• 検索結果がありません。

保育の質をめぐって問われていること

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "保育の質をめぐって問われていること"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

保育の質をめぐって問われていること

Inquiries about Quality in Early Childhood Education and Care

藤川 いづみ

FUJIKAWA Izumi

(2)

キーワード: 保育の質、倫理、ポストモダン、倫理的実践 1. はじめに  保育の質をめぐる活発な議論は、1980年代前半に米国を中心に始まった。1 我が国に おいては、1990年代に保育の質研究は盛んになり、今日も高い関心を集めるテーマのひ とつである。2 当初、米国の保育界では、チャイルド・ケアの質の低さが問題とされ、質 の改善を目指す取り組みが行われていた。保育の質を構成する要素を明らかにする試みが 精力的になされ、そのひとつの集大成として “Developmentally Appropriate Practice in Early Childhood Programs”(乳幼児の発達にふさわしい教育実践、略してDAP)3 が登場した。

 DAPは、1987年 に 全 米 幼 児 教 育 協 会(The National Association for the Education of Young Children, 略してNAEYC)によって作成された、0歳から8歳までの子どもの保育 実践プログラムのための包括的で具体的なガイドラインである。質の高い保育実践のた めのガイドラインとして貢献することが期待され、その中心概念として「発達的適切さ (developmentally appropriateness)」が位置づけられた。DAPは、質の高い保育の指標とし て注目され、その期待される役割は、普遍的な保育の質の基準を示すことであった。4 実 際、DAPは、米国内で強い影響力をもち、多くの州がこのガイドラインを採用している。5 また、国際的にも高い関心を集めた。  しかし、近年、ヨーロッパを中心に、保育の質の追求に対する問いが発せられるように なった。DAPをその典型として、「質」という概念の支配のもとに標準化されたプログラ ムの問題性を指摘するとともに、新しい概念の探求と乳幼児の保育施設についての理解の 再構築が試みられている。6

 本稿は、ダールバーグ(Dahlberg, G.)およびモス(Moss, P)の著 “Ethics and Politics in Early Childhood Education”(2005)と、ダールバーグ、モス、およびペンス( Pence, A)の著 “Beyond Quality in Early Childhood Education and Care”(second edition, 2007)において、著 者らが保育の質をめぐって問うていることと、乳幼児のための保育施設の新しい可能性に ついて提示していることを明らかにし、新たな知見を得ることを目的とする。

 “Beyond Quality in Early Childhood Education and Care”( 以下、Beyond Qualityと略す) の初版は、1999年に出版された。主にフーコー(Foucault, M.)の思想に依拠しつつ、保 育の質についての批判的な観点から議論を展開している。そして、この書は、2007年ま でに6種類の言語(カタロニア語、イタリア語、ノルウェー語、ポルトガル語、スペイン 語、スウェーデン語)に翻訳されている。7 また、“Ethics and Politics in Early Childhood

Education”(以下、Ethics and Politicsと略す)は、“Beyond Quality” の理念を受け継ぐ書で あり、レヴィナス(Levinas, E.)の思想を多用しながら、特に倫理の重要性を強調している。

(3)

 いずれの書も、その著者らが「ドミナント・アングロアメリカン・ディスコース(dominant Anglo-American discourse)」9 と呼ぶところの、保育の質のディスコースにおける米英の世 界的な優勢あるいは支配に問題を提起している。それは、保育における理論と実践の画一 性と子どもたちのノーマライゼーション(正常化あるいは規格化)をもたらすものに対す る批判である。10 そして、それらとは「まったく異なった考え方と実践」11 を提供する書 として、自らの位置づけを行っている。   2. アングロアメリカン・ディスコースへの問い  「初期介入」「未来への投資」「子どもの発達」「結果」「質」「費用効果」「最善の実践」「就 学準備」のような概念を用いて、私たちの思考、行動を支配してきたものが、アングロアメ リカンのディスコースとされている。12 (1) 保育の質という概念への問い  「保育の質」という概念の広がりは、前述のように1980年代前半の米国における保育の 質をテーマとした研究のムーブメントから大きな影響を受け、他の国にも展開していった。 このドミナント・アングロアメリカン・ディスコースは、理論においてインストルメンタル、 価値において新リベラル、実践においてテクニカル、規律において管理的と特徴づけられ ている。13  このディスコースによってもたらされた保育の「質の時代」14 に対する問いは、乳幼児 の保育が、ポスト工業化社会の失敗から立ち直るためのテクノロジーとして、また、社会 統制と経済的成功を保証するテクノロジーとして手段化されていることへの問いである。 また、乳幼児の保育が、あらかじめ決められている結果に子どもたちを導くこと、すなわ ち目標に到達させることを通して、すべての子どもたちに等しく義務教育システムへの準 備をさせるためのものとなっていることへの問いである。質の時代は、社会統制を完成す るためにあり、結局、質のコントロールが、結果として、質によるコントロールをもたらす ことを警告している。15  保育をとりまく現実は、国によって地域によって多様であるにもかかわらず、そこで語 られる言葉は、英語圏の言葉を共有し、その中でも最も普及している言葉が「質(quality)」 である。そして、この言葉をめぐる様々な問いも共有されている。たとえば、今日、多くの 人が、質の構成要素は何か、質をどのように測定するか、もっとも費用効率の高いプログ ラムはどれか、必要な質の基準は何か、質をどうやって確保するか、もっとも望ましい結 果を得る方法はなにか、といった問いをする。ダールバーグらは、これらの問いが、技術的 で管理的な特質をもち、標準化、予測可能性、管理の確実性をもたらすテクニックを求め るものであり、価値とは無関係に事実の客観的な報告を行う方法を必要とするものである

