はじめに
わが国では政府の強力な政策によって明治以降3回におよぶ大きな市町村合併が繰り返さ れてきた。どの合併もその表向きの目的は地域力の強化であるが、事実上は中央行政の強化 を目的とする地方行政の再編であった。それゆえ、合併が地域力の強化に結びつき地域で生 活している人々の生活の改善に結びついたかどうかについては、きちんと検証されてこなかっ たように思われる(1)。昭和の合併期前後から地方の過疎化が進み、地域経済の衰退や住民生活 に与える影響が心配されだした。確かに、人口規模の小さくなった自治体をどう維持 ・ 存続 させて行くのかという問題は深刻である。それを考えたときに市町村合併という方法はある 意味で合理的であり説得力をもつのかもしれない。しかし、それは現地に生活する人々の様々 な歴史と生活からすればそう容易く受け入れられるものではないのが普通である。にもかか わらず行政的に再編を促そうとするならば、少なくとも、拡散している小さな単位(集落)
の存在を尊重した上で、それらをいかにして連結してゆくかという難しい問題を解決して行 かなければなるまい。
本稿は、これまで3回におよぶ市町村合併においてなされた再編のプロセスとその結果を 一つの山間地域の自治体に焦点を当てて追跡し、中心化と周辺化という概念によって論じて みたい。山間地域に着目する理由は、かつての単位である集落が今もなお残存し、こうした プロセスの変化を見るのに最も適していると思われるからである。
1.分析枠組
わが国の行 ・ 財政は、言うまでもなく政府と国家官僚が管理 ・ 統括しているが、これを第 一レベルとすると、第二レベルは都道府県、第三レベルは市町村ということになる。本来は 第一レベルは市町村で、第三レベルが国と言いたいところであるが、それが逆転しているの は現実に即したまでで、これもまた中央集権的な日本の特徴とも言える。本稿で問題とする 市町村合併はこの三つのレベルにおいてそれぞれ相対的に独立して統制されているわけだが、
面白いことに、生態的に俯瞰してみると、いずれのレベルにおいても中心部と周辺部の組み
市町村合併と過疎地域の周辺化
―山梨県身延町を事例として―
吉 岡 雅 光
合わせという布置状況がみてとれる。国レベルでは東京、大阪、名古屋、あるいはこれに加 えて政令指定都市の存在する中心部とこれを取り囲む中小の地方都市、そして都市部からは るか離れた農 ・ 山 ・ 漁村の周辺地域=田舎という構造を成している。都道府県レベルでみる と、都道府県庁の存在する中心部とそこから離れるにしたがって過疎化する地域=僻地とい う周辺部を構成している。さらに、市町村レベルでみても、寂れたとは言え役場の近くに比 較的人口が集中し相応の都市的機能が備わった中心地域が存在し、そこから離れれば離れる ほど過疎化し都市的機能も欠如した集落が点在している。つまり、中心と周辺の構造が三つ のレベルとも入れ子の重箱のように相似形で存在していることに注目したい。
さて、ここで本稿の事例を分析的に位置づけるために合併の類型について考えておきたい。
ここでは合併の特性を捉えるために二つの類型を提示したい。
第一は、合併がどのような状態にある市町村の組み合わせによって実現されたかによって、
その後の地域の行 ・ 財政の改善と住民の日常生活の向上に強く関係すると思われるので、ま ず、次のような組み合わせ類型によって捉えようと思う。
🄐 非過疎自治体同士の合併:自治体の財政的 ・ 行政的な地域力が最も効果的に増大する と思われる合併。都市部の自治体同士の合併に多い。
🄑 非過疎自治体が過疎自治体を編入する合併:比較的余力のある自治体が合併すること によりより広範囲の地域力をもつ可能性がうまれ、他方過疎の自治体は、財政的 ・ 行政的に 安定した基盤を確保することができる。
🄒 過疎自治体同士の合併:もともと過疎の自治体が合併しても財政的 ・ 行政的に過疎か ら脱却できるという可能性は少ない。しかしながら大きな事業をするためには規模のメリッ トが生まれるかもしれないこと、および統合によって人材を確保するとともに行 ・ 財政の合 理化によって無駄を省くという理想が基礎となっている。
🄓 合併しなかったところ:これは合併類型とは言えないが、他の類型との比較のために は市町村合併の問題を考える上で是非ともなければならないタイプである。
AとCは対照的であり、Cの自治体の合併は財政的に前途多難であることが予想される。
第二は、農業地域類型を使った分類である。これは第1次分類と第2次分類からなり、前 者は、DID(人口集中地区)面積の割合、林野率、耕地率、水田率を指標として、地域の基 礎的地域特性を4類型に区分し、後者は水田率の大小を指標としたものである。その結果、
第1次分類は ①都市的地域、②平地農業地域、③中間農業地域、④山間農業地域に区分さ れ、第2次分類は①水田型、②田畑型、③畑地型に区分される。平成25年2月1日現在での 旧市区町村がこれらのどの類型に該当するかについては一覧表が提供されているので、具体 的にどの市町村がどの類型にあてはまるのかが明確に分かるというメリットがある(農林水産
省 2008)。
この分類はもともと農業の地理的 ・ 地形的特性をもとにした分類であるので、第一の分類 のようにストレートに過疎か否かに着目しているわけではない。しかし、この分類は地域社 会を住民を含めた生態系として生態学的にみる場合には有効であるように思われる。社会学 では都市生態学が有名だが、一つの全体社会(国)は、単に都市だけでなく農山漁村の過疎 地域を含む全体が連動 ・ 相互作用し、分離 ・ 結合するシステムとして捉えることが可能であ る。この分類には漁村が除外されているが、そうした生態学的な観点も含みうるものとして 使うことが可能なのではないかと考える。
総務省ではこのような農業地域類型を利用して市町村類型別合併パターンを作成している が、それによると、次のように分類される(総務省 2010)。
①都市同士 ②都市+平地 ③都市+平地+中山間
④都市+中山間 ⑤平地同士 ⑥平地+中山間 ⑦中山間同士 以上二つの分類からするならば、本稿で事例として取り上げる身延町の合併はC-⑦のパ ターンということになる。この合併パターンの意味するところは、A-①パターンと比べる とその差異は歴然である。A-①は都市部自治体同士の合併であり、財政力が強いもの同士 であるので、合併による行 ・ 財政力の強化は期待されるところであるが、C-⑦のような過 疎自治体同士の合併ではもともと相互に貧弱な財政力に苦しんでいるのであるから、それが 規模として拡大してもその効果がはたして得られるかどうか大いに疑問である。事実上、行 ・ 財政の合理化を図ることが無駄を省くことになるのかどうかも怪しい。
