抄録 英語の形容詞と対比される日本語の形容詞(および形容動詞)の統語意味的特徴につい て Chomsky(2013, 2015)の標示の理論により説明を試みる。Nishiyama(1999)における 日本語形容詞・形容動詞の形態統語的分析に対して批判を加え、標示の理論に基づく代案 を提出する。フェイズ主要部となる範疇決定要素と語根の対併合によって前者が不可視に なるという Chomsky の主張を再定式化し、日本語の形容詞に適用する。これにより、主 要部 が不可視となる日本語の形容詞が英語のそれと異なった振る舞いをするようになる ことを述べる。また、形容詞が語尾を欠く断片文から日本語の形容詞句がフェイズになる ことを裏付ける。 1.はじめに 2つの2価的素性[ V], [ N]で語彙範疇を分類することが Chomsky(1970)により提 案され、以後、(1)のような素性の組み合わせが語彙範疇の古典的分類として立てられて きた。 (1) [+V, -N] : 動詞 [-V, -N] :前置詞 [+V, +N] :形容詞 [-V, +N] :名詞 これが正しいとすると、同一値の同一素性を取る範疇同士は何らかの共通性を有する、つ まり、範疇横断性があると予測できる。例えば、[-N]が動詞と前置詞に与えられている が、このことから両範疇が前置詞(特に虚辞的な of)を介さずに直接、補部名詞句を取 ることが捉えられる。 (2) a. [VPhate her ] b. [PP toward her ] c. *[APafraid her ] d. *[NPhatred her ] Chomsky(1981)においては[-N]が補部名詞句に対する構造格付与に結び付けられ、(2)の 事実が説明された。(1)の素性の交差分類からは4つの範疇が得られるが、言語普遍的に 語彙範疇がそれしか許されないという必然性はない。系統、類型とも英語と異なる日本語 では、実際に別の範疇を立てる可能性がある。例えば Miyagawa(1987)は、(1)の交差分
赤羽 仁志
類を踏まえつつ、次の5つの範疇を立てている(他の可能性については Kageyama (1982)等参照)。 (3) [+V, -N] : 動詞 [-V, -N]:後置詞 [+V] :形容詞 [+V, +N] :形容動詞 [-V, +N]:名詞(サ行変格活用動詞の語幹を含む) (3)の範疇のうち、形容詞と形容動詞(Miyagawa(1987)では形容詞的名詞とされる)を 取り上げたい。形容詞が[+V]、形容動詞が[+V, +N]とされるのは、形態統語的側面にお いてそれぞれ動詞と名詞に共通点があるからであり、Kuno(1973)の動詞的形容詞と名詞 的形容詞の区別に基本的に合致する。これを示す例を Miyagawa(1987)から採録しよう。 (4) a. あの人が 美し{い/ *だ}。 (形容詞) b. あの人が 居{る/ *だ}。 (動詞) c. あの人が 綺麗 だ。 (形容動詞) d. あの人が 先生 だ。 (名詞) 時制に注目してみると、(4a)の形容詞文では動詞文(4b)と同様、品詞自身の活用語尾に 具現し、形容動詞文(4c)では名詞文(4d)と同様、コピュラ「だ」に現れる。このような 形容詞と形容動詞の相違が(3)の素性分析から説明されるが、問題が無いわけではない。 Miyagawa は[ N]を欠く形容詞は[ N]について中立、つまり、[0N]を持つ、と解釈 する。しかし、範疇素性が2価的であるならば、Baker(2003a)も指摘するように、[0N] を持つことの理論的意義が明確でない。範疇素性が1価的であるならば、[+V, 0N]と [+V, -N]の本質的区別が不可能である。また、形容詞と形容動詞を区別することにも異 論がある。 動詞と異なる範疇でありながら(4)に見るような類似点を持つという、従来、英語の形容 詞と対比されてきた日本語の形容詞に特徴的な振る舞いはどう捉えるべきか。また、日英 語の形容詞(および形容動詞)の他の統語的相違はどう説明すべきであろうか。本論文は このような問題について現行のミニマリスト・プログラム(Chomsky(2013, 2015))で提案 される標示の理論に基づき考察を加える。本論文の構成は次のとおりである。まず、2節 で日本語形容詞・形容動詞に関する Nishiyama(1999)の形態統語的分析を取り上げ、その 問題を指摘する。3節では Chomsky(2007, 2008)以降取られている範疇の決定方法を受け 入れることにより、Nishiyama の問題の解決を試みる。Chomsky(2015)では範疇決定要素 への語根の付加、つまり、対併合(pair merge)によって前者の標示が不可視になるという 提案がされているが、4節ではこの提案を再定式化して日本語の形容詞・形容動詞に適用 する。それにより、日本語の形容詞が動詞と類似の特徴を持つことが導かれ、更に、日本 語形容詞・形容動詞と英語形容詞の他の相違にも可能な説明が与えられることを述べる。
なお、以下の議論で単に併合と言うときは文の基本的な構造を構築する集合併合(set merge)を指し、付加構造を作る対併合と区別する。集合併合には移動を伴う内部併合 (internal merge)と伴わない外部併合(external merge)の区別もあるが、必要なときのみ言 及する。5節では、形容詞・形容動詞が活用語尾を欠いた断片文に関する事実を取り上げ、 英語と同様、日本語でも形容詞句がフェイズを成すことを論じる。6節は結論である。 2.形容詞句の構造 前節でも触れたように、日本語では形容詞が動詞と同様、時制によって活用し、この点 において英語の形容詞と対比を成すように見える。つまり、(5)-(7)に示されるように、 日本語では形容詞単独で時制を表すが、英語はそれを許さず時制辞のホストとなるコピュ ラ動詞 be が必要となる。 (5) a. 値段が 高い 。 b. 値段が 高かった 。 (6) a. *The price high .
b. *The price high . (7) a. The price high.
b. The price high.
