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現代社会のなかの「個人」 : その「原子論的個体性」と「人格性」

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(1)

現代社会 のなかの 「

個 人」

― そ の 「 原 子 論 的 個 体 性 」 と 「 人 格 性 」 ―

The "Individual" in our Contemporary Society

―His "Atomistic lndividuality" and "Personality"―

圓 増 治 之

Haruyuki Enzo

※ 目 次 1. は じめに 2. 1ndividuum"と しての 「個 人」 3. "Persona"と しての 「個人」 4. ブル ジ ョア的個人の原型 としての 「オデ ュッセ ウス

5. M君 の場合 6.問題提起 ・ X・キ-ワー ド

「大衆社会

(masssociety) mass く maza(パ ンのこね粉 ),massein(こねる) 「個人」・・・- 1ndividualくindividuum(inldividuum・・・not+divisible)〈atomon(原子)

・・・-・ anonymousな個人(anonym-an+onoma-wi thout+name)-outis(=noone) 「個人」-- Personくpersona(仮面 )くper(通 して)+sonare(音をたてる)

・・-・ pseudonym くpseudos(慶偽 )+onoma(名前) 「かたる」・・・「語る」、「編る」、「拐る」 1. は じめに 19世紀 のデ ンマークの宗教思想家キル ケゴール は、1846年 に出版 された或 る文学評論 (後 に一部 が 『現 代の批

A とい う題の もとに独訳 されて有 名 とな った) の なか で、19世 紀 中葉 当時 の時代 ●●●●●■■● について、 「現代は本質的に分別の時代 であ り、 ●■■●●●■●■●●●●■■●●■●●■● 反省の時 代であ り、情熱のない時代であ り、束 の ●●●●■■■●■●■●■●●●■■■●●● 間の感激 に沸 き立つ ことがあ って も、やがて抜け●●●●●■■●■●●●■●●●●■●■●■ 目な く無感動 の状態 にお さま って しま うとい った 時代 であ る

.

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と特徴づけてい る。 そ して、・この 「情熱 のない、分別 の時代」に於 いては、 「新 聞

が 「公衆 」 とい う幻影 をつ くりだす、 という 。 ここでキル ケゴールのい う 「公衆」 とは、なに 者 で も無 いよ うな抽象的な 「個人」の無定形 な寄 せ集め を意味 し、 したが って今 日い うところの 「大 衆」 (マス) とほぼ等 しい概念である。今 日、キルケ ゴールの時代 とは格段 の違 いで もって強 力、かつ 大規模 に、新 聞 をは じめ写真週刊誌、 テ レビな ど 「マ ス ・コ ミュニケーシ ョン」は、キル ケ ゴール のい う 「水平化」 を徹底 してお しすすめ てい る。 キル ケゴールは この よ うな今 日の状況 をす でに 1 世紀 以上 も前 に先取的 に とらえていたのか もしれ ない。 そのキル ケゴールが、 上記の評論 の な か で 、 「無 名性は現代 では恐 ら く人が考えてい る以上に は るかに特徴的 な意義 を もつ、ほ とん ど警句的 な (2) 意義 をも ってい るとい っていいほ どだ」 とい う。 今 日、人 々は無名で ものを書 くはか りで な く、署 名 を しなが らで さえ、無名で ものを書 く。 いや、 それ どころか無名で語 りさえす る。 ドイ ツでは恋 人た ちの手 引書があ るが、やがてそれ に従 って恋

(2)

人 同士が腰 をおろ して無名で語 り合 うことになる だ ろ う

「一人 の作家 が 自分 の魂 を文体の うちに 集 中す るよ うに、一 人 の人間は本来会話の うちに 自分 の人格

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3) (pers6nlichkeit)を集 中す るものであ る」のに、 とい う。 今 日の大衆社会 (マ ス ・ソサイエテ ィー) に於 いて も同様に、いやます ます もって、人 々は各 々の 独 自の個性 を もった人 格的主体 として語 り行動す るよ りも、 アノニマ スな個人 として他の人 々と同 調 して語 り、行動す る。 アノニマスなア トム的個 々人の抽 象的で無定形 な塊 り (マス) の意 見の方 が、特定 の具体的党派 、階級、個人 の意見、 イデ オ ロギーよ りも、マ ス ・ソサイエテ ィーでは大 き な力 をもつ。 どんな意 見で も署名の数が多ければ 多いほ ど、それ は大 きな力を もつ。大衆 は今 日社 会 を動か し、時代を動 かすほ どの力 を もつ。 しか し、誇張 して言えば、署名用紙 にいかに個 々人の 固有の名前(onoma)が 記 され て いて も、そ こに 於 いて問題 なのはその名前を もつ人間の人格的固 有性 ではな く、誰で もいい名前 の教だけである。 そ こでキル ケゴールは、 「公衆 はすべての人び と であ って しか も誰で もないところの或 る巨大な怪 物 であ り、抽 象的 な荒 涼 に して空 しき▲ものであ る`3'とい う。 しか し、か く語 るキル ケゴール 自身はほ とん ど すべての著作 を偽名(Pseudonym)で発表 したBた とえば、 『あれ か -これカ封 土 「ヴ ィク ト′L ・-レミタ」の、 『おそれ とおのの き』 は 「沈黙 の ヨ - ./ネス」の、 『反

』は 「コソスタンチソ・コソ スタ ンチ ウス」の、 『哲学的断昆』は 「ヨ- ソネ ス ・ク リマ クス」の、 『不安の概念』 は 「ヴィギ リウス - 、ウフこエ ソシス」の、 『人生行路の諸 段芦監帰 ま 「製本屋 ヒラ リウス」の、 『死にいた る 病』 と 『キ リス ト教 の修晩 卦は 「ア ソチ ・ク リマ クス」の、それ ぞれ著 として刊 行 した。キルケゴー ルは 「無名」の もとでは な く、 「仮名」の もとで 語 ったのである