C-⑦に位置づけられる合併がどのように進行して行ったのかについては3.以降で述べ ることとして、その前に平成の合併について総括しておく必要があろう。
2.「平成の合併」はどう総括されたのか
わが国ではこれまで3回大きな市町村合併が実施された。明治の大合併では戸籍を整理し 小学校区を整備して近代的地方行政を実現することが目的とされ、明治21年に71,314あった 市町村は明治22年には15,859へと減少した。次に昭和の大合併では戦後地方自治の確立と教 育の充実を目指して中学校を効果的に
設置することを目的として推進され、
昭和28年に9,868あった市町村は昭和36 年には3,472に減少した。その後市町村 数は大幅な減少を見ないまま推移し、
平成の合併に突入した(総務省 2013a)。
(表1)「平成の合併」による市町村数等の変化
H11.3.31 H22.3.31 結果
市町村数 3,232 1,727 1,505減
人口1万人未満 1,537 457 1,080減
平均人口(人) 36,387 69,067 32,680増
平均面積(㎢) 114.8 215.4 100.6㎢増
「平成の合併」は、平成11(1999)年から平成22(2010)年3月に至るまで、地方行財政基 盤の強化と地方分権の推進をうたい文句として行われた。この間に3,232(市670、町1994、
村568)あった市町村は1,727(市786、町757、村184)にまで減少した(総務省 2013b)。 もともと市町村合併を推奨する法律は昭和40年3月に公布 ・ 施行された合併特例法(「市町 村の合併の特例等に関する法律」)が存在していたが、この特例法の期限切れ(平成16年度 末)に伴い、政府が財政再建と地方分権という理由により合併推進策をとるようになった。
とくに地方交付税の削減を初めとする政府の行財政合理化のために、地方分権化を一つの根 拠として市町村の再編を図ったのである。具体的には、この計画に呼応して合併した市町村 に対しては、合併特例債や合併算定替の大幅な延長といった財政支援措置の特典(アメ)を もうけることによって合併を促進しようとした(2)。平成12年には、与党の提案により市町村数 を3分の1の1,000程度に縮減する方針が出されたのであった。
それゆえに、なんとか法律の期限までにと、多くの市町村が合併協議会を設置して検討に 入り、駆け込みの合併をした自治体も多くみられた。しかし、千以上の自治体が縮減された ものの目標とした数には遠く及ばなかったためか、平成17年4月1日からこの特例法は新合 併特例法(「市町村の合併の特例に関する法律」)と名称を新たにして、平成32年3月末まで 継続されることとなった。ただし、平成22年4月以降の合併については、地方交付税に関す る額の算定基準の特典が廃止されるなど重要な制限条項が付加されたため、政府の推進政策 としての「平成の合併」は平成22年度をもって一応収束したということができる。
さて、国が市町村合併を推進した狙いは何か。そしてその狙いは達成されたのであろうか。
総務省は合併を推進するに至る背景要因を挙げているのでこれに沿って見て行くことにする。
その要因とは、①地方分権の推進、②少子高齢化の進展、③広域的な行政需要の増大、④行 政改革の推進、の4点である(総務省 2010)。これらは合併の目標であり、合併のメリットと 考えられていると言ってよいだろう。①は、合併により組織と職員が専門化し、これにより 住民サービスの高度化が期待できるとされる。国から地方への権限委譲の基盤ができると想 定されている。②は、行財政基盤が強化され、地域の少子 ・ 高齢化対策への取り組みがしや すい環境ができ、住民サービスの拡充が期待できるとされる。③は、交通の発達によって通 勤、通学、買い物など日常の生活圏がすでに拡大しているので、市町村の範囲を広域化する ことにより住民の日常生活と行政の単位(市町村)が合致し、それに応じたまちづくりや住 民サービスの提供が可能となると考えられている。また、中心市を核として旧市町村をネッ トワーク化することにより地域振興を図ることができ、多様な地域資源を活用した地域活性 化の新たな展開が期待できるとされる。そして④は、合併により市町村の三役や議会議員数 を減らすことことができ、さらに一般職員の定数を削減することにより人件費の抑制と行財
政の効率化を図ることができるとされるのである。
なるほど、国や都道府県レベルの行政サイドからすれば合併によるメリットを強調したい ところであり、一部その試みと期待は達成されるのかもしれないが、地域 ・ 住民サイドから するならばそうしたメリットは果たしてどこまでメリットと映るか疑問である。
① 地方分権について言えば、地方でできることは地方でというかけ声とその必要性だけ が強調されてこなかっただろうか。国庫補助負担金改革、税源移譲、地方交付税改革という 三位一体改革は、むしろ地方財政を悪化させたとも言われ、分権を可能とするのに足る資源 を地方に配分したと言えるだろうか。
② 少子高齢化については、超4高齢社会への突入とさらなる高齢化が進行中であり、高齢 者支援と介護への取り組みは市町村の最も重要な役割となっていくことが予想される。社会 福祉に対する公的機関への期待は益々高まるばかりであるが、市町村合併をすればそうした 期待により良く応えることができるというのは、いささか楽観的に過ぎるのではなかろうか。
むしろ合併によって細やかな福祉サービスが削られることもあるかもしれない。例えば、合 併に伴い旧市町村の制度の統一の必要から、敬老金や敬老対象年齢の見直しや出産祝い金の 廃止などが行われる可能性もある。
