ー 7ヱー
研究ノート
グラッドストンの財政政策についてのノ−ト(上)
西 山 一・ 郎
‡ は じ め に
l 本稿ほ,W.E.グラッドストンの財政政策の分析をつうじて,イギリス産業資本主義段
階の財政政策の究明をめざすものぞある。
まず第1表によってグラッドスト・ンの政治経歴をみてみよう。彼ほ,アバディーン内閣 の蔵相として1853〜54年皮の財政を担当し・,1853年皮においてはピ−ルの租税改革につぐ 大幅な租税改革を行なった。1859年にほ第2次パーマストン内閣の蔵相となり,1866年ま でその地位にいた。その間1860年にほ対仏通商条約の締結をおこない,ピ−ル以降の租税 改革を・ひとまず完成した。1866年にほ,1830年代以降行われなかった国債の償還を開始し
た。1868年には第1次ダラッド.ストン内閣が成立した。グラッドストンほ,1874年の総選 挙で自由党が敗北しディズレイリ内閣にとって代られるまで蔵相ロウとともに財政政策の 推進に力をつくした。イギリス産業資本主義段階を1820年頃から「大不況」の開始前の18
(1)
73年頃までと考えると,1853′叫・ノ73年までの20年間のうち通辞して15年間にわたってグラッ ドストンはある時は蔵相としてある時は首相として,またある時は首相兼蔵相として財政 政策実施の衝にあたった。こ.のような形式的幣見からでも,イギリス産業資本主義段階の 財政政策を分析するさいにほ,グヲッドストンをネのがすことのできないことがわかるで あろう。
(1)イギリス産業資本主義段階とほ,大体に・おいて「世界のエ場」期のイギリス資本主義 であると考えている。チェンバーズほ,1825年の恐慌の暗から「大不況」の開脚寺の18 73年までを,大ぎっばにいって:1820年から1880年までを「世界の工吸」として考えてい
る(JlD… ChambeIS‥ The WoIkshop of the World,British economic history from1820to1880,London,1961,p1・).入江蘭次郎ほ,「世界のエ場」として のイギリス資本主義ほ1820年頃をもってほじまり,「大不況」の開始とともに終りにら かづき,「大不況」の過程を通じて終許するものと解釈している(入江触欠郎:独−tl資本
イギリスへの遺叩・現代への序曲,ミネルヴァ讃房,昭和37年,1〜5負■)私ほ.,さ
しあたり,チェンバ−ズの見解をとることに.する。
〝 72岬−
筍37巻 第5号 702 グラッドストンほ,1861年にイギリス議会の下院において:つぎのようにいっている。
(2) 「 抑私自身がこの原理〔すぐ後でのべられる「第1の原理」をさす〕の生みの親であると か創始者であるとかいう資格はありません。私ほ,サー・・ロバ・−ト・ピールの側で1人の いやしい下僕として出発したのでした。私の望みほ,披が拠った原理を適用することで達 成されるほザです。(ロ)そして私が現在申していることほ,財政上の樫桔から貿易と産業を 解放することがわれわれの従うぺき第1の原理であるという原則を堅持しつつ,過去20年 閣議会によって二認められ受容れられた全イギリス財政の礎石であるものに忠実であったと
(3)
いうことです。」〔抑,(口腹筆者の挿入」この言葉は,グラッドストシ海尉政政策の来歴と その本質を自ら的確に示すものであろう。(イ)の部分は,決してグラッドストンの謙遜でほ
第1表 歴代首相および蔵相
在任期間l政 見 相 蔵 相 トーリー党
自 由 兇 自 由 党 保 守 党 自 由 党 ピーール派 自 由 党 保 守 免
自 由 党 自 由 党 保 守 党 保 守 党 自 由 党 自 由 見 1841・8〜1846・7
1846● 7〜1851・3 1851・3〜1852・2 1852・2〜1852・12 1852・12〜1855・3 1855・3′、ノ1858・2 1858・2〜1859・6 1859・6′、′1865・10 1865・10〜1866・7 1866・7′〜1868・2 1868・2ヘノ1868・12 1868・ユ2・}1873・8 1873・8〜1874・2
サー・Rピール トラッ セ ル 卿 トラッ セ ル 卿 ダ ー ピ−・伯爵 アバディ−・ン伯爵 パーマストン子爵 ダ ー・ビ−伯爵 パーマストン子爵 ト ラ ッ セル卿 ダ ー ビ ー伯爵 Bディ ズレイリ W.E.グラッドストン W.E‖グラッドストン
H..グ−ルバ− ン
C.ウ ッ ド Cりク ッ ド B,ディズレイリ W.E小グラッドストソ サ−‥GりC…ルークイス
Bnデ ィ ズレイ ジ W.E.グラッ
W.Eいグテッドストソ B.ディズレイク G.W.ノ、ソ
R..ロ
w.臥グラッドス・ト
〔應所)SrBuxton:Finance and Poiitics,London,ユ888,VOl.Ⅱ…
(2)以下全て−〔.〕内は,聾者の挿入語句である。
(3)3=ansard,CLmT・ユ299〜1300uApri129,1861りイギリス議会の議事録( 、 .L
ParliamentaryDebates)からの引用の註記のしかた紅ついては一腰の用例匹 う。たとえば,3Hansard,ⅩC 100,ほ.,議事録の算3ミ/リ・−ズ,第90巻 めす。
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03 ダラッドストン.の財政政策についてのノート(上) −7β、r
(4)
い。彼は,私が別の所でのべたように,1841年成立の第2次ピ−ル内閣の下で財政紅つ いての修菜をしたのである。したがってグラッドストンの財政政策をみるには,ビールの
それをまず明らかにしなければならないであろう。ピ−ルの下において学びとった財政政 い 策′より厳密には租税政策−の基本命題は,(ロ)でのべているよう紅「財政上の樫櫓か
ら貿易と産業を解放すること」であった。彼ほ,1848年にすでに「われわれほ,産業にと
(5)
クて栓絶となるようなことはしてはならないのです。」といっている。しかし,問題は,こ 命題をとのようにして現実化するかであるが,これは本稿で明らかにされるであろう。
この命題ほ,何でグラッドストンがのべているところによると「過去20年間」イギリス議 が採用してきたものである。つまりこの命題を本格的に実行に移したのは,1841年の第 2次ピ−ル内閣であった。グヲッドストンほ,ピ−ルの政策路線に従ったわけである。し
ってイギリ′ス産英資本主義段階後半(1842〜1873年)の財政政策路線は,ピー・ル・グ クッドストン路線ではないだろうか。この点も本稿において検証されるであろう。
では,なぜピール以降において租税改革が急速かつ本格的に行われたのであろうか。それ
,一一に所得税という財源をえたためであり,ピール以降の租税改革と所得税とは−倦不 分の関係にあると考えられる。このことを証言して・いる言葉を二,三示そう。1842年
(6) (7)
ピール自ら,「所得税ほ,私の財政政策の土台であります」と湯言している。1846年成
の第1次ラッセル内閣の蔵相ウッドほ,1851年に「この目的〔租税改革∵〕が完遂される
〈8)
までは,私ほ,財産税〔所得税〕の廃止を提案することができないのです。」といって
(9)
る。さらにグラッドストンほ,所得税が「われわれの全財政計画の要石であります。」と 害している。
1840年代以降の租税改革「−その主要側面は関税改正である−を要請したものは,第
(10)
1図に示したような1840年代以降の海外貿易の急速な伸長であろう。とくに輸入は,常紅
)拙稿,「WE,グラッドストンの財政政策」,軒肌橋研究』第10号,1963年9月,
19〜24頁
(5)3HansaId,ⅩCⅧ 449.MarchlO,1848 6)3Hansard,LxI。1271.Apri14,1842
7)彼ほ,また,1848年に下院でつぎのようにいって−いる。「さて,私ほ,失礼ながら所
得税の賦課がわが国の通商政策の土台ではないのかということをおたずねしたい。もし 私があの通商政策の土台としてたよりにすべき所得税をもたなかったら,私は,ちょう
ど750万ポンドにのぼる減税を提案できたでし.上うか。」(3Hansard,ⅩCⅥtlMarch6,
1848)
)3Hansard,CXv。1064.Apri14,1851
)3Hansard,CXXXv。138弓April18,1853.
