• 検索結果がありません。

メルヴィルの「ベニート・セリノ」論 : デラーノ 船長の役割

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "メルヴィルの「ベニート・セリノ」論 : デラーノ 船長の役割"

Copied!
39
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

メルヴィルの「ベニート・セリノ」論 : デラーノ 船長の役割

著者 鈴木 義久

雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru

巻 4

号 1

ページ 1‑38

発行年 2010‑03

その他のタイトル The Role of Captain Delano in Melville's  Benito Cereno

URL http://hdl.handle.net/10723/76

(2)

メルヴィルの 「べニート・セリノ」 論

デラーノ船長の役割

鈴 木 義 久

この小論で扱うハーマン・メルヴィル (1819 91) の中編小説 「ベニート・セリノ」 は, 月刊雑 誌 パットナムズ・マンスリー・マガジン (Putnam’s Monthly Magazine of American Lit- erature, Science, and Art) 以下, パットナ ムズ と略す の1855年10月から12月まで 連続三ヶ月に亘って掲載されたあと, 翌年5月, 同雑誌にそれまで発表済みの作品の中から選んだ 中・短編小説集 ピアザ物語 に, 一部手直しさ れて収められている。

「ベニート・セリノ」 は, すでに同年1855年の 春までに同誌に発表され, 単行本化されていた長 編小説 イズラエル・ポッター, 流浪の50年 と同様, 実在人物の残した体験記を基に小説化さ れたものである。 この作品には残念ながら, イ ズラエル・ポッター の単行本化のさいにメルヴィ ルが冒頭に付した 「献辞」 のような, 作者の創作 意図が多少とも窺える可能性のある序文はない。

作者自身が提供してくれる情報が皆無にもかかわ らず, この小説が他者の著作を基に執筆したと判 るのは, 小説の冒頭第1行目に 「1799年にマサ チューセッツ州ダックスベリのアマサ・デラーノ は…」 (46(1)) と記されており, その結末近くに, 作中に描かれている事件に関する公判での, 「宣 誓供述書」 (103) を含む 「スペイン国公文書」 の 抜粋 (英訳) の摘要が, 組み込まれているからで ある この摘要部は, ちなみに, 作品全体の15

%強を占めている。 同時代の人々の中には1855 年10月1日の第一回目の発表だけで, 作者をメ ルヴィルと特定し この雑誌の掲載小説の作家 名は匿名とされていた , しかも四十年近く前 の1817年に公にされていた航海・旅行記を基に 書かれた小説であることも判読した知識人もい る(2)

原著とその中に収録されている英訳の裁判記録 をこの小説と比較調査した結果はすでに研究者に よって発表されている(3)。 その結果を踏まえなが ら概括すると, 独立戦争時の兵士ポッターの生涯 を描いた イズラエル・ポッター の場合には, メルヴィルの創作意図に沿って実際には原作に登 場しない人物名も多く出てきたが, この 「ベニー ト・セリノ」 では, 原作収録の裁判記録に見出せ る事件関係者の実名が, ほぼそのまま作中の登場 人物名に使われている。 登場人物の一名が原著に 出てくる他の人名に換えられているだけである。

逆に, 登場する二隻の船舶名の方は実名ではなく, 意図的に変えられている。 作品で描かれている事 件のあらましも, 原作にない虚構もかなり交えて 描かれてある イズラエル・ポッター の場合と 比べ(4), 実際に起きた事件に大体忠実であると言 えよう(5)

原著の体験記の著者は, すでに触れたように, 実名アマサ・デラーノで 「ベニート・セリノ」 の 主要登場人物の一人として冒頭から登場しており,

(3)

作品の舞台や他の登場人物の言動は, 主にこの人 物の眼, あるいは意識を通して第三人称の語り手 によって語られている。 物語は, 1799年に 「大 型アザラシ猟船にして交易船」, 「バチュラーズ・

ディライト号」 (59) の船長として, 彼が南米

「チリの最南端方面にある」 (46), 小さな無人島

「サンタマリア島」 の湾内に 「給水のため」 停泊 中だった時に, 入湾してきた他国籍の 「奴隷貿易 船」 上で起きた事件の顛末と, チリを含めた南米 のスペイン植民地の司法の一端を担っていたペルー のリマ(6)にある裁判所で後に開かれたこの事件に 関する裁判記録によって構成されている。

18世紀末の 「奴隷貿易」 と言えば, メルヴィ ルの母国アメリカの奴隷制にも自ずと眼が向くこ とになる。 この中編小説 「ベニート・セリノ」 が 発表された1855年という年は南北戦争 (1861 65) に先立つ六年前であり, 時期的にアメリカ合 衆国は, 特に北部は, 奴隷制に対する論争が激し かったころである。 批評家ポストローリアも指 摘するように, この作品の発表の場である パッ トナムズ 誌は, 反奴隷制の編集者を擁し, その 掲載記事もまさに奴隷廃止論者の記事を多く掲載 していた(7)。 この雑誌の愛読者であり, また主要 な寄稿小説家でもあったメルヴィルが, その社是 を意識しないわけにはゆかなかったろう。

だが, たとえ同じ時期のこの雑誌に人種平等主 義から厳しい論調で奴隷制を非難する他分野の識 者の論文が載っていようと, メルヴィルはあくま で小説家として彼らとは距離を保ち, それまで発 表した雑誌小説に見られる大方の傾向と同様に, もはや持ち前の鋭い批判の矛先を話題の対象に赤 裸々に向けたりはしていない。

「ベニート・セリノ」 のように奴隷が主要人物 の一人として登場している場合, 以前の長編小説 から読み取れるメルヴィルの立場からすれば(8),

独立宣言の核心を成す基本的人権尊重の理念に明 らかに反する奴隷制が批判の対象となっていても おかしくないのだが, 作品内には奴隷制に対する 一見してそれと解る批判的言及がない分, メルヴィ ルがどのような態度でいるのか把握は容易ではな い。 メルヴィルの奴隷制に対する姿勢に関して, これまでいろいろな研究者が意見を述べているが, 彼のそれまでの著作など, この作品以外からの資 料を援用して結論を下している場合が多く, それ だけ作品自体による作者の姿勢の把握が難しい問 題だという証になろう。

とは言え, この問題を避けて通るわけにもいか ず, できるだけこの作品単体から読み取れる範囲 内で, 筆者なりの答えを求めてみよう。 この小論 では, 作品の粗筋を追いながらその答えとともに, メルヴィルの創作意図を探ってみたい。

1

物語は, 主たる舞台となるサンタマリア島の湾 内に給水に訪れて停泊し, 二日目の夜明けを迎え て間もないバチュラーズ・ディライト号の船内の 寝台に横たわるデラーノ船長が, 航海士からの

「正体不明の船舶が湾に入ってくる」 (46) との報 告で眠りから覚め, 甲板に上がってその船影を望 遠鏡で実際に確認する場面で始まっている。

この時の早朝は 「その沿岸地方特有のもので」, 海も空も 「あらゆるものが静かで, 穏やかで, 灰 色だった」 と語られ, ただ一点, 低くかすめ飛ぶ 鳥たちの海面に落とす黒影が, 湾内の灰色一色の 光景に異質なものとして添えられている。 この影 も無彩色であり, 読者は一幅の水墨画を観ている ようだ。

そして, 語り手の湾の場景説明は, 「いまある 影は, これより来るさらに濃い影を翳らせる」 と

(4)

いう暗示的な表現で結ばれている。 メルヴィルは これまでの多くの小説同様, 物語開始早々から読 者に対し, 好からぬ事件が待ち構えているのを仄 めかそうとしているかのようだ。

「疑い深くないのは珍しいほどで, お人好し」

(47) だと語り手に紹介されるデラーノ船長は, 国旗も掲揚せず近づいてくるこの不審な船が海賊 船であるかもしれないと疑うが, その先に 「広が る水中の浅瀬礁」 の存在も知らずに湾内に近づい てくるのを見て, 活動水域に熟知している海賊船 ではなく 「新参の船」 だと判断し, 監視を続ける。

その船の操作は奇妙で, 進行方向が定かでなく,

「前夜から少し吹き付けていた風は, いまや極端 な微風となり, 方向も定まらず」, 船長は 「しま いにはその船が窮状に陥っているかも知れないと 推量し, 捕鯨艇を降ろすよう命じ, 航海士の慎重 な反対があったが, 自ら搭乗してせめて水先案内 を務め, 湾に入らせようと準備する」。

