CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN
−
KANGAKU−
KA 工入
出息念
の
大乗的展 開
一
「大 集 経 亅 を中 心として一
阿
部
貴
子
は じ め にイン ドの仏 教 経 論において
、
入 出 息 念 (安 般、
阿 那波 那 念、
数 息 観anapana−
smrti)は、
概 して、
多尋 伺や多念 を 除 くた めの極 めて初 歩 的 な 修 行 法 と して 扱わ れて い る。 す なわち、
より高 度 な修 行のた め に、
調 息 し気 持 ち を落 着 か せ集中力を 養 う方法で ある。 古 くは 『ウ ダー
ナ・
ヴァル ガ亅 「テー
ラ ガー
ター
亅に 言 及 さ れ、
仏伝に は 仏陀 自 身が 成道前の苦行 中と、
成道 後の安 居 期 に修 習 した禅 定 と伝 えら れ てい る。 そしてパー
リ文 献及び 初 期 漢 訳 経 典に は、
どのように呼吸 を観 察す る か を詳細に説 くものがい くつ かある。
玉城 康四郎、
松田慎 也 等に よ る先 行研究 を参 考に その基本形 を挙 げてみ るとL)、
「念処経 S躍ゆ曜箙觚 翩 勘 」で は2)、
四念 処 中の身念 処 を獲得する一
つ の方法と し て 四種の呼吸観 想 方 法を挙 げ、
「入 出 息 念 経 直短ρ伽 邵 σ蜘 雄 α亅で は 3}、
身・
受・
心・
法念処の各々 を成就 する禅定と して各々四種 十六種の 方 法 (十六 事 )を 示 し4)、
これ を修習し て正 念 正知しつ つ 七覚支を修習すれ ば、
明・
解 脱 (vilia.
vimukti )を獲得すると説 示 する。 さ ら に、
安 世 高訳 「大 安 般 守 意 経j
で は、
十 六事に加え、
六息 念 (息・
相随・
止・
観・
還・
淨 ) とい う 観 想 方 法 を叙 述 している。 こ の ような十六事や 六息 念 (或いは四 息 念 》を取 り入れ、 入 出 息 念を修 行 階 位に配 してい るのが、
r
倶 舎 論亅「婆沙論 亅 「瑜 伽師地 論 亅 「声聞地」似 下r
声聞地亅)である。 「倶舎謝r
婆 沙 論 亅で は不 浄 観等と ともに入 出息念 を別 相 念 住 と見 なし、
「声聞地亅で も 五停心 観 (貪・
瞋・
癡・
慢・
尋伺 を 除 く不浄 観、
慈悲 観、
縁起観、
界 差 別 観、
数 息 観 〉の一
と捉え、
いずれ も加 行道 以前の行と智山学報第五十五輯 設定する
。
こ れ ら に説か れ る 入出息念の方 法は、 既に釈 恵 敏 等に よ る精緻 な 研 究があるので、
改め て考察する 必要は ない S)。
た だ行位に焦点を当て、
入 出息 念 次 第の要 点を示すと 次の通 りである。 入 出 息 念は加 行 道 以 前に配され る一
方で、
波 線部の ように、
見 道 ない し無 学にまで 通ずるものと見な さ れ て (114)CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN
−
KANGAKU−
KA 工 入 出息 念の大乗的 展 開 (阿部 ) い る こと が分かる。 この ように 入出 息 念は、
パー
リ文 献や初 期 漢訳 経 典、 阿毘 達磨 論書で重要 な役 割 を与 えら れて い るにも関わ らず、
f
声聞地亅を 除く瑤 伽 行 唯 識 論 書に そ れが 反映されて いない。 「菩 薩地亅「大乗 阿毘達磨集 論亅「顕揚 聖 教 論亅に は、
五停 心 観の一
つ に数え ら れ る が特別な解釈は なく、
『解 深 密 経亅r
摂 大 乗 謝 に は言 及 さ え され ていない。 こ の理 由は、
それらの論 書 が、
従 来の禅 定 に代わり入無相方便観といわ れ る唯 識独 自の瑜 伽 行 体系の確立 を 主眼と して い た か ら であろう。
加 えて、
こ う した論 書では瑜 伽 行 次 第を シンプルに体 系 化 しようとす るあ ま り、 「声 聞地1
において阿 羅 漢 まで通ずる と さ れ る 入出 息 念 を、 加 行 道 以 前の行として固定させ てしまっ た か ら で あ ろう。 以 上の よ う に、
「声 聞地」以外の唯 識論書 に おい て、
入出 息 念は多 尋 伺 を 除 くた めの加 行 と される に止 まる。
そ して、
大 乗 経 典でも一
先 学の指摘の よ うに10}一
入 出 息 念 を重 視 するものは ほ とんどな く 、 概 して声 聞の行と見 な す か、 あるいは 高 次の修 行のた めの準 備 と位 置づ け るに過 ぎ ない。 しかし大 乗 経 典の な か に は、
入 出息念 に 言 及 し そ れ を菩薩行 と 見 な す 経 典 が幾つ かある。 「坐禅三昧 経 亅は声 聞と は別に菩 薩の 入 出 息 念 を掲 げ、 ま たf
大方 等大集 経 亅 (以 下 「大集 経」〉所 収の 「虚空 目分亅r
日密 分 亅r
月蔵分 亅『須 弥蔵分」に おいて は、
菩 薩行 と しての入 出息念 を説示 し、
そ れ に よっ て 〈空 観 〉 を修習 すること を説 く。 そこで本 稿では、
まず 「坐 禅三昧経 亅の所 説 を 確 認 し、
次 にr
大 集 経亅所収の経 典 類を参照し、
声 聞の行 と し て定着し てい た 入出 息 念 を どの ように大乗の行と認め てい る の か、
〈空観〉とし てい かなる方 法と果 を提示 してい る のかを検 討 する。 こ の考 察に よっ て、
瑜 伽 行 派 興 隆 期にお け る インド の禅定修行者のあ り様とそ の修行内容を探 求する一
助 としたい と思 う。1.
