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佛教大學大學院研究紀要 18号(19900314) 050善裕昭「幸西の一念義(1)」

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(1)

五 O

幸西の一念義付

主主 Eコ

はじめに

本稿の課題は、法然門下の上足の一人で、 一念義主張者として知られる成覚房幸西︵一一六三 1 一 二 四 七 ︶ の 教 学 を考察し、それの体系的把握に努めることにある。周知のように初期浄土宗教団の辿った道程は平坦なものではあり えず、対外的にも対内的にも深刻な問題を抱えていた。対外的には法然在世・滅後にわたって顕密諸宗との聞に生起 した幾多の圧蝶と弾圧があり、対内的には法然在世中に﹁一念往生ノ義﹂が発生して﹁一念ノホカノ敷返無益ナリ﹂ と説いて回る一群の念仏者が活動し、法然はそれへの対応に苦慮しなければならなかった。滅後になると﹁分二念 多念之門徒﹂各招二誘法破法之罪業こくという分裂的状況が激化してゆき、そのため隆寛は﹃一念多念分別事﹄、 親驚は﹃一念多念文意﹄をそれぞれ著し、内部対立の止揚的解決を図ろうとしている。本稿で取り上げる幸西は、こ れら初期教団が抱えていた諸問題の中枢に位置する人物である。 幸西の樹立した教学は、古来より一念義と呼称されてきた。その呼称から、 一般には一度の念仏による往生を説く

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ものと理解されているが、 それのみでは把握しきれない複雑な構造を持つ教学を形成しており、体系的把握は容易で ﹃選択集﹄を所持していたことは確実としても、その教学内容を瞥見すると、選択義を直接 ない。法然の許に学び、 的に継承・進展せんとする姿勢は見えず、 むしろ、法然になかった新たな要素を導入して﹁いるとの印象を受ける。 ﹁一念﹂の語に関しても、法然のように一称の意味で用いていない。そのためであろうか、従来、幸西教学成立の背 景を天台教学・天台本覚法門の影響に求める見解が多く提出されて来た。このことは、早く﹃四十八巻伝﹄巻二九第 一段に﹁成覚房幸西と号しけるか、浮土の法門をもとならへる天台宗にひきいれて﹂弥陀に本迩二門を立てた、と指 摘しており、幸西教学の性格規定に関しこの記事は、後世少なからぬ影響を与えてきている。研究者により論じ方に 差異はあるものの、何らかの形で天台の影響下にあるという見解は、現在、定説化している。だが、幸西教学の全体 像が十分に把握されないままに、天台との関連が断片的言葉の類似によって追及されている傾向が多分にある。法然 門下の教学が師法然の専修念仏義の展開形態であると同時に、 それ独自の内部構造を持つことを思えば、幸西教学の 構造的特質の解明こそが最要の課題ではないだろうか。 本稿は、従来必ずしも明確な理解のなされていない幸西教学の内部構造に考察を加え、それの体系的把握に努める ことに主眼点を置く。そして彼みずから言う J 念往生﹂なる主張も、その過程の中で検討していきたい。 註

ω

寸 越 中 国 光 明 房 へ っ か は す 御 返 事 ﹂ ︵ ﹃ 昭 和 新 修 法 然 上 人 全 集 ﹄ 五 三 七 頁 。 以 下 、

ω

﹁ 基 親 の 書 信 並 び に 法 然 上 人 の 返 信 ﹂ ︵ 同 右 五 四 九 頁 ︶ 。 ﹃ 昭 法 全 ﹄ と 略 す ︶ 。 幸 西 の 一 念 義 付 五

(3)

悌教大学大学院研究紀要通巻第十八競 五

ω

伊藤真徹寸停止一向専修記の研究﹂︵仏教大学編﹃法然上人研究﹄︶一九七頁。

ω

幸西と同じく一念義・一念往生義を唱えた法本房行空の動向にも注意を払わねばならないが、著書を残さないので本稿で は ひ と ま ず 措 く 。

ω

醍醐本﹃法然上人伝記﹄によれば、源智は﹁成覚房ノ本﹂の﹃選択集﹄を書写しており︵藤堂恭俊博士古稀記念﹃浄土宗 典 籍 研 究 資 料 編 ﹄ 一 六 九 頁 ︶ 、 行 観 ﹃ 選 択 集 秘 紗 ﹄ 巻 一 に は ﹁ 或 時 上 人 ノ 門 弟 ニ 隆 寛 ト 云 人 御 前 ニ 令 、 ぺ 参 セ 、 其 ノ 時 上 人 / 仰 ニ ヨ リ ヲ y ノ ヲ シ ム セ テ ノ ト メ 玉 ブ カ ニ セ テ ヲ ノ ニ ハ 云、此程月輪殿蒙レ仰記一一念併要文一令レ進云一一其草案一令二:密見一、以レ是彼門弟我家選揮付属申 事 ナ J 是 ヲ 一 念 ノ 成 費 房 聞 テ 承 リ 同 だ 丙 リ ト 云 事 有 リ 、 児 然 ト 悌 法 付 属 ハ 不 定 ノ 事 ぽ 、 贋 言 一 玄 云 ﹂ ︵ ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ 八 巻 三 三 六 頁、以下、、﹃浄全﹄と略す︶という記事が見える。また、日野環氏蔵貞和二年乗専延書本﹃選択集﹄の本上奥書に、親驚 加点本を﹁阿波聖人真本﹂を以て校合したとある︵﹃定本親鷺聖人全集﹄六巻写伝篇

ω

解説二一八 l 一 三 二 頁 。 以 下 、 ﹃定親全﹄と略す︶。いずれも幸西所持の﹃選択集﹄が存在したことを示す事例である。

ω

望月信亨﹃略述浄土教理史﹄第十二章、同﹃浄土教概論﹄第十八章、重松明久﹃日本浄土教成立過程の研究﹄三七八|三 八二頁、石田瑞麿﹁一念義と口伝法門﹂﹁幸西の四捨行について﹂﹁一念義の周辺﹂︵いずれも同﹃日本仏教思想研究第 三 巻 思 想 と 歴 史 ﹄ 所 収 ︶ 等 。 的﹃法然上人伝の成立史的研究﹄ご巻一九七頁。以下、﹃法伝研﹄と略す。

ω

特に望月註

ω

書 に そ の 影 響 が 著 し い 。 仙 川 ﹃ 増 補 改 訂 日 本 大 蔵 経 ﹄ 九

O

巻三九二頁。以下、﹃日大蔵﹄と略す。

ω

幸西・一念義に関する主な研究を列挙すると、教学研究として望月註

ω

書、安井広度﹃法然門下の教学﹄第三篇、同﹁法 然聖人門下の教学の展望﹂︵﹃宗学研究﹄第二二・二三合併号︶、石田充之﹃日本浄土教の研究﹄第三編第三章、同﹃浄 土教教理史﹄第十章第三節、同﹃法然上人門下の浄土教学の研究﹄上巻第三篇。親鷺との関わりから松野純孝﹃親驚ーそ の生涯と思想の展開過程﹄第三章、重松明久註倒書第三編第二・三。初期教団における一念派の動向を分析した伊藤唯真 ﹃諦土宗の成立と展開﹄第五章第一節等がある。ことに本稿は、安井・石田氏の撤密な教学研究に幾多の教示を得てい る 。

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史料について

まず、取り扱う史料にフいて簡単に触れておきたい。本稿は幸西教学を考察するものであるが、その目的に適う史 料は十分に残されていない。幸西は他の門下に劣らず多くの著書を著わしたが散供したものが多い。乗専﹃最須敬重 絵詞﹄巻五によれば、覚如が西山義・長楽寺義とともに一念義を習学したという記事が見える。 慈光寺の勝縁上人に封して、 心 侮 ﹄ 一念の流をも習息子ありけり。これも﹃凡頓一乗﹄・﹃客観経義﹄・﹃略料簡﹄・﹃措 ﹃持玄紗﹄などいふ幸西土人の製作ゆるされによりてかきとり給付り。 覚如は慈光寺の勝縁なる人物から一念義を学び、その際幸西の﹃凡頓一乗﹄ 玄紗﹄の五書を許可されて書写したという。この中、 ﹃ 略 観 経 義 ﹄ , ﹃ 略 料 簡 ﹄ ﹃ 措 心 偶 ﹄ 持 ﹃ 略 料 簡 ﹄ が 凝 然 ﹃ 浄 土 法 門 源 流 章 ﹄ 以 下 、 ﹃ 源 流 章 ﹄ と 略 す︶に引用されるが、他は伝わらず書名が知られているのみである。また、善導五部九巻全部に注釈をなした可能性 が指摘されている。今に伝わるものは、 ﹃ 玄 義 分 秒 ﹄ 一 巻 と ﹃ 京 師 善 導 和 尚 類 衆 伝 ﹄ 一 巻 の 二 書 の み で あ る 。 だ が 、 後者は善導、及び道縛・会通・懐感・少康・屠見宝蔵に関する伝記を収録したーものなので、ここでは問題とならな い。唯一残された教義書は﹃玄義分秒﹄のみである。 ﹃玄義分抄﹄は善導﹃観経疏﹄玄義分の注釈書であり、玄義分の構成に対応して説侮分・序題門・釈名門・宗旨門・ 説人門・定散門・和会門︵諸師門・道理門・返対門・顕証門・別時門・二乗門︶ ・得益門の八科からなる。現在、大 谷大学に明暦二年︵一六五六︶ の奥書を持つ写本が所蔵されている。大正三年、山田文昭氏によって大谷派の学匠恵 幸 西 の 一 念 義 付 五

