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マールブルク大学の哲学史 : ウルリヒ・ジーク氏の研究を基に 利用統計を見る

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マールブルク大学の哲学史 : ウルリヒ・ジーク氏

の研究を基に

著者名(日)

柴田 隆行

雑誌名

井上円了センター年報

4

ページ

270-236

発行年

1995-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002624/

(2)

マールフ》レク大学の哲学史

ウルリヒ・ジーク氏の研究を基に

柴田隆行・嚇輪・W

 Philosophische Fakultatをふつうに訳せば「文学部」となるが、これ を直訳すると「哲学部」となる。現在マールブルク大学にある学科は、 法学科、経済学科、社会学・哲学科、心理学科、福音神学科、史学科、 古典古代学科、一般及びゲルマン言語学・文献学科、現代ドイツ文学・ 芸術学科、現代外国語・文学科、ヨーロッパ外の外国語・文化学科、数 学科、物理学科、物理化学科、化学科、薬学食品化学科、生物学科、地 学科、地理学科、人間医学科、教育学科の各学科であるω。この小論でそ の概観を得ようとしているのは、現在言うところの、狭義の哲学科の歴 史である。  マールブルク大学の歴史については、1927年の創立400年祭や1977年の 450年祭を記念した著書を中心にすでに数多くの研究文献が公刊されて いるが、その中でも、マールブルク大学の哲学部に絞ってその歴史を考 察しているのは、マールブルク大学講師で哲学博士のウルリヒ・ジーク 氏の2冊の著書である。その1つは『1527年から1970年までのマールブ ルク大学における哲学史』(1988)(2)であり、他の1つは『1785年から1866 年までのマールブルク大学哲学部』(1989)(3)である。ジーク氏のこれら2 冊の著書によってマールブルク大学哲学部の歴史が十分概観できるの で、ここでは、邦訳した前著のうち個々の哲学説を詳しく述べた箇所な どを紙数の関係で大幅に省略し、代わりに筆者の見解を加筆するという スタイルで、以下の論述を行うことにする。この点をあらかじめお断り しておきたい。 マーJLプルク大字の哲学史 3(270)

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 本稿の土台となる文献の著者で、マールブルクにて直接筆者に研究上 の助言を下さったジーク氏、および氏をご紹介下さった東洋大学教授小 倉欣一氏ならびにマールブルク大学教授ハンス・K・シュルツェ氏に、 この場をお借りして一言感謝申し上げたい。

第1章 中世後期

 マールブルク大学は1527年7月1日、ドイツ最初のプロテスタント系 大学として設立された。神学的には厳密に宗教改革の立場に立つマール ブルク大学は、16世紀のプロテスタント系諸大学のモデルとなった。ヴ ィッテンベルク〔ルターの本拠地〕の意向は講義内容にまで反映し、い かなる寛容も許されず、神の言に反することがらを教えた者は破門とさ れた(4)。1586年に、無限宇宙論を展開したジョルダーノ・ブルーノ(Gior− dano Bruno,1548−1600)がマールブルク大学で哲学の講義を開こうと 意図したが、プロテスタンティズムと偏狭な教授たちによって拒否され た。  当時の哲学部は、中世の大学で一般的に採用されていた自由七科、す なわち文法と修辞学と弁証法、ならびに代数学と幾何学と音楽と天文学、 を担当しており、これは神学と法学と医学という本科の予備学として位 置づけられていた。マールブルク大学では、このほかに、教育的配慮の もとで狭義の哲学教育が行われ、1530年と1533年に倫理学と弁証法の講 座がそれぞれ設置された。従来の哲学の授業スタイルは一般に講義であ り、形而上学の教科書にはおもにメランヒトンかアリストテレスの著作 があてられていたが、この時代になると、これらの教科書が読まれるだ けでなく、公開討論が必修科目とされた。討論は思考力の一般的訓練に 役立つとされ、頻繁に行われた。マールブルク大学では美学と哲学につ いての公開討論が毎週土曜日に行われたが、これはたんに教科の復習と 学生の試験のためだけではなく、教授自身の指導力の審査にも利用され

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た。ただし、学内の安寧秩序を乱すほどの激しい討論は行われず、中世 以来の討論の様式が守られていた。講義と討論に比べれば、論文はほと んど重要ではなかった。  この時代のマールブルク大学を代表する最大の学者は、自然学、論理 学、数学を教えたゴクレニウス(Goclenius. Rudolf G6ckel,1547− 1628)だった。かれは「ヨーロッパの光」「マールブルクのプラトン」な どと称えられ、600人以上の学生を育てた。かれはプロテスタント・ドイ ツで最初の形而上学の教科書を書いた。  当時、プロテスタント系学校哲学はルター派とカルヴァン派との間の 神学的対決の中にあった。研究の自由はドイツの大学ではまだ知られて いなかった。専門用語に至るまで哲学教授たちは神学教授に従っており、 神学に対する哲学の従属性は疑問の余地がなかった。これはとくにアリ ストテレス評価に見られた。かれのカテゴリー論はいかなる批判に対し ても擁護されたし、倫理学と自然学においてもこのギリシァの哲学者の 著作が規範テキストとされた。この体制はラムス主義の登場まで続いた。  アリストテレスの学説はいっさいフィクションであるとする、フラン スの哲学者ラムス(Petrus Ramus,1515−72)の命題がドイツ西部の大 学に広まったのは、かれが1568年にドイツに旅したのちのことだった。 とくに「サン・バルテルミーの虐殺」でかれが殺されたことで、かれの 信奉者たちがかれを殉教者として祭り上げたため、かれの学説はプロテ スタント系大学に広く普及した。マールブルク大学でも多くの哲学教授 がラムス主義を導入した。だが、30年戦争(1618−48)によってラムス主i義 はドイツのプロテスタント系大学におけるその影響力を一度に失った。 激しい信仰論争のために神学は多数の形而上学的専門用語を必要とした が、それらはもっぱらアリストテレスの学説と結び付いていたからであ る。 マーIL/ルクペ学の哲学史 5(268)

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第2章 デカルト主義論争  17世紀前半はマールブルク大学およびその哲学にとって衰退期だっ た。1604年にオーバーヘッセンが分裂し、マールブルクはヘッセン・カ ッセルに所属した。その結果、マールブルク大学は改革派に列すること となり、多くのルター派教員が追放された。1614年にマールブルク大学 がふたたびルター派のものとなったとき、今度は逆に改革派の学者が免 職となった。30年戦争の混乱は、1645年以降に新たに改革派に従った大 学を決定的に破壊した。1647年に帝国軍隊の砲撃と略奪にあい、1650年 から53年にかけてマールブルク大学は閉鎖せざるをえなかった。マール ブルク市民は領邦君主に大学の再開を強く求めた。方伯ヴィルヘルムIV 世は3つの理由で大学の再建が得策であると判断した。その1つはヘッ センの最終的分割後に必要となる高級官僚の養成を大学に期待できるこ と、第2には相当の資産的価値を有する大学の建物を荒廃させたくなか ったこと、そして第3は自分の領土であるヘッセン・カッセルに大学を 設置したいというかれの名声欲だった。ヘッセン・ダルムシュタット方 伯が1607年に設立したギーセン大学と対抗する意図があった(5)。  こうして1653年にマールブルク大学は復興されたが、財政的にはきわ めて不十分なものだった。教授の数も足りなかった。領邦君主はもっぱ ら改革派の教授を任命した。制定された学則は、教授に広く法的特権を 与え、宗教上の平安を維持しようとするものだった。この学則の精神的 な父は、世界的に有名な法学者ダウバー(Heinrich Dauber,1610−72)だ ったが、かれを悩ませたのは教授たちの絶え間ない口論と学内の陰謀だ った。だがしかし、かれは断固としてかれの信念を貫いた。しかるにま た、大学が学則の精神をはるかに超える厳格さをもってデカルト主義を 禁止したのも、かれの意向だった。  デカルト哲学が我慢ならないものとされた理由は、哲学原理としての 懐疑によって青年たちが神の存在について混乱するからであり、また、

