咲かせよう、対話の花を/,
これ唯一寅児五年十月二十晃日に杉並。普店館国際会議室に於レマミ立正佼成会学林生約六十名を対象にして なされた特別講演の一部である。ミドヴィル・ロンバド神学大学院はユニテリアン・ユニヴァサリストの 神学校で、シカゴ大学とアフィリエイトの関係にあり、学林とは交換留学という友好関係にある。 篠崎友伸の同時通訳をもとに、池田、坂田両君を加え、より適切な翻訳を試みた。紙面の都合上冒頭約四分の 一ほどを割愛したが、その部分は主に、彼の少年時代からの他宗教との出会いの体験を通して宗教の研究を志す に致った過程、ならびにホワイト・ヘッドの哲学に魅せられたことが述べられた。 宗教的多元主義の神学を志向して |新しし状況 二多元主義を 三主な諸問題 多元一主義を志向する三つのアブロチ 主な諸問題 ジーン・リ多−密ワス 訳篠崎友伸・池田賀一・坂田佳靖 句。 可上現代のディスカッションにエルンストqトレルチが残したもう一つの問題点があります。宗教伝統間の対話の中 から何を学ぶべきかはいまだにはっきりとしていないのです。そのような神学的理解を目指してということ、その ことが今日の講演の目的であります。 私たちは新しい多元主義的状況の中にいると私は確信しています。何が新しいかといえばもちろん諸宗教伝統の 多様性ということではありません。それは一つの事実に目覚める気運があるということですが、その事実とは個為 の伝統の在り方は多種多様であり、そして他の諸宗教伝統はそれぞれの伝統内においては生き生きした信仰を見出 この新しい状況がもたらされた理由は多々ありますが、まず急速な交通通信機関の発達をあげることができます。 ベェベィカナンダが一八九三年に万国宗教会議に出席のために合衆国に来た時、彼はグルプの最初の人であり、 実はその会議に何を期待すべきか何の考えもなかったのです。世界は地球村と言われていますが、むしろ大きな地 球都市に近いと思います。その都市は確かにある人種的統合をもっており、しかしそのほとんどは異人種の隣人に よって確かに成り立っているが、そこでは人は周期的に霊性や文化、料理の維持のために漁り歩くのです。 また、宗教に関する現象学と歴史学の研究の進歩、発展が見られます。今日、米国にあるそこそこの大学でアジ アの宗教伝統に関するコスを持たないところはありません。それらの中には諸宗教伝統間に歴史的つながりを発 見しつつあるものもあります。その実例をあげると、数世紀の間仏陀はジョサファトという名のキリスト教の聖 ︵1︶ 人として知られていました。ちょうど他の多くの分野で新しい知識が得られるのと同様に、宗教学研究において以 し続けているということです。 |新しい︾状況
咲 か せ よ う 、 対 話 の 花 を ノ 喜ばしいことによりまじめな哲学的なもので宗教・知性の諸伝統の相互関係に取り組んだものとして、例えば ︵2︶ ロバト・ネビルの最近の本に﹁道とダイモ里というものがあります。現代の宗教的多元主義に関する新しいこ とは、多様性を志向する一連の新しい傾向であります。宗教的信念体系の外部からだけでなく内部からもまた、多 元主義的精神の枠組にとって、ある特定のグルプによる普遍性や絶対性の要求には疑問があります。多元主義的 精神によれば、すべての宗教伝統や世界観は歴史・文化そして階級等といった特定の環境に条件づけられています。 それ故そこでは究極的な真理や救いを約束され得ませんし、また、普遍的な忠誠も要求され得ません。多元主義的 見解によれば、ある特定の宗教伝統・信仰、あるいはその宗教の在り方が人間の成就︵救い︶への唯一の道ではあ り得ないのです。この講演の残りの時間で私はごく簡単にまずこの多元主義的状況への三つのアプロチの概略を 主として現代のキリスト教神学者によるものですが:大きな問題であると思われることをいくつか論じ言そして 結論をもってこの講演を終わりたいと思います。 述べたいと思います。 り得ないのです。こ︵ 摘すれば充分でありましょう︵﹄ 前は可能でなかった科学的、歴史的アプロチが可能になってきているということです。 また、主な文化そして宗教の境界を越えて個人の変革が起こっています。多くのアメリカの家庭は、若い人たち の間で人気のある東洋の宗教の一団によって崩壊されつつあります。しかしよりエキゾチックな事例を上げる必要 はないでしょうが、ただその影響の一つとしてマチン・ルサ・キング・ジュニア師、あるいはガンジを指 1q○ L L ノ 』
ここに概略する多元主義を志向する三つのアプローチは二位一体の教義に準じています垂玄﹂れらのアプロチで は第一に共通の神、第二に共通のキリスト、そして第三には共通の人間性、または信仰が強調されています。 ただ、これらのアプロチが、他の宗教にアプロチし得る唯一の方法として現代のキリスト教神学者によって 信奉されているということを言うつもりは全くありません。少なくとも私の判断においては、今だに用いられてい るこれらのアプロチでは新しい状況を認識することが出来なくなっています。これらのアプロチは三十年、五 十年、いやもっと以前にポピュラであったものと何ら変わらないものです。これらの三つのアプロチが意味す るところは、幾らかの適切さ、鋭敏さを含み、また我我の新しい多元主義的状況に創造的に応える試ふであります。 全ての主要な宗教における信仰が一つの神への応答という点において統一されているという考えは、ドイツ・ア メリカの偉大な神学者ポル。テリック︵または、パウロ・ティリッヒ︶によって彼の晩年に部分的に発展しまし た。テリックの神学的研究はキリスト教を現代西洋の世俗の思想と経験とに関係づけたことです。彼が八十歳代の 時、日本の仏教徒との出会いを通して、また、ミチェル・エリァーデとのシカゴにおける共同のセミナの中で ︵3︶ 培われたものとしてテリックは﹁組織神学者にとっての宗教学の意義﹂というエッセイを書きました。テリックの 神学体系は理想主義の哲学の基礎の上に構築されていますが、その基礎によって彼は全ての宗教伝統を存在の根底 に根ざしている人間性の多少とも適切な表現として見なし得たのです。 彼は明らかに、神律の最高の表現はキリスト教信仰に見出されると信じて来、また、キリスト教信仰はグロー・ハ ルな宗教現象の文脈の中で理解されるべきであるという主張をもしています。 二多元主義を志向する三つのアプロチ
