NII-Electronic Library Service 北 陸大 学 紀 要 第
14
号 (1990
) pp.
129〜150
1
珠
江
三
角
洲
の
地
域 社 会
と
宗族
・
郷紳
一
南 海県 九 江 郷
のば
あ
い西 川
喜 久
子
は じ め に(
1) 南
海 県 九 江郷の経
済i
)
蚕 桑 と糸
墟ii)
魚 苗 と魚餉
iii
)
米 穀と穀 埠 (2)
南 海 県 九 江 郷の
宗
族・
郷紳 至)
概 況ii)
各女
生につ いそ
お わ りに は じ め に南 海 県は西 江 と北江が 運ぶ泥土 に よっ て形 成さ れ た 珠江三角洲の 西 北
部
に位 置 し、
明清時代 、
ア 広 州 府 下14
県 中の首県
であり、番
禺県
とと
もに広 州 府城内に県治
を置い て い た。県
内は6
都64
堡 に分 か れ、
都 ごと に1
巡 検 司を置い て堡 を分 治 し た。 九江 堡は江 浦(
巡 検)
司の 管 轄卞
にあっ た が、乾
隆五十一
年(
1786
)
、
南 海 県に主簿
を新 設 して江浦
司管
内の18
堡のう ち 南 部の5
堡 を分 治 する こ と とし、
九 江 堡に主 簿 庁を『
置い た。九 江 堡は九 江 儒
林
郷 とも称
し、
南 海県
の西 南 端にあっ て、新会県 ・
順徳県
と境
を接
し てい る。 その人口は、 清 末 道 光 年 間(
19
世 紀 中葉)
に は 「男 女二 十 餘 萬 」の多 きに上っ て お り 「九
江 郷落
爲 南 海 冠 」』
と ある如 く、
南 海県
内 最 大の郷であっ た。 の みならず
、 九 江 郷は ぐ仏山鎮
と並
ぶ県 内の 二 大経
済 中心 地の一
つ で もあっ た 。 仏 山が 西 江・
北江 の 主流 か ら や や離れ、
手工 業に よっ て繁 栄し たの に対 し、
九 江は西 江の 河 岸に位置
し、 桑 園 囲 の 囲 堤に よっ て 大河 の氾
濫
を防
ぎつ つ、
蚕 桑 業 と養 魚 業を発 達 さ せて きた。 明 末 清 初の人 陳 子 升(
南 海 県 沙 貝 郷 か ら九江
郷に移 居)
は、
九 江 を 仏 山と対 照 して大 意つ ぎの ように述べ てい る。
「
南 海 県は広 州 府の首 県であっ で、
中でも
仏 山と九 江は繁 栄 を誇っ てい るが、
その治め方は異 なる。 仏
山
は省
城に隣 接 して お り、
これ ま で 二・
三 の巨 族が「
愚 民 」』
を統 率 し て お り、 財貨
とい えば製 鉄の み で あっ た。 近 年、 よそ 者が流 入 して商 入 が あふれ、
土着の住 民は よそ者に
家
屋 を貸
して、
自分等
は小さ くなっ て暮
ら してい る。 賑や か な街 並は まる で城 市の如 くであ り、
(
特 設の〉
官 を 置 か な ければ治め ら れ ない、
と思 うか もしれ ない が、
そ うで はない。
*外
国 語学
部
Faculty
ofForeign
LangVages
129
NII-Electronic Library Service
2
西 川 喜 久 子一
方九江は南 海県の 県境
にあ り治安
が 悪い 。 池 塘が入 混 じり、 住 民は養 魚に従 事 して末 利を逐い
、米穀
は他
郷 から買い 入れて お り、
言 葉 遣い や身
な りも粗 野であ
る。 だか ら(
特 設の)
官 を置い て も騒 動は防 げない
、
と 思 うか も し れ ない が、
さにあ らず。 仏 山は省 城に駐 在 する 官で治め られるが、
九 江に は九 江の官 を置い て治 めるべ きである。
何 故 か といえ ば、
仏 山 住民の習 俗
・
気質
は城市
と変
わ ら ない が、 九 江は城市
と は異なり、
郷村
地帯
だか ら、
省 城の官
で は 掌 握で き ない の である」。 と。 こ こ に省 城
・
仏 由鎮 とは異なる郷 村 地 帯と して の九 江 郷の特 質が簡 潔に記されて い る。 従 来、
仏 山 鎮 を対象
と し た研 究は 比較
的多
い が、
九江郷 を とり上 げた專論
は管
見の限 り見当
ら ない。
以 下、
この九江 郷の明 清 時 代 に おける経 済と宗 族・
郷 紳の実 態を明 らか に したい 。(
1
)
南
海 県 九 江 郷の経 済1
) 蚕 桑と糸 墟明清時代
、 珠 江三角
洲の農業
生産
は、 大 まか に言っ て南 部 河口付
近の海 浜で は沙
田 稲 作を、 早 く か ら陸地化 した北 部で は基 塘 方 式 を特色 と し た。 基 塘 方 式とは、
三 角 洲 特 有の低 湿地 に塘(
池)
を掘 り、
その 泥 を積んで基 (堤)
を築い て、
塘では魚 を養い、
基には果 樹、
蔗 糖、
’
桑 な ど を 植 える生 産方式
で「
果
基魚塘」
「桑
基魚
塘 」な ど と称す
る。 基塘方式
が開発
さ れ る よう
になっ たの は、 河 川の氾 濫に備 えて桑 園 囲 などの大 堤 防を築い た結 果、
潅 水・
排 水 が 困 難とな り、
稲 作に 適 さ な くなっ た ため であろ う。 こ の種の基 塘方
式 が 最 も早
く始 まっ たの は、
南 海 県 九 江 郷 を 中 心 とする一
帯であっ た という
。基 堤には、 明 初の 頃は
龍
眼な どの 果樹
が主と して植
えら れ 「果 基魚塘
」 と称
し た が、 商品経済
の発展に伴い、
明 末 清 初 期に は、
より経 済 効 率の高い 「桑 基 魚 塘 」に き り換え られ て い っ た。清
初の広
東事
情に詳「
しい 屈 大 均 『広 東 新 語』(
康 煕三十九年 刻)
巻二十二鱗 語、
養 魚 種に、
廣
州諸
大 縣 村落
中,
往 往 棄 肥 田 以 爲 基, 以樹 果 木。 茘 枝 最 多。 茶・
桑 次 之。 柑・
橙 次 之。 龍 眼 多 樹 宅 旁,
