「この地の都市と市民団のために」 ( ・完)
―シュテーデル美術館事件における遺言の解釈―
野 田 龍 一*
凡例:文中[ ]および...は、筆者による挿入および省略を、それぞれ意味する。
目 次 はじめに
第 章 年 月 日都市裁判所判決 第 章 年 月 日控訴裁判所判決 第 章 年 月 日上告理由書 第 章 年 月 日抗弁書
第 章 年 月 日却下の再抗弁書(以上『本誌』第 巻第 号)
第 章 原告側諸大学の鑑定意見
第 章 被告側諸大学の鑑定意見(以上『本誌』第 巻第 号)
第 章 ミューレンブルフの所説(以上『本誌』第 巻第 号)
第 章 同時代の諸学説と裁判例(以上『本誌』第 巻第 号)
第 章 法学方法論への架橋覚え書き むすび(以上本号・完)
第 章 法学方法論への架橋覚え書き
われわれは、これまで、シュテーデル美術館事件における一論点に即して、
*福岡大学法学部教授
学説・裁判例を辿ってきた。シュテーデルは、はたして、その遺言で、都市 フランクフルトを、その相続人に指定したのか、という論点である。
遺言の文言からすれば、シュテーデルが、その遺言で設立されるべき美術 館を、その相続人に指定した、ということは、あきらかであった)。それに もかかわらず、シュテーデルがその遺言で指定したのは都市フランクフルト であった、と遺言を、あえて解釈することが、どうして可能なのか。一方で は、このように遺言を解釈することは、衡平 aequitas ないし Billigkeit の要 請するところであるとの主張があった。これに対して、他方では、このさい に衡平を援用することは許されないとの主張があった。
では、各論者があるいは援用し、あるいは援用を否定する衡平とは、何か。
以下では、まず衡平を援用して、都市フランクフルトこそが、シュテーデル の遺言で相続人に指定されたと説いたエルファースの衡平論を考察する(第 節)。ついで、エルファースを批判し、都市フランクフルトが相続人に指 定されたことを否定したミューレンブルフおよびゾイフェルトの衡平論を考 察する(第 節および第 節)。最後に、 世紀初頭以降のドイツ普通法学 における衡平論を瞥見する(第 節)。
わたくしは、衡平論についても、ドイツ普通法学ないしパンデクテン法学 についても、まったく無知・無学である。このささやかな研究が、将来、わ たくしの「 世紀ドイツ普通法学における法学方法論研究」への橋渡しとな ることを祈念したい)。
注)
)シュテーデルの遺言第 条:「絵画、デッサン、銅版画および美術品のわた くしの蒐集が、それに属する書籍とあわせて、当地の都市および市民団のため に、これをもって、わたくしによって財団として設立されるシュテーデル美術 館なるものの基礎であるべきである。わたくしは、このシュテーデル美術館を、
わたくしの包括相続人に、動産および不動産に関する、わたくしの他日の遺産 について、最良の法形式において、これをもって指定する。...」。野田龍一「シュ テーデル美術館設立史料試訳」『福岡大学法学論叢』第 巻第 ・ 合併号 頁 参照。
)エルファースおよびミューレンブルフの所論については、野田龍一「十九世 紀初頭ドイツにおける理論と実務―シュテーデル美術館事件をめぐって―」
『原島重義先生傘寿 市民法学の歴史的・思想的展開』(信山社 年) ‐ 頁で、粗雑ながら触れる機会に恵まれた。
第 節 エルファースの衡平論( 年)
エルファースは、シュテーデル美術館事件に関するその著書の冒頭で、
頁にわたって、衡平論、とくに、遺言の解釈にあたって斟酌されるべき衡平 論を詳述した)。
同時代における衡平論について
エルファースは、嘆く。約 年前から、実務では、ローマ法の認める衡平 について、耳にすることがなくなった)。これは、後述のごとく、 世紀後 半ドイツにおける衡平論の排斥を指すものと考えられる)。
ローマ法における衡平
エルファースは、衡平が、ローマ法において重要な役割を果たした、と述 べる。厳格訴訟から区別される誠意訴訟 iudicia bonae fidei にあっては、「善 と衡平」にもとづいて、あるいは、「善良の士の裁量」にもとづいて判断さ れるべきであった)。また、ローマにあっては、個々人の生活および全体の 生活においては、「衡平」aequitas と「便益」utilitas とが、すべての法形成 の基礎にある つの最高原理であった)。たしかに、ローマには、古来の厳 格法が存在した。この厳格法は、時が経つにつれて、現実に適合しなくなっ た。しかし、ローマでは、厳格法をそのままにして、法務官が、「衡平と便
益」によって、その裁判権や告示を通じて、法を時代に適合させた)。 こうして、市民法と法務官法とが二元的に成立した。帝政期には、法務官 に代わって、法学者や皇帝らが、法を形成した。ここにあっても、衡平の観 点が支配的であり、かつ、衡平の支援が働いた)。
個々人が生活関係の法的側面を形成するにあたっても、衡平と便益を、「善 良な士」として、一様に斟酌した。かれらは、衡平が要求する つの法格言
「正直に生きよ。他人を害するなかれ。各人に各人のものを」を肝に銘じる べきとされた)。
厳格法においてすら、たとえば、問答契約には、「悪意条項」が付加され た。これにより、約束者は、一般に善良の士として信義誠実に従って行為す るべきであった)。
ユースティーニアーヌス法にあっては、厳格法を緩和する立法が、衡平の 目的でおこなわれた )。
ローマ法にあっては、衡平は、特別の救援をもたらした。抗弁、再抗弁、
法務官による原状回復である。これらの制度は、衡平と便益とによって正当 化された )。
要するに、エルファースによれば、ローマ法にあっては、たとえ、厳格法 に属する法制度であっても、すべて衡平によって修正が施された、というこ とになる。
ローマ法における遺言と衡平
衡平は、遺言においても、おおきな意味を有した。ローマ人は、遺言者の 意思を尊重し、この意思を承認し、かつ維持することを、衡平の第一の要求 と見た )。ローマにあっては、遺言者は、衡平や便益を考慮する、と考えら れた。ローマにあっては、市民は、まったき遺言の自由を許された。これに 対して、最近親族による絶対的な(無遺言のさいの?)相続は、真の衡平お
よび便益を、厳格法のために犠牲にするものであった。なるほど、ローマ法 は、卑属・尊属に、義務分違反の訴えを認める。これは、これらの者に認め られる衡平によるものである。ローマ法は、より遠縁の法定相続人には、衡 平を理由とする保護を認めない。遠縁の法定相続人の期待を根拠付けるのは、
衡平ではなく、法の綿密さ scrupulositas と小理窟 subtilitas である )。 法務官が、衡平を拠り所として遺言の味方をした。市民法上の要式が懈怠 された場合ですら、法務官は、遺言にもとづく遺産占有制度でもって遺言相 続人を保護した。法務官が、衡平を援用することによって、法の綿密さによ る請求が斥けられる )。
ユースティーニアーヌス法は、すでに生活で生じた市民法と法務官法との 融合を承認し、市民法が遺言について要求していたいろいろな厳格さを緩和 した。これは、衡平の精神によって貫かれた。また、ユースティーニアーヌ スによる遺言立法を見れば、それらの立法が、いかに衡平によって貫かれて いたかが、わかる )。
