織田信 長の高野山攻めにおける調伏祈 祷と高野山客僧 (三好)
織
田
信
長
の
高
野
山
攻
め
に
お
け
る
調
伏
祈
祷
と
高
野
山
客
僧
は
じ
め
に
好
英
樹
〔 ↓ 天 正 九 年 ( 一 五 八 こ 八月
、織
田 信 長 は京
・堺
な ど で 高 野 聖 数 百 人 を 殺 害 す る と と も に 、 紀 伊 国高
野 山 を 攻 め る べ ( 2 〕 ( 3 ) 〈 陣触
れ を発
し た 。 こ の 信 長 に よ る 、所
謂 「 高 野 山攻
め 」 の 直接
的
な 原 因 は 、高
野 山 が 同 月 頃 に 、 山 内 に か く ま っ て い た 荒 木村
重 の 旧臣
の 一部
と 佐 久 間 信 盛 の 遺 品 の 引渡
要 求 を 拒否
し 、 信 長 の使
者 を 生 害 し た こ と に よ る と さ れ る 。 戦 の 期 間 は こ の 月 ( 天 正 九 年 八 月 ) か ら 、本
能寺
の 変 に よ り 信 長 が 自 刃 し た 翌 一 〇年
六月
迄 で あ っ た 。 戦 の 規模
に つ 〔4
ハ 5 〕 い て 『 天 正 高 野 治 乱記
』 ( 以 下 『 治 乱 記 』 ) や 『 高 野春
秋 編 年 輯 録 』 ( 以 下 『 高 野 春 秋 』 ) と い っ た 近 世 の 軍 記物
・ 編纂
物
で ( 信 長 方 ) は 、 「 寄手
総
軍 勢 都 合 十 三 万 七 千 二 百 二 十余
人 」 「 山 上 山 下 の 法 師 武者
・ 与 力 武 士 ・ 諸 庄 地 士等
総 到 着 、 帳 面 三 万 ( 6 > 六 千 二 百 六 拾 余 人也
、 此 外 在 在所
所
闕 所毎
の 番 率等
不 レ 遑 二 毛挙
こ な ど と 描 か れ る が 、 実 際 に は数
度
の 小 規 模 な 合 戦 があ
っ た の み で 、後
の 世 に 語 ら れ る よ う な 一 〇数
万 人 も の 大 軍 に よ る 合 戦 は行
わ れず
、 信 長 方 の緩
慢
な 攻撃
に よ7
) る高
野 山 包 囲 網 であ
っ た と いう
。 し か し 、大
軍勢
に よ る 戦 が 無 か っ た と は い え 、 実 際 に 高 野 山 周 辺 で は 合 戦 が行
わ れ て お り 、 高 野 山周
辺 の 在 地武
261
智山学報 第六十一輯 〔 8 〕 士 や 、
彼
ら と所
縁 の あ る寺
院 な ど が 高 野 山 方 と し て動
員 さ れ 、 高 野 山 か ら の 感 状 も 発給
さ れ て い る 。 ま た 高 野 山 は ( 9 } 戦 を 回 避 す べ く 、仁
和
寺 任 助 法 親 王 や 正 親 町 天 皇 を 頼 っ た り も し た 。 こ の よう
に当
時 の高
野 山 に と っ て は、 比 叡 〔 10 ) 山 .槙
尾 山 が 既 に 信 長 に よ っ て攻
め ら れ 焼 亡 し て い る 事 例 も あ り 、 ま た 同 時 期和
泉 国 に は 大 軍 が 集結
し て い た た め 、 一 山存
亡 の危
機
と 意 識 さ れ て い た こ と は 想 像 に 難 く な い 。 た だ結
局 、 本 能寺
の 変 に よ り 信 長 が自
害
し た た め高
野 山攻
め も 終 結 、結
果 的 に 信 長方
の 「 敗 北 」 と い う こ と に な る ・ そ の た め 信長
方
を 退 け た と いう
「事
実 」 か ら ・後
世・ 「 偏 に 祖 神 の 冥 加 ゜ 人 力 の 軍 功 な れ 碩 」 や 「 六 月 二 日 申 ( 12 } 尅寄
衆悉
敗散
矣
、 是 偏 依 二 悃 祈 悉 地 之効
験
一 也 」 な ど と記
さ れ る が 如 く 、高
野 山方
の 「 勝利
」 や宗
教 的 効 験 が 、 創 ( 13 ) 作 ・ 脚 色 も 加 え ら れ、 大 々 的 に 宣 伝 さ れ る こ と に な っ た と い う 。 こ の よう
な 「 勝 利 」 や宗
教 的効
験 に つ い て の 認 識 や 言 説 は 本能
寺 の 変後
す ぐ に 生 ま れ て い た よう
で 、 天 正 一 〇 年 七 月 二 六 日 付 の 高 野 山 無 量 寿 院 清 胤 書樋
に は・ ( 高 野 山 ) ( 天 正 九 年 )当
山 江 去 年 以 来、 信 長 猛 勢 山 下 迄 差 遣 、寺
中 伽 藍 人 法 雖 レ 欲 下 令 二破
滅 一 候 P 数 度 之 合 戦 、 当 山 之 衆 得 二 勝 利 → 山 中 江 不 レ 入 レ 立候
、 雖 レ然
、 経 一 一 年 月 一 候 者 、如
何
候歟
存 候 之処
、大
師
之御
加
持 力故
歟 、彼
凶徒
父 子 生害
故、当
山 茂 安 全 罷 成 候 、 万 民 歓 喜 不 レ 過 レ 之 候 と 記 さ れ て い る 。 信 長方
が 高 野 山 麓 に ま で 押 し 寄 せ 、 寺 中 伽 藍 人 法 を 破 滅 せ し め ん と し た が 、 数度
の 合 戦 に て 高 野 山方
が勝
利 し た 。 し か し こ の ま ま戦
の年
月 が 経 て ば 高 野 山 は ど の よう
に な っ て し まう
の か と 思 っ て い た と こ ろ 、 「大
師 之御
加
持 力 」 の故
か 、 信 長 ・ 信 忠 父 子 が 生害
せ ら れ 山 内 も安
全 に な っ た 、 と し て い る 。合
戦 で の 勝 利 と と も に 、 「大
師 之 御 加 持 力 」 と いう
霊験
を 述 べ て い る の であ
る 。 こ こ で 、 「数
度 之 合 戦 、 当 山 之衆
得
二 勝 利 → 雖 レ 然 、経
二年
月 一 候者
、如
何 候 歟 存 候 之 処、 大 師 之御
加 持 力故
歟 、 彼 凶 徒 父 子 生 害故
、 当 山 茂安
全 罷 成 候 」 と の 表 現 に 注 目 し た い 。合
戦 で の勝
利 を 記 述 し た 後 に、 「 雖 レ 然 、 経 二年
月 一 候262
織田信 長の 高野 山攻めにお け る 調伏 祈祷 と 高 野 山客僧 (三好 ) 者、 如 何 候 歟 存 候 之 処 」 と 当 時 の 不
安
を 吐 露 し た 上 で 、 「大
師 之 御加
持
力
