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能における声と「身体」 : 声を「身体」の側面から見直す試み

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Academic year: 2021

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(1)Title. 能における声と「身体」 : 声を「身体」の側面から見直す試み. Author(s). 中西, 紗織. Citation. 北海道教育大学紀要. 教育科学編, 61(2): 277-283. Issue Date. 2011-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2323. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第61巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(Education)Vol.61,No.2. 平成23年2 月 February,2011. 能における声と「身体」. 一声を「身体」の側面から見直す試み−. 中 西 紗 織. 北海道教育大学釧路枚音楽教育講座. Voiceand“Body’’inNoh: −Howvoiceisexplainedintermsof“body”−. NAKANISHI Saori. DepartmentofMusicEducation,KushiroCampus,HokkaidoUniversityofEducatioIl. 概 要 筆者は能における「わざ」の習得過程の一端を解明することを試みている。その研究において,演技の技 法や演劇としての能を理解し自然かつ自由に演じることを身に付けていく場合,「形」「型」「わざ」の順に 習得が進むというふうに捉えている。能の身体技法を習得する基本として謡と舞をまず習う。言い換えれば, 声と身体の動きによる表現が能の演技の基礎となっていることになる。この二つは別々の要素として教授・ 学習されるものでありながら,深く結びついて切り離せないものである。本稿では声を「身体」の側面から 見直すことを試みる。そのことはまた,能の学習方法の根底にあるものの解明にもつながっていくことであ り,音楽教育において,能の本質から離れない学習方法を示唆することにもなる。. はじめに. 化的なものも含めた「身体」が「教える・学ぶ」. の関係の中でより重く見られていることにも顕著. 教育の世界において「身体」というものが以前. に現れているといえよう。本稿ではこのような意. よりも一層注目されてきている。音楽教育におい. 味で「身体」という語を用いる。「身体」論につ. ても,「身体」を通してわかるということや自然. いては別偏に任せることにして,話を先に進める。. と身についていくというようなことが一層大事に されてきている。それは,例えば小学校の音楽の. 授業において,さまざまな活動の中で動作や身体. 日本の伝統芸能や伝統音楽の世界には「教えな い」教育法による学習文化がある。「浸み込み型」. 「教え込み型」(辻本1999,38)のどちらかで. 表現が重視されているだけでなく,もっと根源的. いえば「浸み込み型」,つまり,師匠や先輩のや. な「身体」つまり,感覚的なものやさらに広く文. ることなすことを見て盗む方法である。このよう. 277.