一方、日本語の形容詞は形態的に複雑であるとする分析がある。取り分け、分散形態論の ようなアプローチでは語の構造を統語構造に関係付け、それにより日英語の形容詞の相違 が構造的なものではなく、より表面的なものと見做す。そこで本節では、日本語の形容 詞・形容動詞に関する Nishiyama(1999)の形態統語的分析を概観し、その問題点を指摘 する。 日本語形容詞に対して形態的により精密な分析を与えるため、形容詞の主な活用形のパ ラダイムとして(8)を前提としよう。 (8) 高い:語幹 現在形 過去形 未然形 仮定形
takak taka(k)-i takak-atta takak-aroo takak-ereba
(8)の語幹については伝統的な日本文法における語幹と基本的には異ならないが、音便化 前の形式において活用しない子音 k まで含めている。語幹と活用語尾に分析することに より、過去形、未然形、仮定形の活用語尾中にコピュラ動詞「ある」に由来する形式 at/ ar/er が見出せる。現在形でも「も」のような焦点標識を介在させることにより、「高く-も-ある」のように、やはり「ある」が出現する。これらのことから述語として用いられ る形容詞にはコピュラ動詞が包含されていると見做せる。このような議論は従来からあ り、分散形態論に基づく分析を行っている Nishiyama(1999)にも見られる。Nishiyama
は形容詞の活用を(9)のような形容動詞の活用と比較する。
(9) 静かだ: 語幹 現在形 過去形 未然形 仮定形
(縮約形) sizuka sizuka-da sizuka-dat-ta sizuka-dar-oo sizuka-nar-aba (非縮約形) sizuka sizuka-de-ar-u sizuka-de-at-ta sizuka-de-ar-oo sizuka-de-ar-eba (9)の語幹も伝統文法に従ったものである。(9)において縮約形としている活用では、(8) の形容詞の場合に見出されたコピュラ「ある」の存在が必ずしも判然としない。一方、非 縮約形の活用ではその存在(ar/at)が明らかになる。加えて、形容動詞の場合も「静か -で - も - ある」のように焦点標識の挿入が行われる。 以上のような基本的事実に注目し、Nishiyama は形容詞と形容動詞の平行性を捉える分 析を提案する。形容動詞の非縮約形では ar に先行してどの活用形にも -de という形態素 が出現する。形容詞においても ar に先行して語幹末尾に -k が何れの活用形にも出現す る。そこで Nishiyama は ar を形式素性と音韻素性のみを持ち意味的には空虚な「ダミー コピュラ」とし、形容詞の -k と形容動詞の -de を実質的な意味のある「叙述コピュラ」 とする。これにより、形容詞と形容動詞の句はそれぞれ(10a, b)のように全く共通した構 造を取る(形容詞で -ku の u は挿入母音であり、ここでは無視する)。
(10) a. [VP [PredP [AP taka ] k ] <mo> ar ]
b. [VP [PredP [AP sizuka ] de ] <mo> ar ]
Nishiyama が提案する(10)の構造によれば、形容詞と形容動詞の区別は無い。語幹から叙 述コピュラ -k/-de を取り去った部分は語根とされる。語根を主要部とする句は AP、 -k/-de を主要部とする句は PredP、ダミーコピュラ ar を主要部とする句は VP になる。 (10a)から形容詞の現在形が「高くある」でなく「高い」と具現することについては、分 散形態論で提案されているような音韻形態的な融合操作により各主要部の素性が1つにま とめられた結果であるとする。形容詞の場合、融合の適用は語彙特性により義務的であ る。形容動詞で縮約形の現在形が「静かだ」と具現するのも同じプロセスによる。この場 合の融合は語彙特性から随意的なため、非縮約形「静かである」も排除されない。(10a, b)で焦点標識「も」が介在するときには融合に掛る隣接性条件が充たされず、融合は起 こらない。 Nishiyama の分析が妥当であるとすると、日本語の形容詞と形容動詞の句の構造を統一 的に捉えられるだけでなく、時制を担うコピュラ動詞の介在に関し日英語の形容(動)詞文 に相違があると見えていたのが相違が無いと捉え直される。これは言語普遍性の観点にお いて利点とも思われる。しかしながら、次のような問題が少なくとも指摘できる。 Nishiyama によれば形容(動)詞文には(10)の構造のように2種類のコピュラが含まれる が、そのうちダミーコピュラはそもそも仮定し得るのだろうか。例えば(11)に見られる英
語のダミー助動詞 do は、時制辞を動詞に付加する際に課される隣接性条件が(12)のよう に充たされない場合にのみ挿入されることがよく知られる。
(11) John doesn t read books.