亦 樹 于 基。 基 下 爲 池 以 畜 魚。 歳 暮 涸 之, 至 春 以 播 稻 秧。 とあっ て、
清初すで に稲田 の基 塘へ の転 換 がみ ら れ た が、
基 に は主 と して果 木 が 樹 えら れて い た。
即ち広 州 府 全 体と して は、
な お茘枝 ・龍
眼を主とする 「果基魚塘」
が一
般
的 であ
っ た。 と,
ころが、
同 じ く清
初に編 纂 さ れた順 治 『南 海九江 郷 志 』 巻 之;、
生業に は、
郷
癧 西北 下 流地 籏,
魚 塘一
卜之 八 田 十 之二,……
蠶桑,
近 來 墻 下 而 外,幾
無 隙 地, 女 紅本務
於斯 爲 盛
。……大都九
江利頼多藉魚
苗、次
蠶 桑,次禾稲
,次
圓眼
,次
芋 止 矣。 とあ り、 九 江の ば あい は蚕 桑の 比 重 が 果 木(
円 眼=
−
9E
眼)
遍 上 ま わって い た様 子が うか が える。 し か し 「禾 稲 」も まだ 蚕 桑に次 ぐ位 置にあっ た。 ま た、
蚕桑業
の発 達 段 階という
点か らみ て も、
養 蚕 農 家が桑 基の佃
作 を兼 ね、
農 家の 婦 女 が 養 蚕 か ら 製 糸 まで を一
貫 作 業で行 なっ てい た よう で、
種 桑 と養 蚕・
製
糸の分 業は まだみ られ ない 。九 江の蚕 桑 業は、 清 代 乾 隆
・
嘉 慶期 (
18
世紀
中 葉〜19
世 紀 初 頭〉
に一
つ の 画期
を 迎えた。光
緒 『郷 志 』に 「……
故 自 乾 嘉 以 後, 民 多 改 業 桑 魚, 樹 薮 之 夫 百 不 得一
」 (巻三輿 地 略、
物 産)
とある よう
に、 稲田の 桑 基魚塘化
が一
段 とす すみ、
道 光期 (
19
世紀
中葉)
に は 「境内
有 桑 塘 無 稲田,仰糴於外
」 とあ
る如 く
、稲
田 は殆
ど姿 を消
し て しまっ た。
その 背景
と して、
葉 顯 恩・
譚棣
華 氏は、
乾 隆二 十二年(
1757)、
広 州が 唯一
の対外
貿 易 港と な り、
広 東生糸 ・
絹 織物
の輸 出 量 が 増 大、糸価
が上 昇したこ とを指 摘 して い る。 製 糸 業の活 況に伴い種 桑 と養 蚕・
製 糸の130
N工 工一
Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 珠江三角洲の地域社 会と宗族
・
郷紳3
過 程 も分化
し始
め た よう
で、 順治 『
郷志』
墟 市の条に は見
ら れ ない「
桑 市」
が、
道 光『
南 海県
志』巻 十 三 建置 略五、 墟市の条に は、
「桑市
在東
方一,
在 南 方一,
在西方一,
在 北 方三,
倶九
江 堡 」と記 載 されてい る。九江を含めて広
東
製 糸 業の一
大 画 期は、
アヘ ン戦 争 後、 咸 豊・
同治か ら光緒期
に かけて(
19
世 紀 後 半)
訪れ た。鈴
木 智 夫 氏の研 究によれば、
機 械 製 糸 業の 勃 興に より、
従 来、
養 蚕 農 家の 婦 女の手で行 な われ てい た製糸
業は衰 退 し、養
蚕 と製糸
は分化、従
前の糸
墟・
糸 市に代
わっ て 繭 市・
繭 桟が 出現 し た、 とい う 。 機 械 製 糸勃興 後の 問題 につ い て は鈴
木 氏の 論 稿 に 譲 り、 本 稿で は、
その前段
階、糸
墟の問
題 を取 り上 げる。九 江 郷の
糸
墟 につ い て は、 光緒
『郷志』
巻
四建 置略、
墟市
の条
に、
儒林文社絲墟在
大墟
心。嘉慶
四年
已未,闔郷紳
士聯禀
上 憲公設。
所有
土絲 ・蠶
紙・沙布、皆
於
此 售賣
。歳
取 廛 以供 通 郷 士 人賓
興應試課文諸費
。 とあり
、 その後
に割注
で、嘉慶
七年
に胡
瑛・
明秉璋 (
共
に挙
人)
等の稟
請 を受
け て南 海 知県
戴 錫 綸が給し た示 文・
嘉 慶 十一
年の鄲
学 海(
乾隆 五 十一
年
副 貢〉
の記・
糸墟の「
規条 」 ・
道 光十 年の黄 世 顯(
生員)
の記 を収載
して い る の で、
これ らに基づいて糸 墟 設 立の経 緯、
運 営 内 容 を 検 討 して みたい 。九江 郷の糸 墟は、 上
記
墟 市の条
に よ れ ば、査
九
江絲
墟先
因互控奉府
憲提 訊,
詳奉各
憲批飭,
將所設
開 邊埋邊兩墟 封 禁,
聽 客 男往剔墟 交 易。 とあ り、 道 光 『南 海 県 志 』 巻 十三建 置 略五、
墟市
の条に は さ ら に、査 九 江 絲 墟 先 因朱 朝 禄
・
陳 棆 書 等耳
控……
將 朱・
陳 二 姓 所 設 開 邊・
埋邊 兩 墟 封禁
, 聽 客男往剔墟交
易。
とあっ て、
従 来、
朱 姓 と陳 姓 が そ れ ぞ れ 開 辺 墟と埋 辺 墟 を開 設 してい たが、
両 者の 間で抗 争 が 起こ り、
結 局 両 墟 と も「
封禁
」
との断 が 下 っ て、
客 商(
機 房 が 集 中 する省 城・
仏 山 等か ら 生糸 を買付
けに来る仲 買商
であ
ろう)
は 別墟で交 易 することに なっ た。 上 記 黄 世 顯の伝 (光緒
『郷 志 』 巻十四)
に 「郷内
絲市
久廢 ,
貿 易 無 所 」とあるか ら 「謝 禁 」.
以 来、
九 江 郷 内に糸 墟は久 し く開 設 さ れてい なか っ たの で ある。 こ の よう な 状 況下で 嘉 慶四年 (1799
)、 九 江 郷の紳 士が共 同で官
に具稟
し、
九江 大 墟(
後 出)
の 中心にあっ た 「闔郷文廟」
=儒林古廟 (
儒
林 文 社)
の所
有地 に 「儒 林 文 社 絲 墟 」 を 開 設 することが、
関 係各
官の批 飭 を得て認め られた。糸 墟の 「規
條
」 に は、
イ)糸
墟の 「各 項 租 銀 」は 厂郷 中課 文 應 用 」に帰 す、
U ) 毎 年二 月初 三 日 に儒林古廟
に おい て推挙
さ れ.
