麻酔薬の鎮静・ 忘・鎮痛作用
興奮と抑制の脳内バランスが麻酔薬感受性に及ぼす影響
西
川
光
一
は じ め に 全身麻酔では, 手術中の意識がないこと (鎮静), 手術 中の痛みがないこと (鎮痛), そして手術中の記憶がない こと ( 忘)が求められる.この三大要素を達成するため に, さまざまな全身麻酔薬や鎮痛薬が組み合わせて用い られるが (バランス麻酔), 一方で, 麻酔された後何時間 も覚醒しないのも問題となる (覚醒遅 ). 十 にコント ロールされた薬剤の 用と麻酔深度が必要とされる. し かし麻酔薬の作用には少なからず個人差があり, 麻酔薬 をどの濃度で 用すれば必要十 でかつ速やかな覚醒が 得られるか, 年齢, 身長, 体重から薬物動態学的に適量が 決定できるほど単純ではない. 本稿では, 麻酔薬の鎮静, 忘, 鎮痛作用における個人差に影響を及ぼす要因につ いて, 特に GABA を介する抑制系に焦点をあて, 我々の 研究成果を紹介する. 麻酔薬と脳内 GABA抑制系 我々は, 臨床で広く われている揮発性麻酔薬や静脈 麻酔薬プロポフォールは GABA 受容体のアロステリッ ク修飾薬であること, GABA 受容体を介する抑制シ ナプス伝達は麻酔薬によって強く増強されること を 発表してきた. さらに, GABA 受容体に点変異を加え発 現させた遺伝子改変マウスは麻酔薬の作用が消失するこ とから, このような GABA 受容体点変異が麻酔薬の個 人差に至る可能性があることが示唆された. しかし動物 実験とは対照的に臨床麻酔の現場では, 全身麻酔が全く 効かなかったという症例に遭遇しない. この事実はこの ような変異がヒトでは稀であること, あるいはヒトにお ける全身麻酔薬の中枢抑制が一つの蛋白への作用ではな く, 部位特異的, 薬剤特異的な複数の作用部位を想定す る必要があることを示している. 脳内 GABA濃度が減少すると麻酔が効きにくい? 麻酔薬感受性の個人差に影響を及ぼす因子は何である か?我々は最近, 興奮 (glutamate) と抑制 (GABA) のバ ランス, 特に神経伝達物質 GABA の低下が麻酔薬の効 果発現までの時間と持続時間に影響があることを発表し た. GABA 合成酵素である GAD65ノックアウトマウ スを って, 脳内 GABA 濃度の低下が麻酔薬にどの様 な影響があるかを検討したところ, プロポフォール麻酔 で鎮静に至るまでの時間が長く, しかも麻酔から早く覚 めることが判明した. ケタミンなど作用部位が GABA 抑制系以外であると えられる麻酔薬では GABA 濃度 の低下の影響がなかった. 電気生理学解析から, GABA 濃度が低下することで脳神経細胞のシナプス外 GABA 受容体を介する持続的な抑制 (tonic inhibition) も減少 していることが示され, この差が個体レベルでの麻酔薬 感受性一因となるかもしれない. 脳内 GABAが低下すると熱刺激に過敏に? 麻酔薬は GABA 抑制系を介して脊髄レベルで痛覚を 171 Kitakanto Med J 2009;59:171∼172 1 群馬県前橋市昭和町3-39-22 群馬大学大学院医学系研究科麻酔神経科学 平成21年2月25日 受付 論文別刷請求先 〒371-8511 群馬県前橋市昭和町3-39-22 群馬大学大学院医学系研究科麻酔神経科学 西川光一抑制する. しかし, GAD65酵素が欠損して脳内 GABA 濃度が減少すると, 熱侵害刺激 (53度のホットプレート) への逃避行動が過敏になる. このテストは, 上位中枢を 介する逃避反応を反映し, 脊髄反射とは違う神経回路に 依存する.逆に,GABA の取り込みを担う GABA トラン スポーター阻害薬を前投与して GABA 濃度を上昇させ ておくと, 熱刺激への逃避反応は 長し鈍感になる. つ まり, 細胞外 GABA 濃度の かな変化が, 熱刺激に対す る疼痛閾値に大きく影響する. 興味深いのは, マウス足 底にホルマリンやカラゲニンを注入した炎症性疼痛には GAD65由来の GABA が関与しないことである.これは, GAD65酵素が抑制系の増強が必要とされる時に活性化 され,ベースの GABA 含量は GAD67酵素に依存してい るためかもしれない. 麻酔中の記憶形成は? 意識がなく, 痛くもない状態の全身麻酔中に記憶は形 成されるのか?この問題は未解決だが, 不幸なことに手 術中の出来事が陳述記憶として残ってしまい, 後に PTSD に至るなど後遺症に悩む患者が稀 (0.1-1.0%) で はあるが存在する. アメリカでは手術中の覚醒 (術中覚 醒という) を話題にした映画もつくられ, このような覚 醒が問題視された場合には数万ドルの訴 になるとい う. セボフルランなどの揮発性麻酔薬は, 記憶の 子基 盤の一つと えられる海馬シナプス可塑性 (long-term potentiation : LTP) を強く抑制することから, 術中覚 醒予防には有用であると えられる. しかし同じ全身麻 酔薬でも, 興奮性伝達の抑制効果が少ないプロポフォー ルでは LTP抑制作用も弱くなる. 以上から, 明らかな ヒューマンエラー以外に, 忘作用の少ない麻酔・鎮痛 薬の 用でも術中覚醒が起こりやすいことに注意が必要 である. 終 わ り に 意識, 痛覚, そして記憶, いずれも脳神経科学 野の大 きな研究テーマであるが, 麻酔科医はこれらを薬剤で適 度に抑制し, 速やかに回復させることを日常業務として いる. より安全な麻酔に貢献できる臨床研究が必須であ る. 以上の研究は, 日本医師会医学研究助成賞 (2005年), 科研費基盤 B (2005-2007),科研費基盤 B (2008-2011),い ずれも代表者西川光一, のサポートを受けた. 文 献
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