遺言の解釈における衡平
では、こうした衡平は、遺言の解釈にあっては、いかなる役割を果たすの か。エルファースは、述べる。遺言による処分が、疑わしいものであって、
遺言に内在する理由 ratio を探求しても、完全にあきらかにならず、決着が つかない場合がある。この場合には、ローマ法および「事物の本性」Natur der Sache によれば、衡平が、救援するものとして登場する。衡平は、第一 に、遺言者が、何を考え、かつ意欲したのかを見る。第二に、遺言者の意思 があきらかではないときは、複数の蓋然性の中から、衡平および遺言の存立 にもっとも好都合な蓋然性が選択される )。
このように、衡平にもとづいて遺言を解釈することは、形式を充たしてい る遺言にあっては、たんに、遺言の中身のみならず、遺言の外に存在するこ
とがらについてもあてはまる )。
シュテーデルの遺言の解釈
遺言の解釈における衡平の尊重は、シュテーデルの遺言を解釈するにあ たっては、どのように働くのか。シュテーデルは、その遺言作成にあたり、
財団=シュテーデル美術館の法的側面については無頓着であった。シュテー デル自身は、財団の根本意義について明確ではなかった。しかし、財団=シュ テーデル美術館は、実在する。こうしたケースにおいては、裁判官は、シュ テーデルの遺言を有効にするべきである。これが、衡平と便益、遺言の自然 の理由 ratio naturalis にもっとも照応することである。
シュテーデルの遺言を解釈するにあたっては、文言よりも、その意図を重 視するべきである。シュテーデルの意図は、こうであった。都市フランクフ ルトの施設であるシュテーデル美術館が、都市フランクフルトのために、シュ テーデルの遺産でもって設立され、そして、この遺産すべてが、設立される べき施設=シュテーデル美術館のために用いられるべきである。なるほど、
シュテーデルは、遺言の文言としては、設立されるべき施設であるシュテー デル美術館を、その相続人に指定した。しかし、シュテーデルの遺言によっ て設立されるべき財団が、遺言で指定された相続人だと解釈することが、い くたの危険に晒される危うい解釈だとすれば、その場合には、裁判官は、シュ テーデルの遺言が有効であることを確保するために、シュテーデル美術館は、
都市フランクフルトの財団であり、すなわち、シュテーデルの遺言によって は、都市フランクフルトが相続人に指定されたと解釈するべきである )。
―
エルファースの所説は、以上のように、終始一貫、「衡平」概念に依拠す るものであった。しかし、たとえば、シュテーデルの遺言を解釈するにあたっ て援用される衡平の内実は、いったい何か、については、まったく言及がな
い。
注)
)Christian Friederich Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen aus der Lehre von der testamentarischen Erbfähigkeit, insbesondere juristischer Per- sonen, Göttingen 1827, S.1-88.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.3.
)本章第 節 参照。
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.7.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.8-9.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.15.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.18.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.18.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.20.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.23.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.24.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.51-52.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.52-56.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.56.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.57;S.65.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.78-80.
)Elvers, Theoretisch-praktische Erörterungen, S.81-82,とくに S.82:「...そ して、公益[強行法]が、遺言の外的な側面に関して、いろいろな特別の規定 を要求し、そして、この点においては、すべての[遺言による]処分が許可さ れうるわけではないにせよ;しかし、これらの処分は、それらが、ただ少なく とも、疑わしいものとして見られることができるにせよ、遺言者のあいまいな 見解を、さらに斟酌することなしに、善と衡平から ex bono aequo、終意の維 持が要求するように解釈されねばならない。それゆえに、こう言われる。:『遺 言の外において生じる諸事項においては、ことがらは、善と衡平から解釈を獲 得することができる』。[D. .. ]。そして、ここにおいては、まさに、前 にすでにあきらかにした遺言の優遇が、ローマ法およびカノン法、新旧の実務 が知っているごとくに、まさに本来的に登場するところがあるのである。...」。
D. .. :「ガーユス 法務官告示注解遺言論第 巻より。遺言の外で生 じる諸事項においては、ことがらは、善と衡平から、解釈を獲得しうる。しか るに、遺言それ自体から生じることがらは、書かれた法の理由に従って決着が
付けられることが必要である」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D.,p. . D. .. のテクスト中、「書かれた」scripti 法とあるのは、あるいは、「厳 格な」stricti か。Mommsen ed. Digesta Iustiniani Augusti, Tom.2, Berolini 1870, p.184,脚注 参照。根拠は、『バシリカ法典』B.44.19.16, ed. Heimbach, Basilo- corum Libri LX, Tom.4, Lipsiae 1846, p.441である。『バシリカ法典』では、「法 の厳格さ
´ ´ ακριβεια
に従って」とある。)Elvers, Theoretisch -praktische Erörterungen, S.140-145.