た「
殷實値事」
が租銀
の徴 収 ・管
理にあ
たる、
ハ)課
文の費
用にあて た残余
は 「封 貯 」 する、
二)
「買客
」は伝票 をき り、 「絲
主」は この 伝 票に よっ て銀 を受取
る。壥場
で私 的に売
買しては なら ない 。(
買
客倶
要發票,絲
主 憑票
收 銀,
不 得 在場
中
私 交、
以 杜 假 僞。)
即 ち、
糸 墟の管 理 人が買 手 と売 手の仲 介を し、
双 方か ら手 数料
を取るの で あろう。 ホ)
「發 票 」 と 「收銀
」はその日の うちに清 算 する。 「大 造 」で当日中に交 易が終わ ら ない ばあ い は、 翌 日中
に清算
し、 再宿
し て は な ら ない、
等 を定め てい る。
糸
墟は開 設 以 来 厂商
賈 雲集
」し、「
毎
逢三六九墟期
,争
趁如
雲, 而絲墟爲
尤 最,
且銀
兩交易
亦 各 頗 多 」とい う盛 況で あっ た。 乾 隆・
嘉 慶期
、 製 糸業
の 薪たな高 揚を 迎えて、 九 江の郷紳達
は、闔
郷一
致
して ひ とつ の糸
櫨を設立 する ことに よっ て宗 族間の 矛盾・
対 立を調 停 する と とも に、
生 糸 市 場 を共 同で管 理 し て、
流 通 利 益の一
部 を墟 場の租 銀・
手 数 料の徴 収とい っ た形で掌131
N工 工一
Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 4 西 川 喜久 子 中にお さ
to
,
、
これ を九 江郷の科 挙 受 験 者= 郷 紳予 備軍の 育 成にあて たの で ある 。ii
)
魚 苗 と魚餉
九 江は養 魚 業 に おい
て
も最 も早 く発 達 を逐
げ た が、
そ の最大
の特
色 は、
官 権 力の保 護の下で 魚 苗(
稚 魚の こ と。 魚 花、
魚 秩、
魚 種ともい う )の魚 撈と 販売
を独 占 して いた点にある。先 ず
、
清 初の九 江養
魚業
の概 況 を、
順 治 『郷 志 』 巻 之二生業
丶魚
餉の条および 『広 東 新 語』
巻二十二鱗 語、 魚 花・
養 魚 種・
魚 牌・
魚 餉の各
条に基い て跡づ けて み たい 。九 江が魚 苗 漁におい て独 占権 を獲 得 し たの は、 明 弘 治 十四年
(
1501
)
、 両広
総 督 劉 大 夏が、
西 江 両岸
に魚 埠 を設 けて九 江 郷 民に魚 撈 を請 け 負わ せ、
魚 餉(
税)
を徴 収 する こ と を 上奏 して、
裁 可 を得たこ と に始 まるとい う。 魚 埠}ま
漁 場の ことで、
魚 歩、
魚花埠
などともい い、
水 勢に よっ て 上 埠と 下埠に 分 け、 上埠 は銀5
銭、
下埠
は銀2
銭5
分 を魚 餉と し て 納 入 さ せ た。帖 (
許可 証)
を給 さ れ、 魚 埠で操 漁 する こ と を許さ れ た漁 戸を魚 花 戸とい っ た。 魚 埠は当 初80〜90
所 あっ た が、
しだい に増 えて900所
に も 上っ た とい う 。魚 餉 に は
、
広 州府 ・
肇 慶 府に上 納す
る 「正 餉」、
龍 川県 (
恵 州府 ) ・
南 雄 府(
嘉 慶 十二年
以後
州) ・
羅 定 州に 上納 する 「額 輸 」、
始 興 県(
南 雄 府) ・
開 建 県 (肇 慶 府 )・
永 安 県(
恵 州府)・
香LLI
県 (広 州 府)
・
桂
林府
・
平
楽府
・
潯
州 府・
賀 県(
平 楽府 )
一
桂 林 府 以 下はいず れ も広 西省
一
に 上納 する 「例 徴 」が あっ た 。魚 菌の 漁期は 旧暦三 月 か ら 八 月 までで
、撈
っ た 魚苗は塘に放 して 翌春正 月 ま で 養 殖 し た後 各 地 に売 り捌 き、 帰 路の船に は穀 米を積ん で 帰っ た。歳
正 月,始鬻魚
花, 水 路分
行, 人 以萬計,
筐以數
千計。
自兩粤
郡邑, 至 于豫章 ・
楚・
閲,
無不 之 也。
(
『
広 東 新 語 』 巻二 十二鱗 語、
魚花 )
とある か ら、 その販 路は両 広の み な らず、 江 西・
湖 南・
福 建 に まで及ん でい たの である。魚 餉 を 引 き受け るこ と に よっ て
、
漁 場 と販 路 を独 占 する という
特 権 を享 受 して き た 魚 花戸 で あるが、
清 初以来、、各
地 の 差役
・
兵 丁 等に よ る 「封 捉」「
索詐」
があい つ ぎ、
乾 隆 後 半く
18
世 紀 後 半 )になる と、
こ の問題 は九 江 魚 花戸 に とっ て重 大 問題 とな っ た。
光 緒 『郷志
』
巻五経政略は、魚餉
をめぐ
っ て、
乾隆末葉
及 び 道光年
間 に発せ られた各
種の告.
