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姑から学んだ助産師業,そして自分が生きた道

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日本助産学会誌 J. Jpn. Acad. Midwif., Vol. 21, No. 1, 40-51, 2007

愛媛県立医療技術大学(Ehime Prefectural University of Health Science)

2006年7月10日受付 2007年1月24日採用

資  料

姑から学んだ助産師業,そして自分が生きた道

─三浦和子姉の語り─

Fundamental role of midwives comparing current

and historical environment in Japan: research on

an experience of midwives in two generations

(Ms. Kazuko Miura and her mother-in-law from 1910s to 1960s)

灘   久 代(Hisayo NADA)

* 抄  録 目 的  今日のわれわれ助産師が,助産師としての責務や役割を再認識し,専門職業人として活動できるため の示唆を得る。 対象と方法  戦前から戦後,開業助産師として活動した助産師の聞き取り調査を平成17年2月∼平成18年3月まで 行った。そして対象者の時間軸に沿って,ライフヒストリーにまとめた。 結 果  開業助産師は,人々に喜びや安心感をもたらすために,確かな助産技術や判断力を持ち,同時に妊産 婦のおかれている状況や家庭環境を把握するために,本人のみならず家族との人間関係やつながりを非 常に大事にした。そして,常に妊産婦の味方となり,使命感を持って堂々と助産師としての役割を果た してきた。 結 論  助産師には,いつの世においても堂々と責務を果たすために技が必要である。しかし1つひとつの実 践は,単なる技に終わるものではない。人間愛や生命への慈しみを持ち,対象者に喜びや安心感をもた らすことも重要である。 キーワード:助産師,責務,役割,ライフヒストリー Abstract Purpose

The purpose of this study was to reconsider the role and responsibility of present midwives, through knowing the field of traditional midwives’ activities.

Methods

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while in private practice, from the 1910s to the 1960s. Seven interviews were conducted, with a total of 14 hours and 25 minutes from February 2004 to March 2005, and the comments were summarized into a life-history document. Results

It was found that the practicing midwives in old times had a continuing close relationship with the mothers' families and the community, having knowledge of the circumstances and family environment of each pregnant wom-an. In addition to the ordinary maternal care, traditional midwives served as supporters and friends to the pregnant women, during both perinatal and postnatal periods, and pursued their role with a firm sense of mission.

Conclusion

From our interviews, we could postulate that midwives need to make their best effort in providing a sense of security and comfort to people, through an understanding of a person's feelings, along with the need of developing greater midwifery professional responsibility and improved clinical techniques.

Key words : midwife, life history, responsibility, role

Ⅰ.は じ め に

 自宅分娩の頃,助産師は,お産だと呼ばれては,あ ちこちに出向き,子どもを産み育てる人々への支援を 献身的に行ってきた。そして責務を全うしてきた。そ の結果,人々からは安心感や信頼感から,親しみを込 めて「産婆さん,産婆さん」と声をかけられ,尊敬も され,自然と交流も広がった。  しかし,時代と共にお産は医療施設内で,しかも医 師の介助による分娩へと大きく変貌した。その移り変 わりのなかで,助産師はお産を助ける助「産」師では なく,医師を助ける助「医」師となっている場面も少 なからず見受けられる(陣痛促進剤による被害を考え る会, 2003)と,指摘されるように,人々から助産師 という存在感が薄らぎ,役割も見えにくくなってきて いる。同時に助産師自身も,大きな組織のなかの一員 となり,しかも産科病棟の混合化が進むなかで,専門 性を配慮した業務配分は困難である。そうしたなか, 助産師は自らの専門性を生かせられず,また専門分野 でキャリアを開発する機会がなく,モチベーションを 低下させている(産科病棟における混合化調査委員会 メンバー , 2004)。  人(助産師)が作られるものに影響を与えるものと して,先天性の他に環境や時代などがあると言われて いるが,母子の健康や生命を守る助産師の責務は,ど のような時代においても変わらない。そこで母子二人 の命を預かり,そして責務を果たし,また,それをエ ネルギーとして活動した先輩助産師の実態を把握する ことは,今日の我々助産師が,専門職業人として活動 できるための示唆が得られ,また助産師の責務や役割 を再認識する資料になると思われた。  本研究は,三浦和子姉がお産や助産師の仕事をどの ようにとらえ,その経験をどのように生かして歩んで こられたのか,その実態を語りから明らかにすること を目的とした。

Ⅱ.研 究 方 法

 ライフヒストリーとは,その人が生きてきた暮らし との関連において,人生を捉えようとする手法である。 そこで,三浦和子姉が姑(三浦昉あき子こ産婆)と共に経験 した助産師業,その後,助産師から教員として歩まれ た人生の軌跡から,今日の助産師が専門職業人として の役割や責務を再認識し,また実践に生かすためには, ライフヒストリーの方法が最も妥当と考えた。 1.調査期間  平成17年2月7日∼平成18年3月12日まで 2.研究対象と調査方法  出雲市在住の三浦和子姉に非構成的な方法で,面接 による聞き取り調査を7回行った。主にご自身が歩ん でこられた軌跡や職業観などについて,自由に語って もらった。1回の面接時間は,最高4時間10分∼最低1 時間であり,総面接時間は14時間25分であった。面 接内容は許可を得て,全てテープレコーダーに録音し, 逐語録に記録した。 3.データの整理方法  語られた三浦和子姉の生涯を時間軸にそって記録し た。 注)現在,産婆,助産婦の呼称は助産師,看護婦は看 護師と改称されているが,語りには対象者の生き た時代を反映するため,対象者の語り通りに表現 している。

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4.倫理的配慮  面接調査の依頼にあたっては,依頼文を郵送し,後 日,研究協力への有無を電話で確認した。承諾を得, 面接は対象者の自宅で行った。面接前には再度,口 頭で研究の目的等を説明し,また面接内容をテープレ コーダーに録音することの承諾を得た。録音したテー プは逐語録に記録し,記録後は速やかに消去した。デー タは研究以外に使用しないことを約束し,論文完成時 には,語られた内容の確認と共に,名前の公表や写真 の掲載,記載内容についても再度,承諾を得た。

