企業の倫理的意思決定と円了の倫理学
著者名(日)
斎藤 弘行
雑誌名
井上円了センター年報
号
12
ページ
282-265
発行年
2003-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002747/
企業の倫理的意思決定と円了の倫理学
斎藤弘行
saito hiroy”fli はじめに 企業倫理がわが国においても大学のカリキュラムに登場するようにな り、それだけ関心が高まったしるしである。しかしそれはあくまで企業 現場の視点からみた必要性と実用性を背景にしているように思われる。 この小稿においては、そうした視点から距離を置いて、企業倫理の本質 と意味について考えることを主眼とする。それに合わせて、円了の倫理 (学)およびその考え方がどれほどに、企業の倫理性の説明に応用でき るかを試みる。もとより円了は企業とか、ビジネスおよびビジネス社会 について、倫理のなかで語っているのではないが、我々は、その考えの 中からあるものを拾い出して、企業の倫理性の意味づけに使いたいと考 える。年代的にも企業倫理が課題とされるのは極めて今日的であり、円 了の思考は戦前のものである。そうしたギャップがあるにもかかわら ず、相当な無理を承知の上でそのような企てをしようとするものであ る。 企業倫理の文献における探索 実務界のなかで企業倫理がどのような動向にあるかを探すことによ り、企業倫理の理解を得ることができるが、出発点としてどのような文 献において、どのような取扱いがなされているかを知ることをあげてみ る。経営学の領域においてはマネジメント論や(経営)組織論のなかで の企業倫理の理解様式を得ることがひとつの手段と我々は判断する。そ 企業の倫理的意思決定と円rの倫理学 3(282)れは論理的手順に従った接近方法ではなくて、あくまで経験的にそのな かに企業倫理の陳述が多く見られるといったことに出発点を置いたこと になる。 我々にとって関心のあるタイトルとして、「組織文化と倫理的価値」 がある。このタイトルをめぐって語ることにする(D。すると企業倫理 は企業文化から由来することとするのは我々の思考傾向と一致する。企 業文化のなかの価値や規範を扱うと必然的に、倫理および倫理観が題材 となる。ここでの文化の解釈において特に、例えば「統一化した、強い 文化が良い文化である」といったテーゼがしばしば唱えられている。こ のようなプリスクリプティブの方向づけが通常、受入れられていた(2)。 そのなかではまだ倫理性に触れることはないけれど、確かに文化が倫理 的課題を含む傾向がこうしたプリスクリプティブの叙述形式のなかに混 在しているとみることができる。そして現実にはそうしたことは強力な 真理とはなりえないことも我々は経験する。 そうは言っても文化がテーマとなるには、これまでの経営および企業 事象について、あらゆることを数量的かつ実証主義的に接近しなければ ならないとする一種の拘束を解くきっかけを与えてくれたことは否定で きない(3)。組織およびマネジメント研究がより質的に、また民族学的 に(あるいは人間学的に)行われる可能性を創り出したのは文化という テーゼである。もちろんそうした傾向が学問の進歩とか退歩といったレ ッテルによって示すことはできないが、ある種の変化と幅の広さが導入 されたことは事実である。 文化、ここでは特に企業(および組織)文化を研究の対象とするとき は、その定義のなかに、価値と規範が含まれていることはよく知られて いる。そのことは例えばハイネンの次の陳述のなかに見られる。「経営 経済学の企業文化的現象にたいする現実的な関心の主な源泉が問題とな るに当り、例えばその現象とは価値、規範、それからまたシンボル、儀
礼、神話およびその他の文化的人工物のことであり、それが経営経済的 組織の行動との関係のなかで観察される限りで、問題となる」と(4)。 このなかで我々は価値と規範に注目する。それは、この2つの用語の、 特に前者の内容を調べることによりはっきりする。 価値と規範はセットにして使用されることが多いが、経営組織論にお いては価値についての一般的説明から始まり、それが倫理性に関連する ようなプロセスをとることが多い。しかるに規範については、集団事象 との関連のなかで認められる事象というような理解が多いように見え る。そうなると、セットにするには何か別の説明様式をとらねばならな い。しかしここではそこまでの追究はしないで、価値の意味を最初に考 える。「あらゆる組織文化の基礎は価値である。企業の哲学は価値を通 して表現される。