」 に よ る 信 長 父 子 生 害 を 伝 え て い る 。 戦 で の 勝 利 よ り も 、 「 大 師 之 御 加 持 力 」 に よ る 信 長 父 子 の 滅 亡 を 強 調 し て い る の で あ る 。 で は 、 こ の 「大
師 之 御 加 持 力 」 と は 具体
的 に は 何 を 指 し て い る の で あ ろう
か 。 後 世 の 編 纂 物 は 、高
野 山 攻 め の際
、高
野 山 上 で僧
侶 達 が信
長
調
伏
の 祈 祷 を修
し た こ と を 伝 え て い る 。 『 治 乱 記 』 の 「 七 口 砦 山侶
人 数 賦 之 事 」 で は 「 客僧
中 ハ 任 セ ニ集
会 聴 集 中 之指
図三
会 〆 ゴ 盟 小 田 原弥
勒 堂 二 → 時 付 割符
の 祈 祷 ・ 太 元帥
ノ法
修
ス レ 之 、導
師 十穀
断快
真
勤 レ 之 、就
レ 中 朝 意 卜 与 二 応 其 一 発 ス 一 一要
言 ヲ 己 と 記 述 し 、 「 御 社 山 王 院 祈 祷 霊 験并
寄 手敗
走 ノ事
」 に は、 学侶
の 老衆
中 は 山 王 院 に お い て 五 壇 法 を執
行 、 行 人方
の 極 老 は祈
祷 を警
護
、 客 僧 中 は 小 田 原 弥 勒堂
に 会 合 し て奥
之 院 十 穀 断 木 食 朝 意 并 快真
を大
阿 闍 梨 と な し 太 元 法 を修
行 、 な ど と叙
述 し て い る 。 そ し て 続 け て、 「 六 月 朔 日 辰 の 刻 、 中 壇 の 天 よ り 生 頸 ニ ッ 舞 下 り舞
上り
及 二 三 度 三 消 失 す 、 又 後 夜 修 行 の 時 、 中尊
不 動 明 王 の 利 剣 よ り 血 流 淋漓
たり
、 而後
燈 明 一 同 に 撥 と消
滅 す 」 や 、 「 雲 中 に有
二大
音
一叫
テ 云 ク 信長
已 滅 亡 す と 諸軍
中 響 亙 レ リ 、 山 徒 仰 見 る に 葛 城 山 の方
空 中 に 一片
の 黒 雲聳
来 リ 覆 コ 満 山 上 二 → 其 雲 中 に 在 二 光 気 一 靉 コ 靆 八 葉 之 嶺 一 」 な ど と 生 々 し 〔 15 い表
現 で 、 信 長 が 討 た れ る 直 前 に 起 こ っ た と さ れ る大
法成
就 を 示 し た 不 思 議 な 出 来事
を 描 い て い る 。 ま た 『 修 飾高
( 16 ) 室 院大
勝
金剛
像 之 記 』 で は 、 学 侶 衆 僧 が 南 院 の 不動
尊
を 山 王 院 に安
置 し 、 加 え て 西 南 院 の大
元 帥 像 と 高 室 院 の 大勝
金 剛像
も
出 し て 調 伏 祈 祷 を 行 っ た と こ ろ 、 「 首 級 二 箇 」 が出
現 し 、 空 中 が 「 信 長 父 子終
命
時 至 」 と告
げ
た、 な ど と いう
言
説
も存
在 し て い る 。 実 際 に 信 長 父 子 が 滅 亡 し て い る こ と も あ り 、 信 長 を 退 け た 祈祷
と そ の 霊 験 が 、 近 世 に お い て様
々 に 語 ら れ て い る の で あ る 。 「大
師 之 御 加持
力 」 や 「 是 偏 依 二 悃 祈悉
地 之 効 験 一也
」 と は 、 の ち に こ の よう
に 描 か れ る 宗教
的効
験
を 指 し て い よ う 。 た だ 、 こ の 信 長 に対
す る 調伏
祈 祷 の 記 述 は 管 見 の 限り
後 世 の 編纂
物 の み で あ り 、実
際 に如
何 な る 修 法 や 祈 祷 が 修 さ れ た の か 、 ど の よう
な 僧 に よ っ て 行 わ れ た の か、他
の 史 料 に よ る裏
付
け は な い 。263
智 山学 報第 六十一輯
本
稿 で は、 信 長 に よ る 高 野 山攻
め に 際 し て 山 上 で 修 さ れ た信
長
調 伏 祈 祷 や 、 「大
師
之 御 加 持 力 」 な ど と表
現 さ れ た 霊 験 な ど の 具体
的 な 内 容 を 、 真 言宗
智 山 派 総 本 山 智 積院
智 山書
庫 所 蔵 史料
の紹
介
を 通 し て 、 明 ら か に し た い 。 そ のう
え で、 調 伏祈
祷 を 修 し た客
僧 順 良 房朝
意 に 注 目 し 、 中 世 後期
に お け る高
野 山 の 客僧
に つ い て 考 察 し た い 。 一信
長
の
高
野
山
攻
め
に
お
け
る
調
伏
祈
祷
1
「 如 宝 愛 染 王 法 」奥
書 ・ 『 五 大尊
護
摩
次第
』奥
書1
〔 17 )
本
章
で は、 真 言宗
智 山 派 総本
山 智積
院 の 智 山書
庫
に 蔵 さ れ て い る 『 如 法 不 動 ・愛
染 ・ 勝 軍 地 蔵 法 』 所 収 「 如 宝 愛〔 18 }
染
王法
」 の奥
書
と 、 『 五大
尊
護 摩 次 第 』 の奥
書
を 紹 介 す る こ と で、高
野 山攻
め の際
に 山 上 で 修 さ れ た 調 伏 祈祷
を み て い き た い 。ま
ず
、 『 如法
不 動 ・ 愛染
・ 勝 軍 地蔵
法 』 所収
「 如 宝愛
染 王法
」 の 奥 書 を 取 り 上 げ る ( 奥 書 の 翻 刻 は 後 掲 ) 。『 如 法 不 動 ・ 愛 染 ・ 勝 軍 地 蔵 法 』 は 、 「
如
宝 不 動 供 次 第 」 ・ 「 如 宝 愛 染 王 法 」 ・ 「 勝 軍 地 蔵法
」 の 三 つ の 次第
を 収 め た 聖教
で 、 全文
同 一筆
跡 に て 書 さ れ て い る 。 表 紙 右 下 に は 「無
言蔵
」 と の 墨書
が あ り、 ま た巻
末 に は 「 天 保 二 年辛
卯
( 19 ) 五 月 十 八 日 写 コ 得 之 一 了 、 無 言 蔵 」 と の
書
写 奥 書 が存
す る こ と か ら、 天 保 二年
( 一 八 三 一 ) に無
言 蔵 ( 憲 海 ) に よ っ て書
き
写 さ れ た こ と が わ か る 。こ の 「 如 宝 愛
染
王 法 」 の 奥書
に は 、 「朝
意 順良
御 本 也 」 「於
二 光 臺 院 一 書 コ 写 之 一 畢 、 城 州 順 識 」 と 記 さ れ て お り 、 憲 海書
写
本 の 親 本 は 、 順 識 が 高 野 山 光 臺 院 に て 朝 意 自筆
本 を筆
写 し た 書 で あ っ た 。 順 識 に つ い て は 現 時 点 で 明 ら か に しえ
