NII-Electronic Library Service
『
瑜 伽 師
地
論 』
に お
け
る
止
・挙
・捨
に
つい
て
阿
部
貴
子
は じめに仏教に おける ヨー ガ
修行
に とっ て 欠か せ ない方法
は もち ろ ん止 観で ある。 原 始 経典で は厳 密 な 区別の なか っ た 「止 ・観 」で ある が 1)、 そ れ ら は 心 を静
め るこ と (止)、真
理 を正しく観察す
るこ と (観) と対で 定 義 さ れる よう
になり
、多 く
の文献
で派
生 的解
釈 を行う
よう
になっ てい っ た。 『瑜伽 師地 論 』 「声
聞地 」では ヨー ガの様々 な修 行 法を 「止 ・観」
に集
約 して説明する箇所
が見 られ、 それ らが瑜 伽 行 派の実践 論の 骨格を成してい る とい っ て よい 2) 。また 『瑜 伽 論
』
には主 に ヨ ー ガ実 践 中の 心の 様 相 を表 す 文 脈で 「止 相9amathanimitta
・挙相
pragrahanimitta
・捨相
upek 卿imi
忙a」
という
一連の ターム が 散見 される。 つ ま り、 心 を静め るこ と (止)、
奮起
させ るこ と (挙 )、 関 心 を持 た ない こ と (捨)で あ る。 これ らは 元来 「止 観 」 を表 す もの で はない が、『
瑜伽 論 』に は「
止観」
と同等
に見
な さ れ る箇 所があ り、 『解 深 密経 』で は 「止 ・観 ・止観和 合 」 と区分 され、 後の 瑜伽行 派論 書以外の 文 献に おい て も「
止観」
を意 味す
るもの として定 着 してい る。 天台智 頻の『
摩訶
止観』
で も「
又止即奢摩
他。 觀 即 毘 婆舍 那。 他 那等 故 即憂 畢 叉 」 と説か れ る 通 りで あ る3)。 その た め か、 こ の定
型句
の 原意は見 過さ れ、 これ らが い か なる文 脈で 説か れて きたの か厳密
に考察
さ れてこ なかっ た。そ もそ も
厂
止」「
挙」 「
捨 」は心の 状 態 を表 す一般 的 な語 と して、 阿含
、 ニ カー ヤ、 阿毘 達 磨 論書に別々 に示さ れ る が「
止 ・挙
・捨 」 とい う一連の語 句 は見
当た らない 。 後 述の 『増支
部 経 典』 「
金工 師 (経)Suva44ahara
」に は「
三昧
samAdhi ・挙 pragraha
・捨 upek §a の セ ッ トで見
ら れ、『
長部経
典』
に は「止 ・観
」
を「
止相
samathanimitta ’挙
相paggahani
血 tta」
と換 言す
る箇所
が(
21
)智山学報第五十七輯 ある4) 。 お そら く初期 経 典で この 定型 句の 原 型が形 成さ れ たの だろ うが、 こ れ につ い て は
検
討 課 題とする。 本稿
で は『
瑜
伽 論 』に おい て「
止 ・挙
・捨」
がい かなる文脈
で説
かれてい るの か その 用例 を まとめ、 そ れ らが どの よう
に「
止観」
と見
なさ れ る に至っ たのか、 その過程
の 一端
を考察
して みたい 。1
.心の精 練 を表
す例〜 『三 摩咽多
地 』の冶 金 喩『
瑜伽論』 「
三摩
咽多
地」
は 四静
慮、 八解
脱、等
持、等
至な どの様
々 な禅 定 に関して論 述 する章
であるが、 その なか で十 一種
の 阿含
経 典の所
説を挙
げ解
説 をする箇 所が ある。 その第 十 経 典 「塵 を洗 浄する経 〔漢 訳 「盪 塵 経」
〕伍 漉一 sudhavakasu ’tra」(以 下 「盪 塵縄 )で は金工 師 に よ る金の 精 錬過程 を譬
えとす る冶
金喩
に よっ て修行者
の 心の修練
過程 を説 く
。第
十 一経
典一 経 題は記さ れ てい ない一 で は 「止 ・挙 ・捨 」の修 習を説 示 して い る 。 「盪 塵 経 」 引 用箇
所 には 「止 ・挙
・捨 」の言及はない が、 両 経は後述の よう
に極めて近い 関係に あり
、「
止 ・挙
・捨」
は冶
金喩
と関連 してい る。では両
経
に関す
る説 明 を見
て み よう
。『
三摩
咽多
地』
で は「
盪 塵経 」所 説
の金の精 錬過程
を、(
1)
塵垢
の精錬 〔
除垢 陶錬 〕
upaklega −viSuddhi 、(
2)凝
縮 の精 錬 〔摂 受 陶 錬 〕salhgraha −vi°、 (3
)堪 能性の精 錬 〔調 柔 陶 錬 〕karma4yata
− vi° という
三種
に分
け、次
の よう
に説
明 して い る。 (以下和 訳 中の ロ ーマ 数 字、 傍 線、括 弧は筆 者)5) 「… (1
)その なかで塵 垢の 精錬 は、 金の 種 にある麁 ・ 中 ・ 微の 塵 垢 を除 去する こ とか ら、 ま さに清 らか な砂 金 が残 され る とい
う
こ とまで である。(
2
)
その な かで凝 縮の精錬
は、 ま さ に そ れ らの(
金の)
溶 解が な さ れ るこ と か らで あ る。
(
3 )
その な かで堪 能性
の精 錬
は、(
溶解
が)
な さ れ た(
金)
の欠 け などの損傷 を浄化 する こ とか らである。 《中略》
(
1
)それ ら(
麁 ・中 ・微の 塵 垢)
を断じて善法
の修 習
を常
に行 ず
ること に よ
り
、清
らか な心は有尋有伺
とな る。清
らかな砂
金が まだ溶解
さ れてい ない よ
う
に。 これ が、 金の よう
に心
の塵垢
を精錬
する こ とで ある。(
2
)
『有尋
有 伺の 止 寂 ない し第
四静慮
を具足 して住す
る』
という
こ と、 (22
)NII-Electronic Library Service 『瑜伽師地論』にお ける止 ・挙 ・捨につ い て (阿部)
これ が心の 凝 縮 を精 錬 する こ とである。 まさに金 の溶解が な さ れる よ
う
に 、
(
心が)
無 尋無 伺三摩地 に専 注 する か ら である。 (3
) 『もし三摩 地が所 作に と ら われ な けれ ば』 と説か れ た こ と、 こ れ が心の
堪能性
を精錬す
るこ とである。 金の 欠 け などの 損傷 を除 くように、 諸々 の 証 得 され るべき
法
に お い て望 み 通 りに転ず
る か らである。」 (Delhey6
)4
,2
,10
,1
−2
)7) すなわ ち (1
)塵 垢の段 階で は、 金の塵 垢 を除去 して もなお残さ れ た砂 金が あ りそ れ が まだ溶解さ れてい ない ように、 修 行 者の心に も垢を断 じて も尋伺