そして価値は日常的基盤における行為の指針となる」 (5)とする陳述のなかに価値の意味を知ることができる。 また同じ組織論的文献のなかで価値が個人的行為との関連のなかで、 価値と態度といった結びつきをしていることも見出される。このとき価 値は次のように説明される。「価値は適切な行為コースもしくは結果に かんする好みの幅のことである。それ自体では、価値は正しいおよび誤 まり、もしくはどうあるべきかということについての個人の感じかたを 反映する。“すべてのひとについての平等の権利”や、“人は尊敬の念と 尊敬をもって扱われるべきである”といったことは価値を代表するもの である。価値は態度と行動に影響する傾向にある」と㈹。 ここで我々は企業全体(とその組織)と、個人とのレベルの混同をあ えてするつもりはないが、価値の説明のなかに見出される、企業哲学の 存在、および個人のもつ正誤と当為の感覚が、さほど異なる次元のこと ではないことに気づく。つまり、正誤の意識は個人を超えて、より上位 の組織レベルにおいても当然なくてはならないし、組織の哲学は個人の 哲学の体現であり(組織が人間そのものではないという理由で)、組織およ 企業の倫理的意思決定とPlrの倫理学 5(280)
び企業全体にかかわることでもある。個人は多かれ少なかれ何らかの哲 学的思考様式をもつものと解してもよいであろう。 さらに「文化のなかに反映された中心的な組織価値」という表現をす ることもあるが、このことは組織はその基本的価値によって区別がなさ れることを含意している。その基本的価値とは、(a)顧客と従業員のニー ズにたいするセンシティビティ、(b)新しいアイデアを自由に始めること ができること、(c)危険負担を積極的に引受けること、(d)コミュニケーシ ョンの自由があることなどがある。ここでは組織の文化が、価値、行動 規範、期待の共有から成立する認知的枠組であるとする理解がある(7)。 そしてそのなかの価値について、人々の共有すること、集合的事象とし て捉えられている。しかしこの価値のなかには少なくとも何らかの倫理 性は含まれないように思われるが、文化それ自体のなかに社会性と連帯 性があるという次元から、倫理性への移行をはかることができるかもし れない。 規範について若干触れてみる。これは主として組織における集団の解 明における中心的な用語の役目をしている。しばしば役割と規範として セットにされる。ここでは規範についてだけ語る。それは「集団の成員 によって共有される集団内における、受入れられる行為基準」と解され る。規範は集団の行為に、場合によっては強力な影響をすることもある (そうでないこともある)。集団が規範の受入に賛成ならば、集団の行動 に作用する方法としての働きをもつと共に外的コントロールはきかなく なることも生じる。そのために組織全体からみての効果を弱める働きを してしまうことさえある(8)。 我々のもともとの試みは価値(と規範)からの倫理性の抽出にあるか ら、規範についての説明はこのあたりにしておく。但し、規範それ自体 は文化事象であることには変りはないことは忘れていない。またこれま で多くの研究が非公式的集団の規範の意義を認めてきたことについて
も、文化的価値のなかに含めてよいことをはっきりさせる。 文化要素の価値における倫理性 文化要素のなかでの価値に注目して、それが組織論において倫理的価 値として認識されること、またその内容を検討するのが次の課題であ る。組織文化のなかで最近、特に重要視されているのが倫理的価値だと 言われる。それで倫理についていくらかの知識を獲得しなければならな いが、組織論文献の理解をもとにする(9)。「倫理は、何が正しいかまた は誤りかにかんして、個人もしくは集団の行為を支配する道徳的原則と 価値である。倫理は行動と意思決定において善であるものまたは悪であ るものについての標準を設定する」という陳述が我々の認識目的に適し ている。このなかで、正しいか正しくないか(つまり悪であること)、意 思決定のための標準の設定ということは、いかにもビジネス行動の本質 を見せつけているように思われる。通常の人の生活においては決定や決 断に当って、いちいち、標準や基準に照らすということは意識的にはや らないからである。 倫理的行為は法律の命令もしくは指示するところに合致するのみなら ず、社会全体に共通な、幅広い道徳的コードにも合致するとするのが普 通の考え方である佃)。とはいってもどのようなコードがあって、それ が個人の行為選択の決定をうながすかについて様々な考え方がある。そ のことについてこれまで決め手になるものは存在しない。我々はこれに ついていくつかを示すにとどまる〔1D。 (a)最もよく知られているのが効利主義的考えである。最大の数の人た ちにたいする最大の善を与えることがそれである。これは成果(もし くは結果)指向の理屈を土台にしていて、ある人のある行為が創り出 す結果を考慮して道徳的決定および決断をすることが重視される。多 数の人のニーズが重視されることになる。これを企業の現実にあては 企業の倫理的意思決定とF]rの倫理学 7(278)