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悌 教 大 学 大 学 院 研 究 紀 要 通 巻 第 十 八 競 五 四 空の蔵書中より発見されたもので、これにより幸西教学の正当な研究が可能になった。外題は﹁玄義抄﹂、内題は ﹁玄義分抄﹂\尾題はない。表紙裏には恵空が﹁此本安置於金森 恵空子﹂と記しており、内題下には﹁江州金森善 立寺 L の朱印が捺してある。もと恵空の所持本で、彼の自坊である善立寺︵滋賀県守山市金森町︶に蔵されていた。 撰号は記されていないが、山上正尊氏が奥書に﹁己上阿波ノ聖人御自筆御本也﹂とある阿波聖人が幸西であることを 諸史料により考証し、教義内容が﹃源流章﹄所引の幸西書と一致し筆格までも類似する等の理由により、幸西撰と認 定した。本書は注釈書の体裁を取ってはいるが、内容は極めて思弁的・達意的なものであり、実質的には善導の真意 の追求という形を取つての幸西の思想の表明である。従って教学の体系的叙述ではないが、それの持つ大方の特質・ 方向性は把握できる。 次に、この﹃玄義分抄﹄と同等に従来より重視されてきた史料に東大寺の学僧示観一房凝然の﹃源流章﹄がある。印 度・中国・日本三国にわたる浄土教の歴史を概観した本書で、凝然は﹁異解多郡︶﹂な門下五流の教学を紹介してい る 。 応 長 元 年 ︵ 一 三 一 一 ︶ の撰述であるから、幸西滅後六十四年目のものである。凝然の岨腐を含むであろうが、仏 智一念説の紹介は貴重であり、また撰述時に手許にあったのだろうか、 つ、解説を加えている。江戸期浄土宗・真宗における幸西研究は、 ﹃ 称 仏 記 ﹄ を 引 用 し つ ﹃源流章﹄を中心史料としていたようである。如 ﹃ 略 料 簡 ﹄ ﹃ 一 滞 記 ﹄ 何なる理由で法然教学を紹介せず門下教学を叙述したのか、しかも起行派より安心派の紹介に力点が置かれている等 の興味ある問題を含む。凝然の解説文には一部疑点の持たれている箇所もあるが、全体的に見れば引用書に対して素 直であり、史料の少なさを思えばやはり貴重である。以上の二書が本稿での一次史料となる。 この他注意すべきものに、西山派西谷流の行観覚融が武蔵国鵜木宝瞳院で撰述したという﹃観経疏私記﹄ ︵ ﹃ 観 経

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疏秘紗﹄︶がある。元亨元年︵一三一九︶の撰述であるから、 ﹁白骨﹂を以って浄土教学を建立したという門下諸流の見解を紹介・批判してい ﹃源流章﹄とほぼ同時期の著書である。善導﹃観経 疏﹄の注釈書であるが、 そ の 中 で 、 る o t 幸西の見解が如何なる経路を経て行観に伝わったのか筆者には不明であるが、幸西門人の説の混入の可能性があ り、また行観自信の阻鴎や分析的見解も含んでいる。しかし、 ﹃玄義分抄﹄と教義的に絞み合う点も多いので、 そ の 限りにおいて傍証として用いたい。 この他にも幸西教学に関する史料はないわけではない。 たと言うが、疑わし叫。江戸期浄土宗・真宗の異流研究の書も参考になるが、種々の見解が錯綜して容易にさばけな ﹃観経疏私記﹄を傍証として用いるのみとする。史料が限定 ﹃四十八巻伝﹄巻二九には、幸西が弥陀に本迩二門を立て い。本稿では﹃玄義分抄﹄ ﹃ 源 流 章 ﹄ を 一 次 史 料 と し 、 されているので、他の門下のように細部にわたっての検討は困難であるが、今は幸西教学の大方の特質・方向性の把 援 に 努 め た い 。 註

ω

﹃ 真 宗 聖 教 全 書 ﹄ 一 ニ 巻 八 四 六 頁 。 以 下 、 ﹃ 真 聖 全 ﹄ と 略 す 。

ω

詳 細 は 山 上 正 尊 ﹁ 覚 如 上 人 と 浄 土 異 流 に 就 い て ﹂ ︵ ﹃ 無 尽 灯 ﹄ 第 二 二 巻 第 四 ・ 五 号 ︶ 。

ω

安 井 広 度 ﹃ 法 然 門 下 の 教 学 ﹄ 一 四 四 頁 。

ω

奥 書 は 次 の と お り 。 建保六年戊寅七月廿四日御在判 己 上 阿 波 / 聖 人 御 自 筆 御 本 也 吉野聖人御奥書云 幸 西 の 一 念 義 付 ー 五 五

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悌教大学大学院研究紀要通巻第十八競 五 六 寛元二年甲辰八月廿日逢喪之魁相 博之此一本之外末書寓流惇云﹀ 春秋廿三歳仙才 正安四年十一月廿九敬寓了専智 明 暦 二 丙 申 歳 七 月 廿 六 白 書 寓 之 ⋮ 塗 旅 一 一 塗 抹 一 e 寛元二年︵一二四四︶、幸西滅する三年前に仙才︵吉野聖人。﹃法水分流記﹄﹃源流章﹄一念義門流にその名が見える︶ が相伝しており、正安四年ご三

O

三︶に専智︵不詳︶が写伝、明暦二年︵一六五五︶に再び写伝されている。この時の 写伝人名が塗抹されていて判読し難い。所持者の恵空はこの時まだ十二歳なので彼ではない。山上註

ω

論 文 は 雲 厳 な る 人物ではないかと言う。

ω

山上正尊﹁成覚房幸西の著﹃玄義分抄﹄に就いて L ﹁ 同

ω

﹂︵﹃無尽灯﹄第二

O

巻第二、三号︶。なお山上氏は、﹃玄義 分抄﹄は﹃最須敬重絵詞﹄に見える﹃略観経義﹄の一部、或はそれそのものか、と推測している。

ω

﹃ 浄 全 ﹄ 十 五 巻 五 九 一 頁 。 m w 大谷派の了詳は﹃異義集﹄に﹁サレハ幸西ノ員説ヲミルハ。源流ヲ正トスヘシ。飴説ハ多ク多念ニカタヨリ。一念ヲヒガ メニスル執見アルへク。文末資ノ邪ヲ本ニ及スコトアルへシ。﹂︵﹃真宗全書﹄五八巻四三四頁。以下、﹃真全﹄と略 す ︶ と 言 う 。 仙川凝然が客観的態度で門下教学を紹介できたのは、彼が東大寺の学僧であるという点に関係がなかろうか。重源を介しての 法然と東大寺との関係は事実としては問題はあろうが、少くとも東大寺は、同じ南都の大寺でありながら興福寺とは異な り、一度も専修念仏弾圧に出ていない︵田村円澄﹃法然﹄六六・六七頁︶。凝然が客観的でありえたのも、こうした寺歴 を持つ東大寺と、専修念仏側との何ほどか良好な関係の反映ではなかろうか。もちろん凝然個人の学風にもよろうが。 川間﹃源流章﹄の注釈・解説書である住田智見﹃浄土源流章﹄は詳細であり、益を受けること大であった。 仙川﹃西山全書﹄別巻六巻二三頁。以下、﹃西全﹄別と略す。