が残
されてい る。(
2)
凝 縮の段 階で は 、 金が完全 に溶解 する よう
に 、修行者
の 心 も無
尋無伺
三摩
地に溶
け 込ん で 集 中してい る。 (3
)堪 能 性の段 階で は、金 が損 傷 を除 くよう
に、修行者
は証得
され るべ き法
に おい て望み通 りに転ず
る abhijfieye §udharme
§uyathespaparipamanat
と説か れてい る。一
方
、第
十 一経
典で は 「止 ・挙 ・捨 」の 三相に よ っ て作 意 する こ と を、次
の よう
に説 く。「
また世尊
は 三相が作 意さ れ るべ きである と述べ る。(
そ れ は)
消沈な どを除
く
た め に、 時に応 じて止 な どを、 ただ (そ れ)
の みで な く(
行ず
る
)
こ とで ある。 その な かで 、(
1)(
2
)止 ・挙におい て未だ修 練が為されてい ない 者に とっ て、 そ れの み を行 ずるこ とは消 沈 と興
奮
の相 (
を生ず
る)。 それが加 行 道で ある。
(
3
)
時に 応 じて捨相 (
を行ず
る)
という
これは成就 道の ときである。 こ の者にとっ て も、 そ れの み を
行ず
る だ け で は縁
起
や諦を思惟
で きない の で、 諸々 の漏 を尽
くそう
とも正 し く心が定
まらない 。 …
」
(Delhey 4 .2.11)9) つ ま り三相
の いず
れ かの み に集 中する と、 止相で は消沈
しlaya
、挙相
で は 興奮 しauddhatya 、 捨 相で は心が 不安 定 na samyak cittafh samfidhryata
り
とな る。その ため、 そ れ ぞ れ を時に応 じて
kalcna
・kElam
行 ずるべ きで ある と示 す。 こ こ には冶金の比喩は用い られて い ない 。以 上の よ
う
に第
十 経 典 「盪 塵 経 」 と第十 一経
典は一見 接 点が ない 。 だ が 「盪塵 経」
は『
増支部経
典』
「金工師 (経 )Suvauaaknra 」
(以 下 「金工 師経 」)9) 及び そ れ に対 応 する『
雑
阿含 経 』第
1246
・1247
経10)に極
め て近く
、特
に (23
) N工工一Eleotronlo Llbrary智山学報第五十七輯
「
金工師
経」
の前半
部と漢 訳1246
経に近似 する11)。 さ らに第 十 一経 典は 「金 工師経 」の後 半 部 と漢 訳1247
経 と同様
の内容
で ある。第
十経
典「
蘯 塵経」
と第
十一経典
は一漢訳が そうである よ うに一文脈
上前後
関係
を有す
る別々 の経
典であっ た と思われ る。 そこ で 「金 工 師経 」 を参 照 してみ よう。 金工 師とその 弟 子たちは次の 工程 を行う
。(
1
)
まず
金 鉱の 塵 垢 を水
で洗浄
するdhovati
。(
2
)
し か し ま だ砂金 が残
る。 そこ で そ れ を炉に入れて溶 解 するdhamati
。 (3
)
そ れが 完 全に溶解
され ると、 柔 らか く湛
能でkammaniya
、輝
力 ・しく譲
れ やす く
なく
、 正しく細
工す
る に相
応 しく
なる。 そ して どの よう
な装飾品
に変
型し よう
と して も、 そ れ はその 目的に適 応 するyassa
yassa
capilandhanavikatiya
akafikhati
.,.tafi
・c’assaattharii anubhoti 。 こ の ように して比 丘 は、 (
1
)粗 大 な垢 (身 ・口 ・意の悪 行)、 中位の垢 (欲 ・恚 ・害尋思 )、 微 細 な垢 (生 まれ ・故郷 ・高慢 さ を伴 う尋思)を 除 去 する。 (2
)しか しまだ法の尋
伺が残る。 そ こ で心 を内住
させ、等住
さ せ、 一境
に住
させ、等持
さ せ る。(
3)
それ らの 三昧が為 される と、 寂 静で、 精 妙 で、静寂
さ を得
て、 一境性
を達成 し 、 所 作に とらわ れず
抑 制 されな くな る。 そして証得 すべ き法 を証得す
る た め に心 を向
ける と きには、 その 因に従っ て その 現証
へ と趣く
。 以 上 が前半
部 (パ ーリ 1− 10、 漢 訳 1246 経 )の 内 容で ある。後
半 部 (パ ーリ 11− 13、 漢 訳 1247 経)にお い て は次の通り
である。 金工師
と その 弟 子たちは 以 上 の工程で 、(
1)
鞴で吹い て火 を起 こ し abhidhamati 、(
2)
水
を注 ぎudakenaparipphoseti
、 (3
)
観察す
る ajjhupekkthati
。鞴
で吹 く
だけな ら金
を焚 焼 し、 水 を注 ぐだけ な ら冷却
し、観察
だ けな ら正 しく成熟
しない の で、時
に応 じてkalena
・kalam
そ れ らを行 えば、 柔 らか く、 堪 能で、 輝か しく、 壊 れやす くな く、 正 し く細工する に相応 しくなる。 そ して どの よ
う
な 装飾
品に 変型 しよ うと して も、 金は その 目的 に適応 する。 同様 に比 丘 は (1
)三昧 相samadhinimitta 、
(
2
)挙相
paggahanimitta
、(
3
)捨 相 upe 互nimitta を行う
。 し かし三昧の み で は懈
怠
しkosajja
、 挙 相の みで は高ぶ りuddhacca 、 捨 相の み では
漏
を尽 くそう
と も心が 正 しく定
まら ない の で cittarh na samma samadhi −yeyya
、 その 三 相 を時に応 じて行ず
る。 そう
すれ ば、 か れ の心 も柔 らかで 、 (24)NII-Electronic Library Service 『瑜伽師地論』 に お け る止 ・挙 ・捨につ い て (阿部 )
堪
能で、輝
か し く、壊
れ やす
くな く、 漏 を尽
くす
た め に正 しく三昧
を得
る。 そ して証得 すべ き法を証 得 するた め に心 を向
ける と きに は、 その 因に従っ て その現 証へ と趣 く 。以 上、 金 と
行者
の 心の精錬
過程
、 お よ び「
止 ・挙
・捨」
の実
践 をま と め る と下 表の 通 りである。参 考 まで に馬 鳴作 『サ ウ ン ダラナ ンダ
』
