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駒澤大學佛教學部研究紀要 74 002佐藤 秀孝「少林妙崧と杭州の五山禅林 : 拙庵徳光・済顛道済・長翁如浄・浙翁如〓・無準師範・玉澗光瑩らとの関わり」

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Academic year: 2021

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如浄

らと

関わ

臨 済 宗 大 慧 派 の 拙 庵 徳 光 ( 東 庵 、 仏 照 禅 師、 一 一 二 一 ─ 一 二 〇 三 ) と い え ば 、 南 宋 中 期す な わ ち 十 二世 紀 後 半 か ら 十 三 世 紀 冒 頭 に か け て 杭 州 ( 浙 江 省 ) 餘 杭 県 西 北 五 〇里 の 径 山 興 聖 万 寿 禅 寺 や 明 州 ( 浙 江 省 ) 鄞 県 東 五 〇 里 の 阿 育 王 山 広 利 禅 寺 な ど に 住 持 し 、 多 大 な 接 化 を 振 っ た禅 者 と し て 知 ら れ る 。 と り わ け日 本 の 中 世 初 頭 に 当 た る 文 治 五 年 (南宋の 淳 煕 一六年、 一 一 八 九 ) に 大 日 房 能 忍 ( 深 法 禅 師 ) が 門 人 の 練 中 と 勝 弁 を 使 僧 に 遣 わ し て 入 宋 せ し め、 阿 育 王 山 の 徳 光 か ら 大 慧 派 の 印 可相承を 得 て 帰国し た 出来事は、日本中世仏教の幕開けとなっ た事件の一つとし て 特 筆され る 。 徳 光 の 法 を 嗣 い だ 門 人 は か な り の 数 に 及 ん で お り 、 日 本 の 貞 応 二 年 (南宋の嘉 定 一六年、 一 二二 三) に入宋求法し た永平 道 元 ( 仏 法 房 、 一 二 〇 〇 ─ 一 二 五 三 ) が 最 初 に 明 州 鄞 県 東 六 〇 里 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 に 上 山 し た 際 、 住持 を 勤 め て い た 無 際 了 派 ( 一 一 四 九 ─ 一 二 二 四 ) は 徳 光 の 法 を 嗣 いだ 高 弟の 一 人 で あ る 。 同 じ く 道 元 が 諸 山 歴 遊 し て 杭 州 の 径 山 で 参 学 し た 浙 翁 如 琰 ( 仏 心 禅 師 、 一 一 五 一 ─ 一 二 二 五 ) も徳光 の 高弟とし て 知 られ る。また南宋代後期を 代表する詩僧とし て 『 北 文 集 』 『 北 詩 集 』 『 北 外集 』 な どの著述を残 し た 北 居 簡 (敬叟 、 一一六 四─ 一 二四六) も 徳 光 の 法 を 嗣 い だ 門 人 と し て 名 高 く 、 そ の ほ か に も多 く の す ぐ れ た 人 材 が 徳 光 の も と か ら 輩 出し、十三世紀前半の五山禅林 を 席 巻し て い たの で ある。 そ ん な 徳 光 の 法 を 嗣 続し て 活 躍 し た 門 人 た ち の 一 人 に 少 林 妙 崧 ( 妙 嵩 と も 、 仏 行 禅 師 、 ? ─ 一 二 三 二) と い う 、 こ れ ま で ほ と ん ど 注 目 さ れ た こ と の な い 禅 者 が 存 し て い る 。 し か し 、 妙 崧 は 十 三 世 紀 前 半 に 浙 江 の 大 刹 に 住 持 し て か な り の 活 躍 を な し、 実際に当代随一の名声を博し た禅者で あ っ た と 伝 え ら れ る 。 時期 的 に 在 宋 中 の 道 元 が 嘉 定 一 六 年 (一二二三) の 秋 頃 に 杭 州 方 面 に 第 一 次 の 諸 山 歴 遊 を 果 た し た 頃 、 天 童 山 の 了 派や径山の如琰と同門 に当た る 妙崧は杭州銭塘県の南屏 一 駒澤大學佛教學部研究紀要第七十四號   平成二十八年三月

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山 浄 慈 報 恩 光 孝 禅 寺 か ら 北 山 景 徳 霊 隠 禅 寺 へ と 遷 住 す る 時 期 に 当 た っ て お り 、 多 大な 接 化 を 振 わ ん と し て い た 。 し か も 道 元 が 明 州 の 天 童 山 で 了 派 に つ づ い て 曹 洞 宗 真 歇 派 の 長 翁 如 浄 (浄長 、 一一 六二─ 一 二二七 ) に 参 学 し て い た 頃 、 宝 慶 元 年 ( 一 二 二 五 ) の 秋 以 降 に 妙 崧 は 同 門 の 如 琰 の 後 席 を 継 い で 五 山第 一 の 径 山 へ と 陞 住 し て いる 。 新 た に 径 山 に 勅 住 し た 妙 崧 が最も華々しい活動 を なし て い たさまを、当然ながら道元も天童山の一 角 で 如浄とともに遠く風聞し て い た はず で あ ろ う 。 実 際に 道 元 が 霊 隠 寺 や 径 山 に 赴 い て 妙 崧 に 謁 見 し た と す る 記 事 な ど は 一 切 残 され て お ら ず 、 道元 の 著 述 や 語 録 に も 妙 崧 の こ と は 何 ら 触 れ ら れ て いな い 。 と こ ろ が 、 興 味 深 い 事 実 と し て 、 こ れ よ り 先 、 妙 崧 は 道 元 が 本 師 と 仰 いだ 如 浄 と 相 前 後 す る か た ち で 杭 州 の 浄 慈 寺 に 住 持 し た経 緯 が 存 し て い る 。 ま た 霊 隠 寺 の 住 持 を 勤 め て い た 妙 崧 は 同 門 の 如 琰 の 後 席 を 継 い で 径 山 に 住 持 し て いる わ け で ある が 、 こ の と き 如 琰 は 遺 書 を 天 童 山 の 如 浄 のも と に も 送 っ て いる 。遺 書 を 届 け る こ とが 必 ず し も 後 席 を 託 す る 意 で は な い もの の 、 如 浄 に 対 し て も 径 山 勅 住 の 可 能 性 が 存 し た こ と は 認 め な け れ ば な ら ない 。 い わ ば 霊 隠 寺 の 妙 崧 が 天 童 山 の如浄 を 差し 置い て 径 山に陞住し て いるかたち になる わ け で あ り、妙崧と如浄の関 わ りには微妙な力関係 が背景に存し たと見る こ と も で き よう。 ち なみに こ の と き 妙崧の後席 を 継い で 虎 丘派の枯禅自鏡 (? ─ 一 二二 八) が霊 隠寺に 入 寺し て い る が 、 自 鏡 は や が て 宝 慶 三 年 ( 一 二 二 七 ) 七 月 に 如 浄 が 示 寂 す る と 如 浄 の 後 席 を継 い で 天 童 山 へ と 遷 住 し て いる 。 ま た 径 山 に お い て 八 年 あ ま り に わ た っ て 多 大 な 接 化 を な し た 後 、 妙 崧 は 破 庵 派 の 無 準 師 範 ( 円 照 、 仏 鑑 禅 師 、 一一 七 七 ─ 一 二 四 九 ) に 遺 書 を 呈 し 、 後 席 を 託 し て 示寂 し て いる の で あ っ て 、妙 崧 と 師 範 と の 関 わ り に も 重 要 な もの が 認 め ら れ よう 。 妙崧の 後 を継いだ師範は、その 後二〇年近くに わ た っ て 径 山の 住持 を勤め、二度の火災 を 経ながらも伽藍の維持運 営と 学 人 の 接 化 育 成 に 邁 進 し て お り 、 や が て 東 福 円 爾 ( 辨 円 、 聖 一 国 師 、 一 二 〇 二 ─ 一 二 八 〇 ) を は じ め と す る 多 く の 日 本 僧 と も 関 わ り を 増 し て い く こ と に な り 、 禅 宗 の 日 中 交 流 に 絶 大 な 影 響 を 与 え て いる 。 い ず れ に せ よ 、 入 宋 し た 道 元 が 南 宋 禅 林 で 参 禅 学 道 に 努 め て い た と き 、 あ た か も 妙 崧 は 杭 州 地 内 の 浄 慈 寺 ( 五 山 第 四 位 ) ・ 霊 隠 寺 ( 五 山 第二 位 ) ・ 径 山 (五 山 第 一 位 ) と い う 三 大 禅 刹 の 住 持 職 を つ ぎ つ ぎ と 歴 任 し て い る の で あ っ て 、 こ の 人 の存在は道元が在宋し て いた 当時における 江南禅 林 の実情を考察する上 で 欠くべからざ るものが存するといっ て よ い。 妙崧はなぜか 明州の阿育 王 山 ( 五 山 第 五 位 ) や 天 童 山 ( 五 山 第 三 位 ) に は 住 持 し て い な い もの の 、 彼が杭 州 で 活 動 し た 期 間 は宰相の史彌遠 ( 字 は 同 叔 、 魯 公 、 諡 は 忠 獻 、 一 一 六 四 ─ 一 二 三 三 ) が杭州や 明州 を 中 心に南宋禅 林 の 五 山十刹制度を制定し た 時期 と 符 合 し て い る 。 当 代 に 杭 州 や 明 州 の 大 刹 で 活躍 し た 禅 者 の 中 心 に 拙 庵 徳 光 の 門 下 ( 東 庵 下 ) の 如 琰 ・ 了 派 ・ 妙 崧 ら が お り 、 曹 洞 宗 の 如 浄 の 存 在 も あ っ た こ と を 思え ば 、 当 時 の 杭 州 地 内 の 禅 林 に お け る 妙 崧 の 位 置 づ けは き わ め て 重 要 なものが存 し よう ( 1 ) 。 本 稿 で は こ れ ま で ほ と ん ど考 察 検 討 さ れ る 対 象 に す ら さ れ て 来 な か っ た 少 林 妙 崧 と いう 南 宋 後 期 の 臨 済 禅 者 の 事跡 を 丹 念 に 整 理 す る こ と に よ っ て 、 十 三 世 紀 前 半 に 杭 州 の 五 山 禅 林 でこ の人が果た し た功績の一端 を 若干ながら考察し、そ の 立 場 を で き る 限 り 鮮 明 に し て 見 る こ と に し た い 。