対 話 の 花 を / 咲 か せ よ う 最近宗教的多元主義への共通のアプロチを非常に熱意をもって追究している人にイギリ↓︿の神学者シ言こ︾・ ヒックがいます。彼は伝統的なキリスト教の独自性の主張に対し、神学における.。ヘルニクス的大転回を要求する ことによって挑戦しました。その大転回とは、キリスト中心主義から神中心の神学へ、そしてキリスト教の光で他 宗教を理解しようとする神学から全ての宗教の神話を一つの超越的神性の関係において解釈しようとする神学への 根源的変革なのです。カントによるヌメナ︵物自体︶とフェノメナ︵現象︶の区別を用いてのヒックの仮説は以
下の趣りです翼メナルなるもQ訳遠愈るも2、つまり超趣的な神の実在がありそれば人間の思惟を鐙
︵4︶ えているが宗教経験を通して﹁人類に入り込ん塵来る・全く偏見のない概念はあり得ないのでヒシ〃臓特 に﹁神﹂とか﹁永遠なるもの﹂とかいったいろいろな言葉でもってこの超越的根底を呼んでいます。しかし彼が慎 重さをもって強調していることに、そのような言葉の用法によってキリスト教や西洋の特徴が特にこの超越的根底 に起因しているのではないのです。というのは、その超越的根底は異なる宗教的伝統においてはそれぞれ種種の言 葉によって知られているものであるからです。 別段驚くほどのことではないのですが、プロテスタントで哲学的教養を持った神学者はそのような相対主義的立 場をとるでしょう。驚くべきことは、ロマ・カトリックの神学者ポル・ニッタ!も似たような見解を持ってい るということです。彼は次のように語っています。﹁ロマ・カトリックの神学はその自己理解において進化を成就 ︵5︶ させねばならない。その近代化とは、教会中心主義からキリスト中心主義へ、そして神中心主義への転換である﹂ ﹁キリスト教がそれを真の宗教と考えるならば、真性であり、真実である諸宗教が他にある可能性を認めなければ ならない﹂﹁キリスト教と他の世界宗教は諸宗教の﹃統一的多元主義﹂に参与するように呼びかけられているのであ る。そこでは真の宗教はもはや﹃神の真理﹂として絶対的に確実で、最後のもので、不変なものの上に基礎付けら 135カトリック教会の上層にいる人人は雲他宗教に対して﹁ギリスト中心主義的﹂アプロチをとることを余儀なく され、カル・ラナによる、﹁匿名のキリスト教徒﹂という概念をよく用いています。ここでは基本的にはキリ スト教の優越性を保つことと、ロマ教会の外には救いがないという教義を保持することに努力が向けられている のです。しかし一方では、他の宗教にも何か積極的なものを肯定できる道を見出そうともしています。﹁ラナの キリスト論は排他主義と普遍主義を共に肯定しようとする試みで、それはキリストの独自性の保持及び神の普遍的 ︵7︶ な救済の意志をも同時に肯定する試みである﹂。ラナによれば.方、もし救いをキリスト教に独自のものと考 えるならば、かつもしキリストを離れては救いがないとするならば、そして他方で、もし神が確かに、真に、真剣 に全ての人人にこの救いをなそうとするならば、それでこれらの二つの側面はどんな方法によっても和解されない であろう。しかし、全ての人人は神の超自然的な恵みの影響下に確かに、真にさらされていることを、述べること ︵8︶ によってのみ和解されるのである﹂。 このようにキリスト教以外の宗教における救いの力は肯定されていますが、しかし、不完全で欠陥あるものと見 なされているのです。キリスト教信仰と比較して他宗教は﹁来たるべき序章﹂であり、旧約聖書の果たした役割と ︵9︶ 似たものと見なされます。ラナーの主張によれば、キリスト教徒は他宗教の人々を単に非キリスト教徒としてで はなく匿名の、または不明瞭なキリスト教徒と見るべきで、彼らは﹁キリスト論における希求﹂に参与していて、 ︵皿︶ そこで彼らはキリストを知らずして希求しているのであります。 カトリックによるもっと急進的なアプロチはレイモンド・パニッカの著書﹁ヒンズ教における見知られざ ︵、︶ るキリスト﹂によってなされています。ある程度はラナのようにパニッカはヒンズ教を﹁キリスト教の入 | 〃 | ﹄ ﹄ ︼ ︶ れてはいないのである﹂。
咲 か せ よ う 、 対 話 の 花 を ノ ︵型︶ 口の門﹂と述べています。しかしパニッカにとっては、他宗教との出会いによってキリスト教神学は反省をすべ きであるとも言っています。﹁キリストとはキリスト教徒間における、永遠なるものと一時的なものとの間の媒介者 ︵週︶ である。それを他の宗教においては、イスバラ、如来、ヤウェ、アラ等と呼ぶのである。諸宗教間の真の出会 いにとって障害となるのは、キリスト教徒がキリスト︵救世主︶とイエスとの独善的同一対応を主張するときであ ︵皿︶ る。つまりそれはキリスト教徒にとっては当然の信念であるが、ヒンズ教徒にとっては信じ難いものである。し かし、非現実的かつ不必要なことは、他の伝統がその伝統遺産を放棄してキリストを受け入れることをその伝統に ︵鴫︶ 期待したり要求することである﹂。 ︵略︶ パニッヵは﹁普遍的なキリスト論﹂を、と訴えかけています。そのキリスト論はロゴス・キリスト論として知 られているものですが、それは第四の福音書によっているのです。よりラジカルなロゴス・キリスト論がジョン・ ︵Ⅳ︶ コップによって出されていますが、それは特に﹁多元主義時代におけるキリスト﹂という本に表わされています。 コップの信ずるところによると、一方では超越的神に焦点をあてることによって、ちょうどヒックが推奨していた 説のように我我をこの世から引き離しあの世へと引き込むのです。そして一方では、神の現前に焦点をあてること によって我我と世界との間において我々の関心を人間へと向けさせるのです。コップによれば、たとえどこでそれ が起ころうともキリストは創造的変革のためのひとつの楽塁別として理解されるべきなのです。この理由として彼の 信じるところは、キリスト教信仰が第一義的に要求していることは﹁信じている全てのことを根源的に問い、そし ︵肥︶ て異質な考えに対して自己を批判的に開くこと︵オプンすべきこと︶である﹂。コップは我我に対話を超えること を要求しています。が、それは我我が実在している信仰伝統の根源的変革に対して自己をオプンすることによっ て可能となるのであります。 13?
