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『体験的ノンフィクション論』~恩師に学んだ物語の伝え方 城島 充

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Academic year: 2021

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1)スポーツ学部

■はじめに

 ノンフィクションの作家でもある私の場 合,研究成果を発表する舞台としては,単行 本や雑誌原稿,出演させていただいているテ レビやラジオ番組ということになります.他 の先生たちのように研究成果を論文にまとめ てプレゼンテーションをした経験が少なく,

アカデミックアワーで取り上げたテーマ自体 が,この紀要に掲載されている他の論文とは まったく異質なものであることを理解してい ただければ幸いです.

 これから記述するのは,あくまで私が体験 してきたこと,ノンフィクションの書き手と して学んできたことです.その思考や取材の プロセスも含めた魅力を少しでもみなさんと 共有したいと思います.

■事実は小説よりも奇なり.

 この言葉はよく耳にされると思います.ノ ンフィクション作家として取材やインタビュ ー,そして執筆をする喜びや意義は,この言 葉に集約されているといっても過言ではあり ません.

 例えば,今,自分自身がいる立場,環境を 客観的に見つめてみましょう.そこに至るま でに偶然としか思えない出来事や出会い,自 分自身の決断があったりしたはずです.その

一つひとつがもし,今があるような形でつな がっていなければ,ここにいる自分はまった く違う環境のなかでまったく違う立場の人間 として生きていたかもしれません.

 こうしてあらゆる人間の営みには,常に人 生の綾ともいうべきものが存在しているはず です.それを「偶然」と受け止めるのか,そ れとも「必然」と考えるのか.

 拙著『ピンポンさん』(講談社)では,卓球 界の巨星・荻村伊智朗の波乱に満ちた生涯 を,彼を支え続けた吉祥寺の小さな卓球場の 女性場主,上原久枝の視点を軸に描きまし た.戦後まもなく,北海道の主婦が自宅の二 階を卓球場に改装した様子を紹介した婦人雑 誌を手にした上原が,卓球の経験はまったく ないまま吉祥寺の一角に卓球場を開いたこ と,そこに都立西高で卓球を始めたばかりの やせぎすの少年が訪ねてきたこと,母子家庭 で育ったその少年のために,みんなから「お ばさん」と呼ばれるようになった上原が毎晩 夕食を作り,洗濯や身の回りの世話まで献身 的に尽くすようになったこと,そしてその少 年が「世界のオギムラ」と呼ばれるようにな り,不世出の卓球人として歴史に名を刻んだ こと……

 そうしたすべての出会いやつながりを荻村 は「必然」と言い切るのですが,おばさんは

「偶然」と受け止めます.「いろんな偶然が重  Key words:nonfiction, encounter, observation

 キーワード:ノンフィクション,出会い,観察

『体験的ノンフィクション論』~恩師に学んだ物語の伝え方

城島 充1)

MEANINGS OF WRITING LIFE STORIES

Mitsuru JYOJIMA

アカデミックアワー研究報告 97

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なっていくから,人生ってほんと不思議ね」

と優しく微笑みながら,荻村が他界するまで その傍らに寄り添い続けたのです.

 もちろん,どちらかの受け止め方が正しい というわけではありません.ただ,そうした 判断,つまり自らの人生を少し距離をおいて 見つめたときの感受性は,その人の生涯を描 くときにとても重要な要素になってくるので はないでしょうか.

 そうした偶然と必然の折り重なったドラマ を丹念に描くことが,ノンフィクション作家 の最も重要な仕事であると考えています.

■偶然が生んだ恩師との出会い  私が書く仕事のキャリアをスタートさせた のは,産経新聞という新聞社でした.入社し たのは1989年4月ですから,ちょうど年号が 昭和から平成へと変わった直後でした.

 当時はバブルの時代で,大阪の編集局だけ で26人も新入社員を採用しました.新人は地 方支局へ配属され,駆け出しの記者修業をす るのですが,大阪本社で新人研修が始まる と,多くの先輩たちから「岡山行ったら地獄 やぞ」と耳打ちされるようになりました.

 数ある支局のなかで,なぜ岡山支局が「地 獄」と形容されたのか.

 もちろん,それには理由がありました.私 が入社する半年ほど前,産経新聞が皇室写真 を裏焼きしたまま新聞を発行してしまう〝事 件〟がありました.皇室報道での強みをアピ ールしてきた新聞社としては許されないミス であり,当時の編集局のトップ数人が辞表を 書きました.しかし,さすがにトップの辞任 を認めるわけにはいきません.そこで岡山支 局を総局に格上げし,トップの一人であるH 氏を岡山総局長として迎えることになったの です.

