洪武帝期・日中関係研究の動向と課題
18
0
0
全文
(2) 東京大学出版会・1992)「室町幕府外交における五山画一絶海中津:を道心に一」(r日本 歴史』537・1993>が出されたことに、筆者は注目したい。 筆者は(1>洪武期の日中関係、特に洪武帝の対田政策の意図したところは何か。(2>征西 将軍府は、果たして本当に「伝統的な日本外交」を意識してその対店を行ったのか。(3)洪. 亡帝が「貝本国王良懐」として朝貢を許したことに関して室町幕府はどのような外交政策 をとろうとしたのであろうか。演武帝期という特定の時期に限定されすぎて、対外関係史 の研究には視点がやや狭すぎるという嫌いはあるが、この三者の思惑について、また日明 の禅僧の政治的活動も踏まえつつ、いくつかの重要な問題に分類して研究動向を明らかに し、その研究動向について問題点を述べてみたい。 研究動向と問題点 (一〉明使記載の派遣. 洪武元年(1368)11月目洪武帝は即位するや否や、 「遣使出即位。頒詔。報晶晶南・占. 城・高麗・日本各四夷君長」(『忌明通論』巻二〉として諸国詔諭をおこなった。『太祖 実録』には記載はないが、日本へはおそらく来日途中に海賊に襲われ殺害されたようであ る(p。その後、洪武二年正月乙卯(20日)「遣使以即位詔。諭日本・占城・爪畦・西洋諸 国」、洪武二年二月辛未(6日)「遣呉用・顔宋魯・心惑等。使出城・爪畦・日本等国」 (『太祖実録渥)とある。佐久間重男氏はこのr太祖実録』の両記事の間はわずか16日に すぎないので、おそらく同一内容を述べたものであろうと言われている(2}。この時の使者. 血忌が洪武帝の詔書をもたらした先は、征西将軍府の懐良親王であった(31。この時懐良親. 王は使者5人を斬り、楊載・呉文華を三ヶ月間も抑留した。鄭揉生氏は「懐良親王のこう いう振る舞いは、要するに一地方勢力にすぎない征西将軍府の力の限界を暴露したもので、 征西将軍府はたとえ九州の現地にあったといっても、その取り締まりが容易でなく、明当 局の要求になんらこたえることが出来なかったことは想像に難くない」と言われ、「懐良 と倭憲との間にはなんら直接の連繋はなく、日本国内の紛争が倭憲の跳梁を許した」と論 じられた働。. しかし、従来の論文は「わが国伝統的外交」「明國書の無礼」から懐良が使者を斬った ことを当然のこととして論じられてきた(51。また,藩論と倭憲との関係についてはさまざ まな論考が出されているが、栗林宣夫氏は、懐良と熊野、瀬戸内の河野・忽那氏らの水軍 または九州の中小豪族(倭寵の母体)とは関係があり、倭竃は優良の与党であると論じら れている(6〕。. (註). (1)『大貝本史料』第六編之三十七所収「明国書並明使仲猷祖聞・無逸克勤尺順」の天 龍山住持宛書簡に「主語命直証日本通好。舟至境内。遇賊殺殺害来使。詔書殿溺。. 一93一.
(3) 尋有島民。鍮面作冠。激画論函。」とある。 (2)佐久間重男「明初の日中関係をめぐる二、三の問題一歪面帝の対外政策を中心とし. て一」(『北海道大学人文科学論集韮第四号・1966、『日明関係史の研究』吉川弘 文館・1992に所収〉。 (3)交渉相手に油画をなぜ選んだかという問題については、田中健夫氏は、征西将軍府. をもって日本外交接待の公式の役所である太宰府の後身として意識していたと述べ られている。 (田中健夫・前掲書)。. (4>鄭誌面r明・日関係史の研究』(雄山閣・1986)。. (5)藤田明r征西将軍宮』(東京右文館・1915)、辻善之助・前掲書、秋山謙蔵・前掲 書等。 (6)栗林宣夫「日本国王良心の遣使について」(r文教大学教育学部紀要』13・1979)。 (二)明使出秩・朱本と祖来の派遣について (a)懐良の祖来派遣. 洪武二年の使者楊載の派遣失敗後、洪武三年(1370年〉三月、太祖は山東莱州府承知趙 秩・御史台掌朱本を使節として派遣してくるq}。その文面は(1)詔諭した他の海外諸国が 入貢しているにも拘わらず、日本が挿画に答えなかったことに対する葬難。(2)「華夷之分」 を強調して重ねて朝貢を促す。というものであった。. 酢太祖実録退(巻六十八)では「臼本前王述懐画面臣僧士官進表箋貢馬歯方物。並僧九 人来朝。又送至明州・台州被虜男女七十鯨口。先是趙秩等往其國宣諭。秩涯海至析木崖入 歯境。郭者拒幽幽。秩以書達其王。王乃延秩入。秩諭以中國威徳。而詔旨有責譲其不臣中 國語。王日。吾國難夷僻在扶桑。未嘗不慕中國之化而通貢奉。(中略)於是其王気沮下堂 延秩。禮遇有加。至是奉表箋。藩臣遣祖来随秩入貢。(後略)」とある。. しかし、従来の研究者はこのr太祖実録』の記事を信用せず、戦前では藤田明氏が「恐 くは親王秩を逐はせられ、秩已むなく貢物・国書を偽作し、祖来なる者を伴ひ帰りしに過 ぎず、太祖之に誤られ、富来を厚遇せるものなるべし」と偽作説を主張され(2}、辻善之助. 氏は「この祖来を遣されたといふことは、果して事実か否やわからぬ。或は趙秩が私につ れてかへってごまかしたのかも知れぬが、親王が趙秩と交渉せられたことは事実であろう」 とされている(3)。. 戦後になっても石原道博氏は「果たして臣と称されたかどうかは疑問で、あるいは文案 起草者の舞筆か明の義臣の潤色ででもあろうか」いわれ剛、佐久間重男氏は「おそらく、 中国側では、日本使節が表文ならびに進貢物としての名馬・宝刀などをもたらしたことを もって臣服の意志表示と解釈したのであろう」と述べられた㈲。 田申健夫氏は「真相は史料の表面から読みとることはできないが、佐久間氏のいう誤解. 一94一.
