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久 富 木 成 大

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(1)

﹃書経﹄など︑古代中国の文献を見ると︑しばしば政治が農耕に

擬せられる場面に行きあ︑フのである︒そして︑そ︑うい︑うときには︑

ふしぎと天命や︑老人の知恵のことなどが︑そこで直接に話題にさ

れたり︑あるいはまた︑それらのことが行間に見えかくれすること

が多いのである︒小論においては︑まず︑古代中国における文献の︑

このような状況を︑主として﹃書経﹄によりながら辿ってみること 〃隙ロ雁 三老人の知恵と時間の構造

おわりに

註 はじめに 一社会と農耕 二時間の構造 ㈹主宰としての天 ︒〃かがみ〃

﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶ はじめに ﹃書経﹄における〃老人支配〃について

ノー︑ロノ 的時間

一社会と農耕

段︑あるいは周の宮廷社会において︑役人たちの︑言動をふくむ

生活の万般を律するのに︑その規範を農耕社会のありかたや農民の

農作業のすがたに求めることが︑しばしばおこなわれた︒例えば︑

以下のごとくである︒

○汝よく乃︵なんぢ︶の心を瓢︵しりぞ︶け︑實徳を民に施して

婚友に至れば︑王︵おほ︶いに乃ち敢へて︑大いに汝積徳あり

と言はん・乃ち戎︵おほ︶いなる毒を遠邇に畏れず︒惰農︑自

ら安んじて作勢を昏︵つと︶めず︑田畝に服せざれぱ︑越︵こ

こ︶に其︵すなは︶ち黍稜ある問︵な︶からん︒︵汝克識乃心︑

施實徳子民︑至干婚友︑王乃敢大言汝有積徳︑乃不畏戎毒子遠 にする︒そして︑その﹃うえで︑これら各々︑つまり︑農耕︒天命・ 老人の知恵などとのあいだに︑どのよ︑フな関連があり︑これらのこ とを問題にするところに︑どのような特殊な事情がかくされている のかとい︑うことを︑明らかにしてみよ言うと思︑フ︒

久富木成大

(2)

287

邇︑惰農自安︑不昏作勢︑不服田畝︑越其間有黍稜I﹃書經﹄

盤庚︶

これは︑段王盤庚のことばである︒盤庚は︑統一王朝としての段

の初代の王︑湯から数えて十九代目の段王である︒その治世は︑ほ

ぼ西暦紀元前千三百年ごろのことであった︒このころの盤庚および

段民のことをめぐって︑司馬遷は︑つぎのように述べている︒﹁帝盤

庚の時︑殿すでに河北に都す︒盤庚︑河を渡りて南し︑復︵ふたた︶

ぴ成湯の故居に居る︒迺︵すなは︶ち五遷して定まれる虎なし︒段

の民︑杏︵なげ︶きて膏︵あいとも︶にみな怨み︑徒ることを欲せ

ず.盤庚すなはち諸侯大臣に告諭す﹂︵﹃史記﹄段本紀︶︒ここに述べ

られているよ︾ソに︑段は湯王から盤庚までの十九人の王のあいだに︑

五度も遷都をおこなっている︒その理由は︑異民族の襲撃をさける

ためとも︑黄河の洪水をさけるためとも︑あるいはまた︑人心一新

のためともいわれているが︑定説はない︒遷都は︑人民に多大の犠

牲を強いるという一面があり︑盤庚のとき行われたこの五度目の遷

都も︑人民たちの非常な怨みをかつた︒そこで︑そのよ︑フな人民の

不満が出るのは︑在位の者︑つまり役人の怠慢でもあり︑役人が主

君の意見を軽視していることの反映でもあると︑盤庚は考えた︒そ

こで︑朝廷に仕える諸侯や大臣たちに告げ︑戒めたのが︑さきに﹃書

経﹄盤庚篇から引いたことばである︒在位の役人たちがそのつとめ

を怠り︑主君を軽んじるよ︑フなところがあれば︑大いなる罰をこ︑う

むることになるであろう︑と先ず盤庚はいう︒そして更に︑それは︑

あたかも怠惰な農夫が働くことをいとい︑田畑に出ないならば︑黍

︵きび︶や稜︵もろこし︶の収穫ができず︑飢えて︑大変な苦しみ ﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶

を味あわなければならないよ︑フなものだとい︑フ︒つまり︑君主の意

を︑うけて︑それを人民に周知徹底させることを役人たちは︑まるで

勤勉な農民が毎日のように田畑に出て︑心をくだいて農事につとめ

るよ竜フに︑任務に励まなければならないのであると︑盤庚はい︑フの

である︒したがって︑役人の模範的な勤務態度の規範になるものが︑

まじめに耕作に従事する農民の生活のなかにあるということにな

る︒このことに関連して︑つぎのような例もある︒

○周公曰く︑鳴呼︑君子つとめて其れ逸すること無かれ︒先︵さ

き︶に稼稽の銀難を知れば︑則ち小人の依を知る︒小人を相︵み︶

るに︑職の子は乃ち稼稽の銀難を知らずして︑乃ち逸し乃ち諺

す︒既に誕︵なが︶ければ︑否︵ここ︶に則︵おい︶て厭の父

母を侮って曰く︑昔の人︑聞知するなし︑と︒︵周公日︑鳴呼︑

君子所︑其無逸︑先知稼稽之銀難︑則知小人之依︑相小人︑職

父母勤勢稼稿︑厭子乃不知稼穏之銀難︑乃逸乃諺︑既誕否則侮

厭父母︑日︑昔之人無聞知I﹃書經﹄無逸︶

周王朝は︑殿を亡ぼした武王によって開かれたが︑その武王の死

後を嗣いだのは︑武王の子の成王であった︒このときの成王の年令

については︑まだ徽襯︵むつき︶をつけるほどの幼さであったとか︑

あるいはまた︑二十歳前後であったなどともいわれ︑定説は無い︒

また︑武王の弟の周公旦は︑このころの自分のことを︑﹁朕は明辞を

復子して︑王を敢へて乃︵つ︶がずI私は︑諸侯の長の位は嗣いだ

が︑王位をつがなかった︒︵﹃書経﹄洛詰︶﹂といっている︒しかし︑

周公が王位をつがなかったか︑ど︑フか︑とい︑うことについても︑後

世︑説が多く︑一定しない︒いずれにしても︑創立間もない周王朝

(3)

