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津坂東陽『社律詳解』訳注稿(十五)

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(1)

椙山女学園大学

津坂東陽『社律詳解』訳注稿(十五)

著者

二宮 俊博

雑誌名

椙山女学園大学 文化情報学部紀要

13

ページ

191-239

発行年

2014

URL

http://id.nii.ac.jp/1454/00002173/

(2)

津阪東陽

本稿には、津阪東陽﹃杜律詳解﹄巻下の﹁酬郭十五判官受﹂詩か ら﹁長沙送李十一衛﹂詩までと、それに巻末に附された津阪達の蹴 および小谷薫の後序とを収める。原文の送り仮名の﹁メ﹂は﹁シテ﹂ に 、 ﹁

1

﹂は﹁コト﹂に、﹁尺﹂は﹁トモ﹂、﹁寸﹂は﹁トキ﹂にそれ ぞれ改めた。明らかに訓点が脱落していると思われる箇所には、こ れを補った。また詩句の左傍にところどころ附されている和訓は、 ※をつけて改行して示した。書き下し文は、紙幅の都合で省略する。 なお、詩題の上には便宜的に通し番号を施した。 町酬郭十五判官受 四小寒食舟中作 四燕子来舟中作

m

贈章七賛善

m

寄常徴君 四江南[雨]有懐鄭典設

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濫溜 問季夏送郷弟留陪黄門従叔朝謁

m

草山人隠居

m

字文見尚書之甥塵議司業之孫尚書之子重詑鄭監前湖

訳注稿

138137 長 暁 沙 発 送 公

李 安

十 一 数

街 月

憩 息 此 県 四 酬 一 一 郭 十 五 剣 官 受 一 一 一 公 在 ニ 品 目 伴 、 有 レ 詩 示 レ 郭 ニ 。 郭 因 テ 酬 答 ス 、 而 公 復 酬 レ 之 -一 也 。 郭 時 ニ 矯 ニ 衡 陽 丸 信 一 。 其 所 目 贈 云 、 杜 員 外 垂 ニ 示 ス 詩 ↓ 、 因 テ 作 け 此 ヲ 寄 レ 之 ヲ 。 新詩海内流停遁シ、奮俸朝中属望勢ス、郡邑地卑シテ鶴一 J 霧雨一、江湖 天 間 シ テ 足 コ 風 講 一 、 松 花 酒 熟 シ テ 穿 看 レ 酵 ヲ 、 蓮 葉 舟 軽 シ テ 自 拳 レ 操 コ ト ヲ 、 春 輿 不 レ 知 凡 ソ 幾 首 、 衡 陽 ノ 紙 債 頓 ニ 能 高 カ ラ ン ﹄ 公 ノ 詩 逐 一 承 ヨ 其 意 ↓ 、 而 酬 コ 答 之 一 一 、 末 許 ス -一 以 コ ル 過 訪 テ 面 悟 ↓ ン ロ ト ヲ 也 。 ( 注 1 ) 今の湖南省湾州市。この詩は、大暦四年(七六九)の作。 ( 注 2 ) 宋・計有功﹃唐詩紀事﹄巻二十四に﹁郭受、大暦問、衡陽判官和り﹂ と。輯註(巻十九)に挙げ、宇都宮遜庵の増広本にも引く。なお、遜庵 の詳説は張逮﹃会枠﹄(巻二十二)に挙げるのを引く。衡陽は、今の湖 南省衡陽市。判官は、節度使や観察使の属僚。郭受の詩は、郁倖﹃集 解 ﹄ に も 挙 げ る が 、 ︿ 松 花 ﹀ を ︿ 松 穆 ﹀ に 作 る 。 公は揮州にあり、詩を作って郭受に示した。郭受はそれで酬答し、 公が再びこれに酬いたのである。郭受は当時、衡陽の判官であった。

(3)

包 訪 }︼折れい その贈る詩に、﹁社員外詩を垂示し、因って此を作って之を寄す﹂ あ ま ね ひ く として﹁新詩海内流伝遍し、旧徳朝中属望労す。郡邑地卑くして霧 お ほ ひ ろ あ ま ね 雨鏡し、江湖天聞くして風濡足る。松花酒熟して穿く酔を看、蓮葉 舟軽くして自ら操ることを学ぶ。春興知らず凡そ幾首、衡陽の紙価 艇に能く高からん﹂という。公の詩は逐一その意を承けてこれに酬 答し、末尾に立ち寄り訪ねて面陪せんことを期すのである。 才 微 ニ ヰ 跳 昨 テ 筒 虚 名 臥 円 病 一 一 江 湖 春 復 生 ス 起 句 答 -元 詩 ノ 一 二 一 一 、 謝 ラ 英 審 過 嘗 ↓ 也 。 歳 暁 ハ 謂 レ 老 タ ル ヲ O 不 同 テ 日 レ 老 } 而 日 レ 暁 ト 者 ハ 、 震 = 決 ノ 匂 ニ 言 コ 春 復 生 寸 也 。 向 ノ 字 多 少 ノ 感 慨 。 言 比 コ レ ハ 祉 時 一 一 才 盆 ( 微 而 倫 停 一 虚 名 ↓ 、 勢 コ 人 ノ 属 望 ↓ 、 矯 レ 可 川 懐 耳 。 次 ノ 勾 答 二 来 詩 ノ 三 四 一 一 、 春 復 生 ス ハ 言 ニ 病 躯 幸 ニ 未 レ 死 セ 而 復 得 ↓ レ 逢 同 ト ヲ 春 -一 也 。 ( 注 3 ) ︿ 晩 ﹀ 字 、 銭 注 ( 巻 十 八 ) お よ び 輯 註 は ︿ 老 ﹀ に 作 り 、 ﹁ 一 に 晩 に 作 る ﹂ と注する。輯註は、宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。 起句は贈られた詩の第一、二句(﹁新詩海内流伝遍し、旧徳朝中属望 労す﹂)に答えたもので、称誉の行き過ぎなのを辞謝するのである。 ︿歳晩﹀は、老いたること。︿老﹀といわずに︿晩﹀というのは、次 の句に︿春復た生ず﹀と言わんがためである。︿尚﹀の字には、多 くの感慨がある。この匂の意味は、壮年の時分に比して︿才﹀はま すます︿微﹀(衰退)する一方だのに︿尚ほ﹀それでも︿虚名﹀を 伝え、人の﹁属望を労し﹂(わざわざ期待を寄せられ)ているが、(期 待はずれで)悦ずべきことだと思う、と言うのである。次の句は贈 られた詩の第三、四句(﹁郡邑地卑くして霧雨鏡し、江湖天闘くして 風害足る﹂)に答え、︿春復た生ず﹀は、︿病﹀の身がもっけの幸い でまだ死ななければ再び︿春﹀に逢うことができようと、一言うので あ る 。 薬 裏 関 川 テ 心 ニ 詩 綿 テ 鹿 ス 花 枝 照 り テ 眼 ヲ 旬 、 選 タ 成 ル 薬 豪 闘 い づ 心 ニ 、 唯 病 ノ ミ 之 憂 也 。 此 直 ニ 承 一 主 ノ 臥 病 寸 来 ル O 詩 綿 テ 二宮俊博/津阪東陽『社律詳解』訳注稿 慶 ス ハ 、 一 切 慶 紐 シ テ 、 無 一 一 復 吟 峨