0)チェンバーズは「一輪出価偶の増大は,中期ヴィクトリア経済のもっとも重要なもので
ある」(J小 DL・ChambeIS:Op.Cit.,p.11Ol)といっている。
第37巻 簡5号
−−・74 −
輸出をしのぎ,その増加テムポも1寧40年代以降ほめざましい。租税改革も,実は.,輸入 このような1840年代以降の海外貿 税の税率引下げとその整理軋重点がおかれるのである。
易の伸長は,1830年代頃に,前世紀60年代頃より開始された産業薄命をはぼ終えたこと
しtt\
1840年代には重工業の世界的独占を狩得したことなとにみられる「世界の工場」としての
−>年次
他所〕B・R.MitchellandPけDeane:Abstratt.ofBrit・ishHistoricalStatistic
1962,Cambridge,PP,282〜293より作成
(11)入江節次郎は,1840年代にほ鉄道建設ブームにより「藩工業も,また,優越した嘩 にささえられて世界的独占の基礎を形成する紅いたった、。」(入江節次郎:前掲静11
12頁。)といっている。
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705 グラッドストンの財政政策についてのノ・−ト(上)
一打−−イギリス資本主義の生産力の優位をバックにしたものセあろう。
以上においセのべたように,1鱒3年に登場したグラッドストγの財政政策を分析するに は,ビールにまでさかのぼらなければならない。・本稿の(上)としては,1842年〜1852年 までのいわばグラッドストン財政の前史を,ビール・グラッドストン財政の「要右」とみ られる所得税を中心に分析する。
本稿の分析は,財政政策の形成が具体的に.みられる−・つのそして重要な場である議会,
とく紅下院紅焦点をあわせておこなわれる。したがって.議会外の資本家階級・地主階級・
労働者階級の動向,それら階級のイデオロ−グの議論ほ,さしあたり捨象される。
Ⅱ ピールによる所得税の導入 1.1842年度の予算
≪社会経済状況≫ トー・リー・党の第2次ピール内閣は,ユ841年8月に成立したが,その
頃の社会経済状況ほどのようであったか。Kい マルクスほ,簡潔にこの頃の状況を描写し て「1837年およぴ1838年には不況と恐慌。1839年にほ景気恢役。1840年には大不況,泉
(12)
動,軍隊の干渉。1841年および1842年にほ工場労働者の恐ろしい窮乏。」といっている。18 38′−41年においては,物価ほ下落し,利潤は低下をきたし,技術的におくれた,あるいは
(13)
金融的によわい会社がたくさん破産した。イギリス産業資本は,不景気と過剰生産から脱 出するために価格を引下げて輸出ダンピングを強行する手段にも出た。1841〜42年にはい わゆる中間恐慌が発生し,繊推工業だけでなく重工業一一冶金,造船,建設一転も打撃 をあたえた。中間恐慌のもっとも激化した時にほ,ランカシャーの工場の約半分をふくめ て,多くの設備が遊休化した。このような長期に.わたる不況を背景にして北部イングラン
ドで反穀物法運動が旗あげした。労働者階級の窮乏もはげしいものがあった。1842年には
窮民の数は.,120万に達し有米人ロの11分の1を占めるにいたった。1839〜42年の穀物の 年平均消費畳は,その前期より140方クオー・タニ減少し,牛乳・卵・砂糖・バターの消費
ほ半分に.なったという。このような労働者階級の経済状態の悲化をバックにしてチャ−−チ
(14)
イズム連動がもりあがって−いった。
u2)KいMarx:Das Kapital,Bd.Ⅰ.,Berlin,1959.S… 479.長谷部文雄訳『資本論ヨ
(讃木文庫版)第3分冊,730員。
(13)以下主として 几Al肌e11EeJTbCOH:TeopK51封【HCl、dp拷刃:3KOHOMHtIeCIくHX Xp H3IiCOB H u班Ⅰく刀08,MocKBa,1959,TOMI,CTp一・386〜392小 飯田その他訳『恐慌の 理論と歴史用簡2分冊,青木静吉版,213′、一221頁による。
(1亜 コールは「憲童の背後にあってこれを動かしているカほ,議会民主主義に.対する希望
であるよりほ.,ほるかに経済的困窮の救済紅たいする緊急な要求であった。」(G小 D
一76w 第37巻 解5号
財政政策の立案者は,以上のような経済状況の沈滞にたいして何らかの手をうつ必要が あった。また18幼年にほ,輸入関税委員会の報告沓が提出されていた。報告竃艦よれほ,
全開税収入2,212万ポンドのうちの鋸%を占める2,㈹0ガボンドが出品目から徴収され,1チ,
(15)
8㈹万ポンドがわずか9品目から徴収されていたのである。委員会は,「わが関税法にお
(16)
いで藩大な変草が早急に行われる必要があるという確信」をえたとのぺ,関税改正の必要 第 2 表 1842年皮の歳出・歳入見積
歳 出
国債利払資 調,彪7,0∽ポンド
整理基金負担金 2,368,000 陸 軍 資 6.617,000
ナダ勇兵類費
シナ派兵費 675,000
50,819,000
歳 入
ポンド 国費収
印紙税収入 7,100,000
地租・査定税 4,胡0,000
王領地収入 150,000
郵 便 収 入 500,000
