Title
事例
Author(s)
小川, 竹一
Citation
地域研究 = Regional Studies(2): 75-106
Issue Date
2006-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5490
小)||竹一:米軍用地返還と黙認耕作権
米軍基地返還と「耕作権」保障問題一読谷補助飛行場の事例*
小川竹一**
FarmingRightinUSMilitaryBaseinOkinawaandtheRestitutionofYomitanSub-airport
TakekazuOgawa 本稿は、2006年4月に米軍から返還予定の読谷補助飛行場跡地(既返還地あわせてZ91ha)について、現在そこで耕作 を行っている者(いわゆる「黙認耕作者」)の権利保障の観点から考察する。 読谷補助飛行場は、かつては|日日本軍が沖縄戦に備え、住民の土地を強引に「買収」したものであり、旧土地所有者は 村と一緒になって、その返還を求めてきた。今回この要求が実現したものであるが、国は、問題解決の枠組みを、国か ら村に売り渡した上で、村は、跡地利用計画を国の補助事業を活用しながら実施する。農業区域については、旧土地所 有者が参加する農業生産法人が先進的農業を行う。生産法人の形態は、株式会社形態をとる。将来的には、村は、この 法人へ土地所有権を移転する。このような枠組みのもとで、いわゆる「戦後処理」がなされようとしている。 しかしながら、米軍が基地を接収し、住民を追い出していく中で、自然発生的に基地内で耕作を行う者が生じてきた。 これを黙認耕作と呼び、土地所有者である場合もそうでない場合もある。このようにして、今日まで続いている黙認耕 作については、国はこれを不法占拠者として、村とともに、立ち退きを迫った。黙認耕作者の抵抗のため、実施計画策 定の前には、立ち退きを約束した耕作者のみを、法人に参加させることにした。これは、黙認耕作者の75%にあたる。 これらの者がどのような形で、法人に参加できるかは今後注視しなければならない。その他の耕作者は、自身が旧土地 所有者である者も多いのであるが、あくまで法人とは別個に、黙認耕作者にも土地の売渡を求めている。今後、強制的 な排除がありうるのか懸念される。 黙認耕作は、生存のために基地に接収された所は至る所で自然発生的に生じた。1959年布令20号によって、耕作・薪 炭採取許可証を市町村長に交付することによって法的に認められてきた。復帰後は、地位協定による基地管理権に基づ いている。国や村は、返還後は、耕作者は不法占拠者になるとする。 キーワード:米軍基地返還、黙認耕作、戦後処理、読谷補助飛行場、人役権 目次 はじめに はじめに 本稿の問題意識は、沖縄戦に備えて飛行場にするた めに国有地に「買収」され、その後米軍によって読谷 補助飛行場として接収、使用されていた土地の返還問 題に際して、生じた問題を例にとり、「黙認耕作権」と いう特殊な耕作権と土地所有権との対抗関係について、 考察する。本件土地は、近時返還が予定され、国から 地元自治体(読谷村)に譲渡され、村の跡地利用計画 に沿って土地利用がなされることになり、黙認耕作者 は排除されることとなった。軍用地内で長期間、米軍 1.読谷補助飛行場返還と戦後処理問題 2.跡地利用と「戦後処理問題」 3.旧軍用地返還問題の構造 4.読谷補助飛行場における「黙認耕作」 5.「黙認耕作」の理論的検討 6.「黙認耕作」問題の意義 *本稿は、研究成果報告書「沖縄における近代法の形成と現代における法的諸問題』(平成13年度~平成16年度科学研究費補助金基盤 研究(A))に発表した著者の論文を改稿したものである。 **島根大学法務研究科,690-8504島根県松江市西川津川1060,ogawat@s。c,shimane-uacjp 75C壽r可
「地域研究」2号2006年3月 所有者へと土地所有権を戻すという実質を実現しよう とするものである。このような国と土地所有者の間の みで問題を解決しようとすることは、60年以上経過し た今日においても妥当性を有するものであろうか、そ れは一方的な所有権の偏重にならないのではないか、 など検討すべき課題が多い問題となっている。 から許可を受けて耕作を行っていた「黙認耕作者」が、 返還後は、不法占拠者として、耕作権を否定きれよう としている。ここで言う「黙認耕作者」は、米軍用地 内において、米軍が「許可証」を発行したり、あるい はフェンスが無く許可証が不要な地域では、米軍の黙 示の承認をしたりして、耕作を行っている者を指す。 しかし、返還後は、米軍の許可も失効するので、不法 占拠者として扱われているのである。 返還予定地の相当部分が「黙認耕作者」によって耕 作されているが、国、県、読谷村は、黙認耕作者たち の作付けを禁止して、返還時には、更地として引き渡 すように耕作者に求めていた。黙認耕作者に対する手 当が明確ではないままに立ち退きを迫られている状況 である。農地法の建前からは、現況が耕作地として保 護きれなければならないような肥沃な農業地域になっ ていたのである。本件返還地は、「黙認耕作者」たちが 現に耕作を続けてきた結果、肥沃な農業地帯ともなっ ている。ここから、「黙認耕作者」たちを排除すること は、戦後60年近くにわたって機能してきた農民間の耕 作権システムによる農地利用秩序を無かったものとし ようとすることである。このような営為が無かったも のとして、跡地利用計画を実現していくことが、新た な混乱、不公平を作り出すことにならないのか疑問が 生じる。 このような事態は、国、県および読谷村が掲げてい る「戦後処理問題」の解決という理念に基づいている。 本件土地をはじめ、沖縄の多くの地域で、沖縄戦に備 えて、軍が耕地を「買収」したことによって、多くの 住民が土地を失い、その「買収」の不当性を訴え、返 還を求めてきた経緯があった。国は、「買収」は有効だ としながら、実質的に、1日土地所有者への土地所有権 の回復を行おうとしている。しかし、これは過去の不 当な土地収奪を正す反面、長期間にわたって作られて きた生存権的な土地利用であった黙認耕作を排除しよ うとして新たな土地収奪を行うものである。戦後処理 という枠組みで、形式的には地元自治体の地域振興計 画の実施の形をとり、自治体を間にはさんで国から|日 1.読谷補助飛行場返還と戦後処理問題 1.11日日本軍飛行場処理問題の概要 沖縄には、沖縄戦に備えて日本軍が民有地であった 土地を「買収」して、急邉建設した飛行場が多数あっ た。これらの跡地は、米軍用地として使用されている のが、読谷をはじめ、伊江島、嘉手納、浦添市に所在 し、那覇市小禄、平良市(現,宮古島市)、石垣市に存 在していたのが、民間空港(那覇は自衛隊と共用)と して用いられた。その他では、旧土地所有者に払い下 げられている地域もある。 これらの土地の旧地権者たちが、返還を要求してい るなど複雑な状況になってきていた。 旧地主の所有権回復の主張は、旧日本軍用地が国有地 となった経緯についてから生じてきているものであっ て、戦時下において、軍の力が働いた特殊な事情のあ った売買契約に基づくものであったことなどから、旧 所有者らが売買の無効を主張し、所有権返還等を求め てきていた(付表l参照)。 現在、国は、これらの問題を戦後処理問題として位 置づけ、国有地を地元に払い下げて、問題を解決しよ うとしている。現段階では、各地の旧地主会の中には、 あくまで所有権返還ないし払下げを求めるものもあり、 具体化は将来の課題である。