(4)

ことを指摘している。そして、個人が判断をするという責任を負わないという点において、 また、多様性や不確実性を認める価値について問うていないという点で、倫理的な側面を 回避していることを問題化している。16  質の問題は、これまで、専門的な知識と測定のテクニカルな問題として取り組まれてき たが、実際は、価値と議論の哲学的な問題であり、根本的に数量化の論理には調和しない ものだという問題提起がなされている。17 保育の質研究の多くは、子どもの望ましい発 達やその他の望ましい結果をもたらすインディケーター(指標)を見つけ出すことを課題 としてきた。これは、質のインディケーターや、そこからもたらされる結果が、普遍的で客 観的なものであり、正しいテクニックがあれば正確に測定できるものであるという仮定に 基づいている。  このような普遍的で知りうるものとして探求されてきた保育の質の概念は、1990年代 に入ってヨーロッパで問題化され始めた。18 それは、保育の質が、客観的で普遍的なも のではなく、むしろ主観的で、価値に基づく、相対的でダイナミックなものであること、し たがって、保育の質は脈絡によって変化するものであり、構成される概念であることの認 識による。19 (2) 発達心理学への問い  米国の経済的、軍事的、学問的、文化的、技術的な莫大な影響力は、保育分野においても 大きな指導権をもち、地球的規模で影響を及ぼしてきた。しかし、それは、米国という特 定の社会的な脈絡の産物であり、また、特定の規律(discipline)の産物であることを理解し なければならず、その特異性と限界を認識し、大局的にそれを見ることが求められている。 中でも特に指摘されているのが、米国の保育分野に占める発達心理学の支配的な地位であ る。20 普遍的で客観的な概念としての質への問いは、同時に発達心理学への問いに対応 している。  ダールバーグらは、科学である発達心理学が、「支配的な論証的体制(dominant discursive regime)」21 として、知識の構成に力を持ち、正誤を分けるルールと真理を認識する方法を 提供してきたと位置付ける。たとえば、「発達段階」のような普遍的な概念と分類が、子ど もを構成する言説となり、子どもたちの発達の抽象的な地図(マップ)を描いて、私たちは それに依拠する。そして、このマップに刻まれている基準に子どもたちがどの程度一致し ているかということを通して私たちは子どもを知る。  ダールバーグらは、発達心理学が、私たちの子どもについての理解に貢献し、また、子 ども時代全体の見通しの構成にも貢献したことを認める一方で、発達のマッピングがもた らす危険性に言及している。22 子どもの発達理論から描き出される抽象的なマップは、 この年齢の子どもはこのようであるという一般的な分類を行って、子どもたちと保育者 の日常の姿を見失わせる。子どもがどうあるべきかを決めるノーマライゼーション(正常

(5)

化、規格化)のテクノロジーとして発達評価を用い、子どもを客体化して、子どもをノー マライゼーションの対象にする。このノーマライゼーションのプロセスにおいて、一定の 発達の段階に到達したかどうかによって子どもたちは分類され、子どもたちの間にヒエラ ルキーが生まれる。そして、基準に到達すること、基準からの逸脱を防ぐことが教育実践 において支配的になる。ダールバーグらは、このような実践を「分類的実践(classificatory practices)」と表現し、それを通して子どもに社会的・個人的なアイデンティティを与える 「操作(manipulation)」の形態とみなしている。23  以上のように、発達心理学という科学的な仲介を通して、子どもたちを正常化システム の中に置き、分類し、測定し、操作し、支配することが問われている。そして、この分類的 実践は、客観的、実証的、合理的な方法(道具)を手段として個人を脈絡から分離する「モ ダニティのプロジェクト(the project of modernity)」24 に位置づけられている。

