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インドネシア・地方語教育へのハングル導入の多元的背景 : 分権化,グローバル化,「危機言語」保存 利用統計を見る

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(1)

的背景 : 分権化,グローバル化,「危機言語」保存

著者

山口 裕子

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

49

ページ

198-183

発行年

2014

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007397/

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− 分権化、グローバル化、

「危機言語」保存 −

山 口 裕 子

はじめに 2009 年インドネシア東部のブトン(Buton) 島に位置するバウバウ(Baubau)市近郊の農 村で,ユニークな地方語教育が開始した。地 元 の 方 言チ ア・ チア(Cia-Cia)語の 表 記文 字として,韓国語の表音文字であるハングル (Hangul)が採用されたのだ。このニュース はたちまちのうちにインドネシアと,韓国をは じめ海外の主要なメディアの注目を博し,つづ いて学界の,なかでも言語学的な議論を呼び起 こした。複数の韓国語の専門家が,チア・チア 語の音韻を分析した結果,その表記文字として ハングルはローマ字より決して適しているわけ ではないとの見解を示している [ex. 趙 2011; 厳 2013]。 歴史的にみれば,今日のインドネシアにあた る範域にかつて存在した王国や地域社会では, それぞれの地域語を表記するためにインド系文 字やアラビア文字が導入され [ 青山 2002; 東 長 2002],さらに 20 世紀初頭には国民の共通 語であるインドネシア語の表記のためにローマ 字が採用された [Lowenberg 2000]。これら の外来文字の使用は,交易,宗教的ネットワー ク,移民,植民地化などをとおしたそれぞれの 地域と外部世界との交流の歴史のなかで起こっ た。このことを鑑みると,こんにちのインドネ シアの片隅で使われている地方語チア・チア語 とハングルの組み合わせの奇妙さは一層際立 つ。なぜならバウバウ市と韓国の間には,今回 のハングル導入以前には,特に直接的かつ持続 的な交流はなかったからだ。 筆者はスハルト政権が崩壊した翌年の 1999 年から,ブトン島社会を対象に社会生活のなか で語り表現される歴史と,それを語る人々に とっての外部世界の多元的な意味を主題とする 人類学的実地調査を行ってきた。そのためバウ バウ市近郊で使われている王族貴族の言語であ るウォリオ(Wolio)語と,平民の農村で使 われるチア・チア語の一方言は解するが韓国語 については門外漢である。従って本稿では,上 述の言語学的な議論は先行研究の概観にとどめ ざるを得ず,むしろインドネシアが中央集権制 から地方分権化へと大きくシフトするなかで中 央政府と地方社会が変容する様をつぶさに観察 してきた立場から,このハングル導入の社会・ 歴史的背景と意義を考察したい。それによっ て,ある小規模社会が比較的短期間のうちに新 たな文字を採用する具体的なプロセスと,そこ に作用する社会・政治的ダイナミクスを,複数 の時空間コンテクストに定位しながら明らかに していく。その後で,インドネシアという地域 社会的文脈を超えた視点から,この現象を近年 グローバルな広がりをみせる「消滅の危機に瀕 した言語(危機言語)の保存」の潮流に関連付 けて若干の考察をしたい。チア・チア語話者は 日常生活においてはインドネシア語とローマ字 を自由に操る。またムスリムである彼らは聖 典アル = クルアーンをとおしてアラビア文字に も親しんでいる。従ってチア・チア語コミュニ ティは無文字でもなければ,言語的に孤立した 社会でもない。当の社会に新たに文字を導入す

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る必要性や潜在的欲求がどの程度存在したのか については検討の余地がある。以上の点から も,本稿でとりあげる事例は,通常言語的マイ ノリティや危機言語を保存する目的で展開され てきた文字普及の議論に対しても,異なる様相 をもった興味深い事例を提供するだろう1 バウバウ市および インドネシアの社会言語的概況 ブトンは,インドネシア東部のスラウェシ (Sulawesi)島の東南に浮かぶ人口約 40 万人 の島で,行政的には東南スラウェシ(Sulawesi Tenggara)州に属している。島の南西に位置 するバウバウ市は 13 世紀から 1960 年まで存 続したブトン王国 / スルタン国(以下スルタ ン国)の首都であった。ブトン・スルタン国 は,15-17 世紀のいわゆる「大航海時代」には, マルク (Maluku) 諸島(別名「スパイス諸島」) に通じる海上交易の中継地として一定の繁栄を みた。ブトンの名は時折当時の欧文資料にも登 場する [ 山口 2011: 95-123]。こんにちのブ トン島社会は,自然資源や産業に乏しく国家中 央からみれば政治・経済的な周縁社会である。 他方で宗教的には国民のマジョリティを占める イスラームが多数派であり,他国と国境を接し ているわけではなく,国家からの分離独立など を企てたこともない。その点で国家の主たる係 争地になったことがなく,中央からの相対的な 不干渉によって特徴づけられる。現在もインド ネシアの東西を結んで航行する旅客船や貨物船 の寄港地としてバウバウ港の周辺は活況を呈し ているものの,それ以外には港の後背地にある 周囲約 3Km の堅固なウォリオ城塞(Keraton Wolio)だけが,スルタン国のかつての繁栄 をしのばせる遺構として,今日の文化観光政 策のほぼ唯一の目玉となっている。 ブトン島を中心に居住する人々の一般的な総 称をブトン人(Orang Buton)といい,内部 は複数のサブ・エスニック集団からなる。こ のうちウォリオとチア・チア語話者の二つが, 主要な集団である。王族貴族の末裔からなる ウォリオ人(人口約 65,000 人[Ethnologue 2014])は,ウォリオ語の使用によってほかの サブ・エスニック集団からは識別される。今日 地方の政治経済における主要な職位の多くを ウォリオ人が占めている。論点を先取りすれば, ハングル導入の背後には,ウォリオ人の政治エ リートたちによる今日のブトン社会の周辺性や 無名さへの不服と,かつて東南スラウェシ地域 の政治,経済,文化的中心的地位に君臨したと いうスルタン国時代の栄光へのノスタルジアが 横たわっている。 本稿の主題となるチア・チア語は,言語学的 にはオーストロネシア語族マラヨ・ポリネシア 語派インドネシア語のムナ・ブトングループに 分類される。チア・チア語話者は約 79,000 人 と推計され[Ethnologue 2014],そのうち約 20,000 人がバウバウ市近郊に居住する。チア・ チア語話者は伝統的位階制の最下部の平民層に 属し,スルタン国時代にはウォリオ王宮に対し て朝貢関係にあった。今日バウバウ市近郊の内 陸部のチア・チア語話者の主な生業は農業であ る。日常生活においてウォリオ人とチア・チア 語話者の接触は限られており,そのため彼らの 日常言語,生活慣習は相互に異なっている。 インドネシアは多言語国家である。500 以 上 あ る と さ れ る 地 方 語 の う ち 100 万 人 以 上 の 話 者 を 擁 す る の は 14 ほ ど で あ る [ 森 山 2009:8]。1928 年 の 第 二 回 青 年 会 議 に お け る「青年の誓い(Sumpah Pemuda)」のなか のスローガン「一つの祖国インドネシア,一 つの国民インドネシア人,一つの言語インド ネ シ ア 語(bertoempah darah jang satoe, tanah air Indonesia, berbangsa jang satoe, bangsa Indonesia, bahasa persatoean, bahasa Indonesia)」 で も 謳 わ れ た よ う に,