その中で、早くから、自 治体と旧地主会が一体となって、問題解決を求めてき た、読谷補助飛行場跡地の読谷村への払下げが実現し ようとしている。このように、読谷とそれ以外の地域 では、問題解決に向けての進展状況が異なり、読谷方 式が他の地域の問題処理モデルとなりうると同時に、 他の地域の解決も視野に入れなければならないために、 読谷地域の特殊性に配慮した方策を加味することが困 76小)||竹一:米軍用地返還と黙認耕作権 難となった側面もあり得よう。 1.2.2読谷補助飛行場の接収 戦史などの記述をもとに、旧陸軍中飛行場の「買収」 (関係住民には「接収」と認識きれている。)の経緯は 以下のようにまとめられている(1)。 昭和18年夏、飛行場用地とするところに、軍が赤い 旗をたて、1週間後、関係地主を国民学校に集め、県 警保安課長が立会い、担当課長から「この地域は飛行 場として最適である」などとして、土地を提供しても らっても、戦争が終わればこの土地を返す」などとい う説明がされたという証言もあった。これと矛盾する 証言もあるとされている。 「接収」された土地は村内6字におよび1965筆、面 積約266万平方メートル、地域内には48の民家と548人 の地主があった。土地代についての説明の無いまま、 村長と軍(航空本部経理局)との間で仮契約が行われた。 ある調査では、土地代金を受け取った者は無く、家屋 や作物補償を受け取っていないが106人、受取ったか否 か分からない者が179人となっている。補償金を受け取 った場合でも、現金ではなく、強制的に国債や郵便貯 金に振り返られた(2)。 これらの土地に対して、地主の所有権回復の主張を 受けて、国は調査を行い、有効な売買契約が存在し、 国が所有権を得たとした。 読谷補助飛行場は、沖縄戦の過程で米軍に接収され たが、沖縄戦の過程や戦後においても、米軍は、どん どん土地を占拠していき、村域のほぼ全部が接収され ていた。米軍に接収された土地で、これまで返還され ていないものには、民有地のままで接収されたために、 現在では巨額の軍用地料が支払われている。これに対 し、読谷補助飛行場は、国有地と認定されたため、旧 地主は、軍用地料を受け取れないでいる。この不公平 感が大きいのであろう。 また、収奪の大きな影響として、読谷補助飛行場で はないが、基地に接収された土地にあった部落が土地 を追われてしまったことがある。 1.2読谷村における基地返還問題 1.2.1読谷村の概況 読谷補助飛行場跡地の利用について、読谷村は、将 来の村の発展に不可欠の重要'性を有していると考えて いる。 読谷村は、沖縄本島の中部、西海岸に位置し、東シ ナ海にカギ状に突き出た半島で人口3万8千人余り (2004年4月)の村である。那覇より浦添市、嘉手納町 と続く南部は都市化が進んで市街地化していて、北部 は、農地が開けている。 農業は、さとうきび、甘藷、メロン、パパイヤが作 付面積の上位を占めている。その中でさとうきびは 年々減少傾向にあり、代わって小菊の作付けが拡大し ている。粗生産額では、1992年には小菊がざとうきび を追い越した。 また、土地改良事業等の農業生産基盤や沖縄本島内 最大の農業用ダムである長浜ダムを基点とした灌慨排 水が土地改良と共に整備され、農業用水の確保により、 読谷村の銘柄として定着している紅イモやメロン、小 菊の産地形成が始まっている。特に、紅イモは、作付 面積・収穫量が増加してきている。 1956年には、耕地面積は、約557haで、1980年には、 経営耕地面積(黙認耕作地を含む)が約800haとなり、 その後減少し、2001年では、約400haである。 読谷村は、本島において最初に米軍が上陸し、日本 軍の読谷飛行場、中飛行場(嘉手納)などを接収し、さ らに周辺の土地にまで拡大して基地を建設していった。 日本に施政権が返還された時には、村域の約73%が 基地であったが、78年には、47%となった。このよう に、読谷村は基地の中に存在する村づくりを図らなけ ればならず、現村庁舎や運動公園などは、今回実現す る返還を見越して、読谷補助飛行場内に米軍との共同 使用の許可を得て設置したものである(付図l参照)。 77
C藷 ̄三つ
「地域研究」2号2006年3月 きを持って語られていた(4)。その村政の目玉がこの読 谷補助飛行場跡地を活用して、むらづくりの中心的施 設を作ることであった。米軍基地内ではあるが、共同 使用の申請をすることによって、村庁舎、村民センタ ーが作られた。ここは国との賃貸者契約に基づく使用 なので、国に土地代を払っている。以下、読谷補助飛 行場返還に至るまでの経緯をまとめてみよう。 復帰の際に、読谷補助飛行場は、国有財産に登載さ れ、米軍への提供施設となった。 この措置に対して、座喜味部落有志が、国有財産と されたことへの疑問をいただいた。座喜味部落関係の 土地は、48%を占めていた。これをきっかけとして、 1976年2月、「読谷補助飛行場用地所有権獲得期成地主 会」(以下旧地主会)が結成された。(会員は、当初444 名ほどであったが、現在664名である。次三男なども加 入したため増えたようである。)同じ時期に、耕作者 側が、「座喜味耕作者の会」を結成した(3)。 この間、1978年(昭和53年)には、飛行場跡地の一 部87haが米軍より返還された。国有地であったが、返 還後も従前と同じように黙認耕作が継続された。 県や各地の旧地主たちは、1976年5月、「旧日本軍飛 行場用地(読谷、伊江、下地、石垣)の旧地主への返還 について」大蔵大臣及び防衛施設庁長官に要請し、以 後、要請を繰り返してきた。 国会審議の中で、国は村の跡地利用計画の策定を待 って、具体的な施策の検討を行うという言質を得たこ とにより、村は、村内合意を得て、利用計画を策定す ることを急いだ。 そのような中において、読谷村は、当時の山内村長 を中心に、読谷補助飛行場跡地利用について審議機関 である「読谷飛行場転用計画審議会」を設け、村議会、 村内各種団体、旧地主会(「読谷飛行場用地所有権回復 地主会」)および「旧読谷飛行場耕作者」の会が参加し、 11回の審議を重ねた。途中、黙認耕作者にも払い下げ を求める耕作者の会の意思が入れられず、耕作者の会 は退席した。以後、村長と黙認耕作者との対立が生じ た。「読谷旧飛行場耕作者の会」(当時147人)は、村内 1.2.3読谷村における基地返還の経緯と特色 上に見たように、読谷村においては、米軍によって 住民の多くの土地が奪われ、住民は、出身部落に戻る ことができなくなった。部落を失った住民たちは、他 の字に分かれて暮らしながらも、旧部落単位で区(字) を形成していた。旧部落の地域の土地が返還されれば、 そこに戻っていった。一方で、戦後読谷村に転入して きた新住民は、旧来の区(部落)に入ることができず、 行政連絡上の不便な状況に置かれていた。このように、 極めて共同体意識が強いことに読谷地域の特色がある ことが見えるだろう。読谷村村民の土地に対する意識 もおそらくこのような共同体意識に影響されているだ ろう。 これらの部落住民は、村内各部落に居住しながら、 依然として、旧部落に所属して、それが、行政区とし ての単位となっている。基地が返還された場合には、 1日部落住民たちがそこに戻り部落を再建している。読 谷では、行政区(字)が属地的ではなく、属人的となっ ている。一方で、他村からの移住者たちを行政区に加 入するのを拒んでいて、行政区に入れない村民が多数 生じ、これらの住民は、新たに行政区を作っている(]!。 本件読谷補助飛行場跡地返還によって、この土地の 1日地主が直接的な利益を受ける。また、それは、村有 地と国有地との交換によるものであり、一般村民の財 産の減少にもつながる問題である。それにもかかわら ず、一般村民から不満や批判が出ないとすれば、それ は、補助飛行場跡地は、関係字住民の共同の財産であ るという認識があり、黙認耕作者を排除して彼らに返 還されて当然であるという意識があるのであろうか。 そうすると、字の属人的帰属、移住者の区加入拒否と 本質を同じくする問題といえるのであろうか。 1.3読谷補助飛行場返還・跡地利用問題の経緯 読谷村は、6期村長を勤めた山内徳信前村長のもと で、基地に対抗して、平和なむら作りを進めるために、 独自の取り組みを積極的に進め、前村長の功績は、高 く評価されている。沖縄新村政の星として神話的な輝 78ノjUlI竹一:米軍用地返還と黙認耕作権 の少数派として、村当局と接点が無いまま今日に至っ ている。 その後の動きを年次を追って見てみよう(6)。
