• 検索結果がありません。

珠江三角洲の地域社会と宗族・郷紳 : 南海県九江郷のばあい

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "珠江三角洲の地域社会と宗族・郷紳 : 南海県九江郷のばあい"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

NII-Electronic Library Service 北 陸大 学   紀 要 第

14

号   (

1990

)  pp

129〜150

1

域 社 会

宗族

郷紳

南 海県 九 江 郷

西 川

喜 久

は じ め に

1)  南

海 県 九 江郷の

i

蚕 桑 と

 ii)

魚 苗 と魚

 iii

米 穀と穀 埠 (

2)

 

南 海 県 九 江 郷の

郷紳 至

概 況

 

ii)

 

各女

生につ い

お わ りに は じ め に

 

南 海 県は西 江 と北江が 運ぶ泥土 に よっ て形 成さ れ た 珠江三角洲の 西 北

に位 置 し

明清時

代 、

      ア 広 州 府 下

14

県 中の首

であ

り、番

もに広 州 府城内に県

を置い て い た。

内は

6

64

堡 に分 か れ

都 ごと に

1

巡 検 司を置い て堡  を分 治 し た。 九江 堡は江 浦

巡 検

司の 管 轄

にあっ た が、

隆五十

1786

南 海 県

簿

新 設

内の

18

堡のう ち 南 部の

5

堡 を分 治 する こ と とし

九 江 堡に主 簿 庁を

置い た。

 

九 江 堡は九 江 儒

郷 とも

南 海

の西 南 端にあっ て、

新会県 ・

徳県

し てい る。 その人口は、 清 末 道 光 年 間

19

世 紀 中葉

に は 「男 女二 十 餘 萬   」の多 きに上っ て お り 「

江 郷

爲 南 海 冠  」

と ある

如 く、

南 海

内 最 大の郷であっ た。 の みなら

、 九 江 郷は ぐ仏

山鎮

ぶ県 内の 二 大

済 中心 地の

つ で もあっ た   。 仏 山が 西 江

北江 の 主流 か ら や や離れ

手工 業に よっ て繁 栄し たの に対 し

九 江は西 江の 河 岸に位

し、 桑 園 囲   囲 堤に よっ て 大河 の

ぎつ つ

蚕 桑 業 と養 魚 業を発 達 さ せて きた。 明 末 清 初の人 陳 子 升

南 海 県 沙 貝 郷 か ら九

郷に移 居

九 江 を 仏 山と対 照 して大 意つ ぎの ように述べ てい る

  「

南 海 県は広 州 府の首 県であっ で

中で

仏 山と九 江は繁 栄 を誇っ てい るが

その治め方は

 

異 なる。 仏

城に隣 接 して お り

これ ま で 二

三 の巨 族が

愚 民 」

を統 率 し て お り、 財

  貨

とい ば製 鉄の み で あっ た。 近 年、 よそ 者が流 入 して商 入 が あふれ

土着の住 民は よそ者

 

屋 を

して

自分

は小さ くなっ て

ら してい る。 賑や か な街 並は まる で城 市の如 くで

 

あ り、

特 設の

官 を 置 か な ければ治め ら れ ない

と思 うか もしれ ない が

そ うで はない

国 語

 

Faculty

 of 

Foreign

 

LangVages

129

(2)

NII-Electronic Library Service

2

西  川   喜 久 子

 

方九江は南 海県

にあ り

治安

が 悪い 。 池 塘が入 混 じり、 住 民は養 魚に従 事 して末 利を

 

逐い

、米穀

郷 から買い れて お り

言 葉 遣い や

な りも粗 野で

る。 だか ら

特 設の

 

官 を置い て も騒 動は防 げない

と 思 うか も し れ ない

にあ らず。 仏 山は省 城に駐 在 する   官で治め られるが

九 江に は九 江の官 を置い て治 めるべ

何 故 か といえ ば

仏 山 住

 

民の習 俗

気質

は城

わ ら ない が、 九 江は城

と は異なり

だか ら

省 城の

 

で は 掌 握で き ない の である」。   と。 こ こ に省 城

仏 由鎮 とは異なる郷 村 地 帯と して の九 江 郷の特 質が簡 潔に記されて い る。 従 来

仏 山 鎮 を

対象

と し た研 究は 比

い が  

九江郷 を とり上 げた專

見の限 り見

ら ない

以 下

この九江 郷の明 清 時 代 に おける経 済と宗 族

郷 紳の実 態を明 らか に したい 。

1

 南

海 県 九 江 郷の経 済    

1

) 蚕 桑と糸 墟

  明清時代

、 珠 江三

洲の農

は、 大 まか に言っ て南 部 河口

近の海 浜で は

田 稲 作を、 早 く か ら陸地化 した北 部で は基 塘 方 式 を特色 と し た。 基 塘 方 式とは

三 角 洲 特 有の低 湿地 に塘

を掘 り

その 泥 を積んで基 (堤

を築い て

塘では魚 を養い

基には果 樹

蔗 糖

桑 な ど を 植 える生 産

方式

魚塘」

塘 」な ど と

称す

る。 基

塘方式

が開

さ れ る よ

になっ たの は、 河 川の氾 濫に備 えて桑 園 囲 などの大 堤 防を築い た結 果

潅 水

排 水 が 困 難とな り

稲 作に 適 さ な くなっ た ため であろ う。 こ の種の基 塘

式 が 最 も

く始 まっ たの は

南 海 県 九 江 郷 を 中 心 とする

帯であっ た とい

  。

 

基 堤には 明 初

眼な どの

が主と して

えら れ 「果 基

魚塘

」 と

し た が、 商品経

の発展に伴い

明 末 清 初 期に は

より経 済 効 率の高い 「桑 基 魚 塘 」に き り換え られ て い っ た。

初の

情に詳

しい 屈 大 均 『広 東 新 語

』(

康 煕三十九年 刻

巻二十二鱗 語

養 魚 種に

 

大 縣 村

往 往 棄 肥 田 以 爲 基, 以樹 果 木。 茘 枝 最 多。 茶

桑 次 之。 柑

橙 次 之。 龍   眼 多 樹 宅 旁

亦 樹 于 基。 基 下 爲 池 以 畜 魚。 歳 暮 涸 之, 至 春 以 播 稻 秧。 とあっ て

清初すで に稲田 の基 塘へ の転 換 がみ ら れ た が

基 に は主 と して果 木 が 樹 えら れて い た

即ち広 州 府 全 体と して は

な お

茘枝 ・龍

眼を主とする 「果基

魚塘」

的 で

っ た。 と

ころが

同 じ く

初に編 纂 さ れた順 治 『南 海九江 郷 志 』  巻 之

;、

生業に は

  郷

癧 西北 下 流地 籏

魚 塘

卜之 八 田 十 之二

,……

桑,

近 來 墻 下 而 外,

無 隙 地, 女 紅

本務

 