(12) [TP John [Pres, 3Sg]T [NegP not [ P read books ]]]
ダミーコピュラとされる日本語の ar が英語のダミー do と同種の要素であるとすると、接 辞化に対する隣接条件を充たしながら挿入されることになり、その点で矛盾が生じる。 Nishiyama は ar を統語的にそれ自身の句を投射する主要部と仮定する。その意味におい ては挿入によるダミー do と異なるが、そうであっても問題は解決しない。ミニマリス ト・プログラムの初期までϕ 素性の一致とそれに付随する関係の仲介をする機能範疇 Agr が仮定されていたが、実質的意味を伴わず、解釈に一切貢献しない要素であること から廃止されている。同様に、意味的に空虚なダミーコピュラはやはり仮定すべきでな く、意味的に叙述を可能にする実質的なコピュラがあるのであれば、それのみで十分と考 えられる。Nishiyama は注の中で ar を必ずしもコピュラと見做す必要はないとも述べて いるが、その呼称は何であれ、意味的に空虚な要素を立てることを主張していることに変 わりは無い。 実質的な意味を持つとされる叙述コピュラに関しても Namai(2002)による批判がある。 語尾が「く」や「で」(あるいは「に」)で終わる形容詞・形容動詞のいわゆる連用形は副 詞としても用いられる。副詞の機能は修飾であるが、修飾は意味的に叙述とは異なる。 Nishiyama が主張するように -k/-de/-ni が意味的に叙述を仲介する実質的なコピュラであ るとするならば、副詞的に用いられた場合も修飾ではなく叙述を行うことになり、解釈 上、矛盾が生じる。修飾と叙述が異なることについては Nishiyama 自身、言及している ところであり、この点は叙述コピュラを立てることにも障害となろう。 3. P 分析 前節では日本語の形容詞および形容動詞が取る句の構造について Nishiyama(1999)の 分析を取り上げ、その問題点を指摘した。本節ではその代案となるような分析を考えてい く。 Miyagawa(1987)の例を再度見よう。 (13) a. あの人が 綺麗 だ。 b. あの人が 先生 だ。 (13a, b)は形容動詞語幹と名詞の類似性を示すものであり、Miyagawa が形容動詞を名詞 的形容詞としたことについては既に触れた1。形容動詞(語幹)と名詞の表面的な類似性
は次のような例にも見出せる。 (14) a. 幸せ-が 訪れる / 平和-が 続く b. 幸せ-を 呼ぶ / 平和-を 考える c. 幸せ-の パンケーキ / 平和-の 祈り (14)では主格・対格・属格の格標識が現れていることから、形容動詞の語幹と目される要 素が名詞と判断できる。しかし、当該要素が形容動詞と判断されるのは、格標識ではなく 形容動詞特有の活用語尾が付加されることによる。 (15) a. 幸せ-だっ た / 平和-だっ た b. 幸せ-な 家族 / 平和-な 時代 (15a)では活用語尾「だっ」、(15b)では「な」が付加されているが、特に注目すべきは 「な」である。「な」は形容動詞では生起するのに対し、名詞では生起しない。 (16) *男-な 家族 / *男-な 時代 cf. 男-の 家族 / 男-の 時代 (15b)と(16)の対比は形容動詞と名詞にやはり相違があることを裏付けるが、そのような ことは副詞の共起可能性を示す次の Miygawa による例にも見て取れる。 (17) 随分 静かだ (18) *随分 男だ 形容動詞(語幹)と名詞の表面的類似性について見たが、これと同様の状況は形容詞に も、数は多くないものの、観察される。(19)の例で確認しよう。 (19) a. 高-が 知れる / 悪(ワル)-が 集まる / 黒-が 良い b. 高-を 括る / 悪-を やる / 黒-を 使う c. 高-の 知れた もの / 悪-の 交渉術 / 黒-の 魅力 これらの例で「高」、「黒」、「悪」は形容詞語幹と同形であるが、やはり付加されている格 標識から名詞と判断できる。形容詞と見做される場合には、名詞で生起し得ない形容詞特 有の活用語尾が現れる。 (20) a. 高-かった / 悪-かった / 黒-かった b. 高-い 質 / 悪-い 状態 / 黒-い 犬 (8)で takak を形容詞語幹としたが、(19)-(20)において範疇間で共通しているのは takak/kurok/waruk から末尾の -k を除いた部分である。そこで当該要素からあらゆる接 辞を取り払った語の中核が語根になるとしよう。語根は範疇中立的な要素と考えられ、そ うであるならば、それが形容詞と名詞に共通して含まれるのは極めて自然なことである。 語から全ての接辞を取り払った部分を語幹ではなく語根とする点は前節で見た Nishiyama(1999)の分析(10)と一致する。しかし、既に指摘しているように、Nishiyama
の2種類のコピュラを用いた分析には問題がある。一方、Chomsky(2007, 2008)以降仮 定されているように、従来の語彙範疇主要部は範疇決定要素である機能範疇( , , , 等)と語根 R に分割される(cf. Marantz(1997))。これを名詞と形容詞に適用すると次の ような句を構成することになる。 (21) a. [ P [RP ... R ] ] b. [ P [RP ... R ] ] (21a, b)では、まず、R が投射して RP を形成する。R は範疇決定能力を欠くため標示が 付与されず、この意味で範疇中立的である。RP は範疇決定要素の あるいは と併合し、 (21a)のように と併合すれば の標示がされて名詞句が派生され、(21b)のように と 併合すれば の標示がされて形容詞句が派生される。語幹から語根を除いた残余が範疇決 定を行う主要部になるとすると、日本語形容詞で に相当するのは -k である。Nishiyama は -k を実質的な叙述コピュラとしたが、それでは形容詞と名詞に共通して含まれる範疇 中立的な要素が(20)のように -k の生起によりはじめて名詞でなく形容詞として振る舞う ようになることが的確に捉えられない。なお、 に相当する形態素は(19)では音形を持っ ていないが、有音のものについては後で触れる。 同様の分析は(14)-(15)にも当てはまる。(9)で仮定した形容動詞の語幹から接辞を取り 除いて更に小さな要素である語根を取り出すことは、(14)-(15)を考慮に入れた場合、不可 能に思われる。これについても形容詞の -k と平行的に、Nishiyama の分析で叙述コピュ ラとされた -de を範疇決定要素と見做す。-de は「である」の一部であるが、歴史的に「で ある」は「に-て-あり」に由来する。