①1981年(昭和51年)8月、読谷補助飛行場問題は国
会において取り上げられ、長らく審議が続けられて きた。この審議の過程で、沖縄開発庁長官(三原朝雄)により「利用計画による問題解決」の提案(昭
和54年6月)がなされるに至った。②これを受けて、所有権回復地主会は、昭和57年5月
に、「読谷補助飛行場転用計画策定会議」を発足ざせ 利用計画の検討を開始し、読谷村は昭和58年5月に「読谷飛行場転用計画調査報告書」をまとめた。さら
に昭和59年3月「読谷飛行場転用計画審議会」を発 足させ、転用計画の審議を進めてきた。 ③一方、国会においても「早急にその利活用が図られ るよう努めるべき」との衆議院決算委員会(昭和60 年3月)の決議がなされるにおよび、問題解決への 気運が高まった。④1985年(昭和60年)11月に読谷飛行場転用計画審議
会の答申がなされ、これを受けて読谷村はこの答申 を「読谷飛行場転用計画」として政府機関に提出し た。この審議の過程で、「転用計画」に基づいて問題 解決をはかるという基本方向が確認され、具体的な 方策の検討を進めてきた。跡地利用は、公共用地と 農地とに分け、公共用地を3割とり、農地について は、旧地主に配慮して利用方法を定めるというのが 基本方針となった(7)。⑤さらに、先の衆議院決算委員会の決議を受けて、中
曽根総理大臣は「地元の土地利用構想を尊重しつつ、 沖縄振興開発特別措置法の趣旨を踏まえて対処する」 と読谷飛行場の問題解決を明確にした(昭和61年2 月7日)。⑥転用計画の実現のために、1980年10月の日米合同委
員会において演習場移設が決定され、昭和57年度か ら移設調査が実施された。⑦一方、1990年1月、庁舎の老朽化に伴い庁舎建設委
員会を発足、諮問。平成3年9月、庁舎建設委員会 より答申。建設場所を読谷飛行場転用基本計画の村 民センター地区内とした。1994年8月、用地が軍用 地のため庁舎用地一時使用について申請、1995年6 月29日日米合同委員会は読谷村の庁舎等用地31,000m の共同使用について合意した。 庁舎は、1996年3月完成、1998年には同敷地内に文 化センターも完成し村づくり活動、村民活動の拠点 が作られた。 ⑧1996年(平成8年)12月2日、SACO(沖縄に関す る特別行動委員会)により沖縄における基地の整 理・統合・縮小が報告され、その中でパラシュート降 下訓練と楚辺通信所の移設条件付で読谷補助飛行場 の返還も盛り込まれた。1999年10月21日、パラシュ ート降下訓練の移設が合意され、楚辺通信所の移設 についても、那覇防衛施設局が2005年5月末にキャ ンプハンセンヘの移設工事及び物件撤去工事が完了 する見通しが得られたとして、駐留軍特措法に基づ く裁決申請書を提出した(2000年9月6日)ことか ら同時期の返還の見通しがつき、読谷飛行場の全面 返還が実現する見通しになった。⑨一方、転用基本計画の一環として1978年(昭和53年)
に返還された101haの一部(20a)については、沖 縄米軍基地所在市町村活性化特別事業(通称:島懇 事業)により先進農業支援センターの整備に向けて 作業が進められている。事業は、読谷飛行場転用基 本計画の先進集団農業地区計画に向けた「農業生産 法人」の育成を目的とした施設として、花き(12) 野菜(3)の先進農業経営の実践による農業従事者 の育成が可能な規模と施設を整備する計画である。 1996年6月8日に、沖縄総合事務局、那覇防衛施 設局、沖縄県、村は、飛行場跡地の既返還用地につ いて、「読谷飛行場内黙認耕作問題解決要綱」に調印 して、それぞれの取るぺき措置を定めた。村は、黙 認耕作者の調査とその解消を図ること、総合事務局 は、村の交渉を受け、国有地の有効活用のため法的 措置をとることなどが定められた(3)。⑩返還が目前に迫り、戦後処理問題の解決とその手法
79<斎一ヨの
「地域研究」2号2006年3月 (Z9ha)、②先進農業地区(ZOlha)、③国道58号バイパ ス沿線ロードパーク芸術回廊(35ha)、⑤大木地区区画 整理(商業、文化、観光地点)(Z2ha)である。 全域を農業振興地域に指定し、農用地については農 用地区域に指定する予定である。農業経営基盤促進法 による基本構想は平成14年に改定きれているが、村が 農地法保有合理化法人となり事業実施の際に、これを 付記する。先進農業支援センター事業は、農地保有合 理化事業の研修事業等として発展させる。 跡地利用の推進方策としては、旧地主関係者等が組 織する農業生産法人に貸し付け、事業を実施し、将来、 この法人に農地を売り渡すことを基本にすえ、黙認耕 作は、農業生産法人等の行う事業と調整して段階的に 解消するとする。この法人は、農業者等からなる常時 従事者と産直契約する個人としての非農業者とから、 旧地主関係者の構成員要件を整え、法人形態は株式会 社とし、譲渡制限を設けて構成員が株式を保有する。 その他、戦後処理問題は、公益'性と地域振興の課題が あるので、特定非営利活動法人の活動(①農作業支援、 就農支援、②体験農園、農地管理等事業(研究事項) 等)を検討する。 としての転用計画を具体的に推進するため、読谷村 が国から一括して用地処分を受けるための方針を示 し、平成16年度をめどに読谷補助飛行場跡地利用実 施計画策定を計画する。(実際には平成17年5月に発 表した。)その中で土地利用計画、各種整備計画、用 地処分の手法等の方向付けと旧地主への戦後処理に ついても検討する。平行して、跡地利用主体として の旧地主関係者の受けmづくりが必要となった。 ⑪楚辺通信施設の移設作業が遅れ、これに連動して読 谷補助飛行場返還は2006年7月になった。これは、 補助飛行場が通信傍受のための電波緩衝地帯になっ ているためであるとされている。 2005年5月に村が策定した「実施計画」がまとま り、跡地利用の詳細が定まった。払下げ代金負担に ついては、嘉手納弾薬庫の村有地と等価交換するこ ととなった。 ⑫2005年8月、旧地主会は、団体補償の受mとなる特 定非営利活動法人「むらおこし共進会」を設立、認 可を受けた。法人会員である「旧地主会」のほか、個 人会員30名である(,)。 2.跡地利用と「戦後処理問題」 2.1「読谷補助飛行場跡地利用実施計画」の内容 開発整備目標における開発整備の課題として三点を あげている(付図2参照)。 2.2「戦後処理問題」としての位置づけの意味 1997年の日米合意(SACO合意)により読谷補助飛 行場の返還を行うべきことが決まり、2002年10月日米 合同委員会で返還の正式合意がなされた('01。 