少林妙崧の伝記史料

妙 崧 は 広 い 意 味 で 臨 済 宗 楊岐 派 の 流 れ に 属 し て お り 、 北 宋 後 期 の 楊 岐 方 会 ( 九 九 二 ─ 一 〇 四 九 ) から 五祖法演 ( 東 山 、 ? ─ 一 一 〇 四 ) ら を 経て 大慧派の少林 妙崧 に至る楊岐派直系 の系譜を示すならば つ ぎのようになる 。 楊 岐 方 会 ─ 白 雲 守 端 ─ 五 祖 法 演 ─ 圜 悟 克 勤─大慧宗杲─拙庵 徳光─少林妙崧 妙 崧 は 南 宋 初 期 に 看 話 禅 を 唱 導 し た 楊 岐 派 ( 大 慧 派 祖 ) の 大 慧 宗 杲 ( 妙喜 、 大 慧普 覚 禅 師 、 一 〇 八 九 ─ 一 一 六 三 ) の 法 孫 に 当 た っ て いる。 し か し ながら、禅宗燈 史 や僧伝 に おける妙崧の扱いは き わ め て 低 く、名 のみ で 無 録 で あ っ て 立 伝 されて いない の が 実 情 で ある 。 明 代初 期 の 『 続 伝 燈 録 』 巻 三 五 「 目録 」 で は 「育 王 光 禅 師 法 嗣 一 十四 人 」 の 中 に 「 已 上 八 人 無 録 」 の 一 人 と し て 「 径 山 妙 嵩 禅 師 」 の 名 が 見 ら れ 、 同 じ く 『 増 集 続 伝 燈 録 』 巻 一 「 目 録 」 で も「 育 王 仏 照 光 禅 師 法 嗣 〈 嗣 二 大 慧 一 〉 」 の 中 に 「 径 山 少 林 妙 崧 禅 師 〈 此 後 無 伝 〉 」 と あ っ て 、 や は り 名 の み で 章 が 見 録 立 伝 さ れ て い な い 。 有 力 な 法 嗣 が 育 た ず 、 系 統 が 法 孫 の 代 で 断 絶 し て い る こ と に も依 ろ う が 、 実 際 の 妙 崧 が 生 前 に な し た 華 々 し い 活 動 に 比 す れ ば 、 彼 に 対 す る 後 世の 評 価は き わ め て 低 か っ た と 言 わ ざ る を 得ない 。 し か しながら、幸いにも妙崧に関し て は 、南宋末期に大慧 派 の 枯 崖 円 悟 が 編 集 し た 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 巻 上 「 臨 安 府 径 山 少 林 仏 行 崧 禅 師 」 の 項 に 、 臨 安 府 径 山 少 林 仏 行 崧 禅 師 、 生 二 於 建 之 浦 城 徐 氏 一。 受 二 業 於 夢 筆 峰 等 覚 一。 瑞 二 世 於 安 吉 報 本 一、 嗣 二 東 庵 一。 道 声 四 馳 。 未 レ 幾 、 起 住 二 杭 之 浄 慈 一。 上 堂 挙 、 僧 問 二 塩 官 一、 如 何 是 本 身 盧 舎 那 。 官 云 、 与 レ 我 過 二 浄缾 一 来 。 僧 提 二 浄缾 一 至 。 官 云 、 復 安 二 旧 処 一 著 。 拈 云 、 塩 官 八 万 四 千 毛 竅 、 竅 竅 倶 開 、 三 百 六 十 骨 節 、 節 節 欲 レ 断 。 可 レ 惜 這 僧 如 レ 夢 相 似 。 上 堂 挙 、 二 少林妙崧と杭州の五山禅林(佐藤)

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山 浄 慈 報 恩 光 孝 禅 寺 か ら 北 山 景 徳 霊 隠 禅 寺 へ と 遷 住 す る 時 期 に 当 た っ て お り 、 多 大な 接 化 を 振 わ ん と し て い た 。 し か も 道 元 が 明 州 の 天 童 山 で 了 派 に つ づ い て 曹 洞 宗 真 歇 派 の 長 翁 如 浄 (浄長 、 一一 六二─ 一 二二七 ) に 参 学 し て い た 頃 、 宝 慶 元 年 ( 一 二 二 五 ) の 秋 以 降 に 妙 崧 は 同 門 の 如 琰 の 後 席 を 継 い で 五 山第 一 の 径 山 へ と 陞 住 し て いる 。 新 た に 径 山 に 勅 住 し た 妙 崧 が最も華々しい活動 を なし て い たさまを、当然ながら道元も天童山の一 角 で 如浄とともに遠く風聞し て い た はず で あ ろ う 。 実 際に 道 元 が 霊 隠 寺 や 径 山 に 赴 い て 妙 崧 に 謁 見 し た と す る 記 事 な ど は 一 切 残 され て お ら ず 、 道元 の 著 述 や 語 録 に も 妙 崧 の こ と は 何 ら 触 れ ら れ て いな い 。 と こ ろ が 、 興 味 深 い 事 実 と し て 、 こ れ よ り 先 、 妙 崧 は 道 元 が 本 師 と 仰 いだ 如 浄 と 相 前 後 す る か た ち で 杭 州 の 浄 慈 寺 に 住 持 し た経 緯 が 存 し て い る 。 ま た 霊 隠 寺 の 住 持 を 勤 め て い た 妙 崧 は 同 門 の 如 琰 の 後 席 を 継 い で 径 山 に 住 持 し て いる わ け で ある が 、 こ の と き 如 琰 は 遺 書 を 天 童 山 の 如 浄 のも と に も 送 っ て いる 。遺 書 を 届 け る こ とが 必 ず し も 後 席 を 託 す る 意 で は な い もの の 、 如 浄 に 対 し て も 径 山 勅 住 の 可 能 性 が 存 し た こ と は 認 め な け れ ば な ら ない 。 い わ ば 霊 隠 寺 の 妙 崧 が 天 童 山 の如浄 を 差し 置い て 径 山に陞住し て いるかたち になる わ け で あ り、妙崧と如浄の関 わ りには微妙な力関係 が背景に存し たと見る こ と も で き よう。 ち なみに こ の と き 妙崧の後席 を 継い で 虎 丘派の枯禅自鏡 (? ─ 一 二二 八) が霊 隠寺に 入 寺し て い る が 、 自 鏡 は や が て 宝 慶 三 年 ( 一 二 二 七 ) 七 月 に 如 浄 が 示 寂 す る と 如 浄 の 後 席 を継 い で 天 童 山 へ と 遷 住 し て いる 。 ま た 径 山 に お い て 八 年 あ ま り に わ た っ て 多 大 な 接 化 を な し た 後 、 妙 崧 は 破 庵 派 の 無 準 師 範 ( 円 照 、 仏 鑑 禅 師 、 一一 七 七 ─ 一 二 四 九 ) に 遺 書 を 呈 し 、 後 席 を 託 し て 示寂 し て いる の で あ っ て 、妙 崧 と 師 範 と の 関 わ り に も 重 要 な もの が 認 め ら れ よう 。 妙崧の 後 を継いだ師範は、その 後二〇年近くに わ た っ て 径 山の 住持 を勤め、二度の火災 を 経ながらも伽藍の維持運 営と 学 人 の 接 化 育 成 に 邁 進 し て お り 、 や が て 東 福 円 爾 ( 辨 円 、 聖 一 国 師 、 一 二 〇 二 ─ 一 二 八 〇 ) を は じ め と す る 多 く の 日 本 僧 と も 関 わ り を 増 し て い く こ と に な り 、 禅 宗 の 日 中 交 流 に 絶 大 な 影 響 を 与 え て いる 。 い ず れ に せ よ 、 入 宋 し た 道 元 が 南 宋 禅 林 で 参 禅 学 道 に 努 め て い た と き 、 あ た か も 妙 崧 は 杭 州 地 内 の 浄 慈 寺 ( 五 山 第 四 位 ) ・ 霊 隠 寺 ( 五 山 第二 位 ) ・ 径 山 (五 山 第 一 位 ) と い う 三 大 禅 刹 の 住 持 職 を つ ぎ つ ぎ と 歴 任 し て い る の で あ っ て 、 こ の 人 の存在は道元が在宋し て いた 当時における 江南禅 林 の実情を考察する上 で 欠くべからざ るものが存するといっ て よ い。 妙崧はなぜか 明州の阿育 王 山 ( 五 山 第 五 位 ) や 天 童 山 ( 五 山 第 三 位 ) に は 住 持 し て い な い もの の 、 彼が杭 州 で 活 動 し た 期 間 は宰相の史彌遠 ( 字 は 同 叔 、 魯 公 、 諡 は 忠 獻 、 一 一 六 四 ─ 一 二 三 三 ) が杭州や 明州 を 中 心に南宋禅 林 の 五 山十刹制度を制定し た 時期 と 符 合 し て い る 。 当 代 に 杭 州 や 明 州 の 大 刹 で 活躍 し た 禅 者 の 中 心 に 拙 庵 徳 光 の 門 下 ( 東 庵 下 ) の 如 琰 ・ 了 派 ・ 妙 崧 ら が お り 、 曹 洞 宗 の 如 浄 の 存 在 も あ っ た こ と を 思え ば 、 当 時 の 杭 州 地 内 の 禅 林 に お け る 妙 崧 の 位 置 づ けは き わ め て 重 要 なものが存 し よう ( 1 ) 。 本 稿 で は こ れ ま で ほ と ん ど考 察 検 討 さ れ る 対 象 に す ら さ れ て 来 な か っ た 少 林 妙 崧 と いう 南 宋 後 期 の 臨 済 禅 者 の 事跡 を 丹 念 に 整 理 す る こ と に よ っ て 、 十 三 世 紀 前 半 に 杭 州 の 五 山 禅 林 でこ の人が果た し た功績の一端 を 若干ながら考察し、そ の 立 場 を で き る 限 り 鮮 明 に し て 見 る こ と に し た い 。

少林妙崧の伝記史料

妙 崧 は 広 い 意 味 で 臨 済 宗 楊岐 派 の 流 れ に 属 し て お り 、 北 宋 後 期 の 楊 岐 方 会 ( 九 九 二 ─ 一 〇 四 九 ) から 五祖法演 ( 東 山 、 ? ─ 一 一 〇 四 ) ら を 経て 大慧派の少林 妙崧 に至る楊岐派直系 の系譜を示すならば つ ぎのようになる 。 楊 岐 方 会 ─ 白 雲 守 端 ─ 五 祖 法 演 ─ 圜 悟 克 勤─大慧宗杲─拙庵 徳光─少林妙崧 妙 崧 は 南 宋 初 期 に 看 話 禅 を 唱 導 し た 楊 岐 派 ( 大 慧 派 祖 ) の 大 慧 宗 杲 ( 妙喜 、 大 慧普 覚 禅 師 、 一 〇 八 九 ─ 一 一 六 三 ) の 法 孫 に 当 た っ て いる。 し か し ながら、禅宗燈 史 や僧伝 に おける妙崧の扱いは き わ め て 低 く、名 のみ で 無 録 で あ っ て 立 伝 されて いない の が 実 情 で ある 。 明 代初 期 の 『 続 伝 燈 録 』 巻 三 五 「 目録 」 で は 「育 王 光 禅 師 法 嗣 一 十四 人 」 の 中 に 「 已 上 八 人 無 録 」 の 一 人 と し て 「 径 山 妙 嵩 禅 師 」 の 名 が 見 ら れ 、 同 じ く 『 増 集 続 伝 燈 録 』 巻 一 「 目 録 」 で も「 育 王 仏 照 光 禅 師 法 嗣 〈 嗣 二 大 慧 一 〉 」 の 中 に 「 径 山 少 林 妙 崧 禅 師 〈 此 後 無 伝 〉 」 と あ っ て 、 や は り 名 の み で 章 が 見 録 立 伝 さ れ て い な い 。 有 力 な 法 嗣 が 育 た ず 、 系 統 が 法 孫 の 代 で 断 絶 し て い る こ と に も依 ろ う が 、 実 際 の 妙 崧 が 生 前 に な し た 華 々 し い 活 動 に 比 す れ ば 、 彼 に 対 す る 後 世の 評 価は き わ め て 低 か っ た と 言 わ ざ る を 得ない 。 し か しながら、幸いにも妙崧に関し て は 、南宋末期に大慧 派 の 枯 崖 円 悟 が 編 集 し た 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 巻 上 「 臨 安 府 径 山 少 林 仏 行 崧 禅 師 」 の 項 に 、 臨 安 府 径 山 少 林 仏 行 崧 禅 師 、 生 二 於 建 之 浦 城 徐 氏 一。 受 二 業 於 夢 筆 峰 等 覚 一。 瑞 二 世 於 安 吉 報 本 一、 嗣 二 東 庵 一。 道 声 四 馳 。 未 レ 幾 、 起 住 二 杭 之 浄 慈 一。 上 堂 挙 、 僧 問 二 塩 官 一、 如 何 是 本 身 盧 舎 那 。 官 云 、 与 レ 我 過 二 浄缾 一 来 。 僧 提 二 浄缾 一 至 。 官 云 、 復 安 二 旧 処 一 著 。 拈 云 、 塩 官 八 万 四 千 毛 竅 、 竅 竅 倶 開 、 三 百 六 十 骨 節 、 節 節 欲 レ 断 。 可 レ 惜 這 僧 如 レ 夢 相 似 。 上 堂 挙 、 少林妙崧と杭州の五山禅林(佐藤) 三

