財政モデルについて
山 之 内
光
躬
理論モデルは︑その仮説の現実性によってよりは︑むしろ︑その予測の正確さによって検証されるべきである︒i>暮げ8︽Uo≦昌9墨§肉8§oミ勘↓ミ︒建ミ.b鴨ミミミ違噛同Φ昭O.曽.
一
最近︑財政理論の領域で︑公共財やそれらの集合的選択の問題が︑いわゆる租税配分の利益原則︵σ①昌駄律〇二P ︵1︶o旦⑦︶の観点から論じられたり︑また経済理論の領域では︑価格理論の一つの応用として︑公共経済学という名のも ︵2︶とで公共財の定義や配分の問題がとりあげられ︑さらには︑資本主義経済社会の基本的要件の一つである︑配分機構
としての価格のメカニズムの限界と︑それを無効とする選択対象についての選択メカニズムの模索といった論議が︑
とみにさかんである︒
しかし︑このような理論的展開のなかで︑その理論の依拠する基本的フレームワーク︑ つまり︑財政理論でいえ
ぽ︑根底的な財政モデルについては︑ほとんど明示的にのべられてはいないといってよい︒また︑たとえぽ︑公共財 ︵3︶の理論を中心として︑定式化がめざされている︑個人主義的モデルにもとづいた新しい財政理論についても︑さまざ
ま批判がなげかけられているけれども︑それらの論評はいずれも︑その基本的な財政モデルとの関連で論じられてい
125
るのではなく︑特に︑そのような公共財の選択理論での︑集合二心の導出の困難性にのみ焦点をあわせての︑論議で 鵬ある場合が多い︒
ω いまのところ︑公共経済学︵℃口σ一剛O ﹈円OO口05P一〇ω︶というものが包括的に定式化されて︑体系化されているわけではない︒
たとえば︑ノールウェーのい①崖冒げきω窪による.︑◎ミミ︑むSぎミミき隷︑︑︵英訳︑ミミ鳶肉鳥§Qミ思ρH㊤①㎝噛菖きωご8ασ団
竃・ρじU﹁o≦昌匿α幻.一●Oげ犠ω8℃げロ凌①三 宇田川訳﹃公共経済学﹄好学社︶は︑その標題に公共経済学というタイトルを
もっているにもかかわらず︑同書はどちらかといえば︑基本的には︑伝統的な財政論の問題領域に︑経済分析を適用していく
という意図がとられているもので︑公共支出の問題と租税の問題が分離されて︑二元的に論じられるという︑伝統的アプロー
チをくりかえしているにすぎない︒公共財や投票の問題も部分的にはとりあげられてはいるが︑これらの問題が同書の中心的
テーマになっているとはいいがたい︒そのほかに︑公共経済学の標題をもつものに︑ミミ8肉らミミミ詩即山謡﹄ミ電︒︒詠ミ
︑さ︑爵℃ミ§ミ§ミミ9ミ簑ミ慧軋ミ§亀↓ミミ鵠鳴智牒ご議ミ妹ミ㌔註ミ欝⑦ミ妹ミ讐巴詳巴ξ旨竃餌瀬︒鵠・・p︒巳声
O臥け8PH㊤$があるが︑これには︑公共経済学に関する多数の興味ある論文が収録されている︒また℃g三ざ国oo⇒o∋ざω
の標題はもたないけれども旨竃.しuoo9鍵ジ同︑曹b鳴ミ§職§亀⑦愚野◎ミ︑ミミ思Ooミ突目①︒︒は公共財決足についての
興味あるモデル分析を展開している︒またQ︑ミム§苛亀いミ︑ミミ詩Oミ暦ミ鴇Φ巳8αξ言一ごω蜜霞αqo一グお刈Oにも公共経
済学に関する十 編の論文が収録されている︒さらに最近刊の日本の文献には︑季刊現代経済第三号﹁公共経済学の展開﹂︵昭
和四十六年十二月︶ ︵日本経済新聞社︶がある︒
② たとえば︵岩波︶現代経済学﹃価格理論﹄岩波書店︑昭和四十六年を参照︒
⑧ たとえば︑旨蜜.しd50ぎ鍵P︑導︑詩︑篤ミ§ミミb偽ミ︒ミミ勘︑ミ亀鉾一㊤①ご︑黛ミ母達掴§融9ωa.o侮こHゆ刈9前者に
は︑山之内・日向寺訳・ブキャナン﹁財政理論﹂空清書房︑昭和四十六年がある︒
財政モデルについて
ところで︑このような公共財の選択理論では︑私的財と公共財問の選択という︑いわゆるインター・セクターな資
源の配分の問題と︑さらに公共セクター内部での︑各支出計画への配分の問題が主たるテーマになるわけであるが︑
このような配分プロセスが︑どのような理論的フレームワークのなかでとらえられるかによって︑たとえば︑個人主
義的な民主主義モデルのなかで決定構造を定式化していくのか︑あるいは︑有機主義的なある種の権力モデルのなか ︵1︶で決定プロセスをとりあげていくのかによって︑その理論構成は大きく異なってくる︒
わたくしはこれまで︑いくつかの機会に︑現代の公共財の理論についてとりあげてきたが︑この場合︑公共財の理
論というとき︑それは︑基本的には︑社会の構成メンバーの個別的な集合財やサービスにたいする需要︑選択のレベ
ルで︑集合的な結果を導出しようとする︑いわゆる︑個人主義的なモデルの上に定式化をはかったものに限定されて
きた︒また︑最近活発にとりあげられている︑公共経済学のなかで論じられている公共財の理論も︑基本的には個人
の選好を集合的結果に︑一元的に結合するという意味では︑同じフレームワークに属するものといえるであろう︒
しかし︑公共財の理論を︑もっと︑広義に解釈するならぽ︑もともと︑集合的に供給され︑消費される財やサービ
スの配分メカニズムは︑伝統的財政学のなかで︑まったく論じられなかったわけではない︒なるほど︑公共経済学が