(4) 説、藤田氏のいう偽作説はともに、征西将軍府は中国との正式通交を希望するはずはない という想定の上での立論である。私もまた征西将軍府が伝統的外交方針を大きく旋回させ る意志もなく、またその力もなかったろうと想定し、両氏の説に賛同するものである。ま た太祖が後に征西将軍をさして「国主詠懐」とか「日本正君」と称して、正式の通交の対 象としてきたことを思えば、藤田氏の偽作説の:方がより真相に近かったように思われる」 といわれている(6}。以上述べた如く、従来の研究は征西京評論が中国の朋封体制下に入る. ことへの拒否という伝統的外交方針を変えるはずがないという視点からの考察が大半であ った。. これに対して、今枝愛真民・村井章介氏は「実録の書きぶりには、むろん息急に都合よ く誇張された点があろう。懐良親王が対明方針を180度転換させた背景には、日本国内の政 治・軍事情勢の変化がある。いま詳説する余裕はないが、すくなくとも従来有力な春前に よる表箋の偽作説や、中国側の誤解説には従いがたい。ここで明帝と懐良との問に朋封体 制が成立した(すなわち日本国訳出懐の成立)と見る方がはるかに史料に即した自然的な 解釈であろう」と述べられた働。 そして、村井民は「画素将軍府は伝統的方針を大きく旋回させる意志もその力もあった」 とし、九州については征西将軍府の令旨ですべて処理されていることを挙げ、佐藤進一氏 の論を引いて(8}「征西府は南朝に対して客観的にも主観的にもほぼ完全な自立性を保持し. ており、自立化のピークは懐良が対明通交を決断した前後にあったことが判明した。征西 府の自立化とは、菊池氏を筆頭とする九州の宮方武士達が、それを自前の国家権力として 換骨奪胎した結果であり、天皇の弟という懐良の尊貴性は、むしろ南朝からの分離を促進 するモメントとしてはたらいた」とし、懐良の対明入貢は九州国家の自主的な選択として はむしろ自然であると論じられた(g)。また村井賃は戦前の油二藍氏の述べられた(1)三座. の巧みな外交技術(2)日本国内の事情〔a博多が征西府の剃圧下にあり、明との溶血に暇を. 得たb武家方との頬二上いたずらに明の怒りを挑発するのをさけた〕から祖来を派遣した とする論を「明史の記述をなんの根拠もなく疑うのでなく、それを事実として受けとめ歴 史的条件を考察するという正当な研究態度である」と評価した。村井氏はそれに加え、田 中健失氏が佐久間氏の論考を「誤解説」と解釈されていることに疑問を呈しているuω。 この問題についてはまた、鄭揉生民が「祖来が表箋を奉じ、方物を貢いでいる以上、明 が希望する朝貢の必要条件を満たしているし、懐良がこの希望を知らないで行ったとは思 えない」と佐久問氏・田中氏の誤解説を否定し、藤田氏の偽作説についても「趙秩が逐わ れたという史料もなく憶測に過ぎない」と反論し「論義将軍府が中国との正式通交を希望 するはずがないと想定できるだろうか。北朝に圧倒されていた南朝が明との朝貢で勢力を 挽回を考えても不思議でもない。また、国書は偽作しても被疑七十心入の送還はどう考え るか」と述べ、「懐紙の祖来派遣は出盛性のあるもので、この朝貢は南朝勢力挽回の最後 のあがきである」とされたαD。 (註〉. 一95一.
(5) (1)r大目本史料』補遺第六編之三十三所収「明国書並明使仲猷祖閲・無逸克勤尺腰」 の明の日本国王宛国書(沓)には、使者として趙秩・朱本の名は記されておらず、. 楊載の名が記されている。楊載は、r明史藁』巻百八十二楊載伝に「凡再使貝本還。 復使琉球」とあるので、この時二度目の来日をしたらしい。 (2)藤田明・前掲書。 (3)辻善之助・前掲書。. (4)石原道博「日明交渉の開始と不征国日本の成立」(『茨城大学文理学部紀要3・19 54)。 (5)佐久間重男・前掲書。 (6)田中健夫・前掲書。. (7>今枝愛真・村井章介「「日明交渉史の序幕一r明国書並明使仲猷祖閲・無逸克勤尺 燈』を申心に一」(r東京大学史料編纂所報』11号・1977、村井章介氏『アジアの 中の中世日本丑校倉書房・1988、所収)。 (8)佐藤進一r日本の中世国家』岩波書店・1983)。 (9)(10)村井章介・前掲書。 (ll)鄭櫟生・前掲書。. (b>日本国王「露骨」について また、栗林宣夫氏は「仁心の説得で懐良の考え方が一変し、明に朝貢したとは考えられ ない。もし趙秩の説得で使節を派遣するなら洪武三年(1370)三月からあまり時日を経過 しない時期に行われたはずで、一年半経過後の洪武四年(1371)十月の祖来派遣は今枝・ 村井氏の言う日本国内の政治・軍事的情勢の変化によるものと考える。」と述べられてい る(n。この情勢の変化とは、九州探題今川了俊の征西将軍府への圧迫をさす(2}。このた. めに「拘留中の趙秩を本国に送還することを九州の中小豪族(倭窟の母体)に委任し、委 任を受けた豪族が遣明使節を仕立て、明側の倭憲対策や申国事情を探り、俘虜中国人男女 七十余人を返還してみかえりの賞賜品を期待したものであろう(3)。この俘虜中国入は『実. 録3に、明倫・台州の被虜とあるので、彼等は前年六月に倭憲が略奪してきた中国人であ ろう(4)。この倭窪略奪の中国人を返還したということは、旧来派遣のことを行った者が倭 憲自身またはそれと密接な関係にある者であることを示しているものと思う。この際趙秩 の入れ知恵によって、上表朝貢の形式をとることとし、日本国王には征西将軍懐良を擬し たが、之は宝前の了解を得ていないので、その名前をそのまま書くことを檸って、ことさ らに「良懐」と記したのではなかろうか」と述べられた樹。従来なぜ「懐良」が「良懐」 と置き換わったかということについての論及は全くなされていなかったのであるが、この 点に初めて言及されたことは注目に値する(6)。 (註). 一96一.
