鈴 木 修 学 の 社 会 福 祉 活 動 と 信 仰 に 関 す る 一 研 究
法華経に
み る 社 会 福 祉 実 践 の 理 念 と は
野
口
康
彦
はじめに
I鈴木修学の生涯(社会福祉実践と法華経の伝道のあゆみ)
H 鈴 木 修 学 の 社 会 福 祉 実 践 理 念 の 特 色
m 法 華 経 に み る 社 会 福 祉 実 践 の 理 念 と は
おわりに
231 変 わ る も の な の だ ろ う か 。 社 会 科 学 と し て の 社 会 福 祉 が 成 立 す る の は 、 わ が 国 の み な らず他国においても、20世紀に入ってから と み な さ れ て い る 。 人 間 の 尊 厳 性 と 平 等 性 が 、 国 家 に よ り 権 利 と し て 保 障 さ れ た 現 代 社 会 ゆ え に 必 要 と さ れ 、 ま た 形 成 さ れ て い っ た こ と が 大 き な 背 景 と な っ て い る 。 し か し な が ら 、 社 会 福 祉 の 成 立 以 前 に 展 開 さ れ た 慈 善 家 や 篤 志 家 、 あ る い は 宗 教 者 に よ る 人 間 愛 を 基 盤 と し た 救 済 活 動 に も 、 普 遍 的 な 福 祉 の 哲 学 を 見 い だ す こ と が で き る の で はないだろうか。 本 稿 で 紹 介 す る 鈴 木 修 学 は 、 大 正 期 か ら 昭 和 に か け て 活 躍 し た 社 会 事 業 家 の 一 人 で あり、法華経を信奉する宗教家でもあった。 彼 は 、 自 ら が し た 社 会 事 業 と 宗 教 活 動 を 通 し て 、 法 華 経 の 要 諦 を 社 会 福 祉 実 践 に 具 現 化 さ せ た 一 人 で あ っ た と も い え る 。 こ の 論 文 の 中 心 と な る と こ ろ は 、 鈴 木 修 学 師 の 社 会 福 祉 実 践 と 宗 教 活 動 の 事 績 を た ど る こ と で あ る 。 そ こ を 起 点 と して 、 法 華 経 に お は じ め に 近 年 、 わ が 国 の 社 会 福 祉 に 関 す る 動 向 は め ま ぐ る し い 。 そ の 最 た る も の は 、 社 会 福 祉基礎構造改革(1998)であり、その改革 の目玉ともいえる介護保険の導入(2000) で あ る だ ろ う 。 社 会 福 祉 サ ー ビ ス 分 野 に お け る 公 的 責 任 の 見 直 し と 民 間 活 力 の 活 用 論 は、1979年の「新経済社会7ヵ年計画」に 端を発し、1980年の臨時行政調査会を契機 とする。そこから、国民の自助努力、家族・ 近 隣 の 相 互 扶 助 連 帯 を 重 視 し た 日 本 型 福 祉 社 会 が 具 体 的 に 提 起 さ れ は じ め る よ う に な っ た 。 や が て 、 高 度 経 済 成 長 を 前 提 と し た 福 祉 国 家 シ ス テ ム の 破 綻 、 急 速 な 少 子 高 齢 社 会 へ の 対 応 、 福 祉 ニ ーズ の 多 様 化 と い っ た さ ま ざ ま な 要 因 に よ り 、 現 在 の 社 会 福 祉 施 策 の 構 築 が さ れ た の で あ る 。 こ の よ う に 、 社 会 福 祉 の 法 ・ 制 度 に つ い て は 、 時 代 と 共 に 変 わ っ て い く も の 、 変 わ る こ と を 迫 ら れ る も の が あ る 。 だ が 、 果 た して 社 会 福 祉 の 理 念 や 価 値 あ る い は 思 想 はけ る 社 会 福 祉 実 践 の 理 念 を 考 察 す る こ と に、この小論の目的がある。 な お 、 原 理 的 研 究 を 含 む い わ ゆ る 仏 教 福 祉 論 に つ い て は 、 多 く の 仏 教 学 者 に よ り 論 ぜ ら れ て い る の で 、 本 論 で は 措 く こ と に す る 。 だ が 、 実 際 に 社 会 福 祉 の 現 場 に 従 事 す る 者 と して 、 あ えて 仏 教 福 祉 論 に つ い て 苦 言 を 呈 す る な ら ば 、 論 旨 の 多 く が 抽 象 的 ・ 哲 学 的 な 観 念 論 に 終 始 して い る 感 は 否 め な い。上田(1994)が指摘しているように、 慈 悲 心 が 社 会 福 祉 の 中 心 と な る 理 念 で あ る と さ れ た り 、 ま た 歴 史 上 の 仏 教 的 慈 善 が 無 条 件 に 賛 美 さ れ 、 社 会 問 題 と して の 貧 困 の 認 識 が な い ま ま 仏 教 福 祉 に つ い て 論 ぜ ら れ て い て も 、 そ れ は 、 今 日 の 社 会 科 学 と して の 社 会 福 祉 と は 異 な っ た 立 場 に あ る と 認 め ざ る を え な い 。 社 会 福 祉 に 携 わ る 多 く の 援 助 職 者 に 必 要 と さ れ る 理 念 や 価 値 は 、 地 道 な 実 践 の 積 み 重 ね に よ り も た ら さ れ る と 筆 者は信ずるからである。 