナル為,内地ト朝鮮 トノ間ニ非常ナル事情ノ相違アリ絶對ニ内地ノ 法規ニ依リ難シトスレハ固ヨリ朝鮮ノ為ニ特別 ノ法規ヲ設ケカルヘカラサレトモ,内地ト朝鮮 トハ此ノ如ク事情ノ相違アルニ非サルヲ以テ新 令ニ於テハ民事刑事トモ大體ニ於テハ内地ノ法 規ニ依リ其ノ法規中朝鮮ノ事情ニ適セスト認ム ルモノニ限リ特別ノ法規ヲ設ケタリ5 つまりどうしても内地の法律は適用できない ような状況であれば新たに法を起草しなくては ならないが,大体においては内地の法で通用す るので,どうしても適用できないもののみ特別 の法規を設けたというのである。 そしてその特別法規として「慣習」を採用し たことについてはこう記している。 慣習ヲ破壊シ極端ニ法規ノ統一ヲ圖ルハ,啻 無益ノコトナルノミナラス,實ニ有害ノコトナ ルヲ以テ,朝鮮人相互間ノ法律行為ニ付,法令 ノ規定二異ナリタル慣習アリ,而シテ其ノ規定 カ,公ノ秩序ニ関スルモノニ非サルトキハ,健 全規定シ適合セサルモ其ノ慣習ニ因ルコトト為 セリ,又朝鮮ノ人事関係ハ内地ノ人事関係ト類 似シ其ノ間非常ノ差異アルニ非サレトモ,朝鮮 人ニ對シ直ニ民法ノ規定ヲ適用スルハ,或ハ實 際ニ適セサルノ處ナキニ非サルヲ以テ,能力, 親族及相続ニ付テハ民法ノ規定ヲ適用セス朝鮮 ノ慣習ニ依ルコト為セリ6。(傍線筆者) つまり,朝鮮の人事関係,即ち親族規範は内 地と類似していて大差はないが,そのまま適用 すべきではないものが「無いわけではない」と の理由から,能力,親族相続の例外を認めたと のことである。 しかしながら倉富は併合直後には,これとは 反対の見解を示していた。 其習慣法の如き一見多々あるかの如くなれど 実際法として認むべきは何程もあらざるが如 し,又親族関係も日本とは非常に異なれるごと きも朝鮮は喪服の制を標準となすが故に実際に 於ては日本と格別の相違なき等法典制定上別に 困難を感ずる事なかるべし7 倉富は,異なるように見えても基本的には喪

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 服の制が標準となるので日本民法の身分法分野 の朝鮮への適用が可能であることを示唆してい たのである。それが二年後にはそのまま適用す べきでないものが「無いわけではない」といっ た消極的な理由で民事令では慣習が採用されて いる。こうした見解の変化からは、この間に旧 慣をめぐって総督府において何らかの方向づけ がなされた事が示唆される。 ② 旧慣習における血統重視の構造   旧慣習の解釈の過程で血統が過剰に意識され たことは注目に値する。朝鮮の親族相続規範の 礎とされ,日本とは決定的に異なるとされたの が,先に示した生物学的な血統をめぐる論理, まさに「姓の原則」であった。 こうした認識をよく表しているのが『旧慣調 査報告書8』である。その代表事例である『報 告書』の「子が入る家」では「子の入る家如何」 [報告書 :280]との問いに対し,大明律刑律犯 姦犯姦ノ条「姦生男女責付姦夫收養」の部分が 強調されている。 この解釈は明治期に同じ儒教的な徳目を掲げ た日本の「イエ」とは大きく異なることを示し た部分である。 「教育ニ関スル勅語」(以下教育勅語)に掲げ られた儒教的な徳目は「イエ」を支える理念で あり,「イエ」は,近世においては,父系相続 をはじめ末子相続や母系相続などの多様な相続 形態が存在したのに対し,明治民法において 父系相続に一本化したという点で,近世のイ エとは断絶性をもつものであった[上野千鶴子 1994:69-104]。さらに,民法典論争でも知ら れるとおり,万世一系の皇位継承を中心におき 血統の名の下に日本のイエ制度が語られた一方 で,血統を重んじる祖先崇拝の念は,「祖先ヲ 一ニスルト云フノ精神」の下で生物学的な血縁 を捨象し,観念によるイエの統合を可能として きた[與那覇潤 2009:116-117]。 同様に,朝鮮に 17 世紀ころに定着したとさ れる朱子学は,宮嶋博史によれば,日本と同様 に孝といった精神的な紐帯で父子関係を規定さ れていたことが指摘されている。宮嶋は母子関 係こそが自然であり,父子の関係は意思的な関 係である,だからこそ朱熹らが母子の自然な関 係にもたれかかる意識を打破し,父子の関係を 基礎に社会秩序を構想し,強い意志関係の基点 としたとされるとする[宮嶋博史2010:58-65]9 つまり母子の生物学的な自然に対し父子の精神 的な意思のつながりといった関係が重視された のである。 にもかかわらず日朝共に儒教イデオロギーを 国家の礎としつつも,日本が朝鮮の後進性の象 徴として持ち出したのが,朝鮮(あるいは西洋 と中華世界)には存在し,日本では相いれない とした世代承継における生物学的な血脈の論理 である。 この論理を支えるのが「血縁」あるいは「親 族関係」こそが人類社会の最も古い結合形態で あるとした認識[瀬川昌久 2004:65],つまり 「自然の関係」の強調であり,日本の封建制に よる地縁といった意思によって発達した関係と 対照的なものと位置づけることであった。 こうした「旧慣習」の解釈の在り方は,浅見 倫太郎によって早くから指摘されていたよう に,多様な地域の実地調査や,朝鮮王朝実録な どの実際の記録ではなく,その大部分を法典, あるいは朱子家礼のような手引き書に依拠して いたことにある[浅見倫太郎 1922:380-381]。 日本主導の旧慣習調査は,1926 年の時点にお いてもその調査作業量の膨大さを理由に,王 朝実録や承政院日記といった朝鮮時代の事情を ふまえた記録を参酌していないことが,総督府 の事務官によって「頗る遺憾」とされていた10 朝鮮での旧慣調査は,文書や調査をもとに慣習 認定を行ったものの,その資料の取捨選択にお いては,王朝実録や調査そのものは重視せず, 国制書に過度に依拠した傾向が見られたため に,当時の朝鮮人や朝鮮に居住する日本人が認 識するものとは異なっていたことが先の浅見か