「坐 禅三昧 経 」に お け る入 出息 念 禅 観 経 典が瑜 伽 師yogtictUaに よ る書で あ るこ とは、
既 に先 行 研 究よ り知 ら れてい る。 松 濤 誠 廉は 「修 行道地 経 (球 伽遮復 弥経 )』r
坐禅三昧 経亅が 瑜智山学報第五 十 五輯
伽 行 派の祖 とし ての馬 鳴の流 れ に属 するもの と見 な してい るω
。 また小玉大
圓 氏 は
、
「修 行 道 地 経」の作 者で 『坐禅三昧 経 亅の作 者の一
人 とさ れ る僧 伽 羅 叉 (衆 護、
Sarpghar晦a)、
「達磨多羅禅経 (度伽 遮羅 浮迷経)亅の作 者 と され る 達 磨多羅 (法 救、
Dhar・natrata ) と仏 大 先 (仏 陀先、
Buddhasena)、
『坐禅三昧 経 亅の作 者に数えら れ る婆須蜜 (世 友
、
Vasumitra)などの伝 承 を 考 察し、
彼ら が 瑜 伽師と呼ばれ る 理由を 明かしているω 。 さ らに 禅 観 経 典 を教 理 上 三種に分 類 し、
SU
−一
・
に、
組織的で は ないがア ビ ダ ルマの法 相 を説 く 「陰 持 入 経 」、 第 二に、
ア ビ ダルマの うち特に有 部の法相を詳論する 「修 行道地 経i
『達 磨 多 羅 禅 経 亅 「坐 禅三昧 経 亅1コ)、
第三 に、
アビダルマの法相を詳論し ない もの と し て 「禅 秘 要 法 経1
『思惟 略 要 法 」「治 禅 病 秘 要法 経1
を 配 してい る14) 。 この う ち 第二の経 典 類は、 ア ビダルマ と同様の法 相 を持 ち な が ら も、
大乗の空思想 や弥 勒 信 仰に言 及してお りIS)、
瑜 伽 行 派との関連 性とい う点で さらなる吟 味 が期待さ れ る文献である。
これ らの経典では、
入 出息念 が詳細に解説さ れ て お り、 行者の実際の体験 に基づいてい る であろう叙 述 も散 見で きる。 こ こ で は、
煩雑に な らぬ よう,
特に法 相に注 目 しなが ら「坐 禅三昧経亅の所説を ま とめ よう。r
坐禅三昧経亅は、
上巻と下巻の うち、
上巻は 「不 浄観」「慈 心 観 」 「因 縁 観」「数 息 観」「念 仏 観」とい う五種観門 の各節よ り構成さ れ、
下巻の前 半は 「四禅 」 「四無 色 定 」 「四無量 心 」 「五通」「四念 処」「四善根」「十 六 心」「四向 四果 」、
後 半には 「縁 覚 」に続 き 「菩 薩の念 仏 観 」 「菩 薩の不 浄 観 」 「菩 薩の 慈 心 観」「菩 薩の 因縁 観」「菩 薩の数息観」という菩薩
の五種 観門が表題と さ れている。 そこで、
声 聞行 と して の入 出息 念と、
菩 薩 行と して の入 出 息 念 を比 較 して み たい。 まず、 声 聞の 「数 息 観 」においては、 次の よ うに六 息 念 を挙 げて説 明し ている。 [六息 念 ](大 正273a12−
276a5) 数 :数 息に集中して、
欲・
恚・
悩・
親里・
国 土・
不死等の思 覚 を離れる。 (116)CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN
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KANGAKU−
KA 工 入 出息 念の大乗的展 開 (阿部 ) 随 :出息は口鼻によっ て起こ り、
入息は心の散 乱に よっ て起こる。 息 は 風であ り外の風と同様で あ る、
と観 ずる。 止 :鼻口 か ら喉胸より臍に至るまで、
息が住 する処に心 を集 中さ せ る。
観 :入息 出 息に際し て
、
五蘊の生 滅は異 なる と観ずる。 転 観 :五蘊の無 常 を観 じ、 入 出息の無常を観ずる。
濠 :入 出息 を念じ て 四念処を観じ、
四善根位、
苦 法ない し至 無 学 尽 智 を 得る, この次 第は、
細 部こそ 異 なるもの の、 止で息が住するとこ ろを観じ、
観で五蘊 を 観ずる とする点、 およ び 浄で四善根 位ない し無学を得るとする 点では、
「婆沙論j
と相似 す る。
同 類の禅観経 典 と さ れ る 「修 行 道地経 』で は、
r
解 脱 道 論亅と同様に 四息 念 と十 六 事 を説 き、
入 出 息 念 を 四 善 根 位に位 置づけてい る ため16)、
「修 行 道 地 経 」とr
坐 禅三昧 経 』に は異 なっ た所 説が 関 係 しているの であろう。 本 経で は次に、
入出息 念の十 六事 を次の ように説示している。 こ の十六事 は、r
入 出息 念経 』 以 降 定 着 してい る項 目(本 稿 脚 注4 を参照 され たい)と若干 異 なっ てい る。 従 来の十六項 目は四 項 目ずつ 四念 処に配当され てい る が、
こ こ で は 四念処 に関する言 及が ない。一
応の区 分を示 せ ば次の ように な ろう。
[十 六事 ](大正 275b亘9−
276a5) 入 息 を念 ず る 出息 を念 ずる 息を 長 くする、
息を短くする と念 ずる 入 出息を念じて、
息が身体に遍満すると見る ウ 懈怠 睡眠等の身行 を静 める 喜 を 感 受 する 楽 を 感受 する 心生 滅等の心行を感受 する 心 を定め て喜 を感 受 する 心 を 静め る 心 を 諸煩 悩より解 脱 させる 無 常を観 察す る 有為 法が 離散す るのを観 察 するi
ー
(身 念 処 ) (受念処)一
(心念処>1
智山学 報第五十五輯 離 欲 を 観 察 す る 滅 尽 を観 察 する 有為 法を捨 離す る と観 察す る (法念処) これ らの項 目の各々に独 自の説明は ないが
、
注意し たい点がある。 そ れは、 無 常を観 察 する とされる箇所に、
「空」なる語 を 用いて、
「無常 を觀ずる にも亦た息 入 出 を念 ず。 諸 法 を觀 ずる に無 常 生 滅し空に し て吾我 無 し。 生時に諸 法の空 生 じ、
滅 時 に諸 法の空 滅 す。
是の中 男 無 く女無し 人無く作無 く受無し。
」 (大正 275c23−
26) と述べ てい る点で ある。 『婆沙 論亅に よ れば、
こ の 「無常」に は 諸尊者に よっ て異 なる解 釈があ り 「息 風の無 常 (世 友 説 )」 厂四大 種の無 常 」 「色 身の無 常」 「五蘊の無 常」と理 解 され てい る とい う。 こ のように、 無 常の観 察 は 凡 そ 「五蘊」「息」の無 常 を観ずる こ と と把 握 さ れているが、 こ こ で は、 諸 法 の 「空」の観察とい う 解釈が 加 え ら れ てい る こ と が 分 か る。
次に 『坐 褝 三昧経亅「菩 薩の数 息 観 」 を見て みよ う。
こ こ で は見 道 以 降の 修 行のみ が 説 か れ、 菩 薩 は 入 出 息 を念 ず ることによ り、
見 道で生 忍・
柔 順 法 忍・
無 生 法 忍 を行 ず るべ きであ る とい う。 [三忍 ](大正 285a6−
b22) 生忍 :衆生の悪 事に動 転せず、一
切 衆生 を仏 道に導くこ とで あ り、 「十 方 無 量の衆 生、
我一
入 應 當 に悉 く度し て佛 道を得せ し め ん」と誓願 を 立 て る。
柔 順 法 忍 :諸 法の実 相 を知 りそ れ よ り退 か ない。 「實 相と は云 何。 有 常に非 ず、 無 常に非 ず、 樂に非 ず、 不 樂に非 ず、 空 に非 ず
、
不空に非 ず、
有 神に非 ず、
無 神に非 ず。…
是の如 く生せず、
滅 せず、 不 生 な らず、 不 滅 な らず、 有 に非 ず、
無 に非 ず、 受 せ ず、 著 せ ず、
言説悉 く滅し 心 行虚 斷す るこ と涅 槃 性の如し。 是の 法は實相な り」(大 正28Sa25.
