2015 年度 (平成 27 年度)
博士論文
香港における尐子化
-永住者、「越境家族」、「越境出産」をめぐる課題と展望-
立命館大学大学院
国際関係研究科国際関係学専攻
LEUNG Ling Sze Nancy
目次
第1 章 序論-問題意識及び研究課題 ...1 第1 節 研究背景...1 第2 節 問題意識...4 第3 節 先行研究...6 第4 節 分析の視点及び研究方法 ...9 第5 節 論文の構成 ... 11 第2 章 香港の人口成長と尐子化の展開 ...13 第1 節 香港の歴史と人口成長 ...13 第2 節 尐子化の展開 ...23 第3 節 尐子化問題 ...37 第4 節 小括 ...47 第3 章 出生率の構成と尐子化の実態 ...48 第1 節 出生率の構成要素 ...48 第2 節 「香港人」カップルの合計特殊出生率(TFR)とその特徴 ...56 第3 節 「香港人」カップルの特徴と尐子化の関係 ...70 第4 節 小括 ...81 第4 章 移民と尐子化の関係 ...83 第1 節 家族の呼び寄せ-「越境家族」 ...85 第2 節 家族呼び寄せで香港に来た移民の特徴 ...94 第3 節 「越境家族」が尐子化に与える影響 ... 119 第4 節 小括 ... 131第5 章 「越境出産」がもたらした尐子化への新たな衝撃 ... 133 第1 節 「越境出産」の背景 ... 134 第2 節 越境出産の現況 ... 153 第3 節 「越境出産」が香港尐子化に与える影響 ... 177 第4 節 小括 ... 182 第6 章 尐子化対策の行方 ... 183 第1 節 世界の尐子化対策 ... 183 第2 節 香港における尐子化対策 ... 192 第3 節 香港における尐子化対策の課題及び展望 ... 205 第4 節 小括 ... 214 第7 章 結論と今後の展望 ... 215 第1 節 本論の要約 ... 215 第2 節 本研究の結論及び今後の課題 ... 219 参考文献 ... 222 日本語文献 ... 222 英語文献 ... 227 中国語(香港)文献 ... 246 中国語(中国本土)文献 ... 254
1
第1章 序論-問題意識及び研究課題
研究背景
第1節
1997 年 7 月 1 日中英共同声明(The Sino-British Joint Declaration on the Question of Hong Kong)によって香港の主権はイギリスから中華人民共和国(以下は中国)に返還された。中 国に返還された香港は中華人民共和国の特別行政区(Special Administrative Region, SAR) となり、「一国二制度」(One Country Two Systems)1の下で、中国本土とは異なる社会・経済制
度が施行され、その人口は、香港基本法(Hong Kong Basic Law)2に基づく独自の「居住権」
(Right of Abode)3制度によって管理されている。さらに、香港では返還後も中国本土から独立し
た出入境事務が行われ、中国との境界線では依然として査証政策が実施され、中国本土の住民 も香港住民も互いの領域に入るには有効な旅券を必要とする。また「一国二制度」に基づき、香 港住民が国外に渡航するのに必要な旅券(passport)は、香港政府が、中国本土と異なる中華人 民共和国香港特別行政区旅券(Hong Kong Special Administrative Region Passport)を、中 国国籍を有する「香港永久居民」(Hong Kong Permanent Resident)4 (以下は「香港永住者」
とする)に発行する形となり、香港は中国の都市でありながら都市国家(city-state)のような存在と なっている。
1842 年にイギリス政府が香港をイギリス香港(British Hong Kong)とした当時、香港はまだ小 さな漁村であった5。しかし、1997 年に中国に返還された時には、国際金融センターとして、すで 1 「一国二制度」とは、「一国」の原則を貫き、中国中央政府が一国の代表であり、国家の統一を象徴する主権、 領土、国防及び外交を統制する。一方、経済制度、司法制度、行政管理権という制度上のことは香港の自治に任 せる。このように、中国の領土で社会主義と資本主義、異なる司法制度が並存することになり、二つの制度を実施 することになる (胡, 2002, pp. 14-15)。 2 香港基本法は返還後の香港の法律上の規定となり、他の国の憲法に相当するものである (愛, 2009, p. 23)。 3 「居住権」は香港への上陸権を持ち、香港で滞在条件がない、域外追放命令を受けることがなく、移動命令を受 けることはないという権利がある (鄭 & 黃, 2004, p. 64)。「居住権」の概念は 1984 年 12 月の「中英共同声明」 における第1 付属文書において第 14 節で決定されたことである。「中英共同声明」の第 1 第付属文書の 14 節に よれば、香港特別行政区に居住権を所有する者はこの権利を明記している「永久性居民身分証明書
(Permanent Resident Identity Card)」を取得できる (香港特別行政区政府政制及内地事務局, 2007)。「中英
共同声明」に基づく1987 年 7 月 1 日香港政庁が「人事登記条例」(Registration of Persons Ordinance)を修
正した上に居住権の詳細を明らかにした。「1987 年人事登記(修訂)条例」(Registration of Persons
(Amendment) Regulations 1987)によれば、香港住民は「居住権」の有無に基づいて「永久居民(Permanent Resident)」と「非永久居民(Non-permanent Resident)」に分けている (愛, 2009, pp. 78-79)。
4 「香港永久居民」とは香港の居住権を持つ香港住民を指す。香港の居住権を持てない香港住民は「非香港永
久居民」(Hong Kong Non-Permanent Resident)(以下は「非香港永住者」とする)と呼ぶ。
5 1842 年イギリスは第 1 次アヘン戦争(First Anglo-Chinese War)(1840-1842 年)の勝利によって清朝と南京条
約(The Anglo-Chinese Treaty of Nanking)を締結し、清朝から香港島の割譲を受けた。したがって、1842 年
のイギリス香港は香港島のみを指す。ところが、現在の香港領土は香港島、九龍、新界及び周辺にある262 の島
から構成される。この領土の構成は1860 年の北京条約(The Convention of Peking)及び 1898 年の展拓香港
界止専条(The Convention Between Great Britain and China Respecting an Extension of Hong Kong Territory)(1898 年)に基づいてイギリスが清朝からの土地割譲及び契約で租借した土地で構成された。それ故
に、香港は初めてイギリスの植民地になったのは1842 年であるが、現在の香港領土がすべてイギリスの植民地に
2 に世界都市(global city)6への道を歩んでいた。言い換えば、香港はイギリスの植民地政府の支 配のもと、本土とは異なり、急速な近代化(modernization)7を遂げたといえる。同時に、香港の人 口 転 換(demographic transition)8も 本 土 よ り 迅 速 に 進 行 し た 。 ジ ャ ン ・ ク ロ ー ド ・ シ ェ ネ (Jean-Claude Chesnais)は 1938 年から 1980 年までのデータに基づき、香港が 1980 年に人 口 転 換 の 終 了 に 近 い 状 態 に なり 、人 口 転 換 が約 40 年の短期間で終了したと指摘した (Chesnais, 1992, p. 263)。また、1981 年香港の合計特殊出生率(total fertility rate, TFR)は 1.93 であり、人口置換水準を下回る状態に達した。このことは、香港の人口転換が「第 1 の人口 転 換 」(first demographic transition)9に 止 ま ら ず 、 す ぐ に 「 第 2 の 人口転 換」 (second
demographic transition)10に突入したことを意味する。言い換えれば、香港は多産多死の時代
からいきなり尐子化時代11に直行することとなった。
1981 年には、香港の合計特殊出生率 (TFR)12は初 め て人 口 置 換 水 準(replacement
level)13以下となり、香港はいわゆる尐子化14時代に突入する。以降も、香港の合計特殊出生率
(TFR)は持続的に低下し、2003 年には過去最低の 0.90 まで低下した。2004 年から回復の兆が あるが、2013 年現在 1.12 に止まっている (Census and Statistics Department , 2014d)。