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− らも指摘されたところである。 さらに日韓併合以降に行われた裁判上の慣習 の認定は「職権ヲ以テ之ヲ取調フルコトヲ得ヘ ク其ノ判断ハ當事者ノ供述証拠調ノ結果如何ニ 拘束セラルルコトナキモノトス」11とした判例 でも明らかなように,裁判所が当事者の証拠に 優先する権限をもっていた。 こうした構造下にあった旧慣習の認定方法は 一旦「朝鮮の慣習」であると名指されてしまえ ば,司法の立場からの撤回や訂正が無い限り法 的な効力を持つ「慣習」と認めるよりほかなく, 統治する側とされる側の認識のずれが「旧慣習 の歪曲」という批判を生み出したともいえるの である。 第2章 朝鮮民事令の制定と改正 ① 朝鮮民事令の制定   韓国併合後の 1912 年 3 月,朝鮮総督府は 朝鮮民事令を制定した。これは植民地統治下の 朝鮮における民法の役割を果たしたもので,同 年に制定された朝鮮刑事令と並ぶ重要な法令で あった。日本は韓国併合当日に制令によって 「朝鮮ニ於ケル法令ノ効力ニ関スル件」(勅令第 324 号)を公布した。朝鮮民事令は親族相続 法の分野を含む民事分野の法令として植民地統 治下で実効的に機能していくことになった。 朝鮮民事令は全 82 カ条から構成されており その冒頭「第1条 民事ニ関スル事項ハ本令其 ノ他ノ法令ニ特別ノ規定アル場合ヲ除クノ外左 ノ法律ニ依ル」とした上で,民法,商法,民事 訴訟法をはじめとする各種の日本法の依用を定 めている12 以下,第2条以下第9条まではこれらの日本 の法規を朝鮮に適用するための「読み替え規定」 を定めている。このように日本の民法の依用を 基調とする一方で,家族や親族・相続に関して は旧来の慣習にみられないものを例外として, その他は内地の民法によらず,朝鮮の旧慣習を 以てそのまま法となすべきものと定めた。 第 10 条と 11 条は以下のように規定されて いる。 第 10 条  朝鮮人相互間ノ法律行為ニ付テハ 法令中公ノ秩序ニ関セサル規定ニ 異ナリタル慣習アル場合ニ於テハ 其ノ慣習ニ依ル。 第 11 条  朝鮮人ニ関スル前項ノ事項ニ付テ ハ慣習ニ依ル。   朝 鮮 民 事 令 の 12 次 に わ た る 改 正 の う ち, 第 11 条 は 1921 年, 翌 1922 年,1933 年, 1939 年 の 4 度 改 正 さ れ て い る。1912 年 と 1922 年の改正は当時設置された「朝鮮民事令 及び民籍法改正調査委員会」の立案に伴うもの である。1933 年の改正は,地方制度の改正に 伴う,他の法規との整合性を確保するための極 めて限定的なものであるため本論文では触れな い。1939 年の改正は日本の戦時体制が本格化 する中で実施された極めて大幅なもので,朝鮮 の慣習上はそれまでみられなかった異姓養子の 容認や氏の創設など大幅な家族・親族制度の見 直しが盛り込まれた。このときの改正は,朝鮮 人に適用すべき「親族法及び相続法の全般的立 法」のために設けられた「司法法規改正調査委 員会」の立案によるものであった。   ②「手続法」の変遷過程   また,朝鮮民事令を具体化したのが人の登録 方法であった。 朝鮮時代には戸籍制度が存在した。徴用,身 分異動の制限,科挙応試の資格の確認などを目 的としていたが,庶民に対しては徴用と身分異 動の制限がその中心となった。 韓国併合以前は,まず,朝鮮末の 1896 年に 「戸口調査規則」が発布された。その第3条に おいて「戸主ノ父母兄弟子孫各戸ニ分居シテ戸 籍ヲ別有スル時ハ該籍内ニ填入シテ人口畳載セ サラシメ一戸主他戸ニ別居シ戸籍ヲ異ニスル時

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− ハ該籍内ニ原籍地名ヲ註明シテ考閲ニ便ナラシ ム」とし第4条においては「人民中ニ無家無依 ニシテ原籍ヲ成サス族戚知旧間ノ戸内ニ寄居ス ルモノハ寄口ニ参入シテ人口漏落スルコト無カ ラシム」13と戸主の父母兄弟子孫であっても分 居していれば別戸籍とし,親族関係になくとも 寄居するものは寄口に登録しており,住まいに 準拠した戸籍であった。 韓国併合直前の 1909 年には民籍法が施行さ れ,警察主導で民籍調査が行われた。民籍は戸 主との関係から成員が登録されるものと規定さ れた。その範囲には制限が設けられず,従来 , 人数のみの記載に留まっていた奴婢などについ ても,戸主との扶養関係があるものは戸主と同 一民籍とし,独立した生計であれば別に民籍を 作成するとした。また仮に長男であっても親と 別居している場合は本人の意思によって同じ民 籍に登録するか,別の民籍とするかが決められ た[民籍事務概要:38]。  民籍法は 1915 年の改正に伴って警察から司 法部へ移管された。生計によって戸籍を作成す る方針は引き継がれたものの,その意義を「家 トハ戸主及家族ノ団体ニシテ人ノ居住ニ供スル 家屋ノ謂フニ非ス」と,登録は同居を基準とし ないことが明示された。直系尊属については「戸 主ノ遡リタル本流ノ血統」,直系卑属について も「戸主ノ流出シタル本流の血統」,傍系親と は「戸主ト同一ノ始祖ヨリ流下セル血流」と定 義され14,司法制度が規定する人間関係が民籍 内の戸主との血縁関係を中心とする方針とする ことが明示された。 朝鮮時代の住まいに準拠した戸口から,血縁 関係に無くとも扶養を紐帯とした韓国時代の民 籍へと枠組みが変更され,さらにこの度の改正 で戸主との血縁関係による民籍へと変化したの である[吉川美華 2009:166-167]。 この改正によって,1912 年に施行された朝 鮮民事令第 11 条の規定に従い,僧侶による祭 祀,財産相続を目的とした異姓養子も含め「旧 慣習」に依って,血縁関係にない收養子15 届け出は不受理として扱われた。一方で,妾 については従来関係のある男子(夫)を戸主と していたのに対し,新たに作成する場合は同一 生計であっても妾の生家の民籍へ登録され,さ らに挙式後であっても婚姻年齢に満たない男女 の子は庶子として扱い,婚姻の届け出が可能に なった時点で嫡出子と改めるといった旧慣習の 「弊害」とされた部分を改める方針をとったた め,民籍における夫婦は規定された婚姻関係に よってのみ登録された。また扶養関係から,そ れまで認められていた非血縁者の登録は,この 改正で除外されることとなった。 戸籍とは別に,朝鮮では従来から,すべての 宗族ではないものの,宗族ごとに関係図である 族譜を編纂していた。宗族は宗族財産を核とす る団体,国家と「家族」の中間団体という大 まかに二つを基本的な機能とし[松原健太郎 2008:190-191],宗族の実質的なネットワー クは「族契」によって運営された。またこれ以 外にも属性による契ネットワークが公共事業, 扶助,産業,金融,娯楽を目的とし多数存在し ている16「官による個々人への保護が欠落した 儒教社会」[與那覇潤 2013:35]において戸籍 をもとに課せられる税への対策としても契を通 じた相互扶助機能が作用し,朝鮮時代には日本 のようなムラ単位ではなく,自発的,意識的な 契ネットワークが地域を超え構成され,生活に 密着した経済活動の重要な役割を果たしてき た[宮嶋博史 2011:83-88]。個々人にとって は徴用,あるいは身分異動の制限といった活動 の抑制を目的とする戸籍に対し,契はそれに対 応するための行政の管理下にない自発的なネッ トワークであり,「家族」は国家よりも相互扶 助機能を持つ宗族と強く結びつく構造下にあっ た。 こうした観点から民籍法の 1915 年の改正 は,住居から血統へその原理を転換したことで 朝鮮の旧慣習に沿う制度のようにも見えるが, 本質は朝鮮時代から存在する宗族集団におけ る,宗家,支家をそれぞれの民籍で分離するこ