形容動詞語尾「-に」に意味的にほとんど空虚と思わ れる接続助詞「-て」が添加され、融合を経て -de が形成されたと考える。「- に」につい ては i が挿入母音の可能性もあり、-n のみを問題とすれば、複合的な -de だけでなく単純 な -n も形容動詞の範疇決定要素の候補となる。-de は現代語でコピュラ ar と縮約されず に共起可能であるが、-n も辛うじて「遥かなる(山の呼び声)」等にその共起が見られる。 (15a, b)のような例からも、-de と -n は相補分布を為す1つの形態素の異形態と言えよう。 形容詞と形容動詞が形態的に区別できるのは事実であるが、それは歴史の名残とも言 え、形容詞の欠乏を補うべく形容動詞が発達したのもまた事実である(類似のことは屈折 比較と迂言比較の2種類の形容詞を持つ英語にも当てはまる)。意味機能的側面において は何れも英語の形容詞に相当する。意味機能面に留まらず、両者の統語的な区別を不要と する見解は Nishiyama(1999)だけでなく Baker(2003a, b)等にも見られる。本論文でも 形容詞と形容動詞の区別をしない立場に立って議論を続けることとし、以下、説明上の区 別が不要なときには両者を形容詞と呼ぶことにする。 ここで、形容詞の範疇決定要素 に後続して現れる ar は Nishiyama が主張するような
ダミーコピュラでなく、実質的なコピュラであるとしよう。コピュラは専ら叙述の仲介を 果たすものであるが、形態的には動詞であることから範疇決定要素 と仮定する。ar は 外項に対しθ付与を行わないとすると、この は非対格動詞的性質を持つ。以上のことか ら、-de が ar を伴った構造は(22)のようになる。 (22) [P [ P [RP sizuka ] de ] ar ] 「である」は、Nishiyama の議論のとおり、音韻形態的な融合が適用され「だ」となる。 Nishiyama の議論から -k も ar を伴い -de と平行性を成すとすると、(23)のような構造が 与えられる。 (23) [ P [ P [RP taka ] k ] ar ] 音便化を受けた現在形の語尾はやはり融合の結果である。(22)と(23)では従来の分析と異 なり が補部に R の投射を取らず、 P を取っている。これについては次節で立ち戻る。 -k を語根から切り離す分析について、-k の独立性の欠如から、Namai(2002)が -k と -de の構造的平行性に異議を唱えている。本論文では -k を -de と同様、語根から独立した 範疇決定要素とし、それにより(19)-(20)における名詞と形容詞の区別を捉えた。また、 Nishiyama(2005)に指摘があるように、もし -k が語根から独立しておらず、その一部に なっているならば、(24a)のように -k を含んだ語根に名詞接尾辞「-さ」が付加されても 良いはずである。ところが、実際にはそうでない。 (24) a. *高く-さ/*高い-さ b. 高-さ 「-さ」が音形を持った範疇決定要素 とすると、(21a)のように R の投射と併合する。形 容動詞語幹にも -de が含まれず、(24b)と同様に「静か -さ」が可能になるとすると、-k と -de の構造的平行性は認められるべきであろう。 4.主要部の対併合と P の標示 日本語の形容詞句が範疇決定要素 の投射であり、コピュラ ar が伴えば が併合して 非対格 P を形成するという分析を行った。本節では P の標示がもたらす統語的・意味 的効果について考える。特に P の標示が不可視となるような場合について検討する。 前節で形容詞の語根と -k を切り離した Nishiyama(1999)の分析に対する Namai(2002) の批判に触れた。それによれば、語根と -k は分かち難く密着し両者に独立性が無い。本 論文では -k を範疇決定要素とし、-k を語根から独立させる分析に利点があると考えた。 しかし、次の Namai の例が示すように、語根と -k が統語的に不可分な構成素として振る 舞うのも事実である。 (25) a. 山は [高く そして 美しく] なった。
b. *山は [高 そして 美し]-く なった。 2つの独立した主要部を統語的に結合する方法としては、主要部を移動させ、付加、つま り、対併合することが考えられる。R と範疇決定要素が対併合したとき、範疇決定要素は 形態的には R に依存する接辞であるため、範疇決定要素の標示は不可視になると Chomsky(2015)は主張している2。語彙範疇の標示は範疇決定要素により与えられ、ま た、Bošković(2014)で は 語 彙 範 疇 の 句 は 全 て フ ェ イ ズ に な る と さ れ る( た だ し、 Bošković は範疇決定要素に言及していない)。これを取り敢えず について受け入れる と、 P は本来、フェイズを成す。本節ではそのように仮定し、次節でその根拠を提示す る。しかしながら、 が対併合で不可視になれば、 P も不可視となりフェイズ性も失わ れる。 (26) [P [RP (DP) taka ] k ] → [PP [RP (DP) taka ] taka-k ] ついでながら、Chomsky(2015)は、主要部移動前に範疇決定要素から R に対し一致に関 わるϕ 素性および他の素性が継承され、それにより R は RP 極辺に移動する補部 DP と一 致を起こして RP が <ϕ, ϕ> の標示を得るとしている。この標示の結果、RP のフェイズ性 が活性化される。これは一致を有する英語には当てはまる(一致が常に形態的に具現する か否かは問題としない)。Baker(2003a)によれば、英語形容詞が ϕ 素性を有するのに対し、 日本語形容詞はϕ 素性を欠く。その帰結として日本語では形容詞が一致に関与しない。 これが正しいとすると、Chomsky の提案のように素性継承があるとしても、(26)に例示 される日本語 P では RP に <ϕ, ϕ> の標示がされず、 P 共々フェイズにならない。 Chomsky に従えば、R と範疇決定要素の対併合は R の範疇化のために必要となる(cf. Embick and Marantz(2008))。R の範疇化は対併合に伴う範疇決定要素の R への接辞化 があって完結する。日本語の膠着語という特性に関係するのかもしれないが、ここで と R の対併合に伴う の接辞化が日本語においては外部機構への転送前に統語的に起こると いう仮説を立てることにしたい( 以外の範疇への適用は今回は考えない)。一方、英語 については転送後、 の接辞化が起こるとする。そして、次のように Chomsky の提案の 再定式化を行う。 (27) 統語的な接辞化があった場合、範疇決定要素の標示は統語的に不可視となる。 (27)により、日本語では(26)のように が統語的に不可視となり、その投射も不可視と なってフェイズにならない。 P が非対格 (コピュラ)、更に時制辞 T と併合し、(28)が 生ずる。 (28) [TP [P [ PP [RP (DP) taka ] taka-k ] ar ] T ] P の標示が不可視になることから、 の併合相手は標示を持たない RP と区別されない。