③ 交通の発達やモータリゼーションによる活動範囲の広域化は事実であるが、ここで忘 れられてはならないのは都市部での状況と地方での状況は非常に異なるという点である。都 市部での合併は公共の交通網が発達しているために、また比較的人口が密集していて一般に 地理的範囲が狭いために、生活圏の拡大は容易であるかもしれない。しかし、地方の場合は そう簡単にゆくものではない。地域によっては役場への距離が遠くなったり、巡回バスや公 共施設など各種サービスの利用料金の引き上げにつながる可能性もある。また、合併により 地域の資源が増加し多様化するというが、現実には小さな自治体であったからこそできた地 域の伝統や文化的行事も、自治体が拡大することにより保護することが難しくなる場合もあ る。なぜなら、行政組織が統合され職員が合理化されると、保護すべき伝統や文化に一層厳 しい優先順位がつけられることになり、選別から漏れたものは住民たちの手だけで守らざる をえなくなるからである。
④ 行政改革に関しては、かつてのような経済成長が望めなくなり、バブル経済の崩壊以 降の経済の停滞の中で国の借金ばかりが膨れ上がり、行財政改革をせざるを得なくなってい る国の実情がある。旧自治体のそれぞれの議員数を単純に合算した数が合併後の議員定数に なることはありえず、議員定数の削減は必須であるが、そのことは結果として地区代表の議 員を送り出すことができない小地区住民の意見をどう議会に反映させるかという問題を生み出 すだろう。議員定数の削減は同時に、小地区の住民や自治会等の意見を議会に反映させる仕
組みが伴わなければならない。また、自治体組織の拡大により技術や能力の専門化 ・ 高度化 を図るというのはよいとしても、地方公務員というのは技術や資格の問題ではないところも重 要である。曖昧な表現になるが、人間関係的な能力や地元に対する愛着といった精神的な側 面も非常に重要とみなされるのではないだろうか。とすれば、職員の充足は単に専門分化に 走るだけでなく、上記の能力があり総合的なケアができる人材をできるだけ多く確保する必 要があるだろう。職員数の削減による合理化だけを考えていたのでは私企業と同じである。
以上、合併についてのメリットとデメリットを比較検討してみると、一般的に、これをメ リットが大きいと考えるのは国と都道府県レベルの地方自治体であり、デメリットの方が大 きいと考えるのは住民であるという構図が見えてくる。平成の合併は基本的に国の財政問題 があり、地方分権というのは名目的には立派な理由だが、内実は地方交付税の縮減という市 町村にとっては大きな痛みを伴う政策でもあった。それゆえ、市町村レベルでは行財政規模 の拡大によって、何とか地域の自律と生き残りを図ろうとして合併という選択をした自治体 が多数出てきたが、他方で合併によって本当に地域の自律が担保されるのか、また住民の福 祉の向上に役立つのかということに懐疑的な自治体は、たとえ過疎であっても賛成に与しな かった(道州制と町村に関する研究会 2008)。
3.山梨県における「平成の合併」の類型的把握
平成の合併のプロセスは、本稿の事例に則して考察すると県レベル(山梨県)と市町村レ ベル(身延町)の二重の地域再編となって進行した。ここでは県レベルの合併について類型 的に把握しておくことにしたい。
山梨県の市町村数は、平成11年3月末と平成25年1月1日現在とを比較すると64から27に 減少した。減少率にして57.8%で、都道府県別の合併実績をみると減少率の大きい方から14 番目であった(総務省 2013c)。減少率50%以上の道県は26あるので、減少率の順位で言えば山 梨県は中位のグループに属することになる。
山梨県における平成の合併は、平成15年3月1日の南部町に始まり、平成22年3月8日の 富士川町に至るまで、この期間中の追加編入を含めて51の市町村が合併の波に飲み込まれた。
そして、これら市町村は結局14の市町村に集約されることになった。全国的には中位程度の 減少率とはいえ、県としても市町村数が半減するということは地方行財政上はもちろん、政 治や自治体組織編成の上でも大きな変革が求められることになる。さらに、平成の合併が最 終的には各市町村の自発的な決断に委ねられたことから、合併の組み合わせ等は多様になり、
このことは合併後の問題や課題を複雑化しているように思われる。
そこで、過疎地域という点を意識して合併の組み合わせを整理してみると、次のようなパ
ターンに分類することが可能である。すなわち、⑴非過疎自治体同士の合併、⑵過疎自治体 が非過疎自治体に編入された合併、⑶過疎自治体同士の合併、⑷合併しなかった自治体に分 けられる。この分類を使って山梨県の合併状況を平成22年3月8日現在で一覧表として示す と次のようになる。▲の印をつけたものは合併以前に過疎法により過疎指定を受けていた自 治体である(山梨県 2010;全国過疎地域自立促進連盟 2013)。
⑴ 非過疎自治体同士の合併(3自治体)
①甲斐市(H16.9.1)竜王町+敷島町+双葉町
②上野原市(H17.2.13)上野原町+秋山村
③中央市(H18.2.20)玉穂町+田富町+豊富村
⑵ 過疎自治体が非過疎自治体に編入された合併(8自治体)
①甲州市(H17.11.1)塩山市+勝沼町+大和村▲
②甲府市(H18.3.1)甲府市+中道町+上九一色村の北部(梯 ・ 古関地区)▲
③笛吹市(H16.10.12)石和町+御坂町+一宮町+八代町+境川村+春日居町 (H18.8.1合併新法適用)+芦川村▲
④富士川町(H22.3.8合併新法適用)増穂町+鰍沢町▲
⑤富士河口湖町(H15.11.15)富士河口湖町+勝山村+足和田村
(H18.3.1)上九一色村の南部(精進 ・ 本栖 ・ 富士ヶ嶺地区)▲
⑥北杜市(H16.11.1)明野村+高根町+長坂町+大泉町+須玉町▲+白州町▲
+武川村▲+小淵沢町(H18.3.15)
⑦南アルプス市(H15.4.1)八田村+白根町+若草町+櫛形町、甲西町+芦安村▲
⑧山梨市(H17.3.22)山梨市+牧丘町▲+三富村▲
⑶ 過疎自治体同士が合併したところ(3自治体)
①南部町(H15.3.1)南部町▲+富沢町▲
②身延町(H16.9.13)下部町▲+中富町▲+身延町▲
③市川三郷町(H17.10.1)三珠町▲+市川大門町▲+六郷町▲
⑷ 合併しなかったところ(13自治体)
韮崎市、大月市、都留市、富士吉田市、昭和町、早川町▲、西桂町、
丹波山村▲、小菅村▲、道志村▲、忍野村、山中湖村、鳴沢村
また、前述した農業地域類型を用いて山梨県の合併を分類してみると、山梨県は都市部や 平地部が少ないことから類型の分布に偏りが見られ、都市と平地のように財政的に比較的豊 かであると思われる自治体同士の合併は少数にとどまる(3)。
〈1〉都市同士……なし
〈2〉都市+平地……中央市
〈3〉 都市+平地+中山間……南アルプス市、笛吹市、北杜市、山梨市、市川三郷町、甲州 市、甲府市