ω

拙稿﹁幸西の弥陀本迩二門説について L ︵ ﹃ 仏 教 論 叢 ﹄ 第 三 二 号 ︶ 。

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ω

な お 、 恵 空 が ﹃ 叢 林 集 ﹄ に 西 山 派 智 円 の ﹃ 般 舟 賛 私 粟 紗 ﹄ よ り 孫 引 し 、 恵 空 自 身 幸 西 の 著 書 と 考 え て い る ﹃ 一 念 抄 ﹄ る が ︵ ﹃ 真 全 ﹄ 六 三 巻 一 四 九 、 三 一 五 頁 ︶ 、 今 回 は 十 分 に 検 討 で き な か っ た 。 で あ

廃立義

それでは具体的に教学の検討に入っていきたい。 ﹃玄義分抄﹄の成立は建保六年︵一二一八︶七月、幸西五十六歳 の時である。この時の彼の周囲の状況を見ておくと、既にこの時点で建永二年ご二

O

七︶の建永の法難で阿波配流 を経験していたが、撰述前年の建保五年五月の﹁延暦寺大衆解﹂でも空阿とともに﹁悌法怨魔 L と目され、﹁彼成費 煽二邪見之風流一、換一一正教之露貼こうと指弾されている。天台教団側から仏法興隆を阻害する人物としてマークさ れている。このような緊迫した身辺状況の中で如何なる思想を表明しえたのだろうか。既に述べたように、 ﹃ 玄 義 分 抄﹄は注釈書であって必ずしも教学の体系的叙述ではない。証空教学のように、教学全体にわたって用いられる特殊 名 目 が あ れ ば 、 それを突破口にして理解を進めることもできよう。幸西の案出した名目として聖頓・凡頓の語がある が、これが教学の体系的把握の糸口になるとは思えない。特異な一念論も目を引くが、 印象ほど﹃玄義分抄﹄全体にわたって﹁一念﹂の語が頻出するわけではなバ。だが、注釈の域を脱した独自の読み込 一念義という呼称から受ける みは一定の方位を持っており、それ故そこには何ほどか首尾一貫した主張を見て取ることができる。すなわち、安井 広度氏が﹁幸西の教撃は廃立に始終して﹂︵傍点|安井氏︶いると指摘したように、釈尊の一代八万四千の法門を廃 立のふるいにかけるかのように方便・真実の語を頻繁に用いて法門の価値批判を行い、徹底して聖道方便浄土真実・ 幸 西 の 一 念 義 付 五 七

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悌教大学大学院研究紀要通巻第十八競 五 八 諸行方便念仏真実を主張していく点に、まず注目しなければならない。 ところで、一一一一口うまでもなく廃立義は、法然教学においても重要な論理である。法然教学における廃立義には﹃選択 集﹄第四章のように助正・傍正という問題が絡むため、その実践構造は単純でないが、例えば﹃選択集﹄第十二章の みに限って見てみよう。法然はここで﹃観経﹄付属の文とそれに対する善導の釈文を引用し、この二文に立脚して往 生行を定散門と念仏門に二分する。そして長い私釈を展開しながら前者に念仏以外の一切の往生行を包摂してしまい ﹁ 是 レ 則 浄 土 宗 ノ 観 無 量 書 経 ノ 意 臨 し と 言 い 、 そ の う え で 随 他 之 前 ニ ハ 鷲 ク 雄 斗 開 ヰ 定 散 ノ 門 マ 隠 自 之 後 ニ ハ 還 閉 一 定 散 ノ 門 一 。 陀 ノ 本 願 、 稗 尊 ノ 付 属 意 在 リ 此 ニ 気 ル ハ チ ノ ナ リ 一 関 以 後 永 不 レ 閉 者 、 唯 是 念 悌 一 門 口 調 念仏門は弥陀の本願に基づく釈尊の随自意、定散門は随他意であることを論じる。釈尊の真意は定散門ではなくて念 ノ テ ハ ニ セ ン カ モ ︵ 8 ︶ 仏門の開説にこそあり、釈尊は﹁定散信用レ履而説念悌三昧矯レ立市説 L い た 、 と 一 一 一 日 う 。 こ の よ う に し て 法 然 は、定散門と念仏門の聞に廃立義を成立させるが、この十二章における廃立の構造は、幸西においても変容はしてい るが展開されている。 定散トイハ、諸経即八寓四千調機門也、弘願トイハ、大経別意究寛ノ虞門也、然ルニ此ノ観経ハ此等ノ機法ノ諸 教ヲ一巻ニ揖シテ往生ノ一門ヲ成ス、故ニ但能依此経深信行者ハ多門ヲ遍携スト出﹀ 定散を﹁諸経即八高四千調機門﹂と規定し、定散に一切諸経を包摂する。これに対し弘願はっ大経別意究寛ノ異門﹂ で あ る 。 ﹃観経﹄はこの定散調機の教と、弘願真門の法の両者を一巻に収束して往生門を形成した経典であり、従っ てこの経に帰依する行者は自動的に諸法門を遍くつかみ取る、と言う。法然が示した定散二善に廃されるべき往生行

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を包摂するという方法を継承している点が留意される。しかしそのためには、 ﹃観経﹄を諸法門を統摂した経典とし て位置づける必要があろう。 ︵観経︶ 故名一巻トイハ、斯ノ一ヲ成スルカ故ニ此ノ経ハ是レ一切ノ諸経ヲ束テ一巻トスト也 この一文からも明瞭に知られるように、幸西は﹃観経﹄を一切諸経を収束した絶対的経典として位置づけ、具体的に は定散の中にそれら一切諸経が内包されるのである。 八相示現ノ本意、定散ノ方便ヲ演テ長劫之苦因ヲ開示シ、嘱陀ノ弘願ヲ説テ永生之築果ニ悟入セシム、然ルニ安 楽ノ能人此ノ経ヲ来護シテ別意ノ弘願ヲ額彰ス、二尊ノ計コト異アル事ナク善悪ノ凡夫ヲシテ願力ノ強縁ニ託セ シ メ テ 即 謹 一 ブ 彼 法 性 之 常 柴 一 ト 也 釈尊の聖意に基づく定散と弘願の間の廃立の意趣を明確に知ることができよう。 このように幸西には、法然が﹃選択集﹄第十二章で示した廃立の方法の継承面がある。だが、これにもまして幸西 宗旨門において﹃観経﹄の宗旨を判定するにあたり、 の廃立義において重要な意味を持つのが、善導の一経両宗説の創唱である。周知のとおり善導は、﹃観経疏﹄玄義分 ﹁ 以 一 一 観 悌 三 昧 一 局 レ 宗 、 亦 以 一 一 念 悌 三 昧 一 信 用 レ 宗 L と、観仏三 昧と念仏三昧の両宗を以って﹃観経﹄ の宗旨と定めた。善導以前に﹃観経﹄を注釈した諸師は、観仏三昧の一宗を立 を持っているのである。 てたのみであるが、善導は更に念仏三昧をも宗として立てた。この一経両宗説の創唱が幸西にとって実は重要な意味 ﹁玄門トイハ宗旨門也﹂として宗旨門を重視

L

、宗旨を次のように規定する。 宗 旨 ト 云 ハ 、 一経ノ肝心部内ノ主也、諸善此ノ法ニ蹄シ衆機此ノ門ニ入ル、但シ諸経ニヲノノ\宗旨アリト云ト モ、各々随縁之肝心経経随分之主也、今此ノ宗旨ハ一代諸経ノ肝心究寛至極ノ主也 幸 西 の 一 念 義 付 五 九

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悌教大学大学院研究紀要通巻第十八競 六 O 諸経の宗旨は随縁・随分の相対的意義しか持ちえないが、 ﹃観経﹄の宗旨は一代諸経の究極的に帰結する絶対的宗旨 である。諸経の宗旨は究極的には﹃観経﹄ の両宗に帰結する、と言う。これは先に見た﹃観経﹄に一切諸経を統摂す ることと歩調を同じくしている。このように﹃観経﹄の宗旨を諸経の宗旨の帰結と位置付けたうえで、幸西は善導の 一経両宗説に独自の意義を見出す。 雄然念悌三昧ノ一宗ニ至テハ諸師ノイマタシラサルトコロ也、是悌ノ密意弘深ニシテ教門瞬リ難ク、三賢十聖モ 測テ閥所ニ非サルカ故也、然ニ今雨宗ヲ韓併シテ教ヲ立スル事ハ、正ク如来ノ密意ヲ開シ御スモノナリ、其密意云 何トナラハ、観悌三昧ヲ康シテ俵宗ノ諸門ヲ塞キ、念悌三昧ヲ立シテ虞宗ノ正門ヲ開カムト也、履セスハ立スヘ カラス、塞セスハ開スヘカラス、故ニ諸悌之印可一僧之指授、正ク廃立ノ義ニ嘗レリ を 廃 し て 塞 ぎ 、 一経両宗説の創唱を測り難き如来の密意の開顕と讃えている。その知来の密意とは、 ﹁ 員 宗 ノ 正 門 L である念仏三昧を立して開くことであり、善導は、如来みずからの意志として隠し持 ﹁俵宗ノ諸門﹂である観仏三昧 っていた両宗の聞の廃立をはじめて見抜き、 ﹃ 観 経 ﹄ に 両 宗 を 立 て た 、 と言う。更に﹃観経疏﹄末尾の、善導が夢中 において一僧より玄義科文を指授されたという神秘的体験を廃立義の指授であった、 と解釈する。廃立義が幸西教学 において如何に重要であるかが理解されよう。幸西にとって善導の一経両宗説の創唱は、仏教総体を包摂したうえ で、廃せられる観仏三昧と立せられる念仏三昧とのこつの実践門の定立であったのである。そして廃立義を幸西教学 の中核的論理として設定すれば、 一程度の体系的把握が可能となるはずである。もちろん幸西の解釈は善導の原意に 即せば強引であり、善導は両宗を概念上明確に区別したわけではなく、念仏三昧の語に観仏と称名の両意を含ませて 用いている。しかし言うまでもなく、法然教学にしても他の門下の教学にしても、善導教学の客観的読みのうえに成