な い が、 順 識 が 親 本 と し た 朝 意 自 筆 本 は 朝 意 五 四 歳 の時
に東
大
寺 楞 伽 院 に て書
写 し た も の で 、 そ こ に は 「 天 正( 高 野 山 ) 〔 折 力 V [ 20 ) 十 壬 午 五 月 廿 五 日、 於 一 一 小 田 原 弥 勒 堂 一 南 山 錯 乱 之 祈 、 一 万 度 供 レ 之 」 と 、 朝 意 に よ る 追
筆
が存
在
し て い た 。 こ の 「 南 山 錯乱
」 こ そ 、 天 正 九 年 ( 一 五 八 こ 八 月 以 来 の 信 長 に よ る高
野 山攻
め で あ っ た と考
え ら れ る 。 朝 意 に よ っ て 一 万264
織田信長の高野山攻めにおける調伏祈 祷と高野山客僧 (三好) 度 供
養
さ れ た 如 宝愛
染
王 法 と は 、 修 法 壇 の 上 に 如意
宝
珠
を 安 置 し 修 す る 愛 染 明 王 法 で、 秘法
と さ れ、 五種
法
に 通 じ 、 { 21 } 調 伏 に も 用 い ら れ る 修 法 で あ っ た 。 以 上、 本 聖 教 の奥
書 か ら 、 「 南 山 錯 乱 」 の 折 、 つ ま り 信 長 の高
野 山 攻 め に際
し て 、 天 正 一 〇 年 五 月 二 五 日、 高 野 山 小 田 原 弥 勒 堂 に お い て 順良
房
朝 意 が 調 伏 の た め 如 宝愛
染
王 法 を 一 万度
供 養 し た こ と が 判 明す
る 。次
に 『 五大
尊 護摩
次 第 』 の 奥 書 を み て い き た い ( 奥 書 の 翻 刻 は 後 掲 ) 。 『 五 大尊
護
摩
次
第
』 は 、 『 不 動 護 摩調 伏 』 ( 以 下 『 不 動 』 ) ・ 『 軍 荼 利 法 護 摩 調 伏 』 ( 以 下 『 軍 荼 利 』 ) ・ 『 金 剛 夜 叉
護
摩 調 伏 』 ( 以 下 『 金 剛 夜 叉 』 ) ・ 『 大威
徳
護 摩調
伏
』 ( 以 下 『 大 威 徳 』 ) ・ 『 降 三 世護
摩
調 伏 』 ( 以 下 『 降 三 世 』 ) の 五
帖
で 構 成 さ れ て い る 。 『 軍 荼 利 』 ・ 『 金 剛 夜 叉 』 ・ 『 降 三 世 』 の 三 帖 に は 天 正 一 〇 年 と 翌 一 一 年 の 奥書
が 、 『 大 威徳
』 に は 至 徳 三 年 ( 一 三 八 六 ) ・ 長 禄 二 年 ( 一 四 五 入 ) ・ 天 正 一 〇年
・=
年 の奥
書 が、 『 不 動 』 に は 天 正 一 〇 年 ・=
年 の 本奥
書 と 正 徳 四2
七 一 四 ) 年 の 鏡 典 房寂
龍
に よ る書
写 奥 書 が存
し て い る 。 こ れ ら は 全 て 同 じ 筆 跡 で 、 五 帖 と も表
紙
右 下 に 「 弓 尋q
寂
龍
自 筆 」 、表
紙 中 央 に 「 五 冊 之内
」 と 墨書
さ れ て い る た め 、 正徳
四 年 に 鏡典
房
寂 龍 が 五帖
一 旦 ハ と し て書
写 し た 聖教
と い え る 。 寂 龍 に つ い て は 不詳
で あ る 。 こ こ で 着 目 し た い の が 、 天 正 一 〇 年 ・ 一 一年
の 奥 書 で あ る 。 『降
三 世 』 に 「 天 正 十 年 壬 午 正月
十
五 日 、 五大
尊
護摩
書
写
畢
朝
意櫻
砺 歳 」 と あ る の に 続 き、 『 金 剛 夜 叉 』 は昊
正+
年
壬 午 正月
廿 二 日 、黷
房 。 ハ + 五 − L 、 『 不動
』 に は 「 天 正 十年
壬 午 卯 月 三 日 戌 之 尅 書 レ 之 」 な ど と 書 さ れ る よう
に 、 天 正 一 〇年
正 月 か ら 四 月 に か け て 順 良 房朝
意
が 『 五 大 尊 護摩
次第
』 五帖
を筆
写 し た こ と が 記 さ れ て い る 。 天 正 一 〇年
の朝
意
に よ る こ の 書 写 は 、 「 天 正 拾 年 壬 午 正 月 + 六 日 、 当年
当 山及
二破
滅
乏
条 、 祈 祷 用章
俄
五大
尊
護
摩
書 写畢
朝 意 顯 粮 砺 歳 」 ( ・ 大 威 徳 』 ) や ・ ・自
二 (軽
韓
倉
( 壇 V 当 山 乱 入 シ 既 仁及
二 破 滅 一 之 条、 山 上安
穏 ・ 仏 宝 堅 固 之 祈 仁 五 大 尊 五 大檀
護 摩 修 行 ス 」 ( 『 軍 荼 利 』 ) と 記 述 す る が 如 く 、 天 正 九年
八月
か ら の 「 乱 入 」 に よ っ て 「 当 山 」 が 「破
滅 」 に 及 ば ん と し て い る た め 、 「 山 上安
穏
・ 仏 宝 堅 固 」 を祈
265
智 山学報第六十一輯 る 「 五
大
尊 五大
檀 護 摩 」 を 修 さ ん が た め で あ っ た 。 こ の 『 五 大 尊 護 摩 次第
』 は、各
帖 の 外 題 に 「 調 伏 」 と在
る よう
に 、 護摩
壇 の 爐 形 を 三 角 に 描 き、修
す
る方
角 を 南 と し、 壇木
に は 苦 木 ・辛
木
・臭
木 を 用 い る とす
る な ど の 支度
も詳
細
に 記 し て お り 、 ま さ しく
調 伏護
摩
を 行う
た め の 次 第 と い え る 。前
述 の よ う に 、 本 聖 教 を 朝 意 が書
写 す る き っ か け と な っ た の は 、 天 正 九年
八 月 か ら の 「 当 山 」 へ の 「 乱 入 」 で あ っ た 。 そ れ は 、 「信
長 儀 高 野 山 江 被 ル ・ 馬 ヲ 向 ヶ ・ 時 依 テ 三当
山 及 二 滅 亡 二 一 之条
、為
メ ニ 彼 ノ 祈 一 修 レ 此 之条
、 俄 二 五 大 尊 護摩
書
( 22 )写
畢
」 ( 『 金 剛 夜 叉 』 ) と も 書 さ れ 、信
長 が 「 高 野 山 江 被 ル ニ 馬 ヲ向
ヶ 一 時 」 、 つ ま り織
田 信 長 の 高 野 山 攻 め に 際 し て の 「乱
入
」 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 こ れ は 高 野 山攻
め の 開 始時
期
と 、 「 当 山 乱 入 」 の時
期
が 、 同 じく
天 正 九 年 八 月 か ら であ
る こ と か ら も裏
付
け ら れ よう
。 た だ 『 金 剛夜
叉 』 奥書
を は じ め と し て 、 本 聖 教 の 奥 書 か ら で は 、 「 破 滅 」 に 及 ぶ 「 当 山 」 が高
