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智山學報 第55 - 019阿部 貴子「入出息念の大乗的展開 : 『大集経』を中心として」

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(1)

CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN

KANGAKU

KA 工

出息念

大乗的展 開

「大 集 経 亅 を中 心

 

 貴 

  は じ め に

 

イン ドの仏 教 経 論において

入 出 息 念 (安 般

阿 那波 那 念

数 息 観anapana

smrti)は

概 して

多尋 伺や多念 を 除 くた めの極 めて初 歩 的 な 修 行 法 と して 扱わ れて い る。 す なわち

より高 度 な修 行のた め に

調 息 し気 持 ち を落 着 か せ集中力を 養 う方法で ある。 古 くは 『ウ ダ

ヴァル ガ亅 「テ

ラ ガ

亅に 言 及 さ れ

仏伝に は 仏陀 自 身が 成道前の行 中と

成道 後の安 居 期 に修 習 した禅 定 と伝 えら れ てい る。 そしてパ

リ文 献及び 初 期 漢 訳 経 典に は

どのように呼吸 を観 察す る か を詳細に説 くものがい くつ かある

玉城 康四郎

松田慎 也 等に よ る先 行研究 を参 考に その基本形 を挙 げてみ るとL)

「念 S躍ゆ曜箙觚 翩 勘 」で は2)

四念 処 中の身念 処 を獲得する

つ の方法と し て 四種の呼吸観 想 方 法を挙 げ

「入 出 息 念 経 直短ρ伽 邵 σ 雄 α亅で は 3}

法念処の々 を成就 する禅定と して々四種 十六種の 方 法 (十六 事 )を 示 し4)

れ を修し て正 念 正つ つ 覚支れ ば

脱 (vilia

vimukti )を獲得すると説 示 する。 さ ら に

安 世 高訳 「大 安 般 守 意 経

j

で は

十 六事に加え

六息 念 (息

相随

淨 ) とい う 観 想 方 法 を叙 述 している。  こ の ような十六事や 六息 念 (或いは四 息 念 》を取 り入れ、 入 出 息 念を修 行 階 位に配 してい るのが

r

倶 舎 論亅「婆沙論 亅 「瑜 伽師地 論 亅 「声聞地」似 下

r

声聞地亅)である。 「倶舎謝

r

婆 沙 論 亅で は不 浄 観等と ともに入 出息念 を別 相 念 住 と見 なし

「声聞地亅で も 五停心 観 (貪

尋伺 を 除 く不浄 観

慈悲 観

縁起観

界 差 別 観

数 息 観 〉の

と捉え

いずれ も加 行道 以前の行と

(2)

智山学報第五十五輯 設定する

こ れ ら に説か れ る 入出息念の方 法は、 既に釈 恵 敏 等に よ る精緻 な 研 究があるので

改め て考察する 必要は ない S)

た だ行位に焦点を当て

入 出息 念 次 第の要 点を示すと 次の通 りである。 入 出 息 念は加 行 道 以 前に配され る

方で

波 線部の ように

見 道 ない し無 学にまで 通ずるものと見な さ れ て (114)

(3)

CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN

KANGAKU

KA 工 入 出息 念の大乗的 展 開 (阿部 ) い る こと が分かる。  この ように 入出 息 念は

文 献初 期 漢訳 経 典 阿毘 達磨 論で重要 な役 割 を与 えら れて い るにも関わ らず

f

声聞地亅を 除く瑤 伽 行 唯 識 論 書に そ れが 反映されて いない。 「菩 薩地亅「大乗 阿毘達磨集 論亅「顕揚 聖 教 論亅に は

五停 心 観の

つ に数え ら れ る が特別な解釈は なく

『解 深 密 経亅

r

摂 大 乗 謝 に は言 及 さ え され ていない。 こ の理 由は

それらの論 書 が

従 来の禅 定 に代わり入無相方便観といわ れ る唯 識独 自の瑜 伽 行 体系の確立 を 主眼と して い た か ら であろう

加 えて

こ う した論 書では瑜 伽 行 次 第を シンプルに体 系 化 しようとす るあ ま り、 「声 聞地

1

において阿 羅 漢 まで通ずる と さ れ る 入出 息 念 を、 加 行 道 以 前の行として固定させ てしまっ た か ら で あ ろう。  以 上の よ う に

「声 聞地」以外の唯 識論書 に おい て

入出 息 念は多 尋 伺 を 除 くた めの加 行 と される に止 まる

そ して

大 乗 経 典でも

先 学の指摘の よ うに10}

入 出 息 念 を重 視 すは ほ とどな く 、 概 して声 聞の行と見 な す か、 あるいは 高 次の修 行のた めの準 備 と位 置づ け るに過 ぎ ない。 しかし大 乗 経 典の な か に は

入 出息念 に 言 及 し そ れ を菩薩行 と 見 な す 経 典 が幾つ る。 「坐禅三昧 経 亅は声 聞と は別に菩 薩の 入 出 息 念 を掲 げ、 ま た

f

大方 等大集 経 亅 (以 下 「大集 経」〉所 収の 空 目分亅

r

日密 分 亅

r

月蔵分 亅『須 弥蔵分」に おいて は

菩 薩行 と しての入 出息念 を説示 し

そ れ に よっ て 〈空 観 〉 を修習 すること を説 く。 そこで本 稿では

まず 「坐 禅三昧経 亅の所 説 を 確 認 し

次 に

r

大 集 経亅所収の経 典 類を参照し

声 聞の行 と し て定着し てい た 入出 息 念 を どの ように大乗のと認め てい る の か

〈空観〉とし てい かなる方 法と果 を提示 してい る のかを検 討 する。 こ の考 察に よっ て

瑜 伽 行 派 興 隆 期にお け る インド の禅定修行者のあ り様とそ の修行内容を探 求する

助 としたい と思 う。

1.

「坐 禅三昧 経 」に お け る入 出息 念 禅 観 経 典が瑜 伽 師yogtictUaに よ る書で あ るこ とは

既 に先 行 研 究よ り知 ら れてい る。 松 濤 誠 廉は 「修 行道地 経 (球 伽遮復 弥経 )』

r

坐禅三昧 経亅が 瑜

(4)

智山学報第五 十 五輯

伽 行 派の祖 とし ての馬 鳴の流 れ に属 するもの と見 な してい るω

。 また小玉大

圓 氏 は

「修 行 道 地 経」の作 者で 『坐禅三昧 経 亅の作 者の

人 とさ れ る僧 伽 羅 叉 (衆 護

Sarpghara)

「達磨多羅禅経 (度伽 遮羅 浮迷経)亅の作 者 と され る 達 磨多羅 (法 救

Dhar・natrata ) と仏 大 先 (仏 陀先

 Buddhasena

『坐禅三昧 経 亅

の作 者に数えら れ る婆須蜜 (世 友

Vasumitra)などの伝 承 を 考 察し

彼ら が 瑜 伽師と呼ばれ る 理由を 明かしているω 。 さ らに 禅 観 経 典 を教 理 上 三種に分 類 し

SU

−一

組織的で は ないがア ビ ダ ルマの法 相 を説 く 「陰 持 入 経 」、 第 二に

ア ビ ダルマの ち特に有 部の法相を詳論する 「修 行道地 経

i

『達 磨 多 羅 禅 経 亅 「坐 禅三昧 経 亅1コ)