独立期にはインドネシア語はナショナリズム

の最も重要な象徴でありツールであった2。続

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統合と経済開発が国家の最重要課題となるなか で,インドネシア語の普及は特に前者の目的に とって最も効果的な手段とみなされ,義務教育 過程でのインドネシア語教育が強化された。そ の結果,今日では国民の多くがインドネシア語 と地方語のバイリンガルである。このことはチ ア・チア語話者についても例外ではない。上述 のとおり,人々はチア・チア語とインドネシア 語を日常生活においてまったく困難なく使用で き,インドネシア語についてはローマ字表記を している。 ハングル導入の発端と主要人物, ブームのゆくえ 端的にいえば,ハングル導入プロジェクト 実施の発端は,2005 年にバウバウ市で開催さ れ た 国 際 写 本 学 会(Seminar Internasional Pernaskahan Nusantara)でのある二人の人 物の出会いにある。その一人は韓国外国語大学 のマレー語専門家の C 教授,もう一人はバウ バウ市長の A. タミム(Tamim)である。C は セミナーの合間のエクスカーションでバウバウ 近郊の農村を訪れ,偶然耳にした地方語が韓国 語に少し似ていると,同行したタミム市長に述 べた。これに対して,タミムはそれがチア・チ ア語であり表記文字の不在のために消滅の危 機にあると説明した3。そこで C はチア・チア 語の表記文字としてハングルの導入を提案し た。C はその後,無文字言語へのハングル普及 を目的とする在ソウルの民間団体,訓民正音学 会(Hummin Jeongeum Society2007 年設立) の副会長となる人物である。 C の提案を受けたタミムは,ハングル導入プ ロジェクトを開始した。2008 年になり訓民正 音学会とタミムとの間でハングル教育に関する 覚え書きが交わされると,訓民正音学会の招き に応じてカルヤ・バル村の公立高校の英語教師 アリフィン(仮名)をソウルに派遣して,ハン グルの教員になるための研修を受けさせるとと もに,訓民正音学会はハングルを用いたチア・ チア語の教科書を作成した。 ここでブトン島の地方語の歴史的概況を述べ れば,ブトン・スルタン国時代の公用語はウォ リオ語であった。このウォリオ語の位置づけ は,スルタン国がインドネシア共和国に統合さ れた後も変わらなかった。スハルト期に官主導 の「ローカル・コンテンツ教育プログラム」(後 述)が始まった時に,州政府が当該地域を代表 する地方語として選択したのもウォリオ語であ る。それ以降バウバウ市内の小中学校での地方 語教育では,実生活において児童生徒が用いて いる地方語のいかんにかかわらずウォリオ語が 一律に教育された [ 山口 2011: 245-255]。ポ スト・スハルト期の 2001 年から実施された 地方分権化政策によって,県・市レベルの地 方政府に多くの権限移譲がなされた。それに ともない,教育,文化政策における決定権が バウバウ市に与えられた後も,ハングル導入 プロジェクト開始以前までは,地方語教育に おけるこのウォリオ語優先の体制は変わらな かった。ハングル導入の提案を受けて初めて, タミム市長は地方政府に与えられた自由裁量 権を行使して,チアチア語教育に踏み切った 形である。 2009 年 7 月からカルヤ・バルとその周囲に 位置する三つの小学校の 4 年生以上の児童を 対象に,ハングルを用いたチア・チア語の授 業は開始した。当初は,前出のハングルの訓 練を受けた高校教師のアリフィンただ一人が 地域の小学校の全てのチア・チア語の授業を 担当した。 インドネシアの片隅の農村でのハングル導入 のニュースは,インドネシア国内と韓国の日刊 紙をはじめ,海外のメジャーな新聞各紙が次の ような見出しでこぞって報道した。「死にかけ た方言を守るために,インドネシアの小島は韓 国が頼み」[The Wall Street Journal,2009 年 11 月 11 日 ],「韓国の最近の輸出品:アル ファベット」[The New York Times,2009

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年 11 月 11 日 ],「ハングルで守る民族語:文 字無きチア・チア族」[ 朝日新聞,2010 年 4 月 23 日 ]。バウバウの名は一躍有名になった かのようだった。 同時期にタミム市長は独自にソウル市との交 渉を開始し,両市の間の友好関係構築のために 高校,大学生の文化交流イベントなどを盛んに 開 催 し た [e.g. Baubau Pos 2012 年 1 月 19 日 ; 2013 年 5 月 7 日 ]。ソウル市はハングル 教育を補助するために韓国人の教員をバウバウ 市に派遣したり,300 台のパソコンをバウバ ウ市に寄贈したりしている。さらにタミム市長 はソウル市以外の韓国の政府関係者とも接触を 重ね,文化教育における支援や資金援助の約束 を取り付けている [ 横井 2012: 32-33]4 タミム市長はカルヤ・バル村一帯の道路標識 や学校の看板をローマ字とハングルの二重表記 にさせた(写真 1-1,1-2)。市外から政府関係 者ら VIP の訪問者があると,市長はよくカル ヤ・バル村に案内し,この道路標識を指しなが ら誇らしげに「国際都市バウバウ」をアピール したものだった5 2012 年 11 月に任期満了でタミムが市長職 を辞し,タミムと同様にウォリオ人のタムリ ン(Tamrin)が新市長に就任した。地元紙や 市公式ウェブサイト,市政府関係者や市民の間 の評判などからもうかがえるとおり,この新市 長は,韓国との紐帯構築やハングル・プロジェ クトに対しては,前市長ほどは熱心ではなく, 韓国との交流行事の頻度は減少した。さらにソ ウルの C 教授は学会内部の抗争を理由に 2012 年には訓民正音学会を脱退し,バウバウ市のハ ングル・プロジェクトからも手を引いている [Yamaguchi 2015 (in print)]。