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洞山云、 初秋夏末、 兄弟東去西去、 直向 下 万里無 二 寸 草 一 処 上 去。 後来瀏 陽庵主道、 出 レ 門 便 是 草 。 大 陽 云 、 不 レ 出 レ 門 亦 漫 漫 地 。 拈 云 、 同 レ 声 相 応 、 同 レ 気 相 求 、 則 不 レ 無 二 三 大 老 一、 子細 点 検将 来 、 総 是 藤 蛇 繞 レ 足 、 且 利 害 在 二 什 麼 処 一。 誰 知 雲 外 千 峰 頂 、 別 有 二 霊 松 一 帯 レ 雨 寒 。 上 堂 云 、 是 法 不 レ 可 レ 示 、 言 辞 相 寂 滅 、 春 葩 千 万 叢 、 春 山 千 万 疊 。 正 与 麼 時 、 釈 迦 老 子 打 二 失 鼻 孔 一。 是 汝 諸 人 還 知 麼 。 喝 一 喝 下 座 。 上 堂 云 、 欲 レ 得 二 大 用見 前 一、 直 須 三 頓 忘 二 諸 見 一。 諸 見 若 尽 、 昏 霧 不 レ 生 、 大 智 洞 明 、 更 非 二 他 物 一。 遂 挙 二 払 子 一 云 、 看 看 、 若 道 レ 見 、 頭 上 安 レ 頭 、 若 道 レ 不 レ 見 、 斬 レ 頭 覓 レ 活 。 畢 竟 如 何 。 良 久 云 、 洎 合 錯 下 二 注 脚 一。 喝 一 喝 下 座 。 既退 レ 席、 過 二 武 康 宴 山 接 待 寺 一。 寧 廟 尤 重 二 仏 法 一。 嘉 定 間 、 再 得 レ 旨 董 二 南 山 一。 即 詔 二 延 和 殿 一 登 封 、 賜 二 号 仏 行 禅 師 一、 金 襴 袈 裟 寵 栄 至 矣 。 ( 続 蔵 一 四 八 ・ 七 四 a ) という記事が存し て お り、 そ こ に辛うじ てこ の人の貴重な略歴や上堂語などが載せられて いる。 同 じく 『枯崖和尚漫録』 巻 中 「 参 預 真 文 忠 公 徳 秀 」 の 項 に も 、 参 預 真 文 忠 公 徳 秀 、 与 二 双 径 崧 少 林 一 同 二 里 閈 一。 相 与 講 レ 道 、 翰 帖 往 来 無 二 歳 無 一レ 之。 一帖云 、 甲子乙丑、 年 間在 二 延 平 一。甞夢至 二 一 所 一、 十 六羅漢在 レ 焉。 其中相好端 厳者忽開 レ 目、 相視微笑曰 、 得 二 大堅 固力 一。 俄 而 天楽 浮 レ 空 而 至 、 音 節 之 妙 絶 異 二 世 間 一。 遂 寤 。 今 将 二 三 十 載 一 佩 服 不 レ 忘 。 近 於 二 夢 筆 一 得 二 閑 山 一 片 一、 築 二 小 庵 其 上 一、 欲 下 以 二 大 堅 固 力 一 為 上 レ 銘 、 擬 下 得 二 吾 師 一 偈 一 以 開 中 発 蒙 滞 上。 等 覚 亦 旧 遊 也 、 其 能 忘 レ 情 乎 。 余 見 二 此 帖 於 径 山 三 塔 庵 一。 烏 虖 、 西 山 可 レ 謂三十年一夢而覚矣。欲 レ 銘 二 大堅 固力 一、 寐 語 作 麼 。 何 必 仏 行 重 説 二 偈 言 一。 ( 続 蔵 一 四 八 ・ 八 〇 d ) と い う 記 事 が 見 ら れ 、 妙 崧 が 同 郷 の 建 寧 府 ( 福 建 省 ) 浦城 県 の 出身で あ った参 預 の真 徳 秀 ( 字 は 希 元 、 景 元 ・ 景 希 と も 、 西 山先 生、 諡 は文 忠 、 一一七 八 ─ 一二三五) と 親 し い 道 交 を な し た や り 取 り も 載 せ ら れ て いる 。 枯 崖 円 悟 が こ れ ら の 記 事 を 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 に 書 き 記 し た の は 、 妙 崧 が 示 寂 し て 僅 か 三 〇 年 ほ ど し か 隔 て て お ら ず 、 し か も 円 悟 は 妙 崧 と 同 門 に 当 た る 浙 翁 如 琰 の 法 孫 に 当 た っ て い る こ と か ら 、 お そ ら く 円 悟 は 最 晩 年 の 妙 崧 そ の 人 を 知 っ て い た か 、 少 な く と も 本 師 で ある 偃 渓 広 聞 ( 仏 智 禅 師、 一一 八 九 ─ 一 二 六 三 ) な ど か ら 妙 崧 の 人 と な り を 伝 え 聞 い て い た もの と 見 ら れ る 。 し た がっ て 、 円 悟 の 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 に 記 さ れ た 記 事 は き わ め て 信 憑 性 の 高 い も の と い っ て よ く 、 そ れ ら を 通 し て 辛 う じ て 妙 崧 の 事 跡 を 窺 う 術 が存 す る わ け で ある 。 一 方 、 禅 宗 燈 史 と し て は 明 末 清 初 の 『 続 燈 正 統 』 巻 一 一 「育 王 光 禅 師 法 嗣 」 に 至 っ て 漸 く 「 杭 州 府 径 山 少 林 妙 嵩 禅 師 」 の章が立 伝見録されて いるものの、その記事内容とし て は 左記のごとく きわ め て 簡略なもの で し か ない。 杭 州 府 径 山 少 林 妙 嵩 禅 師 、 建 寧 人 。 上 堂 挙 、 僧 問 二 睦 州 一、 如 何 是 展 演 之 言 。 州 曰 、 量 レ 才 補 レ 職 。 曰 、 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 州 曰 、 伏 惟 尚 饗 。 師 曰 、 睦 州 古 仏 、 善 応 二 来 機 一、 雖 二 然 如 一 レ 是 、 只 得 二 八 成 一。 或 問 二 径 山 如 何 是 展 演 之 言 一、 即 向 レ 他道、問 レ 十 答 レ 百、有 二 甚 麼 難 一。 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 喝 一 喝 曰 、 且 莫 二 屎 窖 仏 一。 ( 続 蔵 一 四 四 ・ 三 一 二 c ~ d ) 法 諱 は 妙 崧 で は な く 妙 嵩 が 採 用 さ れ て お り 、 事 蹟 と し て は 僅 か に 出 身地 と 嗣 法 お よ び 径 山 住 持 を 勤 め た 事 実 が 知 ら れ る程度にすぎない。また高僧伝類とし て は後代に編纂された 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 巻 四 九 「 興 福 篇 第 九 之 一 」 に 「 南 宋 臨 安 浄 慈 寺 沙 門 釈 可 宣 伝 」 の 附 見 と し て 「 妙 崧 」 の 記 事 が 収 め ら れ て お り 、 同時少林妙崧者 、 建 寧徐氏子。 首 参 二 育 王 仏 照 光 一 有 レ 省 。 元 嘉 定 三 年 、 以 二 尚 書 省 牒 一、 四 至 出 主 二 浄 慈 一。 未 レ 幾 謝 去 。 後 十 二 年 辛 巳 、 復 以 二 浄 慈 虚 一レ 席、 詔 レ 崧 住 持 。 凡 二 十 年 、 前 後 建 二 置閎勝 一、 甲 二 於 湖 山 一。 都 人 駭 歎 、 謂 レ 出 二 神 力 一。 嘉 定 十 四 年 、 以 二 千 秋 節 一、 召 入 二 内廷 一、 奏 対 称 レ 旨 、 賜 二 号 仏 行 并 紫 方 袍 一。 後 復 被 レ 旨 、 遷 二 住 径 山 一。 二 月 二 十 日 、 奄 然 坐 化 。 とや はり簡略な内容 で しかないが、若干ながら伝記的な記事が 見 ら れ る 点 で は 注 目 さ れ よう 。 こ の 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 の記事内容はつぎに示す『勅建浄慈寺志』に載る内容 を継承し たかたちで まとめられたもの で ある。 さ ら に 妙 崧 が 住 持 し た 杭 州 の 五 山 寺 院 の 寺 志 に も 、 い く つ か こ の 人 の 事 跡 に 関 す る 貴 重 な 記 事 が 散 見 さ れ る 。 妙 崧 が 二 度 に わ た っ て 住持 を 勤 め た 杭 州 銭 塘 県 の 南 屏 山 浄 慈 報 恩 光 孝 寺 の 寺 志 で ある 『 勅 建 浄 慈 寺 志 』 巻 八 「 住 持 一 」 に は 、 少 林 妙 崧 。 建 寧 人 。 俗 徐 氏 。 首 参 二 育 王 仏 照 光 一 有 レ 省 。 嘉 定 三 年 、 以 二 尚 書 省 牒 一、 四 推 出 主 二 浄 慈 一。 未 レ 幾 即 謝 レ 事 。 後 十 二 年 辛 巳 、 復 以 二 浄 慈 虚 一レ 席、 詔 レ 師住持 。 凡二十年、 前 後建 二 置閎勝 一、 甲 二 於 湖 山 一。 都 人 駭 歎 、 謂 レ 出 二 神 力 一 云 。 至 二 十 四 年 一、 以 二 千 秋 節 一、召入 二 内廷 一、 奏 対 称 レ 旨 、 賜 二 号 仏 行 并 紫 方 袍 一。 後復 旨 遷 二 住 径 山 一。二月二十二日坐逝。 嗣 二 仏 照 光 一。 第 二 十 九 代 。 と 記 さ れ て お り 、 浄 慈 寺 の 第 二 九 代 住 持 と し て か な り 詳 し く 妙 崧 に 関 す る 伝 記 的 な 事 蹟 を 載 せ て いる こ と から 、 こ の 人 の功績の一端 を窺い知る こ とが でき る。 ここ に「湖山に甲たり」とあるのは、杭州の西湖 を め ぐる山々の中 で 浄 慈寺の 伽 藍 が 最 も す ば ら し か っ た こ と を 表 現 し た も の で あ る 。 先 の 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 の 妙 崧 の 記 事 は 、 明 らか に こ の 『 勅 建 浄 慈 寺 志 』 の 内 容 と 一 致 し て いる 点 は 注 目 さ れ よう 。 いま一つ妙崧が最晩 年 に住持職を勤めた杭州餘杭県の径山 興 聖 万 寿 禅 寺 の 寺 志 で あ る 『 径 山 志 』 巻 二 「 列 祖 」 に も 、 四 少林妙崧と杭州の五山禅林(佐藤)

(5)