三 に

ビダルマの法相を詳論し ない もの と し て 「禅 秘 要 法 経

1

『思惟 略 要 法 」「治 禅 病 秘 要法 経

1

を 配 してい る14) 。 この う ち 第二の経 典 類は、 ア ビダルマ と同様の法 相 を持 ち な が ら も

大乗の空思想 や弥 勒 信 仰に言 及してお りIS)

瑜 伽 行 派関連 性 う点 らな吟 味 が期待さ れ る文献である

 これ らの経典では

入 出息念 が詳細に解説さ れ て お り、 行者の実際の体験 に基づいてい る であろう叙 述 も散 見で きる。 こ こ で は

煩雑に な らぬ よう

特に法 相に注 目 しなが ら「坐 禅三経亅の所説を ま とめ よう。  

r

坐禅三昧経亅は

上巻と下巻の うち

上巻は 「不 浄観」「慈 心 観 」 「因 縁 観」「数 息 観」「念 仏 観」とい う五種観門 の各節よ り構成さ れ

下巻の前 半は 「四禅 」 「四無 色 定 」 「四無量 心 」 「五通」「四念 処」「四善根」「十 六 心」「四向 四果 」

後 半には 「縁 覚 」に続 き 「菩 薩の念 仏 観 」 「菩 薩の不 浄 観 」 「菩 薩の 慈 心 観」「菩 薩の 因縁 観」「菩 薩の数息観」という菩

の五種 観門が表題と さ れている。  そこで

声 聞行 と して の入 出息 念と

菩 薩 行と して の入 出 息 念 を比 較 して み たい。 まず、 声 聞の 「数 息 観 」においては、 次の よ うに六 息 念 を挙 げて説 明し ている。 [六息 念 ](大 正273a12

276a5)   数 :数 息に集中して

親里

国 土

不死等の思 覚 を離れる。 (116)

(5)

CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN

KANGAKU

KA 工 入 出息 念の大乗的展 開 (阿部 )   随 :出息は口によっ て起こ り

入息は心の散 乱に よっ て起こる。 息 は  風であ り外の風と同様で あ る

と観 ずる。   止 :口 か ら喉胸より臍に至るまで

息が住 する処に心 を集 中さ せ る

 

観 :入息 出 息に際し て

五蘊の生 滅は異 なる と観ずる。   転 観 :五蘊の無 常 を観 じ、 入 出息の無常を観ずる

  濠 :入 出息 を念じ て 四念処を観じ

四善根位

苦 法ない し至 無 学 尽 智 を   得る,  この次 第は

細 部こそ 異 なるもの の、   止で息が住するとこ ろを観じ

  観で五蘊 を 観ずる とする点、 およ び  浄で四善根 位ない し無学を得るとする 点では

「婆沙論

j

と相似 す る

同 類の禅観経 典 と さ れ る 「修 行 道地経 』で は

r

解 脱 道 論亅と同様に 四息 念 と十 六 事 を説 き

入 出 息 念 を 四 善 根 位に位 置づけてい る ため16)

修 行 道 地 経 」

r

坐 禅昧 経 』に は異 なっ た所 説が 関 係 しているの であろう。  本 経で は次に

入出息 念の十 六事 を次の ように説示している。 こ の十六事 は、

r

入 出息 念経 』 以 降 定 着 してい る項 目(本 稿 脚 注4 を参照 され たい)と若干 異 なっ てい る。 従 来の十六項 目は四 項 目ずつ 四念 処に配当され てい る が

こ こ で は 四念処 に関する言 及が ない

。一

応の区 分を示 せ ば次の ように な ろう

[十 六事 ](大正 275b亘9

276a5)   入 息 を念 ず る    出息 を念 ずる    息を 長 くする

息を短くする と念 ずる   入 出息を念じて

息が身体に遍満すると見る      ウ     懈怠 睡眠等の身行 を静 める   喜 を 感 受 する   楽 を 感受 する    心生 滅等の心行を感受 する    心 を定め て喜 を感 受 する   心 を 静め る    心 を 諸煩 悩より解 脱 させる   無 常を観 察す る   有為 法が 離散す るのを観 察 する

i

(身 念 処 ) (受念処)

 

1

(6)

智山学 報第五十五輯   離 欲 を 観 察 す る   滅 尽 を観 察 する   有為 法を捨 離す る と観 察す る (法念処)  これ らの項 目の各々に独 自の説明は ないが

注意し たいがある。 そ れは、   無 常を観 察 する とされる箇所に

「空」なる語 を 用いて

   「無常 を觀ずる にも亦た息 入 出 を念 ず。 諸 法 を觀 ずる に無 常 生 滅し空に   し て吾我 無 し。 生時に諸 法の空 生 じ

滅 時 に諸 法の空 滅 す

是の中 男 無   く女無し 人無く作無 く受無し

」 (大正 275c23

26) と述べ い る点で ある。 『婆沙 論亅に よ れば

こ の 「無常」に は 諸尊者に よっ て異 なる解 釈があ り 「息 風の無 常 (世 友 説 )」 厂四大 種の無 常 」 「色 身の無 常」 「五蘊の無 常」と理 解 され てい る とい う。 こ のように、 無 常の観 察 は 凡 そ 「五蘊」「息」の無 常 を観ずる こ と と把 握 さ れているが、 こ こ で は、 諸 法 の 「空」の観察とい う 解釈が 加 え ら れ てい る こ と が 分 か る

 次に 『坐 褝 三昧経亅「菩 薩の数 息 観 」 を見て みよ う

こ こ で は見 道 以 降の 修 行のみ が 説 か れ、 菩 薩 は 入 出 息 を念 ず ることによ り

見 道で生 忍

柔 順 法 忍

無 生 法 忍 を行 ず るべ あ る とい う。 [三忍 ](大正 285a6

b22)   生忍 :生の悪 事に動 転せず、

切 衆生 を仏 道に導くこ とで あ り、 「十    方 無 量の衆 生

入 應 當 に悉 く度し て佛 道を得せ し め ん」と誓願 を 立     て る

 

柔 順 法 忍 :諸 法の実 相 を知 りそ れ よ り退 か ない。    「實 相と は云 何。 有 常に非 ず、 無 常に非 ず、 樂に非 ず、 不 樂に非 ず、 空    に非 ず

不空に非 ず

有 神に非 ず

無 神に非 ず

。…

是の如 く生せず

滅    せず、 不 生 な らず、 不 滅 な らず、 有 に非 ず

無 に非 ず、 受 せ ず、 著 せ ず

   言説悉 く滅し 心 行虚 斷す るこ と涅 槃 性の如し。 是の 法は實相な り」(大     正28Sa25

285b13)   無 生 法 忍 :無 生 法 忍 を獲 得 した 菩 薩 は

般 舟 三 昧 を得i7)