示・牌文
を収
録 してい るg先 ず、 乾 隆 末 葉に出さ れた 告 示
・
牌 文四種の 内 容 を紹 介す
る とつ ぎの通 りで ある。1
) 乾 隆三 十八年五月 初 十 日付、
広 東 分 巡 肇 羅 道耿
壽平の告 示。「
商 民」
鄭 著一
の“
各
州県
の魚 花 埠で 「不 法棍
徒 」が胥 役 と グル になっ て 「短
價勒
買 」し た り、
地 租 を 取 立て た りす
る ので 取 締 まっ て ほ しい ” との 呈 請 を 容 れて 発せ られた もの 。2
) 乾 隆三 十 九 年十一
月二 十二 日付、
広 東 糧 驛 道 呉 九 齢の 牌 文。「
九江
民 人 」 鄭 士 明・
張 抜 虎等
の“
九江の民船
は毎
年、 魚 苗 をとり、 穀 石 雑 糧 柴 草を販 運 して い るが、 途 中しばしば 各 府 州 県の 「船 頭 差 役 」に 「封 勒 」されるの
で、
こ れ を 禁 止 して ほ しい ” とい う稟 文に応 えて出 さ れた もの で、
禁令
の 内 容はつ ぎの如 くで ある。 如 遇 九 江 民 船,
無 論 裝 載 魚 苗,
買 運 谷 石 雜 糧 柴 草,
以 及 空 船 過 泊,
均 照 從 前 飭 禁 文 行。 自後9
」一
許
船 頭 差 役 濫 行封
雇。
至若
緊 要 差務,
及 文 武 衙 門 往 來 公幹,
務
須 封條
蓋 印,
封 雇 該 處 蛋 船,
照
例
給 價。 如 各 船 頭 仍 行 串 同 差 役,藉
端濫封, 揣勒
需索
, 苦 累 九 江民人 船 艇, 立即 嚴 拿 重究。
毋
梢
徇 縱。132
N工 工一
Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 珠江三角洲の地 域社会と宗 族
・
郷 紳5
この禁
令は、
広 州・
恵 州・
南 雄・
潮 州・
韶 州・
肇 慶の各 府と羅 定 州に示 達 して 「給 示 勒 石 」 す べ きものと された 。 「船
頭 差 役 」の 厂封勒
」 「封雇
」と は、
船 頭 (河 船の取 締 りにあたる吏 員で あろ うか)
・
差役
が、民
船 を 差押
さえて拘 束した り、 公務
に使
用 し た りす
ることであ
る が、 「有錢
則免
, 無 錢 則 封 」とい うのが実 情で あっ た とい う。3)
乾 隆四十四 年 十一
月 初五 日付、 広 西布政使 朱 椿の牌 文。 両 広 総 督 桂 林の 牌 文 を受
けて出 さ れた もの で、
三 十 九 年の 禁 令は広 西 省には 「移 行 」 して い な かっ た、
と し て、
潯州 府の貴 県・
桂 平 県、
梧 州 府の平南 県・
蒼 梧 県 等の 「船 頭 差 役 人 」が 「稻谷雜糧等物
」 を 採 買に行 く九江の民 船に対 して「
濫行
封 雇 當 差 」 する こ と を厳
禁して い る。 こ れ は梧 州 府と 潯州府
の知 府に示 達 された。4 )
乾 隆五十四年
十一
月付 、
両広 総 督 福 康安
の告
示(
碑
文〉
「
南海縣
昆」 麦 建 東 等6名
連 署の 呈文
を受
けて、 両 広の 沿 河 州 県に対 し て発せ ら れ た禁 令で 、 内 容は2
)
、3
)
と同 趣旨
だが、
禁 令が 「奸
胥蠹
役 」’
の 目に ふ れる よう 「自行勒
石 」して各
県 署’
の 前 に立てたい、
と麥等
は願い 出て おり、
その 通 りになっ た よう
である。
’
以 上 か ら
、
乾隆末頃 まで 九 江 の 魚花戸 に とっ て 主要な 対決 相 手は 「船
頭差 役 」 即 ち 地方 衙 門 の吏 員・
差役等
であ
っ た と推察
さ れ る が、嘉
慶 以後、
そ の独占権
を脅
かす存
在 とし て「
私 販 」 が クロー
ズア ッ プ さ れて くる。 つ ぎ にこの 問題 を とり上げたい 。光緒 『
郷 志』巻
二輿 地 略、 前事
に、(道 光
)
七 年丁亥
建儒林書
院……
裝販 爾戸 始 立 規 條,歳
捐 梦 例 船銀,
完 納 南雄
龍川魚餉。
…・
・
謹 按 南 雄 龍 川魚餉, 自
明 宏 治 以 來,
由 九 江 魚 戸 辧 納。
嘉慶
季年,
私 販 日衆,
餉魚
不消
,新 魚
各船虧缺
既 多, 或 不 能依期完納。
地方
官 吏奉
爻行
追。 裝 販 兩 戸 因 是議
以梦例船
銀 按 數 捐出
,歳輸
此 項。 とあ り、
「笋 例 船銀
」につ い て は、
同 書 巻五経政略に、
附 儒 林 書 院 郷 規
(
道 光 六 年 奉 憲 新 設一
割 注 )裝 家 夥 例
毎
夥 取 銀二錢販 戸 船 頭 新 魚
毎隻
取 挂
號
發單銀
三十
兩,老魚毎隻
取銀
五十
兩。其銀
以買
得魚
回方取,無魚者免。
とある6 「裝 家 」と は魚 埠で 魚 苗 漁に従事
する もの を指 し、 「裝 家 」か ら魚 苗を買い 入れて魚 苗 塘で養 殖 し、
や や成 長 し た 魚 を 販 売 する者を 「造 家 」 とい い、
「造 家 」 か ら魚 を買6
て 大 魚 塘 で養 殖 し、
墟 市に鬻
ぐ者
を 「耕
種 家 」とい っ た。 「糸多」 (梦) は苧
布 製の漁 具で、
水 中に立て た 同戈に装着
し、魚苗
は この夥 をつ たっ て水面
に浮
い てい る木筺
に誘導
さ れ る。 「販
戸」
は魚商
の こ とで あろ う。
な お、清初
には 魚 花 戸(
魚 戸)
が 魚 苗 漁 か ら養殖 ・
販売
まで行 なってい た らし い が、
道 光頃 ま で に魚 花 戸は 「裝 戸」即ち魚 苗漁従 事 者と 「販戸」即ち養殖・
販売
に従
事す る 魚 商と に分 化 したようであ り、
その後 「販 戸 」 が さ らに上 記の如 く 「造 家 」と 「耕 種 家 」に分 化し た とみら
れ る。新
魚禄
、 魚 苗 を1
カ月 ほ ど養 殖 し て や や 成長し た もの をい い、
翌春
ま で養
殖した大魚 を老魚
という
。 即ち 「裝
家 」か らは毎 夥 銀二銭 を、 「販戸1
か らは船一
隻につ き30
両(
新魚 )或
は50
両(