の基礎を確立するために︑周公は努力し︑相当に大きな影響を王朝

の前途に与えていることはたしかである︒ここに︑﹃書経﹄無逸篇か

ら引いた文章のことについて︑﹃史記﹄︵魯世家︶には︑﹁周公⁝:・成

王壯にして治に淫供するところあるを恐れ︑乃ち⁝⁝母逸を作る﹂

とある︒ここにいう﹁母逸﹂は︑﹃書経﹄の﹁無逸﹂篇のことである︒

この篇には︑壮年に達した成王が︑政治を怠りがちなのを︑周公が

戒めたことばを集めてあるのであるという︒ここで︑周公は以下の

ごとく︑成王をいさめる︒つまり︑為政者である君子は︑何にもま

して︑人民の苦痛を知らなければならない︒それには︑農耕につき

まと︑フ困難を知ることが必須のことであり︑その﹃うえで︑人民を治

める地位につくべきであるし︑そ︑フしてこそ人民を大切に抵うこと

ができるのである︑と︒このように︑農作業の苦しさを知ることが︑

為政者が政治を安易にとりおこなうことへの︑大きなブレーキにな

るのであると︑周公はい︑7のである︒さらに︑周公は若い人々に︑

老人を軽視してはならない︑老人を大切にしなければならないとし

て︑農耕の苦しさを知れば︑﹁昔の人︑つまり老人は何も知らないの

だ﹂︑などとい︑フものはいなくなるであろう︑とい︑7︒こ︑フして農耕

の苦しみを知ることが︑安逸な生活をいましめ︑なおかつ敬老の精

神の向上につながるのであるという︒さらに︑﹁無逸﹂篇の他の部分

では︑周公は︑つぎのよ︑フにいっている︒

○周公曰く︑鳴呼︑我︵われ︶いふを聞く︑昔⁝⁝段王⁝⁝其れ

高宗にありては︑時︵こ︶れ薑︵ひさ︶しく外に勢し︑麦に小 ① 人と聲︵とも︶にす︒其の位に即くに作︵およ︶ぴて︑乃ち亮

陰︵りやうあん︶にして三年いはざる或︵あ︶り︒其れ惟だ言

﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶ はざるのみ︑言へば乃ち雍︵冬はら︶ぎ︑敢て荒寧せずして︑ 段邦を嘉靖したれば︑小大に至るまで︑時れ怨むこと或る無し︒ 蝉︵ゆえ︶に高宗の國を享くること五十有九年なり︒︵周公日︑ 鳴呼︑我聞日︑昔⁝⁝段王⁝⁝其在高宗︑時薑勢子外︑麦萱小 人︑作其即位︑乃或亮陰︑三年不言︑其惟不言︑言乃雍︑不敢 荒寧︑嘉靖殼邦︑至干小大︑無時惑怨︑津高宗之享國︑五十有 九年I﹃書經﹄無逸︶ ここには︑周公は︑段の湯王から数えて二十二代目の段王︑段の

高宗︑つまり武丁のことを述べている︒武丁は若年のとき︑その父

親のはからいで︑庶民のなかに入って生活して農耕を経験し︑つぶ

さに農事の苦しさを味わっている︒したがって︑武丁は︑農民の苦

しみと悲しみを︑よく知り尽していた︒だから︑段王となってから︑

彼は人民に対して︑みだりに命令を発することを慎しみ︑たまに彼

の出す命令は︑非常に穏やかなものであった︒また︑収穫を得るに

は︑怠ることを許されないのが農業である︒この経験を生かして︑

武丁は︑日々︑政治をとることに精を出した︒こうしたことのおか

げで︑彼は深く人民に支持され︑怨まれることなく︑五十九年もの

長期間にわたって段王としての地位を保つことができた︒周公は︑

このあと︑ことばをついで︑以下のよ︑フにい︑フ︒

○其れ組甲に在りては︑王と惟︵な︶るを義とせず︑薑︵ひさ︶ ② しく小人と爲︵な︶る︒其の位に即くに作︵およ︶んで︑麦︵こ

こ︶に小人の依を知り︑能く庶民を保惠し︑敢へて鰈寡を侮ら

ず︒蝉︵ゆえ︶に組甲の國を享くる︑三十と有︵また︶三年な

りき・時︵これ︶より職の後の王に立つものは︑生には則ち逸

(4)
(5)

に︑農村における農耕の精神をもってせよということにほかならな

い︒そうして︑このやり方によって治めた王たちは︑そ︑うでない王

たちに比べて︑その治世の生命が格段に長いのである︒このことは︑

周公がのべているように︑実際に段王朝の歴史のなかで︑はっきり

と実証されているのである︒したがって︑農耕的精神が規範として︑

この時代には︑有効に作用していたのであろう︒中国は︑いつの時

代においても︑あるいみでそうであるが︑殿周のこの時期はことに︑

農村的な精神で中国全体が︑農村はいうまでもなく︑都市部までも

が色濃くおおわれていたのである︒

農村的︑あるいは農耕的精神の充満した︑前述のような社会の雰

囲気のなかでは︑どのような注目すべき現象が出てきたであろうか︒

それは︑この章の二番目の引用の文に︑すでに述べられていたので

あるが︑ここで︑我々はもう一度あのことを想起しなければならな

い︒すなわち︑そこでは︑周公のことばとして︑農耕の苦しみをよ

く知れば﹁昔の人︑聞知することなし﹂とい︑フような︑老人軽視の

風潮は消えてしま︑フであろう︑と述べられていたのであった︒この

ことから考えれば︑農村的な精神の支配している社会や時代におい

ては︑老人が高い地位を与えられ︑老人たちの知恵が重んじられ︑

あるいみで老人たちが支配している社会とい︑フものが出来てくるで

ある︑フ︒のちに述べるよ︑フに︑実は︑殼代から周代にかけての中国

においては︑ここに考えたような傾向が存在していたのである︒こ

のことについては︑章を改めて考察を加えることにする︒

﹃書経﹄における〃老人支配について︵久富木成大︶ ㈹主宰としての天

古代中国においては︑早くから︑天と人間との関係について︑さ

まざまの考察が加えられてきた︒そこでは︑天を何であるとみるの

かということと︑その天に対して︑人間はどう対処すべきであるか

ということが︑おもな話題となっていたのである︒そうして︑その ③ ときどきの︑この問題についての解答が︑古代中国思想史の背骨を

かたち作ってきたのだということができる︒ここでは︑﹃書経﹄にお

いてみられる︑つぎのよ︑フな天についての見方について︑種々考察

を加えてみることにする︒

○惟れ十有三祀︑王は箕子を訪ふ︒王︑乃ち言ひて曰く︑鳴呼︑

箕子︑惟れ天︑下民を陰隙して︑厭の居を相け協︵かな︶ふ︒

我︑其の葬倫の鈑︵つい︶づる紋︵ところ︶を知らず︑と︒︵惟

十有三祀︑王訪干箕子︑王乃言日︑鳴呼︑箕子︑惟天陰隙下民︑

相協厭居︑我不知其舞倫放鈑I﹃書經﹄洪範︶

これは︑周の文王が天命を授ってから十三年目にあたる年のはな

しである︒文王は︑天下に王となるとい︑フ天命を果たすことなく︑

その中途で死亡した︒そのあとを嗣いで︑王となったのが︑武王で

ある︒武王はこのとき︑段の遣民である箕子を訪ねて質問した︒そ ④ の武王が︑どうたずねたかということを︑箕子が述べているのが︑

ここに引用した文章である︒それによると︑﹁天は地上の人間を生み︑ ⑤ その人間の知らぬまに︑肉体や精神を授けて下さっている︒また︑ ⑥ 天は人間のくらしを助け︑調和のとれたものにして下さっている︒ 二時間の構造

四五

(6)

