鈴木舎定のキリスト教と自由民権 ―『東京新報』
・『七一雑報』・『盛岡新誌』を中心にー
著者
武田 麻紀子
雑誌名
日本思想史研究
号
51
ページ
37-58
発行年
2019-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129319
鈴木舎定のキリスト教と自由民権
1 1 1 司東京新報﹄・﹃七一一雑報﹄・﹃盛岡新誌﹄を中心にl
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は じ め に 明 治 則 、 キ リ ス ト 教 思 怨 を 基 制 服 と し て 自 由 民 権 運 動 家 と なった者、あるいは自由民権家からキリスト教徒になった 者は少なくない。東北をみても、宮城際出身の小野庄五郎 は 明 治 維 新 後 爾 附 聞 に 渡 り 、 ニ コ ラ イ 神 父 の 下 で ギ リ シ ャ 正 教 会 に 入 信 、 布 教 を 行 い な が ら 自 由 民 権 結 社 進 取 判 官 に 所 属 し活動している。また、青森の自由民権運動の中心となる 東奥義数では、明治七年三八七回)に東京留学していた 本多府一が帰郷して遡長となり、翌年に弘前公会を設立す ると、多くの塾生がキリスト教に入信した。本多自身、明 治 五 年 ( 一 八 七 一 じ に 仲 間 浜 公 会 で 洗 礼 を 受 け て お り 、 教 育 活 動 と 並 行 し て 布 教 活 動 に 力 を 注 い で い る 。 岩手にも、キリスト教とともに自由民権怒怨に影響を受 け、自らの使命を自党し、実践しようと二十八歳の短い命武
麻
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子
匠│
を燃やした自由民権家鈴木合定がいる。この人物に関する 研究は少ないが、後れた人物評で知られる鳥谷部春汀は、 雑誌﹃太陽﹄において﹁当時の新印紙は彼(本多防一)及 { マ マ ︾ び 河 野 広 中 、 鈴 木 合 弟 ( 山 一 相 手 ) を 祢 し て 東 北 の 一 ニ 傑 と 為 せ 引 ﹂ と 悶 怨 し 、 徳 川 日 川 淋 的 は ﹃ 閤 民 新 聞 ﹄ で ﹁ 務 し 滋 政 談 椴 の 運 動 者 を 求 め ば 、 臼 河 限 外 に 於 て 河 野 広 中 氏 を 推 し 、 出 石 手に於て鈴木合定氏を推し、弘前に於て本多郎一氏を推さ ざ る べ か ら ず ﹂ と 評 側 し て い る こ と か ら も 、 山 石 手 県 の み な らず、東北の白山氏機運動を考える際の鍵となる人物であ ヲ 也 。 舎 定 は 、 東 京 に お い て 築 地 大 学 校 に 夜 抑 制 し て カ ロ1
ザ ス から聖書の解釈・翻訳を任され、同入社の中村正直よりキ リ ス ト 教 雑 誌 ﹃ 東 京 新 報 ﹄ の 編 集 手 五 築 に 推 加 附 さ れ る ほ ど の熱心なクリスチャンであった。しかし、宕手での自由民 じ権 運 動 の 務 引 役 を 懇 願 さ れ て 郷 田 { 時 間 関 に 一 一 反 る と 、 キ リ ス ト 教 に 閑 述 す る 放 討 を 自 ら の 手 で 燃 や し て し ま う 。 た だ 一 附 、 カ ロ
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ザスから貰った英文の聖書を手元に残した以外は。 こ の 4 h 定の行動は、一日も早い附郷で地図めを、と催促 する郷友に﹁東京でもう少し自分の頭をつくってゆきたい のだ。宗教と政治│信仰の問題も、もう一歩深く考えてみ たい﹂と半年のm
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僻して東京にとどまり、焔盛してから も 三 日 一 ニ 腕 部 原 に 閉 じ こ も り 思 索 し た 結 泉 で あ っ た が 、 キ リスト教苫物を焼き徐てた理由を合定は識にも話つてはい な い 。 キリスト教における個人の尊厳の教えや自由と平等の主 張は、明治政府の専制政治と激しく対立した自由民権述動 の理念と湿なり、キリスト教への忠誠とその災現への確信 が 多 く の 自 由 民 権 家 の 精 神 的 支 仲 間 と な っ た こ と が 指 摘 さ れ ている。それに対して、キリスト教関係の詰物を焼き捨て た合定は特異な存在に見える。彼においてキリスト教と自 由民権巡動はいかなる関係にあったのだろうか。明治九 年(一八七六)春にカロI
ザスの築地大学校が廃校とな り 、 開 立 年 に 町 東 京 新 報 ﹄ を 廃 刊 し た と き の 合 定 の 心 境 、 そ して締郷時のキリスト教との決別という合定の行動理由を 一 市 す 資 料 は 何 一 つ 見 つ か っ て い な い の が 現 状 で あ る 。 し か し、その謎を解く手がかりはある。彼が東京で刊行してい ノL た ﹃ 東 京 新 抑 制 ﹄ と 、 山 一 相 手 に 帰 郷 し て か ら 発 行 し た ﹃ 磁 附 新 封 一 段 、 そして二つの雑誌制作時期をまたぐように滋欲的に投役し て い た ﹃ 七 一 雑 抑 制 ﹄ は 舎 定 の 思 恕 の 転 換 期 に 関 わ る 雑 誌 で あり、これらの雑誌を索材として、キリスト教と自由民権 と の 問 で 帰 れ 動 く 舎 定 の 立 場 と 、 そ の 間 以 惣 形 成 の 轍 を み る ことができる。太田愛人氏は合定を﹁クリスチャンジャー ナリストの先駆け﹂と称したが、キリスト教徒であったこ とと、雑誌という明治則に誕生したジャーナリズムを通し て自己表現に挑んだことは、舎定の恩怨を追う上で欠かせ な い 要 系 で あ る 。 本 稿 で は 、 一 一 一 雑 誌 に お け る 合 定 の 論 文 を 時 系 列 に 追 い な がら、合定のキリスト教から自由民権恕怨にいたる思相山形 成 の 過 程 を 明 ら か に す る こ と で 、 合 定 の キ リ ス ト 教 商 品 数 の 謎 に 迫 っ て み た い 。 また、三雑誌では、新開条例や総務律をかわすために、 然 記 名 や ペ ン ネ ー ム の 論 文 も 多 い 。 ﹃ 東 京 新 報 ﹄ に お い て 、 無記名の文章は主祭である合定のものと推測されるが、今 回 、 ﹃ 七 一 維 抑 制 ﹄ お よ び ﹃ 東 京 新 報 ﹄ は 、 ﹁ 鈴 木 合 定 ﹂ と 名 が 明 記 さ れ て い る も の お よ び 舎 定 の ペ ン ネ ー ム と し て 附 明 ら か で あ る ﹁ 公 愛 ﹂ が 入 っ て い る も の に 限 定 し た 。 ま た 、 ﹃ 盛 岡 川 新 誌 ﹄ に お い て は 、 間 じ く 実 名 、 ﹁ 公 愛 ﹂ の 号 に よ る 論 文および、無記名論文であるが淡説会での内容と附似しており、合定とほぼ磁定できるものに限り資料として扱った。 一キリスト教との出会い・政治的関心の芽生え 合定とキリスト教との出会いは、自ら求めてのことでは な か っ た 。 鈴 木 合 定 は 安 政 一 一 一 年 ( 一 八 五 六 ) 、 同 開 問 議 士 鈴 木 合 従 の 長 男 と し て 盛 岡 に 生 ま れ た 。 部 附 校 作 人 館 で 秀 才 を う た わ れ 、 周捌からの期待も大きかったが、家計が厳しく長男である ことから父は自らと同じく県役人になることを製んでいた という。しかし、合定は向学心を抑えきれず家出向然に上 京し、元織附滞家令山本党次郎の紹介でカロ
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ザスの築地 英諸問数(後の築地大学校)の学僕としてキリスト教と英語 在 学 ぶ こ と に な る 。 ﹁築地バンド﹂と呼ばれるカロl
ザスの教え子のうち、 特に俊秀で、愛されたのは原胤昭、鈴木合定、防村直陸、 一 戸 間 欽 蛍 の m 間人だといわれ、舎定は優れた英諦力と真回目 さな鼠われて、カロl
ザ ス の 宗 教 講 演 や 昭 一 設 の 翻 訳 を 任 さ れていた。また原胤昭は、明治七年十月十八日、間村直匝 等とカロ1