他の旧日本軍用地の返還要求も活発になった。県も国 に対し、積極的に要請し、国は、これらの返還問題に 対し、「戦後処理問題」という枠をはめた上で、具体的 な方法を検討することとなった。それは、戦時下にお いて生じた不適切な処理(軍の力が関与した土地買収) が戦後の混乱を経て今日まで未解決になっているもの を、当時の地主の利益に対して実質的に配慮するとい うものである。したがって、国有地の買収を無効とす る旧地主ら主張は入れられないが、国有地を解消して、 地元への所有権移転(返還)を行うのかということが 具体的に検討されることになった。読谷補助飛行場の 第一は、沖縄振興開発計画で、戦後処理に引き続き 取り組み読谷補助飛行場等での公共施設整備、集落整 備を含んだ総合的整備の推進を図るとしている。第二 は、「読谷飛行場転用基本計画」(昭和62年)の実施で あり、第三は、社会経済変化への対応として、リゾー ト産業の保養機能のニーズにこたえることが必要であ るとする。 従前の跡地利用計画の骨子は、次のようであった。 計画対象地域は、すでに返還きれたlO1haとこれから返 還予定のl91haをあわせたZ92ha中のZ555haである。 計画の主要な内容は、①村民センター地区公共設備 80ノ」(川竹一:米軍用地返還と黙認耕作権 |日地権者は、当初は、地権者団体(旧地主会)への返 還を望んでいたが、地元自治体に売り渡す方法を受け 入れることに定まった。 国の言う「戦後処理問題」の枠組みは、戦時中に生 じた不正常な状態が戦後、適当な時期に処理されるべ きであったのにぎれていないことを是正するために、 時を隔てた現在の時点で解決しようとするものである。 「旧日本軍飛行場用地」問題の当時の関係者は、国 と旧地権者ということであるが、当時の関係者の間の 問題のみとで解決をすますことはできない。本件土地 に係る利害関係者は両者だけではない。そこで国も、 地元自治体に公共的な跡地利用計画を策定させて払下 げを行うという方式を基本にしている。 しかしそれでも不十分であり、旧軍飛行場跡地が、 土地所有者以外の黙認耕作者によって、耕作されてい る事態がある。注意しなければならないのは、旧地権 者であると言っても、耕作を行っているのは、かつて の自己の所有地であるということでは必ずしもないと いうことである。土地の形状が変わっているので、自 己の土地を確定することができない。従って、個別的 に見ていくと、旧地権者であっても、かつての自己の 土地を権原を持って耕作しているとも言えない場合が ある。 読谷補助飛行場跡地においては、1947年頃から、米 軍用地内での耕作が開始された。これらの者は旧地権者 であるか否かを問わず、「黙認耕作者」と呼ばれてきた。
「黙認耕作者」たちは、飛行場跡を開墾して農耕地
とし、この「耕作権」を売買したりして、耕作面積を 増やしていった。これにより、本件跡地で耕作可能な 土地のほとんどが、耕作されている。 戦後処理問題の枠組みで問題となるのは、問題が生 じたときと現在においてそれを正そうとするときの時 間ギャップ、つまり戦後長期間にわたって複雑な利害 関係が積み重ねられてきているときにそれをどのように 評価するのか、処理枠組みに入れなければならない関 係者の範囲をどのように定めるかということが問題と なる。そして、黙認耕作者の存在が中心的問題である。 2.31日軍用地の旧土地所有者の主張 米軍の沖縄進攻に備えて、日本軍は多くの地域で、 飛行場建設のために住民から、戦争が終わったら返還 するなどと約束して、平時の観点からは公序良俗に反 するような売買方式で、国有地とした。軍人が一方的 に軍用地とすることを宣告し、戦時の状況として住民 は否応無く売買契約を結んだものであった。代金も国 債で支払われたり、強制的に郵便預金とされたりして 現実的に金銭が支払われることはほとんど無かった。 その国債や郵便預金も戦後の貨幣の価値低下で価値が なくなってしまった。沖縄においてはこれらを引き出 したり換金したりすることもできなかった。 これらの日本軍飛行場は、沖縄戦の過程で、米軍に 接収きれていった。戦争終了後は、本島においては、 米軍に引続き使用きれたが、先島(宮古島石垣島)で は、国有地のまま耕作者に耕作させていた事例がある。 以上のような国による買収の有効性について、各地 の地主の組織は、無効であり地主に返還されるべきで あると主張してきた。沖縄県も国に対し、対処を要請 してきた。これに対し、国は昭和47年から6カ年間の 調査を行い、昭和53年4月に、衆議院予算委員会に報 告書を提出した。これは、売買は正当な手続きによってなされたとしている('1)。これを訴訟で争った事案と
して、「嘉手納飛行場用地返還訴訟」がある。旧嘉手納 飛行場地主たち「嘉手納旧飛行場権利獲得期成会」は、 1977年7月、売買契約が無効であったことを理由に、 土地の返還を求めて提訴した。第1、控訴審とも売買 契約が有効であったとして、原告が敗訴した。1977年 4月25日、最高裁判決も、原告の上告を棄却した。こ の最高裁判決によって、国が有効な売買によって国有 地としたという論拠が強化された。 2000年9月に、「沖縄県1日軍飛行場用地問題解決促進 協議会」が設立され、各地の地主が一本化して、県に 戦後処理問題しての解決を要請したことによって、事 態が変化した。旧地主への所有権の返還にはこだわら ないで、実質的な権利の補償を求めることへの方針の 転換であろう。この協議会に、読谷の読谷補助飛行場 81<訂~うり
「地域研究」2号2006年3月 1959年に公布した「布令20号(賃借権の取得)」に基 づき「許可証」を発行したことに由来する。米国は、 琉球政府と土地所有者間で、「基本的賃貸借契約」が締 結された土地について、一括して、琉球政府と米国と の間で、「総括的賃貸借契約」を締結し、「不定期賃借 権」あるいは「5カ年賃借権」を取得する。合衆国に 緊急の必要がなく、また琉球経済の最上の利益に合致 するならば、合衆国は復帰後は「地位協定」3条の基 地管理権に基づいて、米軍が認めているものである。 読谷補助飛行場内も、耕作できる土地はほとんど、「黙 認耕作者」によって耕作されている。これらの「黙認 耕作者」の処遇をどのようにするかが大きな問題とな る('4)。 国の立場は、黙認耕作などの問題は、戦争中によっ て国家の責任で引き起こされた問題ではなく、戦後の 米軍占領・統治下において生じた問題なので、戦後処 理問題ではないとするものである。戦後の混乱に伴っ た問題や米軍統治下の特殊'性の中で生じた問題につい ては、戦後処理問題の埒外とされている。 沖縄戦から、現在に至るまで、60年近い歳月が流れ ていて、そこには、「黙認耕作」が営まれており、それ は、耕作者が行政の助けなどなしに、自らの努力によ って実現したものであり、黙認耕作地に生活を依存し ている者が多数いる。このような問題を埒外において なされる戦後処理は、一面的になり歪みを持たざるを 得ないであろう。 以上のような問題認識から次に、返還につき、どの ような処理の枠組みがどのような構造であるのかを検 討してみよう。 第一は、所有権の帰属問題である。売買契約が有効 であり国有地となったことを前提にして地元に所有権 移転を行うのか、それとも、売買契約が無効であった として、所有権の回復を行うのかという問題である。 第二は、処分方法問題である。売り渡しを行う場合 には、誰に売り渡しるのかという新たな所有主体の選 択の問題である。強制収用によって収用され、不用と なった土地については、旧所有者に売り渡しを行うこ 所有権回復地主会も加盟した。