〈論文〉芸術学における「イコン的転回」--近代芸術学におけるイコノロジー・構造分析・イコニックの展開
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(2) 文化/第 25巷第 1号 /2013 9 芸術 文学. 性質を持つものがある 。 そ れ は 、 伝 達 プ ロ セ ス の 発 端 と 終 結. ところが、伝達にはもうひとつ、最初の例とは全く異なる. は 単 に そ の 形 象 に 形 象 な ら ざ る 意 味 を 載 せ て 運 ぶ、すなわち. の際、﹁イコン的転回﹂という概念を軸として、芸術的形象. ところで、本小論中に頻出する﹁形象﹂という概念は、ド. 固定 量を固定 量のまま運ぶ伝 達媒体ではなく、ー如何にトー. れが諸様相の情報に変換されて伝え ら れる 。 この伝達におい. において、伝達の様相豆急住芯片 山 か変化してしまう種類のも. ては、固定 量 が 固 定 量 を 保 持 し た ま ま 伝 え ら れ る の で は な. イ ツ 語 の 含ー ω回E を 念 頭 に 置 い た 語 で あ る 。 こ の ド イ ツ 語 には、絵、絵画、画像、イメージ、観念等、多様な意味が含. トロジーのように聞こえても│芸術的形象世界は形象に依っ. く 、 そ の プ ロ セ ス の 中 で 新 し い 変 化 が 生 じ て い る 。 例えば、. まれているが、﹁形象(宮 ω回 忌 ﹂ の 語 の 概 念 定 義 と し て 筆 者. のである 。 その典型的モデルは、人間身体の神経組織におけ. 人間の眼、耳、皮膚という感覚器官が受け取る最初の刺激. が 強 調 し た い こ と は 、 そ れ が ﹁ 形 像 仏 訟 の 与Eゐ﹂からは っ. てしか産出できない意味を創造していることを、具体的作品. は 、 大 き く 見 れ ば す べ て 波 動 で あ る 。 その波動を、眼は形と. きりと区別されるということである 。 ﹁形像色白 ωの め ずEゐ﹂と. る 伝 達 で あ ろ う。 極 め て 雑 駁 に 言 え ば 、 神 経 伝 達 に お い て. 色彩に、耳は音響に、皮膚は温と冷の感覚 に変換する 。誤解. いう概念を、確定された客観的・固定的所与としての 像 とし. に即して 示すことが直接の課題となる 。. を恐れずに言えば、このプロセスにおいては何か産出的 / 創. て捉え、それに対して﹁形象巳g 回E﹂を解釈行為を通して. は、シナプスにおける神経伝達物質 の受け渡しによ って、そ. 造的な活動、もしくはメタモルフォーゼとも呼べる活動が生. 多様な姿に変貌する可能性をもった像として捉えたいと思 のと考える 。. う 。 そ の 意 味 合 い は 、 本 小 論 の 展 開 の 中 で 明 ら かにされるも. じているとい︾つことができるであろ冶つ 。 この小論においては、芸術活動による意味内容の伝達の 様 相を、伝達 一般のこの こ つの様相の 差 異とのアナロジーにお いて 二 つに区別して捉え、 二十 世 紀 以 降 の 近 代 芸 術 学 の 展 開 を担ってきたイコノロジ l、構造分析、イコニックの三つの 方法論において、それぞれが芸術の意味内容を伝達する様相 をどのように捉えたのかを解き明かすことが課題となる 。 そ. -2.
(3) 芸術学における「イゴン的転回 J 井面. 模倣理論と図像解釈. かに人々を刺激し、驚かせあるいは喜ばせてきたかを等閑視す. ることもできない 。芸術家たちの伝説の中には、その優れた模. B 5 2 ω ) 周知のように、古代ギリシア以来、芸術は模倣 (. スとパラシオスという こ人の画家による絵画技術の競争の逸話. 知られた例は、プリニウスが伝える、古代ギリシアのゼウクシ. 倣技術を讃える逸話が数多く見られる 。 例えば、もっともよく. 理論に基づいて解釈されてきた 。プラトンとアリストテレスで であろう。. 模 倣 理 論l 指 示 作 用. は、芸術の意義と価値についての評価が相反するものとなって いるにもかかわらず、両者は芸術活動が現実世界の模倣である. もう忘れ去られたが、かつては確かに知られていた)事象が、. ある 。すなわち、私たちがすでに知っている(あるいは、今は. 提としてあり、それが後から芸術に反映されるという考え方で. 模倣の観念の重要な特質は、模倣される実在ないし現実が前. がその覆いの布そのものも絵にかいたものだったのである 。ゼウク. 置いてあるのを見て、覆いを取って絵を見せてくれと頼む 。ところ. アトリエに連れてきた 。ゼウクシスは、そこに布で覆いをした絵が. 腕前は持っているのだということを見せようとして、ゼウクシスを. いばもうとした 。これを聞いたパラシオスは、自分もそのぐらいの. ゼウクシスが葡萄をかいたところ、雀が飛んできてその葡萄をつ. 芸術活動を通して再び私たちに現前するという観念である 。 こ. シスはパラシオスに一本取られたことを認め、こういった D﹁私は雀. -3. と理解する点では 一致している 。ー. の観念は、模倣像は原像/ 原典そのものではなく、それを伝達. を欺いたが、君はその私の眼を欺いた﹂. 03. する媒体 H写像であり、その媒体 H写像を通して原像/ 原典が. このような芸術家伝説とでも言うべきものを成り立たせてい. 再生産されて拡大され、流布されていくということを意味して いる 。プラトンが、絵画を﹁本性(実在)から遠ざかること第. る条件は、名人上手の画家たちの絵が﹁本物そっくり﹂に、あ. ということなのである 。 し た が っ て 、 模 倣 理 論 の 根 底 に は 、 白. まり、それらの絵画は写実の程度が極めて傑出した作品である. るいは﹁生き写し﹂のごとく描きだされていることである 。. 2の 存 在 と し て 、 そ の 価 値 を 認 め な か っ た 理 由 は 、 模. 三番目﹂. 倣像のもつ媒介性という性質にあると考えることができるであ ろ 、 っ。 しかしながら、芸術の媒介性つまり模倣像の現前が、古来い. つ.
(4) 文化/第 25巻第 1号 / 2013 9 学 文. 芸術. 然的世界の再現という意味においての写実的作品を是とする考 え方が含まれていることになる 。 このような思想は、例えば、. 04. ルネサンス時代の自然模倣において、レオナルドが鏡の使用を 推奨したことによっても裏付けられるであろう さて、模倣理論の重要な特質は、模倣像は自然言語によって 容易に記述することができる、と当たり前に理解がなされてい る点である 。例えば、ヴァザlリは、ジヨットがサン・ピエト ロ寺院の中庭に面したポルテイコの入口の上に描いたモザイク. この絵を見る人た. ちにとって、あるい. ヴア. は見ていない人たち. にとっても、. ザ1 リ の 記 述 は 単 に. 図像の有様のひとつ. いわば. ひとつを知らせるだ. けではなく、. 絵に命を与えて、生. き生きとした印象や. 4. 画︽ナヴィチェッラ︾(図 1 ) │ペテロがイエスに誘われて湖 の上を歩こうとする場面ーを、次のように一記述している。. 感情的な効果を与え. ている 。 と く に 、 物. 語の個々の出来事を説明するだけではなく、絵の全体的な効果. 彼ら︹使徒たち︺は、それぞれに嵐の真っただ中で闘っている。 その一方で、帆は風を膨らみ、まるで実物の帆であるかのようであ. や人物の感情を描写することに重きが置かれている点に特色が. このような言語的指示作用(同定作用)が有効に作用するの. る。しかも、ガラス片をつなぎ合わせてこの大きな帆の明るい部分. 絵筆を使い、非常な努力をはらって、ようやくこのモザイク画に匹. は、模倣像のもつ媒介性が根拠になっていることは容易に理解. あるといえる 。. 敵するものを作ることができるほどのものである 。さらに、ここに. ら、模倣像は、何らかの原像もしくは原典の写しと見なされる. の意味を互いに伝達し合い理解するということである。なぜな. 、 、 、 、. できる。すなわち、私たちは模倣像について言葉で語ることに. 0(. ) ︹︺内、筆者。以下同様。. はまた釣竿をもって岩の上に座っている漁師が表されている 口その. 5. よって、つまり形象の内容を言葉で指示することによって、そ. 期待と欲求とが現れている. 態度には漁師に相応しい忍耐強さが、その顔には魚を捕ろうとする. と陰の部分をこれほどに本物らしく形作ることは至難の業であり、. 3 0 5 1 3 図 l ジヨット〈ナヴイチェッラ} 1.