Ⅲ.研 究 結 果

1.職業の転換 1)教師から助産師へ  三浦和子姉(写真1)は,大正13年生まれの82歳。姑(三 浦昉あき子こ産婆;写真2,3)は,家つき(跡取り娘)で,結 婚はしたが離婚し,子どもがいなかったため,和子姉 は結婚と同時に夫婦養子として,昭和21年4月,三浦 家に入った。  和子姉は,女学校4年,師範学校2年,その後,師 範学校の専攻科で国語を学んだのち,昭和19年4月に 国民学校の教師となり,結婚後も教師を続けていた。 しかし復員者が増えるにつれ,出産が多くなり,嫁い で2,3か月した頃,姑から「学校を辞めて,産婆の仕 事を継いで欲しい」といいだされた。教育に熱心であっ ただけに,校長や同僚たちはビックリし「なんで教師 を辞めてまで産婆になるのか」と,驚きの方が大きかっ たが,当時は,嫁ぎ先のいうことは聞くもの,という 風潮があった。 2)社会一般の産婆観と姑を通してみる産婆像  国民学校の教師から見た産婆は,世間では重宝がら れ,敬われても,その地位は決して高いものではなかっ た。それは,教師は頭の仕事,産婆は手の仕事,つま り技術職であったため,陰の存在であった。しかし姑 を通してみる産婆は,教師から産婆を見ていた時とは, まるで違った。姑は医者よりも威張っていて,産婆の 仕事に誇りを持っていた。また周りや,たくさんの妊 産婦さんから尊敬されていた。 3)産婆になる動機  姑から「産婆をやれ」と言われた時,姑は52か53歳 で脂がのっている時であり,「絶対,産婆をやめたく ない」ことが分かっていた。教師への未練はあったが, 姑が誇りをもって働いていただけに「嫌だ」とはいえ ず,また「やらんとすまんだろうな」という思いもあっ た。  教師への未練を断ち切り,自分を納得させ,産婆に なる覚悟をするには,皆から尊敬され,信頼されてい る姑に,自分自身を重ね合わさないと出来なかった。 そして,産婆をやるからには気持ちを切り替え,姑の ように仕事に誇りを持ちたいとも思った。 4)産婆試験に向けて  教師を昭和21年8月,2年と5ヶ月で辞め,翌年の3 月の産婆検定試験に向けての準備を始めた。  姑(三浦昉あき子こ産婆)の父親は,鳶とび巣す地区の開業医で あった。死後,鳶巣地区は無医村となったが,三浦家 には診察室が残されていたこともあって,吉よし直なお医院 (現,平田市)の分院として,週に1度,吉直医師が来て, 内科から眼科まで,何もかも診ていた。  吉直医師が診察に来られた時には,受験に必要な産 写真1 初回面接時の三浦和子姉 (姑:三浦昉子産婆の着物を着て) 写真2 昭和初期,旧簸川郡の助産師仲間達と姑(三浦昉子産婆)(2列目,向かって右から4人目)

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科学の講義を受けたり,聞きに行ったりしながら4冊 の教科書を覚えた。そして,自分で教科書を覚えてい ないと書けないような問題を,100本の紙縒りに作り, 一晩に10本引いて覚えた。  姑には実技試験のため,お産によく連れて歩かれた。 またファントームを伊藤産婦人科(現,平田市)から, 姑が背負って借りてきて,内診や児の娩出方法を教 わった。  産婆の勉強を半年ほどし,看護婦経験があることに して,昭和22年3月,産婆の検定試験を受けた。場所 は男子師範学校の講堂(松江)で行われ,300人くらい が受けにきていた。中には,戦争から帰ってきた日赤 の看護婦たちもたくさんいた。試験の結果は筆記試験 が100点,実技試験は70点であったことを後で聞いた。 4月に免許を貰い,それから7年間,姑について助産 婦をした。 2.姑(三浦昉あき子こ産婆)の産婆業 1)姑の産婆への動機  姑は明治28年,医者の娘として生まれた。弟が医 師になる途中,結核に罹り死亡したため,姑が産婆と なって家を継いだ。  明治45年頃,簸川郡私立産婆看護婦養成所(写真4) を卒業し,県の検定試験を受けた。17か18歳で産婆に なり,最初に取り上げた赤ちゃんは,既に90歳を過 ぎたおじいさんだが,今も元気に過ごされている。 2)当時(姑の現役時代)の妊婦と産婆の付き合い  「届け出」という最初の診察は,初めてのお産の人は, 普通,妊娠5か月の帯祝いの日に産婆を家に呼び,帯 祝いの儀式をした。祝い膳での産婆は,正面の床柱の 前に座った。儀式は,里(嫁の実家)が準備した帯を 写真3 昭和21年日本産婆会(出雲大社)  当時の島根県産婆会長は田尻キク氏(前列中央,洋服姿),その右隣 水谷きね氏(前列, 向かって左から10人目),三浦昉子産婆は4列目,向かって左から4人目 写真4 明治45年,簸川郡私立産婆看護婦養成所卒業写真