その後、この要請は、 国会でも取り上げられ、沖縄県が第3次沖縄振興開発 計画案の中に読谷飛行場転用計画を含め、2002年7月 には、戦後処理問題として位置づける「沖縄振興計画」 が総理大臣決定きれた。これにより、旧軍用地問題は、 具体的に動きだすことになった。 個人補償を求めるか否かについて、その後、各地の 地主会の態度が分かれ、あくまで所有権の返還あるい は個人補償を求める地主会(嘉手納、宮古、平得(石 垣)、大浜(石垣等))は、2003年に、「沖縄県旧軍飛行 場用地地主連合会」を設立し、協議会は、分裂した。 伊江島は、独自に地主会を結成した。 読谷以外は、どのような処理がなされるのかは、将 来の課題である。このために、後述するように、県は 県内の大学教授らに報告書作成を委託し、国、県の主張 を裏づけ、方針を固めるための基礎資料を作成し、国有 地の売り渡し・集団補償方式を提言した。県は、2004 年11月には、県政策会議で、この方針を確認した('2)。 現在、団体補償を求めているのは、読谷以外に、旧 那覇、旧宮古海軍飛行場の3団体のみである('3)。 3.旧軍用地返還問題の構造 3.11日軍用地返還問題の'性格と枠組み 旧軍用地問題は、戦後処理問題として捉えられてい る。沖縄戦に起因して生じた混乱が、戦後の沖縄社会 の混乱や長期間米軍統治化におかれたことによって、 未解決のままに放置されてきたことを、解決しようと いうものである。過去の権利関係を、そのまま復活さ せることはできないが、過去の権利をなんらかの形で 回復しようという難しい課題である。 しかし、本件土地には、60年の経過の間に様々な利 用関係が生じてきている。関係者として、旧地主だけ ではなく、その土地で地権者とは関係なく、耕作を行 う者ものもいるのである。米軍基地内での耕作は、一 般的に「黙認耕作」と呼ばれている。この起源は、後 で詳しく述ぺるが、耕作地を基地に奪われた住民が基 地に立ち入って耕作し、米軍も排除しきれなくなって、 82ノ」UⅡ竹一:米軍用地返還と黙認耕作権 とができるが、売買契約によって取得された国有地は、 そうではなく旧所有者に当然売渡すことができるとい うことはない('5)。 国有地の売渡しは、土地の有効活用になることが必 要であり、また、売渡し代金を負担しなければならな いので、これが可能な主体でなければならない。事業 実施が可能な公的主体ということで、市町村に売渡さ れることになろう。その上で、旧権利者の権利回復あ るいは不利益の救済をどのような形式で行うのか問題 となる。旧権利者への再売渡しか、あるいは、旧権利 者への優先的な利用権の確保なのかということが問題 となる。黙認耕作者への売り渡しを行い、旧権利者に は補償を行うということはできないのであろうかとい う問題もある。 第三は、跡地利用主体問題である。跡地利用を実質 的に誰が行うのかという問題である。売り渡しの前提 として、土地の有効活用のための利用計画が存在しな ければならない。計画の策定主体として地元市町村が 介在することになるが、市町村がどの程度、自主的な 計画を立てられる力があるのか問題となろう。計画に おいて、有効活用をなしうる主体として、どのような 組織をつくるのかも重要な問題である。そこに、農業 に経験の無い者を含む旧地主をどのように関わらせる のか、黙認耕作者は、その中で耕作を継続できるのか という問題がある。 第四は、「黙認耕作」の保護問題である。「黙認耕作」 を解消する場合と「黙認耕作者」による耕作を継続さ せるのかという選択がある。解消の場合には、①補償 金を支払うのか、②補償なしに排除する、③跡地利用 に参加を認める、④黙認耕作者に売り渡すという、と いう選択肢がある。 戦後日本の農地制度の理念は、「耕作者が士地所有者 になる」という耕作権保護の意味での自作農主義であ った。今日においては、耕作者に対する売り渡しは困 難であるとしても、耕作権保護の形態は様々ありうる。 農地法の理念は重要であり、黙認耕作者の耕作を実質 的に保障する道を探らなければならない。耕作を維持 するには、旧地主会に土地所有権を譲渡したとしても、 耕作権を設定することは可能なはずである(16)。 3.2読谷補助飛行場跡地返還の枠組み 旧軍用地問題について、解決の基本的枠組みに照ら して、国および県の基本的態度を明らかにし、読谷補 助飛行場問題では、村も加えてそれぞれどのような対 応を取っているのかを分析してみよう。前述の県『旧 軍飛行場用地問題調査・検討報告書』(2004年3月)で は、県は|日地主が主張する国有地買収の無効と所有権 返還を求めることが困難であるとしていた。これによ り、県は、国のこれまでの主張に従って、以下の方針で 臨むことになった。①1日軍用地が国有地となったこと を前提にすること、②旧地主に対して、所有権回復を 行うことができないこと、ただ、③旧地主が被った不 利益に配慮することが必要であるが、個人補償は困難 であり、団体補償という形で行うことが適切であるこ と、である。 以下、読谷補助飛行場返還枠組みについて見てみよ う。 第一に、所有権帰属問題については、読谷補助飛行 場についても、国は一貫して、旧軍用地売買契約が有 効に行われたとして、国有地であり、旧地主に対する 返還は問題にならないとしていた。1981年に国は、三 原沖縄開発庁長官の答弁で、村の策定する利用計画に よる問題解決を図るとし、これにより、旧地主に対す る直接の所有権返還はありえないことを明らかにして いた。村は、基本的には、これに従い、1985年に「転 用計画」を策定していたのである。ただ、村における 旧地主との調整などの問題が残っていた。このため、 最終的に、この方針で国、県、村が動き出したのが、 1996年の「読谷飛行場内黙認耕作問題解決要綱」の3 者による調印であったであろう。 第二に、跡地の処分方法問題である。これらの土地 が国有地であるとする政府にとっても、その取得の経 緯については、問題があるとの認識は有していて、米 軍から返還されることを前提として、県、地元市町村 83
<藷 ̄可の
「地域研究」2号2006年3月 合理化法人になり、農地の保有主体となる。黙認耕作 に対しては、方針をかえ、黙認耕作者から、跡地利用 計画への協力の「確約書」を求め、これを提出したものには、農地保有合理化法人で配慮することとしたIJI,)。
この計画は、実施計画検討委員会で検討され、メンバ ーに、所有権回復地主会会長が入っている。 村は、国との調整を重ね、2005年5月に「読谷補助 飛行場跡地利用実施計画」(平成17年3月)計画を発表 した。 農業生産法人関係は次のように定められている。 ①村の農地保有合理化法人が旧地主らが組織する農業 生産法人に貸付けを行う。 ②村は、将来、この農業生産法人に農地を売り渡す。 ③この法人が事業を実施する中で、現地課題を集団的 に解決し跡地利用の推進を図る゜ ④農業法人は、株式譲渡制限をつけた株式会社とし、 構成員が株式を保有する。|日地主関係者の構成員資 格は、農業者からなる常時従事者と産直契約をする 個人の非農業者とする。 ⑤黙認耕作は、農業生産法人等の行う事業と調整して、 段階的解消を図る。 所有権回復地主会関係者は、次のようにコメントし ている。(琉球新報4月13日)。関係集落単位で6農業 生産法人が設立される。(実施計画には記載されていな い。)地主会は、将来の生産法人への払い下げを追及す るという。また、旧地主会は、NPO法人「むらおこ し共進会」設立を準備している。