の 冶金 喩 も挙 げて お こ う。 当論は 『瑜伽 論』の 成立 に密 接 な関係が ある ことが知 られてい る。 この 三相 に関し て も 「第XVI
章 聖 諦 解 明」(53
−67
v)12)に同様の 説 明が 見ら れ る 13) 。 こ こ は瑜伽
の時
と方便
を説き『
坐禅
三昧
経』
にも引用 され る重要
な箇所
である14)。 その説をまと める と、 (1
)寂Samaya
に依 っ た相の ある時は 、 心 が高ぶ る と きjata
uddhave cetasi、(
2
)挙 pragrahaka
に依っ た相
の ある時は、 心が消 沈 す る「盪塵経」・第 十一経 「金工師 経」 『サウン ダ ラナ ン ダ』 (1> 塵垢の精 錬 :金の麁 中微の 金の塵 垢を水で洗 浄 する。 塵垢を除去する。 比 丘) 麁 中微の塵 垢 を 除 去 行 者 ) 有尋 有伺。 する。 精 (2 >凝 縮の精錬 :金を溶解 する。 金を炉に入れ溶 解する。 錬 行 者)無 尋 無 伺三摩地に集 比 丘)心を内に集中さ せ る。 の 過 中する。 程 (3 ) 堪能性の 浄 化 :金の損傷を 金を 柔 ら か く堪 能に して、 除 く。 細工 に相応しくする。 行 者)証 得 すべ き法 に 望 み 比 丘 〉 証 得 すべ き 法 を 願え 通 り に転 ずる。 ば そ れを現証 する。 (1) 行者)時に止相を行 う。 時に水を注 ぐ。 それ の み で 時に水を注 ぐ。 そ れの み では消 沈 する。 は冷 却 する。 行 者 ) 寂 相は 高ぶる 時 に 行 比 丘 ) 三 昧 相のみでは 懈怠 う。 する。 応 時 (2 > 行者)時に挙相を行 う。 時に鞴で吹 く。 そ れの み で 時に (火 を)吹 く。 の それ の み で は興奮 する。 は焚 焼 する。 行者 )挙 相 は 消 沈 す る 時 に 実 践 比 丘〉 挙 相のみ で は高ぶる。行 う。 (3 > 行者)時に捨相を行 う。 時 に 観 察 する。 それの み で 時に傍 観 する。 それのみでは 正 しく心 が定 は 正 しく成熟し ない。 行 者 ) 捨 相は平 等の時に行 ま ら ない 。 比丘) 捨 相の み で は心 が 正 う。 しく定まら ない 。 (
25
) N工工一Eleotronio Library智 山学報第五十七輯
と き
layarh
gate
cetasi、 (3
)捨 upek §a
に依っ た相の ある時 は、 心が 平等
になっ てい る と き satnyaih
gate
cetasi で あ る。 またさ らに、 金工 師が 金 の 精 錬過程で
(
1)
時に水を注ぎ、(
2
)
時 に(
火 を)
吹 き、 (3
)時に傍 観 する ように、瑜 伽 行
者
も「
寂pragama
・ 挙 sarhpragraha ’捨 samupekSapa」
の相
を行ず
るべきで
あ
る という
。以上か ら分か る よ
う
に、 『瑜 伽 論 』にお ける定 型句
「止 ・挙 ・捨 」
の原 型 は 上記の経 典に見 ら れ る よう
な冶 金 喩に求め られ る。 『三 摩咽多 地 』で は冶 金喩と 「止 ・ 挙 ・ 捨」
を異な る二種
の経
典 を引用 して解 説
し てい た が 、 「金 工師経」
で は両方
を説示
してい る た め、 『三摩 咽多
地』
で も当然 その 関 係性
を認 識して い た と思わ れる。さ らに
「
止 ・挙
・捨」は応 時の 実践とい える。 「金工 師経」 『
サ ウ ン ダラ ナ ン ダ』
で も「
止 ・挙
・捨 」 を 「時に応 じて」行 うこ とが 強調 されて い る。また 「止 ・挙 ・捨 」の語
句
は 『瑜伽 論 』以前
の経論
で は定着
して い な か っ た 可能性
が高
い 。「
金工 師経 」で はSamatha
に相 応 する語 を samadhi と し、『
サ ウン ダラナン ダ』
で はSamaya
あるい はpragama
とする。 samadhi 、Samaya
が
Samatha
に 至 っ た背 景
に は「長 部 経
典』
に「
止 ・観
」 を 「止 相 samathanimitta ・挙 相paggahanimitta」
と換 言 す る箇所
が ある よう
に15〕、 また 以後の 考 察の ように 「止 ・挙 ・捨 」が 「止観 」と関わ りを もっ てい っ た こ と と無関係で は ない だろ う。2
. 四正断
の説明に「
止 ・挙
・捨」
を用い る例
〜『
声聞
地』「
第
二瑜伽処」
『
瑜伽 論』
には冶 金 喩と関連の ない 箇 所におい て も 「止 ・挙 ・捨」
を挙
げ るこ とが あ る。『
声
聞地』 「
第
二瑜伽 処 」で は三十七菩
提 分 中の 四正 断の 説 明 に 「止 ・挙 ・捨」
の語が見 られ る。 当箇所
で は 阿含経
典の 文章
をその ま ま用 い て 四 正断 を表すが、 「止 ・挙 ・捨 」の ターム を用い た解 釈は特 徴 的で ある 。 まず
三十七菩
提 分の すべ て を列 挙 する箇 所で 、 以下の ように阿含 経典 と同文 を示 す
。「(
a)
未
生の悪 不 善の諸法
が生 じない よう
に と…(
b
)
已 生の悪不 善の諸法
(26
)NII-Electronic Library Service 『瑜伽 師地論』における止 ・挙 ・捨につ い て (阿部)
が滅 する よ
う
に と、 (c)未生の善の諸 法が 生 じる ようにと、 (d
)已生 の善の 諸法が持 続 する ように、 忘れ ない よ うに、 修習 が 円満 する よ
う
に、もっ と増 えて増 大 し拡 大 する よ うにと、 意欲 を起こ し、 励み、 精 進 を起
こし、 心 を
奮
い 立たせ 、落
ち着
か せ る、 という
の が 正断で ある。」
(SBh
III6)P.176) す なわち (a)〜
(
d
)
の そ れ ぞ れ に おい て「
意 欲 を起 こす
・励
む ・精
進 を起 こ す ・心 を奮い 立たせ る ・落 ち着
かせ る」
という
五段
階の修
習を行 う
こ とが 四 正 断である という
。『
声
聞地』
で は こ の文 章 をさ らに逐 語 的に解説
するが 、 このう
ち「
心 を奮
い 立 たせ る cittaih
pragThn5ti
」 「
落
ち着
かせ るpradadhati
」
こ とを以下の よう
に示 してい る。
「
こ のう
ちで『
心 を奮
い 立 た せ る』と は … 心 が 止 の修 習で ある(