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供え,祝い膳の後,嫁の部屋である納戸で診察し,帯 を締めた。以後の診察は,自宅(三浦昉あき子こ産婆)の診 察室で行った。2人目,3人目の経産婦になると姑に遠 慮し,妊娠をいつ話そうか,思案している間に日が過 ぎ,生まれる2か月前になって,診察に来られること も多かった。当時は妊娠しても,先ず姑(産家)が知 らないといけなかった。他者が先に知ることは姑の機 嫌を損ね,許されることではなかった。また姑がお金 を管理していたため,妊婦は姑の機嫌の良いときを見 計らって,姑からお金を貰って診察に行くしかなかっ た。 3)姑の妊婦健診  妊婦健診では尿検査,血圧測定,お腹を触って胎児 の位置の確認や心音を聞いた。ちょっと変だという時 には早めに来てもらったり,医者に罹るように話した。 話し掛けながら,姑のしなやかで細い,そして指の腹 は柔らかであった手で15∼20分,疲れている妊婦の 肩や足腰をなで,身体をほぐすと緊張した腹部は和ら いで診察がしやすくなり,妊婦の気持ちも解れた。そ うしたマッサージのことを後々まで,噂してもらった 中に「腹をとる」という行為がある。これは毎月の診 察時,夏は診察台で,冬は炬燵に入り寝た状態で行う 妊婦の背中から腰,腹にかけての大マッサージである。  農家の嫁は,産むまで労働である。そういう時の「腹 をとる」のひと時は,心身ともに大変,安らぐ時間で あった。「ああ腹が軽くなりました」,「あんまり良い気 持ちなので,ちょっとトロトロしました」など,産婆 の温かい手でさすってもらう心地良さは,過労の妊婦 には格別のひと時であり,その後の2∼3日は楽であっ たと喜ばれた。また外に出ることが少なかった農家の 嫁は,診察後,お茶を飲みながら産婆と話しをする事 は,日頃の鬱積などのはけ口にもなっていた。ただ家 のことは,誰かれと話せるものではなく,裸を見ても らっている産婆を非常に信頼してのことであった。ま た産婆も,妊産婦と同じ地域で生活していると,どこ の嫁は,どういう暮らしをしているか,大半,分かっ ていた。だから相手から話されることを聞きながら, こっちがタッチして良いものと悪いものとを判断して いた。そして,常に嫁の味方になりながら,姑を上手 く立てていた。産婆というのは家の裏側,つまり納戸 や台所の生活が分かるだけに,秘密を守ることを非常 に大事にした。 4)お産の準備  お産までに,各家庭で褥布団を作ってもらった。ま ず,お産に使うぼろ布は,缶にお湯を入れ,石を組み, その上に缶を載せて,薪でボロ布(浴衣をほどいたり した物)を炊いて煮沸し,天日によく干した。藁は燃 えない程度に焼き,冷めない内に縫った袋のなかに入 れて(藁が冷めすぎると不潔になる),褥布団を作る ように指導した。褥布団は,燃やした灰を使うので衛 生的で,産褥熱を起こすことは殆どなかった。また藁 ふとんの灰は,血液などの吸収がよかった。  産まれそうになると家人は,くど(かまど)でお湯 を沸かし,台所の板間に藁で編んだむしろを敷き,そ の上に大きな木のタライを準備した。木は当たっても 熱くなく,感触が良かった。差し湯は,口のついた小 さなバケツが準備された(写真5)。 5)姑の分娩予測とお産介助  分娩予定日が過ぎると,産婦は直ぐ診察に来られ ていたが,姑は「頭が固定していないから1週間先だ」 とか「4∼5日先だ」と言うと,その頃に生まれていた。 また陣痛が始まって家人が迎えに来られ,姑が診察を して「これは明け方の何時」というと,大体,その頃 に生まれていた。  姑は産婦の寝床の側で,座って居眠りをしていたが, 産婦から「また痛くなりました」と声がかかると,「ま んだ,まんだ,それぐらいでは,とても,とても」もっ と陣痛が縮まらないといけないとか,時間がかかるか ら,あんまり焦ってはいけないとか,痛みの手伝いは できないが,頑張ってやんなさいよ,と声をかけた。 産婦にとって,産婆が側にいて声を掛けるだけで,人 間と人間とのふれあいというか,愛情というか,そう いうものに非常に救われ,また安心され,力になって いた。  この辺(出雲)では産後,おむすびを食べさせる習 慣があり,枕元におむすびを置いてお産をさせた。し かし,嫁姑問題は今に始まったことでなく,嫁に食べ させるのも惜しいと思う姑が中にはいた。それで嫁は, はがまで炊いた御飯をおひつに移す時,はがまの周り 写真5 当時の沐浴風景