(5) 芸術学における「イゴン的転回」 井面. ることは容易なことであろう。古代においては、それはエクブ. 描き出されている原像 / 原 典 の 内 容 を 自 然 言 語 に よ っ て 記 述 す. ザイク画の場合のように、具象的な対象絵画であれば、そこに. 現している原像/ 原典の内容にもつからである 。ジヨットのモ. 限りにおいて、その音. 学﹂と訳される理由もそこにあるわけである 。. 意味の解釈を目指すものであり、イコノロジーが﹁図像解釈. い。 パノアスキーのイコノロジ lは 、 作 品 に 含 ま れ る 内 容 的. おいて、作品の意味内容を等閑視してしまったことは否めな. 式言語の自律性を確立しようとしたのであるが、その半面に. における輪郭と色彩﹂(リーグル. パノアスキーは、作品解釈に当たって三つの意味層を区別. ) 7と し て 捉 え 、 作 品 の 形. ・ と呼ばれ、絵を言葉で説明すること、逆に言 g-ω ラシス oSE 葉の世界を絵画の世界に置き換えることはごく当たり前のこと. と 深 ま っ て い く こ と に な る 。 具体的作品、ここではデユ 1. し、それに応じて解釈も第一段階から第二段階、第三段階へ. 絵に描かれた形象世界を言葉で指示的に記述すること、当然. ラーの︽メ一フンコリア IV(図2) を 例 に 挙 げ 、 そ れ に 即 し. 60. とはいえ、それが絵画の解釈の第一歩であることを体系的に. て三つの音. -5-. と考えられていたのである. はっきりと措定したのはパノアスキーであった 。 そこから単な る模倣理論を超え、対象指示言語を超えて、作品の音中味内容の 解釈へと向かう方法論を展開させたのが、パノアスキーの﹁イ コノロジ l﹂であ った。. イコノ口ジ I │ 図像解釈. は 、 よ く 知 ら れ て い る 。様 式 論 は 、 芸 術 作 品 を ﹁ 平 面 と 空 間. によって基礎づけられた様式論の克服に向けられていたこと. ハインリ ッヒ・ヴェルフリン (出色ロ立与者2BE--∞宮山玄印). 点においてアロイス・リーグル ( ﹀-03Eom--H ∞ω ∞iHgu) や. パノアスキーの﹁イコノロジ l﹂ が 、 近 代 美 術 史 学 の 出 発. 2. 図 2 デューラー 〈メランコリア 1}. 1 5 1 4年.
(6) 文学芸術・文化/第 25巻第 1号/2013. 9. 的な人物・事物等のモチーフに対応する﹁事実的主題﹂と、. 題﹂と名付けられ、これはさらに、物理的実在としての具体. 最初の意味層を形成する主題は﹁第一段階的・自然的主. 上げて何かを見詰めている。. ンパスを握り、その前腕を閉じた本の上に載せる。彼女は両日を. した彼女は、 一方の手で頬杖をつき、もう一方の手は何となくコ. 力にふさぎ込んでいる。着衣に気を配ることもなく、髪を振り乱. 4. 、. ﹀O. 以前の記述﹂と見なし、純粋な﹁形﹂の世界の把握と考えて. パノフスキーはこの第一段階の解釈を﹁イコノグラフィ l. 9. 人物や全体の雰囲気がもっ心理的・感情的効果に対応する ﹁表現的主題﹂に分けられる。ヴアザ l リ の ジ ヨ ッ ト の 絵 に ついての記述は、この﹁第一段階的・自然的主題﹂に相当す るものであることは容易に認められる。 そ れ を ︽ メ ラ ン コ リ アI︾に当てはめてみるならば、﹁事. 周囲を雑然と取り巻く道具類等を指し示すことができ、﹁表. るいは寓意が含まれていると予想されるからである。二番目. 味内容の解釈が終わるはずはない。ここには何らかの物語あ. し か し 、 こ の よ う な 記 述 だ け で は ︽ メ ラ ン コ リ アI︾ の 意. hV24 、. 現的主題﹂としてはしゃがみこむ女性の、一見ぼんやりとし. の意味層はその点に関わるものであり、﹁第二段階的・伝習. 実的主題﹂としては、頬杖をついてしゃがみこむ女性、その. ているように見えるが、その鋭い眼光に強い意志の力を指摘. 的主題﹂と呼ばれる。. この二番目の意味層を解釈するためには、 い わ ば 素 手 で 絵. す る こ と が で き る 。 パ ノ フ ス キ l自 身 は 、 こ の 第 一 の 意 味 層 を次のように記述している。. を見つめるだけでは玲が聞かず、文献資料による知識を通し. 像 の 意 味 を 把 握 す る こ と で あ り 、 い わ ゆ る 図 像 学 Hイコノグ. て特殊なテl マ や 概 念 に 精 通 す る 必 要 が あ る 。 す な わ ち 、 図. おり、月光│壁に掛けた砂時計が落とす影によって推測される. ラフィ lを 遂 行 す る 必 要 が あ る わ け で あ る 。 そ れ ゆ え 、 パ ノ. 女性であるメレンコリアは海に近い冷え冷えした寂しい場所に. と、三日月形の虹に固まれた怪しい放光によって、ぼんやりと照. ア ス キ ー は こ の 第 二 段 階 の 解 釈 を ﹁ イ コ ノ グ ラ フ ィ l的 分 0. こ の 二 番 目 の 解 釈 を ︽ メ ラ ン コ リ アI︾ の 場 合 に 当 て は め. 析﹂と呼んでいる。. ・:彼女のそばにいるのは、今は使われていな. らし出されている. い挽臼に腰かけて石板に何事か彫りつける陰気な小柄な裸童と、 飢え死にしかけて震えている猟犬である。そして、:彼女は無気. -6-.
(7) 工道具や測定機器が示唆する﹁幾何学﹂とがこの絵の意味解. 化された﹁メランコリー. H憂欝質﹂の化身と彼女の周りの大. れば、この意味層では、物思いに耽る有翼の女性として擬人. は、端的に言えば、﹁憂欝質﹂の知性化と﹁幾何学﹂の人間. かたちで表現されている、とパノアスキーは解釈する。それ. 価値と相反する性質に変換され、その二重の性質が交差した. 描かれてきた﹁憂欝症患者﹂が知性をもって、覚醒した沈思. 化の表現である。すなわち、伝統的に怠惰に眠りこける姿で H憂欝質﹂は、. 釈のキーワードとして把握されることになる。 デュ l ラl の時代において﹁メランコリー. 一見無関係の、しかも知性. る、高度の知性によって遂行される高貴な学問とみなされて. にまつわる知性の道具に固まれ、造物主の道具であるコンパ. ここでは、メランコリアの化身 H幾何学の化身は、幾何学. する姿で描かれ、対照的に高貴な知性的学問であり、人間的. きた。︽メランコリアI︾では、. スを手にして、これから人間は何をなすべきであるかについ. 古代以来の四体液説に基づいて、知性からは遠ざかった怠惰. に関して相反する性質を持つ﹁憂欝質﹂と﹁幾何学﹂が一緒. て思いを巡らす姿で表わされている。そして、この姿は、ル. 感情と無縁のものとみなされてきた幾何学が物思いにふける. に表現されている。しかも、メランコリーの化身は、怠惰に. ネサンス時代に幾何学に基づく﹁遠近法﹂という高貴な技術. で無気力な最悪の性質の人間として理解されていた。一方、. 眠りこける伝統的な図像ではなく、覚醒した眼差しで虚空を. を手に入れ、この新たな時代にどのような芸術を創造するべ. 人間的感情を備えた存在として表現されているのである。. 凝視している。この組み合わせと図像の変化は何を意味する. きかについて思い悩む画家の姿と重ねあわされている。すな. 幾 何 学 は 、 古 典 古 代 以 来 、 自 由 学 芸ω2252とのωに属す. のかということが、新たな疑問となる。そして、この意味を. みつつも、自分自身の能力の限界と可能性について深く沈潜. わち、デュ l ラl の︽メランコリアI︾は、人間の弱さに悩. パノフスキ l の最終段階の解釈は﹁本質的意味もしくは内. する画家の自画像、つまりデュ l ラl自 身 の ﹁ 象 徴 的 自 画. 解き明かすことが、パノアスキーの第三段階の解釈となる。. 容﹂を解釈の対象とみなすものであり、それこそがイコノグ. 像﹂なのである。. 図像解釈の世界におけるパノアスキーの業績は陀立する巨. ラフィ lを超えたイコノロジ l の解釈である。 デュ l ラl の︽メランコリア I︾の有翼の女性は、﹁憂欝 質﹂と﹁幾何学﹂というこつの概念がそれぞれ従来の意味や. -7-. 井面. 芸術学における「イコン的転回」.