ザ ス か ら 洗 礼 を 受 け た こ と を 闘 怨 し 、 ﹁ 明 治 五 、 六年頃はまだ中々物騒であった、世間こそ終ちないが命がけ であった。わたし一人でない汎礼志願者は皆な決死の党情 であった。・・・洗礼士山願者の信仰試験七人の背年男女も 今は二人を逃して五人は亡、二人の一は悶村院医﹂と説い ているが、洗礼士山願者七人のなかの今はもう亡くなった五 人のうちに舎定が含まれる可能性が向い。 築地大学校の学生らが設立した東京第一長者数会の記録 に舎定の洗礼のぺ叫ぬはないが、明治八年(一八七五)閏月 六日の記録に﹁会頭宣て日教師たらんと願ふ者あれば今阪 出づべしと。一戸悶忠際鈴木舎定高橋治 f 右 教 師 川 志 願 の 者 に 聞 記 教 を 初 め て 聞 き 、 之 を 信 ぜ し 由 来 ・ ・ ・ 短 抑 制 に 質 問 せり﹂とあり、合同疋が長老教会教師に志願したことが分か る。しかし翌年の記録に戸間・高婦の教附就任の記絞はあ る が 、 A t 口定の名前は欠落している。以上のことは、明治八 年春の段階では舎定は牧師を悶指し信仰の道を歩も・っとし たが、何らかの現由でその進路を静退したことを示す。そ の背設として、明治九年初頭にカロ1
ザスがミッション問 題 で 築 地 で の 伝 道 や 教 育 活 動 を 静 め 、 文 部 省 の お 一 一 原 い 外 国 人になったことの影響が考えられる。また、新開閉してきた 自由民権巡動や、頻発する民民一段・士族反乱などが合定 の政治的関心をおめ、欧米学問を学ぶベく同入社へ足繁く 通 わ せ た の だ ろ う 。 明治則削の青年にとって、キリスト教は新知識の代表絡で あり、原胤昭は﹁何でもこれからはヤソをやらなくては、 R M V 文明開化にはなれないと頻に新しがりやをやりたかった﹂ 九者が多かったと町一服している。しかし、真にキリスト教を 理解し、自らの
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怨基般にまで定殺させて欧米学問を学ん だ者がどれほどいただろうか。合定にとって、キリスト教 を学ぶきっかけが経済支援を見込めないゆえの神学校入学 だったとしても、キリスト教による土台ができたうえで欧 米学問を学べたことの意義は大きかった。そして、この何 者を突き詰めるほど当時の絡附政治による任制が治せない ものであり、矛盾を感じざるをえなかった。さらに、それ は、神学校や向人制といった宗教、学問の粋に問問まってい られないという衝動に変わっていく。 明治十年(一八じ七)、商問戦争が起こり旧磁側部から 七百人以上の七放が新撰旅聞として参加した際には、北ハに 朝紋の汚名を雪ごうと舎定を誘いに来た郷友に対して、い つまでも間部窓識にとらわれていてはいけないこと、これ からは日本悶の人民として由民平等の相会となるべきこ と、今日われわれ人民の最大の急務が民叫抗議院開設にある ことを熱く競って聞かせたという。このとき二十一歳の合 定は、すでに封建的な所廊窓識や、朝敵とされたことへの 総長に対する怨経の念から抜け出たところで政治的関心を 高めていた。自らが閉山かれた立場や生活の不満から担論的 根拠が希掛川なまま政府打倒たけを目指す者も多かった時期 に 、 A 設 定 は キ リ ス ト 教 の 自 由 博 愛 法 制 起 を 基 織 と し て 、 東 京 問。
で段先端の知識を眠時し、冷静に尚代の情勢を畑山挺するこ とで日本の進むべき道を模索していたのだ。 舎定の学識と文前カとともに俊れた弁活力が世間で評判 に な っ た の は 、 卜 字 問 押 吾 川 市 似 事 件 で あ る 。 明 治 じ 年 、 原 胤 m m はキリスト教関述古物を出版するため銀﹃雌に﹁十字屋﹂を 設立したが、このとき掲げた﹁郎総数治部十字屋﹂という 大看板に対して、町野祭から撤去命令が附されると、合定が 脚 内 戸 祭 と 激 論 を 交 わ し 、 政 と し て 撤 去 命 令 を は ね 除 け た 。 そ の他にも合定が東京第一長老教会の版協げに際し雌弁をふ ︽ 陪 ︾ るった記録もある。制附盛後の合定の雄弁ぶりはさらに高ま り、各地で演説をする皮に満員御礼の服わいで、感銘を受 けた官怒が民椛家に転身したり、ニセ A m 一 口 定 が 出 没 し ご 一 セ モノ注意﹂の広告が出されたりなど、東京で先行された雄 弁番付に合定の名が絞るほど全閣に知られた雄弁家であっ ︽ n v た 。 このような合定の見識の深さや文章力、表現カは東京遊 学中からカロi
ザス、中村主践に訴制され、﹃東京新報﹄ の編集者兼主筆に抜初出されたのもそうした型自からであろ う。しかし、合定はこの任について、以父宛の手紙に﹁災 メタ噺ニ非ス﹂としたためている。 ﹁政汲ニ私事東京新報縮刷判長ト抑制成リ候ニ付少シク ︹ マ マ V 五 抑 比 一 宮 口 相 見 ニ 倹 併 シ お ハ ぷ ヨ リ 災 メ タ 噺 ニ 非 ス ・ . .向附県独学ノ事ニ既ニ決心シタレド実ハ少シク十年ノ h 門 付 ド l i l i -1 1 1 1 1 1 1 1 l l i l l i l i -l i J M 1 1 1 l I l l i -1 1 1 1 1 1 1 J i l
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こう 況 奴 ヲ 絞 ハ ン ト 思 フ ナ レ ド 余 モ ナ キ ユ ヘ 先 ツ 当 分 間 棚 納 者 ト ナ リ シ 事 ニ テ ﹂ (明治十年一月十三日御叔父様鈴木舎定) この手紙からは、闘のあり様を左右する政治の動向を見 聞きするなかで政治的関心が高まり、世の流れを見極め たうえで自らの人生を定めたいとの強い思いが伝わって く る 。 二﹁東京新報﹄での主張 町東京新報﹄は、明治九年十二月に創刊された東京初の キリスト教雑誌であり、廃刊時期は翌年の後半とされる。 出資者である原胤附の悶想では、﹁器官教新聞の名を以て は雑誌発行を金つること能わず 0 ・・・中村倣字氏などは 泌りに騒ぎ立つるも援なきことなれば、幸ひ余の前に町東 京 新 報 ﹄ て ふ 維 誌 の 廃 刊 せ る も の あ り 、 廿 ︽ の 名 義 を 継 続 し て 暴 慢 教 を 主 張 す れ ば 可 な ら ず や と 中 窓 口 せ ら れ 遂 に 之 を 再 興することとなりたり。釧到超国刻州封鎖対引劃・・. 四 玉 十 口 弓 ま で 十 字 組 則 ち 余 の 十 字 屋 川 沿 府 か ら 発 行 し た り ﹂ と あ る 。 ﹃ 中 東 京 新 報 ﹄ に お い て 、 論 者 名 が な い も の は 、 王 筆 で あ る 合定のものと恕われるが、初めて﹁鈴木会定﹂と明記した 論 文 が 、 吋 東 京 新 報 ﹄ 七 口 う に み ら れ る 。 ﹁O
知 識 ノ 略 論 鈴 木 合 定 造物者ノ創造ニ出テタル地球上ノ万物ハ即チ人間ヲシ テ之ヲ研究セシムルノ魂地ナレパ之ニ就テ我々人間ハ 心 力 ヲ 以 テ 自 削 除 ノ 甥 ヲ 発 明 ス ベ キ 者 ナ リ ト 其 レ 果 シ テ 然ラバ彼ノ心ヲ以テ事物ノ喫ヲ発明スルヲ符ベシト雌 モ之ヲ試験上ニ見出スベシトハ正ニ知識ハ経験上ニ姿 求セザルベカラズトノ約ナルベシ・・・欧州人民ノ知 識 ニ' M
ミ捌ノ富強ヲ致セシ所以ノモノ援スルニ事物ノ 経 験 強 ニ 行 ハ ル ﹀ ヲ 以 テ ナ リ ﹂ ( ﹃ 東 京 新 抑 制 ﹄ 七 号 明 治 十 年 一 月 二 七 日 ) この論文では、キリスト教の世界観を述べるとともに、 ﹁知識ハ経験ナリト云フガ如シ﹂として経験的知識の重裂 性 を 説 き 、 な ぜ 欧 州 人 民 が 知 識 に 滋 み 、 欧 州 殴 が 一 品 強 な の かという聞いの答えとして、経験的知識を滋訓制する取り組 み が 盛 ん に 行 わ れ て い る た め だ と 論 じ る 。 問 問 点 の 制 度 や 技 術を表関上だけ取り入れようとする姿勢への批判も含まれ る だ ろ う 。 因 み に 、 第 七 号 お よ び 第 九 号 に は 本 多 山 一 の 投 稿 が あ り 、 題名を﹁東邦ノ諺﹂として、アメリカで出版された吋バイ ブルランド b か ら 引 用 し て い る 。 本 多 は 、 川 町 刑 公 9 ると明治 [[![七 年 よ り 来 奥 義 助 一 銭 長 と な り 、 明 北 年 に 弘 前 公 会 を 設 立 し 、 布 教 活 動 を 本 絡 化 し て い た 。 本 多 が 投 稿 し た 明 治 十 年 ﹃ 初 め 頃に自由民権在意識していたかは定かでないが、後に東北 の 向 山 民 権 巡 動 を 慾 引 す る こ 人 が ﹃ 東 京 新 抑 制 ﹄ で 繋 が っ て い た こ と は 見 逃 せ な い 事 申 ↑ 円 で あ る 。 A 冊 目 定 の 政 治 的 態 度 は 、 次 号 で よ り は っ き り と 表 れ て く る 。 ﹁論者ノ心配﹂として、立恕政体の詔により段階的な立慾 政体確立が宣言されたものの、無知無学な人民は政策内容 ま で は 則 一 解 で き な い の だ か ら 、 政 府 に よ る 教 化 を 進 め る 問 、 人民を政府が支配するのが望ましいとの怒見かあることに 不 満 を 示 す 。 合 、 足 は 、 政 府 、 か 人 民 に 参 政 権 を 与 え ず 圧 制 を 敷けば、伊勢恭動や萩の乱のように武力をもって動かそう と す る 者 や 、 白 山 闘 を 論 じ る 者 で も 過 激 に 走 る 者 、 あ る い は 無気無力になる者が出てくるとし、次のように論じる。 ﹁