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に少しの御飯を残して置き,それを食べたりもしてい た。そういう状況を姑(三浦昉あき子こ産婆)はわかってい たから,お産が近づけば,産家の姑に「おむすびの用 意はしてあるかね」と声をかけた。そうすると「作っ て待っとりますけん」と声がかかる。そうした産婆と 姑のやりとりも,嫁の喜びであった。  姑は産ませ方が本当に上手で,会陰を破ったことが なかった。姑自身も自分の腕に自信をもっていたの で,私(和子姉)のお産を人に任せることができなくて, 姑自身が取り上げた。昔はお産で騒ぐと「女の身だし なみがない」ということで,忍耐強い人は騒がなかった。 6)初めて付き添う姑のお産介助  姑の受け持ち地区は,自宅を中心に東西(美み だ み談から 鳶 とび 巣す)全戸400件を受け持っていた。端から端まで行 くと4 kmはあり,冬は迎えの人に鞄を持ってもらい, 雪道を歩いた。  初めて,姑に付いてお産に行った所は,山の中腹に ある家であった。夜,一晩中座っていて,明け方(5時頃) に生まれた。生まれると「もうお湯が沸いているから」 と,なみなみとお湯が張られたタライが準備された。 お産は夫婦の部屋である納戸であり,赤ちゃんを包ん で出てタライに入れた。家内中の皆が傍にきて「いや ∼真っ赤な顔をしていますね」,「指も5本ありました ね」,「普通のちゃんとした子どもで良かった」と,家 族みんなが安堵し「元気に,身2つになってありがと うございます」といわれた。  沐浴後,子どもに着物を着せ,お母さんの隣に寝か せると,お母さんは安心して眠りにつくようであった。 ようやく夜が明け,太陽が上がってくるのを家の中か ら見ていると,まるで人間の誕生が太陽と一緒のよう に感じられた。自分のお産の時もそうであったが,元 気な子どもが生まれることへの皆の喜びは,シーンと 静まり返っている家の中がパーッと輝き,朝日が昇る ようで忘れることができない。そういうお産に出会う と,子どもたちに,そういう家のぬくもりや,人の心 のぬくもりを体験させたい,味あわせたいと思う。子 どもが成長したとき,そういった体験を,身をもって した場合と,しない場合とでは,心の成長が大きく異 なると思う。この頃では,生まれるのも死ぬのも病院 でする時代,どういう風にして人が生まれ,死んでい くのかがわからない。だから,そういう感激が大切に なってくる。 7)産後の生活─褥婦の生活と地域の風習─  産後は沐浴と悪露交換に1週間,産家に通うと,そ の頃にはお臍も取れていた。お産が終わると当時は1 週間,寝て過ごした。農家の嫁はそれこそ,お産まで 働け働けで,お産になると「これでゆっくり寝られる」 と喜びであった。産後は,どんな姑でも「早く起きて 何とかせー」ということはなかった。少々難しい姑で も,お産の時だけは寝かせていた。また産後は不浄と いうことで,台所仕事はさせなかった。また,台所を 通ることも避けた。  産後の食事は,里(嫁の実家)から米粉を持ってこ られ,それを団子汁にして食べると,よく母乳が出た。 米粉の他に大根のみそ付け,梅干しも持ってきた。こ れらは副食がなくても御飯が食べられ,母乳も泥の下 でできた根野菜や御飯を食べていたら良く出た。また 産後は,ご馳走を食べると子宮の収縮が悪くなるとい われ,魚や肉を控えた。今でも鰯を見ると思い出すが, 自分のお産の時,試してみようと鰯をたくさん食べた。 そうすると,おりものが多くなり,子どもも下痢をし だした。それで産後は粗食が良い,と納得したことが ある。また余った母乳は,どこにでも捨てず,川の方 まで持って行って,流れる川に注いだ(水神さんに授 けた)。それほど大事にした。  また,この辺(出雲)では子どもが生まれると里は 大変で,名付けの時には「名開き」と言ってお客をし た。その時には,子どものおしめから着る物,おんぶ 紐,ねんねこの綿入れ,合わせ,単衣のものなど「孫 ごしらえ」として,全て里から持って来られた。良い 家になると,お産や病気などがあると手伝いに来ても らう人を家々で契約していた。手伝いの女の人を「仮かな 娘 むすめ 」と言い,産後は赤ちゃんのお風呂やおしめの洗濯, 食事の世話をした。小作と地主との関係もあり,色々 な家があった。高瀬川付近は紺屋町といわれるくらい, 出雲では藍染めが発達していた。そのため,この辺で は赤ちゃんの湯上げタオルやオムツは,藍染めの染め 抜きの物を使っていた。藍のおしめは,はじめの内は お尻が青くなったが,子どもが藍にふれるのが良いと もいわれた。おんぶ紐も実家の紋をつけて,染め抜き をした帯であった。帯で子どもをおんぶすると,子ど ものお尻がしっかり固定され,安定感があってよく寝 た。 8)お産料  お産料は,その家の力(収入)に応じてお礼として 貰っていた。当時,医師もそうだったと思うが,払 えない所は米が取れたら持ってこられ,餅をついたら 持ってこられ それで良し としていた。ないところ

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には固執せず,あるところからは,ありがたく頂くの が当時の産婆であった。物納と少しの御祝儀で,良い 稼ぎではなかったと思う。  お呼ばれの祝儀には,実家からのお礼の他,米や餅, かまぼこなどを貰ったが百円でも祝儀,千円でも祝儀 である。お米は,余所に持っていく時には二升米といっ て二升が基準であり,多くても二升までであった。た だ,この辺は農家が多く,何かあるとお餅をついたの で,餅の切れる事がなかった。 3.姑,三浦昉あき子この産婆への姿勢  姑は何事にも潔癖なほど綺麗好きで,爪は短くし, 手洗いはお湯で石鹸を使い,必ず後でローションを塗 るという日々であった。「産婆は,初めてこの世に出 てくる何の汚れも穢れもない子どもを取り上げるのだ から,一番きれいで神聖な仕事」と話し,手の手入れ は怠らなかった。このように,柔らかい手が必要であっ た姑の手への保護対策も徹底していた。軍手やゴム手 袋のない時代,洋品店で買った値のするしゃれた手袋 を自転車に乗る時,庭掃きで箒を持つ時,風呂で木を 炊く時といった至る所に配置し,夏冬に関わらず,は められるようになっていた。ローションは自分で作っ た物で,グリセリン,エタノール,蒸留水を1:2:3 の順に加えたもので,手につけると,つるりとした。  また姑は,四季を通じて和服一本で通し,いつも白 足袋を履いて出かけていた。夏,冬を通してシャツと いうものを着たことがなかった。5月になるとセルの 着物,夏がきても晒しの襦袢に一重の長襦袢,その上 に絽,紗,銘仙の一重,帯も一重であった。汗の時期, 汗を吸い取るために晒木綿の素敵なブラジャーを作り 使用していた。秋になるとネルの襦袢に長襦袢,その 上に袷長着,帯に羽織,寒さが厳しくなると襦袢と長 襦袢の間に自分で作った真綿の背当てをはさみ,防寒 していた(ブラジャーや真綿の背あては,現在,私も 使っているので,忘れることができない)。吹雪の日 には羅紗のマントを着て,長靴をはいて出かけ,雨の 日には白足袋に爪掛をつけて,高木履で出かけた。  下から上まで重ねた和服のアンサンブルの一揃いは, いつ,お産のお迎えがきても,すぐ着て出かけられる ように,2組か3組は必ず納戸に吊るしてあり,いつで も大丈夫の態勢が整っていた。そして,どんなに寒い 時でも全部脱いで一揃いの和服を素早く着て,出て 行った。  昭和10年頃から自転車に乗っていたが,立褄のと ころを安全ピンで留め,颯爽と自転車で道行く姿は「昭 和版のおはなはん(ハイカラさん)」であった。何時だっ たか,姑に「子どももいないのに,何故,こんな仕事 ができるのか」と聞いたことがある。そうすると「自 分は,お産の仕事が好きだ」と話した。  みんなから重宝がられ,誇りをもって仕事をし,謳 歌した姑であったが,昭和46年頃が最後のお産となり, 昭和48年,数えの80歳で亡くなった。亡くなる頃は 病院産の最盛期であった。 4.三浦和子姉が参加した戦後の助産婦再教育  「いろあげ講習」といって,染め物をもう1回色上げ するように,戦後,GHQから色々な講習が,全国の 助産婦に対してあった。  マチソン女史による通訳付きの講習が,中国地方で は広島赤十字病院であり,10日間の缶詰講習であった。 マチソン女史は,少佐の位の人と聞かされた。再教育 の内容は,アメリカ流の講習内容であったが,普段, 行っていることばかりで新しい事はなかった。しかし 仕事から解放され,学ぶ事は楽しかった。  当時,アメリカは施設分娩で,家庭分娩は費用がか かることから上流階級の人の出産であった。それが日 本では全員が家庭分娩であった。助産婦による家庭分 娩は,不衛生と言うことで施設分娩に移行していった。 話の中で,今でも印象に残っていることは「日本の妊 婦は,もっと堂々としなさい。身体の格好が悪くなる と,とかくおしゃれどころか,何でもいいわ,という 気持ちになるが,それは辞めなさい。自分が持ってい る一番いい服を着て,町を闊歩して御覧なさい。心を 明るくし,優しい心になりなさい」という話しであっ た。また講習会の終わりには日本髪を結い,ひふ羽織 に袴,武士のような出で立ちで来賓席に座っておられ た産婆さん達が並ばれた。その時,水谷きね氏(写真3) が,代表で話をされ,その内容は前田公爵の所へお産 に行って,座産をされた話であった。  再教育を受けた後は,若い助産婦達が地元を歩き, 妊産婦を集めて母親教室を開いた。また講習に出た後 は,地域の助産婦たちに伝達講習を行った。 5.三浦和子姉からみた戦後の開業助産婦観  昔,お殿様の前を通ると打ち首にされたが,産婆さ んは通っても打ち首にされることがなかった,といわ れるくらい尊敬されていたらしい。そして産婆さんは, 出産という命がけに近い真剣な時に,産婦の側で眠れ