さらに, その船が 「長いこと外洋航海をしてい たかも知れないと思い」, 前夜数時間前に, 部下 に命じてボートを出して食料用に確保させておい た新鮮な魚を 「手土産」 として 「捕鯨艇」 に積ま せ, いまだに危険水域に向かおうとしている不審 船に向けて漕ぎ出す。

「その船に達する前に, 微風の向きが変わって 進路を変えたばかりか, 覆っていた霞の一部も晴 れて」 (48), その船は, 「激しい雷雨の後の白壁 の修道院のように」 初めてその全容を現す。 デラー ノ船長は 「一瞬, 眼前にまさに船一杯の修道僧が いる」 感じになる。 「霞がかった遠方に, 舷墻越 しに実際に群がる黒い修道僧と思われる者たちが こちらを凝視し, 一方, 開いた舷窓に断続的に現 れる, 他の動く黒い人影がかすかに認められ, ま るで回廊を歩くドミニコ修道士のようだった」。

さらに, 舞台に新たに登場した一重要人物であ

るかのように, この不審船の全貌が克明に語られ る。

デラーノ船長一行が船に接近すると, その実体 は, 「植民地にある港から港へと他の高価な積荷 とともに奴隷を運ぶ」, 「かつては豪華だった名残 を留める」 古い 「スペインの一等商船」 であると 判明する。 だが, 外観は荒れ放題なのが目立ち,

「エゼキエル [書] の枯れた骨の谷」 で船体を組 み立てられて船出してきたようで, 「砲は一門も 見あたらない」 が, 外観的な改変はされておらず,

「武張った様式」 の原型を保っていた。

「丸い卵形の楯のような船尾には」 (49), 「仮面 を付けた黒い牧神があり, 苦しみもがく同じよう に仮面を付けた像のひれ伏した状態の首を片足で 踏みつけていた」。 だが, 「船首像」 の方は 「帆布 で覆われており」, 「保護」 のためか, 「腐食を隠 すためかは, 定かでなかった」。 そして, 「その帆 布の下の台座」 にはスペイン語で 「汝のリーダー に従え」 直後に語り手の英訳 (“follow your

leader”) が付されている と書かれてあり,

さらに近くの変色した 「頭板」 には, 「かつては 金箔を被されていた堂々とした大文字で, サン・

ドミニックというこの船の名前」 が見えてくる。

読者は, 語り手の不審船名への言及に至って初 めて, デラーノ船長の望遠鏡に映る船の様子の描 写に 「修道院」 や 「ドミニコ修道士」 という語句 が, この船名の伏線として用いられていたのが判 る。 メルヴィルは, ドミニコ修道会の創設者であ る聖ドミニクス (St Dominicus, 11701221頃) の末尾を変えて, この船の名称に宛がっている。

接近する捕鯨艇がついにこの船の 「中央部の舷門」

まで引き寄せられ, デラーノ船長が乗船すると, 語り手は甲板上の様子の描写に入る。

船長は 「すぐさま白人と黒人の騒々しい群れに 囲まれ」, 「黒人の運搬船ではあるが, 後者の数は

(5)

前者の数を圧倒して」 いた。 ここで, サン・ドミ ニック号の全貌が露わになった時, 船上に認めら れた 「群がる黒い修道僧」, 「動く黒い人影」 がす べて実際の黒人奴隷だったことも, 読者に明らか にされる。

彼らは救援に来た船長に 「同じ言語で, まるで 声を合わせたかのように, 一斉にどっと共有の受 難話を吐き出し」, 「熱病と壊血病が彼らの大部分 を, 特にスペイン人の大部分のより多くを一掃し, ケープ岬ではかろうじて難破を免れ, その後, 何 日間も続けて無風で自失状態が続き, 食料が乏し くなり, 水はほとんど底を尽き, 唇が焼けた」 と, その窮状を訴える。

デラーノ船長は周囲を 「落ち着いてよく調べて み」 (50) る。 彼は日頃, 「洋上で人が多く乗組ん でいる大船, 特に外国籍のに初めて乗船するさい は, 得体の知れない乗組員がいた」 りして, 単に

「異邦の地」 や 「異邦人の見知らぬ家」 などに初 めて入り込んだ時とは妙に違った印象を抱いたも のだが, この異国船上では 「ちょっとした魔法に かかった気分」 になり, 眼前の乗船者らの 「風変 わりな服装, 身振り手振り, それに顔, こうした ものは海から現れた, 影のように淡い, 思いがけ ない印象的な情景」 だったせいか, 「その船が現 実のものでないように思われ」 る。

こうした魅せられた気分の中, 船長は 「四人の 老いた胡麻塩頭の黒人が」, 「それぞれゆるんだわ ずかな古綱の切れ端を手にして」, 「つまみ上げて 槙皮にしてい」 る姿に気付く。 その作業中に彼ら の 「物憂げに, 戯言を言うかのように歌う」 「低 く単調で途切れのない詠唱歌」 は, 「まるで葬送 曲」 のように聞こえる。

また, 後甲板の船尾楼でも, 「脚を組んで六名 の黒人」 が, 「錆びた斧」 を 「煉瓦とぼろ布の小 片で擦って磨いて」 おり, こちらのほうは沈黙し

たまま作業を続けていた。 ときおり, 「シンバル のように, 斧をぶつけ合って野蛮な音を立ててい た」。 「彼らは, 他の人々とは異なり, 朴訥なアフ リカ人の未開の表情をしていた」。

この二集団計十名の男奴隷の存在を把握したあ と, デラーノ船長はすぐさま視線を変え, 甲板上 にこの船の指揮者の姿を求める。 すると 「紳士然 とし, 控え目そうで, かなり若そうな」 (51),

「奇妙なほど贅沢な着飾りをしているが, 最近の 不断の気遣いと心配の跡をはっきり留めている」

この船の船長らしいスペイン人が, 「大檣にもた れて無気力そうに立ち, ある時は興奮している船 の者たちに憂鬱な, 無気力な表情を向け, またあ る時はこの訪問者に悲しげな視線を投げかけ」 て いるのに気付く。 その脇には, 小柄な黒人が付き 添い, 「時折牧羊犬のようにスペイン人を見上げ るさいに, その無愛想な表情には悲しみと愛情が 等しく入り交じっていた」。

デラーノ船長は群がる黒人をかき分けながら, そのスペイン人船長の許に向かい, 救援を申し出 る。 すると, 「厳めしい儀礼的な返答を受けたも のの」, 「スペイン人特有のその堅苦しさは, 優れ ぬ体調からくる不機嫌な気分で翳ってしま」 う。

ここで読者の脳裏に再び, 物語冒頭の語り手の

「いまある影は, これより来るさらに濃い影を翳 らせる」 という仄めかしが浮かんで来よう。 好か らぬ状態の時に悪いことが加わり, 状態はさらに 悪化するというこの仄めかしのメッセージは, ス ペイン人船長という一登場人物の健康状態にも込 められているようだ。 作者は読者に, 物語の進展 とともに, デラーノ船長だけでなくこのスペイン 人船長の今後の言動にも注目して欲しいかのよう である。

この船長ばかりにかまっていられないデラーノ 船長は, 乗船時に登ってきた舷門に戻り, 携えて

(6)

きた 「魚の籠」 を捕鯨艇から甲板に上げさせる。

「弱い風のことを考慮に入れて, この船が碇を降 ろせる前に数時間は要する」 と判断し, 部下にた だちに自船から艇で 「詰めるだけの水」, 「柔らか いパン」, 「カボチャ」, 「砂糖」, それに, 「私用の リンゴ酒の瓶」 を運んでくるよう命じ, 船長一人 がこのスペイン船に残る。

捕鯨艇 「が離れてそれほど経たぬうちに風が途 絶えると, 潮が変わり, その船はどうすることも できずに外洋へとまた漂い始め」 てしまう。 だが, デラーノ船長は 「この状態は長くは続かないこと を当てにし」, 艇が戻ってくるまで 「望みを抱い てこの異邦人らを元気づけ続け, こうした境遇の 人々と 南米北部のカリブ海沿岸地方を再三航 海したおかげで 彼らの母国語 [スペイン語]

である程度自由に会話ができるので, 少なからず 満足感を覚え」 る。

乗船当初は驚きがあったデラーノ船長だったが, それも 「憐れみで掻き消され」 る。 乗船者は 「ス ペイン人も黒人もともに, 水と食糧の不足で明ら かにやつれていた」。 水と食糧の不足がもたらす 規律の弛緩はあっても, この船の指揮者に 「もっ と活力があれば, 現在のような危うい状態にはなっ ていなかったろう」 (52) と思われた。 しかし, このスペイン人の船長の衰弱は, 体質, あるいは 今度の艱難が原因であろうと, 肉体的にも精神的 にも明らかで, 見過ごしようがなかった。 「根深 い落胆の餌食となっていた」 ようで, 今や彼は,