斯 爲 盛

。……大都九

利頼多藉魚

、次

蠶 桑

,次禾稲

芋 止 矣。 とあ り、 九 江の ば あい は蚕 桑の 比 重 が 果 木

円 眼

9E

遍 上 ま わって い た様 子が うか が える。 し か し 「禾 稲 」も まだ 蚕 桑に次 ぐ位 置にあっ た。 ま た

桑業

の発 達 段 階とい

点か らみ て も

養 蚕 農 家が桑 基の

作 を兼 ね

農 家の 婦 女 が 養 蚕 か ら 製 糸 まで を

貫 作 業で行 なっ てい た よう で  

種 桑 と養 蚕

糸の分 業は まだみ られ ない 。

 

九 江の蚕 桑 業は、 清 代 乾 隆

嘉 慶

期 (

18

中 葉

〜19

世 紀 初 頭

を 迎えた。

緒 『郷 志 』に 「

……

故 自 乾 嘉 以 後, 民 多 改 業 桑 魚, 樹 薮 之 夫 百 不 得

」 (輿 地 略

物 産

とある よ

に、 稲田の 桑 基

魚塘化

す す

道 光

期 (

19

に は

有 桑 塘 無 稲田

,仰糴於外

」  と

如 く

田 は

ど姿 を

し て しまっ た

その 背

と して

葉 顯 恩

華 氏は

乾 隆二 十二年

1757)、

広 州が 唯

の対

貿 易 港と な り

広 東生

糸 ・

絹 織

の輸 出 量 が 増 大

、糸価

が上 昇したこ とを指 摘 して い る。   製 糸 業活 況種 桑 養 蚕

製 糸

130

N工 工

Eleotronlo  Llbrary  

(3)

NII-Electronic Library Service 珠江三角洲の地域社 会と宗族

郷紳

3

過 程 も分

め た よ

で、 順

治 『

郷志

墟 市の条に は

ら れ ない

桑 市

道 光

南 海

志』巻 十 三 建置 略五、 墟市の条に は

「桑

市 

一,

在 南 方

一,

在西方

一,

在 北 方三

江 堡 」と記 載 されてい る。

 

九江を含めて広

製 糸 業の

大 画 期は

アヘ ン戦 争 後 咸 豊

同治か ら光

緒期

に かけて

19

世 紀 後 半

訪れ た

。鈴

木 智 夫 氏の研 究によれば

機 械 製 糸 業の 勃 興に より

従 来

養 蚕 農 家の 婦 女の手で行 な われ てい た

製糸

業は衰 退 し

、養

蚕 と

製糸

は分

化、従

前の

糸 市に

わっ て 繭 市

繭 桟が 出現 し た、 とい う  。 機 械 製 糸勃興 後の 問題 につ い て は

木 氏の 論 稿 に 譲 り、 本 稿で は

その前

階、

墟の

題 を取 り上 げる。

 

九 江 郷の

墟 につ い て は、 光

『郷志

四建 置

略、

 儒林文社絲墟在

。嘉慶

未,闔郷紳

聯禀

上 憲

公設。

絲 ・蠶

・沙布、皆

 於

此 售

取 廛 以供 通 郷 士 人

應試課文諸費

。 とあ

、 その

割注

、嘉慶

秉璋 (

等の

請 を

け て南 海 知

戴 錫 綸が給し た示 文

嘉 慶 十

年の

学 海

乾隆 五 十

副 貢

の記

糸墟の

条 」 ・

道 光十 年の黄 世 顯

員)

の記 を収

して い る の で

これ らに基づいて糸 墟 設 立の経 緯

運 営 内 容 を 検 討 して みたい 。

 

九江 郷の糸 墟は、 上

墟 市の

に よ れ ば、

 

因互

控奉府

憲提 訊

奉各

憲批

飭,

將所

開 邊埋邊兩墟 封 禁

聽 客 男往剔墟 交   易。 とあ り、 道 光 『南 海 県 志 』 巻 十三建 置 略五

の条に は さ ら に、

 

査 九 江 絲 墟 先 因朱 朝 禄

陳 棆 書 等

……

將 朱

陳 二 姓 所 設 開 邊

埋邊 兩 墟 封

, 聽 客男往

 剔墟交

とあっ て

従 来

朱 姓 と陳 姓 が そ れ ぞ れ 開 辺 墟と埋 辺 墟 を開 設 してい たが

両 者の 間で抗 争 が 起こ り

結 局 両 墟 と も

との断 が 下 っ て

客 商

機 房 が 集 中 する省 城

仏 山 等か ら 生糸 を買

けに来る仲 買

う)

は 別墟で交 易 することに なっ た。 上 記 黄 世 顯の伝 (光

『郷 志 』 巻十四

に 「郷

廢 ,

貿 易 無 所 」とあるか ら 「謝 禁 」

以 来

九 江 郷 内に糸 墟は久 し く開 設 さ れてい っ たの で ある。 こ の よう な 状 況下で 嘉 慶四年 (

1799

)、 九 江 郷の紳 士が共 同で

に具

九江 大 墟

後 出

の 中心にあっ た 「

闔郷文廟」

儒林古廟 (

林 文 社

有地 に 「儒 林 文 社 絲 墟 」 を 開 設 することが

関 係

官の批 飭 を得て認め られた。

 

糸 墟の 「規

」 に は

)糸

墟の 「各 項 租 銀 」は 厂郷 中課 文 應 用 」に帰 す

U ) 毎 年二 月初 三 日 に

儒林古廟

に おい て

推挙

さ れ

實値事」

租銀

徴 収 ・管

理に

たる

)課

用にあて た残

は 「封 貯 」 する

「買

」は伝票 をき り、 「

主」は この 伝 票に よっ て銀 を

受取

る。

壥場

で私 的に

買しては なら ない 。

發票,絲

主 憑

收 銀

不 得 在

私 交

以 杜 假 僞

。)

即 ち

糸 墟の管 理 人が買 手 と売 手の仲 介を し

双 方か ら手 数

を取るの で あろう。 ホ

「發 票 」 と 「收

」はその日の うちに清 算 する。 「大 造 」で当日中に交 易が終わ ら ない ばあ い は、 翌 日

に清

し、 再

宿

し て は な ら ない

等 を定め てい る

  糸

墟は開 設 以 来 厂

賈 雲

」し、

逢三六

九墟期

雲, 而

絲墟爲

尤 最

交易

亦 各 頗 多 」とい う盛 況で あっ た。 乾 隆

嘉 慶

、 製 糸

の 薪たな高 揚を 迎えて、 九 江の郷

紳達

、闔

して ひ とつ の

櫨を設立 する ことに よっ て宗 族間の 矛盾

対 立を調 停 する と とも に

生 糸 市 場 を共 同で管 理 し て

流 通 利 益の

部 を墟 場の租 銀

手 数 料の徴 収とい た形で掌

131

N工 工

Eleotronlo  Llbrary  

(4)