(3) 中 西 紗 織. な方法は時間もかかり,個人差も大きい上にいつ. 模倣の対象として,ひたすら形を覚えて再現して. もうまくいくとは限らないため,さまざまな制限. いく。. のある学校教育の場にはなじまない。しかし,学. 他の伝統芸能にもよく見られるように,能の稽. 習者が主体的に探究し「身体」を通して自然と身. 古は,師匠と弟子が一対一でそっくり真似る「鵜. につけていくことは,現代の教育においても見直. 鵡返し」つまり模倣に始まり,模倣を繰り返すこ. されている教授・学習の方法である。. とによって習熟の域に達していく1。模倣の対象. 筆者は音楽教育の立場から能の「わざ」の習得. となるのは舞だけではない。稽古においては謡も. 過程を解明することを大きな研究テーマとしてい. 模倣によって体得されていく。つまり,舞であれ. る。能において型について論じるとき,声につい. ば,舞台上で師匠の後ろについてあるいは横に並. てはその議論の中に入ってこないことが多いよう. んで師匠の舞う通りに身体を動かし,謡であれば,. に思う。同様に「身体」について論じるときも声. 師匠が一句ごとに謡う通りに弟子が返して謡い,. ではなくからだの動きが話題の中心となる。しか. ある程度慣れてくると区切りが長くなっていくと. し,声に関することも型の側面から論じるべきも. いう方法をとる。. のであり,特に音楽教育の視点からは声と「身体」. や身体的感覚というようなことを関連付けて議論 することが重要であると筆者は考えている。. では,声が「身体」の側面から語られにくいの. 1−1 二曲三体 世阿弥は「二曲三体」を稽古の基礎としており,. 伝書の中でたびたび二曲三体について論じてい. はなぜか。また,声を「身体」から語ることので. る。二曲三体の考え方が能の稽古に関する体系的. きる根拠は何か。本稿ではこのような問いを出発. な理論としてはっきり提唱されるのは,『至花道』2. 点として,主に世阿弥の伝書,源了園の型の研究,. においてである。ここでは,能の基礎として二曲. 西平直の世阿弥の稽古哲学に基づき,稽古の場で. 二体を重視し,習うべき順序と注意点が述べられ. の事例もひきながら,声と「身体」のあいだをつ. ている。『至花道』の冒頭には,「当芸稽古の条々。. なぎ,声を「身体」の側面から論じることを試み. その風体多しといへども,習道の入門は二曲三体. る。. を過ぐべからず。二曲と申すは舞歌なり。三体と 申すは物まねの人体なり」(表・加藤1974,112). 1.型と声の問題 能において声が「身体」の側面から論じられに. とある。つまり,能の稽古において芸道修業の最. 初の段階では,舞歌すなわち舞と謡,そして,老 体,女体,軍体の三体,これらの稽古に限るのが. くいことの理由の一つとして,型の存在があげら. よいと述べられている。続いて世阿弥は,まず謡. れるだろう。型とは,『能・狂言事典』によると「所. と舞を師についてしっかりと習い極め,元服以前. 作単元または,ある特定の演じ方」(西野・羽田. の児姿の間は,三体を習ってはいけないと注意し. 1987,301)とある。つまり,能において型は一. ている。. 般的に動作や舞に関することを指す。後述するが,. では,三体はいつから習いはじめるのかという. 能の稽古の基本である「舞歌」つまり舞と謡のう. と,元服して成人の男子の姿になってからで,こ. ち,舞に関することが型と直結している。型は演. の頃から種々のものに扮装してさまざまな物まね. 劇としての能を構成する重要な要素であり,よく. をするけれども,基本はあくまでも三体であり,. 「型より入りて型より出づる」と言われるように,. この三つを習い極め,加えて子どもの噴から習っ. 能の技法や表現を体得していくための稽古におい. てきた舞歌二曲を三体に行き渡らせて演じる以外. ては,まず型の習得が目指される。特に初心者は,. に,能の稽古法はないと明言している(表・加藤. しばしば形と言い表される,型の可視的な部分を. 1974,112∼113)。. 278.