250,000 48,350,000
2,469,000
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グラッドストンの財政政策紅ついてのノ−ト(上)
ー ア7 −を強調した◇
≪1842年皮の予算一≫
1842年度の予穿演説ほ,1842年3月11甲にピ′−ル首相自らが行なった◇ピ−ルは・,第2 葬のような歳出・歳入の見積りを行ない,1842年皮ほ2,469,000ポンドの赤字が出るとの べた。しかも,この赤字ほ第1に英文戦争の成行いかんで800,000ポンド使増加するかも
しれない。第2に,アフガニスタン戦争のために特別経費を必要とするようになるかもし れな常3に,インド財政が1837年度以降感化し赤字が続出していることも考慮する必 )
(18)
要がある。イギリスの財政とインド財政とは関係がないと考えるのは「皮相な見解」であ る。なぜなら,もしインド財政が混乱し,何らかの援助が必要となれほイギリス本国がそ
れを行わなければならないからである。このようにピールは,考えられうる赤字要因を全 部とり出し1842年皮には赤字が彪大になるおそれのあることを強調して,赤字解消のため の抜本的政策をうちださなければならぬことをうったえる。
ピ−ルによると赤字解消の方法は,3つあり,第1は公債の募集,第2ほ経費の削減,
筋3ほ増税による収入の増加である。公債について,ピー・ルは,現在のような平和な時代
(19)
に子孫に負担をおわす公憤というような「みじめな手段」にたよるペきではないし,・−・旦
し:■11
はじめると統御できなくなる「禍」を許すべきではないとして反対する。周知のようにイ 第 3 表 1837〜42年度の赤字累積
赤字 1,428,534ポンド 赤字 430,325ポンド 赤字 1,457,223ポンド 赤字 1,851,997ポンド 赤字 2,334,559ポンド 赤字 2,570,000ポンド 1837年皮
1838年皮 1839年皮 1840年度
1841年度(見込み額)
1842年度(見込み額)
合計 10,07写,638ポンド
〔.出所〕3Hansa【d,LxI.郎9… 但し,ユ842年虔の赤字は,実際ほ節2表のどとく2,4 70,000ポンドであり,合計額糠9,972,63鋸モンドとなる。
(川 予鈴演説では,アフガニスタン戦争の特別経費についてほ現在のところ公式情報がな いので具体的数字は出せないといっていた。しかし3月23日にほ,約250万ポンドの赤 字のうえに「−インドに.おけるわが軍強化のための見積り経費」(3HansaIも LXI.11 77・)とシナ派兵費とが100万ポンドはど増大して,少なくとも350万ポンドの赤字がで
るおそれありといっている。
(1針 3HansaId,LXI.426
㈹Ibid.,429
鋤Ibid.,466
争
− 7β −−
第37巻 第5号
708ギリスはナポレオン戦争により巨大な公債をせおいこみノ,その利払費匿歳出の半分以上も 資しているのである。これ以上に・公債を負担したくないという考えは,ピールが公債を
「みじめな手段」とか「禍」とかよぶこ・とから看取されよう。経費の削減ほ,膨脹した帝 国とか通商保護とか壌近の情勢〔英支戦争,アフガニスタン戦争を想起せよ〕を考えると
1〜2年のうら紅ほ大幅には行いえない。しかも赤字は,ピールによると第3表のように 1837年度以降続出して−ぉり,その総額ほ,ユ,000万ポンドをこえる。したがって赤字ほ,
(2り
ピールの考えでは「偶発的赤字ではない」。そこ.で増税を行なうことになる。しかしピ−ル ほ「私ほ,社会の労働階級によって〔消費される〕多くの消費財にたいして増税するとい
う提案にほ賛成できません。さらに,私は,あなた方が消費財課税の限界に達したという
(22)
決定的証拠を提出することができます。」という。つまりピ−ルほ,歳入の8割ちかくをし めてこいる関税・消費税の増税を拒否したのである。ピ−・ルが消費財の増税に反対したの ほ,第1に不況に・よる労働者階級の窮乏のため消費財の増税を行な。ても税収の増加を期 待できぬこと,第2紅チャ−ティズム運動に示される労働者階級の団結力のもりあカゴりを
しごこミ1
みて大衆課税的やりかたほ政治的に督明ではないと考えたことによるであろう。関税・消 費税という間接税の増税は,すでに・1840年にメルバーン内閣の蔵相ペアリングが提案した
が失敗した。′増収見込額の10%しか達成されなかった。ところが査定税の加ま,
(24) を上回る税収をもたらした。「間接税よりもむしろ直接税軋近い税」である査定税の増税
成功が,ピールにおける所得税導入の論拠の1つになって−いる。さらにピールによ 止された塩税の復活とかガス燈税や鉄道税やの増税もできない。例えば,塩ほ工業匿おい て広範に使われているので,塩税を復活することほ工業に干渉しその発展を抑射すること 紅なる。したがっで塩税の復活には賛成できない。ピールが消費財の増税に反対という 合の消費財にほ,工業塩のような生産財も含まれていると考えられる。したがって「故
に大きな費用を伴ない,そして国の貿易と製造業を大きく混乱させずに課執することは
. 小山 相d山川 ハし e再し
Ibid.,430L.
Ibid.,431.