「水や食料が, 遅かれ早かれ, 確実に補給される という見込みがあり」, そのうえ救援の手を差し 伸べてくれたアメリカ人船長という直に 「相談に 乗る」 相手がいるというのに, 外観からは何ら彼 に希望を与えているようには思われなかった。

「気力が弱り」, 閉所で 「重苦しく指揮をして回る ことに拘束され, その否応なさにうんざりし, 心

気症の修道院長のように彼は, ゆっくりと動き回 り, 時々, 突然立ち止まったり歩き出したり, あ るいは, ジッと見つめて, 唇を噛み, 人差し指の 爪を噛んだり, 顔を紅潮させたり青ざめたりし, 顎髭をグイッと引っ張ったりして, ぼんやりした り鬱ぎ込んだりする症状を見せた」。

このスペイン人船長は 「割に背が高かったが, 丈夫であったためしがないように思われ, 今や神 経のすり減るような災禍でほとんど骸骨のように 痩せていた。 さる肺疾患の傾向が最近確認された ように見えた。 その声は肺を半分失った者のよう であり, 押し殺したようにかすれ, ささやくよう なしゃがれ声だった」。

こんな虚弱な人物だったので, 「専従の召使い が気遣いげに付き添っているのも無理はな」 く, 甲斐甲斐しく主人の世話をするこの黒人は, 「召 使いというより献身的な伴侶」 と映る。 「黒人全 般の騒々しい御し難さや, 白人の黙り込んだまま のらりくらりしている様にも注視したあと, デラー ノ船長はこの黒人バボーの変わらぬ好ましい行為 を目の当たりにして」, 「満足感を覚えないわけに はいかなかった」。

語り手はここでやっと, 黒人の召使いの名を紹 介し, 続いて付き添われるスペイン人船長の名を 明らかにしている。 この小説の題名 「ベニート・

セリノ」 がその名である。

「このスペイン人船長の個人的な落ち着きのな さが, 当座のその船の全般を覆う苦しみのなかで 顕著な特徴の一つとして目を引」 き, デラーノ船 長は, セリノ船長の非友好的な面 「に少なからず 憂慮」 する。 彼の 「態度からはまた, 一種の意地 悪で陰鬱な蔑視が伝わってき, 少しでも骨を折っ てそれを隠そうとする気配はまるでなかった」

(53)。

だが, 彼を哀れと思うデラーノ船長が, 「これ

(7)

をしつこく悩ませる病気の結果のせいにした」 の は, 経験的に世間には, 「長引く身体的苦しみの せいで, あらゆる社交的な愛想の良さが帳消しに されそうな特異な御仁がいることに気付いていた」

からだった。 サン・ドミニック号の乗船者たちは,

「まるで自分たち自身が黒パン [=粗食] を強い られたかのように, やって来る者に遠回しに何ら かの冷遇や侮辱を示すことによって, おのおのが 彼らの味わった経験を味わうのは公正なことだと 思ってい」 るようだった。

デラーノ船長は 「根本的に自分を不快にさせる のはセリノ船長の冷淡さであ」 り, 付き添いの黒 人バボー以外の者には誰であろうと, 彼が同様の 態度を取っていることにも気付いていた。 さらに 語り手は, 彼が 「よそよそしく黙ったまま静かに 歩き回る姿を見ても」, 誰一人としてこの人物が 船上の絶対的権威のある最上級指揮者とは思われ なかったろう, と語っている。

ただ, セリノ船長のよそよそしさは 「現在の苦 境」 にそぐわず, その 「態度にそれでもなお固執 する」 のは, 「辛い克己状態が長く続くうちに生 ずる自制の習慣の現れにすぎないとも思われ」

(54) たので, その態度が 「自分に向けられたの が認められた時」 も, デラーノ船長の 「不快な気 持ちはその分だけ薄らいでいった」。

デラーノ船長の 「心が引きつけられたのは, セ リノ船長だけではなかった」。 その眼は, 甲板上 の規律の乱れにも向けられる。

彼には 「乗船者の多い船の警察」 の役目も果た す 「当直航海士たち」 の不在のために, 規律が乱 れている印象がした。 例の黒人の 「古ロープのほ ぐれ繊維集めの老人」 たちが, 「時々黒人たちへ の警告する巡査役を果たしているようにも思われ た」 が, 「甲板を沈静化すること」 はできていな かった。 この奴隷貿易船に 「欠けていたものは,

厳格な上級航海士だった」 が, 「甲板上には四等 航海士の姿すら認められなかった」。

ここまでにメルヴィルは, 語り手に主にデラー ノ船長の視点から, 異国船との遭遇, 乗船したそ の船の甲板上の様子, その船長とそれ以外の主要 な登場人物名やその第一印象を語らせ, 物語の当 初に暗示した 「これより来るさらに濃い影」 の落 ちる舞台の全体像を, ひとまず説明し終えている。

同時に, その説明の最中にデラーノ船長自身の人 となりも, 読者に語り伝えようとしている。 これ まで見てきた通り, 通常航行と認められない外国 船を認めるや異常を感知し, すぐさま考え得る必 要物資を持って自艇で駆けつけて救援を申し出る デラーノ船長はひとまず, 経験豊かな実行力のあ る博愛主義的な船乗りであると言えよう。

2

サン・ドミニック号の規律の弛みを憂い, 乗船 直後に訴えられたこの船を襲った災禍をさらに詳 しく知りたいデラーノ船長は, 再び 「何らかの冷 ややかな肘鉄砲を食らうのは嫌だったが」, 「最善 の説明はきっと, 船長にしてもらえよう」 と思い, 意を決してセリノ船長に 「船の遭遇した災難の詳 述を」 求める。

するとこの船長はフラフラと 「よろけて」 (55), デラーノを 「虚ろげに凝視し, 仕舞いには甲板に 視線を落として」 しまう。 しかたなく彼が, 他の スペイン人船員に尋ねようと船員の一人に近づこ うとすると, セリノ船長に後ろから呼びかけられ て制止され, やっと本人の口から話をしてもらえ ことになる。

「二人の船長は話の大半が語られているあいだ, 排他的な場所である主甲板の後部に立ち, 例の召 使い以外余人は交えなかった」。 これ以降も, デ

(8)

ラーノが用を済ませサン・ドミニック号から離船 する直前まで, 従者バボーがセリノ船長の側から 離れることはほとんどない。

セリノ船長による災禍の説明は, 次のようなも のだった。

サン・ドミニック号は, 「雑貨物, 金物類, パ ラグアイ茶など」 を積み, それに, 「充分な航海 士と船員に六, 七名の乗客」 と, 今では半減以下 になってしまったが当初は 「三百人以上」 の黒人 を乗せ, 「百九十日」 前にアルゼンチンの 「ブエ ノス・アイレスを出港して」, ペルーの 「リマに 向かっていた」。 ところが 「ケープ岬沖で烈風に 遭い, 夜間一瞬にして最良の航海士のうち三名が, それに十五名の船員が, 大墻下桁もろとも失われ」

たうえに, 「船体を軽くするために, 他のより重 いマテ茶袋を, そのさい, 甲板のロープでしっか り縛ってあった送水管の大部分も一緒に海中に投 じ」 てしまった。 それが, 「その後食らった長い 船上暮らしと相まって, 結果的に受難の主な原因」

となった, というのである。

説明の間, セリノ船長は何度も咳き込んでは体 調不良の状態になり, 従者のボノーに支えられな がら言葉を続けようとする。 ボノーは, ご主人様 は 「うわごとを言っておられます。 いま, 疾風の あとに続いた疫病のことをお考えです」 (56),

「これらの発作は長くは続きません, じきに調子 が良くなりましょう」 と口を挟む。 やっとセリノ が 「途切れ途切れに言葉を続け」 られる状態にな ると, 語り手自らがその要旨をすると読者に告げ, セリノの続けた説明の要約をし始める。

サン・ドミニック号がケープ岬沖で嵐に襲われ たまま何日も翻弄され続けたあと, 壊血症が激発 し, 白人も黒人も多くの人命が失われた。 やっと のことで太平洋に入った一行は, マストなどの円 材類が破損し, 生存の乗組員ではちゃんと操作で