第 節 ミューレンブルフの衡平論( 年)
シュテーデルの遺言が、シュテーデル美術館設立を負担として、都市フラ ンクフルトを相続人に指定するものであった、というエルファースの解釈に は、ミューレンブルフが、真っ向から反対した。ミューレンブルフのエル ファースの批判の根底には、エルファースの衡平論に対する批判があった。
以下、そのあらましを考察する。
同時代の潮流に対する批判
ミューレンブルフは、そのシュテーデル美術館論の冒頭で、 頁にわたっ て、「理論と実務との関係についての覚え書き」)を説いた。その中で、ミュー レンブルフは、フーゴー)やサヴィニー)を念頭に置きつつ、当時の潮流とし て、ローマの法律家の秀逸さへの称賛が目立っていることを指摘した。個々 のケースを目の前にして、一方では、衡平を見据えつつ、同時に、実定法の 諸制度や諸準則を適用する、というローマの法律家の「技芸」への称賛であ る。反面、この潮流の結果、とくに制定法 Gesetz の価値を過度に貶める傾 向が生まれた。しかし、確実な法運用 Rechtspflege なるものは、法の実定 的な部分における堅牢な諸原理およびこれらの原理を厳格に観察することを 抜きにしては、考えることができない。これをないがしろにすれば、それは、
実定法が保障する確実さを破壊することになる。われわれが法を適用すると き、それを導く諸原理を、もっぱらただ衡平 aequitas に求めるとすれば、
しまいには、すべての確固たる原理が法適用から消滅し、あいまいで動揺す る法感情および衡平 Billigkeit 感情が取って代わり、そして、裁判官が、法 より以上のものになってしまう)。
ミューレンブルフは、こうした法感情や衡平 Billigkeit に拠る法実務を、「恣 意的な実務」eine willkührliche Praxis と呼ぶ。この恣意的な実務は、ある 法命題の適用を衡平 Billigkeit と目的に適っていること Zweckmäßigkeit に 左右させる。こうなると、自説と相容れない見解を、不衡平で目的不適合と 見るようになる)。
ミューレンブルフにおける裁判官の法解釈と衡平
ミューレンブルフは、実定法、とくに制定法の尊重を主張した。ミューレ ンブルフは、これをふまえて、裁判官の法解釈と衡平 Billigkeit との関係に ついて、こう述べる。裁判官は、ときとして、衡平 Billigkeit を行使する。
裁判官は、これによって、いまだ証明されていない命題として in thesi あた らしい法を創造し、かつ適用するのではない。裁判官は、かれが適用するべ く与えられている法を、それが過酷にして厳格だからといって、ないがしろ にし、別の法と取り替えてはならない。実定法の中には、その本性および目 的からして、まったく厳格に遵守されねばならないか、あるいは、しかし、
適用できないと宣告されねばならない諸規定がある)。実定私法には、一群 の強行法規 ius publicum が存在する。たとえば、遺言にあっては、形式遵 守は絶対的で、衡平 Billigkeit の働く余地はない。こうした遺言を個々人の 意思に左右させるならば遺言の目的を達成することができない。要式の懈怠 は、衡平 Billigkeit の考慮では治癒されないのである。
ミューレンブルフ『パンデクテン教科書』における衡平論
ミューレンブルフは、その『パンデクテン教科書』で、裁判官が、現代に あって、いかなる範囲で衡平 Aequitas を考慮するべきかについて、叙述し た)。
第一に、法律を文字通りに適用すれば、法規の目的とあきらかに抵触する ときには、裁判官は、法律の文字から離れることができ、かつ離れるべきで ある。
第二に、裁判官は、法を援用することが不誠実とシカーネ(詭弁)の隠れ 蓑にならないようにしなければならない。
第三に、裁判官が、誰かに、法と衡平 Billigkeit に反して不利益が生じる ときには、法律上の明示的な承認がなくても、訴権・抗弁・原状回復を付与 すべきである。
ただし、以上 つの準則には、つぎの諸制限が付く。
第一に、裁判官による衡平 Billigkeit の考慮は、他人の権利を侵害しては らない。
第二に、裁判官は、法律が過酷で抑圧的であるからといって、法律を文字 通りに適用することをはばかってはならない。法律の改廃権は、立法者に帰 属する。
第三に、裁判官は、立法政策の理由から、あらたな法命題を導入してはな らない。
第四に、裁判官は、「愛の義務」を法的義務に高めてはならない。
第五に、裁判官は、主観的感情(いわゆる「頭で考えた衡平」aequitas cere- brina)で決定してはならない。かれの判断は、悟性 Verstand に拠らねばな らない。
シュテーデルの遺言の解釈における衡平
以上の衡平論をふまえれば、ミューレンブルフにとっては、エルファース のように、衡平をたてに、シュテーデルの遺言が、遺言で明示されているシュ テーデル美術館ではなく、都市フランクフルトを相続人に指定したものと解 釈することは、およそ認めがたいことであった。エルファースは、言う。シュ テーデルは、美術館を、終意によって設立することを意図した。しかし、シュ テーデルは、実定法が何を要求するのかについては無知で、しかも間違って アドバイスを受けた。シュテーデルは、その目的を達成できない手段を選択 してしまった。シュテーデルは、シュテーデル美術館が法人として認められ る前に、シュテーデル美術館を相続人に指定したのである。しかし、シュテー デル美術館を設立する意図は明確であった。そして、この意図は、都市フラ ンクフルトを相続人に指定されたものと解釈し、シュテーデル美術館を都市 フランクフルトの施設だと解釈すれば、これを達成できる。だとすれば、こ れが、シュテーデル美術館を設立する唯一の逃げ道であり、この逃げ道を、
衡平 Billigkeit から選択するべきである。しかし、ミューレンブルフによれ ば、既述のように、これは、解釈ではなく、恣意的に法の中に割り込む willkührlich in das Recht eingreifen ことであった)。
―
当時、ドイツでは、歴史法学が台頭しつつあった。サヴィニーにあっては、
古典期ローマ法(パーピニアーヌス・ウルピアーヌス)の時代こそは、法学 と実務との連携の理想とされた)。この歴史法学の潮流が、初学者を幻惑し て、制定法の文言を軽視することにつながらないか。これが、ミューレンブ ルフの懸念するところであった。
注)
)Mühlenbruch, Rechtliche Beurtheilung des Städelschen Beerbungsfalles, Halle 1828, S.1-38.