コップの最近の仕事で優れている点はそのような根源的変革を明示してしることなのですが、いかに仏教やキリ スト教が相互に変革できるかということを非常に詳細に書き表わすことによってそれを明示している点でありま す。例えば彼の議論によると、仏教の浬薬や空の悟りは完全な受容とかオプンネス︵開性︶として理解すること ︵田︶ ができるが、キリスト教徒にとってそれは神を実体哲学の歪みから救い出すためにも必要なのです。 さて、三位一体の第三項について述べてみたいと思います。その見解は、人間の信仰は真の宗教間における対話 の基礎を提供するというものです。恐らく現代の神学者はウィルフレッド・カントゥェル・スミスの書物との出会 いによるほど大きな衝撃を受けなかったでありましょう。基本的には宗教学の学者で特にイスラム教の専門家であ ︵卯︶ るスミスは次第に神学的関心に目を向け、つい最近では﹁世界神学を志向して﹂というものを書いています。スミ スが神学に要求していることは宗教的多様性についての自覚であります。彼日く、﹁我我の課題は﹃我我﹂人間の宗 ︵皿︶ 教的歴史に関する、つまり我我人間の信仰史に関する神学を究めることである﹂。もっとも、我我が思うほどスミス の考えている﹁信仰﹂という概念が何を意味しているかは明瞭ではないのですが。 それは﹁自己自身に対して、そして宇宙に対しての人格の定位付けで全体的な応答であり、世界の見方であり、 世界をどう扱うかでもある。その信仰︵宗教︶とは単に通常的レベルを超えたところでの生きる能力でもある。ま ︵蛇︶ たそれは見たり、感じたり、行動したり、超越的な次元においてなされることである﹂というのです。この信仰に よって人は﹁ニヒリズムから、人間疎外・アノミ・匿名性・絶望から、あるいは無意味性という失望から救われ﹂ るのです。また、﹁不自由からの救われ、単にある組織体においてその環境に順応しているだけの存在であるという ︵魂︶ ことからの救われ﹂でもあります。スミス日く、そのような信仰は﹁人間の普遍的な本質であり、それは形では異 ︵別︶ なっているが種類としては異なっていない﹂﹁ちょうどキリスト教徒がキリスト教の形式によってまた、アンダマン
対話の花を/ 咲 か せ よ う ︵鴻︶ の島の住民もアンダマンの信仰によって救われてきたようにである﹂﹁聖パウロが、あるいはその他誰であっても、 キリスト教徒のみが救われ得ると考えるとしたら、聖パウロは誤っている﹂。しかし、このことは自分の信仰を捨て 去って無信仰になることを意味しているのではありません。スミスが述べることには、﹁まさにキリストであり、そ の神が私にキリストを通して信仰を与えて下さり、そのことが私を冒漬的な教義の信念から救い出してくれるので ある。聖パウロが次のように見、そして宣言したのは正しかった。それはキリストにおける信仰、あるいはキリス トを通しての神への信仰が救うということであった。パウロは仏陀における信仰やイスラム的パタンからの神へ の信仰について全く聞いたことがなかった。我我はこれらのことを聞き、他宗教のことについて見聞きしているの だから、その我々は喜びや湧躍を持って、そして﹁キリスト教徒の﹂喜びという意味でも以下のことを肯定しなけ ればならない。それは、神がこれらの信仰の諸形式をもって救うという事実が我我キリスト教徒の神のヴィジョン を確証するということである。そのヴィジョンとは、歴史に働きかけ罪を贈う神として、全ての男女を愛し包容す ︵妬︶ るために手をさしのべているということである﹂。 シュ。ヘルト・オグデンはこのようなことを書くことはあまりありませんでしたが、彼は共通の信仰の概念を発 展させました。チャルズ・ハトションやステッフン・トゥルミンの哲学的枠組を基礎としてオグデンが主 張しようとしたことは、我我全ての人間は前概念的であり、﹁根源的な確信を生の意味と価値の中に共有している﹂ ︵”︶ ということでした。我我が信じたり行動したりすること全ては基本的な実存的﹁確信﹂を前提としており、それに 依っているのですが、﹁その確信とは世界は最終的には意味があり、そして価値を実現しようとする我我の努力は必 ︵犯︶ ずしも空しくはない﹂ということです。この見解においてはどんな宗教もその信仰または確信を表わし、明らかに する試みであります。その信仰なり確信とは全ての人に内在しているものなのです。 139
私はここで多元主義への三つのアプロチとして共通の神・共通のキリスト・共通の信仰を提唱して来ましたが、 ご存知のようにいつの場合でも三位一体は根源的には一つであるのです。そこでコップが端的に主張するところに ︵鱒︶ よると、ロゴス・キリスト教論において呼ばれているキリストは実は神なのです。同様にスミスも﹁恥じることな く神中心的﹂であると主張しています。彼によれば、もし﹁キリスト教徒がキリストこそ彼らの生の中心であると ︵鋤︶ 主張するならば、それは我我が、神こそが宇宙の中心であるということを再発見しなければならない時﹂なのです。 オグデンにとって弓神﹂の第一義的な用法や機能が実在そのものの中の客観的根底について言及しているのである が、それは我我の存在にとって究極的に価値ある、根絶することのできない、我我の確信でもある実在にあるもの である。神はこの根源的確信の本性にあるが、その確信が肯定するところは、我我自身がその部分であると経験す る、真の全体に価値を与えるものとしての、またそれ自身を呼びさますものとしての、まさにその確信なのである。 