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アリストテレスが軽視されて、従来の教育の基礎が崩されるだろうから だった。当時はまだアリストテレスの論理学と形而上学が哲学研究の中 心にあり、かれの『ニコマコス倫理学』は倫理学の唯一の教科書とされ ていた。だが、ドイツの大学におけるアリストテレス主義の時代は17世 紀後半にその終焉を迎えた。それには3つの理由があった。1つは、30 年戦争の保証書として機能した古典的教養の衰退であり、第2は経験科 学の台頭であり、第3は有用性を目指す学問概念の前兆の中でのスコラ 的形而上学の信用失墜だった。これに対してデカルト哲学はその無敵の 進軍をオランダで開始し、そこからドイツのプロテスタント系大学へと 行進した。とくに自然科学の領域でデカルト支持者の数が増大した(6}。ア リストテレスの権威に教育活動を結びつけようとする試みはもはやほと んど成功の見込みがなくなった。  デカルト哲学の許可をめぐる論争は1687年から1709年までの20年以上 にわたってマールブルク大学で繰り広げられた(η。それは、マールブルク 大学の医学・自然学教授ヴァルトシュミート(Johann Jakob Waldsch− miedt,1644−89)による匿名論文をもって開始された。これはデカルト 的テーゼを擁護するものだったが、かれはそれをドイツ語で書いて広く 公衆に訴えた。神学者の告訴を受けて、国内の治安を気遣う方伯はカッ セルで会議を開き、この問題をさらに詳細に調査した。ヴァルトシュミ ートは1688年3月にデカルトの哲学思想の広汎な宣伝を禁止され、100タ ーレルの罰金を科せられた。すでに出回っていたデカルトの文献はカッ セルの検閲官によって押収された。  デカルト論争の第1期に関わったのは、17世紀のマールブルク大学で 最も重要な自然科学の代表者パーピン(Denis Papin,1647−1712)だっ た。かれは1693/94年に、神学教授で狂信的正統主義者ゴーティエ (Thomas Gautier,1638−1709)との間できわめて人格的色彩を帯びた 激烈な論争を行った。ゴーティエはすでに、数学者で自然学者オトー マールプ’レク大学の哲学史 7(266)

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(Georg Otho,1634−1713)とデカルトについて1年以上前から論争し ていた。ゴーティエとの論争に嫌気がさしたパーピンはマールブルク大 学を去ることにしたが、その決定的理由は改革的正統派との世界観的な 論争にあった。パーピンが去ることでデカルト論争の第1期は終わった が、マールブルク大学はこれによってその最も重要な学者の一人を失う ことになった。  それから10年後の1701年10月、デカルト支持者にまた破門が宣告され た。パーピン的な伝統の継承に努めたオトーがその人だった。1701年の 春に神学部がオトーのデカルト的テーゼについての討論を妨害したが、 この自然科学者の上奏文に対する方伯の厳しい戒告がこの論争を決定的 に中止させた。ゴーティエはデカルト主義支持者に勝利し、1709年にか れが死ぬまで、デカルトの学説はマールブルク大学から追放された。  マールブルク大学におけるデカルト論争の本来の意図は、自然科学者 の宗務当局からの解放にあった。それは自然科学系諸学部を動かすほど の出来事だった。国内の治安の維持のみに腐心していた領邦君主が神学 部を支えていた。しかし、デカルト学説の禁止は1709年のゴーティエの 死とともに終わったとは言えないにしても、それ以後もはや禁止されな かった。ゴーティエがデカルト思想の受容を遅らせたことは確かだが、 それを阻止することはできなかった。ヴォルフの時代になると啓蒙的な 見方が哲学部の教育活動を支配した。 第3章 ヴォルフ時代  ヴォルフ(Christian Wolff,1679−1754)は、マールブルク大学に1723 年から40年にかけて勤めたが、この時代はふつうマールブルク大学の全 盛時代と言われる。  ヴォルフは、マールブルク大学に就任する前、ハレ大学で敬度主義者 フランケとランゲに対し活発な論争を繰り広げていた。ヴォルフは、学

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長職をランゲに引き継ぐ際の講演で、中国人の道徳哲学を称えたが、こ れは無神論が必ずしも非道徳的行為につながるわけではないとする見方 を擁護することを意味した。道徳的格率の合理的適用に基づくヴォルフ の道徳論の基礎付けは敬度主義者たちにとって許しがたいものだった。 かれらはヴォルフの中に神の全能と恩寵を否定する理神論をかぎとっ た。1723年11月8日にかれは勅令を受け、48時間以内にプロイセンを出 ないと絞首刑に処すると宣告された。プロイセン国王フリードリヒ・ヴ ィルヘルム1世のこの非常識な命令には多くの同情が寄せられたが、君 主の決定は哲学者個人のみならずその学説にまで及び、ヴォルフとなら んでかれの弟子のテユミッヒとケーニヒスベルク大学の正教授フィッシ ャーまでも国外追放となった。だがヴォルフ哲学の流行はそれで止まる ことはなく、むしろその反対だった(8)。  追放後のヴォルフは、転職先の大学を選択することができるほど人気 があった。ロシアのペトロ1世がすでに1715年からこの高名な哲学者に 興味を示していたし、ライプツィヒ大学とマールブルク大学も名乗りを 上げた。ヘッセン方伯カール(Karl,1654−1730)の迅速で精力的な行動 によってマールブルク大学はヴォルフの就任受諾をとりつけた。ヴォル フは困難な境遇にもかかわらず、交渉に際して冷静な実務能力を示した。 引っ越し費用と居住費800ライヒスターラーの支払い、担当科目のための 年間の助成金の保証、宮廷顧問官の称号の授与などを獲得した。かれは、 パーピンの数学・自然学の教授ポストを引き継いだが、哲学の他のすべ ての領域での教授権をも獲得した。これほどに優遇された新しい同僚を どう迎えたらよいのか、他の教授たちは戸惑った。啓蒙主義者ゴトシェ トに対したようなあからさまな敵対はなかったが、この新参者に対する 打ち解けぬ態度は消えなかった。学則が厳密に守られれば、そもそもル ター派のヴォルフがマールブルク大学で授業をすること自体が許されな かった。18世紀半ばではなお神学部が哲学部の教師のポストにルター派 H’−1レプルク大学の哲学史 9(264)

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の者が就任することに反対していた。ヴォルフの場合には例外的に領邦 君主の絶対命令が下されたことで可能となった。方伯カールはこの有名 な教授によって自分の大学の評判が上がるのを期待したのだった。  ヴォルフの講義は哲学部のほとんどすべての科目に及んだ。かれはと りわけ数学、自然学、地理学、天文学、戦術、論理学、形而上学、そし て政治や国際法の領域まで含む実践哲学、について講義した。ヴォルフ はマールブルク大学で多くの教育改革を行った。たとえば私的な講義を 祭日にも行ったり、オランダの法学者で政治学者グロチウスの手本にな らって自然法と国際法を授業したりした。ヴォルフの教育効果は大きか った。かれの授業はしばしば100名以上の学生を集め、講堂に入りきれな いほどだった。のちに世界的な学者・著作家として名声を博したロシア 人ロモノーソフ(Mikhail Vasil’evich Lomonosov,1711−65)も含め、 大勢の学生がはるばるかれの講義を聴きにやってきた。これほどに輝か しい人物をこの小さなマールブルクに引きとめておくことがいつまで可 能かという問題が領邦君主をつねに悩ませた。  だが、1730年に方伯カールが死亡して、ヴォルフは強い味方を失った。 跡継ぎのフリードリヒ1世(Friedrich I,1676−1751)は、スウェーデン 王を兼務し、遠いストックホルムに居住しており、マールブルク大学の 利害にはほとんど関与しなかった。カッセルの参事会はもっぱら官房学 的観点から、ヴォルフの仕事でどれだけの金が方伯の領土にもたらされ るかに注目するだけだった。1730年以降ヴォルフの感情を損ねることが 多くなった。同僚の妬みもあったし、教育に忙しくて創作活動を続ける 時間も乏しかった。とりわけ、かれの息子が改革派のヘッセンでは教授 としての将来が保証されないということがわかって、1739年にヴォルフ はハレへの再就職の準備を始めた。ヴォルフが去る危険が明らかになる と、カッセルでは大学の有名人を確保しておこうとする慌ただしい動き が始まったが、そのいずれもヴォルフにとって魅力あるものではなかっ