めると、ある都市における工場を閉鎖して、親企業の利益のあがるよ うにし、他の都市における子企業の運営も可能にできるようにするこ とが倫理的によろしいということになる。 (b)個人主義的見解もしばしば出される。これは個人の長期的な自己利 益にとって最上な行為が倫理的行為であるとみなす。このことは個人 が長期的自己利益を想定し、またそれに従って行動することは、短期 的行為も当然ながら倫理的になってしまうということを内容とする。 都合のよい考え方かもしれないが、「長期的」ということが大切であ り、効利主義の考え方と類似するが、それと区別されるその言葉の意 味内容である。このことは企業の近視的リストラにおいて、優秀な人 材を流出させることなどにもあてはまるかもしれない。 (c)道徳権の見解において、あらゆる人間の共有する基本的権利を尊重 する行為が倫理的行為とする。基本的人権という原則に密接に結びつ いていて、西欧思想に染まっている人々にとっても何の疑問なしに規 範となっている行動とみてよいであろう。生命や自由についての人 権、法のもとでの公正な扱いなどがよく知られている。これは企業組 織において、プライバシー、正当な手続、言論の自由というような問 題のなかに反映されるべきだとする。現実に企業において、こうした 次元は、欧米といえどもさほど進展しているとは言えないことが多 い。近時における企業不祥事は(b)に関連することも多いが、ここでの 倫理的行為が守られないところに原因が多くあるとみられる。 (d)公正の見解において、人間は公平かつ平等に扱われるべきであり、 それが倫理的行為とする。組織における行動において、手続的公正が ある。それは政策によって特定されたルールや手続は、それが適用さ れるすべての事例において正しく守られるべきことを指示する。手続 的公正と呼ばれる。次に、人間はある政策のもとで同じように扱われ るべきはいうまでもないがその程度について考えることである。例え
ばあらゆる人間的特質にかかわりなく、同一的な扱いを受けるべきだ とする。組織において(とくに欧米において)、種々な人種が存在する とき、また、年齢の違う人たちが存在すると、性別のことがあるとき など、この原則が守られるべきとされる。配分の公正の原則である。 (e)哲学のテキストでしばしば引用される、義務論にもとつく見解も、 企業倫理のなかに含められる。これは義務というものを判断基準とし 基礎とする倫理(および倫理学)のことである。ある行為の道徳的質 は、行為者が規範的義務づけの理解から行為への決定を下したかどう かということに従って測られる。この見解による行為は、予め善とし て認められる目的にかんして行為の合目的々性により、道徳的に正し いとはされないということになる(12)。それは個人の権利に焦点を当 て、結果よりもある特定の行動に結びつく意図に焦点を当てる道徳哲 学の考えである。この場合、ある行為を生得的もしくは本質的に正し いとみなし、正しさの決定は個々の行為者にあるとし、社会にはない とみなす。するとこの視点はしばしば非結果主義、あるいは倫理的形 式主義とも呼ばれる。さらには個人尊重の倫理とされることもある (13)。 こうした思考方法が企業状況に適合するにはどうすればよいか。もう 一度その考えを敷術してみると次のようになる。「もしも、世の中のす べての人々が、あなたの行う行為を見ることができるようになってい て、あなたが落着いた気分になっているならば、また特定のやり方や行 為するためのあなたの理由づけが、行為の指針となる普遍的原則となる のに適するならば、その行為をすることは倫理的である」と。このこと は例えばお金の貸借の約束にあてはまる。ある人が返済の約束をしてお 金を借りるのがその約束を守る意図がないとすれば、その人は返済の意 図を欠いた借金を普遍化することはできないことになる。あらゆる人が 返済の意図なしにお金を借りることになるとすれば誰もそのような約束 企業の倫理的意思決定と円rの倫理学 9(276)