2013 年 9 月に筆者がカルヤ・バル村にて, プロジェクト開始当初からハングル教育に携 わってきたアリフィン教諭を訪ねた際には,彼 は本務である高校での英語教員としての勤めと 第二外国語の韓国語教育で多忙を極めており, さらにハングル教育に対してバウバウ市から正 当な報酬が支払われていないとの理由で,既 に小学校でのハングル教育を休止していた6 2013 年の時点ではハングル教育はもはや「風 前のともしび」となっていた。 ところが翌 2014 年 9 月に筆者が村を再訪 した際には,アフィリンに代わり,地域の B 小学校教員のアディ(仮名)らが,チア・チア 語の授業を再開させていた7。6 年生の授業を 参観すると,アディ教諭が白板にローマ字で記 した「私たちチア・チア人はチア・チア語を勉 強しています」等のチア・チア語の文章を,児 童はすらすらとハングルに翻字していた(写真 2)。授業の合間に児童に尋ねたところ,彼ら は一様に「最初はハングルは難しかったが,1 週間もすれば自分の名前や簡単な文章が書ける ようになった」,「ハングルの勉強は楽しい」と 語った。教員のアリフィンとアディは,ハング ル教育やソウルの学生との交流イベントによっ てもたらされたポジティブな効果として,それ が生徒の視野を広げ国外の諸事情に関心をもつ きっかけとなっていると語った。アリフィンか らハングル教育を引き継いだアディは,チア・ チア語−インドネシア語辞書を編纂したり,チ ア・チア語の音により忠実なハングルの表記の ための試行錯誤をおこなうなど意欲的な様子で あった。ハングル教育は静かに息を吹き返して いるように筆者の眼には映った。だが他方で, アリフィン同様,アディに対しても市からハン グル教育に対する適正な報酬は支払われておら ず,プロジェクトは彼の熱意とボランティア・ ワークに依存している状態であった。 ハングル・プロジェクトの多元的背景 以上の考察からは,チア・チア語教育へのハ ングル導入計画が始動する背景には二人の鍵と なる人物がいたことが分かる。一人は訓民正音 学会の C 教授であり,もう一人はバウバウ市 のタミム市長である。彼らの目的は何で,プロ ジェクト実施に至る原動力となった要因は何で

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あろうか?以下ではその多元的な歴史,社会的 背景を明らかにしていく。 (1) ハングルのグローバル化への野心 ハングルは朝鮮王朝期(1392-1910),第四 代王世宗の時代の 1443 年に創案(1446 年に 公布)された文字である。当時は「訓民正音」 と呼ばれており,ハングルと呼ばれるように なったのは日本統治期以降である。ハングルは 朝鮮半島の人々が使う言葉の音韻を正確に表 すために作られた独創的かつ科学的な文字で, 「ハン(한,偉大な)」「クル(글,文字)」とい う名も示すとおり,韓国人のハングルへの愛着 や誇りは強い。「ハングルは世界の言語の音全 てを表現できる優れた文字」といった突飛な 言説を耳にすることもあるほどだという [ 樋口 2006: 20-21]。ハングルを無文字言語に導入 しようとする志向は長く韓国に潜在しており, 1990 年代以降はハングル普及を目指す議論が 興隆した。同様の目的をもつ「ハングルで地球 村の識字運動協議会」なる団体が設立されたり, ハングルに基づき国際的に利用可能な表音文 字を開発する試みもなされている [ 横井 2012: 22-23]。 このハングルのグローバル化への志向と,国 際的な危機言語保存の議論(後述)の興隆のな かで,訓民正音学会は 2007 年にソウルにて数 人の言語学者と教育学者らによって無文字言語 と難文字社会へのハングルの普及を目的として 創設された [ 横井 2012: 24]8。チア・チア語へ のハングル導入の核にあったのも,このハング ルのグローバル化への野心であるとみられる9 (2) バウバウ市長の政治的野心と   ブトンの「周辺化」の歴史 チア・チア語へのハングル導入を推し進めた バウバウ市側の最も重要な要因の一つは,スハ ルト中央集権体制崩壊から 3 年後の 2001 年よ り開始した地方分権化政策の施行である。その 年,当時のブトン県から分立して,独自に県と 同等の権限をもつバウバウ市が創設されると, 初代市長に就任したタミムを筆頭とするバウバ ウ市の役人は,港湾地域の再開発や病院,市庁 舎の建設など,地域開発を推し進めた。同時に, バウバウ市を州都とし,かつてのブトン王国の 勢力圏を範域とする新州「ブトン・ラヤ (Buton Raya= 大ブトン )」を設立して現在の東南ス ラウェシ州から分立する準備に着手した。こう した状況を鑑みると,バウバウ市がハングルの 受け入れに積極的だった背後には,ソウルから の経済援助を引き出すとともに,対外的には計 画中の新州の首都候補としてのバウバウ市の外 交,政治経済的能力を中央政府に示し,対内的 には新州設立への地元社会の合意と参加をとり つけようとした意図が見てとれる。 だがこうした説明はなお一面的である。上述 の政治経済的野心の背後にはさらに,ブトン地 域が経験した複数の歴史的経験があることに目 を向ける必要がある。それは以下に述べるよう に,スルタン国時代から現代に至る「周辺化の 歴史」ともいうべき過程である。 17 世紀のブトン・スルタン国は,インドネ シア東部随一の港市マカッサル(Makassar) を 擁 す る ゴ ワ・ タ ロ ッ(Gowa-Taroq) 連 合王国と,香料を産出するマルク諸島との中 間 地 点 に 位 置 し, 香 料 交 易 の 権 益 を 掛 け た オ ラ ン ダ 東 イ ン ド 会 社(VOC, Vereenigde Oostindische Compagnie)などヨーロッパ 諸国を含む諸勢力間の群雄割拠のただ中にあっ た。そこでブトンは VOC と与してマカッサル やマルクからの干渉を交わしスルタン国の独立 を維持する道を選んだ。VOC は,その後のオ ランダ領東インド政府とあわせて,インドネシ アの国家と国民の共通の敵として現代のインド ネシア史では描出される。そのためブトン人は こんにち,スルタン国時代の VOC との協力関 係を,ブトンのイメージを損なう歴史的汚点と みなしており,それを払拭する機会を探ってい

