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偶像崇拝の記号論(5)

A Semiotical and Historical Study of Idolatry (5)

滝 口 晴 生

Haruo TAKIGUCHI

Ⅲ 聖像崇敬派の勝利 1 ニケーアの第7回公会議における聖像崇敬論  コンスタンチノスの死後、息子のレオ4世が即位した (775 年)。彼は父よりは穏健であったが偶像破 壊政策は維持した。彼の妃はエイレーネ (Eirene) で聖像愛好的傾向を持っていた。そしてレオ4世は わずか5年の在位でなくなり、10 才の息子コンスタンチノス6世が即位するが (780 年)、エイレーネ が摂政として政務を見ることになる。エイレーネは偶像破壊主義者を徐々に排除し、そして即位から4 年後、聖像崇敬を確立するためにニケーアの公会議を招集したのである (787 年)。  この会議で、754 年の決議はすべて覆されることになる。会議で聖像崇敬派は、自分たちがカトリッ クの伝統に沿っているということを繰り返し主張し、またそのために教父達の著作を引用しているが、 その記録は、サハス (Sahas) の『イコンとロゴス』(Icon and Logos) に英訳されているので (80-101)、 議論の要点を抜粋しながら、訳してみる。  会議では、まず 754 年の決定が逐次読み上げられ、それに対する反駁が続けて読み上げられていくと いう交互形式を採っている。  754 年の決議(以後 754) キリストは二つの本性 (fusis; nature) が合体した「言葉にできない不 可知の統合」であり、それを分けたり混合することはできない (245E)1 。  787 年の反駁 ( 以後 787) 二つの本性は、分けられたのではなく異なるものであるので、分離し たものである。結合は混合無しに行われたので、思考の上では二つの本性を区別することができる (248D)。  754 絵師は「キリスト」と呼ぶイコンを作った。しかし「キリスト」は人間の名であると同時 に神の名である。したがって被造物のことをいいながら、「神なるものの限定できない本性」を限 定しているか、2「混合されない結合」を混合しているかである (252A)。  787 イコンを作るのはキリスト教会の伝統である (252C)。「キリスト」の名前は神性と同時に 人間性も示したものである。キリスト教徒は、キリストが見える本性にしたがってイコンを作るよ うに教えられており、「見えない」本性によるものではない。イコンが原形と共通のものをもって いるのは、本質ではなく名前だけである。ところが聖像破壊論者は、イコンと原形を区別せず、同 じものだと見なす (252D)。  754 子の神性がその位格 (hypostasis) で肉体を採った時、肉体は同時に神ロゴスの肉体である ように、魂は同時に神ロゴスの魂である。魂は肉体同様、神化されるのである (257A)  787 しかし教父達は思考においてふたつの本性の分離を考えられると言っている。イコンと 原形は別物であるからである。イコンは本質ではなく名前でイコンにあるものを伝えるのである (257D)。  754 キリストのイコンを描くものは、キリストの肉体を神性から分離し、それが「あたかもひ とつの位格を持っているかのように」表し、それをイコンの内に描くという。こうして三位一体に 4つめの位格を加えるのである。これはネストリウス主義である (260A)。だからネストリウスの