I 鈴 木 修 学 の 生 涯 ( 社 会 福 祉 実 践 と 法 華 経 の 伝 道 の あ ゆ み ) 冒 頭 で も 述 べ た が 、 鈴 木 修 学 は 優 れ た 社 会 福 祉 の 実 践 者 の 一 人 で あ り な が ら 、 宗 教 家 ・ 僧 侶 で も あ っ た 。 修 学 が 社 会 福 祉 活 動 を 展 開 す る に あ た っ て そ の 精 神 的 支 柱 と し た の は 、 仏 教 の 精 神 で あ り 、 中 で も 法 華 経 を そ の 旨 と して い る 。 こ こ で は 、 鈴 木 修 学 が 法 華 経 の 実 践 と して 臨 ん だ 社 会 福 祉 活 動 に つ い て 、 修 学 の 生 涯 と 共 に そ の 系 譜 を 追 ってみたい。 1 少 年 時 代 か ら 青 年 期 、 杉 山 辰 子 と の 出 会 い 鈴 木 修 一 郎 ( 修 学 の 本 名 。 後 に 得 度 し 修 学と改名)は明治35(1902)年1月5日、 232 愛 知 県 江 南 市 に 、 父 鈴 木 徳 太 郎 、 母 さ わ の 長 男 と し て 誕 生 し た 。 父 徳 太 郎 は 農 業 と 菓 子 問 屋 を 経 営 し て お り 、 ま た 法 華 経 の 篤 信 家 で も あ っ た 。 母 さ わ も ま た 神 仏 を 篤 く 敬 う 人 物 で あ り 、 修 一 郎 の 家 庭 環 境 に は そ の よ う な 宗 教 的 な 背 景 が あ っ た と い う 。 小 学 校 、 そ して 旧 制 古 知 野 尋 常 小 学 校 の 高等利・を卒業した修一郎は家業の菓子問屋 を 継 ぎ、 一 時 期 は 商 売 の 取 引 先 の 地 域 を 拡 大 す る な ど か ら 、 相 当 な 利 益 を 上 げ た こ と も あ っ た が 、 つ い に は 失 敗 して し ま う 。 借 金 を 抱 え 込 ん だ 修 一 郎 は 、 今 度 は 愛 知 県 勝 川 町 の 固 パ ン 製 造 業 に 住 み 込 み で 働 く こ と に な り 、 2 年 ほ ど の う ち に 固 パ ン の 製 造 技 術 を 習 得 す る 。 地 元 に 戻 っ た 修 一 郎 は 固 パ ン の 製 造 工 場 を 建 て 、 菓 子 問 屋 の 頃 の 販 売 網 を 生 か し て 売 り さ ば い た 。 こ れ が 大 当 た り して 、 菓 子 問 屋 時 代 の 借 金 も 一 年 ほ ど で 返済し、多額の貯蓄も出来るようになった。 若 く 、 富 も あ る 修 一 郎 は や が て 幾 っ か の 趣 味 に 熱 中 す る よ う に な る が 、 同 時 に 言 い 知 れ ぬ 不 安 も 感 じ て い た 。 そ れ は 、 菓 子 問 屋 で の 失 敗 が あ っ た よ う に 、 修 一 郎 は 自 分 の 不 安 定 さ か ら 、 生 き て い く こ と へ の 不 安 に 気 づ い た と い う 。 そ れ は 、 本 当 の 幸 せ は 何 か 、 永 久 に 崩 れ る こ と の な い 幸 せ は な い ものか、というこころのゆらぎでもあった。 や が て 修 一 郎 は あ る 人 を 介 し 、 当 時 仏 教 感 化 救 済 会 の 会 長 を 務 め て い た 杉 山 辰 子 と 出 会 い 、 教 化 さ れて 入 会 す る こ と に な る 。 こ こ で、 修 一 郎 の 人 生 に 多 大 な 影 響 を 与 え る 杉 山 辰 子 に つ いて 多 少 ふ れて お き た い 。 杉山辰子は慶応4(1968)年に岐阜県笠 松 町 の 油 商 の 家 に 次 女 と して 生 ま れ た 。 仏 教 感 化 救 済 の 設 立 に 至 る ま で の 動 機 と 経 緯 は 、 本 人 が 信 徒 へ の 講 話 の 中 で 述 懐 す る 所
に よる と お お よそ 次 の 様 な も の で あ る 。 辰子は19歳の時、天眼通を得、それによ っ て 悪 化 し つ つ あ る 人 心 を 善 導 し よ う と 志 す も 挫 折 。 水 行 ・ 断 食 を 四 十 余 回 行 う が 、 少 し も 善 導 の 道 を 知 る 事 は で き な か っ た と い う 。 次 に 仏 教 の 教 典 を 絡 き 、 更 に は 名 古 屋 市 内 の 僧 侶 に 就 いて 仏 道 の 修 行 を 積 み 、 難 行 苦 行 の 結 果 、 天 神 通 に 達 す る こ と が で きたという。辰子は講話の中で、「真の仏道 修 行 と は 、 精 神 的 に 物 質 的 に 国 家 の 為 、 人 の為に尽くす修行をする事」と述べている。 明治42(1909)年、辰子は村上斎と共に、 名 古 屋 市 内 に お い て 仏 教 感 化 救 済 会 を 組 織 し 、 本 格 的 に 社 会 事 業 に 専 念 す る よ う に な る 。 当 時 の 仏 教 感 化 救 済 会 の 活 動 内 容 は 、 貧 児 の 養 護 、 被 虐 待 児 の 保 護 、 生 活 困 窮 者 の 援 助 並 び に 施 療 等 で あ っ た と さ れ て い る。