(4) 能における声と「身体」. 現在でも,能の稽古においては謡と舞という単 元に分けて習う。このことについて,観世寿夫 (1925∼1978)は,「二曲三体」という稽古法の 効力は現在の能においても変わらないと述べ,次 のように説いている。. ないでいくために,舞と謡において同じような身 体技法や身体感覚が必要であるということであ る。. 次に,子どもの稽古において謡がどのように教 えられるのか見てみる。. 世阿弥の修業論を簡単に述べると,まず声を 出すこと,からだを動かすこと,といったもっ. 1−2 子どもの稽古における声の重要性 子どもの謡の稽古においては,よく言われるよ. とも基本的な稽古から入って,「三体」と呼ば. うに「蝉が鳴くような」イメージでからだいっぱ. れる老人や女性をはじめとしたさまざまな役. いに大きな声を出すことが最重視される。師匠は. 柄,そしてそれに伴う細かい演技,次にそうし. 子どもと向かい合い,子どもが驚いて飛び上がる. た技術を自分自身のものとして,その上に自分. ほど高いトーンの大きな強い声によって一句謡. の能を作り上げること,ここまではあくまで自. う。子どもも負けずに声を張り上げて師匠の謡を. う. 分を主体として「有」をつきつめていく段階で. 真似る。謡い方を着実に教えながら,からだいっ. あって,最後に前に述べた「無心の位」にいた. ぱいの声だけに意識を集中させ他のことすべてを. るのです。(観世寿夫19錮,65). 忘れさせる。このことは,やがて型から離れる身. 体感覚を身につけさせるための仕掛けの一つとい 能の稽古の基礎である「二曲三体」は,能の演. えるだろう。もちろんこのような仕掛けに即効性. 技の究極的目標である「無心の位」へとずっとつ. があるわけではない。師匠が必死に声を出してい. ながっているという考え方がたしかにあることが. ることを身体を通して感じ取らせ,そのような声. わかる。. や身体へのすばやい反応を誘うことを繰り返して. 舞歌二曲のうちの声の重要性について,人世観 世鋏之垂(1931∼2000)は次のように語っている。. いくということである。. 九世観世鋏之丞(1956年生)は子どもの謡の稽 古について次のように語っている。. 能を演じる上でやはり発声ということも大切 なことになります。経験的に申し上げればメロ. 子どもの頃の訓練法は,小学校の高学年以降. ディカルな声が出るからいいというわけではな. でないと声の違いってまだ出てきませんので,. いんです。それはそれでメロディカルで美しい. 男の子も女の子も同じようなことをします。そ. のですが,それだけでなくて,ブレーキを踏み. れはどういうのかというと,めいっばい声を出. ながらアクセルを踏むみたいな声の出し方もす. させるという。ですから,教えるほうも命がけ. るわけですね。(観世鋏之垂 2002,64). というか,頭のほうの血管が1,2本切れるん じゃないか,という勢いで,子どもの稽古をす. 観世鋏之垂はまた「ブレーキを踏みながらアク. るんです。口で「もうちょっと声を出してみろ」. セルを踏む」という表現をからだの動きに関して. と言っても,自分がどれくらい声が出るかって. も使っている。さらに「止まる/動く」というこ. いうのは,子ども自身わかっていないんです。. とに関して能の居グセ3をあげ,回っているコマ. ですから,自分の中に隠されている声というも. の動きにたとえて,じっと止まっているように見. のがどこまで出るかということを,最初のあい. えるけれどもドラマとしては進行しているので. だは出させるわけですね4。(中西 2007,40). あって気持ちは舞台で持続していると書いている. (観世鋏之垂 2002,63)。演技を生き生きとつ. 教える側にしてみれば,子どもが自分の中に隠. 279.

(5) 中 西 紗 絆. れている声に気づくよう促すために,自ら思い切. 曲ヲバ習ハヌ道アリ。ソノユエハ,曲卜云ベ. り大きな声を出して模範として示す。子どもに思. キモノハ,マコトニハナキ物也 く秘スベシ〉。. いきり大きな声を出させることは,意識の集中や. モシアリト言ハバ,ソレハタダ節成ベシ。サル. コントロールの仕方を自ら見出し,型から離れる. ホドニ,相伝スベキ形木モナシ。是ハ,以前ノ. ことを導くと筆者は考えている。自分で自分自身. 下地ノ仕声ヨリ,節習,横主・相音,如此ノ条々. の声の身体感覚と呼べるようなものをつかむこと. ヲヨクヨク極メテ,達音能一ノ安声二坐リテ,. によって,やがて型から離れ,新たな習得段階へ. オノヅカラ出タル用音ノ花匂ヲ,曲トハ云ナリ。. と向かっていくことになるのである。. 是ハ習功ヲ積ミタル得音ナリ。