(8) 文化/第 25巷第 1号 / 2013 9 学 文. 芸術. となった図像の意味を掘り起こし、以前は沈黙していた形象. と語学力によって、歴史の中に埋もれて現代人には理解不能. 大 な 山 塊 に も 比 せ ら れ る 。彼 は 、 他 の 追 従 を 許 さ ぬ 博 覧 強 記. ・:ふいごの 口とみなすことが できる 。 叩. また、メレンコリアのスカートの下になかば隠されている道具は. (多分鉛を溶かすための)、筆入れのついたインク査などであり、. 型、金槌、燃える石炭をはさむための火挟みのついた小さな柑塙. い換えれば画面上の モ チ ー フ を 、 私 た ち が 身 に 付 け た 知 識 と. 、 、 、. この記述は、模倣像を通して媒介される物理的な事実、 言. に語らせる新たな学の装置を構築したと言える。 し か し 、 そ の 大 き な 功 績 に も か か わ ら ず 、 パ ノ ア ス キ ーの イコノロジーが絵画の形と色彩の世界に無頓着であったこと は 否 定 で き な い で あ ろ う。 一般的に考え て 、 絵 画 作 品 は 形 式. 語論であり、イ コノロジ lは意味論に相当する 。 この意味論. 言語学の用語を借りて、誤解を恐れずに言えば、様式論は統. れば、内容面を探究する代表はイコノロジーであるだろう 。. 彩の世界すなわち形式面を探究する代表が様式論であるとす. かぎりにおいて、すでに知っているものの指示、確認にとど. パノアスキーによるイコノロジ l の第一段階の解釈は、この. の一対一の対応関係を求めようとする二元論的図式である 。. にスタティックに対置させ、両者の問に再現、描写、翻訳等. 語的指示作用を可能にしているのは、原像と模倣像を二項的. 経 験 に 基 づ い て 指 示 す る 作 用 を 為 し て い る と 言 え る 。 この 言. 、、、、、、、、、、、. は、しかし、 言 語 の 論 理 と し て の み 展 開 さ れ る 。 先に引用し. まることになる 。 し か し 、 模 倣 像 の 中 の さ ま ざ ま の モ チ ー フ. と 内 容 か ら 成 り 立 っ て い る こ と に 疑 い は な い 。作 品 の 形 と 色. た部分に続けて、 パ ノ ア ス キ ー は 次 の よ う に 記 述 し て い る 。. には、大体が建策と大工仕事の技能に関係する道具や物品がちら. ある木の梯子は建物の不完全さを強訴しているようである 。地面. に は い わ ゆ る 魔 方 陣 が は め こ ま れ て い る 。 石造建物に立てかけて. 未完成の建物には、天秤と砂時計と鐘が吊され、鐘の下の壁. うコ lド内で完結する解釈法であり、このコ lド の 枠 を 突 破. も 、 イ コ ノ ロ ジ lは 根 本 的 に は 、 言 語 的 指 示 作 用 の 展 開 と い. ることになる 。 し か し な が ら 、 最 終 の 解 釈 に 至 っ た と し て. 味﹂を求めて、解釈を第二段階から最後の第三段階へと進め. ずはない 。 し た が っ て 、 パ ノ ア ス キ ー も 当 然 に 絵 の ﹁ 本 質 意. を言葉で指し示すことで、絵画の解釈が十分に満足されるは. ばっている 。前述の挽臼のほかに、 次のようなものが目につく 。. することがない 。確 か に 、 第 二 段 階 に お い て は 、 単 に 画 面 内. A. 泳、、 のこぎり、定規、 や っ と こ 、 何 本 か の 曲 が っ た 釘 、 鋳 カ、ノハノ右. -8-.
(9) り、芸術作品を歴史的記録の中から掬いあげ、それが産み出. ち、パノフスキーにとって美術史学は人文学の一環なのであ. なし、﹁象徴的価値﹂として解釈しようとしている 。 すなわ. 解釈においては、絵画作品を一定の文化的徴候の担い手とみ. る寓意ないし物語との関連へと解釈を展開させ、第三段階の. のモチーフを言語的に指示する確認作業を超えて、背後にあ. つことである 。 るとい ︾. 初めて現出する可視的世界を見ることによって成り立ってい. るのではなく、形象以前には存在しなかった、形象において. よって関連付け、もって認識を得ることを目的として作用す. を前提として、形象と原像との対応関係を言語という媒体に. 観賞は、形象が形象以前に存在した原像の模倣像であること. る。すなわち、すでに示唆してきたことを繰り返せば、美的. G・ FNj) は、ヨーロッパ ベ 1ム ( 。 。2EO門日目。σFB-S A. 理論. ﹁イコン的転回﹂ の 源 泉 と し て の フ ィ ー ド ラ I の芸術. イコン的転回│構造分析とイコニック. 浮かび上がってくることになる 。. ここに、形象そのもの、イコン自体の重要性があらためて. されて現に有るようになった過程を捉え、解釈を施して文化 の体系の中に位置付けることなのである 。 したがって、イコ. 、、、、、、、、、、、. ノロジ lは、形象の存立基盤である視覚的現前の意味を解き 明かすことに積極的に関わってはいないと言わなければなら ない 。G ・ ベ l ムが指摘するように、イコノロジ l の基盤に あるのは、ヲ一一一口語だけがメタ l審 級 を 代 表 す る ﹂ 日 と い う ロ ゴスの論理なのである 。 したがって、 問題点は、 このような記述をいかに詳細、精. 、、、、、、、、、、、、、、. 思想の核をなすロゴス中心主義が、長い間、形象に言葉と同. るもの仏包﹀ 2Z法号。﹂を観賞するとき、私たちは眼で捉. 優れた絵画の前に件み、感性的直観によってその﹁美的な. らず、形象についての学問は一般言語学との類比にしたがっ. 形象学ロロ己主 ωωgω与え汁と呼べるようなものは確立されてお. ち 、 言 語 哲 学 、 言 語 学 は 存 在 し て も 、 形 象 理 論 回EFg 、 H庁. 細に積み重ねても、決して、すでに存在している事象を指示 、 、 する作用から脱出できないということなのである 。. えた事象を単に三一 口語的指示作用によって確認しているのでは. て考察されるかぎり、十分に発展したとは言えないことを指. じ注意を払うことを妨げてきたことを指摘している 。すなわ. なく、言語的指示を超えたもっと豊かなものを見つめてい. 9. 井面. 芸術学における「イコン的転回」.
(10) 文化/第 25巻第 1号 / 2013 9 芸術. 文学. 摘している 。 そして、その例がイコノロジ lに求め られてい. ルやヴェルフリンの様式論が置かれていることは疑いがない. -oHJH hF. ] { ∞ 匂 印 ) の芸術理論にまで遡らなけれ ∞﹁. コンラ l ト ・ フ ィ ー ド ラ 1. であろう。 さらに、両者の理論の根拠を求め、﹁イコン的転. ばならない 。. (問。ロ円山︹円司ぽ巳. の源泉を探るならば、. 一見したとこ ろ ﹁形象論理 学﹂の 名声. 、 る。イコノロジ lは を高めたかに見えるけれども、根本的には形象の言語的指示 作用に基づくものであって、その視覚的現前に基づくもので はないと批判されるのである 。 ロ. 突き合わせることによって、﹁イコン的転回﹂の契機をごく. ここで、 フィードラ l の芸術理論をパノアスキーのそれと. あ る こ と は 当 然 の こ と で は あ る 。 しかし、それは、言語に. 簡 単 に ス ケ ッ チ し て お こ う と 思 う 。 そのことが、最終的にイ. されている 。すなわち、 カントが第一批判において認識の対. 学 問 ﹂ と 呼 ぶという概念規 よ って展開される論理的行為を ﹁. 十九世紀以来の近代芸術学ないし美術史学の展開を跡付け. 象を問うことから認識作用の根拠を問うことへと方法を転換. コニックの意味と価値を理解することに役立つにちがいない. るとき、私たちは、形象を言語に回帰させるのではなく、形. したように、フィードラ lは、芸術が人間の精神や感情に与. {疋を認めるかぎりにおいてのことである 。 ﹁学問﹂ の境界を. 象を形象に、言い換えればイ コンをイコンに回 帰させ ようと. える効果を問うのではなく、芸術活動のいわばア・プリオリ. からである 。. す る 研 究 の 糸 筋 を 紡 ぐ こ と が で き る 。 ベl ムはこの動向を、. な 根 拠 を 問 う の で あ る 。 ﹁芸術的 形象世界の客観的妥当性﹂. 拡大すれば、言語を媒体とする論理的行為のみが﹁学問﹂で. 言語論的転回E ﹁ mZ2tnzs﹂に準えて、﹁イ コン的転回任。. を根拠づけることは、芸術活動の自律性を根拠守つけることと. は な い こ と は 容 易 に 認 め ら れ る 。 実 際 、 レ オ ナ ル ド ・ダ ・. Em﹂と呼んでいる日 o ﹁イコン的転回﹂の. フィードラ l の芸術理論の中心的な問いは、﹁芸術的形象 世 界 の 客 観 的 妥 当 性 は 何 に 基 づ く の か ﹂ uと い う 問 い で あ. 昨 oERZ司自己. 等価である 。 フィードラ lは、芸術活動が悟性による認識か. ヴインチは絵画を﹁自然研究の学問﹂と規定したのであっ. 起源として、 ベl ムの念頭には、十九世紀後半に確立されつ. らは区別される感性的直観に よる独自の認識活動であること. る。 この間いの聞い方には、カントの認識批判の方法が応用. つあった近代芸術学ないし美術史学の始祖と目されるリ l グ. た。. この小論も含めて、学聞が言語によって展開されるもので. 回. ハU.