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− とを果たしたことにあり,形式上は共同体から 独立し民籍内でのつながりを重視する日本の戸 籍制度に近づけたものであった。 ③ 朝鮮民事令第 11 条の 1921 年改正 朝鮮民事令の第 11 条は旧慣温存政策上不都 合の有る場合,日本民法を適用することが規定 されていた。冒頭にも記したとおり,この条項 の改正によって日本民法の適用範囲が調整され た。 1921 年に実施された改正では,制令第 14 号によって,第 11 条を「朝鮮人ノ親族及相続 ニ関シテハ第一条ノ法律ニ依ラス慣習ニ依ル但 シ親権,後見,保佐人及無能力者ノ為ニ設クヘ キ親族会ニ関スル規定ハ此ノ限ニ在ラス」とし, 慣習に依る範囲を若干縮小した。 具体的に日本民法から依用することになった 条項は,能力(第3 ‐ 20 条),親権(第 877 ‐ 899 条 ), 後 見, 保 佐 人( 第 900 ‐ 934 条)および無能力者のために設ける親族会(第 949 条)などである。 改正案の理由書には「従来朝鮮人ノ能力ニ関 スル事項ハ朝鮮民事令第 11 条ニ従ヒ慣習ニ依 ルヘキモノト為シタルトモ年齢ニ関ル無能力者 ヲ認メスシテ幼年者ノ能力モ一ニ事実ニ基キテ 其ノ有無ヲ判識スヘキモノト為ス如キ又浪費者 ノ能力ニ制限ヲ設ケス其ノ濫費ニ対シ全ク救済 ノ途ヲ掻ク如キ其ノ他無能力者ノ保護機関ニ関 スル制度ノ不備ナル如キ到底時世ノ要求ニ順応 スルヲ得サルモノアルヲ以テ朝鮮人ノ財産保護 其ノ他ニ関シ,今日ニ於テ適当ノ法制ヲ定ムル ハ是ヲ緊要ナリト認ムルニ由ル」17と記されて いる。能力を慣習に依るとしたら,具体的な要 件で無能力者を認めないことで生じる,幼い子 の法律行為や浪費者による家族の財産の喪失の 問題が多発したのでこれを回避することを目的 としたというのである。 この改正の趣旨は,民事令での他の分野とは 異なり,慣習法に代わるような具体的な事例が 無いために規定しなかったことが,社会的な弊 害の増加につながったために,慣習に代わって 日本民法の規定を依用したというものである。 能力については対象が社会における弱者である ため,日本法規による代替に比較的反発が起こ りにくかった。ただ,この後に続く改正でも,「慣 習を墨守することによる弊害」を指摘し,日本 の法規を代替するというパターンが続く。 ④ 朝鮮民事令第 11 条の 1922 年改正 1922 年 12 月の改正(施行は 1923 年 7 月) において第 11 条は「朝鮮人ノ親族相続ニ関シ テハ別段ノ規定アルモノヲ除クノ外,第1条ノ 法律ニ依ラス慣習ニ依ル。但シ婚姻年齢,裁判 上ノ離婚,認知,親権,後見,保佐人,親族会, 相続ノ承認及財産ノ分離ニ関スル規定ハ此ノ限 ニ在ラス,分家,絶家再興,婚姻,協議上ノ離 婚,縁組及協議上ノ離縁ハ之ヲ府尹又ハ邑面長 ニ届出スルニ因リテ其ノ効力ヲ生ス」と改めら れた。 このときも各種,日本民法からの依用がな されており,具体的には,婚姻年齢(第 765, 780,781 条),裁判上の離婚(第 813 − 819 条),認知(第 827 − 836 条),親族会に関す る条項のうち前回の改正時に依用されなかっ た部分(第 944 − 952 条),相続の承認(第 1017-1037 条,ただし第 1020 条を除外)お よび財産の分離(第 1041 − 1050 条)の各条 項である。同時に従来の「分家,絶家再興,婚 姻,協議上ノ離婚,縁組及協議上ノ離縁」など の事項に関しそれまでの事実主義を申告主義に 改めた。 この改正の要点は「婚姻年齢」「裁判上の離 婚」「私生子の認知」「相続の承認」「申告主義」 であるが,今回の改正の結果「…実施後今タ3 歳ニ満タサルニ朝鮮人ノ現代社会生活ニ順応シ 其ノ人事関係上ニ一大進展ヲ画シ民人ノ福利増 進ニ多大ノ効果ヲ挙ゲツツアリ殊ニ其ノ顕著ナ ルハ裁判上ノ離婚ナリトス…以下略」18と帝国

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 議会に報告されており,併せて 1924 年に届出 がなされた前年比の離婚数を紹介している。 これら朝鮮総督府側の報告には,当時は日本 側に,そしておそらく朝鮮人にとっても曖昧な ベールに覆われていた慣習を明文化することへ の強い意欲が感じられる。さらにこの明文化と いう行為を通じて日本法に近づける意図も並行 して存在していたこともまた汲み取ることがで きる。 確かに「養子縁組」や「私生子の認知」と いった項目は,朝鮮人が慣習として営んできた 行為を明文化したものに過ぎない。しかしなが ら一方で議会報告書に記されているように,そ れまで朝鮮の慣習上はなかった裁判離婚などが この間に認知され定着したと日本側は認識して いる。この時期の日本側の対応では,親族規範 における朝鮮の慣習を尊重するという基本線を 維持しつつ,民事令による成文化という過程で, 一種のコントロールを加えていこうとの動きを 見て取ることができる点であろう。 この改正の経緯について,司法局幹部だった 宮本元は後に「社会情勢時代の趨勢に推移照応 せざる陋習は之を打破して嚮ふべき所に導き民 度民情の向上に伴ひ新制度の確立を必要とす るに於ては之を樹立すと謂ふ根本方針を司法 部先輩に相伝へ之を堅持して今日に及べる次第 であって,世態民心の帰嚮を省察することなく 空虚なる法制一元化を図らんとするがごとき意 図は寸毫もこれを有せざる所である」[宮本元 1940:531]と述べている。また,高等法院判 事を歴任した野村調太郎は二次改正に関して, 「要するに,親族相続法中寧ろ個人制度的規定 ともみるべき一般無能力者の保護に関する法則 を整備し,婚姻に関する事項の小部分及私生子 の認知に関する慣習を成文化し,且従前の慣習 に存ぜざる相続の限定承認及財産の分離の新制 度を設けたに過ぎないのであって,家族制度の 根幹たる家及戸主家族の関係,養親子の関係並 びに相続の関係などに毫も触るる所なく,此等 の事項は依然慣習に委ねられたのであった」[野 村調太郎 1940:17]と評価している。 宮本や野村が認めるように「結果において」 日本民法の規定の依用がこの間の改正作業を通 して進んだ結果,その内容は事実上,日本の民 法と近いものになっていく。ただ,野村の言葉 を借りていえば,大局的にはその「根幹」は, 二度にわたる改正を経ても,民事令の内容が朝 鮮の慣習から大きく逸脱したとは言い難い。