285b13) 無 生 法 忍 :無 生 法 忍 を獲 得 した 菩 薩 は、
般 舟 三 昧 を得i7)、
衆 生へ の大 悲 (118)CHISAN-KANGAKU-KAI 入 出息 念の大乗的展開 (阿部 ) を得て般 若 波 羅 蜜 門に入る
。
こ のように
、
菩 薩の 「数息観」とは、
入 出息 念に よっ て、 衆生の度脱を誓 願 し (生 忍)、
諸 法の実 相 を覚 知 し(柔 順 法 忍 )、 智 慧・
信・
精 進 を もっ て般 若 波羅蜜門を体 得 する こと 嘸 生 法 忍 ) とされている。
r
大安般守意 経 」に は、
入 出 息 念の成就に より大 悲 を得る とあ り、 玉城康四郎が指 摘 するよ うに、 そ こに大乗 思 想との関 連を窺 知で き る が1s)、
本経の ように入 出息 を 念 じて諸 法 の空 を観 察し、
大悲を もっ て 般若波羅蜜に悟 入 する と明示さ れる例は、
これ 以前の経 論に は 見当た ら ない。
「坐 禅三昧 経 』は、
入 出 息念と空・
大悲・
般 若 とい っ た 大 乗 思 想 との 関連 性 を表 す 最 初 期の経 典と見て よいだ ろう。 以 上の よ うに、 従 来の声 聞の五種 観 門を菩薩行 と見なす背景には、
小 乗 禅 観の方 法を用い て、
そ こ に 大 乗 的 な定型句 を投入することで大 乗の禅 観 を確 立さ せ ようとの計らい が 看 取できる。
ま た五種 観 門 説の 最 後に馬鳴 作rSaundaranantia
亅の瑜 伽 行に関 する二十 偈 を そっ く り引 用 して いる こ と を 想 起 すると、
rSaundarananda
亅に依 拠 して様々な 瑜 伽 行 説を 「菩薩」の名 称の も とに統 合させ ようとの意 図 が あ る よ う にも思える。 本 経は僧 叡 撰とも 言 われ ている から19)、
禅 観につ い ては僧 伽 羅 叉や婆 須 蜜 などの瑜 伽 師や、
中 国にお け る慧 遠 等 に よる禅 観 修 習 も視野に入れ て再 考 すべ きで あ る が、
こ の 点につ い て は稿を 改 め たい。
2.
『大 集 経』経 典 類にお け る入 出息 念 『坐 禅三昧 経 」で は、
入出息 念と大 乗の空 思想との関 連性を見る こ とが で き た が、
呼 吸に よ る 〈空 観 〉の 方法は詳 述さ れて いなかっ た。
「大集 経』で は どうだ ろうか。r
大 集 経』は周 知の通 り、
大 乗の立場か ら法 相・
法数 を 列 挙 す る 経 典 類 を一
つに編纂し たもの とさ れ ている。
その う ち第一
「瓔珞 品 亅か ら第 十三r
日 密 分」(「無 盡 意 菩 薩 品亅を除 き曇 無 讖 訳〉までが前 半 部、
隋の招提寺沙 門僧 就 に より新たに編 纂 され た第 十四 「日蔵 分亅か ら第十 七 『十 方 菩 薩 分 亅(那連智山学報 第五十五輯 提夜叉訳)まで が
、
概 して後半部に 当 た る。
こ こ で は前 半 部の 「虚 空 目分 亅 「日密 分」と後 半 部の 「月蔵 分亅r
須 弥 蔵 分亅に 入出息念を説 く項が設 けられ て いる。 これ らに説か れる入 出 息 念 を 以 下にま とめよ う。 1)「虚空目分j
「虚 空目分亅は、
仏 が欲 界 と色界の中 間 と さ れ る 大 宝坊に おい て中道の義 を説 き終 え大 光 明 を放 ち、
そ れ を 見 た 天 下の諸 仏 弟子 達 が 来 集 した場 面より 始 ま り、 虚 空 目の 法 行 を宣 説 す ること を 主 題 と してい る。 その う ち、 第一
「初声聞 品」で は、 以 下の ように、 五息 念と四禅に より入 出 息 念 を 説 明 す る。 [五息念](大正 157c25−
158alO) 数息を修し て、一
に悪の覚・
観を離れ る。
二 に息の相貌を観ずる。 修 集 時に随っ て、一
に念 心に専 念 する。 二 に善のes
・
観 を離れ る。 冷暖を観じて、一
に 出 入 を分 別 する。
二 に心数の相を観ずる。 観身を修して、一
に身の軽を得る。
二 に心の軽を得る。
生滅を転観し て、一
に一
切法無常の相を知る。 二 に一
切法無楽の相を知 る。
[四禅 ](大 正:S8al5−
22) 初 禅:入 出 息と心 相 を観じ、
覚・
観・
喜・
楽・
定とい う心の状 態 を得、
数息に より覚・
観 を離れ る。 第二・
三禅 :入 出 息に心 を集 中 させ、 喜・
楽 を遠 離 する。 第四禅:不喜・
不楽を得る。 こ こ で の特 徴は、 従 来の六息 念 (数・
随・
止・
観・
転・
浄 ) に代わ り五息 念 を示し、
その各々に二種の方法を付け てい る点、
そ して入出息念と四禅の 関 係 を説 く点である。 初 禅におい て覚・
観・
喜・
楽・
定 が あ り、 第二・
三禅で 喜・
楽を 離 れ、
第四禅で 不喜・
不楽の 禅定を 得 る と さ れ るの は、
従 来の 四 禅 の所 説に相 応 する20} 。 第四禅に おい て入 出 息 念 を指 示 し ない ことも、 「婆 沙 (120)CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN
−
KANGAKU−
KA 工 入 出息 念の大乗 的展 開 (阿部) 論 亅で世 友 説 を引 用 し第四禅に呼 吸が無い とし21)、
「声 聞地』でも入 出 息 念 によ り初 禅 か ら第三禅 に至 りそ れ以 降に入 出息念を行ずる ことは無いと 明記 さ れる通 りであ る22) 。 以上の ように、 ここ で はア ビダルマ に散 見で きる法 数 を挙げてはい る が、
特別な解釈 も なく単に従 来の法 数 を寄せ集めたに過 ぎず、
菩薩行 と しての入 出 息に関 す る 言 及 は ない。一
方・
「虚 空 目分 』 第三 「弥 勒 品 」では、 息 を虚 空と観 ずる方法を表し、
そ れ が ま さに真 実の入 出 息 念である と明 示 する。
こ こで は まず、
仏陀が十二因 縁 の し くみ を 説 き明 か し、