)Gustav Hugo, Civilistisches Magazin, Bd.4, Berlin 1813, IV. Die Gesetze sind nicht die einzige Quelle der juristischen Wahrheiten, S.89-134;とくに、以下の 箇所が該当箇所か。:S.115:「制定法 Gesetze に関するこの愛好から生じる もっとも重要で、かつもっともデメリットであるものが、われわれの学問全体 の法源についての、とくに、制定法 Gesetze と―ひとがなおそう呼称するごと くに―慣習との間の―しかし、ひとは、本来的には、こう述べるべきであった
―制定法 Gesetze と立法なしにまったく自ずと形成されるすべてのものとの間 の関係についての誤った見解である。...」。;S.117-118:「...それぞれの民 族の実定法は、その言語の一部である。;重要なのは、いかなる諸概念を、同 じ表現のもとでまとめるか、そして、いかなる諸概念を、それらが共通の名称 を持たないものとして、相互に区別するか、である。学問とは、良くつくられ た言語にほかならない。このことは、数学においてすら生じる。なぜなら、わ れわれがひとたび角と言われるすべてのものを角と呼称したり、われわれがわ れわれの数において十進法を持ったり、われわれが円を 度に分かつことな どは、先験的に真実であるわけではないからである。ところで、かかる知識に あっては、このことは、同じ用語が、いくばくか時代が経てば、前とはまった く別の意味を持つ場合、あるいは、それぞれの言語においては、他の言語では いかなる表現も完全に照応するわけではない個々の表現が生じる場合には、す べて実定的であるものにあっては、したがって、実定法においてもまた、真実 である。たとえば、ローマの契約は、フランス法において契約と呼ぶものとは、
まったくことなる。フランス法においては、何か書面によるものを考えるが、
ローマ法ではそうではない。;フランス法では、婚姻契約があるが、ローマ法 にはない。...」Vgl.Mühlenbruch, Rechtliche Beurtheilung, S.8-9, Anm.1.
)Friedrich Carl von Savigny, Vom Beruf unsrer Zeit für Gesetzgebung und Rechtswissenschaft, Heidelberg 1814, ed. Hans Hattenhauer, München 1973, 3.
und 4., S.106-118; S.102:「...われわれが、最初に、文書による歴史を見出す ところでは、市民法は、すでに、民族に特有の一定の性格を有する。それは、
民族の言語、風俗、国制と同様である」。;S.103:「...しかし、法の民族の 本質および性格とのこの有機的連関は、時代が経つにつれてもまたあきらかに なる。そして、ここでにまた、法は、言語になぞらえられるべきである...」。
S.110:「...それぞれの三角形においては、一定の定めがある。これらの定め の結びつきから、同時に、すべてのその他の定めが必然的に帰結する。:この 定めによって、たとえば、二辺とその間にある挟角が、三角形をつくる。われ
われの法のそれぞれの部分もまた、それによって、その他の部分が与えられる 部分を持つ。:われわれは、それを、指導原理と呼ぶ。これらの指導原理をか ぎつけ、そして、それらから出発して、すべての法概念および命題の内的連関 および親近性の在り方を認識することが、まさに、われわれの学問のもっとも 難しい課題に属する。実に、これこそが、われわれの働きに、学問的性格を与 えるものである。...」。S.114:「...かれら[ローマの法律家ら]の学問の諸 概念および諸命題は、かれらには、かれらの恣意によって引き出されるのでは ない。それは、現実の存在であり、それらの存在およびそれらの系譜は、ロー マの法律家らにとっては、永年の熟達している取組によって周知のものとなっ た。それゆえに、ローマの法律家らの手続き全体が、確実さを持つ。この確実 さは、そのほかには、数学においてのみ見出されるごときものである。そして、
ひとは、誇張なしに、こう言うことができる。ローマの法律家らは、かれらの 概念でもって計算する。...」。Vgl. Mühlenbruch, Rechtliche Beurtheilung, S.8-9, Anm.1.
なお、サヴィニーの、 年から 年にかけておこなわれた『パンデクテ ン講義』序論草稿:Friedrich Carl von Savigny, Vorlesungen über juristische Methodologie 1802-1842, Herausgegeben und eingeleitet von Aldo Mazzacane, Ius Commune Sonderheft Bd.63, Frankfurt am Main 1993, S.189:「...法は、
すべてのその他のものと同様に、民族の内的本質に属し、気づかれないまま、
そして、民族の性格と歴史とによって産出される。それは、恣意によってであ る。―したがって、すべての法は、慣習であり、制定法 Gesetz ではない。...」。
)Mühlenbruch, Rechtliche Beurtheilung, S.10.
)Mühlenbruch, Rechtliche Beurtheilung, S.14,Anm.4.
)Mühlenbruch, Rechtliche Beurtheilung, S.15-16.
)Mühlenbruch, Lehrbuch des Pandekten-Rechts, 3. Aufl, Theil 1, Halle 1839, S.109-111.
Mühlenbruch, Lehrbuch der Encyclopädie und Methodologie des postiven in Deutschland geltenden Rechts. Zum Gebrauch akademischer Vorlesungen, Ros- tock; Leipzig 1807, S.14-15では、以下の叙述がある。:「...立法者は、厳格な 法命題から、衡平 Billigkeit(aequitas)の諸理由から離れることを許される、
ということを認めるにせよ、しかし、けっして忘れてはならないことは、この
[衡平]概念が、個々のケースに法律を適用する場合には、[立法者の場合と は]まったくことなる意味で解される、ということである」。
)Mühlenbruch, Rechtliche Beurtheilung, S.123-124.
