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茨城大学教育学部教育研究所紀要13号特集(1980)113−120       113

公開保育の意義と重要性

一幼稚園や保育所の研究発表会はなぜ必要か一

関      勤

(1980年11月15日受理)

1 執筆の動機と研究の意義

筆者は,昭和55年1月17−18日に行われた社会福祉法人 日本保育協会(実施担当茨城県支部)

主催の国際児童年記念,関東地区保育所公開保育実践研修会において,「公開保育の意義と重要性」

というテーマのもとに基調講演をするように依頼をうけ,第一日目,開会式直後に一応その責あを はたした。

講演の依頼をうけた段階で,このテーマのもとで講演を行うことの必要性について主催者側はど う考えているのかをただした。それは講演の内容を主催者の求めるものにより近い,より適切なも のにしたいと願ったからである。主催者側の説明の趣旨はほぼつぎのようなものであった。

この研修会は,保育所保母を対象に公開保育の展開を通して,保育の実践と指導に関する研修を 行い,保育所保育の充実と保育者の資質の向上を図ることを目的としている。しかし,現在の保育 所の実情,保母の考え方は,この研修の理想と随分かけはなれている。各保育所はそれぞれに閉鎖 的であり弧立化している。保母の資質を向上させ,保育の実をあげるために保育所間の壁をはずし て共同し連携して,研修の機会をもとうというような発想が育っていない。幼稚園の場合には,最 近だいぶ一般化してきている研究発表会(あるいは公開保育)という研修の仕方も,保育所の場合 は,皆無に近い状態である。公開保育などということをすると,保育所のあらさがしをされたり,

保育の批判をされたり,保母に対しては能力評定をされたりすることになる。骨折り損のくたびれ もうけになりかねない。自分たちのやっている実際の保育を公開することに対する自信のなさやた めらい,外からの批判に対する恐れというものが強い。このような誤解を解き,公開保育が保母の 一人ひとりを専門家として育てる研修の機会として重要な意義をもち,また,それが保育所の保育 の質を高めるゆえんであることを参加者に認識させたい。そして,各保育所ならびに保母が積極的 に公開保育に参加し,すすんで公開保育の主催者となるような態度を養いたい。

以上の説明をうけて,筆者は講演の依頼を受諾した。論旨は,公開保育を職員の研修の視点から ながめ,その意義づけをし,幼稚園や保育所で研究発表会をなぜやるべきなのかを主張することに した。これは現実的にかなり必要性と緊急性のある問題である。本稿は,そのときに準備した講演 要旨をもとにして加筆訂正し,文章化したものである。ただし,具体的説明はほとんど省略し,原 則的のもののみを叙述した。

∬ 公開保育の意義

「公開保育」という言葉は,教育用語としても保育用語としてもまだ定着していないようである。

(2)

最近出版され拗児教育学辞典.保育技篠典熱もその言葉は無いし噺旧の教育学事典熱も 掲載されていない実情である。ただ,松石治子著のr保育の技術』に,「日常の保育をありのままの 姿で,おおぜいの人たちに見てもらい,批判や研究の糸口を見い出そうとするのが公開保育で,各 保育団体の割当てや当翻や繍などによって公開保育をすることになりま劉と議されてい

るが,この公開保育についての定義は,筆者の見たはじめてのものである。

おそらく,「公開保育」という用語は,はるか以前より小学校などの研修のために使用されてい た「公開授業」という用語をモデルにして,幼稚園や保育所における研修のために関係者によって 造語されたものと思われる。いま,r学校行政事典』によって「公開授業」の意義を見ると,「あ

る学校で独自の研究等を広く教育界等に公開するための授業である。その形態と利用の方法は多い が,最も普通にはある区域単位で特定の教科や教育上の問題点を指定して研究せしめ,年一回程度 でその成果を発表して現職教育に資するものが大部分である。公開授業の意義は教育委員会内の各 学校教員の現職教育と共に,特定事項に関する実験的進歩が期し得られるところにある。特に全教 科担任制の小学校においては,効果は著しいと考えられるが,同時に都市の学校などではその反面 の悪影響も存在する。ことに学校経営上では職員の一致した努力は望ましいが,あまりにも顕示的 であったり,このための準備に時間と精力を費し,全体としての学校教育の均衡が破れるなどの悪 弊は常につきまとっている。戦後,学校単位の研究指導が向上するにつれて盛んとなったが,お祭