野 山 な の か 、 ま た は 天 正 】 一 年 に書
写 を し た 根 来寺
な の か 判断
を 付 け に く い 。 し か し 、 当 時根
来
寺
と ( 翆信
長 は敵
対 し て お ら ず 、 高 野 山攻
め に お い て も 信 長 方 と し て対
応 し て い た た め 、 「 破 滅 」 に 及 ぶ ほ ど の 攻 撃 を受
け
た と は 考 え難
い 。 ま た 先 に見
た よう
に 、朝
意 は高
野 山 上 に て如
宝 愛 染 王 法 を 天 正 一 〇 年 五 月 に修
し て お り、 こ の時
期
は 高 野 山 上 に い た と 思 し い 。 「当
山 」 は 高 野 山 と 判断
し て 間違
い無
い 。信
長 の 高 野 山 攻 め に 対 し 、 山 上 で 「 五大
尊
五 大 檀 護摩
」 と い う 修 法 も 行 わ れ た の で あ る 。 こ の 「 五大
尊 五 大 檀 護 摩 」 と は 、中
壇 不 動 法 を中
心 に し て脇
壇 に 降 三 世法
・ 軍荼
利 法 ・ 大 威 徳法
・ 金 剛 夜 叉 法 を 配 し 五 連 壇 で 修 行 す る 五 壇法
と も呼
ば れ る修
法 で、 国家
的 な 祈祷
と し て も修
さ れ る こ と の あ る 所 謂 「大
法 」 で あ っ 須 ) た 。高
野 山 上 に お け る 五 壇 法 は、 応永
一 八 年2
四=
) 一 二 月 に 「御
社 」 「鎮
守 拝 殿 」 と 称 さ れ る 山 王 院 に て 修 さ れ 〔 25 ) た り 、 応 永 二 六 年 九 月 、 公方
の 命 に よ り 応 永 の外
寇
に 対す
る 異 国 調 伏 祈 祷 と し て 金 堂 に て 検 校 ・左
右
学
頭 ら に よ っ ( 26 } て 執 り行
わ れ た り し て い る 。 天 正 一 〇年
に お け る 五 壇 法 に つ い て は 、各
壇 が ど の よう
な 立 場 の 僧 に よ っ て 担 わ れ た の か 、 何処
で 修 さ れ た の か な ど の 記 載 は 無 い も の の、 「 学 侶 一 派 調 伏 秘法
也 」 ( 『 軍 茶 利 』 ) と 記 述 す る こ と か ら、 応永
266
織田信長の高野 山攻めにお ける調伏祈 祷と高野山客 僧 (三好 ) 〔 27 の 例 の ご と
く
、 学侶
方 の お そ ら く は 検校
・ 左 右 学 頭 ら を は じ め と す る 三所
十 聴 衆 よ り 選 出 し 、 山 王 院 も し く は 金 堂 〔 28 } に て 実 施 さ れ た の で あ ろ う 。朝
意 は、 「 祈祷
用 意 、 俄 五 大尊
護
摩 書 写畢
」 ( 『 大 威 徳 』 ) や 「 為 メ ニ彼
ノ 祈 一修
レ 此 之条
、 俄 二 五大
尊
護
摩 書 写畢
」 ( 『 金 剛 夜 叉 』 ) と 記 し 、加
え て 『 五 大尊
護
摩 次 第 』本
文 所 々 に 伴 僧 の 所 作 に つ い て の 記 入 をす
る こ と か ら 、 伴 僧 も し く は護
摩
衆 な ど と い っ た 職 衆 と し て 修 法 に 出 仕 し た と 考 え ら れ る 。 一 山 存 亡 の危
機 に 際 し て 、 五 壇 法 が高
野 山 の 僧 に よ っ て 独 自 に 執 行 さ れ た の で あ る 。 で は こ こ で 、本
聖 教奥
書
か ら高
野 山 上 で 行 わ れ た 五 壇 法 執行
の 様 子 を み て い き た い 。 前 述 の よう
に 、 天 正 九年
八 月 よ り 信 長 方 の攻
撃
が 開 始 さ れ 、高
野 山方
は 一 山 「 破 滅 」 「 滅 亡 」 の危
機
と 認 識 し て い た 。 こ の事
態 に 対処
す る た め 、 山 上 で は 五 壇 法 が修
さ れ る こ と と な り、 翌 一 〇 年 正 月 に朝
意 は 『降
三 世 』 ・ 『大
威徳
』 ・ 『 軍荼
利 』 ・ 『 金 剛夜
叉 』 を書
写 、 四 月 三 日 に 『 不動
』 を 書 写 す る な ど、 祈 祷 の準
備 が な さ れ た 。 そ し て 四 月 一 九 日 か ら 五月
三 日 ま で の 二 七 日 間 、 五 壇法
が修
さ れ た の で あ る ( 『 金 剛 夜 叉 』 ) 。 そ の 期 間 中 の様
子 が 『 金 剛夜
叉 』奥
書 に 、左
の よう
に詳
し く 記 さ れ て い る 。 午 ノ 四 月 従 二 十 九 日 一 五 月 至 一 一 三 日 → 五 大 尊 ノ 五 壇 之護
摩
ヲ修
ス 、 護 摩衆
卅 人 ・ 伴 僧 五 十 人 、壇
別 昼 夜 十 二 座 、 伴 ( 金 剛 夜 叉 ) ( 降 三 世 ) 〔 軍 荼 利 ) ( 大 威 徳 ) 僧 タ ラ ニ 開白
之 座 ニ ハ 不 動 調伏
ノ 句 ヲ 加 へ 、 第 二 座 目 ヨ リ金
・
降
・
軍
・
大
卜 唱 畢 、 然 ハ 不 ・ 金 ・ ( 災 力 ) 降 ・ 軍 ・大
卜咒
ヲ 唱畢
、 護 摩 衆 同 タ ラ ニ 加 ル ノ 間 、 時 別 三 十 人 ツ ・ 両番
、支
具 ハ皆
息器
也、 修 行 許 二 調 伏 ( 廿 一 日 ノ 暮 ヨ リ廿
六 日 二 至 ル マ テ 西 二 大 二 及 二 百 丈 二 一 如 二大
木 ノ 一 白 気 立 畢 、 末 ハ 南 ニ ナ ヒ ク 、 一 里斗
卜 見 へ畢
、 又 金 剛 夜 叉 ノ壇
ノ 上 二 生 キ 首 べ 両 三 度 見 へ畢
ル こ れ に よ る と 、 護 摩衆
三 〇 人 ・伴
僧 五 〇 人 で 、 壇 別 に 昼夜
一 二 座 行 い 、伴
僧 の 陀 羅尼
は 開白
の 座 で は 不 動 調 伏 の句
を加
え 、第
二 座 目 より
金剛
夜 叉 ・ 降 三 世 ・ 軍荼
利 ・大
威徳
の 陀 羅 尼 を 唱 え た と いう
。 護 摩衆
も 同 じ く 陀 羅 尼 を 加 え 、 時 別 三 〇 人 つ つ 両 番 、支
具 はす
べ て 息 災 を 用 い 、 調 伏 ば か り 修 行 し た と いう
。 そ の 間 、 四月
二 一 日 の暮
れ か ら267
智 山学 報第六十一輯 【表】厂如宝愛染王法」 奥 書 ・『五大尊護摩 次第』 奥 書に みる信長 調伏祈祷 年 月 日 事 項 出 典 天 正