)Savigny, Vom Beruf unsrer Zeit, ed. Hattenhauer, S.114-115, S.115:「...か れら[古典期ローマの法学者ら]にあっては、理論と実務とは、もともとまっ たく区別されない。かれらの理論は、もっとも直接的な適用にまで完成し尽く
されており、そして、かれらの実務は、つねに、学問的取扱によって高貴なも のにされている。かれらは、あらゆる原則において、同時に、適用のケースを 見て、あらゆる法のケースにおいて、同時に、このケースを規定する規則を見 る。そして、かれらが、普遍的なものから個別的なものへ、また、個別的なも のから普遍的なものへと移るその軽やかさにあっては、かれらの名人芸は、見 まがうことがない」。
第 節 ゾイフェルトによるエルファースに対する批判( 年)
ミューレンブルフの著書が公刊された後、同じ 年に、ヨーハン=アー ダム=ゾイフェルトが、シュテーデル美術館事件に関して、著書を公刊した)。
衡平 aequitas の持つ つの意味
ゾイフェルトは、批判する。エルファースは、ローマ法における衡平 aequi- tas の持つ つの意味を混同する。
衡平 aequitas には、 つの意味がある。 つの意味は、ある実定法の命 題を、個々のケースに適用するときに、当該の命題が目的に適っていないか、
または厳格である、との理由で、当該の命題を変更することである。ローマ の法務官そして、ローマの法学者は、この意味での衡平 aequitas の担い手 であった。かれらには、衡平を理由として、制定法を改廃する権限が認めら れていた。しかし、現代の裁判官には、たとえ、制定法のある命題を適用す ることが、あきらかに不衡平であるにせよ、当該の制定法を改廃する権限が ない。ただし、法律それ自体が、より詳しい定めを、裁判官の裁量に一任す る場合は、この限りではない。
衡平 aequitas には、いま つ別の意味がある。この意味での衡平 aequitas は、自然の衡平 aequitas naturalis とも呼ばれる。この意味での衡平 aequitas は、制定法のある命題が、ローマ法の万民法 ius gentium から由来すること を表す。
エルファースにあっては、衡平 aequitas のこれら つの意味が混同され ている)。
遺言の解釈と衡平
遺言解釈にあたっては、エルファースによれば、衡平 Aequitas は、いか に働くか。ゾイフェルトは、まず、エルファースの叙述 ‐ 頁を引用する。:
「...現代国家は、適法な遺言者に、かれの遺言を、可能なかぎり保護する ことを保障する。;したがって、遺言者は、こう信頼するべきである。所定 の形式を遵守して作成された遺言の履行および維持が、国家に左右されるか ぎり、衡平 Aequitas が要求するすべてのことが必ずつねに斟酌される。そ して、公益 Utilitas publica[強行法]は、遺言のこの外的な側面に関して、
いろいろな特別の規定を要求する。そして、この点においては、すべての[遺 言による]処分が是認されることができるわけではない。しかし、こうした 処分は、それらを明確だと見ることができるかぎりでは、遺言者のあいまい な意図を斟酌することなしに、衡平と善とにもとづいて ex aequo et bono、
終意を維持することが要求するごとくに解釈されねばならない」。エルファー スは、さらに述べる。:「それゆえに、(D. .. においては)言われる。:
『遺言の外で生じることがらにおいては、ことがらは、善と衡平とにもとづ いて解釈を獲得することができる』。−そして、まさに、こここそ、既述の 遺言の優遇 Favor testamenti が、まさに本来的に生じるところである。そ れは、ローマ法、カノン法、新旧の実務の知るとおりである」。
ゾイフェルトは、上掲箇所を引用したうえで、この箇所を何度読んでも、
意味不明と批判する。要するに、エルファースは、遺言の解釈にあたっては、
遺言が形式を遵守している以上、「衡平」にもとづいて解釈されるべきであ ること、そして、遺言者の意図があいまいであるにせよ、遺言に明確に定め られた処分を、「遺言の優遇」から、「善と衡平とにもとづいて」維持するべ
きであることを言いたいのであろうか。
しかし、ゾイフェルトによれば、エルファースのこの論述には、根拠がな い)。
第一に、ローマ法文およびカノン法文)が、「遺言においては、意思が、つ ねに、より完全に考慮されるべきである」と述べるとされる。しかし、ゾイ フェルトによれば、これらの法文は、終意処分の有効性が疑わしくかつ争わ れるケースではなく、ただ、終意処分による出損の範囲が争われるケースで あった。
第二に、遺言が「善と衡平とにもとづいて」解釈されるべきだとして援用 さ れ る D. .. )は、「遺 言 の 優 遇」と は 無 関 係 で あ る。ガ ー ユ ス は、
D. .. では、つぎのことを述べる。遺言者がはっきりと定めていなかっ たために、終意処分の範囲とおおきさとについて、あるいは、遺言が課した 負担の履行の態様について疑いが生じる場合、あるいは、遺言の当該の定め の履行が、外的な事情の結果変更されねばならない場合には、裁判官は、疑 わしい点について、遺言者の推定的意思を推断させるすべての事情を注意深 く考量し、そして、ついで、衡平な裁量に従って(衡平と善とにもとづいて)、
欠如している細目を補充し、あるいは、必要な変更を命じるべきである。反 面、同じガーユスは、つづいて「遺言それ自体から生じることがらは、書か れた[厳格な)]法の理由にもとづいて解決される」と述べる。遺言それ自 体から生じるのは、なかんずく、誰が相続人であるか、である。相続人が誰 か、ということについては、遺言外のことがらとはことなって、「衡平と善 とにもとづく」裁判官の裁量余地はない。相続人が誰か、については、遺言 それ自体において、遺言にある相続人指定の文言において、確たる、信頼で きる、そして、諸法律に則した規矩が存在しなければならない。誰が相続人 に指定されたか不明ならば、遺言は、無効である)。
シュテーデルの遺言の「歪曲」
ゾイフェルトは、遺言者シュテーデルが、遺言で、設立されるべきシュテー デル美術館を相続人に指定していたにもかからず、この遺言でもって、都市 フランクフルトが相続人に指定された、というエルファースの解釈を、こう 批判する。エルファースは、「遺言の優遇」を濫用する。この濫用は、これ を正当化することができない。シュテーデルの相続人指定についての文言は、
明確であった。文言が明確であるにもかかわらず、文言の「あいまいさ」am- biguitas を捏造する。そのために、明確な文言を歪曲する。そして、この捏 造された「あいまい」な文言のもとで、「遺言の優遇」の口実のもとに、都 市フランクフルトが相続人に指定されたと解釈したのである)。
―
ゾイフェルトによるエルファース批判のうちで、注目に値するのが、衡平 aequitas についての二元的理解、すなわち、一方では、制定法を改廃するも のとしての衡平 aequitas と厳格法とならぶ衡平法としての衡平 aequitas で ある。前者の衡平 aequitas は、古典期ローマ法におけるのとはことなって、
裁判官が立法権を喪失している現代にあっては、原則として認められない)。 後者の衡平 aequitas は、広く衡平法ないし万民法として、現代に継受され ている、というのである。
注)
)J.A. Seuffert, Einige Bemerkungen über die Codicillarclausel und die Auslegung letzter Willen, veranlaßt durch den Städelischen Beerbungsfall, Würzburg 1828.