きず, 強風のせいで北へのコースを取れず, 引き 続き何日も制御の効かないまま船は北西方向に吹 き流され, 微風は見知らぬ海域で突然去り蒸し暑 い凪に入ってしまう。

水不足に壊血症, さらには 「悪質な熱病」 に襲 われ, 多くの奴隷の家族や, 残っていた航海士を 含めた多くのスペイン人の命が奪われる。 凪のあ とに来た 「猛烈な西風」 で, すでに引き裂かれて いた帆は垂れ下がったままでボロ布同然だった。

不足人員と物資を求め, 南米チリの最南端の文明 港バルディビアに向かったが, 沿岸近くで濃い霧 が発生し, その港を見ることもできなかった。 何 もかも欠乏状態で風や潮流などに翻弄され, サン・

ドミニック号は何度か後戻りしたりしてさ迷う羽 目になった, と要約されている。

語り手の要約が終わったあと, 再びセリノ船長 本人による補足的な説明が始まる。

セリノ船長は, そうした苦境の間, 黒人たちは よく助けてくれ, 彼らが今甲板上を歩き回ってい るのは所有者に許可されているからであり, なか でも従者バボーは, 時々不平を言いたくなりそう な時に同胞の黒人たちを宥めてくれて, 大いに感 謝している, と述べる。 それを聞き, ずっと主人 に侍って身体的にサポートしている姿を見て感心 していたデラーノは, 「そのような友人がいて羨 ましい, 彼を奴隷とは呼べぬなあ」 と驚嘆の声を 上げる。

語り手はこのあと, セリノ船長と従者の服装描 写をし 前者は着剣をしてきちんとした服装を, 後者は古い帆布製のざらざらした継ぎ接ぎだらけ の平服をして, 「フランシスコ会托鉢修道士」 の ようだったとある , 「率直な考え方の」 デラー ノは, 苦境に陥っていた船上ではそぐわぬような 船長の服装だと思う。

デラーノは長い凪を乗り切れなかった理由の一

(9)

部は, この 「若い船長」 (58) の 「操船術と誤っ た航行法」 のせいだと思うが, 話を聞き終わり同 情心が頭をもたげてき, チリのコンセプシオンで 修理を受け, 目的地のリマへ滞りなく着けるよう にと, 不足の人員と物資の提供をさらに申し出る と, セリノ船長の顔には歓喜の表情が浮かぶ。

しかし, 脇に付き添っているバボーは, 「興奮 は主人の体に障りますから」 と言葉を挟むと, ま たもとの自制的な態度に戻ったセリノ船長はまも なくして, 船尾楼の方に顔を向け, デラーノを誘 おうとする。 そちらの方では, 船尾楼に登る階段 の最上段の両端に, 時折手斧を打って耳障りな音 を立てている例の手斧の磨き手の黒人が一人ずつ おり, デラーノは 「少し気が進まなかったが, た ぶん尻込みすらしながら, 慇懃さを繕って, 不本 意ながらも船長の招きに従う」 (59)。 彼らの間を 通り過ぎるときに, 「鞭打ちの刑を受ける人のよ うに, 不安からふくらはぎに痙攣を覚える」。 だ が, 「彼が振り向いて黒人らを見ると, 一心不乱 で愚直に仕事に没頭していた」 ので, 「今し方の 自分の落ち着きのない慌てふためきに, 苦笑せざ るを得なかった」。

船尾楼に登った二人の船長が前方の甲板を見る と, 大皿の料理を平らげていた 「黒人ボーイ三人 とスペイン人ボーイの二人」 のうち, 「黒人ボー イの一人がスペイン人ボーイの一人の掛けた言葉 に怒って」, 槇肌拾いの黒人に慎むよう言われた が, ナイフでそのスペイン人ボーイの 「頭に一撃 を加えて深い傷を負わせ, 出血させる」 光景に出 くわす。 再び規律の乱れの悪例に接して怒りを覚 えるデラーノは, 船長に 「バチュラーズ・ディラ イト号でこのような事件が出来したら, 直ちに罰 せられますが」 と抗議する。 するとセリノ船長は,

「突然睨み付け, 半ば狂人のような表情をそのア メリカ人に向け, それから, 無気力に戻って,

確かに, 確かに と返答した」 のだった。

デラーノにすれば, この船長は部下をあるいは 奴隷すらも押さえられない, 権威のない肩書きだ けの船長ではないかと思わざるを得なかったのだ。

そして, 黒人ボーイの行動を止まらせようとした 槇肌拾いの黒人について, 彼らを 「黒い羊の群れ の羊飼いに指名したのか」 (60) と質問すると, 船長はその質問を 「皮肉っぽい当てつけだと決め てかかって不快に思ったかのように, とげとげし い調子で」, 肯定の返答をする。 さらにデラーノ が, 気に障る音を出す手斧磨きについて質問をす ると, 船長から, 海中に投棄しないで済んだが塩 水に浸ってしまった商品を 「点検し, きれいにさ せているのだ」 と, 回答される。 そして, 「黒人 の主要な連中」 はセリノ船長の友人の他界した

「アレクサンドラ・アランダ」 の所有であり, そ れ以外は船も含めすべて船長の所有物であるとも 教えられる。

セリノ船長がその故人の名を口に出すや, 「そ の様子は悲嘆に暮れ, 膝はわななき, 従者が支え」

なければならない事態になるが, それにもかかわ らずデラーノがその友人のことを聞くと, 航海に 出るときは一緒だったが, 「熱病」 で亡くなった ことを, 「再び体を震わせながら」 答える。

船上で病死した友人の話を聞いたデラーノ船長 には, かつて自身が航海中に実弟の死に遭遇し, 海葬せねばならなかった辛い経験があり, 同情心 から 「その友人の亡骸は船上にあるのか」 (61) と尋ねると, セリノは 「まるで幽霊に向かってで あるかのように恐怖に襲われた身振りをしながら, 侍る付き添いの腕に倒れこんで」 しまう。 そして デラーノ船長は, この従者から 「無言で, 二度と 主人にこれほどまで辛い思いをさせる話題を持ち 出さないでくれと請」 われたような気がする。

この故人アレクサンドラ・アランダが話題となっ

(10)

た時のセリノ船長の様子の激変は異様で, 読者は 強く印象付けられ, その背後に何か大きな理由が あるにちがいないと, 想像がつい働いてしまおう。

さらに, 語り手はこのあともセリノ船長の容体が 肉体的以上に精神的に悪い状態にあることを繰り 返し伝えようとしている。

容体の良くなさそうなセリノ船長に憐愍の情を 禁じ得ないデラーノだったが, 船首上甲板から 10時の時を告げるヒビの入った鐘の音が聞こえ た時, 下甲板から 「鉄の首輪から鎖が垂れて胴体 を三重に巻き, 末端の輪が鉄の腰巻きの南京錠に 繋がってい」 る巨大な黒人が姿を現し, ゆっくり と船尾楼を登ってゆき, 「発作から立ち直った」

セリノ船長の前で立ち止まる。 その姿を見るや, ギクッとしたセリノ船長の 「顔にさっと憤りの色 が走る」 が, 「あたかも突然無益な憤怒だと思い 起こしたかのように, 蒼白な唇を一文字に結」 ぶ。

この新しい登場人物アーチュファルは暴動を起 こした黒人奴隷で, 「二時間毎に船長の前に立」

(62) つように命じられ, 「許しを乞」 えば鎖を解 くことになっていた。 従者バボーに促されてセリ ノ船長が許しを乞えと問うと, 「強情な」 この巨 漢は 「いやっ, これでよい」 と答える。 この奴隷 はすでにこうした状態で 「約六十日」 も経ってい るとの説明を受けたデラーノは, さらにアーチュ ファルは 「故国では王であった」 と言われ, また, バボー自身の口から彼自身はかつて 「黒人の奴隷」

であり, 「いまは白人の奴隷でさぁ」 と教えられ る。

たいした罪ではないのなら許してやってはどう かと尋ねるデラーノ船長に, バボーが 「高慢なアー チュファルがまず, ご主人様の許しを乞わなけれ ばいけませんや。 そっちの奴隷は南京錠で, こっ ちの主人が鍵を持ってるってわけでさ」 (63) と 独り言を言う。 これを耳にしたデラーノはセリノ