283

⑦ だがしかし︑私には天の定められた︑この地上の一定不変の道理が︑ ⑧ どのように秩序だてられているのかわからない﹂︑と武王はいってい

る︒したがって︑その一定不変の道理について︑教えてほしいと︑

武王は箕子にたのんでいるわけである︒

この︑武王のことばに明白にあらわれているよ︑フに︑天は人間を

生み︑つまり生命を与え︑そのうえ肉体と精神を授けてくれるばか

りでなく︑人間が調和した生活をいとなむための原則も︑与えてく

れる︒個々の人間が︑天の定めた調和の原則にしたがって生きると

き︑人は天の助けを受けて生きることができる︒同時にまた︑各人

がこうした調和のとれた生き方を実行するとき︑社会には秩序が生

ずるであろう︒もし︑天の定めた調和の原則にはずれた生き方をす

れば︑人は天罰を受けて死ぬことになる︒こうした状況が︑世の中

に一般化されれば︑当然のこととして︑社会は大混乱におちいって

しまうであろう︒この間の事情を︑﹃尚書正義﹄では︑つぎのように

いっている︒

○出言の是非︑立行の得失︑衣食の用︑動止の宜︑これを上天よ

り稟けざるものなければ︑乃ち譜合することを得るなり︒道を

失へば則ち死し︑道に合へば則ち生きるなり︒︵出言是非︑立行

得失︑衣食之用︑動止之宜︑無不稟諸上天︑乃得譜合︑失道則

死︑合道則生I﹃尚書正義﹄︶

言葉が正しいかどうか︑行動が理にかなっているかどうか︑衣食

の用い方が適当であるかどうか︑立ち居ふるまいが美しいかどうか︑

lこれらは︑その一部をあげて示したにすぎないであろう︒要す

るに︑人間の行為のすべてのことの規準は︑天に由来するものであ ﹃書経﹄における〃老人支配〃について︵久富木成大︶

り︑だからこそ︑それに合致したとき︑人の心身をめぐる諸状況に

美しい調和が生まれる︒それに反して︑天のさし示す調和への道を

なおざりにすれば︑混乱が生じ︑死に至るという︒人が入ごとに天

の与えた一定不変の道に従えば︑個人にも︑社会にも︑調和がおと

ずれ︑平和の空気が世の中をおおうことになる︒ところが︑その道

に反すれば︑人は死に︑世の中も乱れてしまうのである︒このよう

に︑﹃尚書正義﹄は︑武王のことばの意味を敷術して示してくれてい

る︒したがって︑結局のところ︑武王は以下のようなことをいって

いるということになろう︒すなわち︑天は︑人間とその集合体とし

ての社会を作り︑その運営のための原理をも併せて作り与えている︒

そして︑その原理を守るものを生かし︑背くものを殺すというかた

ちで︑人間と社会の生死をも規制し︑司どっている︒こうしてみる

と︑武王にとっては︑Iというよりも︑当時の人々にとってはと

いってもよいであろうが︑天はまぎれもなく︑この地上の世界を律

しているところの︑主宰者であるということになる︒

㈲〃かがみ〃

前項においてみてきたとおり︑殿周時代には︑天を主宰者とみる︑

有力な見方があったのである︒そして︑それに対応して︑地上の人

間社会には︑幸福と調和とを享受するための︑天の定めた厳しい徒

があることもわかった︒このことによって︑地上の世界には︑どの

ような事態が生じることになったであろうか︒しばらく見ていきた

いo ○王曰く︑爾︵なんぢ︶薑人なりと惟︵いへど︶も︑爾よく遠省

せず︒爾︑寧王の若︵いか︶に勤めしかを知らんや︒天︑我に 四六

(7)

成功のところを忠︵つ︶ぐ︒予は敢へて極︵すみや︶かに寧王

の圖事を卒︵を︶へずんばあらず︒蝉︵ゆえ︶に予︑大いに我 ︒000.00︒︒00︒◎○0◎ が友邦の君を化誘す︒天︑枕︵まこと︶に柔︵あら︶ざるも︑

其れ我が民を考︵いたは︶る︒予なんぞ其れ前寧人の圖功に子

︵おい︶て紋︵よっ︶て終へざらんや︒天もまた惟用するも︑

我が民を勤態すること︑疾あるが若くす︒予なんぞ敢へて前寧

人受くる枚︵ところ︶の体に子て畢︵お︶へざらんや︑と︒︵王

日︑爾惟蕾人︑爾丞克遠省︑爾知寧王若勤哉︑天瑳我成功所︑

予不敢不極卒寧王圖事︑騨予大化誘我友邦君︑天柔枕鮮︑其考

我民︑予局其不干前寧人圖功牧終︑天亦惟用︑勤忠我民︑若有

疾︑予昌敢不干前寧人牧受休畢I﹃書經﹄大詰︶

周の二代目の王︑成王のとき︑いわゆる〃三監の乱″が起った︒

王には︑おじにあたる︑管叔・察叔・霞叔と︑段の遣民の武庚とが︑

相むすんで叛乱をおこしたのである︒ここに﹃書経﹄から引いた文

章は︑成王が叛乱討伐の軍隊を前にして︑軍に誓ったことばである︒

ここで︑我々が注意すべきところは︑﹁天︑枕︵まこと︶に柔︵あら︶

ず﹂ということばと︑これとほとんど同じ意味を持っているとされ

⑨ る︑﹁天もまた惟用する﹂という文章とである︒これらは︑ともに﹁天

は信じがたい﹂︑とする︑天への強い不信の感情を表明したことばで

ある︒だが︑こうした天への不信の表明は︑当時にあっては︑珍ら

しいことではない︒しかしながら︑王によってニフしたことばが発

せられていることについては︑それがどういう事情のもとになされ

たかということについて︑も︑フすこし考えてみる必要があるである

︑可ノ︒

﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶ ○組伊曰く︑⁝⁝今︑我が民︑喪を欲せざる岡くして曰く︑天な

んぞ威を降さざる︒大命いたらざる︑と︒今︑王それいかんせ

んや︑と︒王曰く︑鳴呼︑我が生命︑天に在ること有り︑と︒

組伊かへりて曰く︑鳴呼︑乃︵なんぢ︶の皐︵つみ︶︑多くかさ

なって上に在り︒乃ち能く命を天に責めんや︒段これ即︵つひ︶

に亡びん︒乃︵なんぢ︶の功をさすに︑爾の邦に数︵はぢ︶無

くんばあらず︑と︒︵組伊⁝⁝日︑今我民間弗欲喪︑日︑天昌不

降威︑大命不蟄︑今王其如台︑王日︑鳴呼︑我生有命在天︑祀

伊反日︑鳴呼︑乃皐多参在上︑乃能責命干天︑段之即喪︑指乃

功︑不無数干爾邦I﹃書經﹄西伯賊黎︶

段王朝の末期︑悪政に苦しむ段の人々は︑紺王が天罰によって死

に︑段王朝が亡んでしまえばよいと願っていた︒人民の︑紺王に対

する︑このよミフな激しい憎しみについて︑賢相祀伊の報告を受けた

あと︑その約王は︑つぎのように答えている︒つまり︑自分は天命

によって王となっているのである︒だから︑これは人民ののぞみな

どによって左右され︑かわりうるものではないという︒この紺王の

答えは︑天命とい︑フものは一たび降ると︑それは一定不変であると

い︑フ考えに支えられている︒しかしながら︑紺王のこの言葉を聞い

たのち︑その場から下った組伊は︑以下のごとく考えたのである︒

それによると︑紺王は王としての天の定めた道に反しているではな

いか︒きっと︑天には紺の罪状が︑たくさん届いているはずである︒

なるほど一たびは︑王としての天命は降ってはいるものの︑多くの

罪状による天罰は︑これに優先するものであるはずだ︑と︒このよ

うに︑岨伊は紺王とちがって︑王としての天命は不変ではないと考

四七

(8)
(9)

夏邑︑有衆率怠︑弗協日︑時日昌喪︑予及汝皆亡︑夏徳若弦︑

今朕必征︑爾尚輔予一人致天之罰I﹃書經﹄湯誓︶

○王曰く︑古人言へることあり︒曰く︑牝難は晨︵あした︶する

こと無し︒牝難の晨するは︑惟れ家の索︵つ︶くるなりと︒今︑

商王受︑惟れ婦言これ用ふ︒職の騨祀を昏棄して苔︵むく︶い

ず︒厭の遣王父母弟を昏棄して辿︵みち︶せず︒乃ち惟れ四方

の多罪邇逃をこれ崇︵たふと︶び︑是れ長とし︑是れ信じ︑是

れ使ひ︑是を以て大夫卿士と爲し︑百姓を暴虐して︑以て商邑

に姦笂︵かんき︶せしむ︒今︑予發︑惟れ恭︵うやうや︶しく

天の罰を行はんとす︒︵王日︑古人有言︑日︑牝難無晨︑牝難之

晨︑惟家之索︑今商王受︑惟婦言是用︑昏棄厭建祀弗苔︑昏棄

職遣王父母弟不迪︑乃惟四方之多罪邇逃︑是崇是長︑是信是使︑

是以爲大夫卿士︑悴暴虐子百姓︑以姦充子商邑︑今予發惟恭行

天之罰I﹃書經﹄牧誓︶

ここに引いた二つの文章は︑前者が︑段の湯王が︑夏の傑王を亡

ぼしたときのことを述べており︑後者が︑周の武王による︑段の受

王︑つまり約王の征伐のことにふれている︒両方に共通することは︑

夏の傑︑段の紺︑ともに王としての天の定めた常道をふみやぶる行

為があり︑そのための天の罰を︑天に代って︑湯王・武王が執行す

るとい︑うことである︒こうして︑夏と段とに降された天命は︑﹁常に

子てせずI康詰﹂のことばが︑現実のこととなってしまった︒天命

について︑このような厳しい認識を︑王とその周囲の人々に与える

契機となったところの︑これらの王朝交代という大事件は︑さらに︑

どのよ︑フな影響をもたらしたである︑フか︒

﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶ ○商邑および段國の滅びしを在︵み︶るに︑惟れ徳の馨香︵けい