「大衆 社会」の萌芽期にキル ケ ゴールは 「仮名」_の もとで語 らざるをえない必要 性があ ったのにちがい ない。 したが って「見同義的 に見える 「無名」と 「仮 名」 は、或 る意味では っき り区別す ることができる。 この小論 では、 この 「無 名」 と 「仮 名」 とい う二 つのタームをキ ーワー ドとして、現代の 「大衆社 会」 のなか の 「個人」について考 えてい きたい。 2. lndividuum一と しての 「個人」 現代社会 を特徴づけ る言集 の一つ として、 「大 衆社会」 とい う語 が今 日 しば しば 用 い られ る。 「大衆社会」 と訳 され る英語 の 「マス ・ソサイエ テ ィー」の 「マス」 とは、大量 の画一的商品を機 械 に よ って生産す ることを 「マス ・プロダクシ ョ ーt/」 とい うように、 ものの量的 な集 ま り、す なわ ち大量 の塊 り、を意味す る。集 まる もの、集め ら れ た ものが、人間な ら、その場合それは 「大衆」 と訳 され るのであ る。 この 「マス」 とい う言葉 は語源的 には、ギ リシ ア語の

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Ea(パ ンの控粉) 、 あ るい は plaqqEEL' (控ね る) とい う語に潮 ることがで きる。 したが って 「マス」は不定形の塊 りを意味す るが、語源 的 に言 ってその不定形の塊 りは、控 ねて一定の型 を作 ることのできる塊 りとい うことになるであろ う。 型 を作 るために旨 く控ね ることが で きるために は、人間 をで きる限 り細 い粒子 に ミル してお く必 要があ る。近代の 「合理 システ ム」 の張日は人間 を、 もうこれ以上分割(divide)で きない原子的存 在に まで轟 き砕 く。個 人」を意宋す る`individual" とい う英語 は、不可分 な もの、す なわ ち 「原子」 を意味す る"atomon"の ラテ ン語訳 として使用 さ れた"individuum"(indivisibleな もの ) とい う語 に由来す るが、 まさに近代の 「合理 システム」は 人間 を、原子的存在 としての 「個人 」にまで轟 き 砕 いてい ったのであ る。 近代の初め、人間の平均化 をお しすすめ るにあ た って特 に力のあ った 「合理 システ ム」 として、 「義務兵役制」 と 「義務教育制」を挙げ ることが で きるであろ う。 中世 とい う時代 を代表す るのが十 字軍 とい うの なら、徴兵制による帝国主義戦争は大衆化-の時代 である近代を代表す るといえるであろ う。帝国主義 戦争 にあ って人 々は、中世 の十字軍 や近世 の革命 に参加 した人 々の よ うに何か理念が あ ってそのた めに武器 を とったのではない。 ただ人 々は 「召集 令状」 を受けて、有無 を言わ さず戦 争に動 員され てい っただけのことであ る。 その 「召集令状」に は個人の名前が書かれてあ り、それ こそが召集 さ れ る者 に と っては一大事 であ るか も しれないが、

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召集す る側 か らいえは、それ は誰 の名前 で もか ま わ ない、員数 さえあえば よいのである。 そ して動 員 され た者 は軍隊 に於 いて教練 に よって兵士 とい う一定 の型へ と控 ねあげ、練 りあげ られ てい く。 戦場で死 んで も、他の者 に よって補充が き くよ う な型には ま ってい くのであ る。 こ うして、戦場-と送 られてい った兵士はそ こでアノニマスな者 と して死 んでい くのであ る。近代の帝 国主義戦争の 終末には無 名戦士 の墓 こそ よ く似合 うであろ う。 そ して、 「義務教育制」。 よ く言えば、義務教 育制は、国民 の知的水準 をひ きあげた といえるか もしれ なし、。 とい うことは、 しか し悪 く言えは、 それはすべての人 を水準化、す なわ ちキル ケゴー ルの用語 を使えは 「水平化」 した とい うことで も あ る。 キル ケゴールは、 「革命 の時代 には武器が無料 で配布 された し、十字軍 の時代 には参加章が広 く み んなに授け られた ものだが、現代ではいた ると ころで、処 世 法 とか諸 事便 覧 とか の類が無 料 で サ ービス され てい 岩5j とい って い るが、現在 の 日本ではテ レビの番組が無料 で提供 されている し、 さらに文部省検定の教科書が無料 で子供たちすべ てに配布 されてい る

「学校」では、軍隊 とし、う 「教 育の場」ほ ど明 らさまに暴 力的に人間 を鋳型 にはめ込みは しない とはいえ、いや暴力的 でない だけかえ って よけいに巧妙 に、それは行われ る。 つ ま り、それは計画的 に立 て られ た プログラムに 従 って型通 りの人間 を大量生産 してい くのである。 型 にはめ られ るのは、一般大衆だけではない。 エ リー トとしてエ リー トな りにエ リー ト教 育によ っ て型 にはめ られてい く。 いやむ しろエ リー トこそ 型 には ま った人間 と_な っている。 「学校教育」に於 いて子供たちに求め られ るの は、各人が 自分 で 「考 え る」 とい う活動 ではな く、 「計算す る」能力であ った り、 「教 える」 とい う 形 で伝達 されるところのイソフォメ-シ ョンを '「# 解す る」 ことであ った り、 さらに理解 したイ ンフ ォメーシ ョンを 「記憶す る」 ことであ る。か くし て今 日の学校 では生徒た ちは与 え られた ものを計 算 した り、躍解 した り記憶 した りす るのに忙 しく、 じっくり落ち着 いて考 え る暇 がない。 自ら考 え る ことな しに、単 に教え られ るイ ンフォメーシ ョン

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を無批 判 に受身 的 に受け とるだけ で あ るの な ら、 それ こそ形