(11) ないし現実に隷属することになり、その自律性は危険にさら. 然模倣あるいは現実模倣であるとすれば、芸術は常に自然な. 的観念は、徹底的に否定される 。というのは、芸術活動が自. の際、芸術活動が模倣活動であるというギリシア以来の伝統. を示すことによって、この根拠づけを達成しようとした 。 そ. 題は、芸術活動が芸術活動以外の活動によっては達成するこ. なのである 。 それに対して、 フィードラ1 に と っ て の 中 心 課. に絵画研究リ美術史学を人文学の一環として位置付けること. 視﹂以外の作用ではなく、彼にとって重要なことは、最終的. を﹁視ること﹂は絵の中の対象物を同定する﹁再認識する. フィードラ l の 芸 術 理 論 が リ ー グ ル や ヴ ェ ル フ リ ン の 様 式. とのできない、新しい認識を切り開くという芸術の形式面で. り、それが外面的表現活動へと連接することによって、他の. 論 に 与 え た 影 響 は 極 め て 大 き い と い わ ざ る を 得 な い 。様 式 論. されることになるからである 。芸術活動においては、模倣と. 何ものにも依らない自律した形象世界が、新しい現実として. は 二十 世 紀 後 半 以 降 、 作 品 の 品 質 に 触 れ な い 点 や 社 会 と の 関. の自律性を根拠づけることなのであった 。. 産 出 さ れ る の で あ る 。 そして、その自律した形象世界には、. 連を捨象してしまっている点などを理由に不評を買ってき. は決定的に異なる作業が﹁視る﹂という眼の働きから始ま. 自律した眼差しの論理が浸透していることになるのであ. 意義を探究する性格を強くもつこと、端的に言えば形式主義. このよ、つに、 フィードラ l の 芸 術 論 は 、 芸 術 活 動 の 形 式 的. たのがハンス・ゼ l デ ル マ イ ヤ の 構 造 分 析 で あ る と 見 な す こ. 法 が 求 め ら れ る こ と は 当 然 で あ る 。 そして、その努頭に立っ. から成るかぎり、両者の分離できない等価性を探究する考察. た。 し か し 、 ご く 一 般 的 に 考 え て も 、 芸 術 作 品 が 形 式 と 内 容. 的 で あ る 点 で 際 立 っ て い る 。 したがって、 フ ィ ー ド ラ ー が. とができる 。. o 日 7Q. 個 々 の 芸 術 作 品 の イ コ ノ グ ラ フ ィ lを 問 題 と す る こ と は な い のである 。. パ ノ ア ス キ ー の イ コ ノ ロ ジ lを 克 服 す る と い う テ l マは、. 構造分析日│ゼ lデルマイヤの﹁層モデル﹂. 判 に 基 づ く フ ィ ー ド ラ 1は 、 芸 術 作 品 の 内 容 解 釈 に 依 拠 す る. 二 十 世 紀 の 芸 術 学 の 課 題 の ひ と つ で あ っ た 。 そして、その一. ヴァ l ル ブ ル ク 学 派 の 頭 目 パ ノ ア ス キ ー と カ ン ト の 認 識 批. 立場と形象世界の形式主義的考察法に依拠する立場におい. M1HJ. つの方向が、. ハ ン ス ・ ゼ l デ ル マ イ ヤ (国山口ω∞の色白山. て、両極端の位置を占めている 。 パノアスキーにとって、絵. 2. 井面. 芸術学における「イコン的転回」. -Ei. Eよ.
(12) 学 文. 文化/第 25巻第 1号 / 2013 9 芸術. ] ( ∞ 句 。 l. ]{. ∞ 匂. AF). の構造分析によって提示された。. おいても捉えることができなければならないであろう。 団 四. ゼl デ ル マ イ ヤ は 、 構 造 分 析 に よ る 作 品 解 釈 を 通 し て 、 芸. 構 造 分 析 の 基 礎 付 け は 、 論 文 ﹁ ピ 1 テル・ブリュ lゲル・ 盲人の転落構造分析のパラディグマ﹂げにおいて展開され. 術作品の形と意味の総合的理解つまり統語論と意味論の統合. うか 。. 構造分析は、絵を. 層が順に示される 。. l. たあと、 四 つ の 理 解 の. の状態の確認が行われ. に先立って、絵の元々. 明かそうとする。解釈. 成る構造体として解き. 階層的な理解の層から. の︽盲人の転落︾を. こ こ で は ブ リ ュ l ゲル. l. な様相を一示すのであろ. コン的転回はどのよう. 構造分析におけるイ. て構造分析のパラディグマの確立を試みているのである 。. ブリュ lゲルの︽盲人の転落︾(図3) 日に即した議論によっ. を目差したと言える 。 そして、彼の論文の表題が示すように、. ているが、その中で、 ゼl デルマイヤは次のように述べてい. 近年の美術史学は、認識論的意味層つまり直接には与えられ ないアレゴリー的あるいはシンボル的意味は直観的像形態の理解 にとってはなくても済ますことのできるものであり、些細なもの であるという見解をずっととってきた 。 この誤謬は、今日、造形 芸術作品の考察においてはなくなりつつあるが、建築の考察にお いてはまだ強く残っている 。 いまではその反動がやってきてい る。 す な わ ち 、 直 観 的 形 態 が 具 体 的 意 味 の 把 握 の た め に 考 慮 さ れ る こ と な く 、 形 象 の 意 味 の 解 釈 が 偏 つ て な さ れ る の で あ る 。抽 象 的 な 与25宮 イ コ ノ グ ラ フ ィ ! と イ コ ノ ロ ジ l は 、 形 象 の 考 察 に 際 し て 抽 象 的 な 形 式 主 義 に 従 う 。前 者 は 後 者 と 同 様 に 横 暴 で 実. D. りのないものであり、両者とも芸術作品の本質をとらえ損なって いる. つまり 一方 で 可 視 的 形 態 と 形 象. 芸術作品の本質に適った理解が本来の課題を果たすのであれ ば、芸術作品の二つの﹁側面﹂. の 秩 序 、 他 方 で そ こ に 属 す る 意 味 を 、 両 者 の 一致 あ る い は 対 立 に. 1 5 6 8 図 3 ピーテル・ブリューゲル〈盲人の転落~. る. 臼 つ , ー. i.
(13) 井面. 芸術学における「イコン的転回」. ① 観 相 学 的 理 解 仏g FS uzgmDOE-R53ω 円Z 観賞者が絵を﹁瞬間露出的﹂に一瞥で捉えるときに受け取. 性格の対立、すなわち前景における﹁不気味なもの / よそよ いもの己g. そしいもの己gdロ F25rz﹂と背景における﹁居心地のよ 25rz﹂との対立こそが解釈のすべての層を. る﹁気分 ωZBBE伝﹂の把握のことである 。 この気分は、観. 貫く﹁根源的印象﹂を一不すことになるのである 。. 出. 賞者が、絵の中に何が描かれているのか、何が起こっている のか、一つ一つの要素がどのように配列されているのかと. いった気分であることが指摘される 。 ゼlデルマイヤは、気. 落︾におけるそれは、﹁転倒する﹂﹁不気味な﹂﹁不安な﹂と. 象に根拠を持っている 。 そして、ブリュ lゲルの︽盲人の転. 呼んでいる 。すなわち、この層においては、画面内の諸々の. 得られた成果を﹁形成された視覚巳ロ mgEZRωrzE と. 巳 rFB﹂という用語で特徴づけ、それを通して m g g R Dg. ゼ l デルマイヤは、 こ の 理 解 層 を ﹁ 形 成 す る 視 覚 包 ロ. 知覚的ー表象的形式理解. 分を﹁直観的性格﹂とも言い表しているが、それは感情つま. モチーフの形の対象的把握だけではなく、それらの空間内で. いったことを知的に捉える以前の、分節されていない全体印. り﹁内的なもの﹂ではなく、﹁対象的なもの﹂、﹁外的なも. の配列、平面内での配列、さらに平面と空間における色彩の. ﹁形成する視覚﹂は形式的理解の層においてどのように実. の﹂、﹁客観的なもの﹂の直観的性格であると考えている 。 そ 拠﹂であることを音山味している 。芸術の理解は、この最下層. 現されるのか│平面における配列についてのゼ lデルマイヤ. 配列が捉えられるのである 。. にある﹁深層感情的根拠﹂としての意味層からより高次の. の記述を、少し長いが引用しておこう 。. は静穏で親密な気分が捉えられる 。 この二つの気分日直観的. 人たちの背後には牧歌的な田園風景が広がっており、そこで. には別の気分、別の直観的性格が表れている 。すなわち、盲. はこの絵の前景において捉えられる直観的性格である 。背景. なって引かれている 。す な わ ち 、 左 下 隅 の 暗 所 に か か る 短 い 斜 め. 点を置いて強調している 。 下降する斜めの線は、多く の平行線と. 確に言えば下降する斜めの線の束と放物線との結合を、極めて力. ︽盲人の転落︾は左上から右 下に下降する斜めの線を、よ り正. しかし、﹁転倒する﹂﹁不気味な﹂﹁不安な﹂といった気分. ﹁明るい音山味層﹂へと展開されるのである 。. して、 そ の こ と は 同 時 に 、 こ の 気 分 こ そ が 芸 術 作 品 の ﹁ 根. ②. 丹、U. 1﹄ム.