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論 者 ノ 心 配 鈴 木 舎 定 人 民 有 ツ テ 政 府 ア リ 人 民 有 テ 間 ヲ 為 ス 即 応 レ 則 チ 天 下 ハ 人民ノ天下ニシテ一悶ヲ守ルハ人民ノ職分ナリ・ . . 政 府 ト 共 ニ 尽 力 シ テ 悶 ノ 独 京 ヲ 保 チ 一 郎 人 岡 山 ノ 義 務 ヲ 尽クサントセバ旭川剛バ刈関川新釧引刷訓判明州到判 別引川ぺ刻到刀刻刻州引料以川判川凶胤刻刷矧刻州制川 明刈民可制剖明則ぺ刈到刻刻以附刈刈到剣淵例刻刻州 山内川附削コ割引判例刻溺桝列馴引州バ剣刷N
州 司 同 州 f!!1 カシテ其外川明附グベシ肌ノ如クニシテ初メテ悶ノ測 出 列 剣 烈 剃 到 織 ぺ 刈 ﹂ (﹃東京新報﹄八号明治十年一月) ﹁閏ガ人民ノ有物ナルコト﹂を人民が知り、政治に参与 することで践の独立が維持できるとして、国会開設を訴え る の で あ る 。 第 九 号 、 十 号 、 十 二 号 に 述 紋 さ れ た ﹁ 教 法 論 ﹂ で は 、 ﹃ 七 一 雑報﹄第凶八号(明治九年十二月一日)の投書の内容と援 な る 論 旨 が み ら れ る 。 ま ず 、 第 九 回 弓 の 論 文 の ・ 巾 で 、 日 本 の 討会議況を﹁維新以来千歳ノ附風ヲ一洗﹂して開明を進め て き た の だ が 、 ﹁ 人 民 ノ 口 山 行 ノ 一 点 二 至 テ ハ 一 モ 米 タ 進 歩 ノ児ルベキ者ナシ﹂と厳しく批判する。そして、例行の民 胤 を 正 す の は 法 律 や 学 術 で は な く 教 法 だ と 論 じ 、 そ の 迎 山 聞 を 次 号 に お い て 説 明 し て い る 。 ﹁O
教 法 論 二 鈴 木 合 定 教 法 、 学 術 、 法 律 ノ 一 一 一 課 ハ 其 問 的 ト ス ル 所 澗 ジ ク 社 会 ヲ 諸 口 良 ニ 導 キ 公 同 ノ 挙 制 ヲ 謀 リ 人 々 ノ 心 体 ニ 愈 快 ヲ 得 セシメルニ在リ・・・法律ハ外部ノ恕答ヲ防グ者ニシ テ教法ハ深ク内部ニ進入シ骨髄ニ透入シタル怒病ヲ除 去セシムル者ナリ而テ学術ハ百般ノ物理ヲ講究スルヲ 以テ替懇ノ理モ明知スルニ足ル・・・討会ノ進歩ヲ妨 窓スル思物ヲ除去センニハ叫ヨ訓刈樹刈到明均利学術ハ真理ヲ探索スルノ権利ヲ守リ法律ハ外聞ヲ保談スル ノ義務ヲ尽シ教法ハ内部ノ裁判ヲ司トルヲ以テ椴務ト スベシ・・・樹利パ利判制別出刃
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剖川矧綱引側到 刻刷倒川明川川己ナラズ・・・今日我社会上ノ恕風俗ヲ 救済スルノ道ハ到底教法ニ依ザル可ラザル明カナルベ シ今ヤ法律、学術ノ二謀ハ権力ヲ平均スト雌モ相会ノ 醜風ハ教法ノ権力其平均ヲ失フガ政ナリ﹂ ( ﹃ 東 京 新 報 b 十号明治十年二月十三日) 舎 定 は 、 教 法 と 学 術 と 法 律 、 か 各 領 域 で の 役 割 を 果 た し 、 一 一 一 つ の 権 利 の バ ラ ン ス が と れ た と き に 、 れ ム E の目的である 幸福が実現するとした。﹁内部ノ裁判ヲ前トル﹂教法が日 本に不足していると指摘し、その必要性を説くところに舎 定の宗教者としての基線がみえる。 ま た ﹁ 教 法 論 一 一 一 ﹂ で は 、 ﹁ 教 法 ヲ 振 起 セ シ ム 可 キ 方 法 ﹂ について論じ、宗教者たちが﹁万代不易ノ脱税﹂だと天動 説などの教法を抑し付けようとすれば、学士書生は﹁教法 ヲ以テ文明位界ノ不用物﹂と怪しむだろうと、以下のよう に 宗 教 者 た ち に 呼 び か け る 。 民 間 ︾ ﹁O
教 法 論 一 一 一 町ノ教法者流ニ告ゲントス社会ノ陛 f h Hヲ救済スルハ教 法ニ依ラザレバ能ハズト蹴モ人智ノ如何ヲ拠出品シテ其 教ヲ布カザレバ当ニ行レサル巳ナラズ人智ヲ迫縮シ文 明 ニ 妨 害 ア ル 登 浅 少 ナ ラ ン ヤ ト ﹂ (﹃東京新報﹄十二号明治十年二月二十七日) 舎定は、学術や法律の進歩を無視する宗教者がかえって 教法の振起およびそれによって促される人々の道徳心の仰 張 を 妨 ん 資 し て い る と 悠 鍛 を 鳴 ら し て い る 。 日本人の内国性への厳しい指舗は、第十一号の﹁気風諭﹂ に も 表 れ る 。 ﹁O
気 風 諭 鈴 木 舎 定 活 岡 山 気 風 ハ w ' 吊 ニ 智 識 ヲ 拡 様 シ 文 明 ヲ 助 ケ 悶 ノ 独 立 ヲ 削 抑 制 上ニ安キニ立ツベシト雌モ車屈ノ気風ハ常ニ慨惰ニシ テ知識ノ拡相官ヲ努メズ文明ノ道ヲ談ラズ自ラ貧弱ニ安 ンズルガ故ニ悶ノ独立ヲシテ厳石ノ上ニ立チ能ハザル ニ受ルベシ夫レ社会ノ公益ヲ利シ公悶ノ幸福ヲ得ント 欲セバ必ズ非常ノ努力ヲ尽スニアラザレパ能ハズ・ . . 自ラ政治ニ参与シテ政治ト共ニカヲ尽シ打ム耳ヲ利シ文 明ヲ助クルノ気,防ラ活版ニシテ若シ政府ノ施行スル所 人民ノ気風ヲ圧スル如キ妨害アルトキハ泡モ周スルコ ト ナ ク 之 ヲ 除 キ ・ ・ ・ 卑 閉 山 人 口 氏 ノ 集 合 セ シ 悶 ハ 矢 張 卑 悶ニシテ他ノ文明悶ト同等ノ地位ヲ占メ権利ノ平均ヲ 保チ能ハザルベシ般ニ此ノ恋胤俗ヲ除カザル以上ハ縦 令ヒ表向独立ノ約束アルモ内政ハ彼レニ威張ラレ彼レ ニ経蔑サレ彼レニ指抑サレ宅モ自己ノ蕊ノ知クナラ 匹lズ ・ ・ ・ 方 今 我 国 ノ 如 キ 実 ニ 此 有 様 ナ リ ﹂ ( ﹃ 東 京 新 報 ﹄ 十 一 号 明 治 十 年 一 一 月 二 十 日 ︺ 上記で舎定は、日本人は卑胞の気風だとし、その特徴を 似怖で知識や文明の拡張に努力せず、自ら貧弱を受け入れ てしまうことだと指摘する。殴の独立を紺持し、材会の公 益 と 公 悶 の 幸 一 加 を 得 る た め に は 各 人 が 努 力 を 尽 く し 、 卑 加 の 気 践 を 活 般 の 気 風 へ 転 換 さ せ る 必 要 が あ る と 説 く 。 ま た 、 人民が活般の気風をもって政治に参与するのを政府が抑圧 す る な ら ば 、 閉 山 す る こ と な く 政 府 の 庄 制 を 取 り 除 く べ き だ と 主 張 し て い る 郎 分 に 、 低 抗 権 の 発 慾 が み 唱 え る 。 吋 東 京 新 制 叩 ﹄ 十 九 号 で は 、 ﹁ 物 生 ヲ 論 ス { 天 道 湖 原 ヨ リ 抄 出 ご と 附 随 し て 、 ﹃ 天 道 州 側 原 ﹄ を 紹 介 し て い る 。 こ の 本 は 、 了践良(ウィリアム・マーチン)が中悶での布教のため著 したもので、カロ!ザスがその訳本を、中村正肢が訓点木 を刊行しており、明治則に読まれたキリスト教の最たる入 ︽ ω ︾ 門白であった。その者は、西洋の万物四行税なキリスト教 的発想で説明し、それが東洋の五行説と設がなく、天地万 物が天命で作られたものであり、造物主が無より有に化し て 秘 々 の 物 質 を 倣 え て 万 物 を 成 し た と 説 く 。 合 定 は 吋 成 川 岡 新 首 一 叫 ︹ 初 刊 ︺ 第 二 号 ﹄ の 中 で ﹁ 五 行 説 ﹂ と 題 す る 伺 織 の 抄 山 山 文 を 役 き 、 会 て は ﹁ 上 帝 ノ 巡 ル 所 ナ リ ﹂ と 、 神 に よ る 創 造および万物の存在の法味、およびその平等性を説明して 問 問 い る 。 次 に 、 ﹃ 東 京 新 報 ﹄ 一 一 五 号 を み る と 、 合 定 名 の 寄 稿 が 一 ニ つある。まず、スペンサ
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の ﹃ ス タ デ1
・ オ ブ ・ ソ シ オ ロ ジI
﹄第五巻の抄訳﹁材会学ノ困難﹂である。スベンサI
の著作が明治期の自由民権運動に多大な彩燃を与えたこと は 知 ら れ て い る が 、 合 定 も ま た 熟 読 し て い た こ と が 附 慣 れ た 抄 訳 か ら 同 問 え る 。 だ が 、 舎 定 が こ の 部 分 を 選 び 取 っ て 抄 訳 した理由は何であろうか。題名にある﹁社会学ノ悶銚﹂と は、社会が﹁飢ル混雑﹂に変化しているにも関わらず﹁単 純 独 一 ナ ル 現 形 ノ 探 索 ニ 醇 粋 ナ ル 明 日 似 閉 山 総 ﹂ に と ら わ れ て いることの弊容を指している。合定は、知識や文明の拡張 に 努 力 せ ず 、 附 明 白 に 則 聞 ま り 現 状 に H 口 ん じ る 人 々 の 意 識 に 対 し て の 批 判 を 込 め た の だ ろ う 。 二 つ 闘 が 司 政 治 評 払 切 で あ る 。 ﹁O