1

コ ト 也 。 花 枝 照 可 眼 ヲ 、 承 一 春 復 生 す 、 句還成ルハ言二偶作寸也。還ハ可川テ罷市不同罷乙前既二切藤組スル 者 、 還 復 偶 成 ル 也 。 此 聯 答 一 元 詩 ノ 七 匂 一 一 。 ( 注 4 ) 釈 大 典 ﹃ 詩 家 推 鼓 ﹄ 巻 二 、 還 の 条 に ﹁ 可 吟 罷 ム 而 不 同 罷 之 辞 ナ リ ﹂ と 。 なお、訳注稿目、制﹁秋興八首﹂其三の詳解にも﹁還は復なりい循環 して巳ま、ざるの義。因って転じて罷む可くして罷まざるの辞と作す﹂ ト ﹂ 。 ︿薬裏心に蹴る﹀は、ただ︿病﹀だけを憂えるのである。これは直 ちに上の︿臥病﹀を承けて来る。︿詩総て廃す﹀は、一切廃絶して、 もはや吟詠することがないのである。︿花枝眼を照す﹀は︿春復た 生ず﹀を承け、︿句還た成る﹀は偶たま作ったことを言うのである。 ︿還﹀は、罷むべくして罷まざるの辞。これまで一切廃絶していた ものが、︿還﹀た復た(それでも)偶たま︿成る﹀(出来上がる)の である。この聯は、贈られた詩の第七句(﹁春興知らず凡そ幾首﹂) に 答 え る 。 ( 住 5 ) ' 只 同 一 ) テ 燕 石 一 一 一 能 星 隈 自 得 一 J 随 珠 ↓ 畳 一 一 夜 明 寸 ヲ 十 慌 で 宋 之 愚 人 得 コ 燕 石 ↓ 、 以 矯 二 大 賢 ↓ 。 周 ノ 客 間 一 ァ 而 観 ル 意 。 掩 げ 口 ヲ ( 注 7 ) 而 笑 テ 日 、 此 燕 石 也 。 主 人 大 ニ 器 、 識 同 ト 之 ヲ 愈 ( 園 、 ン ト 。 左 俸 ニ 慣 コ 星 ァ リ 子 宋 一 一 、 星 損 一 ア 化 シ テ 矯 レ 石 } 也 o 准 ム 脳 科 ニ 随 侯 見 計 大 蛇 ノ 傷 ツ キ 断 づ 、 以 レ 薬 ヲ 塗 w 之 ヲ O 夜 中 含 コ 大 珠 ↓ 以 報 ス 。 捜 一 鵬 部 ニ 随 珠 径 寸 、 夜 有 -一 光 明 一 。 合 ニ 用 シ テ 四 書 ↓ 、 湊 巧 園 成 ス 。 上 ノ 匂 直 ニ 承 ニ 句 還 成 す 来 、 答 討 来 詩 ノ 結 ( 注 目 ) 句 一 一 、 謙 三 言 二 其 拙 ↓ 。 下 ノ 句 謝 ラ 郭 ヵ 所 イ レ 賄 、 賛 コ 其 工 妙 ↓ 。 能 ハ 糠 能 ( 註 日 ) 也 。 星 慣 ハ 以 二 其 係 ↓ レ 石 二 湊 合 シ テ 用 レ 之 ヲ 、 一 言 一 一 光 随 テ 減 す 也 。 由 党 一 ﹂ 夜 明 寸 ル ヲ 如 一 夜 光 之 珠 づ 也 。 蓋 言 己 之 詩 徒 ニ 同 二 燕 石 一 一 、 識 者 ノ 所 レ 笑 、 如 一 一 星 蹟 之 光 づ 、 随 げ 時 ニ 便 童 ク O 安 ソ 足 w 使 コ ェ 紙 債 ヲ シ テ 増

7

高 ヲ 耶 。 郭 ヵ 所 レ 賠 之 詩 ハ 則 如 二 随 侯 之 珠 づ 、 由 党 三 室 中 生 コ ル ヲ 光 輝 寸 、 量 吾 之 所 け ラ ン 及 乎 。 是 可 三 以 流 ニ 停 ス 海 内 一 一 也 。 (注5)︿随﹀字、部停﹃集解﹄、銭注および輯註は︿惰﹀に作り、輯註に﹁一

(4)

文化情報学部紀要,第13巻, 2013年 に 随 に 作 る ﹂ と 注 す る 。 ( 注 6 ) 醇 益 ﹃ 分 類 ﹄ ( 巻 二 、 酬 寄 ) に ﹁ 歯 切 子 に 日 く 、 宋 の 愚 人 燕 石 を 梧 台 の 側に得、之を蔵して以て大宝と為す。周客聞きて観んとす。主人斎する ひ ら ふ こと七日、端菟元服して以て宝匝を発く。客之を見て俄して口を掩って 笑って日く、此れ燕石なり、瓦墜と等しと。主人大いに怒り、之を蔵す い よ る こ と 愈 い よ 固 し ﹂ と 。 宇 都 宮 遜 庵 の 両 著 に も 引 く 。 但 し 、 こ の 故 事 は 、 ﹃ 有 子 ﹄ に は 見 え ず 、 ﹃ 関 子 ﹄ ( ﹃ 文 選 ﹄ 巻 二 十 一 、 三 国 貌 ・ 応 球 ﹁ 百 一 詩 ﹂ の李善注および﹃太平御覧﹄巻五一、地部十六石上に引く)に見える。 なお、輯註は﹃韓非子﹄を引くが、それにも見えない。 ( 注 7 ) 蕗益﹃分類﹄に﹁左伝億公十六年に春、石あり宋に酔つる五。隈星な り、化して石と為る﹂と。宇都宮遜庵の両著に挙げる。 ( 注 8 ) 醇益﹃分類﹄に﹁准南子の陪侯の珠の註に、漢の惰侯大蛇傷断するを 見て、薬を以て伝へて之を塗る。後、蛇夜中に於いて大珠を含んで以て 之を報ず﹂と。宇都宮遜庵の両著に挙げる。﹃准南子﹄説林訓に﹁随侯 の珠﹂が見え、その後漢・高誘の注に﹁随国は漢の東に在り。姫姓の後 なり。野に出遊し、大蛇の断たれて地に在るを見る。随侯、医をして以 て断蛇を続停し、蛇愈ゆるを得て去る。後、大珠を衡へて報ゆ。蓋し明 月の珠、因って随侯の珠と号す。世よ以て宝と為すなり﹂と。 ( 注 9 ) ﹃捜神記﹄巻二十に﹁階侯出行するに、大蛇の傷つけられ中断するを 見る。其の霊異なるを疑ひ、人をして薬を以て之を封せしむ。(中略) 歳鈴、蛇、明珠を街へて以て之に報ゆ。珠径寸に動ち、純白にして夜に て ら 光明有り、月の照らすが如く、以て室を燭す可し﹂と。 ( 注 目 ) ち な み に 、 釈 大 典 ﹃ 杜 律 発 揮 ﹄ に は ﹁ 能 ハ 猶 レ 為 也 。 槍 漠 ェ 不 レ 謂 漢 箪 ノ 能 失 凶 ン ト ハ 利 ヲ 亦 同 シ 。 一 説 ニ 能 ハ 萱 能 也 ﹂ と 。 槍 漢 は 、 明 ・ 李 馨 龍 ( 号 は 槍 漠。一五一四

1

一 五 七

O

)

の こ と 。 そ の ﹃ 槍 漠 先 生 集 ﹄ 巻 十 三 、 七 絶 ﹁ 王 中 丞 を 執 す ﹂ 入 首 其 一 の 転 句 。 ( 注 口 ) 釈 大 典 ﹃ 杜 律 発 揮 ﹄ に ﹁ 星 隈 用 才 春 秋 伝 ノ 諾 寸 、 以 係 レ 子 レ 石 、 且 言 ニ 其 ノ 無 ♂ 光 、 与 ニ 下 勾 一 照 応 ス ﹂ と 。

﹃萄子﹄に﹁宋の愚人が燕国産の石を手に入れて、大事な宝物とし

ていた。周からやって来た客が噂を聞いてみせてもらった。すると

口を掩い笑って、これは燕石だといった。主人は大いに怒り、これ

星慣ちて化して石と為るなり﹂、﹃准南子﹄に﹁随侯大蛇の傷つき断

に﹁随珠は直径一寸、夜になると光る﹂と。四種の書を合わせ用い

て、湊巧円成(うまく自然な組合せ)している。上の句は直ちに︿匂

還た成る﹀を承けて、贈られた詩の結句に答え、謙遜してその拙な

るのを言う。下の句は郭受から贈られたのに謝して、その巧妙なる

︿

(

)

︿星蹟﹀は、その石に関係することから湊合してこれを用い、光が

すぐさま滅するのを言うのである。︿夜明らかなるを覚ゆ﹀は、夜

光の珠のようなことである。けだしここで言う意味は、自分の詩は

ただがらくたの︿燕石﹀と同じで、識者に笑われよう、︿星損﹀の

光のように、時が経っとすぐに尽きてしまう。どうして﹁紙価を高

︿

︿

のごとく、室中に輝かしい光を生ずるような気がする、いったい自

分の及ぶところであろうか。﹁海内に流伝﹂できよう、というので

喬口ノ橘洲風浪促ス繋げ帆ヲ何ソ惜ン片時程 ( 注 目 ) 喬口ハ揮州ノ地名。公有下入一一喬口一一五言律詩上。自註ニ長沙ノ北界。凡 (注目岨) 支水入レ江ニ慮、皆謂 - 3 ι ヲ口占河口奨口皆此類。其聞有レ洲産以橘ヲ、 ︿ 註 H ﹀ 因 テ 名 コ ク 橘 洲 叶 。 公 舟 次 コ 子 此 一 一 。 促 ハ 催 也 。 繋 川 帆 ヲ 停 レ 舟 ヲ 也 。 此 暗 ニ 答 二 来 詩 ノ 後 聯 一 一 。 時 ニ 公 勝 一 一 白 レ 揮 入 試 衡 -一 、 因 テ 欲 ニ 過 げ 郭 ニ 一 曾 面 ぺ ン ト 、 故 -一 言 。 風 順 ニ 浪 穣 ニ シ テ 以 促 レ 震 以 ル コ ト ヲ 舟 ヲ 、 耽 府 h 辞 コ テ 喬 口 ↓ 訴 テ 赴 肋 ト 衡 ︹ 注 目 ) ( 注 目 ) 陽