そこで、神という言葉はどう呼ばれようとこの経験された全体であり、その全体は我我の根源的かつ不可避の信頼 ︵劃︶ に訴え、正当化するものである﹂。 いかなる過程神学者であれ、また今日のその他の多くの人人であれ同様に主張をするでありましょうが、人間の 経験そのものの根源となるものは前認識的信仰関係で実在に根拠づけられ、その根拠づけられた実在は我我の経験 やその実在に関する考えをも共に超越しているのです。諸宗教の第一義的な機能はいろいろな在り方を対応づけ発 展させるのですが、このいろいろな存り方とは前に述べたような根源的信仰を明瞭化し、ドラマ化し、そして明確 化することなのです。このように全ての宗教伝統は真理の道、在り方であると主張することは正しいのですが、ど の宗教伝統もそのような真理あるいは救いの恵みを独占しているという主張は正しいとは言えません。故に、どの 伝統にいる人も他の人人と希望と期待を持って会話を交わすことができ、その希望と期待は彼ら自身の信仰に基づ
対 話 の 花 を / 咲 か せ よ う これらの問題の中で最も顕著なものは宗教的優越性︵最高絶対性︶とその結果としての独善性と倣慢さをいかに 克服するのかというものです。あるレベルにおいては宗教的至高性は高度に美しくかつ望ましいことです。恐らく 誰もが感じていることでしょうが、ある意味ではその集団や教派、信仰伝統がその人人にとって少なくとも現時点 では最上のものであり、それ故彼らは他の人人と有意義なことを分かちあう何かを持っているというのです。もし も自分自身にとって何ら有意義でないならば、信仰共同体に属していることは極めて馬鹿げているでありましょう。 そしてもしその人が持っている光が何であれ他の人人からそれを隠すのであれば、そのことは密儀小共同体的︵カ ルト的︶と言えましょう.問題が生じる時は、自分の宗教共同体とその光が全ての人人にとって最善の道で全 ての人人はちょうど我我のようであるべきだと要求するときでしょう。 キリスト教の場合、最高絶対性の問題が焦点となるのはキリスト論においてであります。ニッタによれば﹁今 日他宗教とのより広範な宗教協力に関する対話によって神学者のみならず、一般のキリスト教徒も共に認めざるを 得なくなりつつあることがある。それは、教会という概念だけでなくキリストの理解もまたこの対話の妨げとなっ ているということである。今日カトリックの神学者は一つの情勢に傾きつつあり、キリスト論を基礎としたキ いてお話しをしましょう。 望と期待のもとになされるのです。 しているのです。つまりその会話は自分自身のそして自分の信仰伝統の変革へと導いてくれるであろうという希 三主な諸問題 ここで諸問題をより深く発展的に語る時↓間がありませんか簡単に諸宗教間の対話に関する三つの主な問題につ ﹃ユ n月堅公 ﹃10人
︵鋤︶ リスト教の普遍的要求に疑問を投げかけはじめているのである﹂。 キリスト論へのアプロチの中で宗教的リ録へラルに対し最も説得力のあるものはハンス・クングによる帰納的か つ歴史的、批判的方法であります。彼は疑いもなく革新的なカトリック教徒として有名な人です。残念ながらクン グの結論は、有意義な対話へと導くようなことはほとんどありそうもないのです。クングの主張によれば、キリス ト論はイエスの生涯に関する純粋に歴史的な認識であります。クングの見解では、神のキリストにおける顕現︵イ ンカネション︶は次の事実の神話的表現に過ぎないのです。その事実とは﹁神とキリストとの関係は初めから ︵詔︶ 存在し、神はご自身の中にその基礎を持っておられる﹂ということです。世界諸宗教は﹁普遍的救済史における救 ︵弧︶ いの道であるが、それは一般の救済の道である⋮﹂と彼は述べています。クングはラナの概念111匿名のキ ︵弱︶ リ忽卜教徒という考えを非キリスト教徒に対して無遠慮であり、攻撃的であるとして拒否しています。にもか かわらずクングの方法では彼に、イエスは偉大な諸宗教における他の創唱者よりも優れていると結論づけさせるの ︵邪︶ ︵師︶ です.あるいは、他の宗教の人人は﹁前キリスト教徒﹂であるという見解に立っています。彼らの立場はある種 の成就理論になってしまっていますが、そこにおいては他宗教においてよいことは何であれキリスト教によっての ︵犯︶ み完全な実現がもたらされるのです。彼が前提としていることは、キリストは全ての宗教の最後の規範であり、他 ︵調︶ の宗教伝統もまた救済の道ではあるが、﹁単に相対的な意味においてである﹂ということです。 これに比べてジョン・コップによるロゴス・キリスト論は、宇宙的キリストを創造的変革に対するキリスト教に おいての名前であるとしています。そのキリスト論は対話や会話のためにより将来性のある基礎を提供し、そこで の参加者は他者から学ぶことに対し根源的に開かれています。そしてはじめの方で述べましたごとく、コップ自身、 仏教徒の信仰が心底まで捧げきったキリスト教徒たちに与えたものに衝撃を受けたのであります。