こう︶もて祀りて天に登聞せず︑誕︵ここ︶にこれ民怨みしに︑

庶臺酒を自︵もち︶い︑上に腫聞するを罹︵うれ︶ふるなし︒

故に天の喪を段に降し︑段のこれ逸するを愛︵を︶しむ岡︵な︶

し︒天の虐︵しひた︶ぐるに非ず︑惟れ民みづから睾︵つみ︶

を速︵まね︶きしなり︒王曰く︑封よ︑予これ絃の若く多詰せ

ず︒古人言ありて︑曰く︑人は水に監みる無く︑當に民に千て

監みるべし︑と︒今これ段その命を墜す︒我それ大いに撫を時

︵これ︶に監みざるべけんや︑と︒︵在商邑越段國滅︑無羅弗惟

徳馨香祀登聞干天︑誕惟民怨︑庶臺自酒︑眠聞干上︑故天降喪

子殿︑岡愛子殿惟逸︑天非虐︑惟民自速睾︑王日︑封︑予不惟

若絃多詰︑古人有言︑日︑人無水監︑當干民監︑今惟段墜厭命︑

我其可不大監撫子時I﹃書經﹄酒詰︶

これは︑もと段の都のあった妹邦に封じられる康叔に対して︑成

王が与えた︑いましめの言葉である︒成王は︑まず︑段の都である

商邑と︑段国全体とが亡んだ理由について述べる︒その一ばんの原

因は︑殼王をはじめとする︑段の支配者たちが︑民を治めることを

ないがしろにし︑民の怨みを無視して酒の楽しみに耽ったことであ

るという︒段王と︑その配下の段の支配者たちは︑こうして支配者

としての天の定めた常道を︑みずから破り︑改めるところが無かっ

たわけである︒そこで天の罰をこうむり︑段王に降っていた︑王と

しての天命を変えられ︑王は殺され︑段国は亡び︑国民は亡国の民

となってしまった︒このことから︑天命の不変でないことを︑新ら

しい周の支配者たちは悟ったわけであるが︑それだけではない︒さ

四九

(10)

279

らに︑以下のような役わりを︑この王朝交代劇は担わされることと

なった︒

成王は︑右の引用文のなかで︑古くからの諺を引いてきて︑その

結論としている︒それによると︑成王は︑段王朝の滅亡を︑新らし

⑪ く興った周王朝のための︑〃監″つまり鑑︵かがみ︶としなければな ⑫ らないとい︑フ︒これは︑ど︑うい︑うことである︑フか︒このことについ

て︑﹃尚書孔伝﹄では︑つぎのようにいう︒

○今これ段の紺は無道にして天命を墜失す︒我れ其れ大いに此れ

を覗て戒めと爲し︑天下をここに撫安せざる可けんや︒︵今惟殼

紺無道墜失天命︑我其可不大覗此爲戒︑撫安天下於是︶

さらに︑この﹁此れを視て戒めと為す﹂ということについて︑﹃尚

書正義﹄は︑つぎのように説明している︒

○古人︑言ありて曰く︑人は水に監︵かんが︶みること無く︑當

に民に監みるべし︑と︒水を以て監みれば︑但だ己の形を見る

のみ︒民を以て監みれば︑成敗を知るが故なり︒須らく民に監

みるを以ての故に︑今︑段紺無道︑其の天命を墜失す︒我れ︑

其れ大いに硯て以て戒めと爲し︑天下を会ここに撫安せざる

べけんや︒︵古人有言日︑人無於水監︑當於民監︑以水監但見己

形︑以民監知成敗故也︑以須民監之故︑今般紺無道︑墜失其天

命︑我其可不大覗以爲戒︑撫安天下於今時也︶

周王朝では︑段の亡びたことを︑〃鑑︵かがみ︶〃とする︒一体に︑

水鏡には︑自分の姿が写るだけであるが︑〃人民″とい︑フ鏡には︑王

の政治が成功であるか︑失敗であるかとい︑うことが写し出されるも

のである︒殿の紺王が天命を失ったのは︑己の姿を︑この〃民とい ﹃書経﹄における〃老人支配〃について︵久富木成大︶

︑フ鏡〃に写して︑自己の政治の姿を見ることをしなかったからであ

る︒結局︑周王朝は︑段の紺王の︑この失敗を︑〃かがみ〃とすべき

であるとい︑フわけである︒では︑このことは︑具体的にはどういう

ことになるのであろうか︒それは︑周王の治政の結果による人民の

反応が︑段の紺王の政治に対する人民の反応の仕方に︑重なり︑同

一の様相を呈しないようにすることである︒もし︑それら二つが重

なるよ︑フなことがあれば︑周王朝もまた︑殿王朝と同じく︑亡んで

しま︑フである︑フ︒段の紺王の過去の失敗は︑将来においてくりかえ

される可能性があるからである︒くりかえさないためには︑常に︑

〃民とい︑フ鏡″に写し出された自分の政治のよしあしを︑厳しく検

査しつづけ︑段約のそれと重なることがないよミフにしなければなら

ない︒いずれにしても︑そのためには︑﹃正義﹄にもいっているとお

り︑天下の人民を撫安することにつとめることが大切である︒

王朝交代の悲劇を︑〃かがみ〃とする考えは︑周にあっては根づよ

く︑強いものであった︒つぎにあげる文章は︑太保︑召公のことば

である︒ ◎0○︒︒◎︒◎︒◎︒◎︒◎︒◎︒◎︒◎00○︒ ○我は有夏に監みざるべからず︒また有段に監みざるべからず︒

我あへて智︵し︶らざらんや︑有夏は天命に服し︑惟れ歴年あ

りしを︒我あへて智らざらんや︑其れ延︵なが︶からざりしを︒

惟れ厭の徳を敬せずして︑乃ち早く職の命を墜︵おと︶せるな

り︒我あへて智らざらんや︑有段は天命に服し︑惟れ歴年有り

しを︒我あへて智らざらんや︒其れ延︵なが︶からざりしを︒

惟れ厭の徳を敬せずして︑乃ち早く厭の命を墜せるなり︒︵我不

可不監子有夏︑亦不可不監干有段︑我不敢智︑有夏服天命︑惟 五○

(11)