地主には農家が少な いので、後継者、農業者養成を行い、所有権回復地主 会は、このNPO法人に移行していくという。 なお、確約書を提出した黙認耕作者は、最終的には、 75%になり、村外者も含めて、農業生産法人に参加で きるという。 第四は、黙認耕作者の位置づけ問題である。国は、 黙認耕作者は、不法占拠者であるという態度を崩して いていないことから問題が生じている。国、県、読谷 村における『読谷補助飛行場跡地利用促進連絡協議会』 において、黙認耕作者問題の解決に取り組むことにな によって解決の枠組みが示されれば、売り渡しを行う としていたところである。第3次沖縄振興開発計画に、 この問題を戦後処理問題として位置づけることにし ます、読谷補助飛行場跡地から解決を図ることとされ た。県報告書は、読谷方式を次のように整理し、今後 の旧軍用地問題解決の参考事例となるとしている('71。 「①地域振興計画に基づく事業を展開し、その中でいか に旧地主について考慮するかを検討する。 ②新たに作成する「読谷村飛行場跡地利用実施計画」 に基づき土地処分を行う。 ③国から読谷村に一括して払下げを受ける。その際に 払下げ価格については、これまでの経緯を踏まえ配 慮を求める。 ④村において土地改良等農業基盤整備事業を行う。 ⑤村民に対し、払下げ、貸し付け等を行う。その際1日 地主に配慮する。」 黙認耕作に対する言及は無い。 第三は、跡地利用主体問題である。国は、売り渡し の前提として、国有地の有効利用を図るために、地元 市町村に跡地利用計画を策定することを要求していた。 読谷補助飛行場で、新たに土地を一括して有効活用す るということであれば、国の補助事業が必要になるこ とや、読谷補助飛行場は面積の広苔から売り渡し代金 を大きな額になるので、それが負担できることを考え ると、売り渡しを受けるのは、村にならざるを得ない であろう。村は、一貫して跡地利用の主体に、1日地主 会を参加きせることとしてきた。村は、旧地主会との 調整を進めて利用計画を策定しているが、2005年4月 ようやく双方の一致する方向'性が見えたようである。 村は1985年「読谷飛行場転用計画」で、跡地の3分 の1を公共用地ゾーンとし、3分の2を農業用地ゾー ンとに分けるとした。1987年に、農業用地は、1日地主 が組織する農業生産法人が経営に当たる可能性が検討 きれた('8)。 読谷村は、「読谷補助飛行場跡地利用実施計画」の策 定段階の2005年3月に以下の内容を確認した。農業用 地は農業振興地域への編入を行い、読谷村が農地保有 84小)||竹一:米軍用地返還と黙認耕作権 った。基本的には、村にその責任が負わされている。 村は、先の先進農業センター事業の実施のための予算 措置の中に、黙認耕作者に対する補償を盛り込みたい ということで、国に要請したようであるが、国は、厳 しい態度を取ったようである。それまでは、村は、本 件跡地利用についても黙認耕作者の立場を配慮すると いうことを表明したり、黙認耕作者に補償を行ってき たりしていたが、一転して、黙認耕作者に補償を行わ ないこととした。それ以上に問題があるのは、跡地利 用計画で実施する事業の当事者としての扱いをしてこ なかったことであった。なお、この用地について、村 は国から坪2000円で取得したという。 黙認耕作者を実質的に跡地利用に参加させることに ついては、1984年に、山内村長と耕作者の会とが決別 して以来、村、地主会、黙認耕作者の3者間での話し 合いができない状況であったので、先述した確約書提 出者に農業生産法人への参加を認めることを「実施計 画」に定めることが決まるまでは全く具体化していな かった。先の新聞報道によれば、安田村長は、「確約書」 (返還時には立ち退くことを約束する。)を提出したも のには、農地保有合理化法人で配慮するとされていた が、どのような形で耕作を保証するのであろうか。黙 認耕作者が耕作することができる面積は、かなり減少 することになろう。 村外の黙認耕作者の扱いで、地主会は、これらの者 について配慮することはできないという態度であった が、2005年4月には、確約書を提出した耕作者は、村 外者も含めて農業生産法人に参加を認めるとされるよ うになった。 確約書提出黙認耕作者は、農業生産法人への参加が 認められるようになったが、それがどのような資格に なるのかが問題となる。また、さらには、確約書提出 拒否した黙認耕作者たちを、米軍からの返還後には、 強制退去きせるのかなど問題が残っている。 なお、当初、2005年5月末の返還が予定きれていた が、楚辺通信所への金武町への移設が遅れたために、 2006年4月に変更になった。読谷村は、楚辺通信所と 切り離して年内の返還をのぞんでいる。 4読谷補助飛行場における「黙認耕作」 4.1黙認耕作の実態 読谷村が委託した平成10年度「亜熱帯農工業研究・ 試験場整備事業(基本構想策定)業務報告書」は、現地 調査を行い、初めて黙認耕作者の実態を明らかにした。 国有地全域(2555ha)で、黙認耕作者数299人、う ち、旧地主関係者109人であった。返還地と未返還地の 重複を含む延べ人数は346人(返還地145人、未返還地 201人)である。 全域のうち、耕作面積はZ046haで、他は軍施設及び 滑走路跡等を除いてほとんどが耕作されているが、 lL6haについては、捕捉できなかったので、調査で実 態が明らかになったのは、192.9haであった。 旧地主関係者の耕作面積は、全域で83.Oha(返還地 Z83ha、未返還地54.7ha)である。 耕作者299人中、村内耕作者は267人で、村外居住者 は32人である。旧地主関係では、109人中107人が村内 居住者であった。 飛行場は、多くの字にまたがっている。伊良皆、喜 名、座喜味、波平、楚辺、大木であり、村内居住者は、 これらの字に居住している者が多く、中でも座喜味が 97人と最多であった。 村外居住者は那覇市10人、浦添市6人、嘉手納町4 人、宜野湾市3人、沖縄市2人、その他となっている。 耕作開始時期は、復帰前が196人、復帰後94人で、旧 地主関係者は復帰前からが、889%である。 耕作者の年齢は、60代が111人、70代が84人で、60代 以上の合計210人で、耕作者の7割以上を占める。 農業への従事状況は、当人が農家と回答した274人の うち、専業169人、兼業105人であったが、専業の内実 については、高齢者で他に仕事がない者が多いのでは ないかと推測されている。 耕作筆数は、村内耕作者が643筆で、平均約2.3筆強 で、村外居住者は、73筆で平均約2.28筆である。 作目は、サトウキビのみが136人、サトウキビと他作 85