〈4〉都市+中山間……富士河口湖町、甲斐市、上野原市、富士川町 〈5〉平地同士……なし
〈6〉平地+中山間……なし
〈7〉中山間同士……南部町、身延町
分類から明らかなように、「都市+平地+中山間」という地域社会の縮図とも言えそうなバ ランスの取れた合併自治体が比較的多く見られるが、「中山間同士」の合併のように財政的に 困難を予想させる自治体も存在する。本稿で事例としている身延町は⑶=〈7〉の組み合わせ からなり、地理的にも行財政的にも最も厳しい過疎の自治体同士が合併した一つの典型的な タイプに属する。
4.新身延町の誕生
さて、山梨県における自治体の合併といっても多様であるが、以下ではそうした合併類型 の中から特に、県の周辺部にあり財政的にも地勢的にも最も不利な地域同士の合併として身 延町を取り上げる。類型的に述べれば「過疎自治体同士の合併」かつ「中山間同士の合併」
の例ということになる。
身延町の合併に関する正式の検討会は平成13年2月に始まっている。当初は峡南中部5町
(六郷町 ・ 下部町 ・ 中富町 ・ 早川町 ・ 身延町)の参加で始まったが、翌平成14年4月には縮小 した態勢で「下部町 ・ 中富町 ・ 身延町任意合併協議会」が発足し、3町の合併が具体化して
(表2)合併前後の町勢
合計 下部 中富 身延 新身延町 旧下部 旧中富 旧身延 人口 18,021人 5,530 4,477 8,014 14,462人 4,195 3,603 6,664 高齢化率 - 36.5% 35.5% 30.0% 39.4% 44.1% 39.4% 36.4%
世帯数 6,382世帯 2,054 1,654 2,674 5,593世帯 1,717 1,460 2,416 面積 304.83㎢ 130.34 43.37 131.12 304.83㎢ - - - 一般会計予算 9,717,815千円(H14年度当初予算) 8,812,500千円(H25年度当初予算)
財政力指数 0.314~0.170平均(H12年度) 0.28(H23年度)
標準財政規模 7,585,844千円(H12年度) 6,840,386千円(平成23年度)
議会議員定数 44人(H16) 14 14 16 14人(H25) - - - 農業委員定数 48人(H16) 15 17 16 16人(H25) 5 5 6 一般行政職員数 214人(H14) 71 56 87 184人(H23) - - -
※人口、高齢化率、世帯数は平成12年-平成22年国勢調査の比較
行った。これを受けて同年6月には3町それぞれの議会において合併協議会設置議案が可決 され、以後20回におよぶ3町の合併協議会を経て、また、合併のための政治 ・ 行政 ・ 住民 ・ 教育 ・ 経済 ・ 産業等の小委員会の具体的な検討を経て、平成16年9月13日に正式に新設(対 等)合併の運びとなった(4)。
下部 ・ 中富 ・ 身延の旧3町合併の前と後で、新町はどのように変化したのであろうか。表 2について若干の解説を加えれば次のようになる。人口(19.8%減)、世帯数(12.3%減)と もに著しく減少した。昭和40年と平成22年とを比較すると人口は53.8%減少している(5)。面積 は山梨県の6.8%を占めると胸を張りたいところだが、人口は同県(863,075人)の1.68%を占 めるにすぎない。予算規模は拡大どころか縮小している。内容をみると、町の自主財源は 24.4%にすぎず、75.6%が国や県等に依存している。とくに、予算の半分近くを地方交付税に 依存せざるを得ない状態が依然として続いている。そのことは0.28という財政力指数に反映 されており、同年度における山梨県市町村の平均値0.47と較べても著しく低いことが分かる。
標準財政規模も縮小している(6)。
市町村合併の狙いの一つである小さな議会への取り組みはどうか。議員数は合併後の平成 21年に行われた選挙では16名の議員体制であったが、平成25年10月27日に行われた身延町議 会議員選挙からは14名となった。合併当初の協議会では22人とする案もあったので(総務 ・ 企画 ・ 議会小委員会)、当初の予定と較べれば大幅に削減されたと言える。ただし、費用と効 率の面からすれば議員定数は少ないほどよいかもしれないが、そのことによって地域住民の 声が届かなくなるデメリットが生じることも否めない。前回の当選者の最低得票数は392票で あったが、今回平成25年の選挙における当選者の最低得票数は429票であった(身延町選挙管 理委員会事務局)。町議選での当落は地区からの支援に依存するところが大きいと思われるの で、人口の少ない地区や集落の代表が選ばれる可能性は非常に小さくなったといえよう。
また、議員数と同様に農業委員も、旧3町で合計48人であったものが合併にともない16人 と大幅に削減された(7)。
では、もう一方の行政の合理化はどうか。身延町の一般行政職員数は合併当時と比べて30 人(約14%)の減少である。この数字をどの程度合併による合理化の成果とみるか否かは意 見が分かれるかもしれない。客観的な数字のみを示せば、身延町職員の給与は国家公務員の 給与を100とするラスパイレス指数によると101.6となり全国の町村平均とほぼ同等である。
一人当たり平均給与額は年5,397千円であって(身延町 2013)、この額は、身延町における就 業者一人当たりの総生産が5,945千円(平成22年度)という計算からすると、ほぼ平均の所得 水準と言える。したがって、問われるべきは職員数であるが、これは福祉的な事業をどこま でやるかということのほか、守備範囲というか地勢上の条件や人口密集度によっても異なっ
てくると思われるので、地域住民の行政サービスに対するニーズを受けて行財政力の範囲内 で対応せざるをない。それはすなわち政治の姿勢の問題でもある。
総じて言えば、合併の目的の第一は自治体の財政力や自律の強化という点にあったが、そ れは合併しさえすれば実現できるというものではなかった。身延町にあってはこれまでのと ころ、合併前の水準を超えて強化されたとはとても言い難く、未だに旧3町時代の状態をブ レイクスルーするに至っていないことは明らかである。「過疎と過疎が合併しても過疎」とい う当たり前の現実が重くのしかかっている。
5.合併による中心化と周辺化