ι

、 則 嘗 一 一 戦 前 W 舟 ヲ 相 訪 一 、 不 レ 惜 レ 稽 同 ト ヲ 程 ヲ 也 。 奮 註 以 矯

= K

A

望 コ 郭 ヵ 来訪↓、非也。 ( 注 ロ ) 詳 註 巻 二 十 一 一 。 そ の 詩 は 次 の 知 く で あ る 。 漠漠奮京遠遅護婦路除漠漠として旧京遠く、返還として帰路 は る か 除なり 残年水固に伊ひ、落日春華に対す 残年傍水圏 落日封春華

(5)

回 樹蜜早蜂乱江泥軽燕斜樹蜜早蜂乱れ、江泥軽燕斜めなり 貫生骨巳朽懐側近長沙買生骨巴に朽ち、懐側長沙に近し ベんこう (注目)何か基づくところあるのか、不明。河口は、今の湖北省武漢市。漢水 ほ ん こ う が長江に注ぐところ。焚口は、湖北省都城市の西。焚水が長江に注ぐと こ ろ 。 ( 注 U ) ﹃字葉﹄に見える。なお、鈴木虎雄﹁杜少陵詩集 L ( 巻二十二)は、仇 兆禁の詳註(巻二十二)に拠って、︿促﹀を﹁はやし﹂と訓じる。 (注目)稽程は、旅の日程が延ぴること。稽は、稽留の意。例えば、南戟梁・ 簡 文 帝 ( 粛 綱 ) の ﹁ 舟 を 出 向 べ て 大 江 を 横 ぎ る ﹂ 一 一 一 首 其 三 ( ﹃ 古 詩 紀 ﹄ 巻 七十七。﹃楽府詩集﹄巻=一十七は﹁臨西行﹂に作る)に﹁廻山時に路を 阻み、絶水返しば程を稽む﹂と。なお、鈴木虎雄﹃杜少陵詩集﹄は、詳 註によって︿繋帆﹀の︿繋﹀字を︿驚﹀に作り、﹁片時程﹂を﹁少時を け う と う き っ し う ふ う ら う 要する水路 L と解して、尾聯について﹁喬口・橘洲の風浪ははやい、だ ふ う は ん と からすこしのみちのりを風帆を飛ばしてそちらへおたづねすることは を 惜しむところではない﹂と説く。 (注目)種﹃集解﹄に侯り以て其のすて相会せんことを望む﹂と。また た の 郁宝﹃集注﹄(巻二十三二簡寄類)および醇益﹃分類﹄も郭に来訪を嘱 む意とする。これに対して、顧展﹃註解﹄に﹁察夢弼日く、橘洲は長沙 よ 郡の喬口に在り。公、郭が糧自り衡に到って、片時の程を惜しまざらん の み か へ ことを欲し、一会面を糞ふ耳と。愚、繋帆の二字を看るに、還って是れ 公 の 揮 に 在 り て 郭 を 候 す ﹂ 、 輯 註 に ﹁ 末 の 一 二 諾 乃 ち 固 定 れ 公 、 源 州 に 在 り 、 郭受を候す。夢弼︼謂へらく、公、郭の湾自り衡に到って己れを訪はんこ とを欲すと。恐らくは非なり﹂と。南宋・察夢弼の説は、その﹃草堂詩 袋﹄巻三十九に見える。﹃註解﹄および輯註は宇都宮遜庵の増広本にも 挙 げ る 。 ︿喬口﹀は、揮州の地名。公に﹁喬口に入る﹂と題する五言律詩が ある。その自註に﹁長沙の北界 L と。すべて支流の長江に入るとこ ろは、どれもこれを口という。河口・奨口いずれもこの類。そこに 中洲があって橘を産することから、それで︿橘洲﹀と名づけた。公 の舟はここに停泊した。︿促﹀は、催である。︿帆を繋ぐ﹀は、舟を 停めることである。これは暗に贈られた詩の後聯に答える。時に公 二宮俊博/津阪東陽「杜律詳解」訳注稿 は樺州より衡州に入らんとし、そこで郭受のもとに立ち寄って一度 面 会 し た い と 思 っ て い た の で 、 そ れ ゆ え 言 う 。 ︿ 風 ﹀ は 順 風 に し て ︿ 浪 ﹀ は穏やかで舟を発することを︿促﹀し、まさに︿喬口﹀を辞して、 さかのぼって衡陽に赴こうとした。とすればきっと舟を︿繋﹀いで 訪問するはずで、日︿程﹀をとどめられることを惜しまないのであ る。旧註に公が郭受の来訪を望むとするのは、よくない。 間小寒食舟中ノ作 ( 注 2 ) 此 亦 在 計 揮 州 一 一 市 寒 食 ハ 去 コ ト 冬 至 ↓ 一 百 五 日 、 在 二 清 明 前 二 日 一 一 一 。 凡 禁 サ コ ト 火 三 日 、 至 -U 明 ノ 日 一 乃 取 コ 新 火 ↓ 用 レ 之 ヲ O 蓋 使 一 一 天 下 ヲ シ テ 改 一 レ 火 ヲ 、 周 之 蓄 制 也 。 品 加 齢 ニ 司 垣 氏 仲 春 以 一 一 木 鐸 ↓ 街

w

火 ヲ 禁 コ 於 圏 中 一 一 O 言 = 一 預 シ メ 令 コ ル ヲ 季 春 断 レ 火 ヲ 之 禁 ↓ 也 。 唐 ノ 時 火 禁 尤 巌 ナ リ 。 犯 ス 者 ハ 皆 罪 レ ( 詰 5 ) 之 ヲ 。 後 至 -一 元 ノ 代 一 一 、 始 テ 除 コ 是 禁 ↓ 。 蓋 至 後 一 百 五 日 ヲ 矯 一 一 大 寒 食 ト 、 ( 注 6 ) 小 寒 食 ハ 其 終 之 日 也 。 看 計 首 匂 ↓ 自 明 ナ リ 0 或 ハ 以 鴬 UJ 前 一 日 ↓ 、 如 一 一 小 至 小 除 之 謂 づ 、 誤 レ リ 失 。 h o 鳩 山 市 h u ( 注 1 ) 部停﹃集解﹄に﹁大暦五年、公復た浬州に在り、率ね舟居す﹂と。醇 益 可 分 類 ﹄ ( 巻 一 一 。 節 序 ) も 同 じ 。 なお、胡焚亭﹃唐詩貫珠﹄(巻四十九、寒食)は﹁此の詩、本集井ぴ に諸家慨に称すらく是れ公調停州に在りて舟居せしときの作と。然れども 細かに詩径を詳らかにするに、当に是れ襲峡の聞に在りしときの作なる べ し ﹂ と い う 。 (注2)宇都宮、遜庵の増広本に﹃文苑棄僑﹄(巻三、歳時部、寒食)の﹁冬至 を去ること一百五日、即ち疾風甚雨有り、之を寒食と日ふ。暦に拠れば 併に清明の前二日に在るぺし﹂というのを挙げる。これは﹃荊楚歳時記﹄ の 記 述 に 拠 る 。 ( 注 3 ) 宇都宮遜庵の詳説に﹁周礼に仲春に火禁を国中に修む。註に季春将に ため 火を出さんとする為なり﹂と。これは明・謝肇湖(字は在杭。一五六七 j 一 六 二 四 ) の ﹃ 五 雑 組 ﹄ 巻 二 、 天 部 二 の 記 述 に 基 づ く 。 ﹃ 周 礼 ﹄ は 秋 官 ・ 司短氏に﹁中春に木鐸を以て火禁一を国中に修む﹂と見える。その鄭玄の 注に﹁火禁は、火を用ふるの処及び風燥に備ふるを謂ふ﹂と。

(6)

文化情報学部紀要,第 13巻, 2013年 ( 注 4 ) 明・楊慎(一四人人 j 一五五九)の﹃丹鉛総録﹄巻二寸時序類、寒食 火禁の条に﹁元穣が連昌宮詞の自注に、京城寒食の火禁、鶏羽を以て灰 に入れ焦げる者有らば訪日之を罪すと﹂と。明・張鼎思(一五四三

1

一 六 O 三)の﹃部邪代酔編﹄巻三、禁火の条にもこれを挙げる。但し、 中唐・元積(七七九

1

入 一 一 一 一 一 ) の ﹁ 連 昌 宮 詞 ﹂ ( ﹃ 元 氏 長 慶 集 ﹄ 巻 二 十 四 、 ﹁全唐詩﹄巻四一九)に﹁初めて過ぐ寒食一百六、庖舎煙無く営樹緑な り L という句はあるが、かかる自注は見えない。 ( 注

5

)