衆 生大 悲 (118)

(7)

CHISAN-KANGAKU-KAI 入 出息 念の大乗的展開 (阿部 ) を得て般 若 波 羅 蜜 門に入る

 

こ のように

菩 薩の 「数息観」とは

入 出息 念に よっ て、 衆生の度脱を誓 願 し (生 忍)

諸 法の実 相 を覚 知 し(柔 順 法 忍 )、 智 慧

精 進 を もっ て般 若 波羅蜜門を体 得 する こと 嘸 生 法 忍 ) とされている

r

大安般守意 経 」に は

入 出 息 念の成就に より大 悲 を得る とあ り、 玉城康四郎が指 摘 するよ うに、 そ こに大乗 思 想との関 連を窺 知で き る が1s)

本経の ように入 出息 を 念 じて諸 法 の空 を観 察し

大悲を もっ て 般若波羅蜜に悟 入 する と明示さ れる例は

これ 以前の経 論に は 見当た ら ない

坐 禅三昧 経 』は

入 出 息念と空

大悲

般 若 とい っ た 大 乗 思 想 との 関連 性 を表 す 最 初 期の経 典と見て よいだ ろう。  以 上の よ うに、 従 来の声 聞の五種 観 門を菩薩行 と見なす背景には

小 乗 禅 観の方 法を用い て

そ こ に 大 乗 的 な定型句 を投入することで大 乗の禅 観 を確 立さ せ ようとの計らい が 看 取できる

ま た五種 観 門 説の 最 後に馬鳴 作

rSaundaranantia

亅の瑜 伽 行に関 する二十 偈 を そっ く り引 用 して いる こ と を 想 起 すると

rSaundarananda

亅に依 拠 して様々な 瑜 伽 行 説を 「菩薩」の 称の も とに統 合させ ようとの意 図 が あ る よ う にも思える。 本 経は僧 叡 撰とも 言 われ ている から19)

禅 観つ い は僧 伽 羅 叉婆 須 蜜 な瑜 伽 師

国にお け る慧 遠 等 に よる禅 観 修 習 も視野に入れ て再 考 すべ で あ る が

こ の 点につ い て は稿を 改 め たい

 

2.

『大 集 経』経 典 類にお け る入 出息 念  『坐 禅三昧 経 」で は

入出息 念と大 乗の空 思想との関 連性を見る こ とが で き た が

呼 吸に よ る 〈空 観 〉の 方法は詳 述さ れて いなかっ た

「大集 経』で は どうだ ろうか。

 

r

大 集 経』は周 知の通 り

大 乗の立場か ら法 相

法数 を 列 挙 す る 経 典 類 を

し た さ れ て

の う ち第

「瓔珞 品 亅か ら第 十三

r

日 密 分」(「無 盡 意 菩 薩 品亅を除 き曇 無 讖 訳〉までが前 半 部

隋の招提寺沙 門僧 就 に より新たに編 纂 され た第 十四 「日蔵 分亅か ら第十 七 『十 方 菩 薩 分 亅(那連

(8)

智山学報 第五十五輯 提夜叉訳)まで が

概 して後半部に 当 た る

こ こ で は前 半 部の 「虚 空 目分 亅 「日密 分」と後 半 部の 月蔵 分亅

r

須 弥 蔵 分亅に 入出息念を説 く項が設 けられ て いる。 これ らに説か れる入 出 息 念 を 以 下にま とめよ う。 1)「虚空目分

j

 「虚 空目分亅は

仏 が欲 界 と色界の中 間 と さ れ る 大 宝坊に おい て中道の義 を説 き終 え大 光 明 を放 ち

そ れ を 見 た 天 下の諸 仏 弟子 達 が 来 集 した場 面より 始 ま り、 虚 空 目の 法 行 を宣 説 す ること を 主 題 と してい る。 その う ち、 第

「初声聞 品」で は、 以 下の ように、 五息 念と四禅に より入 出 息 念 を 説 明 す る。 [五息念](大正 157c25

158alO)   数息を修し て

、一

に悪の覚

観を離れ る

二 に息の相貌を観ずる。   修 集 時に随っ て

、一

に念 心に専 念 する。 二 に善の

es

 

観 を離れ る。   冷暖を観じて

、一

に 出 入 を分 別 する

二 に心数のを観ずる。   観身を修して

、一

に身の軽を得る

二 に心の軽を得る

  生滅を転観し て

、一

切法無常の相を知る。 二 に

切法無楽の相を知     る

[四禅 ](大 正:S8al5

22)   初 禅:入 出 息と心 相 を観じ

定とい う心の状 態 を得

   数息に より覚

観 を離れ る。     第二

三禅 :入 出 息に心 を集 中 させ、 喜

楽 を遠 離 する。   第四禅:不喜

不楽を得る。  こ こ で の特 徴は、 従 来の六息 念 (数

浄 ) に代わ り五息 念 を示し

その々に二方法を付け てい る点

そ して入出息念と四禅の 係 を説 く点である。 初 禅におい て覚

定 が あ り、 第二

三禅で 喜

楽を 離 れ

第四禅で 不喜

不楽の 禅定を 得 る と さ れ るの は

従 来の 四 禅 の所 説に相 応 する20} 。 第四禅に おい て入 出 息 念 を指 示 し ない ことも、 「婆 沙       (120)

(9)

CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN

KANGAKU

KA 工 入 出息 念の大乗 的展 開 (阿部) 論 亅で世 友 説 を引 用 し第四禅に呼 吸が無い とし21)

声 聞も入 出 息 念 によ り初 禅 か ら第三禅 に至 りそ れ以 降に入 出息念を行ずる ことは無いと 明記 さ れる通 りであ る22) 。 以上の ように、 ここ で はア ビダルマ に散 見で きる法 数 を挙げてはい る が