有歴年︑我不敢智︑不其延︑惟不敬厭徳︑乃早墜厭命︑我不敢

智︑有段服天命︑惟有歴年︑我不敢智︑不其延︑惟不敬厭徳︑

乃早墜厭命I﹃書經﹄召詰︶

ここに述べるよミフに︑夏も殿も相当の長期にわたって︑天下の王

としての天命を受けつづけたことは︑周の人々としても︑十分に承

知しているのである︒それとともに︑夏と段との天命が︑永遠につ

づかなかったという事実も︑よく知っているわけである︒夏や段の

亡んだときの状態に︑ある時の周の姿が︑重なり合うときがあれば︑

それは︑周の天命がおとろえ︑周が亡ぶときであるわけである︒

王朝交代の悲劇の場が︑〃かがみ〃であるとい︑うことは︑以上に述

べたところによって︑ほぼその輪郭が明らかになったように思われ

る︒いずれにしても︑ある王朝に降る天命は︑永久不変のものでは

ない︒そして︑天が天命をとり消すかどうかは︑あくまで︑天が決

めることである︒これは︑人間のあずかり知ることのできないこと

である︒したがって︑天命のことは︑人間には予測しがたい︒また︑

すでにみてきたように︑天命には︑たよることもできない︑非常に

冷たいところも︑あったのである︒しかしながら︑一たび天命を受

けて︑天下に王となった王朝が︑将来の︑天命の行方をうらなう有

力な方法がある︒それは︑過去の出来ごとである︑他の王朝の滅亡

という事件を︑〃かがみ〃とすることである︒例えば︑周王朝の︑あ

る時の姿が︑夏設の亡国の時点での姿に︑近ければ近いほど︑重な

れば重なるほど︑周王朝から︑天命をとりあげるとい︑7方向に︑天

の意志が傾きつつあるのだということを︑知ることができるのであ

る︒では︑こうした〃かがみ〃を使︑うことによって︑天命を永続さ

﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶ せることができるのである︑7か︒答えは︑もちろん︑〃否″である︒ あくまで︑天命は一定不変ではなく︑人間である王にとっては︑た よりきることのできない︑冷やかなところのある存在なのである︒ このことについて︑つぎのような例について︑みておきたい︒

○君爽︑弗弔なる天︑喪を段に降し︑段すでに其の命を墜し︑我

が有周すでに受く︒我れまた敢へて智︵し︶らざらんや︑職の

基︵もとゐ︶は永く体に孚︵ふ︶するを︒これ天︑枕︵まこと︶

に柔︵あら︶ざれば︑我れまた敢へて智らざらんや︑其の終り

は不群に出でんことを︒︵君爽︑弗弔天︑降喪子殿︑殼既墜其命︑

我有周既受︑我不敢智︑厭基永孚子休︑若天柔枕︑我亦不敢智︑

其終出子不群I﹃書經﹄君爽︶

これは︑周公のことばである︒天下を統治すべき天命は︑段から

周に移った︒受命のはじめは︑それが永久であると思うのも︑やむ

をえない︒しかし︑天が何者であるかを冷静になって考えるとき︑

周公もいっているよ管フに︑﹁その終りは不祥に出ずる﹂︑つまり︑王

朝の末路には︑亡国という忌まわしい出来ごとが厳然として存在し

ているとい︑うことを︑誰も否定することは︑できないであろう︒そ

れは︑あたかも︑人間が死からまぬかれるものでないことと同じよ

うなものである︒主宰者である天が︑天命をつかさどる以上︑王朝

もまた︑亡国とい︑うことを︑まぬかれるものではありえない︒それ

は︑ここに周公もいっているよミフに︑天は人間にとって︑﹁天まこと

にあらず﹂というような存在であるからである︒したがって︑亡国

の時は未来にあって︑それが時の経過とともに︑確実に近づいてく

るわけである︒それを︑すこしでも遅らせる働きをするのに役に立

(12)

277

つのが︑過去のことに属する︑〃かがみ″にほかならない・ ㈱時間

古代中国の人々の︑天がこの世の主宰者であるという認識につい

ては︑すでにこの章の冒頭においてみてきたごとくである︒この主

宰者に由来するところの諸々の秩序が︑どのようなものであり︑い

かにして定まったかということについて︑中国では古代からの伝説

があり︑それが人々に深く信じられていた︒そのことを︑﹃書経﹄洪

範篇では︑段の遣民︑箕子のことばとして︑以下のごとくいう︒す

なわち︑天が禺に〃洪範九檮″とよばれる︑九種の大いなる法を与

え︑これによってこの世の物事に秩序が立てられ︑その結果︑不変

の道理が確立した︒このよ︑フに伝えられているが︑ここでは︑その

〃洪範九濤〃のうち︑時間にかかわることについて︑考えてみたい︒

○五紀︒一は歳︵とし︶と日︵な︶︑す︒二は月と日す︒三は日と

⑬ 日す︒四は星辰と日す︒五は暦數と日す︒曰く︑王の省︵かへ

り︶みるは惟れ歳・卿士は惟れ月︒師尹は惟れ日︒歳月日︑時

︵これ︶易︵みだれ︶無ければ︑百穀もって成り︑又︵まつり

ごと︶もって明にして︑俊民は以て章らかに︑家はもって平康

なり︒日月歳︑これ既に易︵みだ︶るれば︑百穀もって成らず︑

又はもって昏にして明ならず︑俊民はもって微にして︑家はも

って寧からず︒庶民は惟れ星︒星に好風あり︒星に好雨あり︒

日月の行には︑則ち冬あり夏あり︒月もし星に從へば︑則ち風

雨あり︑と︒︵五紀︑一日歳︑二日月︑三日日︑四日星辰︑五日

暦數︑日︑王省惟歳︑卿士惟月︑師尹惟日︑歳月日︑時無易︑

百穀用成︑又用明︑俊民用章︑家用平康︑日月歳︑時既易︑百 ﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶

穀用不成︑又用昏不明︑俊民用微︑家用不寧︑庶民惟星︑星有

好風︑星有好雨︑日月之行︑則有冬有夏︑月之從星︑則以風雨

I﹃書經﹄洪範︶ ⑭ 五紀︑つまり時間にかかわる五つのものとして︑ここでは︑以下

のものを挙げている︒その一は︑歳︑すなわち年︑その二は月︑そ ⑮ の三は日︑その四は星辰︑その五は暦法︒ここでは︑結局のところ︑

年月太陽星とい︑フものをもとにして︑正確な暦を作るべきことを︑

のべているのである︒暦に杜撰なところがあれば︑官民のすべてに

わたって︑生活の諸々の面において混乱が生じてくる︒そ︑フした︑

人間生活の乱れは︑結局のところ︑農耕生活の乱れをもふくむので

あり︑当然のこととして農産物の減収ということが生じてくる︒当

然のことであるが︑暦は正しくなければならない︒この暦は︑ここ

でのべている︑歳・月・日・星をもとにして作製される︒このうち︑

歳については︑﹃尚書孔伝﹄では︑﹁四時を紀するゆえん﹂と注を加

えている︒つまり︑歳というのは︑四時すなわち春夏秋冬を示すの

である︒そうすると︑暦は︑春夏秋冬︑月︑太陽︑星と︑いずれも︑

それ自体︑〃くりかえし運動〃︑あるいは〃循環運動″を︑おこな︑フも

のに依拠して作られることになる︒四季・日︵I太陽︶・月・星の︑

こうした運動を︑正しくとらえている暦は︑作物の生長収穫とそれ

に伴︑フ農作業のリズムにも︑よく合っているはずである︒それは︑

ここにいう百穀︑つまりすべての農産物の生長収穫︑農耕生活と︑

いずれも︑年々同じことのくりかえしであるからである︒

暦と農耕︑これは両方ともに︑時間と空間の流れを︑大きなくり

かえしの運動︑あるいは循環運動ととらえる︑共通の基盤のうえに

(13)