3. 保育施設と保育者についての問い (1) 保育施設

 ダールバーグらは、“Beyond Quality” と “Ethics and Politics” において、乳幼児サービス “Early childhood services” という言葉の使用を避け、“Early childhood institutions” という言 葉を用いている。本稿では、前者を乳幼児サービス、後者を保育施設と訳す。  “Services” と “Institutions” は、異なった解釈を反映している。乳幼児の保育施設が「サー ビス」として言及されるとき、それは、生産者から消費者への製品の提供を示唆する。一方、 「インスティテューション」の含意は、「パブリックフォーラム、プラザ、アリーナ」25 など である。ダールバーグらは、保育施設が「市民社会におけるフォーラム」として理解される 可能性を追求している。そこは、子どもたちと大人がともに出会い、参加する所である。  また、“Ethics and Politics” においては、“preschool(プリスクール)”26 も使用されている。

この場合のプリスクールは、義務教育年齢に満たない子どもたちのための集団保育施設 (centre-based provision)の総称として用いられている。  ダールバーグらは、家庭外の保育施設で過ごす乳幼児が増加するにつれ、より効果的に 子どもたちを管理することが可能になる危険性を指摘している。これは、標準化された成 果を生み出すテクノロジーを効果的に適用するための囲い込みとして保育施設が理解され るときに起きやすいとされている。27 社会統制と経済的成功を確実にするためのテクノ ロジーとしての保育が、支配的なディスコースとして問われている。 ①生産者としての保育施設  ダールバーグらは、今日の乳幼児のための保育施設に関する支配的な解釈として、標準 化されたすでに決まっている結果の生産者としての乳幼児施設を3点挙げている。まず、 知識・文化・アイデンティティの再生産としての生産者である。この、生産者としての乳幼

(6)

児施設の役割は、空っぽの容器を満たすことであり、特に、期待されている結果とは、子ど もの発達の促進、義務教育における学習への備えである。28  2番目に、母親による子育てに可能な限り近いケアを再生産する代用的な家庭の提供で ある。これには、母親が家庭において乳幼児を育てることが最善の方法であるという母親 期についての優勢な解釈がまず存在する。そして、そのような母親によるケアを提供でき ない現実と理想の矛盾を解決するために、家庭の代用としての乳幼児施設の必要性が認識 されている。家庭的ケアを強調することは、乳幼児の保育施設が学校的になることを防ぐ 必要性の強調である。29  3番目に、社会的介入の手段としての乳幼児施設である。現在の社会的病理を減少し、将 来への悪影響から保護するものとなる。後の学校生活や成人になってからの仕事・生活に おける問題や不適応・犯罪等の防止、またそのために社会が負うことになる費用の削減が 期待されている結果である。30  これらの生産者としての乳幼児施設は、いずれも大人の利益を第一に満たすものとして 提供されている。そして、子どもは、弱く、困窮し、満たされない、危機にあるプア・チャ イルドとして存在する。この乳幼児施設において、子どもたちは大人が望む結果を生み出 すために行動し、教育され、ケアされ、社会化され、補償される。この生産者としての乳幼 児施設は、子どもたちを社会の経済的、社会的ニーズに適合させられた大人になるために 準備する場所であり、社会を機能不全から保護する場所である。また、材料を計画通りの 製品に加工して生産する工場の隠喩で語られる。工場では、効率的な生産のために標準化 された方法をどこにおいても採用するように、乳幼児施設においても同様の標準化された 効果的な方法(モデルやプログラムと称されるようなもの)を探求し採用しようとする。 ②ビジネスとしての保育施設  乳幼児の保育施設が、サービスとして言及されるとき、「生産者」であることに加えて、 市場で競われる「ビジネス」として理解されている。製品(子どもの発達、スクールレディ ネス、代用的家庭的ケア、後の非行の防止など)を、顧客あるいは消費者(多くの場合にお いて親)に売るために市場で競われる。このビジネスの発達は、米英で顕著であり、「チャ イルド・ケア・サービス」というプライベート・マーケットとして拡大を見せている。子ど ものケアと教育を必要としている親を対象としたビジネスとして、あるいは、従業員の福 利厚生パッケージの一部としてチャイルド・ケア・サポート(子育て支援)を提供したい雇 用主を対象としたビジネスとして競い合われている。31 ③「子どもたちのスペース」としての保育施設  あらかじめ決められている結果の生産者としての保育施設は、「子どもたちのサービス」32 という概念で問題提起されている。この概念は、非常に道具的なものとして、工場の隠喩 で語られている。標準的な結果を生産するために、子どもたちにテクノロジーを適用する 場所であり、技術者としての保育者によって子どもたちが効果的に加工される場所とされ ている。