前の(注 4 ) に挙げた守丹鉛総録﹄に﹁元人の天下を都ちて島り、酢 奔の政なり。然れども寒食に必ずしも復た火を改めず。乃ち先宣(孔子) 天道を節宣する者にして元人に因って之を廃す可けんや﹂と。﹃部邪代 酔編﹄にもこれを挙げるが、文字に異同がある。歯奔は、でたらめ。節 宣 は 、 う ま く 調 整 す る 。 ( 注 6 ) 顧震守註解﹄に﹁小寒食は、小至の類の如く、寒食の前一日なり﹂と。 宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。小至は、冬至の前日。小除は、除夜の 前 日 。 これもやはり揮州での作。︿寒食﹀は冬至から一百五日、清明節の 前二日にある。すべて火を禁ずること一一一日、清明の日に至って、よ うやく新しい火を取ってこれを用いる。けだし天下に火を改めさせ るのは、周代の旧制であろう o ﹃ 周 礼 ﹄ に ﹁ 司 恒 氏 は 仲 春 に 木 鐸 を 振 っ と な て火を御へて国中に禁ず﹂と。あらかじめ季春に火を断つという禁 令をふれさせるのを言うのである。唐の時代は火を禁ずることがと りわけ厳重であった。犯す者は皆これを処罰した。後に元代に至っ て、やっとこの禁令を除いた。けだし冬至の後一百五日を大寒食と し、︿小寒食﹀は、その終りの日である。首匂をみれば自ら明らか である。或いは前一日とし、小至・小除の謂のごとくであるとする の は 、 誤 ま り だ 。 ( 注 7 ) 佳辰強猷ンテ食猶寒シ隠げん一藷除雪鶴冠↓ ( 注 9 ) 強 上 聾 。 飲 ハ 謂 レ 飲 レ 酒 ヲ o 強 飲 ハ 言 下 苦 ニ 其 寒 冷 寸 麹 強 γ テ 吸 飲 幻 ル ヲ 也 。 ( 注 目 ) 食 ノ 即 下 物 。 寒 食 ノ 本 日 鼠 ニ 過 、 次 日 猶 未 レ 可 レ 血 中 レ 火 ヲ 、 宿 食 冷 餐 、 ( 注 日 ) ( 註 四 ) ( 註 臼 ) 不 レ 堪 二 寒 酸 一 一 。 故 ニ 日 一 一 猶 寒 寸 。 謄 ハ 恵 也 。 孟 子 ニ 隠 げ 九 ニ 而 臥 ス 、 荘 子 ニ ( 注 H ) ( 注目) 隠 円 九 ニ 而 坐 ス 、 皆 言 ニ 悠 悠 之 扶 ↓ 。 犠 ハ 似 け リ 雑 一 一 、 国 備 冠 ハ 隠 士 之 冠 σ 劉 向 肱 削 除 ニ 構 冠 子 居 一 一 深 山 一 一 、 以 -一 鶴 羽 一 ノ 矯 レ 冠 ト 0 此 嘆 日 ル 隠 論 寂 実 、 無 コ ( 注 口 ) 人 奥 ニ 慰 叩 也 。 社 臆 ニ ニ ム 、 案 、 食 禁 は ル コ ト 火 ヲ 三 日 、 謂 一 一 至 後 一 百 四 日 五 日六日寸乃知小寒食ハ是六日ナリ o 綿 テ 在 ニ 三 日 ノ 内 一 一 、 故 ニ エ デ 一 佳 辰 寸 。 次 日 清 明 、 始 テ 有 二 新 火 一 、 故 ニ 云 一 一 食 猶 寒 ↓ 。 ( 注 7 ) ︿ 飲 ﹀ 字 、 銭 注 ( 巻 十 人 ) は ︿ 飯 ﹀ に 作 り 、 ﹁ 一 に 飲 と 云 ふ ﹂ と 。 ( 注 8 ) ︿戴﹀字、銭注および輯註(巻三十)は︿帯﹀に作る。 ( 注 9 ) ちなみに、部停﹃集解﹄には﹁平声、盛なり﹂と注する。これに対し て、醇益﹃分類﹄は﹁強は勉強なり﹂と。勉強(無理やり)の意のとき は 上 声 。 (注目)下物は、酒の肴 o ﹃世説新諾﹄豪爽篇に﹁此の如き下物有り、一斗多 しとするに足りず﹂と。釈大典の﹃学語編﹄に﹁サカナ﹂。 ( 注 目 ) ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ に ﹁ 隠 は 滋 な り ﹂ と 。 ( 注 ロ ) ﹃ 孟 子 ﹄ 公 孫 丑 下 に ﹁ 凡 に 隠 っ て 臥 す し と 。 ( 注 日 ) ﹃ 荘 子 ﹄ 斉 物 論 篇 に ﹁ 南 郭 子 碁 九 に 隠 っ て 坐 し 、 天 を 仰 い で 嘘 す ﹂ と 。 ( 注 M H ) ﹃説文解字﹄に﹁犠は維に似たり。上党より出づ﹂と。 (注目)醇益﹃分類﹄(巻三、節序)に﹁鵜冠は隠士の冠。勇維の毛を以て冠 と為す。古に梯冠子有り L と。宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。 (注目)﹁文選﹄巻五十四、南朝梁・劉孝標﹁弁命論﹂に﹁鵜冠寝耳臓は必ず天 に懸りて期有り﹂とあり、その李善注に﹁七略に鵜冠子なる者は叢し楚 人 な り 。 常 に 深 山 に 居 り 、 田 怖 を 以 て 冠 と 為 す 。 故 に 鵜 冠 と 日 ふ ﹂ と 。 (注口)仇兆禁の詳註(巻二十一二)に引く明・王嗣爽(一五六六

i

一 六 四 人 ) の ﹃ 杜 臆 ﹄ に ﹁ 広 義 注 に 寒 食 火 を 禁 ず る こ と 一 一 一 日 、 至 後 の 一 百 四 日 五 日 六日を語ふと。乃ち知る小寒食は是れ六日なり。総べて三日の内に在り。 故に佳辰と云ふ。次の日は清明、始めて新火有り、故に食猶ほ索、し。火 を禁ずれば則ち酒も亦寒し、故に強飲と云ふ﹂と。広義は、明・源開応京 撰・明・戴任注﹃月令広義﹄のこと。その巻七、コ一月令、節令の﹁断火 一 一 一 日 ﹂ の 項 に ﹁ 冬 至 を 去 る こ と 一 百 四 日 五 日 六 日 を 謂 ふ な り ﹂ と 。 ︿強﹀は、上声。︿飲﹀は、酒を飲むこと。︿強飲﹀は、その実、冷を 苦しみ無理やり吸飲するのを言うのである。︿食﹀は、とりもなお さず下物(酒の肴)のこと。寒食の今日はすでに過ぎ、次の日もな

(7)

おまだ火を挙げることができず、宿食冷餐(作り置きの冷えた食べ

もの)は、寒酸(わびしさ)にたえない。それゆえ︿猶ほ寒し﹀と

いう。︿隠﹀は、患である。﹃孟子﹄に﹁九に隠って臥す¥﹃荘子﹄

に﹁凡に隠って坐す﹂と。いずれも悠悠の状(所在ないありさま)

j o

︿鶴﹀は、維に似る。︿鵜冠﹀は、隠士の冠。劉向﹃別録﹄

に﹁鵜冠子は深山に居り、国備羽を以て冠と為す﹂と。これは隠論寂

実(世に用いられずひっそり)として、慰めてくれる人のないこと

=

冬至後の一百四日五日六日をいう。それで小寒食は六日だとわかる。

すべて三日の内にあり、それゆえ︿佳辰﹀と云う。次の日は清明で、

そこではじめて新たな火を起こす、それゆえ︿食猶ほ寒し﹀と云

︿

O

( 世 且 )

-一

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( 世 田 )

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-、

2

( 注 刊 日 ) 容 与 は 、 ゆ ら ゆ ら と す る さ ま 。 双 声 語 。 戦 国 楚 の 屈 原 ﹁ 九 章 ﹂ 渉 江 ( ﹃ 楚 辞 ﹄ 巻 四 、 ﹃ 文 選 ﹄ 巻 三 十 三 一 ) に ﹁ 舟 は 容 与 と し て 進 ま ず 分 ﹂ と 。 ( 注 目 ) ち な み に 、 ﹃ 夜 航 詩 話 ﹄ 巻 四 に は ﹁ 模 糊 を 模 に 作 り 、 欄 漫 を 燥 に 作 る 、 あ ま

b

E

よ 街ぐ字書を考ふるに、従り此の字無し。蓋し糊は米に従ひ、嫡は火に従 ふに因り、模漫の左文従って枕するのみ L 云 々 と 指 摘 し て い る 。 (注却)葬微は、ちらつくさま。畳韻語。訳注稿閥、脳﹁曲江酒に対す﹂詩の 第二句に﹁水晶殿転た葬微﹂とあり、東陽は﹁チラック﹂と左訓を施し、 詳解に﹁雰微は本と雨雪雰たる貌。因って望迷の状を言ふ L と 説 く 。 か い が (注幻)健俄は、傾き類れるさま。双声語。﹃世説新語﹄容止篇に山濡が替康 を評して﹁其の酔うや、健俄として宝山の将に崩れんとするが若し﹂と。 二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿 (注沼)﹃集千家註﹄(巻二十)に﹁山谷が日く、前人の詩に︿水面の船は天上 に坐するが如し﹀と。杜公、一︿春﹀字に改めて精神畑然たり。鉄を点 し金と成すと謂ふ可し﹂と。宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。但し、黄 山 谷 ( 名 は 庭 竪 。 一