なりたっている︒これは︑古代中国の人々が現実に︑四季の推移︑

太陽・月・星の変化や動き︑農作物の生長の様子等々を観察して︑

到達した︑時間の構造についての︑認識の具体化されたものである

といってもよい︒暦も︑農耕も︑古代中国人の︑時間のこのような

認識をもとにして作製され︑営なまれているわけである︒ここで我々

は︑第一章でみた︑古代中国における︑宮廷社会の農耕的生活のこ

とを想起しなければならない︒宮廷社会の運営が︑農耕社会の原理

によって規制されているとい︑うことを︑すでに見てきたわけである︒

それは︑結局のところ︑暦法を支える時間の観念が︑農耕生活を成

立させている時間の観念と同一であるところから︑生ずる現象であ

ると見たい︒つまり︑都市の宮廷生活をも律している暦法をなかだ

ちとして︑その暦法と共通の構造の時間観念に律せられている︑農

耕生活の精神や行動様式が︑本来の場をはなれて︑都市部へと転用

されるのである︒そうした場合の極致として︑例えば︑王朝に降っ

た天命の遂行という︑王者のこと︑さらには︑天命をどうするかと

いう︑天帝の行為まで︑農耕にみたてていうことがあった︒

○王曰く︑昔の若く朕それ逝かんとす︒朕ここに銀を日に思ふ︑

と︒若し:⁝・職の父︑蕾︵くさぎり︶せしに︑厭の子は乃ち播

︵ま︶くを肯んぜず︑矧んや穫るを肯んぜざれば︑蕨の考︵ち

ち︶其れ肯て予に後あり︒基︵もとゐ︶を棄てず︑といはんや︒

蝉︵ゆえ︶に予なんぞ敢へて印︵われ︶において寧王の大命を

粒︵を︶へざらんや︒⁝⁝予︑永念して曰く︑天これ殿を喪ぼ

すや︑稿夫の若し︒予なんぞ敢へて朕が畝を終へざらんや︒︵王

日︑若昔朕其逝︑朕言銀日思︑若⁝⁝厭父蕾︑厭子乃弗肯播︑

﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶ 矧弗肯穫︑廠考其肯日︑予有後︑弗棄基︑騨予昌敢不越印救寧 王大命︑⁝⁝予永念日︑天惟喪段︑若稽夫︑予昌敢不終朕畝I

﹃書經﹄大詰︶

これは︑武王の死後おこった三監と武庚および東方の准夷のおこ

した︑いわゆる三監の乱を鎮定しよ︑フとして︑その出陣にさいして︑

成王が兵士たちにのべたことばである︒ここで成王は︑祖父文王に

降った天命を︑子孫が受けついで完成することを︑親が草を刈って

畑を耕し︑そのあとに子息が種子をまき︑収穫するという︑農作業

の発端から完成までのことに例えている︒また︑天帝が︑天命をく

だしつづけるか︑天罰をくだして天命をとり上げるか︑という天帝

の行為までも︑成王は︑農耕にたとえて説明している︒そして︑天

命を受けた︑天子たる王は︑いわば︑天の仕残した農作業を完成さ

せるとい︑7任務を︑課せられているのであるという︒

天命とその遂行とい︑フ︑天および天子の行為までも農作業にたと

えるこの考えには︑これを単なる外面の︑現象的一致面をとらえて

の比嚥が反映されているのだとして︑すませておくことはできない︒

それは︑もっと深い︑本質的なところにおいて︑共通な基盤を持っ

ていることによっているのである︒その共通の基盤とい︑フのは︑前

述のごとく︑時間の構造についての︑共通の認識である︒それは︑

すべての営みは︑百穀︑あるいはそれを生み出す農耕生活と同じょ

︑フに︑循環的な時間相のもとにおこなわれているのだとい︑フ考えで

坐︿函ヲ︵︾◎

(14)

275

つぎのよ︑フに述べた︒

○今︑有段を相︵み︶るに︑天迪は保に格︵きた︶り︑湯︑天若

に面稽せしに︑今これ既に職の命を墜す︒今︑沖子嗣ぐ︒則ち

壽者を遣つる無く︑日へ︑其れ︑古人の徳に稽我せん︑と︒矧

︵また︶日へ︑其れ︑有︵また︶能く天に稽謀せん︑と︒鳴呼︑

有王小なりと雛も︑元子なるかな︒其れ王︵ここ︶に能く小民

を誠︵かん︶せば︑今︵すなは︶ち休︵よ︶からん︒王あへて

民巨田︵みんがん︶に後用顧畏︵かうやフこゐ︶せざれ︒王︑つ

とめて上帝を紹︵たすけ︶て︑自ら士中を服︵をさ︶めよ・︵今相

有設︑天迪格保︑湯面稽天若︑今時既墜厭命︑今沖子嗣︑則無

遣壽肴︑日︑其稽我古人之徳︑矧日︑其有能稽謀自天︑鳴呼︑

有王錐小︑元子哉︑其丞能誠子小民︑今休︑王不敢後用顧畏干

民宮田︑王來紹上帝︑自服子土中I﹃書經﹄召詰︶

ここで注目したいのは︑﹁老人たちのことを忘れることなく︑﹃朕

は老人たちの徳に倣おう﹄といい︑また﹃朕は天の命ずるところに︑

十分に従おう﹄といえ﹂︑と召公が︑成王に対して忠告していること

である︒新らしい王朝を運営するにあたって︑天命に従うことは当

然としても︑老人のいうことに従うということを︑先ず成すべき大

切なこととして︑召公は考えているわけである︒新らしい王朝の運 要もあって︑成王の時鮴に︑副都の建設を︑洛邑において開始した︒ この工事を主宰した太保の召公は︑新都建設の希望を託しながら︑ 三老人の知恵と時間の構造

首都を西方の鎬京におく周は︑東方の段の遣民に対する統治の必 ﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶

営と︑古老の知恵とのかかわりあいは︑一見して奇異である︒しか

しながら︑そのことが有効なこととして主張されている以上︑その

理由を考えてみなければならない︒そのためにも︑とりあえず︑﹃書

経﹄における︑老人重視の例について︑みておこ︑フ︒

○古へ︑我が先王︑またこれ圖︵おほ︶いに薑人に任じて︑政を

共し︑王︵おほ︶いに播告︵はんこぐ︶を之れ修めて︑蕨の指

を匿︵かく︶さず︒王もって王︵ここ︶に欽︵つつし︶んで︑

逸言あることなく︑民はもって王︵ここ︶に鍵ぜり︒⁝⁝予は

観火︵くわんくわ︶の若し︒予また謀︵はかりごと︶に拙にし

て乃の逸を︵作な︶さしむるなり︒網綱に在りて︑條あって素

れざるごとくせよ︒農田に服し︑槽を力めて︑乃ちまた秋︵み

のり︶あるがごとくせよ︒︵古我先王︑亦惟圖任薑人共政︑王播

告之修︑不匿厭指︑王用丞欽︑岡有逸言︑民用王鍵︑⁝⁝予若

観火︑予亦拙謀作乃逸︑若網在綱︑有條而不素︑若農服田力稽︑

乃亦有秋I﹃書經﹄盤庚︶

これは︑段王の盤庚が役人をいましめたことばである︒盤庚は︑

昔の段王が︑﹁旧人﹂を大いに任用し︑治績の実をあげたことに︑自

分もなら︑フのだと︑決意をのべる︒そして︑それを︑うけて︑役人も︑

人民とともに︑農夫が農耕につとめるのと同じように︑努力せよと

いう︒ここで盤庚のいう︑﹁旧人云々﹂の句を︑﹃尚書孔伝﹄では︑

⑰ ﹁先王は久︵ふる︶き老成人に任じて︑共にその政を治めんと謀る﹂︑

と注釈を加えている︒

○王子︑天︑毒︵あつ︶く災を降して段邦を荒︵ほろ︶ぼさんと

するに︑方︵あまれ︶く與︵たち︶て酒に沈酬し︑乃ち畏畏す 五四

(15)