心 )一 境 性を行 じてい る時、 その よ うに内に集 中した (心が) 沈下 し、 または沈下の 疑い が見 られる時があ
り
、 その 時に はいず
れ か の(
心 を)奮
い 立た せ る
〈
喜
ぶべ き相〉
に よっ て(
心 を)奮
い 立 たせ歓喜
さ せ る。 …どの よ
う
に 『落 ち着 かせる』の か。 一方 (心 を) 奮い 立 た せる とき、(
心が)
また高ぶり
、 また は興奮
の 疑い が見
られ る時
が あり
、 その時
には 再 び
(
心を)
内に集
中 させ 止 ま る よう
に専
念する。」
(9Bhllp
.206
銀 ) つ ま り、 止 を修
習 して 心 が沈
下 す るIlna
と き には〈
喜
ぶ べ きprasadaniya
相〉
に よっ て奮
い 立 た せ る 、すな わ ち 「挙」
を行う
。 心 が高ぶ りuddhata 、興
奮す
る auddhatya ときには心が止 まる よう
にSamathaya
落 ち着
かせ る、す
なわち「
止」
を行 う
という
。そして最
後
に瑜
伽者
が四正断
を行 う
こ と を総括
して次
の よう
に述べ て い る。「
彼
は、断ず
べ き もの を断ず
る た め に、得
るべ き もの を得
る た め に、 先 ずま さに願望 を起 こすべ きである。 纏を断 ずるた めに、 随 眠 を断 ずるために、 精 進を起こすべ きで あ る。 そ して時に応 じて 止と挙 と捨 相 を修 す
べ きである。」(
SBh
IIP
.210 ) ここ で の「
断ず
べ き もの」 は上 記の (a)(
b
)
、 「得 るべ き もの」
は(
c)(
d
)
であ
(27
) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学 報第五十七輯 り、 「願望 を
起
こす」
は 五段
階に おける「
意欲
を起 こす」
こ と、 「精 進 を起こ す」
は「
励
み」 「精 進 を起 こす」こ と、 「止 と挙
と捨相
を修す
べ き」
が「
心 を 奮い 立 た せ」
「落ち着
か せ る」
こと に相 応 する。四正
断
は言う
まで もな く禅 定修 行の一つ で あ る が、 元来「
止 ・挙
・捨 」 と は関連
が ない 。 阿含経 典
に は「
第
二 瑜 伽処 」と全 く同じ四 正断の説 明が随所
に見 られ るが 「止 ・挙 ・捨」
を挙 げ
て説 明す
る箇所
はない 。 よっ て 『瑜 伽 論』
はこの 定 型句
を積 極 的に用い て 四正断
の説
明 をして い るこ とが分か る17) 。3
.「
止 ・挙
・捨」
と「
観」
が混在
する例『瑜伽 論 』に は、 次 項で
考察
す る よう
に 「止 ・挙 ・捨 」 を 「止観」 と換 言す
る点に も特徴 が ある。 こ こで はそれ を論ず
る前
に「
止 ・挙
・捨」
の 配列
に「
観」
が加
え られたケ ース を挙
げておこう
。『
声
聞 地 』 「第三瑜 伽 処」
は、 阿含
経典
に依
りつ つ声 聞
の条
件 を列 挙 す る 厂第一瑜伽 処 」、 ヨ ー ガの方 法につ い て様々 な異 説を列挙 す る 「第二 瑜伽 処」 に 比べ 、 ヨ ーガ実 践 方 法 をよ り整 合 的に 説 明 する。 こ のう
ちの第三節「
実
践」 中第
三項 「
心一境性」
では 九種 加 行を挙 げて それ を説 明する。 その九種
加 行のう
ち 「時加行 kalaprayoga」
で は、時
に応 じて「
止 ・観
・挙
・ 捨 」 を 修 習すべ きで あると し、各
々 の 相nimitta と時
kala
につ い て解 説
をす
る。 要点
を示せ ば次の 通 りで ある18) 。(
1)
止相
:所縁相
=止に属す
る所知
の事
と同分の 影像。因相 =観 ずる加 行 vipaSyanaprayoga 。
止時 :心が高ぶ りuddhate citte 、 興奮 auddhatya の 疑い が あ る時。
心が観に満 ちて、 尋 伺に害 され る時、 所 作に乱さ れ
害
さ れ る時。(
2
)観相
:所 縁 相= 観に属 する所 知の事 と同分の影 像 。因相 = 心 を止 め る加
行
cetatLSarnathaprayoga 。 観 時 :〔漢訳 :謂 心 沈 沒 時。 或恐 沈 沒 時。 是 修 觀 時〕心が止に
満
ちてい る時
。所知
の事
を如実に知ろう
とする時。(
3
)
挙 相 :〈
喜
ぶべ きprasadanlya
所
縁〉
の相
によっ て心 を奮
い 立 た せ る。 (28 )NII-Electronic Library Service 『瑜伽 師地 論』に お け る 止 ・挙 ・捨につ い て (阿部)
挙 時 :心が
沈
下 しlina
、 沈下の 疑い が あ る時。(
4
)
捨相 :(
止観に属 する)所 縁 に たい して心 に汚れ な く平 等 となっ てい る。心が堪 能性
karmarlyata
を具え 、無巧 用に働 く。捨 時 :心 が IE観 に属 する消
沈
と掉挙 laya
−auddhatya か ら解 放 されて い る時。 こ の よう
に、 こ こ では「
止」
「観」の み に 「所 縁相」「
因相 」とい う項が設 け られ てい る。 そ れ ら は文 章構 成 も対 をな してお り、 明 らか に対 概念
で ある こ とが分か る。 しか し 「止 」 「挙 」に は「
心が高
ぶ り、掉 挙の疑い が ある時」
「心 が沈下 し、沈下の 疑い が ある時 」 と、 本 稿2
の 四正 断の 説 明 (下線部)
と同 様 に示 され 、 これ ら も対
を為
してい る 。 また注 意 すべ きは、漢
訳の 「観 」
の説 明
に梵 文
・チベ ッ ト訳に もない 「心が 沈 没 し沈 没
の疑
い が あ る時」
と、「
挙」
と相 似 する内容が記 さ れて い るこ とである。 こ こ で は 四種の定義
、 特に 「観1
と 「挙 」の区別が定まっ てい ない とい える。『三摩咽多地
』
に も三 十二 相の 所 縁 を説 明 する な か に「
止 ・挙 ・観 ・ 捨 」 という
川頁序の異なる 四種を挙 げ
る箇所
があ
る19) 。(
1)
止相 :無分 別 影 像に作 意 をす
る相
。(
2)
挙 相 : い ず れ かの〈
喜
ぶべ き(
相)
>
prasadaniya
、 ある い は光明 の 相510kanimitta2°)に よっ て心 を
奮
起させ る相
。(
3
)観相
:聞所 成、 思所 成、 修 所 成の智 慧に よっ て諸々 の法