対 話 の 花 を ノ 咲 か せ よ § しかし、キリスト論への第三のアプロチはヒックとオグデンによるものであり是それ唯あるし億一実存的﹂と 名づけられるかもしれません。ヒックにとってキリストの特異性は純粋に祈祷的な、そして主観的な機能にありま す。ヨイエスは私の主であり、救世主である。﹄というのはあたかも恋人の言葉のようである。それは、例えぱへし ︵㈹︶ ソがこの世で一番愛しい女であると思う人の発する言葉である﹂。キリストの特異性は生命と救いへの一つの道に対 する個人的な応答なのであり、それは絶対化すべきではなく、また文字通りの命題とすべきものでもありません。 ﹁我我がキリストを敬うのは、彼を通じて我我が救いを見出してきたからであり、それは神と人間との間に存在す ︵似︶ る救いの接点が他にあったということを否定することではないのである﹂。 同じ様にオクデンは実存的、または﹁我我にとっての﹂という意味のキリストを強調します。彼日く、﹁パゥロに よるキリスト論の形成の全てにわたって根底に流れるものは、明らかにナザレのイエスの歴史が決定的な再表現、 つまり、旧約聖書によって表されたものと同様の約束と要求の再表現を肯定しているのである。⋮.このように﹃主 イエス・キリスト﹂という言葉によってパウロが意味したことは本質的には実際の宣言であり、それは無償の愛の 約束と要求を、一人の人間の命においてなされたことなのである。この無償の愛こそ、力であり、権威であり、全 ての人間に究極的な忠誠の宣誓をすることを促すものである﹂﹁イエス・キリストの主なる権威における専有性が真 に意味するものは、神の主なる権威が働く所ではどこでも:⋮・当然どこにおいても:::﹃我我にとっては﹄イエス ︵蛇︶ において再表現された、同じような約束と要求であるという形式以外とり得ることは出来ないのである﹂。 このように、一方ではキリスト論がキリスト教徒と他の宗教との真の開かれた対話の障害になるのですが、適切
に宗教協力的に理解されるならば震た、キリ爽卜の王なる権威が実存的であれ宇宙的であれその
ように解決される﹂ならば、キリスト教徒の意義ある対話への参加を禁ずる必要はないのです。 143他者に対しての独善主義や倣慢さが特にキリスト論の本質でありましたが、この問題はキリスト教徒だけの問題 ではありません。このことを最近つくづくと感じましたのは、私が仏教徒の著名な学者の講議を聞く機会があった 時です。彼はヒンズ教の伝統の中で育った人です。彼はスワミ・ラマクリシュナ・ヘダヴェダンタンタ協 会の会員ですが、ゴタマ・ブッダの生涯を非常にすばらしく紹介しました。それは仏教が全てのものにとって有 益な信仰であるというはっきりとした意図を持って講演されました。彼の主張の中で脈に落ちない点は、仏教の浬
盤の概念、無の体験の背景にば、ブラフマンでトマンに関するヴ葉ダソ霞の理解や体験があるという
ことでした。仏教の中心の教えはまさにヴェダンタの教義によって歪められていました。その教義こそ仏教徒 が意識的に取り組象抵抗してきたものなのです。伝統的にヴェダンタの人は、他の諸宗教に対してかなり寛大 な立場をとって来ていますが、彼らはヒンズ教の中に包括することによってその立場をとっていたのです。ちょ うどラナや他のカトリックの人人にとって、ヒンズ教徒や他宗教の人人は﹁匿名のキリスト教徒﹂であり、 ヴェダンタの人人にとっては、キリスト教徒や他の宗教の人人は、﹁匿名のヒンズ教徒﹂なのです。 キリスト教やヒンズ教の中に、宗教的最高絶対性についての動的で明瞭な表現が多く見られます。しかし、W ︵粥︶ cc︵世界数会協議会︶のS・I・サマルタが指摘しているように﹁その他に非対話的態度がある﹂のです. それぞれの宗教伝統の人人によくあることですが、他の宗教の人人に注目もしなければ聞こうともしないのです。 何故ならば、自分達の在り方に自己満足しているので他の宗教の人人と対話をする必要がないと考えているからで す。どの伝統であれ、自己没入的カルト︵小宗教共同体︶はこのような傾向があります。 私がここで明確にしたい別の問題は、諸宗教間との対話と、神学と世俗の合理主義との対話との関係です。単に 現代生活の事実として、たいていの神学者、東洋の宗教伝統からの神学者を含めて皆、少なくとも啓蒙思想の子で咲 か せ よ 会 対話の花を/ あると同様にそれぞれの宗教伝統の子であるということです。宗教的感性と世俗性との関係はここでは扱うには あまりにも複雑な問題ですが、しかし指摘したい点は、この対話は神学者間のことであるのと同じように、信仰の 代表と理性の代表との間の対話でもあるのです。より明確な在り方において、この対話が宗教的、または文化的伝 統間の対話のモデルになることができるかもしれないということです。つまり、現代世界において、私と他の多く の者とを、また合理的な伝統と宗教伝統とを一緒にさせるように、ポスト・モダンの世界では恐らく西洋と東洋の 宗教伝統が一緒になるでありましょう。 しかし、諸宗教間の対話によって、伝統的な宗教の一主張を相対化させられたり、それと縁を切ることを要求さ れるように、世俗的合理主義に関する神話も、修正されたり放棄されたりしなければならないのです。これらの神
請麹斗に証蕊言可蝿緬議航鐘蝋童含監証雌愚噛瀞Lい聴鞠鯨壷噛霊,瑚噸奮適冒鰐帆師僑漁濯塵
であります。かつて、様々に世俗主義者たちが宗教の死の提言をしたのは有名であります。全ての宗教は進歩によっ て全て掃き消されるであろうと考えられ、全ての人人は宗教という幻想を脱ぎ捨て、単純に世俗的な信仰に適応す るであろうとも考えられました。この点において彼らは明らかに誤っていました。また、多くの人に解ってきたこ とは、宗教的な諸問題は以前考えられていた以上に複雑で人間にとってより根源的であるということでした。 その上、迷信を捨て去ることによって人間は多かれ少なかれ自動的にこの世の重要な問題を解決し得るであろう ︵“︶ という確信は、見せかけだけの誤った希望であることが解ってきました。 現代の世俗主義におけるその他の神話の中で急速に姿を消しつつあるのは、客観的分離の神話であります。物理 学の客観的な方法はあらゆる人文科学をそのうち乗取ってしまうであろうし、また、客観性は個人の信仰や判断に よる信頼に取って代るであろうと思われていたのです。今日多くの人々の間で理解が進んできていることですが、 145物理学でさえも価値や前提そしてかそ考えられて提情念に対し中立なも:ある影響を受けないと合