つ まり野村の主張どおり,司法局では家族制度の 根幹である血統をめぐる「姓の原則」に触れな い限り慣習温存の方針に大きく触れないとの認 識であった。   ⑤朝鮮戸籍令の制定と共通法第3条の施行 1922 年の改正に関してもう一つ重要な点 は,従来の「分家,絶家再興,婚姻,協議上ノ 離婚,縁組及協議上ノ離縁」などの事項に関し, それまでの事実主義を申告主義に改めた点であ るが,これと並行する形で民籍の取り扱いに関 して,日本の戸籍法に相当する朝鮮戸籍令を制 定し,1922 年 12 月に施行したことである。 全 133 条からなる同令は,民事令を補完す る形で,戸籍手続きの細則を定めたものである。 朝鮮民事令に加え,この朝鮮戸籍令の規定に よって戸籍制度の新たな全体像が定まったとい える。その枠組みは内地の戸籍法を下敷きとし, 朝鮮人の親族相続などに関する特殊の慣習その 他の実体法を基礎として,従来の民籍法と比べ 各家の組織,各人の身分証明を確保するのに問 題のないように設計したものとしている19。朝 鮮の慣習を最大限に尊重する姿勢はこの改正の 段階では崩していない半面,植民地支配が時限 付きでなかったことを考えると,日本の戸籍と も互換性があるようなシステムにしておくの は,今後,婚姻,離婚,縁組,離縁などの手続 きを内地と同じようにする可能性も含めて合理 的な判断ともいえる。また戸籍記載事項にある 「姓名」を「氏名」と改めることでそのまま日 本と同様の戸籍の形式となる。

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− ところで,こうした戸籍システムの導入と並 行して重要なのは共通法第三条の施行である。 韓国併合当初の 1911 年には法律第 52 号「司 法事務共助法」によって司法行政に関しては植 民地相互間の連絡関係を維持していたが20, 韓 国併合以降は人の往来が増加し,特に養子縁組 や婚姻など,身分の異動をめぐってトラブルが 増加していた。 共通法自体は 1918 年 4 月に法律 39 号とし て発布され,日本の内外地の異法域間の法令の 連絡関係の統一を図るために機能していた。し かしながら,朝鮮においては,手続法上の連絡, つまり日本の戸籍制度に対応できないため,施 行が一時的に延期されていた。このため,日鮮 間の縁組や婚姻については,朝鮮人女性が婚姻 または養子縁組をする場合は,戸籍法 104 条 または 90 条によって内地の夫又は養親の本籍 地の戸籍官に届け出ることで,夫又は養親の家 に入ることができるが,逆に内地人が朝鮮人の 家に入ろうとする場合は朝鮮に戸籍法が実施さ れていないため手続きができない状態であった [細田定 1915:237-238]。戸籍令と共通法第 3条の施行によって「内鮮人間の送入籍の問題 は完全に解決せられ,内鮮融和上に多大な効果 を残した」21というのが当時の評価である。 内鮮人間の婚姻について新聞の論説によれば 「血統的結合とは即ち内鮮人の相互結婚を謂う。 …略…,子孫はすなわち内鮮人男女の結合の結 果の産物であり,子と孫だけでなく一世三世か ら百世に至り…略…朝鮮人の子孫はすなわち内 地人の子孫に,内地人の子孫は朝鮮人の子孫に なりなれば内鮮人という種族の観念もなくなる ことだろう」としており,その理念は,内鮮婚 を増やすことで日鮮間の融和が図られ同時に差 別もなくなるというものであった。 こうした,本来なら生物学的な血統ではなく 「精神」で統合されるはずの日本の家族観が, 日鮮間においては婚姻をとおした生物学的な血 統的融合によってより強固となるとする発想の 背景には,政策が想定通り進行せず行き詰って いる様子が見て取れる。実際の内鮮間結婚は, 「1925 年の時点で京城府内には合計 53 組,そ のうち内地人夫と朝鮮人妻が 1924 年の時点で 13 組,25 年 3 月までに 6 組であり,朝鮮人 夫に内地人妻の場合はこれが 40 組に達してお り,すべてを併せれば実に多い数字である」22 とはしているものの年間,約 500 組程度に留 まっていたといわれる [ 緑旗日本文化研究所 1940:10]。   第3章 朝鮮民事令第 11 条の 1939 年改正   1939 年制令 19 号における朝鮮民事令の改 正はそれまでの改正と性格を大きく異にする。 その要点は,朝鮮の慣習にはそれまでみられな かった婿養子や異姓養子を認めたことと,氏を 創設したという3点であり,旧慣温存の原則を 大きく揺るがすものであった。 朝鮮人の親族及相続に関する基本法規を定め た第 11 条は以下のように改正された。   第 11 条  親族及相続ニ関シテハ別段ノ規定 アルモノヲ除クノ外第一条ノ法律 ニ依ラス慣習ニ依ル但シ氏,婚姻 年齢,裁判上ノ離婚,認知,裁判 上ノ離縁,婿養子縁組ノ場合ニ於 テ婚姻又ハ縁組カ無効ナルトキ又 ハ取消サレタルトキニ於ケル縁組 又ハ婚姻ノ取消,親権,後見,保 佐人,親族会,相続ノ承認及財産 ノ分離ニ関スル規定ハ此ノ限ニ在 ラス氏ハ戸主(法定代理人アルト キハ法定代理人)之ヲ定ム すなわちここでは,前回までの改正によって 慣習に依らないものとして加えられた「婚姻年 齢」「裁判上の離婚」「認知」「裁判上の離縁」に, 新たに「氏」と「婿養子」が追加された。また 氏については,戸主がこれを定めると記され, 日本民法第 746 条「戸主及ヒ家族ハ其ノ家ノ

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 氏ヲ称ス」とする規定を依用することであった。 これと併せて 1939 年制令 19 号「朝鮮民事 令中改正の件」の付則において二種類の創氏制 度が定められた。 附則第2項  朝鮮人戸主(法定代理人アルト キハ法定代理人)ハ本令施行後 六月以内ニ新ニ氏ヲ定メ之ヲ府 尹又ハ邑面長ニ届出ツルコトヲ 要ス」 附則第3項  前項ノ規定ニ依ル届出ヲ為ササ ルトキハ本令施行ノ際ニ於ケル 戸主ノ姓ヲ以テ氏トス但シ一家 ヲ創立シタルニ非サル女戸主ナ ルトキ又ハ戸主相続人分明ラサ ルトキハ前男戸主ノ姓ヲ以テ氏 トス」 付則第2項が日本式の氏を新設する設定創氏 と呼ばれるもので,付則第 3 項が姓を以て氏 とする届け出を要さない法定創氏と呼ばれるも のである。 ① 1939 年改正までの経緯 1939 年の改正がなされるまでの経緯は次の とおりである。 ま ず, 婿 養 子 と「 氏 」 の 問 題 に つ い て は 1924 年に総督府中枢院会議ですでに議論が進 められていた。 「男子ナクシテ女子ノミアル者ハ其ノ女子ニ 他姓ノ男子ヲ婿養子ト為スコトヲ得此ノ場合ニ ハ養家ノ姓ヲ称スルコトトスルノ制ヲ定ムル ノ要否」(以下婿養子)と「家ニ称号ヲ附スル コトヲ定ムルノ要否」といった議題として,9 月 18 日から 19 日に当時法務局長であった松 寺竹雄から提起されたものであった。