政 治 静 論 鈴 木 合 定 刻刻別刷刊利以パ同州パベ判判例域以同パ制掛川関川 矧倒刻刻艶烈川斗凶判明則剖刈刑判而ルニ共ノ形跡ニ 同 州 出 ス ル 所 ノ モ ノ ハ 図 ノ 損 亡 ヲ 招 キ 人 民 ノ 不 幸 ヲ 来 タ シ到底圧制政治ノ恋名ヲ免レサルニ至ラントスm
テ 何 等ノ原因アリテ只目的ト共結巣ト相反スルカハ銭的ノ 識 別 ス ル 能 ハ ザ ル 所 ナ リ ト 雌 モ 圧 制 政 治 ハ 必 ズ シ モ 開 制 官吏ノ為ス所ニアラサル﹂( ﹃ 東 京 新 総 ﹄ 二 五 号 明 治 十 年 六 月 五 日 ︺ 為 政 者 の 問 的 が 阪 の ん 品 強 と 人 民 の 幸 福 と い う 正 し い も の であったとしても、政策の払泉が人民の信頼を失い、人民 の不幸を的き、磁の存亡を招く庄制となる例を挙げ、政治 は目的とともに方法が大事であり、その方法は人民自らが 政 治 に 参 与 す る こ と だ と 論 じ て い る 。 三 つ 悶 は 、 ﹁ ﹃ プ レ セ ビ テ リ ア ン ﹄ 僚 経 目 社 説 ﹂ で あ る が 、 ﹃ 東 京 新 抑 制 ﹄ 二 十 凶 号 か ら の 述 紋 で あ り 、 司 東 京 新 制 柑 h 二 十 六 日 勺 に 旧 同 載 さ れ て い る ﹁ プ レ セ ビ テ リ ア ン 信 教 ﹂ お よ び ﹁ コ ン グ レ ゲ
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ショナル治体信教﹂、次号の﹁米閏務教会信教 治答鋭統﹂とセットの論文である。太岡氏は﹁長老教会の 予定説と抑制合教会の各倒独立主義の巡いを明確にする短 文 ﹂ と 評 す る 。 こ の 述 載 が 古 か れ た 時 期 、 A 設 定 は 教 会 代 表 として岡商戦争戦没者祈祷会へ出席し、諸教会の綴隆会の 会 主 を 務 め る な ど 、 連 載 の 問 地 後 に M M かれているように﹁奉 信スル信教ニ奥ナル所ナシ﹂という考えのもと、諸教会の つ な が り の た め に 活 動 し て い た 。 こ の 他 に ﹁ 自 主 自 由 論 ﹂ 、 ﹁ 日 本 政 府 ハ 何 故 ニ 民 撰 議 院 ヲ 開カザルカ﹂といった痛烈な政治批判を載せ、編集監句者 である中村正肢から度々戒められたことが知れているが、 残 念 な が ら 、 そ の こ 堀 川 か 掲 載 さ れ た 与 は 見 つ か っ て い な い 。 ﹃ 東 京 新 制 叩 ﹄ に お い て 、 合 定 は キ リ ス ト 教 布 教 書 や 洋 品 川 u の抄訳、神学論、教会論、政治論と闘広くその筆力を披露 する。号が進むにつれ、政治論の占める制合が問えていく が、キリスト教と自由民権論が矛盾なく合定の忠怨の両輸 を 成 し て い る の が 分 か る 。 一 ニ ﹁ 七 一 雑 報 ﹂ へ の 投 晴 樹 ﹃ 七 一 雑 抑 制 ﹄ は 、 明 治 八 年 十 二 月 に 神 戸 で 刊 行 さ れ た 日 本初のキリスト教定期刊行物であり、発行所は信報社から 途中で福音討に移るものの八年間で八巻二五号まで統い ︽ お ︼ た 。 舶 村 正 久 は ﹁ 日 本 の 法 判 日 教 文 学 ﹂ の 中 で 、 ﹃ じ 一 雑 報 ﹄ と﹃東京新報恥との関述性について、﹁基務教の定時文学 として第二払顕はれたのは神戸の七一雑報なり。此の翻訳 蛍 話 的 の 巡 問 雑 誌 そ の 冊 以 撲 に し て 般 を 益 せ し こ と 、 少 々 に あ ら ず ・ ・ ・ 関 東 に 於 て は 、 悶 出 胤 昭 氏 が 東 京 新 線 な る 装 組 日 数 、 一 正 義 の 維 誌 を 発 行 し て 遥 か に 関 西 の 七 一 雑 報 と 制 提 携 し て 巡 動 せ ん と 試 み た り 。 網 開 齢 者 は お 手 県 の 有 士 山 者 に 其 人 あ 引 剖 州 引 州 制 引 例 剣 ボ 創 創 阿 川 引 可 制 剣 附 ﹁ 削 剥 附 似 掛 川 凹 刻 刻 剖 川 淵 組 以 出 鰍 制 対 引U
が、これは間もなく涜滅するに ︻ 叫 叫 ︾ 至れり﹂と記しており、岡純誌を放行して確認する必要が あ る と 思 わ れ る 。 柏 村 が ﹃ 東 京 新 抑 制 ﹄ に お け る 合 ﹃ 定 の 論 文 を﹁議論的、政治的のキリスト教を論述﹂したと評してい 1'-4 五る こ と が 興 味 深 い 。 吋 七 一 雑 報 ﹄ へ の 舎 定 署 名 の 投 品 川 口 は 明 治 九 年 十 一 月 か ら 一 年 間 の う ち に 六 つ あ る 。 初 め て の 投 誌 は 吋 東 京 新 抑 制 ﹄ 発 刊 の 一 カ 丹 前 に 掲 放 さ れ た ﹁ 恭 動 之 評 ﹂ で 、 神 間 肌 述 の 乱 の 抑 制 送 を 受 け 士 放 に 対 し ﹁ 徒 ラ ニ 浮 一 言 妄 説 ノ 為 ニ 扇 動 セ ラ ル ルコト勿レ﹂と自制を促すものである。これは、明治十年 一 月 ﹃ 東 京 新 聞 柑 ﹄ 八 号 の ﹁ 論 者 ノ 心 配 ﹂ に つ な が る 内 容 で あ り 、 舎 定 が ﹃ 七 一 雑 抑 制 ﹄ へ の 投 告 を 推 枇 附 し た も の を 司 東 京 新 報 ﹄ に 掲 載 し て い た こ と が 分 か る 。 一 一 回 目 の 投 書 で は 、 天 主 協 会 の 信 者 集 会 に て 協 議 し 、 天 キ認を日本の悶教に定めることを正院に建白したことに対 し て 、 以 下 の よ う に 慾 他 出 し て い る 。 ﹁奇抜ヲ以テ之ヲ児レバ米タ政権ノ何モノタル信仰ノ 何者タル教法ノ何者タルヲ知ラサル者ナリ夫レ人民ア ツテ而後図アリ隈アリ而後政府アリ謎シ同制パ制列制 判附刻刻脳伺烈川川刈関川端縦鋭剣到倒刻刻川パ到伺 判
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ぺ劇刺刈綱川咽列川明ペ↓刈コ綱川判判附矧判別 判 明 刻 判 川 町 然 ラ パ 政 権 ヲ 以 テ 教 法 ヲ 一 途 ニ 帰 セ ン ト ス ルハ機外ノ議権ヲ以テ人民ヲ庄制スルト制ワサルヲ得 サルナリ何ントナレバ教法ハ神事ニシテ人事に非ザレ パナリ﹂在東京鈴木合定 ( 吋 七 一 一 線 級 ﹄ 第 羽 八 号 明 治 九 年 十 二 月 一 日 の 投 治 ) 叫 己 、 H Y 合定は、信者が利己心から建白したものではないと理解 しつつ、倒が岡教を定めることで惨劇をもたらした欧州の 腿 史 を 例 え に 挙 げ 、 人 民 の 時 十 稲 安 全 な 実 現 す る た め の 政 府 が人民に特定の教法を強制することは圧政となり、本来の 悶的から外れることであるとして、﹁各呉儀スル所ヲ信ス ルハ猶ホ茶ヲ好ム者消ヲ好ム者・・・各其略ム所ニ従フガ 如シ政府設ニ只ノ暗ム所ヲ換エシメ域ハ一品ニ附セシムル ノ 権 ア ラ ン ヤ ﹂ と 断 言 す る 。 この論文において、教法は﹁神事﹂であり、﹁人事﹂で ある政治とは区別する必要があると説いているが、前述し た ﹃ 東 京 新 抑 制 ﹄ の ﹁ 教 法 論 ﹂ で は 、 学 術 ・ 法 律 と バ ラ ン ス をとる内問的な規範として教法を論じていた。同時期に舎 かれた河者の論文を読み比べるとき、舎定にとって内間性 は宗教教育によって形成されうるものだと考えていたこと が 分 か る 。 そ こ か ら 、 開 具 体 的 な 政 治 施 策 に よ る 拙 会 変 革 を めざす自由民権巡動は﹁人事﹂であり、それは内面性であ る﹁神事﹂とは区別して考え、扱う必要があるとの認識を 持ち紛めていたように思う。つまり、それぞれの領域の力 を発姉するために、それぞれの領域の独立を維持しなけれ ば な ら な い と い う 葛 膝 で あ る 。 そして、この内間性は人民の自由の権利として認められ なければならないものであった。人民の権利について合定は 、 明 治 十 四 年 の 著 作 ﹃ 国 会 手 引 草 ﹄ に お い て も 、 ﹁ 五 口 望 む と こ ろ 、 五 口 好 む と こ ろ 、 話 欲 す る と こ ろ 、 五 口 願 ふ と こ ろ のものは、何ごとに限らず其盟む通り好む通り自由白夜、 た だ 吾 心 の 他 に 取 行 ひ て 柳 も 差 支 な き 力 あ る こ と ﹂ で あ り 、 天がこの権利を私たちに賦与した主意は我々人閥に﹁至大 の幸福を得さしむる為に外ならざる﹂わけだから、私たち は 、 必 す そ の 白 取 の 権 利 を 伸 張 し て 幸 福 を 得 ら れ る よ う に 勉 めなければならないとして、人々の知識の開化による権利 意 識 の 自 党 め を 期 待 し て い る 。 舎 定 の 投 稿 は 、 二 回 目 の 投 書 以 降 、 八 カ 月 の 間 同 ﹃ 七 一 雑 報﹄に見られないが、雑話の慨にその名前を見つけること が で き る 。 ま ず 、 明 治 十 年 七 月 一 一 七 日 ﹁ 東 京 に て 大 祈 械 の ありし話﹂において、間商戦争の鎮定のため東京に在るキ リスト教務教会の代表者が順番に祈祷を行った際、舎定が 銀座教会の代表として祈祷した記事が絞っている。次に、 明 治 十 年 八 月 一 一 一 日 ﹁ 東 京 に あ る 耶 蘇 教 徒 の 籾 隆 会 の こ と ﹂ に お い て 、 ﹁ 三 月 間 服 部 章 一 ニ 氏 宅 に あ つ ま る 会 主 は 鈴 木 合 定 氏 会 衆 四 十 余 人 ﹂ と あ る 。 こ の 時 期 は 、 ﹃ ー 東 京 新 報 ﹄ の 主 筆 ・ 刊行活動とともにキリスト教徒としての活動も忙しくして い た こ と が 分 か る 。 舎 定 の 政 治 論 へ の 変 化 は 、 ﹃ 七 一 側 報 ﹄ 一 一 一 羽 目 の 投 書 に さ ら に は っ き り と 見 え て く る 。 ﹁