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分割と、アリウスらの混同-相対立するが、どちらも不敬にあたる-から離れよ (260B)。  787 彼らはイコンと原形を同一視する。エウテュケース (Eutyches 単性論者) の逸脱は、位格と 本性を同一していることである。こちらは「位格はそれ自身の属性を持った実体であり、本性はそ うあるために何も必要としないそれ自身で存在しているもの」とする。キリストが石で打たれたと き、石でわずらわされ、攻撃されたのはその神性ではない (261C)。キリスト教徒であるわれらは 尊敬すべきイコンがイコン以上のものでないことがわかっている。それらが原形の本質ではなく、 その名前だけをもっているというかぎりにおいて (261D)。  754 聖餐こそが神の言葉が定めた「肉体の真のイコン」であり、聖化によって神性になったも のである (264C)。  787 聖像破壊論者の逸脱は卒中的である。教父の誰も聖餐が「キリストの肉体のイコン」であ ると言ったことはない (264E)。そうではなく使徒も教父も「まさにこの肉体」「まさにこの血」と 呼んだのである (265B)。ある教父は、聖化される前のパンと葡萄酒を対形 (antitype) とは呼んだ (265C)。しかし聖化後はそれらは「キリストの本当の肉と血」と呼ばれたのである (265E)。  以上の議論のポイントは2つある。まず聖像破壊論者は、イコンを誤解しているということ。イコン は名前を共有しているだけで、本質を共有したものではないということである。もうひとつは、神の位 格と本性の問題である。子という位格は神であり人間であるものであるので、位格をイコン化すること はできないというのが聖像破壊論者の論理である。しかし位格と本性は異なるものであり、キリストの 人間的本性を描くことはできるというのが聖像崇敬派の論である。つまり、イコンを記号として見るか 見ないかという論点と、イコンが記号であるならば、イコン自体が神である必要はないのではないかと いう論点になるであろう。  問題なのは、キリストの人間的本性を分離してそれを描くということが、教理的には認められるので あろうかという点がある。カルケドン公会議のキリストの位格の定義は「混同なしに、変化なしに、分 割なしに、分離なしに、2つの本姓において認められるもの」であった ( ペリカン185)。この難問題 に答えたのは、ストゥディオスのテオドロス (Theodore of Studites 759-826) であった。彼は三位一体に おけるそれぞれのヒュポスタシスが本質の統一を保持するように、キリストというヒュポスタシスの中 における二つの本性がヒュポスタシスを分割しないとした。つまり人間という本性を描いても、別の ヒュポスタシスになるわけではなく(聖像破壊論者のいう4つ目のそれ)、キリストのヒュポスタシス のままであるというのである ( ペリカン201)3 。  議論はさらに続き、聖母マリアと聖人の画像に至る。  754 二つの本姓をもつキリストの像が廃されるのであれば、一つの本性しか持たないマリアや 聖人の像も拝されるべきである (272D)。  787 彼らは聖書や、教父からのなんの根拠もなく主張している。イコンに向けられた敬意は原 形に伝わる。王のイコンを見たとき、そこに王を見る。そこでイコンにお辞儀をする者は、王にお 辞儀をしているのである。というのもイコンにあるのは王の形姿と特徴であるからである。このイ コンを汚す者は罰せられるべきである。もちろんイコンは木とろう 4 4 が混ざった塗料ではあるのだが (272E-273A)。  ここではヨアンネスからの伝統にしたがって、原形とイコンは物質的にはまったく別物であるが、敬 意の伝達という関係があることを述べている。ニケフォロスの言葉を借りれば、イコンを礼拝する者は 「像の上に封印として押されている原形の刻印を礼拝している」のである(ペリカン190)。  そして会議は聖像崇敬の最終的な結論を次のように示す。 いわば王道を進み、我らが教父達、またカトリック教会の伝統に従って以下のように定める。神聖 で尊敬すべき像、尊い生命を与える十字架像とまったく同じように、以下の像も立てられているの