特別な解釈 も なく単に従 来の法 数 を寄せ集めたに過 ぎず

菩薩行 と しての入 出 息に関 す る 言 及 は ない。  

「虚 空 目分 』 第三 「弥 勒 品 」では、 息 を虚 空と観 ずる方法を表し

そ れ が ま さに真 実の入 出 息 念である と明 示 する

こ こで は まず

仏陀が十二因 縁 の し くみ を 説 き明 か し

「無明」が呼 吸に よっ て あるこ と を示 して 「初め て息の出 入 する

是 れ を無 明 と名 く」 と述ぺ てい る23)。 つ ま り

凡 夫は呼 吸 によっ て

切の苦

煩 惱 を生 ずる。 そ れゆえ

真に身心の 自在 を 得 る た め に は、 次の よう な観 想を為 すべ きである とい う。    「若し比 丘有りて入出息 を觀ぜ ん に

空 中の風の我 と我 所 無 く

作 者 及   び受 者有ること無 く

縁に從っ て生 じ

縁に從っ て滅 し

相 無 く物 無 く     覺 觀 有 ること無 きが 如 く

衆 生の風 も亦 復 た 是の如 く、 四 大 と共に行 じ、   歌羅 羅を 生ずる時

九孔 乃至 九萬九千の諸 孔の出 入 に 作無く受無 し。

善男子。 譬えば虚 空に物無く我無きが如 く

出 入の諸 息

地 水 火 風

壽   命

無 明 乃至 生 老病死 も

亦復た 是の如し。」(大 正164cl

7) す なわち

人 は入 出 する息に縁っ てその身体 及び寿 命を保 持 する が

虚 空中 の風に実体が ない ように

のみ な らず

体中のあら ゆ る毛 孔より内部に 入 り

循環し て外 部に抜ける息にも実体がない。 よっ て入の身 体 お よ び身体 を構成 するあら ゆ る要素は虚 空の如 く実体がない 。 こ の よ うに

入 出息 念に よっ て 自 身の内 外 を 区 別 な く虚 空の よ うに見 る 境 地こそ が

真 実の入 出 息 念 である。 そ してこれ は、 「諸佛の境 界は不 可 思 議 な り。 是れ聲 聞縁 覺の及ぶ 所に非 ず 」とある よう に2叺 二乗と区 別 されるべ き禅 定である と明記さ れ て いる

2

r

日密分

j25

)  

f

虚 空 目分亅「弥 勒 品」の所 説に近 似 する入 出 息 念を示 すのが 『日密 分 」

(10)

智 山 学 報 第五 十五輯 「分 別 品 」で あ る。 こ こ で は

声 聞と菩 薩に共 通 する入 出 息 念 を 説い て

以 下のよ うに述べている。    「是の如 き風 は 何 癒 從 り來

何 處へ 去 至 する や

   身 相 を遠 離 し、 空 相 を生 じて内法を見 ざる。 是れを 内 空 と名 く

我所及    び外色相を見ざる。 是 を外空と名く。

我れ是の如 き内 外の色 相 を壊 す    のは

皆是れ入息觀の 因縁 な り。」(大正 225b2t

26)  この ように、 入 出息念と は

入 出の風の生滅 を観 じて自 身の内 外の空 を 了 知するこ とで あ る

そして

r

虚空目分亅 「弥勒品」と同様に

    「是の如 き諸 行に は作 者 有るこ と無 く

受 者 有ること 無 く

風 に 因 りて 生 じ、 我が身 口の行 も亦復た是の如 く、 風に因 りて生 ず。 是の風に因 る が故に

身の増 長を得、 是の風に因る が故に

口 の増 長を得。 我れ風は 即ち入出の 息な るを觀 ずる が如 く

諦に

切身の諸 毛 孔

風 の 因 縁 に 從 う を 覿 じ

我 が 身ロの行 は風に因 縁 す。 若 し風 無 け れ ば 身口の行の 因縁     も無 か らん。」(大 正225c16

22) と説 くe す なわち、 諸 行は作 者 も受 者 も な くた だ 風に よっ て生じ、 呼 吸 も風 に よっ て 生ずる と観 察し

さ ら に その風 に 実体が 無い な ら ば

身口 意 行の実 体も また無い と見るとい うのである。 そ して

次の傍線部の ように

こ の観 想こそ が 「空三昧」であ り

あるものは 阿 羅 漢

あるもの は 阿耨 多 羅 三 藐 三 菩 提の心 を獲 得す る と示してい る

   「是の故に爾の時

空三昧を得て修 集 増 長 し

修 集に因 る が 故 に 能 く欲 貪乃 至 觸 欲 を斷 ず

と是の覿 を作 し巳 れ ば

須 陀 滬 果 乃 至 阿 羅 漢 果 を得。 或 は 附 耨多羅 三 藐 三 菩 提 心 を發 す 有 らん。」(大正225c23

25)

 

とこ ろ で

本 経の ように 「息

,ノ

羸 」が 「風 v5yu 」と称さ れ るの は

『声 聞 地 」で風vayu

呼 吸anfipana、 入 出息99vAsa

praivasa、 身 行

kayasa

sk轟τa

が同義語とされ てい る ように、 両 者が同等なもの と考え ら れ ていた か ら だ ろ う。 ただ し 「声 聞 地 亅で は 「風 」 を

般 的な風と共 通 するもの とし

特に内 外に循環する息を 「風」と呼び

身体 的運動とし ての呼吸 に は その他の語を 用いてい る26) 。 周 知の通 り、 イン ドの伝統において 「風 」 は 身体 的 機 能 を働 (122)

(11)

CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN

KANGAKU

KA 工 入 出 息念の大 乗 的展 開 (阿部 ) か せる生命 原理 「気 息 prapa」と密接な関係を もっ てい る。 ま た 「風 」 と 「ア

トマ ンatman」に 関 し ても

例 え ば 「リグ

ヴェ

ダ亅に 「(死 者の肢 体の)眼は太 陽に赴 け

トマ ンは風に」(10

t6葬 送の歌 ) とある ように27)

相 関 関係 が 確 認で きる。 こ こで風 を虚 空と見 なして我 我 所が無いと強調 する のは、 入 出息 念に よりイン ド古 来のア

トマ ン説を ま さ に身を もっ て否定す る ことを意味し ている ように思え る。  さ て. 以 上のように

身体に入 出する風に念を向けて 〈空観〉を 行ずるこ と は

『虚 空目 分

i

「日密分亅以前の経 論 に は 明 示 さ れ てい ない

坐 禅 三昧 経亅では

既に述べた よ うに

自身の息 を外 風 と 同等に観 ずるこ とや、 入 出 息念に よっ て諸 法の空 を 観 ずる ことを説 示 するもの の、 呼 吸に従っ ていかに 〈空 観〉を為す か を 具 体的に記してい な かっ た

だ が 「虚 空 目 分亅

f

日密 分」 で は

外 部の風が体 内に 入 り循環して外部に出る様子 を観察しつ つ

行者の 身 体 は その外 部 と同 様にまさ に虚 空の ごと くと観 する ことが 明瞭に表さ れ て いるといえ よ う。

3

r

月蔵 分」  以 上の経 典では

入 出 息 念 は声聞の行であることが前 提 とさ れ てい た

般 若波 羅 蜜に悟入 す る、 或いは無上菩提 を得るなど とされて はいて も

入 出息 念が声 聞 行でな くて菩薩 行であると強調さ れてはいない

とこ ろが

r

月 蔵 分 亅 「第

義 諦 品」におい て は

風界三昧

分別陰三昧

無 相

無 願 三 昧 が 「声聞の禅 定」であ り

捨三昧

念 仏三昧

念 阿 那 波 那 三昧が

「菩薩の禅定」であ る と明記している

入 出念 は 声 聞ではな く菩 薩の行と称 され ている の である。 こ こ で は、 入 出息 念 を 以 下 の六息 念に よっ て説 明 する。 [六息 念](大 正317bL3t3 )   数 :

には数 息によ り覚

観 を 除 く。 二 に は入 出 息の相 を取る。   随 順 :

に は 出息に より覚

観 を 除く

二 に は 入息の相 を取 る

(12)

智 山学報第五 十 五輯   止 住 :