6 世界都市は多国籍企業の本社、それらの業務サービス、国際金融、国際機関、そしてテレコミュニケーションと
情報処理の中心であり、産業のグローバル化を共に支える相互依存的な金融的、文化的フローの起点であり、支 配の中心である (ノックス & テイラー, 1997, p. 13)。ポール・L・ノックス(Paul L. Knox)&ピーター・J・テイラー (Peter J. Taylor)が 1995 年発行した『世界都市の論理』によれば、香港は上位の世界都市に入っている (ノック ス & テイラー, 1997, pp. 38-39 )。ただし、2008 年アメリカの A.T.カーニーが始められた世界都市指数ランキン グにおいて香港が2008 年から 2014 年まで第 5 位であった (A.T. Kearney, 2014)。 7 近代化とは、社会の状態が「近代」ないしは「近代的」になっていくことをいう。産業革命はヨーロッパ大陸や北 アメリカにおける国家の統治の形態を変化させた。国王による封建支配国家と臣民から、近代国家と近代的個人 へと変化し、平等化、民主化が進みナショナリズムが芽生えた。このような変化は社会変動を引き起こし、人々の 意識、生活全般にも大きく変化させた (大澤, 吉見, 鷲田, & 見田, 2012, p. 301)。 8 人口転換とは出生率と死亡率が共に比較的高い状態から比較的低い状態へ移行する仮定である (国際人口 学会, 1994, p. 102)。 9 「第 1 の人口転換」は死亡率と出生率が多産多死から尐産尐死に移行することであるとはいえ、最終段階にお いて出生率が人口置換水準に近いレベルに安定している。 10 「第 2 の人口転換」は死亡率と出生率が既に尐産尐死の状況に至ったが、出生率がさらに人口置換水準以下 に下がる状態である (Lesthaeghe, 2011, p. 180)。 11 尐子化時代とは出生率が人口置換水準より下回る時期と指す。 12 合計特殊出生率とは、その対象となる人口を15-49 歳の女性に限定し、その 1 歳ごとの年間出生数を人口で 割って年齢別出生率を算出し、それを合計することでみとめられる指標である。簡単に言えば、1 人の女性が生涯 に産む子ども数である (岡田, 2009, pp. 7-8)。 13人口置換水準、または置換水準とは、一定の人口規模を維持するためには、一定の出生率が必要である。一般 的には人口置換水準は出生率が2.00 と 2.10 の間にあると認識されているが、実は死亡率が人口置換水準に影 響している。つまり、人口置換水準は普遍定数(Universal Constant)ではなく、国や地域の死亡率によって異な っているものである。トマス・エペンシェード(Thomas Espenshade)、 カーロス・グズマン(Charlos Guzman) & チャールズ・ウエストオーフ(Charles Westoff)の研究によれば、世界における人口置換水準は 2.05 から 3.43 に
至るまである。先進国では人口置換水準は2.09 に近いが、発展途上国では高い死亡率かつより短い出生時平
均余命であるため、先進国より高い人口置換水準(2.37)を持つ (Espenshade, Guzman, & Westoff, 2003, pp. 577,580)。
3
図 1-1 香港における TFR の推移(1971-2013 年)
出典:Census and Statistics Department „Vital Events‟(2014d)より作成
ハンス-ピーター・クーラー(Hans-Peter Kohler)、フランセスコ・C・ビラリ(Francesco C. Billari)&ジョゼ・アントニオ・オルテガ(Jose Antonio Ortega)の算定によれば、ある安定人口15
において、合計特殊出生率(TFR) が 1.30 であれば、人口は毎年およそ 1.5%減尐し、女性の第 1 子平均出生年齢も 30 歳になる。また、出生コーホートの規模が1世代ごとに 50%減尐するため、 人口規模は45 年ごとに半減する。さらに合計特殊出生率(TFR) が 1.00 以下では、年間減尐率 は2.4%となり、人口規模の半減期間は 45 年から 29 年に縮まる (Kohler, Billari, & Ortega, 2002, p. 642)。 香港の合計特殊出生率(TFR) は 2014 年までの 33 年間、人口置換水準以下に留まっている が、クーラー、ビラリ&オルテガが指摘するように、人口が毎年およそ 1.5%も減尐するようなことは 起きていない。むしろ、人口はプラス成長を持続している。これは、香港の人口が、安定人口で想 定されるような封鎖人口16ではなく、純移動(net migration)17が、この32 年間、尐子化がもたらし たはずの人口減尐を回避することに役立ってきたことを意味する。しかし、尐子化がもたらす問題 は人口減尐だけではない。人口高齢化及びそれが引き起こす社会経済問題が香港では年々深 刻化している。そのため、移民が問題の改善にどの程度、有効かについてはまだ不明な点も多く、 尐子化への政策対応は、香港社会にとって今なお喫緊の課題であるといえる。 15 安定人口とは、人口において年齢別出生率と年齢別死亡率が一定になることである。すなわち、この人口は、 安定的年齢分布(age distribution)を持つ (国際人口学会, 1994, p. 84)。 16 封鎖人口とは人口増加が出生と死亡との差に全面的に依存する (国際人口学会, 1994, p. 83)。 17 純移動は人口流入数と流出数の差である (国際人口学会, 1994, p. 92)。 0.00 0.50 1.00 1.50 2.00 2.50 3.00 3.50 4.00 1971 1976 1981 1986 1991 1996 2001 2006 2011 TFR 年次 TFR
4
問題意識
第2節
尐子化の主要な要因は、人口置換水準を下回る低出生力にある。なぜ低出生力が問題となる かといえば、所与の死亡率の下で人口を一定に保つに必要な出生力水準を下回る、いわゆる純 再生産率=1.0018に達しない場合、人口は持続的に縮小するからである。ただし、国や地域により、 出生力が人口置換水準以下にあったとしても、直ちに問題視されるとは限らない。2011 年国連人 口部が出版した『2011 年世界における出生政策(World Fertility Policies 2011)』によれば、合 計特殊出生率(TFR) が 1.60 以下の出生力を問題視していない国として、デンマーク、フィンラン ド、ベルギー、タイがある。その一方、合計特殊出生率(TFR) が 1.60 以上の出生力でも低いと意 識している国として、アルメニア、オーストラリア、グルジア、カナダがある。更に、合計特殊出生率 (TFR) が 1.80 以下の出生力でも高いと認識している国として、イラン、ベトナムがある (Department of Economic and Social Affairs Population Division, 2011)。総合して考察す ると、合計特殊出生率(TFR) が 1.50 またはそれ以下にある状態において、出生力を上げるべき だと認識する国が多い。即ち、多くの国・地域では合計特殊出生率(TFR) が 1.50 またはそれ以 下の状態にあれば、尐子化問題があると認識するといえる。他方、英語圏における尐子化研究では合計特殊出生率(TFR) のレベルにより出生力を区別 することがよく見られる。合計特殊出生率(TFR) が 2.00 以下になれば“Below Replacement Fertility”、“Sub Replacement Fertility”または“Baby Bust”と表現する。合計特殊出生率 (TFR) が 1.50 またはそれ以下になれば、“Very Low Fertility”と表現する。さらに合計特殊出 生率(TFR) は 1.30 またはそれ以下になれば、“Lowest-low fertility”または“Ultra-low Fertility”と表現する (Kohler, Billari, & Ortega, 2002, p. 641)。日本ではこれの英語表現に 対応する人口学用語はまだ定まっていない。守泉理恵は合計特殊出生率(TFR)1.50 を基準に、 それ以上の国に対し「緩尐子化国」、それ以下の国に対し「超尐子化国」という名称を用いている (守泉, 2007, p. 5 )。佐藤龍三郎は“Very Low Fertility”に「超尐子化」という対応語をあててい る (佐藤, 2008, p. 10)。また鈴木透は“Very Low Fertility”を「非常に低い出生力」、 “Lowest-low Fertility”を「極低出生力」と表現している (鈴木, 2008, p. 25)。本研究では合計 特殊出生率(TFR) が 1.31 から 1.50 の間を、英語圏の研究でいう“Very Low Fertility”の状 況とし「緩尐子化」と訳す。また合計特殊出生率(TFR) が 1.30 以下を、英語圏の研究でいう “Lowest-low Fertility”の状況とし「超尐子化」という表現を用いることにする。なお、「緩尐子化」 と「超尐子化」を直面している国・地域をそれぞれ「緩尐子化国・地域」と「超尐子化国・地域」と表 示する。