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「地域研究」2号2006年3月 会長としての立場から言うと、旧地主に対して農地 としての払い下げの骨子が定まり、75%の耕作者も生 産法人に参加できるという形ができたことによって、 村民あるいは座喜味部落住民からの非難が緩和された ことでほっとしているようではあった。座喜味部落住 民は、黙認耕作を行っているが、旧地主も多い。会は、 円滑な解決を妨害していると見られていたためである。 反面、自分たち確約書拒否耕作者の処遇については、 不安を持っている。 物との複合的栽培61人である。返還地では、野菜の割 合が14.5%と多く(未返還地4.0%)、未返還地ではサト ウキビの割合が54.2%で大きい(返還地37.9%)。 耕作開始の方法は、自己開拓135人、購入(耕作権売 買)64人、双方53人である。 耕作範囲は、飛行場のみ119人、他にも耕作している 者169人である。 以上は、村委託報告書からデータを引用したもので ある。本来、農業委員会がやるべきことだったのでは ないかと思われる。 読谷村は「紅イモの里」として村おこしを行ってい るが、村内での紅イモ産地がこの読谷飛行場跡地であ り、生産の9割が黙認耕作によるものであるという。 確約書に署名しなかった黙認耕作者は、あくまでも土 地の払下げを求めている。約70名くらいであるが、耕 作面積は4分の1を占めるという。 村外からの耕作者で規模が大きいのは、多良間島出 身のM氏(昭和2年生)は、那覇で畜産仲買をやって いたが、牛の価格が上がったため、見切りをつけ、本 格的に、1982年から耕作を始めた。知り合いの耕作者 を頼って、耕作権を買った。6カ所くらいで2万坪を、 次男(50代)と孫(20代)の3名で耕作している。ト ラクター4台(うち、2台は、キビ植え用)を使って いる。サトウキビを主体でやっている。耕作権を2000 円ぐらいで買っても、3~4年で回収できるという。 なお、2005年にM氏は亡くなったが、耕作は継続され ている。 耕作者の会会長である字座喜味のT氏(昭和14年生) は、1974年、軍作業員を辞めて、父の土地を継いで、 耕作を始めた。当時は、海洋博覧会景気で土木工事に 働く人が多く、耕作をやめる人が多かった。当初3千 坪であったが、1万3千坪にした。土地が荒れていた ので、ブルを借りて拡張していった。1982年に、5千 坪を売った。(坪千5百円)現在7-8千坪でやってい る。紅イモ主体である。紅イモは、1町歩で6百万円 くらい収穫できる。旧地主でもある。耕作が続けられ れば、娘にも継がせることが可能であるという。 4.2村農業委員会と「黙認耕作」 農地法は、現況の土地利用が農地として利用されて いれば、農地として扱うとしている。したがって、黙認 耕作地であろうと、そこで農耕の用に供されていれば、 それは農地であり、農地法の適用を受けるのである。 ところが、読谷村農業委員会は、黙認耕作地を農地 として扱ってこなかったのである。 農政サイドにおいては、県農政課の指導を通じて、 黙認耕作地を農地として扱うように指導してきた。そ れにも、かかわらず、読谷村農業委員会は、農地とし ての扱いをしてこなかった。 農地として扱われないことは、黙認耕作地以外に耕 作をしていない農家にとっては、農家台帳に登載され ないので、農業委員会選挙権がない、農業者年金の被 保険者資格が得られない、農地の購入、借入れが認め られないなどの不利益をもたらす。 県農政課は、1976(昭和51)年に「農家基本台帳の作 成について」(農政第881号)という指示文書を出して いる。 その別紙で、軍用地内(米軍用地、防衛施設庁用地) にある現に耕作の業務に供きれている農地についても、 農地として認めるべきことを基本方針としている。 具体的基準として、「土地所有者が耕作目的での使用 収益権を留保しないで、米軍にその所有農地を提供し ている場合であっても米軍からその使用収益を許され ている時はその農地を下限面積に参入することができ る。土地所有者以外の黙認耕作者についても米軍から 86小)||竹一:米軍用地返還と黙認耕作権 使用収益を許されている時も同様であるとして取り扱 われたい。」と指示している(20)。ここでは、明確に「黙 認耕作地」は、農地であることが明らかにきれている。 それでも、読谷村においては、農地として扱わない 方針であったので、1988(昭和63)年1月27日には、 再度「農業委員会委員選挙の選挙人の資格要件の審査 について(通知)」が出きれている。 「資格要件の基礎となる耕作面積の認定にあたって、 いわゆる黙認耕作者における耕作を正当な権原に基づ く耕作ではないとして耕作面積に算入しないという取 扱いをしている事例が見られたので、「農家基本台帳の 作成について(農政第881号、昭和51年2月5日、農林 水産部長通知)」の別紙、農家基本台帳の作成上の留意 事項の2に留意して、今後の取扱に遺憾のないように していただきたい。」(21) このように、読谷村は、黙認耕作地を農地として公 的に認めることを拒んできた。読谷村が農業を中心と した村づくりを行うという理念を有し、軍事基地から 平和的利用に転換を図るという平和の村づくりの理念 から言えば、軍用地内の黙認耕作を積極的に応援すべ きょうに思われるので、すぐには理解することができ ない対処である。軍事基地内で農業を営むということ は、住民の生存権に基づく抵抗であり、基地の存在の 不当性を明らかにすることにつながる可能性があるの であるが。 村農業委員会のこのような態度は、村内において、 黙認耕作地を農地として扱うことや、黙認耕作者を農 家として扱うことに反対する勢力が存在したことが大 きな影響を与えているのであろうか。 読谷村軍用地等地主会は、読谷村に軍用地を有する 個人の士地所有権者が結成している団体であり、会員 は、村内に3千人あまり存在するという。 この会は、黙認耕作地を農地として扱うことに反対 していて、村農業委員会に要請文を出している。 その趣旨は以下のようなものである。 ①軍用地は、民法に基づく先行きれた法律行為(双務 契約)であり、農地法等の及ばないのが正当であり、 基本理念である。 ②小作地としての権原に基づく者とは、農地法、農用 地利用増進法に基づく法律行為であり、これ以外の いかなるものも権原に基づくものとはいえない。 この①、②は、農政サイドの農地法解釈に反対し、 軍用地として契約されたものについては、農地法が 及ばないとする。①については、軍用地の使用関係 は、土地所有者と国との賃貸借契約に基づいて、国 が賃借し、これを米軍に提供しているという関係で ある。耕作目的の賃貸ではないということであろう か、趣旨は理解できない。農地法は、現況主義であ るから、農地として耕作きれていれば、農地法の適 用があることに変りが無い(22)。他人が不法に開墾し た土地の所有者が売買するには農地法の適用がない という判例(最判昭和40年10月19日)があるが、黙 認耕作地は不法開墾地ではない。また、黙認耕作者 自身の経営耕地面積に関わることであるから、不法 開墾地であるかどうかは関係が無い。 ②については、土地所有者の同意を得て耕作している 黙認耕作者を含めて、農地法等に基づく契約ではな いから、権原が無いとしている。それに対し、農政 サイドは、米軍から使用収益を許きれている者の耕 作地も経営面積に算入すぺきとしている。これは、 米軍が土地の使用権を有しているとすれば、米軍が これに基づいて、耕作を許しているのであるから、 米軍から許きれた者は、少なくとも不法占拠者とし て排除されないのであるから、その限りで安定的に 耕作可能であるので、このような安定した経営耕地 を有する耕作者を農家と捉えるぺきだという趣旨で あろう。 米軍基地であっても、可能なかぎり日本法の適用 を行うべきであろう。ここで問題となっているのは、 黙認耕作者を1個の農家として認めようということ であり、米軍との関係で権原を持って安定的に耕作 して者を①、②の理由からでは、法の外に置くのは、 適切ではない。 さらに、地主会は、次のようなことも論拠にしてい 87