O

四 五

1

一 一

O

五)の集には見えない。また前人の 詩も未詳。︿点鉄成金﹀は、前人の何でもない凡庸な詩句に少し手を加 えて妙匂にすること。山谷の﹁洪駒父に答ふる童百三首﹂其二(守議章黄 先生文集﹄巻十九)に﹁古の能く文章を為る者は、真に能く万物を陶冶 す 。 古 人 の 陳 一 言 を 取 り て 翰 墨 に 入 る と 難 も 、 霊 丹 一 一 粒 の 如 く 、 鉄 を 点 し て 金 を 成 す な り ﹂ と 見 え る 。 ちなみに、明・楊慎﹃丹鉛総録﹄巻十九、詩話類、社詩奪胎之妙に﹁陳 う か の僧慧標が︽水を詠ず︾詩に︿舟は空裏に泥ぶが如く、人は鏡中に行く に似たり﹀、沈住期が︽釣竿の篇}に︿人は天上に坐するが如く、魚は 鏡中に懸かるに似たり﹀と。杜詩に︿春水の船は天上に坐するが如く、 老年の花は霧中に看るに似たり﹀は、二子の匂を用ふると難も、而れど も壮麗之に倍す。奪胎の妙を得たりと詣ふ可し尖﹂と。度会末茂﹃杜律 評 叢 ﹄ に も 挙 げ る 。 (注お)李白﹁別れを送る、書の字を得たり﹂詩(﹃分類補註李太白集﹄巻 十人)の首聯に﹁水色南天遠く、舟行きて虚に在るが若し﹂と。 ( 注 M ) 宋 ・ 朱 弁 ( 字 は 少 章 。 一 O 人 五

1

一 一 四 四 ) の ﹃ 風 月 堂 詩 諮 問 ﹄ 巻 下 に 、 晃貫之(字は季この一言として、蘇執が海栄を詠じた﹁雨中涙有り亦た 凄恰、月下人無く更に清寂﹂の匂について、自ら﹁此の両句は乃ち吾れ ぉ 造化窟中に向いて奪将し来たる﹂と語ったという。︿将﹀は、接尾辞。 また﹃夜航詩話﹄巻一にも、杜甫の五律﹁春夜章氏の荘に宴す﹂(正し くは﹁夜、左氏の荘に宴す﹂詩。詳註巻二について、﹁︿暗水春星﹀の 一聯の如き、則ち真に造化窟中に向いて奪将し来たる﹂と。なお、︿造 化窟﹀の諾は、社甫の﹁画鵠行﹂(詳註巻六)に﹁乃ち知る商師の妙、 巧みに造化の窟を郁り、此の神俊の姿を写して、君が眼中の物に充つる を ﹂ と 見 え 、 吉 川 幸 次 郎 ﹃ 社 甫 詩 注 ﹄ 第 五 冊 ( 筑 摩 書 一 一 房 、 一 九 八 三 年 ) に﹁自然の神秘の奥深い貯蔵処﹂と説く。

︿春水﹀はひろぴろと広がり、︿舟﹀はゆらゆらと空に乗ずるかの

ようである。︿老﹀眼は模糊(ぼんやり)とし、︿花﹀は葬微(ちら

ちら)として︿霧﹀を含んだようである。酔郷潤漫(とっぷりとし

(8)

しきも申 た酔い心地)のありさまを写す。上句は波平らかにして席のようで あるのをあらわし、そうして酔態の健俄(ぐらぐら揺らぎ)たるさ まはそのなかにある。黄山谷が云う、﹁前人の詩に︿水面の船は天 上に坐するが如し﹀とあり、公は︿春﹀の一字に改めて、精神畑然 (目が覚めたように生き生き)たり。鉄を点じて金と成すといえよ う﹂と。私の思うに李太白の﹁舟行きて虚に在るが若し﹂は、この 匂に比べると、まったく子供の語にすぎない。けだしこの一聯は津 然たる天然の巧みさで、真に造化窟中から奪い取って来たものであ る 。 文化情報学部紀要,第13巻.2013年 婿 揖 タ ル 戯 蝶 過 一 面 閑 慢 ↓ 片 片 ノ 軽 鴎 下 一 一 急 浦 ↓ ( 注 括 ) ︹ 注 甜 ﹀ ( 設 計 } 娼 絹 ハ 美 潔 ノ 貌 σ 幌 ハ 舟 幕 也 。 片 片 ハ 寓 コ 其 軽 キ 扶 ↓ 。 二 物 皆 乗 W テ 春 ニ 得 ( 注 甜 ) 其 所 ↓ 而 自 遁 ス 、 亦 可 = 一 以 資 コ 飲 輿 ↓ 也 。 奮 註 ニ 二 聯 皆 粛 候 之 感 ト 、 非 也 。 張 文 法 継 ) 志 ニ 云 、 公 ノ 父 名 ハ 閥 、 詩 中 無 ニ 閑 ノ 字 一 。 王 仲 至 ヵ 家 賓 ﹁ 古 本 ノ 杜 詩 一 。 閑 幌 本 作 一 面 開 慢 一 -。 謂 一 一 舟 中 開 一 レ 慢 ヲ 、 因 テ 見 ニ 蝶 ノ 過 ↓ 也 。 案 ス ル ニ 開 ト 奥 レ 急 、 以 ニ 開 合 綾 急 ヲ 封 也 。 是 自 一 種 ノ 封 法 、 余 於 一 一 夜 航 議 抑 止 一 一 建 一 連 レ 之 ヲ 。 ( 注 お ) ち な み に 、 訳 注 稿 回 、 脚 ﹁ 狂 夫 ﹂ 詩 の 詳 解 に は ﹁ 嫡 嫡 は 折 好 の 貌 ﹂ と 。 ( 注 M m ) 輯註に﹁慢は舟幕なり﹂と。宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。 (注幻)顧展﹃註解﹄に﹁片片は軽き状を写し出す﹂と。宇都宮遜庵の増広本 に も 挙 げ る 。 (注お)部停﹃集解﹄に﹁二聯は皆粛条の感なり﹂と。 (注却)輯注に﹁按ずるに子美の父名は閥、古は問字通じて閑に作る。詩中間 字を避けず。蓋し文に臨みて韓まざるなり。張文潜雑志に云ふ。王仲至 の家に古本の社詩有り、閑隈本と関慢に作る。舟中慢開き、因って蝶過 ぐるを見るを謂ふなりと。説亦た通ず﹂と。宇都宮遜庵の増広本にも引 く。張文潜は、北宋・張来(字は文潜、一 O 五 四