9
年8
月 信 長、高野 山へ 乱 入。 『軍荼利』 天 正10年 1月 朝 意、『降三世』・『大威 徳』・『軍 荼利』・ r金 剛 夜 叉』 を 書 写。 『降三 世』 ・『大 威 徳』・ 『軍荼利』・『金 剛 夜叉』 天正 10 年 4月 3 日 朝意、『不 動』 を書写。 r不動』 天正10
年4
月19
日 五壇 法、 開 白。 r金 剛夜 叉』 天 正 10年 4月 21日〜26日 百 丈に及ぶ大 木の 如 き白気が 立つ 。 r金剛夜叉』 天 正10
年 某日 金 剛夜叉の 壇上に生首が両三度現れ る。 r金剛夜叉』 天 正 10年 5月3 日 五壇 法、結 願。 r金剛夜 叉』 天 正 10 年 5月25日 朝意、小田原弥 勒 堂におい て如 宝 愛 染王 法を一万度供 す。 「如 宝愛 染王法」 天正 10年 6月2 日 本 能寺の変。 二 六 日 に 至 る ま で 、 西 に 百丈
に も 及 ぶ大
木 の 如 き 白気
が 立 ち の ぼり
、 そ の 末 は 南 へ と た な び き 、 長 さ は 一 里 程 で あ っ た と いう
。 ま た 、 金剛
夜 叉 の 壇王
で は 生 首 が 両 三 度 見 え た と い う 。 そ し て、 五 月 三 日 の結
願
か ら 一 ヶ 月 後 の 天 正 一 〇 年 六月
二 日 、 「 叶 二 理 運 一 大 敵 早 速滅
亡 ス ト 云 々 」 ( 『 不 動 』 ) と 朝 意 が の ち に記
す
よう
に 、 信 長 は 本能
寺
に て 倒 れ る こ と と な る の で あ る 。 た だ 、 『 金 剛 夜 叉 』 の こ の 詳 細 な奥
書 は 、 記 述 し た 年 が 記 さ れ て い な い 。 し か し 『 五 大 尊護
摩 次第
』 に は 、 寂 龍 に よ る 正 徳 四年
の書
写奥
書 が 『 不動
』 に の み存
し 、 他 の 四 帖 は 天 正 一 〇 年 と 同=
年
の奥
書
だ け が 書 か れ 、 寂 龍 に よ る 書 写 奥 書 は 無 い 。 そ の た め 、 『 不 動 』 の書
写奥
書
以外
の 奥 書 は 、寂
龍 が書
写 し た 親 本 に 存 し た 奥書
と考
え ら れ る 。 ま た 、 こ の 『 金 剛 夜 叉 』奥
書 に は 、 「 云 々 」 な ど引
用 や伝
聞
の 文 言 が 使 わ れ て い な い た め 、筆
記 し た 本 人 の体
験 を 記 し て い る と 判断
で き る 。加
え て 、 『 治 乱 記 』 な ど近
世 の 編 纂 物 な ど で は信
長
滅
亡 を 伝 え る 言 葉 が 空 中 か ら 聞 こ え た こ と に な っ て い る が 、 本記
述 に は 無 く、 新 た な 霊 験譚
が加
え ら れ る 前 の 内 容 で あ る と も考
え ら れ 〔 29 ) る 。 こ れ ら の こ と か ら 『 金剛
夜 叉 』 の 記 述 は、朝
意 が 五 壇法
結
願
後
に 追 記 、 遅 く と も 天 正 一 一年
に 根 来寺
に て 書 写 し た 際 に 回 想 し て記
録
し た と考
え ら れ 、 内 容 の信
憑 性 は高
い と い え よう
。268
織田信長の高野 山攻め にお ける調 伏 祈 祷 と高 野 山客僧 (三好) 本 章 で は 、 智 山 書 庫 蔵 『
如
法
不 動 ・ 愛 染 ・勝
軍 地 蔵法
』 所 収 「如
宝 愛 染 王法
」 と 『 五大
尊 護 摩 次 第 』 の 天 正 一 〇 〔 30 }年
か ら 一 一 年 に 記 さ れ た 奥書
に着
目 し 、 こ の 二 つ の 聖 教 が 、 信 長 の高
野 山 攻 め に 際 し て 順 良 房 朝 意 に より
調 伏祈
祷 の た め に 用 い ら れ た 聖 教 を書
写
し た も の で あ る こ と を 明 ら か に し た 上 で 、 高 野 山攻
め の時
に 山 上 で 修 さ れ た 調伏
祈 祷 の内
容 を 見 て き た 【 表 】 。 五 壇 法 や 如 宝愛
染
王法
な ど の 修法
結 願後
す
ぐ に 信 長 が 倒 れ た た め 、 高 野 山攻
め 終 結後
ほ ど な く 「 大 師 御 加 持力
故 歟 」 と の 霊 験 が高
野 山 僧 に 強 く 意 識 さ れ た と 考 え ら れ る 。 そ れ は 、 五 壇 法 結 願 後 ま も な い 時 期 か ら 、 修 法 執 行 中 に 百丈
に 及 ぶ 大 木 の 如 き 白 気 が 立 っ た 、 や 、 金 剛 夜 叉 の 壇 上 に 生 首 が 三 度 現出
し た 、 な ど の 不 思 議 な 出 来事
が 語 ら れ て い る こ と か ら も 窺 え よう
。 後 世、 『 治 乱 記 』 や 『 高 野春
秋 』、 『 修 飾 高 室院
大
勝 金 剛 像 之 記 』 な ど で 高 野 山 の 霊 験 が 大 々 的 に 語 り伝
え ら れ て い る が、 編纂
物
が 一 か ら 創作
し た の で は な く 、当
時
か ら 既 に存
在 し た 認 識 に 更 な る 言 説 を 加 え る こ と で 成 立 し て い っ た と い え る 。 以 上 、 高 野 山 上 で 行 わ れ た 修 法 は こ れ だ け で は な い で あ ろ う が、 従 来 、後
世 の 記 録 や 編纂
物 か ら窺
う
し か な か っ た信
長
調
伏 祈 祷 に つ い て、 本 史 料 に よ り実
際 に 如宝
愛
染 王法
や 五壇
法 な ど が 執 行 さ れ て い た こ と を確
認 す る こ と が でき
た 。 二高
野
山
客
僧
木
食
朝
意
で は 「 如 宝愛
染
王 法 」 と 『 五大
尊
護 摩 次 第 』 、 こ の 二 つ の 聖 教 を 書 写 し 、 秘 法 や大
法
と さ れ る こ れ ら の 法 を修
し得
た 順 良 房朝
意 と は ど の よ う な 僧 で あ っ た の か 。本
章 で は こ の朝
意 に 注 目 し 、信
長 調 伏 の祈
祷 を修
し た 天 正 一 〇年
( 一 五 八 二 ∀ 頃 の朝
意 の特
性 に つ い て み て み た い 。 順 良房
朝 意 は 、 大 和 添 上 郡 に 生 ま れ 、 高 野 山光