(7)

 ダールバーグらは、この「子どもたちのサービス」の概念を否定し、「子どもたちのスペー ス」33 の概念を提示している。「子どもたちのスペース」としての保育施設は、道具的であ るよりも、倫理的・審美的であり、「フォーラムあるいはミーティングプレス」の隠喩で語 られる。単に物理的なスペースではなく、社会的なスペースであり、また論証的なスペー スである。 ④「パブリック・グッド」としての保育施設  ダールバーグらが批判するもう一つの保育施設の理解は、「プライベートな商品を提供 するビジネス」である。ここにおいて、親は「消費者」であり、競争的なプライベート・マー ケットの中で商品を選択する。「交換の論理」34 によって、インプットとアウトプットの金 銭的に計算できる交換の関係に置かれている。  これに対して、ダールバーグらが支持する保育施設の理解は、社会的、文化的、政治的な 重要性をもつ「公共の価値(public good)」35 である。マーケットで互いに競うことよりも、 倫理的政治的な実践の場として、みられるべきであると主張する。保育施設は根本的に市 場合理性とは調和しないものであり、営利ビジネスとしては存在しえない。公的な価値と して、誰にでも無条件に利用する権利が与えられなければならないものとされている。 (2) 保育者  前述の生産者としての保育施設やビジネスとしての保育施設の構成は、同時に保育者の 構成についての問いを生み出している。  第一に問われているのは、「技術者(テクニシャン)」36 としての保育者の構成である。技 術者としての保育者の役割は、施設の成果の効率的な生産を確実にすることである。すな わち、子どもたちに知識を伝達すること、あるいは、発達の重要な段階が正しい年齢で到 達されるように子どもの発達を支えることである。  第二に問われているのは、「代理的な親(substitute parent)」37 としての保育者の構成であ る。この構成において、保育者は、親密な関係を子どもたちに提供する。また、この保育者 は「彼女(女性)」であることが重要である。母親がいまだ子育ての主要な責任者であると いうジェンダー的な性質のゆえに、代理的な親は、代理的な「母親」であることを期待され ている。そして、これが高くジェンダー化した労働力の生産に貢献している。  第三に問われているのは、「起業家(entrepreneur)」38 としての保育者である。保育者は、 起業家として、うまく市場で売買し、製品を売らなければならない。基準に適合した高い 生産性を確実にするように運営して、効率的な生産工程を保証する。

 一方、これらに対して、“Ethics and Politics” において、保育者は「共同構成者(co-constructors)」39 であり、保育者と子どもは実験と探求のプロセスにおけるパートナーであ

(8)

4. 乳幼児期の理解 (1) プア・チャイルド  ダールバーグらは、大きく分けて2つの対照的な子ども観を提示している。ひとつは、「プ ア・チャイルド(poor child)」40 と称され、弱く、受動的・消極的で、個別化され、依存的で、 無能な子どもである。知識や文化の再生産としての子ども、タブララサ、知識で満たされ るべき空っぽの容器、生物学的に決められた発達段階に従う自然な存在、人生の黄金期を 楽しむ汚れない子ども、労働力の供給要因、などの子ども観に共通する子どものイメージ である。前述の分類的実践は、この「プア・チャイルド」を生み出すとしている。  ダールバーグらは、モダニティのプロジェクト41 の中で生まれた以下の4つの子どもの 解釈を紹介し、それらが共通して「プア・チャイルド」を生み出すものであるとしている。 ①「知識、アイデンティティ、文化の再生産者としての子ども」42  この解釈において、乳幼児期は「無からの人生の初め」43 であり、空っぽの容器、タブラ ラサ、すなわち、ジョン・ロックの子ども観である。この時期の課題は、義務教育年齢まで に学校・学習への準備をさせるために、知識・技術など、支配的な文化的価値を習得させる ことである。したがって、乳幼児期は、人生において成功をおさめるための基礎であり、大 人になるためのプロセスである。階段を上ることに例えられ、乳幼児期の一段一段は、さら に重要な次の段階のための準備となる。これは、資本主義に支配的な価値と結び付く。乳幼 児期を安定した労働力を将来に向けて用意するプロセスの最初の段階としてみなす。44 ②「人生の黄金期における汚れのない存在としての子ども」45  これは、ルソーの子ども観に見られるもので、生来的に善なる存在として子どもを見る。 そして、良い環境を子どもに提供することによって、子どもを堕落させる有害な社会から 子どもを保護したいという願望を大人たちに引き起こす。子どもの自由な遊びや自由な創 造活動を教育活動の中心に据えてきた乳幼児の専門家は、この子ども観を支持してきた。 しかし、ダールバーグらは、子どもたちがすでにその世界の一部であるにも関わらず、そ の世界を子どもに包み隠すことは、子どもたちを尊重することにならないという認識を示 す。 ③「自然としての子ども」46 あるいは「生物学的な段階に属する科学的な子ども」47  この解釈において、子どもは、本質的に普遍的な特性と生得的な能力をもつ存在であり、 その発達は、一般的な法則に従って、生物学的に決定しているプロセスとして考えられる。 これは、乳幼児を社会的であるよりもむしろ、成熟という抽象的な概念あるいは発達段階 によって定義される自然的なものとし、発達の個々の測定可能なカテゴリーに子どもを分 ける。結果として、本来、非常に複雑で日常の生活の中ですべてが相互関連的に機能する プロセスが、互いに孤立し、二分的なものとみなされることが指摘されている。