る岡く︑其の者長に晩︵たが︶ふ︒︵王子︑天毒降災︑荒段邦︑

方興沈剛干酒︑乃岡畏畏︑暁其者長I﹃書經﹄微子︶

これは︑殿の紺王の庶兄の微子に対して︑殿の賢人が説いている

ことばである︒天の罰を受けて段が滅亡しようとしている危機にも

かかわらず︑紺王は︑そこから逃れ︑段王朝を建て直すための対策

⑱ を施さない・そればかりでなく︑紺王は︑﹁年老いた賢者や︑年長者﹂

の意見も無視しつづけている︒こうした危機にこそ︑老人の知恵が

尊重され︑生かされるべきであると︑微子に対して︑賢人は主張す

ヲ︵︾︒

○王曰く︑鳴呼封︑汝︵なんぢ︶念はんかな︑今︑民まさにわづ

かに乃の文考に祇み通︵したが︶はんとするも︑衣の徳言を紹

聞す︒性︵おほ︶いに敷︵あまれ︶く殿の先哲王に求めて︑用

て民を保又︵ほがい︶せよ︒汝︑この商の者成人を遠ざけず︑

心を宅︵ひら︶き訓︵をしへ︶を知り︑別︵あまれ︶く古︵い

にしへ︶の先哲王に求め聞き︑もって民を康保せよ︒宏きこと

天のごとく徳にしたがふときは︑乃の身を裕かにし︑王命に在

るを腰せざらん︒︵王日︑鳴呼封︑汝念哉︑今民將在祗適乃文考︑

紹聞衣徳言︑往敷求子殿先哲王︑用保又民︑汝丞遠惟商者成人︑

宅心知訓︑別求聞由古先哲王︑用康保民︑宏子天若徳︑裕乃身︑

不騒在王命I﹃書經﹄康詰︶

ここに引いた文章は︑衛の君に封じられた康叔封に対して︑周公

が︑成王の名で与えた戒めのことばである︒康叔の封じられる︑こ

の衛の地は︑元来︑段の土地であり︑そのため︑ここでは段の遣民

が大半を占めていた︒周公は︑この地を治める手だてをいくつか述

﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶ ⑲ くるが︑そのなかに︑﹁段の老成人を遠ざけず︑教えを受けよ﹂︑と いうことばがある︒やはり︑新興の国といえる衛においても︑老人 の知恵というものが︑現実の政治の場面において︑大きな働きを演 じることになるのである︒

さて︑これまで︑老人の知恵が重視され︑そのことによって︑老

人の知恵が︑現実の社会を支配する力となる可能性のあることを︑

みてきた︒ここに引いた各々の例文について︑も︑7−度︑そのこと

を検討してみたい︒まず︑第一の例文について考える︒このとき建

設された洛邑は︑祖廟のある鎬京を宗周と呼んだのに対して成周と

いわれ︑以後︑副都としての役割を︑よくはたしてきた︒洛邑のこ

の安定した経営は︑召公の意図が︑実現したのである︒かつて召公

は︑﹁寿者をすてることなく︑古人の徳にならえ﹂︑といった︒洛邑

の経営の成功は︑召公の︑このことばが実行されたことに由来する

部分も︑大きいである︑フ︒第二の例文について述べよう︒盤庚のこ

のたびの遷都について︑﹃書経﹄の本文では︑﹁盤庚︑段に遷らんと

す﹂とのべている︒段は︑この王朝の後半︑首都でありつづけたの

である︒遷都を敢行するにあたって︑盤庚は︑﹁段の先王たちが︑旧

人にならったよ︑フに︑私もしたい云々﹂と述べている︒このたびの

遷都が︑結果から見て成功したのは︑盤庚が︑その誓いのことばを︑

忠実に実行したからであると考えてもよいである︑フ︒ここにもまた︑

旧人︑つまり老人の力が︑大きな働きをした可能性が大きい︒第三

の例文にうつろう︒この文章は︑ここに引いた他の文章とは︑少し

くおもむきを異にしている︒他の文章は︑新らしく事をおこす場合

について述べている︒しかし︑ここは︑亡国について述べるのであ

五五

(16)
(17)

し︑穆公の政令を修めようと努められた︒私は︑父の心のうちを思

い︑常に心が安らかでない︒世の賓客や臣下のなかで︑秦国のため

に一計を案じて︑秦国を強大にするものがあれば︑私は︑その人物

を高官にとりたて︑領地を与えるであろう﹂︑と︵﹃史記﹄秦本紀︶︒

孝公が夢みたものは︑父の献公が志して果たすことができなかった︑

祖先の穆公のような政治を行うことであった︒孝公は︑商鞁の変法

を用い︑秦国の体制を改めて︑その夢を実現することができた︒そ

の意味で︑孝公は︑革新的政治家であった︒その︑革新的政治家で

ある孝公によって︑穆公およびその政治は︑高く評価されたのであ

る︒穆公もまた︑革新的傾向のつよい君主であったからであろう︒

このことを証するかのどとく︑漢の劉向の﹃新序﹄︵善謀︶には︑穆

公を︑﹁時変を知る人﹂といっている︒近くはまた︑穆公の︑前述の

業績を︑戦国末の︑始皇帝の統一のための基礎を築いたものと︑評 ⑳ 価する見方もある︒以上にのべたことを綜合すると︑当時︑西方の

後進国であった秦を︑穆公は︑強力な国家に育て上げた︒穆公がそ

のようにして作りあげた国家には︑戦国期に入ってからの︑秦の発

展の基礎となる要素が多くふくまれていた︒したがって︑穆公には︑

革新的で︑進取の精神にあふれた︑開明君主としての地位を与えて

もよいであろう︒さきに︑﹃書経﹄の秦誓から引いた文章は︑ここに

今︑我々がみてきたようなところのある︑穆公のことばであるので

ある︒

さて︑ここで秦誓の文章にかえって︑種々検討を加えてみよ︑フ︒

﹁︵過ちを改めようと思うが︑︶日や月がどんどんすぎていって︑も

︑フニ度と帰ってこないように思われる﹂と︑穆公は一人で心配して

﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶ いるとい︑フ︒この穆公のことばにおいては︑﹁時間は過ぎ去って︑二 度と帰ってこないのだ﹂という︑断定の意味は無いのであるという ことに︑我々は注目しなければならない︒穆公のこのことばに注を

◎00 加えて︑﹃尚書孔伝﹄では︑﹁日月の並びに行き過ぐるが如く︑復︵ふ ◎0.︒◎00︒︒00◎00.00O◎ た︶たびはここに来︵きた︶らざるが如し︵如不復云来︶﹂という︒ 0000 また︑﹃尚書正義﹄では︑﹁但だ日月︑ますます疾く行き︑復たびは 0︒◎000.0︒◎0000O ここに来らざるに似たるが如し︵如似不復云来︶﹂となっている︒こ

こが︑﹁復不l﹂というかたちではなく︑﹁不復I﹂という句作

りになっているということに︑注意しなければならない︒これだけ

のことを考えに入れたうえで︑もう一度︑さきの穆公のことばの意

味を考えてみると︑以下のごとくなるであるミフ︒つまり︑﹁時間は︑

直線の上を過ぎ去ってしまって︑復︵かえ︶ってこないのではない︒ 00000000◎0O 本来なら︑もう一度かえってくるはずのものであるけれども︑もし

かして︑かえってこないかもしれないことを︑恐れるのである﹂︑と︒

ここでは︑穆公の︑時間についての考えを︑我々は知ることができ

る︒時間とい︑フものは︑本来なら︑通りすぎても︑また︑ふたたび

帰ってくるものであると︑穆公は︑時間の基本的な構造を︑このよ

うにとらえているのである︒これを︑さらにわかりやすくいえば︑

時間は円環の上を︑循環しているのであると︑いうことになる︒

さらに︑穆公は︑つぎのよ︑フなこともいっている︒﹁これまで︑古

えの道にしたがって︑私を教え導こうとした人を嫌い︑目につきや

すい利益を与えてくれる人にぱかり親しむという過ちを︑私は犯し

てきた︒︵同じよ﹃フな場面が︑またきっとあるはずであるから︶今後

⑳⑳

は︑以前のような過ちを改めて︑黄髪の人や番番の人︑つまり老人

五七

(18)