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立しているわけではない。幸西の主観において善導は、概念上明確に区別され、また真仮分判により法門としての価 値に本質的差異のつけられる両宗を立て、如来の密意たる廃立義を開顕した人にほかならないのである。 註

ω

﹃拾遺古徳伝﹄巻七第一段︵﹃法伝研﹄二巻二三八頁︶。ただし蓮知本﹃歎異抄﹄奥の流罪記事に寸幸西成費房・善恵房 二人、同遠流にさだまる。しかるに元動寺之善題大僧正、これを申あづかると﹂︵﹃定親全﹄第四巻言行篇︵ 1 ︶ 四 一 頁︶とし、慈円が幸西の身柄を証空とともに預かったと言う。しかし﹃玄義分抄﹄奥書で幸西は﹁阿波聖人 L と よ ば れ て お り 、 ﹃ 源 流 章 ﹄ に は 幸 西 門 流 が ﹁ 洛 陽 ト 波 州 ト ザ 子 レ 今 有 川 之 レ L ︵﹃浄全﹄十五巻五九四頁︶と言うので、実際に阿波に 赴いたと思われる。幸西が阿波の地と関係が深いことについては山上正尊﹁成覚房幸西の著﹃玄義分抄﹄に就いて﹂﹁同 同 L ︵ ﹃ 無 尽 灯 ﹄ 第 二

O

巻 第 二 、 三 号 ︶ 参 照 。

ω

﹃ 鎌 倉 遺 文 ﹄ 四 巻 一 ご 一 二 五 号 。 々

ω

寸一念﹂の語は﹃玄義分抄﹄別時門にややまとまって見える程度である。

ω

﹃ 法 然 門 下 の 教 学 ﹄ 一 五 四 頁 。

ω

香月乗光﹁一向専修の実践的構造 L ︵同﹃法然浄土教の思想と歴史﹄︶、藤堂恭俊﹁五種正行論﹂﹁異類助成論﹂︵いず れも同﹃法然上人研究﹄︶?同﹁﹃選択集﹄における廃助傍三義の成立過程 L ︵﹃併教文化研究所年報﹄第二号︶、広川 嘉敏寸法然教学における廃立の構造 L ︵ 知 恩 院 浄 土 宗 学 研 究 所 篇 ﹃ 法 然 仏 教 の 研 究 ﹄ ︶ 。 的 問 ﹃ 昭 法 全 ﹄ 三 四

O

頁 。 的 同 右 三 四 三 頁 。

ω

同右三四二頁。 倒﹃日大蔵﹄九

O

巻三七六頁。引用に際しでは随意に読点を付す。 側 同 右 九

O

巻 三 七 七 頁 。

ω

但し法然と幸西とでは定散に内包する実践行が同一でない。法然では確かに一切諸経を取り込むが、それは往生行として である。幸西の場合、定散概念が拡大され、此土入聖としての行法を含む八万四千一切の仏法が内包される。また、法然 幸西の一念義付 自 由1-- -/',

(13)

悌教大学大学院研究紀要通巻第十八競 ...J... -F

は定散と念仏を対峠させるが、幸西は定散と弘願を対峠させる。

ω

﹃ 日 大 蔵 ﹄ 九

O

巻 三 七 六 頁 。

ω

﹃ 浄 全 ﹄ ↓ 一 巻 三 頁 。

ω

﹃ 日 大 蔵 ﹄ 九

O

巻 三 九 七 頁 。

ω

同 右 九

O

巻 三 七 八 頁 。 M W 同 右 九

O

巻 三 七 九 頁 。 M W 行観﹃観経疏玄義分私記﹄巻二に次の幸西の言葉を伝える。 一 念 ノ 成 費 房 ノ 云 夕 、 十 四 代 之 年 代 始 メ テ 後 二 年 披 第 五 代 之 漢 / 明 帝 之 世 ニ 悌 法 長 且 ニ 渡 リ 始 テ 有 立 其 ノ 己 前 ニ ハ 無 コ 悌 法 ト 云 事 、 一 爾 ノ 時 ハ 外 典 / 道 教 等 ノ 陰 陽 師 齢 竹 ﹁ 一 王 者 ノ 共 人 師 ト 成 テ 臓 叩 リ ー キ 其 漢 ノ 世 ノ 時 キ 国 王 ノ 夢 ニ 見 事 様 ハ 我 殿 ノ 上 ニ 一 尺 計 ノ 金 色 ナ ル 物 ヵ 放 一 一 光 明 イ 有 ト 見 玉 ヵ 慨 ナ ル 事 ゾ ト 陰 陽 師 ニ ぜ ハ ス ル ニ 西 天 ョ リ 緯 迦 文 悌 ト 云 者 ヵ 出 来 テ 弘 一 ル ヵ 悌 法 ト 云 事 正 へ 候 ト 申

7

豚 ト 云 フ テ 園 王 天 竺 へ 遣 九 使 者 マ 爾 ノ 時 ニ 亦 稗 尊 ノ 長 且 ニ 弘 斗 悌 法 一 云 テ 摩 騰 迦 竺 法 蘭 ト 一 E 御 弟 子 ニ 宙 開 斗 白 馬 ニ 正 教 ↓ 渡 寸 長 且 一 、 道 ニ テ 行 合 V リ 長 且 ノ 使 者 ヵ 見 一 悌 弟 子 イ 展 へ ニ 云 ゴ 無 レ 毛 者 ョ 一 ト 驚 怖 ョ 悌 弟 子 ハ 如 レ 是 答 玉 フ 時 キ 我 モ 其 使 者 ニ テ 候 ト 云 テ 共 − 一 具 足 y 畏 且 へ 還 テ 奏 m 外 道 共 ヵ 様 々 ノ 術 通 ヲ 習 ヒ 振 舞 フ テ 悌 弟 子 ヲ 下 へ 料 ス ル 時 キ 悌 弟 子 ノ 云 v 外 法 ト 内 法 ト ノ 勝 劣 ヲ 見 ン ト 思 ハ 交 此 正 教 ト 外 道 ノ 文 ト 同 ク 概 上 ニ 置 テ 火 ヲ 付 テ 可 ぺ 焼 ク 云

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是 焼 ニ 外 道 ノ 文 ハ 皆 燦 失 m 悌 教 ハ 見 コ 少 モ 不 JJ7 焼 有 一 一 投 げ 身 ヲ 死 ス ル 人 ↓ 有 一 一 切 パ 髪 ヲ 航 者 ↓ 、 敷 ス 千 人 其 ノ 敷 ヲ 不 レ 知 可 其 後 亦 過 一 一 第 四 ヨ リ タ ニ ル テ ト イ フ シ 五 フ 代 一 、 宗 世 元 嘉 元 年 観 経 渡 、 其 己 来 八 百 年 成 也 、 渡 一 一 観 経 一 二 百 年 時 善 導 出 世 其 後 六 百 年 成 也 、 然 渡 一 一 観 経 一 八 百 年 ョ リ 己 来 / 人 師 ト 云 人 師 無 コ 此 観 経 ニ 疏 ヲ 不 バ 膨 可 其 ニ 付 テ 此 ノ 経 ニ 立 山 南 三 昧 宗 イ 人 師 ハ 無 一 一 人 一 、 一 念 義 ニ 膨 ヵ へ 也 ︵﹃西全﹄別六巻二七一・二七二頁︶ 後漢明帝時の中国への仏教伝来に関する事状を述べる。続いて劉宋の元嘉年中︵元年とするが︶に﹃観経﹄が渡来してそ れより以来同経に両三昧宗を立てた人師は善一導以外いなかったと、ここでも善導の一経両宗説を高く評価している。 M W藤田宏達﹃人類の知的遺産目善導﹄一一