洞山云、 初秋夏末、 兄弟東去西去、 直向 下 万里無 二 寸 草 一 処 上 去。 後来瀏 陽庵主道、 出 レ 門 便 是 草 。 大 陽 云 、 不 レ 出 レ 門 亦 漫 漫 地 。 拈 云 、 同 レ 声 相 応 、 同 レ 気 相 求 、 則 不 レ 無 二 三 大 老 一、 子細 点 検将 来 、 総 是 藤 蛇 繞 レ 足 、 且 利 害 在 二 什 麼 処 一。 誰 知 雲 外 千 峰 頂 、 別 有 二 霊 松 一 帯 レ 雨 寒 。 上 堂 云 、 是 法 不 レ 可 レ 示 、 言 辞 相 寂 滅 、 春 葩 千 万 叢 、 春 山 千 万 疊 。 正 与 麼 時 、 釈 迦 老 子 打 二 失 鼻 孔 一。 是 汝 諸 人 還 知 麼 。 喝 一 喝 下 座 。 上 堂 云 、 欲 レ 得 二 大 用見 前 一、 直 須 三 頓 忘 二 諸 見 一。 諸 見 若 尽 、 昏 霧 不 レ 生 、 大 智 洞 明 、 更 非 二 他 物 一。 遂 挙 二 払 子 一 云 、 看 看 、 若 道 レ 見 、 頭 上 安 レ 頭 、 若 道 レ 不 レ 見 、 斬 レ 頭 覓 レ 活 。 畢 竟 如 何 。 良 久 云 、 洎 合 錯 下 二 注 脚 一。 喝 一 喝 下 座 。 既退 レ 席、 過 二 武 康 宴 山 接 待 寺 一。 寧 廟 尤 重 二 仏 法 一。 嘉 定 間 、 再 得 レ 旨 董 二 南 山 一。 即 詔 二 延 和 殿 一 登 封 、 賜 二 号 仏 行 禅 師 一、 金 襴 袈 裟 寵 栄 至 矣 。 ( 続 蔵 一 四 八 ・ 七 四 a ) という記事が存し て お り、 そ こ に辛うじ てこ の人の貴重な略歴や上堂語などが載せられて いる。 同 じく 『枯崖和尚漫録』 巻 中 「 参 預 真 文 忠 公 徳 秀 」 の 項 に も 、 参 預 真 文 忠 公 徳 秀 、 与 二 双 径 崧 少 林 一 同 二 里 閈 一。 相 与 講 レ 道 、 翰 帖 往 来 無 二 歳 無 一レ 之。 一帖云 、 甲子乙丑、 年 間在 二 延 平 一。甞夢至 二 一 所 一、 十 六羅漢在 レ 焉。 其中相好端 厳者忽開 レ 目、 相視微笑曰 、 得 二 大堅 固力 一。 俄 而 天楽 浮 レ 空 而 至 、 音 節 之 妙 絶 異 二 世 間 一。 遂 寤 。 今 将 二 三 十 載 一 佩 服 不 レ 忘 。 近 於 二 夢 筆 一 得 二 閑 山 一 片 一、 築 二 小 庵 其 上 一、 欲 下 以 二 大 堅 固 力 一 為 上 レ 銘 、 擬 下 得 二 吾 師 一 偈 一 以 開 中 発 蒙 滞 上。 等 覚 亦 旧 遊 也 、 其 能 忘 レ 情 乎 。 余 見 二 此 帖 於 径 山 三 塔 庵 一。 烏 虖 、 西 山 可 レ 謂三十年一夢而覚矣。欲 レ 銘 二 大堅 固力 一、 寐 語 作 麼 。 何 必 仏 行 重 説 二 偈 言 一。 ( 続 蔵 一 四 八 ・ 八 〇 d ) と い う 記 事 が 見 ら れ 、 妙 崧 が 同 郷 の 建 寧 府 ( 福 建 省 ) 浦城 県 の 出身で あ った参 預 の真 徳 秀 ( 字 は 希 元 、 景 元 ・ 景 希 と も 、 西 山先 生、 諡 は文 忠 、 一一七 八 ─ 一二三五) と 親 し い 道 交 を な し た や り 取 り も 載 せ ら れ て いる 。 枯 崖 円 悟 が こ れ ら の 記 事 を 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 に 書 き 記 し た の は 、 妙 崧 が 示 寂 し て 僅 か 三 〇 年 ほ ど し か 隔 て て お ら ず 、 し か も 円 悟 は 妙 崧 と 同 門 に 当 た る 浙 翁 如 琰 の 法 孫 に 当 た っ て い る こ と か ら 、 お そ ら く 円 悟 は 最 晩 年 の 妙 崧 そ の 人 を 知 っ て い た か 、 少 な く と も 本 師 で ある 偃 渓 広 聞 ( 仏 智 禅 師、 一一 八 九 ─ 一 二 六 三 ) な ど か ら 妙 崧 の 人 と な り を 伝 え 聞 い て い た もの と 見 ら れ る 。 し た がっ て 、 円 悟 の 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 に 記 さ れ た 記 事 は き わ め て 信 憑 性 の 高 い も の と い っ て よ く 、 そ れ ら を 通 し て 辛 う じ て 妙 崧 の 事 跡 を 窺 う 術 が存 す る わ け で ある 。 一 方 、 禅 宗 燈 史 と し て は 明 末 清 初 の 『 続 燈 正 統 』 巻 一 一 「育 王 光 禅 師 法 嗣 」 に 至 っ て 漸 く 「 杭 州 府 径 山 少 林 妙 嵩 禅 師 」 の章が立 伝見録されて いるものの、その記事内容とし て は 左記のごとく きわ め て 簡略なもの で し か ない。 杭 州 府 径 山 少 林 妙 嵩 禅 師 、 建 寧 人 。 上 堂 挙 、 僧 問 二 睦 州 一、 如 何 是 展 演 之 言 。 州 曰 、 量 レ 才 補 レ 職 。 曰 、 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 州 曰 、 伏 惟 尚 饗 。 師 曰 、 睦 州 古 仏 、 善 応 二 来 機 一、 雖 二 然 如 一 レ 是 、 只 得 二 八 成 一。 或 問 二 径 山 如 何 是 展 演 之 言 一、 即 向 レ 他道、問 レ 十 答 レ 百、有 二 甚 麼 難 一。 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 喝 一 喝 曰 、 且 莫 二 屎 窖 仏 一。 ( 続 蔵 一 四 四 ・ 三 一 二 c ~ d ) 法 諱 は 妙 崧 で は な く 妙 嵩 が 採 用 さ れ て お り 、 事 蹟 と し て は 僅 か に 出 身地 と 嗣 法 お よ び 径 山 住 持 を 勤 め た 事 実 が 知 ら れ る程度にすぎない。また高僧伝類とし て は後代に編纂された 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 巻 四 九 「 興 福 篇 第 九 之 一 」 に 「 南 宋 臨 安 浄 慈 寺 沙 門 釈 可 宣 伝 」 の 附 見 と し て 「 妙 崧 」 の 記 事 が 収 め ら れ て お り 、 同時少林妙崧者 、 建 寧徐氏子。 首 参 二 育 王 仏 照 光 一 有 レ 省 。 元 嘉 定 三 年 、 以 二 尚 書 省 牒 一、 四 至 出 主 二 浄 慈 一。 未 レ 幾 謝 去 。 後 十 二 年 辛 巳 、 復 以 二 浄 慈 虚 一レ 席、 詔 レ 崧 住 持 。 凡 二 十 年 、 前 後 建 二 置閎勝 一、 甲 二 於 湖 山 一。 都 人 駭 歎 、 謂 レ 出 二 神 力 一。 嘉 定 十 四 年 、 以 二 千 秋 節 一、 召 入 二 内廷 一、 奏 対 称 レ 旨 、 賜 二 号 仏 行 并 紫 方 袍 一。 後 復 被 レ 旨 、 遷 二 住 径 山 一。 二 月 二 十 日 、 奄 然 坐 化 。 とや はり簡略な内容 で しかないが、若干ながら伝記的な記事が 見 ら れ る 点 で は 注 目 さ れ よう 。 こ の 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 の記事内容はつぎに示す『勅建浄慈寺志』に載る内容 を継承し たかたちで まとめられたもの で ある。 さ ら に 妙 崧 が 住 持 し た 杭 州 の 五 山 寺 院 の 寺 志 に も 、 い く つ か こ の 人 の 事 跡 に 関 す る 貴 重 な 記 事 が 散 見 さ れ る 。 妙 崧 が 二 度 に わ た っ て 住持 を 勤 め た 杭 州 銭 塘 県 の 南 屏 山 浄 慈 報 恩 光 孝 寺 の 寺 志 で ある 『 勅 建 浄 慈 寺 志 』 巻 八 「 住 持 一 」 に は 、 少 林 妙 崧 。 建 寧 人 。 俗 徐 氏 。 首 参 二 育 王 仏 照 光 一 有 レ 省 。 嘉 定 三 年 、 以 二 尚 書 省 牒 一、 四 推 出 主 二 浄 慈 一。 未 レ 幾 即 謝 レ 事 。 後 十 二 年 辛 巳 、 復 以 二 浄 慈 虚 一レ 席、 詔 レ 師住持 。 凡二十年、 前 後建 二 置閎勝 一、 甲 二 於 湖 山 一。 都 人 駭 歎 、 謂 レ 出 二 神 力 一 云 。 至 二 十 四 年 一、 以 二 千 秋 節 一、召入 二 内廷 一、 奏 対 称 レ 旨 、 賜 二 号 仏 行 并 紫 方 袍 一。 後復 旨 遷 二 住 径 山 一。二月二十二日坐逝。 嗣 二 仏 照 光 一。 第 二 十 九 代 。 と 記 さ れ て お り 、 浄 慈 寺 の 第 二 九 代 住 持 と し て か な り 詳 し く 妙 崧 に 関 す る 伝 記 的 な 事 蹟 を 載 せ て いる こ と から 、 こ の 人 の功績の一端 を窺い知る こ とが でき る。 ここ に「湖山に甲たり」とあるのは、杭州の西湖 を め ぐる山々の中 で 浄 慈寺の 伽 藍 が 最 も す ば ら し か っ た こ と を 表 現 し た も の で あ る 。 先 の 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 の 妙 崧 の 記 事 は 、 明 らか に こ の 『 勅 建 浄 慈 寺 志 』 の 内 容 と 一 致 し て いる 点 は 注 目 さ れ よう 。 いま一つ妙崧が最晩 年 に住持職を勤めた杭州餘杭県の径山 興 聖 万 寿 禅 寺 の 寺 志 で あ る 『 径 山 志 』 巻 二 「 列 祖 」 に も 、 少林妙崧と杭州の五山禅林(佐藤) 五