老魚う
を・
「
笋例
艦銀
」 として徴収
し た もの であ
ろう
。明 代 以 来 続い て きた 九 江 魚 花 戸の漁 場 と販 路の独 占は
、
清 代 嘉 慶 期に
至 り、
他 地 域での養 魚 業の発 達 に伴 う 「私販」の横 行に よっ て くず れ、 利 益 が 減 少、
餉 銀 も滞 納 するようになっ た。 このた め装・
販 両 戸 が 地 方 官 か ら追 及された。 この事態
に対 して、 九 江の魚 戸・
魚 商 達は自衛 措 置 と し て 「笋 例船
銀 」の據 出 を 「郷 規 」と して 定め、
官の批 准 も得 た わけであるが、一
方、
既 得権益
を守るべ く地 方 宮へ の働 きかけも行
な っ てい る。133
N工 工一
Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service
6
西 川 喜 久子つ
ぎ
に、 光 緒 『郷 志 」 巻五経 政 略 所 収の、 道 光 年 間に発 給 された告 示三種 を紹 介 する。1)
道光 十 年五 月二十六 日付、
南 海 知 県 潘 尚楫の 告 示。2)
道 光 十 年七月 十四 日付、
両 広 総 督 李 鴻 賓 の告 示。1)
、2
)は 「九 江 堡 魚丿円 の禀
請 を容れ て、
南海知県 と 両 広 総督
が そ れ ぞ れ発 給 し た告 示で、
「或 捏 公 務 封 船 當 差,
或串
通 土 悪 包 攬 私 販 魚 苗,
經 往 剔 處 售 賣,
不 照 派 餉 彙 輸 」 とい っ た 「種種
不 法」
を行
なう
こ とを禁 止 してい る。3)
道光二 十 三年六 月初五 日付、 両広総督 祁項の告 示。挙 人 明 倫 以 下
24
名
連署
の 「九
江郷裝養魚
苗 運賣,歳輸
重 課,
近 有 土豪
包攬
無 税 魚 苗,肆
行攬
賣,……
以致餉魚
不銷,
難 販 重課
,商
民奚 堪 」 とい う呈詞を受
けて、
「私販 」を厳 禁 する告 示 を 出 し た もの。道 光 十 年の
稟
文 提 出 者が 「魚 戸j
で あ り、
禁 令の内 容 も従 来か らの 「捏 公 務 封 船 當 差⊥
とあ わ せて 「私販J
の禁止 が加わっ てい たの に対 し、
道光二十 三年の呈詞 に は、
道 光 十一
年か ら二 十年
まで の 間1
に郷 試に合 格 し た 九江堡 の挙
人全員
を含
む24名
の 九江 郷紳
が名
を連 ね、禁令
の内
容も 「私 販 」 問題一
点
にし ぼ ら れてい る。
これ は九江養 魚業
の 独占が破ら れつ つ あるこ と に対す
る 九 江魚
戸・
郷 紳の危 機 感を表
わ してい る とい えよう
。川
)
米 穀と穀 埠周
知
の 通 り広 東省は遅 くと も明 末 清 初にはすで に米
穀 不 足をきた してお り、外
省
か らの 移入 に頼っ て い た。
と りわ け 蚕 桑 と養 魚の 中心地九 江で は、
前述の よ うに清 初には まだ僅 か なが ら残っ て い た稲
田 も、
乾 隆・嘉
慶 以 後、
桑 基 魚 塘へ の転 換が一
段 と す すみ、
「穀 米 悉 由外 糴 」 (光 緒 『郷志』
巻四建 置 略、義倉
社 倉)
とい う状 況であっ た。 な お、
『広 東 穀 語 』巻二十二 鱗語、
養 魚の条に は 「基 下爲
池以畜魚。歳暮
涸 之,
至春
以播
稲 秧」 とあることか ら、
清 初に は年末
に 魚 苗をす くい 上 げた後、 塘の底を稲田 と して利 用 してい た ようである。九 江で は、
外省 ・外県
か らの米穀
の移入
は、清
初
以来
、魚花
戸・
魚商
が兼
業
して い た 。順治
『
郷志』
巻之二生業に、
魚苗到塘
,養
活許
多勞費
。 至下年春 ,
又須浩費 雇
工,船載
往兩粤各
州縣
地 方,
克 換 穀 米。
……
且所 兇 穀石,
非 苦 遇 糴, 則 厄上倉,魚商
罷 困極 矣。 とある こ とか ら、
清 初には、
次 年 春 まで魚 苗 塘で 養 殖 した稚 魚 を魚 商 が 両 広の各
州 県で穀 米に 換 えて い たこ とが わ か る。前 出 乾 隆五十 四年の 両 広総 督 福 康 安の 告 示 中に引 く 「南 海 縣 民 」 麥 建 東 等の呈 文 中
’
にも、
毎 年 春 初
,駕船前
往粤
西 河 道,
批 佃 蜑埠,
裝 撈 魚苗,載
回 塘 内畜養,
男 赴 南韶
惠 潮 各 府 售賈
,歳輸餉
銀 七 千 餘 兩交轉。
夏秋并
無魚苗裝
運,各 向
西省
採 買穀
石雜糧柴草
回東
, 以資
生 計。一
とあっ て、 魚 花 戸は春、 西 江で魚苗
漁に従事
し(
魚苗
の漁期
は旧 暦三月か ら 八A
まで。前
述)
、 撈っ た 魚 苗は塘に放っ て養
殖す
る。 夏 秋は遊 休 夥 船 を 利 用して広 西 各 地に赴 き、 穀 米・
雑 糧・
柴 草な ど を買い 入 れて帰
る。 翌春 (
正 月 一 二月)
魚 塘で成育
し た魚を南 雄・
韶 州・
恵 州・
潮 州各府
へ 販売
に出か ける、
という
ロー
テー
シ ョ ン が でき上 がっ てい る。つ ぎに穀 米の購 入 地につ い て
考
えてみ たい 。清
初に は 上 述の如 く 「兩粤各
州 縣 地方」 で穀米
の
の
り
を入 手 して い た が、
乾 隆期
になる と、
乾 隆三十 九 年の牌 文 に 「糸多船 往 西省各處
買 穀,接濟
民食 」o
●
●
●
134
N工 工一
Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service 珠江三角洲の地 域 社 会と宗 族
・
郷紳 7 とあ り、
同四十四年
の牌
文に も 「郷 民駕 船 前 往 西 粤 潯 梧 地面,
採 買 稲穀
雜糧
等 物 回 郷,
接濟
民食
」 とあっ て、
雜
米の主要 購 入地 は広 西 省、
就 中 潯 州 府と梧 州 府に移っ てきて い る。 そ し て後 述 する道 光二十三年に穀 埠 設 立 を 稟 請 し た馮 錫 鋪は、
・
(九 江)且 戸口殷繁
, 日需
