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イ ギ リ ス 革 命 に お け る 宗 教 的 寛 容 の 問 題
浜 林 正 夫
宗教的寛容論の諸類型
﹁信仰の自由﹂あるいは﹁宗教的寛容﹂の思想が︑近代思想の基本的なものの一つであることはいうまでもあるま
い︒またそれが一七世紀のイギリス市民革命のなかで︑もっとも大きな争点の一つであったことも︑周知のことであ
ろう︒この問題をめぐって︑革命前後および革命期に出版されたパソフレット︑著書の数はおびただしいものがあ
り︑またそれにかんする研究書の数もはなはだ多い︒
しかしそれにもかかわらず︑この信仰の自由の思想が︑一般的には︑どのような思想的系譜と内容と問題性をはら
んでいたのか︑そして特殊的には︑イギリス革命の激動のなかで︑革命の諸過程とどのようなかかわりをもっていた
のか︑というような問題は︑決して十分に解明されているとはいえないであろう︒このことは︑信仰の自由の問題が
実践的課題として意識されることが少なく︑したがって近代思想成立史にかんする研究のなかでも︑比較的この問題
を軽視しがちであった日本の諸研究についていいうるのみでなく︑ひろく︑ヨーロッパ︑アメリカをふくむ近代思想
成立史研究の全体についても︑いいうるように思われる︒もとより︑そのなかには︑W・K・ジ・ーダソの﹁イソグ
ランドにおける宗教的寛容の発展﹂(一九三二〜四〇年)のような︑包括的かつ詳細な研究もあれば︑A・S・P・ウ
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ッドハゥスの﹁ピュウリタニズムと自由﹂(一九三八年)に付された序文のように︑するどい問題提起とゆたかな示
唆にとむ好論文もあり︑あるいはW・ハラーの﹁ピュウリタニズムの勃興﹂(一九三八年)および﹁ピュウリタソ革
命における自由と改革﹂(一九五五年)のように︑みごとに思想の流れをえがきだした力作もある︒しかしそれらに
もなお︑われわれを十分に満足せしめえない何かがある︑といわなければならない︒
それは何なのか︒おそらくそれは︑M・フロイソトが指摘したように︑宗教的寛容の理念が︑﹁今日われわれにと
ハ って自明のこととなり︑それに絶対的な価値を与え︑研究のなかにあまりに価値判断をもちこみすぎている﹂ことに
あるのではあるまいか︒宗教的寛容の思想もまた一つの歴史的産物であるにもかかわらず︑われわれがこれをあまり
に自明のこととし︑それぞれの思想のもつ歴史的意味を無視あるいは軽視して︑これを絶対化してしまっているとこ
ろに︑この問題についての研究の限界と停滞があるのではあるまいか︒いまここで︑この問題についての研究史をふ
りかえり︑その功績と欠陥をあきらかにするという大きな課題にとりくむことは︑とうてい不可能であるが︑少なく
ともわれわれにとってまず必要なことは︑宗教的寛容の諸思想をたんに羅列することではなく︑そのなかからいくつ
かの原型と思われるものをぬきだし︑それらのからみあいとして諸思想を位置づけ︑整理することでなければならな
い︒そこではじめて︑これらの諸思想のもつ歴史的意味がうかびあがり︑そしてまたそこから︑われわれにとって自
明と思われている近代思想の基本的なものの一つに︑歴史的な再検討を加える視点が与えられるように思われる︒
ところでこのように︑まず無概念的な諸思想の羅列をさけ︑いくつかの原型を設定しようとすると︑そのばあい︑
手がかりを与えてくれるのは︑いぜんとして一九世紀末に生みだされたあのS・R・ガードナーの不滅の業績であろ
う︒ガードナーのイギリス革命研究の全体についての評価はともかくとして︑いま︑宗教的寛容論にだけついてみれ
ぽ︑かれはそこに二つの傾向をみいだし︑そのからみあいのなかで近代思想が確立された︑とみている︒つまりその
一つは︑﹁ルネサソスの息子たち﹂であって︑それは﹁さしあたっては国王派のなかに吸収されていくが︑ロックと
﹃宗教的寛容にかんする書簡﹄とへの途を準備したもの﹂であり︑もう一つは﹁プロテスタント宗教改革の息子た
げち﹂であって︑これは﹁さしあたっては議会派に吸収され︑ミルトンとアレオパジティカへの途を準備した﹂︒前者
は︑フォークラソド︑トマス・フラー︑ウィリアム・チリソグワースなどに代表される自由主義的な神学の立場に立
へ ヅつもので︑革命以後め近代思想の先駆をなすものではあったが︑この時期にはまだ﹁孤立した思想家の賢明な予見﹂
以上の力をもつことはできず︑この﹁賢明な予見﹂がほんとうに国民的なものとなるためには︑神の絶対性を確信す
る理想主義︑ファナティシズムが必要だったのであり︑そこから生まれでる寛容論は︑ジョソ・ミルトソやロジャー