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るのだ [ 山口 2012b: 235]。 第二の周辺化は,ブトンがインドネシア共和 国に統合される過程で起こった。1960 年代に 全国の地方行政区分の再編が進むなかで,現東 南スラウェシ地域は,スラウェシ島の南半分と セットで南・東南スラウェシ州に帰属すること となった。まもなくこの州を東西に分けて,西 半分を南スラウェシ州,東半分を東南スラウェ シ州にする計画が持ち上がると,ブトン・スル タン国の(元)高官たちは,新州の首都を,ス ルタン国時代から地域の政治経済の中心であっ た島嶼部のバウバウに制定するべく調整に奔走 した [ 山口 2011: 274-278]10。だが 1964 年 に東南スラウェシ州が成立してみると,州都は バウバウではなく,スラウェシ本島の東南部に 位置し,政治経済的にも未発達で,文化歴史 的にもあまり特色のないトラキ(Tolaki)と いうエスニック・グループが暮らすクンダリ (Kendari)市に制定された11。こうしてバウ バウは東南スラウェシ地域行政上の中心をクン ダリに,当該州を代表する民族としての地位を トラキ人に明け渡すこととなった [ 山口 2011: 277-278]12 さらにブトンの周辺化を決定づけたのは, 1965 年の政変の後に実権をにぎり 1968 年に 第二代大統領に選ばれたスハルトが行った,共 産党員とそのシンパに対する粛清期の社会不安 である。筆者がこれまでの調査から看取した限 りでは,ブトン島でこの動向がピークを迎え るのはスラウェシ島のほかの地域よりやや遅 い,1969 年だったようである13。同年にウォ リ人のブトン県知事 K が共産党員との取引を 疑われて逮捕され獄中でなぞの死をとげると, 代わって南スラウェシのブギス族出身の軍人 S 大佐が県知事に就任した。当時 K 前県知事以 外にも,政治家,医師,教師など多数のウォリ オ人知識人が同様の嫌疑で逮捕,投獄され,ま たある者は逮捕を逃れるためにブトン島外に離 散した。空白になったブトン地方の政治的職位 は南スラウェシ出身の軍人によって占められる ようになり,それ以前は東南スラウェシ地方で 唯一ブトン島のみに存在した二つの国立大学 の分校が廃止になるなど,この時期にブトン は政治,文化的に混乱し停滞した [ 山口 2011: 278-281]。こんにちのブトン地域の政治的エ リートたちにとって,地域の経済発展によって かつての盛況を取り戻し,それによってこの不 名誉な周辺化の歴史を払拭することは悲願と なっている14 以上を小括すれば,バウバウ市におけるハン グル教育の導入の直接的背景には,一方ではハ ングルのグローバル化を目論む訓民正音学会 と,他方では地域開発によって周辺化の負の歴 史を払拭し,かつての栄光を取り戻そうとする ウォリオ人エリートとの利益の一致があったの である。 言語学的見地からの ハングル導入の意義と問題点 何人かの韓国人および韓国語に精通した言語 学者は,チア・チア語をハングルで表記するこ との利点と欠点の双方を指摘している [e.g. 趙 2011; 厳 2013]。例えばチア・チア語は,イ ンドネシア語にはない /㷎/ と /㷏/ の内破音を もつ [ 図表 ]。ウォリオ語も同じ内破音をもつ が,これらの音をローマ字表記する場合は,そ れぞれ /bh/ と /dh/,または非内破音とは区 別せずに単に /b/ と /d/ を用いる。一方ハン グルにはこれらに対応する文字 / / および / / が あ る。 そ の た め 例 え ば こ の 内 破 音 を 用 い る チ ア・ チ ア 語 で「 米 」 を 意 味 す る /bae/ または /bhae/ という語は,ハングルで は / / と,また例えば「人生,生活」を意 味する /dadi/ または /dhadhi/ は / / と, ローマ字よりも正確に表記できる [ 厳 2013: 139-142]。 しかし他方で,チア・チア語の全ての音をハ ングルで表記できるわけではない。例えばチア・ チア語は /r/ と /l/ を区別するがハングルには

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明確な区別はない。そのため訓民正音学会の言 語学者は /l/ の音を表記するために,現代ハン グルでは使われていない / / という文字を 復活させ,従来の / ㄹ / は /r/ の音を表記する ために用いることを考案した。だが / / は, 現代のワード・プロセッサのキーボードでは対 応できないというさらなる問題が浮上した。そ こで急場をしのぐために学会は,/ / の代わ りに,/ ㄹㄹ / に / 을 / という文字を追加して /l/ を記すことを考案した。だが / 을 / はロー マ字では /eul/ と表記される。そのため例えば 「5」を意味するチア・チア語の /lima/ はハン グルでは / 을리마 / と表記され,さらにそれを ローマ字に翻字すれば,もともとのつづりから はかけ離れた /eul li ma/ となってしまうこと になった [Song n.d.: 6; 厳 2013: 140-142]。 これらの諸特徴を検討した後で,趙は,チア・ チア語を表記するためのハングルは,/ 을 / の ような不要な文字をしばしば含んでいることを 指摘した。総合的にみて,訓民正音学会が考案 したハングルは,チア・チア語の音韻体系より も現代韓国語の正書法を優先させており,「ラ テン文字による方がはるかに合理的かつ効率よ くこの言語を記述できる」と結論づけている [ 趙 2011: 33]15 地方分権化政策下のインドネシア地方社会の 視点から [Song n.d.: 20] も指摘するとおり,また筆 者の調査からも見て取れることには,チア・チ ア語のハングル導入において特徴的なのは,こ のプロジェクトを開始し推進してきたのがウォ リオ人のバウバウ市長と市政府関係者であり, 当のチア・チア語コミュニティの人々は概して プロジェクトの消極的な受け手だということで ある。ウォリオ人エリートにとっては,ブトン 島内外に散在する村落社会をバウバウ市(およ び市長)の下で統合することは,新州分立の実 現に向けた合意形成のために不可欠である。そ の点からも,ハングル・プロジェクトは,それ によってもたらされるであろういくばくかの地 方開発の利益を村落社会の前にちらつかせるこ とによって,島の周縁部のチア・チア語住人た ちを市政へと取り込むための手管として有効 だったのだ。 地方分権化時代のインドネシアの多くの地域 社会では,“アナッ・ダエラ(anak daerah, 土地の子,地元民)”が,ジャカルタやジャワ から派遣された役人に代わって,地方政治の要 職に登用されるようになっている。そしてア ナッ・ダエラは,当該地域の伝統的位階制の上 位層出身者からなる場合が多い。そのため多く の地方社会では,伝統的位階制が世俗の政治体 系にそのまま反映されるということが起きてい る [e.g. 山口 2011: 281, 360; 岡本 2001; 奥 島 2007]。バウバウ市についても同様に,ハ ングル・プロジェクトは結果としてブトン地方 政治におけるウォリオ人のリーダーシップと求 心力を強化する方向に作用した。以上の意味で も,ハングルの導入はポスト・スハルト期の地 方分権化のなかで,地方エリートが韓国との紐 帯を構築しようとする動きとしてみることがで きる。従ってそれは,分権化と民主化の流れの なかでインドネシア各地で現在様々な形態を とってあらわれている地方アイデンティティの 振興運動の,一つの極めてユニークな形として 理解することができるのである16ハングル・プロジェクトは誰のためのもの? これまでみたとおり,バウバウ市におけるハ ングルの導入の発端はバウバウ市と訓民正音学 会の利益のいわば偶然の一致にあり,チア・チ ア語話者の要請によるものではない。また言語 学的な見地からもハングルによる表記の適性は 担保されない。それならば,このプロジェクト の意義はどこにあるのだろうか。 プロジェクトの開始後まもなくから,様々な 外交上の問題が指摘されてきた。ハングル導入