「無明」が呼 吸に よっ て あるこ と を示 して 「初め て息の出 入 する、
是 れ を無 明 と名 く」 と述ぺ てい る23)。 つ ま り、
凡 夫は呼 吸 によっ て一
切の苦・
煩 惱 を生 ずる。 そ れゆえ、
真に身心の 自在 を 得 る た め に は、 次の よう な観 想を為 すべ きである とい う。 「若し比 丘有りて入出息 を觀ぜ ん に、
空 中の風の我 と我 所 無 く、
作 者 及 び受 者有ること無 く、
縁に從っ て生 じ、
縁に從っ て滅 し、
相 無 く物 無 く 覺 觀 有 ること無 きが 如 く、
衆 生の風 も亦 復 た 是の如 く、 四 大 と共に行 じ、 歌羅 羅を 生ずる時、
九孔 乃至 九萬九千の諸 孔の出 入 に 作無く受無 し。…
善男子。 譬えば虚 空に物無く我無きが如 く、
出 入の諸 息、
地 水 火 風、
壽 命、
煖、
識、
無 明 乃至 生 老病死 も、
亦復た 是の如し。」(大 正164cl−
7) す なわち、
人 は入 出 する息に縁っ てその身体 及び寿 命を保 持 する が、
虚 空中 の風に実体が ない ように、
口鼻のみ な らず、
体中のあら ゆ る毛 孔より内部に 入 り、
循環し て外 部に抜ける息にも実体がない。 よっ て入の身 体 お よ び身体 を構成 するあら ゆ る要素は虚 空の如 く実体がない 。 こ の よ うに、
入 出息 念に よっ て 自 身の内 外 を 区 別 な く虚 空の よ うに見 る 境 地こそ が、
真 実の入 出 息 念 である。 そ してこれ は、 「諸佛の境 界は不 可 思 議 な り。 是れ聲 聞縁 覺の及ぶ 所に非 ず 」とある よう に2叺 二乗と区 別 されるべ き禅 定である と明記さ れ て いる。
2
)r
日密分j25
)f
虚 空 目分亅「弥 勒 品」の所 説に近 似 する入 出 息 念を示 すのが 『日密 分 」智 山 学 報 第五 十五輯 「分 別 品 」で あ る。 こ こ で は
、
声 聞と菩 薩に共 通 する入 出 息 念 を 説い て、
以 下のよ うに述べている。 「是の如 き風 は 何 癒 從 り來、
何 處へ 去 至 する や、
と是の如く觀ずる時、
身 相 を遠 離 し、 空 相 を生 じて内法を見 ざる。 是れを 内 空 と名 く。
我所及 び外色相を見ざる。 是 を外空と名く。…
我れ是の如 き内 外の色 相 を壊 す のは、
皆是れ入息觀の 因縁 な り。」(大正 225b2t−
26) この ように、 入 出息念と は、
入 出の風の生滅 を観 じて自 身の内 外の空 を 了 知するこ とで あ る。
そして、
r
虚空目分亅 「弥勒品」と同様に、
「是の如 き諸 行に は作 者 有るこ と無 く、
受 者 有ること 無 く、
風 に 因 りて 生 じ、 我が身 口の行 も亦復た是の如 く、 風に因 りて生 ず。 是の風に因 る が故に、
身の増 長を得、 是の風に因る が故に、
口 の増 長を得。 我れ風は 即ち入出の 息な るを觀 ずる が如 く、
諦に一
切身の諸 毛 孔、
風 の 因 縁 に 從 う を 覿 じ…
我 が 身ロの行 は風に因 縁 す。 若 し風 無 け れ ば 身口の行の 因縁 も無 か らん。」(大 正225c16−
22) と説 くe す なわち、 諸 行は作 者 も受 者 も な くた だ 風に よっ て生じ、 呼 吸 も風 に よっ て 生ずる と観 察し、
さ ら に その風 に 実体が 無い な ら ば、
身口 意 行の実 体も また無い と見るとい うのである。 そ して、
次の傍線部の ように、
こ の観 想こそ が 「空三昧」であ り、
あるものは 阿 羅 漢、
あるもの は 阿耨 多 羅 三 藐 三 菩 提の心 を獲 得す る と示してい る。
「是の故に爾の時、
空三昧を得て修 集 増 長 し、
修 集に因 る が 故 に 能 く欲 貪乃 至 觸 欲 を斷 ず、
と是の覿 を作 し巳 れ ば、
須 陀 滬 果 乃 至 阿 羅 漢 果 を得。 或 は 附 耨多羅 三 藐 三 菩 提 心 を發 す 有 らん。」(大正225c23−
25)とこ ろ で
、
本 経の ように 「息ノ
贏,ノ
羸 」が 「風 v5yu 」と称さ れ るの は、
『声 聞 地 」で風vayu
、
呼 吸anfipana、 入 出息99vAsa−
praivasa、 身 行kayasa
甲sk轟τaが同義語とされ てい る ように、 両 者が同等なもの と考え ら れ ていた か ら だ ろ う。 ただ し 「声 聞 地 亅で は 「風 」 を
一
般 的な風と共 通 するもの とし、
特に内 外に循環する息を 「風」と呼び、
身体 的運動とし ての呼吸 に は その他の語を 用いてい る26) 。 周 知の通 り、 イン ドの伝統において 「風 」 は 身体 的 機 能 を働 (122)CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN
−
KANGAKU−
KA 工 入 出 息念の大 乗 的展 開 (阿部 ) か せる生命 原理 「気 息 prapa」と密接な関係を もっ てい る。 ま た 「風 」 と 「アー
トマ ンatman」に 関 し ても、
例 え ば 「リグ・
ヴェー
ダ亅に 「(死 者の肢 体の)眼は太 陽に赴 け、
アー
トマ ンは風に」(10.
t6葬 送の歌 ) とある ように27)、
相 関 関係 が 確 認で きる。 こ こで風 を虚 空と見 なして我 我 所が無いと強調 する のは、 入 出息 念に よりイン ド古 来のアー
トマ ン説を ま さ に身を もっ て否定す る ことを意味し ている ように思え る。 さ て. 以 上のように、
身体に入 出する風に念を向けて 〈空観〉を 行ずるこ と は、
『虚 空目 分i
「日密分亅以前の経 論 に は 明 示 さ れ てい ない。
『坐 禅 三昧 経亅では、
既に述べた よ うに、
自身の息 を外 風 と 同等に観 ずるこ とや、 入 出 息念に よっ て諸 法の空 を 観 ずる ことを説 示 するもの の、 呼 吸に従っ ていかに 〈空 観〉を為す か を 具 体的に記してい な かっ た。
だ が 「虚 空 目 分亅f
日密 分」 で は.