臺 院 内 真善
院
に住
し 、 慶長
四 年 ( 一 五 九 九 ) 一 〇月
一 九 日 に 八 二才
269
智山学 報 第六十一輯 ( 31 ) で
寂
し た と さ れ る 。声
明家
と し て 名 高 く 、勢
遍 に従
い 声 明 を受
け
、 『 魚 山 螢芥
集 』 を著
し た 長 恵 の孫
弟
子 に あ た る ( 32 一 と と も に、 声 明集
を多
数 書 写 し 、 秘 讃 の伝
承 の 上 で 重 要 な役
割 を 果 た し た と いう
。 し か し朝
意 の 、従
来
か ら よ く知
ら れ て い る こ の よう
な 特性
だ け で は 、 一 山 の 危 機 に調
伏 祈 祷 を担
い 得 た 理 由 に は な ら な い で あ ろう
。 ( 33 )諸
聖 教 の奥
書 を み て み る と朝
意
は 、 永 禄 一 二 年 ( 一 五 六 九 ) に 「 南 山 客 僧朝
意
」 と 記 し て い る と さ れ 、 元 亀 三 年 ( 一 〔 34 } 五 七 二 ) に は 「 於 二 仁 和寺
御 室御
所
一書
写
了、 金 剛峯
寺
順 良 五十
五才
朝 意 ( 在 判 ) 」 、 ま た 天 正 三 年 二 五 七 五 ) に は 「南
山 朝意
書
レ 之 ・良
・た
施 」 や ・於
二 南屮
書乏
籀
塑
驫
燈
掴 L な ど と 書 し て萱
亠 咼 野 山 の 客 僧 で あ ・ た ・ 元 亀 ( 37 ) ( 38 ) 三年
に 仁 和寺
で書
写 活 動 を し て い る よう
に 、 朝 意 は 、 天 正 元 年 に 『 吉 祥 天 』 や 『 小 野 神 供 』 な ど を根
来 寺 に て 書 写 し、前
章
で見
た 『 五 大 尊護
摩 次 第 』 も 天 正=
年 に根
来寺
で筆
写、 ま た 「 如宝
愛
染 王法
」 を 天 正 一 〇年
以前
に 東大
寺 に お い て書
写 し て い る 。 仁 和 寺 や 東 大 寺 、 根 来寺
な ど 高 野 山 以外
の 諸 寺 で も修
学 し て い た 様 子 が窺
え る 。 ( 39 〕 こ の よ う な 高 野 山 客 僧朝
意 は 、 天 正 一 〇年
に 「朝
意
木 食御
本 申請
写 コ 書 之 一 」 と 記 さ れ る が如
く 、他
者
か ら 木食
と 認 識 さ れ る存
在 で も あ っ た 。 朝 意 が 木 食 で あ っ た こ と は 、 天 正 一 八 年 の 「 当 流加
行 砌 、 於 二 光臺
院 一 鴛 夢q
木
食朝
意 〔 40 〕 ( 41 ) 致 二伝
受 一 書 ] 写 之 一 訖 、 成 遍 」 や 「 於 二 光 臺 院 一書
レ 之 、安
祥 寺 隆快
僧
正 御 自筆
従 二 南 院 一 給 レ 之 書 写 了 、 朝 意木
食
七 + 三 オ 」 、文
禄 三年
(≡
九 四あ
・奉
彜
与 宥 盛 入 寺朝
意 木飽
L ・ 翌 四年
の ・ 音譽
道 朝桑
食
駕
才 ( 花 擁 ) L な ど と いう
奥書
か ら も 判 明 す る 。 そ し て朝
意 は、 「 天文
二十
三 年 甲寅
五 月 二 十 五 日 、 高 野 山 南 院宥
智
阿 闍 梨賜
二御
本 → 二 十 八 〔 翌 日 書 写 了 、 和 州 産 木食
朝 意 」 と 記 す よう
に 天 文 二 三 年 ( 一 五 五 四 ) に は木
食
で あ り、 慶長
二年
( 一 五 九 七 ) に も 「朝
意 ( 木 ) 〔 鏨 不食
花 押 八 十才
」 と 書 き 遺 す こ と か ら 、 八 二才
で 没 す る ま で 木 食 行 者 で あ っ た と い え る 。 木食
と は 、 十 穀 断 と も 呼 ば れ る 断 穀修
行 の 行 者 の こ と で あ り 、 中 世 後 期 に お け る 木食
は 「 穀 断 行 そ の も の が彼
等
霾 の 宗 教者
と し て の質
、 そ の 聖性
を 高 め て い る 」 と さ れ 、 そ の 祈 祷 や 祈 願 の 力 が社
会 か ら 期 待 さ れ て い た と い う 。朝
冖 47 〕 意 も 、 「 文 禄 四年
乙 未 七 月十
八 日 、 余 炎 旱 之 問 、 書 レ 之 、 即行
レ 之、 朝 意木
食 有 判 」 と の 奥 書 が 水 天 供 の 次 第 に残
さ270
織田信長の高野 山攻めにおける調伏祈 祷と高野山客 僧 (三好 ) 〔 48 ) れ て い る よ う に 、 炎
旱
の た め 水 天供
を行
っ て い る 。 旱 魃 に よ る 、農
業 生 産 や 生存
に 欠 く こ と の で き な い水
の 不 足 に 対 し 、木
食
で あ る 朝意
の 験 力 に 周 辺 地 域 社会
か ら 期 待 が 寄 せ ら れ 、 そ の 求 め に応
じ 祈 雨 を 目 的 と し て 水 天供
を 修 し た と も考
え ら れ よ う 。 〔 49 } こ の 例 を は じ め と し て 、 朝 意 が事
相 の 面 に優
れ て い た こ と は 、 『 野 沢 血脈
集 』 の 「 安 祥寺
諸 流 一 統 血脈
」 に 快 旻 〔 50 ) 冖 51 ) や 宥 智 の 弟 子 と し て 釣 ら れ て い る こ と 、 天 正 一 四 年 以 降 「 阿 闍梨
木
食 朝 意 」 、 天 正 一 六 年 に 「 伝 授 阿闍
梨 権 律 師 朝 ( 52 ) 〔 53 ) 意 」 、 天 正 二 一年
に は 「伝
授 阿 闍 梨 大 僧 都朝
意
」 と し て 、 安 祥 寺 流 や 持 明 院 流 ・ 中 院 流 な ど 諸 流 を伝
授 しう
る 立 場 〔 54 ) に な る こ と か ら も わ か る 。 た だ 、 既 に 挙 げ た朝
意 書 写 の奥
書
を 持 つ 聖 教 の 種類
か ら窺
え る よう
に 、 朝 意 に よ る 聖 教 の 書 写 は 、 修法
の 次第
な ど事
相 関係
は多
い も の の 、 管見
の 限り
教相
に 関 す るも
の を 見 い だ せ て い な い 。朝
意
は 事 相 〔 55 ) 面 に特
化
し て 習得
し 、卓
越 し た宗
教
的能
力 を有
す る 僧 で あ っ た と い え る 。 以 上 の よ う に、 天 正 一 〇年
頃 の 順 良 房 朝 意 は 、 高 野 山 客 僧 で あ る 木食