以下同会 議議事録に依れば次のとおりである[南雲幸吉 1935:605 ‐ 606]23  まず,婿養子の必要性は,実子に娘(女子) しかいない場合に,同じ宗族からとはいえ他人 の子を養子縁組することになるので,その人情 に悖るというのである。そこで娘に婿を取りそ の婿に養家の姓を名乗らせて,戸籍には本姓本 貫を明瞭に記載しておくというのが婿養子の具 体的な方法である [ 南雲幸吉:605]。 また「氏」の問題については,この当時にお いては行政業務取扱い都合上の問題であったこ とが記されている。 朝鮮においては婚姻によって姓が変更されな いので,一家内に複数の姓が存在する。そのた め姓を聞いただけではどの家の人かわからない ので,不便が多い。家に称号をつけて一目でそ れがわかるようにしようというものである。具 体的に挙げているのは寡婦が戸主になった場合 である。被相続人と相続人が同じ「家」に居な がら全く異なる姓なので取扱い上都合が悪いと いうことである [ 南雲幸吉:607]。さらに家 の称号を附してもその姓と本貫は戸籍面に明瞭 に表れるようにしておけば「時勢ノ要求」にも 適用する [ 南雲幸吉:607]。その方法として 松寺が具体的に挙げたのはその家の「戸主ノ姓, 女戸主デアリマスレバ,前代男戸主ノ姓ヲ其ノ ママニ其ノ家ノ称号ト定ムルト云フ様ニ致シマ シテ,其ノ家ニ属スル家族ハ悉ク其ノ称号ヲ用 フルコトトスル」とする案であった [ 南雲幸吉: 608]。 この時点では単純に同じ戸籍にある者は戸主 の姓を名乗ることが提案されたにすぎないがす でに会議では「姓ノ称号ハ,同時ニ家ノ称号ニ モナツテ居ルのデアルト説ク人モアリマス…略 …家ノ称号ガ定マツテ居ルトイフ點ニ於テハ議 論ノ一部ガ決定サレタ譯デアリマシテ,残ルハ 單ニ家族ガ其ノ氏ヲ称スルコトニ定メタイノ デアリマス」[ 南雲幸吉:609] とされており, 最終的には同じ戸籍内にいる異姓が同じ「氏」 を名乗ることが念頭に置かれている。 これらの案を理解するための注意点が二点あ る。 一つは松寺法務局長が理由説明では , 家の称 号を附してもその本貫の姓は戸籍面に明瞭に表

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− わすこと,つまり戸主と異なる姓を持つ者は戸 主の姓を「名乗る」だけで戸籍には本姓本貫の 記録を残すといった姓不変の原則を保存するこ ととしており,旧慣温存政策を維持する指標で あった点である。 改姓については,本会議の一週間前である9 月 11 日付で,法務局長名で「朝鮮人ノ改姓ハ 朝鮮ノ慣習上姓ノ誤称ヲ発見シタル如キ例外ノ 場合ヲ除クノ外之ヲ認メス」24とその見解が述 べられている。 朝鮮人の改姓については併合後の 1911 年に 「朝鮮人ノ改名改称ニ関スル件」(朝鮮総督府令 第 124 号:1911 年 10 月 26 日)の第1条で「朝 鮮人ニシテ姓名ヲ改称セシムルトキハ左ノ事項 ヲ具シ民籍謄本ヲ添ヘ所轄面長又ハ府尹ヲ経由 シ道長官ニ願出テ許可ヲ受クヘシ」25と願出に よる改姓を許可していた。また,1915 年3月 には朝鮮人の姓名改称の許可権を道長官へ移管 した結果(総督府令第 19 号),4 月 9 日から 5 月 24 日までに京畿道では受理数が 198 件に 上った [ 例規集:42]。それと前後して 1915 年 4 月に「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」(1915 年 4 月 5 日,官通牒第 105 號)が発令され「朝 鮮人ノ姓名改称ハ舊慣其ノ特別ノ事情ニ因リ改 称ヲ必要ト認メラルル場合ノ外ハ濫ニ之ヲ許可 セサルコトニ御取扱可相成及通牒候也」[ 例規 集:42] と規制した経緯がある。 これは朝鮮人が民籍に日本風の姓名を届け出 ることを規制したもので,日本人と朝鮮人との 区別が困難になるために行政面で不都合が生じ たため,「内地人と紛らわしい姓名」に改姓す ることを禁止,既に改姓したものについても元 の姓名に戻すとしたものであった[水野直樹 2008:28-30]。 これら一連の経緯からはこの当時は朝鮮人に 日本式の氏を付けさせることは念頭になかった ことが知れる。 注意点のもう一つは,日本の司法関係者の間 では日本の姓氏と朝鮮の姓氏について,異なる 概念を有していたということである。姓氏の意 味するところについて詳細は後に言及するが, 先の松寺の「姓ノ称号ハ,同時ニ家ノ称号ニモ ナツテ居ル…略…残ルハ單ニ家族ガ其ノ氏ヲ称 スルコトニ定メタイ」の意味するところは,朝 鮮の姓を朝鮮の氏ではなく日本の民法上の氏へ と改め戸籍内でも姓の記載をやめ,完全に日本 の戸籍と同じ形式にしようというものである。 これは「文明諸国ノ均シク認ムル全ク共通ナ事 柄」といった世界標準に基づくといった認識で ある。かつて日本も男系の血統である姓を用い ていたが,民法施行以降これが家の氏に変えた ことに言及している [ 南雲幸吉 :609]。この時 点ですでにこうした構想が進められており,日 本が総動員体制を契機にわかに進められた司法 政策ではなかったという事実は注目に値する。 さて,中枢院では 1927 年には翌年の婿養子 (異姓養子)の実施に向けて本格的な審議が開 始した26 松寺の後任で法務局長となった深沢新一郎 ( 在 任:1929 年 10 月 30 日 ‐ 1932 年 1 月 30 日)の説明によれば,従来の養子の要件に 例外を認めて婿養子を認めれば,娘にとっては 夫である婿養子が父の財産を相続するが,結果 としては娘が父の財産を継ぐこととなるとして いる。また,朝鮮の姓については姓不変の原則 から「一家ノ内ニ数姓アルコトガアリマシテ, 其ノ姓ノミヲ以テシテハ,同一ノ家族ナルヤ否 ヤ判別シガタキコトガア」[ 南雲幸吉:610] る と,松寺同様に行政上の不便を述べている。家 の称号と異姓養子をセットで行うことで,養子 は日本の婿養子のように妻の姓に変更せず固有 の姓のままで先代戸主の家名である氏(この当 時は姓)を襲用でき,朝鮮の慣習を没却するこ ともないというものである [ 南雲幸吉:611]。 しかしながら,この制度は 1939 年の民事令 改正までの間,法務部での作業の状況が新聞な どで報じられるにとどまり実施には至らなかっ た27