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民権論者ニ巾盆口ス陸中岩手県下鈴木品川定 人民ヲシテ悶家ヲ憂フルノ精神ヲ起生セシメルノ道ヲ 求メサル可ラサルナリ之ヲ求ムルノ道ハ別チ苅R
パ 刻 判 パ 刻 判 斗 刈 到 斗 刈 パ 苅 刊 訂 列 日 判 明 以 附 凶 引 州 引 料 以 州 判 制 刷 川 副 剥 到 割 引 料 以 州 司 バ 則 判 民 織 別 封 硯M
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川 国 引 判 明 観 附 パ 樹 利 引 却 制 剖 刈 以 川 パ 州 側 判 以 ぺ 刻 到 烈 ・ ・ ・ 隠 樹 縦 矧 剖 創 刈 列 矧 制 対 コ 州 謝 料 刻 刻 周 到 珂 創 引 例 制 判 明 凶 創 樹 到 封 闘 訓 剖 剣 例 制 捌 刻 刻 刈 羽 調 別 総 判 判 城 パ 税 制 別 総 以 城 川 料 総 別 矧 制 対 矧 縦 到 洲 釧 剖 刈 刈 愛 降 、 心 ヲ 段 飾 舛 ス ル 所 ア レ ハ 如 何 ナ レ ハ 今 日 無 気 力 ノ人民モ大ニ愛悶心ニ儲ム人民トナリ悶家ノ困雛ヲ附 岸 被 ス ル 事 ナ ク 政 ﹃ 肘 ト 共 二 百 般 ノ カ ヲ 尽 シ 所 抑 制 君 民 間 治ノ良策ヲ実際ニ目懲スルヲ符ベキナリ的呼間関援乱 ノ鋲定二期シ而シテ国会ヲ設立スルノ日ハ蓋シ迷キニ ア ラ ザ ル ナ リ ﹂ ( ﹃ 七 一 雑 抑 制 ﹄ 第 三 三 号 明 治 J i年八月十七日の投書) この投設は、四階戦争のさなかである。文中の﹁国家ノ 限難﹂には、明治政府に対して不満を持つ士族反乱や民民 一 回 目 が 含 ま れ 、 そ う し た 内 乱 は 日 本 の 独 立 を 危 う く す る も のでもあった。さらに、悶の困難を知っても対岸の火事の ように関心を持たない人々が多いことを嘆き、その危険性 ︽ お v を 指 摘 す る 。 そ し て 、 人 民 が 政 治 的 関 心 を 持 つ た め に は ﹁ 天 V11 ヒ下ハ人民ノ共有物﹂であることを自党し、﹁人民ガ参政権 ヲ占有セシム﹂ことが電婆たとしたうえで民総家に対して は 、 地 方 か ら の 具 体 的 実 践 を 要 求 し て い る 。 Af 口 定 自 身 が 仰 盛後、在籍展覧場に過ぎなかった求我社を民権結社に生ま れ 変 わ ら せ 、 村 山 内 に 私 学 学 校 ﹁ 校 余 学 舎 ﹂ を 設 践 し 、 県 内 外 で 活 発 に 演 説 会 を 開 く と と も に 、 山 相 手 初 の L M 此 則 刊 行 物 で あ る ぷ 拙 阿 新 一 誌 ﹄ を 刊 行 す る な ど 、 人 々 に 民 権 巡 動 の 必 要 仰と政治参加を訴えている。上記の論文が恐かれた時期は ま だ 策 京 に い た 合 定 だ が 、 そ れ 以 降 の 投 役 名 は ﹁ 陸 中 内 拍 手 県 下 鈴 木 舎 定 ﹂ と な っ て お り 、 こ の 時 期 か ら 岩 手 に 一 一 民 つ て の 汚 動 を 惣 定 し て い た こ と が 伺 え る 。 凶問問と五間目の投書は続きものであり、﹁質疑﹂と題 し て ﹁ 政 府 、 か 耶 総 教 を 奉 倍 す る 自 由 を 前 一 吋 し な い ﹂ の は な ぜ な の か と 疑 問 を 塁 す 。 ﹁
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質 問 蹴 向 十 拍 手 県 鈴 木 会 定 政府ハ深ク気迎変巡ニ設怒沼限シ政教一致ノ制度ハ文 明ノ政治ニアラズ脱出パ倒川刻門川週刊剰到引刻刻別 間引制潟村パ刻瑚ヲ了解セラレタルヲ以テ縦令外股ノ 教 法 ト 雌 モ 社 会 ノ 幸 抑 制 ヲ 中 山 シ 民 権 ノ 仲 張 ヲ 妨 グ ル ガ 如 キノ寄アラザル巳上ハ之レヲ祭制スルコトナク唯タ其 自 由 信 仰 ヲ 保 議 ス ベ キ ノ ミ ﹂ ( 吋 七 一 雑 報 ﹄ 第 一 ニ 九 号 明 治 十 年 九 月 二 八 日 の 投 治 ) 四 八 政 府 が ﹁ 信 仰 は 民 の 向 山 に 任 す ベ し ﹂ と の 御 復 文 に 反 し 、 抽 出 川 と 降 じ 事 を し て い る と 断 じ る と と も に 、 こ こ で も 教 法 と 政 治 と の 逃 い を 明 確 に し て い る 。 次 回 守 の 続 編 で は ﹁ 問 洋 ノ 説 ヲ 取 テ 人 民 ノ 自 助 ニ 任 ス ル カ 如キコトアラシメパ如何ゾ漸々我ガ神ヲ梁テ外教ヲ僑ジ其 極 遂 ニ 倒 休 ヲ 山 首 ス ル ニ 奈 ラ ン 是 レ 我 ガ 政 府 ハ 外 教 挙 倍 ノ 自 由 ヲ 公 前 セ ザ ル 所 以 ﹂ だ と 主 張 す る 者 に 対 し て 、 合 定 は ﹁ 神 ハ万物ノ主宰ニシテ独一ナル所以ヲ知ラザルノ論ナリ﹂と 厳しく批判する。このとき、合定の中でキリスト教の真理 へ の 確 信 は 照 ら い で い な い 。 ﹁O
質 疑 其 二 府 手 県 鈴 木 会 定 耶蘇教ニ入ルヤ必ズ愛ノ一字ヲ以テ此世ヲ波ラザルベ カラズコレ耶総数ノ大組改タレバナリ父母ヲ愛スレパ 孝道之ニ凶テ生ジ活ヲ愛スレバ忠滋之レニ脊テ起リ人 ヲ 愛 ス レ バ 信 義 之 レ ニ 悶 テ 蹴 ハ ル ・-m
鮒 刻 判 刈 川 川 明以刈測到到矧刈明以ぺ刻到烈必ポ川制剛矧刀組側到 別 利 剣 闘 訓 刑 判 例 劉 引 川 明 凶 例 刻 判 コ 刻 州 側 刊 明 刈 刈 引 削 開 制 刈 州 調 現 出 同 恒 例 以 パ U 日 引 判 到 刻 刻 旧 例 以 闘 楓 パ 掛 悩 出 川 船 出 利 川 湖 利 引 刻 州 川 ﹂ ( ﹃ 七 一 雑 報 ﹄ 第 四O
号 明 治 十 ノ 干 す 月 五 日 の 投 古 ) キ リ ス ト 教 の 説 く ﹁ 愛 ﹂ の 教 法 が 孝 道 、 山 中 道 、 信 義 と い っ た道徳の法本となり、また、キリスト教が人民の独立、そして閣の独立をも導くものだとして、信教の自由の正当性 を論じている。そして、この論文において、キリスト教の 教法が民権の基礎を磁立するとまで言い切っているのであ る。この論文が古かれた一、二カ丹後に、合定は楽教とも 見える行動をとるのだが、この時点でそのような傾向はみ ら れ な い 。 ︽ ω 幼 V 吋 七 一 維 抑 制 ﹄ へ の 最 後 の 投 書 は 細 川 題 で あ る 。 ﹁
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山 ? 相 手 県 鈴 木 合 定 応 稲 国 家 ヲ シ テ 安 カ ラ シ ム ル ノ 術 ナ キ 乎 日 夕 何 ゾ 細 川 シ ト セ ン劉割引田引闘富山劇刻刻創側諸国封鎖似N
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柄 相 パ 斜 割 引 引 必 引 制 笥 制 バ 刻 斜 桐 淵 別 刷 パ 馴 引 制 銅 剣 綱 引 副 倒 引 例 刻 欄 到 制 矧 利 川 パ 綱 引 斗M
判刻刻刻刻パ泌 ハ 即 チ 股 ク 間 会 ヲ 脚 内 シ テ 愛 ニ 公 論 ヲ 取 ル ニ ア リ 問 地 レ 正 己 創 一 附 引 制 刻 刻 岡 引 制N
刻 刻 刻 凶 明 斜 制 パ 制 対 引 刑 制 胡 矧 凶 淵 到 捌 剛 判 例 州 制 刻 似 到 附 創 刊 引 判 別MM