で あ り 、幾
つ も の 法 流 を 受 け た 、事
相 面 に お い て 優 れ た宗
教 的 な 力 を 発 揮 しう
る 僧 で あ っ た 。 ま た 朝 意 は 、諸
寺 院 に て事
相
な ど の 研 鑽 を す る も の の、 聖 教 の 書 写 や法
流 の授
受
な ど 活 動 の ほ と ん ど は 高 野 山 で あ り 、 客 僧 と は い え 、 高 野 山常
住
に 近 い 僧 で あ っ た 。 信長
調 伏 祈 祷 の 一翼
は こ の よ う な 僧 に よ っ て担
わ れ た の で あ る 。三
中
世
後
期
に
お
け
る
高
野
山
客
僧
前章
で は 、朝
意 が高
野 山 の 客 僧 で あ る 木 食 で あ り 、 ま た事
相
の 面 に お い ても
優
れ た 僧 で あ る こ と を み て き た 。 で は 、朝
意 が 属 し た 客僧
と は、 高 野 山 内 に お い て 如 何 な る存
在 で あ っ た の か。 ハ 56 ) 一般
的 に 客僧
と は 、 客 の僧
や 遍 歴 ・ 廻 国 す る 旅 の 僧 ・ 山 伏 を 指 す と さ れ て い る 。 特 に 中 世後
期 に お い て は ほ ぼ 山271
智山学報 第 六 十一輯 伏 の こ と と さ れ 、 長 谷 川
賢
二氏
に よ る と、 近 江 国 伊 吹 山観
音 寺 を事
例 と し て 、 中 世後
期 の寺
内 に お け る 客 僧 と 山 伏 ( 57 } と は 同 一 の 認 識 対象
で あ っ た と いう
。 中 世後
期 の 高 野 山 客 僧 に つ い て は 、 和多
昭 夫 ( 秀 乗 ) 氏 が 木食
応 其 の 高 野 山 内 に お け る 地位
や 性 格 を検
討 す る 際 に 注 目 し 、 高 野 山 の客
僧 と 木食
と は機
能 上 本質
的 に 同 一 の性
格 を帯
び て お り、 行学
両 面 に お い て 学 侶 と遜
色 な い 地 位 を 占 め 、 特 に 行 人 的 . 聖 的 な 性 格 を 強 く 兼 ね 備 え な が ら 、 学 侶 ( 衆 徒 ) ・ 行 人 ・ 聖 い ず れ に も 属 さ な い存
在
で あ っ た ( 58 ) 〔 59 ) ま た 太 田 直 之 氏 は 、 高 野 山 に お け る 十 穀 聖 ( 木 食 ) の 具 体 像 や そ の 淵 源 を 明 ら か に す る 中 で 、 「 客 僧 と は 一 と す る 。 般 に諸
国 を 修 行 の た め に 遍 歴す
る 僧 侶 の こ と を 指 し 、 特 に 中 世後
期 以 降 は 、多
く
山伏
を指
す
も の 」 と定
義 し て 、 高 野 山 に 集 ま っ て き た 客 僧 は 「教 学 の
奥
義
を 求 め て き た 者 」 と 「十 穀 断 な ど の 行 を 行
う
こ と を 目 的 と し て 来 た 者 」 で あり
、 こ のが 木 食 ( 木 食 聖 ・ + 穀 断 ) に つ な が る と す る 。 そ し て 木 食 と 修 験 者 の 断 穀 と い
う
修
行 形 態 に よ る 親 縁性
を指
摘 し 、 「 木 食 は修
験
者
と 極 め て 近 い と こ ろ か ら 発 生 し た 」 と し て い る 。 つ まり
、 高 野 山客
僧
の大
部 分 は 山 伏 で あ る と 捉 え、 そ の 「客
僧
山 伏 」 の 周 縁 に 、 山 伏 と し て 組織
さ れ な い 断穀
修
行 の 行者
で あ る木
食 が 位 置 し て い る とす
る 。 高 野 山 の客
僧 と 木 食 の 関係
に つ い て の 両 氏 の 説 は、 高 野 山 上 に客
坊
を 建 立す
る た め に書
さ れ た永
享
九年
( 一 四 三 〔 60 〕 七 ) 六 月 日 付 「 沙 門 弘範
客坊
勧進
状 」 が 重 要 な 論 拠 と な っ て い る 。請
下 特 蒙 二 貴賤
甲
乙 恩 助 一 預 二 緇 素 男 女 奉加
一於
二 高 野 山 一建
刺 興 客 坊 上 状 ( 源 仁 ) 伏 惟 当 山 者 ( 中 略 )爰
当 山 之 為 体 、 a 或 有 下 浴 二 南 池 両 門 法水
ハ欽
コ 酌 東 寺 一家
之 源 流 一 之儔
抄b
或
有 地 欲 下探
二 二 教 C 十 住 之 差 降 → 携 中 教 門 筌蹄
上 之彙
知或 有 下 炎 夏 暑 月 断 二 穀
醤
ハ 昼 夜持
コ 念 神 呪 → 玄 冬 素 雪 著 二弊
衣 → 三 時 企 二 預 修 密 行 一 之 族 か如
レ 此 行学
懇
志 之 来 賓 客、 住頗
多
レ 之 、 雖 レ 然 依 レ無
二 法 談 之 会 所 ハ 不 レ 琢 コ磨
教
理 →依
レ 闕 二修
行 之 密 ( 誓 力 ) 場 → 空 拱 二 修 練手
一 而 已 、 瞻 レ 之 愁悲
難
レ 抑 、 聴 レ 之 哀感
迫
レ胸
、肆
僧 坊 造 立 之 盟擔
、 不 レ 休 二 于晨
昏
→法
席
興 行 之272
織田信長の 高 野 山攻め に おける調伏 祈祷と高 野山客僧 (三好 ) 欝
念
、累
コ在
于寤
寐 → 悲 哉 小 僧 得 二 孤 露 無 縁 之 身 → 無 二 一 衣 一 鉢 之 貯 ハ 曷致
二造
営
之大
功 一 乎 、 不 レ 如 下 預 二 十方
檀 那 之 恩 顧 の 遂 中 三 宝 紹 隆 之 素 顔 上 ( 下 略 )史
料 の 傍線
部 ( a ・b
・ c ) 、高
野 山 に集
う
客 僧 に つ い て 記 し た 箇 所 に 、 「 断 二穀
醤
一 」 「着
二 弊 衣 一 」 ( c ) な ど の文
言 が あ る こ と か ら 、 和多
氏 は 客 僧 と木
食 を 同 一 の 存 在 と み な し 、太
田氏
は 客 僧( 山 伏 ) の 一 部 が 木食
で あ る と す る 。 こ の 傍線
部 ( a ・b
・ c ) は 、 客僧
の 有 り 様 に つ い て 並 列 し て 述 べ て い る の で あり
、 太 田 氏 が い う よ う に客
僧
の 一 部 に 木食
も存
在
し た とす
る の が 妥 当 で あ る と 考 え る 。 た だ太
田 氏 は、 木食
の 出自
を 明 ら か に す る こ と を 目 的 と し て い る た め 、 長 谷 川 氏 の 論 に 拠 っ て 客 僧 を 山 伏 と定