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るくらいドッシリ腰を据えた人でないと,産婦や家族 は安心できないといわれた。実際,度胸が据わってい た。そして,昔の産婆さん達は女丈夫というか,威厳 があって,男か女か分からない人が多かった。お産の 迎えに来られて,何kmもの夜道を男の人の後をつい て歩かなければならなかったから,そうでなかったら 勤まらなかったと思う。また産婆会(現,(社)日本助 産師会)にでると,産婆さん達は威厳のある方ばかり であった。  助産婦同士は普段,商売敵なのに,何かあると助け 合って,つながりがあって,結束力が強い。守りあっ てのシステムが,よくできていると思っていた。それ は昔の産婆さんは,世間を知り尽くしておられ,いけ ないことはいけないこととして,また辛抱するところ というのを,わきまえておられたからではないかと思 う。そして昔の産婆さんたちは,自身が食べられなく ても使命を尽くし,少々の事ではへこたれない精神的 に強い人が多かった。母子2つの命を堂々と守る命が けの仕事は,技が上手でなければならないが,まさに 心技一体,人間性を磨いてないと,できる仕事ではない。 6.教師への復職 1)教師に復職した動機  昭和22年の3月に助産婦の免許を手にし,それから 7年間,姑(三浦昉あき子こ産婆)について一緒にお産をした が,その間,世の中は産児制限もあって,お産もだん だんと少なくなった。また病院出産が始まり,助産婦 も助産所を開設する人が出てきて,入院産がどんどん 多くなった。自分も教師を辞めて,せっかく助産婦に なったことだし,姑(三浦昉あき子こ産婆)もだんだん年を とる。助産所の開設が必要ではないか,と考えるよう になった。しかし当時,150万もの借金をして,助産 所を開設することに姑は反対であった。「では,どう したらいいのか」という問いに対し,姑は「もう一度, 学校に復職してくれ」といいだした。迷った据え,一度, 家を離れて考えてみることにし,鍛錬を受けに東京に 出た。丁度,日本初テレビ放映の昭和28年2月1日であっ た。10日間の鍛錬を終え,その後,助産所も上京のつ いでに3か所見学した。あれほど姑と意見が対立して 家を出たのに,帰るときには「姑(三浦昉あき子こ産婆)のい うとおり学校に復職しょう」と,不思議なほど素直な 心になって,わが家に帰ってきた。 2)再び教師として歩み始めて  教員の復職採用は難関であった。1年半,事務仕事 を行い,その後,昭和30年1月,病気で休まれた教師 の後任に,助教として採用され,復職したが,戦後 10年近くの教育現場の変わりようは大変なものであっ た。ちょうど新教育が始まった時であり,私らが習っ たときの教育とは,言葉からして違っていた。9年の ブランクがあり,それについていくのが大変であった。 その時,「ついていかなくてもいい,私なりにやれば 良い」,「とにかく親を見方につけよう」,「親御さん方 に力を貸してもらおう」と思った。 3)姑から学んだ産婆の姿勢を教育に生かす  助産婦として,この農村地帯の色々な家庭に出入 りさせてもらい,色々な人生経験をしてきた。特に 各種各様な家庭における親子関係,嫁姑,兄弟姉妹関 係,それに付随するさまざまな関係,あるいはそれを 取り巻く世間の目,自分なりに見,感じ,さらにその 複雑な人間関係の中で「生命の誕生」の感動に出会っ た。そうした体験の一つひとつが,子ども達を相手と する生活の中で,私を大きく変えた。  もともと人間が好きである。教育は方法ではない。 一人ひとりの子どもに,どのように喜びをもたらせ たら良いか,であろう。親御さんにとっては,かけが えのない子,「お母さん先生をやろう」と思い,お便り ノートを始めた。昔から父兄会などはあり,子どもの 様子を伝える機会はあったが,その当時,そんなこと をした教師はいなかった。  学級の子どもたち38人に,帰るようになると自分 のノートを持って1列に並ばせ,そこに一人ひとり全 員に4∼5行くらい,その日,その子の良いことを書 いた。悪いことは書かなかった。中には「今日も元気 にやっていましたよ」と,書くこともあったが,それ を毎日,1年間続けた。子どもたちを良く見ておかな いと書けないので,休憩時間などに職員室に戻ること はなかった。昼休みも返上して,子どもたちの様子を 観察していた。子どもたちは一杯,悪いこともしてい るが,良いことしか書かないと思うから,教師に不信 感を持たないし,ノートを親に隠さない。親もノート が楽しみになり,参観日にお便りノートの表紙作りを お母さん方にしてもらうと,お母さん方も一生懸命, 貼り絵をされた。そうしたことを後から考えると,お 便りノートというのが結局,親と子,一緒に喜ばせる ことになり,それが大変プラスになって良かったな, と思う。そして,どうしても知らせないといけないこ とや,注意したいことは家庭に行くか,学校に来ても らうか 必ず親御さんの顔を見て話す ことを方針と