外 部の風が体 内に 入 り循環して外部に出る様子 を観察しつ つ、
行者の 身 体 は その外 部 と同 様にまさ に虚 空の ごと くと観 する ことが 明瞭に表さ れ て いるといえ よ う。3
)r
月蔵 分」 以 上の経 典では、
入 出 息 念 は声聞の行であることが前 提 とさ れ てい た。
般 若波 羅 蜜に悟入 す る、 或いは無上菩提 を得るなど とされて はいて も、
入 出息 念が声 聞 行でな くて菩薩 行であると強調さ れてはいない。
とこ ろが、
r
月 蔵 分 亅 「第一
義 諦 品」におい て は、
地・
水・
火・
風界三昧、
分別陰三昧、
空・
無 相・
無 願 三 昧 が 「声聞の禅 定」であ り、
慈・
悲・
喜・
捨三昧、
念 仏三昧、
念 阿 那 波 那 三昧が.
「菩薩の禅定」であ る と明記している。
つ まり入 出息念 は 声 聞ではな く菩 薩の行と称 され ている の である。 こ こ で は、 入 出息 念 を 以 下 の六息 念に よっ て説 明 する。 [六息 念](大 正317bL3t3 ) 数 :一
には数 息によ り覚・
観 を 除 く。 二 に は入 出 息の相 を取る。 随 順 :一
に は 出息に より覚・
観 を 除く。
二 に は 入息の相 を取 る。
智 山学報第五 十 五輯 止 住 :
一
に は 出 入息が漸 漸に減 尽 する。 二 には 三昧に安 住 する。観 相 :
一
に は出 入息が漸漸に減尽する。 二 には心々 の諸 法、
種々 の別異、
処々の止住を観 察 する。
転還 :
一
に は 三種の受 を息 む。
二 に は 三種の行を 止 む。 快 浄 :浄 空三昧 を得る。 諸 法の無 命 を見、
諸 法の無 生 を観じ、
七種空 (陰空、
界空、
入 空、
諦 空、
因縁 空、
法 空、
性 空 ) に住 す る。 「是 れ を 空三昧と名 く。
是の空三昧に住 すれ ば則 ち増 長の 因縁の息な り。 増長の因縁息すれば、
則ち事の休息 な り。 事の休息の故に則 ち道休息す。 善男子よ、
此 れ は是れ、
菩薩摩訶薩、
第四禅不可得無言 説に して第一
義 諦三昧を得ん。 声聞辟支 仏の境界に非ず。 菩薩摩訶 薩は禅定処 を得。 畢 竟 じて声 聞 辟 支 佛 地に堕 せ ず。 能 く六 波 羅 蜜 を満つ 。」(大 正3]7b27−
c3) ここで は、 六息念のそれ ぞ れ に二種の方法を挙 げる点でr
虚空目分j
と相 似する ほ か は、
特別な説は見受け ら れ ない 。 止住、
観相に よっ て、
入 出 息が徐々に減少 するとは、
初 禅か ら第四禅へ 呼 吸が微 細 となるとの所説を 考 え れ ば28》、
目新 しい 方 法で はない 。 た だ本 経の特 徴は、
怏 浄におい て入 出 息 念に よ る 「空三昧 」に より六 波 羅 蜜 を 円満 する と述べ る点である。 さ らに 以 下の よ うに、 入 出息 念に よっ て衆生を成 就 させ、 自らも速 やか に成 仏 する と説か れ てい る点で ある。
「第一
義諦 品」の末 尾の偈 頌に は、
「安 般 を 念 じ三昧 身 心に開示 す 心能く無事に住して 三種の取を休 息す 言 説 し得べか らず 是れを第一
義と名く 彼の 二乘の地は 此 の 實際 に安住する に非ず 若し此の 三昧を以っ て せ ば 無數の衆を成熟 す 名稱は中に於いて滿じ 是の人速に成佛す」(大 正318b23・
28) とある。
入出息 念によっ て六波 羅蜜を円満し、
自ら速や かに成仏する とい う のはいか なることか。 入 出息 念 を根 本として別の行 を修 習 する結 果 なのか、
そ れ と も た だ 入 出息念のみ に よ る 結 果 なの か。
本 経 で は その手が か り をつ か むこ とは 出 来 ないが、
次の 「須 弥 蔵 分亅にヒ ントが 見受 け られる。 (124)CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN
−
KANGAKU−
KA 工 入 出 息 念の大 乗 的 展 開 (阿 部)4
) 「須弥蔵分」 「須 弥 蔵 分j
では 第一
「声 聞 品」と第二 「菩薩禅本業 品」に入 出息 念の叙 述 が あ り、 前 者に は声 聞と菩 薩に共 通 する方法を説き、
後者に は菩 薩 独 自の 方法と果が示さ れ てい る。 本経に は チベ ッ ト訳 『大集 大 乗 経 中如 来の吉 祥の三摩耶 と名つくる大 乗 経
’
dus
pa
chenpo
thegpa
chenpo
’
i mdo sde 匡as debzhin gshegs
pa
’idpal gyi dam tsig ces bya
ba
theg
pa chen po’
i mdo 亅がある の で29) 、 これ を参 照 し よ う。 まず 「声 聞 品 」では、 次の ような 修 習 次 第を提 示 する。 (D.