(6) (1)(5)栗林宣夫・前掲書。. (2)今州了俊の軍事的活動を見ると、応安4(1371)2月19日、九州下向の途につく。同. 年5月19日、備後尾道より安芸沼田に移る。同年10月8臼、長門国府につく。同年 12月19日、豊前門司に渡る。応安5(1372>2月10日、筑前多良倉・鷹見両城を陥 る。同年4月8日、太宰府の北方佐野山に陣す。同年8.月12日太宰府を陥落さす。 (川添昭二r今川了俊丑吉州弘文館・1964)の略年譜参照。. (3>栗林氏はこの委任を受けた豪族は、建武の中興で活躍した名和長年の孫である名和. 顕興ではないかと述べられた。名和顕興は、地頭職を持つ八代に下向して征西将軍 府について活躍したのであるが、肥後にも多くの海賊衆がいて、名和氏もそのひと つではなかったのかと論及された◎ (4)『太視実録』洪武三年六月戊午朔「爆撃冠山東。轄掠温・台・明経傍海之民。」と ある。. (6>田中健夫氏も「足利将軍と目本国王号」(田中健夫編r日本前近代の国家と短外関 係』吉上弘文館・1987>で、懐良の名が、「良懐」に転倒してr明実録』やr明史』 に数回記載された事実を軽視してはなるまいと述べられた。 (三)明使仲窒息聞・狂逸克勤 (a)拘留. 祖来の返礼使として洪武五年(1372)五月、漸江省嘉興回天寧禅寺住持仲猷裡閾・江蘇 省金陵瓦官教寺無逸克勤が来日したq}。ところが既に博多は九州探題今規了俊の手中にあ り、征西将軍府の根拠地太宰府も八月十二日には陥落してしまった。. この状態の下、藤田氏は「蓋し南朝既に衰へ、先帝が住吉行宮に崩御ありて以来、朝廷 の位置すらも定まらず、まして外国の使節を引見する如き設備はあるべくもあらず、しか も若し使節をして東せしめば、彼必ず京都に至り、北朝に礼すべし。是れ親王の得忍び給 ふ所にあらず。殊に当時の我が(日本)国情を彼に詳悉せしむるは徒に彼等に乗ずべき機 会を与ふる所以にして、我が(日本〉一国の興廃にも関わるべし」といわれ(2)、田申・鄭 氏も同様の見解を示されている{3)。. これに対して栗林・今枝・村井氏は「明使一行が博多到着の際には、この地域は今川了. 俊の制圧下にあったので、明使は了竣によって約一年問博多聖福寺に拘留された」と述べ られている(4)。. (註〉. (1>遠猷祖閲、別号は帰庵、族姓は陳氏、漸江省鄭の人で若年慈難の永楽寺で仏町回禅. 師について剃寒し、後、径山の元遡行端に参じ、その法を嗣ぎ、永楽、香山、天涯 などに住した。洪武四年天下の高僧を求める詔に応じて上京し、やがて無逸克勤と. 一97一.
(7) 共に正使として日本に渡り、帰国、太祖はその老齢なるを以て、その帰隠を許し、. 故郷の永楽寺に帰庵を構えて退面した。晩年はその善くした鼓琴、詩作を以て近辺 の文人と交わる自適の生活を送ったらしい。無血克勤は、紹興の人で、仲猷祖閲と 同じく洪武四年に京に招かれ翌年日本に奉比した。帰国後まもなく還俗し、華克勤 を名乗り、官人として活躍した。(海老根面郎「仲猷祖閲・無点克勤の来朝とその 著賛作平」r美術研究』287・1973、田中健夫編『善隣国宝記』・集英社・1995)参 照。 (2)藤田明・前掲書。. (3)田中健夫、鄭櫟生・前掲書。. (4)栗林宣夫、今枝・村井・前掲書。この間の史料としては翻郡交徴書禽の宋濠「送無. 逸勤公出使還郷省慮序」に「及心逸等至。良懐已出奔。新設守土臣。疑出来乞森中 國。欲歯面之。無逸力争得点。然終疑心i鐸。守宮日其;事干王。」とある。. (b)延暦寺座主宛書簡について 拘留された彼等は現状打開策を模索する。ここで無逸克勤が天台宗であることから天台 座主承胤法親王に書簡を送り助けを求めるu)。この書簡は、明使一行は初めから太祖の密 命を受け、北朝に連絡をつけようとしたというもので(2)、従来の学説はこの書簡をそのま ま信じていた(3)。. しかし佐久間氏は「中国側が日本における南北の紛争を知ったのは、勃然・克勤らの帰 国報告によるものであり、洪武五年の段階では、彼等が太祖の密命を受け、北朝に連絡を とるために来日したということは考えられず、太組はあくまで良直すなわち懐良を山本正 君とみなした。克勤の天台座主によせる書というのは、彼等が九州に滞留している間に思. 考した作文であったといわねばならぬ」という見解を示された働。鄭・栗林氏も同様の見 解を示し(5}、今枝・村井氏も「明使発遣の段階では、太祖は良懐を日本王と認め、それへ の答使として祖閲らを送った。しかし、これら明使の日本到着と相前後して情勢は変化し、 太宰府の陥落によって明使は苦境に立ち、太裡の本意は北朝にあると強弁したのではない か」と述べられている(6)。. (註). (1>『鄭交徴書渥の「致延暦寺座主書並別申副。. (2)註(1)同書所収の「致延暦寺座主書並別幅」に「帝召天顔輝寺住持祖聞・無官教 寺住持克勤。命日。朕心遣使チ日本画。虚血面持明天皇。今關西之来。非朕本意。. 以其關禁磁心不通。摂欲命汝二人密以病毒往告之。日中國更主。建號大明。改元洪 武。郷以詔来。故油鼠關西。今密以我二人告王知之。」とある。 (3>辻善之助『(増訂)海外交通史話』(内外書籍・1930)等。 〈4)佐久間重男・前掲書。. 一98一.