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た。1740年にヴォルフは去った(9)。 第4章 カント哲学の受容  1785年頃、ドイツのプロテスタント系大学にカント哲学が浸透し始め た。カントについての多くの学問的業績が生まれたのはたんに哲学部に おいてだけではなかった。法学部や神学部でもかれの思想は注目された。 カトリック系大学にさえカントの学説は入り込んでいた。だが、反動的 なヘッセン方伯ヴィルヘルムIX世(Wilhelm IX,1743−1821)は、カント 哲学を拒否した。  1786年の夏学期にマールブルク大学の哲学教授べ一リング(Johannes Bering,1748−1825)が、「シュルツェの解釈に基づくカントの批判につ いて」という講義を予告した。方伯は8月29日に勅令を発し、カント哲 学についてのいっさいの講義を禁止した。同時にヴィルヘルムIX世は哲 学部に対して、カントの学説をどう思うかを問い合わせた。学芸学部で の激しい議論の中で3つの立場が明らかになった。その1つはヴォルフ 哲学の立場に立つカーレル(Hermann Friedrich, Kahrel ,1719−87)と ヴァルディン(Johann Gottlieb Waldin,1728−95)に見られるもので、 カント思想を鄭重に断るというもの、第2は多くの正教授の場合で、カ ントを不可解なものとするもの、そして第3は、教育の自由の原則とカ ント哲学の容認を支持するもので、何人かの教授にそれが見られた。だ が、同年11月11日に提出された哲学部の結論は、哲学の自由を断固擁i護 するという、名誉あるものだった。それにもかかわらず、方伯によって 発せられたカント哲学の禁止はそのまま存続した。  哲学部のこの決定が重要な意味を持ったのは、1788年3月8日にべ一 リング座長の下で開かれた討論で、給費生のダウプ(Karl Daub,1765− 1836)とデーリング(Dδring)がカントの思想を支持したときだった。こ れを知った方伯は哲学部に弁明を求めた。正教授たちは教育の自由と、 ’v−−tレブルク大学の哲学史 11(262)

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間接ながら同僚のべ一リングとを擁護した。だが、神学部の代弁者エン デマン(Samuel Endeman,1727−89)は、カント哲学を鋭く批判する機 会として利用した。それが少なからず影響し、1788年6月13日に方伯の 命令が発せられ、給費生の討論の論題提出にあたっては今後哲学部長と ならんで神学部長からも事前の検閲を受けることが求められることにな った。しかし1788年6月13日の命令が、1786年秋に発せられたカント哲 学の禁止を明確に更新するものではなかったので、逆にべ一リングはカ ントについての講義を行うことができた。ただし、その際かれは慎重に カントの名前を前面に出すのを控えた。  フランス革命の勃発とともに大学でのカント受容は新たな段階に入っ た。ヴォルフ右派によって「革命的」と告発された。とくにカトリック 系大学でカント哲学の教授禁止が増大した。ヴィルヘルムIX世のヘッセ ンでは、フランス革命はたんに外国の民主主義的新聞の禁止や大学の検 閲の強化のみならず、カント信奉者に対する新たな弾圧をもたらした。 一般的傾向と同様マールブルク大学でもカント主義はその信奉者をとく に若い講師の間に見いだした。学生たちに人気があったのは神学教授ツ ィンマーマン(Johann Lorenz Zimmermann,1762−1834)とダウプだ った。ダウプが1794年にハーナウに転勤となったとき、人びとはそこに カント哲学に反対する領邦君主による処分を見た。145名の著名人の署名 を集めた請願書が作られ、ダウプにマールブルク大学の文献学・哲学の ポストを与えるよう要求したが、方伯はダウプを断固拒否した。だが、 この件で、マールブルク大学の学生と講師の間にカント哲学がすでにい かに深く根づいているかが明白となった(’°}。  1806年ヘッセン選定侯が殺され、さらにかれの摂政ヴィルヘルム1世 すなわちかつての方伯ヴィルヘルムIX世が亡命し、新たにフランスによ る支配が始まった。マールブルクは新たに設立された王国ヴェストファ ーレンに属した。首都はカッセルで、摂政にはナポレオンの弟のジェロ

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一ムが就任した。フランス政府は大学の徹底的な近代化を行った。ヴェ ストファーレン王国の6つの大学、すなわちゲッティンゲン、ハレ、マ ールブルク、ヘルムシュテット、パーダーボルン、リンテルンのうち、 あとの3つの大学が時代遅れで効、果がないとされ1809年に解体された。 マールブルク大学は当初これと同類の運命に脅かされたが、のちに、ゲ ッティンゲン大学とハレ大学と同様、隣接の大学の衰退で逆に得をした。 大学予算と図書館の蔵書数が増え、教育改革の着手のために好都合な前 提が揃った。哲学部では、ボナパルトが同感を示しているカントの学説 が支配的となった。カント派のテンネマン(Wilhelm Gottlieb Ten− nemann,1761−1819)は、哲学史家として、狭いラーンシュタット〔マー ルブルクはラーン川沿いにあるのでこう呼ばれる〕を越える評判を獲得 した(11}。だが、1813年に選定侯が復帰するとともにマールブルク大学の ほとんどの改革が中止された。政治的弾圧と大学の衰退の時代が始まり、 報告に価するようなポジティヴなことはほとんどなくなった。

第5章 四八年革命前後

 1814年以後のマールブルクの政治的雰囲気を特徴づけるものは不安と 不確実性だった。1819年のカールスバート決議〔大学の自治に対する大 幅な制限法〕は、クーアヘッセンではとくに厳しく執行され、学生同盟 は解散に追い込まれた。講義は特別委員によって監視され、学生や教授 の考えは絶えずコントロールされ、そのためにマールブルク大学の学問 的名声は低下した。大学創設300年祭が1827年に開かれたとき、他の大学 の代表者は誰も出席しなかった。マールブルク大学の経済的貧窮が知れ わたり、優れた教授はほとんど誰もマールブルク大学への招膀を受けな かった。1833年以降学生数も減少した。マールブルク「大学村」という ランケの悪口も誇張ではなかった。講師、学生、市民の間に政治的弾圧 と大学の経済状態の責任者である領邦君主に対する不満が高まった。 マール/ルクft学の哲学史 13(260)