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− ②旧慣温存政策の合理化と創氏制度 1939 年制令 19 号「朝鮮民事令中改正の件」 によって氏制度が創設されたが,インパクトの 強い設定創氏については,当時においても日本 が朝鮮人に対し,圧力を持って日本風の名前を 強制したとするイメージが存在していた。 宮本は「氏制度の設定に依り半島人は氏の設 定を義務附けられた次第であるが,内地人式氏 の設定に付いては法令上何等義務附けられたる ものに非ざるは固より,法令の運用上に於ても 聊かたりとも強制的又は勤奨的意図を有せざる 所である。換言すれば半島人に内地人式氏を称 しうる途を拓いたに過ぎぬのである」[宮本元 1940:544]と説明している。「創氏改名」の うち,「創氏」は民事令に基づく制度新設であ るが,「改名」は任意であり,朝鮮人に内地人 式の名前にする道を開いたに過ぎないと強調し ているのである28 実質的な旧慣温存政策から皇民化政策への転換 に伴い,当局者あるいは在野の法学者などの専門 家は政策に整合性を持たせる論理を展開した。 高等法院判事を歴任した野村調太郎は古来の 養子制度について,「朝鮮に於ては古来異姓養 子をも法に依りて認め,高麗朝に在りては,養 家を継がしむることも出来たのであるが,李朝 に入りてから儒教の影響に因って,異姓収養子 は家を継ぐことを得ないものと為つた。しかも なほ法典の上では之を子に準じ,養親の姓に従 ひて入籍し,劣後の順位に於て其の遺産相続人 たるの資格をも認められたのであつた。されど 異姓奉祀を排する儒教の余勢は,収養子其のも のの存在をも無視するの傾向ありたるが為,併 合後に於ける判例その他の取扱例は,収養子の 申告は受理すべからずものとし,遂に収養も亦 侍養と同じく,単に事実上の俗習たるに止まり, 法律上の身分行為に属せざるものと看做すに至 り,近時の縁組は継後の為にする同姓養子に 限られてゐた」[ 野村調太郎 1940:24] と述べ, 「元来同姓不婚ということも,高麗朝の中頃よ り,支那の風俗に倣って漸次拡つたもので,必 ずしも朝鮮固有の習俗とは断じ難い」[ 野村調 太郎 1940:27] と韓国併合以降に日本の司法整 備によって現在の形が定立し,そもそもは朝鮮 の慣習ではなく中国の慣習であったと主張して いる。 また,宮本元は朝鮮人の置かれた歴史的な状 況を踏まえて,「自己の血族以外には恃むに足 る者なく自然並びに牢乎たる男系本位の血族を 中心とする大家族生活を営みし事実が與て大 に其の因を做せしものと考へ得られるのであ る。然るに日韓併合に因り国民生活安定し他の 血族団体を仇視するの観念薄らぐに至つた事実 と,一方,社会の複雑化に伴ひ一家の相続は奉 祀の継承のみならず家族の統督家産の管理を継 承の目的とせざるを得ざるに至つた事実とは相 俟て,養子を収養する範囲を同姓外に拡大する 端を発せるものと認め得るのである」[ 宮本元 1940:532] と述べている。 こうした,改正前の朝鮮民事令に温存されて いた朝鮮の慣習的な要素が実はもとを正せば必 ずしも民衆全体を通じた慣習ではなかった,あ るいはさらに時代を遡ればそうした慣習とは異 なる規範があった,といった「本当の旧慣」を 温存するといった主張や,時代の経過に伴って 生じた変化に対応するのだという論理では,政 策の矛盾を払拭するには無理がある。 異姓養子は朝鮮後期に実質的には行われてい たといわれるが[李丙洙 1977:81-105],旧慣 調査では異姓不養が「朝鮮の慣習」と認められ, 民籍法ではその届け出を受理しないとした経緯 がある。その取捨選択は法務局の前身である司 法部によって行われた。明確な根拠なく拙速な 判断で認定された「朝鮮の慣習」は周辺の状況 に応じて認否される曖昧で矛盾をはらんだもの であった。 こうした条件下で行われた創氏制度の導入 は,日本式の氏を創設する場合は,総督府令 221 号の「第2条 氏の届出は書面でしなけ ればならない」との規定に従って法令の施行後

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 六 ヶ 月 以 内(1940 年 2 月 11 日 か ら 8 月 11 日まで)にそれぞれの戸主が新たに氏を定め, 府尹または邑面長に届けなければならなかっ た。 これに対し第3条では「制令第 19 号附 則第3項(6ヶ月以内に氏設定届をしないと, 戸主の姓が自動的に氏になるという規定)の規 定により,戸主の姓をもって氏としたときは, 戸籍の記載は訂正されたものとみなす」とした。 この第3条の規定は,戸主の姓が 8 月 11 日時 点で一斉に法定創氏となり,事務が集中する為 に,すぐに戸籍簿の記載の訂正はしないが,法 令上は訂正されているものとして扱うという内 容であった。法定創氏は 1924 年以来,中枢院 会議で懸案となっていた「姓」をイエの称号と するといった議論の帰結点であった。 これに対し,1939 年の改正では,設定創氏 制度も新設されたために,当事者が意識的に日 本式の氏を拒否し,従来の姓を氏としても,そ れは日本の民法のいうところの法定の氏が家の 称号として付されることになる。つまり表面上 は姓の戸籍への記載と従来の姓を氏とすること で姓不変が維持されているようでも,その氏の 本質は日本の民法上の氏となるが,それが当事 者には見えづらい制度であり,この点は総督府 も意図したところであった29 第4章 姓氏の概念規定と制度のジレンマ: 「姓は男系の血統の標識・氏は家の称号」 ① 姓氏の概念規定「姓は男系の血統の標識・ 氏は家の称号」 創氏改名と呼ばれる日本の統治の代名詞と なった 1939 年の改正はそれまでの旧慣温存を 基本とする路線を切り替え,皇民化を急進させ た。韓国併合から約 30 年の月日が経過しての 政策転換であった。創氏は場合によっては裁判 所への届け出を必要としたものの,大きな反発 や暴動が起きることは無く,むしろ淡々と進み, 期間内の登録者は八割に及んだ30 日本の維新以降の戸籍制度は「村落共同体や 親族共同体などの外的統制から家族が自由にな り,明治初期の一連の政策によって人々と共 同体との関係性を希薄にし,戸籍内での家族 の存在が高まり,この家族が自立性を高め国 家と直接に結びつく」機能を持ったとされる。 [村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎 1979:438-442,小山静子 1999:8-9]さらに日本の植民 地統治の特徴は,平野義太郎の言葉を借りれ ば,天皇・民族・国家をひとまとめにした「日 本」という価値概念の絶対化にあった[尹健次 2002:270]。 制度の新設は紛れもなく皇国臣民的家庭の確 立,女性の地位向上,文化上の中国模倣精神か らの脱却,内鮮一体を目的とし,血縁集団であ る中国から派生した宗族構造と結びつきを自己 のより所としていた「家族」を直接に天皇に結 びつけ,社会生活の基礎することを本質とした ものであった31 設定創氏の届出は八割近くに上ったものの, 制度の本質への理解は日本人や専門家ですら困 難を極めた。 