(14) 学 文. の線、土手の手前の線、盲人たちの足、とぎれとぎれに見える土. 場合のように、そのことに対応している 。 この証拠は純粋にコン. 扇状に配置されていることは、手から滑り落ちるトランプ遊びの. もの、重大なこと、必然的なことを与えている 。盲人の体の軸が. るし、 l 純粋に直観的に受け取れば │ 転落に対して何か不可避の. は、運動がだんだんと加速することを卓越した仕方で表現してい. は、極めて目を引く形で、放物線に配置されている 。 この放物線. 五人の盲人たちの肩の線である 。しかし、六人の盲人たちの頭部. に多くの機能を持つことになる、と指摘している点を留意し. めば進むほど、すべての形は形象の構造全体において形式的. あ る 。 私たちは、 ゼl デ ル マ イ ヤ が ﹁ 形 成 さ れ た 視 覚 ﹂ が 進. 端 的 に 言 い か え れ ば ﹁ 形 象﹂ を 理 解 し な け れ ば な ら な い の で. 成 す る 視 覚﹂ の 作 用 を 把 握 し 、 ﹁ 形 成 さ れ た 視 覚﹂ す な わ ち. によってモチーフを配列した結果である。観賞者はこの﹁形. も の で あ り 、 画 家 が い わ ば ﹁ 眼 の 論 理 ﹂ U ﹁形成する視覚﹂. ここに記述された形の配列は、絵の視覚的秩序を形成する. 証明される ﹂必 要はない 。加 ﹁ -. ポジションから来る 。というのは、対象的に考察し、合理的に推. ておかなければならない 。. は、転落という重大事から危害を受けていないままである 。画面. て、特に強く強調されている 。 l そして、最後の三人ないし二人. 解 層 を さ ら に 四 つ の 意 味 層 に 細 分 し て い る 。 すなわち、. に 相 当 す る も の で あ る 。 そして、 ゼl デ ル マ イ ヤ は 、 こ の 理. 第 三 の 理 解 は 、 イ コ ノ グ ラ フ ィ l的 ー イ コ ノ ロ ジ l 的 解釈. c終末論的意味、 d警 聡. ン ト に お け る 盲 人 の 社 会 的 な 位 置 が 解 釈 さ れ る 。盲 人 た ち は. a対 称 的 / 言 語 的 意 味 ブリュ 1 ゲ ル の 時 代 の ネl デ ル ラ. このような平面図式は不可避のものである 。人は、この形象を. 物 乞 い で あ り 、 放 浪 の 民 で あ り 、 巡 礼 者 で あ る 。仰 向 け 倒 れ. -14. 手の奥の線、 二番目と 三番目の盲人の間の杖によって補完された. 論すれば、十分正当に、連なりは転落において引きちぎられる、 ということができるからである 。ーま た出来事 のこの瞬間は、先. の下の部分の斜めの線と対照的に、上の部分では、 左 の屋根の 三. 称 的 / 言語的意味、 b寓意的意味、. 認 識 的 理 解 含ωロ 02-RZ ︿22各自. 角形と教会の背後で静かに伸びている水平線が支配している 。そ. 的意味である 。. 頭の二人と後の盲人たちとの聞にぱ っくりと聞いた裂け目におい. して、教会の塔の縁、その手前の木々、右側のぽつんと立つ木の. ③. 別の仕方では見ることができないし、歴史的比較によって初めて. 幹といった垂直線が支配している 。. a 対. 文化/第 25巻第 1号/2013.9 芸術.
(15) ろしいものとの不協和音 が鳴り響いているのである 。. の絵には、喜劇的な笑いを誘う出来事とぞ っとするもの、恐. きが笑いの対象となっていたことも暗示される 。すなわちこ. であったことが窺い知れる 。 さらに、彼らの﹁喜劇的﹂な動. は、単なる盲人ではなく、強制的に視力を奪い取られた罪人. ことを物語 っている 。また、少な くとも列の 二人目と四人目. 物乞い楽士であること、この村の住人ではない旅の者である. た先頭の盲人の傍らに放り出されているリラハ lプは、彼が. かさ、無分別、あるいは宗教的錯誤の例ではなく、世界と運. 銘文が記されている 。 それと同様に、六人の盲人は単なる愚. に服している 。なぜなら、世界は裏切るからである﹂という. 描いた、︽世界の裏切り︾というタイトルの絵には、﹁私は喪. ば、一人の聖職者から財布を切り取ろうとしている浮浪者を. 常 的 出 来 事 を 通 し て 普 遍 的 意 味 を 表 現 しようとした 。 例え. 解釈される 。ブリュ lゲルは、その多くの絵画において、日. 事を超えて、人聞が盲目的に従わざるを得ない運命の意味が. に理解できる 。 しかし、ここには、単にパリサイ派の誤謬を. イエスが語ったこの寓意を絵画化したものであることは容易. ちてしまう﹂(マタイ、日 -H)ao ブリュ l ゲルの絵が、. する盲人だ 。盲人が盲人の道案内をすれば、 二人とも穴に落. 年後の観賞者を視野に収めていたかどうかの証拠はどこにも. できるかど、つかの間題でもある 。ブリュ Iゲル自身が五0 0. 釈される 。それはこの絵において現代的なものを語ることが. ることをより広い意味で﹁壁画聡的﹂と理解し、その意味が解. d桂雪 的 意味二﹂の絵を観賞者リ我々の似姿として受け取 国 防山. 命 と 人 間 の 盲 目 性 を 普 遍 的 に 表 す も の で あ る 。 その意味は. 指摘する宗教的意味(この点で、背景に描かれた教会のもつ. ない 。 しかし、その可能性は、 二番目の盲人が、転倒する寸. b寓意的意味 . ﹁盲人を導く盲人﹂の寓意の意味が解釈さ. 意味は重要である 。盲人たちは 教会の前を素通りし ようとし. 前の姿勢の中で、我々の方を(盲目にも関わらず)見つめて. ﹁終末論的﹂と名付けられる 。 なぜなら、世界の盲目性は人. て転落する)だけではなく、世俗的な道徳的意味、すなわち. いることに示唆されている 。盲人のこの訴えは我々の自己認. れる 。 マタイ福音書は、パリサイ派の人々に対するイエスの. 無知の罪とブリュ lゲルの表現の常套手段である﹁逆転した. れ﹂が合意された訴えであると解釈されるのである 。 “ 明. 識への訴えであり、デルフォイの神託のひとつ﹁汝自身を知. c終末論的意味一盲人の転落という一回限りの偶然の出来. 世界﹂とが一不されていると解釈される 。. 間の運命の最後の事態に関わるからである 。. 井面. 言葉を、次の ように記録している 。 ﹁彼らは盲人の 道案内を. 芸術学における「イコン的転回」. -15-.