      4)

闢I・行事的傾向は戒めなければならない点である」と説明されている。この叙述は単なる定義に とどまらず,その望ましい実施のあり方や避けなければならぬ弊害の指摘もふくんでいる。また,

小学校等における公開授業の意義についての説明ではあるけれども,その本質においては,幼稚園 や保育所における公開保育についても適用可能であると思われる。

ところで,「公開保育」を最も素朴なものに限定したとき,それは「教師相互の保育参観」とい う形態のものとして見い出されるであろう。昭和21年,戦後の日本の新しい教育制度の樹立のため の献策をなすために来朝した(第一次)米国教育使節団は,その報告書の第四章「教授法と教師養 成教育」の中で,教師の現職教育として教師の集会・講習会及び協議会・教師のための出版物・教 師相互の授業参観・監督官・旅行等をあげている。教師相互の授業参観については,「現職教育の 最も効果的な面の一つは,また最も簡単なものの一つである。それは授業中の他の教師を参観して,

引続きそれに関連した教育上の目的及び方法を論議することである。この種の勤務中の体験は,教 師各自に時間を与えて,同じ学校内の他の教師を参観させることから始められる。更に全一日を費 して手近にある他の学校を参観したり,またもっと長い間遠いところへ参観に出かけていくことも でき罰と具体的に述べられている。この授業参観ということの授業を保育喉えるならばそれ は「教師相互の保育参観」ということになり,公開保育ということを最も素朴な言葉であらわすも のとなるであろう。

なお,松石治子氏は,前述の公開保育の定義的説明の後をうけて, 「教師の大部分は,人に見ら れることをいやがり,また人に見せる自信もないのでこれを極端にきらう傾向にありますが,これ を裏側から見れば,いろいろの欠点を見い出してこれに忌禅(きたん)ない批判を加えてもらい自 分の勉強にした方がどれだけプラスになるかわからないのです。

公開保育にはたいていテーマをもうけて,そのテーマに従って,研究協議会をもつようになって いますから,保育の実践的な場面と,研究の成果とを照らし合わせて見てもらうようになるわけで

6)

キ」と意見や説明を加え,公開保育が保育者の研修の機会として重要な意味と効果を持つこと,ま

ρ

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関:公開保育の意義と重要性      115

た,公開保育の実施の方法が,多くの場合,研究協議会と表裏一体になって構成されていることを 明らかにしている。

これまで,公開保育の意義づけをするために,公関保育そのものについての定義,あるいは公開 保育と同類語としての公開授業についての意義,また公開保育ということを最も素朴な言葉であら わすものとしての教師相互の保育参観の意義,を尋ねてきたのであるが,公開保育はいずれの場合 でも,単に保育を公開するにとどまらず,その後に研究協議会なり研究発表会を伴うのが常態であ ることがわかった。また,個々の幼稚園や保育所の内部的研修のための活動ではなくて(それもあ るが),主に対外的・園外的・集合的な研修活動を意味していることが了解された。公開保育は幼 稚園や保育所における実際保育を公開することを柱とした研究発表会なのだといっても,誤りでは ないと考えられる。

皿 公開保育の重要性(必要性)

公開保育(結局は研究発表会)の重要性あるいは必要性は,二つの側面にあらわれるように思う。

第一は,幼稚園や保育所における教育職員や保育職員の協力体制の確立にそれが果是す役割である。

それは,間接的な,または,附随的な重要性というべきものかもしれない。第二は,幼稚園や保育 所の職員の研修・現職教育にそれが果たす役割である。それは,直接的な,または第一一義的な重要 性というべきものであろう。

1.保育者の協力体制の確立をもたらす重要性

幼稚園や保育所における保育の質を決定的なものにするのは,結局は人間と人間とのつながりの 問題である。保育は教育であり,教育は人間と人聞とのつながりの中でしかありえないものである。

同じことだが,教育は人間と人間とのあいだにだけいとなまれるいとなみである。子ども同志,子 どもと保育者,保育者同志,保育者集団と親たち,などの人間と人間とののぞましいつながりの中 でのみ,のぞましい保育は実現されてゆくのである。そして,各々の幼稚園や保育所におけるこの 多様な人間関係の中核となるものが保育者集団の内部的つながり,あるいは協働の意識,すなわち 協力体制である。