(8) (5)鄭才知、栗林宣夫・前掲書。 (6)今枝・村井・前掲書。. (c)通事 ここで注目すべきは彼等の通事として帰国した留学僧椿庭海寿と権中中巽の存在である。 椿庭海寿は観応元年(1350>に入回した。金陵の天界寺の白庵萬金の撰で大蔵経の加点の 仕事をし、その後画論帝に謁見して日本について下問されている(p。そこで太祖は北朝の 存在も知ったに違いなく佐久間氏の「申国側が日本における南北の紛争を知ったのは、祖 閣・克勤らの帰国報告によるものである」というのはいかがなものか。そしてその後、太 檀は椿庭海寿を漸江省郵県の陰子寺に子棄させること四ヶ月で止立・克勤の通事として日. 本に随行させた鋤。この太祖の行動には日本の留学僧を上手く利用しようとする意図が感 じられる捌。村井氏は「太祖は追使に先立って日本についての一定の知識を得ていた」と 述べられ、それにも拘わらず太祖が懐良をして「日本正君」として処遇した矛盾点を解決 する鍵は、「倭冠」であると論じられている。即ち、太檀の日本への使者発遣の目的は、 建国を知らせ、日本国王の臣従を求めるのみならず、むしろ、倭冠禁圧の要求こそが主目 的であり、洪武初年の時点で、それにかなうものは、倭竃の最大の根拠地北九州を勢力下 に置く懐良をおいては存在しなかったというのである(41。権中中巽は、函数元年・応安元 年(1368>に、絶海中津・明室総意らと一緒に入明し、面明中、絶海と共に無塩克勤の許 に詣り、これを介して宋灘に派祖夢窓菊石の碑銘の執筆を請うている。すなわち、洪遠心 のブレーンの壷掘や明使の一人である無逸克勤とは早くから接触があった人物である(5)。 (註〉. (1>r本朝高僧伝巻絹浄翌翌之十八海域伝』に「帝問日本四方遽遍皇運治乱」とある。. (2>葉貫頭越「入明僧椿内海寿評伝」(r駒沢史学』5・1956)参照。 〈3)血忌九年(1376>洪武帝は絶海中津・虚血良佐を召見して、熊野の古詞について尋問. されたが、看貫麿藩命は(註)(2>の申でこれは密かに太祖が日本の情勢を探ろ うとしたのであると述べられている。 (4)村井章介・前掲書。. (5)玉村竹二『五山題意傅記集成翌(講談社・1983>参照。 〈d)天龍寺住持宛書簡について 天台座主承胤法親王は無逸克勤の書簡を朝廷と義満に知らせ、彼等は応安六年(1373> 六月に上京するがなかなか謁見を許されない。そこで今度は天龍寺往持清渓通徹に仲介を 頼む。この書簡は従来史料としてほとんど取り扱われておらず、今枝・村井氏によって発 見され注目を浴びることになった。この史料によると祖閲・克勤は北朝宛の国書を持参し. 一99一.
(9) ていないことを、時の管領豆州頼之に徹底して疑われている(p。彼等が国書の代わりに持 参したのは、洪武三年の使者、趙秩・朱本がもたらした国書(沓〉であったのである働。 この国書を彼等がどこで手に入れたのか。懐良のもとになければならないこの国書がな ぜ幕府にもたらされたのか。. ここで、注意したいのはこの時、趙秩・豊本が日本に滞在していることである。彼等が 日本に滞在していることを知らせてくれる代表的な史料として『雲門一麟』があげられる が、『明実録丑では、趙秩は祖来に随行して明に帰国したとある。この密送・朱本の日本 滞在は何を意味するのだろうか。面立をして祖来を派遣せしめ、使者としての仕事を終え たはずの彼等がなぜ日本に再来日しているのか(31。ここに従来論及されなかった問題即ち 太禎の本当の意図が隠されているのではないか。 (註). (1)r大日本史料』第六編之三十七所収「明国書並明使仲猷祖閲・無逸克勤尺腰」の天 龍寺住持宛書簡に「初出我為無詔書。此亦無足曲者。且堂々一望。遽欲愚一介之僧。. 即為之従事。亦何且率且立番。然法有繕言素立不同。由詔書而傅命。常法也。捨詔 画龍傅命。権法也。執事不可執常而難権。業者二法亦未始不輪虫也。(中略)執事 何不念前壁畳詔。不能通之意Q而濁世今此無益為疑也。 (後略)」とある。. (2)村井氏はこの国書(盗)が(註)(1)の「執事何不念前使費詔。」の詔とする方 がすっきりするが、『明実録』記載の所引の内容と異なるので、一応詔はあったと されている。 (3)村井氏は趙秩・朱本は帰国せずに日本に滞在したと論じられている。即ち冒太祖実. 録』巻六十八、洪武四年十月庚辰朔「遣祖来。随秩入貢。」の記事を疑っているの だろう。しかし、『大日本史料』第六編三十八所収「雲門一曲」に「出遅日本来復 三年。熱演有慷慨。(中略)囑雪自苦。旛節不屈。為臣子之当為也。」とあり、筆 者は趙秩・朱本は再来Bしたと考えている。 (e)春屋妙琵 この天龍塗立の書簡を受けた幕府は明使との正式交渉に入ったのだが、上洛させておき ながらもなかなか正式交渉に入らなかった幕府が急遽交渉に入ったのはどのような外交政 策の変更があったのだろうか。村井氏は幕府内部の政権抗争をその理由に挙げられている。 即ち当時政権の中心にいた管領細規頼之と斯波義将との抗争がこの外交問題に関係したと いうのである。ここで注目すべき点は、義満が祖閲に天龍寺の住持になることを要請して いることである。この要請は細州頼之によって彼等が博多聖福寺滞在中からの策動であっ たが、村井民はこの策動は応安五年(1372)に春幽妙蕗を天龍寺住持に復活させようとい う策動があり、この策動に対する細川頼之の反撃が祖閲の天龍寺住持への再三の要請とな ったのではないかと述べられた。また、つけ加えて、細川頼之は明との交渉を宗教的・文. 一100一.
(10) 化的局面にのみ限定するバラであったと論及されたq}。. 春屋誌面は、臨済宗漏壷派の総帥で、室町幕府の外交問題にも深くかかわり合ってきた 人物である。即ち、貞治六年(1367>倭冠取り締まりを要望してきた高麗使節に短して朝 廷は禁圧不可能として返点を送らず幕府に一任した。幕府はその返言を天龍寺住持二四息 子の書状という形式をとった。室町幕府としての最初の外交問題を処理し、五山僧の最初 の外交官として任務を果たしたのである。この高屋妙萌と細川頼之は、応安二年(1369) の南禅寺楼門撤去問題以来厳しい対立関係にあり、応安四年(1371)から晶晶妙品は丹後 の雲門寺に退隠していた。この春屋妙蕗と反細川頼無派の総帥である期波義将は非常に親 しい関係にあった(2}。. 上述の『雲門一曲』は日本に再来日した趙秩・朱本と春屋妙繭一門との詩文と書簡をま とめたものであるが、従来の研究ではあまり利用されなかった史料である(3)。この史料に. 関しては今枝・村井氏が高い利用価値のあることを述べられている。趙秩・朱本は世間の 好奇な目に晒されながら流浪し、山口の大内弘世に世話になったり、上京を企てたりする が結局果たせず、ただ雲門寺に退隠している春屋妙繭とは綿密な連絡を取っていた紛。 (註). (1)村井章介・前掲書。. (2)直屋妙品と期波義将の関係については、今枝愛真心の「漸波義将の禅林に封ずる態 度」(『歴史地理』86−2・1955)に詳しい。. 〈3)『雲門一曲』は春屋妙聴の作品集とする著述もあるが、それは誤りで、春屋妙繭の. エコールと明使たちとのあいだでかわされた《唱和》の記録とでもいったものであ ると村井氏は前掲書で述べられている。. (4)『大H本史料』第六編三十八所収「雲門一曲」に「適使僧天寧・瓦棺二二尚尚詣東 洛。僕馬首亦擬高東突。恥辱玄峰居士(大内弘世)之招愚。(後略)」とある。 (f)帰国 仲一六關・無逸克勤は応安六年置1373)八月末に帰国を命じられる。幕府は返礼使とし て山止渓・子建浄業・山畑を送ることを決定する〔・}。あれほど疑っていた細川頼之がなぜ. 使者を立てることにしたのかという点も大きな問題点である。村井氏は「懐良の〔日本国 王]山面というニュースが幕府に伝わり、幕府をして九州平定の緊要請を一層痛感させる ことになった。四六が[日本国王コである限り、かれに朋封の論理をたてに明に援軍を要 求する名分がある。その危険性をぬぐい去るには、懐良の勢力を九州から根絶やしにした 上で、幕府の首長自身がE日本国王コに朋i封されるほかに方法がないと考えたのだろう」 と言われる(2}。. この帰国に趙秩・朱本も博多で合流した。ここで彼等は十ヶ月間の滞在をしている。佐. 一101一.