をまともにとりあげないであろう。従ってその行為のための根拠づけは 適切な普遍的原則とはならないだろうし、その行為は倫理的とはみなさ れない。 こうした単純化した例において、学ぶことができるのは次のことであ る。ある行為が倫理的であるかどうかを決めるために、義務論の主張者 は道徳的原則との一致を求める。例えば企業においてある従業員が、仕 事条件のために病気になるか死亡するかしたとすれば、この考え方によ ると、作業のやり方が修正されるべきだとするし、それはいかなるコス トがかかろうともそうすべきとする。さらにそのためにすべての従業員 がそのために職を失うことがあろうともそうすべきだとする。ところ が、効利主義の方向では作業のやり方の変更のコストと利得とを分析し て、それに基づいて決定を下す。このようにして我々は倫理性の判定の もとに、目的論と義務論の違いがあることを知る。前者においてはある 行為に結びつく目的を考慮するのであるが、後者において方法を考慮す るということがわかってくる。 もちろん現実の企業はこのどちらかの倫理性をとるというものでもな いし、それが明確に確認できるわけでもない。企業はもしもそのような 二者択一の事情に置かれるならば、どうするかといった、決定問題をつ きつけられるときに、多分、目的論的指向と、その背後における効利主 義に従うことは想像がつく。そのことは決して表明すべきことではない し、実際に明示しないのが通常の企業行動である。このとき、企業行動 とは企業そのものの(いわば全体としての)ありかたなのか、企業経営 者の個人的指向性(ビジョン、理念)なのか、またはその個人のパーソ ナリティにかかわることなのかはっきりしていない。倫理性は、個々の 人々の単純な合計なのかどうかということも同時に考えるべきである。
意思決定の倫理指向性 意思決定について考えるに当り、意思決定はいつでもどこでもある (もしくは行われる)ことという事実を念頭に置くべきである(14)。すな わちユニバーサルの活動だということである。意思決定に関連して言う と、マネジャーか一般の従業員かという区分もできなくなり、まして単 独に経営者の個人的資質に決定問題を押しつけることもできなくなる。 だからといって、同一の環境のもとで必ずしもすべての人が同一の(同 種の)意思決定をしているのではないのは事実である。 原始的には意思決定は種々な選択肢から1つを選択する過程であり、 どこにでもある過程である。そこで大切なことは決定そのものではなく て決定の過程に注目することである。そのようにみると同一環境のもと でも同一の意思決定「過程」を通ることが認められる。例えばある評価 計画を実施しようとする選択の決定過程と、コーヒーにするか紅茶にす るかの選択の決定過程はさほど変らないということができる。マネジャ ーは特殊な方法で特殊な意思決定をしていると、一般のマネジメントと 組織論の文献には記されているけれども、実はこうした過程に注目する と、他の人々がやっている決定過程を通っているのである。諄いようだ が、マネジャーは特定のコンテクストにおいて意思決定をしていて、そ れはマネジメントするという立場からそのように表現できるだけのこと である。ところが決定過程において、意思決定情況のなかで(多かれ少 なかれ)不確実の程度を負担する、というかそのなかに置かれる㈹。そ のときマネジャーは主観的ファクターにより、個人的要素によって影響 されることになる。それはマネジャーだけがやっていることではなく、 他のあらゆる人間がやっていることなのだが、しばしば、マネジャーと その置かれる情況の特殊性ばかりが強調されてきた。極端に単純化すれ ば、最終的には人をどの職位につけて仕事をやらせるかに配慮する過程 と、どこで食事をとるかに配慮することとはたいして異なる過程を通っ 企業の倫理的意思決定と円了の倫理学 11(274)
ていないのである。より簡約すると、マネジャーも「人間らしい」ので あり、組織に加入するとき人間らしさを捨ててしまったのではない。 意思決定の理解がこの時点で、これまでのものから離れる㈹。その 内容は必ずしも倫理の課題と直接結びつかないように思われるが、ある ところで関連することが次第にわかってくる。それは先ず「意思決定へ の接近方法は自我についての記号論の産物とみなされる」という陳述か ら出発するのだが、かなりこれまでの説明様式とは異なる。通常の説明 においては意思決定はある事を行う動機づけと決定において説明される ことが多いが、そうではなくて、「決定は、記号論的に機能する無意識 的願望の表示としてよりよく理解される」というのである。但しこの願 望内容は誰にも一定したものであり、共通したものでないところがある ことを記号論が教える。