理的には見なされなくなっています。まさに、純粋に客観的で、主観から分離された中立の認識という概念は仮面 がはがされ、もったいぶった信念の主張であるとされたのです。しかしながらこの概念は非常に威力のある重要ながはがされぇも ものであります。 このように西洋の世俗的ヒュマニズムは、あるものには究極的に、あるものはより予備的なものとして人々 が忠誠心をあずけるものです。それは人人が信仰つまり人生に意義を見い出してきたものによって生きた体系を構 成しているのです。しかし、ヒュマニズムも一つの信仰です。ヒュマニズムそのものとしては、宗教の在り方 に反対の立場であると言うより、むしろ宗教と併存し、内在する立場にあります。そのヒュマニズムは一つの在 り方であり、宗教間の対話から取り残されるべきではないのです。 ここで言えることは全西洋における宗教的なものと世俗的なものの二分法は、啓蒙主義の二元論の所産であると いうことです。その二元論とは自然と超自然でありそして馬鹿げたアイディアではありますが、宗教は超自然的な ︵妬︶ ものの別領域に関係あるというのです。世俗的ヒュマニストによって宗教が超自然の領域に、つまり非存在であ ると考えられる領域に陥らされる限り、彼らは宗教者との有意義な対話に加われる可能性はほとんどありえません。 最後に私にとって最も重要な問題とは、ほとんど全てのことがからんでくる問題です。それは、諸宗教間におけ る話し合いにおいて、精神の出会いがほとんどあり得ないという決意の問題です。つまり重要な問題は本質主義者 の見解であり、それは西洋と東洋の両方の哲学伝統の中に見出されるのです。それはスミスの﹁根源についてのビッ ク.、ハン﹂と呼ぶものの背景にあるものであり、それはキリスト教の、または仏教の生活と思想の真の形成と本質 は、歴史的な始まりにおいて見出されるということによるものです。その理論によれば、﹁宗教は歴史に付け加えら咲かせよ鼻 対 話 の 花 を ノ れたもので、外からこの時間の世界に注入されてきた何かであり蕊また多かれ少なかれ安定した余分なものとして 残っているものである。それは人人にはある程度純粋なものとして手に入るが、いかに原形に近いかに依存してい ︵蛸︶ るのである﹂。この見解においてはオリジナルな︵始源的な︶ものは真なるものです。このように真のキリスト教を 理解するためには、イエスの教えに帰さなければならないし、仏教を理解するにはゴタマの教えに、イスラム教 を理解するにはコランの始源に帰さなければならないということです。 その問題は、しかしながら始源に関する固定化よりもっと深く、もっと一般的なのです。それは理想主義的見解 あらゆるものは本質と偶有性という点で理解されるべきであるという見解そこでば物事の不変の本質砿そ の真なるもの、つまりその最も真なるもの、最も価値ある存在であり、それ以外の存在は単なる偶有性で見せかけ の不純なものであるということです。このように我我は﹁真の﹂自己にあこがれ、キリスト教の、あるいは、ユニ テリアン・ユニヴァサリズムの本質を追究し、キリスト教における永遠なるもの、つまり善を一時的なもの、は かないものから区別するのです。更に、神というような言葉は意味されてきたことのみを意味することが出来るこ とを主張し、そして宗教の本質的な本性を追究するのです。このような概念の背景の全体には形而上学的な前提が あります。その前提とは、理想的な世界はある具体的、歴史的な個人や事件等、現実の世界より真実で価値ある世 界で、そういった見解前提は全く非経験主義的であり、反歴史的であるということです。 心ある人にはすぐに解ることですが、キリスト教徒あるいは仏教徒であるとはどういう意味なのかということに 対する答えは、その事柄、時や場所によって異なります。同様にキリストと浬桑も共に不変の実在ではなく、異なっ た人間が異なった時や場所で経験し、その信仰を表現した在り方でありましょう。歴史、つまり宗教伝統の時間的 広がりと生活は、ある理想の堕落ではなく、その伝統の豊かさであります。しかしときには確かに倒錯された在り 147
方であったり、ときには有益と判断される在り方に現れるのですが、それでも常にその伝統を豊かにしているので す。宗教伝統が本質的に不変であると考えられている限り、また、﹁神﹂や﹁信仰﹂という言葉の意義が永遠の石碑 に刻まれていると考えられる限り、真の話し合い、つまり変革される話し合いの可能性は、異なった伝統間におい てはそれが始まる以前に閉ざされているのです。さて、取り急ぎ二、三の結論に入りたいと思います。
まず第一に我我縦信仰を少なくとも我鎌自身の信仰を根源的な確信と希求の事嫡として見るべきで過