義 し て お り 、高
野 山 客僧
の 分 析 か ら そ れ が 導 き 出 さ れ た わ け で は な い 。 ま た 和多
氏 の、 客 僧 が 学 侶 ( 衆 徒 ) ・ 行 人 ・ 聖 の いず
れ に も 属 さ な い存
在
で あ っ た と いう
位 置 づ け は 首肯
しう
る け れ ど も 、 『 高 野説
物 語 』 な ど 近 世 の 編纂
物 に 拠 る と こ ろも
多
い 。 本 章 で は 、 先 学 の 驥 尾 に 付 し て今
一 度 中 世 後 期 に おけ
る 高 野 山 客 僧 の 山 内 で の位
置 や、 客僧
を 構 成 す る 僧 侶 に つ い て 考察
し た い 。 まず
、 「 沙 門 弘範
客 坊 勧 進状
」 に よ り、 永享
九 年 に は結
集
の場
と な る客
坊 の 建 立 を 目 指 す ほ ど、 当 時 客 僧 が 山 上 ( 61 ) に集
住
し て い た こ と を 押 さ え て お き た い 。 高 野 山 上 に 来 た 客 僧 は、 嘉 元 二 年 ( = 二 〇 四 ) の 阿 弖 川 庄 の 地 頭 に つ い て の 置 文 に よ る と、 寺 家 に 敵 対 し た 地 頭 は 庄官
と な さ な い こ と を 定 め た 上 で 、 「 向 後 於 二 彼 地 頭 之親
類 并 縁者
一者
、 雖 レ ( 62 )為
二 垂 髪 ・ 客僧
等 ハ 不 レ 可 二 同宿
→ 若 於 下 背 二 此 旨 一令
二 同宿
之仁
上者
、 罪 科 可 レ 為 二 同 前 一事
」 と あ る こ と か ら、特
別 な事
件
が な い 限 り 垂 髪 ( 稚 児 ・ 童 ) と 同 じ よ う に 、 山 上 の 坊 院 に 同宿
し て い た と い え る 。 こ の こ と は 時 代 が 降 っ て も 同様
〔 63 } ( 64 ) で、 文安
四年
( 一 四 四 七 ) の 「弥
勒 堂 客僧
賢
深 房 」 や 天 正 一 八 年 ( 一 五 九 〇 ) の 「 以 二 光臺
院 木食
朝 意御
本
一 写 レ 之 」 な ど 、 客僧
が い る堂
舎 や 坊 院 が 他 者 か ら記
さ れ て い る こ と か らも
窺
え よう
。智山学報第六十一輯 で は
次
に 、 客 僧 の寺
内 で の 位 置 を 確 認 し て い き た い 。 〔 65 ) 慶 長 六年
( 一 六 〇 一 ) 、 衆 徒 方 は 奉 行衆
( 西 笑 承 兌 ) へ 、行
人方
に よ る 衆 徒 方 へ の沙
汰
は 認 め ら れ な い こ と な ど を訴
え ( 応 其 V た 。 そ の訴
状
に は 、 「従
二太 閤 様 ハ 高 野 之
諸
沙 汰 、木
食 に 被 二 仰 付 一 候事
、 上 人 儀 ハ木
食 草 衣 之 身 上 に し て、 衆 徒 ・ ( 66 ) 行 人 の外
に 候 へ は 、末
代 衆 徒 之 瑕 瑾 に 不 二 罷成
一 候 問 、 不 レ 及 二 是 非 之校
合
一候
」 と 記 さ れ 、 曲 豆 臣 秀 吉 に高
野 山 の諸
沙 汰 を 仰 せ つ け ら れ て い た 上 人 ( 応 其 ) は木
食 で あ り 、衆
徒 ・ 行 人 の 外 に 属 す る た め 、 衆 徒 の瑕
瑾 に は な ら な か っ た と し て い る 。木
食 で あ る 応其
は 、 衆 徒 ・ 行 人 と は 異 な る 存在
で あ っ た 。 中 世 後 期、 高 野 山 の 中 心 的 な 僧 侶組
織
は 、 衆 ( 67 > 徒 ( 学 侶 ) .行
人 ・ 聖 の い わ ゆ る 三派
に て 構 成 さ れ て い た 。 そ し て 、 衆 徒 ・ 行 人 の 外 で あ る と み な さ れ た 応其
は 、 木 〔 68 ) 食 で あ る と と も に 客僧
で も あ っ た 。 こ の こ と か ら 客僧
も 、 木食
同 様 、衆
徒 と 行 人 の ど ち ら に も 属 さ な い存
在
で あ る と い え る 。 ( 69 ) ま た 、客
僧
の 寺内
で の位
置 は 、 文 禄 五 年 ( 一 五 九 六 ) に 奥 院 灯籠
堂 が炎
上 し た 際 の 再建
過 程 か ら も 窺 え る 。 「 当 山 学 侶 衆 . 行 人 衆 ・ 客 僧 衆 ・ 卅 六 ケ 道 場 衆、 応 二 其 器 量 一 成 レ勧
」 と あ る よう
に 、 高 野 山 の 学 侶 衆 ( 衆 徒 ) ・ 行 人 衆 ・ 客 僧 衆 . 三 六 ケ道
場 衆 に対
し て 勧 進 が な さ れ た 。 弘法
大
師 が 入定
留
身
し て い る奥
院 の 灯籠
堂 復 興 で あ る た め 、高
野 山 上 の 僧 侶集
団す
べ て に勧
進 が な さ れ た と 考 え ら れ 、 こ の 四集
団 が 高 野 山 を 構 成 す る 僧侶
集 団 で あ っ た と 判断
で き る 。 〔 70 〕 三 六 ケ道
場
衆
は 時宗
の 聖 衆 で あ ろう
か ら 、客
僧 衆 は 衆 徒 ・ 行 人 ・ 聖 の 三 派 い ず れ に も 属 さ な い集
団 で あ る と い え る 。 と は い え 、 こ こ に表
れ た 「 客 僧 衆 」 は 、 天 正 冖 八 年 の 応 其 に よ る 興 山寺
建 立 に よ っ て新
た な結
集
の 場 が 出 来 、 組 織 化 が な っ た 集 団 で あ ろ う 。 興 山 寺 は 、 「 天 正 年 中 に 諸 国 よ り住
山 之 客 僧衆
、 木 食 上 人 を 本 願 と た の み 、論
議法
談 会 場 之 た め に 、各
相 応 に 料 物 を 出 し、 其 外 世 問 之奉
加 を こ ひ 、 始 而建
立 い た し、 そ れ よ り 以 来 三 十 ヶ 年余
、 客僧
衆 年 中 之 寺 役 、毎
月 之法
談 、 無 二 怠 慢 一 相 勤 、 其衆
中 百 人余
御 座 候 を 、興
山寺
結 衆 と な づけ
、学
問仕
候 」 「彼
寺
建 立 之 〔 71 ) 後 、 且 く客
坊
と申
候 て 、 別 而 之寺
号 無 二 御 座 一 候 二 付 、 木 食 上 人 後 陽 成 院様
江 経 二奏
聞
→ 興 山寺
と 申 勅 額 申請
候事
」織田信 長の 高野山攻めにおける調伏祈 祷と高野山客僧 (三好) と あ る よ