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lにはめ られ る のは教科書的知識だけ ではな く、イ ンフォメーシ ョンを受け とる者 自身が一定 の形にはめ こまれ る ことになるのであ る。 この よ うな学校 の管理教 育 を経た人間は、 さら に卒業後広大 な労働管理社会 のなかに投げ出 され てい く。極度 に細分 化 され た分業 の巨大な メカニ ズムのなかで、個人はその部品 として型にはめ ら れ、広大なマス ・ソサイエ テ ィーのなかで 自分 の 「生 きが

」 を兄いだせ ない まま、漂 う。 ち ょう どいわば相互 に分たれ空漠 た る虚空の うちに投 げ だ された ア トムの如 くに。 まさにア トムの如 くそれ 以上分割不 可能 なまで に分 かたれた個人は、 「誰 で も同 じ」無名の者 と して、広大なマス ・ソサイエテ ィーのなか でただ ただ漂 う。 自らを方向づけ うべ き 「思考」の能力 はす でに麻痔 して しま ってい る し、 さ りとて行動 へ と駆 り立て るパ トス をもまた欠いてい る。 アパ セテ ィカルでアノニマスな彼 らを何か に向 って動 かす とした ら、それ は一体 何か。 マス ・コ ミ ュニ ケーシ ョンこそ、それだ といえは しないだろ うか。 「冥 想」 とい う言菜 があ る。 よく考 え るため、 深 く考 えるためには、静かな処 で、 目を閉 じ、 口 を閉 じて考 えなければ な らない。逆 に言えば、視 覚や聴覚の刺激 は、人 の気 を散 らせ、想 いに集中 す ることを妨 げ る。 マス ・コ ミュニケーシ ョンも 新 聞な ど活字 に よる ものであれは、その読者 はそ れぞれ 自分 のペ ースで読み、 したが って 自分 で考 え る余裕 もあ るだろ う。 しか し、テ レビ受像横 を 前 に して私たちは単 な る観衆 ではない し、単 な る 聴衆 で もない。 「説衆にして聴衆」、すなわ ち 「視 聴者」 であ る。視 覚 と聴覚 の双 方が同時 に挑発的 に刺激 を受け る。そ して視覚 と聴覚 を通 して流れ て くる大量のイ ンフ ォメーシ 。ンに圧倒 され 、流 され る。その結果、 テ レビか ら流れて くるイ ンフ ォメーシ ョンを無批判 に受け と り、たわい もない お しゃべ りをべチ ャクチ ャくり返す ことになる。 テ レビの画面 に登場す る レポ ーターと称 す る人 間 も本来な ら公開 さるべ き公共的 な事柄 について は何 も報告せずネグ レク トしなが ら、その一方 で スターの離婚話 しな ど本来公開 さるべ きで ない プ ライベ ー トな ことについてはあつか まし く報告 し たて る。本末転倒 してい るとい うべ きか、 それ と

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も、それ こそ まさにマスコ ミの本質 とい うべ きか。 とにか く、 自一らを動かす思考 もパ トス も失 って ア トム的存在 として個 人は、 しか し落着 きも失 っ て、 マス ・コ ミ ュニケーシ ョンに よ って動か され で 忙 し く動 くのであ る。 大衆 社会では誰 もが同 じ所 を した アノニマスな ものになるが故に、かえ って政 治家 も芸能人 も、 そ して学者す らも、 まずマス コ ミに よ って、 「名 前」 を、そ して 「顔」 を売 ろ うとす る。 そ して、 「名前

傾 」が売れれiiiL 「名前」で、 「汲」 で売れ-る。4本の よ うな商品です ら。今書店 に行け は、表紙 カバ ーに著者 の顔がで っか一(印刷 された いわゆ る 「顔表紙本」 になん と多 くお 目にかか る ことであろ うか。 3. `Persona と しての 「個人」 しか るに、 ニーチ ェは 『人間的な、あ ま りに も 人間的な』 の第57番 のアフォ リズムで、 「道徳 に おいて人間は 自分 を分割 しえぬ もの(individuum) としてではな く、分割 しうるもの(dividuum)とし て取 り扱 う」 と言 う。 自然 に まかせ て 、動か さ れて動 くのではな く、 自分が定立 した法則に 自分 を従わせ る自律性 に、道徳 の 主 体 と して の人格 (person)とい う人 間の有 り方が存す る。人格は 自 己 を分裂 させ 自分が 自分に命令す るところに成 り 立つのであ る。 "Person"(人格) とい う語 は 「仮面」 を意味す るラテ ン語 の"persona" とい う語か ら由来 し、 さ らに、その"persona"は ラテ ン語の前置詞 "per" (通 して) とラテ ン語の動詞"sonare"(昔 をたて る) との合成語の"personare"(通 して音 をたて る) とい う動詞の派生語 と推測 され る とい う。つ ま り仮面を通 して語 るとい うことである。道癌的人 格は定言的な命令を自分に命 じるところに成立す る。 いや、道徳 に於 いてのみな らず、 「生 きる」 と い うことが、生 々と生 きるとい うことが、 自分 自 身 に対 して命令す ることを必要 とす るな ら、人 間 は1個のpersonとして仮面 をつけて語 ることを必 要 としてい る。そ してなに よ りもニーチ ェ自身が 仮面 をつけて語 るのに巧みな仮面の巨匠であ った。 ニーチ ェは言 う。 「すべての深 きものは仮面 を愛す る。 それ どこ ろか最 も深 き事柄 は形象や比愉 に対 し憎悪す ら抱 いている