271

たちについて︑じっくりと古えの教えを授けてもらうことにしよ︑フ︒ ⑳ そうすれば︑私の人生には︑あやまちが無くなるである︑7﹂︑と︒す

でにのべたように︑過ぎ去った時間は︑いつの日にか︑また帰って

くることがあるものであった︒だから︑一たび犯した過ちは︑それ

を過ちとさとって︑正すことのできる機会が︑いつの日にか必らず

かえって来るのであると︑穆公は︑固く信じていた︒そ︑フして︑穆

公にとって︑来るべき時機が到来し︑かつての過ちを是正するに足

る知恵を授けてくれるのが︑﹁黄髪や番番﹂の人︑つまり老人である

ということになる︒では︑革新的で開明的な立場の穆公が︑なぜこ

れほどまでに︑老人の知恵に従︑うことに固執するのである︑フか︒こ

のことについての答えは︑彼の︑時間の構造についての認識が︑与

えてくれるであろう︒すでに見てきたように︑彼にとって時間は︑

循環しているものであった︒したがって︑過去のものは︑いつか未

来へと位置をかえ︑それがまた現在へとやってくるのである︒その

ため︑過去の出来事は︑時間の循環的推移によって︑未来のことと

なり︑やがて前方からそれがやってきて︑現実のこととなるのであ

る以上︑老人の持つ過去の知恵に従うということは︑とりもなおさ

ず︑来たるべき︑新らしい事態に備えることにほかならない︒穆公

にとって︑老人の持つ︑過去の知恵を尊重するということは︑こう

して︑実は︑すぐれて革新的な行為であったのであり︑革新的で開

明的な穆公の好みに︑よく合うことであったのである︒ ﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶

古代中国にあっては︑天は世界の主宰者として︑人々に認識され

ていた︒そうした天の︑王朝の政治に対する評価は︑非常に厳しい

ものとされ︑夏王朝や殿王朝の滅亡も︑天によってなされたもので

あると︑考えられていたのである︒したがって︑王朝が亡びるたび

に︑天下の王としての天命は︑不断に革められつづけてきた︒その

ため︑王朝の前途には滅亡があり︑それがいつの日にかやってきて︑

現実のものとなりつづけてきたのが︑歴史の現実であった︒こ︑フし

て︑やがて前方からやってくる︑主宰者である天の降す滅亡を避け

るために︑過去の王朝の滅亡の姿が︑現王朝が︑それに陥らないた

めの︑唯一の教訓とならざるをえなかった︒ことばをかえれば︑あ

る王朝にとって︑過去に滅んだ王朝の姿は︑自己の〃かがみ〃であっ

た︒つまり︑自己の姿を写してみて︑亡んでしまった王朝の姿に重

ならないようにすれば︑よかったのである︒

一方︑王朝や個人が何事かをしようとするとき︑いかにすれば︑王

宰者である天の気に入り︑その称賛をえて︑物事がうまく運ぶであ

る︑フか︒これは︑結局︑将来をよくするには︑どうしたらよいかと

い︑うことである︒そしてまた︑前方から︑そ︑フした︑よい状態がやっ

て来るようにするには︑どのようにすべきかと︑これはいいかえて

もよい︒この場合にも︑前述の王朝の滅亡を避けよ︑フとする場合と

同じく︑模範とすべきものは︑前方には無いのである︒唯一のモデ

ルとなるものは︑過去における︑〃よきもの〃でしかありえない︒王

朝や︑個人の将来を決するための︑この過去の〃よきもの〃とは︑

おわりに

五八

(19)

古代の中国においては︑その代表的なものは︑老人の持つ豊富な経

験と知恵とであった︒実際に︑これは大きな働きをしたのである︒

古代中国では︑主宰者である天は︑日月星からなる天体の動きと︑

地上のすべての現象をつかさどった︒古代中国人の時間の認識は︑

この天体の動きと︑これに即応して営まれる農作業および作物の生

長とを︑媒介にして得られたものであり︑それは暦法に具体化され

ている︒そして︑ここにあらわれた動き︑つまり時間の推移は︑す

べて︑くりかえし︑ないしは循環運動にほかならない︒しかも︑こ

の運動をつかさどるのは︑主宰者である天である︒そのため︑この

循環運動は︑天のなしわざである︑もろもろの自然や社会の現象を︑

すべて伴っておこなわれるのである︒このことはまた︑時間と空間

とが未分化のままで︑一体化しておこなわれる循環運動であると︑

一般化していうことができよう︒すでに︑第一章でみてきたように︑

社会や政治が︑農耕にたとえられることが多かったのも︑その社会

や政治が︑農耕の生活とともに︑あるいはまた百穀の生長とともに︑

すべて天のなしわざとして︑循環する︑くりかえしの相のもとにあ

るとい︑フ共通の認識が︑前提にあったのである︒そしてまた︑第二

章で言及した︑〃かがみ〃のことも︑これと同じことである︒過去の

ことである王朝の滅亡の姿が︑〃かがみ〃として後の王朝の役にたつ

ことになるのも︑同じく︑過去のものである老人の知恵が︑新らし

く事をおこすのに大きな働きをはたすことになるのも︑等しく︑古

代中国の人々の︑時間の観念の︑このような構造に由来するもので

全︵︾ラ︵︾◎

これまでのべてきたよ︑フに︑老人の知恵を︑重視することは︑当

﹃書経﹄における〃老人支配″について︵久富木成大︶ 時の人々の時間の認識の構造に由来する︑必然的な行為であったが︑ それはまた︑非常に革新的な行為でもあった︒そのため︑老人の知 恵が︑ひいては老人が︑大きな力を持たされることになった︒ここ で我々は︑さきに第三章の冒頭に﹃書経﹄召詰から引いた︑召公の ことばを︑も壱フー度想起しよう︒召公は︑﹁壽者を遣つる無く︑日へ︑ 其れ古人の徳に稽我せん︑と︒矧︵また︶日へ︑其れ︑有︵また︶ 能く天に稽謀せん﹂︑といっている︒老人の知恵にしたがうことを︑ ほとんど︑主宰者である天にしたがうことと︑同列において論じて いるのである︒このことからもわかるよ︾フに︑老人の知恵が社会を 動かすために︑大きな力をはたしたとい︑フー面をとらえて︑これを 老人支配︵鴇3三g国昌︶の一つの現象とみても過ちはないであろ う︒なお︑この現象が︑周人が段の古老に問うという例にあらわれ ることが多かったことによって︑周より段の方が︑文化が高かった とすることに比重をおきすぎてこの問題を論ずることは︑妥当では ない︒なぜなら︑第三章に引いた︑段王盤庚のことばにもあったと おり︑段の内部でも︑古老に問うことは︑すでに重視されているか らである︒また︑これを復古的態度に帰してすませるとすれば︑な おさら当らないであるミフ︒

さいごに︑資料として用いた﹃書経﹄のことについて︑ふれてお

こう︒周知のごとく︑現行﹃書経﹄の成立と流伝とは複雑をきわめ

ている︒そのため︑これを資料として使用するにあたっては︑多く

の問題と困難とを伴うのである︒したがって︑小論では︑先人の業

⑳ 績に拠りながら︑西周から東周にかけて成立したと考えられる︑い

くつかの篇をえらんで︑それによって論考をおこなってみたのであ

五九

参照

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