(11) 久間氏はこの博多長期滞在は、「彼等が懐良に大統暦の砂鉱を行おうとしたからではない か」と述べられている。明使の帰国、義満の扇使に合わせて、返還される中国・高句麗の 無虜百五十人、日本国僧宗面立七十一人も博多に集結する(3)。また、通事として仲猷祖聞. ・心逸克勤に随行してきた権申中巽が渡明している。彼は、伸猷古曲を足利義満が天竜寺 に迎えようとしたが固辞されたため、そのかわりに他の大尊宿を明度より新たに招恋しよ うと志し、その推薦を当時、京の等持寺(十刹〉にいた古剣妙快に依頼したので、古剣妙 所は己の師匠立中無温を推したのが採用され、古剣妙高は伸猷祖閲・無逸克勤の帰国に同 乗した権中中巽に託して、書信を恕申に呈し、側面からその受請を懲嫁した。しかし結果 は、恕申は洪武帝の懇篤な勧奨にも拘わらず、老齢の故をもって固辞し、この計画は成就. しなかった凶。この点に関して筆者は、自分の思ったことは何としてでもやり遂げる洪武 帝が北朝との連絡をこれから緊密にしていきたいと考えていたなら、有無を言わさず虚血. 無恨を日本に遣わしたのではないかと思われる樹。それをしなかった点に仲猷祖聞・無逸 克勤、あるいは趙秩・竜野の蔵幅帝に対する報告がどのようなものであったのかと考える。 仲猷祖閾・無逸克勤一一行は、洪武七年・応安七年(1374)五月二十九日に金陵に到着す る。『太祖実録』巻九十、洪武七年六月乙未朔に「日本國。遣僧宣聞渓・浄業・喜春等来. 朝。貢馬白方物。詔潮懸。時日本店持明。與良懐留立。宣聞渓等。齎其國臣善書。達中書 省。而無表文。上命砂越貢。{乃賜宣聞渓等文綺紗羅各二匹。従官銭畠有望。遣還。(中略) 曲者。國王宮懐。奉表来貢。朕以為日本正君。所以遣:使往答当意。宣意使者海彼拘留二載。. 今年五月。宝舟土塊。備畜本國事鐙。盛人詫言。彼君臣之禍。有不可逃者。何以見之。幼 君在位。臣事國権。傲慢無礼。致使骨肉併呑。島民六盗。内無論善。外掠無睾。此塞出鼻 高。」. このように、足利義満の遣使は太祖に退けられた。その理由として、(1)國臣の書で中書 省宛であること、(2)上表文がなかったことがあげられている。しかし筆者はこの点に関し て二点の疑問点を抱く。一一点目は、正式な明國書を持たず、しかも趙秩・謡本が持ってい. たはずの明血書(沓)の返答としては、義満の書状が中書省宛の書状になったのは当然で はないかとも}う点。もう一点は、貞治六年(1367)倭冠取り締まりを要望してきた高麗使:. 節に対して幕府はその返蝶を天龍寺住持春至妙繭の書状という形式をとっている。また、 この宣聞島島を明に送った翌年、永和元年(1375)再び高麗からの倭冠禁圧要求の使者に 対する返書も天龍寺僧徳隻周佐の書信という形式をとっている。即ち、どちらも義満の直 答ではなかったということである。何故直答でなかったかという点についてはよく解らな いが(6)、宣聞当山が明にもたらした書も義満の直答書ではなく、誰か然るべき禅僧の書信. という形式をとったのではないかと筆者は考える。だからこの國臣の書とは然るべき禅僧 の書信ではないかと考えるのである。. 仲猷祖閲・無逸克勤は太祖に褒賞をもらい、無逸克勤の方は還俗して御史大夫にまでなっ た。しかし一緒に帰国した趙:秩・朱漆のことは記載がない。一回目の来日で懐良親王に熱. 一102一.