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 他のドイツの大学と同様に、マールブルク大学の私講師たちが政治的 騒動の中心だったが、教授たちも、たとえば法学者でクーアヘッセンの 1831年憲法の起草者であるヨルダン(Sylvester Jordan,1792−1861)や、 有名な国民経済学者で国家学者ヒルデブラント(Bruno Hildebrand, 1812−78)、哲学者バイアーホッファー(Karl Theodor Bayrhoffer, 1812−88)らも選定侯体制への反対に加わった。だが、この3人は政治的 理由で免職となった。  バイアーホッファーはへ一ゲルを読んで目覚め、法学研究をやめて哲 学に身を捧げた人である(12)。才気溢れる私講師として、学生たちに人気 があった。4回挑戦したのち、1845年にかれはマールブルク大学の哲学 教授に任命されたが、これはとりわけかれの舅であるクロイツァー (Christoph Andreas Leonhard Creuzer,1768−1844)の後ろ盾による ものだった。私講師としての空腹時代を抜け出ることができたかれは、 もはや学問的な出版活動をする必要がないと考え、政治活動に熱を入れ た。1841年にマールブルクで設立された信仰的急進組織光の友協会に加 盟、さらにマールブルク自由信仰教会や民主主義・社会主義協会を創立 し、いっさいの教会的位階制度を拒否して隣人愛の福音を説くなど、ヘ ッセンの国教会を鋭く攻撃した。1845年の夏の終わりに、かれはドイツ カトリシズム擁護の演説をして、好ましからざる人物Persona non grataとしてマークされた。1846年8月6日、かれが警察署長ヴァンゲマ ンをマールブルク読書協会から除名したのを口実に、ついにかれは休職 処分とされた。哲学部は、べ一リングの場合と同様に、この同僚を支援 することで意見が一致したが、かれの復職は1848年まで実現しなかった。  三月革命がプロイセンのみならずクーアヘッセン政府をも片付けた。 1848年3月2日、カッセルでりベラルな三月内閣が成立した。バイアー ホッファーはただちに革命を支持し、マールブルク国民議会で活動した。 情熱的な演説で多くの支持者を魅了し、1848年9月に学生や教授たちの

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後押しで正教授に復帰した。しかしフランクフルトのパウロ教会での国 民議会に立候補したが落選した。1850年秋になると、クーアヘッセンの 反動勢力が盛り返し、バイアーホッファーは戦争裁判への出頭を命じら れ、1851年11月スイスへ逃亡した。2年後に下された判決は、15年の懲 役と国籍剥奪だった。かれはその後アメリカへ亡命し、そこで若き日の 夢の実現に励んだ(13)。  この革命後、哲学教授たちは「厳密な学問」の世界を志向するように なり、皇帝時代のドイツの大学哲学の特徴となる本来的にアカデミック な刻印がここに押されることになった。1866年ヘッセンはプロイセン領 となり、マールブルクに自由な精神が入ってきた。マールブルク大学に とって長く続く全盛時代が始まった。

第6章皇帝時代のカント哲学受容

 1866年にマールブルクの市民や教授、学生のほとんどが、新たなプロ イセン政府を歓迎した。クーアヘッセンは増大する貧困に直面し、最後 の選定侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(Friedrich Wilhelm,1802−75)の 反動体制は、市民の問にほとんど共感を得られなかった。ヘッセンの反 動派がビスマルクの現実政治に反対し、クーアヘッセンを再建しようと したが、これは住民の間でほとんど賛同を得られなかった。これに反し て、ヘッセンのりベラル派のプロイセン熱が高まり、都市と大学の躍進 に対する希望がマールブルク全体に広まった(14)。  新政府は、マールブルク大学の財政を1万マルク補給して立て直した。 教授たちの昇給と4人の新たな正教授の就任はマールブルク大学の教授 に大歓迎された。1867年以後ふたたび上昇した学生数は、大学の評判が 上がったことを意味した。だが、ジャーナリズムやプロイセンの領邦議 会では、この小さな利益のない大学をフランクフルトへ移管することが できないかということが論議されていた。これに対してマールブルク市 マールプyしク大学の哲学史 15(258)

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と広汎な教授たちが協力して、小さな大学の利点を強調した。マールブ ルク大学の法学者アルノルト(Wilhelm Arnold,1826−83)の建白書は、 同時代の議論の中で広く引用された。かれは、小さな大学はアカデミー の自由の本質に合致し、さらに学生組合の発達を促すとする一方、享楽 に耽る大都会の生活を非難した。マールブルク大学存続のために決定的 役割を果たしたのは、大学の建物の価値とこれを荒廃させたくないとす る心情だった。  1870年以降、ドイツ帝国の確立と連関して、大学の増設がつぎつぎと 行われた。1870年代初頭、平穏なマールブルクでも、町と大学の外観を 根底から変えるような増築ラッシュを体験した。自然科学部の哲学部か らの独立は自然科学と精神科学との分離を意味した。これを支持したの は自然科学者だけで、精神科学者たちは留保した。哲学部は、当初は三 月革命後の問題に大きく規定されていたが、その後新たな段階へ入った。 すなわち、1850年代半ば以降、哲学は認識批判という課題を担うことに なった。物理学者で生理学者のヘルムホルツ(Hermann von HelIn− holtz,1821−94)の1855年の有名な演説にあるように、自然科学的熟考が 認識論的概念形成の第一歩を規定した。  かつてのマールブルク大学の哲学史家ツェラー(Eduard Zeller, 1814−1908)は、1862年のハイデルベルク大学就任演説「認識論の意義と 課題について」の中で、経験科学の自負と当時の哲学的諸体系に対して 否定的評価を下した。哲学の学問的性格を維持し、その注目をドイツ国 民の中にふたたび集めるためには、批判主義の認識論への回帰を避ける わけには行かない、と主張した。哲学をカントの思想に結びつけること を多くの精神科学者が支持した。というのは、これで自然科学的な唯物 論の方法的低劣さを証明できると思ったからだった。ツェラーの演説に あった認識論という表現を見て、かつて同好の士であったヘーゲル主義 者のミヒェレットがかれを「新カント派」と蔑称したが、それが皇帝時

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代の哲学史的に最も重要な運動にその名を与えることになった(15)。  カントの復興にはとくに2つの理由があった。1つは、カントが観念 論解体後へ一ゲルほどには信用を失っていなかったことであり、もう1 つは、哲学史的テーマに従事する者が増え、過去の諸体系の再生にそれ が都合良かったことである。独自の哲学を構築する際に批判防御的な権 威としてのカントの名前は役に立った。新カント派の思想の普及に際し て、1865年にリープマン(Otto L{ebmann,1840−1912)によって著され た著書『カントとエピゴーネン』が大きく貢献した。リープマンによれ ば、すべての新カント派の哲学は、「物自体」の認識不可能性を主張する ことによって、批判主義の根本欠陥を免れていない。ステロタイプ的に 繰り返されたフレーズ「だからカントへ帰るべきだ」によってリープマ ンは広く知られるようになった。哲学をカントの認識論に還元すること が当時の時代風潮となった。ベルリンの哲学史家のケーンケが語ってい るように、リープマンとともに新カント派の綱領の段階は終わった。  ヘルムホルツ、ツェラー、リープマンの著作に共通する点は、観念論 の解体と自然科学の興隆によって引き起こされた哲学の意味の危機に対 する回答としてそれが理解されたという点である。かれらよりもさらに 根源的に哲学的世界観としての唯物論を考察したのが、1872年にマール ブルク大学へ招聰されたランゲ(Friedrich Albert Lange,1828−75)だ った。ランゲは、若い頃労働運動に参加してプロイセン政府に反対し、 1866年スイスへ亡命していた。1872年、自由主義的なプロイセンのファ ルク内閣が高給を与える約束をしてランゲをマールブルク大学教授に採 用した。マールブルク大学の学生たちは、最初ランゲを懐疑的なまなざ しで見ていた。1872/73年冬学期の論理学の講義は聴講者ゼロだった。だ が、当時国民的英雄だったシラーの哲学詩についての公開講義は画期的 なものだった。『労働者問題』と『唯物論史』の新版を出したあと、かれ は論理学研究に専念した。 マー・レr・レク人学の哲学史 17(256)