3月18日に・ピール日く。消費財の増税を行なうかわりに.所得税を導入すればl
〔地主・資本家〕は,この国の混乱をしずめ,大衆を煽動している木々から不満と を、つくりだす手段を奪うこ.とになります。」(3Han亭aI・d,LXI.916.)予鋼摘
「皆さんの財政困窮がどんなであろうとも,皆さんは社会の労働階級の便宜晶
おわさないよう紅皆さん方の政策を調整しなければならない」(3HansaI・d・1Ⅹ 4.)といっている。
(24)3Hansard,ⅩCVII・287・March6,1848.ピ・−ルの言葉である。
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グラッドストンの財政政策についてのノ−ト(上)
−79−「間接税」よりも所得税を賦課して即時に赤字をうめることが「より賢明」
つ 。このことが,消輩澱の増税,つまり関税・消費税という間接税の増税反対
﹂い⊥
2
句儲である
(
であるとい
の第3の,そして−一番大きな理由ではないだろうか。不況にあえいでいるイギリス産業資
に干渉することは,とくに避けるべきことなのであり,関税委員会の報告苛も関税整理 主張しているのである。
1841年にはベアリング蔵相ほ,木材と砂糖関税の減税を行ない,そのことによる消費の 大により増収をあげようとした(この剖画は内閣の辞職で実現されなくなぅた)。ピール
も「大多数の消費財の減税をおこなうという基本方向」にほ賛成するし,「こ・の国の消費 力の上昇は非常なものなので減税紅よる増収を究極紅は実現するという希望」をもってい
(2¢) (27)
る。しかし,減税に・よる増収ですぐに赤字をうめようと考えるのほ「玄〕想」である。ビール によるとコ−ヒ一関税とラム酒関税をのぞいて,大幅な減税の後5〜6年以内に減税以前
(28)
税収水準にもどった税目は−・つもない。そこで,公債に・も頼らず,経費の削減も行わ
(29)
,消費財の増税もやらずに「赤字をうめる唯一の手段」として消費財の減税に頼るなら
(30)
ば,「財産の所有者に心からお願いすることが私の義務です。」ということになり,所得税 再導入されるのである。
かくして所得税ほ「収入の赤字をうめるのみならず,私が自信と満足をもって大通商改 を行なうことができるためです。そしてそ・れ〔大通商改革〕は,貿易を回復する希望をあ えるであろうし,そのような製造業階級の〔不況からの〕回復は,国の他のすべての階級
(81)
反作用をおよぼすでしょう。」第1に注目すべきことは,所得税が赤字の補填と通商改革
しこ;ゴ\
遂行との2っの目的をもっているわけだが,比重はむしろ後者に.あるというこ.とだ。し がって所得税は赤字が解消しても継続されるわけであり,通商改革を行なう必要のある 剖 3HansaId,LXIl・1183.MaICh23,1842.1842年4月18日に.もど−ルは「 私は,
塩,麦芽そして皮簿の皐うな商品に・たいする税金を復活しょうとするよりも,財産税
〔所得税〕を復活することのはうが,国の産業と資本の投下をあまり混乱させないで あろうと考えました0」(3HansaId,LXII・656・)といってこいる。
)位7)3Hansard,LXI.437.Marchll,1842
㊥ 3王ねnsard,LXI.470{/471い No.7の表をみよ。コーヒ−・とラム酒は.,減税の翌年 に減税前の税収水準にかえっている。
例Ibid.,438
〔岨)Ibid.,439
訝 ビール日く「私ほ,赤字をうめるという単に.それだけの目的で所得税を提案するので
はなく,赤字をうめると同時に関税の大幅な改訂を私が行ないうるためにそれを提案す
るのです。」(3Hansard,LXI.1189り MaICh23,1842.)
第37巻 第5弓
810 一&♂ −【かぎり継続されうる。第2に,ビ叫ルは通商改革に.よってイギリス経済を不況から脱出さ
せようとしたわけであり,減税効果ほ,まずイギリス商工業階級がうけ,地主階級も含め て労働者階級等のその他の階級に.は,その波及的効果がおよぶと考えていることである。
1845年度に大幅な減税提案を行った際紅も,ピールほ波及効果について「われわれの確信 するところでほ,、この提案の採択により産業と貿易はただちた利益をうけ,間接にほこの
(33)
大きな社会の全階級がその福祉を増進するであろうということです。」といっている。かく してピ−ルは,村税政策の中心対象にイギリス商工業をおいて−いたのであり,それゆえ に,ピールの租税政策がイギリス産業資本主義段階後半の和税政策路線になったのであ る。ピールが商工業の利益を中心に考え.たのにほ客観的根拠があったと考えられる。欝4
表のごとく職業別人口分布でほ,商工業(製造業・鉱業,商業・運輸)が1841年には55%
と半分以上をしめ,簡5表の産業別国民所得分布匿おいても商工業は,1841年に53%をし めていた。農業は,いずれにおいても商工業の半分以下なのである。
第 4 表 イギリスの職業別人口分布(総有業人口中のパー‥センタージ)
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811 グラッドストンの財政政策についてのノー・ト(上) 一朗一 所得税の継続期間についてはゼールはきわめて弾力的な考えをしている。まず3年間縦 線するが,「そのて通商政利実験が不完全な場合紅は,議会はそれ〔所得税〕を延期す
(34)
ることにちゅうちょしないであろうと私は信じています」とのべてこいる。
所得税賦課による税収377万ポンドとその他の若干の増税により,1842年皮の増収分は 438万ポンドとなる。赤字247万ポンドを差引いて余剰金が191万ポンド。この余剰金を使 って,
工業原材料である油・鉱石等の関税の引下げ−27万ポンド コ−ヒ一関税の減税 【17万ポンド
木胡関税の減税−β0万ポンド
羊毛製品・鉄・細等にたいする輸出関税の全廃−10万ポンド 駅局番鹿の減税−7万ポンド
を行なう。最大の減税品目である木材関税の減税からは,ピールによると,造船業老,地 主,工場建築家のみならず労働者階級も利益をうける。なぜなら,労働者階級に利益を
スプリング あたえる「真の方法」は,「うたがいもなく,製造業と通商の躍動力を圧迫してこいる重荷
(35)
を除くこと〔太材関税の減税〕によってこである」からだ。
≪所得税をめぐる議会の論戦≫
所得税法案略,3月18日ピ→ルによって下院に提出された。これにたいする議会の反応 はいかなるものか。
まず急進ブルジョアジーからみてみよう。所得税問題にかんする急進ブルジョアジーの スポークスマンともいうべきヒュ.−ム(m皿e,.丁い)議員は当時の経済界の不況をふまえ てつぎのようにいう。所得税は,間接税にくらべのぞましい税である。なぜなら,間接税
は,消費者呼余分な支出をさせ,また常に浪費を奨励するからである。しかし,現在産菜 軋不況で利潤が低下し,貿易と雇用の大幅な減少がある。このような時に400万ポンドに
ぼる所得税を賦課するこノとは資本を圧迫し,雇用の源泉を奪い,「現在国にひろまって
(36)
いる悲惨と困窮」を増加するだけなので,賛成できない。所得税を提案する前に,宮廷
(37)
資とか徴税費とか軍事費とかの経費の「削減が最大限に行われるべきであります。」彼は,
−ルの関税改正ほ不1一分だと非難し,国の情勢はピールが更に大幅な改正をするように
亜 3HansaId,LXI.444.