NII-Electronic Library Service 4 西   喜久 子 中にお さ

to

これ を九 江郷の科 挙 受 験 者= 郷 紳の 育 成にあて たの で ある 。

 

ii

魚 苗 と魚

 

九 江は養 魚 業 に おい

も最 も早 く発 達 を

げ た が

そ の最

色 は

官 権 力の保 護の下で 魚 苗

稚 魚の こ と。 魚 花

魚 秩

魚 種ともい う )の魚 撈と 販

を独 占 して いた点にある。

 

先 ず

清 初の九 江

の概 況 を

順 治 『郷 志 』 巻 之二生

餉の条および 『広 東 新 語

巻二十二鱗 語、 魚 花

養 魚 種

魚 牌

魚 餉の

条に基い て跡づ けて み たい 。

 

九 江が魚 苗 漁におい て独 占権 を獲 得 し たの は、 明 弘 治 十四年

1501

、 両

総 督 劉 大 夏が

西 江 両

に魚 埠 を設 けて九 江 郷 民に魚 撈 を請 け 負わ せ

魚 餉

を徴 収 する こ と を 上奏 して

裁 可 を得たこ と に始 まるとい 魚 埠

漁 場の ことで

魚 歩

花埠

などともい い

水 勢に よっ て 上 埠と 下埠に 分 け、 上埠 は銀

5

は銀

2

5

分 を魚 餉と し て 納 入 さ せ た。

帖 (

許可 証

を給 さ れ、 魚 埠で操 漁 する こ と を許さ れ た漁 戸を魚 花 戸とい っ た。 魚 埠は当 初

80〜90

所 あっ た が

しだい に増 えて

900所

に も 上っ た とい う  。

 

魚 餉 に は

広 州

府 ・

肇 慶 府に上 納

る 「正 餉

」、

龍 川

県 (

恵 州

府 ) ・

南 雄 府

嘉 慶 十二

) ・

羅 定 州に 上納 する 「額 輸 」

始 興 県

南 雄 府

) ・

開 建 県 (肇 慶 府 )

永 安 県

恵 州府

)・

LLI

県 (広 州 府

州 府

賀 県

平 楽

府 )

桂 林 府 以 下はいず れ も広 西

に 上納 する 「例 徴 」が あっ た   。

 

魚 菌の 漁期は 旧暦三 月 か ら 八 月 までで

、撈

っ た 魚苗は塘に放 して 翌春正 月 ま で 養 殖 し た後 各 地 に売 り捌 き、 帰 路の船に は穀 米を積ん で 帰っ た。

 

正 月

,始鬻魚

花, 水 路

行, 人 以

萬計,

筐以

計。

自兩

郡邑, 至 于豫

章 ・

 

不 之 也。

  (

広 東 新 語 』 巻二 十二鱗 語

花 )

とある か ら、 その販 路は両 広の み な らず、 江 西

湖 南

福 建 に まで及ん でい たの である。

 

魚 餉 を 引 き受け るこ と に よっ て

漁 場 と販 路 を独 占 する とい

特 権 を享 受 して き た 魚 花戸 で あるが

清 初以来、

、各

地 の 差

兵 丁 等に よ る 「封 捉

」「

索詐」

があい つ ぎ

乾 隆 後 半

18

紀 後 半 )になる と

こ の問題 は九 江 魚 花戸 に とっ て重 大 問題 とな っ た

 

光 緒 『郷志

巻五経政略は、

魚餉

をめ

っ て

隆末葉

及 び 道

光年

間 に発せ られた

種の告

・牌文

録 してい るg

 

先 ず、 乾 隆 末 葉に出さ れた 告 示

牌 文四種の 内 容 を紹 介

る とつ ぎの通 りで ある。

 

1

) 乾 隆三 十八年五月 初 十 日付

広 東 分 巡 肇 羅 道

壽平の告 示。

   

商 民

鄭 著

の魚 花 埠で 「不 法

徒 」が胥 役 と グル になっ て 「

價勒

買 」し た り

地 租 を 取 立て た り

る ので 取 締 まっ て ほ しい ” との 呈 請 を 容 れて 発せ られた もの 。  

2

) 乾 隆三 十 九 年十

月二 十二 日付

広 東 糧 驛 道 呉 九 齢の 牌 文

   「

民 人 」 鄭 士 明

張 抜 虎

九江の民

年、 魚 苗 をとり、 穀 石 雑 糧 柴 草を販 運 して い るが、 途 中しばしば 各 府 州 県の 「船 頭 差 役 」に 「封 勒 」される

こ れ を 禁 止 して ほ しい ” とい う稟 文に応 えて出 さ れた もの で

の 内 容はつ ぎの如 くで ある。   如 遇 九 江 民 船

無 論 裝 載 魚 苗

買 運 谷 石 雜 糧 柴 草

以 及 空 船 過 泊

均 照 從 前 飭 禁 文 行。 自後

 

9

船 頭 差 役 濫 行

緊 要 差

務,

及 文 武 衙 門 往 來 公

幹,

須 封

蓋 印

封 雇 該 處 蛋 船

 

給 價。 如 各 船 頭 仍 行 串 同 差 役

,藉

端濫封, 揣

, 苦 累 九 江民人 船 艇, 立即 嚴 拿 重

  究。

 

徇 縱。

132

N工 工

Eleotronlo  Llbrary  

(5)

NII-Electronic Library Service 珠江三角洲の地 域社会と宗 族

郷 紳

5

この

令は

広 州

恵 州

南 雄

潮 州

韶 州

肇 慶の各 府と羅 定 州に示 達 して 「給 示 勒 石 」 す べ と さ 。 「

頭 差 役 」の 厂封

」 「封

」と は

船 頭 (河 船の取 締 りにあたる吏 員で あろ うか

が、

船 を 差

さえて拘 束した り、 公

使

用 し た り

ることで

る が、 「有

, 無 錢 則 封 」とい うのが実 情で あっ た とい う。

 3)

乾 隆四十四 年 十

月 初五 日付、 広 西布政使 朱 椿の牌 文。 両 広 総 督 桂 林の 牌 文 を

けて出 さ れた もの で

三 十 九 年の 禁 令は広 西 省には 「移 行 」 して い かっ た

と し て

潯州 府の貴 県

桂 平 県

梧 州 府の平南 県

蒼 梧 県 等の 「船 頭 差 役 人 」が 「稻

谷雜糧等物

」 を 採 買に行 く九江の民 船に対 して

封 雇 當 差 」 する こ と を

禁して い る。 こ れ は梧 州 府と 潯州

の知 府に示 達 された。

 4 )

乾 隆五十四

付 、

両広 総 督 福 康

 

南海縣

昆」 麦 建 東 等

6名

連 署の 呈

けて、 両 広の 沿 河 州 県に対 し て発せ ら れ た禁 令で 、 内 容は

2

、3

と同 趣

だが

禁 令が 「

役 」

の 目に ふ れる よう 「自行

石 」して

県 署

の 前 に立てたい

麥等

は願い 出て おり

その 通 りになっ た よ

である

 