01

一二三員、稲岡了順﹁善導の念仏三昧について﹂︵﹃大正大学大学院研究 論集﹄第三号︶等。

ω

例えば良忠が﹃玄義分間書﹄において、﹁問雨三昧始終皆別欺答始別終同始別可知終同者行成之時心眼即開倶見悌 一同ナリ也﹂︵藤堂恭俊﹁善導の一経両宗説に関する良忠の領解﹂︿三上人御遠忌記念出版会編﹃三上人研究﹄﹀一一一九

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頁︶とするように、両三昧の行体は始めは観仏と称名という違いはあっても、結果としては両者とも此土で見仏に至ると い う 点 で は 同 じ 、 と す る 解 釈 と は 異 質 で あ る 。 仰なお定散と両宗との関係であるが、廃されるものが定散と観仏三昧であることを考えれば定散 H 観仏三昧となるはずであ る。しかし﹁今経ハ定散ノ二宗アリ﹂﹁観経ノ中ニ正ク散ヲ宗トシテ傍ニ定ヲ宗トスル﹂︵﹃日大蔵﹄九

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巻 三 七 九 、 三 八

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頁︶とも言うので、定善 H 観仏三味、散善リ念仏三昧の関係が成り立つ。この点、今一つ明瞭でない。

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廃立義を中核的論理として設定すれば、それは具体的にどう組織化されているのだろうか。既述したように、 経﹄は八万四千一切諸経を一巻に統摂した経典であり、この経によって深信する行者は﹁多門ヲ遍携 L す る と 言 い 、 観 ﹁俵宗ノ諸門﹂たる観仏三昧と﹁同県宗ノ正門 L たる念仏三昧の二つの実践門を宗とする。この両宗の間で廃立を実行 するためには、廃される側の観仏三昧の中に、廃立義の適用範囲に基づいて諸経・諸善行を包摂することが、その前 提作業として必要であろう。幸西は観仏三昧に一切諸経を含ませるのである。そこで、釈尊の真意において廃される 観悌三昧について検討したい。幸西の観仏三昧の取り扱いには特徴的なものがある。 寸 以 一 一 観 悌 三 昧 一 局 レ 宗 ﹂ を 次 の よ う に 釈 す 。 以観悌三昧矯宗ト云ハ員身観ヲ宗トスト也、且ク像観ノ観悌三昧アリト云トモツイニ員身ニ婦ス、故ニ宗ニアラ ス、︵中略︶上下ノ文ノ意ヲ案スルニ、十三観ノ中ニ員身最要ナリト云へトモ其要成スヘカラスト也、又次第浅 深シテ定善ヲ康セムカ矯也、云何トナラハ、先ツ日水樹池棲等ヲ慶シ、次比一地華像等ヲ療シテ正ク虞身ノ宗ニ蹄 幸西の一念義付 ー_J_. / 、

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併教大学大学院研究紀要通巻第十八競 六 回 セシム、但シ観念法門ニ像観ヲ観ル事ハ、又虞身観ヲ慶シテ念悌三昧ノ一宗ニ蹄セシメムカ潟也、云何カ知ルト ナラハ、異身ノ観悌三昧経ナクハ虞身ヲ観スヘカラスト也、然ルニ其光明相好及輿化悌不可具説ト云へルヲヤ、 シカノミナラス経ニハ非是凡夫心力所及ト説キ緯ニハ荘巌微妙出過凡境ト云ヘリ、如此文ニ載テ見セシメ義ヲ以 テ知シムル事ハ、都テ定善ヲ巌セシメムカ信用也、云何カ都テ康スルトナラハ、像観ハ且ク成スヘキニ似タレトモ 宗ニ非ス、員身ハ宗也ト云へトモ成スヘカラス、 又依報ハ正報ノ方便也、正報観セスハ方便入ルヘカラス、俵観 ハ異観ノ方便也、異観修セスハ俵観入ルヘカラス、然則此ノ経ノ中ニ且定善ノ宗ヲ立スル事ハ永諸教ノ定行ヲ履 セシメムカ矯也、云何トナラハ立相住心ナヲ得コトアタハス、何況ヤ元相離念ヲヤト也、何カ故ソ一切ノ糟ヲ廃 スルトナラハ念悌ノ一宗ニ蹄セシメムカタメナリ これは観仏三昧︵定善十三観︶が最終的に廃されることを立証した文である。解釈に苦慮した所もあるが、要を取っ て 説 明 す る と 、 ﹁以一一観悌三昧一信用レ宗しとは具体的には第九真身観を宗とするのであり、同じ観仏の行法でも第八像 観は宗としての価値を有しない。そこで行者を宗である真身観に帰入させるために、日想・水想・宝樹・宝池・宝楼 観と次第に廃し、更に地想・華座・像観を廃して真身観に帰入させる。ところが、十三観の中で﹁最要 L な真身観は 凡夫の成じ得るものではない。 ﹃ 観 念 法 門 ﹄ に 勧 め る 像 観 も 、 ﹃観経﹄第九真身観に説く﹁其光明相好及輿化悌不可 具説﹂の文も、第十三雑想観に説くっ非是凡夫心力所及 L の 文 も 、 および善導が定善義真身観釈に言う﹁荘厳微妙出 過凡境 L の 文 も 、 その底意は定善十三観すべてを廃せしめることにある。すなわち﹃観経﹄に観仏三昧の宗を立てる の は 、 一切諸経に説く﹁定行﹂ 寸 稗 L を廃して行者をもう一つの宗である念仏三昧に帰入させるためにほかならな い、と主張する。論証が十分であるか否かは別として、こうした論理過程を経て観仏三昧は最終的に廃されることに

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なるが、観仏三昧には一切諸教が包摂されるので、それはとりも直さず一切諸経が廃されたことを意味することにな る。かくして此土入聖を標梼する聖道諸経を﹁聖道ハ方便也﹂と指摘するごとく方便説に転落せしめる。従って、そ れは手段・階梯という二次的意味しか持ちえない。聖道諸経の仏法としての価値は低下し、 諸師所引ノ七部及観悌三昧等ノ同位ノ菩薩蔵頓教ヲ翠テ漸教ニ掻シ小乗一一揖シテ、唯念悌三昧ノ一宗ノミ虞ノ菩 薩蔵頓教ナル事ヲ知ラシメムト也、 ︵中略︶己ニ悌智ノ大乗ヲ除テ己外皆ナ小乗トス、上来教ノ大小ヲ排スル所 詮、唯念悌三昧ノ一法ノミ員ノ菩薩蔵頓教一乗ナル事ヲ了セシメムト也 幸西の二蔵二教二頓判では菩薩蔵頓教︵聖頓︶と規定されるはずの七部経︵﹃浬繋経﹄ ﹃ 維 摩 経 ﹄ ﹃ 大 品 般 若 経 ﹄ ﹃ 法 華 経 ﹄ ﹃ 無 量 義 経 ﹄ ﹃ 華 厳 経 ﹄ ﹃大集経﹄︶等を﹁小乗﹂と庭称し、もはや大乗としての位置すら与えられない のである。そして念仏三昧のみが真実の菩薩蔵頓教︵凡頓︶ と し て 立 せ ら れ る 。 しかし翻って考えてみると、此土入聖を究極目標とする聖道諸経は多数存在する。釈尊は何故わざわざ方便説たる それら聖道諸経を開説したのだろうか。現に多数の聖道諸経が存在する以上、この問題を解決せずしては教学上の不 備が残る。そこで導入されたのが﹁定散トイハ、諸経却八寓四千調機門也﹂のごとき調機・調熟の論理である。観仏 三昧が廃されるのは、先掲の史料に﹁念悌ノ一宗ニ蹄セシメムカタメ L とあったように、行者を真実たる念仏三昧の 宗に導き入れるためである。 今此観経是悌自説トイハ、念悌三昧ノ一宗ヲ観経トス、次下ノ門ニ至テシルヘシ、観悌三昧ハ諸経ニ通ス、故ニ 限テ此ノ経トハセス 観仏三味は念仏三昧とともに﹃観経﹄の宗ではあるが、諸経に通じるものであり、それはいわば聖道諸経と念仏三昧 幸 西 の 一 念 義 付 六 五