ると私は思います。その確信を我我が適切に表現できる概念的体系を持っているか否かは別として、その確信にお いて我我が知っていることは、人生に価値を見出し、そして我我が決断し、選択し、行動することによって相違が 生ずるということなのです。その希求において、我我は個人的にも集団的にもどこへ行くのかは解らないけれども、 我我の生は継続して豊かになっていきますが、それは他の人の体験、知恵、生活に触れ合っていこうとすることな のです。我我の確信は倣慢へと導かれることもありませんし、我我の問いは我我自身のものとしての信仰や伝統が ないということを言っているのでもありません。しかし我我の信仰、我我の宗教的確信と希求は共にある根底を我 我に与えるのですが、その根底の上に立ち他者との交わりをせよと導くのです。 第二に、私にはそう思えるのですが、我我が他の宗教的伝統や世界諸宗教を単に興味の対象や距離をおいて眺め る文化対象としてではなくむしろ我我の見識II世の中を見る別の見方として我我を助ける在り方としてそ れらを見始めることができるのです。ヒンズ教を理解するためにヒンズー教と呼ばれるものを見ることのみが必 要なのではなく、我我は世の中をできる限りヒンズ教の眼でもって見る必要があるのです。ちょうどヒンズ教四結論
咲 か せ よ 鼻 対 話 の 花 を / 基本的にはただ二つの理由があります。ひとつには世界がより良くなるためであり、もうひとつにはあなた方か 私がより良くなるためであります。少なくとも、我我が宗教的アイデンティティを狭義の﹁我我﹂と、いう限定さ れた意味に基づくものとして必要とするのと同様、世界はより広義の﹁我我﹂を必要とするのです。小さくなりつ つある我我の世界では、人間の生存は恐らく、また人間の向上は確実にそこにいる人人に依存しています。その﹁我 我﹂の意味するところは少なくともこの地球上の我我人間であり、ここ数世紀間の人間に対してであります。私が ﹁少なくとも我我人間﹂と言うのは、西洋の人間が仏教との出会いによって学び得る一つのことが﹁我我生きとし 生けるものは﹂ということだからであります。 そのことは我我の求めている世界の健全さの象ならず、同様に我我自身の健全さでもあるのです。このように他 宗教の伝統との話し合いを通して私自身を豊かにし、かつ自己の変革をもします。充分御承知のことでしょうが、 仰の中にのゑ現われるのです鱈︾ ことが簡単で間違いや誤解がないというのではなく、そのようなことは不可能ではないということです。 信仰、あるいはイスラム教の信仰の何かについて知ることができるのです。ここで私が言いたいのは、そのような
の伝統実践教義聖典あるいは芸術等を知ろうとする時人は上そ翼︲教の信仰毒たばユダヤ教の
最後に、宗教的多元主義への我々の姿勢は多種多様の花を咲かせようとするものであり、さらにそれらに養分を 与えようとするものであります。我我が共通な人間の信仰を持っている限り、その信仰は現実の人人の歴史的な信 宗教伝統の諸相は複雑さとその膨大さにおいて全く我我を当惑させます。中国仏教の大蔵経だけでも百巻以上あ り、各巻は千・ヘジもあるのです。何故悩ませられるのでしょうか?何故全く困惑させられるような仕事にとり かかる頁ノと、するのでしょ弓一かへ〆 u﹀ ’川詮 ﹃lエ私の見識はせいぜい部分的であり、文化や宗教的感性や限られた私の経験によって限定されてしるでしょう¥私ば キリスト教を完全に理解できるとも思っていませんし、ましてや仏教やヒンズ教においてをやです。しかしこの ことが、常に他の人人との出会いにおいては真実なのです。私のことについては私の一番身近な友人でも、また自 分自身さえも完全に理解していません。しかし他者と共にあることにより私が豊かになり、より全体的になり、さ らにはより神様のようになることを期待しているのです。 私は、将来に何がもたらされるかを知りません。どんな変革された宗教が諸宗教間の対話や協力を通して生じて 来るかを私は知りません。しかし一つだけ確信が持てることは、ちょうど今日のキリスト教が仏教やユダヤ教の信 仰が過去にあったのとは根源的に異なっているように、諸宗教間の対話が明日には今日とは全く異なった世界を創 造しているであろうということであります。 註 胃墓富]時のQ○四口貢ぐ①﹄]陣己昏雲自冒と負菖計自冨さ、武自ぎゐ具。、ど電言﹄四・①壱三四”ごく①の画風ロの芹①門司3朋雲邑曽︶当ロ予巨管后9 画罰具︶の耳zのぐ富①︾国︲青目宮。邑智包尋⑮ロミミ。苫︵シ弓四国夢z・侭︾めどz忠勺﹃①m通乞駕︶. 四勺囚匡]弓匿]、ゴ︾食目彦①盟函口薗omp8a号①国一m8qa”の一侭ご旨めさ﹃吾のの望牌①日胃﹄、弓︸]の○一○四四口︾︾蔑口]①﹃囚匡○国同国ロ①同︾ のg8H︾国胃罰ミ穂旦印一億。鼠倉の君尽日言函、日田四目詞○急︾后3 ﹄]○ヶロ四一の戸︾のCQ配房﹄︷冒葛廷乏回蒼鴎令三一回Q①冒己三回蝿三どの的骨日冒異閏勺昂のの︾こぎ︶︺の、ロ①n芦煙匡竜口馬塁︾烏︾鴎︶胃置 ⑰.勺四匡一嗣冒旨閏︾︽6耳﹄の庁冨昌一耳四の閃①一億一○口︾目吋匡の曽己シ房○︸具の、P両○日回国○四吾○]﹄o勺閏gのg﹄ぐ①︾ご冒冨胃、①四国一四Qの回目。 口四ぐ﹄・自国g︾&弓国弓言耳冴記、一崎一○苫U﹄苫冒Q鼠邑ご言○言冴昏苫国迦言昌喧乞の君国○時め①号巨ご刃①$こぎ︶︾ロ届 ︻ロ旨胃︾のく﹄の言の富ぐの胃の目①〆冨目且言四g鳥追寺○罫亀邑舌蒼亀津Qミ、ミ曽さ亀且。否爵誉苫陛詳曽§切目ミ園ミ 善雨ミミミ罰里崎ざ昌彦富q戸口○二z氏”○号房画○○房.乞囲︶
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1. Wilfred Cantwell Smith, Towards a World Theology (Philadelphia : Westminster Press, 1981), p. 7-11, 19-20.