5)Ibid.,460
6)3Hansard,LXII…1084.Apri125,1842
Ibid.,1080
節37巻 第5号 812
、ざご 一
要求するであろうという。コプデン(Cobden,R)議員も,ピールの関税改正の不十分さ を論難し「穀物の自由貿易は,枢鍬祓問官〔ピール〕が提案した全てこのものより何倍も藷
(38)
要でしょう。」という。
ホイッグ党のラッセル(R11SSell,Lo工・d.丁)議員ほ,ピールの関税改正を歓迎し,関税引 下げの俺開を砂糖とか穀物に拡大すべきであると主張する。しかし彼も所得税にほ反対す
る。第1に現在は,1799年とか1806とかのような緊急事態ではないこと。なるはど現在,
アフガニスタンとかカナ・ダとか中国とかで戦争が行われているが「これらの遠方の戦争
(39)
を,所得税のための十分な論拠とは,私ほ考えない」という占第2に所得税ほ「琴間的で
†レイドマン
ある」ということ。所得税の査定ほ,まずしい事業家や小額の所得をえている専門職業家 にたいして彼等の所得の源泉をさらけ出させる。また,納税者ほ脱税しようとして.「人間
(40)
の幸福にとってぜひ必要な真実と誠実さ」を失なう。しかしラッセル議員をはじめとする ホイツグ党の議員が強く所得税に反対したのは.,終局クソド(、Wood,Cハ)議員のいうよ
(41)
うに関税改正が「そのような租税を一目受させるのに十分な利益を提供していない」という ことであろう。このことは,所得税に反対したラッセル議員,ウッド議畠等が所得税賛成
にかわった時の弁明をみればあきらかになる。
以上のような野党の非難にたいして・,ピールほつぎのようにいう。・所得税が利潤の不安 走な商工業をさらに厳しく圧迫するであろうとほ思うが「この方葦の主な目的の−・つは,
生産原材料関税を引下げることであり,そのような減税ほ通商の回復に最良の槻会をあ
(42) たえる」。また地主や専門職業家にたいしても「生活費の引下げにより,私は,彼等の負担
(48) の大部分を償うであろうという確信をもってこいます。」ピ−ルは,このように所得税賦課よ
りえられるであろう各階級の利益を極力強調して説得する。
所得税が審問的であるということは認め,それを理由に反対するのはシ㌧.デヱ・−ルD
(44) ぁるとして,ピールは次のような徴税機構の改普を提案する。当時の徴税機関は,地方
(38)Ibid.,706.April18,1842 伽)3HansaI d,LXI1202
(4側Ibid.,899
(41)Ibid.,994..MaI・Ch21,1842.
(42)(43)3Hansard,LXI916
(44)ピ−ル日く「私は,主な困難が られる所得から生じるであろうと
†レイド ンエデュールDの所得,つまり産米と
かたくイ言じています。」(Ibid.,911・)
■
げしかったのである。 ・_
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グラッドストンの財政政策鱒ついてのノーーt・(上)
−β3−民とくに名望家たち把よって髄成されていた。したがって,納税者が納税申告を行なう か徴税機関側に納税者の政敵とか商売がたきとかがいると納税者が真実の申告を行い
く45)
くくなるし,徴税機関側の所得の査定が慈恵的になる場合がある。そこで,シー工デェ.−
Dの納税者に限り,新た紅設置する政府任命の徴税官のとこへ行って納税申告をしても サーチャージ
いことにする。また,所得が過少申曽の時には加重課税が行われるが,これにたいする 誘申立てもシ.ヱデェ−ルDに・限り,新たに設許する,政府により任命され政府の監督下 ある「特別委員会」に・行っておこなってもよいことにする。従来は,地方徴税機関にた
、しでだけしか異試申立てができなかったのを改善したわけである。このようにして所得 が審問的怒意的であるという非難を防ごうとした。
21糾5年度の予算
(46)
≪経済状況≫1843年にイギリス経済は盛況局面に入った。輸出は,1844年にはすで虹 860万ポンドに達し恐慌前の最高水準(1837年,5,330万ポンド)をうわまわった。輸出 上昇が設備投資を刺激した。たとえばランカレヤ−の木綿工業でほ1842年から1845年ま の3年間に兼気エンジンの能力が33%(3万馬力から4万馬力へ)も増大した。議工業 国内の鉄道熱に刺激されて拡大していった。他方農業は,1842〜1844年は豊作であり,
\麦価格は1クオ−・ター・あたり1839年の70シリングにくらべ1クオータ−あたり50シ′リン の水準にあった。食粒品価格の低下ほ工業製品にたいする国民の需要をやや増加させ,
ギリス経済が盛況局面へうつる一つの力となった。ところが,1845年にほ,イギリス農 巣はヨーロッパの一一遍の国々と同様に・凶作に.みまわれた。小麦の収穫ほ減少し,アイルラ
ドではじゃがいもが桐枯れ病におかされた。
財政の面では.,1842年皮には242万ポンドの赤字を出したが,1843年度には210万ボン
,1844年度には実に634万ボンドの黒字を出した。所得税(1844年度の税収は510万ボン ド)を廃止してもまだ余りのあるはどゐ黒字であった。
≪1845年度の予算≫
ピール首相ほ,1845年2月1引]に1845年皮の予筆洗説を行ない,第6表のような,所得
相 ある議員は,前回の所得税が課されていた降車業をやっていたので所得税の審問的性 格をj:く知っているとして次のような例をあげている(3Hansard,LXII.709.)。今 日(1842年当時)のような不況のさいにほ,赤字紅なった事業家は,あえて経理を公け にせず,実現していない利潤を申告して納税しなければならなかった。
6)以,F几A・MeH属eJ7bCOH:TaM〉Ke,CTp431〜460.飯田その他訳,前掲番,
274〜313貢庭よる。
第37巻 第5号
ぶ・J− 714
税が廃止.されたものと考えた歳入と歳出見積を提出した。釘上されている所得税収入260 ガボンドは,1844年皮の未徴収分である( 当時は,徴税手続の関係上所得税収の半分しか その年皮内に徴収されず,半分は翌年直線越された)。
ピールは,所得税を継続すべしという。なぜなら,1845年度ほ所得税が廃止されたとし てもその兼敏収分があり,シナ賠償金もあるから黒字となっているが,1846年度以降には歳
出に変化がなくてもその両者がなくなるので赤辛が出るからである。しかし,歳出も1845年 度ほ,前年度より増加してこおり,将来の赤字はますます大きくなる。したがって政府とし
(47)
てほ.所得税の継続を提案するのが「■義務」である。しかし,こ.れほ単なる口実紅しかすぎ ないと考えられる。所得税が継続されるものとすると(260ガボンドの税収の増加)歳入 ほ5,370万ポンドとなり,余剰金は401ガボンドとなり,この余剰金を使って第7表に示レ たような減税をおこなう。そ・こでピール日く「われわれは,歳出をまかなうためではな
第 6 表 1845年皮の歳出・歳入見積 歳 出
国債利払資 整理基金負担金 陸 軍 資 海 軍 資 兵 器 費 雑 費
28,395,000ポンド 2,400,000 6,678,000 6,936,000 2,142,000 3,200,000 49,690,000 歳 入
関 税収 入 内国消費税収入 印紙税収入 地租・査定税 郵 便 収 入 王簡地収入 所得税収入 雑 収 入 レナ賠償金
余 剰 金
22,000,000ポンド 13,500,000
7,100,000 4,200,000
700,000 150,000 2,600,000 250,000 600,000 51,100,000
1,410,000
(47)3Hansard,LXXVII 471り February14,1845.