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第三十三代、仏行少林崧禅師。建寧人 。 有 二 語録十巻 一、 板 厄 二 于 火 一。二月二十二日示寂。 と記されて お り、 きわ め て 僅かな内容ながら径山の第三三代住持とし て 妙 崧の伝記や語録に関する記事が載せられて い る 。同 じ く 『 径 山 志 』 巻 三 「 補 遺 」 の 「 列 祖 」 に も 、 第 三 十 三 代 、 仏 行 少 林 崧 禅 師 。 建 寧 人 。 師 嘗 問 二 一 僧 一、 睦 州 云 、 如 何 是 展 演 之 言 。 州 云 、 量 レ 才 補 レ 職 。 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 州云 、 伏 惟 尚 饗 。 師 云 、 睦 州 古 仏 、 善 応 二 来 機 一、 雖 二 然 如 一レ 是 、 只 得 二 八成 一。 或 問 二 径 山 如 何 是 展 演 之 言 一、 即 向 レ 他 説 、 問 レ 十 答 レ 百 、 有 二 甚 麼 難 一。 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 喝 一 喝 云 、 且 莫 二 是 屎 窖 仏 一。 師 云 、 拆 二 破 東 籬 一、 補 二 起 西 壁 一。 山 門 下 全 無 二 準 的 一、 誰 委 悉 。 僧 堂 覰 二 破 香 積 厨 一、鴟吻咬 二 殺 仏 殿 脊 一。 と し て 妙 崧 が な し た 問 答 や 説 示 が 載 せ ら れ て い る 。 そ こ に は 妙 崧 が 径 山 の 第 三 三 代 住 持 で あ っ た こ とが 記 さ れ 、 門 下 の 一 僧 と交 わ し た問答商量が載せられ 、 こ の人に語録が編集刊行さ れ て い た事実などが伝えられて い て 貴 重 で あ ろ う 。た だ し 、 『 勅 建 浄 慈 寺 志 』 『 径 山 志 』 と も に 妙 崧 が 示 寂 し た 月 日 を 二 月 二 二 日 と 伝 承 し て いる の は 注 目 さ れ る も の の 、 具 体 的 に 示 寂 し た 年 が 記 さ れ て いな い の は 誠 に 惜 し ま れ る 。 こ れ ら に 対し て 、いま一つ妙崧が住持した 五 山 で ある杭州銭 塘 県 の 北 山 景 徳 霊 隠 寺 の 寺 志 で あ る 『 霊 隠 寺 志 』 に は 、 な ぜ か 妙 崧 の 記 事 自 体 が 所 収 さ れ て いな い 。 こ の ほ か に も 建 州 (福建省 ) 建 寧 府 の 僧 伝 史 料 で 明 末 清 初 の 永 覚 元 賢 編 『 建 州 弘 釈 録 』 巻 上 「 達 本 第 一 〈 共 得 二 三 十 二 人 一 〉 」 に 「 元 仏 行 少 林 崧 禅 師 〈 出 二 径 山 志 一 〉 」 の 章 が 存 し て お り 、 元 松 渓 仏 行 少 林 崧 禅 師 。 未 レ 詳 二 法 嗣 一。 住 二 杭 州 径 山 一、 為 二 三 十 三 代 祖 一。 挙 、 僧 問 二 睦 州 一、 如 何 是 展 演 之 言 。 州 曰 、 量 レ 才 補 レ 職 。 曰 、 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 州 曰 、 伏 惟 尚 饗 。 師 云 、 睦 州 古 仏 、 善 応 二 来 機 一、 雖 二 然 如 一レ 是 、 只 得 二 八 成 一。 或 問 二 径 山 如 何是 展 演 之 言 一、 即 向 レ 他道 、問 レ 十 答 レ 百、有 二 甚 麼 難 一。 如 何是 不 二 展 演 一 之 言 。 喝 一 喝 曰 、 且 莫 二 是 屎 窖 仏 一。 復 云 、 折 二 破 東 籬 一、打 二 起 西 壁 一。 山 門 下 全 無 二 準 的 一、 誰 委 悉 。 僧 堂 覰 二 破 香 積 厨 一、鴟 吻 咬 二 殺 仏 殿 脊 一。 有 二 語 録十巻 一、 厄 二 于 火 一。 ( 続 蔵 一 四 七 ・ 四 一 五 d ) と 記 さ れ 、 『 径 山 志 』 の 記 事 を 受 け て まと め ら れ て いる こ と が 述 べ ら れ て いる 。 ま た 康 煕 三 九 年 (一七〇 〇) に 編 集 刊 行 さ れ た建州松渓 県 の地志『松渓 県志』巻九「人物 志 」の「 仙釈」の「元」の箇所にも「少林崧禅師」の項が存し、 少 林 崧 禅 師 、 本 県 人 。 住 二 杭 州 径 山 一、 為 二 三十三代祖 一。 有 二 語録十巻 一。 と あ り 、 簡 略 な が ら 妙 崧 の 出 身地 に 関 し て 貴 重 な 消 息 を 伝 え て い る 。 た だ し 、 こ の 二 史 料 は 妙 崧 が 誰 の 法 を 伝 え た の か 、 そ の 嗣 承 に つ い て 明 確 に し て お ら ず 、 し か も 南 宋代 の 禅 者 と せ ず に 元 代 の 禅 者 と し て 扱 っ て いる 点 は 不可 解 で ある 。

法諱・道号と禅師号

こ の 人 は 法 諱 ( 僧 名 ) を 妙 崧 ま た は 妙 嵩 と い い 、 道 号 を 少 林 と 称 し て い る 。 法 諱 と 道 号 の 関 連 は い う ま で も な く 「 嵩 の 少 林 」 と いう 、 禅 宗 初 祖 の 菩 提 達 磨 ( 円 覚 大 師 ) が 面 壁 九 年 の 壁 観 坐 禅 を 行 じ た 洛 陽 ( 河 南 省 ) 登 封 県 の 北 に 聳 え る 嵩 山 少 室 峰 少 林 禅 寺 の 山 号 と 寺 号 に 因 ん で い る 。 妙 崧 は 大 胆 に も 法諱の下字 で ある「崧」ないし「嵩」の字に因み、道号 に 「 少 林 」 を 称 し て い る こ と に な ろ う 。 妙 崧 と 同 世 代 で は 虎 丘 派 ( 松 源 派 祖 ) の 松 源 崇 嶽 ( 老 聵 翁 、 一 一 三 二 ─ 一 二 〇 二) の 法 を 嗣 い だ 高 弟 と し て 少 室 光 睦 と い う 禅 者 が 存 し て い る が 、 光 睦 の場合も嵩山の少室峰に因ん で 道号を「少室」と称 し て いる 。 ま た 劉 克 荘 (字 は 潜夫 、 号は後 村 、 一一 八七─ 一二六 九 ) の 『 後 村 先 生 大 全 集 』 巻 一 五 九 「 墓 誌 銘 」 の 「 誠 少 林 ・ 日 九 座 」 の 項 に よ れ ば 、 宝 祐 二 年 ( 一 二 五 四 ) 季 夏 に 五 二 歳 で 示寂 し た 虎 丘 派 の 少 林 徳 誠 ( 一 二 〇 三 ─ 一 二 五 四 ) と いう 禅 者も同じく少林と称されて いるが、 こ の 禅者の場合は密庵下の 鉄 鞭 允 韶 の 法 を 嗣 い で 後 、 郷 里 で ある 福 州 福 清 県 に 存 し た嵩山少林寺という 同 名異寺に住持し た こ と に因ん で おり、 厳 密には道号という わ け で は ない 。い ずれ にせよ、妙崧が 生 き た 南 宋 代 の 中 国 は 、 北 半 分 を 金 国 が 支 配 し て お り 、 江 南 の 禅 者 た ち に と っ て 黄 河 流 域 の 嵩 山 少 林 寺 の 達 磨 の 史 蹟 は 赴 く こ と の で き ない 憧 れ の地 で あ っ た。 一方、 元 代初期に実際に洛陽登封県の嵩山少林寺に住持し た北地曹洞宗の禅者とし て 崧山文泰 ( ? ─ 一 二 八 九 ) が お り 、 元 末 明 初 に も 同 じ く 嵩 山 少 林 寺 に 住 持 し た 北 地 曹 洞 宗の 禅 者 と し て 嵩 渓 子 定 ( 一 三 一 四 ─ 一 三 八 六 ) なども存し て いるが、 文泰や子定ら曹洞 禅者の場合は、実際に嵩山少林寺の歴代住持 を 勤 め た こ と か ら 、 道 号 と し て 「 崧 山 」 や 「 嵩 渓 」 を 名 乗 っ たとし て も不自然 で は ない。これ に 対し て 、 妙崧の場合は金国の支配治下にあっ て 赴 く こ との でき なか った 嵩山少 林 寺 に 対 す る 憧 れ 、 禅 宗 初 祖 達 磨 の 面 壁 九 年 の 古 道 を 慕 う 面 な ど が き わ め て 強 か っ たた め 、 率 先 し て 「 少 林 」 と い う 道 号 を 自 ら 用 い た も の で は な い か と 推 測 さ れ る ( 2 ) 。 と こ ろ で 、 こ の 人 の 法 諱 に つ い て 「 妙 崧 」 ま た は 単 に 「 □ 崧 」 と 書 き 伝 え て い る 史 料 と し て は 、 『 西 山 先 生 真 文 忠 公 文 集 』『 水 集 』『竹渓鬳斎十一藁続 集 』『船子和尚撥棹歌』『 枯崖和尚漫録』『増集 続 伝 燈録』『新続 高僧伝四集』 『勅建浄慈寺志』『径山志』『建州弘釈録』『松渓 県 志』『仏祖正 伝宗派図』『扶桑五山記』『正誤仏祖正 伝 宗派図』 六 少林妙崧と杭州の五山禅林(佐藤)

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第三十三代、仏行少林崧禅師。建寧人 。 有 二 語録十巻 一、 板 厄 二 于 火 一。二月二十二日示寂。 と記されて お り、 きわ め て 僅かな内容ながら径山の第三三代住持とし て 妙 崧の伝記や語録に関する記事が載せられて い る 。同 じ く 『 径 山 志 』 巻 三 「 補 遺 」 の 「 列 祖 」 に も 、 第 三 十 三 代 、 仏 行 少 林 崧 禅 師 。 建 寧 人 。 師 嘗 問 二 一 僧 一、 睦 州 云 、 如 何 是 展 演 之 言 。 州 云 、 量 レ 才 補 レ 職 。 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 州云 、 伏 惟 尚 饗 。 師 云 、 睦 州 古 仏 、 善 応 二 来 機 一、 雖 二 然 如 一レ 是 、 只 得 二 八成 一。 或 問 二 径 山 如 何 是 展 演 之 言 一、 即 向 レ 他 説 、 問 レ 十 答 レ 百 、 有 二 甚 麼 難 一。 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 喝 一 喝 云 、 且 莫 二 是 屎 窖 仏 一。 師 云 、 拆 二 破 東 籬 一、 補 二 起 西 壁 一。 山 門 下 全 無 二 準 的 一、 誰 委 悉 。 僧 堂 覰 二 破 香 積 厨 一、鴟吻咬 二 殺 仏 殿 脊 一。 と し て 妙 崧 が な し た 問 答 や 説 示 が 載 せ ら れ て い る 。 そ こ に は 妙 崧 が 径 山 の 第 三 三 代 住 持 で あ っ た こ とが 記 さ れ 、 門 下 の 一 僧 と交 わ し た問答商量が載せられ 、 こ の人に語録が編集刊行さ れ て い た事実などが伝えられて い て 貴 重 で あ ろ う 。た だ し 、 『 勅 建 浄 慈 寺 志 』 『 径 山 志 』 と も に 妙 崧 が 示 寂 し た 月 日 を 二 月 二 二 日 と 伝 承 し て いる の は 注 目 さ れ る も の の 、 具 体 的 に 示 寂 し た 年 が 記 さ れ て いな い の は 誠 に 惜 し ま れ る 。 こ れ ら に 対し て 、いま一つ妙崧が住持した 五 山 で ある杭州銭 塘 県 の 北 山 景 徳 霊 隠 寺 の 寺 志 で あ る 『 霊 隠 寺 志 』 に は 、 な ぜ か 妙 崧 の 記 事 自 体 が 所 収 さ れ て いな い 。 こ の ほ か に も 建 州 (福建省 ) 建 寧 府 の 僧 伝 史 料 で 明 末 清 初 の 永 覚 元 賢 編 『 建 州 弘 釈 録 』 巻 上 「 達 本 第 一 〈 共 得 二 三 十 二 人 一 〉 」 に 「 元 仏 行 少 林 崧 禅 師 〈 出 二 径 山 志 一 〉 」 の 章 が 存 し て お り 、 元 松 渓 仏 行 少 林 崧 禅 師 。 未 レ 詳 二 法 嗣 一。 住 二 杭 州 径 山 一、 為 二 三 十 三 代 祖 一。 挙 、 僧 問 二 睦 州 一、 如 何 是 展 演 之 言 。 州 曰 、 量 レ 才 補 レ 職 。 曰 、 如 何 是 不 二 展 演 一 之 言 。 州 曰 、 伏 惟 尚 饗 。 師 云 、 睦 州 古 仏 、 善 応 二 来 機 一、 雖 二 然 如 一レ 是 、 只 得 二 八 成 一。 或 問 二 径 山 如 何是 展 演 之 言 一、 即 向 レ 他道 、問 レ 十 答 レ 百、有 二 甚 麼 難 一。 如 何是 不 二 展 演 一 之 言 。 喝 一 喝 曰 、 且 莫 二 是 屎 窖 仏 一。 復 云 、 折 二 破 東 籬 一、打 二 起 西 壁 一。 山 門 下 全 無 二 準 的 一、 誰 委 悉 。 僧 堂 覰 二 破 香 積 厨 一、鴟 吻 咬 二 殺 仏 殿 脊 一。 有 二 語 録十巻 一、 厄 二 于 火 一。 ( 続 蔵 一 四 七 ・ 四 一 五 d ) と 記 さ れ 、 『 径 山 志 』 の 記 事 を 受 け て まと め ら れ て いる こ と が 述 べ ら れ て いる 。 ま た 康 煕 三 九 年 (一七〇 〇) に 編 集 刊 行 さ れ た建州松渓 県 の地志『松渓 県志』巻九「人物 志 」の「 仙釈」の「元」の箇所にも「少林崧禅師」の項が存し、 少 林 崧 禅 師 、 本 県 人 。 住 二 杭 州 径 山 一、 為 二 三十三代祖 一。 有 二 語録十巻 一。 と あ り 、 簡 略 な が ら 妙 崧 の 出 身地 に 関 し て 貴 重 な 消 息 を 伝 え て い る 。 た だ し 、 こ の 二 史 料 は 妙 崧 が 誰 の 法 を 伝 え た の か 、 そ の 嗣 承 に つ い て 明 確 に し て お ら ず 、 し か も 南 宋代 の 禅 者 と せ ず に 元 代 の 禅 者 と し て 扱 っ て いる 点 は 不可 解 で ある 。