を作意する相。(
4
) 捨 相 :善 品(
の法)
に おい て頓着
しない の ときの平等
な心の相
。 こ こで は 「止」に 「止観 」を説 明する際の概 念である「
無分別影像」
という
語
が記さ れてお り、 「観」はその 内容か ら「
有
分 別影
像」
で ある こ とが 分か る。 また 「止」 「観 」で は両 方 ともに「
作
意 をす
る相」
と示して お り、 両 者 を対 概 念 と捉 える。 ここで も 「挙」
の位 置づ けは明 瞭で ない 。『菩 薩地』 厂成熟品」になると も はや 「挙 」は 厂観 」に先立つ 修 行 法とさ れ る に過 ぎ ない 。 そ こ に は聞思修の 「修」の 説 明と して 厂止 ・挙 ・捨相に おい て正 し く
観察す
る こ とを先
と して、 止 ・観
・捨
の修
習を喜
ぶ こ とである」
と説
か れてい る21) 。 (29
) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学報 第五十七輯 以上か ら、 「止 ・観 」の概 念が加 えられる と 「止 ・
挙
・捨」
という
一連の タ ーム の 原意が失わ れ、 特に 「挙」
の役 割
が曖 昧に なる ことが分か る。4
.「
止 ・挙
・捨」
を「
止観」
と置換
する例次
に「
止 ・ 挙 ・捨」
と密接
な関係
のあっ た 冶金 喩 を用い て「
止観」
の説 明
をする箇所
を挙 げ
てみ よう
。 『声
聞地』「
第
三瑜伽処」第
三節 「実 践」
中第
五 項 「作 意」
で は、初
心者
が行 う
四種の作 意を説 明 してい る。 四種
の作 意 とは、心苦熱作意
cittasantapaniya −manaskdra 、心
潤
滑 作 意 cittfibhi§yandanTya
−ma° 、
生軽
安作意
pra6rabdhijanaka
−ma ° 、浄
知
見作
意jfianadarSanaviSodhaka
−ma ° で ある、 以下 に試 訳を挙
げ よう
。「
その なかで心
苦熱作
意 とは何 か。 こ の作 意 によっ て、 か れ は諸
々 の〈
厭 う
べ き法〉
におい て心 を厭 離させ る。 これ が心苦 熱 作 意で ある。その なか で心 潤 滑 作 意 と は何か。 [この 作 意に よっ て、 か れ は
諸
々の
く
喜
ぶべ き法〉
に おい て] 心を歓喜
さ せ る22〕。 これ が心潤 滑 作 意であ る。その なかで生軽 安 作 意 と は
何
か。答
える。 こ の作 意に よっ て、 か れは時に応 じて諸 々 の
く
厭 うべ き法〉
におい て心
を厭 離
させ、 時に応 じて諸々 の
〈
喜
ぶべ き法〉
に おい て心 を歓喜
させ、[
心
を] 内
に静
め る。 かの無相たる こ と、 無 分 別た る こと に (心 を)住 させ 、 一 境 に念を
向
か わせ る。 こ の因とこ の縁に よっ て、 身心の 麁 重 を対 治 するこ とに よ り、 か
れ には身心 が快適 と な る身の 軽安 と心 の 軽 安が 生ずる。 こ れ が生軽 安作 意 とい われる。
その な かで
浄知見作
意 とは何 か。 時 に応 じて心 を その よう
に内
に寂
止させ る作 意によ っ て、 次々 に間 断な く、
法
の観察
に おい て 増上慧の 瑜伽を行 ずる。 す なわ ち、 その 内に心 を 止 め る こ とに依止 して
(
為さ れる
)
。 こ れ が浄知
見 作 意とい わ れ る。」(Sh .p
,405 − 1g 卸 23) 以 上 を述べ たのちに〈
厭う
べ き法〉 〈
喜
ぶべ き法〉
につ い て の解 説があ り、 さ らに冶 金喩 を用い て四種作
意を次
の よう
に説
明す
る。 (30
)NII-Electronic Library Service 『瑜伽 師地 論』にお ける止 ・挙 ・捨につ いて (阿部)
「
そ れ ゆえ、 その よ
う
に、心 苦 熱 作 意 に よっ て心 を黒 品よ り退かせ 、心潤 滑 作 意によっ て (心 を) 白品に向か わ せ る。
生 軽
安作
意 に よって、 その よ
う
に心を 止 める こ とによ り、 時に応 じて 内に(
心 を) 落 ち着
ける。
浄 知 見作 意に よっ て 、
時
に応 じて諸
々 の法
を思択
し、簡択
し、尋
思 し、 思惟す
る。 こ の よう
に、 か れの その心 は時に応じて止 と観に摂 さ れ る。 一切の行相 と一切の功 徳の 因 を行 じた もの は、 あれこれの 昼夜、刹那、 羅
婆
、 須 臾を過 ぎて、 殊 勝 さへ と趣 く。た とえ ば熟練 した 金工 師や 金工師の
弟
子によっ て、 金銀
は、垢
や汚
れを除 くた めに時に応 じて
焚
焼され、水
で潤滑
さ れ る。(
金銀
の)
柔軟
さや
堪 能性
を(
装飾 品に)
適応させ る こ とに よっ て、 あれこれの 装 飾 品の作成
に向
かう
。 それ ら (の 金 銀 ) を熟 練し た金工 師や金工 師の 弟子 は、それ に適 した技 術の 知識 に よっ て道具 を用い て、 どの よ
う
な装 飾 品が 望まれ る場 合で も
(
そ れ に) 変化 させ る。 その よう
に、瑜伽 者が貪
等の垢や
穢
れ を 退 けるこ とに よ り、 その心 に厭わ し さが 起こ り、 また汚れた憂悩 を退 け
[
善
品の歓喜
へ向
か うこ と によ り] 歓 喜 が 起こ る24) 。 そ れ ら(の 心 ) を瑜 伽 者が止 分 あるい は
観
分に結
びつ ける場 合
に は、(
そ れ らは
)
よ く接 着 し、 よく固着
し、 欠陥 な く、 動 じない 。 その ように望 み 通りの 目的の達成へ と趣 く 。」(
Sh
.p
.・410
_1 鉱 )25) 以 上 をまと める と次の ように示 すこ とが で きる。心
苦熱作
意 :〈
厭 う
べ き法〉
に おい て心を厭
わ せ る。 → 金を焚 焼 する。心
潤滑作 意
:〈
喜
ぶべ き法〉
に おい て心を喜
ば せ る。 → 金を潤 滑 する。生軽 安作 意 :時に応 じて
〈
厭う
べ き法〉
を厭い 、〈
喜ぶ べ き法
〉
を喜び、心を内に止 め、 無相 無 分 別に住 して 、 身心の 麁 重
dausthulya
を対 治 して 、 軽安
praSrabdhi
を生ず
る。→ 金を装
飾
品に適 する よう堪
能karmapyata
にする 。 =止浄
知
見作