267b6
−
271b7/ 大 正382b22−
383a3) 初 禅 :散 乱の無い心に よっ て 入出 息 し、
覚・
観 を 除こう とい う心 を持つ 。 第二禅 :勇 猛 な精 進によっ て作 意 を留 め、 覚・
観 を静め る。 第三禅 :鼻 頭に心 を向けて入 出息に集 中し、一
切の心、
意、
識、
蘊、
界、
処 を水中の 月、
影、
幻、
電光の如 く刹那に滅すると見、
喜・
楽を滅 する。
第四禅 :心の諸々の対象を捨て る。
受・
想・
思・
触・
作為の生 滅 を止め、
滅 尽に住 する。空三 昧 :第 四 禅よ り起ち (yang de 1as kyang Ldang ng・〉
、
再 び 入 出息の相 を取 り、 入 出息の生 滅 を観 ず る3°}。 無 願三昧 :入 出息の寂 滅 を観 察 す る。 無 相 三味 :無相三昧に住し て 四念 処を 円満し
、
三解脱門を成 就 する31}。
四正 勤 :入 出息の生・
滅 をもっ て対象を観ずる。
四神 足 :入 出息の出・
没の相を観ずる。
五根 :入出烏,
を観じつ つ、
塵の如 く散 壊 する自身の身 体を観 ずる。
五力 :入 出息の出・
没の相を取っ て,
受・
想・
行 を観 ずる。
七覚支 :諸々 の蘊 を寂静にする と観ずる。無縁三昧 (dmigs pa mcd pa
・
1 ting nge’
dzin):「また入 息と出 息の風 (rlung ) につ い て の瑜 伽 作 意 を な すこ とに より
、
あ ら ゆ る 地界の色 光の塵が散壊 し
、
散じ、
相無く、
身無 く、
仮 名 無 く、智山学報第五十五輯 昧 を獲 得 する。 (これ が ) 禅 定に遊 戯 する 三昧であ り
、
菩薩摩詞薩の禅 定 波 羅 蜜の修 習 に通 ず る。」(D,
269a5・
6/ 大正382c28・
383a3) 以上の ように、
こ こ では四禅、
三解 脱 門、 菩提 分 法とい う従来の修 行次 第 の法数が列挙され、
そ れ らが すべ て入 出息 念の修 習 に集約 され てい る。 つ ま り、
入 出息 念によっ てあ らゆる修 行 次 第を成 就 する こ と を表し てい るのであ る。 こう した 入 出 息 念の体系は、
パー
リ文献にも阿 毘 達 磨 論 書にも類 を見 な い独 自の もの である が、
『大安般守意 経亅に注 目すべ き一
節 が ある。 そこ で は 「數息爲四意止。
相隨爲四意斷。 止爲四神 足 念。 觀 爲 五 根五力。 還爲七覺 意、 淨爲八行 也」と32》、
六息念のそれぞれに、
三十七菩 提 分 法の四念処、
四 正断、
四 如意足、
五根五力、
七 覚 支、 八正道が配さ れ てい る 33 この説 は 、 単に入 出 息 念 とい う名 称の もと に法数を配置し た ようであ り、
修 習 方 法 と し てまっ た く現 実 味 を帯びてい ないのだ が、
r
須 弥 蔵 分 亅の所 説に インパ ク ト を与 えた可 能 性は 十 分 に考 えら れる。r
須 弥蔵分』が 「大安般 守 意 経 』 と相 違 する点は、
入出息念が菩薩 行の六 波 羅 蜜に ま で 及 ん でい ることである。 先の 無 縁三昧の箇 所に おいて、 菩 薩 は禅定波羅蜜に入ると されるが、続く段落で は、
禅 定 波 羅 蜜は二乗に共通 し、
菩 薩は大 悲 を 具 足 し 六 波 羅蜜 すべ て を円 満 すると 述べ ている34》。
次の 「菩 薩 禅本業品」では、
さ らにそ れ を説 明し、
「何によって菩 薩摩訶薩たちが他の五波 羅 蜜 を 円満 するのか とい えぱ
、
清 浄 智よ、
次の通 りである。 菩 薩摩訶薩はあら ゆ る入 息 と出 息に五 取 蘊の生滅 を観察する
。
そ れゆえ貪 欲と愛着を枯渇さ せ、
そこ (声聞 独 覚 )に堕すことはない。 四 神足 によっ て遊戯し神通 を な し
、一
切の仏 世 尊 を供 養 し恭 敬 し正法を聴聞するために
、一
切の仏 国土へ 稲妻の ような力 を もっ て善 巧に往 詣 す。」(D,
270b6−
271a2/ 大 正 383b24・
b29) と、 五波 羅 蜜も ま た 入出 息 念に よっ て円満 され る と説い ている。
そ して、 こ の五蘊の生 滅 を 観 ずる方 法と は、
「入息と 出息の色取 蘊と
、
同 様に受、
想、
行、 並び に 入息と 出 息の識 取 (126)CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN
−
KANGAKU−
KA 工 入 出息念の大乗的展開 (阿 部) 曹 を如 実に了 知 し、
入 息に異 あ り、 出息に異あり、
入 息の分 劉にも異 あ り、 出 息の分 別にも異 あ り、 入息の受 と想と思・
作 意に も異 あり、
出 息 の受と想 と 思・
作 意にも異 ある。…
こ の ように、
諸々 の疱 瘡の 門 (sridpa
’
i rgya mtSQ’
i sgo dag) に入 息と出 息 が 入 出 する。 同様に、
九 十 九 百 千 那由他の毛 孔に入 息 と出息 が 入 出 するc それ ら の 九 十九百千 那 由他の毛 孔 (の入 出息 )は不 増 不 減に し て
、
過去、
未 来、
初、
中、
後は無 く、
生、
滅も無い。」(D.
271ad−
b5/ 大 正383c4・
22) と説か れ る ように、
口鼻 ない し一
切の毛 孔の一
々に息の 入 出 を 見 て、 その 各々に色 等の 五蘊 を別々に観じ、
さら に入 出息 が 不 増 不 減であ ることを了 解 する ことである。 そ して、
こ の修 習 を為し た菩薩は、
蘊・
処・
界に依らず (mi migs,
無 所 得)、 過、
未、
現、
生、
滅に依らず、
衆 生 を成熟させるた めに無 量 劫のあい だ 「一
切法空性 無言説の三昧chos 【hams cad stong pa nyis
bilod
du med pa’
i tlng nge’
dzin 」に安 住 すると説か れ ている。 この ように、r
須 弥 蔵 分 亅に は、 初 期 経 典より説か れ る様々な修行次第が 入出息 念に集約さ れ てい る。
こ の入 出息 念 を行ずると三乗に共 通 する禅 定 波 羅 蜜を獲 得 するが、
菩 薩の場 合は、一
切の毛孔に入 出 する息に諸 法の生 滅 を 観じ て 六波 羅 蜜 を 円 満し 「一
切法空性無言 説三昧」に住 するの である。 以 上 の こ と を考えると、
「月蔵分』に おいて、
入 出 息 念によ り六 波 羅 蜜 を円 満 し、 自 ら速や かに成 仏 するとされ たのは、
声聞乗に共 通 するすべて の修 行次第と、
菩 薩 行 と して の六 波 羅 蜜 が、
た だ 入 出息念に よっ て 円満 され る という解釈が、 何ら か の 形 で伝え ら れ ていた か ら だ と考えら れ る。
ま と め 以上の ように 「大 集 経 亅は、 声 聞の次 第や方 法を採用 しつ つ も、
そ の一
部 に 〈空観〉の側面 を付加し て 「窒三昧」「一