したがって、従来の と RP の併合に矛盾せず、前節の(22)-(23)で触れた が P を補部 に取るという問題も解消される。また、1節で触れた日本語形容詞が動詞と類似点を持つ という特徴も、 が不可視となり と併合されることにより自ずと導かれる。つまり、標 示を言わば失った形容詞が、標示の上で、 に依存することになるのである。形容動詞に ついても同様の派生となる。 (29) [TP [P [ PP [RP (DP) sizuka ] sizuka-de ] ar ] T ] が -k でなく -de であることにより、形容動詞は動詞と類似性を示さないように見える が、これは単に音韻形態的な相違である。(4c/13a)と(4d/13b)で形容動詞(語根)と名 詞が表面上、類似することを見た。しかし、後者には(29)と異なる(30)のような構造が考 えられるべきである。 (30) [TP [ P [RP [ P otoko ] de ] ar ] T ] 伝統的な日本文法の区別を踏襲したとも言えるが、(30)の -de は範疇決定要素 でなく、 断定動詞あるいは純粋なコピュラの語根 R である。(29)の は標示の上で に依存する が、(30)の は独立を保つ。それにより、(17)-(18)に挙げた形容動詞と名詞の相違も捉 えられると思われる。 さて、(28)の RP 内に生ずる DP に注目したい。この DP からは次のように数量詞を遊 離できる。 (31) a. 最近、全ての野菜が 高い。 b. 野菜が、最近、全て 高い。 (31b)では DP が表層主語の位置(TP 極辺)に生起している可能性が高いが、構造的に 低い位置にある数量詞「全て」と結び付けることができ、RP 内から移動が起こったと見 做せるのである。意味的には対象(Theme)項と解釈できるため、この DP は R に外部併 合した形容詞の内項と考えることができる。(31a)では対象項 DP が基底位置に残留して いると思われるが、RP 内にありながら主格が付与されている。よく知られるように、日 本語で状態述語が目的語を取る場合、その目的語には主格が付与される(Kuno(1973), Shibatani(1978)等参照)。形容詞はまさに状態述語である。 (32) 太郎は 犬が{怖い/嫌いだ}。 竹沢(1998)は主格があくまでも T(竹沢では I)から付与されるものとし、この事実に (33)のような記述的説明を与えている。 (33) 状態述語は格付与能力を持たない語彙要素であり、またその投射は格付与に関 して「透明」である。 しかし、なぜ、格付与に関して透明になるのか。今、状態述語の投射となるのは、 P お よびそれを包含する非対格 P の総体である。現行のミニマリスト・プログラムでは格付
与は格付与能力を持った主要部による探査の結果起こる。(28)-(29)では R と の対併合 によって標示が不可視となりフェイズ性を失った P が非対格 P に含まれている。非対 格 P は状態述語となることもあるが、一般にフェイズにならないとされている。フェイ ズに関しては Chomsky(2000)以来、次のようなフェイズ不可侵性条件(PIC)が仮定され ている。 (34) フェイズ á は、その極辺を除き、á の外部にある要素から接近不可能である。 この PIC に基づけば、フェイズにならない投射はその外部にある主要部からの探査を妨 げず、この点において(33)に通じる。 P と非対格 P の何れもがフェイズにならないこと により、RP 内の DP が PIC に抵触すること無く主格を付与されることになるのである。 英語では形容詞が目的語 DP を取るとき(35)のように前置詞を介在させることは既に触 れた。
(35) John is [P afraid her ].
統語的に併合で組み込まれるのか、書き出し段階で挿入されるのかは別にして、DP を導 く of は P の外に生起する T から DP が主格を付与されないため必要となる。上での提 案により、英語では対併合に伴う接辞化が統語的に起こらないため は可視的なままであ り、 P もフェイズとして機能する。フェイズ補部はフェイズの完成時に転送を受けるの で、目的語 DP を含んだ RP は P が主格付与子 T の探査領域に入る前に既に転送されて いる(転送された領域を≪ ≫で示す)。
(36) T ... [P John ≪afraid her≫]
故に PIC から予測されるように英語では形容詞の目的語 DP に主格が付与されず、代わ りの格付与子として前置詞が投入される。ここでは問題とならないが、先ほどの Baker (2003a)の議論によれば、英語形容詞は ϕ 素性を持ち、そのように仮定すると、 から R が素性継承を受け目的語 DP と ϕ 素性一致が起こり得る。そして、R の投射に <ϕ, ϕ> の 標示がされると(37)が生じる。
(37) [P John [<ϕ, ϕ> her afraid herherher ]]
しかし、<ϕ, ϕ> のフェイズ性の活性化は範疇決定要素の不可視化と引き換えに起こるた め(注 2(ii.6)参照)、この活性化は起こらないと考える。
日本語の P は主要部の対併合により標示が不可視になるとしたが、更にそれを支持す る事実を取り上げたい。Siegel(1980)による次の英語の例を見よう。
(38) Marya is a beautiful dancer.
この例の a beautiful dancer のように形容詞が関係節を介さず直接、名詞を修飾する場 合、(39a)のような交差(intersective)と(39b)のような非交差(non-intersective)の2通り の解釈があるとされる。
(39) a. someone who is beautiful and who is a dancer (交差)
b. someone who dances beautifully (非交差)
非交差解釈は、名詞の語彙概念に様態副詞的意味を加えるような解釈になる。対照的に、 関係節に埋め込まれた形容詞が名詞を間接的に修飾する(40)のような場合には交差解釈の みが許される。
(40) Marya is a dancer who is beautiful.