『さか さま』 こそが、神 の差恥がそれ を纏 いゆ うぜ ん と歩 くべ き本当の仮 装であ るにち がいないではないか。 もし誰 か或 る神秘家が この よ うな ことを試みた ことが ない とした ら、奇異 な ことではないだろ うか、 と問 ってみ る価値はある。 織細な出来事 で も、それ を粗暴 さで もって塞いで 知 られ ない よ うにす る方が よい とい うこともあ る。 愛や途方 もない度量 の行為 で も、 その記憶 を曇 ら せ るため に梶棒 を とってその 目撃者 をたた きのめ す こと程 賢明な ことはない とい うこともあ る。多 くの人は 自分の記憶 を曇 らせ虐げ ることが で きる。 その結果少 な くとも自分 とい うこの唯一の閑知者 に復讐す ることがで きる。差恥 は虚構の才があ る。 人が最 もひ ど く恥 じるのは最 もひ どい ことに対 し てではない。単 に仮面 の背後 に邪 悪な誰計 が存す るだけではない。設計の うちには多 くの善 き もの が存す る。 -・--(中略 )・・・--深い精神はすべ て仮面 を必要 とす る。いやそれ以上に、すべての 深い精神 の まわ りには絶 えず仮面が増大す る。彼 が与 える言葉 の、足 ど りの、生の しる しのすべて が常 に誤 って、す なわ ち浅薄 正解釈 され るおかげ で16'。 素顔では恥 し くて言 えない ことで も、仮面 をつ け ることに よって言 え ることがあ る。仮面の背後 に自分の素顔を隠す ことに よ って、かえ って 自分 の心の奥 深 く隠 された、例 えは愛 を、告 白す るこ ともで きるのであ る。 まさに仮面 は 自己を隠す と ともに顕 わにす る。いや 自己の うちに深 く隠 され た ものほ ど、素面 では、仮面 なしには語 り出す こ とはで きない。 自己の内に探 測を蔵す るニーチ ェ が仮面 を愛す るの も官 なるかな とい うべ きか。 素面の顔 を取 り換え るとい うわ けにはいかない が、仮面 な ら取 り換 え ることがで きる。いや 「で きる」 とい うだけでな く、取 り換 えるべ きであ る。 す なわ ち、 ニーチ ェの言 うところに よれば、 「或

る一つの人格¢inePerson)に執着 してはな らない。 た とえ最 も愛すべ き人格であろ うとも。各 々の人 格は牢獄 であ り、隠れ場で もあ 去7J'とい う。 人は仮面 を通 して 自分 を 「かた る」 とき、有 り かた の ままの 自分 について 「語 る」 と ともに、 自分 自 かた 身をIr偏 る」。つ ま り、 自分 自身 を 「よ り強 く、 よ り豊か に、 よ り完全 に」 自分 自身に見せかけ る。 しか も、ただ 見せかけ るだけ ではない

「人 は変

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容 し、 よ り強 く、 よ り豊 か に、 よ り完全 に 自分 を 自分 自身 に見せ かけて、 よ り完全 ・.・・・・・・・で有 a(8J) かた とい う。 つ ま り、人間は 自分 自身 を 「煽 る」 こと に よ って、 よ り完全 な 自己-、 よ り高 い可能性 の 自己- と自分 自身 を誘惑 的 に連れ てい く、つ ま り かた 自分 を 「拐 る」 のであ る.道徳 的人格 も一 つの仮 面 にす ぎない。道徳 的人格 とい う一 つの人格 に執 着す ることな しに、 多様な仮面 をつけ多面的 に 自 己 を形成 してい くところに、 イモ ラ リス ト、 ニ チ ェの人格があ ったのであ る。 キル ケ ゴール は先 に述べ た よ うに、様 々の仮名 (pseudonym)を用 いてその著作 を数多 く公 刊 した。 `pseudonym"は、ギ リシ ア語

の`

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¢e

8

o

stガ(虚偽) と.'o't,opα " (名前) とか ら合成 された語 であ る。 つ ま り

、 「A

君 」

、 「B

君」、 あ るいは

1号」、

「2

号」 とい った よ うに名前が無 いのではな く、 それ は虚 偽 とい え ど名前 で あ る。 そのbseudonym" をキル ケ ゴール は 「仮面」 として用 い るの であ っ た。 キル ケゴールがpseudonymの も とで語 るの は、大衆 の なか の誰 が しゃべ って も同 じよ うな こ とについてではないoそのようなことはanonymous な個人 の資格 で誰 もが お しゃべ りがで きる。 キル ケ ゴールがpseudonymの もとで語 ろ うとしたのは、 彼 の 内に秘め られ た深 い内面性 についてであ る。 様 々のpseudonymの もとに 自己 を拓晦 しつつ、同 時 にそのpseudonymを通 して キ ル ケ ゴールは内 な る自己 を語 り出 してい るの であ る。す なわ ち、 そ こで語 ってい るの は、他の誰 に よ って も置 き換 え るこ とので きないキル ケ ゴール の宗教的人格 で あ った。 4. ブルジ ョア的個人の原型 と しての 「オデ ュッセ ウス」 古代 ギ リシ ァの古典 中の古典 であるホ メー ロス の叙 事詩 『オデ ュッセ イア』 の第 9巻 のなかに、 オデ ュッセ ウスが 「ア ノニム」 (無 名) を 「ス ユ ーダニム」 (仮 名) として用 いて一眼 巨人 ポ リ ュ べ -モスに,トリックをかけ る場面があ る。 トロイ ア戟争か ら帰 国の途 上 とあ る島 に上陸 し たオデュッセウスは 12人の部下 と共 に知 らず にポ リ ュペ ーモ スの洞穴 に入 り、 その捕虜 にな って しま う。 2人ずつ次 々食べてい くポ リュペ -モスにオ デ ュ ッセ ウスが 自分 の も って きた 酒 をすす め ると、 ポ リュべ -モ スは これ を飲み干 し、二杯 日を要 求 し、 オデュッセウスに名前 を尋 ねた。 オデュッセウス が 「ダ レデモナイ」 (ウーテ ィス) とい う名前 だ と答 え る と、 「では、酒 のお返 しに 『ダ レデ モナ イ』 を食べ るのは仲 間 の うちで一番最後 に してや ろ う」 とポ リュペ ーモスは言 い、そのまま酔 い潰 れ て寝 て しま った。 これ を見た オデュッセウス は、 先 を尖 らせた梶棒 を火で焼 き、それ で も って ポ リ ュペ -モ スの眼 を突 き潰 した。血だ らけにな った ポ リュべ -モスは梶棒 を眼か ら引 きぬ くと仲間 の キ ュ クローブスたち を大声 で呼 んだ。 その声 を聞 きつけ キ ュク ローブスた ちが群 が り集 ま って、「ど うした」 と尋 ね ると、 ポ 1)ユべ -モ スは 「陸中レデ モ ナ イ』 が おれ を殺 そ うと した」 と答 え た。 そ こで、 キ ュク ローブスた ちは 「ダ レデモナイの な ら仕 方 が な い」 と言 って帰 って しま った ので、 オデュッセウス は難 を逃れ た とい う。 戦利 品 の財宝 を績 んで帰 国す る途 上難 波 し、波 の偶然 にひ きさらわれ て海 上 をあち こち漂 浪 し、 数 々の 冒険 のほてに帰 国す る オデュッセウス に、 ホ ル ク- イマ -と7 ドル ノほ、 リス クを 冒 して容赦 な く利益 を追求す るブル ジ ョア的個人の原 型 をみ て とる(.9)難波 して集 団か ら離れて孤立 し、 自然 の 暴威 に曝 され た 肉体的 に非 力 な個 人が、 それ に も かかわ らずその 自然 の暴威 に うち克 つ ことが で き るには、その 自然 に 自分 を合せ 自然 を脱着 す る衣 智 に よる他 はない