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悌教大学大学院研究紀要通巻第十八競 の中間に位置し、両者を架橋する概念であお o 六 六 観経ノ中ニ正ク散ヲ宗トシテ傍ニ定ヲ宗トスル事ハ、但理唯聖等ノ教ニ依ル漸機ノ衆生ヲシテ凡頓ノ教ニ引入セ シメムカ矯也 ﹃観経﹄が散︵念仏三昧︶を宗となしつつ、傍に定︵観仏三昧︶を宗として立てるのは、 ﹁漸機ノ衆生﹂である聖道 諸家を念仏三昧・凡頓一乗に引入するためである。すなわち観仏三昧は、聖道門の実践にいそしむ行者を念仏三昧に 誘引する媒介的役割を有し、行者をして聖道門 H 観仏三昧の実践をとおしてそれらの不成を自覚せしめ、念仏三昧へ と調機しててゆく。観仏三昧を媒介として聖道方便門から、漸次、念仏三昧真実へと帰入してゆく過程が行者の調機 ﹁方便ノ門若シ無クハ一乗ノ機アルヘカラス﹂という指 の過程として把えられるのである。従って方便門の役割は、 摘のごとく、真実たる念仏三昧・凡頓一乗に相応する機根へと調熟することにある。方便門もそれなりに重要な役割 を担うことになり、聖道諸家を念仏三昧の機根へと調熟してゆく機能を認めようというのである。 ところでこの聖道方便説は、今述べたように、聖道諸経の仏法としての価値を著しく低下させるものである。実際 行観は、聖道門・浄土門ともに各別の利益があるとする西山派西谷流の聖浄両実の立場から、幸西の聖道方便説・一 代化前序説をしばしば批判している。そこで聖道方便説成立の根拠を探るべく、幸西の機根観を検討してみよう。 ﹃源流章﹄所引の﹃略料簡﹄によると、幸西は二蔵二教二頓判という重層的教判を組成し、凡頓教こそが釈尊の出 世本懐であると言旬。一方で聖浄二門判にも言及して聖頓教を聖道門、凡頓教を浄土門に比定してお問、基本的には ﹁一代ノ所説凡聖二数也﹂と、一代諸教を二種に判釈すると考えていい。 諸 教 ハ 是 レ 矯 聖 ノ 之 教 、 念 悌 ハ 是 レ 矯 凡 ノ 之 宗 之 、 聖 道 ノ 諸 教 ノ 皆 被 寸 聖 人 一 一 、 於 一 一 此 ノ 械 土 一 一 謹 一 一 獲 聖 果 マ 浄 土 ノ 教 門 ハ 唯 被

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一 ム 凡 夫 一 − 、 令 い 諸 ノ 凡 夫 ヲ y 往 一 一 生 y 浄 土 一 頓 ニ 登 ゴ 初 地 一 − 詮 れ 無 生 忍 口 ︵ 日 ︶ これは凝然の解説文であるが、聖道門と浄土門の対機を問題としている。此土入聖の聖道諸経は聖人を対機とし、彼 土入聖の浄土教は凡夫を対機とする。 一代諸経を聖道︵聖頓︶と浄土︵凡頓︶ に判釈するので、それに応じて対機も 聖人と凡夫がある。一言うまでもなく聖人は、聖道門の実践に堪え得る上根利智の人で、凡夫は聖道不堪の下根浅智の 人である。そうした聖人と凡夫の機根の差異性は、菩薩の五十二階位によって明瞭に示される。 ︵中略︶或ハ十聖巳上ヲ悌トシテ三賢己下ヲ五乗トス、今ノ文是也、浅深アリ ト云へトモ虞如ノ一分ヲ額スヨリ分詮ノ悌也、故ニ初地己上ハ果位ニ通スル義アリ︵傍線|筆者︶

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凡トイハ五乗己下、聖トイハ十聖己上

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但シ五乗ヲ排スル事一純ナラス、

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の傍線箇所と倒を考え合わせれば、十聖位︵十地位︶以上、 つまり初地位以上が聖人、三賢位︵十住・十行・十廻 向 ︶ 以 下 、 つまり十廻向満位以下が凡夫に配されていることがわかる。そして初地位以上の聖人は﹁分讃ノ悌 L で あ り、仏と等同の位にある。以上から、聖人とは仏と等同と見倣される十地位以上の者、凡夫とは十廻向位以下の五乗 である。このように幸西は聖人と凡夫を五十二階位に配し、十地位以上、十廻向位以下で区分する。だがこのような 修行階位は 凡ス内外二凡小乗ノ聖位等賓ニアリトシレル、是錯ノ根源也 本質的には存在せず釈尊の仮説に過ぎないとするので、細かな階位の区分はさほど重要な意味をもっているわけでは ない。この場合重要なのは、大局的に聖人と凡夫を十地位以上、十廻向位以下で区分し、両者の機根に隔絶的差異の あることを示唆する点にあろう。それではこの聖人と凡夫の現実世界での存在性は如何に認識されているのであろう 幸 西 の 一 念 義 ハ 円 六 七

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悌教大学大学院研究紀要通巻第十八競 六 八 カ = ﹃玄義分抄﹄宗旨門に次のような一段がある。善導は宗旨門において、 ﹃ 維 摩 経 ﹄ ﹃大品般若経﹄二経の宗旨を例 示しつつ﹃観経﹄に二宗を立てるが、何故善導はそれら二経を例示したのか。このような聞を起し、込み入った議論 を 展 開 す る 。 諸経ノ中ニ別シテ維摩大品ノ両部ヲ引テ宗旨ノ同ニ置ケル何ノ故カアル、況ヤ又所破ノ人師ノ稗ノ中ニ等ノ言ヲ 以テ諸経ヲ郵スト云トモ正ク七部ノ経ヲ引ケリ、今ノ所引ハ彼ノ中ノ第二第三也、若シ少ヲ翠テ多ヲ略セハ若ハ 前若後ヨロシキニ随へシ、中間ノ二経ヲ奉タル定テ其意趣有ラム欺、粗敬意ヲウカ﹀フニ二ノ不同アリ、 ︵ 観 経 ︶ 一一ノ不問、維摩大品ハ理ノ一宗ヲ説ク、今経ハ定散ノ二宗アリ、二ハ理散ノ不同也、理事ノ教ハ馬聖、定散ノ ノ\ 教ハ矯凡、事ハ凡ニ通定ハ聖ニ通ス、但理ハ唯聖、但散ハ唯凡也、然ルニ唯聖ノ教ハ且ク彼ノ宗家等ノ意ニ依ル ニ、散ヲ方便トシテ定ヲ員賓トシ事ヲ方便トシテ理ヲ異質トセリ、唯凡骨回数ノ意ハ理ヲ方便トシテ事ヲ員賞トシ 定ヲ方便トシテ散ヲ員賞トス、故ニ理ト散トハタカヒニ遠方便ニシテ全ニ不同也、此メ二義アルヲ以テ但散唯凡 ノ教ヲ立セムカ矯ニ但理唯聖ノ経ヲ引テ宗旨ノ不同ヲ排ス、其ノ意甚深也、 ︵中略︶観経ノ中ニ正ク散ヲ宗トシ テ傍ニ定ヲ宗トスル事ハ、但理唯聖等ノ教ニ依ル漸機ノ衆生ヲシテ凡頓ノ教ニ引入セシメムカ矯也、方便ノ遠近 次第ノ相順正ク此ノ義也、然ルニ彼ノ宗家等ノ意、多ク散ヲ方便トシテ定ヲ異賓トシ事ヲ方便トシテ理ヲ異質ト ス、其ノ意甚錯レリ、云何カ知ルトナラハ、其ノ宗ノ教道ハ敢テ凡夫ノ入路一一アラス、三界生死ノアヒタニ惣シ テ一賓員如ノ機ナキカ故也 善導の﹁甚深﹂なる意を明かしつつ、聖道家を批判する。意を取って言うと、善導が七部経の中の第二・三番目の