制 刈 出 削 烈 刑 矧 刻 刻 附 翻 刻 パ 劇 矧 判 刻 刈 ぺ 対 新 併 以 判 別 利 ﹂ ( ﹃ 七 一 雑 抑 制 ﹄ 第 四 七 号 明 治 十 年 十 一 月 一 一 一 一 一 日 の 投 苛 ) ﹃ 七 一 雑 抑 制 ﹄ へ の 舎 定 の 投 品 川 口 に み ら れ る の は 、 悶 内 で 鎖 発する騒乱への危恨、政府の介入による信仰の自由への不 安、民権論の進むべき在り方への模楽である。そして、そ れらを解決する方法老会定は聖書の言梁を引用しながら ﹁ 先 ズ 議 院 設 立 ノ 成 学 ナ カ ル ベ カ ラ ザ ル ナ リ ﹂ と し て 、 日 取 終日的である﹁人民ノ事補﹂も、限会開設な実現しない限 り不可能なものだと考えた。人は、信仰の自由の線利を有 する存在でありながら、明治政府はそれを認めず政策を押 し 付 け よ う と す る 。 そ れ ゆ え 、 人 民 が 幸 福 を い 単 一 本 す る 権 利 を 有 す る こ と を 自 党 し 、 そ の 権 利 を 守 る た め に ﹁ 衆 集 相 議 ﹂ する国会を興すべく﹁自ら前起勉むる﹂のであり、それが 自由民権運動であるとの思いを強くしていく。 可七一雑報﹄へ投没していた合定の内では、キリスト教 を信仰することと、自由民椛巡動は矛盾せず、相紛うもの として共存していたといえる。そのうえで、両者に内在す る不安を解決する方法として﹁閏会開設﹂を掲げ、それを 自らの使命の一番に定めていく滋思決定の過般をみること が で き る の だ 。 四﹁盛岡新誌﹂での主張 合定の的娘によって、在籍展覧場に過ぎなかった求我社 は自由民権結刻へと生まれ変わり、﹃盛附新誌隔を刊行す る に 至 っ た 。 岩 手 に は 明 治 九 年 創 刊 の ﹃ 日 進 新 聞 凶 ﹄ が あ っ た が 、 燥 の 保 殺 を 受 け 行 政 広 報 媒 体 と し て の 性 物 、 か 強 く 、 松 説 も な い 状 態 で あ っ た 。 そ こ に 、 吋 東 京 新 抑 制 ﹄ で 編 集 者 兼主筆として腕をふるった合定を中心に勢いのある松説が ﹃ 縫 附 新 誌 ﹄ で 展 開 さ れ る と 、 そ れ に 触 発 さ れ ﹃ 日 進 新 矧 ﹄ l!!l1
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に も 社 説 が 践 は 均 し て く る 。 叫 吋 に 怒 見 が ぶ つ か る 両 者 、 だ が 、 互いを意識しながら岩手におけるジャーナリズムを前め合 う 関 係 で あ っ た 。 ﹃ 盛 岡 新 誌 ︹ 初 刊 ︺ 第 一 号 ﹄ に お い て 、 金 一 口 定 は ﹁ 公 愛 ﹂ の 号 で ﹁ 自 由 ノ 縦 二 三 秘 ア ル ノ 説 ﹂ と い う 論 文 を 載 せ 、 ﹁ 自 由 ノ 権 利 ニ 一 一 一 穏 ア ル ナ リ 日 夕 身 体 白 山 ノ 機 日 夕 心 神 自 由 ノ 権日夕信教自由権コレナリ﹂として、それぞれの権利を分 ︽ 鎚 ︼ かりやすく説明している。その中でも信教の自由を﹁不桁 ノ幸福ヲ符ンガ為メ我カ心ニ於テ口チニ神ニ祈ル所ナレバ 信教自由如キハ絞モ他ヨリ抑制ス可ラサル者トス・・・カ ヲ以テ制セントシ或ハ悶教ヲ定メ悶民ヲシテ之ヲ信セシメ ントスルハ弊害ノ最モ甚シキ者ナリ﹂として、特に力を入 れて説明していることが分かる。そして、﹁各人政テ人ノ 権利ヲ答セサル己上ハ﹂万民が心身を活用し、教法を信じ る こ と を 妨 げ ら れ ず 、 各 人 の 幸 稲 を 間 同 進 す る こ と を 主 張 し ている。この信教の自由についての説明は、﹃七一雑報﹄ 明 治 九 年 十 二 月 一 日 の 投 設 と 重 な る 部 分 が 多 い 。 吋 織 間 新 総 ︹ 初 刊 ︺ 第 二 号 ﹄ で は 、 ﹁ 五 行 説 ﹂ と 題 し て 、 ﹃ 天 道 湖 原 ﹄ の 抄 出 を 載 せ て い る 。 こ れ は 前 述 し た 司 東 京 新 報 ﹄ 十九号﹁物生ヲ論ス﹂と伺様の内容であるが、全二十凶頁 の う ち 半 分 の 頁 を 紛 い て い る の は 、 司 東 京 新 制 叩 ﹄ は 読 者 が キ リ ス ト 教 徒 だ っ た の に 対 し て 、 ﹃ 盛 問 州 新 誌 ﹄ の 読 者 は そ 五
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うではないこと、主人道湖原﹄の訓点本や和訳本が普及し ていた東京に比べて治手県内では手に入りにくいといった 事 情 が あ っ た か ら だ と 思 わ れ る 。 ﹃ 感 慨 新 誌 ︹ 初 刊 ︺ ﹄ で は 、 東 京 で の 活 動 時 に 用 い て い た ﹁ 公 愛﹂のペンネームを則いて六つの文章を載せ、クリスチャ ンの新を貌かせる。しかし、﹁五行説﹂以降は宗教的な諭 胞 は 全 く 見 ら れ ず 、 ぷ 雌 澗 新 誌 ︹ 的 世 間 ピ で は 、 公 愛 の 諮 名 は 一 度 も 使 わ れ て い な い 。 新 聞 附 条 例 や 説 明 間 律 へ の 対 策 と し て 、 ペ ン ネ ー ム や 然 記 名 論 文 が 多 い 中 、 ﹃ 同 拙 附 新 誌 ﹄ に お い て 、 舎 定 の 論 文 と 確 定 で ︽ 訟 ︾ き る も の を こ こ に 列 挙 し て お く 。 ﹃ 揃 岡 新 誌 ︹ 初 刊 ︺ ﹄ 第一号﹁英陣論﹂、﹁自由ノ線ニ一ニ紐アルノ説﹂ 公愛(明治十一年八月十日) ﹁ 五 行 説 ﹂ 公 愛 ( 明 治 イ 一 年 八 月 二 十 五 日 ) ﹁部長ノ戦任ヲ論ズ﹂公愛(明治十一年 八 月 二 十 五 日 ) ﹁ m A A 首 相 組 事 改 革 法 ﹂ 公 愛 ( 明 治 十 一 年 九 月 二 十 五 日 ) ﹁人ノ不都合ヲ転ジテ我ガ洪招ト為スノ 説話﹂叫協同新誌賠候公愛(明治十一年 十 二 月 二 十 五 日 ) 第t
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号 号 第 四 号 第 十 号﹁悶会開設ヲ請願セントスルニ付キ我娘 悶志者二課ル﹂求我社員鈴木舎定 演説(明治十三年一月二十九日) ﹃ 同 蹴 倒 新 誌 ︹ 復 刊 ど 第二号﹁日本政府ハ何故ニ悶会ヲ開カザル鰍﹂ 鈴木合定(明治十四年八月 Jia) ﹁明治十四年十月十二日ノ勅諭ヲ談ム﹂ ( 明 治 十 矧 年 十 月 二 十 五 日 ) ︻ 明 治 十 閉 年 十二月九日、前沢での合定の演題﹁明治 十 四 年 ノ 勅 諭 ﹂ に 酷 似 ︼ ﹁ 武 断 政 治 ﹂ ( 明 治 十 五 年 二 月 十 日 ) ︹ 明 治十四年十二月九日、前沢での演説践と ︻ m ぎ 一 致 ︺ ﹁東京日日新聞ノ問会開設準備論ヲ駁 ス﹂鈴木舎定演説(明治十五年二月 二 十 五 日 ) ﹁ 図 版 ノ 説 ﹂ ( 明 治 十 五 年 三 月 十 日 ) ︹ 明 治 十 四 年 前 沢 で の 演 説 と 一 致 ︺ ﹁立滋改進党﹂(明治十五年間月二十二 日)︻明治十五年四月二十二日の求我剖 懇 親 会 で の 合 定 の 発 言 と 一 致 ︼ 第 二 十 八 号 第 七 号 第十凶号 第十五号 第十六号 第十八号 ﹁板垣退助君ノ迎変﹂(明治十五年間月 二 十 六 日 ) ︻ 品 川 号 に 関 巡 す る 内 容 ︺ ﹁ 我 政 府 ニ 盟 ム ﹂ ( 明 治 十 五 年 九 月 二 十 五 日)︻明治十五年十一月八日の仙台での 東北有志会政談演説会における舎定の淡 題 論 旨 と 一 致 ︼ ﹁ 勅 諭 ノ 一 周 年 ﹂ ( 明 治 十 五 年 十 月 十 二 日 ) ︻復刊七号﹁明治十四年十月十二日ノ勅 諭 ヲ 読 ム ﹂ と 同 一 若 者 で あ る こ と か ら ︼ 舎定は、﹃盛岡新誌﹄の主筆として民権を叫びながら、 全国運動に述動すべく、明治十二年三月に聞かれた変図社 再 興 第 二 回 大 会 に 参 会 し た 。 そ こ で 山 一 相 手 や 東 北 の 民 権 迎 動 における立場の低さを痛感した舎定は、地域での鴎結を捌 める必要な認め、まずは従来の求我羽の腕約を改めるべく 同 年 十 月 に 泊 員 大 会 を 聞 き 、 社 附 則 改 正 を 議 決 し て 声 明 書 の 形で県内に配布した。その中で、人民と悶家の関係性と人 民 の 主 権 者 と し て の 災 務 を 論 じ て い る 。 ﹁人民たるものは徒に政府に依頼せずして常に討会の 利 害 に 注 意 し 、 其 利 あ る 者 を ば 助 け て 之 を 興 し 、 廿 益 口 ある者をば医して之を除き、以て到縦利お側斜