に は 出 入息が漸 漸に減 尽 する。 二 には 三昧に安 住 する。

 

観 相 :

に は出 入息が漸漸に減尽する。 二 には心々 の諸 法

種々 の別異

 処々の止住を観 察 する

 

転還 :

に は 三種の受 を息 む

二 に は 三種の行を 止 む。   快 浄 :浄 空三昧 を得る。 諸 法の無 命 を見

諸 法の無 生 を観じ

七種空   (陰空

界空

入 空

諦 空

因縁 空

法 空

性 空 ) に住 す る。  「是 れ を 空三昧と名 く

是の空三昧に住 すれ ば則 ち増 長の 因縁の息な り。   増長の因縁息すれば

則ち事の休息 な り。 事の休息の故に則 ち道休息す。  善男子よ

此 れ は是れ

菩薩摩訶薩

第四禅不可得無言 説に して第

義  諦三昧を得ん。 声聞辟支 仏の境界に非ず。 菩薩摩訶 薩は禅定処 を得。 畢 竟 じて声 聞 辟 支 佛 地に堕 せ ず。 能 く六 波 羅 蜜 を満つ 。」(大 正3]7b27

c3)  ここで は、 六息念のそれ ぞ れ に二種の方法を挙 げる点で

r

虚空目分

j

と相 似する ほ か は

特別な説は見受け ら れ ない 。   止住

  観相に よっ て

入 出 息が徐々に減少 するとは

初 禅か ら第四禅へ 呼 吸微 細 とな所説を 考 え れ ば28》

目新 し 方 法で は 。 た だ本 経の特 徴は

  怏 浄におい て入 出 息 念に よ る 「空三昧 」に より六 波 羅 蜜 を 円満 する と述べ る点である。 さ らに 以 下の よ うに、 入 出息 念に よっ て衆生を成 就 させ、 自らも速 やか に成 仏 する と説か れ てい る点で ある

「第

義諦 品」の末 尾の偈 頌に は

   「安 般 を 念 じ三昧 身 心に開示 す 心能く無事に住して 三種の取を休    息す 言 説 し得べか らず  是れを第

義と名く  彼の 二乘の地は 此 の    實際 に安住する に非ず  若し此の 三昧を以っ て せ ば 無數の衆を成熟 す 名稱は中に於いて滿じ 是の人速に成佛す」(大 正318b23

28) とある

入出息 念によっ て六波 羅蜜を円満し

自ら速や かに成仏する とい う のはいか なることか。 入 出息 念 を根 本として別の行 を修 習 する結 果 なのか

そ れ と も た だ 入 出息念のみ に よ る 結 果 なの か

本 経 で は その手が か り をつ か むこ とは 出 来 ないが

次の 「須 弥 蔵 分亅にヒ ントが 見受 け られる。 (124)

(13)

CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN

KANGAKU

KA 工 入 出 息 念の大 乗 的 展 開 (阿 部)

4

) 「須弥蔵分」  「須 弥 蔵 分

j

では 第

「声 聞 品」と第二 「菩薩禅本業 品」に入 出息 念の 述 が あ り、 前 者に は声 聞と菩 薩に共 通 する方法を説き

後者に は菩 薩 独 自の 方法と果が示さ れ てい る。 本経に は チベ ッ ト訳 『大集 大 乗 経 中如 来の吉 祥の

三摩耶 と名つくる大 乗 経

dus

 

pa

 chen 

po

 theg 

pa

 chen 

po

i mdo  sde 匡as de

bzhin gshegs 

pa

i

 dpal gyi dam tsig ces bya 

ba

 

theg

 pa chen po

i mdo 亅がある の で29) 、 これ を参 照 し よ う。 まず 「声 聞 品 」では、 次の ような 修 習 次 第を提 示 する。 (D

 

267b6

271b7/ 大 正382b22

383a3)   初 禅 :散 乱の無い心に よっ て 入出 息 し

観 を 除こう とい う心 を持つ 。   第二禅 :勇 猛 な精 進によっ て作 意 を留 め、 覚

観 を静め る。   第三禅 :鼻 頭に心 を向けて入 出息に集 中し

、一

切の心

 処 を水中の 月

電光の如 く刹那に滅すると見

楽を滅 する

  第四禅 :心の諸々の対象を捨て る

作為の生 滅 を止め

  滅 尽に住 する。

  空三 昧 :第 四 禅よ り起ち (yang de 1as kyang Ldang ng・〉

再 び 入 出息の相 を

  取 り、 入 出息の生 滅 を観 ず る3°}。   無 願三昧 :入 出息の寂 滅 を観 察 す る。   無 相 三味 :無相三昧に住し て 四念 処を 円満し

三解脱門を成 就 する31}

  四正 勤 :入 出息の生

滅 をもっ て対象を観ずる

  四神 足 :入 出息の出

没の相を観ずる

  五根 :入出烏

を観じつ つ

塵の如 く散 壊 する自身の身 体を観 ずる

  五力 :入 出息の出

没の相を取っ て

行 を観 ずる

  七覚支 :諸々 の蘊 を寂静にする と観ずる。

  無縁三 (dmigs pa mcd pa

1 ting nge 

dzin):

 「また入 息と出 息の風 (rlung ) につ い て の瑜 伽 作 意 を な すこ とに より

 あ ら ゆ る 地界の色 光の塵が散壊 し

散じ

相無く

身無 く

仮 名 無 く、

(14)

智山学報第五十五輯  昧 を獲 得 する。 (これ が ) 禅 定に遊 戯 する 三昧であ り

菩薩摩詞薩の禅 定 波 羅 蜜の修 習 に通 ず る。」(D

269a5

6/ 大正382c28

383a3)  以上の ように

こ こ では四禅

三解 脱 門、 菩提 分 法とい う従来の修 行次 第 の法数が列挙され

そ れ らが すべ 入 出息 念の修 習 に集約 され てい る。 つ ま り

入 出息 念によっ てあ らゆる修 行 次 第を成 就 する こ と を表し てい るのであ る。 こう した 入 出 息 念の体系は

リ文献にも阿 毘 達 磨 論 書にも類 を見 な い独 自の もの である が

『大安般守意 経亅に注 目すべ

節 が ある。 そこ で は 「數息爲四意止

相隨爲四意斷。 止爲四神 足 念。 觀 爲 五 根五力。 還爲七覺 意、 淨爲八行 也」と32》

六息念のそれぞれに

三十七菩 提 分 法の四念処

四 正断

四 如意足

五根五力

七 覚 支、 八正道が配さ れ てい る 33  説 は 、 単に入 出 息 念 とい う名 称の もと に法数を配置し た ようであ り

修 習 方 法 と し てまっ た く現 実 味 を帯びてい ないのだ が

r

須 弥 蔵 分 亅の所 説に インパ ク ト を与 えた可 能 性は 十 分 に考 えら れる。

 

r

須 弥蔵分』が 「大安般 守 意 経 』 と相 違 する点は

入出息念が菩薩 行の六 波 羅 蜜に ま で 及 ん でい ることである。 先の  無 縁三昧の箇 所に おいて、 菩 薩 は禅定波羅蜜に入ると されるが、続く段落で は