「『三千里』の2月号に〈何と内地式の〈創氏・ 改名〉をなされるや〉といふ問に約 50 名ほど の朝鮮の著名の士が答へているが,…略…,相 當な地位にある人,又,日本精神を相當理解し たと宣伝されて居る人さへ随分と誤解した回答 をして居る。『朝光』,朝鮮人側で一番読者の多 いと言はれている雑誌の一月号に〈夫の姓に従 ふ女流諸氏〉…略…,一人として氏設定の意味 を理解して居る者はいない。その雑誌の当事者 でさえ〈夫の姓に従ふ〉と誤った表題を掲げて いる。内地人側の新聞でも〈姓の変更を認む〉 …以下略」[ 緑旗連盟 :1] と創氏改名に対する認 識の誤謬について延々と語るのは,1930 年代に 朝鮮に設立された「緑旗会連盟」に所属する森 田芳夫が編集した『氏創設の真精神とその手続』 と題される冊子である。「緑旗会連盟」は朝鮮人 の社会教化を目的として設立された団体である。 改正で調査委員会の一人であった弁護士の李

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 升雨も「氏とは「李哥の家,金哥の家というよ うな一家(原文は집안)を表す符号といえる。 …略…,新しく氏を作らなくてはならないのだ が,もし李哥の中に複数の姓の人がいれば全部 李哥に姓と氏が統一されるので,従来の本貫と いうものは自然に無くなり同じ姓氏に統一され るので現在実施している朝鮮戸籍令もすべて改 正される32」と説明をしている。 さらに元京城帝大教授の日本人弁護士は「朝 鮮の今日において姓の称呼を維持するだけの合 理的理由が全然ないだけでなく,むしろ姓の代 わりに氏の称号を設定し,これを各家格別に称 させることが必要だ。今回の改正の第二点では このことに鑑みて姓の称号を排斥し氏の名称を 新しく設けることで,…略…朝鮮人の各家は新 しく氏家の称号である氏を定めて,各人は従前 の姓の代わりに氏を称することになるのだ33 とした認識を示している。知日派や朝鮮人弁護 士,日本人弁護士も姓氏を混同しているのに, 一般の朝鮮人が総督府の意図する創氏を正確に 理解していたとは考え難い。 総督府にとってもの第一の課題は日本のイエ の称号である氏をどのように抵抗なく受容させ るかであり,ここで登場したのが「姓は男系の 血統の標識・氏は家の称号」あるいは「姓は個 人,氏は家系」とするキャッチフレーズ34であっ た。しかしこのキャッチフレーズがさらなる混 乱を招いた。 法学者であり,解放後の民法制定時において はオピニオンリーダーであった鄭光鉉は「民事 令改正を中心として」において「最近,当局(朝 鮮総督府)が《姓は男系の血統の標識》であり, 《氏は家の称号である》と定義した」(括弧内, 下線は筆者)[鄭光鉉 1940:16]35とその内容 に戸惑いを見せている。鄭光鉉はこの中で,姓 氏を説明するために,中国の制度を論じた広池 千九郎の『東洋法制史』と日本の司法制度を論 じた末川博士編の『新法学辞典』を引用してい る。前者については「姓は自己の所属する血統 (母系時代には母系の血統,父系時代には父系 の血統)を表示する標識であり,氏は同一の血 統が(同姓)地域的に分化するにつれて生まれ た姓の地域的系統を表示する標識である。した がって氏は姓の分派であり,姓に比べて血族的 個人的特徴を表示するための名称である」の部 分を,後者については「姓は家族制度上家の名 称で氏と同じで,氏は民法典以外では名字とも いい姓ともいう」といった部分を引用し,「朝 鮮では始祖の発祥地を指す所謂「本貫」が姓と 合わさり特権階級の標識として姓氏制を生み出 した」[ 鄭光鉉 1940:147] としている。 これらの引用からは鄭光鉉の朝鮮の姓氏への 理解が窺えるのであるが,鄭光鉉の認識の基底 では姓氏には差はなく,双方に血統的な意味が 含有されている。当局が姓と氏を厳格に区別 したことについて「一般民衆には大げさに映 るだろう…略…(ドイツの法律学者)ベルンハ ルト(Bernhard Windscheid)が言うように 法典は裁判官の為に制定したもので民衆の為の ものではない。裁判官さえわかれば十分であり 民衆にわかりやすくする必要はない」[ 鄭光鉉 1940:16] と記している。鄭光鉉はこの姓と氏 を朝鮮の姓氏と考えたのであり,専門家にも本 質が見えづらいものであった。 ちなみに植民地期に白南善によって執筆され た研究書である『経済学全集』第 61 巻の「姓 氏制」の「姓氏」では,後漢の儒学者である許 愼の「姓,人所生也,古之神聖母,感天而生子, 故称天子」と左傳の「天子建徳,因生以賜姓, 胙之土而命之氏」が引用されている[白南善 1933:73]。併せて氏の朝鮮固有の意味におい て「訓蒙字會36によれば<각씨>と訓解され て居る。<각>は<各>であり,<씨>は<種 >のことであるがゆえに,<씨>は血族の分化 された系統別をしめし…略…分化拡大された各 氏族の呼名を<氏>即ち<각씨> ( 各氏 )」[ 白 南善 1933:73] としていると記している。つま り姓とは生まれることを以てその根拠となり, 氏とは種の固有語の<씨>を呼名の氏とするこ とで姓の下位の分派に当たるとの理解である。

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 先の広池千九郎や鄭光鉉と同じ理解であり,朝 鮮の姓氏についての一般的な認識であろうと考 えられる。 では,そもそも日本の氏と朝鮮の氏との違い はどこにあるのか。 日本の氏について『朝鮮親族相続要覧』を著 した吉武繁は「内地に於ける旧来の姓の意義は 朝鮮の夫れと異なる。姓は血統を表彰 ( ママ ) するものではなく,血統はむしろ氏なる名称を 以て表彰したのである。内地における姓は「かば ね」と訓し,骨又屍の字義である。…略…由緒 正しき主家又は勲功ある家には朝廷より姓を賜 り,…略…姓を有する者は同氏族を統制する権 利も授けられたのである。然るに現今に於いて は普通姓氏に区別なく,之を苗字と同一意味に 使用するも氏姓の由来に於いて異なるは一般識 者の認むる所である」[吉武繁 1931:34-35]37 というのである。 ここまでの説明であれば,日本において姓は 与えられるものであるのに対し,朝鮮において は生まれることを以てその根拠とする。一方で 氏は日本においてはむしろ血統を表すもので, 名字(苗字・苗字)がその分派のようなもので あり,朝鮮では氏は姓の下位に位置する分派を 表すものであるといった具合に,日本と朝鮮で は姓と氏の概念にズレが存在する。 しかし,政治的な意図を持つ制度設計の定義 においては異なった論理が展開される。 