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である。つまり、神の神聖な教会内の、神聖な容器や衣服の上の、壁や絵の中の、家の中や道沿い にある、絵や、モザイクや適切な材料で描かれた像、我々の主であり神であり救い主であるイエス・ キリストと、神をみごもった汚れなきマリア、尊き天使たち、そしてすべての聖人の像である。こ れらがそのような表現 (representations) によってずっと目にされればされるほど、見る人はより一 層そのもとのもの (originals) を思い出す (recollect) ようになり、それを思い焦がれるようになるの である。そしてそれらの像に、抱擁と敬意 (reverence) を捧げるようになるが、信仰による、神の 本性をもつもののみに向けられるべき実際の崇拝 (worship) をそれらに払うのではない。しかし、 尊敬すべき像や命を与える十字架、福音書、そして他の神聖な記念物に対してと同じように、これ らの像に、古代の敬虔な習慣がそうであったように、香を焚き、灯明を立てるという敬意 (honour) を払うのである。なぜなら像に払われた敬意はそのもとのものに伝わり、像を崇拝する (adore) も のは、像によって描かれたその人を像の中で崇拝しているのである。(377D-E; Sahas 179)  ニケーア会議の決議によって聖像破壊政策はひとまず終わり、崇敬のあり方がより定式化した。つま り、聖像を伏拝しキスをすること、聖像は灯りをともされ、また香を焚かれなければならなくなった (Brubaker & Haldon, History 284)。しかし、この決議は、ローマ教皇庁とフランク王国という西の世界 では、フランクフルトの教会会議で否定され、東と西の教会が分裂することになった。また聖像破壊論 がまったく消滅したわけではなかった。エイレーネは、息子の皇帝と対立し、いったん皇帝を廃位させ るが、自らも廃位させられた。815 年レオ5世が即位し、ブルガリ族との戦争で負けたことを偶像崇拝 に対する神の怒りだとする考えをもった。彼はコンスタンチヌス5世に倣おうとしたのである (Brubaker 90)。これが第2次聖像破壊時代の始まりとなった。しかし 820 年、軍人のミカエルが、レオ5世を暗 殺し、自らがミカエル2世 (Michael II) として即位した。教育のなかったミカエルは、754 年の決議も、 ニケーア公会議の決議も認めないという穏健的態度を取ったが、息子テオフィロス (Theophilus) には聖 像破壊論者のヨハンネスに教育を任せた (Ostrogorsky, History 203)。829 年、テオフィロス (Theophilus) が即位し、あらためて聖像崇敬派の弾圧を行った。しかし皇帝の影響力は首都に限られ (Ostrogorsky, History 209)、聖像破壊政策の勢いはもはやなかった。842 年、テオフィロスが死去すると、幼いミカエ ル3世が即位し、聖像崇敬派の多いアルメニア出身の母テオドラが摂政となり、第2次聖像破壊政策は 終息する。843 年、聖像破壊論者ヨアンネス総主教が廃され、教会会議で聖像崇敬が宣言された。  以上の経過の中で、聖像破壊論は、コンスタンチノス5世の論を超えるものは出てこなかった。それ に対し、正統を標榜する聖像崇敬論は、ダマスカスのヨアンネスの論の不備を補強する論が必要であっ た。前に述べたようにそれを行ったのが、ストゥディオスのテオドロスであった。また、議論の詳細な 記録を残してくれたのは、コンスタンチノープル総主教のニケフォロス (Nicephorus) であった。しか しテオドロスの強硬論とニケフォロスの穏健は対立することもあったが、基本的に聖像崇敬を死守する 決意においてはともに一致し、この二人が、ビザンチン神学における聖像崇敬論の最終的な完成を達成 させたと言えるであろう。 2 ニケフォロスの聖像擁護論  ニケフォロスの主要な著作は、レオ5世が聖像破壊論会議を招集した時から始まる。レオ5世がコン スタンチノス5世の論に基づいて、ヨアンネスに委員会を組織させ、その聖像破壊論を証明する文書を 編集しようとしていたが、それにいわば対抗し、聖像崇敬が正統であることを立証する文書をニケフォ ロスは著わそうとしたのである。それにはコンスタンチノス5世のキリスト論を反駁することがまず第 一であった。そしてここにいままでの議論にはなかった要素が聖像崇敬論に入ってきたのである。それ はアリストテレス哲学であった。  この議論にアリストテレス哲学の用語を用いた例はテオドロスやニケフォロス以前にはなく、それを

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まず導入したのは、おそらくテオドロスであったであろう (Alexander 191)。テオドロスは後で論じる こととして、まずニケフォロスの像の定義を見てみよう。

像は、原形の類似物であり、類似によってそれ自身の内に、それに刻印された形全体を再生する ものであり、[それができている] 物質 (matter; hule) という点でのみ異なるという本質 (substance; ousia) の違いがあるのである。(Antirrheticus,1.28; Alexander 199)

つまり、像は原形と本質において異なるが、類似において原形をそのうちに表わしているということで ある。テオドロスは先にも少し触れたが、のちに述べるようにヒュポスタシスという用語を用いてこれ を説明する。ニケフォロスも、テオドロスも、まず聖像破壊論が像と原形を本質において同一視する考 え方を駁しているのである。  ニケフォロスはさらにアリストテレスの『カテゴリー論』を援用し、原形と像を関係のカテゴリーで とらえようとする。ニケフォロスは原形と像の関係を、父子、友人同士、右と左を例に挙げ、その相関 を考える。4 たとえば息子は父の息子であるように、像は原形の像であるといえる。しかし、像と原形 の関係を生じさせているのは類似であり、つまり、類似が形を通して両者を結びつけているのである。5 この部分をアレクサンダーが英訳しているので、英文をもとに、原文をも参照しながら日本語に訳して みる。 類似は媒介的関係であり、それは人物とその表現という対極を媒介する。本質においてふたつが 異なるとしても形を通してふたつを結びつける。なぜなら本質に従えば異なるものであるが、ふ たつはことなる主体ではなく、像はもうひとつの自分であるからである。原形 (eidos) の知識が像 (tupos) を通じて得られるからである。そしてその中に表現された人物のヒュポスタシスが認めら れるからである。この関係は父、子、友人のどの関係にも見出されない。なぜならここでは逆の事 象がある。これら(父、子、友人)のどのひとつも異なった存在ではない。というのもそれらはお なじ本質 (ousia) を共有するが、ことなる主体であり、ヒュポスタシスが様々であるという点で異 なるのである。(Antirrheticus,1.30, 279A; Alexander 200)