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引刈閃倒倒銅剣刻州側凶 1 J刈 第 十 九 日 J 第 二 十 八 号 第 二 十 九 号 五民にして権利を長ひ京初を失するとも Y 悶 家 亦 陥 ひ て 綱 利 樹 劇 制 刑 制 組 対 引 刻 凶 到 引 凶 叫 州 制 制 剤 訓 引 ・ ・ ・ 単 身 独 行 の 鰍 ち 済 し 線 灘 き も の あ り 、 必 ず や 衆 閉 山 を 集 め 訴力に絡り然る後ち共目的を迷すべきなり﹂ ( 改 正 ﹁ 求 我 社 規 則 ﹂ ) 上 の 規 則 か ら 、 A 冊 目 定 か 間 十 い 時 期 か ら 地 方 に よ る ﹁ 併 力 の 結集﹂と、全国的な組織づくりという前面を通じて凶会開 設巡動を抑し進めることを考えていたことが分かる。そし て、政府の羽的は人民の幸福であり、権利は幸裕のために あり、線利を失うことは幸福を失することであるとする内 容は、東京在中附から変わらない舎定の強い思いが反映さ れている。このことは、﹃践例新誌﹄の組様である﹁本誌 ハ自自主義ヲ以テ政治上ノ事ハ勿論凡ソ社会人ノ利容ニ閲 ス ル 件 ハ 細 大 ト ナ ク 其 ノ 利 密 ヲ 詳 論 シ 大 ニ ' 目 由 ヲ 拡 充 シ 悶 家ノ開明ヲ進メ人民ノ幸福ヲ機益セントスルニ在リ﹂にも 共 通 す る も の で あ る 。 おわりに│舎定はキリスト教を捨てたのか 肌 州 問 附 に 際 し 、 合 定 に は 三 つ の 選 択 肢 が あ っ た 。 一 つ は 、 キ リ ス ト 教 徒 と し て 自 由 民 符 述 動 を 抑 し 進 め る こ と 。 一 一 つ 聞は、政治的関心を断ち切って信仰に一生を捧げること。 一 ニ つ 臼 が 、 キ リ ス ト 教 を 楽 教 し て 自 由 民 椛 巡 動 に 泌 進 す る 五 こ と で あ る 。 舎 定 は 日 以 後 の 巡 を 選 択 し 、 そ れ に と も な い 、 合 定 の 生 、 紅 は キ リ ス ト 教 者 と し て 活 動 し た 東 京 時 代 と ' 制 自 民惇巡動に身を投じた帰限後で大きく二時別に分かれると さ れ る が 、 果 た し て そ う だ ろ う か 。 合 定 が 関 わ っ た 一 ニ 綿 誌 を 、 必 っ て い く と 、 彼 の 目 指 す 目 的 と そ れ を 治 求 す る 方 法 、 か 首 尾 一 院 し て い る こ と が 見 え て く る。合定はキリスト教を信仰する目的を﹁各人の幸福﹂に 飽 き 、 政 治 的 関 心 を 向 め 、 自 由 民 権 を 士 山 す そ の 間 的 も ﹁ 人 民の幸福﹂と定めた。そして、創的である﹁幸福﹂を実現 するための方法であり、日本に必要なものとして説いたの が﹁悶会開設﹂であった。彼の求めた目的と方法は東京時 代も盛岡時代も変わらず、キリスト教布教と
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由民権巡動 の滋及のための行動も﹁事業ヲ盛ニシ或ハ教育ヲ胞シ或ハ 新 紙 ヲ 発 行 シ 知 識 ヲ 涜 動 セ シ メ ﹂ ( ﹃ 七 一 雑 抑 制 ﹄ ﹁ 民 権 論 者 ニ 忠 告 ス ﹂ ) と 、 同 じ で あ っ た 。 つまり、会定にとって、キリスト救信仰と自耐民権巡動 における目的と方法は一致しており、両者に矛盾はないこ とになる。それなら、舎定はキリスト教を波紋する必要は なかったのではないか。ここで、船燥を決意した明治十年 の 彼 が 悩 か れ た 状 況 を 確 認 し た い 。 合 定 帰 県 の き っ か け の 一 つ と 閉 山 わ れ る ﹃ 東 京 新 報 ﹄ の 廃 刊 に つ い て 、 間 出 胤 限 は ﹁ 余 の 十 字 庭 山 脂 か ら 発 行 し た り 、鈴 木 氏 は 自 由 党 の 斡 一 引 を 務 め た こ と あ り 、 動 も す れ ば 政 治 上の議論を掲げ、中村氏より戒められ、劉斜阿川七劃矧矧 鋭
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剣劇州刊州国制創出回到村山川﹂と回顧した。また、 柏 村 正 久 は 合 定 に つ い て ﹁ 此 の 人 は 山 一 相 手 県 人 に て 、 銀 序 説 会(又は数奇屋橋教会)の閣制刻釧刻、多年祭の利きし一 青年にでありき。民凶尉制凶刻創刊剣刻刻割問凶紹 u引
ボ組側副司削叫刻刻刷出例制U
川以引州 1 吋刻刻例制同創 刊 州 問 、 自 由 主 義 の 笈 伝 に 従 事 し 、 世 話 手 県 の 有 中 叫 ん 本 と し て 東 北に勢力を振ふに至れり。惜しい哉病を得て起たず、有為 ︻ 明 M -の 志 を 琳 馴 ら し て 長 逝 の 容 と な り た り ﹂ と 市 附 い て い る 。 二人の問販から、キワスト数雑誌である司東京新報﹄に 政 治 論 を 掲 柏 崎 す る こ と に つ い て 、 合 定 の 教 会 で の 地 伎 が 上 昇するにつれ、長老派からの批判が高まっていたことが考 えられる。長老派は、教会において司教制度を認めず、一 般信者の中から指導者を選んで長老とし、教会を運営する べ き と す る 思 恕 で あ る 。 そ し て 、 明 治 十 年 に 一 一 一 つ の 長 老 派 ミ ッ シ ョ ン が 合 同 で 伝 道 す る こ と に な り 日 本 基 祝 日 一 致 教 会 が 創 立 さ れ た が 、 金 口 定 は 銀 座 教 会 の 長 老 と し て 重 要 な 立 場 だ っ た こ と が 分 か る 。 教 会 を 運 営 す べ き 立 場 の 舎 定 が 芦 田 両 に政治論を説くことは、教会としては容認できないもので あ っ た だ ろ う 。 ま た 、 そ う し た 相 い れ な い 主 張 の 中 で 、 司 東 京 新 報 ﹄ の 廃 刊 が 決 ま っ た の で あ れ ば 、 4 一 口 定 は 自 分 の 活 縦 すべき場所を他に求めることになる。さらに、合定が焔燥 し た 明 治 十 年 末 は ま だ 山 一 相 手 に プ ロ テ ス タ ン ト 教 会 は 存 在 し なかった。岩手に帰省すると郎いた教会側は、 4 h 定にプロ テスタント未聞の地である岩手において売駆者としての役 割な期待したはずである。岩手初のプロテスタント教会を つくり舎定が初代長老となって、東京で行ったようにプロ テ ス タ ン ト 宣 教 師 川 と し て 伝 送 に 努 め て も ら う こ と を ﹃ 盛 ん だ こ と は 容 易 に 怨 像 で き る の で あ る 。 一方で、明治十年に起きた間前戦争において、粉敵の汚 名 を 雪 い で ほ し い と の 旧 総 主 南 部 利 恭 の 説 諭 に 紳 付 さ れ 、 純 代 の 潮 流 も 見 え ず 新 撰 旅 剖 に 応 り M 押 し 、 東 京 で 会 定 に よ っ て 時 代 の 変 化 に 開 眼 し た 郷 友 た ち は 、 舎 定 に 一 刻 も 早 く 卵 胞 附 し て 自 由 民 権 運 動 の 及 ん で い な い 出 拍 手 に お い て 、 自 由 民 権 運 動 の 先 導 者 に な る こ と を 熱 明 記 し た 。 つまり、帰燥を決意した舎定に期待されたのは、岩手に おける先駆者としての二つの期待であった。プロテスタン ト 家 教 師 と し て の 先 駆 者 、 そ し て 、 自 由 民 権 巡 動 の 先 駆 者 。 どちらも大役であり、どちらも一身を投げうっ党悟がなけ れば迷成できないことである。そして、教会は会定の政治 活 動 を 剖 刑 し て い な い と い う こ と で あ れ ば 、 A 世 田 定 は ど ち ら か を 選 ぶ 必 市 立 伎 に 迫 ら れ た と 考 え ら れ る 。 結 果 彼 が 選 ん だ の は、岩手における自由民権運動の先駆者の道であった。そ 五れは、方法としての﹁間会開設﹂を実現するためには、ま ずは自由民椛迩動を惟し進める必裂があると考えたからで あろう。しかし、表砺的には商品数したように見えても、合 定はキリスト教の精神を終生持ち続けた。その記友として、 自由民権家としての舎定は、キリスト教徒であったときと 同 じ よ う に 、 内 円 巾 に 勤 勉 で 済 成 潔 白 な 言 動 に 良 か れ て お り 、 彼の切にあたる作家鈴木彦次郎氏も、﹁その政治生活にお いて、あまりに潔総すぎると思われる伯行や、すべての言 動が、あくまで愛を中心としている点などからみても、い かに正しいクリスチャン約精神が、その線斡をなしていた ︻ お ︾ かが、明らかに祭しられる﹂と述べている。 さらに、合定を中心とする求我社は、次第に政治的自由 に集約され、問機伸張に流れたといわれる他の自由民椴思 ︽ M V 怨と比べ、終始人民の幸摘を目的に掲げ、徹 a 低した倒人の 尊厳に基づく自由椛と、協際平等論、天皇の絶対性を認め ず人民と対等な関係とみなす共治論、死刑廃止論を訴え続 けるなど、その機