小児科医であり,評論家であり,数多くの幼児教育論を著わされている松田道雄氏は,幼児保育 施設としてどういう園がいいかという直接的なみずからの設問に対し,それは子どもに自立と協力

とがうまく育つ園であり,それは根本的にたのしい園であると答えて,その姿をつぎのように描写      7)している。少し長いけれども引用することにしたい。

(1)たのしい園と子どもたち。たのしい園というのは,いってみればすぐわかります。子どもの一人一 人が生き生きした顔をしていて,何ごとにも積極的です。先生にいわれたからするというのでなく,自 分からすすんでやる。たえず,子どもたちの笑い声と歓声がきこえます。どの子も何かしています。し

よんぼりと一人でいる子はいません。.

朝もにこにこして園にやってきます。夕方帰るときも,何だか名残り惜しそうにします。園の生活が たのしくてたまらないという様子がみえます。

(2}たのしい園と保育者の集団。そういう園はたのしい子ども集団ができているわげです。よくみますと,

そういう,たのしい子ども集団のできている園は,おとなのほうもたのしい集団をつくっています。

」●

(4)

園長,主任保母保母がわけへだてのないチームをつくっています。毎日のように,みんなであっま って,保育について語しあいます。問題がおこると,自分ひとりでかかえていないで,みんなの問題と して討議します。一人の保母は,自分一人の組だけみていればいいというのでなく,全部の子どもを,

全部の保母でみているという態度です。

カリキュラムをきめるときも,みんなで話しあって,いままでの経験と子どもたちの実情からきめま す。保育の月刊雑誌のカリキュラムを丸うつしするなんてことはやりません。

保育者の集団もまたたのしい集団になっているわけです

(3)たのしい園と親たちと保育者集団。たのしい園のもうひとつの特徴は,園に子どもをたのんでいる親 たちと,園の保育者集団とが,人間的にしっかりむすびついていることであります。親の会というのを,

月に一度かならずもって,このときは,園長も主任も保母も全部出席します。親は,子どもの教育で どういうことをしってほしいかをはなします。園のほうでは,いま,どんな教育をしているかをはなし ます。そして,両方で遠慮なく論じあいます。

親と保育者集団とが,緊密にむすびついて子どもの保育について話しあうことは,絶対に必要です。

というのは,家庭の教育と園での集団保育とは,両方がたすけあって子どもの人間をつくっていくので すから,ちがった方向に進んでは,子どもが迷ってしまいます。

以上に引用した松田道雄氏の,どういう園がいいか(理想論ではあるが)についての所論は,子 どもの自立と協力の育つ園であり,たのしい園であり,それは人間と人間とがしっかりつながった 園であるということになる。そのようなつながり,人間関係の中心になるものは保育者集団のつな がりである。この保育者集団のつながりや協働の意識を醸成するものは,公開保育(研究発表会)

を中心とした保育者の共同的活動ではあるまいか。共通意識がまずあって,つぎに共同的活動が出 来るのではない。現実は逆である。苦楽を共にわかち合う共同の活動に従事しているうちに,おの ずから,つながり,仲間意識協働意識,協力体制が生じてくるのだ。研究発表は共同活動として 格好のものなのである。

20世紀における世界最高の知性と称えられたプラグマティズムの哲学者ジョン・デューイは,あ らゆる社会(家庭・学校・職場・国家等)の価値を民主的という視点から測定する場合の二つの基 準をあげている。

① 「その社会の構成員に意識的に共有されている興味・関心がいかに多様であり,多数である

か」

       8)

A 「他の社会との相互作用がどれほど完全で,また自由であるか」の二つである。

いま,この基準を一つの幼稚園に適用して,その民主的価値を測定してみると,つぎのようなご とがいえる。①は,園内職員相互間にどれだけ密接なコミュニケーションがあるかの問題であって,

長,教頭,教諭が常に保育を中心としてより多くの情報を交換しあっており,保育に関する長の喜 び・悲しみは全職員の喜び・悲しみとして共有され,若輩教諭の保育上の哀しみ・楽しみもまた長 以下全職員の哀しみ・楽しみとして共有され,不安・動揺・弊害を与える情報以外のあらゆること に密接な交流が行われ,共通意識の水準の高い幼稚園は,価値の高い幼稚園である。逆は価値の低 い幼稚園である。②は,その幼稚園と外部社会との間にどれだけ密接なコミュニケーションがある かの問題であって,他の幼稚園や保育所,県市町村の教育委員会,大学,文部省,父母等との交流 の密度の濃い幼稚園は価値の高い幼稚園であり,閉鎖的・弧立的で他のものに学ばず自己の経験を 変化させないものは価値が低い。

