ナ ポ レ オ ン 戦 争 時 代 の ケ ー プ 植 民 地 世 界
浅 田 實
ナポ レオ ン戦 争 時代 の ケ ー プ植 民 地 世界
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はじめに
ケ!プタウンをはじめとするケープ植民地が︑今日の南アフリカ共和国の源流であることはよく知られている︒一六五
二年のオランダ人ヤン・ファン・リーベックによる植民からはじまったこの植民地は︑百年以上にわたるオランダ東イン
ド会社の統治時代を経てフランス革命からナポレオン時代にかけてイギリスの占領下におかれ︑一八一四‑五年のウィー
ン会議で英領ケープ植民地として国際的にも認められた︒当面対象とするこの時代は従ってケープ植民地の歴史からいえ
ば︑オランダ領からイギリス領に宗主権者が変わる時期に相当している︒そのような宗主権者変更の持つ意味・意義につ
いては先に書いた﹁G・マカートニーとケープ植民地﹂で明らかにした︒ただ先の論文が対象としたのはもともとオラン
ダ領であったケープに対する第一次占領時代(一七九五‑一八〇二年)であったが︑ここでは第二次占領時代(一八〇六‑一
八一五年)を主な対象とする︒この時代のフランス革命とナポレオン戦争とは国際的にみればいわゆる第二次英仏百年戦
争の掠尾をなすもので︑その意味では一七世紀以来の英仏の植民地争奪戦が結末をみたときでもあった︒したがってここ
でもまたまず国際的な展望の中で︑ケープ植民地のことを考えていきたい︒
ところでケープ植民地を含めた南部アフリカの歴史を今日の時点からふりかえるとき︑ファン・リーベックの植民以来
の三五〇年間に︑三つの大きい転換期があった︒一つは今ここで対象としている一八世紀末〜一九世紀はじめの英領植民
地形成期であり︑二つ目は一九世紀末〜二〇世紀はじめの﹁南アフリカ戦争﹂(一八九九‑一九〇二年)︑いわゆる第二次ア
ングロ・ボーア戦争を中心とした時期である︒いうまでもなくダイヤモンド鉱(一八六七年)と金鉱(一八八四年)発見に
伴う旧オレンジ川地域や旧トランスバール地域へのイギリス帝国主義者の進出の時期である︒そして三番目には︑一九九
四年のN・マンデラ黒人政権発足に伴う全く新しい南アフリカ共和国形成の時期であり︑二〇世紀末から二一世紀にかけ
( 1 )
ての変動期である︒この最後の段階はまだもちろん歴史の対象とはなっていないのだけれども︑そういう意味では全く若い南アフリカが︑百年ごとにきわめて大きい歴史の節目に際会していると思えて︑はなはだ興味深い︒
今日の南アフリカ共和国は領土的にいえばほぼ﹁南アフリカ戦争﹂後に(旧)南アフリカ連邦として一九一〇年に形成
されたのだから︑二百年前の﹁ここで対象とする時代﹂の歴史的意義はまだ小さいといわねばならないだろう︒しかし当
時ヨーロッパではイギリス産業革命に伴う経済的︑社会的変化が﹁世界の工場﹂を生み出しつつあったのを考えるとき︑
ウォーラースティン流にいえば︑全世界を植民地支配し世界システムに包摂する途上で︑中核国イギリスがアフリカ南端
のケープをとりこんだことの意義は︑やはり無視できないものと考える︒
しかしケープ植民地が英領になったことの意味はそれにとどまるものではない︒ヨーロッパでナポレオン戦争が戦われ
ていたこの間に︑第二次占領を行なっていたケープ政府は東部辺境地帯で︑バントゥー系の黒人コーサ人と接触し︑これ
を東部に撃退して東部辺境の領土を画定した︒コーサ人たちはオランダ占領時代の末期に︑今日のシスカイからフィッシ
ュ川を西に渡河してグラハムズタウン周辺に進出していたのだが︑イギリス軍に撃退されフィッシュ川西部を失った︒す
でに白人たちはそれ以前からケープ各地で︑先住民のコイコイ入とは接触していたし奴隷または農奴などとして使役して
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もいた︒もとより独立︑自立しているコイコイ人たちもいた︒かれらと白人の混血もみられた︒
ケープ植民地の東部辺境は︑ケープタウンを中心とした植民地中枢部で食いはぐれた白人たちが進出していったところ
で︑オランダ占領時代︑とくにその末期にはほとんど無政府状態といってよかった︒いわば無法者のボーア人たちが広大
な土地を占領し︑先住民であったコイコイ人を使役して︑羊や牛の放牧に従事していた︒そうした中でイギリス人が新た
な支配者として登場することになった︒やがてイギリス人たちは占領したケープ植民地各地でヨーロッパ風の統治を行う
ことになるが︑当面対象としている時代はいわばその準備段階にあたる︒
それでもコイコイ人は唯唯諾諾として白人に従属したのではなかった︒反乱や反抗を行なう場合も多かった︒とくにオ
ランダからイギリスへ支配者が交替するこの時期はかれらの抵抗のチャンスであった︒イギリスの統治はかれらの抵抗を
抑制し︑さらにすすんでバントゥー系コーサ人をも撃退して︑ヨーロッパ風統治の網をかぶせることであった︒世界シス