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した。そうすると,こちらの信頼度も高まった。  その後,日本で初めて各県に特殊学級ができ,昭和 35年から20年間,特殊学級,障害児教育に関わった。 障害をもつ子どもに接した時,助産婦をしていた時の 体験や,色々と聞いた話が大変役にたった。胎教や生 育歴,妊娠中の精神状態が,どれほど子どもに影響す るか,ということがたくさんあった。人間は,どうい う風に生まれて,どう育ったかは原点である。それで, 子どもではなく「親を何とかせんと子どもが駄目だ」 と,親に力を入れた。助産婦としての実践があるだけ に説得力があり,お母さん方も納得された。ただ特殊 教育を最初に受け持つ時,校長から言われたことがあ る。「特殊教育をしていると教師自身が特殊に見られ る。また特殊学級しか,みれないようではいけないか ら,転勤した時には必ず普通学級を1年,担当してか ら特殊学級を受け持つように」と指導を受けた。その ため現職中,3つの学校が変わったが,その都度,そ のように申し出た。 4)三浦和子姉の教育観─子どもの尊重と教育の基本─  知能障害があったとしても,人間の中にあるものは 一緒である。そのことを,障害児を受け持った時,人 間的に納得させられた。人間として取り扱ってくれる か,否かを勘で感じ,能力のない人を馬鹿にすると側 に近寄らない。子どもの純な誠実さを常に見,人間的 に彼らの良さをどれだけ見つけるかによって彼らは育 つ。障害児の子どもが5人いれば,5人ともすごい違い がある。そうすると,実態を捉えるまでが大変であっ た。知能指数から外側の身体の状態,健康状態,学力 がどの程度か,その子どもが一番いけないものは何か, 家族関係はどうかなど,そういうものをまとめていっ た。実態をそこまで捉えると,さて,これをどうするか, という時,一人ひとりに教育目標を立てた。この子の 場合,手足に問題はない,そうすると労働に耐える子 どもにしておかないといけない。ある子どもは,非常 に身体が弱いが知能に問題はない。そうすると手先の 器用さを使っていかないと,というように,5人五様 性の目標ができあがった。同時に共通目標,共通点み たいなものも出てきた。  教育は,本当は一人ずつの目標がなければいけな い。40人の子どもを担任したら,40人の目標がなけれ ばならない。私は受け持った36人を円にして,それに, 一人ひとりの目標を立てた。それを1時間の授業で行 おうとしても,簡単にはいかない。そこで今日は,こ の子と,この子に,この時間は主に力を入れて,この 子どもたちには,こういうことをさせておこう,こう いうことをして遊ばそう,と計画を立てた。そういう 風にすると,教師が小さなことで窘めたりしなくなる から,子どもたちが非常に安定する。できないことを 叱っても仕方のないことだし,皆さんも納得した。  健常な子どもたちは,ある程度,同じところがいっ ぱい出てくる。だから小学校の1年生であったら「自 分のことが,できるようにしてやらなければならない」 など,共通目標が出てくる。でも,子どもによっては, 特別にしてやらなければならないことも,何人も出て くる。しかし,学校は学力しかみていない。教育は, 頭の中の事みたいに思うが,身体も一緒になって成長 する。それを見ようとしなかった。ただ障害児は,身 体のことも含めてみんな違うから,一人ひとりの実態 を把握し,ねらいを立てて,やっていかないとやれな い。障害児を受け持って,教育の基本はこれだなーと 思った。 5)助産婦と教師の共通点  自分が学んだ師範学校は,二宮尊徳の報徳を中心に した教育であった。24時間,学校を家庭とした教育で あり,母子関係で教育してもらい,教育とは,こうい う風にするものだと身体で教えてもらった。助産婦を やってみて,教育と相通じるものがあり,そんなに離 れているとは思わなかった。むしろ教育と助産婦の仕 事が一緒になった。  親子関係も教育とお産,共通しているものがある。 子どもとお母さんを育てる という点で,助産婦,教 師は似ている。そして,どちらも相手の気持ちになり ながら行う,ということが必要である。話をして,そ れを相手に聞き入れてもらおうと思うのなら,自分が 偉いとか,相手に教える,という気持ちを持ったら駄 目である。無心になり,相手と同じ気持ちで話せば聞 き入れてくれる。そういう思いやりみたいなものが自 然に出て,それに答えるべき使命感が必要であり,ま た,それでやってきた。そして信頼されると,100% の力を出すことができた。 9.助産婦,教師,各々の経験から今,思うこと  助産婦は大黒柱にならないといけないが,担任教師 も一国一城の主である。それだけに,両方とも大変だ がやりがいがある。しかし,教師は間違ったことを言っ ても,次の日に訂正ができるが,お産だけは,そうい うわけにはいかない。  また女の教師は,昔,37か38歳で恩給が付いたので