(9)

④「労働市場供給要因としての子ども」48  1960年代以降、徐々に、女性の労働力が必要とされるようになり、父親とともに労働市 場に参加する母親が増えてくるにつて、これらの女性の雇用を可能にするために、乳幼児 のための保育施設の必要性が高まる。これによって、「十分な労働力の供給と、人材の効果 的な利用を確実にする」49 ために取り組まれなければならない対象としての乳幼児という 解釈が新たに加えられている。 (2) リッチ・チャイルド  一方、ダールバーグらの選択する子ども観は、驚くべき特別な強さと能力を持つ者であ り、他者との関係の中で知識やアイデンティティを相互に構成する者である。この子ども 観は、活動的で、有能で、世界と積極的に関わる「リッチ・チャイルド(rich child)」50 と称 されている。  ポスト・モダニストの観点から、ダールバーグらは、「知識、アイデンティティ、文化の 共同構成者としての子ども」51 という、「生産的(productive)」52 な子どもの解釈を提示し ている。それは次のようなものである。  子ども期は生物学的な事実であるが、子ども期の理解は社会的に構成される。社会的な 構成としての子ども期は、常に、時間、場所、文化の脈絡において関係づけられ、多様なも のである。したがって、自然的あるいは普遍的な子ども期や子どもは存在しない。また、子 どもは社会的な行為者であり、自身の生活を構成し、決定することに参加している。そし て周囲の人々の生活とその社会にも参加している。さらに、子どもたちは社会的な生産に も貢献する。子どもたちは家族の一員であると同時に、家族とは別の独立した存在として も位置づけられる。社会の完全なメンバーとして、自身の権利を持つ。また、子ども期は、 準備段階としてではなく、社会の構成要素のひとつとして理解され、他の段階以上でも以 下でもない。53  以上のような「リッチ・チャイルド」の考え方において、子どもの学習は、共同的でコミュ ニケーティブな活動である。子どもたちは、大人や他の子どもたちと共に知識を構成し、 積極的に世界と関わり、世界を意味づける者である。したがって、学習は、すでに定められ ている結果に子どもを連れていく知識の伝達ではない。そして、子どもは、大人によって 満たされるのを待つ空っぽの容器のような消極的な受動者や知識の再生産者、すなわち「プ ア・チャイルド」ではない。54 (3) ポストモダンの子ども観と教育実践  ダールバーグらは、子どもの視点に立つことについて、あるいは、子ども中心(child-centered)の教育実践について問うている。教育実践における「子ども中心」という概念は、

(10)