i

一 一 一 四 ) の こ と 。 王仲至は、﹃社工部詩集﹄二十巻を編んだ王沫(字は原初。九九七 j 一 O 五七)の子、王欽臣(字は仲至)のこと。張来の﹃明道雑志﹄に次 の よ う に 見 え る 。 ぞ れ が し 社甫の父名は閥、而して甫詩に閑を議まず。某館中に在りし時、同 し ほ お も 舎屡しば論じて此に及ぶ。余謂へらく甫は天姿忠孝に篤し、父の名に 於いて巴むを獲ざるに非ざれば、宜しく言ふに忍びざるべしと。試み h 6 博 凶 -V A 回 忌 L d 喝 に王仲至に問うて之を討論するに、果たして其の由を得、大都本と誤 るなり。﹁寒食﹂詩に云ふ、﹁田父遜皆去、郷家閑不違﹂(田父蹴へて 皆 去 り 、 郊 家 関 し て 違 は ず ) と 。 仲 至 家 に 古 写 本 の 杜 詩 有 り 、 ︿ 間 不 違 ﹀ に 作 る 。 ︿ 問 ﹀ に 作 る は 実 に ︿ 閑 ﹀ に 勝 る 。 又 た ﹁ 誇 将 ﹂ 詩 に 云 ふ 、 ﹁ 見 げ ん せ ま 愁汗馬西戎逼、曾閃朱放北斗関﹂(見に愁ふ汗馬西戎の遥るを、曾て 朱 族 に 閃 め い て 北 斗 闘 な り ) と 。 写 本 は ︿ 股 ﹀ 字 に 作 る 。 亦 た 理 有 り 、 語更に雄健。又た﹁嬬婿戯蝶過閑幌、片片驚鴎下急補﹂(婿婿たる戯 蝶閑慢を過ぎ、片片たる驚鴎急滞を下る)と有り、本と︿閲鰻﹀に作 た ︿ み る 。 ︿ 開 腹 ﹀ 語 更 に 工 に し て 、 幌 を 関 く に 因 っ て 蝶 の 過 ぐ る を 見 る な り 。 た ま さ 惟だ﹁韓幹函馬賛﹂に﹁御関敏﹂と有り、写本に異説無し。容に是れ し か ︿ 開 敏 ﹀ な る べ し と 難 も 、 而 れ ど も 礼 に 卒 突 す れ ば 乃 ち 韓 む 。 ﹁ 馬 賛 ﹂ は、容に是れ父在りしとき為る所なるべきなり。 ﹁寒食﹂詩は、詳註巻十。但し、︿滋﹀字、銭注(巻十一)および輯註 (巻入)それに詳註は︿要﹀に作る。音義同じ。また︿閑﹀字、銭注は ︿ 閥 ﹀ に 作 り 、 ﹁ 普 は 問 に 作 る ﹂ と 注 す る 。 輯 註 お よ び 詳 註 は 、 ︿ 問 ﹀ に 作り、﹁一に闘に作る﹂と注する。﹁諸将﹂詩は、五首のうち其一。詳註 巻 十 六 。 訳 注 稿 刷 、 例 参 照 。 ﹁ 韓 幹 画 馬 賛 ﹂ は 、 詳 註 巻 二 十 四 。 但 し 、 ﹁ 画 馬賛﹂に作る。また︿御﹀字の下に︿者﹀字がある。︿卒突すれば乃ち 韓む﹀は、﹃礼記﹄曲礼上に見える。埋葬を終わって虞の祭を行なった あ と 、 死 者 の 名 を 諌 む 。 ( 注 加 ) ﹃ 夜 航 詩 話 ﹄ に は 見 あ た ら な い 。 き ょ ︿ 娼 娼 ﹀ は 、 美 し く 諜 ら か な さ ま 。 ︿ 幌 ﹀ は 、 舟 の 幕 で あ る 。 ︿ 片 片 ﹀ は、その軽やかな様子を写す。(蝶と鴎との)二物はいずれも春に 乗じて恰好の居場所を得て自適する、やはりそれで飲酒の輿をたす けることができるのである。旧註に二聯はいずれも︿粛条﹀(ひっ そりとわぴしい)の感とするのは、よくない。張文潜の﹃雑志﹄に 云う、﹁公の父、名は閥、そのため詩中に︿閑﹀の字がない。王仲 至の家に古本の杜詩があり、︿閑慢﹀はもと︿開幌﹀に作る。舟中

(9)

白 日 幌を開くのをいう。それで蝶の過ぎるのを見るのである﹂と。案ず るに︿開﹀と︿急﹀とは、開合経急で対偶となる。これ自体で一種 の対句法。私が﹃夜航詩話﹄において詳しくこれを述べている。 (注担)' 雲 白 ク 山 青 シ 高 齢 里 愁 看 λ 直北是長安 此 眼 コ 第 二 句 一 一 一 、 粛 候 帳 望 、 雲 山 高 里 、 長 安 不 レ 見 へ 、 傷 レ 目 ヲ 槍 レ 紳 ヲ 、 強飲之興、忽醒テ索然タリ o 蓋 亦 一 段 対 仰 い 忘 、 所 レ 謂 花 ニ モ 機 九 蹴 f 也 。 且 夫 寒 食 清 明 ハ 、 京 師 花 盛 ナ ル 之 候 、 行 幾 繁 華 之 目 、 尤 所 -一 以 不 一 レ 勝 -一 想 望 一 一 也 。 ( 注 目 品 ) ︿ 愁 ﹀ 字 、 部 宝 ﹃ 集 註 ﹄ ( 巻 三 十 三 、 時 序 類 ) お よ び 醇 益 ﹃ 分 類 ﹄ は ︿ 遥 ﹀ に 作 る 。 いはゆる (注沼)醇益﹃分類﹄に﹁末は雲山の逮きに感じて長安を望む。所謂身は江湖 に し て 心 は 貌 閥 、 一 飯 も 君 を 忘 れ ざ る 者 か ﹂ と 。 ︿ 貌 閥 ﹀ は 、 宮 殿 、 朝 廷 。 守 荘 子 ﹄ 譲 王 篇 に ﹁ 身 は 江 湖 の 上 に 在 り 、 心 は 貌 闘 の 下 に 居 る ﹂ と 。 ︿ 一 飯 ﹀ 云 々 は 、 北 宋 ・ 蘇 試 の ﹁ 王 定 国 詩 集 叙 ﹂ に 見 え る 語 。 訳 注 稿 ハ 円 、 ﹁ 杜 文貞公伝 L の ( 注 山 田 ) 参 照 。 ( 注 お ) ﹁ 春 望 ﹂ 詩 ( 詳 註 巻 四 ) の 第 三 句 。 これは第二句にぴたつとついて、粛条(うら寂しく)懐望すると、 ︿雲﹀︿山﹀は万里も連なり、︿長安﹀は見えず、目を傷め神(ここ ろ)を恰める。︿強飲﹀の興は、ふと醒めてあじけなくなる。けだ そ そ しやはり二飯も忘れず﹂、いわゆる﹁花にも涙を漉ぐ﹂である。 み や こ それにそもそも寒食・清明は、京師(長安)では花盛りの候、行楽 繁華の日で、どうしてもこらえきれずそのありさまを心に描いてつ いつい懐かしく思ってしまうゆえんである。 二宮俊博/津阪東陽「杜律詳解』訳注稿 切 燕 子 来 コ 舟 中 一 一 作 揮 州 ノ 舟 居 、 燕 子 来 テ 止 コ 帆 橋 一 一 、 因 テ 感 シ テ 而 詠 サ 之 ヲ 也 。 つ ば め 揮州の舟居に︿燕子﹀が来て帆楕(ほばしら)に止まった。 心感じてこれを詠ずるのである。 それで 燕 子 街 げ 泥 ヲ 両 度 新 ナ リ 湖 南 属 げ 客 卜 動 モ ス レ ハ 経 レ 春 ヲ ※ 動 : ・ エ テ ハ 樟 州 在 二 洞 庭 ノ 南 畔 一 一 、 故 ニ 稿 コ 湖 南 寸 。 大 暦 臨 炉 、 公 自 一 一 岳 陽 一 入 一 一 揮 州 一 一 、 事 テ 如 ニ 衡 州 一 一 、 未 レ 幾 ナ ラ 復 同 一 揮 州 一 一 、 五 年 春 佑 次 コ 子 此 一 一 o 故 ニ ( 主 2 ) 日 二 動 モ ス レ ハ 経