①の基準による価値を高めるためには園内研究という共同活動によって,園内の人間関係の確立

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関:公開保育の意義と重要性      117

やチーム・ワークの徹底をはかることが要求されるであろう。②の基準による価値を高めるために は,特に対外的・園外的・集合的な研修活動に参加し,あるいはすすんでその主催者となることが 要求されるはずである。いずれにしても,公開保育・研究発表会を主催することは,同時にこの二 つのコミュニケーションを活発化させることになるのである。

2.保育研修(現職教育)の機会としての重要性

(1}保育研修(研究)の必要性とその形態

保育者(教育者)にとって研修が必要であるのは,地方公務員法や教育公務員特例法その他の法 規に研修の規定があるからではない。女流作家の曽野綾子氏は, 「教育の根本の姿は自らを教育し 続けることなのである。生きる限り,(完成しないことを知りつつ)自分を自分の理想とする方向 へ一 烽ナも近づけるようにするという行為から,すべての教育は始まるのである。教育するだけで,

自らを教育しなくてもいい人間などあり得ない。自らを教育しつつあるという姿以外に,子供に愛 し尊敬される教育の現場はない。それは教育の結果がうまくいっているかどうか(つまり教師に知 識があるかどうか,親が物知りかどうか)ということとは直接関係ない。子供は結果と同時に,やは りしなやかな心でその過程を見ているのである。己れを教育しようとしない人に,数育は不可能で

 9)

?驕vと述べている。

また,すぐれた女性教師である大村はま氏は,研究することは「先生」の資格であると断言して,

r子どもというのは,「身の程知らずに伸びたい人」のことだと思う… 。いくつであっても,伸 びたくて伸びたくて……,学力もなくて,頭も悪くてという人も伸びたいという精神においてはみ な同じだと思うんです。一歩でも前進したくてたまらないんです。そして,力をつけたくて,希望 に燃えている,その塊が子どもなんです。勉強するその苦しみと喜びのただ中に生きているのが子 どもたちなんです。研究している先生はその子どもたちと同じ世界にいるのです。研究をせず,子

      10)どもと同じ世界にいない先生は,まず「先生」としては失格だと思います』と教師にとっての研究

の重要性を強調している。

二人ともに,教育という仕事の本質が,あるいは,教育という名前で呼ばれる特別な人間の関係 が,不可避的に教師に対して研究(研修)を要請していると主張しているわけである。

保育研究の必要性について,森上史朗氏は,(D マンネリ化しないために,(2)自分の保育を創 りだすために,(3)実践と結びっいた研究を,の三輪挙げられている。要点鮒を摘記してみる ことにする。(1)日々の保育活動は,同じような活動がくりかえされるだけに,その活動や教材が 子どもにどんな意味をもっのか,「何のために」(目標),「何を」(内容),「どのようにして」(方 法)とり組ませるのかを問い続ける必要がある。それは,ただ漠然と教材や活動を選んで子どもに 与えるということから脱却して,組織的・体系的に保育を考えるということでもある。それには,

実践研究がぜひとも必要とされるのである。(2}幼稚園や保育園では自分たちの力で自分たちの園 の保育を創り出していくことの重要性が強調されている。それは幼児期の保育が,子どもの興味や 個人差,生活経験に基づいて展開されるものであるという点からいって当然のことである。それに,

「教育」とか「保育」という仕事は,たえざる「創造」と「質の高さ」とが要求されるものである。

1つの実践(一創造)が終われば,次のより高い目標が見えてくる。これでよいということは決し てない。限りない研究の仕事である。そのためには,どうしても自分の実践を目の前にひきすえて,

見直しをし,修正し,再生産をするという実践研究へのとり組みが欠かすことのできないものとな

(6)

る。③ 実践研究は日々くりかえされている日常的な保育活動をとりあげて,それを整理し別の角 度から見直し,必要があれば修正し,仮説を立てて実践し,検討してみようとすることである。つ まり,日常の保育実践活動をよりたしかなものにしていくためのものである。したがって,実践と 遊離した研究のための研究は保育者にとってはほとんど価値のないものである。保育現場は研究の 宝庫であり,解決を迫られている課題が山積している。したがって,日々の保育の中からいつも課 題を発見し,それを研究課題としてとり組んでいける保育者でなくてはならない。