船長の首に鍵がひもで掛けられているに気付き, 微笑んで 「そうか, セリノ船長 南京錠と鍵か

意味ありげな象徴ですな, まことに」 と語る と, これを聞いたセリノ船長は 「唇を噛んだまま, よろめいて」 しまう。

この直後, 語り手はデラーノを 「当てこすりや 皮肉の言えない生まれつきの愚直な人」 と説明し ているが, そんな人柄の彼が見て感じた通りただ 率直に述べた感想が, 肉体的にも精神的にも弱っ ている様子のセリノ船長には, 聞いた瞬間に体の バランスを失わせるほど何か強烈な意味合いの言 葉だったことを意味する。 それがどのような意味 合いだったかはこの時点では不明だが, メルヴィ ルは語り手に, デラーノのこの言葉をセリノ船長 がどう受け取ったかを, 「その心気症患者 [セリ ノ船長] はどうしたものか, 少なくとも口先だけ の命令ではこれまでのところ, その奴隷 [アーチュ ファル] の堅固な意志を屈服させる力がないこと への意地悪な非難と理解したように思われた」 と, 推測させているだけである。 引用にある 「心気症 (hypochondria)」 とは, 「実際には病気でない のに心身の不調に悩み, 重い病気ではないかと恐 れる状態」 ( 広辞苑 ) のことを言うが, 作者は セリノ船長という登場人物に 「心気症」 というレッ テルを貼り付けて, 「心気症」 を, デラーノが行 き掛かり上相手にしなければならなくなったこの 不可解な船長の言動を解釈する時の, 前提となる ように設定している。 デラーノが, この前提から 逸脱するようなセリノ船長の以降の言動に対して, 疑惑・不信を抱くことがあっても, この船長は, 結局, 「心気症」 だから仕方がないと, どこか自 らを納得させてしまう合理化のパターンが以降繰 り返される。

その巨漢奴隷と主人セリノ船長との関係を 「南 京錠と鍵」 という比喩を用いて率直に表現した自

(11)

分の言葉を契機に, 再びこの船長との間に気まず い雰囲気が流れ始めたと思ったデラーノは, 自分 の言葉が誤って伝わったことは放置したまま, 話 題を変えようとするが, 「上述の思い過ごしの侮 辱の名残を不機嫌に噛みしめているかのように相 手がこれまで以上に引きこもってしまったのを見 て, やがてデラーノ自身もだんだんと言葉少なげ になってゆく」。

まもなくセリノ船長はバボーに付き添われてそ の場を離れ, 「低い声で二人で話し始め」 る。 デ ラーノはこの行為を 「不愉快」 に思い, セリノ船 長にはいまや威厳のかけらもないように思われた ばかりか, 従者に感じていた 「誠実な献身という もともとの魅力」 (64) が消えてしまう。 困惑し ながら視線を船の反対側に向けたとき, デラーノ は甲板から後檣の索具の梯子の横木に移動する

「若いスペイン人水夫が, 秘かな意図で視線をじっ と自分に向け, やがて, まるで自然なつながりに よってであるかのように, ひそひそ話す二人に移 した」 のに気付く。 自身も視線を二人の方へ向け て, 少し驚く。 なぜなら, セリノ船長の様子から, 多少とも自分が 「話題の主」 となっているように 思われたからだった。

語り手はこのあと, この船長の 「礼儀正しさと 不作法が妙な具合に交互に現れるのが」 「無垢な 狂気か邪な詐欺」 のどちらかに因るのでなければ,

「説明できなかった」 と語り, あれこれと思考す るデラーノの心の内を語っている。

狂気ではなく, 「この地方ではもっとも商魂た くましい大商家の一つに属する」 (65) 名家の名 を騙る 「詐欺師」 とも考えるが, 遠くからセリノ 船長の横顔, 正面を向いた顔を見てみた時, デラー ノはその品の良さに打たれ, セリノ家出の本物だ と認識し直す。

こうして勝手に思い直したデラーノは, 「この

スペイン語の髭文字 [=セリノ船長に関する真偽]

に対しては」, 疑いが晴れないのは残念だが 「不 信」 を抱いていると本人に感づかれたくないので,

「今のところ疑わしいことはしばらく余白を空け たままにしておくのが最善だ」 として, 最終判断 を保留する。

すると, その本人であるセリノ船長が 「まもな く引きつった陰気くさい青白い顔をして, はるば る来訪者の許へ従者に支えられながらやってくる」。

ハスキーな小声で 「陰謀を匂わすような抑揚で」, デラーノ船長の来し方や乗組員の総数, その夜の 予定, 船の武器の装備を尋ねてくる。 その間に会 わせた眼には 「怯んだ当惑」 の色が認められた。

そのあと, 「突然ぎこちなく話題を変えて」 少し 話したものの, 「詫びも言わずに反対側の舷墻に 従者と引き下がり, そこで再びひそひそ話を始め」

る。

その時, 先ほどの若いスペイン人水夫が上方か ら索具装置伝いに下りてきて, 再び二人に視線を 定めるのを目撃したデラーノは, その行為には何 か 「秘めた意味」 があると感じる。 二度も視線を 密談中の二人に向けることで, 密談の話題の主が 自分だと推測できた。 「二人には陰謀者の雰囲気 があった」 (66) のである。

セリノ船長の自船に関する質問と水夫の行動は,

「それまでの疑惑を無意識に蘇らせ」 (67), デラー ノの 「希に見るほどの実直さは耐えきれな」 くなっ て, 「陽気でおかしみのある表現を選び出して」

急ぎ早に二人の許へ行き, セリノ船長に彼の従者 を 「枢密顧問官」 のように信頼しているのですな, と褒める。 すると, 「愛想好くにこりと笑う」 従 者とは逆に, セリノ船長は 「有毒動物に一咬みさ れたかのように, ギクッとした」 反応を示し, 少 ししてから 「その通り, 信頼しています」 と答え, 打ち解けぬ様子で突っ立ったままでいた。 デラー

(12)

ノは, 何やらこのまま傍にいるのが 「不作法」 に 思えてその場を離れ, 自然とこの船長の 「不可解 な挙動を何度も何度も思い巡ら」 す。

船尾楼を降り, 下の船室につながる暗い昇降口 を通り過ぎた時, 光るものが眼に入ったので下を 見ると, これも先ほどの水夫が早足でうろつき回っ て懐に何かを隠すようにする姿が認められた。 こ れも何かを伝えようとする 「合図」 かも知れない,

「不安な状態にあるときに, 自分の五感に惑わさ れているのではないと確信できさえすれば, そう ならば…」 と思い惑う。

自船に関する質問を思い巡らしていると, 「奇 妙な偶然の一致で, 不気味に批判」 するかのよう に, 黒人たちの斧を打ち合わせる音が襲い, 「疑 いをもっとも抱きそうもない」 デラーノにさえ, 何か不快な疑惑が執拗に生じてくるのだった。

3

凪の中, サン・ドミニック号は 「なす術もなく 潮流に入り込み, 段々と加速して大海の方へと向 かってゆき」 (68), 「間に割り込んできた岬がア ザラシ猟船の姿を消す」 と, デラーノはほとんど 認めることができなかった考えに身震いし始め, とりわけセリノ船長にかすかに恐れを抱き始める と, わが身を奮い立たせて 「これらの妄想は何を 意味するのか」 と自問する。

デラーノの自問した内容が, 語り手によって細 かく紹介され始めている。

セリノ船長が何か好からぬことを企んでいると すれば, 自船から離れるのはおかしい。 災難に遭っ た船が, その乗船員が弱っているのに海賊行為な どできないではないか。 「人の形をした悪魔」 が 人気のない住居に入り込んできて悪行を果たすま で退却しないのではないか。 マレーの海賊なら港

に誘い込んだり, 海上で自船の乗組員が少ないの を見せて安心させ, 斬り込み隊を乗り組ませたり しようなどと, 以前耳にした話までもが蘇る。

頭の中でいろいろな話を思い描きながら, セリ ノ船長がサン・ドミニック号の遭遇した災禍の話 をしていたときの態度を反芻し, 「その態度には 陰鬱な口ごもりや逃げ口上があり」, 「彼に関する 限りは, 邪な目的で話をでっちあげている者の態 度だった」。 だが, 乗船時からこれまでの甲板上 の, あるいは乗船員の様子などを総合すると, 船 長の話を 「確証する」 ものであり, 「作り話」 だ とすると, 乗組員全員にそれを 「前提に行動させ る訓練」 を施さねばならず, この 「仮説は信じが たかった」 (69)。 そうかといって, 「もし船長の 真実性を疑う根拠があれば, この仮説も筋道の通っ たものとなっ」 てもしまうのだ。