法諱・道号と禅師号

こ の 人 は 法 諱 ( 僧 名 ) を 妙 崧 ま た は 妙 嵩 と い い 、 道 号 を 少 林 と 称 し て い る 。 法 諱 と 道 号 の 関 連 は い う ま で も な く 「 嵩 の 少 林 」 と いう 、 禅 宗 初 祖 の 菩 提 達 磨 ( 円 覚 大 師 ) が 面 壁 九 年 の 壁 観 坐 禅 を 行 じ た 洛 陽 ( 河 南 省 ) 登 封 県 の 北 に 聳 え る 嵩 山 少 室 峰 少 林 禅 寺 の 山 号 と 寺 号 に 因 ん で い る 。 妙 崧 は 大 胆 に も 法諱の下字 で ある「崧」ないし「嵩」の字に因み、道号 に 「 少 林 」 を 称 し て い る こ と に な ろ う 。 妙 崧 と 同 世 代 で は 虎 丘 派 ( 松 源 派 祖 ) の 松 源 崇 嶽 ( 老 聵 翁 、 一 一 三 二 ─ 一 二 〇 二) の 法 を 嗣 い だ 高 弟 と し て 少 室 光 睦 と い う 禅 者 が 存 し て い る が 、 光 睦 の場合も嵩山の少室峰に因ん で 道号を「少室」と称 し て いる 。 ま た 劉 克 荘 (字 は 潜夫 、 号は後 村 、 一一 八七─ 一二六 九 ) の 『 後 村 先 生 大 全 集 』 巻 一 五 九 「 墓 誌 銘 」 の 「 誠 少 林 ・ 日 九 座 」 の 項 に よ れ ば 、 宝 祐 二 年 ( 一 二 五 四 ) 季 夏 に 五 二 歳 で 示寂 し た 虎 丘 派 の 少 林 徳 誠 ( 一 二 〇 三 ─ 一 二 五 四 ) と いう 禅 者も同じく少林と称されて いるが、 こ の 禅者の場合は密庵下の 鉄 鞭 允 韶 の 法 を 嗣 い で 後 、 郷 里 で ある 福 州 福 清 県 に 存 し た嵩山少林寺という 同 名異寺に住持し た こ と に因ん で おり、 厳 密には道号という わ け で は ない 。い ずれ にせよ、妙崧が 生 き た 南 宋 代 の 中 国 は 、 北 半 分 を 金 国 が 支 配 し て お り 、 江 南 の 禅 者 た ち に と っ て 黄 河 流 域 の 嵩 山 少 林 寺 の 達 磨 の 史 蹟 は 赴 く こ と の で き ない 憧 れ の地 で あ っ た。 一方、 元 代初期に実際に洛陽登封県の嵩山少林寺に住持し た北地曹洞宗の禅者とし て 崧山文泰 ( ? ─ 一 二 八 九 ) が お り 、 元 末 明 初 に も 同 じ く 嵩 山 少 林 寺 に 住 持 し た 北 地 曹 洞 宗の 禅 者 と し て 嵩 渓 子 定 ( 一 三 一 四 ─ 一 三 八 六 ) なども存し て いるが、 文泰や子定ら曹洞 禅者の場合は、実際に嵩山少林寺の歴代住持 を 勤 め た こ と か ら 、 道 号 と し て 「 崧 山 」 や 「 嵩 渓 」 を 名 乗 っ たとし て も不自然 で は ない。これ に 対し て 、 妙崧の場合は金国の支配治下にあっ て 赴 く こ との でき なか った 嵩山少 林 寺 に 対 す る 憧 れ 、 禅 宗 初 祖 達 磨 の 面 壁 九 年 の 古 道 を 慕 う 面 な ど が き わ め て 強 か っ たた め 、 率 先 し て 「 少 林 」 と い う 道 号 を 自 ら 用 い た も の で は な い か と 推 測 さ れ る ( 2 ) 。 と こ ろ で 、 こ の 人 の 法 諱 に つ い て 「 妙 崧 」 ま た は 単 に 「 □ 崧 」 と 書 き 伝 え て い る 史 料 と し て は 、 『 西 山 先 生 真 文 忠 公 文 集 』『 水 集 』『竹渓鬳斎十一藁続 集 』『船子和尚撥棹歌』『 枯崖和尚漫録』『増集 続 伝 燈録』『新続 高僧伝四集』 『勅建浄慈寺志』『径山志』『建州弘釈録』『松渓 県 志』『仏祖正 伝宗派図』『扶桑五山記』『正誤仏祖正 伝 宗派図』 少林妙崧と杭州の五山禅林(佐藤) 七

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などが存し て いる 。また『銭塘湖隠済顚禅師語録』と『歴朝釈氏資鑑』 で は 「□松 」 と表記されて いるが、 これも「□ 崧 」 と 同 じ と 捉 え て よ い で あ ろ う 。 一 方 、 こ の 人 の 法 諱 に つ い て 「 妙 嵩 」 ま た は 単 に 「 □ 嵩 」 と 伝 え て い る 史 料 と し て は 、 『 禅 林 墨 蹟 拾 遺 〈 中 国 篇 〉 』 『無文印』『続 伝 燈録』『続燈正統』『南宋元明 禅 林 僧宝伝 』『続 指月録』『径石滴乳 集 』『仏祖宗派図』『掌珠宗派 図』『 伝 燈歴世譜』などが存し て いる 。 実際に現存する妙崧の墨蹟の 写 真を収録し て いる『 禅林墨蹟 拾遺 〈中国篇〉』 におい て は、 こ の 人の直筆の署名は見られ ないものの、落款 (方印) と し て 「 妙 嵩 」 が 押 さ れ て い る 。 つぎに述べる ごとく妙崧の具体的な出身地と見られ る 「 松渓」 の地名に因ん で 受業師が法諱 を定め た とす れば 「妙崧」 と記す方が正しいのかも知 れ ないが、もともと「崧」は「嵩」 の別体 で あり、通じ て 用いられて いる こ とは疑いなく、 おそらく本人とし て も 妙崧と妙嵩 を 併用 し て いたと見 るのが 妥当 で あ ろ う 。 そのた め 本稿 で は 「妙崧」と「妙嵩」の 両 方 の 法 諱 を 認 め つ つ も 、 原 則 と し て 多 く の 史 料 が 伝 え て いる 「 妙 崧 」 を も っ て 統 一 表 記 し て お く こ と に し た い 。 崧 ない し嵩とは山が高く聳え て いる意 で あ り、おそらく妙崧は若い頃 よ り 背 丈 が 高 く 、 長 身 で あ っ た こ と か ら 妙 崧 ま た は 妙 嵩 と 命 名 さ れ た も の で は な か ろ う か 。 さ ら に 後 に 杭 州 浄 慈 寺 に 住 持 し た 際、 妙 崧 は と き の 南 宋 第 四 代 皇 帝 で あ っ た 寧 宗 ( 趙 擴 、 仁 文 哲 武 恭 孝 皇 帝 、 一一 六 八 ─ 一 二 二 四 、 在 位 は 一 一 九 五 ─ 一 二 二 四 ) より「 仏 行 禅 師」という勅 号を 賜 わ っ て お り 、 こ のため「仏行妙崧」とも称さ れ て い る 。 妙 崧 に 仏 行 禅 師 の 勅 号 が 下 賜 さ れ た の は 杭 州 の 浄 慈 寺 に 再 住 し た 時 期 で あ り 、 比 較 的 晩 年 に 至 っ て の こ と で ある が、その経緯につい て は後段 で 詳し く触れ る こ と にし たい 。