 

以 上 か ら

乾隆末頃 まで 九 江 の 魚花戸 に とっ て 主要な 対決 相 手は 「

頭差 役 」 即 ち 地方 衙 門 の吏 員

役等

っ た と

推察

さ れ る が

、嘉

慶 以

後、

そ の

独占権

かす

在 とし て

私 販 」 が クロ

ズア ッ プ さ れて くる。 つ ぎ にこの 問題 を とり上げたい 。

 光緒 『

郷 志

』巻

二輿 地 略、 前

に、

 

(道 光

七 年丁

儒林書

……

裝販 爾戸 始 立 規 條

,歳

捐 梦 例 船銀

完 納 南

龍川

魚餉。

 

…・

謹 按 南 雄 龍 川

魚餉, 自

明 宏 治 以 來

由 九 江 魚 戸 辧 納

年,

私 販 日

衆,

 

新 魚

各船虧缺

既 多, 或 不 能

依期完納。

官 吏

追。 裝 販 兩 戸 因 是

以梦

例船

銀 按 數 捐

  出

歳輸

此 項。 とあ り

  「笋 例 船

」につ い て は

同 書 巻五経政略に

 

附 儒 林 書 院 郷 規

道 光 六 年 奉 憲 新 設

割 注 )

 

裝 家 夥 例

夥 取 銀二錢

 

販 戸 船 頭 新 魚

毎隻

 

取 挂

單銀

兩,

老魚毎隻

兩。

其銀

方取,無魚者免。

とある6 「裝 家 」と は魚 埠で 魚 苗 漁に従

する もの を指 し、 「裝 家 」か ら魚 苗を買い 入れて魚 苗 塘で養 殖 し

や や成 長 し た 魚 を 販 売 する者を 「造 家 」 とい い

「造 家 」 か ら魚 を買

6

て 大 魚 塘 で養 殖 し

墟 市に

を 「

種 家 」とい っ た。 「糸多」 (梦) は

布 製の漁 具で

水 中に立て た 同戈に装

し、

魚苗

は この夥 をつ たっ て水

い てい る

木筺

誘導

さ れ る。 「

魚商

の こ とで あろ う

な お

、清初

には 魚 花 戸

魚 戸

が 魚 苗 漁 か ら養

殖 ・

まで行 なってい た らし い が

道 光頃 ま で に魚 花 戸は 「裝 戸」即ち魚 苗漁従 事 者と 「販戸」即ち養殖

事す る 魚 商と に分 化 したようであ り

その後 「販 戸 」 が さ らに上 記の如 く 「造 家 」と 「耕 種 家 」に分 化し た とみ

れ る。

、 魚 苗 を

1

カ月 ほ ど養 殖 し て や や 成長し た もの をい い

ま で

殖した大魚 を

老魚

とい

ち 「

家 」か らは毎 夥 銀二銭 を、 「販戸

1

か らは船

30

新魚 )或

50

老魚う

」 として

徴収

し た もの で

 

明 代 以 来 続い て きた 九 江 魚 花 戸の漁 場 と販 路の独 占は

清 代 嘉 慶 期

至 り

他 地 域での養 魚 業の発 達  に伴 う 「私販」の横 行に よっ て くず れ、 利 益 が 減 少

餉 銀 も滞 納 するようになっ た。 このた め装

販 両 戸 が 地 方 官 か ら追 及された。 この

事態

に対 して、 九 江の魚 戸

魚 商 達は自衛 措 置 と し て 「笋 例

銀 」の據 出 を 「郷 規 」と して 定め

官の批 准 も得 た わけであるが

、一

既 得

権益

を守るべ く地 方 宮へ の働 きかけ

も行

な っ てい る。

133

N工 工

Eleotronlo  Llbrary  

(6)

NII-Electronic Library Service

6

西  川 喜 久子

 

に、 光 緒 『郷 志 」 巻五経 政 略 所 収の、 道 光 年 間に発 給 された告 示三種 を紹 介 する。

 

1)

道光 十 年五 月二十六 日付

南 海 知 県 潘 尚楫の 告 示。

 

2)

道 光 十 年七月 十四 日付

両 広 総 督 李 鴻 賓 の告 示。

  1)

、2

)は 「九 江 堡 魚丿円 の

請 を容れ て

南海知県 と 両 広 総

が そ れ ぞ れ発 給 し た告 示で

「或 捏 公 務 封 船 當 差

通 土 悪 包 攬 私 販 魚 苗

經 往 剔 處 售 賣

不 照 派 餉 彙 輸 」 とい た 「種

不 法

こ とを禁 止 してい る。

 3)

道光二 十 三年六 月初五 日付、 両広総督 祁項の告 示。

 

挙 人 明 倫 以 下

24

の 「

郷裝養魚

苗 運

賣,歳輸

重 課

近 有 土

無 税 魚 苗

,肆

賣,……

致餉魚

銷,

難 販 重

民奚 堪 」 とい う呈詞を

けて

「私販 」を厳 禁 する告 示 を 出 し た もの。

 

道 光 十 年の

文 提 出 者が 「魚 戸

j

で あ り

禁 令の内 容 も従 来か らの 「捏 公 務 封 船 當 差

とあ わ せて 「私販

J

の禁止 が加わっ てい たの に対 し

道光二十 三年の呈詞 に は

道 光 十

年か ら二 十

まで の

1

に郷 試に合 格 し た 九江堡 の

人全

24名

の 九江 郷

を連 ね

、禁令

容も 「私 販 」 問題

にし ぼ ら れてい る

これ は九江養 魚

の 独占が破ら れつ つ るこ と に対

る 九 江

郷 紳の危 機 感を

わ してい る とい えよ

 

米 穀と穀 埠

 

の 通 り広 東省は遅 くと も明 末 清 初にはで に

穀 不 足をきた してお り

、外

か らの 入 に頼っ て い た  

と りわ け 蚕 桑 と養 魚の 中心地九 江で は

前述の よ うに清 初には まだ僅 か なが ら残っ て い た

田 も

乾 隆

・嘉

慶 以 後

桑 基 魚 塘へ 転 換

段 と す す

「穀 米 悉 由外 糴 」 (光 緒 『郷志

巻四建 置 略

、義倉

社 倉

とい う状 況であっ た。 な お

『広 東 穀 語 』巻二十二 鱗語

養 魚の条に は 「基 下

池以

畜魚。歳暮

涸 之

稲 秧」 とあることか ら

清 初に は年

に 魚 苗をす くい 上 げた後、 塘の底を稲田 と して利 用 してい た ようである。

 

九 江で は、

外省 ・外県

か らの

米穀

移入

は、

魚花

魚商

て い

順治

郷志

巻之二生業に

  魚苗到塘

勞費

。 至下

年春 ,

須浩費 雇

,船載

往兩

粤各

地 方

克 換 穀 米

 