穀 米二 千餘
石,
地低
無田可 植,食 自鄰
邑。(
光緒
『郷志 』巻四建
置 略)
と述べ 、 ま た其
地 西接
爿羊爿可江, 與 香 山新會産米
之區 近,
而西 江 穀 東 下 所必經,并擬循舊疏
通 爲 穀船停泊處
……
(同上 )。
と記 し て お り、 「鄰邑」 即ち 「香
山新會
産 米 之區 」 が 九 江郷の第一
の穀米
購入 地 にな っ てい る。 こ れ は、
乾 隆 期 以 後、
香 山・
萩 会 など珠 江 下 流 域の沙田造 成が急 速に進み、
沙田 地帯の米 穀生 産 量が増 加 し た結 果で あろう。 広 東 巡 撫 祁項(
道 光 十三〜
十八年 任 )は、 広 州 府の米 穀の来 源 を、
待
給於廣
西 十 之六 七, 羅定 ・
開建十
之一
二,濱海
沙田十
之一
。
(
同 治『
番
禺 県 志』
巻十 五,
建 置 略二 に引 く恵 済 倉 記 略
)
と記 してい る が、
これ は広 州・
仏 山 な どの大 消 費 地 を も含
め た 広 州府
全 体につ い て述べ てい る の で あり、
九江 に限っ てい え ば、 地 理 的に近接
した沙
田 地帯
の比重は、 は る か に大 きか っ た は ずである。 以上見て きた穀 米の 来 源の重 点 移 動、 即 ち 広 東・
広 西 各 州 県か ら広 西 潯 州・
梧 州 両 府へ、
さ らに広東
の香 山
・
新会
両県
へ という変化
は、
広東
・
広 西 両省
に おける地 域間
分業
の発展
に よっ て もた ら さ れ た もの と考 え られる。
さて道 光二十三
年
、 九江 南方
の沙口 に穀 埠(
穀
麟
の船着
場)
が建 設さ れた。
九 江 最 大の墟 市は 大墟と称し、
西 江 (爿羊柯 江)
から引い たク リー
ク=大
涌を少
し入っ た 九江 郷の ほ ぼ中 心 に位 置 し、 光 緒 『郷 志 』編 纂 時、
大 涌 をは さ んで東 西 両 岸に、26
の 「街 巷 」と7
の 「行 市 」 (絲行 ・
布 行・
蚕 紙 行・
鶏 鴨 行・
魚 種 行・
旧 桑 墟・
新 桑 墟)
、1500
余の 「鋪 肆 」が たち並ぶ、 県 内 屈 指 の文 字 通 りの 大 墟で あっ た。 九江に は もともと 「通 郷 里 排 」が 明 正徳元年に開設した 天妃廟前
壙 が あっ たが、
その後黄
重(
正 徳三年 進 士)
・
朱 譲(
万 暦二年 進 士)
・
陳 萬 言 (嘉 靖三十五年 進 士) ・
黄 應 秀(
万 暦 四 十 七年
進 士)
等が そ れ ぞ れ こ の廟
前 墟を移し て、
開 辺・
裏 海・
良村・
岳湾
の 四墟を開い た。 大 櫨は この四櫨 を統合
したものだ という
。 道光
二十三年
まで穀埠
は、 この 大 墟の 中 心、 儒 林 文 社 絲 墟(
前 出)
の旁
ら に設 けられて お り、 穀 店 十 数軒
があっ た が、 沙 口 に穀埠
が開 設されて以 後、
「改 貿別貨
」とあ
る。沙
ロに新
設さ れ た穀埠
につ い て は、光緒 『
郷
志』巻
四建
置略、墟市
の条
に、「
穀 埠在南方沙
口。 道 光二十
三年
闔 郷 設 」 とあ り、
この後
に割注
で、南
海 知 県 史 樸の示 文・
進士馮 錫鑰
の記・
「闔 郷 穀 埠 善 後 章 程 碑 刻 」(
6
力条)
・
「關 世美
堂 合 約 批 據 」 を載 せてい る。
馮 錫
鑰
の記に よ れ ば、 九 江 は男女
二 十余
万の 人 口 を擁
し、毎
日穀
二千 石余
を必要とする。 荒年
に は商 人が米 価 をつ り上 げる。 乾 隆 初に義倉 ・
社 倉を創っ たが、 いず れ も失 敗し た 。 そこ で九 江 南 方の 沙口の 旧汎口涌(
西 江 と大 涌 をつ な ぐク リー
ク。 当 時は淤 塞 して陸 地 化してい た)
を旧 址に沿っ て再疎
通させ、穀
船の停 泊 処を建 設 し ようという
ことにな り、
「各 族 姓 」が合 同 で工費 を分担、1
股 あた り銀 100
両 と定
め て計 230 股 を集め、 道 光二十二 年 冬か ら 翌年 夏 にかけ て大工事
を行ない、25000
両 余を費
や し て完
成 し た。 ま た、
關 世 美堂(
後
出)
の沙
地20畝
を醵 出し て、 「鋪捨 ・
穀 棧 」 を建 設 し た。135
N工 工一
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8
西 川 喜久子「闔郷 穀 埠
善
後章
程 」は、 穀 埠 内の銀 鋪・
穀 桟・
豬 行 等の鋪 舎の地 租はすべ て 「闔 郷 穀 埠 」 が収 租 する、
「各 姓各家
」が 「私 自 建 置J
し て は な ら ない、
と定
め、
ク リー
ク や船着
場の浚
渫 費につ い て も各
段ごと に分担 を 決めてい る。ま た
、
丁關
世美
堂合約批據」
に よ る と、關世
美 堂は、宗
祠に集
まっ て商議
の上、
その所 有地(
族 産)20
畝 を 「銀店 ・蟇淺
及 酒米雜貲各鋪
」の建
設地 と して 厂闔 郷 穀埠」に醵出する こ と を決め、
1
畝当 り股价 銀50
両にあた る と み な して、 該 業20
畝 を關 世 美 堂の股 价10
股 扮 にあて る こ と (關 世 美堂 に割 当て られた股 价は10
股 ;1000
両とい う計 算になる)
、
毎 年 穀 埠か ら上 が る租 銀は闔 郷の各
股价
に照 ら して配分する こ と等が定め られた。 穀 埠 建 設は、
進 士 馮 錫 錆 が 両 広 総 督と南 海 知 県にそ れぞれ 呈 文 を提 出し、
総 督の 「疏 河 宣 洩,
聚 穀 備 荒均屬籌衛郷閭
」と の批が布
政使
に 下り、布
政 使か
ら鷹
州知府
を 経て南
醇
知
県へ と訓 令が 下 りて、
「如 遇 穀 船 到 埠,
務 須公
平 議 價,
隨到
隨 賣。……
該 涌 遇 有 淤 塞,
即 由 爾 郷 衆 鋪 戸 随時
疏 摘深
通 ,俾資
宣 洩 」との知
県の示が給
さ れ たの であ
る。.