( 2 )
テム中核国のイギリス人はここで︑コイコイ人はもとよりコーサ人をも辺境の一部にとり込んだ︒その後のケープ植民地の歴史との関わりでいえば︑その意義はやはり重要といわねばなるまい︒
二︑ケープの位置
( 3 )
当時はイギリス本国からケープタウンまで航海するのにだいたい二ヵ月かかった︒よいときは六週間悪いときには五ヵ月もかかった︒まずポーツマス港からマディラ諸島に到着するのに一週間から七‑八日かかる︒マディラからカナリア諸
島の緯度までは北東貿易風に乗ることができる︒この風に乗ってヴェルデ岬諸島(現カボヴェルデ共和国)の西を通る︒そ
して西経一八‑二三度のところで赤道を通過しようとするが︑このとき変風くq二餌三︒に会うことがあって思うようにい
かない場合が多い︒それからは西よりの強風αqm奮のある地域にできるだけ早く達しようと努力する︒だけれども南に向
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かっているときに船がブラジルの方に押しやられることもある︒西よりの風は南緯三〇‑四〇度のところに見出される︒
(ケープタウンはだいたい南緯三四度付近にある︒)一七九四年にもこの西よりの風に乗って中国へ行こうとしてタスマニアま
( 4 )
で西行した船があった︒だから喜望峰に向う船は西よりの風を利用して東行し︑南または南東からアグリャス浅瀬﹀胆子窃冨疑の西の潮流に
乗ってケープに近づく︒インドに向う船でケープを訪問するつもりのない船はこの浅瀬をまわりこむことによってその位
置を照合しインド洋を北上する︒ジャワに向うときには通常南緯三五ー三六度まで南下して西行しニュー・ホラント
(オーストラリア)に近づいてから北に向う︒マラバル海岸(インド)に向う船はマダガスカル島の西か東を通る︒マダガス
カル島とインド亜大陸との間の島々︑つまりモーリシャス︑セーシェル︑モルジブ諸島︑ラッカジブ諸島︑チャゴス諸島
は︑この頃すでにフランス人やポルトガル人にも当然よく知られていた︒ケープからマラバル海岸へのルートの一つはマ
ダガスカル島の西を通る内ルートでモザンビーク海峡を通過するが︑このルートは三月から八月一五日ごろまで南西モン
スーンが卓越しているときに利用される︒第二のルートはモザンビーク海峡を通らないでマダガスカルの東を通り︑中間
航路という︒マダガスカルの東を北上してからラッカジブ諸島(ボンベイの南︑カリカットの沖)の西を通ってボンベイか
スラトに直航する︒マラバル海岸に向う船はできるだけ第一のルートを通って南西モンスーンが卓越している問にインド
洋を横断するように努める︒だいたいケープからマラバル海岸まで五‑六週間かかるが︑南西モンスーンが強力な七月か
ら八月はじめなら一ヵ月で通過する︒ボンベイからインド東海岸のマドラスへは一二i一五日︑ベンガルへは一五ー二〇
( 5 )
日で到着できる︒マラバル海岸からヨーロッパに向う船は北東モンスーン中に内側通路を通る︒インド東海岸コロマンデル海岸からヨー
ロッパへの航路では外側航路を用いる︒モーリシャスの東南を通ってナタール海岸をへてケープにまわり込む︒ケープか
らイギリス本国へのコースはかなりアフリカ大陸に接近しつつアゾレス諸島の西を通り︑ずいぶん西に迂回してやっと終
る︒この帰還航路は六ヵ月かかる︒そしてセントヘレナを訪問することが多い︒一八〇五‑六年の最速船の場合八四日か
( 6 )
かったが︑セントヘレナに二日間滞在しているので実航海日数は八二日で例外的好記録といわれた︒四ヵ月が普通︑五ヵ月でもよいといわれた︒
という次第で︑本国からケープまで往くのに二ヵ月︑帰りは五‑六ヵ月という長旅であった︒ケープはまだまだ遠い辺
境の地であるといわねばならなかった︒
三︑インド洋と大西洋
︿モーリシャス﹀
一八〇〇年三月ケープ植民地総督であったサー・ジョージ・ヨングからイギリス陸軍大臣ヘンリー・ダンダスに送った
信頼できる私信には次のようにある︒
﹁(もとフランス領であった)モスカレネス(モーリシャス)諸島で最近︑海賊の巣が小さくなったことは︑この(ケープ)
植民地を大いに安全にしてくれたし︑実際すべてのインド洋商業にとってよい結果となった︒というのもかれら海賊た
ちは知られないうちに船舶を整え︑計画的遠征隊を蟻装し︑また様々な海峡の近くで大遠征隊によるフランスからの諜
( 7 )
報と策略を手に入れていたからである︒﹂一八〇〇年はまだイギリスのケープに対する第二次占領時代がはじまっていないが︑英仏百年戦争がまさに終末を迎え
たこの頃なおインド洋にはフランス領または反イギリス勢力が残存しており︑いつイギリスや東インド会社の貿易に脅威
を与えないともいえない状態であった︒そのことをこの史料は示している︒一八〇三年英仏の戦争が再開されたとき︑東
インド会社はフランス海賊の犠牲になるかもとの気配を再び感じた︒そこでケープに駐在していた英国の艦隊がモーリシ