18 純再生産率(Net Reproduction Rate, NRR)とは、通常女子再生産率(Female Reproduction Rates)ある
いは母性再生産率(Maternal Reproduction Rates)のことである。女子の純再生産率は、ある仮設女子出生コ ーホートが現行の年齢別出生率と死亡率に従った場合の平均生存女児数と定義される (国際人口学会, 1994, p. 85)。出産は女性しかできないことであるため、母親と次の世代の女性との間の人口再生産の状況を反映するとも いえる (河野, 2007, p. 74)。
5 一方、グローバル化の時代においては、一国・地域の人口が、単純に自国の国民のみ構成さ れるとは限らない。さらに一時滞在労働者、永住権を持つ在留外国人、永住志向の外国人労働 者などの多様な背景を持つ人々で構成されている。このため、どこまでの人々を、出生力の算定 に加えるかが合計特殊出生率(TFR) の値に大きな影響を与えることも考えられる。また有効な尐 子化対策を打ち出すには、まず多様な尐子化状況を十分に把握する必要がある。香港の尐子化 研究においても、香港の出生力が、香港人口を構成する人々の来歴からどの程度の影響を受け ているか、また、構成グループごとの尐子化状況をどのように反映しているのかという点を解明す る必要がある。 前述したように、香港は多くの移民を受け入れているため、合計特殊出生率(TFR) が置換水 準以下と、極めて低い状態にあっても、人口成長率はなおプラスを維持している。つまり、移民が 出生力の低下により失われる人口を補充する役割を担っている。移民が人口を補充する可能性 に つ い て 、 国 際 連 合(United Nations, UN) が 、 2001 年 の 『 補 充 移 民 (Replacement
Migration)』という報告書で詳しく論じている。補充移民は出生率及び死亡率の低下によっても たらさられる人口減尐を補い、高齢化を回避するために必要とされる国際人口移動を意味する (国際連合人口部, 2001, p. 1)。同報告書は、尐子化と高齢化に直面している国・地域が、人口ま たは労働人口の規模を維持するには、移民の受入れが必要であると指摘している。ただし、この 研究結果は、受入れ移民の性比及び人口の年齢構成が変化しない、移民が受入国・地域の労 働力にそのまま加わるという仮定に立っており、現実に、この条件が満たされる保障はない。また、 当然ながら、受け入れ国は、移民政策により、移民の質及び量を規制できる。もっとも、世界の移 民動向においては、家族の呼び寄せが高い割合を占めており、そのような規制は容易ではない。 香港も同じ傾向にあり、移民政策による移民の選別が、尐子化による人口減尐や人口高齢化、労 働力不足にどのような影響を与えるかを解明することも重要な課題である。 2001 年、香港の尐子化問題は、ある裁判により、新らたな衝撃を受けた。それは「越境出産」 (Cross border to give birth)19を巡る判決である。1999 年に香港終審法院(The Hong Kong
Court of Final Appeal)で、中国本土の住民が香港で出産した子どもに、香港の居住権を与え るか否かに関する裁判が始まった。2001 年に出された裁判により、香港で、中国国籍を持つ者 から生まれた子どもに対し、出生地主義が適用されることが認められた。この裁判直後から、中国 本土の住民が、香港で子どもを出産するブームが発生した。「越境出産」は「香港人」として生ま れた子どもを大幅に増やし、尐子化問題の緩和に役立つと推測される。しかし、この想定が正し いか否かは、まだ確認されていない。従って「越境出産」が尐子化問題にどのような影響を与えた かを検証することも香港の尐子化研究において重要な課題の 1 つである。また香港だけでなく、 同じく尐子化国であるカナダも「越境出産」に直面しており、今後、このような現象が増加して行く 19 「越境出産」とは境界線を超えて子どもを産む行為である (Leung , 2012, p. 172)。その境界線は一国または 一地域における行政区域を分ける境界であり、国と国を分ける国境であるという意味を持つ。ここでは中国大陸と 香港の境界線を越えて子どもを産むという事情を指す。中国大陸と香港の境界線は香港と中国大陸それぞれの 入国審査及び税関検査が実行しているため、国と国を分ける国境として機能する。
6 可能性が高い。この点からも香港を1 つの事例として、「越境出産」が尐子化問題に与える、普遍 的影響について検討する。 以上の問題意識から本論文では、香港の人口構成の多様性に注目して、その尐子化が生じる 過程を解明するとともに、尐子化に対する移民や越境出産の影響についても議論する。
先行研究
第3節
尐子化に関する研究は人口学、社会学、経済学、政策学などの分野で多数ある。また、尐子化 の背景にとして、晩婚化、晩産化、価値観の変化、子育て費用の増加、男女の関係の変化などの 要因についても数多くの分析がなされているが、これらの要因の多くは近代化と関連している。近 代化は世界を大きく変えたと同時に、人間のライフコースにも影響を与えた。ウーリッヒ・ベック (Ulrich Beck)とエドガー・グランデ(Edgar Grande)によれば、近代化は、「第 1 の近代」(first modernity)と「第 2 の近代」(second modernity) の、2 つの段階に分けられる。「第 1 の近代」 は国民国家の産業化に基づいている。一方、「第2 の近代」は、第 1 の近代が強化されたことによ って生 じた グ ロ ー バ リ ゼ ー ショ ン 、個 人 化 に 関 わ ってい る (Beck & Grande, 2010, pp. 414-416 )。近代化の過程は国・地域により異なるが、西欧社会が約 200 年かけて実現した「第 2 の近代」を東アジアは半世紀で終了した。このような凝縮した近代化を、韓国の社会学者、張慶 燮(Chang Kyung-Sup)は「圧縮された近代」(compressed modernity)20として論じている。この「圧縮された近代」の概念は、韓国社会における急速な近代化と家族やジェンダーの変化に基づ いて提案された理論である。張によれば、「圧縮された近代」の進展及び西洋文化の広がりが西 洋的な近代社会とは異なる経済構造、社会的関係、文化的環境を作り上げ、違うレベルの近代 化の経験を生み出しており、そのような世代は、家族の観念(family ideology)に対する意識及び 行動も異なっているという (Chang, 2011, pp. 14-15)。張の「圧縮された近代」は韓国社会の状 況に基づいて論じられたものだが、同様に、他の東アジアの国々、日本、中国、新興工業国・地 域(Newly Industrializing Economies, NIEs)に属する台湾、香港及びシンガポールの近代化 と社会変化を説明できる。 近代化は家族の観念を変化させただけでなく、女性の学歴及び労働力参加率の上昇とも結び ついている。その結果、女性の経済・社会的地位が上った点でも、東アジア諸国・地域は同じ傾 向を共有する。さらに経済的余裕により、女性にとっての結婚の必要性が低下し、未婚に留まる 傾向が強くなり、これが出生力の低下に結び付いている。しかし、張の「圧縮された近代」では香 港の状況は十分に説明できない。その理由として、まず香港はイギリスの植民地であったため、既 に先進国であるイギリス=西洋を追いかける必要はなかった。さらに、香港の近代化は宗主国で あるイギリスの利益に沿って進められたため、近代化のプロセスは、すべてイギリス主導であった。 20 「圧縮された近代化」は文明の状態であり、時間と空間に対しても経済、政治、社会、文化が極めて凝縮した形 で変化する。このような変化は完全に異なる歴史及び社会要素の共存が非常に複雑な・高い流動性を持つ社会 制度を構築・再構築した (Chang, 2010, p. 444)。