つ ぎ に 妙 崧 の 出 生 地 と俗 姓 に関 し て 、 諸 史 料 を 通し て 若干 の 考察 を 試 み て お き た い 。 こ の 点 に関 し て 『 枯崖 和 尚 漫 録 』 は「建の浦城の徐氏に生まる 」 と記し て いるが、『勅建浄 慈寺志』『径山志』『続燈正統』 で は 「建寧の人」と伝え て お り 、 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 で は 「 建 寧 の 徐 氏 の 子 」 と あ っ て 一 致 し て いない 。 こ の ように 妙 崧 の 出 身地 に関 し て は 、 建 州 (福建省 ) 浦 城の 徐 氏 に 生 ま れ た と す る 説 と 、 単 に 建 寧 (福建省 ) の人 ないし建寧の徐氏の子とする説が並立し て いる 。 た だ し 、 参預 の 真 徳 秀 ( 文 忠 ) は 『 西 山 先 生 真 文 忠 公 文 集 』 巻 二 五 「記 」 の 「 径 山 三 塔記 」 に お い て 、 妙 崧 を 明 確 に 「 師 名妙崧、浦城人」と伝え て おり、同時代 を 生 きた真徳 秀の 記 事 に よ る な ら ば 、 妙 崧 は 浦 城 県 に 生 ま れ て いる と 解 さ な け れ ば な ら な い 。 し か し な が ら 、 こ れ を さ ら に 覆 す ご と く 後 世 の 建 州 松 渓 県 の 地 志 で ある 『 松 渓 県 志 』 で は 妙 崧 を 「 本 県 の 人 」 と し て 載 せ て いる 。 そ も そ も 建 州 と 建 寧 は 同 義 で あ っ て 、 時 代 に よ り 建 州 の こ と を 建 寧 府 と 称 し て お り 、 現 今 の 福 建 省 建 甌 市 に 当 た っ て い る 。 北 宋 代 の 建 寧 軍 節 度 が 南 宋 代 に 建 寧 府 に 昇 格 し 、 建 寧 府 ( 建 州 ) の 管 轄 内 に 建 安 県 ・ 浦 城 県 ・ 嘉 禾 県 ・ 松 渓 県 ・ 崇 安 県 ・ 政和 県 ・ 甌 寧 県 と い う 七 県 が 置 か れ て い る 。 し た が っ て 、 浦 城 と は 建 寧 府 内 の 浦 城 県 のこ と で あ り 、 松 渓 と は 建 寧 府 内 の 松 渓 県 のこ と で あ る か ら 、 妙 崧 は 広 義 に は 建 寧 府 ( 建 州 ) の 人 で あ る 点 で 一 致 し て い る が 、 細 か く 見 れ ば 建 寧 府 内 の 浦 城 県 か 松 渓 県 の 何 れ か に 出 生 し て いる こ と に な ろ う 。 清代に編纂された建州の僧伝史料 で ある 『建州弘釈録』 巻 上 「 達本第一 〈共得 二 三 十 二 人 一 〉 」 に も 「 元 松 渓 仏 行 少 林 崧 禅 師 〈出 二 径 山 志 一 〉 」 の 項 が 収 め ら れ て お り 、 先 に 触 れ た 『 径 山 志 』 の 妙 崧 の 記 事 に 基 づ い て 著 さ れ て い る 点 が 付 記 されて いる。ただ、『建州弘釈録』 で は妙崧が具体的に活動し た 年 代が確定 でき なか っ たた め か、南宋代の禅者とし て で は なく、なぜか元代に建州 から輩出し た禅者のごとく扱われ て いる 。 ま た 『 建 州 弘 釈 録 』 で は 、 妙 崧 の 出 身 地 を 意 味 する地名とし て 「 松渓」の語が付されて おり、建州の浦城県の 出 身 で はなく、隣接する松渓県 に 妙崧が生 を受けた よう に 伝 え て い る 。 妙 崧 の 出 身地 で あ る 建 州 の 僧 伝 史 料 で あ る だ け に 、 彼 が 浦 城 県 で は な く 松 渓 県 の 出 身 で あ っ て 、 そ ん な 出身地の地名に因ん で 法諱の妙崧という命名も決められたのかも知 れ ない。い ず れ に せよ、妙崧は現今の福建省建甌市 松渓県か隣接する福建省南平市浦城県 に当た る 地のいずれか に出生し て いる こ とにな ろ う。 あるいは妙崧は浦城県と松 渓 県 の 隣 接 す る 辺 り に 出 生 し た た め、 一 説 に 浦 城 県 の 出 身 と も さ れ 、 一 説 に 松 渓 県 の 出 身 と も 見 ら れ た の か も 知 れ な い 。 こ の 点 で 、 康 煕 三 九 年 (一 七〇〇) に編集 刊 行さ れた『松渓 県 志』巻九「人物 志」の「仙釈」に「元」の箇所に、 少 林 崧 禅 師 、 本 県 人 。 住 二 杭 州 径 山 一、 為 二 三十三代祖 一。 有 二 語録十巻 一。 と 記 さ れ て いる こ と は 注 目 さ れ 、 ここ で は 妙 崧 を 「 本 県 の 人 」 と し て 明 確 に 松 渓 県 内 の 出 身 と 伝 え て いる 。 た だ し 、 『 松 渓県志』におい て も『建州弘釈録』と同じく妙崧の活動年時を 確 定 で き な か っ た た め か 、 南 宋 代 で は な く 元 代 の 人 と し て 扱 か わ れ て い る ( 3 ) 。 一 方 、 妙 崧 の 俗 姓 に 関 し て は 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 と 『 勅 建 浄 慈 寺 志 』 お よ び 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 の み が 「 徐 氏 」 で あ っ た こ と を 伝 え て お り 、 こ の 点 は 古 く 太 子 少 師 の 程 珌 ( 字 は 懐 古 、 水 遺 民 、 一 一 六 四 ─ 一 二 四 二 ) が 『 水 集 』 巻 七 「 記 」 八 少林妙崧と杭州の五山禅林(佐藤)

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などが存し て いる 。また『銭塘湖隠済顚禅師語録』と『歴朝釈氏資鑑』 で は 「□松 」 と表記されて いるが、 これも「□ 崧 」 と 同 じ と 捉 え て よ い で あ ろ う 。 一 方 、 こ の 人 の 法 諱 に つ い て 「 妙 嵩 」 ま た は 単 に 「 □ 嵩 」 と 伝 え て い る 史 料 と し て は 、 『 禅 林 墨 蹟 拾 遺 〈 中 国 篇 〉 』 『無文印』『続 伝 燈録』『続燈正統』『南宋元明 禅 林 僧宝伝 』『続 指月録』『径石滴乳 集 』『仏祖宗派図』『掌珠宗派 図』『 伝 燈歴世譜』などが存し て いる 。 実際に現存する妙崧の墨蹟の 写 真を収録し て いる『 禅林墨蹟 拾遺 〈中国篇〉』 におい て は、 こ の 人の直筆の署名は見られ ないものの、落款 (方印) と し て 「 妙 嵩 」 が 押 さ れ て い る 。 つぎに述べる ごとく妙崧の具体的な出身地と見られ る 「 松渓」 の地名に因ん で 受業師が法諱 を定め た とす れば 「妙崧」 と記す方が正しいのかも知 れ ないが、もともと「崧」は「嵩」 の別体 で あり、通じ て 用いられて いる こ とは疑いなく、 おそらく本人とし て も 妙崧と妙嵩 を 併用 し て いたと見 るのが 妥当 で あ ろ う 。 そのた め 本稿 で は 「妙崧」と「妙嵩」の 両 方 の 法 諱 を 認 め つ つ も 、 原 則 と し て 多 く の 史 料 が 伝 え て いる 「 妙 崧 」 を も っ て 統 一 表 記 し て お く こ と に し た い 。 崧 ない し嵩とは山が高く聳え て いる意 で あ り、おそらく妙崧は若い頃 よ り 背 丈 が 高 く 、 長 身 で あ っ た こ と か ら 妙 崧 ま た は 妙 嵩 と 命 名 さ れ た も の で は な か ろ う か 。 さ ら に 後 に 杭 州 浄 慈 寺 に 住 持 し た 際、 妙 崧 は と き の 南 宋 第 四 代 皇 帝 で あ っ た 寧 宗 ( 趙 擴 、 仁 文 哲 武 恭 孝 皇 帝 、 一一 六 八 ─ 一 二 二 四 、 在 位 は 一 一 九 五 ─ 一 二 二 四 ) より「 仏 行 禅 師」という勅 号を 賜 わ っ て お り 、 こ のため「仏行妙崧」とも称さ れ て い る 。 妙 崧 に 仏 行 禅 師 の 勅 号 が 下 賜 さ れ た の は 杭 州 の 浄 慈 寺 に 再 住 し た 時 期 で あ り 、 比 較 的 晩 年 に 至 っ て の こ と で ある が、その経緯につい て は後段 で 詳し く触れ る こ と にし たい 。

つ ぎ に 妙 崧 の 出 生 地 と俗 姓 に関 し て 、 諸 史 料 を 通し て 若干 の 考察 を 試 み て お き た い 。 こ の 点 に関 し て 『 枯崖 和 尚 漫 録 』 は「建の浦城の徐氏に生まる 」 と記し て いるが、『勅建浄 慈寺志』『径山志』『続燈正統』 で は 「建寧の人」と伝え て お り 、 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 で は 「 建 寧 の 徐 氏 の 子 」 と あ っ て 一 致 し て いない 。 こ の ように 妙 崧 の 出 身地 に関 し て は 、 建 州 (福建省 ) 浦 城の 徐 氏 に 生 ま れ た と す る 説 と 、 単 に 建 寧 (福建省 ) の人 ないし建寧の徐氏の子とする説が並立し て いる 。 た だ し 、 参預 の 真 徳 秀 ( 文 忠 ) は 『 西 山 先 生 真 文 忠 公 文 集 』 巻 二 五 「記 」 の 「 径 山 三 塔記 」 に お い て 、 妙 崧 を 明 確 に 「 師 名妙崧、浦城人」と伝え て おり、同時代 を 生 きた真徳 秀の 記 事 に よ る な ら ば 、 妙 崧 は 浦 城 県 に 生 ま れ て いる と 解 さ な け れ ば な ら な い 。 し か し な が ら 、 こ れ を さ ら に 覆 す ご と く 後 世 の 建 州 松 渓 県 の 地 志 で ある 『 松 渓 県 志 』 で は 妙 崧 を 「 本 県 の 人 」 と し て 載 せ て いる 。 そ も そ も 建 州 と 建 寧 は 同 義 で あ っ て 、 時 代 に よ り 建 州 の こ と を 建 寧 府 と 称 し て お り 、 現 今 の 福 建 省 建 甌 市 に 当 た っ て い る 。 北 宋 代 の 建 寧 軍 節 度 が 南 宋 代 に 建 寧 府 に 昇 格 し 、 建 寧 府 ( 建 州 ) の 管 轄 内 に 建 安 県 ・ 浦 城 県 ・ 嘉 禾 県 ・ 松 渓 県 ・ 崇 安 県 ・ 政和 県 ・ 甌 寧 県 と い う 七 県 が 置 か れ て い る 。 し た が っ て 、 浦 城 と は 建 寧 府 内 の 浦 城 県 のこ と で あ り 、 松 渓 と は 建 寧 府 内 の 松 渓 県 のこ と で あ る か ら 、 妙 崧 は 広 義 に は 建 寧 府 ( 建 州 ) の 人 で あ る 点 で 一 致 し て い る が 、 細 か く 見 れ ば 建 寧 府 内 の 浦 城 県 か 松 渓 県 の 何 れ か に 出 生 し て いる こ と に な ろ う 。 清代に編纂された建州の僧伝史料 で ある 『建州弘釈録』 巻 上 「 達本第一 〈共得 二 三 十 二 人 一 〉 」 に も 「 元 松 渓 仏 行 少 林 崧 禅 師 〈出 二 径 山 志 一 〉 」 の 項 が 収 め ら れ て お り 、 先 に 触 れ た 『 径 山 志 』 の 妙 崧 の 記 事 に 基 づ い て 著 さ れ て い る 点 が 付 記 されて いる。ただ、『建州弘釈録』 で は妙崧が具体的に活動し た 年 代が確定 でき なか っ たた め か、南宋代の禅者とし て で は なく、なぜか元代に建州 から輩出し た禅者のごとく扱われ て いる 。 ま た 『 建 州 弘 釈 録 』 で は 、 妙 崧 の 出 身 地 を 意 味 する地名とし て 「 松渓」の語が付されて おり、建州の浦城県の 出 身 で はなく、隣接する松渓県 に 妙崧が生 を受けた よう に 伝 え て い る 。 妙 崧 の 出 身地 で あ る 建 州 の 僧 伝 史 料 で あ る だ け に 、 彼 が 浦 城 県 で は な く 松 渓 県 の 出 身 で あ っ て 、 そ ん な 出身地の地名に因ん で 法諱の妙崧という命名も決められたのかも知 れ ない。い ず れ に せよ、妙崧は現今の福建省建甌市 松渓県か隣接する福建省南平市浦城県 に当た る 地のいずれか に出生し て いる こ とにな ろ う。 あるいは妙崧は浦城県と松 渓 県 の 隣 接 す る 辺 り に 出 生 し た た め、 一 説 に 浦 城 県 の 出 身 と も さ れ 、 一 説 に 松 渓 県 の 出 身 と も 見 ら れ た の か も 知 れ な い 。 こ の 点 で 、 康 煕 三 九 年 (一 七〇〇) に編集 刊 行さ れた『松渓 県 志』巻九「人物 志」の「仙釈」に「元」の箇所に、 少 林 崧 禅 師 、 本 県 人 。 住 二 杭 州 径 山 一、 為 二 三十三代祖 一。 有 二 語録十巻 一。 と 記 さ れ て いる こ と は 注 目 さ れ 、 ここ で は 妙 崧 を 「 本 県 の 人 」 と し て 明 確 に 松 渓 県 内 の 出 身 と 伝 え て いる 。 た だ し 、 『 松 渓県志』におい て も『建州弘釈録』と同じく妙崧の活動年時を 確 定 で き な か っ た た め か 、 南 宋 代 で は な く 元 代 の 人 と し て 扱 か わ れ て い る ( 3 ) 。 一 方 、 妙 崧 の 俗 姓 に 関 し て は 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 と 『 勅 建 浄 慈 寺 志 』 お よ び 『 新 続 高 僧 伝 四 集 』 の み が 「 徐 氏 」 で あ っ た こ と を 伝 え て お り 、 こ の 点 は 古 く 太 子 少 師 の 程 珌 ( 字 は 懐 古 、 水 遺 民 、 一 一 六 四 ─ 一 二 四 二 ) が 『 水 集 』 巻 七 「 記 」 少林妙崧と杭州の五山禅林(佐藤) 九