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のニュースが報道されると,インドネシア政府 は賛同や支援の表明を躊躇した。在韓国インド ネシア大使は,チア・チア語話者が問題なくイ ンドネシア語とローマ字を扱うことに言及し, ハングル導入の必要性について疑問を呈したの ち,韓国側からの支援がバウバウ市に集中する ことによって,ほかの地域社会からバウバウ市 が反発を受けることに対して懸念を表明してい る [The New York Times,2009 年 9 月 11 日 ]。さらに彼は,チア・チア語圏外のインド ネシアでは誰も解さないハングルの使用が,言 語的にもチア・チア語話者を孤立させる危険 性について憂慮している [The Korea Times 2010 年 1 月 27 日 ]17 こうした見解は韓国政府側にも共有されてい る。韓国社会には一般的に韓国語に対する愛着 や誇り,外国語への導入を歓迎しそれを支援す る意向は潜在するものの,政府としてのハング ル・プロジェクトへの支援には慎重の構えだ。 韓国政府はバウバウという小さな都市への非公 式的な支援が,インドネシアとの公式な外交関 係にダメージを与えることを危惧している。韓 国の文部大臣が述べるとおり「これは外交的に センシティブ」な問題なのである [The New York Times,2009 年 9 月 11 日 ]18 ではこのハングル・プロジェクトは,現代イ ンドネシアの社会,政治的側面に関してどのよ うな洞察を与えてくれるだろうか。先述のとお り,初等教育でのハングルの導入は,「ローカ ル・コンテンツ・プログラム」の枠組みで実施 された。このプログラムはスハルト大統領期の 1994 年に国民統合政策の一環として,「国民 教育の達成のために地域の文化を保持発展する 意識や地域開発を試行する人材の育成」を目的 に開始された。実施においては,当初は州政府 が地域内のいくつかの有力なサブ・エスニック グループの言語や歴史,文化を当該地域を代表 するそれとして選択した。プログラムはやがて, カリキュラムに選択されなかった言語や歴史, 文化が地域内で等閑にされ周辺化されるという 「負の機能」[ 中矢 1997: 113] を露呈するよう になった。 一方,ポスト・スハルト期に入ると,ロー カル・コンテンツ教育の対象となる言語や文化 の選択やカリキュラムの決定は,県や市の裁量 に任されるようになった。だが,バウバウ市で は先述のとおり,スハルト期からハングル導入 以前までの学校教育において市内の多様な言語 状況への配慮があったとは言い難く,実際に児 童が日常会話に使用する地方語のいかんにかか わらず,一律にウォリオ語が地方語教育科目と して選択されてきた。この経緯を鑑みると,チ ア・チア語圏でウォリオ語に代わってチア・チ ア語教育が開始したことは,2000 年代も終盤 になって地方分権化政策に呼応した地方政府 が,それまで等閑視されてきたマイナーな地方 語に光を当てる試みとしては,画期的な側面が あったといえる。しかし上で概説したように, チア・チア語教育はバウバウ市の役人と韓国サ イドの利益の一致によって実施に至ったもので あり,市政府による地域内の多言語状況への配 慮や少数言語の保存といった動機に基づくもの ではない。さらにそれはこの後みるとおり,地 元のチア・チア語話者の要望や必要性に基づく ものでもなかったのだ。 新たな文字を導入する ここでインドネシアという文脈を離れて,あ る社会が新しい文字や書記法を導入するプロセ スについて若干の考察をしたい。東南アジア島 嶼部におけるインド系文字の伝播と使用につい て論じた青山 [2002] は,ある社会が新しい文 字を導入したり,ある文字から異なる文字にシ フトしたりする際にはいくつかの背景要因があ ると述べる。それらは基本的には 1.社会の言 語的要因,2.外部的要因,そして 3.内部的 要因,すなわち当該社会の文字使用のモード, の三つに大別することができる。チア・チア語 へのハングル導入において,第一の言語的特徴

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については,東南アジア島嶼部のオーストロネ シア語系言語に共通する比較的シンプルなチ ア・チア語の音韻システムが,完全にではない がある程度までハングルによる表記に適してい たということがある。第二の外的要因について は,バウバウ市と訓民正音学会の利益の一致と, インドネシアの教育システム内にローカル・コン テンツ・プログラムの実施枠組みがあり,地方 分権化政策のなかでそのカリキュラムの策定や実 施が市の裁量に任されたという時代要因と,さら にそこには強力なイニシアチブをもつ市長の存在 という人的要因があることも指摘できよう19 第三の社会内部の文字使用のモードに関して は,青山 [2002: 19-20] は「フロー型」と「ストッ ク型」の二つのモードを仮説的に設定する。前 者のフロー型の特徴をもつ社会では,文字使用 はもっぱら言葉の交換と一時的な記録に限定さ れる。フィリピンのハヌノオ・マンヤン族がそ の例である。後者のストック型は,文字によっ て言葉の蓄積・長期保存・再利用が制度的に行 われている様態を指す。典型例はインドネシア のジャワ社会である。しかし青山も述べるよう に,ある社会は排他的または固定的にどちらか の型に該当するわけではなく,歴史的にいずれ の様態が卓越していたかによってその社会の文 字利用が特徴づけられる [ 青山 2002: 19]。チ ア・チア語話者についていえば,彼らはインド ネシア語とローマ字を使いこなし,アラビア文 字も解読する。これまで特にチア・チア語を表 記することへの強い憧憬や要望があったという 明らかな証拠はない。もしあれば,これまでに ローマ字を用いたチア・チア語表記の文芸など が存在しても不思議ではないだろう。だが教員 のアリフィンやアディらも述べる様に,これま でのところチア・チア語を書写したまとまった 書物はなかったし,それへの社会的要請もな かった20。むしろこのハングル・プロジェクト が,今後の彼らの文字使用への志向性を方向づ ける何らかの契機になるかもしれず,その展開 は中長期的視座から見守る必要がある。  危機言語保存の大義はプロジェクトを 正当化するか バウバウ市におけるハングル導入は,近年国 際的にも関心が高まっている「危機言語の保存」 の議論に対して,どのようなインパクトや意義 をもちうるだろうか。 エコロジーや環境保全がグローバルな関心事 になるにつれて,言語多様性の消失は生物多様 性の消失とのアナロジーで捉えられ危惧される ようになってきている [Krauss 1992]。言語 を文化的エコシステムの要とみなし,絶滅の危 機に瀕した「危機言語」の保存を訴える言説 は,1990 年代以降益々国際的な信頼を得て流 通している [ 井出 2008; Evans 2010]。この 危機感がさらに言語を文化遺産として保護の 対象とみる考えを生みだしている [ 佐野 2013: 148]21。これらの理念に基づき,UNESCO や