……

且所 兇 穀

石,

非 苦 遇 糴, 則 厄上倉,

魚商

罷 困極 矣。 とある こ とか ら

清 初には

次 年 春 まで魚 苗 塘で 養 殖 した稚 魚 を魚 商 が 両 広の

州 県で穀 米に 換 えて い たこ とが わ か る。

 

前 出 乾 隆五十 四年の 両 広総 督 福 康 安の 告 示 中に引 く 「南 海 縣 民 」 麥 建 東 等の呈 文 中

にも

 

毎 年 春 初

,駕船前

西 河 道

批 佃 蜑埠

裝 撈 魚

苗,載

回 塘 内

畜養,

男 赴 南

惠 潮 各 府 售

 

歳輸餉

銀 七 千 餘 兩

交轉。

秋并

魚苗裝

運,

各 向

西

採 買

雜糧柴草

, 以

生   計。     

とあっ て、 魚 花 戸は春、 西 江で

魚苗

漁に

従事

魚苗

の漁

は旧 暦三月か ら 八

A

まで。

、 撈っ た 魚 苗は塘に放っ て

る。 夏 秋は遊 休 夥 船 を 利 用して広 西 各 地に赴 き、 穀 米

雑 糧

柴 草な ど を買い 入 れて

る。 翌

春 (

正 月 一

魚 塘

し た魚を南 雄

韶 州

恵 州

潮 州

各府

へ 販

に出か ける

とい

シ ョ ン が でき上 がっ てい る。

 

に穀 米の購 入 地につ い て

えてみ たい

に は 上 述の如 く 「兩

粤各

州 縣 地方」 で穀

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

を入 手 して い た が

乾 隆

になる と

乾 隆三十 九 年の牌 文 に 「糸多船 往 西

省各處

買 穀

,接濟

民食 」

      

o

 

 

 

 ●

 

 

134

N工 工

Eleotronlo  Llbrary  

(7)

NII-Electronic Library Service 珠江三角洲の地 域 社 会と宗 族

郷紳 7 とあ り

同四十四

文に も 「郷 民駕 船 前 往 西 粤 潯 梧 地

面,

採 買 稲

等 物 回 郷

」 とあっ て

米の主要 購 入地 は広 西 省

就 中 潯 州 府と梧 州 府に移っ てきて い る。 そ し て後 述 する道 光二十三年に穀 埠 設 立 を 稟 請 し た馮 錫 鋪は

九 江且 戸

, 日

穀 米二 千

無田可 植

,食 自鄰

。(

『郷志 』巻四

置 略

と述べ 、 ま た

 其

地 西

爿羊爿可江, 與 香 山

新會産米

之區 近

而西 江 穀 東 下 所必經,

并擬循舊疏

通 爲 穀

船停泊處

 

……

  (同上 )

と記 し て お り、 「鄰邑」 即ち 「

新會

産 米 之區 」 が 九 江郷の第

入 地 に っ てい る。 こ れ は

乾 隆 期 以 後

香 山

萩 会 など珠 江 下 流 域の沙田造 成が急 速に進み

沙田 地帯の米 穀生 産 量が増 加 し た結 果で あろう。 広 東 巡 撫 祁項

道 光 十三

十八年 任 )は、 広 州 府の米 穀の来 源 を

  待

於廣

西 十 之六 七, 羅

定 ・

建十

,濱海

沙田

  (

同 治

禺 県 志

巻十 五

  

建 置 略二 に引 く恵 済 倉 記 略

と記 してい る が

これ は広 州

仏 山 な どの大 消 費 地 を も

め た 広 州

全 体につ い て述べ い る の で あ

り、

九江 に限っ てい え ば、 地 理 的に近

した

田 地

の比重は、 は る か に大 きか っ た は ずである。   以上見て きた穀 米の 来 源の重 点 移 動、 即 ち 広 東

広 西 各 州 県か ら広 西 潯 州

梧 州 両 府へ

さ らに広

香 山

新会

へ とい

う変化

広 西 両

に おける地 域

の発

に よっ て もた ら さ れ た もの と考 え られ

 

さて道 光二十三

、 九江 南

  の沙口 に穀 埠

の船

が建 設さ れた

九 江 最 大の墟 市は 大墟と称し

西 江 (爿羊柯 江

から引い たク リ

=大

涌を

し入っ た 九江 郷の ほ ぼ中 心 に位 置 し、 光 緒 『郷 志 』編 纂 時

大 涌 をは さ んで東 西 両 岸に

、26

の 「街 巷 」と

7

の 「行 市 」 (絲

行 ・

布 行

蚕 紙 行

鶏 鴨 行

魚 種 行

旧 桑 墟

新 桑 墟

1500

余の 「鋪 肆 」が たち並ぶ、 県 内 屈 指 の文 字 通 りの 大 墟で あっ た。 九江に は もともと 「通 郷 里 排 」が 明 正徳元年に開設した 天妃

廟前

壙 が あっ たが

その

後黄

正 徳三年 進 士

朱 譲

万 暦二年 進 士

陳 萬 言 (嘉 靖三十五年 進 士

) ・

黄 應 秀

万 暦 四 十 七

進 士

等が そ れ ぞ れ こ の

前 墟を移し て

開 辺

裏 海

良村

岳湾

の 四墟を開い た。 大 櫨は この四櫨 を

統合

したものだ とい

  。 道

二十三

まで

穀埠

は、 この 大 墟中 心 儒 林 文 社 絲 墟

前 出

ら に設 けられて お り、 穀 店 十 数

があっ た が、 沙 口 に

穀埠

が開 設されて以 後

改 貿別貨

」と

る。

  沙

ロに

設さ れ た

穀埠

につ い て は

、光緒 『

』巻

略、墟市

、「

穀 埠

在南方沙

口。 道 光二

闔 郷 設 」 とあ り

この

に割

、南

海 知 県 史 樸の示 文

進士馮 錫

の記

「闔 郷 穀 埠 善 後 章 程 碑 刻 」

6

力条

「關 世

堂 合 約 批 據 」 を載 せてい る

 

馮 錫

の記に よ れ ば、 九 江 は男

二 十

万の 人 口 を

、毎

二千 石

を必要とする。 荒

に は商 人が米 価 をつ り上 げる。 乾 隆 初に

義倉 ・

社 倉を創っ たが、 いず れ も失 敗し た   。 そこ で九 江 南 方の 沙口の 旧汎口涌

西 江 と大 涌 をつ な ぐク リ

当 時淤 塞 て陸 地 化してい た

を旧 址に沿っ て再

通させ

、穀

船の停 泊 処を建 設 し ようとい

ことにな り

「各 族 姓 」が合 同 で工費 を分担、

1

股 あた り

銀 100

両 と

め て計 230 股 を集め、 道 光二十二 年 冬か ら 翌年 夏 にかけ て大工

を行ない

、25000

両 余

や し て

成 し た。 ま た

關 世 美堂

20畝

を醵 出し て、 「

鋪捨 ・

穀 棧 」 を建 設 し た。

135

N工 工

Eleotronlo  Llbrary  

(8)