 H氏は社会部の事件記者として名をはせた あと,文化部に異動し,司馬遼太郎さんの

「菜の花の沖」の編集担当として取材に同行 された経験もありました.いってみれば,事

件にも文化的な取材にも強い,希有な能力で 編集局のトップになった人物でした.

 本社での新人研修を終えたあと,配属先を

「岡山総局」と告げられたときの心境を今と なっては正確に思い出せません.はっきりと 覚えているのは,岡山総局に赴任してから1 年あまりにわたってH総局長から受けた指導 の厳しさです.

 まず,赴任してまもなく,まったく現場で の取材経験がないのに岡山県警と司法のキャ ップに就くことを命じられました.普通の支 局の1年生記者はまず,所轄回りといって県 警本部の下にある所轄署で記者生活をスター トさせるのですが,私の場合はいきなり県警 本部のキャップを命じられたうえ,いくつか のルールを課せられました.

 県警からの広報資料は一切見るな.

 毎日1つ,自社ダネを書け.

 発表原稿は書くな.

 それだけでも1年生記者にとってはとてつ もなく高いハードルなのですが,最も難関だ ったのは,次ぎのルールでした,

 「逮捕原稿」を書くまで,髭を剃るな.

 警察が事件を摘発して容疑者を逮捕する と,記者クラブで事件の概要や容疑者の名前 などを発表します.逮捕原稿というのは,警 察が容疑者を逮捕したあと,記者クラブに発 表する前にスクープ記事としてその事件を紙 面で報じることです.ほとんどの記者が書か ずにキャリアを終えるほど,逮捕原稿を書く のは容易ではありません.

 H総局長から告げられた翌日に髭を剃って も,H総局長を含めて誰も何も言わなかった と思います.しばらく髭をそらずにいたら,

地元出身のデスクが「あんた,まさか本気で 逮捕原稿書けると思っとるんじゃねえじぇろ うの?」と声をかけてきたほどです.

 しかし,もし,ここで髭を剃っていたら,

私はずっとサラリーマン記者のまま人生を送 っていたと思います.髭を剃らなかった心理 の背景には,H総局長に反発する感情が少し びわこ成蹊スポーツ大学研究紀要 第17号

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はあったかもしれません.

 H総局長は1つひとつの取材や原稿に厳し く,まさに「地獄」のような日々が続きまし た.あまりの厳しさに耐えかねて何度も逃げ だしたくなりましたが,そうした受け身の感 覚が変わったのは赴任して半年あまりが経っ たころだったでしょうか.

 H総局長が本気で私を一人前の記者,い や,あえて言わせてもらえれば特別な記者に 育てようとしていること,その熱と覚悟を私 自身が前を向く力として受け止められるよう になったからです.

 逮捕原稿に関しては,髭を剃らなくなって

(理髪店でそろえることは許してもらってい ました)半年後,岡山市内の土地をめぐる詐 欺事件をスクープすることができました.そ の後,ペン一本で生きていくことになる私の 能力の大げさではなく9割は,この駆け出し 記者時代にH総局長から尋常ではないほど厳 しい指導を受けたおかげだと思っています.

 そう考えれば考えるほど,もし……と思う のです.もし,入社する半年前に皇室写真の 裏焼き事件が起きていなければ,編集局のト ップだったH総局長と入社したばかりの新人 記者は本社の廊下ですれ違うこともなかった でしょう.

■「神は細部に宿る」「鳥の目,虫の目」

 H総局長からは,新聞記者として常に意識 しておくべき大切なことを数えきれないほど 教えてもらいました.そのすべてをここで列 挙することはできませんが,最も需要な二つ の言葉を紹介しておきます.

 一つ目は「神は細部に宿る」という言葉で す.

 文章にかかわらず,あらゆる表現活動にあ てはまる言葉です.対象となる人物や出来事 を徹底的に取材し,しっかりと描写しろ,細 かい情報や描写にこそ,物語の真実がある―

という意味です.

 では,文章表現における細部とはどういう

ことでしょうか.もちろん,これは書き手に よって感覚が違いますし,読者の感受性もそ れぞれ違いますから,100%の正解は存在し ません.あくまで私の感覚として適切な細部 を理解していただくために,拙著『ピンポン さん』の序章にある短い一節を例にして考え てみましょう.

 《午前八時,二つの目覚まし時計の力を借 りてようやくベッドから抜け出した上原久枝 は夫や母親の仏前に手を合わせ,生姜湯とビ スケットだけの朝食をすませると,二階の居 間を出て急な階段を下りる》

 これだけの描写ですが,例えば目覚まし時 計が二つあることを書かなくても,あるいは 朝食を《生姜湯とビスケットだけ》と書かな くても,おばさんが午前八時に起きて朝食を とることを読者に伝えることはできます.し かし,私の感覚だと,そこに《二つの目覚ま し時計》が必要なことや,朝食が《生姜湯と ビスケットだけ》であることが,読者に上原 久枝という女性の輪郭を伝えるために重要な 描写なのです.