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「地域研究」2号2006年3月 4.3「黙認耕作」に対する補償事例 以下、村委託報告書によりながら、補償事例を示し ておこう(25)。基本的に、補償は、作物補償という形式 をとっていて、離作補償のように、耕作権を前提とし て、所有権価格の何割かに相当する額というものでは ない。用地補償の場合は、作物補償に開墾費とか営農 準備費を加算することによって、耕作権の売買の相場 の坪あたり2千円前後よりも大目の額が補償されてい ることになろう。 ①1978年運動広場整備に伴う補償(返還地)。サトウ キビ補償が中心で、単価は、夏植坪当たり516円(l 平米当たり約156円)、株出し坪当たり401円(同121 円)であった。算出方法は、「作付面積にキビの価格 を乗じた価格から労務費を差引くべきと考えるが、 キビは多年作目であり又農家の協力を得るという立 場から収穫の労務費を差引かないで算出」した。 ②1984年国体会場用地補償。軍用地内に共同使用とい う形をとった。補償単価は、坪当たり2200円で、作 物補償542円十開墾費1千円十営農準備費(作物補償 6ケ月分)271円十調整費387円であった。 「作物補償に加え、開墾費、営農準備費等の項目 に拡大している」(同報告書105頁)。補償支払い総額 は、約2648万円であった。 ③1995年村庁舎・村民センター用地に係る補償。坪当 たり2700円で、考え方は②事例を踏襲した。支払い 総額2808万円。 ④波平地区かんがい排水事業に係る補償。工事に施行 に伴う(畑地へのパイプ引き込み)作物補償で、サ トウキビ夏植坪115円、株だし坪105円が大体の基準 となった。サトウキビ、ハイビスカス、牧草に分け て算出きれた。 以上は、村委託報告書掲載事例である。その後の 事例もある。 ⑤先進農業センター整備に関する補償。関係耕作者 64名中、51名が反対したが、最終的には、坪2700円 の補償で決着した。 読谷補助飛行場跡地での事例である。村は、黙認 る。黙認耕作地合は、公簿公図の整備がされていない ので、耕作面積の把握ができないこと、読谷補助飛行 場転用計画の事業と一致しないので、村民同士のトラ ブルが起こる可能性があること、国は黙認耕作者に共 同使用手続きを採ることを進めようとしていてことを あげている。さらに、那覇防衛施設局は、軍用地料を 受け取りながら耕作をする、あるいは地料をとるのは、 財政法違反であるという主張をしているが、それがよ り強くなることも挙げている(23)。地主は、共同使用手 続きを取らされることになれば、耕作の分軍用地料が 減額されたり、国に賃借料を払わなければなくなった りするということを畏れている。また、黙認耕作者が 権利主張をしてくることを心配しているのであろう。 軍用地主にとってみれば、自らが黙認耕作をしている 場合であっても、農業補助事業は受けられないし、農 地として認められるメリットは無いので、黙認耕作者 の地位をなるぺく不正規のままにしておきたいという 趣旨であろう。この会の会員の中には、黙認耕作を行 っている者もいるはずであるが、それにもかかわらず 黙認耕作にこれほど否定的になることは興味深い。 読谷村の地主会の中には、私有地上で、黙認耕作を 行っている農家もあるが、自己の所有地に関連して耕 作を行っている場合には、黙認耕作が耕作権の主張で あるという意識が薄くなるのであろうか。 要請文は、「貴委員会が村民少数の意見を反映して黙 認耕作地を経営面積に算入するとした場合、我々全地 主は、地主以外の耕作者を排除し、最悪の場合は阻止 行動を取る。」と結んでいる。 読谷村農業委員会は、一貫して、黙認耕作地を農地 として扱わない方針を貫いている。一つの理由は、軍 用地内なので、十分な実態把握ができないということ であろうが、売買等であればともかく、経営耕地面積 の把握には支障が無いのではなかろうか。 基地に抵抗するために、様々な創意工夫を積み重ね てきた村の態度としては、意外であろう。基地内の土 地に農地法を適用する道を開くことは、基地に対抗す ることにならないのであろうか(24)。 88小」||竹一:米軍用地返還と黙認耕作権 耕作者に対しては、補償を行わなければならないと いう立場にたっていたことは疑いない。その補償の 根拠は、事業費の中に含まれていることが前提であ ったようである。国有地について、これまで黙認耕 作者が使用収益していたのを、村が利用するので、 村が補償金を支払うという形式で行われた。⑤事例 ではじめて、村が実質負担して補償を行った。 返還が行われた他の地域では、個人の地主である ため、黙認耕作者は補償なしに立退いているという。 これまで、読谷村は、読谷補助飛行場地域において 事業を行うにあたって、「黙認耕作」に対する補償をお こなってきた。これは、「黙認耕作」が補償されるべき なんらかの権原を有している耕作権であることを認め るものであった。ここで行われたのは、金銭補償であ り、耕作継続保障ではなく、その補償金も当初は補助 事業経費の中に含まれていたようであった。このよう な方式は、耕作地を奪うことの条件として補償金を出 し、国の補助事業による事業経費の中から調達すると いうものであった。本件読谷補助飛行場全面返還時の 黙認耕作の解決についても、当初、村は、このような 論理で解決しようとしていたようである。このような 論理は、軍用地料の論理とあまり変らないことになろ う。村にこのような金銭補償を行って黙認耕作問題を 解決するというもくろみがあったとしたら、それは耕 作権そのものを保護するために耕作の場を確保すると いう本質的な方策とは言えない。これは土地所有権の 補償を地代のみで処理してきたのと同じような問題が 含まれている。 しかしながら、国の態度は、もっと厳しかった。⑤ 事例の島田懇談会事業による先進農業センター建設に よる黙認耕作者立退きについては、国は、補償費用を 事業費の中に含めて補助することを拒否したようであ る。このため、黙認耕作解消のための村の方針は頓挫 することになり、今回の全面返還に関して金銭補償は 行わないことになった。 4.4黙認耕作と裁判事例 読谷補助飛行場の黙認耕作をめぐる訴訟事例は、す べてすでに米軍から返還きれている士地について発生 したものである。 村が返還された国有地を使用するために、黙認耕作 者を排除した事案である。黙認耕作者は、この排除を 不当として訴え提起をした。この場合に、本権(土地 を使用収益する正当な権原(所有権、地上権、賃借権 など)を有していることを理由に行う場合と、排除の 手続きが平和的でなく法的な手続きを踏んでいなかっ たことを理由として、とりあえず排除前の状態に戻す ことを求める占有権に基づく場合とがある。以下の3 件の訴訟事例は、占有権訴訟であり、第3事件で、黙 認耕作者の占有を奪った手段が平和的でなかったこと を認めたことが注目される。ただし、これは、黙認耕 作者に土地を使用収益する正当な権原までを認めたも のではないことに注意しなければならない。 正当な権原の問題については、第二事件で、黙認耕 作者側が、「使用貸借権の時効取得」を主張したが、裁 判所は、「賃借権の時効取得」に関する最高裁判例を引 用して、なんらかの契約がなされていることが必要で あるとして、主張を否定した。 黙認耕作者の正当な権原については、米軍基地とし て使用されている間は、米軍の基地管理権に基づいて、 米軍が耕作を認めていたのであるから、耕作者は、米 軍から耕作権を与えられていて、耕作すべき正当な権 原を有していたのに対し、返還後は、米軍により与え られた耕作権は消滅し、権原なき耕作となるのであろ うか、ということが検討されなければならない。この 問題については、訴訟では争われていない。この問題 については、5で検討する。