「実際、 オデュッセウス.の主体 は、主体 を して主体 た ら しめ る自分 の アイ デ ンテ ィテ ィを否定 し、無定形 の もの-の ミミク リーに ょ ,て生命 を保持す る'1JO とホル ク-イマ ー と7 ド ル ノほ言 う。 「ダ レデモナイ」 と名の り、無定形 な もの- の ミミク リーに よ って 自然 の うちへ融 け こんだかの よ うに装 う オデュッセウス は、単 に例 えば シ ャク ト リムシの よ うに一 定 の形態 (小枝) -の ミ ミク リ ーに よ って 自分 の生命 を保持 しよ うとす るだけ で はない

「ダ レデモナイ」 と名 の って 自然 の状態 に似せ るこ とに於 いて一 見 自然 に服す るか の よ う にみ えて、その実かえ ってそれ に よ って 自分 のた め に 自然 を操作 し、 自然 を支配せ ん とす るのであ る。それは、モズ ・ホオジロ .ヨシキ リな どの巣 にそ れ らに似 た卵 を産み お とし、托卵す るカ ッコウの 衣智 な ど比べ よ うもない くらいは るか に開 けた衣

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智 であ る。人間理性の狂智は、単に或 る一定の形 態- ではな く、無定形な もの-の ミミク リーに よ って、無定形 に、す なわ ちあ らゆ る方向- と向 っ て成長せ ん と企 る。 しか し、 「自分のために 自分 をダ レデモナイ と 名の り、 自然の状態 に似せ ることを自然支配の手 段 と して操 作す る ものは倣慢 にお ちい る」 とホ ル クハイマ ーと7 ドル ノはい う℃'洞穴 を遁れ船 に 乗 りこんだオデュッセウス も島を離れ沖 に出ると、 キ ュクローブスたちに噸笑の言葉 を投 げつけ、 さ らに、 「キ ュクローブス、誰か死すべ き人の子が お まえのみ っともない盲にな ったまっけ を尋 ねた ら、 ラー-ル テースの子、 イタケーの住人、町の破壊 者、オデ ュッセ ウスがめ くらに した と言 うのだぞ」 と、オデュッセウス は 自分の本当の名前 と由来を明 らかに し長1.3これ を聞いたポ ・)ユペ -モスは、天 に両手 を さしのべ、ポセイ ドー ソに祈 って、言 っ た

「聞いて くれ、大地 をゆ るがす、黒い髪のポ セイ ドーン、 もしまことにおれがあなたの子 で、 あなたがおれの父親だ と言われ るのな ら、ラー-/レ テースの子、イ タケーの住 人、町の破壊者オデュッ セ ウスが帰国で きぬ よ うにな し給 え。 だが もし自 分の国に帰 り、堅固な造 りの館 に着 いて、親 しい 人 々に会 うのが、かれの運命 な らは、部下はみ ん な失 って、他人の船で、長い苦労の末 に情けない 姿 で帰 りつ き、家 には難儀が待 ってい るよ うに」 と。 こ う祈 るかれの願 いをポセイ ドー ンは聞 き と どけ、以来終始 オデュッセウス を憎み、彼 の帰国を 妨害 しつづけた、 とい う。 ポセイ ド:/は不定形