SIL (Summer Institute of Linguistics) な ど の諸機関は,無文字社会への文字の導入を進め ている。UNESCO 公式ウェブサイトの「世界 の危機言語アトラス(UNESCO Atlas of the World’s Languages in Danger)」によると, 2014 年 9 月 30 日 の 時 点 で 世 界 2,471 の 危 機言語のうち,146 言語がインドネシアにあ る。そこにはチア・チア語は含まれていない [UNESCO 公式ウェブサイト ]22 訓民正音学会はその設立の理念に「危機言語 の保存」を謳っているものの,バウバウ市にお いては,プロジェクトを推進する市政府関係者, そしてチア・チア語コミュニティの学校関係者 らの間でも,運動の動機や正当化のために「危 機言語の保存」を前面にだすことはこれまでの ところない。そこではもっぱら地域開発の進展 と国際化,児童生徒の視野拡大といった意義が 強調されている。 先述のとおり,ハングル・プロジェクトは韓 国との外交上の問題を孕んでおり,バウバウ市 で新市長が就任してからは,両者の交流は下火 になっている。ハングル導入のきっかけを生ん

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だ C は訓民正音学会から脱退し,バウバウの ハングル教育からも手を引いた。2014 年には 韓国の民間団体の援助でハングル教育が再開さ れているが,担当教員には見合った報酬は支払 われておらず,彼らの間には不満が潜在してい る。ハングル・プロジェクトそのものがいま存 続か否かの岐路にたっているのだ23。だが問題 は,プロジェクトの存亡そのものよりも,安定 的な実施母体が不在であるにもかかわらず,今 後運動の主導者,そして当のチア・チア語話者 らが,危機言語の保存というグローバルに流通 する言説を採用して,その名の下でプロジェク トの重要性や正しさを主張するようになったと き,外部者はその説の「政治的正しさ」を否定 したり,運動実施への留保を促すことが難しい という点にある。その意味でも,ハングルを定 着させることへの持続的意欲,覚悟の存在が, 地元民のみならずそれに関わる全ての者に,い ま問われているのだ24 おわりに チア・チア語へのハングルの導入は短時間で 実現した。その背後にはバウバウ市長と訓民正 音学会ののちの副会長 C の偶然的な出会いと, 地方開発を進め新州分立の悲願を達成したい前 者と,ハングルの普及という後者の目的の一致 があった。他方で,タミム市長と市の役職者ら ウォリオ人は,ハングル教育や交流イベントを とおしてソウル市との紐帯を構築して経済的支 援を引き出すことを企図していた。それによっ て計画中の新州ブトン・ラヤの首都としてのバ ウバウの経済的,社会的ポテンシャルを示そう としていたのだ。このウォリオ人の政治的意図 の背景には,さらにスルタン国時代から現在に 至る重層的なブトン社会の周辺化の歴史が存在 した。つまり「ブトン・スルタン国はかつて VOC と協力関係だった」「インドネシア共産 党活動の拠点の一つだった」という歴史的烙印 によって,ブトンのイメージは損なわれ政治的 に脱権力化されたとともに,1964 年の東南ス ラウェシ州設立時の陸域部への州都の制定が, 地域内でのブトンの中心的地位の喪失を決定づ けたのである。つまりバウバウ市のハングル導 入の核には,歴史的汚点を払拭し,東南スラウェ シ地域の政治経済的中心としての過去の栄光を 取り戻したいというウォリオ人の悲願があった のだ。 ポスト・スハルト期の地方分権化政策の実施 が,このウォリオ人の政治的意図実現に向けた 動きを促進し,加速させた。インドネシアの各 地方政府が地方行政上のより大きな権限を手に するなかで,ウォリオ人エリートもハングルの 導入をとおして独自に韓国とのネットワークを 構築し,地域開発を図った。従ってハングルの 導入は,地方分権化と民主化のただ中の現代イ ンドネシアの地方社会において,様々な形態で 施行されている地域アイデンティティ興隆運動 の一つのユニークな形としてとらえることがで きるのである。 これまであまり議論されてこなかったこと は,ハングル・プロジェクトが当のチア・チア 語話者に対してもちうる意義についてである。 このプロジェクトはチア・チア語コミュニティ の外部の為政者が主導となって実現した。それ はブトン地域の多言語状況への配慮やマイノリ ティの言語の保存といった意図に基づくのでは なく,またチア・チア語話者の要請や必要性に 応えるために行われたのでもなかった。ハング ル教育にあたった高校英語教師のアリフィン は,生徒の学習意欲の向上などプロジェクトが もたらした肯定的な側面も認めていた。だが他 方で,韓国側からの援助物資の多くはバウバウ 市政府に接収され,村まで届いたのは 300 台 のうち数十台のパソコンなど,わずかである。 さらにアリフィンやアディは通常の教員として の給与以外には,ハングル教育に関する報酬を 市から支給されていない。プロジェクト全体を とおして,多くの利益がバウバウ市のウォリオ 人の下に集中してもたらされ,チア・チア語話