また,前東京都立教育研究所部長の比留間一成氏は,保育者の研修の意義について,

「教諭であれ,保母であれ,保育に携わる保育者は,たえず研修に努めなければならない。それ には次の理由が考えられよう。

① 子どものひとりひとりをかけがえのない存在としてとらえ,子どもの心を理解し,より確かな 保育を進める力をもつ必要があるとともに,これこそ保育者の念願とするところである。

② 父母は,わが子の可能性をよりよく伸ばしてくれる保育者の人間性や,確かな保育を進める 保育者の専門性に期待を寄せている。

③ 国際的な状況からも次代を創造する子どもの教育は期待され,その育成に当たる保育者の教 養,人間性,使命感,指導力,子どもとの心の交流が要望されている。この強い国民的期待は,「教 育の仕事はきびしい不断の研究を通じて獲得され,かつ維持される」(「教員の地位に関する勧告 六」)となって現われている。

このような観点から謙虚に自己研修に励むことが必要であ♂と説かれている.ここには,前 記の森上氏の所説と同じように,保育の仕事の重要性,保育者の職責の重大さ,保育者の研修が保 育の仕事からの内在的必然的要請であることなどが強調されている。保育の仕事は保育者の研修を 常に促す宿命をもっている。

保育研修の形態は,研究構成員から見た場合,①自己研修,②園内研修,③園外研修と分類され たり,また,①自己研修,②園内研修,③集合研修と区分けされたり,さらには,①個人研究,② 任意グループ,③リーダーズグループ,④園内研究グループ,⑤その他の研究グループと類別され たりしているが,最初に述べられた分類が最も一般化しているものであろう。

{2}研究発表の重要性とその意義

研究は,研究発表をしてはじめて終わるものである。研究と研究発表とは表裏一体のものである。

なぜなら,ある事柄を研究するということは,研究の目的や方法,結果などを具体的・客観的に示 し,それを理論的・科学的に証明することであるからである。

白佐俊憲氏は,保育の研究発表の必要性に関して,「保育者の中には,自分は研究しないで他人 の研究を非難するだけの人や,他人からの批判を恐れて研究発表をしない人がいる。そんな人たち は,保育の向上をはかり,保育の専門性を確立しようとする人ではない。プロとして保育に責任を もち,保育の科学性を追究しようとするならば,実践活動を実践研究としてまとめたくなるはずで

       13)ある。そして,それを発表するのが当然の義務であるといえる」と述べて,保育のプロが保育の実

践研究をし,研究発表をすることを当然とし,それをしない人を批判しているのである。ともすれ

ば人は安易につき,研究もせず,研究発表もせず,惰眠をむさぼる生活におちいりがちである。プ

ロとして自己を確立しようとするならば,どんなにささやかなものであっても,自己の考え方や実

践の姿を他人の前に表現し,それに対する批判と指導とをうけて,自己を見つめなおし,自己の再

(7)

関:公開保育の意義と重要性       119

構成をはかるほかはないのである。

白佐氏は,発表の必要性に関する上記の指摘に加えて,研究発表という一連の過程の中にふくま れる内容を,

「① 自分自身の考え方や実践したことをまとめることであり,

② 研究結果について,理論的考察を加えることであり,

③ 公表することによって,他人の意見を聞き批判を仰ぎ,

④ そして,今後の研究をよりよくするために発展させてゆき,

⑤ 同時に他の人々の実践活動に役立て,

⑥他の人々と交流しながら,保育界全体のレベルを高めてし・くことであ罰と分析している。

なお,研究発表をすることの価値の考察には,次のような観点も加えられるであろう。前述した W。ン・デユーイは,コミユニケーシ。ンの相互教羅(コミユニケーシ。ンは,それにカ、かわる うけ手とおくり手の双方の経験を変化させる)ということを明確にしている。うけ手の場合,コミュ ニケーションを受けることは,拡大され,変化させられた経験を他人より与えられることである。

他人が考えたり感じたりしたことを共に考えたり感じたりすることになる。したがって,うけ手自身 の態度は修正され,変化した経験をもつことになる。うけ手は経験を変える,すなわち教育された のである。