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﹃ 唯 摩 経 ﹄ ﹃大品般若経﹄を例示したのには二つの理由がある。第一に、 一宗を説くか二宗を説くかの差異を明確化 するために二経を例示した。第二に、 ﹃ 唯 摩 経 ﹄ ﹃大品般若経﹄といった聖人のみを対機とする﹁但理唯聖ノ経﹂ は、散を方便、定を真実とし、事を方便、理を真実とする。これに対し﹁唯凡したる﹃観経﹄は、逆に理を方便、事 を真実とし、定を方便、散を真実とする。従って理と散は相互の地点からは真実に程遠い﹁遠方便﹂となる。以上の 二つの理由から﹁但散唯凡ノ教﹂を樹立するために、全く対際的内容を備えた﹁但理唯聖﹂の二教を善導は例示し た 、 と 幸 西 は 言 う 。 理・事、定・散それぞれのいずれを真実い心すれを方便と見倣すのかという法門に対する価値観が、聖道家と﹃観経﹄ の凡頓教の立場とでは全く逆転してしまう。聖道家は高度で体得し難い理、定を真実とし、低度で比較的体得の容易 な事、散を方便とする。凡頓教はそれとは全く逆の価値観に立つ。そしてお互いに逆の方向から仏教へ通入し、最後 に到達する地点も逆になる。しかしその法門に対する価値観の相違は、衆生に機根の差異がある以上相対的なもので しかな︽、行観が﹁聖道モ員賓出世ノ之本臨む、浄土之教モ謂ヰ員賓出世之本意つ立寸雨賞つ也、︵中略︶聖道浮土ニ シ ト ル ク ノ ノ ニ テ ノ ノ ︵ 初 ︶ 門自費費他二三世常恒可レ有下如︸一鳥二麹一如中車こ輪上﹂と言うように、聖道門・滞土門ともに真実・出世本懐 と認め、両者を鳥の二翼・車の二輪のごとき相互依存の関係で把握することも可能なはずである。ところが幸西は、 聖道家を﹁其ノ意甚錯レリ﹂と批判し、聖道家の価値観を許容しない。何故であろうか。それはその批判の根底に、 コニ界生死ノアヒタニ惣シテ一賓虞如ノ機ナキカ故也﹂のごとく、現実世界に一真実如の理を悟り得る上根の聖人は 一 人 と し て 存 在 し な い と い う 認 識 が あ . る か ら で あ る 。 雄元一貫之機等有五乗之用トイハ、異如ノ機ナシト云トモ弘願ノ機アリト也、五乗不測其ノ遺マ故ニ員如ノ機 幸西の一念義付 六 九

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悌教大学大学院研究紀要通巻第十八競 シ − 7 = ニアラス、託一一悌願一五乗膏入ス、故ニ弘願ノ機也、但シ三界ノ極位ニ居シテ十聖ノ初地ニ隣ナルモノ、虞如ノ 機ニ嘗レリト云トモ修一帽念悌ヲ以テ元生ノ園ニ入ル事ハ悌法不思議ノ力也、敢テ其ノ機ニアラス、故ニ併ノ願カ ノ外ニ都テ虞如ヲ讃スル門ナキ也 七

現実世界の一切衆生は、聖道門の実践による得悟の可能な﹁巽如ノ機﹂ではなく、 ただ弥陀弘願への帰入によってし か救済され得ない﹁弘願ノ機 L として認識され、しかもその認識は現下のみではなく、 ノ一乗ノミ有テ元二也﹂十亡、時間軸を逆上って永遠の過去である無始にまで普遍化される。従って此土には初地位以 一切衆生の聖道得悟が全く否定されるのなら、此土入聖を目標 っ入聖得果ノ道元始己来唯此 上の聖道堪能の聖人はかつて一人も存在しなかった。 とする聖道諸経は実効性なき教となり、 それは結局衆生に得悟の不能を自覚せしめ、念仏三昧へと調機してゆく役割 しか持ちえない。ここに聖道方便説が成立するのである。 この問題と関連することに触れておくと、従来、幸西の機根観を考察する際に誤解されてきた箇所があった。 ﹃ 玄 義分抄﹄序題門に次のように言う。 不出嚢々之心トイハ、衆生ノ心ノ外ニ虞知ナシトイフ也、元塵法界ト云ハ、心ノ外ニ法ナシト云也、是不出ノ義 ヲ成ス、心ノ外一一法ナキカ故ニ心ヲ出スト云也、若シ然ラハ法身郎衆生ノ心也、衆生ノ心即法身也、是即華巌経 ノ意也、凡聖膏園トイハ、異如ヲ具セサル心ナシト云也、是則浬繋経ノ意也、凡トイハ五乗己下、聖トイハ十聖 己上、爾垢如﹀トイハ、 一 ハ 有 垢 巽 如 凡 夫 、 ご ハ 無 垢 員 如 聖 人 、 一、従但以垢障下至永生之築果己来ハ如来出世ノ本意ヲ述、斯乃有垢虞如ノ衆生ヲシテ無垢員如二至ラシメムカ 震 也 、 ︵中略︶悟入永生之柴果トイハ、果外法性之常築元漏異質ノ柴果也ト悟入セシム、元垢員如ニ至ラシムト

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イハ是也、始メ三七日夜之説ヨリ終リ一日一夜ノ教ニ至マテ唯斯ノ一ヲ成ス、故ニ初働ノ二教ヲ引テ序題ノ初ヰ ︵ 傍 線 | 筆 者 ︶ この記事の前半分に注目すると﹁衆生ノ心ノ外ニ員如ナシ L ﹁ 心 ノ 外 ニ 法 ナ シ ﹂ ﹁ 法 身 郎 衆 生 ノ 心 ﹂ J 虞如ヲ具セサ ル心ナシ﹂と言い、衆生心と真如・法身を同一視して衆生と仏を不二一如の関係で把えている。今検討した衆生の本 質的性格を﹁阜県如ノ機﹂でない凡夫とする機根観とは明らかに矛盾しよう。もし衆生心即真如であるなら、衆生はそ れを意識するのみで聖道得悟が果され、聖道方便説など成立しないはずである。 幸西のこの矛盾する機根観に疑問を呈した石田充之氏は、 ﹃玄義分抄﹄宗旨門に見える法華一乗と弘願一乗の聞に 隠顕義を適用する箇所に着目しながら、迷悟一知にして一方では一切衆生を凡夫と認識する幸西の主張が、唯聖たる 法華一乗を﹁全的に否定し再体認﹂した唯凡たる弘願一乗の立場においてなされている、等の意味合いのことを論じ て矛盾の会通を図られる。松野純孝氏もこの不一二如観の一節を引用してこれを幸西の衆生悉有仏性論と見倣し、一 念の一信心で往生が決定する一念往生義の理論的根拠として重視される D しかし、いずれも史料解釈の誤りからする 立論である。この史料の意を解するには後半の傍線箇所に留意する必要がある。ここで幸西は、第一時華厳より第五 時後番浬繋に至るまでの経典、 つまり一代五時の経典が有垢真知の凡夫を無垢真如の聖人位へと至らしめ、永生の楽 果に悟入せしめるために関説された。そのことを示すために善導は初後の二経である﹃華厳経﹄ ﹃ 浬 繋 経 ﹄ を 序 題 門 の 始 め に 置 い た 、 f と主張する。つまり幸西がわざわざ﹁華巌経ノ意也 L 寸浬繋経ノ意也﹂として不一二如観を表示し たのは、善導の﹁不出議々之心﹂ ﹁ 元 塵 法 界 ﹂ の 句 に ﹃ 華 厳 経 ﹄ の 主 旨 を 、 っ 凡 聖 旗 門 円 ﹂ の 句 に ﹃ 浬 繋 経 ﹄ の 主 旨 を 読み取り、初後の二経を提示することによって一切諸経を指し示そうとしたにほかならない。この不一二如観は単に 幸西の一念義付 七

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悌教大学大学院研究紀要通巻第十八競 七 初後の二経を引き出すための所論であって、幸西の機根観に関与する箇所ではないと言えよう。従って幸西の機根観 は先に検討した一切衆生の聖道得悟を不可能とする認識の一点において把握されるべきである。それ故に﹁真賓ハ易 行ニシテ方便ハ難的﹂と見倣す価値観が他を許容しない﹁偏執﹂で絶対的なものとなり聖道方便説が明確な根拠を以 って成立する。幸西の目には、南都・北領の聖道諸経を遵奉してその所説に順じて習学・修行する学匠・行者達は、 此土での得悟は不能という一切衆生の本質的性格を自覚せず、永久に効果の表れない方便説を真実と見誤ってそれの 実修にいそしむ倒錯せる人々として映じたはずである。 以上本稿では、幸西教学の中核的論理を廃立義に見定め、それの具体的組織化としての聖道方便説について述べ た。続稿では聖道別時意・衆行別時意説、化土往生説、 そして仏智・一念への信︵決了︶を唯一の報土往生の正因と 見倣す思想等について述べる予定である。 註