近代国家構築のプロセスで行われた市町村合併は、中央集権的な政治を確立するための一 種の求心力が働いた結果である。しかし他方で、この求心力はかつての伝統的な村落組織を 周辺部に追いやり、変更と再編を迫るものでもあった。以下では、かつての自然村的集落が 合併という行政的な境界形成の過程で次第に周辺化していったプロセスを三段階のモデルと して提示してみたい。新 ・ 身延町としての合併前、身延 ・ 下部 ・ 中富の旧3町はそれぞれに 明治と昭和の合併を経験していた。旧身延町と下部町について概略述べた後、中富町を例に とって三段階モデルを提示することにしたい。
旧身延町は、昭和30年2月に旧 ・ 旧身延町、下山村、豊岡村、そして大おお河こ内うち村むらの1町3ヶ 村が合併してできた町であった。当時の合併申請書には「南巨摩郡下山村 ・ 身延町 ・ 豊岡村 及び西八代郡大河内村は地域的に隣接し、従来から人情、風俗、産業等において実情が相通 じているので、この際これらの町村を合併することは、将来の発展繁栄を約束し、住民の福 祉を増進するところが大きい」と書かれているように(身延町誌編集委員会 1970)、近接した風 土と心情をもっていたとされる。
しかし、それぞれの旧町村は、それ以前にすでに合併によって再編成した行政集落村となっ ており、本来もっていたであろう自然村的集落は少なからず変質させられていたことを見落 とすことはできない。すなわち、旧 ・ 旧身延町は、明治8年までは身延山久遠寺の門内地域
(身延村)、波木井村、大野村、梅平村の4ヶ村の合併により再編成されたものであり、明治 11年の郡区町村編制法施行により南巨摩郡に所属し、昭和6年には町制を施行するという、
第一段階の合併を経験していたのであった。そして、この段階において、日蓮を当地に招き 入れた波木井(南部)実長が館をもち、駿河と甲斐を結ぶ往還道が通り、身延山久遠寺への 参拝客も集めていた梅うめだいら平地区は、旧 ・ 旧身延町の中心部を形成することになったと言ってよ いだろう。
少々煩雑になるが、旧身延町を構成した他の3ヶ村の系譜についても触れておこう。下山
村は、明治期に粟倉と下山の2ヶ村が合併し、豊岡村は同じく明治期に小田船原 ・ 清子 ・ 光 子沢 ・ 横根中 ・ 相又 ・ 門野 ・ 大城の7ヶ村が合併し、富士川左岸の大河内村は同じく明治期 に上八木沢 ・ 下八木沢 ・ 帯金 ・ 丸滝 ・ 角打 ・ 和田 ・ 大島 ・ 樋之上 ・ 大崩 ・ 椿草里 ・ 大垈の11ヶ 村が合併して成立した行政集落村であった。
それぞれの村には役場が置かれ、それなりに中心部が形成されていたが、昭和の合併によっ て再び求心力が働き、村の中枢機能は旧 ・ 旧身延町に移動したので、町(自治体)の面積が 広くなった分、多くの集落は取り残されたかのように周辺に位置することになった。
次に、富士川左岸に位置する下部町は、昭和31年9月に、南部の旧下部町、北部の久那土 村、東部の古関村、西部の共和村の1町3ヶ村が合併してできた町であったが、それぞれの 町村はこの合併以前の明治期に第一段階の合併を経験していた。
南部に位置した旧下部町の前身は富里村という村であり、明治8年に市之瀬 ・ 岩いわ欠かけ・ 大お炊い 平だいら
・ 清きよ沢ざわ・ 常とき葉わ(役場)・ 上野平 ・ 波高島 ・ 桃ガ窪 ・ 下部 ・ 湯ノ奥 ・ 杉山 ・ 北川の12ヶ村が 合併してできた。昭和29年の町制施行に伴い富里村から「下部町」へと改称したという経緯 をもっている。かつての村は代官所によって支配され、かつ地主支配による封建的な村落構 造ではあったが、村民は狭い地域の中で相互によく知悉した関係の中で村としてはそれなり に独立していたものと思われる。しかし、明治政府による町村合併はそうした村落社会の構 造と村民の生活圏を大きく変容させていった。12ヶ村が合併して豊里村という行政村が形成 されたときに中心地となったのは、甲斐源氏の流れをくむ常葉氏の居城があったと言われる 常葉や、武田信玄の隠し湯で有名な下部温泉(鉱泉)であり、それは身延線が開通した時(昭 和2年)に近接して三つもの駅(甲斐常葉 ・ 下部温泉 ・ 波高島)が設置されたことによく現 れている。だが一方で、村域が拡大され中心点が移動したことにより、中心地まで歩いて行 くには遠くなってしまった村々は周辺化して行かざるをえなかった。
北部にあった久那土村は、明治22年に樋とい田だ ・ 水みず船ふね・ 芝草 ・ 道みち・ 切きり房ふさ木ぎ ・ 車くるま田だ(役場)・ 三み 沢さわ
の7ヶ村が合併してできた村である。明治期の合併により三沢を中心とする行政集落村に 変化し、大正時代には県立峡南農工学校(現、県立峡南高校)が開設されたことや、身延線 延長に伴う久那土駅の設置(昭和3年)などによって、中心地は明確になって行ったが、中 心地までの距離が遠い集落は周辺化せざるをえなかった。
東部の古関村は、明治22年に古関(役場)・ 釜かまびたい額・ 中之倉 ・ 瀬戸 ・ 根ねつ子こ ・ 大磯小磯の6ヶ 村が合併してできた村である。もともと標高の高い所に点在する村々が集まってできた地域 であるので、中心地といっても格段に人口を集積するような所があるわけではないが、関と いう名に残されているように交通の要衝でもあった(現在は国道300号が走っている)ため、
またこの村としては比較的農業に有利な低い所に位置していたためか、古関を中心として第 一段階の行政集落村が形成されたのであった。
最後に西部の共和村は、明治8年に上かみ田たん原ばら・ 下しも田たん原ばら(役場)・ 宮みや木き ・ 一色の4ヶ村が合併し てできた村である。その後、富士川のこの地域に橋が架かり交通が便利になったことにより、
宮木と下田原の住民は中富町への分町を強く希望するようになり、結局、昭和33年に対岸の 中富町に編入された。事の正否は別として、この地域の集落は中心部が激しく揺れ動き、合 併問題を契機に住民はマージナルな立場に置かれたともいえる(下部町誌編纂委員会 1981)。 こうして、下部町も明治期の合併政策によって作られた行政集落村の前史をもち、第二段 階の昭和の合併に続いていることを無視することはできない。合併によって村域が拡大して 行くと、必然的に一つの自治体の中に人口が密な所と疎な所とが分化してくる。合併に際し ては、町役場は旧下部町常葉地区に置くことが決められ、これ以外の旧3村には支所を置く という対応が取られたが、身延線が延長され町内に甲斐下山(波高島)、下部(下部温泉)、
甲斐常葉、久那土の各駅が開設(*市ノ瀬駅は遅れて昭和7年開設)されると、駅近くの中心部と そこから離れた周辺の集落とでは便利さの格差は大きくならざるをえなかった。