大正6(1917)年には名古屋市内にら い 病 患 者 を 収 容 す る 施 設 を 建 て て い る 。 杉 山 辰 子 が 社 会 事 業 を 行 う に あ た って、 そ の 理 念 と し た も の は 法 華 経 の 精 神 で あ っ た 。 辰 子 は 信 者 へ の 講 話 の 中 で 、 幾 度 と な く法華経の一節を引用し、「過去、現在、未 来 を 通 じ 釈 尊 御 一 代 の 教 典 中 最 上 位 の も の で 、 一 切 衆 生 成 仏 す る の は 此 の 妙 法 蓮 華 経 に よ る よ り 外 に 道 は な い 」 と 法 華 経 の 信 仰 と 実 践 す る こ と の 大 切 さ を 説 い て い る 。 ま た 、 辰 子 は 栄 活 の 場 に お け る 法 華 経 の 具 体 的 な 実 践 の 方 法 に つ い て 、 六 波 羅 蜜 の 修 行 を す る こ と だ と 話 して い る 。 さ ら に 、 こ の 六 波 羅 蜜 を 一 般 の 信 者 に も わ か り や す く す る た め に 、 慈 悲 、 ま こ と 、 堪 忍 の 三 つ に 集 約 し 、 講 話 で も 度 々 用 い て い る 。 こ の よ う に 、 辰 子 は 社 会 事 業 の 実 践 に お い て も 法 華 経の精神を基にし、「L止のため人のために尽 くし」、「徳を積み妙法蓮華経を唱える」こ と で 自 ら の 幸 福 を 得 る こ と を 強 調 し て い た。 2 仏 教 感 化 救 済 会 入 会 と 社 会 事 業 の 事 蹟 修 一 郎 が 杉 山 辰 子 に 教 化 さ れ 法 華 経 に 入 信したのは、大正13(1924)年であった。 杉 山 辰 子 か ら の 言 葉 を 通 し て 法 華 経 を 学 ん だ 修 一 郎 は 、 自 ら も 寝 た き り の 病 人 に 布 教 を 行 い 、 そ の 病 人 力 快 復 す る 現 証 を 得 る な ど の 体 験 か ら 、 そ の 信 仰 心 は 次 第 に 確 固 た るものになった。 そ の よ う な 修 一 郎 で あ っ た が 、 固 パ ン 製 造 と い う 仕 事 と 信 仰 の 両 立 の 困 難 さ を 覚 え は じ めて い た 。 や が て 結 婚 を し た も の の 、 わ ず か の 年 月 で 離 婚 す る こ と に な り 、 つ い に 修 一 郎 は 仏 教 感 化 救 済 会 へ の 入 会 を 決 意 する。昭和3(1928)年修一郎27歳の時で あった。 昭和4(1929)年、修一郎は杉山辰子の 姪でもあり養女でもあった、みつと再婚し、 福 岡 市 の 生 の 松 原 に あ っ た ら い 病 療 養 所 の 責 任 者 と し て 赴 任 し た 。 だ が 、 大 変 な 苦 労 も 虚 し く 、 結 局 は 赴 任 か ら 2 年 後 、 財 政 的 な 問 題 に て 療 養 所 は 身 延 山 の 深 敬 病 院 分 院 と 合 併 す る こ と に な り 、 修 一 郎 夫 婦 は 名 古 屋 へ 帰 っ て き た の で あ る 。 修 一 郎 に と っ て 療養所でのjf4こ験は厳しい試練であり、それ は 教 訓 と な って 次 の よ う に 残 さ れて い る 。 ・ 窮 す れ ば 通 ず と い う 言 葉 の 通 り 、 真 心 を も っ て 社 会 事 業 を す れ ば 、 助 け て く れ る 人 が た く さ ん 現 れ る 。 そ し て、 事 業 は な せ ば 成 る も の で あ る 。 ・ 社 会 事 業 の 経 営 は 、 一 方 に 収 入 の 道 を 考 え 、 生 涯 の 道 を 開 い て 、 そ の 収 入 に 比 例 し て 事 業 を 行 う こ と が 堅 実 である。 233
・ 世 間 の 人 々 の 理 解 と 大 き い 援 助 の も とに事業を進めていくべきである。 次 に 修 一 郎 に 与 え ら れ た 任 務 は 、 不 良 青 年 の 教 護 で あ っ た 。 愛 知 県 知 多 郡 阿 久 比 村 において、非行少年17名を預かり、共に農 作 業 を し な が ら 、 救 護 指 導 を 行 う と い う も の で あ っ た 。 修 一 郎 は 率 先 して 農 耕 に 精 を 出 し 、 青 年 だ ち と 寝 食 を 共 に し 、 よ く 語 り あ っ た 。 開 墾 し た ば か り の 土 地 に も か か わ ら ず、 期 せ ず して 大 豊 作 と な り 、 収 穫 し た 約50俵の米は一升袋に入れられ、名古屋市 内 の 貧 困 者 に 配 ら れて 大 変 喜 ば れ た 。 そ の 光 景 を み た 青 年 た ち は 自 分 た ち の 作 業 の 尊 さを思い、感激を味わうとともに、自イ言を 取 り 戻 し て い っ た 。 そ う し て 、 家 族 や 社 会 の 人 だ ち か ら も 喜 ば れ る 人 間 に 変 わ っ て い ったという。 