切 法 空性無 言 説三昧 」 等と称し、
入 出息 念 を大 乗の禅 定と見なしている。 本稿では、
これ を 入出息念の大 乗 的 展開 と捉 え考察し てきた。 以 下 に概 要 を示 そ う。智 山 学 報 第五十五輯 『坐禅三昧経亅 「数息観」の項で は
、
十六事の説 明 中に入 出 息 を念 じて諸 法 の空 を観ずる こ と が示さ れ、
「菩薩の数息 観」の項で は、
入畠息念に より非 有 非 無 等とい っ た諸法の実 相 を観じて般 若 波 羅 蜜に入る ことが説か れ てい た。
本経で は 入 出息 念と 〈空観〉との関係が明白でないが、 「大 集 経 亅に は詳 細 に説明さ れ ている。
「虚空目分 」で は、
口鼻と毛孔に よ る息の循 環 を観じて、 自身の内外を 虚 空 と見るこ とが真実の入 出 息 念 とさ れ た。
「日密 分亅でも 『虚 空 目分 亅 と同 様に 〈空 観〉を説い てそ れ を 「空三昧 」と称 し、
これ に よ りあ る 者 は 阿 羅 漢、
あ る者は阿縛 多 羅三藐三菩 提 を獲 得 する と述べ ている。 『月 蔵 分 亅で は、 入 出息念 を菩薩 行と捉え、
それ に より六波羅蜜 を円満し、
自 ら速 や か に成 仏 する と説 く。 以上の ような諸説 を総括し てい るのが 「須弥 蔵 分』で あ る。
こ こで は 四禅、
三解 脱門、
菩 提 分 法 とい う従 来の修 行 次 第が 列 挙さ れ、
入 出息 念に よっ てその全てが 成 就で きる と される。 そ して、 入 出 息念 を行 ずると三 乗に共 通 す る禅 定 波 羅 蜜 を獲 得 し、 さ らに一
切の毛 孔より 入 出 する息を見て諸 法の空 を了 知 する こ と に より、
六波 羅蜜 を 円満し 「一
切 法 空性 無 言 説三昧」に住 するとい う。
この ことか ら 「大集経亅に おける菩薩の入 出息 念 は、
単に多 尋 伺 を 除 き集 中力を得るため の ツー
ルでも、
また五 停 心 観の一
つに数 え られ る 初 歩 的 な 修 行でも な く、
む しろ空を体 現 する禅 定、
そ してあ ら ゆ る修行 次第の総 体 と 言 うことがで きる だろ う。 さて、 真言宗の禅観 とい えば 「阿 字 観」である。 興 教 大 師 覚 鑁 作 『tt
字 観 儀』に は、
「本 不 生」たる阿 字を心 月に観 ずる 前 に 「数息 観 」を 行 ず るこ と、
阿 字と 入我我入し たのちにも、
入息・
出息しなが ら阿字 を唱 えて観 ずるい わ ゆ る 「阿息観」 を修 すべ きことが記 されて いる3S〕 。 こう し た禅 観の背 景に は、 当 然 イン ド大 乗 仏 教以上に中 国・
日本に おける諸説が深く関わっ てい る はず である。
た だ、
本 稿での考察か ら批 判 を恐れず 言 う ならば、
「阿 字 観 」にお ける 厂数 息 観 」 も、 単 な る調 息法 と して の準 備 行で はな く、 空 観と し て、 ま た 小 大 乗の あ らゆる修 行次 第 をそれ の み で成 就する観法と捉えることが で き るの で は ない だろ うか。 (128)CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN
−
KANGAKU−
KA 工 入 出息念の大乗的展 開 (阿 部) 注 1) )) ) 234 ) 5 ) 6 玉 城 康 四 郎
f
入 出息念定の根本 問 題」「仏教学論 文集」東 方出版,
1979.
川島常 明 「安般 守 意 経 につ いて」 「印仏 研 亅24−
2,
1976.
松田慎也 「初期 仏教に お け る 呼 吸 法の展開一
安 般 念につ い て一
」 「仏教 学」15,
1993.
Sα勘 畷短觚一
sutta,
MN.
10.
A滋ρ伽卿 ∫ゴ・
S観tta,
MN.
118.
「入 出息念 」 〈長 く出 息 / 入 息 しよ う〉と 自覚 す る。 〈短 く 出息/入 息し よう>tt 〈全身を感知 し て出 息/ 入息し よう〉ウ 〈身 行を静めつ つ饋 息 / 入 息 しよう〉〃 〈喜び を感知して…
〉 (楽を感知 しで・
・
) 〈心行を感知し て…
〉 〈心行を静めつ つ…
〉 〈心 を感知 して…
) 〈心 を定めつ つ…
〉 〈無 常 を観 察 し…
〉 〈滅 尽を観 察し…
〉 処 念 四 「 処 念 受 「七覚支1
身念 処⇒念→ 択 法→
精 進→
喜 → 軽 安→ 捨呻 定 を、
順 次 満足する麟
:
1
:
綴
鬘
劉
撚灘
騾 蒹
1
:
:
:
1
}
鯲 〃 〃ク
松田慎也氏 は、
元 来 入 出息 念 は 四念 処と は無 関係であっ たが、
r
念 処 経 亅の よ うに身念 処観に導入さ れ て、
さらに 四念 処各々に配 さ れて十六事 が 完 成 して いっ た と見 な している。 なお、
氏は 「増一
阿含亅「八道 品」の身念処 説に入 出息 念の記 述 が ない こと か ら、
身 念 処の基 本は不 浄 観・
界作意・
屍体 観であっ た と推 測 する
。
ま た、
〜
anicca・
viraga’
nirOdha’
patinissaggaの順序に関 し、
パ
ー
リ文 献 と漢 訳 文 献に相 違 が あること を論 じている (松田前 掲 (1983),
pp57−
60)。
Sbh
は、
無常anitya・
断prahatia’
離欲virEga・
滅nirodha の順 序 を採 用 して おり
、
松田氏 が 漢 訳文献 と して挙げる 「雑 阿 含 経 亅 や 「十 誦 律亅「摩 訶 僧 祇 律 』と一
致 する。
なおr
解脱 道 論」でも同 様に無常・
断・
離・
滅 と示 す (大 正355c15一
356a14)。
釋惠 敏 「声聞地にお ける所縁の研 究」山 喜 房佛 書 林,
1994,
pp.
191−247.
松 田 慎 也 「修 行 道 地 経の説 く安 般 念につ い て」f
印 仏 研 亅37−
2,
1989.
合 田 秀 行 厂阿 那波 那念 (Anapanasrn
;ti)再考亅r
印 仏研亅49−
2,
2001.
「解 脱 道 論 亅 大 正429c16−
431c12.
智山学報 第五十五輯 ) ) > 789 10> 1D12 ) 13) )
) ) 456 17) 〉 ) ) 890 112 「婆 沙 論亅大 正132a8
.
137a12.
r
倶 舎論亅大 正118a4・
118c5.
AKbh,
Pradhan,
pp,
339.
5−
341.
5.
Sbh
研究 会隹5r
大正大学 綜 合 仏教 研 究 所年 報 亅,
1996,
pp.
(18)一
(35).
Sbh
研 究会16r 大正大 学 綜 合 仏教研究所 年報」
,
1997,
pp.
(83)L
(109).
FI。rin Dcleanu
.
MindjUtnessOf
Breathing in漉80 煙 紹 S謀‘m ε,
Tra鳳sac【ions of 山e Internationa置Conferenee of Orientalists in Japan.