 もう一つ,H総局長から叩き込まれたのは

「鳥の目,虫の目」という言葉です.

 大空を高く飛ぶ鳥は,上空からその眼下に ある建物がどんな形をしているのか,その周 囲の風景とあわせて把握することができま す.しかし,その建物の中に誰がいて,何が 行われているのか,あるいはその建物の壁に 細かい亀裂が走っていても気付くことができ ません.逆に,小さな虫ならば,建物全体の 形や大きさはわからなくても,壁の亀裂には 気付くことができます.つまり,どちらか一 つの目で物事を見てもその真実の姿はわから ない,鳥の目と虫の目の両方で物事を観察 し,考えろということです.

 その具体例として,新聞社の社会部記者時 代に書いた小児医療連載のことを紹介したい と思います.

 『失われた命』というタイトルをつけた連 載企画でしたが,その取材はインフルエンザ

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脳症と思われる症状で幼い愛娘を失った母親 の悲しみと向き合うことから始まりました.

生まれた時の喜びや名前の由来,楽しかった 思い出の数々,発熱したときの様子,かかり つけの病院での診察,病状の急変,救急車の なかでのやりとり,三次救急の医師から脳症 を発症したことを聞いたとき,そして愛娘の 小さな心臓が止まったときの心境…

 そのときどきの状況や,細かい感情の揺れ を聞き取っていきました.これが「虫の目」

の視点です.そしてこの連載では,その虫の 目で得た情報をもとに,「鳥の目」で一人の女 の子の死を見つめることも忘れませんでし た.かかりつけ医の存在や救急隊の搬送態勢 のほか,日本の小児医療をとりまくさまざま な問題点をとりあげました.当時はインフル エンザ脳症で亡くなった子供たちの正確なデ ータさえなかったのですが,最終的には厚生 労働省を動かし,「インフルエンザ脳症研究 班」という組織がうまれました.今ではイン フルエンザ脳症で亡くなる子供たちのデータ はすべての都道府県で把握されています.

 そんなふうに細部を聞き取った経験は,向 き合った人との絆も深めてくれます.そのこ ともまた,ノンフィクションの作家を続けて いく大きなモチベーションにつながっている のです.

■物語も形を変えてつながっていく  オリンピック・パラリンピックイヤーでも ある2020年を迎えてから,そう感じる出来事 がありました.

 阪神淡路大震災で二人の子供を亡くした一 家の再生の物語として『にいちゃんのランド セル』(講談社)という作品を上梓したのは,

2009年12月のことでした.

 この作品はレギュラー出演していたラジオ 番組での出会いをきっかけに,松本俊明とい う著名な作曲家の手によって同名の歌として 2015年に発表されました.

 自分の作品が歌として世に残されたことだ けでも,作者としては思いがけない展開だっ たのですが,その歌を今,東日本大震災の被 災地でもある岩手の県立不来方高校音楽部の 高校生たちが歌ってくれていることを今年に 入って知りました.阪神淡路大震災と東日本 大震災の被災地を高校生たちの歌声がつない でくれているのです.

 そしてもう一つのつながりは,海外でうま れました.

 拙著『ピンポンさん』は『OGI』というタ イトルで英訳されているのですが,その英訳 本を手にとったドイツ人の実業家二人が,新 しいプロジェクトを立ち上げました.荻村伊 智朗の生き様に感銘を受け,荻村が1960年代 にデザインした「シャープマン」という卓球 シューズの復刻版を製作したのです.

 彼らはアメリカの経済誌「フォーブス」の インタビューでこう語っています.

 「僕たちがやろうとしているのは,単純に シューズを売るビジネスではなく,彼の理念 を伝えるブランドを世界に送り出すことだ.

荻村は94年に64歳で亡くなる直前まで,韓国 と北朝鮮の統一卓球チームを実現させるなど の努力を続けていた.スポーツが国家の分断 を超えていくというストーリーは,戦後のイ デオロギーの対立で東西に引き裂かれた過去 を持つベルリンの人々の心に響くはずだ」

 こうして新たな物語を生んだ不思議なつな がりも,荻村伊智朗は「必然」,おばさんこと 上原久枝は「偶然」と受け止めるはずです.

 そして『ピンポンさん』と『にいちゃんの ランドセル』という二つの作品がそれぞれ新 たな存在価値を持つようになった今,私は頭 の中でこんな思いをめぐらせています.

 偶然と必然が折り重なった先に生まれた物 語のさらにその先を追いかければ,ノンフィ クションの作家として新たな境地にたどり着 けるのではないか,と. (完)

びわこ成蹊スポーツ大学研究紀要 第17号 100

参照

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