)Seuffert, Einige Bemerkungen, S.40-42.
ゾイフェルトの「自然の衡平」aequitas naturalis 論は、Barnaba Brisson, De verborum quae ad ius pertinent significatione Libri XIX, Lipsiae 1721に拠って いる。ブリッソンは、p. ‐ で、自然の衡平 aequitas naturalis について、以
下の諸法文に見える用法を列挙する:
D. ...§.:「ウルピアーヌス 告示注解第 巻より。第 項。ところ で、奴隷がいる。この奴隷は、遺言によって、相続人に 金を与えるようにと 命じられ、そして、自由であると命じられた。この奴隷は、小書付によって、
無条件で自由を受け取り、そして、それと知らないで、相続人に、 金を与え た。その場合には、この奴隷は、[相続人に] 金を返還請求できるか。そし て、かれの父であるケルススは、返還請求できないと考えた、と[ケルススは]
伝える。しかし、ケルスス自身は、自然の衡平 naturalis aequitas によって動 かされて、返還請求されることができると考える。..」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D., p.225.
D. . . :「同人[ユーリアーヌス]法学大全第 巻より。マルケッル ス:正当で、かつ自然の衡平 naturalis aequitas に違わない抗弁を獲得した者 は、債務者であることをやめる」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D. . ..§.:「ウルピアーヌス サビーヌス注解第 巻より。...第 項。もしも、息子が、自権相続人であることをやめるならば、この息子から生 まれ、[息子の]権力下にあるすべての男孫および女孫が、息子の持ち分を承 継する。このことは、自然の衡平 naturalis aequitas によって生じることであ る。...」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D. . . :「パ ウ ル ス サ ビ ー ヌ ス 注 解 第 巻 よ り。[序 項]。帰 国 権 postliminium とは、失われた物を他人からふたたび受け取り、そして、元の状 態に原状回復する権利である。この権利は、われわれと自由な諸国民および王 らとの間で、諸々の風俗、諸法律によって定められる。というのも、われわれ が、戦争によって、あるいは、戦争なしにでもまた失ったものを、われわれが ふたたび受け取るとすれば、われわれは、帰国権 postliminim を受け取る、と 言われるからである。そして、つぎのことが、自然の衡平 naturalis aequitas によって導入された。不法侵害によって、他人らによって抑留された者たちは、
その国境の中に帰還したとすれば、かれの元の権利を受け取るということであ る」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D.. .:「ウルピアーヌス 告示注解第 巻より。[序項]。この告示に は、衡平 aequitas naturalis がある。いったい、かれらの間で決定したことを 遵守することより以上に、何が、人間の信義 fides に適うのか?」。Gebauer- Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D. ..:「ウルピアーヌス 告示注解第 巻より。[序項]。法務官は、[弁 済約束についての]この告示によって、自然の衡平 naturalis aequitas を優遇 する。法務官は、合意にもとづいておこなわれた弁済約束を保護する。なんと な れ ば、信 義 fides を 欺 く こ と は 由 々 し い こ と だ か ら で あ る」。Gebauer- Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D. ..:「ウルピアーヌス 告示注解第 巻より。[序項]。[遺言に反す る遺産占有が訴求されるときに給付される遺贈についての]この章は、ある自 然の衡平 aequitas naturalis を持つ。...」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D...:「ウルピアーヌス 告示注解第 巻より。[序項]。法務官は、自 然の衡平 naturalis aequitas に従って、この告示を掲示した。:法務官は、こ の 告 示 に よ っ て、 歳 未 満 者 ら の 保 護 を 引 き 受 け た。...」。Gebauer- Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D. . ..§.:「同人[ウルピアーヌス]告示注解第 巻より。...第 項。そして、[容仮占有についての特示命令は]それ自体において自然の衡平 naturalis aequitas を持つ。:なぜなら、たしかに、[この特示命令は]容仮占 有 を 撤 回 す る こ と を 意 欲 す る 者 に 帰 属 す る か ら で あ る。...」。Gebauer- Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D. ...§.:「ウルピアーヌス 告示注解第 巻より。...第 項。と ころで、この[遺言で自由であることを明示された奴隷が、主人の死後、相続 承継前に盗まれたかまたは堕落させられたときの]訴権は、ラベオーが書いた ごとくに、市民的衡平よりも、むしろ、自然の衡平 naturalis aequitas をそれ 自体の中において持つ。...」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D. ..:「ガーユス 属州告示注解第 巻より。[序項]。属州長官は、
この部分については、自然の衡平 naturalis aequitas によって動かされて、す べての血族に、遺産占有を約束した。血族であるという理由が、これらの血族 を相続に呼ぶ。もっとも、かれらは、市民法によっては、相続には呼ばれな い。...」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D.,p. .
D. ...§.:「ガーユス 日常法律問題ないし黄金書第 巻より。...
第 項。引渡によってわれわれのものとなる、かの諸々の物もまた、万民法 ius gentium によって、われわれのために取得される。なぜなら、自分の物を他人 に移転することを意欲する所有権者の意思が是認されることこそが、もっとも、
自然の衡平 naturalis aequitas に合致するからである」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D.,p. .
I...§. :「諸々の物は、引渡によってもまた、自然法 ius naturale に よれば、われわれのために取得される。なぜなら自分の物を他人に移転するこ とを意欲する所有権者の意思が是認されることこそが自然の衡平 naturalis aequitas にもっともふさわしいからである。...」。Gebauer-Spangenberg 第
巻 I.,p.23.
I...§. :「神皇ハドリアーヌスは、誰であれ自分の土地において発見 した埋蔵物を、自然の衡平 naturalis aequitas に従って、発見した者に付与し た。...」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 I.,p.22-23.