・ウィリアムズによって代表される第二の型の寛容論であった︑とガードナーはみるのである︒加えてガードナー
は︑クロムウェルを中心として軍のなかに生まれてくる﹁新しい寛容論﹂に注目し︑これを﹁戦闘的寛容論﹂と名づ
ける︒それはルネサソス型のような知的性格のものでもなく︑また分離派的でもなく︑﹁ピュゥリタソの立場に奉仕
る するかどうかを︑寛容の尺度﹂とするものであった︑という︒
以上︑ガードナーにおいては︑宗教的寛容論の三つの類型が設定されるのであるが︑第三の戦闘的寛容論は︑いわ
ぽ戦術的なもので︑思想的内容には乏しいと考えられているようであるから︑思想的には二つの類型とみてよいであ
おソろう︒そしてこういう類型化は︑たとえぽガードナーとほぼ同時代のJ・R・グリーソにもみられ︑またもっと包括
的にはM・フロイソトにもうけつがれている︒またガードナーがルネサソス型と名づけた思想の︑包括的な研究とし
ては︑ガ!ドナ!以前にすでにJ・タロックのものがあり︑ここでは︑﹁かれらこそ︑われわれの近代的な宗教の自
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へ い由のほんとうの創始者であったLという高い評価が与えられ︑逆に最近のピュウ旦タニズムの研究のなかでは︑A・
S・P・ウッドハウスにみられるように︑ガードナーのいわゆる宗教改革型の寛容論に︑近代的自由の創始者として
の位置を与えるのが︑一般的であるように思われる︒
したがってわれわれの問題は︑まず第一にガードナー的な類型論をもう一度たしかめることにはじまり︑さらにそ
れぞれの思想類型のもつ歴史的意味をあきらかにしつつ︑諸類型の複雑なからみあいをときほぐし︑最後に︑ジョン
・ロックにおいて完成される近代思想への収敏をさぐり︑そこから逆に近代思想そのものの歴史的意味と限界とをあ
きらかにする︑ということでなけれぽならない︒本稿では︑まずこの第一の課題に.〜たえることが目的とされている
が︑そのばあい︑ルネサンス型寛容論はウィリアム・チリングワースによって︑戦闘的寛容論はジ・ン・ナウエソに
よって︑宗教改革型の寛容論はロジャー・ウィリアムズによって︑代表させることとしたい︒これらの諸類型のから
みあいと︑ロヅクの寛容論への集敏については︑稿をあらためて分析する予定である︒
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( 1 )
( 2 )
( 3 )
( 4 )
( 5 )
( 6 )
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ニルネサンス型の寛容論
ウィリアム・チリングワースー
ガードナーが﹁ルネサソスの息子たち﹂とよんだ宗教的寛容論の基本的な特徴はどのようなものであったのか︑を
ユ まず︑ウィリアム・チリングワース(一六〇二〜一六四四)について検討してみよう︒この場合︑とうぜん︑第三︑
四節でとりあげられる宗教改革型の寛容論との対比が念頭におかれる︒
チリングワースの主著﹁プロテスタントの宗教は救済への安全な道﹂(一六三八年)は︑その公刊の経過がしめし
ロているように︑カソリックとの論争の書であるが︑しかしたんなる論争書の水準をこえ︑ハラーによって︑﹁革命前
夜のイギリス教会の最良の思想をまとめあげたもの﹂︑﹁アングリカンの立場からの合理主義神学への接近をもっと
ヘヨ も印象的にあらわしたもの﹂という高い評価を与えられているものである︒この書物はその標題がしめしているよう
に︑プ冒テスタントもまた救済にいたりうるということの主張でつらぬかれているのだが︑そこでまずわれわれの
注目をひく点は︑プ冒テスタンティズムが救済への唯一の途として主張されているのではなく︑救済への途の一つ
(9ω鎗︒ぞミεω9<9菖8)として主張されていることである︒それは︑夢①ω錬Φ≦9団ではなく︑9ω鋒Φ窯9団にす
ぎない︒言葉をかえていえば︑救済にいたる道は︑カソリックもふくめて︑いろいろありうるのであって︑プロテス
タソティズムのみが絶対に正しいといわれているのではないのである︒カソリックの誤りは︑それ自体のうちにあ
るのではなく︑カソリック以外に救いなしとする排他性︑独善性のうちにある︒こういう考え方を︑宗教的
相対主義と名づけるとすれぽ︑この相対主義に︑チリングワースの思想の第一の特徴がある︑といってよいであろう︒
この相対主義と密接に結びついているのは︑信仰の主観性の主張である︒信仰とは︑チリソグワースによれぽ︑
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