7 言い換えれば、香港は、韓国、日本や中国のように西洋を追いかける政策に基づいて近代化を 成し遂げた訳ではなかった。その上、香港の工業化は韓国と異なり、重工業ではなく軽工業中心 で進んだ。しかも、製造業に偏った軽工業は女性の社会進出を促進し、女性は家族の生計に重 要な役割を果たすようになった。香港の産業構造は、その後、第2 次産業から第 3 次産業へと移 行したが、その後も、労働市場は女性を受け入れやすい環境に止まっている。それ故に、香港で は、日本、韓国で高度成長期に見られたような、女性の専業主婦化は起こらなかった。要するに、 香港社会の近代化も圧縮されたが、日本や韓国とは異なる方面で発展してきた。このため、近代 化の圧縮がもたらした影響も相違したと考えられる。 また、香港は国家として独立している地域ではないため、近隣のアジア諸国・地域であ る日本、韓国、中国、台湾、シンガポールなど比べ、出生力低下に関する先行研究は限ら れている。ロナルド・フリードマン(Ronald Freedman)が、香港の出生率低下についての、 最初の研究者である。彼の研究は、主に1950 年代後半を対象に、近代化や家族計画(family planning)の普及が出生率を急減させた要因であると論じた。フリードマンによれば、社会 経済の発展は香港住民の教育水準を上昇させると同時に、若い夫婦が子どもを産む意欲を 低下させ、小家族を望む傾向を強めた。また結婚パターンの変化(晩婚化)が若年の年齢別 出生率を大幅に低下させた、もう一つの要因であるとしている (Freedman & Adlakha, 1968, pp. 194-195)。さらに家族計画による子宮内避妊器具(intrauterine contraceptive device, IUCD)の普及と経口避妊薬(contraceptive pill)の一般販売が、若い夫婦の出生率を 大きく低下させた (Freedman, Namboothiri, Adoaiya, & Chan, 1970, p. 12)。他方、1960 年代の産業化が女性の社会進出を促進した事情を出生力低下と結び付ける研究もあった (Wat & Hodge, 1972; Choi & Chan, 1973; Wong, 1975; Ho, 1984)。しかし、1980 年代以 降になると、香港の出生率低下に関する研究は急に目立たなくなった。原因は、家族の呼 び寄せにより、大量の移民が中国本土から香港に流入したためである。これらの移民の影 響を受け、香港人口の純移動(net migration)は常にプラス成長となっている。このため 1981 年から出生力が人口置換水準以下となっても、香港では人口減少も労働力不足も現れ ていない。言い換えれば、移民の流入により少子化問題が深刻化しないため、出生力低下 は研究課題としてほとんど注目されてこなかった。これに対し移民の流入自体は香港社会 に様々な社会問題を引き起こしており、そのため香港社会や香港人口に関する関心は移民 研究に偏っている。 しかし、2000 年以降になると、尐子化がもたらした人口高齢化が、香港社会で大きな注目を集 めるようになり、この状況を契機に、尐子化研究が盛んになってきた。中でも、香港大学の教授ポ ール・イップ(Paul Yip)が率いる研究が多い。例えば、2001 年に出版された‘A Study of Demographic Changes under Sustained Below-replacement Fertility in Hong Kong SAR’、2002 年に出版された‘The Impact of the changing marital structure on fertility of Hong Kong SAR(Special Administrative Region) ’ と 2009 年 出版 さ れた Ultra-low
8
Fertility in pacific Asia: Trends, Causes and Policy Issuesの第7 章‘Ultra-low Fertility
in Hong Kong: a Review of Related Demographic Transitions, Social Issues, and Policies to Encourage Childbirth’ (Yip , Law, & Cheung, 2012 )が知られている。イップの 研究は、主に出生率低下の要因を分析した上で、自然増加より純移動、いわゆる移民が人口増 加の主役であることを指摘した。2001 年の論文は、尐子化が人口構造に影響を与えることをテー マとして取り上げ、出生率の低下が人口高齢化をもたらすことを示した。イップは香港の出生率が 低いままに留まる傾向が強く、移民が人口成長の主役になることを指摘した。人口高齢化に対し ては、退職年齢の遅延、労働市場への女性のより高い進出、技術向上・革新による生産性の上 昇などの方法で、人口高齢化がもたらす問題を解決することが可能であることを示した (Yip P. , Lee, Chan, & Au, 2001, p. 1008)。一方、2002 年の研究では、有配偶出生率の変化に焦点を 合わせ、香港の出生力低下を説明した。イップは出生力低下の背景として、有配偶出生率の低 下と生涯未婚女性人口の増加が深く繋がっていることを指摘し、2001 年の研究と同じように出生 率の回復が望ましいこと、移民が香港の人口成長に重要な役割を持っていることを述べている (Yip & Lee, 2002, p. 2169)。また 2002 年の研究では、香港の男性住民には中国本土の女性 住民と結婚する傾向があり、これが結果的に香港における生涯未婚の女性人口を増やしたことを 指摘した。この事情について、本研究では「越境家族」について議論するなかで述べている(第 4 章参照)。しかし、この 2002 年の、イップの研究では「越境家族」が出生率に影響を与える点につ いてはまだ言及していなかった。
2006 年 、 イップ は 、一ツ橋大 学が主催 した国際会議 ‘ International Conference on Declining Fertility in East and Southeast Asian Countries’で ‘An Analysis of the Lowest Total Fertility Rate in Hong Kong SAR’という論文を発表し、「越境家族」の出生率 を計算し、これに基づいて香港の尐子化を説明した。この論文の結論は、生涯未婚女性の増加、 晩婚化、有配偶出生率の低下が出生力低下の要因であるとされている。女性の学歴及び経済力 の向上が、この結論の主因であり、また「越境家族」の増加が香港の未婚男女数のアンバランスを 招いたことも重要な要素であるという (Yip, Li, Xie, & Lam, 2006, pp. 10-11 )。さらに 2009 年、
イップはUltra-low Fertility in Pacific Asiaという本の、第9 章‘Ultra-low Fertility in Hong
Kong’の執筆者の 1 人でもある。この章では、香港の尐子化要因をはじめ、尐子化がもたらした 問題、香港政府の対応や尐子化対策への提言まで、全般的に分析している。イップが率いた分 析は、香港の尐子化の全体像を把握し、移民として「越境家族」のことも取り上げた。しかし、前述 したように、香港政府統計局は2005 年から出生率の計算を修正し、「越境家族」が香港で出産し た子どもや、中国本土の住民である母親も香港の女性人口に算入するようになっており、2004 年 以降香港の出生率の上昇傾向が、「越境家族」の出産を含めるようになったことによるものか、そ れとも他の要因の影響によるものかはまだ確認されていない。2009 年の研究は、「越境家族」と 香港の生涯未婚女性人口との関係については述べているが、「越境家族」が香港の出生率に与 える影響には触れておらず、この影響について今後明らかにするという課題が残されている。
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イップのほか、 エドワード・ジョチン・トォー(Edward Jow-Ching Tu)も香港における尐子化の パターンについて考察している。トォーの研究は、主にコーホ―トの変化と出生率低下の関係を 分析している。トォーもイップと同じように、移民に焦点を合わせた尐子化対策への提言を行って いる。しかし、トォーは、移民の受け入れそのものよりも、彼らを香港社会や労働市場にいかに統 合するが重要であり、そのためには移民を教育する必要があると述べている。トォーは、移民のみ ならず、香港の経済発展のためには全体住民の教育レベルを向上させることを提案している。トォ ーの論文は2006 年に発行されているが、残念ながら、その内容は 2003 年までのデータに止ま っている。 以上が、香港の尐子化に関する先行研究である。このように、香港の尐子化研究は、まだ限 られているが、香港の尐子化の全体像はほぼ把握されてきたと思われる。ただし、先行研究は 2003 年までの分析に止まるものが多い。2009 年出版された論文が扱っているデータも、多くも 2003 年に止まっている。ところが、2003 年以降、香港社会には大きな変化があった。まず、香港 政府統計局が、出生率の算出方法を修正した。その上、香港では 2003 年から「越境出産」が本 格的に出現し始めた。さらに、香港政府の人口発展に対する態度も 2003 年に急変した。これら 様々な社会変化が、香港の尐子化状況を変化させたと考えられる。従って、2003 年以降、香港 の尐子化問題がどのように変化したかを確認することも、先行研究が残した重要な課題の 1 つで ある。さらに先行研究は、香港人口構成の変化が出生率に与える影響を見過ごしており、これを 解明するという課題も残っている。香港の出生率は、単に「香港人」カップルが出産した子どもだ けでなく、移民が香港で出産した子どもも含まれる。従って、それぞれのカップルの構成比の変化 が、香港の出生率に与える影響も先行研究が残した、もう1 つの課題であるといえる。 その上、先行研究は移民が香港の尐子化に影響を与える点については指摘しているが、例え ば、移民の年齢構造や労働力参加率などの特性が尐子化に与える効果までは分析していない。 香港は毎年大量の移民を受け入れており、その移民の構成や特徴が香港の尐子化問題にどの ように作用するのか、より詳細に解明することが必要である。最後に、これまで先行研究がほとん ど扱って来なかった「越境出産」の分析こそ、香港の尐子化研究に残された最重要の課題である といえよう。