意 :心 を内に止め る こ と に依っ て、 法 を観 察 する。→ 金 を望み通
り
の装飾
品に変化
させ るpa典
ayati。 = 観 (31
) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学報 第五十 七輯
前 述の 「蘯塵経
」等
で説か れ た冶 金 喩 を鑑み れ ば、 これ らの 四種作
意は 一見 「
止 ・挙
・捨」に対 応し、心
苦
熱作
意が「
挙
相 」、心 潤 滑 作 意は 「止
相」
、生
軽安作
意 と浄
知
見 作 意 が 「捨相 」に相 当する か の よう
で ある。 しか し、 こ こ で は生
軽安作意
が「
止」
、浄 知 見 作 意 が 「観 」と さ れて い るの みで 「止 ・挙 ・捨 」は言 及さ れてい ない 。
心
苦熱
作 意と、心潤 滑作 意は、 そ れ ら
「
止」 「
観」
を修習
するための 予備 的 な作 意 とされる に過 ぎな い 。さて こ こ で
注 目す
べ き点
が二 つ ある。 第 一 に、心 苦熱
作意
をく
厭 う
べ き 法〉
へ の作
意、心潤
滑作
意 を〈
喜
ぶべ き法〉
へ の 作 意と説 く点で ある。 そ れ は、 こ の対句が 後の 止観の 解釈に大 き な影響を与 えた と考 える か ら である。 『解 深 密経 』 「分別 瑜 伽 品」で は、「
止 ・挙
・捨 」につ い て説 明 する箇 所で 、 まず 「
止 ・観 ・止 観和 合」につ い て、「い か なる
時
に観
の み を修 習す
る の か。答
える 。 連 続の 作 意に よっ て〈
心の 相〉
を作 意 する ときである。い か な る時に止の み を修 習 する の か。
答
える。連続
の作
意に よっ てく
間断のない 心〉
を作
意す
る ときである。い かなる時に止
観和
合 して住
するの か。 答 える。 心一境 性に作 意する ときである。」(D .27b2 −3) と述べ て い る。 そ してさらに 「止 ・観 ・止観
和合」
と「
止 ・挙
・捨 」の 関係 を以下の よう
に論ず
る。「
慈氏
よ、 心が高
ぶり
、 興 奮 す る疑い の ある ときの 、 諸々 の〈
厭 う
べ き法〉やその
〈
間 断の ない 心〉
へ の作 意
が、 止相
とい わ れ る。慈 氏 よ、 心が消 沈 し、 消 沈 する疑い のあるときの、 諸々 の
〈
喜
ぶべ き法
〉
やそのく
心 の 相〉
へ の作
意が、挙
相 とい われる。慈 氏 よ、 止の み、 あるい は
観
の み、あ
るい は双運の 道で も、 その 両 方の 随煩 悩によ る随 煩 悩 が 無 く、 心が 自ら働い て、 作 意が
無
功 用で あることが、 捨 相 とい われる。
」
〔D
,29b5 −30al
) 以 上 を ま と め る と次の よう
に なる。 (32)NII-Electronic Library Service 『瑜伽 師地 論』にお ける止 ・挙 ・捨につ い て (阿部)
(
])
止=止相
:心 が高ぶ り、興 奮の 疑い の ある時。〈厭 うべ き法〉や
〈
間断な き心〉
へ の 作 意。(
2)観
=挙相
:心 が消 沈 し 、 消 沈の 疑い の ある時。〈
喜ぶべ き法〉
やく
心の相〉
へ の作意
。(
3
)止観和 合 = 捨 相 :止 ・観
・双 運の 時 。 無 功 用な作 意。 2ωこの よ
う
に『
解
深密
経 』で は 「第三瑜 伽 処 」の 「四種 作 意 」に おい て 示 さ れたく
厭う
べ き法〉 〈
喜ぶべ き法〉
を 「止」 「挙 」の説 明 に当て て い る。 「挙相」
と〈
喜
ぶべ き法〉
との関係
は、既
に本稿
2
の 四正断
、本稿 3
の時加行
の 説 明 中に も見 ら れ るが27) 、 そ れ に〈
厭 う
べ き法 〉
という
対 概 念 を 用い て「1
ヒ・挙
・捨」
の説 明 を簡 略化 してい る28) 。 「止観 」 との 関 連につ い て も、 本稿 3
の よう
な 両 者の 混 在 を避け、 「止 」 を 「止」
、「
挙」
を 「観 」、 「捨 」を 「止観和 合 」に置換して い るこ とが 分 か る。さて、 「四種 作 意」 に 関する注 目すべ き第二 の 点は 、
生軽 安作 意に よ っ て 身心の 麁重 を対治 し
軽安
を得る と説か れてい る点で ある。身
心の麁
重につ い て次 項で さ らに考 察 して み よう
。5
.「
止 ・挙
・捨 」に よ る転 依 を説 く例『声 聞地 』 「第二 瑜 伽 処」の 根 幹 を為す 箇 所は、 禅 定に お け る
所
縁 を出 典不 明のい わ ゆる 『レーヴ ァ タ経 』 を引用 して解 釈 を与 えてい る部
分 であ り、 こ こ に瑜 伽 行 派独 自の 理論
の 思想 的原型 が見られ る。 な かで も転 依 思 想の 原初 的 な形が現
れて おり多 く
の先学
に よっ て注
目 さ れて きた。『
レー ヴ ァ タ経』
で は瑜
伽行
者が禅定
対 象 とすべ き所 縁 につ い て説 示 し、 「第二 瑜伽 処 」で は その 所 縁 を遍満所 縁
・浄行所縁
・善
巧所縁
・浄惑所
縁の 四種
に 区 分する。 煩 雑に な らない ようそれ ら を整理 してお くと、 (a) 遍 満所 縁は、 瑜 伽 行 者 に普
遍的
に存在す
る禅定対象
の こと、(
b
)浄行所縁
は、貪
・瞋
・癡 ・慢
・尋
思に基
づく行為
を浄化す
る不浄観
・慈愍観
・縁
生縁起観
・界分別観
・入 出息
念の こ と、 (c)
善巧 所縁は、 巧み に観 察 すべ き蘊
・界 ・処 ・縁起
・処 非処と (33
) N工工一Eleotronlo Llbrary智山学報 第五 十 七輯 い
う
対象
、(
d)浄
惑所
縁は、 世 間道で浄化 すべ き対象
と出世 間 道で観 察 すべ き四諦の こ とであ
る。 このう
ち(
a)
遍 満所 縁に は 、観
の 対象
で ある 〈有分別影像
〉
、止の対
象
である〈
無分 別影像 〉
、一切の
事
柄 (尽所 有 性) と 真 実 (如所 有 性 ) に関するく
事
辺際 性〉
なる対象
、禅定
の因
と縁
に関す
る〈
所
作 成 弁〉
なる対 象が ある。この
うち 〈
所作
成弁〉
に関
して、次の よう
なパ ッ セー ジ がある。「
かの 瑜 伽 者 が止
観
i
辷
L .塾心
些
五
豊
}..圭
≦五
.旦
L多
一蠱
行
.じ弖並
と
些
.墨
.2
て 、 影像 を所 縁 とする
(