T)(amorp_hous)な海神であ る。 「ダ レデモナイ」 と詐 り称 した オデュッセウス は、 その仮面 をみずか ら脱 ぎ捨てた とき、海神 ポセイ ドーンの憎 しみ を買い、かえ って実際 に不定形 な 海 に呑 み込 まれかねない危険 に曝 され ることにな る。 その オデュッセウス の姿 には、 自分 の固有の名 前 を失い、定形 を失 った(amorphousな ) 大衆 の うち-呑み込 まれ、あ るいはあち ら-、あるいは こち ら- と何 ものかに よって動か されて動 く今 日 の大衆社会 のなかの個人の姿が予言的 に示 されて はいないだろ うか。 いやむ しろ、英雄 オデュッセウ スな ら不定形の海 に呑み込 まれず に済むか もしれ ないが、大衆社会の不定形 の塊 りに呑み込 まれ て しま ってい るとい う事態 こそ今 日の我 々の真の姿 なのか もしれない。 今 日テ クノロジーの進歩 に伴 って個人 としての 人間 は.その技術的能力が拡 大す るにつれ, その 思考 に よる自律性 を失い、何か巨大 な メカニズム に組み込 まれて動か されて動 くよ うにな って しま インパ ーソ ナル プ ロサナウ ン サブジェク ト ってい 声。非人称的 (非 人格的)な代名詞 が主語 (主体) とな って、 ア トム的個人 を動かす よ うに な るのであ る。そ してその非 人格的代名詞 は漠然 と何か を指 し示 した まま、何 を指 し示すのか問わ れ ることな く放置 された ままであ る。 5. 「M君」の場合 た しかに、今 日相互 に孤立 し無 関心 とな った個 ポテンツ 人の物理的 力は技術的に飛 躍的に高 ま った。 もは や個人は無限の虚空 の うちに裸の ままで投げ出 さ れた個人ではない。 それはいわば個室 のなかの個 人 であ る。 今 日個人が生 きてい くため に自分で生活に必需 な水や燃料 を集めて くる必要 はない。個室のなか に まで水道や ガス管が配管 され電線が配線されて 水、 ガス、電気が供給 されてい る。 ス ウィッチ一 つで個室 の うちに流れ込 んで'くるのは水やガスだ けではない、テ レビか らは世界各地か らの情報が 流れ こんで くる。 そ して、電話回線 を通 じ外 の世 界 とつなが り、外 の世界 とコ ミュニケイ トす るこ とができるのであ る。今 日個人は、い うなれば個 室 の大 きさにまで拡大 してい るのであ る。 さらに、 「足を も った個室」 と もい うべ き自家 用車は、 自由に動 き回 ることがで きるが故に、実 際の個室 以上に 「拡大 された個人」であるとい う ことが で きるであろ う。個 人は、電話、 テ レビ、 自動車 とい った道具 (イ ンス トゥル メソ ト) を自 分 の器官 (オーガ ン) として拡大す る。 自動車は 俗 に よ く言われ るよ うに まさに 「足」である。 そ してなるほ どマイ カーを自分 の足 として個人の行 動範囲は飛 躍的に拡大 したが、 しか し果 してそれ に よ って本当の個人の 自由が拡大 した ことにな る だろ うか。 マイカーに よ って空間的に 自由な行動 範囲が拡大 したはか りでな く、 さらに週休二 日制 な どに よって労働時間が短縮 し、 自由時間 も拡大 した。 しか し、その余暇 に人 々は画一的に同 じよ うな行楽地へ と車 で もって殺到す る。 その結果 は 身動 きの とれ ない串の列。 自由な物確的時間 ・空

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間が拡大 した として も、精神の 自由な活動がなけ れば、人間はかえ って深 く縛 られ るとい う結果 に なるこ との証左 といえ るか もしれ ない。個人が拡 大 した とい って も、ただ空 しく外-膨張 しただけ に しか、つ ま り幻想 の うちで拡 大 しただけに しか す ぎないのであ る。 しか も、幻想の中で 「拡大 した」個人は、 ア ト ム的無名の個人、 「ダ レデモナイ」 (ノーボデ ィ) ではな く、 「ダ レカ」 (サ ムボデ ィー) であるよ うにな ることを塾 を、汝智 を働 かせ る。オデュッセ ウスが 自然の狂暴 な力か ら身 を守 るため 、 「ダ レ デモナイ」 を偽名 として名の ったが、 これに対 し て、大衆社会の中で 「ダ レデモナイ」無名の個人 は、 自己の力の拡大 とい う幻想 のなかで、 「ダ レ カ」 であ ることを意志 して、偽 名を名の る

O

「今 田勇jlJとい う偽名を名の った

M

君の場

長そ うで あ った。 彼、M君 は、取 り調 べ警察署長宛てに提 出 した 「上申書」な るもののなかで、被害者の幼女の一 人 を 、 「あ ったかいか らとか なん とか言 って声 をかけ 自分の事の中にゆ うかい し、云 々」 と述べ てい る。彼の場合、車はやは り動 く 「個室 」であ った。 自分の部屋 のなか に大人 の女性 を誘 い入れ るよ うに、幼 い女の子 を車に誘 い入れ、 自分のテ リトリーのなかでい とも易 々 と兇行に及 んだので ある。 しか し、M君の事件が、いかに も情報社会 の現代 の事件 らしいのほそれか ら後である。性的 倒錯の猟奇的な殺人事件 な ら、現代だけでな く、 た とえば阿部定事件な ど、過去 にい くらで もあ っ た。 しか し、M君 の事件 の場合、それに さらにマ ス コ ミに対す る 「情報操 作」がつけ加わ る。 ス ウ ィッチひ とつで 自由に画面操作がで きるビデオの 世界に耽溺 したM君は、 「今 田勇子」 とい う仮名 で 「犯行声 明 」、 「告 白文」 をマスコ ミを通 じ発 表 し、情報 を操作 しよ うとしたのであ った。 「今 田勇子