それは同一情況で異なる人が異なる意思決定を する理由づけをするものといえる。人が自己の眼前にあるものに注目 し、そのものが、そこに存在しないものを指示するか、暗示してくれる ときに、いまあるものが記号としての役目をするということができる。 ということはそれぞれの記号は指示対象をもつとか、何かを表示すると するけれども、その言語対象物(そのもの)である必要はない。ある一 定の事情へと注目させてくれたり、ある特色を知らせてくれたり、ある 選択を可能にしたりするのが記号ということである(17)。 このことをもとにして前述の無意識的願望あるいは自我にもどるとす れば、「人の有する無意識的願望は組織もしくはマネジメント過程のど の次元にも明白には関連しないかもしれないが、それは組織もしくはマ ネジメントのどれかの次元に影響し、それを組立てる」というセンテン スを得る。これは意思決定事情における意思決定パワーと呼ばれるもの である。意思決定者の利用することのできるあらゆるもの、決定者の知 覚した関連するすべてのファクタについての知識が、当人にとって記号 表現なのである。それが意味内容をもつのは個々の解釈する人間によっ
て決ってくるのである。そこで客観的合理性のある意思決定の可能性が 妨げられるのであり、極言すれば存在しないのである。このことは意思 決定が常にそうした形であることを推めていない。意味するもの(対々 指示)について、コンテクスト的に抽出され、間主体的な同意を除外す ることを意味しない。そこに意思決定の人間らしさがあり、そのことは 文化によって決められるかもしれない。意思決定は主観的解釈に基礎を 置くとしても、あらゆるファクターによって影響される。この影響要因 は人にたいして特定の意味づけをするようにすると共に、決定それ自体 とは何の関係もないし、未決定過程とは結びつかないものであるかもし れないのである。従って意思決定の成功は指示物の自分の解釈を強要す ることのできる意思決定者の能力に依存するということができる。 倫理的意思決定 我々の課題は組織としてマネジメントにおける倫理のいくつかの問題 点をみることであったが叙述が意思決定に傾いてしまった。そこで実際 により倫理的な意思決定への方向を求めることにする。そこで復習の意 味で、倫理と道徳にわずかに触れてみる。企業実践においてこの2つは 互換的に利用されることが多いが、異なる定義内容をもつ㈹。倫理は、 個人、集団、組織、企業、社会(的交流)、市場、世界全体における道 徳的経験を体系的に理解する試みである。その方法は追求するにふさわ しい、望ましい、重要と順位づけられた目的、人間行為を支配すべき正 しいルールと義務、生活の発展にとって価値ある、高潔な意志とパーソ ナリティ、およびそれに従った行為を決定することである。従って要す るに倫理は個人および集合体の道徳的自覚、判断、特性および行為を究 め、勉強することである。これにたいして道徳は、社会の道徳のことで あり、これは習慣もしくは道徳観といわれるものである(社会学におい てモーレスと呼ばれるもの)。これは社会(一般)もしくは集団によって、 企業の倫理的意思決定と円rの倫理学 13(272)
正しいものと誤ったものとして受入れられた慣習であるし、また同様 に、不道徳とみなされる多くの行為にたいする法的禁止および制裁を含 む社会の法律とに関連する。従って道徳は、①正誤を重要なものとみな す、習慣上の、社会ルール的活動、②この活動を統治するルール、③こ の伝統的な社会ルール的活動によって埋めこまれ、育てられ、追求され る価値として定義される。 この2つの用語の定義からわかることは次のような例で示される。ア メリカにおける南北戦争以前で、逃亡した奴隷は捕えられると、持主に よって片足を切断されることがよく行われたと伝えられている。その当 時こうした行為は通常の慣習的道徳性および社会ルール上の実践によっ て大目に見られていたけれど、倫理的に敏感でかつ進歩的な人はそのこ とに反対していたとされる。つまり、倫理的立場を主張する側はこのよ うな残酷で執念深い行為は道徳的には受入れられるかもしれないが、倫 理的には嫌悪感をおこさせるものだと言う。いまこの例で思い起すべき ことはどちらの言い分が正しいかということではなく、もうひとつ、道 徳的視点と倫理的視点の区別があるということ(この2つの用語の使い 分けがあること)である。 この点について企業の場面のなかで見ると次のように語られる。マネ ジメントの道徳性の側に立つと、現在存在する社会的規範もしくは組織 の迷路(もしくは組織の中の複雑な事情)に合わせることにより、ある人 が一時的に成功することができてもよいと許されるのだが、マネジメン トの倫理性の側において、この規範の批判的対抗力があるかどうかを確 かめた後に、それを反省的に、また神経質に、全体として是認したいと みなす。既に20世紀の初めにはこうした事例が企業活動のなかに出て来 たのであり、それはステイクホールダーの道徳性からステイクホールダ ーの倫理性への移行ということである。つまり、投資家との関係は、受 詫上の、道徳的関係であり、従業員との利益の共有(利益配分)は倫理