γ

春 ヲ O 動 ハ 者 言 -一 事 之 易 イ レ 然 リ 0 経 い 春 ヲ 言 レ 度 日 三 春 ↓ 。 公 去 年 抵 ニ 在 円 揮 ニ 経 レ 春 ヲ 、 今 春 再 タ ヒ 在 レ 揮 ニ 、 靴 復 勝 目 経 口 ト 春 ヲ 子 此 一 一 。 恐 ラ ク ハ 終 ニ 掩 滞 シ テ 不 レ 能 レ 有 マ 行 コ ト 也 。 考 コ ニ 公 ノ 住 都 ↓ 、 是 歳 公 欲 下 往 一 J 柳 州 一 板 門 男 氏 崖 少 府 与 四 月 再 タ ヒ 入 一 一 衡 州 一 一 、 復 同 テ 次 損 保 ニ 遂 卒 ス O ( 注 4 ) 此 所 三 以 憂 一 一 其 不 古 呆 レ 行 コ ト ヲ 也 。 春 ノ 字 引 一 一 出 ス 燕 ノ 字 ↓ 、 街 い 泥 ヲ 管 レ 巣 ヲ 也 。 雨 度 新 ナ リ ト ハ 言 下 自 レ 来 日 シ 子 湖 南 一 一 、 春 燕 之 街 レ 泥 ヲ 、 巳 ニ 見 付 一 同 度 新 ニ 来 以 ヲ 也 。 ( 注 1 ) 宇都宮遜庵の増広本に引く明・単復の年譜の大暦四年の条に﹁正月、 よ タ い ︿ ぱ 岳州白り湾州にたく。未だ幾くならずして衡州に入る。夏、熱を畏れて 復た潔州に配る L 、大暦五年の条に﹁公年五十九。春、湾州に居る﹂と。 ( 注 2 ) 釈 大 典 ﹃ 詩 語 解 ﹄ 巻 下 、 動 の 条 に ﹁ 又 転 シ テ 為 川 事 之 易 訂 然 リ ﹂ と 。 但 し 、 ﹃ 話 語 解 ﹄ で は さ ら に ﹁ 又 転 シ テ 為 川 事 之 易 ず 移 リ ﹂ と の 解 を 示 し て 、 こ の 匂 を 挙 げ 、 ︿ 動 ﹀ 字 を ﹁ タ チ マ チ ﹂ と 訓 ず る 。 ちなみに、訳注稿剛、間﹁許八に因って江寧の受上人に奉寄す﹂詩の や や 第五句に﹁棋局動もすれば随ふ幽澗の竹﹂とあり、﹁マタシテモ﹂と左 ご と つ ね 訓を施し、詳解に﹁動は動く毎に必ず然るを謂ふ。猶ほ毎に屡しばと言 ふがごときなり﹂と。その(注目)も参照。 ( 注 3 ) 明・単復の年譜、大暦五年の条に(注 1 ) に挙げた箇所に続けて﹁夏 ち ゅ 四月、戚扮の乱を避けて衡州に入る。柳︹榔︺州に如きて男氏自怯偉に依 らんと欲す。来︹来︺陽に至って卒す L 柳 州 の ︿ 柳 ﹀ 字 は ︿ 榔 ﹀ の 、 ︿ 来 ﹀ 字 は ︿ 来 ﹀ の 誤 り 。 榔 州 は 、 今 の 湖 南 省 榔 州 市 。 男 氏 は 母 方 の お じ 。 ﹁ 三 十 三 男 録 事 の 榔 州 を 摂 す る を 奉 送 す ﹂ 詩 ( 詳 註 巻 二 十 三 一 ) が あ り 、 題 下 に ﹁ 崖 偉 ﹂ と 注 す る 。 ( 注 4 ) ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ ( 巻 五 十 四 、 禽 一 一 ) に ﹁ 春 の 字 は 燕 の 字 を 引 き 出 す ﹂ と 。 揮州は洞庭湖の南畔にあり、それゆえ︿湖南﹀と称する。大暦四年 (七六九)、公は岳陽より揮州に入り、ついで衡州にゆき、ほどな

(10)

文化情報学部紀要,第13巻.2013年

く揮州にもどり、五年春にはやはりそのままここに滞留した。それ

や や ふ

ゆえ︿動もすれば春を経﹀という。︿動﹀とは、事態のそうなりゃ

みつき

すいのを言う。︿春を経﹀は、三月の春をすごすのを言う。公は去

年すでに揮州にあって︿春﹀を︿経﹀、今春再び揮州にあって、ま

たしてもまさに︿春﹀をここに︿経﹀ょうとしている。おそらくは

最後まで掩滞して行くことができなかったのである。公の年譜を考

えるに、この歳、公は柳[榔]州に往き母方のおじ塵少府に頼ろう

とし、四月再び衡州に入り、また引き返して揮州に次(やどり)し、

そのまま卒した。これはその行を果せなかったのを憂えるゆえんで

︿

︿

︿

︿

を営むことである。︿両度新たなり﹀は、︿湖南﹀に来てから、春燕

の︿泥を街﹀えたのが、もはや二度︿新たに﹀来るのを見たことを

{ 注 5 }

J

※嘗識・:ミオホエテイル遠看・:ミマフ

-一

︿ 注 7 )

(

-、

w

w

=

B ︹ 注 8 )

-一

( 注 9 )

O

遁(見

2

γ

( 注 5 ) ︿ 嘗 ﹀ 字 、 銭 注 ( 巻 十 人 ) は ︿ 常 ﹀ に 作 る 。 音 義 と も に 同 じ 。 ( 注 6 ) 宇都宮遜庵の詳説に﹁社日ハ春社也。燕ハ春ノ社日ニ来、秋ノ社日ニ 去﹂と。春の社日は、立春後の第五の戊の日。また秋の社日は、立秋後 の 第 五 の 戊 の 目 。 ( 注 7 ) 清・徐増﹃而庵説唐詩﹄(巻十九)に﹁旧と故閣に在るや、燕子来り 巣くふ、想ふに必ず我は是れ箇の主人なるを識らん﹂と。 ( 注 8 ) ﹃夜航詩話﹄巻五に﹁詩に得の字を用ふるは、其の得都からざるを謂 た て ま つ ふ な り 。 ( 中 略 ) 僧 貫 休 の 担 割 主 王 建 に 上 る 詩 に ︿ 一 瓶 一 鉢 垂 垂 と し て 老 い 、 千水千山得得として来る﹀、垂垂、老に投ずるの身を以て、其の来り易 からざるを陵ぎて至るを言ふ。猶ほ故故と言ふがごとし。東披の詩に ︿知る是れ多情得得として来る﹀、多情の二字は、即ち得得の由、王建 の深く喜ぶ所以なり﹂と。また﹃夜航徐話﹄巻上にも貫休の詩を挙げて ﹁ 字 典 ニ 得 得 ハ 唐 人 ノ 方 言 猶 ニ 特 地 一 也 ト ア リ 。 ( 中 略 ) 得 得 ハ 、 ワ ザ / ¥ ト 訳 ス ﹂ と い う 。 字 典 は 、 ﹃ 康 照 字 典 ﹄ 。 の 晩唐五代の詩償責休(人三二

1

九 一 一 一 ) の 例 は 、 ﹁ 情 を 陳 べ 萄 の 皇 帝 に献ず﹂詩(﹃禅月集﹄巻二十、﹃全唐詩﹄巻人三五)。貫休が王建に詩 を 投 じ た 故 事 は 、 北 宋 ・ 陶 岳 ﹃ 五 代 史 補 ﹄ 巻 一 や 南 宋 ・ 尤 表 ﹃ 全 唐 詩 話 ﹄ 巻六などに見える。北宋・蘇戦(東披)は、﹁再ぴ楊公済の梅花十絶に 和 す ﹂ 其 三 ( ﹃ 蘇 文 忠 誇 合 註 ﹄ 巻 三 十 三 ) の 結 句 。 ︿得得﹀は、唐宋の俗語。張相﹃詩調曲語辞匿釈﹄巻四、得得の条に は ﹃ 康 照 字 典 ﹄ を ふ ま え て ﹁ 得 得 は 、 猶 ほ 特 地 の ご と き な り ﹂ と い う が 、 豊田穣﹃唐詩研究﹄(養徳社、一九四八年)の﹁唐詩俗語孜﹂および塩 見邦彦﹃唐詩口語の研究﹄(中図書底、一九九五年)は、︿得得﹀を﹁人 の足音を形容する﹂語とし﹁テクテク﹂の訳語をあてる。 ( 注 9 ) ﹃唐詩貫珠﹄に﹁未だ必ずしも即ち是れ故園の燕ならず、然れども人 の物に触れ情深き、之を擬して故園を憶ふを為すに過ぎざるなり﹂と。 た ま (注日)﹃而庵説唐詩﹄に﹁適たま社日に当たって、却って遠く来たって人を 看る。子美舟居寂案、燕子を見て、空谷の足音に減ぜず、直ちに燕子を 把 っ て 旧 相 識 と 為 し 、 之 が 為 に 感 傷 す ﹂ と 。 ︿ 空 谷 足 音 ﹀ 、 ︿ 空 谷 建 音 ﹀ は 、 そ 予期せぬ喜びをいう。﹃荘子﹄徐無鬼篇に﹁夫れ虚空に逃るる者は、(中 略)人の足音の鷺然たるを聞いて喜ぶ﹂と。

︿

︿

︿

︿

︿

む か し

︿

︿

(

)

︿

︿

(11)

想うにきっと自分が︿主﹀人であったことを忘れずに︿識﹀ってい

るだろう。今、自分は︿舟中﹀にあり、ちょうど︿故国﹀を思って

おり、おりしも︿社日﹀にあたり、︿燕子﹀がやってきて帆柱に止

まり、耐献(ピイチイ)と語らう。︿故園﹀の燕が遠くやって来て

自分を見舞ってくれたのではなかろうか。それゆえ一言、っ、おまえは

その昔︿故園﹀に︿入﹀り私のところで︿巣﹀をかまえたやつであ

ろう。かつて︿主﹀人を見︿識﹀っているので、それゆえ︿社日﹀

の候であるから、そのため得得(わざわざ)やってきて訪ねてくれ

たのであろうか、と。これはいまだ必ずしも︿故園﹀の燕と同じで

はないが、人が物に触れ情に感ずるのは、かかる具合である。けだ

し公は舟居寂塞として、悶々と坐して日を過ごしていたのであろう。

おりしも︿燕子﹀のやってきて語るのを見、空谷の建音におとらず、

直ちに︿燕子﹀を旧相識(むかしなじみ)だとみなし、遠く来たっ

て自分を訪うとみなすに至った。自分を︿憐﹀れんでくれるのはひ

とり燕だけなのだ。痴想(たわけた想像)や閑議論(むだな議論)