宮本元は氏創設の政治的な目的について,朝 鮮人が内地人式の氏を称へることは嵯峨天皇 時代から続いており,京都及び畿内の全氏族 1,812 氏のうち朝鮮から帰化したものが 370 に及び,帰化人は大和民族に薫化融合して今日 においては少しも裔を留めておらず,今回の創 氏制度は朝鮮人が形容共に皇国臣民化の理想実 現の一歩であるとしている [ 宮本元 1940:28]。 また,これとまったく同じ内容の講演を第7代 総督の南次郎も行っている。彼らが強調するの は「精神面」での日本と朝鮮の一体化の推進で あり,日本へ渡来した朝鮮人が大和民族と表面 的ではなく「徳」によって融和している姿から, 朝鮮に於いてもそれが可能であるとした未来像 を提示したのである。 さて,国勢調査を補完することを目的に民事 令改正に先立ち朝鮮総督府中枢院管轄下で行っ た「氏姓に関する調査」38では,姓氏の区別に は議論があることを前提に,特に朝鮮の氏につ いても起源である中国の氏から説明するべきで あるがやはり「日支共に学者間に議論あり。各 説く所一様ならずして遂に帰一する所なし,さ れど古代に於ては氏も姓も共に族名の一にし て,二者の間に截然たる実質上の区別ありしに は非ず」[中枢院 1934:267]としているので ある。ここでは諸説あるものの朝鮮の氏の存在 については認定している。 これに対し,法務局長の宮本元は創氏制度の 合理性について,朝鮮には元来,「氏が無い」 ことを強調した。 新羅時代に建設された巡境碑には名のみが刻 まれていること,日本書紀と新撰姓氏録には漢 族には姓氏が存在するが百済人,新羅人,高麗 人は姓が無く名のみが記されている事,さらに 李重煥の「擇里誌」「自新羅末通中国而始制姓氏。 然只仕宦士族略有之,民庶則皆無有。至高麗混 一三韓,而始倣中国氏族,頒姓於八路,而人皆 有姓」を引用し,現存する姓は漢族の姓を模倣 したもので事大思想に富む新羅人,高麗人が漢 族の聖賢大官の姓を冐称し,その門閥が高いの を誇示するのに因るものであり,完全な中国か らの輸入であることを強調することで,朝鮮の 姓の固有性を否定した。 一方で,中国にも氏があるが朝鮮はそれを尊 称としてのみ使用し,中国の氏を踏襲しなかっ たとし39,「中国の「氏」制度は姓を細別するも のであり,日本の「氏」は属するものが増える に従い名字(苗字,苗氏)を定めたのと相髣髴 たるものであるが,朝鮮では中国の氏を踏襲 しなかったために血統を表示する称号だけが 存在し,家の称号が存在しないのだ」[宮本元 1940:542-543]としているのである。

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旧慣温存の臨界 − 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の「ジレンマ」− 血統である姓の地域的分派の氏は政策設計に 於いては採用されることなく,無いものとして 扱うことで日本の氏の導入の合理的理由とし た。朝鮮民事令の 1921 年の改正において,旧 慣が無かったので別段規定しなかったら弊害が あったためこれを日本民法で補うとしたのと同 一の論理であった。 ② 1939 年の改正のジレンマ 期間内にその届出数が 8 割に及んだことは 先にも記したとおりである。 届出の傾向としては大きくパターンが認めら れる。 第一は自らの考えで創氏を届ける場合であ る。記録に残っているものは李光洙や尹致昊ら 知識人と呼ばれる人士が総督府のプロパガンダ として利用される例であり40,これまでの研究 でも注目されていたものである。 第二は同調圧力によってやむを得ず届け出を する例であり,職場や学校,地域における関係 性の中で生じる41。届出の大部分がこれにあた ると考えられる。第三は本論文で注目するもの で,旧慣温存政策の影響で植民地朝鮮でも維持 されていた儒教的なネットワーク,つまりは宗 族集団の維持,再編を目的とするもので,強固 な宗族結束が届け出の原動力となっているもの である。これは総督府の意図を全く無視し,表 面上は氏を届けるが,本質的な構造は従来のま ま維持するという方法である。建前上は総督府 の意向に沿う形を取りながら,事実上は政策を 利用するというものである。 創氏について総督府が最も懸念していたのが 一門の数百もの家が全員同じ氏を称する事で あった [ 緑旗連盟 1940:117]。しかしながら 一方で朝鮮の名門家が創氏をすることは政策の 実績を数値的に底上げし,プロパガンダにもな るため,不本意ながらも歓迎し奨励した。総督 府系列の新聞「毎日新報」では,期間中ほぼ毎 日のように名門家や名士の創氏の様相が発信さ れた。 逆に宗族にとっては,創氏の様子が新聞に掲 載されることは名門の証ともなり,新聞に掲載 されることを目的に動員数を増やすなど,宗族 側からのテコ入れも存在した。また,ある宗族 の創氏が報道されると,他の宗族がより大きな 動員数で創氏するといった現象も生じた。 「毎日新報」に掲載される一門全体で創氏す る場合の特徴は,宗中会や評議会,あるいはそ れに代わる会議においてどのような氏を設定す るのか協議されている点であった。重なる協議 は結束を強める機会として大きく作用した。 創氏のパターンは本貫を氏とするケース42 門中を中興させた祖の雅号を付けるケース43 あるいは雅号の一文字を共有するケース44,始 祖の出身地を付けるケース45や,姓に一文字を 附すケース46,全く新しく創氏するケース47 どさまざまであるが,宗族メンバー全員に共有 される始祖や中興の祖などに因んで氏を附すこ とが多い傾向にある。 例えば,奉化鄭氏は「一門 600 戸 3,000 名 が同姓同祖を永遠に表すために雅号三峰から三 の字を入れて創氏」するよう決めたとされる。 また,随城崔氏一門では随城崔氏が創氏する場 合には,誰もが随城と氏を統一するよう新聞で 呼びかけるなど,創氏をしても宗族関係の再編 維持に意欲的であった。 これら協議で創氏を決定した門中の中には全 国に 4 万戸を有する安東権氏のような大規模 な門中,数十余代にわたり相当の勢力を持つ三 陟金氏,また,宗族の枠を超えて儒林らが地域 の定期総会を経て全会員(953 名)創氏する ような,団体が総動員されるケース48もあり, 1,000 戸以上の規模の宗中で同一の日本式の氏 を附すことも少なくなかった49 制度上 , 血縁関係を同じにする者同士で同じ 氏を創設することを禁止する条項は無く,一門 全体で同じ氏を共有しても,各人が同一の氏を 持っても制度上は全く問題がなかった。設定創 氏で各家各号主義を取っても代が累積すれば同

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