然ハ,節ハ有,. ′ト林正佳はこのことについて,「自分自身のか. 曲ハ無也(表・加藤1974,203∼204)。. らだを感じとることのできる身体が,はじめて他 者の身体に同調し,そこでの動きをみずからの身. 謡には「曲」と「節」とがあり,「曲」には「習. 体のうえに写しとることを可能にしてくれる。す. ハヌ道」つまり,習い得ない道理があるという。. なわち,自分自身のからだへの気づきがはじめて. そして,「曲」というものは本当にはないものだ. 他者の身体への気づきをもたらし,本当の意味で. から,受け継ぐことのできる「形木」(型)がない。. の協働を可能にしてくれる」(小林 2004,204∼. あるとすればそれは「節」であり,声の鍛錬を積. 205)と述べている。「協働」と「身体」について. んで「節」を身につけた上に,音曲に熟達した達. は機会をあらためて論じたい。. 人の境地において自然と匂い出るようなものこそ が「曲」であるという。. 2.世阿弥の音曲習道 世阿弥は謡や声に関することについて「謡」「声」. ここに,能における声や謡を型や「身体」から 論じることを困難にしている理由の一つを見るこ とができる。つまり,謡には習い得ない「曲」の. ということばの他に「音曲」ということばをよく用. 性質があり,この部分は分析的に捉えたり,模倣. いている。例えば磁符友藁㌔に闇あ竃芦蒜,. の対象としたりすることができないとい. (ゆく) 流水の地体に従ひて行がごとし」(表・加藤. なる。習うことができないとい. 1974,153),つまり謡を謡い連ねていくことは,. ることができないことでもある。同様のことはま. 流れる水が地表の形体に応じて進んでいくような. た,身体を通して教授・学習される芸能や芸術の. ものだと記している(世阿弥は他の箇所でも謡を. 中でもよく指摘されることである。. うことに. うことは即ち教え. 水の流れにたとえて説明している)。そこには,. 西平直は世阿弥の「音曲習道」に関する考察を. 高いところから低いところへ水が流れていくよう. 手掛かりとして,能という総合芸術の根底に流れ. な自然な流れ,つまり,自ずと向かっていく方向. る位相,つまり「音楽・舞踊・演劇の総合である. 性を見ることができ,このような考え方も「無心. 能」の根底を流れる位相を「音楽性」ということ. の位」へ続いていくのだと理解することができる。. ばで言い表している(西平 2009,189∼212)。. 世阿弥はまた「音曲習道」の困難さを繰り返し 論じてい. る。その中から「節」と「曲」に関する. 箇所を取り上げてみる。. このような概念化は,muSicという語の語源で あるギリシア語の「ムーシケー」が,詩と舞踊と 演劇を総合して音楽を意味する概念であることに も通じてくる。「音楽性」と型,「身体」,「言語」. 2−1 「節」と「曲」. と合わせて論じ直すことは今後の課題である。. 世阿弥は『五音曲条々』6の中で次のように述べ ている。. 2−2 舞は謡に基礎を持つ 舞において謡がいかに重要であるかについて世. ?80.

(6) 能における声と「身体」. 阿弥は繰り返し説いている。例えば『花鏡』に次. の中に数多く見られる。それらを分類して分析的. のような記述がある。. に語ることは別偏に譲りたいが,ここでは,稽古 の場から一例を示す。. 舞は,音声を出でずば感あるべからず。一声 の匂ひより舞へ移る境にて,妙力あるべし。又, 舞おさむる所も,音感へおさまる位あり。(中略). 3−2 仕舞の稽古におけることばと「身体」 仕舞の最初の数回の稽古では,弟子は形の暗記. 五臓より声を出すに五体を動かす人体,是,舞. に集中し,型付本に朱書きで記された型の名称の. となる初め也。(表・加藤1974,86∼87). あいだごとに,自分のことばで詳細な動きを記述 し,舞台上の場所も把握するために,舞台図に移. 舞は,謡に基づいていなければ感動を生み出さ. 動を表す線も書き込み,覚えるための手掛かりと. ない。そして,舞いおさめるところでも謡によっ. する。稽古の回が重なって,師匠から注意された. て感興の境地に至るのだという。