J

とい う偽名につ いては

「いまだ か らゆ うぞ」の語 呂合せ であるとい う説、あ るい はM君 の本名の ローマ字表記のつづ り換 え (アナ グラム) であ る説等、様 々に解釈 されている。 い ずれ に して も、言葉の単 なる遊 びにす ぎず、その 仮名は単 に名称 としての本名だけ を反映 している に過 ぎず、人格的内面 を反映 していない。 これ に対 し、キル ケゴールが 「ア ンチ ・ク リマ クス」 とい う偽名を用 い る時 、表面的な素顔が隠 され ることに よってかえ って隠 された内面が 表わ _しだ され る。正 岡子規 は、啄血 して、血 を吐 くよ うな声 で噂くホ トトギスに因 んで、 「子規」 と号 したのであ るが、そ こには当時死病 とまでいわれ た結核 さえ もその種 にす るところの子規の凄味 の あ る話語精神が表われてい る。 さらにまた彼 は、 書物 を自分 の周 りに取 り散 らかす ことの多か った ので、多 くの魚 を祭 るかの よ うに岸 に並べ るカ ワ ウ ソの、俗 に 「鋸の祭 り」 と呼ばれ る習性 になぞ らえて、みずか ら 「瀬祭書屋主人」 とも号 したが、 このペ ンネームか らも我 々は本名の 「正 岡常規」 よ りもはるかに深 く彼 の話語 に満 ちた人間性 を う かが い知 ることがで きるであろ う。親か ら与 え ら れ た名前 とは異 な り、みずか ら命名す る仮名、ペ ンネ ーム、雅号などには人 はみずか らの思想 を反 映 させ ることがで きる し、反映 させ よ うとす る。 仮名 で もって彼の臆 された深 い人格が潜み 出るだ けでな く、人格 を深め ることもで きるのであ る。 そ して、 「ヨ- ソネス ・ク リマ クス」 とい う仮 名 を使 っていたキル ケゴールが後 にな ってなぜ そ れ に 「アンチ (皮) 」 とい う語 を冠 して 「ア ンチ ・ ク リマ クス」 とい う仮名 を用 い るよ うにな ったか 我 々が問題 にす る時。 また、 「粛祭書屋 主人」 と 号 していた子規は後 に宿病 に よって寝 た き りとな り、 「病林六尺、.これが我世界 である。 しか も此 六尺 の病林が余 には広過 ぎるのであ る。僅かに手 を延 ば して畳 に触れ る事はあるが、蒲団の外- まで 足 を延ば して体 を くつろ ぐ事 も出来ない。甚 しい 時 は極端 の苦痛 に苦 しめ られ五分 も一寸 も体 の動 け ない事 が あ る」 と述 べ てい il鉛 、 そ の よ うに 自分 の周 りに書物 を取 り散 らかす ことす らで きな くな った子規の心中を、我 々が推 し測 る時。 その よ うな時、我 々とキル ケゴールの人格や子規の人 格 との問には人格的 コ ミュニケーシ ョンが交わ さ れ ることにな るだろ う。 然 るに、 「今田勇子」 を名乗 ったM君 の場合は ど うであろ うか。それは単 な る語 呂合せか、そ う でなければ体 を表わ さない本名の単 な るアナグラ ムで しかない。反映すべ き内面 の奥行 きを もたな い まま、単 に外-空 しく自己主張 しよ うとしてい るに しかす ぎない。 それ は、中高生が制服のズボ ンのス ソを拡げた り、 スカー トの ヒダの数を多 く

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して 自己主張 しようとす るの と同 じ様 に、空 しい 自己主張 で しか ない。 しか し,空 しいとはいえ 「今 田勇子」の仮面 を通 して ともあれ彼は 自己主張で きた と幻想 しえた。 つ ま り、少な くとも彼 は人格 の偽形態(pseudomorph)を形成 しえたのであ る。 とにか くそれ に よって無形態(amorphous)な大衆 か ら脱け出せたかの よ うに彼は幻想 しえたであろ う。事実、マス コ ミは彼 の意図 した よ うに彼の 「 犯行声 明」に よ って躍 った。彼 は幻想のなかで自 己の拡大 を確認 したに ちがいない。 マス コ ミが空 騒 ぎすればす るほ ど、彼 は自己拡大の幻想 を膨張 しつづけたにちがいない。 しか し、彼 の 自己拡 大 は所詮幻想のなかでのそ れで しかなか った。彼 の犯行が暴かれた時、その 幻想はい とも簡単に破 られる。 しか しす でに一 旦 躍 り始めたマス コ ミは、い よい よもって躍 る。報 道 カメラマ ンたちは厚 か ましくも彼 の個室の うち にまでズカズカ上 りこみ、プライバ シーの権利 を 踏み踊 って、彼 のプ ライバシーを暴 き出す。 テ レ ビカ メラは大衆 -視聴者 の眼の代理 の よ うな顔 を して厚顔 に も

M

君の プ ライバシー(い くら凶悪事 件の犯人であ って もプ ライバシーはあ る、 ま して 容疑者 にす ぎない段階 であれば なお さらであ る) を覗 き見す る。 そ して テ レビの レポーターは、視 聴者 の代弁人 の ような顔 をして聞 き廻 り、 うわず った声 で現場か ら報告す る。 その背後か らは映画 『地獄 の黙示録』 さなが ら- リコプクーの プ ロペ ラ音が効果音 よろ しくいやが うえに も視聴者 の好 奇心を煽情す る。その昔の迫力に圧倒 されて視聴 者は レポ -タ- と称す る老たちの伝 える情報が、 本来 自分たちが知 りた が っていた ことであ るかの ような錯覚 に陥 るのであ る。 自ら仮面 をつけて語 るべ きものを 自らの うちになに ももたない一般視 聴者 ・読者 、一般大衆 はマス コ ミとい う代理者 -仮面 を得て、マスコミを通 して報 じられ ること、 語 られ ることが、みずか ら知 りたか ったこと、語 りたか った ことであ るかの よ うに錯覚す るのであ る。 6.問題提起 現代の消費社会は、一昔前の よ うに画一的製品 を大量生産 し大衆に大 量供給す るのではな く