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 マールブルク学派の創始者となったランゲがコーエン(Hermann Cohen,1842−1918)に注目したとき、コーエンはまだベルリン大学の若 き学徒だった。コーエンによるカント『純粋理性批判』の解釈はランゲ にとって再度カントの意義を考察するきっかけとなり、2人の交際が始 まった。コーエンのアカデミックなキャリアは苦難に満ちた始まりだっ た。ベルリン大学で2度大学教授資格試験に挑戦したが成功しなかった。 これは1873年にランゲの支持でマールブルクで実現した。その1年後に かれを哲学教授の空きポストに就ける動きがあったが、反ユダヤ主義の 植物学者ヴィーガントがユダヤ人であるコーエンに反対票を投じた。コ ーエンの代わりに、大臣の後ろ盾を得た政治的保守派ベルクマン(Julius Bergmann,1840−1904)が就任した。だが、1875年11月21日にランゲが没 したあと、その後継者としてマールブルク大学の教授たちはコーエンを 招聰するよう大臣を動かした。コーエンはのちにランゲの学説に反対は したが、ランゲに対する感謝の念を生涯保ち続けた。 第7章 コーエンとナトルフ  ナトルプ(Paul Natorp,1854−1924)は、デュッセルドルフのプロテス タント牧師の息子として生まれ、同程度に高度な音楽と数学の才能の持 ち主だった。ボン、ベルリン、シュトラースブルクの各大学で自然科学 と数学、生理学、そしてとくに音楽と哲学を研究したが、それらはかれ を満足させなかった。1875年にランゲとコーエンのカント解釈に接して 初めてかれは自分の研究目標を見つけることができた。試験に合格し、 研修生や臨時教員を勤めたあと、1880年にかれはマールブルク大学の図 書館に職を得た。こうして、かれは尊敬するアカデミーの教師コーエン に近づくことができた。1881年に提出されたデカルトの認識論について のかれの大学教授資格論文は、とくに認識論的方法の優位性という点で コーエンの手本にならったものだった。だが、コーエンの精力的な口利

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きにもかかわらず、ナトルプが哲学と教育学の正教授になったのは1893 年までの長い間待った挙げ句のことだった。そのおもな原因は、哲学教 授ベルクマンが、1893年に健康上の理由で退職せざるを得なくなるまで、 個人的ならびに政治的な理由で新カント派のマールブルク大学における 支配を妨害したことにあった。  コーエンとナトルプの弟子たちのグループから、マールブルク学派の 名で呼ばれるさまざまな共同研究が生まれた。もっとも密接な結びつき を持ったのは、カント主義と社会主義との総合に努めたシュタウディン ガー(Franz Staudinger,1849−1921)とフォアレンダー(Karl Vorlan. der,1860−1928)であり、また、野心的な博士ゲアラント(Albert G6r− Iand,1869−1952)とカッシーラー(Ernst Cassirer ,1874−1945)だった。 マールブルク学派の魅力はコーエンとナトルプのもとへ大勢の外国人学 生を引き寄せた。その中には、バルト系ドイツ人のハルトマン(Nicolai Hartmann,1882−1950)、ロシア人パステルナーク(Boris Pasternak, 1890−1960)、スペイン人オルテガ(Jos60rtega y Gasset,1885−1955) などがいた。だが、その後パステルナークはコーエンの論争的な教授ス タイルについて行けず、哲学から詩に転向した。これに対して哲学者で 文明批評家のオルテガは、内面的にコーエンの思想から離れたときも、 マールブルクへの愛着を抱き続けた。  帝国が建国されて以来、反ユダヤ主義の風潮が強まった。いわゆる「ベ ルリンの反ユダヤ主義論争」で、コーエンも『ユダヤ人問題における信 条告白』という著作で発言した。プロイセンの宮廷史家トライチュケに 反対して、かれはユダヤの一神教の崇高さを擁護した。民族的な契機で はなく、宗教的契機の中にかれはユダヤ人問題の核心を見ていた。コー エンは、ユダヤ人は洗礼なしでも良きドイツ人たりうるという考えを代 表していた。1788年マールブルクの領邦裁判所での審査でコーエンは、 ユダヤ人の隣人愛は自らの民族帰属に制限されないという見解を擁護し マールプルク大学の哲学史 1g(254)

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た。だが、時代とともに、ドイツとユダヤ両文化の尊重は一定の人に限 られ、かれはアカデミーの世界で孤立していった。コーエンのユダヤ教 への信仰告白と同様、ナトルプの社会民主主義への参加もマールブルク 大学の新カント主義を孤立させる要因となった。

第8章 マールブルク学派の衰退

 皇帝時代にドイツの大学は学問の大企業となった。学生数の上昇に明 瞭に読みとれる大学の爆発的成長は、法学とならんでとくに自然科学分 野で見られた。フンボルトの提唱したく教養研究〉の意義は疑問に付さ れ、新カント派の学説に対する自然科学者の反対も強くなり、哲学部の 内部でもマールブルク学派は孤立していった。  1900年に設立された哲学ゼミは大学当局と政府にほとんど支持されな かった。自分の弟子に大学教授資格を与えることさえコーエンとナトル プには困難なことだった。優れた才能の持ち主であるカッシーラーに対 してさえ、大学教授資格の申請が却下されるのを恐れて、かれに申請書 の提出を思いとどまらせなければならなかった。マールブルク出自の新 カント主義は他の哲学学派と競争関係にあった。とくに帝国の最も重要 な大学であるベルリン大学で、マールブルク学派のカント解釈に多くの 留保がつけられた。1906年にカッシーラーがベルリン大学で大学教授資 格試験を受けたとき、ベルリン大学正教授シュトゥンフとリールが反対 意見を表明した。かれらは、その現実主義的なカント解釈をマールブル ク学派から嘲笑されていたのだった。このときは、定年退職したディル タイの鶴の一声によってようやくカッシーラーの大学教授資格が認めら れたのだった。コーエン退職後のマールブルク大学のポスト争いのとき、 コーエンとナトルプから候補として挙げられたカッシーラーは哲学部に よって拒否された。それは、心理学科の利害関心とならんで、個人的な ルサンチマンと民族的偏見によるものだった。

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 1912年、マールブルク学派と自然科学派との対立がエスカレートした。 自然科学派は、博士の学位取得のための口述試験で哲学の試験を義務づ けている規則の廃止に成功した。コーエンの退職後のポストにイェンシ ュ(Erich Rudolf Jaensch,1883−1940)が就任した。かれは2年前にシ ュトラースブルクで大学教授資格を取得したばかりの実験心理学者だっ た。かれの専攻はとくに知覚心理学の領域のものだったが、これは、こ の年にドイツの大学で独自の科目として設立された厳密心理学登場後の 自然科学派の期待に応ずるものだった。心理学者イェンシュはコーエン の教授ポストを占めただけではなく、哲学ゼミの部長をも引き継いだ。 これは、マールブルク学派がもはや組織的な土台を失ったことを意味し た。第一次世界戦争がマールブルク学派の解体を加速した。  ドイツの大学教員全体が1914年8月の動員を大歓迎した。マールブル ク学派に見られるような人間的コスモポリタン的世界観は、「民族と祖 国」のための義務という点では時代遅れとなり、コーエンとナトルプさ え時代精神に染まり、「1914年の理念」の追随者となった。ナトルプはド イツのより良き未来への希望を戦争に見いだした。かれは第一次世界戦 争を新たな岸辺へのドイツ民族の前進と考えた。ナトルプの世界戦争哲 学がフィヒテに近づいたのも偶然ではなかった。これに対してカントの 政治思想はこのようなドイツ主義的形而上学とははるかに疎遠なものだ った。コーエンの祖国への熱狂はナトルプのそれに引けを取らなかった。 「ユダヤ人問題」をめぐる論争がナトルプとコーエンの仲を疎遠なもの にした。1918年4月9日にコーエンが死ぬと、マールブルク学派の学問 共同体は過去の遺物と化し、第一次世界戦争の衝撃がマールブルク学派 の世界像を疑わしめた。 第9章 ワイマール共和国時代  ドイツの大学教員の大部分が第一次世界戦争中に帝国の政治を熱狂的 マールプルク人学の哲学史 21(252)