一 方 、 仏 教 感 化 救 済 会 で は 、 増 加 す る 信 徒の育成指導のため、昭和3(1928)年に 仏 教 修 養 団 を 結 成 し 、 修 一 郎 が 幹 事 長 と し て就任した。昭和6(1931)年修養団は仏 教 感 化 修 養 団 と 改 称 さ れ 、 修 一 郎 は 機 関 紙 な ど の 編 集 に 携 わ る な ど し た 。 ま た 同 年 に は 、 被 虐 待 孤 児 を 収 容 す る 社 会 事 業 施 設 千 種寮を開設している。 昭和7(1932)年、杉山辰子が65年の生 涯 を 終 え た 後 、 仏 教 感 化 救 済 会 二 代 目 会 長 に は 村 上 斎 が 就 任 し た 。 村 上 は 組 織 強 化 の t必要性から教化部門を「大乗修養団」、社会 事 業 部 門 を 「 大 乗 性 恩 会 」 に そ れ ぞ れ 改 組 した。 また、修一郎の努力もあって、昭和9(19 ) 年 に 大 乗 報 恩 会 は 財 団 法 人 の 認 可 を 得 、 正 式 に 財 団 法 人 大 乗 報 恩 会 が 発 足 し 、 理 事 長 に 杜 上 斎 、 常 務 理 事 に 修 一 郎 が 就 任 し 、 仏 234 教感化救済会の事業を継承した。修一郎33 歳の時であった。 同 年 、 社 会 事 業 施 設 と し て 、 愛 知 県 猪 高 村 藤 森 に 貧 困 家 庭 の 児 童 や 孤 児 を 収 容 す る 養 護 施 設 明 徳 寮 が 開 設 さ れ た 。 後 に 藤 森 寮 と 改 称 さ れ 、 名 古 屋 市 中 区 ( 現 昭 和 区 ) 駒 方 町 に 新 校 舎 が 建 設 さ れ る と 、 藤 森 寮 と 千 種 寮 を 統 合 して 駒 方 寮 と 名 付 け ら れ た 。 昭和11(1936)年には、仏教感化修養団 が 仏 教 樹 徳 修 養 団 の 名 称 を 経 て 、 大 乗 修 養 団 と 改 称 、 翌 年 に 財 団 法 人 の 認 可 を 受 け、 修 一 郎 は 常 務 理 事 に 就 任 す る 。 ま た 、 同 年 は 本 部 の 中 心 と な る 大 乗 会 館 の 竣 工 が あ り 、 順 次 本 部 関 連 の 建 物 の 建 設 が 行 わ れて いった。 大乗修養団の布教活動がi刮生化する一方 で、 社 会 事 業 活 動 も 活 発 に な って い っ た 。 昭和12(1937)年に駒方保育園が開園され、 ま た 保 育 園 児 及 び 収 容 児 童 の 健 康 管 理 の 充 実を図るため、駒方診療所(内科・小児科) が開設された。このような施設の建設には、 福 祉 ・ 教 育 ・ 医 療 は 宗 教 活 動 を 進 め て 行 く 上 に お い て 切 り 離 して は 考 え ら れ な い と い 引【苔一郎の見解があったという。 戦 時 下 に お け る 既 成 宗 教 団 体 以 外 の 宗 教 団 体 へ の 弾 圧 は 大 乗 修 養 団 と て 例 外 で は な かった。[|冊日18(1943)年大乗修養団本部 は 、 治 安 維 持 法 違 反 容 疑 で 特 別 高 等 警 察 の 手 入 れ を 受 け た の で あ る 。 高 齢 の 村 上 会 長 の代わりに修一郎が拘留され、それは58日 間 に も 及 ん だ 。 釈 放 さ れ た 修 一 郎 を 待 っ て いたものは、「修養団は宗教団体として認め な い 。 宗 教 活 動 を や め て 社 会 事 業 に 専 念 せ よ 」 と の 特 高 か ら の 申 し 渡 しで あ っ た 。 法 華 経 の 布 教 活 動 を 禁 止 さ れ た 修 養 団 で あ っ たが、昭和19(1944)年に大乗報恩会は名
称 を 財 団 法 人 昭 徳 会 と 改 め 、 修 一 郎 は 戦 火 の 下 信 徒 へ の 対 応 や 施 設 の 維 持 運 営 に 奔 走 した。 3 日 蓮 宗 法 音 寺 の 誕 生 終戦の翌年、昭和21(1946)年修一郎は 日蓮宗の僧侶となるため得度し、「修学」と 改 名 し 、 毬 号 を 泰 山 院 日 進 と 号 す る こ と に なった。また、昭和23年には身延山の信行 道 場 で 修 行 を 修 了 し 、 日 蓮 宗 寺 院 の 住 職 と なる資格を得ている。 昭和22年、二代目会長村上斎が死去した 後 、 三 代 目 会 長 に 就 任 し た 修 学 は 財 団 法 人 大 乗 修 養 団 を 発 展 解 消 さ せ 、 日 蓮 宗 昭 徳 教 会を新たに設立した。昭和25(1950)年昭 徳 教 会 は 法 音 寺 と 寺 号 を 公 称 す る こ と に な り 、 修 学 が そ の 住 職 と して 就 任 し た 。 そ の よ う な 布 教 活 動 の 基 盤 を 固 め る 一 方 で 、 修 学 は 社 会 事 業 活 動 も 着 々 と 発 展 さ せ ていった。昭和21(1946)年、名古屋養育 院 の 事 業 経 営 を 継 承 し 、 主 に 戦 災 孤 児 の 養 護にあたった。昭和24(1949)年には、精 神 薄 弱 児 収 容 施 設 ハ 事 少 年 寮 の 経 営 を 杉 田 直 樹 名 古 屋 大 学 教 授 よ り 引 き 継 ぎ 経 営 す る ことになった。