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者はわずかな分け前の控えめな受け手となって いる。ウォリオ人に社会的プライオリティを与 える従来のブトン社会の構造は何ら変化してい ないのが現状だ。 バウバウ市関係者は,このプロジェクトの目 的や意義を「文化遺産としての言語」「危機言 語の保存」というグローバル・イシューと直接 的に関連付けて説明することはこれまでのとこ ろない。だがもし近年益々国際的に信頼を得て いるそれらのスローガンに則ってこのプロジェ クトの意義や正当性が主張されるとしたら,さ らにはチア・チア語話者自身がそれを主張しは じめたとしたら,このプロジェクトを長期的に 責任をもって催行する主体が不明瞭な状況下に おいても,部外者が異議を唱えたり,当事者に 熟慮を促すことは難しいかもしれない。 チア・チア語のハングル導入は,ある社会が 新たな文字を導入するプロセスがいかに素早く 進行し,そこにいかに人工的な社会的政治的ダ イナミクスが作用するかについての具体的で稀 少な事例を示してくれる。プロジェクトは今重 要な局面にさしかかっており,今後の展開を注 意深く見守りたい。 <注> 1 2 3 本稿は,主にハングル・プロジェクトの発端 と 背 景, 初 期 の 状 況 に つ い て 考 察 し た 拙 稿 [Yamaguchi 2015(in print)]を自身で邦訳 したものに,危機言語に関する議論と 2014 年 9 月の実地調査の結果を合わせて加筆修正した ものである。 青年の誓いとは,1928 年にジャカルタで青年民 族主義者が開催した第二回インドネシア青年会 議で提唱された宣言文である。「我々インドネシ ア青年男女は,1.インドネシアという一つの祖 国を持つことを確認する。2.インドネシア民族 という一つの民族であることを確認する。3.イ ンドネシア語という統一言語を守る(尊重する)」 という内容からなる。 [Song n.d.: 4] によると,チア・チア語と韓国 語の音韻の類似を指摘した C の発言は冗談まじ りのものだったという。 4 5 6 7 8 例えば 2009 年 12 月にはバウバウとソウルの 間で文化と芸術における協力に関する覚え書き が交わされた [ 京郷新聞 2009 年 12 月 22 日, 横 井 2012: 32 に 引 用 ]。2012 年 10 月 に は, バウバウ市と韓国農村振興庁との間でハングル を用いた農業教科書を作成するための趣意書が 交わされた [ 中央日報 2010 年 10 月 8 日,横 井 2012: 33 に引用 ]。 例 え ば 2012 年 に 全 国 宮 廷 祭(Festival Keraton se-Nusantara)――元王国スルタン 国の代表が参集して親交を深める目的で,全国 を巡回して隔年で行われるイベント――の第 8 回大会の招致にバウバウ市が成功した際には, タミム市長は連日の関連イベントの一つとして カルヤ・バルの隣村へのエクスカーションを実 施した。公称 92 の宮廷からの代表を招いた村 の集会場ガランパでは,ごちそうを持ったカラ フルな大盆が所せましと並べられ,農事暦儀礼 や慣習舞踊がにぎにぎしく再演された。その歓 迎のスピーチで,タミム市長はバウバウ市に隣 り合う村々では相互に異なる地方語が使われ個 性ある慣習儀礼が現在も慣行されていることに 言及し,バウバウが「インドネシアのミニチュア」 であると述べた。さらにハングルとローマ字の 二重表記の道路標識に触れて,ハングル教育を とおしてソウル市とバウバウ市が親交を深めて いると強調して,国際都市・バウバウをアピー ルしたのだった [ 山口 2012a: 22]。 同高校の校長や同僚の教員らへの聞き取りに よると,ハングル教育に対する市からの報酬 の不払いや,それがアリフィンのボランティ ア・ワークに頼っていたことは事実のようで ある。 アディや同行したアリフィンによると,訓民正 音学会に代わって,現在では釜山にある「チア・ チア協会(Yayasan Cia-Cia)」という民間団 体がハングル教育を支援しており,同団体の招 きで 2014 年 10 月にもアディはじめ数人のバ ウバウ市職員が韓国語とハングルの研修のため に韓国に出発するとのことであった。チア・チ ア協会の沿革などについてはこれまでのところ 不詳である。 訓民正音学会の最新の公式ウェブサイト上の李 会長の挨拶の中では,当学会の目的が「『訓民 正音』を含む,世界中のあらゆる書記法の特徴 を学ぶこと」とされており,さらに学会は「ラ イティング・システムを持たない危機言語の保 存にも関心がある」と述べられており,ハング ルのグローバル化については明言を避けている