分析の視点及び研究方法
第4節
分析の視点 (1) 本研究は、社会人口学の視点から香港の尐子化を分析する。その理由は、香港社会の背景 や構成人口の特徴が、香港の尐子化と深く結びついていると考えられるからである。特に、香港 は国家ではないため、国籍よりは、居住権によって、人口が区別される社会であり、このことが尐 子化状況や尐子化がもたらす問題をより複雑化する。しかし、その一方、香港の尐子化は、従来 の尐子化の研究では、ともすれば見過ごされて来た研究課題を提示する。それは、出生の、最も10 重要な構成要素である新生児及び女性人口の来歴と、尐子化との深い結びつきを解明すること である。 グローバル化した世界においては、人口の移動はより容易になり、帰化による国籍変更や永住 権取得などの制度導入により、「人は生まれ育った地域に永遠に滞在するわけではない」という、 新しい状況がごく普通のものになりつつある。そのような、高い国際人口移動性を持つ国・地域で は、単に自国民または定住民にのみ基づいて算出する出生率だけでは、その国・地域の尐子化 を十分に把握することができない状況が生まれている。それ故に、出生力の算定にあたっては社 会学的要素も含めた分析が必要とされる。さらに香港の尐子化は、その母集団の一部をなす「移 民」やその「居住権」と、質的にも量的にも関係しており、これらの社会学的要素も、本研究にとっ て重要である。要するに、本論文の目的は、香港のような形で、グローバル化した世界における、 出生率の構成要因と人口移動が尐子化問題に与える影響を明らかにすることにある。 データ及び研究方法 (2)
本研究に用いる出生登録データ(Known Birth Microdata Set)(1997-2012 年)は香港政府 統計局(Census and Statistics Department)により収集された、届出による出生個票である。こ の出生登録データには、国籍を問わず、香港で生まれた子どもの個人情報が詳しく記載されてい るため一般には公開されていない。筆者は、2013 年 10 月、直接香港政府統計局から本データ の使用許可を得た。1997 年から 2012 年までの 16 年間において、香港政府統計局は、 1,040,940 件にのぼる新生児の個票を集めた。分析項目により欠損が生じるが、本稿で、主に分 析する香港の出生率に関係する「香港人」カップルと「越境家族」の有効データは681,322ケース ある。その内、「香港人」カップル(香港で 7 年間以上居住している者のみを抽出した)は 507,454 ケースである。一方、「越境家族」(両親のいずれか一方が「永久性住民」であり、他方が中国本土 の住民である者のみを抽出した)は 173,878 ケースある。言うまでもなく、個票によってはデータが 欠損する変数があるため、分析項目により欠損件数は異なる。また、分析によっては、出生登録 データに記載されている分類を再分類して考察する場合もある。例えば、職業に関して、出生登 録データには12 のカテゴリーが記載されているが、職業ごとに、カップルの年収の測定や順位に 付けを行うため、12 のカテゴリーを 5 のカテゴリーに再分類した。また 1997 年から 2012 年まで のデータのうち、多胎児が3,033 人生まれている。ただし、多胎児の記述は病院によって異なるこ とがある。特に出生順位に関しては、多くの病院が多胎児の出生順位を同じとしている。このデー タの制約は分析の結果に影響を与える恐れがあると考え、多胎児は本稿の分析対象から外すこ とにした。なお、上記の出生登録データのみでは、出生率と政策の関係を十分に分析することは できない。このため、香港政府統計局が公表している、出生、結婚、職業に関する統計データを 利用し、出生登録データ分析の制約を補足するように努めた。 考察作業においては、出生登録データ及び香港統計局の各種統計と報告書以外に、他の主 な資料として、香港の地方紙、香港特別行政区立法会(Legislative Council of the Hong Kong
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Special Administrative Region)、通称香港立法会という立法機関の会議録、香港政府の官制 報道、人口学関係の文献、組織団体の報告書及び統計資料などを用いた。さらに「越境出産」の 経験者及び「越境出産」の仲介業者への電話・訪問調査も行った。 本研究では、出生率の構成要因及び人口移動が香港の尐子化問題に与える影響を分析する ため、各章で議論する課題に合わせ、分析方法が異なっている。ただし、基本的に、出生登録デ ータを解釈する際は主に単純集計とクロス集計を用いている。また各章のテーマに基づき仮説を 立て、それらを検証する。扱う仮説については各章で詳しく説明する。
論文の構成
第5節
本論文は香港の出生率の構成要因及び人口移動が尐子化問題に与える影響について考察 することを目的とする。この課題に基づき、本論文は序章(第 1 章)、本文(第 2-6 章)、結論(第 7 章)、 全7 章からなる。各章のテーマは下記の通りである。 第 1 章は、本研究の問題意識及び研究課題と関連する研究や資料について述べる。本論の 問題意識は合計特殊出生率(TFR)の構成要素である新生児及び女性人口の来歴は尐子化状 況をどのように反映していることにある。また、香港を研究対象とした理由を記述する。 第 2 章は、香港の人口成長及び出生率低下の背景を考察することから始まる。香港人口の成 長及び人口構造の変化は香港の歴史と深く結びついている。特に、歴史上、数回あった、中国 本土における社会不安の時期には、香港に大量の不法移民が流入し、香港の人口構造を大きく 変化させた。その上、第 2 次世界大戦以降、急速に進んだ近代化は、香港社会における男女の 役割に大きな影響を及ぼすことになった。また、それに加え家族計画の普及が香港住民の出生 行動に大きな影響を与えた。これら様々な社会変化を通じ、香港の出生力は、1960 年代の合計 特殊出生率(TFR) で 5.00 以上の水準から 1980 年代の 2.00 以下まで低下した。尐子化の展 開は香港社会の発展と深く結びついているが、のみならず、香港政庁や、返還後の香港政府の、 尐子化問題に対する態度が、尐子化を深刻化させた要因の1つであったとも考えられる。それ故 に、社会の変化と政府の態度が、香港の尐子化にどのように影響したかを探る。 第 3 章では、香港の出生率の構成要素及び尐子化の現状を考察する。出生力の算定にはあ る年に生まれた新生児数(死産を除く出生児数)と、その母親である 15-49 歳に属する女子人口が 用いられる。しかし、新生児や女性人口に、どのような誰を含めるかによってその値は大きく異な ることになる。特に、香港は、イギリスの植民地から中国の特別行政区に切り替わったこともあり、 出生率に算入される母子の構成が、主権の変化と共に変わることになった。このため、第 1 節で は、香港の出生率が誰を反映しているのかという問題を検討し、香港の出生率に影響を与える構 成要素を明らかにした後、出生登録データに基づいて、香港社会の尐子化の現状について考察 する。 第4 章は、移民が香港の尐子化問題に与えた影響を中心に考察する。第 2 章で触れたように、 香港は移民で構築された社会である。移民は香港の出生率にも大きな影響を与えると想定される。12 多くの尐子化研究が、移民の受け入れには、尐子化問題を緩和する効果があると指摘している。 しかし、香港が受け入れている移民は主として家族の呼び寄せであり、この特徴は尐子化がもた らす諸問題を緩和しうるのかどうか、また移民が出生率にどのような影響を与えるのかについて考 察する。 