ハ事少年寮は児童の定員120 名、職員27名という当時としては大きな規 模の施設でもあった。後に、昭和27(1952) 年に開設された精神?単弱児の職業指導・生 活指導を行う光明寮と昭和40(1965)年に 統 合 さ れ 、 三 好 学 園 と して 新 た に 出 l 発 を す ることになる。また、昭和25(1950)年に 地 元 の 自 営 業 者 ら の 要 望 に 応 え る 形 で 、 光 徳 寺 保 育 園 を 開 園 して い る 。 昭和27(1952)年の社会福祉事業法の施 行 に 伴 い 、 財 団 法 人 昭 徳 会 は 社 会 福 祉 法 人 昭 徳 会 と な り 、 そ の 後 も 多 く の 施 設 を 建 設 していくことになる。 235 4 学 校 法 人 法 音 寺 学 園 の 設 立 鈴 木 修 学 の 社 会 事 業 活 動 の 多 く は 社 会 福 祉 施 設 の 運 営 と い う 形 と な り 、 そ の 充 実 は 愛 知 県 下 で も 有 数 の も の と な って い っ た 。 そ れ に 並 行 し て 、 修 学 は 各 種 関 係 団 体 の 要 職 も 務 め る よ う に な っ た 。 そ し て 、 修 学 は 民 間 と し て は 最 初 の 社 会 福 祉 の 大 学 で あ る 中 部 社 会 事 業 短 期 大 学 (後の日本福祉大学)を名古屋市に設立する ことになる。昭和28(1953)年であった。 こ の 中 部 社 会 事 業 短 期 大 学 設 立 に は 、 社 会 福 祉 の 実 践 と 同 様 に 社 会 福 祉 の 科 学 化 ・ 専 門 化 の 必 要 性 を 修 学 が 感 じ て い た 背 景 が あ ったという。 中 部 社 会 事 業 短 期 大 学 の 建 学 の 精 神 を 、 修 学 は 次 の よ う に 述 べ て い る 汀 中 部 社 会 事 業 短 期 大 学 は 、 そ の 根 本 精 神 と して 、 高 く 清 き 宗 教 的 信 念 に 根 を お ろ し た 教 養 が 積 ま れ る 場 所 で あ り た い と 願 う の で あ り ま す。 一 中 略 こ の 悩 め る 時 代 の 苦 難 に 身 を も っ て 当 た り 、 大 慈 悲 心 ・ 大 友 愛 心 を 身 に 負 う て 、 社 会 の 革 新 と 進 歩 の た め に 身 す る 志 の 人 を 、 こ の 大 学 を 中 心 と し て 輩 出 さ せ た い の で あ り ま す。 そ れ は 単 な る 学 究 で は な く ま た 、 自 己 保 身 栄 達 の み に 々 た る 気 風 で は な く 、 人 類 愛 の 精 神 に 燃 えて 立 ち 上 が る 学 風 が 本 大 学 に 満 ち れ た る も の で あ り ま す。 釈 尊 の お 言 葉 、 我 が 如 く 等 し く して 異 な る こ と 無 か ら し め ん と 欲 ず こ の 一 偶 を精神的根源としたいのであります」(『御 開山上人伝』法音寺)。 その後、中部社会事業短期大学は昭和32 (1957)年に日本福祉大学へと発展し、当時 と して は 日 本 に お け る 唯 一 の 社 会 福 祉 系 の 四 年 制 大 学 で あ っ た 。 し か も 、 勤 労 者 に も 勉 学 の 機 会 を 与 え る た め 、 夜 間 部 の 設 置 に
も 踏 み 切 っ た の で あ る 。 こ う して 、 法 音 寺 学 園 は 、 付 属 高 校 、 女 子 短 期 大 学 、 経 済 学 部 、 大 学 院 の 設 置 と 更 な る 発 展 を 遂 げ、 総 合大学として今日に至る。 自 ら の 生 涯 を 法 華 経 の 広 宣 流 布 と 社 会 事 業 活 動 に 捧 げ た 修 学 で あ っ た が 、 昭 和 3 7 (1962)年6月5日、日本福祉大学付属立花 高 等 学 校 事 務 室 に お い て 脳 出 血 で 倒 れ 、 そ の3日後他界した。修学61歳であった。 I I 鈴 木 修 学 の 社 会 福 祉 実 践 理 念 の 特 色 修 学 が 生 き た 時 代 は 、 慈 善 事 業 か ら 社 会 事 業 へ 、 そ して 社 会 福 祉 へ と 社 会 福 祉 が 大 き な 転 換 を 迎 え た 時 期 で あ っ た 。 戦 後 、 社 会 福 祉 の 法 ・ 制 度 が 新 憲 法 の 制 定 に よ り 変 革 を 迎 え よ う と も 、 修 学 自 身 は 常 に 法 華 経 の 精 神 を 社 会 福 祉 実 践 の 基 盤 と して い た と 思 わ れ る 。 こ こ で は 、 法 華 経 の 具 現 者 で あ っ た 修 学 の 社 会 福 祉 実 践 の 特 色 に つ い て 述 べてみたい。 修 学 が 法 華 経 の 中 に 社 会 福 祉 実 践 の 理 念 を み い だ して い た と 思 わ れ る 端 的 な 例 と し て 、 中 部 社 会 事 業 短 期 大 学 の 設 立 に 際 して の、「建学の精神」が挙げることができるだ ろ う 。 