Nishiyama(1999)は日本語に関し、(38)に対応する(41)には交差解釈と微妙ではあるが 非交差解釈の両方があると述べる。 (41) 美しい ダンサー これに対し Baker(2003a)は、日本語形容詞の直接修飾における非交差解釈は不可能であ り、間接的な修飾のみが存在するとしている。筆者の判断でも(41)の非交差解釈はかなり 困難なように思われる3。 日英語における形容詞の直接修飾の有無を(26)と(36)に示した日英語の P の違いに結 び付けることができる。つまり、2つの要素が何らかの意味関係に入るとき、両者の標示 はその意味関係に応じたものでなければならない。修飾は対併合したもの同士の関係であ るが、特に移動を介さない対併合の結果は転送時、次のような条件の適用対象になるとす る。 (42) 移動を介さず対併合した要素同士は、標示の可視性において同等であった場合、 解釈可能となる。 (42)によれば、可視的な名詞の範疇決定要素 の投射に移動無しで対併合する要素が修 飾語と解釈されるためにはその標示も可視的でなければならない。英語では P の標示が 可視的なのに対し、日本語では不可視となる。よって、英語の P は P と直接、対併合 できるが、日本語ではそれが不可能であり、このことから非交差解釈の有無が説明され る。 仮に(41)で非交差解釈があるとすれば、不可視の P を含んだ P が P に対併合する可 能性が考えられる。しかし、 P と P の対併合では適格な修飾解釈をもたらさないとす ると、(41)に対する非交差解釈の許容度の低さはやはり標示から説明される。一方、(41) の交差解釈には Baker(2003a)が主張するように関係節が関与していると考えられる。つ まり、関係演算子をホストする関係節 CP または TP(<ϕ, ϕ>)が介在することにより交差 解釈が得られるのである。(38)が多義的であることについて、 P と P の対併合が本来、 交差解釈と非交差解釈の両方を許すのであれば、それは当然の結果であろう。表面上は判 別不可能であるが、(38)にも関係節が介在し、何らかのレベルで Nishiyama(1999)が述 べるような刈り込みが起こって交差解釈が生じるような可能性も否定されない。
(42)からいわゆる結果構文における日英語の違いも捉えられることを指摘したい。 (43) He pounds the metal fl at.
(44) *彼が 金属を 平たく 叩く。 (43)-(44)では下線を付した P が結果述語になる。結果構文には様々な分析があるが、結 果述語が P を修飾しつつ P に含まれる内項 DP を叙述するとしてみる。 P の修飾語と 解釈されるためには P に対併合されなければならないが、それには(42)を充たすことが 求められる。非交差解釈の議論で見たように、英語 P は標示が可視的なため、 P と対併 合ができる。(43)では P と P の対併合により、 P の語彙概念に結果状態を加えるよう な解釈になる。日本語では P の標示が不可視となり、 P と対併合ができない。 P が不 可視であるというのは統語計算にとっては標示の無い RP と等しい。とすると、標示の可 視性において同等である 補部の RP と対併合が可能と思われる。 補部の RP を適格に 修飾するため、修飾語は R の語彙概念に含まれる(結果)状態を限定あるいは同定する ものでなければならない。これと近い主旨で次のような記述が高見(1997)に見られる。 (45) 日本語の結果構文は、動詞が、結果述語の意味を内在的に持っているか、含意 する場合にのみ適格となる。 活動動詞「叩く」を含む(44)ではこのような制約が充されない。これに対し、達成動詞 「延ばす」を含む(46)では充されるため適格な文となる。 (46) 彼が 金属を 平たく 延ばす。 (46)では RP と結果述語の対併合により、R の語彙概念に含まれる結果状態の同定が行わ れる。英語で(45)のような制約が強く働かないのは P が可視的で P に対併合ができる ためである。併合は自由に行われるため、 P と RP が外部併合するのでなく、R の投射 同士が直接、対併合することも起こり得る。したがって、英語の方が日本語よりも形容詞 を用いた結果構文が生産的になると言える。なお、(44)で「平たく」を「強く」や「激し く」等に置換した場合、文は適格となる。これは、(47)のように不可視の (= -k)を包含 する可視的な P が P に対併合しているのであり、結果構文にはならない。
(47) [ P [ PP [RP tuyo/hagesi ] tuyo/hagesi-ktuyo/hagesi-k ] ] 5. P フェイズにおける補部 RP の書き出し Chomsky(2000)以来、標準的なフェイズの候補として CP と他動的 P( *P)の2つが 立てられてきた。それに対し、Bošković(2014)のように全ての語彙範疇の投射がフェイ ズになるとする議論もある。前節では日本語の P がフェイズの資格を持つと仮定し、主 要部 と R の対併合を介した統語的な接辞化により日本語 P が英語 P と対照的な振る 舞いをすることを述べた。統語演算の適用は自由であるとする Chomsky の見解にも触れ
たが、これを仮定すると主要部の対併合が起こらないこともあり得る。フェイズが完成し た時点で主要部は補部を転送するが、問題となる対併合が起こらなければ は RP を転送 することになる。本節では、 を伴わずに RP のみ書き出された断片文の存在により、日 本語 P がフェイズであることを裏付ける。
まず、英語で P をフェイズとする証左として、Bošković(2014)から(48)を引用する。 (48) John must be tired, and Peter must be too.
(48)では(49)のように省略が起こっている。 (49) ... Peter must be [P PeterPetertiredtiredtired ] too
フェイズ主要部とならない be が省略を免れているため、省略されているのはその補部の P あるいは 補部の RP である。Bošković によれば、省略の対象はフェイズ、またはフェ イズの補部である。よって、 P がフェイズと推定される。このことは、(50)における形 容詞の補部の wh 移動とも整合する。
(50) Of whom is John proud?