さて、最後に中富町の合併プロセスについて述べる。6.において住民の生活状態につい て事例的に述べるので、とくにこの地域を使って合併の三段階モデルを提示しておきたい。
(第一段階)
中富町は、昭和29年8月に、富士川の右岸にあった西にし島じま村、大おお 須す成なり村、静しず川かわ村、 曙あけぼの村の4ヶ村が合併してできた町である。合 併と同時に新名称を用いて町制を施行している。その後南部の原 村や下部町の一部地域(上に述べた宮木と下田原)を編入して昭 和の合併を完成させていた。
中富町もまた、明治期に自然村的集落の合併による行政集落村 の形成から始まった。これを合併の第一段階とする。上記4ヶ村 の中で西島村は、市町村制公布の翌年明治22年に単独で自治体と して再出発できた唯一の村であったが、その他の村は合併により 再編されたものである。
順を追って見て行くと、まず、明治8年に、この地域の北西部 に位置する大おお塩しお村、九く成なり村、平ひら須す村の3ヶ村がまず合併し、それ ぞれの村名から一文字ずつとって大須成村という名称の行政集落
村が成立した。とは言え、このように小さな合併でも本稿で注 目している役場の位置の問題は、合併住民にとって重要な問題 であった。この第一段階の合併においてですら、この問題が争 点となって再び分村の危機を迎えたこともあった。ちなみに、
この時、この村の役場は九成から大塩へ移動している(中富町誌 編纂委員会 1971)。
続いて明治9年、西部の山間に点在する遅おそ沢ざわ村、江え尻じり窪くぼ村、
梨なし
子ご村、中なか山やま村、福ふく原はら村、古うる長わ谷せ村、矢や細さい工く村の7ヶ村が曙村 という新名称のもとに合併し、役場は梨子に置かれた。
次に、この地域の中央部に位置する静川村は、明治8年に寺てら 沢さわ
村、切きり石いし村、夜よ子ご沢さわ村の3ヶ村が組合村として発足し、明治 11年には手て打うち沢ざわ村が加わって4ヶ村の組合村となった。しかし、
そうした村連合から脱して完全な意味で合併するには明治22年 まで待たねばならなかった。合併当初は相対的に力のあった切 石村という名称で呼ばれていたが、2年後の明治25年に静川村 という新名称に改められた。ただし、役場は切石に置かれた(平 成の合併後も身延町役場の所在地となっている)。
最後に、遅れて編入した原はら村もまた、明治8年に八よう日か市いち場ば村、
伊い沼ぬま村むら、飯いい富とみ村の3ヶ村からなる組合村として発足したが、完 全な行政村としての合併は昭和8年まで待たねばならなかった。
村役場は3ヶ村の真ん中に位置する伊沼に置かれていた。
以上、明治期に行われた第一段階の合併は自然村的集落を統 合し行政集落村を編制するプロセスであった。
(第二段階)
しかし、昭和の合併は、すでに集落の行政的再編が成さ れていた村をさらに人口と面積において拡大し、一つの町 とした。すなわち、上にのべた5ヶ村をまとめ上げて中富 町という一つの地方自治体とし、その中心となる役場を切 石に置いたのである。これを合併の第二段階と呼びたい。
中富町を構成した5ヶ村の中で原村は、富士川と街道に接 した村であり、交通の面で比較的恵まれ、財政的にやや有
利な地域であったためか合併が遅れたが、結局中富町として編入された。合併後には富士川 や街道沿いにあった西島村、静川村および原村(の中の中心的な集落)が中心部となる可能 性をもつのに対し、山間の高地に沢深く入り込んでいる大須成村や曙村のような地域は周辺 化せざるをえなかった。だが、第一段階の合併ですら分村争議が起こるほど役場の位置は重 要であったはずなのだが、第二段階の合併ではもはや多くの集落が周辺化しており、そうし た「個人的」な問題はむしろ起こりにくかったのかもしれない。梨子から中心部までの距離 は6.2㎞にもなった(中富町誌編纂委員会 1971)。
(第三段階)
そして今回、中富町、下部町、旧 ・ 身延町が統合再 編制された平成の合併は、山梨県面積の7%にもなろ うとする広大な地域となり、非常に多くの集落が周辺 化される構造となっている。いわば、地方自治体の広 域化である。これを合併の第三段階として図示すれば、
かつての集落はもはや太陽から遠く離れた惑星の周り を回る衛星のごとき存在となった。
これまで、身延町を事例として、かつての自然村的 集落が行政集落村として統合され、さらに統合された
村が更なる合併を繰り返すことによって一つの自治体としての地域を拡大して行くプロセス を具体的に見てきた(8)。この行政村(自治体)拡大のプロセスは、明治、昭和、平成の三段階 のステップを踏んで具体化されたものである。第一段階は近代国家による集落統合を、第二 段階は戦後の制度改革と自治体再編を、第三段階は地方行財政の強化を目的として、いずれ も政府の強力なプッシュのもとに行われたことは間違いない。しかし、果たして、地域で生 活する当の住民は本当に合併を必要としていたのか、いずれの段階でもその疑問は残る。
村々の合併が行われるということは、次第に地域関係の複雑さを増大させる。一つの集落 の中ならば労働にせよ行事にせよ皆が共有しうるので、関係性はシンプルである。しかし、
これに他の集落が加わると、関係性は家対家のそれを超えて抽象的な集落と集落の関係にも なる。これがさらに拡大して村と村の関係が加わると、もはや個人としては直接関係するこ ともなくなるので、同じ自治体とは言っても共通の関心は持ちにくい。つまり、第一段階の 合併はまだしも、第二段階になるともはやフェイス ・ トゥ ・ フェイスの関係は結びにくくな り、第三段階の合併では一つの地域住民という行政的な単位以上に密接な関係を築くことは 極めて難しくなる。
集落を形成する人々は密な関係性をもち、一定の自給自足的自律性をもって生活していた。
それは単に経済的 ・ 生産的な面だけでなく伝統や文化の面での独自性をも意味していた。そ れゆえ、合併したからといって自分の周囲の人々との関係性を超えてゆくことはなく、依然 として旧集落の範囲内の関係性にとどまる傾向がある。それゆえ、集落間の関係性が深まら ない限り、合併を繰り返せば繰り返すほど集落は中心機能を外部に移譲することによって弱 体化し、更なる合併の繰り返しによって中心部へのアクセスが遠くならざるをえない集落が 増え、集落間 ・ 地区間の格差は拡大する。