修 学 は 「 我 が 如 く 等 し く して 異 な る こ と 無 か ら し め ん と 欲 す 」 と い う 法 華 経 方 便 品 の 一 偶 を 引 用 して い る 。 こ の 一 偶 は 、 修 学 が 信 徒 に 行 う 講 話 に も 度 々 出 て く る も の で あ り 、 例 え ば 虐 待 を 受 け た 児 童 を 保 護 し た 時 に も こ の 言 葉 を 思 い 出 し 、 傷 つ い た 子 供 た ち に 優 し く ふ れて い っ た と い う 。 そ こ に は 、 同 じ 人 間 と して 対 等 な 立 場 で 傷 つ い た 人 々 へ 援 助 を して い こう と す る 修 学 の 人問愛が表出されている。 また、「建学の精神」にある「自己を捧げ 236 ることを惜しまぬ志」を持って、「社会の革 新 と 進 歩 の た め に 身 す る 人 を 育 て る 」 と の一文には、「我れ身命を惜しまず」という 法 華 経 如 来 寿 量 品 の 精 神 が 窺 え る 。 社 会 福 祉 の 法 ・ 制 度 が 未 整 備 だ っ た 時 代 に あ っ て 、 民 間 の 社 会 事 業 家 と し て 、 自 ら の 生 活 を 犠 牲 に し 、 時 に は 命 を か け て 他 者 へ の 物 質 的 ・ 精 神 的 援 助 に 献 身 し た 修 学 ゆ え 、 こ の 「 建 学 の 精 神 」 に は 特 別 な 思 い が 込 め ら れて い る の で は な い か と 考 える 。 修 学 は 杉 山 辰 子 に 教 化 さ れ て 法 華 経 を 信 仰するようになったが、その動機について、 修 学 は 次 の よ う に 回 想 し て い る 汀 仏 教 を 好 きになったのは、仏さまの教えを信じれば、 自 分 も 親 子 ・ 兄 弟 も 皆 、 仏 に 成 る こ と が で き る と い う こ と を 杉 山 先 生 か ら お 聞 き し た か ら で す。 そ の 時 私 は 非 常 に 嬉 し く 感 じ ま して 、 そ れ 以 来 こ の 仏 さ ま の 教 え 、 法 華 経 を信じるようになったのであります」(『御 開山上人御法話集』法音寺)。人間は誰でも 仏 に な る 可 能 性 を 有 す る 、 つ ま り 人 間 に は 仏 性 が 備 わ っ て い る と い う 修 学 の 宗 教 観 は 、 そ の ま ま 社 会 福 祉 の 実 践 へ 、 そ の 理 念 が 引 き 継 が れ て い っ た 。 修 学 は 社 会 福 祉 の 理 論 を 特 別 に 学 ん だ 専 門 家 で は な か っ た 。 む し ろ 宗 教 家 と して 、 法 華 経 の 行 法 を 社 会 事 業 に 具 現 化 し た も の と 思 わ れ る 。 こ の 様 な 意 味 で は 、 修 学 は 法 華 経 を 目 で 読 む 人 で は な く 、 身 で 読 む 人 で あ っ た と 言 え る だ ろ う。 か つ て 、 修 学 は 杉 山 辰 子 に 「 あ な た が 社 会 事 業 を や っ て 苦 労 し た ら 妙 法 蓮 華 経 が わ か る 」 と 言 わ れ た と い う 。 修 学 は そ の 辰 子 の 言 葉 を 思 い 出 し 、 信 徒 へ の 講 話 の 中 で、 「 に れ る 浮 浪 児 た ち の 面 倒 を み て い る う ち に 、 い い 所 を 見 っ け て ほ め る こ と が 子
供 だ ち と の ふ れ あ い に と っ て 大 事 な こ と だ と わ か り 、 そ う す る こ と に よ っ て 法 華 経 が わ か っ た 」 と 述 懐 して い る 。 こ の エ ピ ソ ー ド に み ら れ る よ う に 、 修 学 の 法 華 経 観 は 観 念 的 な 理 論 の 説 明 に 終 始 す る も の で は な く 、 具 体 的 な 経 験 の 提 示 に あ っ た 。 修 学 に と っ て 、 社 会 福 祉 の 実 践 こ そ が 法 華 経 を 体 解 す る 最 も 適 切 な 方 法 で あ っ た と 言 え る の ではないだろうか。 Ⅲ 法 華 経 に み る 社 会 福 祉 実 践 の 理 念 とは 鈴 木 修 学 の 社 会 福 祉 実 践 理 念 の 特 色 を 踏 ま え た う えで 、 法 華 経 に み る 社 会 福 祉 実 践 の 理 念 に つ い て 、 筆 者 の 私 見 も 交 え 、 若 干 の考察を行いたい。 1 一 人 の 人 間 と し て 尊 重 す る こ と 1981年の国際障害者年を契機に、わが国 で も 認 識 が 広 が っ た ノ ー マ ラ イゼ ー シ ョ ン の 理 念 は 、 社 会 福 祉 の 実 践 原 理 と して も 中 心 的 な 位 置 を 占 め る よ う に な っ た 。 こ の ノ ーマ ラ イゼー シ ョ ン の 理 念 の 基 盤 に は 、 「人間の尊厳」を「平等」「発達」「個別性」 目固と環境の関係性」などから具体化してい く特徴がある(中野、1998)と考えられて いる。 