禅 定 波 羅 蜜は二乗に共通 し

菩 薩は大 悲 を 具 足 し 六 波 羅蜜 すべ て を円 満 すると 述べ ている34》

の 「菩 薩 禅本業品」では

さ らにそ れ を説 明し

  

「何によって菩 薩摩訶薩たちが他の五波 羅 蜜 を 円満 するのか とい えぱ

清 浄 智よ

次の通 りである。 菩 薩摩訶薩はあら ゆ る入 息 と出 息に五 取 蘊

  

の生滅 を観察する

そ れゆえ貪 欲と愛着を枯渇さ せ

そこ (声聞 独 覚 )

  

に堕すことはない。 四 神足 によっ て遊戯し神通 を な し

、一

切の仏 世 尊 を

  

供 養 し恭 敬 し正法を聴聞するために

、一

切の仏 国土へ 稲の ような力 を    もっ て善 巧に往 詣 す。」(D

270b6

271a2/ 大 正 383b24

b29) と、 五波 羅 蜜も ま た 入出 息 念に よっ て円満 され る と説い ている

そ して、 こ の五蘊の生 滅 を 観 ずる方 法と は

  

「入息と 出息の色取 蘊と

同 様に受

行、 並び に 入息と 出 息の識 取 (126)

(15)

CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN

KANGAKU

KA 工 入 出息念の大乗的展開 (阿 部)   曹 を如 実に了 知 し

入 息に異 あ り、 出息に異あり

入 息の分 劉にも異 あ   り、 出 息の分 別にも異 あ り、 入息の受 と想と思

作 意に も異 あり

出 息   の受と想 と 思

作 意にも異 ある

。…

こ の ように

々 の疱 瘡の 門 (srid

  

pa

i rgya mtSQ

i sgo dag) に入 息と出 息 が 入 出 する。 同様に

九 十 九 百 千 那

  由他の毛 孔に入 息 と出息 が 入 出 するc それ ら の 九 十九百千 那 由他の毛 孔   (の入 出息 )は不 増 不 減に し て

過去

未 来

後は無 く

  滅も無いD

 271ad

b5/ 大 正383c4

22) と説か れ る ように

口鼻 ない し

切の毛 孔の

々に息の 入 出 を 見 て、 その 各々に色 等の 五蘊 を別々に観じ

さら に入 出息 が 不 増 不 減であ ることを了 解 する ことである。  そ して

こ の修 習 を為し た菩薩は

界に依らず (mi migs

無 所 得)、 過

滅に依らず

衆 生 を成熟させるた めに無 量 劫のあい だ 「

切法空性 無言説の三昧chos 【hams cad stong pa nyis 

bilod

 du med  pa

i tlng nge

dzin 」に安 住 すると説か れ ている。  この ように、

r

須 弥 蔵 分 亅に は、 初 期 経 典より説か れ る様々な修行次第が 入出息 念に集約さ れ てい る

こ の入 出息 念 を行ずると三乗に共 通 する禅 定 波 羅 蜜を獲 得 するが

菩 薩の場 合は

、一

切の毛孔に入 出 する息に諸 法の生 滅 を 観じ て 六波 羅 蜜 を 円 満し 「

切法空性無言 説三昧」に住 するの である。 以 上 の こ と を考えると

「月蔵分』に おいて

入 出 息 念によ り六 波 羅 蜜 を円 満 し、 自 ら速や かに成 仏 するとされ たのは

声聞乗に共 通 するすべて の修 行次第と

菩 薩 行 と して の六 波 羅 蜜 が

た だ 入 出息念に よっ て 円満 され る という解釈が、 何ら か の 形 で伝え ら れ ていた か ら だ と考えら れ る

  ま と め  以上の ように 「大 集 経 亅は、 声 聞の次 第や方 法を採用 しつ つ も

そ の

に 〈空観〉の側面 を付加し て 「窒三昧」

切 法 空性無 言 説三昧 」 等と称し

入 出息 念 を大 乗の禅 定と見なしている。 本稿では

これ を 入出息念の大 乗 的 展開 と捉 え考察し てきた。 以 下 に概 要 を示 そ う。

(16)

智 山 学 報 第五十五輯   『坐禅三昧経亅 「数息観」の項で は

十六事の説 明 中に入 出 息 を念 じて諸 法 の空 を観ずる こ と が示さ れ

「菩薩の数息 観」の項で は

入畠息念に より非 有 非 無 等とい っ た諸法の実 相 を観じて般 若 波 羅 蜜に入る ことが説か れ てい た

本経で は 入 出息 念と 〈空観〉との関係が明白でないが、 「大 集 経 亅に は詳 細 に説明さ れ ている

「虚空目分 」で は

口鼻と毛孔に よ る息の循 環 を観じて、 自身の内外を 虚 空 と見るこ とが真実の入 出 息 念 とさ れ た

「日密 分亅でも 『虚 空 目分 亅 と同 様に 〈空 観〉を説い てそ れ を 「空三昧 」と称 し

これ に よ りあ る 者 は 阿 羅 漢

あ る者は阿縛 多 羅三藐三菩 提 を獲 得 する と述べ ている。 『月 蔵 分 亅で は、 入 出息念 を菩薩 行と捉え

それ に より六波羅蜜 を円満し

自 ら速 や か に成 仏 する と説 く。 以上の ような諸説 を総括し てい るのが 「須弥 蔵 分』で あ る

こ こで は 四禅

三解 脱門

菩 提 分 法 とい う従 来の修 行 次 第が 列 挙さ れ

入 出息 念に よっ てその全てが 成 就で きる と される。 そ して、 入 出 息念 を行 ずると三 乗に共 通 す る禅 定 波 羅 蜜 を獲 得 し、 さ らに

切の毛 孔より 入 出 する息を見て諸 法の空 を了 知 する こ と に より

六波 羅蜜 を 円満し 「

切 法 空性 無 言 説三昧」に住 するとい

 この ことか ら 「大集経亅に おける菩薩の入 出息 念 は

単に多 尋 伺 を 除 き集 中力を得るため の ツ

ルでも

また五 停 心 観の

数 え られ る 初 歩 的 な 修 行でも な く

む しろ空を体 現 する禅 定

そ してあ ら ゆ る修行 次第の総 体 と 言 うことがで きる だろ う。  さて、 真言宗の禅観 とい えば 「阿 字 観」である。 興 教 大 師 覚 鑁 作 『

tt

字 観 儀』に は

「本 不 生」たる阿 字を心 月に観 ずる 前 に 「数息 観 」を 行 ず るこ と

阿 字と 入我我入し たのちにも

入息

出息しなが ら阿字 を唱 えて観 ずるい わ ゆ る 「阿息観」 を修 すべ きことが記 されて いる3S〕 。 こう し た禅 観の背 景に は、 当 然 イン ド大 乗 仏 教以上に中 国