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の 「 浄 慈 山 重 建 報 恩 光 孝 禅 寺 記 」 に お い て 「 禅 師 、 俗 徐 氏 、 妙 崧 、 賜 二 仏 行 禅 師 一 云 」 と 書 き 残 し て いる こ と から も 疑 い な か ろ う 。 し た が っ て 、 妙 崧 は 建 州 の 浦 城 県 ま た は 松 渓 県 の 徐 氏 に 生 を 受 け た こ と が 判 明 す る が 、 父 方 の 徐 氏 が 如 何 な る一族 で あっ たのか、また母方の氏姓が何 で あっ たのか、そ の 詳細は何 ら伝えられて いない 。 ま た 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 巻 中 「 参 預 真 文 忠 公 徳 秀 」 の 項 に は 「 参 預 真 文 忠 公 徳 秀 、 与 二 双 径 崧 少 林 一 同 二 里 閈 一 」 と あ り 、 妙崧が参預の真徳 秀と同郷 で あ っ た こ とが特筆さ れて いる 。『 後村先 生大全集 』 巻一六八「行状」に載る「西山真文 忠 公 」 の 行 状 な ど に よ れ ば 、 真 徳 秀 は 淳 煕 五 年 ( 一 一 七 八 ) に 建 州 浦 城 県 に 生 ま れ て お り 、 慶 元 五 年 ( 一 一 九 九 ) の 進 士と なり、 理 宗 ( 趙 昀 、 初 名 は 貴 誠 、 一 二 〇 五 ─ 一 二 六 四 、 在 位 は 一 二二 四 ─ 一 二 六 四 ) の 代 に 泉 州 (福建省) や 福 州 (福建省) の 府 主 を 勤 め て いる 。 そ の 後 、 翰 林 学 士 から 参 知 政 事 と な り 、 端 平 二 年 (一二三五 ) 五 月 二 八 日 に 五 八 歳 で 卒 し て い る 。 真 徳 秀 に は 詩 文 集 と し て 『 西 山 先 生 真 文 忠 公 文 集 』 五五 巻 な ど の 著 作 が 残 さ れ て い る 。 北 宋 代 か ら 南 宋 代 に か け て 建 州 ( 建 寧 ) を 出 身 地 と す る 文人や 官 僚士 大 夫 も多 く 、 真 徳 秀 よ り以前 に も 『 景 徳伝 燈 録 』 に 序 文 を 寄 せ た 楊 億 ( 字 は 大 年 、 諡 は 文 、 九 七 四 ─ 一 〇 二 〇 ) が 名 高 く 、 ほ か に も 黄 震 ( 字 は 伯 起 ) ・ 呉 充 (字 は 沖 卿、 一〇二 一 ─一〇八 〇) ・ 章 誼 ( 字 は 宜 叟 、 一 〇 七 八 ─ 一 一 三 八 ) と い っ た 優 れ た 人 材 が 建 州 の 地 か ら 陸 続 と し て 輩 出 し て いる 。 妙 崧 の 出 生 年 時 に つ い て は 定 か で ない が 、 程 珌 や 真 徳 秀 ら よ り は 年長 で あ っ て 、 お そ ら く 同 門 に 当 た る 無 際 了 派 や 浙 翁 如 琰 ら と 同 世 代 で あ っ た も の と 見 ら れ る 。 妙 崧 が 了 派 や 如 琰 ら と 同 じ く 紹 興 年 間 ( 一 一 三 一 ─ 一 一 六 二 ) の 後 半 頃 に 出 生し て いるとす れ ば 、 紹興三二年 (一一六 二) に出生し た曹洞宗の如浄よりは若 干の年長 で あっ た こ とに な ろ う 。 とり わ け 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 巻 上 「 慶 元 府 天 童 無 際 派 禅 師 」 の 項 に よ れ ば 、 無 際 了 派 も 建 州 建 安 県 の 張 氏の 出 身 と さ れ 、 妙 崧 と 同 じ 建 州 の 人 で あ っ た こ とが 知 ら れ る から 、 お そ ら く 妙 崧 は や が て 同 郷 の 同 門 と な っ た 了 派 と も 修 行 期 か ら 道 交 を 深 め て い っ た もの と 推 測 さ れ る 。

妙 崧 が 建 州 に て 如 何 な る 幼 年 期 を 過 ご し た の か につ い て も 定 か で ない が 、 『 枯 崖 和 尚 漫 録 』 に 「 受 二 業 於 夢 筆 峰 等 覚 一 」 と 記 さ れ て いる こ と から 、 郷 里 建 州 地 内 の 夢 筆 峰 の 等 覚 寺 で 剃 髪 得 度 し て いる こ と が 知 ら れ る 。 夢 筆 峰 に つ い て は 『 建 州弘釈録』巻上「達本第一 」に『景徳伝燈録』に 依 る と し て 「 五 代 浦 城 夢 筆 山 和 尚 」 の 項 が 存 し 、 五代浦城夢筆山和尚、 亡 二 其 名 一、 得 二 法 于 雪 峰 存 禅 師 一。 僧 問 、 如 何 是 仏 。 師 曰 、 不 レ 誑 レ 汝 。 曰 、 莫 二 便 是 一 否 。 師 曰 、 汝誑 レ 他 。 閩 王 請 レ 斎 問 レ 師 、 還将 二 得 筆 一 来 也 無 。 師 曰 、 不 二 是 稽 山 繍 管 一、 慙 非 二 月 裡 兎 毫 一、 大 王 既 垂 二 顧 問 一、 山 僧 敢 不 二 通 呈 一。 又 問 、 如 何是 法王 。 師 曰 、不 二 是夢筆家風 一。 (続蔵一 四七・四 一〇d ) と いう 記 事 が 見 ら れ る こ と から 、 建 州 浦 城 県 内 の 夢 筆 山 が 妙 崧 ゆ か り の 夢 筆 峰 を 指 し て いる こ とが 知 ら れ る 。 『 建 州 弘 釈 録 』 に 載 る こ の 夢 筆 山 和 尚 の 記 事 は 、 実 際に 『 景 徳 伝 燈 録 』 巻 一 九 「 福 州雪 峯 義 存 禅 師 法 嗣 」 に 、 建 州 夢 筆 和 尚 。 問 、 如 何 是 仏 。 師 曰 、 不 レ 誑 レ 汝 。曰 、 莫 二 便 是 一 否 。 師 曰 、 汝誑 レ 他 。 閩 王 請 二 師 斎 一 問、和尚 還将 二 得 筆 一 来 也 無 。 師 曰 、 不 二 是稽山繍管 一、 慚 非 二 月 裏 兎 毫 一、 大 王 既 垂 二 顧 問 一、 山 僧 敢 不 二 通 呈 一。 又 問 、 如 何 是 法 王 。 師 曰 、 不 二 是夢筆家風 一。 ( 大 正 蔵 五 一 ・ 三 五 九 b ) と あ る 「 建 州 夢 筆 和 尚 」 の 章 を 受 け て いる 。 唐 末 五 代 に 青 原 下 の 雪 峰 義 存 ( 真 覚 大 師 、 八 二 二 ─ 九 〇八 ) の 法 を 嗣 い だ 高 弟 の ひ とりとし て 建 州夢筆和尚が存し て お り、法諱は不詳ながら、 こ の禅者の ゆかりの地が建州浦城県の夢筆山 で あ っ た も の ら し い ( 4 ) 。 実 際 に 『 福 建 通 志 』 巻 一 一 「 山 川 」 の 「 建 寧 府 」 の 「 浦 城 県 」 に よ れ ば 、 又西北 距 レ 城 五 里 、 曰 二 孤 山 一。 建 安 記 云 、 孤 山 在 二 環 障 之 中 一、 其 地 平坦 、 悉 是 溝 塍 阡 陌 、 此 山 挺 然 孤 立 、 因 名 焉 。 劉 宋 時 、 江 淹 夢 三 神 人 授 二 五色筆於此 一、故又名 二 夢 筆 一。 上 有 二 等 覚 寺 一、 五 代 時 夢 筆 和 尚 建 。 寺 旁 旧 有 二 唐刺史李頻行祠 一、 今 圯 。 東為 二 宋楊文荘読書堂 一、 西 為 二 劉宋呉興令 江 淹 祠 一、 又 西 為 二 宋 真 文 忠 山 房 一。 山 房 之 後 、 為 二 六君子堂 一。 寺 後 為 二 杖 者 泉 一、 寺 前 為 二 碧 草 亭 一。 とあり、『続修浦城県志』巻三「山川」 の「山」の「城郭附 近 諸山」にも、 夢 筆 山 、 一 名 二 孤 山 一、 在 二 県 西 門 外 距 レ 城三里 一。 寰 宇 記 引 二 建 安 記 一 云 、 孤 山 在 二 環 障 之 間 一、 其 地 坦 平 、 悉 是 溝 塍 阡 陌 、 以 二 此 山 挺 然 孤 立 一 因 名 。 六 朝 劉 宋 時 、 江 淹 夢 三 神 人 授 二 五 色 筆 于 此 一。 餘 詳 二 名 勝 志 一。 と 記 さ れ て いる か ら 、夢 筆 山 は 浦 城 県 の 県 城 か ら 西 北 五 里 ま た は西 門 の 外 三 里 に 存 し 、 一 に 孤 山 と 称 さ れ て い た こ と が 知 ら れ る 。 周囲 が 平 坦 な 地 に 一 つ の 山 が 存 し て お り 、そ の た め 孤 山 と 称 さ れ た も の で あ り 、 六 朝 時 代 の 劉 宋 のと き に呉 興令 の江 淹 ( 字 は文 通 、 諡 は 憲 ) と い う 人 が こ の 地 で 神 人 か ら 五 色 の 筆 を 授 け ら れ る 夢 を 見 た こ と か ら 夢 筆 山 と 称 さ れ る ようになっ た と伝えられ る 。また 『 福建通志』巻二六 五 「 寺 観 」 の 「 建 寧 府 」 の 「 浦 城 県 」 に よ れ ば 、 等 覚 寺 、 在 二 夢 筆 山 麓 一。 五 代 時 建 。 〈 元 陳 元 藻 詩 。 雨 後 過 二 山寺 一、 郊 原 積 翠 平 、 橋 頭 通 二 急 水 一、 樹 背 見 二 孤 城 一。 礼 レ 仏 一〇 少林妙崧と杭州の五山禅林(佐藤)

参照

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