非常に理解しづらい文章であるが、原形と像の関係は、父と子、友人と友人の関係とは異なる点がある という。像においては原形のヒュポスタシスが保持されているとするが、父と息子の関係では、本質を 同じにしているが、それぞれは父であり、子であるので、異なる主体である、つまり、父は父というヒュ ポスタシス、子は子というヒュポスタシスということで、ヒュポスタシスは異なる。それに対して像は、 逆に、原形は人間であり、像は物体であるので、本質は異なるが、像は、原形のヒュポスタシスを含ん でいるので、ヒュポスタシスは同じということになる。この点に関しては次のテオドロスの説明がより 簡潔であろう。「父と子は本性においては一つであるが、ヒュポスタシスにおいては二つであった。他 方、キリストとキリストの像はヒュポスタシスにおいては一つであるが、本性においては二つである」 (ペリカン201)。  こう論じることで、コンスタンチノスのキリストとその像の同一視を論破する。キリストとキリスト の像は本質(ousia) において同じではなく、ヒュポスタシスが同じであるということである。本質も同 じであれば、キリストの像は像ではなくキリストそのものになってしまうのである。これは像を記号と して捉えていく第一歩を示しているように思われる。つまり、コンスタンチノスの強力な聖像破壊論を 論破するために、像というものの機能を分析的に考えたときに到達した記号意識なのである。記号が本 体と同一性をもつという意識こそ偶像崇拝の本質であったわけであり、ある意味、聖餐をキリストと同 一視するコンスタンチノスこそ偶像崇拝的思考と共通する意識を示しているようにおもえる。またコン スタンチノスは十字架の崇敬を認めたのであるが、記号という意味からいえば、十字架と像との違いは ない。なぜなら、像が単なる物質であるというのであれば、十字架も、聖書もそれ自体は物質からでき ているからである (Alexander 249)。その点からも、コンスタンチノスには記号という意識そのものが

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なかったといえるであろう。逆にニケフォロスは、十字架の崇敬を認めるのであれば、キリストの像を 認めることに違いはないと考えるのである。  とはいえ、ニケフォロスの記号意識が現代の記号意識とは異なることは言うまでもない。というのも 本質は本体とは異なるといえども、類似によって関係性を獲得した像は、本体と霊的な力によって結び 付けられていると考えることにおいて、ヨアンネスと変わりはないからである。像への崇敬は本体に伝 わり、そして不敬も、その本体に伝わることになるのである (279C; Alexander 201)。  さて原形と像との本質の違いを述べた後、ニケフォロスはコンスタンチノスが提示したキリストを描 くことの矛盾に対する反駁を行う。神であるキリストを描くことは、「非物質性と物質性が混ざらない で統一された単一の人格であるもの」(232A) を「描く」(grapein) ことなので、キリストを「限定する」 (perigrapein) ことになるとして、コンスタンチノスはそれは不可能だとした。ニケフォロスはこれに対 し、「限定する」ことと「描く」ことの違いを述べる。限定するとは、場所、時間と開始、あるいは把 握 (katalepsis) によって限定されることである。肉体は空間的に限定される。天使や魂は、存在し始め るものなので時間と開始で限定される。そして天使は把握によっても限定される。限定はそれゆえ把握 され限定されるものを把握し限定することである。「このどれによっても包含できないものは、限定で きないものである。キリストは、その人間性に関する限り、この三通りのどれにおいても限定されうる のである」(Antirrheticus, 2.12; Alexander 207)。  そして、「描く」ということは、「限定する」ことではないという。肖像画家が描くとき、その肖像は、 空間的にも、時間的にも、また把握においても、本人を限定しているわけではない。本人そのものがそ こに限定されて存在しているわけではないからである。「人物を描くことは人物の輪郭、形姿、類似を 形づくることによってその人物の肉体の形を表しているのであり、他方限定は包み込まれたものを限定 することである」(Antirrheticus 2.1; Alexander 208) キリストの肉体は限定されうるものである。しか し、キリストを描くことは、キリストの形姿を「描いて」いるのであって、キリストを「限定する」こ とではないのである。「もしキリストの肉体が描くことができないものとしたら、キリストは人間の肉 体を持っていないことになる」(Refutatio et Eversio; Alexander 252)。要は、「限定する」ことは本質を共 有することを意味し、「描く」ことは本質を共有しているわけではないのである。  以上のように、ニケフォロスの聖像弁護論は、キリスト論における本質とヒュポスタシスの分析に よって、「描く」ことは「限定する」につながらないという像の有り様を示し、コンスタンチノスの論 に反駁したのである。 3 テオドロスの聖像擁護論  テオドロスの論もほぼニケフォロスとおなじ論旨をたどるのであるが、テオドロスの論じ方は像とい うものの性質を明らかにし、それに例を重ねて論じてゆくので、ニケフォロスよりはわかりやすいもの になっている。まず父と子という自然的原因関係と像との差異を彼は述べる。 自然像と類似像とは別物である。前者はその原因に関して自然的差異はなく、父に対する息子のよ うに、ヒュポスタシスの差異があるのである。息子のヒュポスタシスは父のそれとは異なるが、本 質は同じなのである。他方、類似像は本質の違いがあるが、ヒュポスタシスの違いはないのである。 たとえばキリストに対するキリスト像のように。・・・もし像と本体への敬意が、ヒュポスタシス の一致ばかりでなく、本質も一致しているとすれば、像とそれが表わしている原形の違いを無視し ていることになり、キリストの像に造られたすべての種類の物質を神化してしまい、異教の多神教 に陥るのである。(「プラトンへの書簡」;Mango 173) このように本体と像との本質の違いを明らかにし、次にはそれを例証することで、説得をより強固にし てゆくというのが、テオフィロスの手法である。次は十字架や皇帝の像を例として論じているが、それ