行者
の)作意
が完
全 な もの となる。 そして、 その
(
作
意が)
完 全 な もの になるこ とに よっ て、 依 り所が転 ずる。 そして 、一切 の塵 重が鎮 まる。 さ らに依 り所の 転換に よ り、 影 像 を越 えて、 かの
所知
の事
につ い ての 無分 別 な現 量 なる知見が 生ず
る。」
(SBh
II
p.48
)す
なわち瑜
伽行
者が 止観を為 すこ と に よ り、 依 り所が転 じaSrayak
}parivartate
、 一切の麁
重が鎮
まり
sarvadauS !hulyani
…pratipraSrabhyante
、現
量 なる知 見が 生 ず るという
。佐 久 間秀 範 博士 に よ れ ば、 瑜 伽
行派特
有の 「転依 諭 ayapariv “ti」
という
タ ーム は 、 『瑜伽 論 』 「本 地 分 無余
依地」
で は 阿羅
漢化
ない し成仏 を示 すた めの 用語とさ れ、 「摂 決択分 」に おい ては真如
tathat5の 浄化 を意 味 しア ー ラヤ識 という
汚 れと対
立す
る概 念
となり
、「
解
深密 経』
で は法 身
を表す語句
へ と移 行 してい る。 この よう
な転依
思想
の発展
過 程のなかで、 瑜伽 行 者の依
り所
が 「止観」の修
習に よっ て麁 重 を離れ軽 安に満た され転ず
る という
この解
釈は、 転 依思想の素朴
な形で ある と述べ てい る 29)。確かに止
観
は転
依にとっ て不 可欠 な修行で ある。 とこ ろが、 こ の解釈
の 基 となっ た 『レー ヴ ァ タ経』
引 用箇所
に は 「止 観 」の 語は見 られ ない 。 その 代 わり
に 「止 ・挙 ・捨」が言 及 されてい る。「『さらに レーヴァ タ よ。 比 丘 で
瑜
伽者
なる瑜伽 行者は どの よ うに して 静慮
を棄捨
しない の か。 レ ーヴ ァ タ よ。 も しその比丘で瑜伽 者
なる瑜伽行
者が こ の よ
う
に所 縁に おい て正 しく修
行 し、 常に行 じ、 尊 重 して行ず
る者であれば、 時に応 じて止相 ・挙 相 ・捨 相を、 熱心 に
行
じ、 よ く行じ、 (34
)NII-Electronic Library Service 『瑜伽 師地論 』に おける 止 ・挙 ・捨につ い て (阿部)
多 く行
じる ことに よ っ て、 一切
の麁
重 が鎮
まる の で、依
り所
の清浄
さを得て 、
触
れ、 証 する。』」
(SBh
llp
.54) 下線部の ように 『レー ヴァ タ経 』に おい て 「時に応 じて止相 ・挙 相 ・捨 相 を、 熱心 に行
じ、 よ く行
じ… 一切の麁
重が鎮ま る」と さ れてい る箇 所は、 同頁の「
第
二瑜 伽 処 」の傍 線 部で 「止観を 、熱心 に行 じ、 よ く行 じ…一切の麁重 が鎮
まる」
と置換
され てい ることが分
か る。た だ し
「
第
二 瑜伽処」
が「
止 ・挙
・捨 」に注 目 して い ない か らで はない 。『
レー ヴァ タ経』
引 用 の後
に は、 次の よう
に出典の異な る二 頌 を引用 し、〈
遍 満 所 縁〉
に関する解 釈 をまとめる。 そのう
ち最 初の頌 とその解 説を挙 げる と、 「『諸相につ い て行 じてい る瑜 伽 者は、 一切の真 実の 意味を知 り 、 常に 影像の 静慮を なす者は、 遍 き清 浄 を証 する。』3 °)こ の 中で ま
ず 『
諸相
につ い て 行 じて い る瑜 伽 者』
とある が 、 まず これに よっ て、 止相 ・挙 相 ・捨相につ い て
常
に行ず
るこ と 、尊
重 して行ず
ることが説 明されてい る。 さ らに 『 一 切の真 実の意 味を
知
り』 とある の は、こ れ に よっ て
〈
事
辺際性〉
が説
明されてい る。 …」
(SBh
II
p .56
> と説か れてい る。 こ の よう
に明確
に 「諸 相」
を「
止 ・挙
・捨 」の 相と理解し てい る点
を見
る と、「
第
二瑜伽 処 」で は 「止 ・挙 ・捨 」 による修 習の重 要 性 を認 識しつ つ も、 そ れ を意 図的に「
止 観 」 と換 言 し てい るとい える。そ して
「
止観」
に よる転依
という
理論は、 後の 成 立 と見 られる テキス トに多
くの影
響 を与 えてい る。 『解 深 密 経 』 「分 別瑜 伽 品」で は菩 提の 獲 得 を説 明 する文脈
に おい て、次
の よう
に止観
を完
成させ るこ とによっ て麁 重 を断 じ、 菩提 を得る こ とを説 く。「か れ は先に 止
観
を獲 得
するこ と に よっ てく
有 分 別影 像〉
とく
無 分 別 影像
〉
という
二種
の所 縁 を獲得 する。 現 世で見道
を獲得す
るこ と によっ て、〈
事
辺際
の所縁〉
を獲 得 する。 この もの は後に修 道に入 り、 そ れ ら三種
の 所 縁を
作
意す
る。 … 一切の 相と麁 重が よ く断ぜ られる の で 、次第
に上の 諸々 の地 におい て
冶
金の よう
に心 を精 錬 し31) 、 阿耨多
羅三藐
三菩提
の成就を達 成 して
く
所 作成弁
の所
縁〉
を獲 得 する。 慈 氏 よ、 菩 薩は 止観を (35
) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学報 第五十七輯
その よ
う
に完成
す れ ば阿耨多
羅三藐
三菩提
の成就
を現 証す
る。」
(D
.36b
4
−37aD
こ こ で注 目 したい の は、 傍 線 部にある 「冶 金の ように心 を精 錬 し」 とい う句
であ る。 冶 金 喩は前述の よう
に 「止 ・挙
・捨」 と 関連 する。 こ こ で は 「止観」
の 語 を挙
げつ つも 「
止
・挙
・捨」
の修行方法 を暗
示 してい る。 した が っ て『
解深密経』
にも見
られ る止観
に よ る転
依 という
定 説の 背 景には、 そ もそ も 『レー ヴァ タ経 』に あ る よう
に 「止 ・挙 ・捨」
に よ る麁重 の鎮 静が あ る と い える。 さて 、 佐 久 間博 士は転 依 思想の 源 流 と して 『中部 経 典 』 「アヌ ル ッ ダ経 」の 所 説 を挙 げる 。 そ こ に は
身体
の麁
重 kayad 叫 hulla を鎮 静 しpassaddhi
、 棔沈睡
眠 と掉挙悪作
を除 く
こ と に よっ て、輝 き
をも
っ て瞑想
し、 そ れ によっ て身体
が滅
ん だ死後