PIC を充すべく、wh 句は CP までの各フェイズ極辺へ順次、内部併合を行う。(50)でも P フェイズ極辺を経由することにより、wh 句が P フェイズから摘出可能となる。この ようにフェイズは統語計算に局所制約を課しつつ、知覚運動(SM)機構における音韻解釈 に有効な領域を定義する。また、概念・意味(CI)機構における意味解釈にも有効な領域 を定義する。(49)の P = Peter tired、(50)の P = John proud of whom は、何れも意味 解釈の単位としての命題を成す。これらのことから、英語の P がフェイズになるという 見解は一定の動機付けを持つ。 英語で P がフェイズになることについて Bošković(2014)の議論を振り返ったが、日 本語の P についてはどうか。日本語の形容詞も項を取って意味的に一纏まりの命題を構 成する。次の例を見よう。 (51) 私は 日本が 恋しい。 英語と異なり、日本語はコピュラが形容詞から独立して現れることは(焦点標識の介在が 無い限り)無く、 P のみが省略される状況は見出し難い。 (52) a. *彼らは 日本が 恋しい ようだが、私も 日本が 恋し日本が 恋し い。 b. *彼らは 日本が 恋しい ようだが、私も 日本が 恋しく日本が 恋しく ある。 ここで、形容詞が関わる断片文の例を見よう。 (53) (わっ、)旨っ/早っ。 今野(2012)はこのような例を「イ落ち」と呼ぶ。呼称のとおり形容詞の語尾が脱落して いるが、独語として瞬時に発せられる簡略化された感嘆文の一種と言える4。今野が指摘 するように、このような文には形容詞に対する主語相当句が伴うことあるが、それには主
格が付与されない。 (54) これ(*が)旨っ。 主格の付与は、現行のミニマリスト・プログラムでは T の本質的な特性ではなくなって いるが、その介在が無ければ起こらない。(54)の事実から今野はイ落ち文に T が含まれ ず、補文化辞 C、否定辞 Neg といった機能範疇も欠落しているとする。今野によれば、 (55)に示すように主語相当句が AP の主語位置を占め、AP は小節を成す。これは述語と なる語彙範疇の投射を小節とする Stowell(1983)の分析に従ったものである。 (55) [AP[*埋め込み] (主語名詞句)形容詞語幹[+ 声門閉鎖] ] (55)で[*埋め込み]はこの小節が主節でのみ起こることを、[+ 声門閉鎖]は形容詞語幹が 声門閉鎖で終わることを表している。また、今野は小節がフェイズになるとする Yokogoshi(2003)と den Dikken(2006)の主張に基づき、イ落ち文もフェイズを形成す るとしている。 今野が採用する Stowell の小節構造については既に Kitagawa(1985)等の反論があり、 このような分析は何れにせよ問題があると思われる5。この点は清水(2015)にも指摘さ れている。清水は、イ落ち文の主語相当句は構造上の主語と区別されるべきであるとし (清水は「主語的共起要素」と呼ぶ)、むしろ、感動の対象の提示がされたものであるとし ている。(54)では形容詞が属性形容詞であり、主語相当句は属性が付与される対象と言 え6、表面上は主語のようであるが、θ役割においては対象項である。一般に、対象項は 内項として語彙範疇の補部位置に併合される。形容詞のもう1種類として感情形容詞があ り、後者もイ落ち文を構成するが、清水はそれについて興味深い報告をしている。(56a) のように感情主(Experiencer)のθ役割を担う項が生起した場合、非文になるというもの である。 (56) a. *私 日本 恋しっ。 b. 日本 恋しっ。 (= 私は 日本が 恋しい。) (56a)が非文となる根本的な理由について、清水は明確にしていない。このような例で主 語となる感情主項が現れないのはなぜなのだろうか。 P 内主語仮説の下では主語が P 極辺を占める。 (57) [P 主語 [RP 目的語 R ] ] これを語彙範疇一般に拡張した述語内主語仮説が、今野(2012)の分析の基礎となった Stowell(1983)の提案である。しかし、内部に主語を含んだ語彙範疇の投射を(意味的に でなく)統語的に節的単位と見做す必然性は無い。むしろ、それが範疇決定要素 の投射 だとすると、イ落ち文は小節ではなく P フェイズと見做せる。
(58) [P 外項 [RP 内項 R ] ] (54)と(56)から、転送され書き出されているのは の補部 RP のみと考えることができ る。 (59) a. [P ≪これ 旨≫ k ] b. [ P 私 ≪日本 恋し≫ k ] このような RP の書き出しはフェイズにおける転送により極めて自然に導き出される。 (59)で P がフェイズであるとすると、その主要部 (= -k)は補部の RP を転送する。結 果として、転送された RP 内の要素「これ 旨」、「日本 恋し」のみが書き出され、RP の 外の要素である主要部 -k および(59b)の外項「私」は書き出しを受けない。 (60)も重要な事実である。 (60) *私 恋しっ。 (=私は 日本が 恋しい。) 意図される解釈において、(60)は非文となる。日本語は代名詞脱落言語であるので目的語 に空代名詞を仮定し得るが、それにも拘らず(60)が非文となるのはなぜか。(60)が P フェイズから転送されたものとすると、その書き出しは(59b)に一致すべきである7。一 方、(60)に対応する転送のされ方は(61)になる。 (61) *[P ≪私≫ [RP 日本 ≪恋し≫] k ] このような転送が不可能なことは、 P をフェイズとすれば当然の帰結である。 イ落ち文の活用語尾を欠く形容詞を清水(2015)は体言化形式とし、今野(2012)のよう な AP 分析ではなく、NP 分析を取る。NP 分析の議論で清水は次のような例を援用する。 (62) a. 男は [酒代が 欲し さ]に 強盗をはたらいた。 b. 男は [酒代 欲し さ]に 強盗をはたらいた。 (62)では名詞接尾辞「-さ」により括弧の部分が NP となる。(62a)はやや古風であり (62b)より容認度が低いと思われる。両例を文法的とした上で、清水は、当該 NP 内で形 容詞の目的語に主格標識「-が」が随意的に現れる点でイ落ち文に類似しているとする (注 7 参照)。しかし、このような「サニ文」では、(56a)で問題となった主語が(63)のよ うに生起可能なことが指摘でき、この点でイ落ち文とは異なる。 (63) 男は [自分が 酒代 欲し さ]に 強盗をはたらいたのではなく、家族を食わせる ためにやったのだ。 活用語尾が無ければ名詞であるとするのも短絡的と思われ、本論文ではイ落ち文を NP と する見解は取らない。 P フェイズにおいて RP のみ転送されるような現象は、形容詞だけでなく形容動詞の 場合にも当てはまることを確認しよう。