)ゾイフェルトは、エルファースが援用する「遺言の優遇は、かくのごとくで
ある。疑わしい場合には、遺言が有効であることに有利に判断されるべきであ る」を、エルファースが、カノン法 X.. . に根拠付けると叙述する。しか し、エルファースには、X.. . の引用は、見当たらない。
)D. .. ;D. . . :X.. .が引用される。
D. .. :「同人[ポムポーニウス] クイントゥス=ムーキウス注解第 巻より。つぎのように[遺言で]書かれた。もしも、ティーターススが、カ ピトーリウムに登ったであろうならば、ティーターススが、相続人であれ。:
ティーターススは、相続人であれ。:第二の終意処分が、より強いであろう。
というのも、第一の終意処分よりも、第二の終意処分が、より完全であるから である」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 D., p.507.
D. . . :「パウルス サビーヌス注解第 巻より。諸々の遺言におい ては、遺言者らの意思は、より完全に解釈される」。Gebauer-Spangenberg,
第 巻 D.,p. .
X.. .:「同教皇[インノケンティウス 世]が、ブルゲンおよびベル ブルゲンの修道院長らに。...余は、こう命じる。あなたがたは、余の権威に よって支えられて、控訴が提起された後で、修道院それ自体のために判決を言 い渡すために手続きをするべきである。異議を申し立てる者たちに、教会によ る評価によって強制し、かつ、あなたがたが判決するであろうことがらが、余 の権威によって、しかと遵守されるように、あなたがたはおこなう。なぜなら、
証拠の内実からは、つぎのことが、証拠としてあきらかであるからである。贈 与者の意思および意図は、こうであった。健全な知性によれば、証書の末尾に おいて置かれる、森についての条項は、世俗の負担や仕来りを免れる自由でか つ無条件であった、上方の贈与に関係付けられるのではなく、地代と期限とを 挿入されて持つ下方の譲与に関係付けられる。なぜなら、諸々の契約において は、完全な解釈が施されるべきであり、遺言においては、より完全な解釈が施 されるべきであり、恩恵においては、もっとも完全な解釈が施されるべきだか らである。[ 年]」。Friedberg, Tom.2, col.534-535.
)D. .. .本章第 節注 参照。
)「書かれた」scripti か、「厳格な」stricti か、についても、本章第 節注 で 既述。
)Seuffert, Einige Bemerkungen, S.46-49.
)Seuffert, Einige Bemerkungen, S.45-46.
)Johann Adam Seuffert, Lehrbuch des praktischen Pandektenrechts, Würz- burg 1825, S.20をも参照:タイトルは「理性的諸原理の影響について」であ る。:「実定法規および吟味された類推が欠けているときには、裁判官は事物 の本性 Natur der Sache によって、法の自然の感情によって導かれてよい。あ るいは、換言すれば、裁判官は、自然法 Naturrechte に従って判断する。純粋
に倫理的な考慮がことなる結論に通じるであろうにせよ、裁判官は、この純粋 に倫理的な考慮を優先させてはならない。−ちなみに、所与のケースにおいて は、あからさまな不衡平なるもの eine offenbare Unbilligkeit が生じるであろ うからといって、所与の法律を回避することは、許されない。:ただ、ひとは、
もっとも疑わしい諸ケースにおいてのみ、判断を、衡平 Billigkeit によって理 由付けることができる」。
「所与のケースにおいては、あからさまな不衡平なるものが生じるであろう からといって、所与の法律を回避することは、許されない」との叙述について は、C.. ..および 年の Kaiserliche Kammer-Gerichts-Ordnung,. .
§.の援用がある。
C.. .:「皇帝コンスタンティーヌスが、首都長官バッススに。衡平と 法との間に置かれる解釈を考慮することは、余のみの責務であり、かつ、余の みに許される。[ 年]」。Gebauer-Spangenberg 第 巻 C.,p. .
Heinrich Christian von Senckenberg, Neue und vollständigere Sammlung der Reichs-Abschiede, Theil 3, Frankfurt am Main 1747, S.54:「第 部第 章第 条。帝室裁判所 Kammer-Gericht の陪席判事らは、いかなる事件においても、...
裁量またはあらゆる考量された衡平 Billigkeit または独自の、もくろまれ、そ して、法に従って提供されていない良心にもとづいてではなく、[神聖ローマ]
帝国普通法、帝国議会決議およびいま是認され、かつ、この帝国議会で締結さ れた和約...にもとづいて、判決を作成し、かつ宣告するべきである」。
第 節 世紀ドイツ普通法学における衡平論の一斑
われわれは、シュテーデル美術館事件における遺言者シュテーデルの遺言 の解釈にあって、どのように衡平論が関わり合ったのかを、見た。エルファー ス・ミューレンブルフ・ゾイフェルトのそれぞれにおいて、「衡平」のとら え方が相違した。
そもそも 世紀ドイツ普通法学においては衡平 aequitas ないし Billigkeit は、どのようなものとしてとらえられていたのか。以下、これまでに管見で きた、いくつかの普通法文献を素材として、考察する。衡平論は、いうまで もなく、きわめておおきなテーマである。これに関する研究文献もまた汗牛 充棟である)。乏しい文献をてがかりに、衡平論に取り組むのは、いわば「冒 険」かもしれない。
しかし、既述のように、ミューレンブルフがエルファースを批判した背景 には、フーゴーやサヴィニーのあたらしい法学方法論に対する危機感があっ た。では、ミューレンブルフとサヴィニーとの間には、衡平論につき、いか なる相違があるのか、あるいは、ないのか。これを明らかにするためには、
世紀ドイツ普通法学における衡平論一般に取り組む必要があろう。
グリュック( 年)・フーフェラント( 年)
世紀末、クリスチャン=フリードリヒ=グリュックは、『パンデクテン 注釈』において、裁判官の法適用における衡平 Billigkeit について論じた)。 裁判官は、差し迫った衡平 Billigkeit を理由としては、法の厳格さを回避 し、より寛大な意見を採用する)ことを、原則として許されてはいない。裁 判官が衡平を持ち出せば、それは、裁判官の情熱と無知との証しであり、ま た、それは、不正義と党派性に門戸を開くことになる。ただし、法律自体が、
裁判官に、厳格法によりも、衡平 Billigkeit にもとづいて判断することを指 示する場合は、この限りではない)。法律それ自体(ここでは、ローマ法文)