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らを関係づけているのは名前である。 われわれは十字架を表わした物を十字架と呼ぶのである。なぜなら、それもまた十字架であるから であり、2つの十字架があるわけではない。そして、われわれはキリストの像をキリストと呼ぶ。 なぜなら、それもまたキリストであるからである。しかし、二人のキリストがいるわけではない。 共有するその名前によって一方を他方から区別することは不可能であり、その本質によるほかはな い。聖なるバシレイオスが同様にいうように、皇帝の像は皇帝と呼ばれるが、二人の皇帝がいるわ けではなく、また彼の権力が分割されているのでもなく、彼の栄光が分散されているのでもない。 そして、像に与えられる敬意は当然その原形へと伝わり、その逆もまたしかりなのである。(「第一 の駁論」8; Theodore 28)6 テオドロスは名前という、実体をそぎ落とされた、関係性のみによる記号をもちいて、キリストとその 像との関係を論じることで、本体と像がその本質において異なることを際立たせている。キリスト像に は「神性はおろか人間性さえあるわけではなく、その関係性があるのみである」(Parry 58)。したがっ て、敬意は像の本質に向けられているのではなく、ヒュポスタシス、つまり本体と同じものである。「本 体はヒュポスタシスの類似によって像の中にある」ので、崇敬されるのは像の本質ではなく、像はただ 「本体との類似によって、本体と同じ崇敬」を受けるのである (「第三の駁論」C1; Theodore 103; Parry 31)。言い換えれば「われわれが崇敬しているのは像の本質ではなく、それに刻印された原形の形である」 (「第三の駁論」C2; Theodore 103)。  像が本体に似ているかどうか、つまり「類似」のレベルを問題にする反論に対して、テオドロスはふ たたび十字架の例を持ち出す。シンボルとしての十字架はもとのキリストが架けられた十字架とまった く同じ形でもなく、長さも、材質も、それを作る技術も異なるけれども、十字架という形においてその シンボルであり、それゆえ本体と同じ崇敬を受けるという(「第三の駁論」C5; Theodore 104)。このよ うにテオドロスはより記号の抽象性に近づいているのである。  そしてこの名前をキー概念にして、固有名詞と普通名詞の違いと絡めながら、キリストが「限定」さ れうることを論じる。 「人間」一般は普通名詞であるが、「ペテロ」とか「パウロ」という特定の名前は固有名詞である。 特定の人間は普通名詞で呼ばれると同様固有名詞でも呼ばれる。たとえばパウロはまた「人」とも 呼ばれる。彼と同じ種の個人と分け持つものに関して、「人」と呼ばれるが、彼のヒュポスタシス において異なる限り、彼はパウロと呼ばれるのである。それ故キリストが聖書において「神」、そ して「人」と呼ばれるならば、キリストは我らの性質一般を帯びているのである。・・・しかし、 ガブリエルはマリアにこう言った。「いいかね、お前はおなかに息子を孕み、彼の名前をイエスと 呼ぶことになる。」だからキリストは普通名詞で呼ばれるばかりでなく、固有名詞でも呼ばれるの である。このことが彼のヒュポスタシス属性によって彼をほかの人間と分つのであり、またこの故 に彼は限定されうるのである。(「第三の駁論」A18; Theodore 84) キリストは、受肉することによって人類一般の性質をその神性と並行して帯びることになるが、それ は、イエスという具体的な人間のうちにもつことになる。キリストを描くと云うことは、この人間性を 描くと言うことではない。なぜなら、キリストの人間性はその神性と分かちがたく結びついているから それは不可能である。しかし、ヒュポスタシスはひとつであるので、人間イエスについていえることは、 そのヒュポスタシスにいえることになる (Parry 109)。つまりイエスを語ることは、キリストを語るこ とでもあるのである。同じことがキリストとそのイコンの関係にもいうことができる。本質は異なれど ヒュポスタシスは同じであるからである (「第二の駁論」16;Theodore 51)。  テオドロスが提示する例は、名前という本質において本体と一致する可能性のないものである。名前 自体に、その名前の人物が限定されて(含まれて)存在しているわけがないからである。さらに極めつ