的関係という内容をもつ、最高裁判所の判決が出たという事実が存在す る。これによって初期の資本主義的形式の伝統的道徳性が減少して来た のであり、より倫理的思考が勝れたものと(?)されるようになったと いう。この事実のなかで道徳性が否定されたということよりも、道徳は 時代と共に変化することはいうまでもないが、その批判的立場として の、さらには道徳をより多く反省し、道徳に敏感になることを推める倫 理思考が強くなって来たということを我々は学習することができる。架 空上のことではあるが、道徳的経営者と倫理的経営者の考えが出てく る。それは明らかに道徳と倫理の区分をもとにしたことであると思われ る。 我々はこれまで余りに、外国文献に依り過ぎてしまった。このあたり でわずかながら、円了のテキストにおける倫理学の考えを引用して、こ れまでの陳述とのつき合わせを試みる。円了においては倫理というより 倫理学を使用するが、それは「エシックスのことであり、善悪の標準、 道徳の規則を論定して、人の行為挙動を命令する学問をいう」という学 問である。この場合、倫理学は倫理的に考え、仮定したり、思いつき、 もしくはどこかに高いところにあるものを設定して、その命令に従うと いったことをするのでないとする。それ故に、円了は、倫理学は理学で あり、サイエンスなのである。このことは我々が長たらしく示して来 た、文化的事象としての価値と規範をよりサイエンスの思考方法で検討 すべきことを含んでいる。 倫理学よりも道徳論が先行していて、これまで人は道徳について語っ て来たし、道徳の必要性について疑うものはいない。しかし円了による と道徳論の進歩はなかったという。数千年来ほとんど同じことを語り次 いで来たことがよいものとされている。特に宗教の領域における教えが 力をもつのだが、どうしてそのような道徳に従うのか正確に、しかもわ かるように伝えて来なかったと円了はいう。確かに今日も、経営学の領 企業の倫理的e思決定と円rの倫理学 15(270)
域において、著名な経営者も孔孟の教えを唱えることが多く、ビジネス 雑誌にもそうしたもののテキストが引用されもてはやされていることは 否定できない。 円了においてはしかし、倫理学のなかで道徳を扱うのであって、倫理 と道徳を対比させるような叙述をするのではない。我々は文化的価値 が、企業における意思決定のなかに入りこんでいることを先に示した が、意思決定が倫理的価値を含めるにはどのような価値規準をもつかを 具体的には示さなかった。ここで円了の倫理的規準としての、「善悪標 準」に触れる余地がでてくる。 人の行為は多かれ少なかれ必ず善悪を含むものであり、それはある標 準があるとき、そのように判定される。しかし、円了において標準あり とする説とないとする説があるという。後者について、善悪は相対的な ものであること、その時代において異なること、あること(および人) について善でも、他のことについては悪であることも多くあるから、道 徳の本体について言うと、そういう区別をしないのがよろしいというこ とになる。このことは我々のしばしば引用する文化の相対的立場に似て いる。しかも現実にこうした現象は企業活動のなかに見られる。企業に とって都合がよいのだが社会(もしくは企業外)のものにとっては悪い ことなどざらにある。 これに対して一定の標準があるとする考えがある。これは道徳の基本 が存在することを前提として、必ず善悪の標準を立てることを要求す る。人にあることを勧めたり、悪を懲らしめたりするときにはその準拠 点がなくてはならないことが背後にある。それは積極的にものごと(お よび人間)を良い方向に導こうとする意思を含んでいる。またこの場合 倫理と道徳は同一次元で考えられていて、人類の生存と社会の安寧のた めには、道徳と倫理の区別などしていられないとする考えが底辺にある. ように思われる。