法 華 経 に お い て 、 こ の 人 間 の 尊 重 を 具 体 的 に 説 い て い る の は 、 常 不 軽 菩 品 第 二 十 で あ ろ う 。 そ こ で は 、 常 不 軽 菩 が 道 行 く 人々に対して、「われ深く汝らを敬う。あえ て軽慢せず。所JIUjj剛可ん。汝らは菩 道 を 行 じ て 作 仏 す る こ と を 得 べ し 」 と 一 心 に 礼 拝 を 行 う 姿 が 述 べ ら れ て い る 。 森 永 (1975)は、このような常不軽菩 の精神的 態 度 を 「 か か る 人 間 性 の 尊 重 や 人 格 の 尊 厳 性 に お け る 基 本 的 理 念 で あ り 、 実 践 の 確 認 237 である」と説明している。 また、ノーマライゼーションの概念には、 「共に生きること」つまり、「共生」の意味 も 含 ま れ る 。 人 間 の 尊 厳 が 普 遍 的 な 価 値 を 持 ち 、 自 分 ら し く 生 き る こ と が 国 家 よ り 保 障 さ れ る こ と が 前 提 と な る の で あ る 。 常 不 軽 菩 が 礼 拝 行 を 通 し て 、 他 者 の 仏 性 を 尊 重 す る 態 度 に は 、 人 間 同 士 が お 互 い の 立 場 を 超 えて 個 人 と し て 尊 重 し あ う こ と の 大 切 さ が 説 か れて い る の で は な い だ ろ う か 。 2 援 助 す る 側 も さ れ る 側 も 平 等 ( 対 等 ) であること ノーマライゼーションの原理が、「人間の 尊 厳 」 を 具 体 化 し て い く こ と で あ り 、 そ の 中 の 一 つ に 「 平 等 」 が あ る こ と は 、 先 述 し た 通 り で あ る 。 こ こ で い う 「 平 等 」 と は 、 現 実 に 社 会 生 活 を 営 む 一 人 の 独 立 し た 人 間 と して 、 自 分 ら し く 生 き る こ と の 権 利 や 義 務 が 国 家 よ り 保 障 さ れ る こ と を 指 す も の で ある。わが国においては、憲法14条「法の 下 の 平 等 」 の 理 念 に 基 づ き 、 国 民 の 一 人 ひ と り に 社 会 生 活 を 行 う 上 で 権 利 者 と して の 「平等」が保障されている。 法 華 経 の 中 で 、 こ の 「 平 等 性 」 の 思 想 的 背 景 を み い だ せ る の は 、 薬 草 諭 品 第 五 で は ないだろうか。田村(1969)はこの章が強 調するものとして、「イムの説き明かした真理 の 平 等 一 味 と そ の 仏 の 平 等 慈 悲 で あ る 」 と し 、 そ れ を 表 す 箇 所 と して 「 如 来 の 説 法 は 一相一味なり」[仏の平等の説は一味の雨の 如 し ] と い い 、 「 我 一 切 を 観 る こ と 、 普 く 皆 平 等 に し て 彼 比 、 愛 憎 の 心 あ る こ と な し 」 「常に一切の為に平等に法を説く」といった 言 葉 を 挙 げ て い る 。 薬 草 諭 品 第 五 に 説 か れ て い る よ う に 、 平 等 性 の 原 理 と は 、 自 他 共 に 人 問 と して 等 し く 存 在 す る 価 値 を 認 め ら
れることであろう。 社 会 福 祉 実 践 に お い て 、 こ の 平 等 性 の 原 理 は 援 助 者 と 援 助 を 必 要 と す る 側 に も 適 用 さ れ る べ き で あ ろ う 。 社 会 福 祉 実 践 の 理 念 を 修 得 す る た め に は 、 援 助 者 で あ る 自 分 を 人 間 と して 成 長 さ せ る 努 力 が 、 最 初 に 必 要 なことである(橋本、2000)。言い換えれば、 援 助 の 関 係 を 通 して 、 援 助 者 自 身 が 人 間 的 な 成 長 を して い く の で あ る 。 す な わ ち 、 平 等 性 と は 援 助 す る 側 も さ れ る 側 も 対 等 で あ る こ と の 意 味 が 含 ま れ る と 考 える 。 3 い い と こ ろ を 見 つ け て ほ め る こ と 社 会 福 祉 実 践 と は 、 社 会 政 策 の 整 備 と 展 開 を 含 む 多 様 な 領 域 を 指 し 、 そ の 意 義 は 援 助 を 必 要 と す る 人 に 対 して 、 物 質 的 援 助 を 行 う だ け で は な く 、 そ こ に 人 間 と して の 自 立 と 自 己 の 成 長 を め ざ し た 精 神 的 な 援 助 を 行うことにある。イ宋学の社会事業の対象と な っ た の は 、 家 庭 や 地 域 か ら 見 捨 て ら れ 、 社 会 的 に 孤 立 し た 境 遇 に あ る 人 々 で あ っ た 。 