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に支持したが、それだけにかれらはワイマールの新しい国家の承認を留 保した。ワイマール共和国は一般にドイツ国民に不評だった。それはと くに大学教員において言えた。ほんのわずかな民主主義者だけが熱心に 新体制を支持しただけで、ほとんどの教授たちは「非政治的」と自らの 立場を表明した。その傾向は学生たちにも共通した。  マールブルク大学は1918年以降、研究と教育ともにその全盛時代を迎 えた。だが、世界戦争に敗北し、その未解決の問題が「大学と役人と年 金生活者の町」マールブルクの政治的気分を規定した。数多くの団体や 反ユダヤ主義的伝統が反民主主義思想に好都合に働いた。1920年にマー ルブルク学生同盟のメンバーがテユーリンゲンのメヒターシュテット で、逮捕された15人の自称赤色防衛隊の労働者を「逃亡のため銃殺」し た。この学生たちが大学に匿われたため、大学は反動の避難所と見なさ れた。  第一次世界戦争以前は、マールブルク学派の代表たちは授業のほとん どに古典を振りあてており、同時代の哲学的諸傾向を扱うことはなかっ た。だが、かつての繁栄と確かな哲学的自己理解のための時代精神も、 いまや若い世代には自分たちの問題に対する答えを与えてくれるもので はなかった。若い思想家たちは、大学で無視されていたフランスの哲学 者ベルクソンの影響下に入り、マールブルク学派から離反していった。 事態はマールブルク学派の期待とはまったく異なる形で推移した。哲学 部は1922年のナトルプの後任教授ポストの選挙に際して慣例と衝突し、 マールブルク学派から離れたハルトマン(Nicolai Hartmann,1882− 1950)を招聰し、候補者リストからカッシーラーの名をまたしても外し た。1927年にハルトマンがケルン大学に移る際にも、新カント主義の哲 学説は時代遅れと見なされ、自然科学派のすでに「伝統的」となった、 新カント主義拒否が明らかになった。さらに見過ごしてはならないのは、 ユダヤ人で民主主義者のカッシーラーが他の大学でもよそ者として受け

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とめられたことである。カッシーラーは、結局新設のハンブルク大学に 就任し、そこで良き仕事場を得た。  カッシーラーもナトルプもその後ますますコーエンの思想から離れて いった。そのナトルプも孤立していた。ナトルプはコーエンの哲学から 離れ、超越論的な問題を科学の事実を超えて普遍化しようとした。かれ によれば、存在の意義つまりロゴスを捉えることが哲学本来の課題だっ た。ナトルプの後期著作は強い神秘的性格を持っており、かれはインド の哲学者タゴールに親しみを覚えた。1924年にナトルプが死に、マール ブルク学派は「空き家」となった。マールブルク大学では現代的な哲学 学説が広まった。  ハルトマンがナトルプの正教授ポストの後継者となり、哲学ゼミの新 たな指導者となって、学生たちを魅了した。世界戦争を一兵卒として前 線でともに闘ったこの若い教授が、戦争から帰還した学生世代に確実に 影響を及ぼした。冷静な品位と同志的な態度の混合が広く共感を得てい た。マールブルク大学私講師ハイムゼート(Heinz Heimsoeth,1886− 1975)はかれと親密になった。新カント主義の精神で学んだこの2人の学 者は、すでに第一次世界戦争以前にかれらの青年期の哲学的確信から転 向していた。かれらに共通していたのは前線体験だった。  ハルトマンの「認識形而上学綱要』は新カント主義の哲学的確信への 闘争宣言だった。この著作の核になるテーゼ「いかなる認識も存在する ものに関係する」はマールブルク学派の世界像と完全に矛盾する。新カ ント主義における論理学の位地をハルトマンの場合には存在論が占め た。存在論的問題設定への哲学のこの転回は、ハルトマンの後継者ハイ デガー(Mart{n Heidegger,1889−1976)においてその最終かつ最高点 を見いだした(16)。  哲学部は、1923年にマールブルク大学の哲学助教授になったハイデガ ーを、ケルンへ移ったハルトマンの後継者にしようと努めた。1925年8 マー’レブルク大学の哲学史 23(250)

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月5日に文部大臣に宛てた哲学部の判定書の中で、ハイデガーの「歴史 的かつ体系的研究業績」が称えられたが、文部大臣はハイデガーの任命 を拒否した。ハイデガーが学問的業績を当時まだ明らかにしていず、無 名だったからである。そこでハイデガーは、1927年、大学の400年記念祭 の年に、短期間で有名となった『存在と時間』という著作を公刊した。 こうして直にかれはハルトマンの後継者に任命された。  ハイデガーのマールブルク大学教授としての活動を知るには、かれの 当時の弟子だったガーダマー(Hans−Georg Gadamer,1900−)とレーヴ ィット(Karl L6with,1897−1973)がその雰囲気をよく伝えている。ハイ デガーは1923/24年の冬学期に教育活動を始めて以来哲学部の最も人気 ある講師だった。ハイデガーの講義は午前早く、夏には毎朝7時から始 められたにもかかわらず、学生が絶えなかった。これはかれの人格性に よるものだった。ハイデガー哲学についての討論が盛んに行われ、とり わけ神学部、なかでもブルトマン(Rudolf Bultmann,1884−1976)が新 しい問題を提起した。ハイデガーの解釈学的方法は、神学者たちの間で 新たな実存的聖書解釈を促すことになった。哲学部でもハイデガーの思 想は実り豊かな土壌を形成し、のちのマールブルク大学の私講師3人組 であるガーダマーとレーヴィットとクリューガー(Gerhard KrUger, 1902−72)の哲学的修養に大きな影響を及ぼした。ハイデガーはかれらの 早熟な哲学的自己意識を揺さぶり、独自の哲学研究を行うよう拍車をか けた。同時にかれは、マールブルク学派の体系構成とハルトマンのカテ ゴリー分析に対する懐疑を掻き立てた。1928年にフライブルク大学へ移 るまでのハイデガーの5年そこそこのマールブルク大学での活動は、マ ールブルクの哲学に大きな揺さぶりをかけた。  ワイマール共和国の時代には、心理学は哲学部に属していた。国家に よる文部行政が、教育学や社会学のような学科を他に優先させて推進し ていたので、心理学は独自の学科として研究や試験制度を確立すること

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ができなかった。心理学の独立にとって最も重要なパイオニアはイェン シュだった。1912年にコーエンの後任として就任したイェンシュは、心 理学研究所の主任を務めた。かれは、経験科学としての心理学の基礎を 固めることに専念した。1917年6月に哲学ゼミの心理学分野が大学通り 62番地の建物の地階に開設された。ここはかつてコーエンが生活し教え ていた所だった。イェンシュは自分の先人の哲学的傾向を軽蔑した。カ ントの批判主義は、根っからの経験主義者にとっては、せいぜい非現実 的なものの哲学研究の最後の発展段階でしかなかった。イェンシュは、 マールブルク大学での心理学の認知を求めて闘った。員外助手のポスト を正規の助手のポストに変え、またクーゲルハウスでの研究所の落成式 は、ともに1923年のことだったが、これはかれの組織的活動を最も特徴 づける成果だった。かれは、人間類型学の発展に努めることによって時 代のニーズに合致し、一般の賛同を得るのに成功した。専門家の間での イェンシュの評判が良かったので、マールブルク大学における心理学の 地位が上がった。かれの成功は、哲学部を、本来の哲学科と心理学科と へ組織的にも内容的にも二分することになった。 第10章 ナチ時代の哲学部  ナチの権力掌握はドイツの大学で歓迎された。とくに学生がそうだっ た。プロイセン文部大臣ベッカーの改革政治は学生にはほとんど賛同が 得られず、むしろ学生たちをいっそう貧窮化するだけだった。1926年に 設立されたナチ学生同盟が逆にますます勢力を拡大した。1931年以降そ れはドイツの大学で指導的立場に立った。1933年1月30日、ドイツの学 生たちの圧倒的多数がナチの権力掌握を歓喜して迎えた。学生たちのみ ならず、大学教員の間でも、1930年のワイマール議会体制への拒否が広 まった。ヒンデンブルクは、ヒトラー以上に、君主的思想を支持するド イツ民族的大学教員の政治的理想を体現していた。一部の講師はナチの ∼一ルブルク大学の哲学史 25(248)