が、裁判官に推奨する衡平 Billigkeit は、以下のとおりである)。
第一に、法律の文言よりも、法律が直接達成するべき意図 Absicht を考慮 しなければならない)。
第二に、事件のすべての事情を精確に考量しなければならない)。 第三に、ある人々の行為に法律を適用するときには、当該の人々の状態お よび特別の性状(たとえば、僕婢が、ヘルを訴えるとき)を考慮しなければ ならない)。
第四に、拡大解釈すべきか、あるいは、縮小解釈すべきか、いずれについ ても根拠が欠如するときには、自然法に合致し、厳格さからもっとも遠い意 見を優先しなければならない)。
第五に、民事紛争にあっては、行為が無効となるよりは、むしろ有効とな
る解釈を優先しなければならない )。
世紀初頭にあって、ゴットリープ=フーフェラントもまた、「衡平 Billig- keit を理由として、法 Recht から乖離することは、裁判官には許されない。
ただし、諸法律 Gesetze が、このことを明示的に許す場合は、この限りでは ない」 )と説いた。
―
裁判官が何かと言えば衡平を持ち出すことに対する批判 )が、ここには あった。
注)
) 世紀ないし 世紀のヨーロッパ近世における衡平論につき、Jan Schröder, Rechtswissenchaft in der Neuzeit Geschichte, Theorie, Methode, Ausgewählte Aufsätze 1976-2009, Tübingen 2010, S.35-64を参照。19世紀については、Jan Schröder, Zur Aequitas/ Billigkeit in der Rechtstheorie des 19. Jahrhunderts, in:
Wie pandektistisch war die Pandektistik?, Symposion aus Anlass des 80. Ge- burtstags von Klaus Luig am 11.September 2015, herausgegeben von Hans- Peter- Haferkamp und Tilman Repgen, Tübingen 2017, S.289-305を参照。
)Christian Friedrich Glück, Ausführliche Erläuterung des Pndecten nach Hellfeld ein Commentar, Bd.1, Erlangen 1797, S.207-214.
)ライザー Med.Spec.3. Med.6&7に対するグリュックの批判。Augustin von Ley- ser, Meditationes ad Pandectas, Tom.1,Lipsiae et Guelpherbyti 1717, Spec.3, Med.6-7, p.28-30:「第 節。行為は、要式を欠くことから、法それ自体によっ ては無効であるにせよ、あからさまな衡平のゆえに、維持されるべきである。
裁判官および法律家らには、つぎのことが定められるべきである。かれらは、
頭ででっちあげた衡平 cerebrina aequitas にもとづいては、書かれた法から離 れることはない。しかし、これにひきかえ、裁判官や法律家らは、つぎのこと をも配慮することを要する。衡平があからさまである場合には、他方、諸々の 法律の文言に、より厳格に従って、立法者の意図に反して行為することがない ように、ということである。なぜなら、立法者は、一般的に制定したのであっ て、したがって、すべてのことがらにおいては、厳格法よりも、衡平が、おも に考慮されるからである。C...:[皇帝コンスタンティーヌスと皇帝リキ ニウスが、ディオニーシウスに。すべてのことがらにおいては、厳格法の理由
よりも、正義および衡平が、おもに考慮される、ということが、気に入った]。
しかるに、諸々の行為の要式について議論があるときこそ、衡平を適用するこ とについての絶好の機会がある。しばしば、諸々の遺言または諸々の契約また は諸々の法的証書が、要式に関して何かが脱落している、ということだけから して攻撃される。しかるに、真実および処分する者たちの真摯な意思について は、まったく疑いがない。ここで、法律家らの間で、おおきな争いが生まれる。
ある法律家らは、裁判官の職務を、すこぶる自由に拡大する。別のある法律家 らは、裁判官の職務を、義務としてあるより以上により狭い境界線によって取 り囲む。しかし、諸法文それ自体は、このことがらにおいて、何がおこなわれ るべきかを、もっとも明確に規定する。すなわち、マルケッルスは、D. . . において、述べる。:要式からは容易には何も変更されるべきではないにせよ:
しかし、あからさまな衡平 aequitas evidens が要求する場合には、救済される べきである。すなわち、原則としては、諸々の義務により不注意な当事者らは、
要式を尽くさなかった行為は、無効であると宣告されるべきである。しかし、
つぎの諸事情が到来する。これらの事情は、かの要式の脱落を容赦し、あるい は、明白な衡平 manifesta aequitas が、あきらかになる。その場合には、かの 行為は是認されるべきである。...」。;「第 節。そして、裁判官は、あからさ まな衡平があるところでは、君主に相談することなく、法律を緩やかにし、そ して、解釈することができる。われわれは、この、われわれの意見を、しばし ば述べた C...および D. . . から是認する。そこでは、法律家らに、
厳格法よりも衡平を優先して考慮することが定められる。重大な疑いが、
C.. ..から提起される。コンスタンティ―ヌスが、C.. .において述べ る。衡平と法と間に置かれた解釈を考慮することは、余のみの責務であり、か つ、余のみに許される。ここにおいては、ツィーグラー Ziegler, de iuribus ma- jestatis lib..c..§. の回答が気に入る。かれは、あからさまな衡平と疑わ しい衡平あるいはかれ自身が述べるように、内在的衡平と外在的衡平を区別す る。…」。
ライザーが援用するツィーグラーの内在的衡平と外在的衡平につき、Caspar Ziegler, De juribus majestatis, Vvittenbergae 1681, Lib.1. Cap.6. .15, p.181- 182:「...すなわち、衡平 aequitas は、内在的であるかあるいは外在的であ る。内在的衡平と言われるのは、眼中に飛び込んで来て、そして、その他の諸 法律によって支えられ、厳格法の準則およびこの厳格法の厳格さを、法律の精 神および諸事情から和らげ、かつ、曲げる衡平である。そして、この衡平は、
法それ自体によって考えられ、しかも、それゆえに、裁判官は、その理由を、
その諸々の判断のために持つことができ、それどころか持たねばならない。...
しかるに、外在的衡平と言われるのは、顔を観察すれば、すでに、法とともに 付与される衡平である。:なぜなら、すなわち、かつては均等で、かつ衡平で