’
香 山
・
新 会 等で沙田造 成が 急 速 に 進み 、、
沙田 地帯産 出の米 穀が増 加、 上 流 にある 九 江郷の米穀
取 扱い 量 も急 増 し、
よ り大 規 模 な穀 埠の設立 が 求め られ、 「闔 郷穀
埠 」の建 設 となっ た。 こ の 「闔 郷 穀埠 」の特 色は、
規 模の大 きさ と共に、
九 江 全郷の 各 族 姓が共同
で 工 費を分 担 し、
出 資 額に応 じて利 益を分 配 するこ どに よっ て、
米穀
流通 をめぐ
る 九 江郷の各宗族
間の抗争
を排
除、
利害
の調 整を は か っ た点にある。’
(
2)
南海 県九江 郷の宗 族・
郷 紳i )
概 況1 光 緒 『郷 志 』 巻四建 置 略
、
祠 堂の 条に よれば、
光 緒 初、
九 江 郷に祠 堂 を有 する氏 族は47
姓 を 数 え、
「始 祖 桐・
合 族 柯・
先 達 桐 」と して計112
の祠 堂 が 挙 げ ら れて い る。こ の
47
姓112
の祠 堂の冒 頭に載
っ てい るのは、關
姓の祠 堂で、關
六堂 祠・
關 樹 徳 堂・
關世 美 堂・
關 典訓 堂・
關 世 徳堂・
關啓 翼堂・
關思成堂・
關 学 憲 祠の8
祠堂 がある一
六 堂祠は 關姓各
氏の合 族 祠、 樹 徳 堂 か ら思 成 堂 までが 關姓各
氏の始 祖祠
、 学憲
祠は先達
祠 と み ら れ る。:一
一一
一
この う ち關樹
徳 堂は単 独で『
南海
九 江 關 樹 徳 堂 家 譜』
(關兆熙 等 修
、
光 緒二 十三 年 序 ) を 編 んでお り、
關 世 美 堂は前 述の通 り、
穀埠建
設に際 し、
「集桐商議
」して、
九江 郷 との 間で、
「關
世美
堂合約」
を結
ん でい る。 ところ で、
上言
己『
關樹徳
堂家譜』
に よれ ば、 樹 徳 堂の始
遷 祖 貞の弟 俊 が 世 美 堂 を 開いた、
とあるか ら、 樹 徳 堂と世 美 堂とは
、 貞・
俊 兄 弟を そ れ ぞ れ始 遷 祖として お り、
同 宗で あるが、
同 族 組 織として は両 者 は 分離、
別 組 織 として機能
してい る。 ま た、
貞・
俊 兄弟
は保 昌(
南 雄府
治)
か ら南下 した とされる が、
光 緒 『郷志 』 巻二 十一
雑 録 上 に、
「惟啓翼堂
關 氏傳 自福 建來」
とある ことか ら、啓翼
堂關
氏は、樹
徳 堂・
世 美堂 關氏と は別 系 統で ある ら しい 。 即 ち、
光 緒『
郷 志 』 掲 載の關 姓の祠 堂 中に は、
同姓 同 宗だ が組 織 を 異にする もの と、
同 姓 異 宗の もの.
とが 含 まれてい る の である。 こ の 關 姓の 例か ら 推劉 する に、
おそ ら くこの112
の祠 堂=
同 族 組 織は、
九 江の地 域 社 会に おいて 同 族が 同 族と して ま、
とまっ て活
動 する単 位 だっ たの で あろう。 換 言 すれ ば、 これらの祠 堂 を 中核と して結 合 し た同 族組
織 が、
同 族 とし ての対外
的、 公 的 活 動の単 位であっ たか らこそ、
そ れとして 『郷 志 』に 記 載 さ れ たの で はある まい か。 なお、道光 『
南 海県
志』
巻末
捐 冊、 九江 堡の 項と光緒 『
郷志』
祠 堂 の条と を 対 照 して みたと こ ろ、關
氏の ば あい 、樹
徳・
世 美・典
訓・啓
翼の4祠
堂 が、
道 光・
136
N工 工一
Eleotronio LibraryNII-Electronic Library Service 珠 江三角 洲の地 域社
会
と宗 族・
郷紳9
県
志 編 纂に対 してそ れ ぞ れ 別個
に捐銀
してい る。さ ら に關 姓 以
外
の各
姓につ い て、
同じく道 光 『南海県
志 』 捐冊 と光 緒 『郷志」
嗣堂の条とを 対 照 してみ る と、47
姓 中13
姓、 112
祠 堂 中17
祠 堂が対 応 してい る。
この 13 姓は
、
黄・
曽・
陳・
岑 ・黎 ・郵 ・
鄭・
劉・
朱 ・
關・
胡・
明・
馮で、 順 治 『郷 志』巻
之土
祠 堂の条 掲 載の計32
姓の中
に もこ の13
姓はすべ て含
ま れ れ る。 表 1 明 清 時 代 南 海 県 九江堡郷 試合 格者数 年 代 姓 黄 明 1368−i1644
9
(5
)7
曾 陳 羅 岑 張5
(ユ) 4 (1)11
順 治〜
雍 正1644(
國
ユ735 2 42
o
22 乾 隆〜
嘉 慶1736〔−1820
21
10
12 道 光〜
同治 1821磁 874 11
2 (1)o
10 備 考 ◎ 順 元 年1457定
一
」
豪
正徳3年1508 思存一
應 擧@ 万 暦32
年ユ604 思垣一
應 秀◎ 万 暦47年1619 應 昭 葵日◎ 崇 禎13年1640 泰o一
成 化13年1477 粤゜ 弘治5
年1492
廷誥゜ 嘉立青10年王531 應鼇一
簾先゜ 崇 禎15年1642 偉Q・
・
一・
弘治17
年1504
俊o・
・
一
兆雷 應珪o一
仕鑑o iE徳2年1507 嘉靖22年1543 万 暦 13年 15B5 儲゜ 宏 基一
仕愼 正徳11年1516 傳 傚 以 魯一
嚶
一 崇禎3年1630 萬 言◎ 嘉 靖35年1556 良 珍o 嘉立青28
年1549 又 齋一
超然Q一
挺….
履恒o一
信 民o 万 歴16年 嘉慶24年 道 光16年 1588 18191836
[F
− 一
學 禮 従 心 鼎 憲o 弘治14
年15G1
嘉 靖13
年1534
嘉靖26
年1547 官 順゜ 崇 禎3
年163G
官紀Q 天啓 元 年1621 鴻◎ 忠 言Q 嘉 靖22年1543137
N工 工一
Eleotronio.