No.
37.
p.
46.
松濤誠 廉
r
馬 囁 端 正 な る 難 陀亅山喜 房 佛 書 林,
198111954}.
小 玉大 圓他 「瑜伽 師と禅経典の研 究 (1)一
伝 承の問 題 点 と分 析 を 中 心 に一
」 「仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 亅31,
1992.
小 玉 大 圓 他 「瑜 伽 師と禅 経 典の研究 (ll)一
伝 承の問 題 点 と分 析 を 中心に一
」 「仏 教 文化 研 究 所紀 要 」32,
皇993,
「修 行 道 地経亅竺 法 護訳 (序に よれば僧 伽羅 叉 作 )、
r
達 磨 多 羅 禅 経亅仏 陀 跋 陀羅 訳 (慧遠 説では 達磨 多羅、
仏 大 先作)、
「坐 禅 三味経亅鳩 摩 羅 什 訳 (僧 叡 説で は 婆須蜜、
僧伽羅叉等作)Q 小 玉 他前掲 論文 (1993),
pp.
173−
176.
小 玉 他 前 掲 論 文 (1992),
p.
119.
r
修行道地 経亅大正 217a28−
217b15.
〔1}四息 数 息 :入 出 息の息 を 数 える。
相 随:心 をた だ入 出 息に従わ せ る。 止観 :息の 入出を最 初か ら終わ り ま で観 想 する。
環 浄 :心 を鼻 頭の一
点 に と どめて、
息の入 出 を 知 る。 〔2}十 六 事 {3} 四善根位 温和 (煖 ) :息 が 鼻、
喉、
臍、
鼻 と循 環 す るの を 観 察 す る。 頂 法 (頂 ):五 蘊の空 を 見 る。
精 進 が 増 し、
心 が 常 に 不 動 と な る。 法 忍 (忍 ) :四諦を見る。
常に異 なる入 出 息に心 を 従 わ せる。 世 俗 尊 法 (世 第一
法):諸法の苦 を 見る。
心 は 清 浄 だ が五根 を 成 就 し ない。
r
禅 秘 要 法 経亅で は、
不 浄 観・
観仏三味・
白骨 観ど次第する修行次第のう ち、
観 仏 三昧の中に数息観 が 位 置づけ られている。 観 仏三昧に より仏に見 えて も、
食 欲の多い者は利 益がない。
まず仏 を 見て諸々の罪 を 離 れ、
数 息 観によっ て貪 欲 を除き心 を散乱さ せない ようにする。
(大正 256c22−
23.
258bl8−
20) 玉 城前 掲 論文 (1979),
p.
83.
小 玉 他 前 掲 論 文 (1992),
pp.
t25・
エ26.
「倶 舎 論亅で は
、
初 禅 で 五 支 (尋vitarka・
伺vicdra・
喜 pn’
ti・
楽sukha・
定samadhi )
、
第 二 禅 で 四 支 (内 浄adhy乱ma−
sa 叩pras査da・
喜prTti・
楽sukha’
定samadhi )
、
第三禅で 五支 (行 捨saipskdropekea・
正 念sm“i・
正 慧sarPPtajfidna’
楽 受vedanfi−
sukha・
定sam2dhi )、
第四禅で 四支 (捨 清 浄upek 額pa崩 uddhi・
念 清浄CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN
−
KANGAKU−
KA 工 入 出息 念の大乗 的展開 (阿 部 ) 21) ) > > ) 2345 2222 ) ) ) 678 222 29) 30)sm ;tipariSuddhi
・
不 苦 不 楽adu4khasukhAvedanti・
定samadhi )を得る と さ れ る。
(AKbh
,
pp.
437441,
大正 146c2−
16) バー
リ文 献、
初 期 漢 訳 経 典 に お ける四禅及 び四禅と入 出 息 念の関 連につ い て は、
玉 城康四郎 「中 国 仏 教思 想の形成」(筑 廉書房,
1971,
pp.
352−
366)に詳 しい, 「婆沙論亅 「尊者世友。 作如 是説。
入第四静 慮。 便 得韓 依。 謂所 依身。 有 第四靜 慮 微 妙 大 種。
令 諸 毛 孔一
切。
密 合 無 竅 隙故。
非 息 所 依。
由 此 爾 時。
息不復 轉」 大正 132b22−
24.
Cf.
AKbh,
p.
Ml,
3−
18.
『倶 舎論亅大 正147c21−
c26.
「解 脱 道 論 亅大 正 422bl−
2.
前 掲Sbh研 究 会[6,
PP・
(18)’
(19)・
大 正164b7−
9.
大 正正64cl6−
19.
r
日密 分亅(曇 無 讖 訳 ) は構 成 上 完 結 したもの と はい えず、
そ れに欠 けてい る部 分がr
日蔵分亅 (那連 提 夜叉訳 )に存 在 することか ら、
概 して 「日 蔵 分j
が完成 された形と見 な されている。
た だ し、
入 嵐息念を説く箇所は、
「日密 分 亅に存 在 するため、
こ こ で は曇無讖 訳に従った。
この経 典 は、
興 味 深いこ と に、 仏が大 宝 坊におい て 「虚 空目 入息出 息 甘 露門」を説 き終 え た 場 面 か ら始 ま る。 そ れ ゆ え1
虚 空目分亅の直後に入るべ き経典 だっ た との先 学の指 摘 もある。 「虚 空 目」 が 「虚空 目 分1
を表すとすれ ば、
「虚 空 目分 」のテー
マ は入 出息念だ と見る こと も可能だ が、
「虚空目」を、
虚 空 を眼 目とすると捉 えるな ら ば、
「虚 空 目入息出 息 甘 露 門 」は虚 空 を主 眼 とする 入 出息 念を意味する と取ること も可能である。
前掲Sbh研究 会 15,
pp.
(22)一
(25)。
服部正明r
古代イン ドの神秘思想亅講談社学術 文 庫,
2005[1979】.
pp.
114−
124.
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尊婆須蜜 菩 薩所 集論亅「如入初禪 遂便増長。 第二禪微第三 亦 微。
如 是 漸 漸 息 時 第四禪 無 有」 大 正747all・
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入 出 息 念によって 無 息
・
不 動を得た後に、
そ の禅 定より立つ とい う一
連の経 過は
、
「金 剛 頂経亅にお ける 五椙 成 身観 以 前 に、
釈 尊 が 阿 娑 頗 那伽三摩地(asphanaka−
samadhi、
無 息 禅、
mi gyo ba’
i tin nye’
dzin>より起つ 箇 所と接点が あ る ようである
。
先学の研 究 (遠 藤 祐 純 「智 山 教 化 資 料 第13集亅pp.
70−
76)に よ れば、
「金 剛 頂 経亅に は阿 娑 頗 那 伽三摩 地 が 苦 行と称され てい る が、
否定的でない経 典 に智 山 学 報 第五十五輯