衆」化 した消費者の多様 な ニーズを把 らえて、多 品種少量生産」す る社 会であ るともいわれ る。雑 誌 も、読 者の多様な ニーズに応 えるべ く、かつて なか ったほ ど多様 な雑誌が百花緑乱 の如 く咲 き競 ってい るC,しか しその ニーズ も先取 的に把 え られ た ニーズ、 マス コ ミに よ って創 出 された ニーズで しか ない。 今 日の 日本の社会は 「情報資 本主義」 とい うた わい もない タームがそれでいて妙 に真実味 を帯び るなんとも情けない状況にあ る。そ うい う時代 に 於 いて求め られ る対象は第一 次的な モノ、あ るい はモノ的生活諸条件か ら遊離 して、ファッシ ョンや 情報、サ ー ビスに向け られ る。今 日ほ とん どの 日 本人が もつ といわれ る 「中流意識」 は、機械的で はな く、 よ り柔軟性 をもつ とはいえ やは り画一化 志 向をその うちに もつ ことにちがいない。提供 さ れ る情報 、サ ービスが多種多様 にな り、好み に よ る選択 の巾がで きた とい うだけの ことで しかない。 「中流意識 」はマス コ ミを通 じて一 方的 に垂れ流 されて くる多種多様な情報 に よ って、流 されてい く

「中流意識」が 「虚偽意識 」にす ぎないので はないか とい う一抹の疑念 を伴いなが ら。 そ して、 もしその よ うな 「虚偽意識」ではない か とい う疑念が一抹で も我 々の意識 を掠め るな ら、 我 々は 「我 々を偽柄す るgeniusmalignus(準滑な 蛋)は詮か」 と敢えて対決的に問 う必要があるだ ろ う。 なぜ な ら、敢 えて人格対人格 の仮面剥奪的 な対決を行わず しては、結局は虚偽意識の流れの なかでその まま流 されてい って しま うことにな る のだか ら。 (1990.2.16受理) 付、人名録 キ

ケゴール S.A.Kierkegaard1813-1855--・ デソマークの宗教思想家。--ゲルの思弁的合理主義 の立場に反対 し、独自の個人主義的信仰の立場を開い た。1846年、週刊風刺新聞 rコノレサル jl(

海賊」の 意)によって侮辱的な人身攻撃をうける。キルケゴー ルの痛烈な市民大衆批判 もこの 「コルサル」事件が一 因している。 ニーチェ F.W.Nietzsche1844-1900・・・・ドイツの 思想家。ヨーロッパ文明によって抑圧された個人や生 の解放を求め、 ヨーロッパの伝統と真剣に対決 した。 「ヨーロッ′くのニヒリズム」克服の彼の努力は、-イ デッガー をは じめ現代の多 くの哲学者に大 きな影響を

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あたえてい る。主著 として Fツァラツス トラはか く語 りき』が有名 O ホメ-ロス HomerosB.C.8C.- ・・・古代 ギ リシアの 詩 人。 ヨー ロッパ文学最古に して最大 の叙事詩である Fイリアス

Fオデュッセイア』の作者 とされ る。Fオ デ ュッセ イア』は英雄 オデ ュッセ ウスが トロイア戦争 か らの帰途難破 し、十数年 の漂浪の後熔 国、彼 の留守 中妻に言 い寄 った男たちを殺致 した物語 を歌 った一大 叙 事詩 。 ホル ク-イマI M.Horkheimer 1895∼1973 7 ドル ノ Th.W.Adorno1903∼1969-・ともに ドイツ の フランクフル ト学派の代 表 的 思 想 家 。二 人 は共 著 F啓蒙 の弁証 法 』に よ って現代社会 を鋭 く批判 した。 彼 らに よれ ば.現代社会においては人間 の内なる自然 と しての欲求は、抑圧 されて、大衆 の非合理的衝動へ と歪曲 され るか、 さまざまの社会的技術に よって操作 されて いる、 とい う。

正岡子

規 1865-1902・・・・・明治の俳人 ・歌人Q本名常 規 (つね の り)、幼名処之助、のち升 (のは る) 。雅 号は細祭苫屋主人、竹 の里 人、盗花な ど数種.短歌 ・ 俳句お よび写生 文に よる文章革新運動 を推進 した。晩 年 のほ とん ど病 味に臥す も、死ぬ まで旺盛 な創 作活動 を続けたoF病林六尺 』はその病床 の記録 である。 註

(1) ・S・A・Kierkegaard,"Eine literarische Anzeige" Aus d.Dan.ubers.von Emanud

Hirsch .-1983. (GtitersloherTaschenbticher Siebenstern;614)氏 72. (2)Ibid.S.110. (3)Ibid. (4)Ibid.S.99. (5)Ibid.S.73.

(6)F.W.Nietzsche,"JenseitsYon Gutund Bolse"Nr.40.

(7)Ibid.Nr.41.

(8)F.W.Nietzsche," Der Wille zur Macht" Nr.808.

(9)M.Horkheimer und Th. W. Adorno, `DialektikderAufkli'rung"S.42.

的 Ibid.S.62.

8B Ibid.S.63.

は Homeros,"Odysseia"lX,501ff.(高津春繁 の訳 を参照 した) i3)1988年か ら1989年 にかけて東京 ・埼玉西部で幼女 が次 々と誘拐 され殺害 された 「幼女誘拐殺人事件」 の容疑者 。この事件は単に猟奇的であった はか りで はな く、1989年2月に被害者 の一人の自宅 に被害者 の遺骨 の入 った段 ボール箱が届け られ、 さらに 自宅 と新 聞社に被害者の写真、 「犯行声明文」、 「告 白 文」が送 られ、いわゆ る 「劇場型犯罪」 の様相 を星 した事件であった。 ¢4 正岡子規、 F病林六尺 』 (岩波文庫)5頁。 (追記) この論 文は、1989年12月2日の 「第13回長野大学公 開講座」 (統一テーマ : 「現代の F個 Egを考え る

」)

での講演 に もとづ くo余 り 「大衆 向 き」 とは言 い難 い に もかかわ らず、 この よ うなテーマの もとで公開講座 で開催 していただいた図召委貞会のご苦労 に対 し心 よ り感謝いた します。 また, この公開講座では この度退 職なきった神亀 若林両先生にご挨拶や司会 のお骨折 り をいただ き、あ りが とうございま したCここに感謝 の 意 を表 します。

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