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けは鏡の例であろう。「鏡の例が適切であると思う、というのも鏡に、見る者の姿がいわば表わされて あるのであるが、その似姿は物質の外にあるのであり・・・その人物が鏡から去れば、写った姿は同時 に消える、なぜならその姿は鏡の物質と何の共通性ももっていないからである」(「プラトンへの書簡」; Mango 174)。このようにテオドロスは繰り返し繰り返し例を挙げながら、像が本体と本質を共有しな いことを述べるのである。もちろん、ニケフォロスの定義にも、テオドロスの定義にも含まれているこ とは「一方では像と像に表されているものとの間の密接な関連であり、他方ではその厳密な区別であっ た」(ペリカン189) ことは間違いない。  ビザンティン最後の聖像擁護論は、アリストテレス哲学を援用し、原形と像の関係をより分析的に見 ることで、像を記号とみる意識に一歩近づいていることは確かであろう。名前の例はまさに記号を例と して用いたといえるかもしれない。そしてその記号的意識によって、原形と像を一体化する、つまり記 号的意識をもたないコンスタンチノス5世の聖像論破壊論を論破することができたのである。テオドロ スもニケフォロスも真の意味での記号意識にはほど遠いこともまた確かである。彼らが生きた時代は霊 的世界と物質世界が堅く結びついていた時代であったからである。 *本研究は、JSPS 科研費 23520293 の助成を受けたものです。        1 番号と記号は、Mansi の頁数と位置を示す。

「限定する」は、英語circumscribe を和訳したものであるが、ギリシア語は perigrapein である。この perigrapein と

grapein(描く)の違いが後に議論される。 3 「ヒュポスタシス」はラテン語ではpersona と訳されており、通常三位一体のそれぞれの「位格」をあらわすので あるが、この時代の議論ではもっと広い意味で使われており、存在する、あるいは現れている本質としての形(そ れを成している物質的本質ではなく)というような意味で使われているように思われる。 4 「しかし関係的なものどもはすべて換位的に言われる、例えば、奴隷は主人の奴隷と言われ、また主人は奴隷の主 人と言われる・・・」(アリストテレス『カテゴリー論』第7章)。 5 「像はそれが表している人物の類似なので、それは論理学者によれば関係概念に属するものといわれていて・・・ 像と原形を結びつけるのはその関係である。像と原形が関係に共通に参与しているため、二つの内ひとつが偽りで あれば、他方も偽りとなるのである」(Summary of Refutatio et Eversio; Alexander 253)。

「第一の駁論」は上智大学中世思想研究所編訳、『中世思想原典集成 3 後期ギリシア教父・ビザンティン思想』(東

京, 平凡社,1994)に日本語訳が載っているが (730)、引用最後の部分に誤訳が認められる。

Works Cited

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