第 5 章では、「越境出産」が香港の尐子化問題に与える影響について分析するが、まず、その 前に、なぜ香港で「越境出産」がこれほど多く現れるようになったのか、その原因について考察す る。「越境出産」は、2001 年から実施された出生地主義により引き起こされた現象である。つまり、 なぜ、中国本土の住民は同じ中国に属する香港で子どもを出産したいのかという点を明らかにす る。さらに、2003 年以降の「越境出産」の状況を明らかにするため、出生登録データを利用し、 「越境出産」をした中国本土住民の特徴を把握する。また 2003 年から 2012 年まで香港政府は 「越境出産」を抑制するために様々な政策を打ち出した。これらの政策が「越境出産」をする中國 本土の住民の特徴にどのような変化を与えるのかについて解明する。最後に、「越境出産」の背 景及び特徴を十分に把握した上で、「越境出産」が香港の尐子化問題に与える影響を論じる。 第6 章は、香港向けの尐子化対策の課題及び方針を議論することを目的としている。この章で は、世界の尐子化対策を考察することから始める。世界の尐子化対策は主に家族政策と移民政 策からなるが、それらは元々尐子化を改善することを目的とした政策ではない。従って、香港に相 応しい尐子化対策を提言する前に、まず尐子化対策と関連する家族政策及び移民政策につい て考察する必要がある。また、香港における出生促進政策の効果について検討するとともに、第 3 章から第 5 章までの議論を踏まえ、香港の尐子化問題に影響を与えるグループの特徴を十分 に考慮した上で、今後の、香港の尐子化対策の課題と展望について議論する。 第7 章は、本論文の結論である。本研究は香港の事例から合計特殊出生率(TFR)の構成要素 が尐子化の状況に与える影響を分析することによって、出生力とその構成要素の関係について 改めて論じる。また、香港政府が尐子化問題への対応をみることによって、香港の尐子化対策の 課題及び今後の課題を論じる。
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第2章 香港の人口成長と尐子化の展開
香港の歴史と人口成長
第1節
移民で構築された社会 (1) 1841 年に、イギリスが香港島で初めての人口調査を実施した際、総人口は 7,450 人だった。 その内、村・集落の人口は4,360 人、バザール(商店街)の人口が 800 人、蛋タ ン 民ミ ン(船上生活者、 afloat)が 2,000 人であり、当時は、まだ中国の領土であった九龍半島からの労働者が 200 人い た (Mayers, King, & Dennys, 1867, p. 17)。2011 年には香港の人口は、すでに 700 万人を 超えている。この間170 年、香港の人口は大幅に(約 940 倍)増加した(図 2-1)。図 2-1 香港人口の推移(1841-2011 年)
出典: Mayers, King & Dennys The Treaty Ports of China and Japan (1867) p.17、 Census and Statistics Department Historical and Statistical Abstract of the
Colony of Hong Kong (Appendix) (1911) pp.1-6、
Mitchell International Historical Statistics (2007) p.10、
Census and Statistics Department Hong Kong Annual Digest of Statistics
(2012a) p.4 より作成
1842 年、イギリスが香港島を植民地とした後、多くのヨーロッパ商人や中国本土の労働者が香 港島に移住したため、1845 年には香港島の人口は 23,817 人まで増加した (Mayers, King, & Dennys, 1867, p. 17)。その後、北京条約の締結(1860年)及び「展拓香港界止専条」の調印 (1898年)によって、英国領香港の領域(現在の香港領域)が確定し、領域の拡大と共に人口が 254,400 人まで増大した (Hong Kong, 1911, p. Appendix 6)。1898 年以降、香港は香港島、
0 1000 2000 3000 4000 5000 6000 7000 8000 1841 1851 1861 1871 1881 1891 1901 1911 1921 1931 1941 1951 1961 1971 1981 1991 2001 2011 千 人 年次 総人口
14 九龍半島、新界及び周辺にある 262 の島々から構成された。香港と中国本土との境界線は深圳シ ン セ ン 川(Shenzhen River)によって分けられた。もっとも 1898 年当時、香港と中国本土との境界線に は入国審査のみならず、フェンスさえも設置されていなかった。このため、中国本土の住民と香港 の中国系住民は、自由に境界線を超え移動または移住することができた。そのような事情から、 中国本土の住民や香港の中国系住民は、中国本土や香港の社会情勢を反映し移動する傾向が あった。日中戦争(1937 年-1945 年)と日本軍による広東占領中では、1937 年に約 10 万人、 1938 年に約 50 万人、1939 年には約 15 万人もの避難民が中国本土から香港へと逃げ出した (Information Service Department, 2011, p. 436)。このため、1941 年 12 月に日本軍が香港 を占領した時、香港人口は164 万人に達していた (Fan S. , 1974, p. 2)。ところが、日本軍は 1941 年 12 月 24 日「港九地区ニ於ケル人口疎散実施要領」21という人口政策を策定し、一部の 香港人口を労働者として海南島に派遣し、また他の一部を中国本土に強制的に帰還させた (小 林 & 柴田, 1996, p. 85)。その結果、1943 年 2 月には香港人口は 96.9 万人まで激減し、1945 年8 月日本が香港の主権を放棄した時点で、香港には約 60 万人の人口しか残っていなかった (Tang, 2004, p. 127)。しかし、第 2 次世界大戦直後に起こった国共内戦22は、大量の避難民を 中国本土から香港に送り出した。内戦の影響を受け、香港は1 ヵ月に約 10 万人の避難民をマカ オや中国本土から受け入れた。このため1947 年末には、香港人口は 180 万人に達した (可児, 1999, p. 25)。 1949 年になると、香港政庁は、香港と中国の境界線に塀やフェンスを設置し、出入国管理も実 施するようになったが、中華人民共和国の成立と激動が続いた1949 年-1950 年に中国本土から 香港に逃げ出した難民の数は約776,000 人に上った (Endacott, 1982, p. 197)。その後、中国 本土で起こった「三反五反運動」23、毛沢東が主導した「大躍進」24や中国本土での発生した干害 が大量の避難民を中国本土から香港に逃がさせた。1961 年の人口調査によれば、1949 年 9 月 から1961 年 3 月までに、827,222 人の避難民が中国本土から香港に流入した (Barnett, 1961, p. Appendix 24)。
1962 年 5 月 31 日、香港政庁は「低塁政策」(Touch Base Policy、以下はタッチベース政策と 記す)を策定した。この政策により、中国本土からの不法移民のうち、香港の都市部(香港島と九 21 「港九地区ニ於ケル人口疎散実施要領」は日本軍が香港を占領する前にも計画した人口移動政策である。こ の計画によれば、日本軍は香港、九龍地区における軍事行動を維持するため、技術者と労働者以外の下層階級、 特に浮浪者を中国本土やマカオに移住させる (小林 & 柴田, 1996, pp. 85-87)。 22国共内戦とは、中華民国政府と中国共産党の間の戦争である。国共内戦は1927 年中国共産党と中華民国政 府との合作が終了した後勃発した内戦である。内戦中の中国に出兵する日本は中華民国政府と中国共産党の共 通の敵となり、内戦が一時的に停止することになった。しかし、第2 次世界大戦後、中華民国が戦勝国となった後、 国民党と共産党が戦後構想の分岐より1946 年 6 月内戦を再開させた。 23 「三反五反運動」とは中国で、1951 年末から翌年にかけて行われた公務員の三害(汚職・浪費・官僚主義)と資 本家階級の五毒(贈賄、脱税、国家財産の横領、原料のごまかし、国家の経済情報の盗漏)に反対する運動であ る (新村, 1997, p. 1080)。 24 「大躍進」とは 1958 年-1961 年、毛沢東の提唱で展開された大衆運動による経済建設運動である。現実から 遊離し、自然災害・ソ連の援助引き上げなどもあり失敗。文化大革命に至る党内対立の出発点となった (新村, 1997, p. 1558)。