デラーノの 「疑う根拠」 として, セリノ船長の 自船に対する質問が残っていた。 だがその質問も, 下心ある者があけすけにその対象である船舶の船 長に対して聞けないだろうと思い, 「結局, 今退 けられない疑惑や不安はほとんどない」 と結論付 け, デラーノは 「とうとうそれまで抱いていた不 吉な予感を嘲笑し始める」。

セリノ船長には船の指揮をやめてもらい, 自船 の 「人格者で, 優れた航海長である二等航海士に 委ねてコンセプシオンまで航行すれば」, サン・

ドミニック号にとっても, また 「あらゆる気苦労 から解き放されて自室で従者に面倒を見てもらい」,

「ある程度健康を回復してまた指揮を執れるよう になれば」 セリノ船長自身にとってもよかろうと 計画する。 このチリの良港については, デラーノ がセリノ船長から直接船を見舞った災禍の話を聞 いて援助を申し出たときに, すでに提案していた 経由港である。

そのあと語り手は, 「セリノ氏がデラーノの運

(13)

命をあらかじめ秘かに定めた意図と, デラーノ船 長がセリノ氏の運命を快活に取り決めた意図には 違いがあった」 と, この先の成り行き, 特にデラー ノの運命を暗示するような, 読者にとってはかな り気になる説明をしている。 セリノのこの 「デラー ノの運命をあらかじめ秘かに定めた意図」 が何を 指しているのか今の時点では判らないが, 舞台総 監督メルヴィルが語り手にこう発せさせた自身の 天の声によって, セリノが何かを隠していると いう事実を観客の読者に伝えているわけで, デ ラーノがこれまで何度もこのセリノに対して抱い てきた疑惑・不安は, 何か正当な確固たる根拠の 存在を前提に描かれてきたことになる。 語り手の このデラーノの運命の説明は, 「いまある影は, これより来るさらに濃い影を翳らせる」 という暗 示的な表現と呼応する, 読者へ先に待ち構える不 吉な出来事のメッセージと思われる。

そのセリノの何らかの秘められた意図の対象で あるデラーノだが, 自船の姿を自然の遮蔽物で見 失ない, 多少の不安を覚えていた 「この善良な海 の男は, まもなく遠方に自分の捕鯨艇を認めたと きに, 少し安堵の気持ちがないこともなかった」

とその心中が説明されている。

疑念とともに不信や不安を抱き, それらを吹き 払って自信を回復する描写はこのあともしつこい ほど何度も繰り返されている。 それを通してデラー ノ船長は, 単なる型通りの経験豊かで実行力のあ る立派な船長ではなく, 普通の人間が当然覚える 負の感情を抱いて苦しみ, それをなんとか克服し ようと苦悩する姿が描かれることで本然的に弱い 人間の一面が付与され, 結果的にその人物像に奥 行きができ, その実在感が多少強められていると も言える。

だが一方でメルヴィルは意図的に, もともと

「疑い深くないのは珍しいほどで, お人好し」

(47) で 「率直な考え方の」 (57), 当初立派と思 われたデラーノ船長を, 異国船上で両極端な態度 を取って悩ませる心気症のセリノ船長らを相手に 孤軍奮闘させる状況に置き, さらに, 新たに語り 手によって注入させた性格 疑惑・不安を抱え 込むことに 「耐えきれな」 い 「希に見るほどの実 直さ」 (67) によって, 不安を払拭し本来の 自分に戻りたいという気持ちに急き立てられ, 物 事を都合の好い方へと解釈して厄介事から一刻で も早く逃れようとする, やや矮小な人物へと変貌 させようとしてもいよう。

「疑い深くないのは珍しいほどで, お人好し」

という作品冒頭で掲げられた人柄が, 異国船救出 というデラーノの隣人愛的な博愛主義的行動の源 泉と見なせるが, 同時に, このようなマイナスイ メージの人物への変貌を遂げさせる源泉ともなっ ており, メルヴィルは, 後のこの時に備え, 最初 から計算して物語冒頭にこの人柄紹介の一句を置 いたと判断されるのだ。

さて, 船上の乗船者たちも近づいてくる捕鯨艇 の姿を認め, 喜びの声を上げる。 セリノ船長もデ ラーノに近寄ってきて 「満足の意を表す」 が, こ れに応える間に 「舷墻に登って接近する艇を見守 ろうとする群衆の内の二人の黒人が, 水夫の一人 に視界を妨げられて恐ろしい呪いを浴びせながら 彼に向かって突然怒鳴り出し」, 「甲板にたたきつ け, 槇肌拾いどもの懸命な制止にもかかわらず, 飛びかか」 る。

少し前の黒人ボーイの戯れとも思えぬナイフに よる事件を目の当たりにしていたデラーノは, 再 びセリノ船長に綱紀の乱れを問い糾す。 すると船 長は, 「咳き込んで, 両手で顔を覆い倒れそうに な」 り, 従者バボーが体を支え, 「コーディアル 酒」 を飲ます。 その素早に感心し, 二人で密談を していたときにデラーノの感じた不作法は払拭さ

(14)

れ, 注意も今し方の暴行奴隷のことから従者の方 へ移ってしまい, セリノ船長にその従者を譲って くれまいかなどとまで申し出る始末となる。 それ に対して 「まだ完全に回復していなかった」 (71) 船長は, 「再び咳に邪魔され, とぎれとぎれに言 葉を発するだけで」, 具合が悪くなったようで,

「二人は船室の方へ」 向かう。

一人その場で自分の捕鯨艇がやって来るのを待 つデラーノは, 「数少ないスペイン人船員に近づ いて」 話を聞こうとするが, やはり控えようと思 い直して彼らの方へ向けた視線に対し, 「その内 の一人か二人が視線を返し, しかも, ある意味を 込め」 たものだった。 「目を擦ってよく見ても, 同じ視線を投げ返したと思われた」 ために以前の 疑惑が蘇って来て, 今度は 「傍にセリノがいない ので慌てることもなく」, デラーノは 「すぐさま 誰か一人に近づいてゆこうと決心する」。

船尾楼を降るデラーノの行動が眼に止まった槇 肌拾いたちから 「奇妙な叫び声が上」 がると,

「黒人たちが彼のあとに付いてゆ」 く。 デラーノ は前方の黒人たちの間を通り過ぎるさい, 「時々 明るい言葉を掛けながら, 視線を黒人の間にあち こちにまばらにいた白人に向け」 る。 そしてたま たま眼が行ったのが, 脇で仕事ぶりを見つめる黒 人のいる, タール塗りに従事する 「やつれ」 顔の 水夫だった。 だが, この水夫はやめにして, 次に これも両脇に手助けをしている眠たげな黒人がい る, 巻き上げ機の所で装具のロープのつなぎ合わ せ作業をしている老水夫に近づいてゆく。

仕事に没頭している素振りを見せながら水夫は,

「この船の航海に関する」 セリノ船長の語ってく れた話の細かな点への質問に短く答えてくれ,

「残っていた確認箇所すべてを確認してくれ」 る。

「巻き上げ機辺りにいた黒人がみな集まってきて 途中で挟む口数が多くなるにつれ, その水夫は徐々

に口をきかなくなってゆき, ついにはむっつりと な」 る。 デラーノは辺りを見回したが 「もっと期 待できそうな」 水夫が見あたらず, 仕方なく楽し げに黒人に声を掛けながら彼らの間を進んでゆく。

「その理由はほとんど分からなかったが, 概して ベニート・セリノへの信頼が回復していたことに, 最初は少し違和感を覚えながら, 船尾楼へ戻」

(73) る。

船尾楼に立って甲板を見るデラーノは, 黒人の 母子と他の黒人女たちの様子を眺め, 彼の抱いて いる黒人観と違和感がないことに満足を覚え,

「自分の自信と安堵感を深め」 る。 まだ遙か遠方 にあるが, 「近づいてくる自艇をゆったりと見て 楽しもうと後檣横静索まで足を運び, 右舷の船尾 展望台」 である 「ベネチア様式の水面に突き出た」, 出窓付きの 「打ち捨てられたバルコニーによじ登っ てゆく」。 周囲を見回しながらデラーノは, この 古船に乗った昔の人々への回顧をし始め, 海草に 絡まれ苔むす船側を見て, 自分が大海原ならぬど こか遠くの内陸の 「打ち捨てられた古城内の囚人」

(74) となり, 「取り残されて人気のない庭園を凝 視し, おぼろな道に目を凝ら」 しているような気 分になっていた。

デラーノの視線が腐食した主鎖に落ち, まもな く近くに何か動くものを認めた時, 彼はいつしか 陥っていた, 魅せられた状態から現実に戻り,

「目を擦り, 凝ら」 す。 綱通し針を手にした, 大 きな支索の背後から覗いていたスペイン人水夫が, 定かではないが 「あやふやな身振りでバルコニー の方を指し示した」 ように思われる。 この一水夫 の行動で, 再び 「以前の疑惑」 (75) が意識に上っ てくる。