(16) り高次の秩序を持った﹂観相学的理解とみなしている 。すな. ゼl デルマイヤは、最後に到達した﹁統合的理解﹂を﹁よ. 認識的理解の層に属する、対象的 / 言語的意味、寓意的意. わち、最初の一瞥によって捉えられる﹁観相学的理解﹂リ. 統合的理解己gEZmg-。︿2ωZFOロ幻. 味、終末論的意味、壁一一冒険山的意味の四つの意味層はひとつの統. ﹁気分的理解﹂は、螺旋状の道程をたどって形式的理解と認. l. 表象的. 一を形成すると同時に、観相学的理解の層と知覚的. に担われた音山味との聞に打ちたてられた相互充実の関係へと. 識的理解を超え│部分から全体が形成され、その全体から諸. この統一性は、しかし、この絵のすべての層を貫いて響く. 至 る の で あ る 。 ﹁形成する視覚﹂と﹁形成された視覚﹂の意. 形 式 理 解 の 層 と 統 合 さ れ 、 ブ リ ュ lゲ ル の 絵 画 ︽ 盲 人 の 転. 不協和音に基づいている 。すなわち、前景では下降する斜め. 味 合 い も 、 こ の 点 に 求 め ら れ る で あ ろ う 。 ゼl デ ル マ イ ヤ. 層の中で﹁作品﹂の充実が形成される l 、直観的形態とそれ. の線と放物線の曲線が支配し、背景では静止した水平線と教. は、論文の締めくくりに次のように述べている 。. 落︾の統一性が成る 。. 会 の 塔 の 垂 直 線 が 支 配 す る 。前 景 で は 悲 劇 的 で 不 気 味 な 出 来. かし、一方で悲劇的 ー動的、他方で牧歌的ー静的の二つの対. しいもの﹂と背景における﹁居心地のよいもの﹂である 。 し. れている 。 つまり、前景における﹁不気味なもの / よそよそ. る。 このようなすべての標表の中に直観的性格の表現が含ま. てはまる 。 ﹁人聞がいかに遠く、 いかく深く自分と自然の秘密に. ばする 。小宇宙としての真の芸術作品にもゲ l テの次の言葉が当. 以前は気づかなかった新しい側面が生まれると言う体験をしばし. なものを見て捉えたと信じる作品に突然に新たな光が当たって、. いかなる理解も閉じたものとしては妥当しない 。 人 は 、 本 質 的. 事が起こり、背景では牧歌的な田園風景の静読さが支配す. 照的な領域は、﹁盲目﹂という点でフ l ガ の よ う に 重 な り 合. o 担. 入り込んだとしても、何も決定されず、何も閉ざされない﹂. 構造分析の目的は、パノアスキーのイコノロジ lを克服し. 構造分析の ﹁イコン的転回﹂ の意味とその批判. うとゼ l デルマイヤは考える 。前景の盲人たちとその運命だ けが盲目なのではなく、背景の田園地帯の被造物もまた﹁沈 黙している﹂ 。 そして、 ゼl デルマイヤは、 その﹁沈黙﹂を 自然の﹁存在的盲目性の擬人化﹂ で あ る と 解 釈 す る の で あ. て、﹁芸術作品の二つの﹁側面﹂、つまり一方で可視的形態と. -16-. ④ る。. 3. 文化/第 25巻第 1号 / 2013 9 芸術 文学.
(17) 井面. 芸術学における 「 イコン的転回」. 形と音. は対立においても捉えること﹂ぞ言いかえれば芸術作品の. 形象の秩序、他方でそこに属する意味を、両者の一致あるい. 輪郭と色彩﹂(リーグル)としての﹁小宇宙﹂とみなし、そ. (イコノロジ l) のではなく、作品を﹁平面と空間における. ロゴスの世界において捉えられる事象の媒体として解釈する. とするのである 。端的に言えば、イコンの世界を損なうこと. の﹁小宇宙﹂を解体することなく意味の統一性を探究しよう. 構造分析の組織は、部分的にはパノアスキーのイコノロ. なく、さまざまの 意味層を統合しようとするわけである 。そ. 統合することにあった 。 ジl の解釈モデルに投影することができるように見える 。 パ. ゼlデルマイヤは、﹁ピ I テル・ブリュ lゲル一盲人の転. して、この点に構造分析のイコン的転回の意味を認めること. まっていく意味層を構想したのであったが、それに応じるか. 落﹂に先立つ論文、﹁厳密な芸術学のために﹂(忌 ω同 年 ) ぉ. ノアスキーは解釈を 三 つの段階に区別し、前イコノグラ. たちで、ゼ lデルマイヤによる︽盲人の転落︾の構造分析に. において、﹁ひとつの﹂理想的な芸術学を想定し、それを構. ができるであろう。. おける﹁認識的理解﹂は、それが対象的 /言語的意味という. 成する 二 つの互いに独立的な要素として﹁第一の芸術学﹂と. フィ l ーイコノグラフィ 1 ーイコノロジ!の順に解釈が深. 対象の同定の作業を含む限りは、パノアスキーの前イコノグ. 第 二の芸術学﹂を区別して論じている 。 ﹁. ﹁第一の芸術学﹂ということでゼ l デルマイヤの念頭にあ. ラフィ 1 的 解 釈 に 対 応 し 、 ﹁ 寓 意 的 意 味 ﹂ は イ コ ノ グ ラ フィ lに、そして﹁終末論的意味﹂と﹁警験的意味﹂の層は. るのは、様式論、様式批判あるいはイコノグラフィーなどで. ある 。それらの方法論の特色は、ある形像が芸術的形像とし. 、、、、、、、、、、、. ﹁本質的意味﹂ の解釈としてのイコノロジ lに対応すると見 なすことができるであろう 。. し、結論を引き出せる点にある 。す な わ ち 、 第 一の芸術学. て理解されたという事実がなくても、その形像について発言. 、、、、、、、、、、、、、、、、. (﹁理解する﹂ことではなく)によって﹁瞬間 露出的﹂に捉え. は、芸術作品を芸術作品として了解していなくても理解する. しかし、重 要 な こ と は 、 構 造 分 析 は 、 絵 を ﹁ 視 る ﹂ こ と. られる絵の﹁根源的印象﹂としての﹁気分﹂川﹁直観的性. ことのできる構成要素を取り扱うのである 。. それに対して﹁第 二の芸術学﹂は、抽象化された空虚な図. 格﹂を、﹁形成する視覚﹂の作用を通して﹁形成された視覚﹂ として捉えようとすることにある 。換言すれば、芸術作品を. 円 i i 市.
(18) を、換言すれば具体的直観的形態を理解することによって. 術的特色つまり芸術的質の担い手としての形(フォルム). たのかという聞いを立てる場合、この間いは、この形式の芸. す る に 際 し て 、 な ぜ パ シ リ カ 形 式 が 四 世 紀 の ロ 1 マで発達し. 。gH己円﹂に取り組むものである。例えば、パシリカを考察. て い る だ け で は な い の か 、 と い う 疑 い が 残 る の で あ る 。解 釈. 層感情的基盤へと二万的に結び付けられ、その確認に奉仕し. 理解以降の解釈はすべて、最初の理解の根拠となっている深. が、他のすべての意味層の根拠、前提となっており、気分的. に よ っ て 把 握 さ れ る 直 観 的 性 格 u不 気 味 さ 、 よ そ よ そ し さ 等. を把握していることになるのであろうか 。最初の気分的理解. 色彩によって初めて産み出した新しい現実﹂(フィードラ l). はじめて説明がつくのであり、それに対応するのが﹁第二の. の道程は、螺旋曲線を描くにも関わらず、結局はひとつの線. 式ではなく、芸術的形像を構築する具体的ー直観的な﹁形態. 芸術学﹂すなわち構造分析なのである 。. せて、それを上から透かして見るだけで、絵において初めて. の 上 を 動 く に す ぎ な い の で は な い か 。音. 意味から高次の意味へと至る階層的体系を形成している点に. 現出する豊かな可視的世界を理解したことになるのであろう. 構造分析による解釈モデルの特色は、意味の諸層が低次の あると考えられる 。 ゼl デ ル マ イ ヤ 自 身 は 次 の よ う に 述 べ て いる 。. 最初の気分理解から、形式的像構造と階層的像意味との分節的 理解を超えて、道のりはいわば螺旋曲線を昇ったり降りたりし. 一つ一つの獲得され. て、より高度の秩序の観相学的像理解︹ H統合的理解︺ へと達す る。この最後の理解は、その道程において、. このような疑いの解消に向けてひとつの方向性を示したの. が、構造分析をも乗り越えようとした、 マックス・イムダ 1. ( 富 山 MH ∞ ∞ ) の提唱する﹁イコニックFS昨 ﹂ EFSNE。 百 円 であった 。. イコニック一ぎコ安│イムダ Iル の ﹁イコン的転回﹂. 系 を き っ か け と し て 始 ま る 。 この理解の仕方は、﹁絵が形と. しかし、構造分析への疑いは、この意味の諸層の階層的体. 組む点において評価し、自らの方法論すなわちイコニックと. がイコノロジ 1を 克 服 す る 意 図 を も っ て 芸 術 作 品 の 質 に 取 り. た経験を内にとりこみ、統合し、活性化するのであるぞ. ユ カ jレ. イムダ l ルは、 ゼ 1 デ ル マ イ ヤ の 構 造 分 析 に つ い て 、 そ れ. 4. 文化/第 25巻第 1号 / 2013 9 芸術 文学. 。 。. 可Ei.