で、すべては無珊(やるせなさ)中の語だ。

※処処・:コ、カシコ

鹿

O

( 在 ロ )

調

い 詮 日 )

w

ι

o

-一

O

抑其憐

h

( 在 H )

( 注 日 ) ﹃ 而 庵 説 唐 詩 ﹄ に ﹁ 燕 子 や 一 処 に 安 栖 す る を 得 ず 、 処 処 巣 を 居 室 に 塁 す ﹂ ﹀ ﹂ 。 く は (注ロ)顧官民﹃註解﹄に﹁古詩に双飛の燕と為らんことを思ふ、泥を蜘へて君 二宮俊博/津阪東陽『杜律詳解』訳注稿 が室に巣くふと﹂と。宇都宮遜庵の増広本にも挙げる。古詩は、守文選﹄ 巻 三 十 九 、 ﹁ 古 詩 十 九 首 ﹂ 其 十 二 。 (九在日)東陽が底本とした部停﹃集解﹄は︿居室﹀に作る。郁宝﹃集註﹄(巻 二十二一、禽虫類)・醇益﹃分類﹄(巻二、禽獣)・仇兆禁の詳註(巻 二 十 三 ) も 同 様 。 ﹃ 集 千 家 註 ﹄ ( 巻 二 十 ) ・ 銭 注 ・ 輯 註 ( 巻 二 十 ) ・ 顧 震 ﹃ 註 解﹄は︿君室﹀に作る。輯註の異同は、宇都宮遜庵の増広本に指摘す る 。 な お 、 ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ は ︿ 君 室 ﹀ に 、 ﹃ 而 庵 説 唐 詩 ﹄ は ︿ 居 室 ﹀ に 作 る 。 ( 注 U ) 顧展﹃註解﹄に﹁公、燕を憐れむは還って自ら憐れむなり﹂と。宇都 宮遜庵の増広本にも挙げる。

上の句は、︿泥を街む﹀に対応する。その一箇所に腰を落ち着け住

むことかなわず、毎年居を移して定まらないのを︿憐﹀れむのであ

る。︿君﹀は、燕になりかわって自ら名づける調。これを古詩の﹁双

飛の燕と為らんことを思ふ、泥を街へて君が室に巣くはん﹂に取る。

俗本に︿居室﹀に作るのは、よくない。下の句は、︿客と為る﹀に

対応する。公は江湖に瓢泊(さすらい旅)して、一扇舟に身を託して

いる、それゆえ心感じて自ら傷むのである。この一聯は、おまえは

︿処処﹀(ここかしこ)に︿巣﹀を営み、人の︿室﹀に身を寄せる、

やはり私の流寓が︿瓢瓢﹀(ふらふら)として定まらないようなも

ので、まことに︿憐れむ可し﹀と言うのである。けだし公は自らを

︿憐﹀れむことから、心感じて燕を︿憐﹀れむ。そもそもその燕を

︿憐﹀れむのは、かえって自らを︿憐﹀れむのである。

J

穿

(

:

穿

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( 注 目 ) 一

w

O

-一

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O

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( 注 目 )

燕掠

w水

(12)

文化情報学部紀要,第13巻.2013年

-、

w我

F

( 注 却 )

( 注 包 ) ( 産 担 )

-、

穿

w

燕之情態、敷語委曲摸寓シ得テ壷ス。腕端刻総

f

手段、抑亦詩意甚

( 注 田 )

-。

髄 噛

(注目)例えば、﹃論語﹄棄也篇に﹁中人以上には、以て上を語ぐ可きなり﹂ とあり、北宋・邪需の疏に﹁語は告語を謂ふ﹂と。 寸 企 は ( 注 凶 ) ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ に ﹁ 既 に 見 て 使 ち 去 る 、 尤 も 人 を し て 寂 実 た ら し む ﹂ と 。 (注臼)この言い方、訳註稿圃の前稿補訂参照。 (注四)銭注に﹁蒐徳機云ふ、善本は水に貼すに作る﹂と。また輯註に﹁輩出徳 機一玄ふ、善本は貼に作る﹂と。詳註も問様。輯註は、宇都宮遜庵の増広 本に挙げる。菰徳機は、元・沼棒(字は徳機。二一七二 j 一 一 一 一 一 一 一

O

)

の こ と 。 ﹃ 元 史 ﹄ 巻 二 三 七 に 伝 が あ る 。 但 し 、 そ の ﹃ 社 工 部 詩 菰 徳 機 批 選 ﹄ に は 見 あ た ら な い 。 ( 注 m m ) ﹃ 唐 詩 貫 珠 ﹄ に は 見 あ た ら な い 。 (注却)﹃而庵説唐詩﹄に﹁汝還た起ち去る、殊に欄憶を為す﹂と。 (注幻)額艇は、上に下に飛ぶさま。双声語。﹃詩経﹄枇風・燕燕に﹁燕燕刊 き飛ぴ、之を額し之を頑す﹂と。その毛伝および朱寒の集伝に﹁飛ぴて 上がるを額と日ひ、飛ぴて下がるを頑と日ふ﹂と。 し ち (注辺)差池は、ふぞろいのさま。畳韻語。﹃詩経﹄都風・燕燕に﹁燕燕子き 飛 ぴ 、 其 の 羽 を 差 池 す ﹂ と 。 朱 官 官 の 集 伝 に ﹁ 差 池 は 斉 し か ら ざ る の 貌 ﹂ ﹀ ﹂ 。 (注お)﹃而庵説唐詩﹄に﹁我は却って舟中に関坐し、燕子に如かざる多し。 う る ほ 沸 酒 の 巾 を 治 す を 覚 え ず 失 ﹂ と 。 (注担)﹃韓非子﹄外儲説左上に﹁宋人に燕王の為に、藤刺の端を以て母猿を 為らんと請ふ者有り﹂と。母猿は、獅猿。 (注お)﹃而庵説唐詩﹄に(注お)に挙げた箇所に続けて﹁子美の此の詩は、 長沙の鵬賦に異なること無し﹂と。長沙の鵬賦は、前漢・買誼(前 二

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前 一 六 人 ) の ﹁ 鵬 烏 の 賦 ﹂ ( ﹃ 文 選 ﹄ 巻 十 一 ニ ) の こ と 。 買 誼 が 長 沙(湖南省)に左遷された時の作であるから、かくいう。鵬はミミズク で 、 不 吉 な 烏 と さ れ る 。 ( 注 お ) ﹃ 而 庵 説 唐 詩 ﹄ に ( 注 目 ω ) に 挙 げ た 箇 所 に 続 け て ﹁ 子 美 の 律 は 此 に 終 る 。 年寄永からず、傷ましい哉﹂と。杜甫は、大暦五年(七七 O ) 、五十九 歳 で 没 し た 。

︿暫﹀字や︿還﹀字には、多くの感慨がある。︿語﹀は、人に向っ

て告語すること。︿燕子﹀はことさらに︿舟中に来﹀り、帽輔と相

語る。自分にたよって︿巣﹀を定めようとしているみたいだ。しか

るに語らいがまだ終わらぬうちに翻然(ひらり)として忽ち去る、

それゆえ︿還って起ちて去る﹀という。はなはだこれを惜しむので

ある。公は燕を︿憐﹀んで自ら傷み、欄慢(悲しみ身もだえ)して

涙が流れる。けだしすでに幾筋か流れたのだろう。見ればすぐに去

り、もっとも居たたまれない思いがする。それゆえ︿益ます巾を泊

す﹀という。目で見送ってこらえきれないのである。宿徳機が云う、

﹁善本は水に貼すに作る﹂と。この説が極めてよい。燕が水面を掠

めて低く飛ぶのが、波面に貼りついているかのようだというのであ

る。胡焚亭が云う、﹁結びは燕の去るのを惜しむ﹂と。その︿泥﹀

を︿街﹀え舟中に来たのは、思うに自分にたよって︿巣﹀を定めよ

うとしたからである。ただ︿椿﹀上にあって、︿暫﹀し︿語﹀って

たちまちまた翻然(ひらり)として飛ぴ去った。とりわけ伺慌たる

思いをなし、寂塞(さみしさ)にたえなくさせるが、また直ちに遠

くにはゆこうとはせず、かえってなお岸辺に傍い、額頑(上に下に

すいすい)と︿花﹀を︿穿﹀ち、差池(いれかわりたちかわり)と

︿水﹀面を掠め飛ぶ。自分を慰めてくれるつもりでそうしているか

のようだ。名残惜しくいつまでも目で見送って相惜しみ、一棋や鼻水

が︿巾を枯す﹀のに気づかない。燕の情態をば数語で事細かに摸写

して言い尽くしている。腕の先に猿を刻む手法だが、しかしながら

やはり詩意ははなはだ哀しく、長沙(貰誼)の﹁鵬の賦﹂に異なる

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