こちらに向かってくる捕鯨艇は, 一時島の突出 部で姿を隠す。 その先端が見えないかと熱心になっ て体を前に傾けた時, 手前の手すりが崩れ落ちて,

(15)

デラーノは目先に垂れ下がっていたロープをつか んで危うく海に落ちるのを逃れられる。

その様子を槇肌拾いの一人が, 「冷静に関心を 寄せてじっと覗き込んでおり」, そしてまた, 下 方にある舷窓から姿を見せていた例の網通しを手 にした水夫の突然の, 何かを示唆する様子を眼に したとき, デラーノは 「セリノが体調不良を言い 訳に下に引っ込んだのは, 偽りだった」 のではな かろうか, この水夫は先ほど初めて見たときに認 められた気がした 「バルコニーの方を指し示した」

素振りを契機に, デラーノは彼がセリノの 「陰謀」

の 「手掛かりを何らかの方法で入手し」, 自分に

「警告を与えようとした」 のではないか, と思う。

さらに, 「白人たちがセリノ氏に関する暗い秘密 を得ていたとしても, どんな形であろうと黒人た ちと共謀したりするだろうか。 だが, 連中は愚か すぎる。 いったい誰が同じ白人に背くような裏切 り者の話を聞いたことがあるというのだ」 と, 疑 惑を打ち消すべく合理化を図ろうとする。

再び甲板に戻るデラーノは, 主昇降口近くでや はり脇に黒人を置いて, 脚を組んで座ってロープ で 「大きな飾り結び」 を編んでいる老水夫の姿を 見る。 そして, この老水夫からロープの結び目を 突きつけられ, 「解け, 断ってみよ, 素早くな」

(76) と謎の言葉を掛けられる。 受け取ったロー プを片手に, デラーノはしばらく無言で立ち尽く す。 やがて背後でかすかなざわめきが起こったの で 「後ろを向くと, そこには鎖を巻きつけられた アーチュファルが静かに立っていた」。 次の瞬間, 老水夫は 「周りの黒人と共に船首の方へ移動し, 人集りの中へ姿を消」 してしまう。

すると別な年長の黒人が近づいてきて, 「あの 老いた結び目作りは頭の足りないやつで, 害はな い, よく古臭いいいたずらをするのだ」 と下手な スペイン語で語りかけ, デラーノが何気なく渡し

てしまったロープを受け取ると, 海へ捨ててしま う。

デラーノは 「ひどく妙な感じ」 がして 「不安な 気持ち」 を抱くが, 好からぬ 「徴候は無視し, 慢 性的疾患から懸命に脱却しようとする」 (77)。 救 いを求めるかのように, 彼が目をそらして自艇の 姿を再び探し求めると, いまや後方に岩のような 白波を残しながら自艇が近づいてくる姿が見える。

この 「ニューファンドランド犬のように親しげな」

姿は, デラーノに 「たくさんの信頼する連想をか き立て」, 「心に明るい自信を満たし, どうしたも のかこれまでの自信の欠如を半ばおどけて咎める 気持ちにもさせた」。

相変わらず何度も無理矢理不安や不信を押さえ 込んで自信を回復しようとするデラーノだが, 不 安・不信は完全には解消しておらず, 常に不安の 上に立脚している 語り手の表現を使えば 「慢 性的疾患」 状態にある というデラーノの現状 を, かえって強調しているかのような描写である。

ここで語り手は, 久しぶりに 「時は今昼頃だ」

(78) と読者に時刻を告げ, その直後, 物語の舞 台となっている湾内周辺の景色すべてが 「灰色」

一色のため, 「夕暮れに向かっているように思わ れ」 る, と語っている。 物語冒頭で舞台の背景色 を説明して以来, 久々の言及である。 なぜメルヴィ ルはここで語り手に灰色, しかも 「夕暮れ」 に近 いかなり暗い灰色の背景色に設定させて, 再度言 及させたのだろうか。

物語は語り手が主としてデラーノ船長の言動を その意識を通して語っているわけだが, デラーノ が救援のためにサン・ドミニック号に乗船してか らここまで, 疑惑と不安を抱いては自信を回復す ることの繰り返しが彼の心模様となっていた。 デ ラーノが疑心暗鬼で不安な状態のときに部下の操 作する捕鯨艇がその視界に入って来ると, 彼の不

(16)

安は小さくなって自信が蘇り, その姿が見えなく なると再び不安が大きくなり自信が萎えてくるパ ターンが繰り返されている。 その模様図が描かれ てゆくのは, デラーノの心というキャンバスなの であり, パターンの回数を重ねるごとに, 自然界 の深まる夕暮れのように, 明度が減じてゆき, 暗 さを増してゆく。 それは, 疑惑・不安を払拭して くれる何らかの真相に至る道が段々と暗くなり, 遠のいてゆくことを意味してもいよう。 デラーノ が真相を知りたいと思えば思うほど自然界は闇に 包まれてゆくようで, 物語の中で, 自然界 (マク ロコズム) の背景色の変化とデラーノの心 (ミク ロコズム) のキャンバス色の変化は同期し, 照応 関係にあるようだ(9)。 ともに今のところ, 灰色一 色なのである。 背景色が自信と不安を, 白と灰色 (そして黒) と何か無彩色を通して, デラーノの 心理状態を反映させている作者の工夫が窺える。

「凪が定着し」 (78), 「陸地近くの潮の流れ」 が 増し, 「船は彼方の半睡状態の大海原へと音もな く運び去られようとしてゆく」。 しかし沖合に流 されようと, この地方に明るいデラーノは, いず れ期待する風が吹けば, この船を 「夜になる前に 無事投錨させる」 つもりで捕鯨艇の方を見, セリ ノ船長がそのうち現れて近づいてくる姿を見よう と, 船尾楼を歩き続ける。

自艇の進み具合の遅いのに苛立ち, またまた不 安が頭をもたげてき, デラーノが眼前と眼下の群 衆を見つめてその中に主鎖の傍で手招きをした水 夫の顔を認めるや, 以前の心の動揺が蘇ってくる。

だが, 「奇妙な船だ。 それに妙なこれまでの話が ある。 乗っている者たちも同じだ。 しかし, それ だけに過ぎないのだ」 と, デラーノは踏ん切り, セリノ船長は 「非常に気まぐれな指揮者」 (79) で, 「スペイン人はみな風変わりな集団」 だが, 故郷のマサチューセッツ州ダックスベリの好い連

中と変わらないのだ」 と思い込もうとする。

そして, 待ちに待った捕鯨艇がついに船側に到 着する。 黒人たちは補給品の到着に 「手に負えな いほど狂喜して」, 舷墻から身を乗り出す。 黒人 たちの騒ぎを聞きつけて姿を現したセリノ船長は, 全員に行き渡るよう配給したいというデラーノの 許可の請求に対して, 「いかなるお節介も侮辱と して不快感を抱いた」 ように思われる。 だが, わ れ先に水を求める黒人男女に, デラーノがつい命 令の言葉を発してしまうと一瞬周囲は凍り付く。

「突然, 斧の磨き手たちが立ち上がり, セリノ船 長の口から素早く叫び声が飛び出」 す。

デラーノはその 「声を合図に, まさに虐殺され ようとしていると思い, 自艇に飛び降りようとす る」 が, 治安係の槇肌拾いの黒人が一斉に群衆を 制止し, 「愚かしいことをするな」 と告げる。 「斧 の磨き手たちはまた元の席に戻り, 樽の吊り上げ が再開され, 白人も黒人も滑車装置の所で歌う」

(80)。 デラーノは寄りかかっていた従者の腕から 立ち直ろうとする痩せ衰えたセレノ船長の姿を見 て, 今し方彼に対して, 「ほんのちょっとしたきっ かけで自制を失ってしまうような指揮者」 で,

「自分の殺人を引き起こすつもりだ」 と素早く想 像してしまうほど 「パニック」 に陥ってしまった ことに, 驚きを禁じ得なかった。

これまで語り手は, デラーノを手練れた実行力 のある, 善良で疑うことを知らぬ船長だと紹介し てきたわけだが, 自艇が来るまでのデラーノは, 異国船で誰一人知る者のないひとりぼっちの存在 であり, 彼のように, 上から下まで正体の判然と しない乗船者に囲まれた孤立無援の状況に置かれ た人間は, 不安や動揺を覚えないでいられるわけ はない。 さらに彼の場合, その不安や動揺が命を 奪われるかもしれないと思い詰めてしまうほど極 度の程度だったということになる。 そしてまた,