町村合併は国の管理 ・ 統制や行財政の観点からは合理的な方法なのかもしれないが、住民 や集落の観点からするとシステムの自律性を弱めるものであり、それゆえに周辺化を促進し 地域格差を拡大するものであった。
6.周辺部に住む人々の生活
最も基礎的な単位である村落=集落が合併に次ぐ合併を繰り返した結果として、その多く が周辺化して行くプロセスを示したが、では、周辺化が進みつつもそこに居住せざるをえな い人々の生活(意識と行動)はどのようになっているのであろうか。次に実態を踏まえなが ら住民にとって市町村合併のもつ意味を考えてみたい。
ここで例として取り上げるのは、2010年度に現地調査をする機会があった旧中富町内の10ヵ 所の山間集落である(9)。具体的には、大塩 ・ 平須 ・ 久成の3地区(元大須成村)、および遅沢 ・ 矢細工 ・ 江尻窪 ・ 古長谷 ・ 中山 ・ 梨子 ・ 福原の7地区(元曙村)である。
かつて、大塩村、平須村、九成村は巨摩郡第31区として統括されていたが、前述のように 明治8年には明治政府の合併推進策に早々と呼応して、大須成村として合村した。もちろん 当時も今以上に交通の不便な山域に点在する村々であったが、それでも大塩村は155戸688人、
平須村は85戸344人、九成村は103戸449人の人口を擁していたという点で、村としての勢いは 今とは比べものにならないほど大きかった。また、元曙村の7ヶ村は、当初は巨摩郡第32区 として統括されていたが、前述の通り明治9年には曙村として合村した。合併当時の資料で はないが、昭和10年の曙村は322戸1,487人の規模であった(中富町誌編纂委員会 1971)。 ところが、新 ・ 身延町として合併し、大須成村が広い地方自治体の単なる1地区となった 今日、平成22年国勢調査によれば、大塩は67世帯141人、平須は17世帯26人、九成は21世帯38 人と3分の1~13分の1に減少してしまった。また、元曙村に関しても旧7ヶ村の人口は今 や112世帯209人となっており、昭和初期と比べても7分の1ほどに減少してしまった。
では、周辺化し、極度に過疎化した集落に残った人々の生活はどのようになっているのだろ うか。以下では⑴家族の資源、⑵仕事と収入、⑶日常生活の3点に分けて見て行くことにする。
⑴ 家族の資源
ここで家族の資源というのは、居住している人々の年齢を加味した家族構成と規模のこと を指している。そもそも身延町全体の過疎化が著しいが、ここで取り上げた10地区は、高齢 化率が50%を超えるという意味ではいずれも「限界集落」である。それどころか、地区によっ ては江尻窪や矢細工のように高齢化率が8割を超えるところもある。とくに女性の高齢化率 は高く、平須、江尻窪では女性の9割を超えている。否、8割とか9割とか言ってもあまり 意味が無いのかもしれない。そもそも地区の人口自体があまりにも少ないからである。
(表3)集落の年齢カテゴリー別人口
地区 総数 15歳未満 15~64歳 65歳以上 75歳以上 85歳以上 65歳以上%
身延町(全) 14462 1254 7515 5690 3563 1214 39
大塩 141 7 51 83 54 18 59
平須 26 - 7 19 16 4 73
久成 38 3 12 23 19 10 61
矢細工 37 - 7 30 26 7 81
古長谷 32 1 12 19 11 3 59
福原梨子 16 - 4 12 5 2 75
江尻窪 25 - 4 21 16 3 84
中山 60 5 17 38 21 5 63
遅沢 39 1 18 20 13 5 51
各地区=集落の危機的状況は家族形態にも現れている。家族の資源という観点からすれば、
家族の規模は大きいほど有利であるが、この10地区では三世代家族は極めて少数しかみられ ない。大塩に3戸、九成に1戸、古長谷に2戸、中山に2戸、遅沢に1戸を散見するのみで ある。反対に1世帯当たりの平均人数が2人を切っている地区が5地区もあり、家族員の年 齢の問題も大きい(総務省統計局 2013)。
さらに家族構成についてみると、その危機的状況は一層明確になる。先に65歳以上の比率 については述べたが、これらの地区では65歳以上の人のみで構成されている世帯が極めて多 く、江尻窪では9割が、矢細工では8割を超える。統計上「核家族」に分類されるものの、
核家族とは言っても18歳未満の子どもを含むような家族はほとんど見当たらない。三世代家 族が少ないだけでなく、「典型的」な核家族も少ないのである。この地域でみられる核家族と は、事実上夫婦のみの家族に他ならないのであって、しかも夫婦は共に高齢化している。そ れゆえ、夫婦の片方が亡くなり、一人暮らしをしている高齢者の割合も高くなっているので ある(総務省統計局 2013)。
(表4)家族類型別世帯数
地区 総数 親族のみ
の世帯 非親族を
含む世帯 単独世帯 核家族
世帯 核家族以
うち夫婦 外の世帯 のみの世帯
うち夫婦と 子供から成 る世帯
身延町(全) 5575 3986 2914 1234 1080 1072 21 1568
大塩 67 42 37 20 9 5 1 24
平須 17 7 7 4 - - - 10
久成 21 11 9 3 1 2 - 10
矢細工 23 11 10 7 2 1 - 12
古長谷 14 11 9 5 1 2 - 3
福原梨子 9 7 7 6 - - - 2
江尻窪 20 4 4 3 1 - - 16
中山 27 17 15 12 1 2 1 9
遅沢 19 12 9 6 2 3 - 7
⑵ 仕事と収入
これらの地区では高齢者が非常に多いので、収入を伴う労働をしている人は自ずから限ら れてくるが、意外にも高齢者比率の高い地区ほど就労している人が少ないとは言えない。確 かに、矢細工や江尻窪のように高齢者比率が8割を超えるようなほぼ高齢者のみという地区 は別だが、九成、遅沢、平須のような地区では限界集落化しているにもかかわらず半数以上 の人々が収入を伴う仕事に就いている。
就労者が比較的多い理由は地区によって異なる。例えば九成や平須は農業に従事する人が 含まれるが、遅沢では農業よりもむしろ事務や販売等の一般の会社業務に関する仕事に就い ている人が多い。九成や平須は農業の他は身延町内や比較的自宅から近いところで働いてい るのに対し、遅沢の就労者は少し離れた他市に仕事場をもっている。そこには就労のチャン スが得やすい地区の特性や、農業や自営業など定年退職を伴わない仕事を持っているか否か、