(12) 弁を振るい、祖来の派遣を実現させた彼等のことが全く記載されていないというのはどう しても賄に落ちないことである。しかし、この二回目の来磧について何も記載がないとい うことが太祖の思惑を解らせてくれるのではないか。すなわち、仲猷祖聞・無逸克勤の方 は懐旧親王に対しての使節であり、北朝への連絡を取るための使節が趙秩・朱本ではなか ったのだろうかと筆者は考えるのである。そして、北朝との連絡を取ることに失敗した趙 秩等に替わって、今川了俊に捉えられた仲卸禮閲・無逸克勤が幕府との交渉に当たったの ではないかと推測するのである。 (註). (1>この三人の使者については、福建浄業についてしかはっきり分からない。子建浄業. は臨済宗大越派の僧で中出円月の弟子である。入明後、金陵の天界寺に赴き、季潭 宗渤に謁し、入明途中に{トれた亡僧の為に季潭に請うて対霊小参を行って追薦して. もらっている。その後消息を絶ち、恐らく彼の地で示寂したらしい。(玉村竹二 『五山毒言傅記集成』参照〉宣聞渓については『鄭交徴書』三編巻一の宋演のF送 無出勤公出還郷省親序」に総州太守円宣とあり、フルネームは聞渓円宣であろう。 しかしそれ以上のことは分かっていない。喜春については全く分からない。 (2)村井章介・前掲書。. (3)註(1>のr鄭交徴書邊三編巻一の宋濠の「送無逸勤公出還郷省親序」に「議遣総 州太守円宣。及浄業・喜春二僧。従南海下太宰府。血温物来貢。温血中出及高句麗 民。無慮百五十入。無劇化以善道。悉令具大船遣瀬。(後略)」とある。また、 『太祖実録』巻:九十、洪武七年六月乙卯「日本国僧宗嶽等七十一人遊方至京」・同. 六月戊午「日本紙。以所掠瀕三民一百九人来帰。詔各還郷里。」とあり、帰朝の一 行は非常に大人数になった為に大船を調達しなければならなかったので、博多滞在 が長くなったのではないかと筆者は考える。 (4)『大日本史料』第六編出四十所収『面訴集』下の古剣妙快が師匠恕中無艦に宛てた 書簡参照。 (5)幽幽帝は官僚の不足から積極的に僧侶を官僚のかわりに使っている。無逸克勤もそ. うであるが、天界寺の季潭宗渤も西域への使者として太祖に利用されている。(郡. 鋭齢・池田温訳「明朝初年出使西域僧宗渤の事跡補考」(r東方学』81・1990)参 照。. (6)田中博美氏は「武家外交の成立と五山僧の役割」(田申健夫編『日本禅近代の国家. と対外関係』吉川弘文館・1987)で、この二回の高麗使者に将軍が直答しなかった のは、相手国の要請(倭冠禁圧〉に応える能力がなかったからで、武力を政機の基 盤とする幕府にとっては朝廷以上に鼠賊不能の実情をあかすわけにはいかず、僧侶 は非暴力の立場上好都合な存在であったと論じられた。 (四)祖閲・克勤以降の日中関係. 一103一.
(13) (a)その後の遣明使. G)洪武七年(1374)六月乙赤点に島津越後守凝血の使者僧道幸、通事:尤度が来るも、陪臣 にして「奉表入貢」するは越権とし私人の入貢とみなし却く。 (の洪武七年(1374>六月戊午に遣使者、使者共に不明で掠せる瀕海航109人を送還。 (1、)洪武八年(1375)正月丁亥に遣使者、使者共に不明で入貢するが内容は不明。. (二)録画九年(1376)四月甲申朔に昌本国王良懐の使者、沙門圭心用が奉表し、馬・方物を 貢す。. (ホ)洪武十二年(1379>閏五月丁未に日本国王良懐の使者、劉宗秩、通事尤慶・愈豊が上表 し、馬および刀・甲・硫黄などを貢す。 (へ)西武十三年(1380)五月己未に日本国王良懐の使者、僧誌面が来るも無表、馬および硫 黄・刀・扇等を貢するも、不誠を以て却く。. (D洪武十三年(1380>九月甲午に戯話将軍源義満の使者虚心悟・法助が来るも無表、丞相 宛の書をもたらす。貢を却く。. (チ)西武十四年(1381)戊戌に日本国王良懐の使者、僧如謡が来て、方物・馬10匹を貢する も、その貢を幽く。 (リ)洪武十九年(1386)十一月赤点に僧宗嗣亮が上表して方物を貢す。これを恐く。. 以上日本からの使者に諭する『太祖実録』の記載事項を順を追って取り上げた(D。この 中で佐久間・栗林氏は(リ)については、この洪武十九年(1386)の三年前の永徳三年・弘和. 三年(1383)の三月に懐旧は筑後の矢部で死去しているのでこの使者は懐紙でないとし、 他の日本国王誌面の使者も果たして懐良の使者であるかどうか疑問であるとする論及をな された(2)。. 石原氏、佐久間氏は(イ)・(ホ〉の通事尤慶に注目され、この人物は同一人物であり、佐久間. 氏は(ホ〉の洪武十二年の日本国王良計の使者は島津氏久の使者であるとするのが妥当である. と論じられている。そして、洪武七・八年の段階(1374・75)で懐良の征西将軍府は今川了 俊によって肥後の山中に逼塞せざるをえない状態で、大陸に派遣船を出すことが果たして 可能であったかどうかはなはだ疑問であり、他の日本国王良懐の使者も南朝以外の九州勢 力が派遣したと考えるのが妥当であると論じられた〔3}。. また、栗林氏も(二)の懐良の使者は、倭冠の侵入がやまないのに業を煮やした太祖が、中. 書省に詰問叱責書を日本に出させたその謝罪の使というのであるが、筑後の矢部に引退し ていた云云が、謝罪の遣明使を送る必要があったのかとr明実録』の記事を疑っている。 また、西田に関しては、通事が同一人物であることだけから、島津の使いと断定するのは ためらうが、矢部にこもっている懐良が明に使いを送る必要も使者を送ることの可能性も 疑わしいので懐良の使者ではないだろうと論及された働。. 一104一.
(14) (註〉. (1>佐久間重男・前掲書を参照して作成。. (2)佐久間重男・前掲書、栗林宣夫・前掲書。これ以前の懐良(征西将軍麿側)の行動. を見ると、応安5(1372>太宰麿陥落、筑後高良山へ退く。応安6(1373>11月菊 池武光死去。応安7(1374)5月菊池武政死去。加々丸(のちの菊池武朝)相続。 この年10月初めより肥後菊池へ退却。永和元(1訂5>夏頃、宝勢鼻息将軍職を良成 親王へ。永和3(1377>懐良親王、筑後の矢部に。 (3>石墨道博、佐久間重男前掲書。 (4)栗林宣夫・前掲書。. (b>『明史』洪武十四年の良懐の上書について 「十四年。復来貢。帝再却之。命禮官。移書責其王。井倉其事夷将軍。示以欲征之意。良 拝上言。臣聞。 (中略)非一主之濁権。宇宙寛洪。作諸邦以分守。蓋天下者乃天下之天下。 非一人之天下也。(後略)」(冒明史』巻三百二十二). この前年の洪武十三年十二月に太祖は日本の不誠意と君臣の非道をののしり、その隣邦 を侵冠し、傲慢不恭の態度を非難する使者を日本国王に出したのであるが、栗林残は太檀 が日本国王と認めている麗質は矢部に隠居しており、今川了俊も全力で菊池攻めをしてい る中、この使者がどこに到着したか疑問を呈している(p。. そして、洪武十四年に懐良の使者僧如謡が派遣されてくる。その朝貢は掃けられ、太祖. は礼部尚書に「H本国王」と「征夷将軍」宛の威嚇書状を出させた。それに対する懐良の 返書は、戦前から国威発揚の典型的な例として賞賛されてきた。藤田氏は懐良は当時矢部 に籠居していたにも拘わらず、意気の盛んなること天をつくの慨があると述べられた(2)。 辻氏・秋山民も同様の見解を述べておられる(3)。戦後になっても石原民は「太祖の移書は. 両方とも懐良親王の許にもたらされて、返書は親王が送られたものである。当時南風競わ ず、北九州さえ支配できなかったにも拘わらず、親王の堂々たるこの返書は太祖を圧して 征戦の意を断念せしめたという成功をおさめた。この特筆すべき自主外交の勝利は、当時. の日本入は誇りとした」と述べられた叫。このことは、『高麗史』巻六十四恭譲王三年 (洪武二.十四年・1391>十月甲戌条に日本の僧侶玄教が道本等四十余人を遣わして土物を 献じ、表を奉った記事を記しているが、この記事の後半にこの懐良の上表文のことが書か れてあり、かなり広く知れ渡っていたことは確かである樹。しかし、宮田竣彦氏は『明史』 のもとになった史料である『薯勝野文』の著者徐禎卿の錯誤であると論じられた(6}。. この懐良の返書は、実は義満によって書かれたのではないかと論じられたのが佐久間氏. である。すなわち、太桓の移書は岡時に将軍義満にも送られたとr太祖実録』には記して いる。そして、当時の政治情勢や表文の内容から検討すると、義満の書と見る方が自然で はないかと論及された(7)。これに対して、栗林氏は他の懐良の使節には疑いを挟みながら. この移書は、自分の母の供養で一時八代に滞在中の懐良の目にふれ、そこで返書が作られ. 一105一.