に清
浄光
天の仲 間に生 まれ るこ とが説か れてい る。 本稿
で は そ れ に加え
て 「金
工師経」
が転 依 思想の 基礎
を もつ 経典と して重 要である こ とを指
摘 し たい 。 そ れ は、冶 鎌
が修
行者
の 心の堪
能 性k
聊yat
認表
してい る か らで あ る。 既 に先 学に よっ て「
堪
能性」
が転 依前
の汚れ たアー ラ ヤ識と対立する概 念であ るこ とが指
摘 されてい る が32) 、 その 語は そ も そ も金 を堪 能 にす るよう
に心 を柔軟 にす るという
文脈で 「金工 師経 」 に現 れてい る (本稿1
)。 また 冶金喩
を解 説す
る『
三摩咽多
地』
で も修行
の最終段
階 を「
堪
能性 の精 錬 」と し (本稿 1)、 「第三 瑜 伽 処 」で は 「捨 」の説 明におい て も心 が堪 能性 を獲 得 する こ とが説か れ (本 稿3
)、 別の 箇 所で は金が堪 能に なる よ うに身心の麁 重 を鎮 静 することを 「生軽 安 作 意 」の段階 としてい る 体 稿 4)。 これ らか ら「
止 ・挙
・捨」
によっ て得
る「
堪能性」
は身
心麁
重の鎮静
と結
び つ い てお り、 そ れ が『
瑜伽論』
の な か で次 第
に転依思想
へ と展 開 してい っ た と考
え られ る。 さ らに『
三摩
咽多
地』
と「
第
三瑜伽処」
で は その堪能性
の段
階で金を装飾
品に変 え
る ことを 「変 型pariV
− nam 」で表現 してい た。 それ を 転 依 と関連 する と見るの は粗雑
な 印象
に過 ぎない が、何
らかの 関連があるも の と して留
意してお きたい 。 (36
)NII-Electronic Library Service 『瑜伽 師地論 』における止 ・挙 ・捨につ い て (阿部 ) ま と め
以 上、 ヨ ー ガ時の心の
様相
を表す定
型句 「
止 ・挙
・捨」
がい か なる文脈
で 説か れて い る のか、 どの よ うに してそれ らが 「止 観 」 と見 なさ れ る よう
に 至っ たの か を考察
して きた。まず 『三摩 咽 多 地
』
引 用 文 献 「盪 塵 経 」と、 それ に関連 する 「金工 師 経 」、 及 び『
サ ウン ダラナ ン ダ』
に お い て、「
止 ・挙
・捨」
は冶
金喩
と ともに説
か れてい た。 金工師が金 を洗浄
・溶解
・成型するよう
に、瑜
伽行者
は 心 を浄化
し、 集中 させ、 堪能 にする という
もの で あ る。 ま た こ の過程で、 金 工師が時 に応じて金に水
を注 ぎ、 火 をお こ し、 観 察するよう
に、 瑜伽 行 者 も興奮 時に は 「止」 を、消 沈 時に は 「挙」 を、平 静 時に は 「捨 」を行 ずるべ きで ある。 そのため「
止 ・挙
・捨」
の説明
に は常
に「
時
に応 じて」修
習す
べ きこ とが示
されて い る。『瑜 伽 論 』で は以上 の よ
う
な 「止 ・挙 ・捨 」の 修 行 を瑜 伽 行 者の 実 践 方 法 と して重ん じてい た。 「声
聞 地 』 に は 元 来 「止 ・挙 ・捨」 と 関 連 の ない 四 正 断の 説明 に その 語句
を用い てお り、 そ れ ら を重視 してい たこ とが 分 か る。しか し
『
瑜 伽 論』の成 立 過 程で 「止観」
が 重 視 さ れてい く と、 「止 ・挙 ・ 捨」
という
一連の ターム の原意は失わ れてい っ た。 『声 聞地』 『三 摩 咽多
地』 には 「止 ・挙 ・捨 」 が 「観」 と共に列 挙 される箇 所 が ある。 こう した場 合に は概して「
止」 「
観」
が対概
念 とさ れ、「捨」
が両者
との 関連で説 明
さ れ、 「挙 」の役 割が曖 昧 と なっ てい る。 ま た 「止 ・挙 ・捨 」が 「止 観」 と同等
に 扱わ れ る箇 所 もある。 「声 聞地』に は冶金喩を用い て 「止観 」の 説 明をする 箇所があ り、 『解 深 密 経 』はそ れ と同等の表現 を もっ て 「止観 」 を論 じ、 さ ら に「
止 ・挙
・捨」
を「
止 ・観
・止観和合」
と示す
。こ の よ
う
に 「止 ・挙 ・捨 」 が 「止観 」の範 疇のなか に埋 没 して い っ た た め か、 「止 観 」に よる転 依 という
定 説の 背 景に 「止 ・挙 ・捨 」 によ る転 依があ るこ と を見過 ご して きた。『
声
聞地』
が 引 用す る 「レ ーヴ ァ タ経』
で は転 依 に必 要 な 身心 麁 重の鎮 静が 「止 ・挙 ・捨」
に よ る もの と さ れて い る。 ま た『
瑜 伽 論』
には転 依 との 関連で堪 能 性kannapyata
という
語 が散
見 さ れ る が、 (37
) N工工一Eleotronlo Llbrary智 山学報第五 十 七輯 そ れは元 来 「止 ・挙 ・捨」 によっ て得る心の柔軟 性を
表
す 語句
で あっ た。 ※ 本 稿は第50
回智 山教学 大会 (2006
年 )におい て発 表 し た内容に基づ くもの であ る。 ) ) ) ) )12345
) 6 7) 8)9
) IO) 11)12
)13
) 14)15
) 16)17
) 申村元 「原始仏 教にお ける止観」 『止観の研 究』 岩波 書店 ,1975,pp
.35−49 . 勝又俊教 「瑜伽 師地論に お け る止 観」 『止観の研 究』 岩波書 店,1975,pp
.85− 111 . 大正 191122cl4 .DNMp
.213
(PTS
). 『三摩咽 多地 亅 中 「盪塵経」 引 用箇所のチベ ッ ト訳か らの和 訳に次の ものが あ る。 藤田祥道 「『盪 塵経 』につ い て一瑜伽行派の修道 論との関連性か ら一」 龍 谷大 学 大学 院紀 要 11, 1990, 『三 摩咽多地』の梵文テ キス トは、 M .Delhey 氏の 博士論文に収め ら れ た校訂テ キス ト (発行予定)を氏の 許 可を得て使 用する こ と がで き た。 氏が原本と したもの は、 R…ihula S謡k4y亘ya卩a 写 本 (Sahk;tyayapa 1937 , No ,199 ,24 )の写 真であ
る。
Martin
Delhey
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meditative Versenkung imGrundteil 4θ月 晦8σcδ厂αう觴 瞬 ウ;