日本に おける諸説が深く関わっ てい る はず である

た だ

本 稿での考察か ら批 判 を恐れず 言 う ならば

「阿 字 観 」にお ける 厂数 息 観 」 も、 単 な る調 息法 と して の準 備 行で はな く、 空 観と し て、 ま た 小 大 乗の あ らゆる修 行次 第 をそれ の み で成 就する観法と捉えることが で き るの で は ない だろ うか。 (128)

(17)

CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN

KANGAKU

KA 工 入 出息念の大乗的展 開 (阿 部) 注 1) )

 

) ) 234 ) 5 ) 6 玉 城 康 四 郎

f

入 出息念定の根本 問 題」「仏教学論 文集」東 方出版

1979

川島常 明 「安般 守 意 経 につ いて」 「印仏 研 亅24

2

1976

松田慎也 「初期 仏教に お け る 呼 吸 法の展開

安 般 念につ い て

」 「仏教 学」15

1993

勘 畷短觚

sutta

 MN

10

A滋ρ伽卿 ∫ゴ

S観tta

MN

118

         「入 出息念 」   〈長 く出 息 / 入 息 しよ う〉と 自覚 す る。   〈短 く 出息/入 息し よう>tt   〈全身を感知 し て出 息/ 入息し よう〉ウ   〈身 行を静めつ つ饋 息 / 入 息 しよう〉〃   〈喜び を感知して

〉  (楽を感知 しで

)   〈心行を感知し て

〉  〈心行を静めつ つ

  〈心 を感知 して

)   〈心 を定めつ つ

〉   〈無 常 を観 察 し

〉   〈滅 尽を観 察し

〉   処 念 四 「 処 念 受 「七覚支

1

身念 処⇒念→ 択 法

精 進

喜        → 軽 安→ 捨呻 定 を

       順 次 満足する

1

騾 蒹

1

1

鯲 〃 〃

 松田慎也氏 は

元 来 入 出息 念 は 四念 処と は無 関係であっ たが

r

念 処 経 亅の よ うに身念 処観に導入さ れ て

さらに 四念 処各々に配 さ れて十六事 が 完 成 して いっ た と見 な している。 なお

氏は 「増

阿含亅「八道 品」の身念処 説に入 出息 念の記 述 が ない こと か ら

身 念 処の基 本は不 浄 観

界作意

屍体 観であっ た と

推 測 する

ま た

 

  anicca

viraga 

 nirOdha 

 patinissaggaの順序に関 し

リ文 献 と漢 訳 文 献に相 違 が あること を論 じている (松田前 掲 (1983)

pp57

60

 

Sbh

無常anitya

断prahatia 

離欲virEga

滅nirodha の順 序 を採 用 して お

松田氏 が 漢 訳文献 と して挙げる 「雑 阿 含 経 亅 や 「十 誦 律亅「摩 訶 僧 祇 律 』と

致 す

r

脱 道 論も同 様無常

滅 と示 す (大 正355c15

356a14)

釋惠 敏 「声聞地にお ける所縁の研 究」山 喜 房佛 書 林

1994,

pp

191−247.

松 田 慎 也 「修 行 道 地 経の説 く安 般 念につ い て」

f

印 仏 研 亅37

2

1989

合 田 秀 行 厂阿 那波 那念 (

Anapanasrn

ti)再考亅

r

印 仏研亅49

2

2001

「解 脱 道 論 亅 大 正429c16

431c12

(18)

智山学報 第五十五輯 ) ) > 789 10> 1D12 ) 13) )

 

) ) 456 17) 〉 ) ) 890 112 「婆 沙 論亅大 正132a8

137a12

r

倶 舎論亅大 正118a4

118c5

 AKbh

 Pradhan

 pp

339

5

341

5

Sbh

研究 会隹5 

r

大正大学 綜 合 仏教 研 究 所年 報 亅

1996

 pp

(18)

(35)

 

Sbh

研 究会

16r 大正大 学 綜 合 仏教研究所 年報」

1997

 pp

(83)

L

(109)

FI。rin Dcleanu

 MindjUtness 

Of

 Breathing in漉80 紹 S謀‘m ε

 Tra鳳sac【ions of 山e Internationa置Conferenee of Orientalists in Japan

 No

37

 p

46

松濤誠 廉

r

馬 囁 端 正 な る 難 陀亅山喜 房 佛 書 林

198111954

小 玉大 圓他 「瑜伽 師と禅経典の研 究 (1)

伝 承の問 題 点 と分 析 を 中 心 に

」 「仏 教 文 化 研 究 所 紀 要 亅31

1992

小 玉 大 圓 他 「瑜 伽 師と禅 経 典の研究 (ll)

伝 承の問 題 点 と分 析 を 中心に

」 「仏 教 文化 研 究 所紀 要 」32

皇993

「修 行 道 地経亅竺 法 護訳 (序に よれば僧 伽羅 叉 作 )

r

達 磨 多 羅 禅 経亅仏 陀 跋 陀羅 訳 (慧遠 説では 達磨 多羅

仏 大 先作)

「坐 禅 三味経亅鳩 摩 羅 什 訳 (僧 叡 説で は 婆須蜜

僧伽羅叉等作)Q 小 玉 他前掲 論文 (1993)

pp

173

176

小 玉 他 前 掲 論 文 (1992)

p

119

r

修行道地 経亅大正 217a28

217b15

〔1}四息   数 息 :入 出 息の息 を 数 える

  相 随:心 をた だ入 出 息に従わ せ る。   止観 :息の 入出を最 初か ら終わ り ま で観 想 する

  環 浄 :心 を鼻 頭の

点 に と どめて

息の入 出 を 知 る。 〔2}十 六 事 {3} 四善根位   温和 (煖 ) :息 が 鼻

鼻 と循 環 す るの を 観 察 す る。  頂 法 (頂 ):五 蘊の空 を 見 る

精 進 が 増 し

心 が 常 に 不 動 と な る。  法 忍 (忍 ) :四諦を見る

常に異 なる入 出 息に心 を 従 わ せる。  世 俗 尊 法 (世 第

法):諸法の苦 を 見る

心 は 清 浄 だ が五根 を 成 就 し ない

r

禅 秘 要 法 経亅で は

不 浄 観

観仏三味

白骨 観ど次第する修行次第のう ち

観 仏 三昧のに数息観 が 位 置づけ られている。 観 仏三昧に より仏に見 えて も

食 欲の多い者は利 益がない

まず仏 を 見て諸々の罪 を 離 れ

数 息 観によっ て貪 欲 を除き心 を散乱さ せない ようにする

(大正 256c22

23

 258bl8

20 玉 城前 掲 論文 (1979)

p

83

小 玉 他 前 掲 論 文 (1992)

pp

 t25

26

「倶 舎 論亅で は

初 禅 で 五 支 (尋vitarka

伺vicdra

喜 pn

ti

楽sukha

samadhi )

第 二 禅 で 四 支 (内 浄adhy乱ma

sa 叩pras査da

喜prTti

楽sukha

 

samadhi )

第三禅で 五支 (行 捨saipskdropekea

正 念smi

正 慧sarPPtajfidna 

楽 受vedanfi

sukha

定sam2dhi )