NII-Electronic Library Service

8

西 川  喜久子

 

「闔郷 穀 埠

程 」は、 穀 埠 内の銀 鋪

穀 桟

豬 行 等の鋪 舎の地 租はすべ て 「闔 郷 穀 埠 」 が収 租 する

「各 姓

各家

」が 「私 自 建 置

J

し て は な ら ない

ク リ

ク や船

場の

渫 費につ い て も

段ごと に分担 を 決めてい る。

 

ま た

合約批據」

に よ る と、

關世

美 堂は、

祠に

まっ て商

の上

その所 有地

族 産

)20

畝 を 「

銀店 ・蟇淺

及 酒

米雜貲各鋪

」の

設地 と して 厂闔 郷 穀埠」に醵出する こ と を決め

1

畝当 り股价 銀

50

両にあた る と み な して、 該 業

20

畝 を關 世 美 堂の股 价

10

股 扮 にあて る こ と (關 世 美堂 に割 当て られた股 价は

10

股 ;

1000

両とい う計 算

毎 年 穀 埠か ら上 が る租 銀は闔 郷の

に照 ら して配分する こ と等が定め られた。   穀 埠 建 設は

進 士 馮 錫 錆 が 両 広 総 督と南 海 知 県にそ れぞれ 呈 文 を提 出し

総 督の 「疏 河 宣 洩

聚 穀 備 荒

均屬籌衛郷閭

」と の批が

使

に 下

り、布

政 使

州知府

を 経て

県へ と訓 令が 下 りて

「如 遇 穀 船 到 埠

務 須

平 議 價

隨 賣

。……

該 涌 遇 有 淤 塞

即 由 爾 郷 衆 鋪 戸 随

疏 摘

通 ,

俾資

宣 洩 」との

県の示が

さ れ たの で

る。

       

   

 

香 山

新 会 等で沙田造 成が 急 速 に 進み 、

沙田 地帯産 出の米 穀が増 加、 上 流 にある 九 江郷の米

取 扱い 量 も急 増 し

よ り大 規 模 な穀 埠の設立 が 求め られ、 「闔 郷

埠 」の建 設 となっ た。 こ の 「闔 郷 穀埠 」の特 色は

規 模の大 きさ と共に

九 江 全郷の 各 族 姓が共

で 工 費を分 担 し

出 資 額に応 じて利 益を分 配 するこ どに よっ て

米穀

流通 をめ

る 九 江郷の

各宗族

間の抗

調 整を は か っ た点にある。

              

2) 

南海 県九江 郷の宗 族

郷 紳

  i )

概 況

       

1   光 緒 『郷 志 』 巻四建 置 略

祠 堂の 条に よれば

光 緒 初

九 江 郷に祠 堂 を有 する氏 族は

47

姓 を 数 え

「始 祖 桐

合 族 柯

先 達 桐 」と して計

112

の祠 堂 が 挙 げ ら れて い る。

 

こ の

47

112

の祠 堂の冒 頭に

っ てい るのは

、關

姓の祠 堂で

、關

六堂 祠

關 樹 徳 堂

關世 美 堂

關 典訓 堂

關 世 徳堂

關啓 翼堂

關思成堂

關 学 憲 祠の

8

祠堂 がある

六 堂祠は 關姓

氏の合 族 祠 樹 徳 堂 か ら思 成 堂 までが 關

姓各

氏の始 祖

、 学

祠は

先達

祠 と み ら れ る。:

一一

この う ち

關樹

徳 堂は単 独で

  『

九 江 關 樹 徳 堂 家 譜

 

(關兆熙 等 修

光 緒二 十三 年 序 ) を 編 んでお り

關 世 美 堂は前 述の通 り

埠建

設に際 し

集桐商議

」して

江 郷 との

合約」

ん でい る。 ところ で

關樹徳

家譜』

に よれ ば、 樹 徳 堂

の始

遷 祖 貞の弟 俊 が 世 美 堂 を 開いた

とあるか ら、 樹 徳 堂と世 美 堂と

、 貞

俊 兄 弟を そ れ ぞ れ始 遷 祖として お り

同 宗で あるが

同 族 組 織として は両 者 は 分

離、

別 組 織 として機

してい る。 ま た

俊 兄

保 昌

南 雄

か ら南下 した とされる が

光 緒 『郷志 』 巻二 十

雑 録 上 に

「惟

啓翼堂

關 氏

傳 自福 建來」

とある ことか ら

、啓翼

氏は

、樹

徳 堂

世 美堂 關氏と は別 系 統で ある ら しい 即 ち

光 緒

郷 志 』 掲 載の關 姓の祠 堂 中に は

同姓 同 宗だ が組 織 を 異にする もの と

同 姓 異 宗の もの

とが 含 まれてい る の である。 こ の 關 姓の 例か ら 推劉 する に

おそ ら くこの

112

の祠 堂

同 族 組 織は

九 江の地 域 社 会に おいて 同 族が 同 族と して ま

とまっ て

動 する単 位 だっ たの で あろう。 換 言 すれ ば、 これらの祠 堂 を 中核と して結 合 し た同 族

織 が

同 族 とし ての対

的、 公 的 活 動の単 位であっ たか らこそ

そ れとして 『郷 志 』に 記 載 さ れ たの で はる まい お、

道光 『

南 海

捐 冊、 九江 堡の 項と

光緒 『

郷志

祠 堂 の条と を 対 照 して みたと こ ろ

、關

氏の ば あい

世 美

・典

・啓

翼の

4祠

堂 が

道 光

136

N工 工

Eleotronio  Library  

(9)

NII-Electronic Library Service 珠 江三角 洲の地 域社

と宗 族

郷紳

9

志 編 纂に対 してそ れ ぞ れ 別

に捐

してい る。

 

さ ら に關 姓 以

姓につ い て

同じく道 光 『南海

志 』 捐冊 と光 緒 『郷志

嗣堂の条とを 対 照 してみ る と、

47

姓 中

13

、 112

祠 堂 中

17

祠 堂が対 応 してい る

 

この 13 姓は

岑 ・黎 ・郵 ・

朱 ・

馮で、 順 治 『郷 志

』巻

祠 堂の条 掲 載の計

32

姓の

に もこ の

13

はすべ て

ま れ れ る。 表 1 明 清 時 代 南 海 県 九江堡郷 試合 格者数 年   代 姓 黄 明 1368

−i1644

9

5

7

曾 陳 羅 岑 張

5

(ユ) 4 (1)

11

順 治

雍 正

1644(

ユ735 2 4

2

o

22 乾 隆

嘉 慶

1736〔−1820

2

1

1

0

12 道 光

同治 1821磁 874 1

1

2 (1)

o

10 備 考     ◎ 順 元 年1457

 

 

 