(64) 漢字 苦手っ。 (64)に対応する転送の仕方は(65a)であり、(65b)が排除されるのは(60)の場合と異なら ない。 (65) a. [P 私 ≪漢字 苦手≫ de ] b. *[P ≪私≫ [RP 漢字 ≪苦手≫] de ] (64)が話者自身について発せられたとすれば(65a)から派生されたと考えられるが、他者 について発せられたとすれば(66)から派生されたと考えられる((66)の外項は書き出しが 可能なようにも感じられるが、その場合は発音上、文末の省略が関与し(注 7 参照)、 補部の RP のみ転送され書き出されたものとは異なるとしておく)。 (66) [P この人 ≪漢字 苦手≫ de ] 形容動詞まで含めればイ落ちというより 落ちと呼ぶべきであろうが、ここで重要なの は、(67)のような断片文が(68a)のように転送された解釈は持つが、(68b)のように転送 された解釈は持たないということである。 (67) この人 苦手っ。 (68) a. [P 私 ≪この人 苦手≫ de ] b. *[P ≪この人≫ [RP 漢字 ≪苦手≫] de ] 繰り返しになるが、これは P をフェイズとすることの所産である。 6.結論 日本語においても英語においても P がフェイズであることを主張した。英語では主要 部 の補部 RP の省略、日本語では RP の書き出しという事実からそのことが裏付けられ た。一方、両言語の形容詞には幾つかの重要な相違点があり、本論文はそれらを統一的に 捉えるべく Chomsky(2013, 2015)の枠組みに基づいた説明を試みた。Chomsky によれば、 語根の範疇化のため、フェイズ主要部となる範疇決定要素と語根 R が対併合され、範疇 決定要素の標示が不可視となる。本論文では、主要部の対併合に伴って起こる接辞化のタ イミングが日本語と英語では異なると考えた。範疇決定要素 と R の対併合は統語的に 起こるが、日本語では接辞化が転送前に起こり、英語では転送後に起こる。そして、接辞 化が転送前に行われる場合に限り、 が統語的に不可視となる。 が不可視となることに より、その投射も標示がされない。帰結として、まず、不可視となる日本語の は標示の 上で に依存し、動詞のように時制を担うことになり、同様に不可視となる日本語 P は、外部からの探査を妨げることなく内部の DP への主格付与を許し、また、可視的 P との対併合が不可能なため直接修飾に特有の非交差解釈を生じることがなく、更に、可視 的 P とも対併合が不可能なため生産的には結果構文を作ることができないといった特徴
を持つことになる。可視的な英語 (P)はこれらと逆の特徴を持つことが説明される。日 英語の形容詞について今回論じていない他の相違が捉えられる可能性もあろう。議論の焦 点を形容詞に絞ったが、他の範疇に同様の分析が適用可能か検討する必要もある。接辞化 が日本語では転送前に起こるとする提案は膠着語であることに関係付けられるかもしれな いが、別の可能性も吟味しなければならない。これらについては今後の研究課題とした い。 注 1. 形容動詞語幹と名詞との類似性は早くから指摘されており、伝統的な日本文法研究で も時枝等が名詞の一種としている。 2. Chomsky (2015)は、R の投射と *(他動的 )が併合されて形成される(i)において (ii.1-7)の一連の派生が起こると主張する。本論文の議論に特に関係するのは(ii.6)で あるが、標示の可視性に関しては についてのみ論じ、 / * については論じない。 (i) [ * [á DP [ R [â ... ] ] ] ] (ii) 1. form R-â by EM 2. IM of DP in á (EPP)
3. Merge *, reaching the phase level 4. Inheritance
5. Labelling; á is labelled <ϕ, ϕ>
6. R raises to * forming R with * affixed, hence invisible, so phasehood is activated on the copy of R, and DP (which can be a wh-phrase) remains in situ, at the edge.
7. transfer of â 3. Baker (2003a)は修飾関係になる形容詞と名詞の間に ϕ 素性の一致が無ければ併合が 行われないとし、日本語ではそれが無いため直接的な修飾が成立しないと主張する。 他方、Chomsky (2008)等では、併合は自由に適用されると考えられている。本論文 でも併合は自由とし、素性の一致が課されないと仮定する。 4. イ落ちは古語でも次のように行われ、伝統文法では「語幹用法」として知られる。 (i) あな、憎。ことごとしや。 (『源氏物語 蓬生』) 5. Kitagawa (1985)は次のような疑問文を問題とする。 (i) How talented do you consider [SC him ]?
(i)において主節 CP に併合された wh 句は小節(SC)の述語である。従来、指定部 (=主語)を残置して中間投射のみを移動させることは不可能とされる。(i)が文法的 であることから、小節が述語の投射であるとする見解は矛盾を孕んでいる。 6. 清水 (2015)は基本的に西尾 (1972)の属性形容詞と感覚形容詞の分類を踏襲する。西 尾によれば、客観的な性質・状態の表現を為す形容詞は属性形容詞であり、主観的な 感情・感覚の表現を為す形容詞は感情形容詞である。しかし、清水は、「痛い」、「寒 い」等、西尾が感情形容詞の下位区分とした感覚形容詞も属性形容詞としている。 7. 清水は感情形容詞が補部を伴わない(i)のような例を非文としている。 (i) (*)恋しっ。 しかし、イ落ち文が発話文脈を了解している話者の独語であることからも、筆者には 補部項の生起が必ずしも義務的とは思われない。ちなみに(ii)は十分許容が可能と思 われる。 (ii) 憎らしっ。 また、(56b)について、清水は(iii)のように主格標識「が」が随意的に現れ得るとし ている。 (iii) 日本が 恋しっ。 しかし、清水も述べているように、一般的に用いられる形式は(56b)であって(iii)で はない。(iii)はここで問題としているイ落ち文ではなく、発音上、文末を切り詰めた もののようにも感じられるため、議論の外に置く。 参考文献
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