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権力掌握に少なからぬ希望をつなぎ、ヒトラーの党を公然と支持した。 この代表例が、かつてのマールプルク大学哲学教授ハイデガーだった。  1933年5月27日にハイデガーはフライブルク大学総長となった。これ にちなんだかれの演説は今日まできわめて白熱した議論の的となってい る。ナチズムに対するハイデガーの態度はドイツの大学教員の間ではけ っして例外ではない。かれらの多くと同じように、ハイデガーもワイマ ール共和国を拒否し、ナチ的な出発に対して一貫して開放的態度をとっ た。だが、ハイデガーがナチ的国家におけるかれの理想の実現に失望し たのもまた例外的ではない。1934年にはすでに多くの人が、ナチに寄せ た熱狂から醒めていた。マールブルクのナチ的学生組織はきわめて強力 で、かれらは焚書に際しても重要な役割を演じた。圧倒的多数のドイツ 民族的心情をもった教師たちは、将来への希望をヒトラーにつないだ。 だが、同時に忘れてはならないことは、マールブルク大学がその神学部 において閉鎖的「アーリア条項」を拒否したドイツ唯一の大学だった、 ということである。  哲学部を代表する2つの学科のうち、心理学科は1933年以降活況を呈 した。イェンシュがすでに権力掌握以前から確信的ナチストだったこと が有利に働き、心理学研究所は1934年に心理学的人類学研究所と名称を 変え、また正規の助手をおいた。数多くの文献の中でイェンシュはナチ の権力掌握を、頽廃的で自由主義的な敵対者に対する新しい高度な人間 タイプの勝利として称えた。かれによれば、1933年をもってマールブル ク大学にとって新しく前途有望な時代が始まった。かれは、心理学的知 識の軍事的、経済的道具化を促進したが、そうすることが、心理学を独 立した大学の学科として承認させることに貢献するからだった。1936年、 狂信的反ユダヤ主義者イェンシュがドイツ心理学協会会長に就任した。

 1928年以降マールブルク大学で教えていた哲学史家のマーンケ

(Dietrich Mahnke,1884−1940)にとって、ヒトラーの権力掌握はイェ

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ンシュとは違う意味を持った。マーンケもナチズムへの共感を示してお り、チェコスロヴァキアへの第三帝国の拡張政策の代弁者だった。それ にもかかわらず、マーンケは自分の厳密な意味での学問的な著作をイデ オロギーから自由なものにしていた。かれの主著の中には、外国の哲学 や学問的文献への侮蔑的評価は見られない。  マールブルク大学の私講師レーヴィットは、ハイデガーのもとで1928 年に大学教授資格を得た。レーヴィットのアカデミックな出発は険しい ものだった。ハイデガーの去ったあと、かれはマールブルク大学哲学部 で最も人気ある講師だった。かれの講義は、当時、ニーチェとキルケゴ ール、実存哲学、社会学と心理学、というような現代的で論争的なテー マを扱って、一般的な好評を博していた。しかしワイマール共和国時代 にすでにかれは大学当局から非難されていた。それは、かれがマールブ ルク大学の講師として唯一、アカデミーの討論の対象としてマルクスを 選んだからだった。1933年にレーヴィットが他のユダヤ人のようには公 務員再建法にかからなかったのは、第一次世界戦争のユダヤ人参加者に いくらかの特権を与えたいわゆる「前線条項」のおかげだった。だが、 1935年4月1日にかれは教職を奪われた。そのときはすでにイタリアに 行き、ロックフェラー財団の財政援助を受けていた。イタリアに住む亡 命者の状況がその国のヒトラードイツへの政治的接近によって困難にな ったので、1938年にかれは日本へ飛び、さらにパールハーバーの直前に アメリカ合州国へ逃げ、そこで第二次世界戦争中の不安な日々を過ごし た。  レーヴィットのあとハイデガーの後継者となったのはフランク(Erich Franck,1883−1949)だったが、かれも1935年末に大学教授資格を失っ た。レーヴィット同様、かれをナチストの攻撃から守ったのも「前線条 項」だったが、それは失職前の短い一休息にすぎなかった。フランクは ギリシァ哲学の専門家として名を得ていたが、ナチの権力奪取の2年後 マールプルク大学の哲学史 27(246)

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に、ユダヤ人出自のためにマールブルク大学教員不適格とされた。かれ の正教授の職は、イェンシュによって指導された心理学的人類学研究所 の全盛時代にあって、抹殺された。レーヴィットとは異なり、フランク は1938年までマールブルクに留まったが、11月のユダヤ人迫害でついに 追放された。かれもアメリカ合州国に新しい仕事場を見つけた。  第二次世界戦争中マールブルク大学の戦争研究は強化され、イェンシ ュの軍事心理学的研究が奨励された。1940年にかれが死ぬと、かれの弟 子で後継者のフィッシャー(Gert Heinz Fischer,1909−74)がこの仕事 を引き継いだ。1941年2月17日に、帝国航空省の軍事心理学の研究委託 がマールブルク大学心理学的人類学研究所に下った。このように国家に よって推進された心理学とは違って、哲学ゼミの方は日々の生活にも事 欠いた。レーヴィットとフランクが解雇され、ガーダマーとクリューガ ーが外国の大学に就職し、さらに1940年にマーンケが死ぬと、哲学部の 活動は休止の危機に見舞われた。そのような状況の中で哲学部を支えて いたのは、ただ一・人の教授、エビングハウス(Julius Ebbinghaus,1885 −1981)だった。  エビングハウスは、有名な心理学・哲学教授ヘルマン・エビングハウ スの息子だった。かれはガーダマーの推薦でマーンケの後任に任命され た。エビングハウスは時代精神と妥協しなかった。かれは軍事心理学を 担当したが、これをかれは嫌った。かれは、ドイツ哲学を尊重したが、 ナチストに共感することはなかった。ナチズムを原則的に拒否する数学 者ライデマイスター(Reidemeister)や神学者ブルトマンとかれとを結 びつけたのは友情だった。戦争継続によってますますナチズムに幻滅し たマールブルク大学の学生たちは、エビングハウスの授業を楽しみにし た。かれのナチズムに対する態度を示す最も特徴的な事件は、かれが法・ 国家学部の部長ラインハルト(Rudolf Reinhardt,1902−76)を総長に就 任させるためにした運動だった。かれは法学者こそ大学と学問の利害を