      正徳3年1508    思存

應 擧@         万 暦

32

年ユ604  思垣

應 秀◎         万 暦47年1619         應 昭      葵日◎       崇 禎13年1640 泰o     

成 化13年1477 粤゜ 弘治

5

1492

   廷誥゜     嘉立10王531 應鼇

先゜         崇 禎15年1642 偉Q

一・

弘治

17

1504

俊o

應珪o

仕鑑o iE徳2年1507  嘉靖22年1543  万 暦 13年 15B5 儲゜      宏 基

仕愼 正徳11年1516 傳 傚 以 魯

一          崇禎3年1630 萬 言◎ 嘉 靖35年1556 良 珍o 嘉立

28

1549 又 齋

超然Q

….

o

信 民o     万 歴16年     嘉慶24年   道 光16年      1588     1819    

1836

F

− 一

學 禮 従 心 鼎        憲o 弘治

14

15G1

嘉 靖

13

1534

嘉靖

26

年1547 官 順゜ 崇 禎

3

163G

官紀Q 天啓 元 年1621   鴻◎ 忠 言Q 嘉 靖22年1543

137

N工 工

Eleotronio  

Library  

(10)

NII-Electronic Library Service

10

西   川   喜 久子

明 順治

雍 正 乾 隆

嘉 慶 道 光

同治 備

考 姓

1368〜16441644〜17351736〜

1820

   ・

1821

1874 呉

2

1

0

0

     

0

黎 1 ω

0

0

2

郡 1

0

0

鄭 1

0

1

0

劉 0

0

0

2

朱 7 (1)

1

21

4 (1) 『南海 九 江朱 氏 家 譜』

記 載 別 表

2

0

0

0

2

上記 を除く朱姓 關

6

1

) 玉 3 (2) 2 『南 海 九 江關 樹徳堂 家譜 』 記 載 別 表3 〃

10

2

) 13 (2)

5

3

上記を除 く關 姓   應 弼o 上 進◎         光 瑞G 順 治17年1660 康 熙

60

1721

雍 正

4

年1726 上 遷Q     紹 祖o 康

59

172G

  雍正2年1724 嘉 薦゜ 順 治

11

1654

(上 進の伝 に 「穎 悟殊常

族 孝 廉 嘉薦 異之」と あり)   鑪 必 登o 康 熈

23

1684・

龍q

一一….

一・

瞰◎ 康 熙

32

1693

  康煕

54

1715

王孫q

一.

….

……一…・

家 駒O

雍正 4年

1726

      道 光元 年

1821

◎ 銘○

……一一・

……一

名 教゜ 正統

3

1438

万 暦

40

年1612   仰 膳

一一.

大 度 鍾 喜o 嘉靖34年1555 天 啓7年1627   驥◎

一・

承 賁゜ 万 暦32年1604 康熙

11

1672

  禮o

…一

r.

r亨

rr

上謀o 乾隆

17

1752

乾 隆

36

1771

明 0

0

2

4

1

) 景 然

一一

離 照゜

之綱◎

纉道゜ 道光元年182E  咸豊2年】852  咸 豊ll年861 秉璋 乾 隆54年1789 倫o 道光

15

1835・

1

1

1

1

 

r

7

5

) 昭 長

燕謀

i

年・865 同 治2年1863 威 豊1D年1860 耀 謀

i

゜ 道 光20年1840 善 謀

汝 掌゜ 錫 綸  道 光

11

1831

同 治7年1868 城o 乾 隆35年1770         注 光 緒 『九江儒 林 郷 志』巻 十 選 挙 略

巻 十

一〜

十八 列伝に基 い て作 成

( )内は殿 試 合 格者数。 ◎は 進 士

○ は 挙 人

は 父 子

[は兄弟を 示 す

進 士は殿 試 合格 年を

挙 人は郷試 合格年を名の下に記した

138

N工 工

Eleotron ⊥o Library  

(11)

NII-Electronic Library Service 珠江三角 洲の地 域 社 会 と宗族

郷紳

11

2

「南 海 九 江 朱 氏 家 譜 』

  

朱氏

進士

3

『南 海 九 江 關 樹 徳 堂 家 譜』

  

關氏

挙人 ・

進 士 名 房 名 世 代 郷 試 合 格 殿 試合格 名 房  名

世代 郷 試 合 格

殿 試合 格 謨 繹   思 7

31

1552

銘 垂慶愛軒

12

嘉 靖

22

1543

讓 〃

嘉靖

37

1558

万 暦

1574 沛

錫  暇 〃 万 71579 凌霄 〃

8

13

1585’

志 拯 思   蔭

13

隆 慶 元 年

1567

伯蓮 〃

9

崇 禎

6

1633

季益 錫   暇 Zノ 暦43 年

1615

万 暦

47

1619

實 蓮

   

天 啓 元 年1621  蔭 ユ4 万 暦28年1600

1

光祖 〃 〃 万暦

40

1612

〃 〃

31

1603

光 允 〃 〃 万暦

43

1615

翔 霄 錫 蝦祖実

   、

16

康煕

59

1720

一・

爪 兀 〃 11 康熙4窪年1705 元礎 思  蔭 18 乾 隆 3年1738 道南 存 著

12

乾 隆

21

1756

廷牧 式序茘菴 〃 乾 隆

27

1762

乾 隆

28

1763

吉兆 禺百 觀 13 乾 隆元年1736 仕龍 患 蔭 20 乾 隆54年1789 嘉慶

6

1801

堯勲

存 著

15

道 光

20

1840

式序茘菴 〃 同 治 元 年

1862

士碕 繹   思

1

道 光

19

1839

思   仁

21

道 光

26

1846

次 碕 !1 〃

19

1839

27

1847

簡 〃 〃 咸 豊元 年

1851

衢 尊 〃

16

同 治

9

1870

  「

垂慶聖朝

24

光 緒

19

   

1

は・ 明 初 (1368

か ら黼 治

末年 (

1874

) まで全蹴 を通 じ て

2

上の挙 人

 

を 出し た宗 族

15

姓につ い て

各 時 期 ご と に その 人

を示 し た ものである。 こ の他 に

挙 人

1

  

だけ

して い るのが

10

姓 ある。 差 引 する と

緒 『

郷 志

掲 載の氏 族

47

姓 中

22

1

名 も

  

挙人

進 士を出 してい ない こ と になる。 備 考

に は

父子

な ど の

縁 関 係 を 確 認 し得

  

たもの のみ

図 を 示し た。 こ の表 か ら

呉の

3

姓を除 く

12

13

姓と重 な

  

い ることが わ かる

。即

ちこ の

12

姓は

代 を通 じ て

江 に根 を張

、 九 江の 地 域 社 会に

  

対 し て

大 な り小な 膨 響 力 を及ぼ してきた宗

あ・ た と

られる。 なお 上 記

13

中た

  

1

1

っ て いない胡 氏は

乾 隆

年間

1名

を 出 している

。(

   