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9 10 11 12 13 14 15 ようにも見て取れる [ 訓民正音学会公式ウェブ サイト ]。 この背景には C 教授の功名心も含まれると推測 できる。C にインタビューをした横井[2012: 12]によれば,C はチア・チア語へのハングル 導入を主導することでハングルのグローバル化 に先鞭を付けたことに関する自らの貢献につい て吹聴することをはばからなかったという。 1960 年の南・東南スラウェシ州の設立に先立 つ 1959 年には,現在の東南スラウェシ州にあ たる地域に 4 つの県が制定され,それまでのブ トン・スルタン国の領域に基づく東南スラウェ シ・スワタントラ地方(権限が大幅に制限され たスルタン国に基づく自治地方)は廃止された。 だが,スルタン国の高官の多くは,群長などの 世俗の行政システムの長を兼任していることが 多く,地域政治上の影響力を維持しつづけた。 同時期に全国で設立された州のうち,領域が大 陸部と島嶼部にまたがるところでは,島嶼部が より繁栄していた場合であっても,しばしば州 都が陸域部に制定されるケースがみられた。中 央政府が,遠隔地の離反を防ぎ,中央と地方の 間の海路ではなく陸路によるアクセシビリティ を優先させたためである [ 山口 2011: 278]。 これ以降,東南スラウェシ州を代表する民族 や伝統文化として学校の教科書や博物館展示 などで紹介され学習されるのはトラキ人の民 族衣装や慣習となった。クンダリ市はもとも と人口稀少なクンダリ湾沿いにオランダ植民 地政府が建設し,近隣の小国のトラキ人王に 治 め さ せ た 町 で あ る こ と か ら,「 ク ン ダ リ は オ ラ ン ダ の 傀 儡 都 市 」「 ト ラ キ 人 の 文 化 は 近 隣の諸民族から寄せ集めた急ごしらえ」など と州内の異民族の間で揶揄されることがある。 他所に先んじてジャワやバリで起こったこの赤 狩りの波がスマトラ,カリマンタン,スラウェ シなどの島々に及んだのは 1966 年ごろといわ れる [ 和田・森・鈴木 1977: 293-294]。 今日,地方分権化政策に呼応して,地方の文芸 復興運動や地方開発を主導するウォリオ人エ リートには,1960 年代に逮捕投獄されたり, 島外への離散を余儀なくされた人々が数多く含 まれる。彼らは当時を「ブトンが南スラウェシ 出身者によって骨抜きにされた時代」として回 顧する [ 山口 2011: 280-281]。 スラウェシ地域の言語の専門家で韓国語を解す る山口真佐夫もこれと同様の見解を示している [ 山口 2011: 354]。2014 年 9 月に筆者がアディ 教諭のチア・チア語のクラスを見学した際には, 16 17 18 アディはチア・チア語を正確にハングル表記す るためのさらなる工夫をしていると述べ,例と して「 」という文字の導入を挙げた。山口真 佐夫によると, は中期語にあって現代韓国語 にはない文字である。中期語では ß(有声両唇 摩擦音)を表したが,現在ではチア・チア語の ɓ (有声両唇入破音)を表す文字として用いられて いるようだ [2014 年 9 月 25 日,電子メールに よるご教示より ]。 しかしながら,ハングル導入は,ジャワやジャ カルタの利益を優先させてきた先のスハルト新 秩序体制期の中央集権制に対する,開発の立ち 遅れた「外島」からの間接的な反政府宣言と直 ちに断じることはできない。こんにちバウバウ 市のような地方社会の存続と発展にとって中央 政府との良好な関係は,そこに財政的に依存す る必要がある以上今なお不可欠である。従って 「地方アイデンティティ興隆熱の背後には,ジャ カルタ――それは地方社会にとってキャッシュ の源である――からの離脱ではなく,それへ の忠誠をめぐる地方間の競合が存在するのだ」 [Schulte Nordholt and van Klinken 2007: 20]。 [Song 2013] は さ ら に, イ ン ド ネ シ ア 政 府 が ハングル導入に対して否定的見解を抱いた理由 として,それが国民統合のシンボルとしての インドネシア語とローマ字の地位に対する挑 戦として写ったためではないかと推論する。こ れに対して筆者が思うところ,たしかにこの プロジェクトの実施は人々にチア・チア語話者 としてのアイデンティティを喚起した側面はあ る。だがハングルを解するのは後述のとおりチ ア・チア語人口の 1%にも満たない。その点か らもハングル・プロジェクトが国民統合のほこ ろびの発端となることへの危機感を中央政府が 強く抱いた可能性はそれほど高くないと思われ る。むしろ中央政府の不安と不快感は,バウバ ウ市長がインドネシアの関係省庁の定めるし かるべき外交プロセスをへずに独断で韓国サ イドと交渉を進めたことにあったようである。 また,ローマ字によるインドネシア語の正書 法 は 20 世 紀 初 頭 に オ ラ ン ダ 人 言 語 学 者 van Ophuisen によって標準化されたことは知られ ているが,ローマ字導入に対する当時のローカ ル社会,とりわけ民族主義者の反応や,ローマ 字が国民統合に何らかの(象徴的)役割を果た したのかについては今後検討の余地がある。 [The Korea Times 2010 年 1 月 27 日]の記

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Cia-Cia's Adoption of the Korean Alphabet and Identity Politics in Decentralized Indonesia. Kemanusiaan 20(1) :51-80. 東長靖  2002 「アラビア文字による他言語表記とアラビ ア文字文化圏」『上智アジア学』 20: 25-44。 厳延美  2013 「インドネシアのチアチア族へのハングル 文字普及について」『EX: エクス:言語文化論集』 8: 137-151。 和田久徳・森弘之・鈴木恒之  1977 『総説・インドネシア』(世界現代史 5, 東南アジア現代史 1)東京:山川出版社。 山口裕子  2011 『歴史語りの人類学:複数の過去を生きる インドネシア東部の小地域社会』京都:世界思 想社。  2012a 「王は主体か客体か?:第 8 回全国クラ トン・フェスティバル見聞記」『インドネシア ニュースレター』81: 13-28。  2012b 「『中心』を希求する周辺社会:インドネ シア東南スラウェシにおける国家英雄推戴運動 から」風間計博,中野麻衣子,山口裕子,吉田 匡興 ( 編著 ),『共在の論理と倫理:家族・民・ まなざしの人類学』,pp. 223-246。東京:はる 書房。 Yamaguchi. Hiroko 2 0 1 5 ( i n p r i n t ) T h e S o c i o - H i s t o r i c a l Bankground of the Adoption of Hangul in Vernacular Education in Indonesia. Japannese Revew of Cultural Anthropolgy

15(ページ未定) 山口真佐夫  2010 「東南スラウェシの言語,チアチア語のハ ングル表記」,第 3 回「インドネシア諸語の記述 的研究:その多様性と類似点」研究会パワーポ イント資料,2010 年 10 月 10 日於東京外国語 大学アジア・アフリカ言語文化研究所。 横井裕志  2012 『チアチア語のハングル表記導入の動向に ついて』卒業論文,東京外国語大学外国語学部 提出。 <新聞記事> 朝日新聞 「ハングルで守る民族語:インドネシア・ 文字なき『チア・チア族』」(2010 年 4 月 23 日) <ウェブサイト>

Baubau Pos http://baubaupos.com/( 最 終 ア クセス 2014 年 9 月 30 日)

(16)

Ethnologue, Language of the World www. ethnologue.com( 最 終 ア ク セ ス 20014 年 12 月 2 日)

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 http://online.wsj.com/asia ( 最 終 ア ク セ ス 2014 年 8 月 21 日)

UNESCO Atlas of the World’s Languages in Danger  http://www.unesco.org/culture/languages-atlas/index.php?hl=en&page=atlasmap ( 最 終アクセス 2014 年 10 月 10 日)

両唇音

破裂音

内破音

鼻音

摩擦音

破擦音

弾音

母音

側音,接近音

唇歯音

歯茎音

軟口蓋音

音門音

表:チア・チア語のハングルによる表記体系 ([ 厳 2013: 140] に筆者加筆)

(17)

インドネシア語 JL. EKONOMI   =JALAN EKONOMI

[jalan ekonomi]

意味 エコノミー通り

ハングル 잘란 에꼬노미

ハングルでの読み jal lan e kko no mi チア・チア語での読み Ja lan e ko no mi ([ 山口真佐夫 2010] に筆者加筆) 写真 1-1:カルヤ・バル村の道路標識(筆者撮影) 写真 1-2:カルヤ・バル村の道路標識(筆者撮影) 写真 2: 6 年生の授業のひとこま。チア・チア語の文章 「私たちチア・チア人はチア・チア語を勉強して います」をハングルに翻字する。(筆者撮影) (客員研究員・一橋大学大学院社会学研究科特別研究員)

参照

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