第四禅で 四支 (捨 清 浄upek pa崩 uddhi

念 清浄

(19)

CHISAN-KANGAKU-KAI CH 工SAN

KANGAKU

KA 工 入 出息 念の大乗 的展開 (阿 部 ) 21) ) > > ) 2345 2222 ) ) ) 678 222 29) 30)

sm ;tipariSuddhi

不 苦 不 楽adu4khasukhAvedanti

定samadhi )を得る と さ れ る

(AKbh

 pp

437441

正 146c2

16)  バ

リ文 献

初 期 漢 訳 経 典 に お ける四禅及 び四禅と入 出 息 念の関 連につ い て は

玉 城康四郎 「中 国 仏 教思 想の形成」(筑 廉書房

1971

pp

352

366)に詳 しい, 「婆沙論亅 「尊者世友。 作如 是説

入第四静 慮。 便 得韓 依。 謂所 依身。 有 第四靜 慮 微 妙 大 種

令 諸 毛 孔

密 合 無 竅 隙故

非 息 所 依

由 此 爾 時

息不復 轉」 大正 132b22

24

Cf

 AKbh

 p

Ml

3

18

『倶 舎論亅大 正147c21

c26

「解 脱 道 論 亅大 正 422bl

2

前 掲Sbh研 究 会[6

 PP

(18

(19)

大 正164b7

9

大 正正64cl6

19

r

日密 分亅(曇 無 讖 訳 ) は構 成 上 完 結 したもの と はい えず

そ れに欠 けてい る部 分が

r

日蔵分亅 (那連 提 夜叉訳 )に存 在 することか ら

概 して 「日 蔵 分

j

が完成 された形と見 な されている

た だ し

入 嵐息念を説く箇所は

「日密 分 亅に存 在 するため

こ こ で は曇無讖 訳に従った

この経 典 は

興 味 深いこ と に、 仏が大 宝 坊におい て 「虚 空目 入息出 息 甘 露門」を説 き終 え た 場 面 か ら始 ま る。 そ れ ゆ え

1

虚 空目分亅の直後に入るべ き経典 だっ た との先 学の指 摘 もある。 「虚 空 目」 が 「虚空 目 分

1

を表すとすれ ば

「虚 空 目分 」のテ

マ は入 出息念だ と見る こと も可能だ が

「虚空目」を

虚 空 を眼 目とすると捉 えるな ら ば

「虚 空 目入息出 息 甘 露 門 」は虚 空 を主 眼 とする 入 出息 念を意味する と取ること も可能である

前掲Sbh研究 会 15

 pp

22

25

服部正明

r

古代イン ドの神秘思想亅講談社学術 文 庫

2005[1979】

pp

114

124

r

尊婆須蜜 菩 薩所 集論亅「如入初禪 遂便増長。 第二禪微第三 亦 微

如 是 漸 漸 息 時 第四禪 無 有」 大 正747all

]2

Tt)h

230;

dus pa che靡pO theg pa chen po

i mdo  sde  las de bzhin gshegs pa

i dpal gyi

dam tshig ces  bya ba theg pa chen po

i mdo (MahasannipEttin mah 盃y盃nasgtrtit  tatha

gata‘ S  aya 順ma mahay 謡nas巨【ra)

入 出 息 念によって 無 息

不 動を得た後に

そ の禅 定より立つ とい う

連の経 過

「金 剛 頂経亅にお ける 五椙 成 身観 以 前 に

釈 尊 が 阿 娑 頗 那伽三摩地(asphanaka

samadhi

無 息 禅

 mi gyo ba

i tin nye

dzin>より起つ 箇 所と接点が あ る ようで

ある

先学の研 究 (遠 藤 祐 純 「智 山 教 化 資 料 第13集亅pp

70

76)に よ れば

「金 剛 頂 経亅に は阿 娑 頗 那 伽三摩 地 が 苦 行と称され てい る が

否定的でない経 典 に

(20)

智 山 学 報 第五十五輯    

r

観 自在 菩 薩如 意輸 瑜 伽 亅

r

五字 陀羅 尼 頌 亅 「瑜 伽 蓮 華 部 念 誦 法 ] などが あ ること     か ら

阿 娑 頗 那 伽三摩 地 を顕 密の潮 目にお か れ る 行 と述べ ている

また 氏によ     れ ば

「金剛頂経大教王経疏 亅に は阿娑頗那伽三摩地の前に入出息念 を修 する こ     とが説か れ てい るとい う。 「金剛頂瑜 伽中略 出念踊經亅にも 「初依琉伽安那 般 那。     繋 念修習。 不 動身躯。 亦 不 動支分。 名 阿娑頗 那 伽 法。 久 修 行 者。 如 是 思 惟 時。     入想己身住在虚空。

切 諸 佛 運滿 法 界。 以彈指 印令從 坐 起。」 と 説かれ、 入 出 息     念を修習 した後に阿娑頗 那 伽 法に入 り

そ れ よ り立つ ことが 明示 されている

31> 漢 訳では

空 三 昧に入っ た後

無 願 三 昧に入っ た 後にも

その 三昧か ら立っ て     再び 入出息念するとある

「彼菩薩還從定起

取出 入息椙

観觸念 相還 入空定

    從 空 定 起

復 覿 出 入 息 生 滅 攀 縁 相

便 入 無 願 三 昧。 從 無 願 三 昧 起。 見 出 入 息寂     滅

住 無相定

如 是 則 能修満四念 處 及 三解 脱 門 」 大 正382c18

21

32) 大 正164blB

19

33)Anapanasati

sutta で は入 出息 念 を説 示 する 以前に

三十七菩 提 分 法の各々を行 ず     る各々 の比 丘につ い て雷 及 されて お り

「虚 空 日分 亅 「初 声 聞 品」にも入出 息 念     の五息 念 と 四禅 を挙げ たの ちに 三解 脱 門

三十 七 菩 提 分 法

止 観 が 説か れ てい     る が

れも入 出息念との関 連牲は明白でない

34) 「禅定波 羅 蜜 は

、一

切の声聞 と縁覚に共通する。 そこ に住す もの は預 流果に住 す。     精 進 するものは

声 聞の法 を増 長 し阿羅 漢 果に住 す る。 大悲を具 足 し

堅 固 な     精 進のある菩薩麿訝薩は

、一

切衆 生 を 見て無 量の福 智の積 集 を 実践 し

声聞の     真 実 に 入る こ と はない。 それ らの菩 薩摩訶 薩は

大 鎧を着け

禅 定 波羅 蜜 と覚     知 を行 じて清 浄に住 し

禅 定 波羅 蜜 を 円満 し

かの六波 羅 蜜 も円満する

」D

269     a6

b3/ 大 正383a3

384a11

35) 北 尾 隆 心

r

密 教 瞑 想の研 究亅東 方 出 版

1996

pp

56

62

65

70

〈キ

ド>anapaTiasrnTti

入出息 念

数息 観

空 観

『声 聞地亅

「坐 禅三昧 経

1

       

r

大 集 経

j

(132)

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