具体的で問題のない概念のように思われているが、非常に抽象的であり、特定のモダニス トの子ども理解を表現するためのものであり、関係や脈絡から離れて子どもを見、扱うも のであることを問題としている。55  これに対して、ポストモダンの観点から、ダールバーグらは、子どもを脱中心(decentre) する。他者との関係を通して存在するものとして、そして、常に特定の脈絡の中に存在す るものとして子どもを見る。また、ひとつの本質的な存在として定義され明らかにされる 「子ども」や「子ども期」のようなものはなく、それらについての私たちの理解によって構 成された「多くの子どもたち」と「多くの子ども期」があると述べる。そして、子どもにつ いて私たちに教える科学的な知識を待つのではなく、子どもをどのように考えるかのいく つかの選択があり、これらの選択が非常に重要であるとする。56  ダールバーグらは、教育実践が子ども期と子どもについての解釈の産物であるという点 から、モダンとポストモダンを比較し論じている。モダニティの「空っぽの容器」や、「知識・ 文化の再生産者」としての子どもという解釈が、「既存の知識を伝達する手段」としての教 育を生み出す。教育は単一の過程、言い換えると、大人に依存している子どもを自律した 存在に変容する過程として語られる。保育実践において、この過程は、問い―答えのパター ンにおいてみることができる。保育者は、すでに答えの決まっている問いを子どもに対し て行い、子どもの答えを聞く。ダールバーグらは、このタイプの交換において、子どもを無 力なプア・チャイルドとみなす。子どもは知識で満たされるべきものであって、チャレン ジする存在ではない。57  一方、ポストモダンの条件の中では、子どもは「共同構成者」として理解される。教育は 他の共同構成者(大人と子ども)との「関係」を土台とし、「コミュニケーション」が学習の 鍵とみなされる。「子ども中心」ではなく、子ども、親、保育者、社会の「関係」が全ての中 心となる。58 ダールバーグらは、イタリアのレッジョ・エミリアの教育実践におけるリー ダーであったローリス・マラグッチ(Malaguzzi, L.)の言葉「どのように話し、どのように 聞くかを学ぶことが人生の大きな問いの一部である」59 を引用し、特に、教育実践におけ る「聞くこと」の重要性を論じている。 5. テクニカルな実践の場と倫理的実践の場 (1) テクニカルな実践の場  乳幼児の保育サービスが、社会的な関心となっているのは、子どもたちを効果的に管理 するためのテクニカルな実践の適用を通して、あらかじめ決められている結果を生産する 場としての可能性の故であることをダールバーグらは論じている。そして、この観点から、 良い保育サービスは、時間どおりに、できるだけ経済的に、製品を届ける能力によって定 義される。60

(11)

 ダールバーグらは、あらかじめ決められている結果の生産者としての保育施設という社 会的構成は、特定の条件と仮定に依存するものであるとし、次の3つの条件を挙げている。 ① 合理性のヘゲモニー(覇権)  第一の条件は、道具的あるいは遂行的功利主義的合理性である。インプットとアウトプッ トとの関係において、一定の目的に向かう最も経済的なアプリケーションを見つけること であり、計算と定量化によって占有された合理性である。この合理性のもとでは、保育施 設は、あらかじめ決められた結果を生み出す能力によって正当化され、評価される。そして、 測定のテクニックを適用することによって、客観的で、普遍的な妥当性をもつものである と仮定される。61 ② 道具的合理性を補うための知識  第二の条件は、前述の道具的合理性によるコントロールとパフォーマンスを確かなもの とするための基礎となる科学的・客観的な知識である。これは、因果関係やルール、秩序を 形成するための基礎を提供する知識である。保育の分野においては、発達心理学がこの役 割を果たしてきた。この知識は、子どもたちを理解し、説明し、分類し、正常化するために 用いられるガイドとなる。62 ③ 知識に関連したテクノロジーの有効性  第三の条件は、期待される結果を可能な限り確実にもたらすために、保育現場の子ども たちと保育者に適用されるテクノロジーである。多くの場合、発達心理学の知識に依拠し た一定の目標(発達の基準)に向かって行われる保育実践あるいは保育方法のことを指す。 広く適用されているテクニックの一例として紹介されているのが、前述した米国の「発達 に適した実践(DAP)」である。63  発達心理学に科学的根拠を求めた「発達に適した実践」は、「ノーマライゼーションのテ クノロジー」64、あるいは、「標準化のテクノロジー」65 であるとされ、「標準的な子ども」あ るいは「コア・チャイルド」66 を求めることになると指摘する。この標準的な子どもやコア・ チャイルドの概念は、多様な子どもたちや多様な子ども期、高く個人的な存在である子ど もに矛盾するものであることが問われている。  そして、標準化のテクノロジーによるさらなる支配として、質の測定と結果の測定が挙 げられている。「質のテクノロジー」67 は、あらかじめ決められている結果を確実に得るた めの適切な条件が保育施設にあるかどうかを測定する。標準的サービスへの一致を測定す るテクニカルな手段を使用して、質が測定される。質の測定は、保育実践を規制するため のテクノロジーのひとつである。また、サービスが期待されたものを提供したかどうかを モニターして、結果が測定される。  ダールバーグらは、このような保育サービスを支配している「標準化のテクノロジー」 や「質のテクノロジー」に共通する「管理の論理」を問うている。正しい結果を確実に導き だすことによって、さらにもっと効果的に管理しようとする「管理の論理」への問いである。