2. Robert Neville, The Tao and the Daimon (Albany, N. Y., SUNY Press, 1982).
3. Paul Tillich, "The Significance of the History of Religions for the Systematic Theologian," in Jerald C. Brauer,
editor, The Future of Religions (New York : Harper and Row, 1966).
4. John Hick, God Has Many Names (Philadelphia : Westminster Press, 1980), especially p. 22-24, 42, 83, 104.
5. Paul Knitter, "Christianity as Religion : True and Absolute? ARoman Catholic Perspective," in Mircea Eliade and
David Tracy, editors, What is Religion? An Inquiry for Christian Theology (New York : Seabury Press, 1980), p. 16.
Knitter's views have been expanded in a book, No Other Name? A Critical Survey of Christian Attitudes Toward
the World Religions (Maryknoll, N. Y.: Orbis Books, 1985).
6. Ibid., p. 19.
7. Lucien Richard, 0. M. I., What Are They Saying About Christ and World Religions? (New York : Paulist Press,
1981), p. 35.
8. Karl Rahner, "Christianity and the Non-Christian Religions," in Theological Investigations, Vol. V (Baltimore :
Helicon Press, 1966) p. 123.
9. Knitter (note 5 above) p. 16, and Richard (note 7 above) p. 29-35.
10. Karl Rahner, "The One Christ and the Universality of Salvation," in Theological Investigations, Vol. XVI (New York : Seabury Press, 1979), p. 222.
11. Raymond Panikkar, The Unknown Christ of Hinduism (London : Darton, Longman & Todd, 1964). This book has been completely revised to express the author's changing views (Maryknoll, N. Y.: Orbis Books, 1981).
12. Panikkar, The Unknown Christ of Hinduism, in Hick and Hebblewaite (note 11 above) p. 140.
13. Raymond Panikkar, The Trinity and the Religious Experience of Man (New York : Orbis Books, 1973), p. 54. 14. Panikkar, "The Unknown Christ of Hinduism," in Hick and Hebblewaite (note 5 above) p. 145.
15. Panikkar, The Unknown Christ of Hinduism (note 12 above), p. 43.
16. Panikkar, "The Category of Growth in Comparative Religion : A Critical Self-Examination," Harvard Theological Review 66 (1973), p. 128 ; cited in Richard (note 7 above) p. 37.
V 17. John B. Cobb, Jr., Christ in a Pluralistic Age (Philadelphia : Westminster Press, 1981).
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18. John B. Cobb, Jr., Beyond Dialogue : Toward aMutual Transformation of Christianity and Buddhism (Philadelphia
© : Fortress Press, 1982), p. 46.
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19. John B Cobb, Jr., "God and Buddhism," in David Tracy and John B.Cobb, Jr., Talking About God : Doing Theology
lO i n the Context of Modern Pluralism (New York : Seabury Press, 1983).a 20. Wilfred Cantwell Smith, Towards a World Theology (Philadelphia : Westminster Press, 1981).
22. Ibid., p. 113-14.
23. Ibid., p. 168.
24. Ibid., p. 122. 25. Ibid., p. 168.
26. Ibid., p. 171.
27. Schubert M. Ogden, The Reality of God (New York : Harper & Row, 1963), p. 34.
28. Ibid., p. 140.
29. Cobb, Beyond Dialogue (note 18 above)p. 45.
30. Smith, Towards a World Theology (note 20 above) p. 177. 31. Ogden, The Reality of God (note 27 above) p. 37.
32. Knitter, "Christianity as Religion" (note 5 above) p. 17.
33. Hans Kiing, On Being a Christian (New York : Doubleday, 1976) p. 446.
34. Hans Kiing, "The World Religions in God's Plan of Salvation," in Joseph Neuner, editor, Christian Revelation and
World Religions (London : Burns & Oates, 1967), cited in Hick, God Has Many Names (note 4 above) pp. 34-35. 35. Kiing, On Being a Christian (note 33 above) p. 98.
36. Ibid., p. 147, 265.
37. Kiing, "The World Religions in God's Plan of Salvation," (note 34 above) p. 55, cited in Hick, God Has Many Names (note 3 above) p. 35.
38. Ibid., p. 113. 39. Ibid., p. 104.
40. John Hick, "Christ's Uniqueness," Reform (1974) p. 18, cited in Richard, What Are They Saying About Christ
World Religions? (note 7 above) p. 24.
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42. Ogden, The Reality of God (note 27 above) p. 202-203.
43. S. J. Samartha, "Introducing a Discussion," in S. J. Samartha, editor, Living Faiths and Ultimate Goals (New York : Orbis Books, 1974)p. xiv.
44. Smith, Towards a World Theology (note 1 above) p. 145-47.
45. Ibid., p. 52-54. 46. Ibid., p. 154-55.