(15) たのではないかと論じられた18)。 〈註). (1)栗林宣夫・前掲書。 〈2)藤田明・前掲書。. (3>辻善之助、秋山謙蔵・前掲書。 (4)石原道博・前掲書。. (5)冒高麗史』巻六十四恭譲王三年十月甲戌条「道本二言。中國嘗責日本◎以不乱臣之. 故。我國二日。天下品品下之天下。登一人山天下。終不稔臣。今乃稻臣於大國。乃 慕義也。」 (6)宮田俊彦「日明、琉明国交の開始〈上)」(『H本歴史五201・1965>。 〈7)佐久間重男・前掲書。. (8)栗林宣夫・前掲書。栗林氏は、大正五年に八代の中宮社の地下から発掘された宝筐. 印塔の台石の銘文の西颪に「天授第七辛酉の歳(永徳元年・1381)盤照院禅定尼の ために、生死を出離し仏果円満なり(後略〉」東面に「願主天心婁、彫秀比丘」と 刻まれていることに注目してr菊池氏三代』を書かれた杉本尚雄氏の論を引いて、 天授七年は、懐良親王の母の三十圃忌で、親王は八代の中宮山回禅寺に参籠してこ の塔をつくった。すなわち、筑後の矢部では太祖の移書を見ることもできないが、 八代なら可能ではないかと論じられた。 (c)心心庸・林賢事件 洪武十九年(1386)、先の洪武十三:年の胡惟庸謀反【・〕の片棒を寧波衛指揮林賢がかつぎ、. 倭兵を招来しようとしたとして、太祖は日本との通交を禁止した。『明実録』には林山事 件そのものの記録はなく、「正使指揮林賢。下海招倭軍。二期来会。」(『太祖実録』巻 百二十九)とのみ記されている。『明史藁雲列伝第百九十六・外三三、『御製三二』第九 条「指揮林二胡党」、嘉靖球寧波府志』巻二十:二・海防の条、『副本一二』窮河話海巻七. ・三三の条、『図書編』巻五十・日本国の条、r三明世法録』巻七十五・海防、本朝備倭 ・通貢案の条等によると、胡惟庸が林賢に日本との連絡を取らせ、洪武十四年の使者如瑠 等に伴って、倭兵四百余名が入貢し、詐りて巨燭を献じて、火薬・刀剣をその申に隠した。 しかし、胡惟庸の謀反は既に発覚した後だったので、夷兵は雲南に発して防御させたとい. う㈲。そして、洪武十九年に林賢の加担が発覚し林賢一族は謙せられ、日本との国交が禁 止された。この史料をそのまま信じて懐良が胡惟庸・林賢事件に拘わったとする論もなさ れたが(3)、佐久間氏は、この『明史藁』以下の記述はこの事件に尾ひれを付けた後世の付. 会の説であろうとし、しかしながらこの事件自体の持つ意味は大きく、中国沿海民と倭憲 との結びつきに神経質であった太祖にとっては許しがたい事件であったと述べられた働。 筆者も、、この事件の真偽はともかく、恐らく太祖が意図的にこの林賢事件を契機に日本と. 一106一.
(16) の国交を断絶した理由が外にあったのではないかと考える。 (註). (1>胡惟庸は定遠:(安徽)の人で、至正15年(1355>朱虚血の配下に加わり、明の建国. 後左丞相にまでのぼった。右丞相注広洋が左遷された後、一切の政務はことごとく 彼の独断によって行われた。太祖の信頼も厚く、しだいに勢力を増大するとみずか ら異謀を抱き、倭と通じ元の遺族ともよしみを通ぜんとしたが、たまたまその子の. 墜死事件に車を引いた者を殺害したことから太祖の怒りに触れ、兵を挙げんとした が、官武13年(1380)事件が露顕して諜された。その反身は死後ぞくぞく明るみに 出て、連座する者3万人におよんだといわれる。太視は胡惟庸の専横に懲り、以後 丞相を廃し天使の独裁権を益々増大した。r薪編東洋史辞典』(京大東洋史辞典編 毎会編・東京創元社・1980>。 (2)『日本一鑑』面河話海巻七奉貢の条には、「倭兵は陵西・四川等の処に発して守禦 せしむ」とある。 〈3)木宮泰彦・前掲書。. (4>佐久間重男・前掲書。 おわりに. 以上洪武帝期の日中交渉について研究動向と問題点について述べてきた。もう一度整理し てみると、(1)征西将軍府にとって明に朝貢するということがどんな意味を持つのか。 単に趙秩の説得で明に朝貢したとは考えられず、また、今川了俊の圧迫があるにしてもそ. れだけで朝貢したとは考えられない。(2)なぜ懐良が良懐になったかという問題。名和 顕興が趙秩の入れ智恵を受けて、上表朝貢の形式をとり、艮本国王に懐良を擬すが、名前 をそのまま書くことは遠慮して、「盲縞」としたという栗林説はおもしろい見方だが、史 料的裏付けは十分ではなく、疑念が残る。(3)伸猷祖閲・無逸克勤を派遣した時点で、 太粗はどのような翌日政策を考えていたか。太祖の対日政策は「面癖の禁圧」が全てであ るとの論及が大半を占めるが、本当にそれだけであったのか。太祖が懐良を日本正君とし. ながら、一方で北朝と連絡(情報収集)しょうとしても何ら不思議ではない。(4)心良 の日本国王自盛を知らされた幕府の空明外交政策で、春幽妙聴はどのような役割を果たそ うとしたか。また、細川頼之と斯波義将の内部抗争がこの外交問題にどのように関係した. のだろうか。〈5>再来日した竜灯・朱本の役割は何か。また、彼等を引き止めた大内弘 世の意図したものは何か。心止禁圧という太祖の要求に応えられる実力は大内民にはある。 (6)使者としての役割としては不十分だった仲猷複閲・無逸克勤、また心心・朱本が日. 本の状況を太祖にどのように伝えたのか。(7)彼等の帰国報告を受けた太祖は、征西将 軍府・室町幕府の状況を知った上で対日政策をどう決定したか。(8>仲猷祖聞・無逸克 勤以後の「日本国王詠懐」の使者の真偽はどうか。このことは懐良の祝来派遣の意図とも. 一107一.