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﹃ 日 大 蔵 ﹄ 九

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巻 三 七 八 頁 。

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同 右 九

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巻 三 八 八 頁 。

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行 観 は ﹃ 観 経 疏 玄 義 分 私 記 ﹄ 巻 一 に 次 の よ う に 言 う 。 一 念 / 成 費 房 ハ 本 宗 天 台 宗 ノ 人 ニ テ 有 シ 故 ニ 天 台 ノ 教 相 ヲ 滞 土 ノ 教 相 へ 得 シ 入 レ テ 以 一 諸 行 念 悌 ↓ 康 立 ニ 料 簡 ス ル 也 、 彼 / 宗 ニ ハ 履 権 立 賓 ト 云 テ 法 毛 リ 外 ノ 諸 教 ョ ぽ 教 ト 云 テ 康 リ 権 ヲ 法 事 ヲ 立 寸 虞 賓 ノ 教 つ 時 ニ 一 代 諸 教 ハ 入 コ 貫 教 一 一 樺 一 方 便 ト 云 様 ニ 浄 土 ニ ハ 他 力 本 願 念 悌 ノ 異 質 出 世 本 意 ト 云 テ 念 悌 ョ リ 外 ノ 諸 行 ヲ 権 方 便 ト 云 テ 康 / 局 ニ 説 ク ト 料 簡 ス ル 也 、 其 レ ヲ 取 テ 一 念 義 ト 立 ス ル 事 ハ 上 ノ 本 願 ニ ハ 乃 至 十 念 ト 雄 レ 立 ス ト 下 / 至 コ 流 通 一 一 見 レ パ 悌 告 菊 勅 其 有 得 聞 彼 悌 名 競 観 喜 踊 躍 乃 至 一 念 賞 知 此 人 局 得 大 利 即 是 具 足 無 上 功 傍 説 ク 時 ニ 一 念 ノ 本 意 至 極 ト 得 テ 以 テ 天 台 ニ 静 静 / 一 念 ト 云 フ ヲ 此 ノ 一 念 ニ 得 、 ν 入 レ テ 立 一 一 念 義 ぺ 、 此 / 一 念 ト 定 心 褒 得 / 一 念 ト 云 テ 法 率 ノ 至 極 ハ 滞 土 ノ 他 力 ニ 来 テ 極 ル

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事 ト 得 ル 故 ニ 尚 ヲ 法 事 ノ 位 ヲ ハ 方 便 / 分 ト 云 テ 以 一 観 経 イ 悌 法 ノ 至 極 員 賓 ノ 出 世 ノ 本 懐 ト 云 テ 此 経 ノ 序 題 門 ノ 緯 ニ 料 簡 シ 合 テ 随 縁 八 寓 聖 教 ハ 権 キ ク ツ ヲ ノ テ ス サ ミ ト ハ ノ ノ ト ス レ ト フ ハ ノ レ ナ リ 方 便 教 観 経 可 レ 説 待 レ 日 程 手 愛 云 一 代 諸 経 此 経 化 前 序 立 F 也 、 一 念 義 一 玄 此 謂 也 、 是 即 白 骨 義 也 、 法 然 上 人 ノ 御 義 ニ ハ 非 ス 云 云 ︵ ﹃ 西 全 ﹄ 別 六 巻 二 四 ・ 二 五 百 九 ︶ ﹃玄義分抄﹄と岐み合いそうな所と、行観の分析・臆測︵と思われる所︶とが入り混じり、さばきにくいが、聖道方便説 との関連で注意されるのは、幸西が天台の廃権立実の論理を取り入れ、諸行と念仏を廃立に料簡して諸行を権方便とし、 更に﹃観経﹄こそ釈尊の出世本懐、一代諸経は﹃観経﹄が開説されるまでの﹁待レ日程之手愛﹂︵﹃西全﹄別六巻一五一一一 頁では﹁待レ月程之手遊 L ︶に過ぎないとし、また一代諸経を﹃観経﹄の化前序とする点である。なお、覚知は﹃口伝 紗﹄に寸海徳悌よりこのかた稗尊までの説教出世の本意、久遠賓成輔陀のたちどより法蔵正費の滞土教のおこるをはじめ として、衆生糖度の方軌とさだめて、この浄土の機法と﹀のほらざるほど、しばらく在世の権機に封して方便の教として 五時の教をときたまへりとしるべし。たとへば月まつはどの手、宇さみの風情なり。 L ︵﹃真聖全﹄三巻二五頁︶と言う。 一代諸教を寸待レ月程之子遊﹂とする説は﹃玄義分抄﹄の文面にはないが、覚知が散供した幸西の著者を書写しているこ とを考えると、それらに説かれていた可能性がある。

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﹃ 日 大 蔵 ﹄ 九

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巻 三 八 三 頁 。

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同 右 九

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巻 三 七 六 頁 。 山 間 同 右 九

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巻三八三・三八四頁。 閉その意味で観仏三昧は、証空教学における観門に相当するとも言える。高城宏明﹁証空教学に見る名目の理解 l 観門の意 義ー﹂︵﹃西山学報﹄第三六号︶参照。

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﹃ 日 大 蔵 ﹄ 九

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巻三八

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頁 。 側 同 右 九

O

巻 三 八 二 頁 。

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親鷺は﹃一念多念文意﹄に、﹁おほよそ、八高四千の法門は、みなこれ湾土の方便の善なり。これを要門といふ、これを 俵門となづけたり。この要門・俵門といふは、すなわち﹃元量書悌観経﹄一部にときたまへる定善・散善これなり。定善 は十三観なり、散善は三一帽九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを俵門ともいふ。この要門・俵門より、 もろ/\の衆生をす﹀めこしらえて、本願一乗園融先碍真賓功徳大賓海におしへす﹀めいれたまふがゆへに、よろづの自 幸西の一念義付 七

(25)

{弗 教 大 皐 大 学 院 研 げ 白 フし 紀 要 通 巻 第 十 八 . 競 七 四 力の善業おば、方便の門とまふすなり。﹂︵﹃定親全﹄第三巻和文篇一四四・一四五頁︶と言う。

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﹃西全﹄別六巻二七・二八、一一六・一一七、一五七・一五八、一八二・一八三、五

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六頁。同七巻三六、六一頁。杉紫 朗﹃西鎮教義概論﹄一一一四|一二七頁、広瀬観友﹁行観上人の教学﹂︵﹃西山学報﹄第九号︶参照。

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﹃ 浄 全 ﹄ 十 五 巻 五 九 二 頁 。

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﹃ 日 大 蔵 ﹄ 九

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巻 三 八 八 頁 。

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同 右 九

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巻 三 七 七 頁 。

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﹃ 浄 全 ﹄ 十 五 巻 五 九 二 頁 。 MW ﹃ 日 大 蔵 ﹄ 九

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巻 三 七 五 頁 。

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同 右 九

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巻 三 七 五 貰 。 側 同 右 九

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巻 三 八 七 頁 。

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同 右 九

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巻三七九|三八一頁。

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﹃ 西 全 ﹄ 別 六 巻 一 一 七 頁 。

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﹃ 日 大 蔵 ﹄ 九

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巻 三 七 五 ・ 三 七 六 頁 。

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同 右 九

O

巻 三 九 三 頁 。

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平雅行﹁法然の思想構造とその歴史的位置|中世的異端の成立

l

﹂︵﹃日本史研究﹄一九八号︶、同﹁中世的異端の歴史 的意義

l

異端教学と荘園制的支配イデオロギーー﹂︵﹃史林﹄第六三巻第三号︶は、法然の諸行往生の否定、幸西・親鷺 等安心派の聖道得道の否定に彼等の浄土教学の根幹があるとし、現世での宗教的能力の平等を主張する異端教学と、﹁階 層的機根観﹂を前提とする顕密主義との思想的対立、異端教学が大寺社を領主とする荘園制社会の中で果した歴史的意義 等を考察されている。筆者にとって新新かつ示唆的論考であった。

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﹃ 日 大 蔵 ﹄ 九

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巻 三 七 五 頁 。

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﹃法然上人門下の浄土教学の研究﹄上巻三八九 1 三九七貰。また﹁成覚房幸西大徳の浄土教的立場﹂︵﹃真宗学﹄第五 号 ︶ 、 ﹃ 日 本 浄 土 教 の 研 究 ﹄ 一 一 一 一 四 | 二 二 七 頁 も 同 じ 。 M W ﹃親驚ーその生涯と思想の展開過程﹄一四三頁。また田村芳朗﹃鎌倉新仏教思想の研究﹄五三七頁も同箇所を引用して

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﹁華厳・天台の不二論を浄土門にとりこんでいることが察せられる。 L と 言 う 。 仰﹃日大蔵﹄九

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巻 三 八 二 頁 。 付記 草稿の段階で、悌教大学教授藤堂恭俊先生・同高橋弘次先生、知恩院浄土宗学研究所研究員永井隆正先生に問題点や表現の 不適切等を指摘して頂きました。三先生に厚くお礼申し上げます。 幸西の一念義付 七 五

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