(17)

一度このような極度の感情の高まりを覚えてしま うと, 容易にまったく警戒心を解いてしまうとい うわけにはいかないものだ。

4

捕鯨艇に積んだ救援品が甲板に引き上げられる と, デラーノはセリノ船長から指示された 「司厨 長の助手から渡された瓶やカップ」 (80) で水を 群衆に等しく分け与える。 衰弱しているセリノ船 長にまず水を差し出すと, 礼を尽くしてからやっ と飲む。

カボチャ以外の食料品, パン, 砂糖, 瓶詰めの サイダー酒は, デラーノは白人にのみに, 主にセ リノ船長に与えようと思っていたが, 本人の意向 でほんの少量にすぎなくなるが 「白人と黒人に同 じ様に分け与えられた」。

「甲板上の混乱を増さない」 ようにと配慮し, 自艇の部下には乗船させなかったデラーノは, そ のうち風が吹くと読み, 自艇を本船に帰らせ, 手 の空いている部下に水補給地で樽に水を満たして 来るように命じる。 また, 本船の一等航海士への 伝言 「期待に反して船が夕暮れまでに投錨で きなくとも, 心配には及ばない。 今夜は満月なの で, 自分は船に留まっていつでも水先案内ができ るようにしておくつもりだ, 遅かれ早かれ風が吹 いたらな」 を部下に託し, 帰船させる。

捕鯨艇が離れてゆくのを見ながらデラーノは, サン・ドミニック号にボートが一隻も残されてい ないのが残念だと語ると, セリノ船長は 「すべて 強風で壊れた」 (81) と答え, デラーノがさらに

「ホーン岬沖すぐでの強風だったのか」 と尋ねる と, 不思議なことに 「ホーン岬ですと 誰がそ う口にしましたか」 と問い返されてしまう。 デラー ノは前にセリノ船長の口から直に, 災禍の張本人

のホーン岬沖で受けた 「疾風」 (55) の話を確か に聞いていたので驚き, きっぱりと 「あなたご自 身ですよ」 (81) と答える。

その時ちょうど, 使い走りの少年が船首楼に向 かって大きな鐘を叩いて時刻を伝える姿を見て, これ幸いとばかり窮地に陥った主人を救うかのよ うに, 従者バボーがセリノ船長に 「髭剃りの時間 です」 (82) と言って, 船尾楼の大甲板船室の上 にある, 「一種の屋根裏部屋」 のような 「小船室」

へ連れて行こうとする。

この船室の一部はもともと死亡した航海士用に 仕切られた部屋だったが, 仕切りはすべて取り払 われ, 「広い海上の広間」 となっていた。 その一 方には, 床に固定された 「古い鉤爪状の脚のテー ブル」 と二脚の 「マラッカ籐で尖った風に組まれ た」 背と肘掛け付きの 「長椅子」 があり, 「歳月 で黒ずみ」, 「審問官の拷問台のように見るからに 不快な」 ものだった。 その反対側には, 破れたハ ンモックが垂れ下がり, シーツが投げ上げられ, シワの寄った枕があり, 「あたかも誰がここで寝 ようと, 悲しい考えごとと悪い夢とが交互に訪れ てよく眠れないかのようだった」 (83)。 デラーノ がセリノ船長に確かめると, やはりそこが船長の 寝室だった。 この下りは読者に, セリノ船長が日 夜, 特に夜, 部屋に閉じこもっている時に, 一人 何やら悶々と思い悩んでいる姿を伝えようとして いるかのようだ。

片腕にナプキンを置いて髭剃りの用意を調えた バボーは, 主人を籐造りの長椅子に座らせ, 「襟 のカラーとネクタイをゆるめる」。 その仕草の描 写を契機に, 語り手が, 語り手自身の黒人観を述 べ始める。

黒人の資質には固有に, 人の体に関する職業に 向いているところがある。 たいていの黒人は生

(18)

まれつきの従者であり, 理容師なのだ。 (中略) とりわけ陽気さという偉大な天賦の才がある。

(中略) 心地よい明るさで, その一瞥, 身振り 一つ一つとぴったり合っていて, 神が黒人すべ てを何か楽しい旋律に合わせて創造されたかの ようだ。

そして語り手は, デラーノの黒人観も次のように 説明している。

デラーノの性格は, 外部の事柄に対してくつろ いでいる時は, ただ優しいのではなく, 打ち解 けるほど, ひょうきんなほど優しかった。 本国 で家の中から自由黒人が仕事したり遊んだりし ているのを観察している時には, まれにしか満 足感を覚えなかったことはよくあった。 航海中 にたまたま黒人水夫がいれば, 彼は決まってお しゃべりしあい, 半ば戯れあうほどの関係でい た。 実際, たいていの善良で陽気な気立ての者 のように, デラーノ船長はまさに他の者がニュー ファンドランド犬に対するように, 博愛的では なく, 温情的な気持ちから黒人を好いていたの だ。 (84)

語り手はこれに続けて, 初めて乗船して以来, 苦 境にある船の甲板上の状況では, 黒人への 「この 性向は抑え」 なければならなかったが, バボーの 髭剃りの様子を見て, デラーノの 「以前の黒人へ の偏愛」 が蘇ってきた, と説明している。 つまり, デラーノはこれまで, 目下の者に温情をもって接 するような気持ちで黒人に接していたということ なのである。 本稿第3章20段落でデラーノがす でに, 白人と黒人が組んでの船内の共謀の可能性 を黒人 「連中は愚かすぎる」 (75) からとその可 能性を否定していたことに触れたが, これも考え

合わせると, 彼の黒人観の根底には白人優越主義 が認められよう。

先ほどの語り手自身の黒人観が作者メルヴィル の肉声による黒人観かどうかは判断できないが, 少なくとも語り手自身のと語り手の説明するデラー ノの黒人観には, 19世紀ごろの, あるいはそれ 以降のアメリカ北部の白人の標準的な黒人観が典 型的に見られよう(10)。 だが, 作家として登場人物 や語り手に語らせた下りからだけで, 一ニューヨー カーであるメルヴィルがこうした世間一般の白人 と同じような見方をしていたかどうかを判定する ことはできない。

普通ならば主従の髭剃りの光景が見られるとこ ろだが, 籐の椅子に座っている主人であるセリノ 船長は, 従者バボーが片手に剃刀の刃を握り, も う一方の手で 「石鹸の泡」 をその細い首に塗るさ いに眼に入った刃のせいで, 「神経質になって身 震い」 (85) をする。 その光景を見て, デラーノ は 「その黒人に首切り役人を見, 白人に首切り台 の男を見るという突飛な考えを抱かざるを得なかっ た」。 そう語り手はデラーノの心中を描いた直後, これが単なる 「あっという間に現れては消える」

「奇想」 に過ぎず, いかに体調が万全な人でも常 にその訪れから逃れられるわけではない」 と説明 している(11)

黒人の首切り役人と白人の死刑囚というこの組 合わせがやはりもう一つのメルヴィルの与える暗 示だとすると, 何を意味しているのだろうか。 時 報時のバボーの言動から察すると, 彼が主人に定 期的に髭剃りをすることになっているようだが, 床屋で椅子に座り顔を当たってもらう時, 人は自 然と身も心も解き放たれたような無防備状態にな ることはあっても, 「身震い」 するほどの反応は まずあり得ない。 やはり, 尋常ではない。 語り手 の説明する暗示的内容のデラーノの 「奇想」 と,

参照

関連したドキュメント

日本語で書かれた解説がほとんどないので , 専門用 語の訳出を独自に試みた ( たとえば variety を「多様クラス」と訳したり , subdirect

と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その

であり、 今日 までの日 本の 民族精神 の形 成におい て大

海なし県なので海の仕事についてよく知らなかったけど、この体験を通して海で楽しむ人のかげで、海を

また、手話では正確に表現できない「波の音」、 「船の音」、 「市電の音」、 「朝市で騒ぐ 音」、 「ハリストス正教会」、

氷川丸は 1930 年にシアトル航路用に造船された貨客船です。戦時中は海軍特設病院船となり、終戦

海の魚について(健康食)/海運/深海流について/船舶への乗船または見学体験/かいそうおしば/クルー

量は 2017 年末に 13 億 GT に達した。ばら積み船とコンテナ船の部門では、苦難の 2016