(12)

(2) 倫理的実践の場  ダールバーグらは、保育施設を本質的に「パブリック・スペース」として位置づけ、上記 のようなテクニカルな実践の場としての保育施設を問題化する。管理の論理による、道具 的な合理性に結び付いたテクニカルな実践の場としての保育施設ではなく、新たな実践の 場を追求しようとしている。彼らが選択するのは、倫理的な選択をする個人の責任を前景 とした、倫理的実践の場としての保育施設である。それは、日々の保育実践の中の個々の 特定の文脈の中において、倫理的行為者として、どのように他者と関わるかという問いで ある。  彼らが二つの著書の中で、保育におけるポストモダンの観点の中心に据えているのは、 20世紀のフランスの哲学者レヴィナス(L èvinas, E. )とフーコーの思想である。また、フェ ミニストのケアの倫理から示唆をえている。これらのポストモダンの観点から、道徳的な 選択に責任をもつこと、すなわち、子ども期から、ひとりひとりが難しい意思決定をする 責任を負うことが要求されている。一人ひとりが道徳的選択をする責任を負い、自分自身 の道徳的エージェント(行為の主体)となることである。自身の選択と行為に対する高度 の自己管理を意味する。選択し、自己の立場を論じる自分自身の能力に対する信頼が必要 となる。また、学習と内省とコミュニケーションの能力、開かれた関係と問いかける関係。 フーコーら、ポストモダンの思想家が、統一された普遍的な主体ではなく、複雑で多元的 で不完全で曖昧で脈絡的なものとしてアイデンティティを理解する。違いを真剣に受け止 め、違いを同じものにすることなく、他者と関わる方法を見つけることが重要な課題とさ れる。  倫理的実践の観点から、質の概念は、普遍主義的(ユニバーサル)な倫理的アプローチに 位置づけられている。質の探求は、実践と評価を統治する普遍的なコードの探求であり、 誰にでも適用可能な合理的な判断基準(倫理)の探求と理解される。質の評価は、測定のテ クノロジーに基づいた事実の客観的な記述を必要とする。先に決められている基準(結論) への一致を求めるものであり、その結果は、しばしば数に変形(数量化)される。68  これに対して、ダールバーグらは、答えのない、最終的な到達を期待しない評価のアプ ローチを提供する。「質」の概念に対して、「意味形成(meaning making)」69 の概念と称して いる。これは、起きていることを意味づけることであり、保育実践の意味はいつも異なっ た解釈に開かれており、評価の単一のスケールを生み出す同質の価値の基準はないと述べ ている。つまり、意味はいつも議論可能であり、したがって、意味形成は、終結、標準化、 客観性よりも、一時性、多様性、主観性を前景とする。70 意味形成は、他者との関係性の 中で生じ、保育施設とその実践についての理解は、他者との関わりの中で相互的に構成さ れる。  質の概念がユニバーサルな倫理の枠組みの中で捉えられるのに対し、意味形成の概念 は、ポストモダンの倫理との共通性が見出されている。71 ユニバーサルなコードに頼ら

(13)

ずに、個人として重荷を引き受け、個人として独自の考えをもち、選択し、その選択に対し て責任をとることを求めるものである。また、意味形成の概念が、「ケアをもって判断する (judging with care)」72 ケアの倫理とも共通するところが多いことにも言及している。ケア