にこれらの宗 族につ いて

別 にその変 遷 を

討 して みたい と くに明 示 し ない

  

限 り、

光 緒

郷 志 』 巻 十 選 挙

略 ・巻

一〜

十八列

に依 拠 し

 

 

ji

)各姓

につ い て

 

黄 氏。 明

5

名の進士 と

4名

の挙 人を出 して お り 、 備 考

に示 し た 通 り全員 血 縁 関 係 を辿る こ と がで きた

。 

系統

中 期に三

代続

い て挙 人

進 士 を

中 的に 出し

1

な かで も

139

N工 工

Eleotronio  Library  

(12)

NII-Electronic Library Service

12

西  川  喜 久 子 黄 重は南 京 太 常

寺少卿

まで

府 県 学 郷 賢 祠

祀 ら れてお り、 開辺 壥 を 設 立 した人 物 と さ れ てい る。 こ れ に対 して

 

の系 統は明 末に

中してい る。 思 存

一一

應 擧 と思 垣

と は 父の代

子の代 と もに名の

字 を 共 有 し

かつ 應 擧 と應

は、 それ ぞ れ 万 暦三十二 年 と四 十 七 年に進士 に合 格 して い るこ と

つ ま りほ ぼ同 世 代 とみ な し得る

葵 日 と茂 先

父が 應 擧

應 秀 と

字を共 有 し てい る

ζ

と、 な ど か ら見て 同 宗で ある可 能 性 が あ り

、一

つ の グ ル

プ に ま と めておい 應 秀は岳 湾 墟 を 開い た とさ れてい しか

 

 

つ の同

組 織に属 するの か 否 かはかめ るすべ が ない 。

 

に も黄 姓の挙 人は

時 期

1〜

2

出て はい る もの の

相互の血縁 関 係 も

明代 に遡 っ て の系 譜 も辿るこ と がで き ない 。 なお

順 治 『郷 志 』 巻 之五

移居に

、.

「吾 郷 宦

移 居

會 則 黄 督 學, 羅 御 史兩

」 と ある か ら

黄 督 学 即 ち 黄

は広 西提

学僉事 )

家は

明 中

後省

城に移 居 し た ようで ある。 ま た、

  系

統の 葵 日は

北 京 大 理 寺 評 事 を 授か っ たが

肇 慶に拠っ た南 明 永 明王政 権 に参 加

掣肘,徒旁

聲楫響,

六 十 , 遽 卒」 と 記 さ れてお り

黄 氏の

の衰 勢 と あるい は関係 が ある か も

れない

 

と も あ れ

、黄 氏

は、     両 系 統 と も に、 明 代、 九 江郷の

名族

であっ た が、 清 代に入っ て

江 郷 紳 と して の 地 位は

下 し た ようである。

 

  曾 氏。 明 代に

7

の挙人を 出し て お り

偉 を除 く

6

名につ い て相 互の 血

関 係を 辿 る こ とがで き た。 俊

儲 兄

と傳 とは

傳の伝に 「與 從 兄

俊 ・儲齊名講學穗

城 」 とあることか ら、

関係 にあっ た こと が わ か る。 ま た

、曾

傚の

に、

 

刺 史 儲 從

。……

朱 中憲

陳郡

丞 良

珍結

,其

餘事

不 寰

惟 在

徳慶

 

埠 千 丈

作蒸嘗

計, 命 從 孫 仕 慎 佐理

至今

嗣猶

蒙其

蔭 焉。 と

るこ とに より、 傚 も俊

儲 兄 弟 と

の関 係にあっ た こと が わ か る。 さ ら に この

族が 徳 慶 州に 「魚 埠 千 丈 」 を族 産として有 してい

と、

光 緒 『郷 志 』 巻六古 蹟 略に

曾 儲

曾仕

鑑 等が建て た亭

楼 閣が数

く挙げ ら れて い る こ とな どか ら

明 代 に曾氏が九江の 望 族で あっ たこ とを 推 察しうるの である

しか し

清 代 中 期 以 降

かっ ての

威 は失 わ れた ようで ある

    陳 氏。 明 代に挙 人

4

名と進 士

1

名 を 出 し

清 代に入っ てか ら も各 時 期

1〜2

名の挙 入 あるい は進 士 を出 し てい る。 明 代の

4

人 の

ちの

3

1名

、表

の通

血縁 関

明す る   。 進 士 萬 言は

江 西 提 学 副 使 を

て江 西 右 参 政 を授 け られ

府 県 学 郷 賢 祠に祀 られてお り

九江南 方良村嘘の 開設者で も あ る。 先に

墟の 項で

將朱 ・陳

二 姓所

設開

埋 邊兩墟

封禁

」 とあっ た埋 辺の糸 墟 を 開 設 した陳 姓 もこ の陳 氏で あろ う

  挙

人 陳超 然の子挺の伝に 「

參政萬育從孫,知縣

然季

子,

、…・

娶 高明

部侍郎

大倫

,與

郎中朱實蓮

僚 壻 」とあっ て

陳墺

i

の妻と朱

蓮の妻と は ともに隣 県 高 明 県の名 族 區 大 倫の 娘で

姉 妹の関

にあっ た。 後 述 する ように

朱 實 蓮 が 永 明 王 政 権に加 わっ て義 軍 を起こした ため

か ら厳しい

追求

追 手の 目を逃れ て

、實

蓮の妻が二子 を連れ

の も とに

せ て き たのを、 妹の夫 陳挺 が秘か に隠まい

育し た とい う。

 

の 挙人

進 士で は

履 恒

信 民の父 子 関 係が確 認さ れ

ま た 上記 陳 堤

の末 尾 に

「塊子 孫 繁 衍, 歴 今二百 餘 年

衣 巾 不 絶

裔 孫 履 恒 信 民 皆科 甲 有 聲 」とある こ と か ら

履 恒

信 民 父 子は、 明

の進 士

萬言

とが 判 明

さ ら に

 

陳 本 巨 族

,兼

頻年水

患 通

至 餘 百 石。 是 時 委 員

催 科

如捕

所 至 人 皆 震 栗

或 室 室 逃

 

亡。

督, 不 數 月

通 頓

樂業

無 遭 鞭

撲者

140

N工 工

Eleotronlo  Llbrary  

参照

関連したドキュメント

<しぎ不思議 くしあな節火 くくる袋 くぼ父母 ぐんまわし筆Bil くぢ藤 くち緑

「トライアスロン珠洲大会」として、トライアスロン大会は珠洲市の夏の恒例行事となってお り、 2013 年度で

参加方式 対面方式 オンライン方式 使用可能ツール zoom Microsoft Teams. 三重県 鈴鹿市平田中町1-1

艮の膀示は、紀伊・山本・坂本 3 郷と当荘と の四つ辻に当たる刈田郡 5 条 7 里 1 坪に打た

郷土学検定 地域情報カード データーベース概要 NPO

[r]

実施① 実施②

○堀江座長