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最も広く代表しうると信じた。ラインハルトには1943年、共産主義地下 組織「ローテ・カペレ」のメンバーとして死刑を宣告されていたマール ブルク大学のロマン主義者クラウス(Werner Krauss,1900−76)の処刑 を阻止した実績があった。  1945年にナチ専制が崩壊し、ドイツの大学の道徳的実体も疑問に付さ れた。建物の崩壊だけが大学を新しい方向へ向かわせたわけでない。マ ールブルク大学は、短期間閉鎖されたのち、1945年9月15日にエビング ハウスが総長に選ばれて再開した。 第11章 戦後の哲学部  アメリカ軍の進駐後、ヘッセンの諸大学は閉鎖された。グロース・ヘ ッセン〔占領軍によって作られた国家。今日のヘッセン連邦州で、1946 年末までの呼称〕の行政はアメリカ軍の手中にあった。すべての大学は、 非ナチ化を遂行して初めて認可された。  ヘッセンの大学としては初めて、またドイツの大学としても最初の大 学の一つとして、マールブルク大学は1945年9月に教育活動を再開した。 具合が良いことに、マールブルクは多くの大学都市とは違って空襲を免 れていた。しかしラーンシュタットにも解決すべき問題は数多くあった。 食料と住居の不足は、帰郷する亡命者によってさらに悪化した。帰還学 生を待っていたのは大学定員制の導入だった。  アメリカの再教育理念に従えば、ドイツの諸大学は、第三帝国とワイ マール共和国の時代には反民主主義的思想に大きな共感を示していた が、今後はドイツ教養の民主主義化の柱となるべきだった。この目的実 現のためにアメリカ軍政府は個々の大学に、政治的に信頼できる大学官 吏による企画委員会を設け、そこで非ナチ化の遂行と大学の再編を行う よう指示した。マールブルク大学ではこの委員会の委員に、アメリカ当 局から信頼を得ていたエビングハウスが任命された。アメリカの占領地 マールプtVク大学の刊学史 2 g(244)

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域全体の責任者ハートショーンはかれを「大学改革を進め、ドイツ高等 教育を地方根性や伝統主義、ナショナリズムから向け変えるために挑戦 する点で、アメリカ占領地域の全大学総長のうち最も活動的」人物だと 称えた。マールブルク大学の企画委員会に属したのはほかに、神学者ブ ルトマン、ロマン主義者でかつてのレジスタンス闘士クラウスのような 功労者だった。この委員会が非ナチ化処分をどれほど徹底的に行ったか は、解雇された大学教員の数からわかる。  しかしながら、非ナチ化政策が続くと、ドイツ国内一般と同様マール ブルクでも住民の抵抗が表面化した。過去の犯罪が暴かれ、それが密告 体制や「潔癖証明書」を結果したからである。マールブルク大学総長と しての活動において、エビングハウスはこの点にとくに配慮した。かれ は、第三帝国時代に作られた民族主義的偏見を弱める努力をした。これ に役立ったのが、たとえば1946年秋に開かれた国際的休日講座や6月の マールブルク大学会議だった。大学官吏のハートショーンの指導のもと で61人の大学教員(うち16人が外国人)が、ドイツの大学制度の将来に ついて議論するために集まった。この会議の頂点は、エビングハウスの 報告「学問の改革か学者の改革か」だった。かれは、歴史的方法が精神 科学に蔓延することの中に同時代の学問の危機の原因を見いだした。か れの見解によれば、精神科学の分野で明快な概念性が喪失した少なから ず本質的な責任は、科学的諸原理や倫理的諸原理、法的諸原理の普遍妥 当性への信頼が衰退したことにあった。エビングハウスはナチストの暴 力支配の原因を、ドイツ国民が市民の自由と法的安全を守るという国家 の本質と法的根拠を誤認した点にあると見た。  戦後、哲学部にその足跡を残した第2の教授はライヒ(Klaus Reich , 1906−)だった。1945年6月に戦争捕虜から帰ってきたのち、ライヒは翌 年初めにマールブルク大学で教授資格を取得した。その後わずか2年後 にかれは哲学の教授に就任した。かれがこの急速な昇進を得たのは、戦

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後の数年間、政治的に非の打ち所のない大学教員が少なく、そのような 需要が大きかったおかげだった。ライヒがすでに20年代の終わりからエ ビングハウスと交わしていた親交もまた、哲学部内部のありうる留保を 除去する助けとなった。しかしながら決定的だったのは、ライヒがすで に教授ポストに就任するに有効な著作を書いていたことだった。これは 「カントの判断表の完全性』という論考で、それをもってかれは1932年 にロストック大学で当時そこの哲学正教授だったエビングハウスのもと で学位を取得していたのだった。  この2人はたがいに親交を深め、しかも大勢の学生を抱えていたが、 本来の意味での学派を形成しなかった。かれらの活動をマールブルク大 学の新カント主義の学派長コーエンとナトルプのそれと比較すれば、す ぐに思い至るのは、哲学部では1945年以降もはやなんら閉鎖的な世界像 が伝えられなかったということである。エビングハウスとライヒが代表 する学問理解によれば、純粋に学問的に哲学に従事するところにはイデ オロギー的信仰告白が入り込む余地はないということだった。ドイツや ヨーロッパの啓蒙の思想家に対するこの2人の哲学教授の愛好が、大勢 の学生たちを駆り立てこの領域での独自の研究に向かわせた。なかでも、 デカルト研究者のゲーべ(LUder Gabe)、今日でもなお活躍中のプラン ト(Reinhard Brandt)やトゥシュリング(Burkhard Tuschling)カミ想起 される。  1960年代の初めから、ドイツの大学制度は、以前にはほとんど考えら れない速度で拡大した。大学における学部規則の差異化が進められた。 マールブルク大学では、1964年に哲学科と心理学科との明確な分離が行 われた。翌年には教育学部でも改革が行われた。哲学は、歴史上つねに 一般教育思想を自認してきたが、いまや他の多くの学科とならぶ1つの 特殊な学科と見なされた。1970年に発布されたヘッセンの大学法は、大 学システムの拡張と民主化の発展の最高にして最終点を示した。マール マール/1レク大学の哲学史 31(242)

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ブルク大学ではこれまでの5学部が21学科に改組された。州政府は大学 の代表として、8年の任期の学長を任命した。旧体制の大学では、総長 は毎年交代し、重要な委員会はすべて正教授が占めていたが、これらは 1970年以降過去のものとなった。  ヘッセンで1970年に学部大学の解体とともに始まったドイツの大学史 の新時代は、哲学部にとって天罰なのか至福なのかは1つの問題だが、 その答えをここで提示することはこの研究の域を超えている。だが確か なことは、「研究過程の統一としての哲学」の社会科学分野への編入は議 論の余地があり、それは学部内部の議論に公然と政治的要因が加わるこ とを許すものである、とジーク氏は結論的に述べている。 【注】 1 PhiliPPs− Universitdit Mαrburg,1・Vintezsemester 1994/95.なお、1970年代  の大学改革で、従来の学部は解体され、現在は学科単位の構成になっている。 2 Sieg,Ulrich:Die Geschichte der PhilosoPhie an der Universitdit Marbttrg  von 1527 bis 1970. Marburug 1988. 3 Sieg,Ulrich:Das Fach PhilosoPhie an der Un iversitdit Ma rburg 1 785−  1866.Ein Beitrag Zttr Univexsitdits−und Wissensclvaftsgeschichte  besonderer Bentcksichtigung von Problemen der Lehre ttnd des Studiums. Kasse11989.なお、ジーク氏にはさらにつぎの関連文献がある。 Die Marburger Universitatsgeschichte −Probleme und Perspektiven ihrer Erforschung, in:Hessisches/6hrbuchヵ∼γLandesgeschichte 38,1988, S.203−226.および、4ぴ舵gund Niedergang des Marburger Neukantianismus. Die Geschicizte einer PhilosoPhischen Schttlgemeinschaft. WUrzburg 1994.後者は582頁に及ぶ氏の学位論文である。個別的な事例研究  としてはつぎの論文もある。Deutsche Kulturgeschichte und jUdischer Geist. Ernst Cassirers Brief Auseinandersetzung mit der v61kischen Philosophie Bruno Bauchs. Ein unbekanntes Manuskript, in:Bulletin des Leo Baeck lnstituts 34,1991, S.59−91.”Der Wissenschaft und dem Leben tut dasselbe not:Ehrfurcht vor der Wahrheit.”Hermann Cohens Gutachten im Marburger AntisemitismusprozeB 1888, in:R.Brandt u,

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