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グラッドストンの財政政策についてのノ−ト(上) −β5−
くl紛れもなくわれわれが減税というこの大実験を行いうるため紅東紅所得税を継続する
(48)
ことを提案するのです。」しかもその「大実験」は「連合王国の製造業におわされている租
(49)
税の減免」である。のち軋みるよう紅この点を突いて地主階級は,ピ−ルの減税斜面を非 難するのである。しかしピールにとっては「この計画が議会紅より承認されれば,それは 産業の拡大,企業の奨励に貢献するであろう,そして産業のその拡大と企業の奨励の成果 は,貿易,製造業あるいは虚某紅直接に関係して∴いるか間接紅関係しているかをとわず,
(50)
社会の全階級の利益となるであろう」。このようにピ−ルにおいては,1842年以降明白に所 得税を,減税財源として考え,そ・の減税はイギリス資本主義の機軸産米である商工業の発 展なまず促すために・行われるとしているのである。このような考え方のピールが,翌年に 減税提案とともに穀物条例を廃止したのは当然のなりゆきであろう◇
(51)
所得税は3年間継続することが提案された。
第 7 表 1845年度提案の減税
1い 砂糖関税の税率引下げ 2い 輸出関係の全廃
3り 絹・麻・枕毛糸をのぞく綿糸・家具用木
材・動植物油・銅鉱石をのぞく鉱石・鉄・
亜鉛・染料・薬品・
関税の廃止 4 虎綿と羊毛の輸入関税の廃止 5‖ 競売税の廃止 6。.ガラス税の廃止
1,300,000ボンド 118,000
320,000 680,000 250,000 朗0,000 3,380,000
㈹Ibid.,495
(姻Ibiq.,799・FebruaIy19,1845・これはピー)L/の言葉である。2月17日にほピール ほ「われわれがその減税を勧めうる唯−この方法ほ,減税に.よりわが国の製造業が手ごわ い相手と競争できるようにわれわれがするであろうということでしょう」(3HAnsard,
LXXVII621・FebIuaIy17,1845)と,減税の目的をより具体的にのペている。
佃Ibid.,496〜7
(51)予算演説でほ,この間の租税の弾力性に信頼をおいて−おり3年たつ前に減税効果が働 き所得税を継続しなくてもよい位の増収があるだろうといっている(Ibid.,495)。L かしピールは,3年後町廃止するとは断言Lないし,廃止のプログラムも示さない。の
みならず2月17日には「私は,この租税〔所得税〕がそ鱒、期間の終り r二3年後〕に不必
要庭.なるということを保証しうるような事柄までは予想できません。むしろその期間の
満期に際し政肝は更新を要求しないけれども,本院ほ,その村税を継続すべきであると
いう見解かもしれません。」(Ibid.,620..)といっている,ピールにおいては所得税と
減税とが結びついて.いるという事情を考えると,まだ関税・消費税の減税の必要な1845
年段階でほ所得税を廃止したくないというのがピールの本心であろう。
第37巻 輝5号
ーβ6 〜 716
≪所得税更新をめぐる議会の論戦≫自由党主流も急進ブルジョア汐−もピ・−ルの減税
†レイト を高く評価する。ラッセル議員は,ピーールの減税品目の多くはr■明らか紅塵業を救済し国
コマ−ニス
の通商を促進するために繋明紀選択された」のであり,また「原材料に課敬することは.あ らゆる健全な通商原理に全く反する制度である」という見地から,とくに原綿開税の廃止
し ・二)
を歓迎するという。このような高い評価を減税にあたえるラッセル議員は,所得税のさ年 間の更新に賛成する。Ejく「国の産業(trade andindustry)を現在圧迫しているそれ
らの税を除くという大きな利益に気づいたので,私は,更匿3年間つづけられる所得鍬こ
、ニ■:く\
賛成投票する用意があります」。急進プル汐ヨアジ−のとユ.−ム議員も同様喧ビールの減税 評価して「これこそ国の産業が縛りつけられていた束縛から解放される唯一・の道
.\い﹂ 高びる
を あ
とのぺ,特に原綿関税の廃止ほ,「国の通商紅とって−もっとも欠くことめできか、
ものであり,海外苗場においてわれわれが保持すべき地位を回復できるようにうまく計画
(55)
されたものである」という。もちろんと.ユ−ム議員ほ所得税に賛成であり間接税の減税 主張する。所得税導入3年目にして二,すでに自由免の大勢は所得税反対から賛成紅大
くかわったのである。減税財源としての所得税の威力が認識された。自由党のブナチ
(BulleI,C.)議員は「われわれほ,所得税を永続的代替物とすることによ、・つて永続的
†ユ61
減税を購わなけれぼならないのです。」という。急進グル十プのグィリャーズ(Villef■5,
(87) P)議員は,国の通商と製造業を拘束する租税を減執する「代巻物」としでの所得税匿
国民は反対しないと断言し,彼自身ほ「その租税が永久的なもの把.なるであろうとかた
(58)
信じています」といっている。ラッセル議員も,所得税ほ3年後払廃止されるはずはな
(59)
「永続的な所得税」となるにちがいないとしている。
所得税が永縦的なものになると判断した急進派議員ほ,所得税負担の公平をと準え,
泉別分離課税を主張しはじめるのである。
卜・リー党の議員ほピ−ルの減税提案をどううけとったであろうか。もっとも明快
−ルの減税提案を批判したマイルズ(Miles,W.)議員はつぎのようにいう0所得碗 409ガボンドのうち247万ポンドが地主階級紅よって負担されてい.る。半分以ヰ.も所得
(52)Ibid.,549ヘノ550February17,1845
(53)3Hansard,LXXVⅦJ608.Macrhlb,1845
(541Ibid.,581 脚Ibid.,582・
(56)Ibid.,536 即旧8j‡bid.,609
(59)3Han$aId,LXXVII.54L7Feb工uaIy17,1845
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ダラッドストンの封政政策についてのノーート(上)
一β7−負担しているにもかかわらず,ピールの減税提案では「地主階級が恩恵をうける税金は.−