舞は,謡に始ま. ことも書き込むと,型付本は文字だらけになる。. り謡に終わるとでも言い換えることができよう. それでも,動きを把握しきれず覚えきれずに,稽. か。さらに,五臓という身体の奥深くから声を出. 古の際に立ち止まってしまうことも多い。すると,. せば,自然と身体全体が動くのであり,それこそ. 師匠が舞って手本を示す。それをまた忘れないよ. が舞の始まりとなるものだと述べられている。身. うに頭の中で反廃し,型付本に記した動きのあい. 体の奥底から自然と湧き起こってくる表現に結び. だをさらに埋めるように詳細に書き込み,身体に. つく,声と「身体」の関係であり,舞は謡に基礎. 染み込ませるように記憶し,演技全体の流れをつ. を持つと言い換えることができよう。本稿では詳. ないでいくことによって,少しずつ自分のものに. 述しないが,世阿弥はさらに五臓と息と声の関係. していく。ただし,当然のことながら,記述しき. についてもさまざまな角度から説明している。. れない多くのことがある。. これはほんの一例だが,仕舞≪忠度≫を例とす 3.声を「身体」から語る ここでは,声に関することを「身体」から語る 具体的な事例を稽古の場からひいてみる。. ると,合戦の場面において忠度は討ち死にし,一 あかべのろくやた. 瞬にしてシテは,忠度を討った岡部六禰太という 人物になってしまう。もちろん,能では,ここで. 早変わりなどはない。外見は忠度でありながら, 六禰太という別の人格がいる。その重層構造とも. 3−1 テキストの身体化 次項で詳しく述べるが,仕舞≪忠度≫の中にシ. いえる役の存在を,謡と舞を駆使して表現するの が見せ場となっている。先に述べたように,この. テが自ら謡いながら合戦の様子を再現する場面が. 場面ではシテが謡いながら,またあて振り風に舞. ある。この部分を覚えて舞っていく過程には,身. いながら合戦における二人の武者の組み合いを生. 体に染み込ませるように詞章(テキスト)を覚え,. き生きと再現して見せる。戸井田道三はこの場面. 意味を把握し,身体を通して再現する「テキスト. について,謡の詞章をたどりながら次のように. のく身体化〉」(辻本1999,70∼74)が見られる。. 語っている。. このように捉えると,能の稽古は謡と舞が一体と なって身体を通した表現となって表出される過程. …「忠度」では,この地謡につづけてシテ忠. でもあるといえる。言い換えれば,声の身体性が. 度が「六弥太心に思ふやう,痛はしやかの人の,. 能の表現と深く関わっているということである。. おん死骸を見奉れば,その年もまだしき……」. 声と深く結びついた「テキストの く身体化〉」. と呼ぶことのできる表現方法は,能の演技の技法. と謡いながら六弥太になってしまって自分の死. えびら 骸を見るのである。そして籠につけた短冊をよ 281.

(7) 中 西 紗 織. み,さては忠度であったか,と合点するのだ。. してみたい。. 忠度の扮装をしたままで六弥太になってしまう のだから,なんともおかしなはなしだが,舞台 【引用・参考文献】. を見ているわれわれは全然おかしな気がしな い。つまり独演のカタリ形式によって,われわ れ自身が,忠度になったり,六弥太になったり,. 二人を第三者の立場で見ている傍観者になった りというあんばいに自由にあやつられているか らである(戸井田1993,245∼246)。. アンリ,ミシェル著 青木研二訳(1999)『見えないもの を見る−カンディンスキー論』(叢書ウニベルシタス 627)法政大学出版局。 生田久美子(1987)『「わざ」から知る』(認知科学選書14). 東京大学出版会。 大野晃彦「コスモスとしての舞踊・音楽・詩」(1998)『横 浜市立大学論叢』第50巻人文科学系列第1号,横浜市. このような複雑な表現を可能にするのは,能の 独特の劇構造とともに,謡と舞が一体となった技. 立大学学術研究会,221∼242頁。 表章・加藤周一校注(1974)『世阿弥 禅竹』(日本思想 大系 第24巻)岩波書店。. 法であり,その根底には「二曲」を徹底的に学び. 