ところで,デューイが強調するのは,コミュニケーションにおけるおくり手の側における大きな 経験の変化である。ある経験を,とくにいくぶんか複雑な経験を,他人に十分に,そして正確につた えるという実験をしてみると,人は自分の経験に対する自分自身の態度が変化しているのに気付く。

経験をつたえるためには,それを系統だててきちんと述べなければならない。経験をきちんと述べ るためには,その経験から外へぬけ出し,他人がそれを見るようにその経験をながめ,その経験が 他人の生活とどんな点でつながっているかを考察し,他人がその経験の意味を感得できるような形 にしておく必要がある。人は自己の経験を他人に理知的に語って聞かせるためには,自己の鋭敏な 想像力や感受性によって,他人の経験をいくぶんかはわがものとしておく必要がある。このように コミュニケーションにおいて,おくり手になることは自己の経験の再構成を必然的に伴うのである。

これは教育作用がおこなわれたことである。

研究発表をするということは,コミュニケーションにおけるおくり手になること,それも相当の 規模のコミュニケーションのおくり手になることである。うけ手のような受動的・消極的態度では すまされないのである。能動的・積極的態度にならざるをえないのである。自己の経験に対する再 認識・再構成が否応なしに要求されることになる。おくり手になることは,うけ手になるよりも何 倍かの努力が必要になる。しかし,その結果として受ける恩恵もまた何倍かのものであることは確 実である。保育者が,保育のプロとなるためには,研究発表をすることが是非必要である。

最後に,福岡県教育研究所連盟編著r校内研究のすすめ方』によると,研究発表会は,校内研究 発表会と対外研究発表会とに分けられることになる。

校内研究発表会は, 「個人研究,学年研究,あるいは研究班や研究部での研究概要や研究成果の

発表等が考えられます。年度当初の研究主題をそれぞれの組織のなかで,どのように計画実践して

きたかを発表して,全職員に理解と示唆を与えるとともに批判を受け,今後の望ましい研究方向を

見出すために行うものです。研究成果を発表することによって,共通理解をするとともに,評価を

する意味があります」と解説されているが,これは各園で年度末に行う実質的な反省会であると考

(8)

えられる。

 対外研究発表会は,「学校研究主題に即して全職員で取り組んできた研究成果を公開し,他校の       17)研究実践に役立ててもらうとともに,自校の研究について批判をあおぐということです」と解説され,こ

の研究発表会の場合,①研究実践が少しでも他校に役立つものであるよう,独自の工夫や問題提起 が必要であること,②研究発表を公開する側が一方的に発表するのではなく,参加者の側にも,同 じ立場に立ってもらって,いっしょに研究するという構えがだいじだということが指摘されている。

ここでいう対外研究発表会こそ,われわれのいうオーソドックスな研究発表会であり,多くの幼稚 園や保育所で活発に開催されることを望む次第である。

1)村山貞雄監修  『幼児教育学辞典』  明治図書  1980.

辰見敏夫他編  『保育技術事典』   同文書院  1980.

羅畠}編r朧本購典』第欄198α

2)下村弥三郎 編  『教育学事典」    平凡社   1954.

細谷俊夫他編  『教育学大事典』   第一法規  1979.

3)松石治子    『保育の技術』 ひかりのくにK.K.1968。 P.328・

4)相良惟一他編  『学校行政事典』  誠文堂新光社1958. P.367.

5懲難}繍騰一典2米国撒節団報告書』現代史出版会19解・1・2・

6)松石治子   前 掲 書  P.328..

7)松田道雄    『私の幼児教育論』  筑摩書房  1980. PP.87−89.

8)John Dewey  Democracy and Education. The Macmillan Company,1916. P.9α 9)曽野綾子    『絶望からの出発一私の実感的教育論一』 講談社 1975.PP.15−18.

10)大村はま    『教えるということ』 光文社   1973. P.21.

11)

ー上難}編著r保育一9保育のための実蹴』−198−11−213

ユ2)

?@編r朧本騰典』第一法規198−a

13)

ー上熱繕r保育実朧9保育のための実醐第一法規198−62

14)同 上 書    PP.261−262.

15)John Dewey  Democracy and Education, P P.6−7.

16)福岡県教育研究所連盟編著 『校内研究のすすめ方』 第一法規 1980.PR 234−235.

17)同 上 書  P.235.

参照

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