円了は標準を必要とする説に賛成するのは当然であるが、6つの説を あげる。①天帝の命が善とするものである。キリスト教におけるバイブ ルが道徳の基本とするのがひとつの例である。②君主が標準となるとい う考えがある。君主は天帝の命を奉じて人を命令左右するものだとい う。③道理が標準であるとする説がある。これは言行の一致の行為が善 であるとするような考え方であり、人間の道理の力が判断のもとをな す。先にあげた義務論がそれである。④人間の善悪の判断は人間の本能 力である。直覚力であるという。もしくは直覚の道徳である。⑤道徳は 知識とともに経験によって生成されるものとみなす。道徳心は自愛自制 から生じるとみる。愛他も自愛にほかならないと考えられている。⑥善 悪の標準は自利でなくて利他であるとする。しかし、利他だけでなく、 自利との中間あたりに標準をつくろうとすることを含める。功利主義が あてはまるとされる。 上記のような考え方の検討をして最終的には功利説が正当な標準であ るとする。しかし善の内容として、自分を含めてすべての人の幸福が得 られることであり、さらにはそれが増進されることが必要とされる。下 等の標準から上等に至るような発展がなくては幸福とはならないとも言 う。幸福進化という。これは人が経験的に獲得した道徳性であることも 指摘される。従って上記の⑤と⑥が最もふさわしい標準として採用され るべしと円了は言う。 このような倫理的思考が我々の倫理的意思決定と結びつく可能性をも つことは容易に想像できる。企業の意思決定が常に正確かつ、絶対的評 価基準にもとつくのでないことは指摘した通りである。また意思決定は 最終的には何のためにするのかと問うと、企業においえは企業利益のた めに行われると答えるだけでは今日の説明とはならない。意思決定はよ り人間的なものであるとする考え方がかなりのウエイトを占めている。 それは方法的にも内容的にも、文化的かつ人間的意思決定があるとする 企業の倫理的意思決定とF9了の倫理学 17(268)
のが我々の方向づけである。意思決定が倫理的になるというのは正しい か誤りかを超えて、幸福のための決定であり、この標準を満すのが正し い意思決定である。数値的に正しくても、幸福をもたらし、それを進展 させないことには何の意味もないことになる。円了の倫理学は、企業に ついて何も語っていないけれど、功利主義的および義務論的傾向をも ち、企業の決定情況に適合できるものと思われる。 終わりに この小稿では企業における通常の意思決定行為がどのような経過を通 って倫理的意思決定になるかということを考察したものである。意思決 定については既に多くの追究がなされていて、いまさら加えるべきこと もないように思われる。倫理的意思決定もこの範時に入る。しかしあえ てこの問題に触れることは企業の倫理および倫理学がどのような企業の 問題と接続するかを再考しようとすることに意図がある。 企業の倫理的問題に接近するために、ここでは企業文化の視点をと る。文化のなかの重要なファクターとして価値と規範をとりあげとくに 価値のなかで、倫理的価値に注目する。この価値が意思決定並びに意思 決定者の意識のなかにどのように組込まれるか、考察する。さらに意思 決定は極めて人間的であることについて記号論の若干の知識を通して認 識する。それにより、意思決定が文化的価値を重視しなければならない 理由づけを確立する。価値、とくに倫理的価値を意思決定のなかで判断 するには何かしら基準がなくてはならない。特に倫理的基準として、企 業に関連する倫理的理論(学説)傾向をいくつか示した。しかしここで どの傾向が勝れた、しかし、企業行動を決めるにふさわしいか、もしく は意思決基準として適切かについては結論を出していない。 最後に井上円了の倫理学における倫理基準(円了は道徳標準という) を引用し、企業における意思決定にふさわしいものを探求する。円了は
企業については何も触れていないので、こちらの側で任意に判断してみ ると、効利主義的標準が支持されていて、それが企業活動にふさわしい 標準となるかもしれない。しかしそう決めてしまうには早すぎる。さら に円了のテキストの他の部分を参照しなければならない。いずれにせ よ、倫理的意思決定の考察に当り、円了の言説の活用可能性を知ること ができたのはマネジメント論にとって有益なことである。 【注】 (1) このタイトルは次の文献から得られる。またそこに述べられることを 中心にして説明する。Daft, R.L, Essentials of Organization:Theory and Design, International ed., South−Western,2001, pp.115−131. (2) Clegg, S.R. et al. eds., Handbook of Organization Studies, London, et al., Sage,1996, p.13. (3)ib, p.22.