観世左近(1974)『観世流仕舞型付』槍書店。. 身につけた「身体」があるのだといえよう。. 観世鋏之壷(2000)『ようこそ能の世界へ 観世鋏之壷能. がたり』暮らしの手帖社。 観世寿夫(1980)『観世寿夫著作集一 世阿弥の世界』平. おわりに. 凡社。 観世寿夫(1981)『観世寿夫著作集二 仮面の演技』平凡. 能の謡や声に関することを「身体」の側面から. 語ることによって,舞歌二曲つまり謡と舞が一体. 社。 倉沢行洋(1983)『芸道の哲学』東方出版。 小林正任(2004)『舞踊論の視角』青弓社。. となってこそ表現できるものが能の根底を支える. 小林保治・森田拾史郎編(1999)『能・狂言図典』小学館。. ものと深く関わっていることを再認識することが. 瀧元誠樹(2006)『武と舞の根源を探る』(スポーツ学選. できた。次のことを今後の課題につなげたい。西 平直は,前掲の『五音曲条々』を引いて,次のよ. うに述べている。「曲は習うことができない。(中 略)曲は存在しないが,しかし結果として,観客 の心に通じる。しかも,必ずしも耳の利く人ばか. りに届くわけではない。むしろ『女性や子どもの 心にも感じられるのが曲ではないか』(『女・童の. 書18)叢文社。 竹内敏晴(2001)『思想する「からだ」』晶文社。 辻本雅史(1999)『「学び」の復権一模倣と習熟』角川. 書店。 寺本界雄編著(1975)『川上不白 茶中茶外』「川上不白. 茶中茶外」刊行委員会発行。 戸井田道三(1993)『戸井田道三の本3 みぶり』,筑摩. 書房。 中西紗織(2007)「能における『わざ』の習得に関する研. 心耳にも感ずる所,これすなわち曲にてやあら. 究一事例分析からの学習プログラムの開発を通して. ん』)。子どもの耳にも届く。『子どもの方がより. −」東京蛮術大学大学院音楽研究科,2007年度博士. 素直に感じ取る』と読むのは読み過ぎであるとし ても,そう読んでみたくなるような語りである。」 (西平 2009,195). それならばなおさらのこと,音楽教育において 子どもの噴から「曲」に触れる機会をつくること が重要だといえるだろう。. 今回は少ない切り口からの考察にとどまり,声 を「身体」の側面から論じる出発点に立つことが できたに過ぎない。今後の課題として,声と「身 体」とその周辺のこと,例えば,ことば,語り, 息,共感,伝承といったことを関連づけて考え直 282. 学位論文。 西野春雄・羽田刺編(1987)『能・狂言事典』平凡社。 西平直(2004)「世阿弥の稽古論再考『稚児の身体』と『型』. の問題」『教育学年報』10,世織書房,395∼417頁。 西平直(2009a)「発達と超越の交叉反転としての『超越性』. 一世阿弥『イ云書』を手がかりにして−」『教育哲学 研究100号記念特別号 教育哲学研究の現在・過去・未 来』教育哲学学会,263∼278頁。 西平直(2009b)『世阿弥の稽古哲学』東京大学出版会。 源了囲(1989)『型』(叢書・身体の思想2)創文社。 横道萬里雄(1987)『岩波講座 能・狂言Ⅳ 能の構造と. 技法』岩波書店。 渡辺守章(1984)「美しきものの系譜一花と幽玄−」 相良亨,尾藤正英,秋山慶編『講座 日本思想第5巻』.

(8) 能における声と「身体」 東京大学出版会,277∼319頁。. 注. 1生田は,この過程を廼麺]一廃り返し…直垂と いうふうに図式化し,「学習者がなすことはただ模倣と 繰り返しの連続」と言っている。(生田1987,18). 2 応永27(1424)年六月奥付。二曲三体説,蘭位,体 用説,有主喪主説などについての習道体系論。 3 能の謡事′ト段の一つ。その大部分が地謡によって謡 われることが多く,その間シテはじっと座っている。. 4 2007年1月20日,観世鋏之丞の話。 5 奥書なし。作曲上の諸注意八ケ条から成り,応永30 (1423)年奥書の『三道』に近い頃の著述と言われる。 6 奥書なし。五音曲の曲趣を説いた晩年の音曲論書。. (釧路校講師). 283.

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