15 龍地域)に到着し親族の援助を受ければ、香港で合法的に滞在する証明書がもらえるようになっ た (鄭 & 黃, 2004, p. 124)。換言すれば、何とか都市部に辿り着けば香港に居住する権利をも らえるようになったが、その一方、香港と中国の国境または新界地域で逮捕された者は不法移民 として、その日のうちにすべて中国本土に強制送還された。この「タッチベース政策」の策定は第 2 次世界大戦終戦直後に急速に進行した産業化が、労働力需要を高めたことと結びついている。 中国本土の難民は安価な労働力の主要な供給源となったため、香港政庁は難民の流入を厳しく 制限しないことにした。「タッチベース政策」をきっかけに、香港人口は1970 年代末までに 400 万 人を超えた。人口の急増は香港社会にとって大きな圧力となり、香港の工業は続々と中国本土に 移転し、未熟練労働者に対する需要を激減させ25、1980 年 10 月 24 日に香港政庁は「タッチベ ース政策」を廃止、26 日からは不法入国者を捕まえるとすぐ中国本土に送還する政策に代えた。 この間、「タッチベース政策」は、香港の人口を大幅に増加させたが、人口の年齢構造(図 2-2)を 見ると、多くの移民は 40 代以下に分布しており、香港政庁が中国本土の不法入国者を厳しく制 限しない理由はそこにあったと思われる。 25 1970 年代末中国は対外開放・経済体制改革の新路線を確立した後、1980 年に広東省にある深圳シンセン、珠シュ海カイと 汕頭 ス ワ ト ウ 及び福建省にある厦門シアメンを「経済特区」として設置した。これらの「経済特区」は外国資本と関連した輸出向け 企業の設立によって外貨を得ることが目的であるのみならず、経済体制改革の試験地域として作用する (唐木, 2007, p. 177)。中国政府が「経済特区」に打ち出した税制上及び土地使用料金に関する優遇政策は製造業や 軽工業企業に取って魅力的と見なされた。一方、香港が急速な経済発展によってもたらされた労働力不足、賃金 上昇、地価高騰は製造業や軽工業の経営環境を悪化された。香港より安いかつ高い労働力があるため、香港の 製造業及び軽工業は徐々に生産拠点を「経済特区」に移転するようになった。
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図 2-2 1961 年と 1981 年の人口ピラミッドの比較
注:
(1) 1961M は 1961 年男性人口を指す。1961F は 1961 年女性人口を指す。1981 年も 同様である。
出典:Census and Statistics Department Hong Kong Annual Digest of Statistics
(1982) p. 23 より作成
しかし、「タッチベース政策」の廃止と共に、中国本土からの移民が止まった訳ではない。1982 年以降、中国本土の住民は「單程證制度」(One-way Permit Scheme、以下は「単程証」とする) という、家族の呼び寄せを目的とする移民政策により香港に移住するようになった26。「単程証」は 中国本土の住民をポイント制27割当方式で香港に移住させる制度である。1982 年、1 日当たりの 割当定員は75 人だったが、1993 年から政策が修正され、1 日当たりの定員は 105 人になり、 1995 年からは毎日 150 人まで増加した (人口政策専責小組, 2003, p. 17)。1995 年の修正以 26 「単程証」の申請者は以下の 3 種類に分けられる。①香港永住者である老親を扶養するため、香港に移住す る中国本土の住民。②中国本土の住民である香港永住者の配偶者、要扶養児童及び60 歳以上要扶養の老親。
③香港永住者である親戚から扶養を受ける必要がある中国本土の住民である子ども (Bacon-Shone, Lam, & Yip, 2008, p. 6)。 27 ポイント制の評価基準は香港政庁ではなく、中国中央政府が決定するものである。「単程証」が離散家族の再 会するため導入した移民政策であるため、評価基準は分離された時期に基づく。配偶者の場合は分離された一 日が0.1 ポイントとして計算する。つまり、夫婦が 1 年間分離された場合、36.4 ポイントを得られる。子どもの場合 は子どもの年齢から15 を引くことによってポイントを算出する。要扶養の老親の場合は要扶養者の年齢から 59 を 引くことによってポイントを算出する。さらに、子どもと結扶養の老親向け追加ポイントがある。それは香港で直系親
族がいる場合15 ポイント、兄弟がいる場合 5 ポイントである (Bacon-Shone, Lam, & Yip, 2008, p. 6)。
60 50 40 30 20 10 0 10 20 30 40 50 0-4 5-9 10-14 15-19 20-24 25-29 30-34 35-39 40-44 45-49 50-54 55-59 60-64 65-69 70-74 75以上 万人 年 齢 層 1961M 1961F 1981M 1981F 男性 女性
17 降は、2014 年現在まで大きな変更はなかった28。つまり、1995 年以降、香港には中国本土から 毎年、約5.5 万人が移住している。1997 年に香港が中国に返還された後も、中国本土住民が香 港に移住する場合は、「単程証」を必要とする。言い換えれば、中国本土から香港に移住する人 は、すべて香港永住者の親類ということになっている。ただし、2003 年から香港政府は人口高齢 化と労働力不足の改善のため、中国本土住民向けに様々な移民政策を打ち出している。まず労 働移民政策として「輸入内地人材計画」(Admission Scheme for Mainland Talents and Professionals)29を、また投資移民政策として「資本投資者入境計画」(Capital Investment
Entrant Scheme)30を導入、さらに2006 年には技術移民向けの移民政策として「優秀人才入境
計画」(Quality Migrant Admission Scheme)31を、2008 年には香港の大学を卒業した外国人
留学生(中国本土からの留学生を含め)が香港で就職することを促進することを目的として「非本 地畢業生留港/回港就業」(Immigration Arrangements for Non-local Graduates)をそれぞ れ導入した。これらの政策により中国本土の住民のみならず、世界中の投資移民や技術移民が 香港に移住できるようになった。 2003 年 7 月から 2013 年 8 月の間に、香港は「輸入内地人材計画」により、中国本土の住民 62,233 人、「資本投資者入境計画」により 19,272 人、「優秀人才入境計画」により 2,849 人、そし て「非本地畢業生留港/回港就業」により 22,121 人の移民を受け入れた (香港特別行政區立法 會, 2013, p. 81)。上記期間に移民政策によって受入れた移民の 91.1%が、中国本土の住民で あった。また「資本投資者入境計画」では中国本土の住民は、全移住者の 87.2%を占めた。中国 28 1 日の割当は変更がなかったが、子どもに対する割当が変更された。1995 年 10 年間以上分離した配偶者及 び扶養の子ども(嫡出子)に特別な割当を追加した。また 1996 年、この 10 年間以上分離した配偶者と嫡出子に対 する割当を「扶養の子ども」から「すべての子ども」に修正した。さらに1998 年すべての配偶者は 13 歳満以下の
嫡出子を連れて香港に移住することができるようになった (Bacon-Shone, Lam, & Yip, 2008, p. 5 )。さらに、 1999 年香港人の非嫡出子にも単程証を申請するようになった。1995 年から割当の配分は香港の居住権を持つ 未成年の子どもが60 名、夫婦が 10 年またはそれ以上離れていた香港永住者の配偶者及び同行の子どもが 30 名、その他の申請者が60 名である。その他の申請者は夫婦が 10 年以下離れていた香港永住者の配偶者及び 同行の子ども、中国本土で扶養者がいないため、香港永住者である親戚に依存する必要がある子ども、香港永 住者である年老い親(香港で他の子どもがいない場合のみ)の世話をするため、香港に移住した中国本土の住民、 中国本土で扶養者がいないため、香港永住者である親戚に依存する高齢者を含めている (香港政府新聞網, 2007)。 29 「輸入内地人材計画」は 2003 年 7 月 15 日から実施された中国本土の住民向けの移民政策である。申請者 は中国本土の住民ではなく、香港で登記された会社の雇用主である。この計画の目的は高度な技能を有する中 国本土の住民を香港で働くようにする。この計画を通じて香港に移住する中国本土の住民は移住者の配偶者及 び18 歳未満の嫡出子も移住者と共に香港に移住することができる (香港特別行政區入境事務處, 2014)。 30 「資本投資者入境計画」は 2003 年 10 月 27 日から実施された投資移民政策である。この移民政策には香港 で特定の資産及び投資をする条件がある。2010 年 10 月 14 日以前、香港で 650 万香港ドルを満たす資産(不動 産物件を含め)が投資移民の条件であった。2010 年 10 月 14 日以降、都市移民の条件は純資産が 1000 万香 港ドルまでに上がった上で、不動産への投資を条件から除いた。この投資移民政策の対象は主に中国国籍以外 の外国人(アフガニスタン、キューバ及び北朝鮮を除く)である。ただし、台湾人及び外国の永住権を持つ中国国 籍を有する者はこの投資移民の対象になる (香港特別行政區入境事務處, 2014)。ただし、この政策は 2015 年 1 月15 日から本稿が提出するまで停止している。 31 「優秀人才入境計画」は 2006 年 6 月 28 日から実施された技術移民向けの移民政策である。この計画の対象 は「資本投資者入境計画」より広い。中国本土の住民及び外国人(アフガニスタン、カンボジア、キューバ、ラオス、 北朝鮮、ネパール及びベトナムを除く)も申請できる。しかし、移民の条件は「資本投資者入境計画」より厳しく設 定している (香港特別行政區入境事務處, 2014)。