の倫理において、倫理的に行動することは、倫理コードから引き出されるのではなく、解 釈的で、対話的で、コミュニケーティブな他者との相互関係と他者への注意深さに基づい て判断に到達しようとすることである。 6. おわりに  「保育の質」は、ダールバーグらが述べているように、「私たちの時代の偉大な決まり文 句」72 となっている。しかし、この保育の質が、標準化のテクノロジー、道具的合理性のテ クノロジー、ノーマライゼーションのテクノロジーなどを論点として問うことができる問 題性を抱えていることを概観した。  これまで、「保育の質」の探求によって、真理をいつか発見できるという幻想があったか もしれない。しかし、質の探求が、管理の論理と結び付く危険性を認識しておかなければ ならない。客観的で普遍的な保育の質を追い求めることが、規格化や画一性をもたらし、 効率主義のテクノロジーに陥って行くことを警戒する必要がある。  あくまでも、保育は、個々の出会いと関係の営みであり、効率化や標準化には馴染まない。 すでに決められている結果に子どもたちを連れていくことよりも、共に世界と関わり、共 に探求し、共に世界を意味づける「共同構成者」「パートナー」としての大人と子どもの関 係が理想とされている。そして、一人ひとりが他者を自分とは異なる者として尊重する関 係の中で行為を選択する「倫理的実践」に価値をおくことが、保育実践の中でどのように 具体的に実現するのかを追求することが重要である。  本稿は、ダールバーグらの著書から、保育の質をめぐる議論の整理を試みたが、議論の 本質に迫ることはできなかった。今後の課題として、このテーマの理論的根拠となってい る思想およびダールバーグらによって提示されている倫理的実践に関わる諸概念について 論考を深めたい。 【註】 1 藤川いづみ 「米国のチャイルド・ケア問題(1)―質の改善をめぐって―」 和泉短期大学研究紀 要第12号、1990 2 金田利子、諏訪きぬ、土方弘子編著 『「保育の質」の探求―「保育者-子ども関係」を基軸として』  ミネルヴァ書房、2000 3 全米幼児教育協会、S.ブレデキャンプ、C.コップル編、DAP研究会訳 『乳幼児の発達にふさわ しい教育実践』 東洋館出版社、2002 4 藤川いづみ 「米国における乳幼児教育改革―発達的適切さの概念を中心に―」 和泉短期大学研

(14)

究紀要第15号、1993

5 全米幼児教育協会、S.ブレデキャンプ、C.コップル編、DAP研究会訳 『乳幼児の発達にふさわ しい教育実践』 東洋館出版社、2002、p.16

6 Dahlberg, G., Moss, P., and Pence, A. Beyond Quality in Early Childhood Education and Care. London: Routledge. 2007.

7 同上書、p.ⅶ 8 同上書、p.xv 9 同上書、p.xiv

10 Dahlberg, G., and Moss, P. Ethics and Politics in Early Childhood Education. London: Loutledge Falmer. 2005. p.ⅵ

11 同上書、 p.ⅰ 12 同上書、p.17

13 Dahlberg, G., Moss, P., and Pence, A. 2007. 前掲書 p.ⅶ 14 同上書、 p.3 15 同上書、 p.ⅶ 16 同上書、p.2 17 同上書、p.6 18 同上書、p.5 19 同上書、p.7 20 同上書、p.15 21 同上書、p.35 22 同上書、p.37 23 同上 24 同上書、p.35 25 同上書、p.11

26 Dahlberg, G., and Moss, P. 2005. 前掲書、p.33  27 同上書、p.ⅵ

28 同上書、p.62 29 同上書、p.65 30 同上書、p.66 31 同上書、p.67

32 Dahlberg, G., and Moss, P. 2005. p.28 33 同上

34 同上書、p.42 35 同上書、p.29

36 Dahlberg, G., Moss, P., and Pence, A. 2007. 前掲書、p.67 37 同上

38 同上

39 Dahlberg, G., and Moss, P. 2005. p.104

(15)

41 同上書、p.34. ダールバーグらは、モダニティは、歴史上の期間であるとともに、その期間を支配 したプロジェクトであると述べている。 42 同上書、p.44 43 同上 44 同上 45 同上 46 同上書、p.46 47 同上 48 同上 49 同上書、p.47 50 同上書、p.50 51 同上書p.48 52 同上書、p.43 53 同上書、p.49 54 同上書、p.50 55 同上書、p.43 56 同上 57 同上書、p.54 58 同上書、p.59 59 同上書、p.60

60 Dahlberg, G., and Moss, P. 2005. p.4 61 同上書、p.5 62 同上書、p.6 63 同上書、p.8 64 同上 65 同上書、p.9 66 同上書、p.8 67 同上書、p.9 68 同上書、p.87 69 同上書、p.88 70 同上 71 同上書、p.89 72 同上 73 同上書、p.9

参照

関連したドキュメント

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

ても情報活用の実践力を育てていくことが求められているのである︒

90年代に入ってから,クラブをめぐって新たな動きがみられるようになっている。それは,従来の

現在のところ,大体 10~40

保育所保育指針解説第⚒章保育の内容-⚑ 乳児保育に関わるねらい及び内容-⑵ねら

巣造りから雛が生まれるころの大事な時 期は、深い雪に被われて人が入っていけ

7 ) Henri Focillon, ‘L’Eau-forte de reproduction en France au XIXe siècle’, Revue de l’art ancien et moderne, 28/ 1910,

賠償請求が認められている︒ 強姦罪の改正をめぐる状況について顕著な変化はない︒