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にキリスト教思慾と同じ視随を持ち統 A 貯 ︾ ふ ノ た 。 舎定の思認変遷を追うとき、明治則においてキリスト教 と自刷民権巡動とが指針を同じくし、時に反発していた問団 山および、その限で葛制服した一人の白山民権家の姿が浮か び上がってくるのである。 五 回l ︻ 凡 例 ︺ 一、文中引刑文を省略する場合は︹:・︺で表記する。 一、文中引間資料は、一部を常則淡字に閉山きかえた。ま た、人名についてはそのまま表記した。 一、﹃盛附新誌﹄の表記について、第 1 次刊行分を吋蛾 間 新 誌 ︹ 初 刊 と 、 第 2 次 刊 行 分 を 明 機 関 新 誌 ︹ 復 刊 ︺ ﹄ と し た 。 一、引用文中の傍線は筆者によるものである。また、文 中引用文の口は、欠字あるいは判読不能文字を示す。 言主 ( l ) μ 谷 部 者 訂 ﹃ 絞 明 治 人 物 印 抽 出 純 文 館 、 一 九OO
伴 、 一 四 二 頁 。 ( ) は 背 朽 の 補 足 。 ( 2 ) 徳 泌 総 柏 町 ﹃ 悶 民 新 聞 ﹄ 一 九 一 一 一 住 l ( 太 間 愛 人 吋 開 化 の 築 地 ・ 民 権 の 銀 位 ﹄ 築 地 合 的 州 、 一 九 八 九 年 、 } 八 二 頁 に て 指 摘 ) 。 ( 3 ) 鈴 木 彦 次 郎 吋 白 山 の 祖 矢 恥 約 手 日 報 担 、 一 九 五 六 年 、 十 一 γ円
弱 者 は 鈴 木 合 定 の 抑 制 に あ た り 、 合 定 の 実 弟 で 父 で あ る 抑 制 氏 や 求 我 制 の 人 々 の 副 首 、 当 時 の 資 料 を け 拙 に 執 策 し て い る こ と か ら 、 小 説 で あ り な が ら ノ ン フ ィ ク シ ョ ン と し て 抑 え て よ い 作 品 で あ る 。 ( 4 ) 太 間 愛 入 門 開 化 の 築 地 ・ 民 権 の 銀 出 c h 築 地 出 館 、 一 九 八 九 年 、 一 一 一 二 頁 。( 5 ) 伊東圭一郎氏は﹃感附新誌﹄の説明において﹁筆者は依 然 、 鈴 木 、 伊 東 、 谷 河 、 川 抑 制 問 と い ふ 顔 触 れ で ﹁ 公 受 ﹂ と 著 名のあるのは鈴木氏である﹂と恐いたが、これは﹁公愛﹂ の 叙 杭 と さ れ る 。 ( 伊 東 圭 一 郎 ﹃ 岩 手 県 政 物 部 ぽ 昨 日 開 什 刻 、 一 九 二 八 年 、 九 八 頁 ) 。 忠 忠 一 郎 氏 は 東 京 初 日 新 聞 お 記 者 で あ り、合定の死後に岩手の自由民権泌動在務引した伊東主介 の子息である。また、太凹愛人氏は﹃築地バンドの系議口・ 鈴木合定自﹄﹁辺境埋 L M ﹂ m m u に お い て 、 明 治 十 年 七 月 一 一 一 日 付 吋 じ 一 雑 抑 制 ﹄ に 舎 定 が ﹁ 愛 隣 ﹂ の ペ ン ネ ー ム で 般 的 制 し ていると指摘しているが、今回﹁愛隣﹂の号のものは扱っ て い な い 。 ( 6 ) 前 拘 刊 誌 4 、 凹 一 一
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四 一 一 一 良 1 築地大学校バンドと自称したのは 殴 村 前 回 で あ り ﹃ 信 仰 五 十 年 史 ﹄ の 中 で ﹁ 明 治 六 年 に 別 立 し 、 明治九年の容には廃校という短命さであったが、第一長老 教会を生み、学生中よワ政治界、教育凶作、伝道 A E、相会事 業会に頭角を明はした人物を出したと誇っている 0 ・ ・ ・ 民 衆の政治家には鈴木合定沼、・・・沼会事業界には出獄保護 の阪胤昭おあり。技悶の為に貢献せる多くの人物を出した。 践 に 我 が 校 の 名 訴 に あ ら ず や ﹂ と 出 い て い る 。 ( 7 ) 山 本 秀 飽 ﹃ 日 本 法 併 教 会 史 恥 原 胤 附 君 記 、 日 本 基 山 日 教 会 事 務 所 、 一 九 二 九 年 、 六 一 頁 。 ( 8 ) U M m 説 7 、 六 四 氏 。 ( 9 ) 合定が阿人相に通い始めた正航な時期は分かっていないが、 間 人 村 山 川 設 が 明 治 六 ( 一 八 七 一 ニ ) 年 一 一 一 月 で あ る こ と 、 カ ロ l ザスが教え子である山出版議強大学教授後藤牧太の斡艇で悶 大 学 の 教 師 に 就 任 し 、 福 沢 諭 士 口 在 迎 し て 正 直 を 知 る の は 腕 六 村設立の明治六年七月以降と考えられることから、間入社に 合定が通うようになったのは、早くても同年夏以降と抑制で き る 。 加 え て 、 配 政 が ﹃ 明 六 雑 誌 ﹄ に 述 減 し た ﹁ 一 山 学 一 班 ﹂ を A 一 日 定 が 通 読 し 、 正 直 に 鋭 い 質 問 を し て い た こ と が 伝 え ら れ ており(前拘註 3 、 十 六 頁 ) 、 ﹁ 間 学 一 班 ﹂ の 述 級 別 問 ( 明 治 七年六月1
十二月、腕治八化小六月二五日﹁商学一班じ乙で あ る 明 治 七 年 ( 一 八 七 一 一 一 ) 六 月 か ら 十 一 一 月 に は 在 製 し て い た 可 能 性 が 高 い 。 ( 叩 ) 前 掲 註 4 、 一 一 一 九 川 氏 。 ( 日 ) υ 山 崎 註 3 、 七 賞 。 ( ロ ) 出 村 班 厄 ﹃ 信 仰 五 十 年 山 I h 一 九 九 二 年 、 大 空 社 、 問 。 頁 。 ( 日 ) A 明 日 定 は 税 制 州 の 鹿 島 純 一 に 、 豆 腐 の 呼 び 売 り で さ え 工 夫 が い ると例を挙げ、演説の日方について﹁大いに研究しなきゃ ならん、抑防がなければピインと聴衆の胸在打たない﹂と 話 っ た と い う 。 ( 前 お 3 、 二 一 一 一 一 一 頁 ) 合 定 の 雄 弁 は 仰 究 と 工 夫 の 賜 物 で あ っ た 。 ( U ) 小池洋二郎﹃明治文化全集第十七巻﹄(日本評論材、 一九二八年)に収録されている﹁日本新聞跨史﹂には、明 治 十 年 十 二 月 雌 刊 と あ る 。 ( 日 ) 吋 祈 a M 同 新 報 ﹄ よ り ( M 川 一 刻 註 4 、 一 四 四 民 ) 。 原 の 間 一 肌 に よ る と 、 吋 東 京 新 制 柑 ﹄ は 問 、 五 十 時 ま で 刊 行 し た と あ る が 、 著 者 が 現 狂的雌認できているのは、国立国会図冶飢収械の一弓1
十 一 一 号 、 東 京 大 学 問 明 治 新 聞 雑 誌 文 出 押 収 減 の 一 口7
二 号 ・ 4 3 二 口7
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七 号 ・ 十 九 号 、 出 惜 同 市 先 人 記 念 館 山 帆 十 戚 の 十 九 号 ・ 二 二 号 ・ 五 五二 五 号 ・ 二 六 日 可 ・ 二 七 号 の み で あ る 。 ( 同 ) 民 岡 山 市 剛 院 を 立 て 、 民 に ﹁ 天 下 ヲ 分 任 ス ル ノ 義 務 ヲ 弁 知 ﹂ さ せ れ ば ﹁ 国 初 メ テ 以 テ 強 ト ナ ル ﹂ と し た 一 八 七 閉 年 の 氏 出 削 減 税 設 立 雄 自 治 の 彩 柳 時 が み え る 。 (口)小崎弘道は﹁維新院織は耽政治上の一改革のみ、此全初会 大改革の一部たるに過ぎず﹂として、日本においてキリス ト 教 に よ る 人 心 の 改 市 が 急 山 初 で あ る と 説 い て い る 。 ( 小 附 弘 辺 司 正 教 新 市 川 ﹄ 終 限 担 、 一 八 八 六 、 一 一 一 頁 ) 。 ( 日 ) こ の 論 文 に 合 定 の 署 名 は な い が 、 問 -教 法 ぬ ﹄ の 続 き で あ り 、 同 若 者 と 断 定 で き る 。 ( 叩 ) ﹃ 天 道 叩 間 以 ﹄ と 日 本 の キ リ ス ト 教 伝 道 に つ い て は 、 古 口 m v H 氏 の 判 中 間 キ リ ス ト 教 伝 道 文 治 の 研 究 │ │ 交 遊 湖 一 思 の 研 究 ・ 附 訳 註 1 1 h ( 一 九 九 三 年 、 汲 士 山 市 日 院 ) に 詳 し い 。 明 治 七 年 ( 一 八 七 六 ︺ に 泌 魯 羽 耳 士 ( カ ロ l ザ ス ) 訳 ﹃ 天 道 湖 保 解 ﹄ が 山 さ れ 、 中 村 正 直 が 盟 年 に ﹃ 市 人 道 湖 似 ﹄ の 返 り 点 送 り 仮 名 付 き の 加 古 川 本 を 刊 行 し て い る 。 士 口 問 氏 は こ の 訓 点 本 は 抽 出 文在数議として学んでいた日本の知織人、特に士族陥級に 愛 読 さ れ 、 そ の 後 十 回 も 再 版 さ れ た こ と を 指 摘 し て い る 。 ( 却 ) 前 倒 泊 4 、 一 六 五 頁 。 ( 目 立 山 狗