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辞めていた。それに比べ,助産婦は命を取り上げる仕 事を大事にされ,一生涯の仕事としてやっていた。  私が助産婦になったときの姿勢は,教師と助産婦, 場は違うが相手は人,教師として子どもの相手をする のも,助産婦として親の面倒を見るのも,同じ土俵 の上かもしれない。何とかなるだろう。しかし,土俵 に上がって四つに組んだら,勝ち負けは別として,白 黒が付くまでは途中で土俵から降りない。負けたら負 けたで,一瞬,一瞬を頑張っていけば次の道が開ける。 そう思ってやってきた。いさぎよく負けることは恥ず かしい。しかし負けることを認め,負をごまかさない ことが大切で,負を認めることで次のステップになる。 親子関係でも,教師と子どもとの関係でも,負けっぷ りを見せると子どもが安心して付いてくる。また,負 けっぷりを見せないと,相手が育たない。人の生き方, 職業を越えた誠実さを常に見せることが大切で,その 人を作ることになる。  昔は,帯祝,月祝(産み月の初日),お七夜(命名祝) には,産婆さんを自宅に招いて祝い膳をした。また満 1歳の誕生日,紐落とし(着物の紐をとって帯を結ぶ という子どもの成長を表し,11月15日,数え年で4歳 になる子どもを指す)などには,お世話になった産婆 に,お祝いを持ってこられていた。昔の人がやってい た,こうしたことには理由がある。行事は形ではなく, 形を重んずる事が失われると,人とのつながりが消え てしまい,輪が保てない。今では家庭での出産がなく なり,家の中のそういった空気がなくなった。昔の何 でもないこと,普通にやっていたことが,いかに大切 か,心のこもった生活のやり方は,人のぬくもりを感 じる。年寄りの生き方も同じで,人と人とのぬくもり を大事にした人が,人からも大事にされている。また 本人自身も,一番そこが安定する。

Ⅳ.考   察

1.手本となった姑の助産師としての生きかた  教師から助産師へ,そして教師に復職され,人生を 歩んで来られた三浦和子姉をライフヒストリーで紹介 した。和子姉の教師に復職した後の人生においては, 姑と歩んだ助産活動,特に助産師として,色々な家庭 に出入りし,各種各様な家庭における親子関係,嫁姑, 兄弟姉妹関係,それに付随する複雑な人間関係の中で 出会った「生命の誕生」など,体験の一つひとつが土 台となった。その一つが,子どもたちとの関係のなか で,一人ひとりの子どもに,また親に,どのようにし て喜びや安心感をもたらせるかであり,その方法が, お便りノートであった。また子どもの純な誠実さを見, 彼らの良さを見出し,成長につなげるために,子ども 一人ひとりの心身の状態,家庭環境など実態を把握し, 教育目標を個々に立てて実践した。  われわれが,どんなふうに生きるか,という漠然と した問題にぶつかったとき,誰かの人生をモデルとし, 見たり聞いたりしながら学んでいる(加藤, 1996)。三 浦和子姉が子どもや親に喜びをもたらす行為において は,姑(三浦昉あき子こ産婆)が妊婦健診で妊婦の身体や心 をほぐした「腹をとる」行為や,その間に話される家 庭内のことを,各家庭の和合の上に立って判断し,嫁 として,そして母として,少しでも心地よく過ごせる よう手助けをしていた姿,複雑な家庭内の人間関係ま で知る立場にあった姑(三浦昉あき子こ産婆)のきめ細やか な対応や気配り,さらには和子姉自身が師範学校で受 けた教育などが,自然と反映していると思われる。  「仕事は人である」と言われるように,1つ1つの実 践は単なる手技に終わるものではない。助産師も教師 も人を相手にする職業だけに,目にみえない人間と人 間との温かいふれあい,人間的ぬくもりは,妊産婦や 子ども,親をも安心させる。こうした姑(三浦昉あき子こ産婆) や三浦和子姉の行為は,野島(1976)が述べる「看護す るという実践活動の中で使われる様々な道具のうちで, 最も中枢的な意味と機能を備えたものは,我々看護師 の身体そのものであり,看護師としての「私」が存在 する術の事である。同時に,人格的な技術をその基底 に強いている」ということではないか,と考える。 2.仕事に喜びを感じ,喜びを支援できる助産師  三浦和子姉やその姑(三浦昉あき子こ産婆)が助産師とし て活動された時代は,自宅分娩が主流の頃であり,家 族全員が分娩に関与し,家庭中心の出来事であった。 そして妊婦健診をはじめ,祝い事に招かれ,各々の家 庭に助産師が存在していた。また助産師は地域にとけ 込み,連帯性の中で生活をしていただけに,妊産婦や その家族の生活がよく見えた。それだけに,妊産婦の 保健管理の任にあった助産師たちは,家族のつながり や人間関係に配慮しながら,家庭環境や社会的背景を 踏まえて生活指導・保健指導を行った。そして妊産婦 をはじめ家族の幸せのために,地域に密着した活動を 続けた。  しかし,助産師のおかれている環境や状況は,その