(19) 井面. 芸術学における 「 イコン的転回」. どうかについて、また﹁形象の現在化の潜在力﹂を汲みつく. 解釈の﹁パラデイグマ﹂(ゼ l デルマイヤ)となりうるのか. の共通性を認めている 。 しかしその一方で、構造分析が絵画. て、イコニ ック は 芸 術 作 品 を イ コ ン へ と 還 元 す る 。 すなわ. 者は深層感情へと還元してしまったことにある 。 それに対し. 品を芸術作品ならざるものへと、すなわち前者は象徴へ、後. しかし、何が達成されたとき作品はイコンに回帰したこと. ち、形象は形象自身へと回帰するのである 。. H W F跨が. すことができるのかどうかについて疑念を呈するのである 。 イムダ l ルによれば、戸。m F }内が Fomgに対応し、. になるのか、そして、それはどのようにして可能となるので. に対応するように、目。ロ野は目。ロに対応する 。 ﹁形象. 何 昨 日 5 ω. アレ I ナ ・フレ. あろうか 。. イムダ I ルのイコニ ックは、 ﹁ ジヨ ット. 学﹂あるいは﹁形象論﹂とでも訳すほかないイムダ l ルの命 名によるこの学問は、芸術作品の研究を遂行する本来的な場 をイコンリ形象と定め、決してそこから遊離せず、形象の自. てしか捉えられておらず、かつ作品の意味は最終的に深層感. ゼlデルマイヤの﹁層のモデル﹂が単純な意味層の連続とし. 味 の 総 合 的 理 解 を 目 差 す も の で あ っ た が 、 イ ム ダ l ルは、. されることとなった 。 一方、構造分析は、芸術作品の形と意. 存立基盤である﹁平面と空間における輪郭と色彩﹂は等閑視. 解釈を目的とするものであり、それと引きかえに芸術作品の. の文化の﹁象徴﹂とみなし、その象徴的意味や価値の発見と. すでに確認したように、イコノロジ lは、芸術作品を一定. それらの作用が、デノテ lションもコノテ lションも含みつ. 対象物を指示する作用(対象指示作用)を含むのであるが、. 用(一アクスト指示作用)を含み、行為する人物たちゃ様々の. の物語画は、 テクストが言語で記述する出来事を指示する作. いる 。 したがって、ジヨ ットの描くマリアの物語画、イエス. いる救済史は複数のナラティヴなテクストとして伝えられて. とキリスト伝を描き出したものである 。前もって与え られて. 礼拝堂のフレスコ・サイクルは、救済史に基づいてマリア伝. おいて展開されている 。周知のように、ジヨ ットのアレ lナ. スコ│イコノグラフ ィl ・イコノロジ l ・イコニツク﹄却に. 情的基盤日直観的性格へと還元されてしまい、形象が形象と. つ、形象性において統一されている 。それゆえ、アレ lナ・. o. して産み出すものが正しく把握されていない点を批判する 。. フレスコの解釈は、この状況に応じて、諸相から成る複合体. 律性の根拠を解明することを目標とするお. 結局のところ、イコノロジ lと構造分析の欠陥は、芸術作. -li. ハHd.
(20) 文化/第 25巷第 1号 / 2013 9 芸術 文学. を形成することになる 。 イムダI ルは、 マ ック ス ・ ド ヴ ォ ル ザ ー ク (富山阿巴︿。芯 }F. 的、自己立法的関係に向けられた眼差しによって成立するも. のであり、イムダ l ル は こ の よ う な 眼 差 し を ﹁ 視 る た め の 視. g ﹂と呼んでいる 。. 性の克服﹂であると見なした 。すなわち、ジヨット絵画に. 的克服﹂却に求めたことを敷桁し、それを根本的には﹁偶然. ス コ ・ サ イ ク ル で あ る こ と を 論 証 し た 点 に 、 イ ム ダ 1 ルの. 形 象 世 界 が 成 り 立 つ と い う こ と 、 そ の 証 拠 が ジ ヨ ットのフレ. この二種類の視の方式が交差するところに自律的な絵画的. ︹ 芯ωωoFB 門 目 。 ロ ∞ 各. は、偶然性を必然性に変換する多様な装置が多様な段階で含. ﹁イコニ ック ﹂ の 本 質 が あ る と 言 え る 。 以 下 、 イ ム ダI ルが. がジヨ ット 絵 画 の 草 新 性 を ﹁ 可 視 的 世 界 の 芸 術. まれていると考えるのである 。それを実現するための装置. 例 示 す る ジ ヨ ット の 具 体 的 作 品 に 即 し て 、 彼 の ﹁ イ コ ニ ツ. 525NH). は、大きく三つあることが示される 。 物体と空間の透視的・投影的具象化 場面の演出/振付け 平面幾何学的全体構造. 前 二者 は テ ク ス ト 指 示 作 用 、 対 象 指 示 作 用 を 含 む も の で あ る。 そ の 場 合 、 絵 を 見 る 眼 差 し は 、 物 語 の 場 面 や 登 場 人 物 を 同定するために働くことになる 。 つまり、その眼差しは、観 察可能な外界を見つめるものであり、外界の尺度に従って 諸々の対象物を判定する眼差しである 。 イムダ!ルはこのよ う な 眼 の 働 き を ﹁ 再 認 識 す る 視 己gヨ 片 5ES 包 222 FFS﹂ と 呼 ん で い る 。 それ に対 し て 第 三 の 平 面 幾 何 学 的 全 体構造は、前もって与えられた外界に基づく構造ではなく、 画 面 内 在 的 な 原 理 に よ っ て 生 成 し て く る 構 造 で あ る 。 した がって、 こ の 全 体 構 造 は 一 形 象 の 場 ロ EEE の 自 己 規 範. 1 3 0 4 0 6年頃. 図 4 ジヨ ッ ト 《 キリストの逮捕 ~. 3 2 l. ハ U. つ山.
(21) イ ム ダ l ルは、 こ の ジ ヨ ッ ト の ︽ キ リ ス ト の 逮 捕 ︾ と 、. その眼差しを受け止めている 。. ︽キリストの逮捕︾(︽ユダの接吻︾あるいは︽ユダの裏切. アッシジのサン・フランチェスコ聖堂上堂に描かれた、作者. ク﹂を跡付けることにする 。. 図4) は 、 周 知 の よ う に 、 イ エ ス を 裏 切 っ て ユ ダ ヤ の り︾) (. 不 詳 ( ﹁ キ リ ス ト の 逮 捕 の 画 家 ﹂ と 呼 ば れ て い る ) の︽キリ. トの絵では、 ユ ダ が イ エ ス に 近 づ い て 抱 擁 し 、 ま さ に 接 吻 を. 大祭司の手に売り渡す契約をしたイスカリオテのユダが、逮. イコノグラフィ l的 理 解 と し て は 、 こ の 場 面 が 複 数 の 福 音. する前の瞬間が描かれている 。 それと同時に、兵士たちの集. ストの逮捕︾(図5) と を 比 較 し 、 ジ ヨ ッ ト の 絵 が 観 賞 者 の. 書に関係していることが示されうる 。大祭司の遣わした兵士. 団 が 画 面 右 か ら イ エ ス に 向 か っ て 前 進 す る 一方 で 、 も う ひ と. 捕するべき人物を兵士たちに知らせる合図としてイエスに接. たちが剣や棒などの武器を持ってイエスを逮捕にしにやって. 感 情 的 共 体 験 に 向 け て 聞 か れ て い る こ と を 指 摘 す る 。ジ ヨッ. 音書であり、 ヨ ハ ネ 福 音 書 だ け は そ の 報 告 を し て い な い 。 そ. ダの接吻を報告しているのは、 マタイ、 マルコ、 ルカの三福. の中で、イムダ l ル は ル カ 福 音 書 に の み 記 述 さ れ て い る イ エ スの﹁ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか﹂(ルカ. 2 ・必)という二百葉に注目をする 。ジ ヨットの絵では、イエ スとユダの唇は接していない 。 イ エ ス の 言 葉 と ジ ヨ ッ ト の 絵 を重ねれば、ジヨットが接吻そのものの瞬間でも接吻の後の 瞬間でもなく、接吻の前の瞬間を描いたことが推察される 。 二人は横顔で描かれ、その聞には隔たりがあって、それが互 いの目を見つめ合うことを可能にしている 。 イエスは鋭い眼 差しによってユダの眼を見つめ、 ユダはイエスを抱擁して、. 図 5 キリストの逮捕の画家 2 9 0年代 〈 キ リストの逮捕} 1. きたことは、すべての福音書に一記述されている 。 しかし、. 井面. 吻をする場面である 。. こL. 芸術学における「イコン的転回」. ょ. E っ ω.