(17) 関係してくる。(9)この時期に明に留学している禅僧がどんな政治的な役割をはたした か、等があげられる。. この時期の史料は日本側の史料は少なく、中国側の史料を中心に見ていかねばならない。 この立場で研究されてきた石原道博・佐久間重男氏の研究は重要と言えよう。その貴重な 日本側の史料の中で『雲門一曲』に注目された村井章介氏の研究はこの時期の日中交渉研 究を一歩前進させたといえる。しかし、以上述べたような問題点があり、これらを解決す ることによって、洪武帝期・日中関係研究の政治面での研究、すなわち洪武帝の意図した 東アジア虫封体制と、明を媒介にした征西将軍府、室町幕府の政治的立場についての研究 を一歩前進させたいと筆者は考える。尚、筆者の研究不足ゆえに誤っている点もあるかと 思う。諸賢のご教示を願うしだいである。 (文献目録〉. (1》池内宏「明初に於ける日本と支那との交渉」〈r歴史地理』6−5、6、7、8・1904>. (2>藤田明『征西将軍宮』(東京宝文題・1915). (3)辻善之助r(増訂)海外交通史話』(内外書籍・1930) (4>辻善之助r日支文化の交流』(創元社・1938) (5)秋山謙蔵ぽ日支交渉史話£(内外書籍・1935>. (6>秋山謙蔵r日支交渉史研究』(岩波書店・1939) (7)小葉田淳r中世日支通交貿易史の研究』(刀工書院・1941> (8)石原道博「日明交渉の開始と不征国口回の成立」(『茨城大学文理学部紀要(人文. 科学)』・1954> (9)石原道博「皇明車翻の成立」(r清水博士追悼記念明代史論叢(大安)』・1962> (10>石原道博「いわゆる良懐の対明答書について」(江歴史研究』31・1964) (11>木宮泰彦『日華文化交流史』(富山房・1955>. (12>葉貫麿哉「入明僧椿庭海寿評伝」(r駒沢史学』5・1956> (13)田中健夫r中世海外交渉史の研究』((東京大学畠版会・1959> (14)田中健夫『倭冠と勘合貿易雲(至文堂・1961). (15)田中健夫r申世頬外関係史』(東京大学出版会・1975) (16)田中健夫r対外関係と文化交流』(思文閣出版・1982> (17)田中健美『倭竃一海の歴史一謎(教育社・1982>. (18)田中健夫「足利将軍と日本国王号」(田中健夫編rB本前近代の国家と対外関係』. 吉川弘文館・1987) (19)田中健夫「漢字文化圏のなかの武家政権一外交文書作成者の系譜一」(r思想』10 号・1990) (20>田中健夫編奮善隣国宝記』(集英社・1995) (21>臼井信義『足利義満』(吉川弘文館・1960). 一108一.
(18) (22)川添昭二『今川了俊盈(吉川弘文館・19磁). (23)川添昭二「懐良親王をめぐる九州の南北朝一令旨の分析を申心として一」(r歴史. 公論』46・1979> (24>宮田俊彦「日明、琉明国交の開始(上)」(『日本歴史』201・1965> (25)呼子重義『海賊松浦党』(人物往来社・1965> (26>谷口規矩雄r朱元璋曇(人物往来社・1966> (27>小川信『細川頼之遼(吉川弘文館・1972). (28)海老根聰郎「仲猷祖闘・無逸克勤の来朝とその著賛作品」(r美術研究至287・197 3) (29>栗林宣夫「旧本国王良懐の遣使について」(r文教大学教育学部紀要』13・1979> (30>大隅晶子「明初洪武並における朝貢について」(『珊SE畷 東京国立博物館美術誌』. 371・1982) (31)大隅晶子「明初太祖の対外政策の形成」(『囲SE田 東京国立博物館美術誌』436・ 1987) (32)玉村竹=二『五山女僧傅記集成』(講談社・1983). (33)高橋公明ザ室町幕府の外交姿勢」(r歴史学研究』546・1985) (34)鄭櫟生『明・日関係史の研究坦(雄山閣・1986). (35)田中博美「武家外交の成立と五山僧の役割」(田中健夫編r日本前近代の国家と対. 外関係』吉川弘文館・1987) (36>村井章介『アジアの中の中世日本』(校倉書房・1988> (37)梛鋭齢・池田温訳「明朝初年出子西域僧宗論の事跡補考」(『東方学』81・1990> (38)佐久間重男『霞明関係史の研究』(音曲弘文館・1992). (39)西尾賢隆「京都五山の外交的機能一外交官としての禅僧一」(rアジアの中の日本. 史』 外交と戦争 東京大学出版会・1992) (40>西尾賢隆「室町幕府外交における五山僧一絶海中津を申心に一」(『日本歴史』53 7・1993) (41)壇上寛『明の太祖朱元璋』(白帝社・1994). 一109一.
(19)
関連したドキュメント
機会を奪われただけでなく (「派遣切り」)
1、研究の目的 本研究の目的は、開発教育の主体形成の理論的構造を明らかにし、今日の日本における
自ら将来の課題を探究し,その課題に対して 幅広い視野から柔軟かつ総合的に判断を下す 能力 (課題探究能力)
氏は,まずこの研究をするに至った動機を「綴
その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ
) ︑高等研
既往ボーリングに より確認されてい る安田層上面の谷 地形を埋めたもの と推定される堆積 物の分布を明らか にするために、追 加ボーリングを掘
根津さんは20歳の頃にのら猫を保護したことがきっかけで、保健所の