あるいは年金のみで生活できるような職業に就いていた人々がどれだけ含まれているのか等々 の、微妙な要因が絡み合っていると考えられる。さらに、九成や平須にはもともと地付きの 人々が多いということも、こうした違いに関係してくるのかもしれない。
ところで、こうした周辺部に住む人々は、通勤や通学はどうしているのであろうか。国勢 調査のデータによれば、通勤をしている人はほぼ全員が自家用車である。逆に言えば、自家 用車をもたない人はこれらの地域からの通勤は不可能であるので住むことができないだろう。
それゆえ、高校生等通学を必要とする人々にとって、こうした地域に住むことは必然的に難 しくなる。通学年齢に相当する15~19歳の人々もごく少数みられるが(大塩6、古長谷2、
江尻窪1、中山2)(総務省統計局 2013)、こうした人々の多くが鉄道の駅に辿り着くには自家 用車やオートバイを利用せざるをえない。
⑶ 日常生活
日常生活にとって最も重要なものは水に他ならないが、地区内であっても取水先はまちま ちである。町の水道を利用できるところもあるが、それができないところでは集落専用の簡 易水道を使っている。場合によっては川の伏流水や湧き水を使っている家庭もある。排水は 下水道がないので、合併式浄化槽や浸透式浄化槽を設置している家庭もあるが、依然汲み取 り式も多く、中には穴を掘って流したり川に「自然排水」という家庭も含まれる。
さて、日常生活にとって集落外の社会と関係する最も重要な活動の第一は、食品の調達と いうことであろう。たとえ自分の畑で野菜等を栽培していたとしても今時100%自給自足など ということは不可能なので、消費生活は誰にとっても必須となる。
近年ではモータリゼーションの影響と大型のスーパーやホームセンターの進出によって、
小さな店はすっかり衰退してしまった。われわれの調査によれば、この10集落の多くの人々 が買い物に行く店は、中富地区の国道沿いにある「フレスポみのぶ」というショッピングセ ンターである。ここにはスーパーマーケットのほか、ホームセンターやドラッグストアーが 隣接している。車で30分ほどかかるが、自家用車を所持している場合にはさほど苦になる距 離ではなく、日常の食料品や生活用品はここでほぼ調達することができる。
しかし、問題なのは足のない人々である。都会でも高齢化によって「買い物難民」が増加 しているが、その先を行くのが過疎地域に他ならない(杉田 2008)。限界集落の高齢者は、生 きて行くためになんとか食料を調達しなければならない。比較的元気な人は町営の巡回バス に乗って行くが、合併後、町有0バスが町営0バスとなり料金が片道200円かかるようになったの で、頻繁に行くわけには行かない。そこで、買いだめするといった工夫をするしかないが、
車ならいざしらず徒歩で大きな荷物を抱えてバス停から自宅までの急峻な山道を移動する困 難さは、想像に難くない。それゆえ、僻地に特有の形として移動販売という行商は高齢者の 味方である。品質や価格に不満もみられるが、やはりあると助かるものである。だが、これ も需給関係に影響されざるをえないので、近年衰退傾向にあって、地区によってはほとんど 巡回してこないところもある。
そうした中で、区長をはじめ集落の人々同士の助け合いは日常頻繁に見られるものである。
しかし、足のない高齢者にとってもっとも頼りになるのは、やはり家族である。別居してい ても週に一度でも買い物の手伝いをしてくれる娘や息子がいる人は、こうした僻地に住んで いてもそれほどの不自由は感じないのである。自らインターネットを利用してとまではいか
ないが、注文を別居の子どもに頼んだり、別居の子どもがインターネット等を介して通販に よって老親に届けるという方法もあるようだ。
日常生活において第二に重要な点は、健康管理ということである。この地区の人々にとっ て誰もが頼りにしているのは身延町早川町国民健康保険病院一部事務組合立飯富病院である。
昭和28年に設立され、現在11科87床の地域中核病院となっている(飯富病院 2013)。僻地医療 拠点病院をうたい文句にしているように、この地域の12地区に出張診療所所を開設し、また 患者の通院用送迎バスを無料で出している。ただ、診療科は限られてしまうのでここですべ てが済むというわけではない。例えば、産科がなく、入院して出産することはできないので、
自宅で出産することがなくなった今日では多くの人が甲府の病院まで行って出産するという。
重病の人や専門的な治療を要する場合には山梨大学医学部附属病院や甲府中央病院、あるい は甲府城南病院へ行くこともある。
急病や緊急事態の対応は峡南広域行政組合本部中部消防署に救急車と消防車が配備されて おり、緊急医療通報システム(ペンダント)が要望によって高齢者の家庭に配布されている。
しかし、救急車は連絡すれば直ぐに来てもらえるが、「周りの目」を気にして多少のことでは 自ら病院へ向かうという遠慮がちな村人もおり、通報システムは誤ってボタンを押してしまっ たとか、孫が遊んでいてボタンを押してしまったなどといった誤通報が少なくなく、高齢者 と高度な装置との相性をよくする工夫と訓練はもう少し必要である。
さらに、日常生活に重要な第三点として、ゴミ収集や公共機関へのアクセスということを 挙げておきたい。これらの地区に生活する人々は多少なりとも田畑を所有しているケースが 少なくない。そのような人々にとって生ゴミは堆肥にもなるし自分の家で焼却することも多 いので、都会の家庭のように大量のゴミを出すことはない。しかし、とは言っても生ゴミ以 外の燃えないゴミや廃棄物は出さざるをえないので、過疎化が進む地区のゴミの収集の問題 は今後大きくなる可能性がある。
また、役場関係の支所は合併後しばらくの間は維持されるとしても、やがて人口の減少に 伴い統廃合される可能性がある。小 ・ 中学校も同様で、そうした場合の対応策は応急処置的 なもの(例えば公費タクシー通学など)しかないので、周辺部に居住する人々にとっては今 後一層不便な状態が起こることが予想される。
以上を通して見いだされることは、事例の地域では絶対的な過疎化と高齢化をもとに周辺 化が進んでおり、足のない人は公的サービスと近所の人々の支え合いを通して、また子ども 等親族の支えによって生活を続けている。しかし、過疎化と高齢化は留まることを知らない ので、そうした生活もこのままではやがて困難になることが予想される。こうした周辺化す る構造は一体どうしたら変えることができるのであろうか。