(22) 集団とユダのすぐ背後にいてイエスの方に向き合っている 一. つの集団はすでにイエスを包囲している 。 この 二 つの兵士の. ニッシユな質が、物語の意味内容といわばアマルガム化し. ならない 。す な わ ち 、 平 面 幾 何 学 的 全 体 構 造 を 形 成 す る イ コ. よ って生産されるイ コニ ッシュな表現力に求められなければ. 眼を対象物の確認のために使用するのではなく、﹁視るた. 人の兵士とが協働して、 ユダが行動してイエスのところに到. 高め、共に体験し共感する観賞者への強いアピールとなって. めに視る﹂眼の作用を働かせるならば、つまりこの形象世界. て、イエスの逮捕という複合した場面の形象性を実現してい. いることを、イムダ l ルは指摘している 。 そ れ に 対 し て 、 サ. がどのように構築されているのかを探りだして、平面幾何学. 着し、抱擁し、まさに接吻するという時間経過を強化してい. ン・フランチェスコ聖堂上堂の︽キリストの逮捕︾では、イ. 的コンポジションの秩序を発見するために使用するならば、. るのである 。. エスは正面観で描かれており、イエスが接吻を巡る事件の渦. 眼 は 、 こ の 絵 を 左 上 か ら 右 下 に 貫 く 一本 の 線 が 隠 さ れ て い る. 22-. る。 こ れ ら の 表 現 価 は 逮 捕 さ れ る イ エ ス の 受 動 性 を い っ そ う. 中 に 現 在 進 行 形 で巻き込まれてはいないことが指摘される。. ことを探り出. す。 す な わ. と い う の は 、 イ エ ス は 明 ら か に 、指 を 二 本 出 す 命 令 の 身 振 り をして、大祭司の部下マルコスの耳を切り落としたシモン・. 後でイエスを. て 、 ユダの背. し唇を通つ. ユダの眼ない. 眼ないし唇、. からイエスの. げられた梶棒. 背後で降りあ. ち、イエスの. もっとも重要な意味層は、﹁視るために視る﹂眼の働きに. 象 物 の 同 定 に 基 礎 づ け ら れ た も の で あ る 。 しかし、この絵の. 的解釈に対応するものであり、﹁再認識する視覚﹂による対. ここまでの意味層は、イコノグラフィ l的ーイコノロジ l. のである 。. の逮捕という恐怖に共感的に参加することは拒絶されている. じているからである 。すなわち、ここでは観賞者は、イエス. ペテ ロ に ﹁ 剣 を さ や に 納 め な さ い ﹂ ( ヨ ハ ネ 、 同 ー 日 ) と 命. 斜めの線 図 6 図解. 芸術・文化/第 25巻第 1号 / 2013 9 文学.
(23) 井面. 芸術学における「イゴン的転回」. 的な意味を持っている 。 この斜めの線の起点は、しかし、左. の線は、画面全体のコンポジションの統一を条件守つける決定. し て 画 面 右 下 へ と 伸 び て 行 く 直 線 で あ る ( 図6)。 この斜め. 指さす身振りをするパリサイ人の右手人差し指、右腕を経由. 的な線であり方向価である 。 そして、この﹁場の線体系﹂は. ものではなく、具体的対象物の形を貫いて含まれている抽象. 線は、いうまでもなく具体的な対象物を指示する機能を持つ. を ﹁ 場 の 線 体 系FEE-gω3ZB﹂と名付けている引をこの. 出 さ れ る も の で あ る が 、 イ ム ダ l ルは、このような線の構築. ︽キリス トの逮捕 ︾ に 含 ま れ る 斜 め の 線 は 、 イ エ ス の 劣 勢. 上端にあるのでも右下端にあるのでもなく、イエスとユダの. きつかれ、裏切りの眼差しを突き付けられつつ接吻され、こ. と優勢を同時に意味する線であるが、この両価性を超克して. ﹁意味論的な意味複合体﹂の根底に横たわ っている ﹁統語論. の次の瞬間には兵士たちに逮捕されて、やがて数々の恥ずか. 直観的統一へと調停するイコニ ッシユな意味複合体であるこ. 対峠し合う眼の間にある 。 イ エ ス の 眼 と ユ ダ の そ れ と の 関 係. しめを受ける運命にある 。 したがって、この瞬間のイエスは. とを、イムダ l ルは強調する 。加えて、この意味複合体は言. 的構成形式﹂戸なのである 。. 劣勢にあり受動的役割を担っていることになる 。 この音山味に. 語的に語る仕方では決して具体的直観へともたらすことがで. は、両価的関係を苧んでいる 。すなわち、イエスはユダに抱. おいては、この斜めの線は、とりわけパリサイ人のイエスを. きないことが重要視されるのである 。. イムダ l ルは意味複合体としての︽キリストの逮捕︾を、. 指さす身振りによって強調されて、右下から左上に上昇する 運動│右からやってくる兵士たちの集団も一役買っているー と し て 読 み 取 ら れ る の で あ る 。 しかし、他方で、イエスは、. いま、︽キリストの逮捕︾の絵をひとつの意味複合体 Aと. おおよそ以下のように分析している 。. の子を裏切るのか﹂という言葉とともに能動的かつ優勢の役. するならば、 Aを根拠、づける別の根拠がこの複合体に内在し. 毅然としてユダの眼を見下ろし、﹁ユダ、あなたは接吻で人 割 を 果 た し て い る と 言 え る 。 この場合、斜めの線は、左上か. 斜めの線によって達成された平面幾何学的コンポジション. ている 。すなわち、﹁視るための視覚﹂によって支えられる. 画面の平面幾何学的コンポジションを密かに支えるこのよ. (Bとする)、そこに含まれるイエスの劣勢の可視的表現 (C. ら右下へと下降する運動を示すことになる 。. うな線は、ジヨッ トのアレ lナ ・フレス コの多くの画面に見. 司ぺU. つ山.
(24) 25巷第 1号 /2013.8 文化/第 芸術 文学. によって根拠づけられ、逆に BはCとD の根拠づけとなって. の根拠づけの関係において直観的に同 一で ある 。BはCとD. の持続的経過を表現しつつ、同時にイエスの凝視によってユ. くは征服し難さのことである 。 ジ ヨ ッ ト は 、 逮 捕 と い う 事 件. 優勢とは別の、それ以上のものとは、イエスの至高性もし. エスの優勢は、それが同時にイエスの劣勢であり意味複合体. いる 。CはBとDにおいて根拠づけられ、逆にCはBとD の. ダの行為が 一瞬静止し、受動性へと転換する瞬間を描いた 。. とする)、そこに含まれるイエスの優勢の可視的表現 (Dと. 根 拠 づ け と な っ て い る 。 DはBとC において根拠づけられ、. この瞬間において、時間の持続、出来事を超えたイエスの至. を基礎 キ つける価でもあることによ って、優勢とは別のものと. 逆に DはBとC の根拠づけとなっている 。 そして、対立の超. 高性が活性化され、観賞者に体験可能なものとして現在化さ. 、 す る ) で あ る 。 Aを 根 拠 づ け る こ れ ら 諸 根 拠B ・C-Dは. 克 を 表 す イ コ ニ ッ シ ュ な 意 味 複 合 体 Aは 、 そ の 根 拠 づ け と. れている 。 観 賞 者 が 体 験 す る こ と の で き る ﹁ ま さ に. なり、それ以上のものとなる おo. なっている多様な意味B ・C ・Dをはじめて根拠づけるので. として現在化されたアクチュアルな瞬間は、しかし、斜めの. それ自身A によ って根拠づけられている 。B ・C-Dは、そ. もある 。対立の超克を表して意味複合体へと調停することが. 線が人物の位置と行為の瞬間を結びつけることによって実現. と な り 、 そ れ 以 上 の も の と な る 。形象において初めてイエス. 可視的 表 現 で あ る こ と に よ っ て 、 そ の よ う な 価 と は 別 の も の. 価であるにも関わらず、それが同時にイエスの劣勢と優勢の. は音山味複合体を基礎づける価となる 。斜めの線はそのような. において充足され、そこで終結してしまうことにある 。すな. くねった道 ﹂ を 進 む と し な が ら も 、 結 局 は 最 初 の 直 観 的 性 格. は、構造分析の解釈が、多様な意味層のなす﹁螺旋の曲がり. ダl ルは、ゼ lデルマイヤの構造分析を批判する 。 その要点. 以上のようなイコニックの方法論的特性に基づいて、イム. l. いま﹂. できる契機は、前もってイ コン の外に与えられているわけで. されたイコニ ッシユな必然性でもあるのである斜. の劣勢は、それが同時にイエスの優勢であり、意味複合体を. わち、構造分析の解釈構造はヒエラルヒ l的秩序によって支. O. はない (つまり、福音書の中にこの対立の超克の契機を求め. 基礎づける 価 で も あ る こ と に よ っ て 、 劣 勢 と は 別 の も の と な. 配され、対立を超えるものを欠いた閉じた解釈であると見な. ることはできない)。形 象 リ イ コ ン に お い て 初 め て 斜 め の 線. り、それ以上のものとなる 。 そして、形象において初めてイ. -24.
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