18 本土の住民には本来「資本投資者入境計画」の申請資格はないが、中国以外の国の永住権を 持つ中国本土の住民、申請の対象となるという条件がある。これを利用し、多くの中国本土の住 民が、比較的、永住権を得やすい発展途上国で、まず永住権を得た後、「資本投資者入境計画」 を通じ、香港に移住する。「非本地畢業生留港/回港就業」も、中国本土からの留学生が多いため、 95.5%の移住者が中国本土の住民である。これらの移民政策の利用者には中国本土からの移住 者が多いが、家族の呼び寄せから香港に移住する中国本土の住民に比べれば、相対的に尐な い。ただ、いずれにせよ、このような現状は、香港が受け入れている移民の殆どが、中国本土の住 民であることを示唆している。 香港の社会動態は、単に中国本土からの移民を受け入れるだけではなく、香港人口が外国に 流出した時期もあった。前述したように、第2 次世界大戦時、日本軍が香港の人口を中国本土及 び海南島に送り出した。また、第2 次世界大戦以降は、イギリスで起こった中華料理ブームをきっ かけに多くの香港人がイギリスに移住した。1961 年にイギリス国籍法(British Nationality Act 1961)が施行されるまでは、香港で生まれた人はイギリス国籍法 1948 (British Nationality Act1948)に基づき自由にイギリス本土に移住することができた (張 & 陳, 2002, p. 26)。このた め 1950 年代から 1960 年代に掛け、約 5-6 万の香港住民がイギリスに移住した (スケルドン, 1997, pp. 37-38)。また、1962 年カナダ、1965 年アメリカ、1973 年オーストラリア、1978 年ニュ ージーランドと、移民に対する人種差別的制限が廃止されたことにより、香港住民はそれらの国 へも移住するようになった。さらに最も大きな移住ブームが1980 年代に起きた。1982 年に、イギリ スが香港主権を中国に返還するという情報が香港社会に広がり、その後、多くの香港住民が続々 にカナダ、アメリカ、オーストラリアに移住するブームが現れた。これに加え1989 年に中国本土で 起きた「六四天安門事件」は、返還に対する香港住民の不安を高め、海外に流出する人口をさら に増加させた(図 2-3)。
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図 2-3 海外に移住した香港人人口の推移(1980-2012 年)
出典: Skeldon,R. Emigration from Hong Kong (1995) p.57、
Information Services Department Hong Kong Year Book (1997-2013)、 Migration News „Hong Kong Emigration Drops‟ Vol. 3 (3) (1996)より作成
自然増加と人口成長 (2) 自然増加は出生と死亡の差を指す。1841 年イギリスは香港島で香港史上初の人口センサスを 行った。ところが、初期の人口センサスは主に欧州やアメリカの住民についての統計に基づいて いた。例えば、香港の死亡率としては、香港に住む欧米人の死亡率(欧米人 1000 人あたり死亡 数、単位‰)のみが記されていた。その後、1871 年になって、香港政庁は初めて中国系香港住 民の死亡率も統計に含めるようになった。そして、1874 年から、中国系住民と欧米人の統計が、 それぞれ公表されるようになった。1874 年の中国系香港住民の死亡率(中国系香港住民 1000 人あたりの死亡数、‰)は 31.2 であった。1910 年まで、中国系香港住民の死亡率は 30.0 と 20.0 の間を上下した (Hong Kong, 1911, pp. Appendix 1-6)。
一方、出生率に関する統計で著者が発見したデータは 1946 年以降のものである。人口転換 について研究している研究者、例えば、ディビッド・フィリプス(David Phillips)(1988)、ジャン・ク ロード・シェネ(Jean-Claude Chesnais)(1992)も 1946 年あるいは 1950 年以降の出生率を使っ ている。ちなみに 1946 年の香港の粗出生率(crude birth rate)(人口 1000 人当たりの出生 数、‰)は 20.1 であった。第 2 次世界大戦の後、戦後ベビーブームと国共内戦により発生した難 民の流入が1950 年の香港の粗出生率を 29.5 まで上昇させた。1953 年には、香港政庁が公営 住宅を建設し始め、戦後の産業化の発展が加わり、香港住民の生活水準もより良い状態になっ た (Phillips, 1988, p. 20 )。このため、粗出生率はピークとなった 1958 年には 37.4 まで上昇し た。一方、公営住宅の建設や公衆衛生の改善は、粗死亡率を徐々に低下させた。1946 年、粗死 0 10 20 30 40 50 60 70 1980 1985 1990 1995 2000 2005 2010 千 人 年次 移民数
20
亡率は10.7 であったが、粗出生率がピークに達した 1958 年には、粗死亡率は既に 7.2 まで低 下した。
このように死亡率の低下と出生率の上昇の結果、自然増加率32は高くなった。1946 年自然増
加率は 0.9%であったが、1958 年 3.0%まで上昇した(図 2-4) (Census and Statistics Department, 1969, p. 40)。
図 2-4 香港における自然増加率の推移(1946-1970 年)
出典:Census and Statistics Department Hong Kong Statistics 1947-1967 (1969)、 Census and Statistics Department Vital Event (2014d)より作成
しかし、1950 年に、香港家庭計画指導会(Hong Kong Family Planning Association) が設 立され、啓蒙活動が始まり、家族計画(Family Planning)に対する意識が広がり、香港の自然増 加に大きく影響した。この指導会は 1952 年には国際家族計画連盟(International Planned Parenthood Federation)に加盟した。国際家族計画連盟、香港政庁そして地元団体からの経 済支援を受け、香港家庭計画指導会は、香港住民に避妊知識のみならず、安い値段で避妊具 の販売などのサービスを提供した (Choi & Chan, 1973, p. 123)。また戸別訪問や様々なメディ アを通じて、家族計画の重要性を宣伝した。さらに、家族計画指導会が香港の出生率に最も影響 与えたのが、1964 年避妊リング(intrauterine device)と 1968 年経口避妊薬(birth-control pill)の導入である。1964 年香港の粗出生率はまだ 30.2 であったが、避妊リングを導入した 1 年 後の粗出生率は 27.7 に低下した。このため経口避妊薬導入の前年には、粗出生率は、すでに 23.0 となっていた (Census and Statistics Department, 1969, p. 40)。1968 年経口避妊薬が 導入された年の粗出生率は21.7 となっているが、これは経口避妊薬の導入によるというよりは、そ 32 自然増加率とはある期間の平均人口に対する自然増加(出生の死亡に対する超過)の比率である (国際人口 学会, 1994, p. 83)。 0 0.5 1 1.5 2 2.5 3 3.5 1946 1948 1950 1952 1954 1956 1958 1960 1962 1964 1966 1968 1970 % 年次 自然増加率