(60)
ゥも手をつけられず,大幅な減税ほ製造業と貿易にあたえられました。」ピ−ルの財政演説
が発表されると「非常な絶望」が全国的紅みられた。「借地農ほ,これまで枢密顧問官で ある男爵〔ゼール〕を彼等の権利の守護者とみていました。しかし彼らほ,彼が貧苦にあ
る自分たちを全く看過し,3年間にわたって背負わなければならない240万ポンド以上の 塞荷を地主と借地農と国の不動産に課したのら何らの救済もあたえなかったということを
($1)
今や知ったのです。」凶作に襲われたイギリス虚業にピ−ルは,何らの救済の手もさしのべ
なかったと非難する。ピールの減税提案に地主階級が袈切られたということは,パ−マ−
(62)
(Pal皿e工,R)議員,ティレル(TyI ell,Siり小)議員等ものぺている。ビール政府と 与党のトー・リー党との間にかかる亀裂がみられる以上,翌年のトーリ一党の大分裂は必然
のなりゆきであった。このようなトーサー・党議員の非難にたいし,ビールは,もっと減税 スプリング
効果に冒をむけよという。「1もし諸君が産業の躍動力にたいする圧迫を除くならば,
そして工業地帯に繁栄をもたらすのみならず・そ・の持続紅1つの保証を与えるならば,
その繁栄に農業関係者(agriculturalinterests)が加わるのをみるまでの期間はごく短いで
(63) ろうと私は考えています。」ここにもイギリス産業資本を回転軸にすえて:考えて−いるピー
ルの政舗が明白に、見てとれる。ピールほ,エ菜の繁栄こそ農業を不況から救い出すものと 考えているのである。このような考え方がトー・リー党全体をとらえるにほまだ7年ばかり を要するのである。
Ⅱ ウッドによる所得税の更新
1846年7月ピール内閣に代って第1次ラッセル内閣が成立した。蔵相はウッドである。
1845年に・3年間を限って更新された所得税ほ1848年に満期となるのであった。
1.1848年度の予算
≪社会経済状況≫ イギリス経済は,1847年恐慌に続く不毛別犬態紅あった。フランスで は,2月革命が勃発し,それほヨ」一口ッパ各地の市民革命,民族運動を誘発していた。
≪1848年皮の予紛≫1848年既の予野演甜軋 ラソセル首相(1848年2月18日)とそれ 修正したウッド戯柚(2月28日)により2回行われた。
1848年度の歳入ほ所得税収入を含めて5,125カポンド,歳出ほ5,367カポンドで赤字が 昭Ibid.,609
1)Ibid.,610
2)Ibid.,604,629
訃Ibid.,616
第37巻 第5号
」 ββ −−
242万ポンドである。この赤字をいかに.してうめるかが第1の問題である。経費の削減は できるか。ラッセル紅よると,ヨー一口ッパの情勢,フランスの海軍力の増強などを考慮す
(64)
ると軍事費の削減どころか,イギリスを「至当な防衛態勢.」におき「平和のためのあらゆ
(65)
る保障」をつくるためには軍事費の増加が必要である。したがって経費の削減ところか,
逆に歳出ほ.51万ポンド増加する。他方,消費財にた小する間接税の増税は,非常に拙劣で あるとしてピー・ル以降の減税路線を守る立場をとる。そこで所得税の更新は.当然のことと なり,しかも所得税の5年間継続,最初の2年間の増税偶行の7ぺンスから1レリシグ
(栂)
へ)が提案される。所得税の増税で歳入は5,475万ポンドとなる。以上のように所得税更 新の第1の理由ほ,ピ−ルの時と同様に赤字の補填である。
減税ほ銅鉱石の輸入関税の廃止4万ポンドだけであった。ラッセル内閣は在任期間中ピ ールのような大幅な減税は行わなかったが,ピールの租税改正の政策ほ引継ぐのである。
すなわち,ウッド蔵相は,ピールの減税に・より国民は恩恵をうけたとのべ「■それゆえ,わ れわれは議会と国民紅よってかく認められたコースを追求するのがよりよいと考えまし
(即)
た。」といっている。ウッド蔵相も1842年の所得税導入に反対した1人であるが,つぎのよ うに弁明している。その時反対したのほ「所得税が,その時提案された租税改正に・よノって
(68) われわれが受けるはずの利益の代りに支払う価格としては二高すぎた」からである。しか
し,その時租税改正が穀物,砂糖,木材等の多くの消費財におよばされるなら所得税紅賛 成するとのべた。その後,穀物,砂糖,木材等の減税が行われ「所得税の課税を正当化す
(69)
る 状況lがうまれた(今際も所損稚かそのような減税財源とlノて使うため紅更新を鐙 る 状況」がうまれた。今度も所得税をそのような減税財源として使うために旦那甘
楽する。
こ.のようなわけで,所得税の更新は単に赤字補填のためだけでなく減税財源としての みも大い匿もってこ行われたといえよう。
≪所得税をめぐる議会の論議≫ 所得税をめぐる議会の論議で注目すべきものの一■つ
−− ・
二 ∴∴.∴二、−、二∴
が,経費削減をおこなうため檜民地の数をへらし,そのいくつかを放棄すればよいと . ヽ
二∴
、
個 3HansaI・d,ⅩCVI.914爪
(66)2月28日にウッド蔵相ほ,ラッセルの所得税提案を撤回し,現行通りポンドあた ペンスで3年間継続することを提案した。
(67)(68)Ibid.,1407.February28,1848 伽)Ibid.,1408
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グヲッドストンの財政政策紅ついてのノーート(上) −β9−
急進派議員から出された所得税の修正動議であろう。
ホ・−スマン(HoISman,E・)議員は卜3月3日に「もし所得税が継続されるならば,
法律を修正し,専門職菜および一時的源泉からうまれる所得にたいしては.,不動産からう
(70)
まれたそれと向じ税を課するこ.とのないようにすることが妥当である」という動議を提出 した。披によれば,所得税ほ「−L時的性格」というよりむしろ「永続的性格」をつよめて きた。したがって所得税にたいする「苦情」は早急になくすべきである。現行のように.地 代所得にたいレても専門職米よりの所得にたいしても同一税率で課税するのは公平を欠
く。彼によると税率は,シ㌧デコ丁ルA・Cほ8ペンス,Bは7ぺンス,Dは6ぺンス!