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時々に変わり,実際,時代と共に大きく変化した。地 域の連帯性がなくなり,しかも,産む場所が自宅から 医療施設へと移ることで,妊産婦個々の実態をつかむ ことが難しくなり,身体の状態は把握できても,心 理・社会面が捉えにくい。したがって目標はあっても, 標準のものさしに合わせていることが多く,その人に あった個別目標が立てにくい。しかし助産師という仕 事は,対人関係の面が非常に強く影響し,むしろ,そ れがすべてとさえいえる。  時代や社会が変化しても,人の産まれる一大事に関 わる助産師に求められるものは,戸田(2005)がいう「妊 産婦の心の成長を支援し,幸せな母子と家族の誕生に 向けて女性に寄り添う助産師」であると思われる。家 庭での出産がなくなり,昔,普通にやっていた行事や 心のこもった生活,人のぬくもりや家の中のぬくもり が薄らぎ,やがて地域や人々の中に,助産師の存在も 希薄になってきた。それだけに助産師は,妊産婦を取 り囲む環境や実態を,相手の気持ちになりながら知る 努力や,方法を考え,そして安心感や喜びをもたらす 支援をすることが重要となる。そうした支援ができる には,その人の身体の状態,精神状態,生活リズムや 環境など,家族を含めた妊産婦一人ひとりの特性や実 態を把握して,個々に対応した目標を立てることであ る。同時に助産師一人ひとりが,助産師の仕事に喜び を感じていなければ,人に喜びをもたらす支援は難し い。  当初,三浦和子姉が教師への未練を断ち切り,助産 師になる覚悟をしたとき,皆から尊敬され,信頼され ている姑,お産が好きで,誇りをもって仕事をしてい る姑に自分自身を重ね合わさないとできなかった。同 時に,助産師をやるからには,仕事に誇りを持って, 仕事をしたいと思った。  人間は,単に現在のあるがままの姿に満足するこ とができず,常に,こうありたい,という理想像を 心の中に作り上げ,それに向かって営んでいる(加藤, 1984)。そして,満足感と達成感を感じながら生きる ためには,心から好きな仕事,あるいは使命を感じる 仕事に就くことであり(日野原, 2002),使命を感じら れることで,自分という存在を対象者に生かしながら 仕事をしていくことができる。 3.助産師としての自分磨き  今後の助産師のありようや,何をすべきかを考える 時,まずは今,助産師がおかれている状況を正しく認 識することと同時に,温故知新という言葉があるよう に,1つの基礎となる先輩達の歩んできた歴史(豊島, 1982)から示唆を得ることができる。長い歴史の中 で,数々の紆余曲折を経た助産師の活動の足跡や生き 方から学び,また経験を共有することは,実践能力の 向上と共に,助産師魂や潜在的な力が自然に引き出さ れ,助産師としての成長につながる。このことは,や まだ(2000)がいう,人々の人生が物語によって,次 に生きる者の人生モデルとなり,また継承する力をも つということである。そのことは,ただ単に人から学 び,モデルの足跡と同じ事を繰り返すだけでなく,前 方を見つめ,新しい世界に飛躍するための足がかりに もなる(日野原, 2001)。  今後ますます厳しくなっていく産科医療と共に,助 産師のおかれている状況ではあるが,助産師がいつの 世にも専門職として,妊産婦の中に存在し続けるため には,技を磨くと同様に,妊産婦に答えるべき使命感 が必要である。そして「桃とう李りもの言わざれども下した目おのず から蹊みちをなす(向学図書編, 1992)」のことわざのごと く,人が自然と集まってくるような人間的な温かさを 培い,それが妊産婦との関係性の中で生かされる必要 がある。

Ⅴ.結   論

 人に関わる専門職には,いつの世においても堂々と 責務を果たすために技が必要である。しかし,1つひ とつの実践は単なる技に終わるものではない。人間愛 や生命への慈しみ,そして誠実さを持ち,対象者に喜 びや安心感をもたらすことも重要である。特に家庭で の出産がなくなり,生まれるのも死ぬのも病院でする 時代においては,心のこもった人のぬくもりが必要で ある。そして助産師に必要とされる技や人間性を磨い ていくには,自らの仕事に使命感や喜びを感じながら, 一つひとつの体験を多層的に積み重ね,あわせて相手 の心を察する感性を磨くことが大切である。 謝 辞  長期間の聞き取り調査に,快くご協力頂きました三 浦和子姉をはじめ,写真を提供して頂きました松田静 子氏に心より感謝致します。  なお三浦和子姉は,平成19年4月3日残念なことに 姑(三浦昉子産婆)の許に旅立たれました。あわせて ご冥福をお祈りいたします。

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引用文献 石 塚 和 子(2003). 助 産 所 と そ の 役 割, 産 婦 人 科 治 療, 86(1), 18-21. 加藤秀俊(1984).独学のすすめ,40-43,東京:文芸春秋刊. 小林多寿子(2002).ライフヒストリーの社会学,インタ ビューからライフヒストリーに,67-69,東京:弘文堂. 向学図書編集(1992),故事ことわざの辞典,877,東京: 小学館. 産科病棟における混合化調査委員会メンバー(2004).産 科病棟における混合化の実態調査に関する報告書, 3-24,東京:社団法人日本助産師会. 陣痛促進剤による被害を考える会編(2003).陣痛促進剤 あなたはどうする,79-82,神戸:さいろ社. 野島良子(1976).看護の技術について,看護技術, 22(2), 140-148. 野島良子編(2003).エキスパートナース─その力と魅力 の構造─,35-36,東京:へるす出版. 日野原重明(2001).生きかた上手,58-61,東京:ユーリー グ株式会社. 日野原重明(2002).本職こそが幸福を呼ぶ,91歳の私の 証・あるがまま行く,11/30付朝日新聞. 戸 田 律 子(2005). 女 性 が 求 め る 助 産 ケ ア, 母 性 衛 生, 46(3), 55. 豊島豊子(1982).助産婦教育の課題と進路,助産婦雑誌, 36(3), 10-23.

Trisha Greenhalgh, Brian Hurwitz編/齋藤清二,山本和利, 岸本寛史監訳(2004).ナラティブ・ベイスト・メディ スン,3-6,東京:金剛出版.

やまだようこ編(2000).人生を物語る,30-31,東京:ミ ネルヴァ書房.

参照

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