そのことにより新しい学問論争が生じたこと、またマネジ メント論が安売されることになるといった主張もなされという。 (4)Heinen, E, Unternehmenskultur:Perspektiven fUr Wissenschaft und Praxis, Mtinchen/Wien, Oldenbourg,1987, S.3. (5) DuBrin, A.J., Fundamentals of Organizational Behavior, Interna・ tional Edition, South−Western,2002, p.279. (6) Schermerhorn, J.R. Jr., et aL, Organizational Behavior, New York, Wiley&Sons,2000, pp.72−73. (7) Greenberg, J./Baron, R.A., Behavior in Organizations, Interna・ tional Edition, Prentice Hal1,2000, p、486. (8) Robbins, S.P., Essentials of Organizational Behavior, Upper Saddle River(NJ.),Prentice Hal1,2000, p.91. (9)Daft, op.cit., pp.123−129.ここではとくに、 pp.123−124. (10) Schermerhorn, et al., op.cit., p.14. (11) Ferrell, O.C., et aL, Business Ethics, Boston/New York, Houghton Mifflin,2000, pp,48−67. (12) Prechtl, p./Burkard, F.−P.,(Hrsgs.),Metzler Philosophie Lexikon, Stuttgart/Weimar,1996, S. 94. (13)Ferrell,0℃. et al., Business Ethics, Ethical Decision Making and Cases, Boston/New York, Houghton Mifflin,2000, pp.57−58. 企業の倫理的意思決定と円rの倫理学 19(266)
(14)以下について、Jackson, N./Carter, p., Rethinking Organizational Behaviour, New York, et aL, Prentice Hall,2000, pp.224−227. (15) 不確実性について意思決定環境(情況)のなかで、確実的環境、危険 環境、不確実環境の3種があげられ、そのなかでのものと理解すること ができる。但し確実的環境は例外であり、その中に人は立つことはまず ない。通常は不確実(性)環境であり、次のように考えられる。「不確 実性環境は、決定者が種々な代替案や結果にたいする確率を評価するこ とすらできないことについて、情報が欠けているときに存在する。それ は極度に個人および集団の創造力に依存し、問題解決をしようと決定者 は努力することである。……不確実性への反応はしばしば多く、個人の 直観、教育を積んだ推量および勘によって影響される」と。これについ て、Schermerhorn, J.R. Jr., et aL, Basic Organizational Behavior, New York, et al., John Wiley&Sons,1998, pp. 243−244. (16) Jackson/Carter, op.cit., PP.225−226、 (17)Schichkoff, G., Philosophisches W6rterbuch, Stuttgart, Kr6ner, 1978,S.612. (18)以下について、Petrick, J.A./Quinn, J.F., Management Ethics;Integ− rity at Work, London et a1., Sage,1997, pp.42−65,ここではとくに、 pp.42−43. 円了について、「井上円了選集」第11巻、東洋大学刊、1992年から引用し た。とくにページ数の指摘はしていない。