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10
西 川 喜 久子無
明 順治〜
雍 正 乾 隆〜
嘉 慶 道 光〜
同治 備「
考 姓1368〜16441644〜17351736〜
1820・
1821〜
1874 呉2
(1
)0
0
、
0
黎 1 ω・
0
』
0
2
郡 10
王0
鄭 10
1
0
劉 00
0
2
朱 7 (1)1
21
4 (1) 『南海 九 江朱 氏 家 譜』「
記 載 別 表2
〃0
0
0
2
上記 を除く朱姓 關6
(1
) 玉 3 (2) 2 『南 海 九 江關 樹徳堂 家譜 』 記 載 別 表3 〃10
(2
) 13 (2)5
3
上記を除 く關 姓 應 弼o 上 進◎ 光 瑞G 順 治17年1660 康 熙60
年1721
雍 正4
年1726 上 遷Q 紹 祖o 康錘ミ59
年172G
雍正2年1724 嘉 薦゜ 順 治11
年1654
(上 進の伝 に 「穎 悟殊常,
族 孝 廉 嘉薦 異之」と あり) 鑪 必 登o 康 熈23
年1684・
龍q.
一一….
一・
一
瞰◎ 康 熙32
年1693
康煕54
年1715
王孫q.
・
一.
.
….
……一…・
・
家 駒O一
雍正 4年1726
道 光元 年1821
◎ 銘○……一一・
・
……一
名 教゜ 正統3
年1438
万 暦40
年1612 仰 膳一
一一.
一
大 度 鍾 喜o 嘉靖34年1555 天 啓7年1627 驥◎・
・
・
・
一・
承 賁゜ 万 暦32年1604 康熙11
年1672
禮o…一
.
.
.
.
.
.
.
r.
.
.
r亨
.
・
rr
.
.
上謀o 乾隆17
年1752
乾 隆36
年1771
明 00
2
4
(1
) 景 然一
協一一
離 照゜一
之綱◎一
纉道゜ 道光元年182E 咸豊2年】852 咸 豊ll年』861 秉璋 乾 隆54年1789 倫o 道光15
年1835・
馮1
(1
)1
1
r
7
(5
) 昭 長・
・
燕謀−
「
憲
羹
二
讖
軻
蘇
i
;
年・865 同 治2年1863 威 豊1D年1860 耀 謀一
汝i
簗
゜ 道 光20年1840 善 謀一
汝 掌゜ 錫 綸 道 光11
年1831
同 治7年1868 城o 乾 隆35年1770 注 光 緒 『九江儒 林 郷 志』巻 十 選 挙 略・
巻 十一〜
十八 列伝に基 い て作 成。
( )内は殿 試 合 格者数。 ◎は 進 士,
○ は 挙 人,
一
は 父 子、
[は兄弟を 示 す。
進 士は殿 試 合格 年を,
挙 人は郷試 合格年を名の下に記した。
138
N工 工一
Eleotron ⊥o LibraryNII-Electronic Library Service 珠江三角 洲の地 域 社 会 と宗族
・
郷紳11
表
2
「南 海 九 江 朱 氏 家 譜 』記
載
の朱氏
の挙
人・
進士表
3
『南 海 九 江 關 樹 徳 堂 家 譜』記
載
の關氏
の挙人 ・
進 士 名 房 名 世 代 郷 試 合 格 殿 試合格 名 房 名’
世代 郷 試 合 格’
殿 試合 格 謨 繹 思 7嘉
靖31
年1552
銘 垂慶愛軒12
』
嘉 靖22
年1543
讓 〃〃
嘉靖37
年1558・
万 暦膵
1574 沛.
錫 暇 〃 万暦 7年1579 凌霄 〃8
万 暦13
年1585’
志 拯 思 蔭13
隆 慶 元 年1567
伯蓮 〃9
崇 禎6
年1633
季益 錫 暇 Zノ 万暦43 年1615
万 暦47
年1619
實 蓮〃
.
〃 天 啓 元 年1621 管 思 蔭 ユ4 万 暦28年16001
光祖 〃 〃 万暦40
年1612
逢揚 〃 〃 万暦31
年1603
光 允 〃 〃 万暦43
年1615
翔 霄 錫 蝦祖実、
16
康煕59
年1720
白一・
爪 兀 〃 11 康熙4窪年1705 元礎 思 蔭 18 乾 隆 3年1738 道南 存 著12
乾 隆21
年1756
廷牧 式序茘菴 〃 乾 隆27
年1762
乾 隆28
年1763
吉兆 禺百 觀 13 乾 隆元年1736 仕龍 患 蔭 20 乾 隆54年1789 嘉慶6
年1801
堯勲、
存 著15
道 光20
年1840
兆鵙
式序茘菴 〃 同 治 元 年1862
士碕 繹 思1
! 道 光19
年1839
鴻 思 仁21
道 光26
年1846
次 碕 !1 〃 道光19
年1839
道光27
年1847
簡 〃 〃 咸 豊元 年1851
衢 尊 〃16
同 治9
年1870
「
陣
垂慶聖朝24
光 緒19
年画
」
.
表
1
は・ 明 初 (1368)
か ら黼 治末年 (
1874
) までの全蹴 を通 じ て2
名以
上の挙 人・
進士
’
を 出し た宗 族
15
姓につ い て、
・
各 時 期 ご と に その 人数
を示 し た ものである。 こ の他 に、
挙 人1
名
だけ出
して い るのが10
姓 ある。 差 引 する と、
光緒 『
郷 志』
掲 載の氏 族47
姓 中22
姓が1
名 も挙人
・
進 士を出 してい ない こ と になる。 備 考欄
に は、
父子、 兄弟
な ど の血
縁 関 係 を 確 認 し得たもの のみ
系
図 を 示し た。 こ の表 か ら、
羅・
張・
呉の3
姓を除 く12
姓が上
記13
姓と重 な っ てい ることが わ かる
。即
ちこ の12
姓は、
明清
蒔
代 を通 じ て九
江 に根 を張り
、 九 江の 地 域 社 会に対 し て
・
大 な り小な 膨 響 力 を及ぼ してきた宗族
で
あ・ た と飯
られる。 なお 上 記13
姓
中ただ
1
姓、
表
1
に載
っ て いない胡 氏は、
乾 隆年間
に挙
人1名
を 出 している。(
後
述)
つ ぎにこれらの宗 族につ いて
個
別 にその変 遷 を検
討 して みたい。 以 下は と くに明 示 し ない.
限 り、
・
光 緒『
郷 志 』 巻 十 選 挙略 ・巻
十一〜
十八列伝
に依 拠 してい る 。.
ji
)各姓
につ い て黄 氏。 明
代
に5
名の進士 と4名
の挙 人を出 して お り 、 備 考欄
に示 し た 通 り全員 血 縁 関 係 を辿る こ と がで きた。
の系統
は明
中 期に三代続
い て挙 人・
進 士 を集
中 的に 出し、
1
な かで も139
N工 工一
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