そ こ に は 、 他 者 の み な ら ず、 自 分 さ え も 信 ず る こ と が 出 来 ず に い た 彼 ら の 姿 が 容 易 に 推 測 さ れ る 汀 い い 所 を 見 っ け て ほ め る こ と が 子 供 だ ち と の ふ れ あ い に と っ て 大 事 な こ と だ と わ か り 、 そ う す る こ と に よ っ て 法 華 経 が わ か っ た 」 と い う 修 学 の 言 葉 は 、 虐 げ ら れ た 人 達 に 自 己 の 存 在 す る 意 義 と 生 き る こ とへ の 光 明 を も た ら し た と も 言 え よ う 。 唯 一 無 二 、 そ の 人 に し か な い 内 な る 輝 き を 見 出 し 、 そ れ を 言 葉 に で き る 実 践 者 は 極 め て 稀 有 で あ り 、 修 学 は そ の 一 人 で あ っ た。「いい所を見つけてほめる」ことは、社 会 福 祉 援 助 の み な ら ず、 すべ て の 対 人 援 助 者 に 共 有 さ れ る 実 践 理 念 で あ り 、 同 時 に 法 華 経 の 要 諦 を 顕 現 し た 言 葉 で も あ ろ う 。 238 お わ り に 社 会 福 祉 は 、 理 論 と 実 践 の 両 輪 に お い て 成 立 す る 専 門 領 域 で あ る と い う の が 、 実 際 に 現 場 に 携 わ る 筆 者 の 考 えで あ る 。 筆 者 が 鈴 木 修 学 師 の 事 蹟 に 関 心 を 持 っ た 動 機 に は 、 法 華 経 の 信 仰 も 社 会 福 祉 実 践 も 同 じ よ う に 、 援 助 を 求 め る 人 に 対 し 、 お 互 い に 人 間 と して 尊 重 し あ い な が ら 、 援 助 者 は 自 分 を 最 大 の 道 具 に して 、 相 手 の 自 立 と 人 間 的 成 長 に 貢 献 す る こ と に そ の 真 髄 が あ る と 思 っているからであった。 修 学 師 は 優 れ た 社 会 事 業 家 で あ っ た が ゆ え に 、 学 問 と して の 社 会 福 祉 の 体 系 化 の 必 要 性 を 感 じ ら れ た の だ ろ う 。 中 部 社 会 事 業 短 期 大 学 、 そ し て 日 本 福 祉 大 学 を 創 設 さ れ た 修 学 師 は 、 社 会 福 祉 学 の 進 歩 に も 多 大 な 貢 献 を さ れて い る こ と は 言 う ま で も な い 。 修学師が逝かれてから、はや30余年が過 ぎ た 。 し か し な が ら 、 今 も な お 、 修 学 師 の 精 神 を 受 け っ い だ 多 く の 学 生 達 が 、 わ が 国 の 社 会 福 祉 の 一 翼 を 担 う べ く 、 学 舎 よ り 輩 出していくものと思う。 文 献 池 田 敬 正 『 日 本 に お け る 社 会 福 祉 の あ ゆ み 』 、 法 律文化社、1994年。 一 番 ケ 瀬 康 子 「 社 会 事 業 の 成 立 、 展 開 、 変 質 」 ( 仲 村 優 一 他 編 『 講 座 社 会 福 祉 2 社 会 福 祉 の 歴史』)、有斐閣、1985年。 上 田 千 秋 「 仏 教 福 祉 学 の 成 立 を 求 め て 」 ( 田 宮 仁 ・ 長 谷 川 匡 俊 ・ 宮 城 洋 一 郎 編 『 イ ム 教 と 福 祉』)、渓水社、1994年。 宇 治 谷 義 雄 「 昭 徳 会 と 法 音 寺 に お け る 仏 教 福 祉」『佛教福祉』17号、佛教大学佛教社会事業研 究所、1991年。 坂 本 幸 男 ・ 岩 本 裕 訳 注 『 法 華 経 』 、 岩 波 文 庫 、
1967年。 鈴木宗音『御開山上人伝』、法音寺、1978年。 鈴 木 修 学 編 [ 杉 山 ・ 村 上 両 先 生 講 話 集 ] 、 広 宣 寺、1957年。 鈴木修学『現代生活の指針』、青山書院、1958年。 高 橋 重 宏 「 社 会 福 祉 と ソ ー シ ャル ワ ー ク 」 ( 高 橋 重 宏 他 編 『 ヽ ノ ー シ ャル ワ ー ク を 考 え る 』 ) 川 島 書店、15)94年。 田 代 国 次 郎 「 慈 善 救 済 事 業 ・ 感 化 救 済 事 業 の 展 開 」 ( 仲 村 優 一 他 編 『 講 座 社 会 福 祉 2 社 会 福 祉 の歴史』)、有斐閣、1985年。 田村芳朗『法華経』、中公新書、1969年。 中 野 敏 子 「 ノ ー マ ラ イ ゼ ー シ ョ ン ・ 共 生 と 社 会 福 祉 」 ( 演 野 一 郎 、 遠 藤 興 一 編 『 社 会 福 祉 の 原 理 丿二思想』)、岩崎学術出、版、1998年。 橋 本 泰 子 「 ソ ー シ ャ ル ワ ー カ ー 、 ケ ア ワ ー カ ー にとっての福祉哲学」(『月刊福祉』第5号)、全 社|働、2000年、3439頁。 法 音 寺 広 報 委 員 会 編 『 御 開 山 上 人 御 法 話 集 』 法 音寺、1995年。 吉 田 久 一 『 日 本 社 会 事 業 の 歴 史 』 、 頚 草 書 房 、 1960年。 r7riedl£1nder.W.A.加m面❼卵帥Sm・❹敗/ 戸々.Prer氾(;eHa11.1960 森永松信「イム教社会福祉の意義」(田宮仁・長谷 川匡俊・宮城洋一郎編『イム教と福祉』)、渓水社、 1994年。 239