\Tl\
Eは4ペンス,紅すべきである。このような源泉別分離課税の提案ほ,レ.ェデュ」−ルEのみ ならず企業所得が中心であるDをも(むしろDの減税が主たるねらいであろう)減税しよ うとするものである。この動議を支持したコプデン議員は,所得税を「永久的租税」にす
るために,所得税を修正して「公平な租税」にしなけれほならない旨をのべ,「それ〔公
/
平にしうるかいなか〕が私の友人たち,とくに自由貿易派の間での問題です。」という。彼
によると,専門職業家や企兼家そして労働者までも含めて,彼等こそが不動産という「ね むっている富」に生命力をあたえているのである。彼等が「社会の車輪」を動かしている のであり,彼等の活動力に「不動産の全価値がかかっている」。したがってレエデュ−ルD
の税率を不動産所得の税率より低くして優遇するのは当然であり,そうしても「北部の大工
(72〉
菓地帯からはなんの抗議もうけないと私は断言します。」この動議にはマンチーエスタ一選出 のブライト(BIigIlt,.丁)議員,バーミンガム選出のミ.エソツ(Muntz,Gい F…)議員,
モソトローズ選出のヒューーム議員,クルプァ−ハングトン選出のブィリャーズ(VilleIS,
CP・)議員等の急進グループの議員が賛成したが,316対141の大差で否決された。この うな動議はすでに18・45年にもあり,それ以来資本家階級を代表する議員たちは,公平な 所得税の名のもとにたえず上述のような源泉別分離課税をとなえ.続けるのである。
所得税紅関連しての議論で注目すべきもののもう一つほ,保守党の見解である。保守党 偲1846年に大分裂をした。ピールが110名余を率いて脱党しピール派をつくり,保守党は 200名余となった。分裂後の保守党の指導者はスタンレー(Stanley,E・G巾GS)議員で
あり,その補佐はベンチインク(Bentinck,Lord GFC),ディズL/イリ(Dis工aeli,R)
0)3HansaId,ⅩCVII.162n 1)Ibid.,162〜175
辺Ibid.,506〜508,Marcb13,1848
寛37巻 第5弓 720
ーー 9∂{
(73)
議員であった。
保守党は3年間の所得税の継続には賛成したがその永続化には反対した。スタンレ一議 員ほ,余剰金が出たならばそれを間接税の減税にあてるのではなく所得税の減税にあてる ぺきだとのべ】「再び間接税に観ることによって3年後にわれわれは,この租税を廃止で
(71)
きます」と主張している。ベンチインク議員も「間接税体系への復帰」に賛成して,白く
「この国に輸入される外国産の全ての原材料に・10′・、ノ15%,そして絹その他の工業製品に は.30%の関税を課すぺきでサー。その時にはとんな財産税あるいほ所得税も必要でほないで
(75)
しょう。」ディズレイリ議員は,1847年恐慌とそれにつづく不況状態を念頭に・おいて「現在
(7り
の貿易不振と金融上の混乱の原因ほ,新しい通商体制に帰せられるペきである」という。
そして,ピ−ルはかれの3年間にわれる実験は.まちがってこいたことを認め,.ラッセルも率 直紅あやまり,マンチ.ェスター派も自分たちは自己崩壊したとしな椚叫ま,所得税には賛
成しないとする。また,マンチ悠スタ一派の所得税を修正しようとする動きを非難して日 く「こ.の同盟の目的は,この国の税金を今日のスラングにしたがうと不動産とよばれるも
し:Tl
の,特に.イングランドの土地紅負担させるこ.とです。」
このように保守党ほ,(1)所得税についてはその儀正に.反対するのみならず,漸次的廃止 を唱え,(2)ピ−ル以後の関税を中心とする租税改正を全面的に否定しようとする。つま
り,廃止さるペき所得税の穴理財源として原材料等にたいする輸入関税の復活強化を主張 し,政府・与党の貿易自由化政策に正面から対決しようとするわけである。
2。1851年度の予算
1851年度は,1848年度に3年間を限って継続されることになった所得税が満期になる年 皮である。
≪経済状況≫1847年恐慌からイギ.リス経済は,いち早く脱出し・た。1850年には「イギ
㈹ スタル−−は第2次ピール内閣の植民地相であった。1845年末にピ−ルが劇物条例廃 1上を最終的に決定した時,スタンレーーは閣内でピール支持を拒否した唯一・の閣僚であっ た。「彼(こスタンレ−〕ほ,ジョージ・ベンチインクとベンジアミン・ディズレイジを 下院における副官として引連れて,ただちに保護貿易主義者たちの公認の指導者となゥ た。」(Encyclopedia Btitannica,1963,VOl・7,275い)
(74)3Hansard,ⅩCVII=1351.Apri16,1848 け5)Ibid.,306.MaI■Ch6,1848
け6)Ibid.,422.Ma工CblO,1848
(76)Ibid二,422.MarchlO,1848
(77)Ibid.,436
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グテッドストンの財政政策虹ついてのノ・−ト(上) −9J・−
(78)
リスのエ業盛況は全般的なものとなった。」ところが戯菜は逆であった。1850〜52年紅かけ
て不況にみまわれた。第8表に示したごとく,ユお1年紅ほ小変・大麦・ライ麦等の植物性
農産物価格が18昭年にくらぺ31%下落し,牛肉・羊肉・バター等の動物性鹿産物価格も18 47年比で13%下落し,総農産物価格ほ1847年比で25%下落した。トンプソンは「1850〜2
(79)
年の危機は,多分〔過去〕30年間におけるもっとも鋭いものであった。」という。農業不況
(80)
の結果,地代の10%引下げは.かなり−般的であった。したがって1851年には,全般的にみ て地主・借地鹿がともに多かれ少かれ苦境にあったと考えられる。
≪1851年皮の予静≫1851年皮の予算演説は,ラッセル内閣の蔵相ウッドが1851年2月 17日と4月4日との2回おこなった。その間紅ラッセル内閣は一度辞職したのである。
予罫演説を検討しよう。1851年皮の歳入は,所得税が廃止されて.その未徴収残金270万 ポンドだけが入るものとすると,4,935万ポンドとなる。歳出ほ5,025万ポンドであり,赤 字が90万ポンドである。しかし1852年皮以降は所得税の兼敏収残金もなくなり,歳入・歳出
第 8 表 ルソーの物価指数(1865年と1885年の平均=100)
〔出所〕Br R。Mitchelland P.・Deane:OpCit・,P 471.
(78)几A.肌e11月e7rbCOH:TaM〉Ke,CTp507飯田その他汎 前抱番,378頁:。
仔9)(80)F.M.LThompson:English Landed Societyin the Nineteenth CentuIy,
1963,London&ToIOntO,P240f
ー・92 − 倦37巻 第5号 722
に変化がない場合でも赤字は360カーボンドに増大する。そして′ウッドによると1842年の 所得税導入時の赤字210ほ50の誤り〕万ポンドを150〔110の誤り〕万ポンドもうわまわる
そのような大幅な赤字ほ許せないのであり,所得税は当然更新される必要がある。以上の よう紅赤字を埋めることを所得税更新の第1の理由にした後,ウッドは,所得税継続のより
≠眉根本的な理由をのべる。ウッドは,1朗8年と同様に,所啓税導入に.反対した自分が賛
成に・変ったのほ所得税が木材・穀物・砂糖関税等の減税財源として使われほじめたからで あるとのべ「■その原理を〔ピールが〕実行したので私は1845年紅その租税〔所得税〕の東
新を支持し,そして私自身1848年にそ・の継続を提案しました。全く同−の立場にたって全
く同≠・の政策をたゆまず続けることがのぞましいという考えを前にもまして強く持ってお りますので,私は,ただ今,更に限定された期間に・わたっての所得税の継続を提案いたし
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ます。」かくしで1851年度も所得税は,ピールに・よらて開始きれた減税政策を実行する財源 として更新を提案された。「限定された期間」とほ3年間であるがウッドも3年間で所得
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税を廃止ナる考えはない。所得税を継続すれば歳入は5,214万ポンドとなり189万ポンドの 余剰金がでる。
つぎ紅ウッドは赤字をうめるための経費の削減および増税を検討する。しかし削減可能
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な議定彗1,500万ポンドのうちでほ赤字をうめるはどの経費の削減はおこなえない。そう なると増税であるが,今日まで減税してきた租税つまり「国の産業または消費力を圧迫し
(S4)
てきた租税」ほ復活できない。それどころか減税がのぞましい村税がまだ多くある。そこ で余剰金を使って次の減税が提案される。
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