代表的な例であるが︑現代の公共財の選択理論は︑主として︑価格理論の応用としての経済学的アプローチがとられ
てきている︒しかし︑すぐれて理論経済学的分析手法をとっている﹀・閑・ω⑦目がGミ貯ミミO勘ミら鳴§亀讐亀ミ ︵2︶ミ冨ミ︑♪ H㊤刈Oの冒頭でのべているように︑公共財の集合的な選択理論は︑いくつかの学問分野に属しているので
あり︑経済学は︑それらの一つではあるけれども︑唯一のものではない︒つまり集合的な選択理論は経済学︵特に︑ 卿厚生経済学︑計画理論および公共経済学︶の一つの重要な側面であると同時に︑それは政治学︑特に国家論や決定過
程の理論に密接に関係しているし︑さらには︑倫理学や特に公正の理論に関係のある哲学的側面をももっているので
ある︒したがって︑むしろ︑これらは伝統的な理論のなかでは︑明示的に︑個人的選好体系にもとづいた定式化は試
みられなかったというべきであり︑それとは異なったアプローチでは︑財政論はもちろんのこと︑政治理論のなか
で︑あるいは租税論のなかで︑これらは古くから人びとの関心をひいてきたのである︒それゆえ︑公共財の理論を広
義に解釈するならば︑それは︑イタリアスーウェーデン財政学派を出発点として︑特に︑最近活発に展開されてき
た︑個人主義的な民主主義モデルによる公共財の理論のみならず︑ある種の権力モデルにもとづいた︑インプリシッ
トな公共財の理論的展開をも︑含まなけれぽならないであろう︒
もともと︑集合的財を供給する問題は︑ 一部政治学老の大きな関心をひくテーマであった︒たとえば︑すでに︑
U鋤く置ロロヨΦは︑その﹁人性論﹂︵﹄﹃飛§職掌ミ﹁歳ミ§亀§﹀ミミ亀嵩ω①1恥O︶において︑
⁝⁝二人の隣人は︑自分達の共有する牧草地の排水に同意するであろう︒なぜなら︑かれらには︑相互に相手の
心を知ることが容易であるからであり︑また︑おのおのは︑自分がそれにかかわらなけれぽ︑その直接的な結果
は︑全計画を放棄しなけれぽならないことになることを︑理解しているからである︒しかし︑多数の人びとが︑
ある︑このような行動に同意することは︑きわめて困難であり︑実際には不可能である︒つまり︑かれらにとつ
て︑非常にこみいった立案を共同で計画することは困難であり︑また︑それを実行することは︑なおさらむずか
しいのである︒他方︑各個人は︑みずからその手数や費用をまぬがれる口実を求め︑そして︑すべての負担を他 ︵3︶ 人に負わせたいとおもう︒⁝⁝
とのべ︑現代の公共財の理論のなかでのべられている︑少数者モデルから多数者モデルへの拡張から生じてくる︑多
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数者のディレンマの問題︑フリー・ライダー論を︑素朴な形ではあるけれども︑本質的な問題としてとりあげてい
る︒そこで︑=qヨΦでは︑このような多数者のディレンマを解決するのに︑いわゆる政治社会i勺︒ま8巴oDoo冨蔓
が導入され︑これによって︑さきの不便さは︑容易に解決されることになるというわけである︒
ω 典型的な例をあげれば︑個人主義的な民主主義モデルでは︑﹄竃じdo訂舜P 日︒ミb鳴ミ§織§職⑦§︑督奄︑霊馬ミ苛
Ooミや一8︒︒が︑そして︑代表的な権力モデルの例として︑﹀.芝露σq昌Φぴ︑き§ミミ題ミ的らぎ凝一︒︒︒︒Q︒があげられるであろう︒
② ︾ヨρ︒﹃蔓p囚幽OoΦpGミN§蝋帖竃6ミ詩鳴黛§職の黛織ミき§︑魯一鶏ρ≦挫
⑧ ﹈︶.口¢ヨρ郎目遷ミ房鳴︒︑聖ミ亀濤きミ越噂嵩ωO〜心O.老く①qヨ鋤詳く2b◎.戸卜oQ︒㊤.
財政モデルについて
伝統的な財政論においても︑インプリシットにではあっても︑集合財の場合には︑私的財と同じ配分機構の適用が
不可能であるところがら︑二元的な配分方式の必要性を認め︑そして︑公共財への支出計画の決定とその費用負担の
決定を別個のレベルでおこなうという二元的なアプローチをとったのである︒したがって︑ここでは︑このような財
政的決定が︑個人的選好パターンと結びつけられないで︑社会の構成メンバーとは︑直接的には切り離された権力体
によって決定がおこなわれることが︑エクスプリシットにあるいはインプリシットに前提されたのであった︒
このようにみてくると︑伝統的な財政理論には︑公共財の理論が不在であったというよりも︑個人主義的な公共財 ㎜の選択理論がなかったという方が正しい︒本稿では︑このような観点から︑財政理論の定式化のためのフレームワー
クとしての︑財政モデルの問題を考察し︑つぎに︑個人主義的な財政モデルの上に定式化されていると一般に認めら
れている︑スウェ⁝デン財政学派としての︑溶仁三芝δ犀ωΦ の課税原則を考察して︑その財政モデルとの関連を検
討することにする︒
130
二
財政理論を定式化していくさいに︑その理論構成の基礎として設定すべき︑フレームワークとしての財政モデルに
は︑ポーラー・モデルとして二つのものを考えることができる︒すなわち︑一つは︑財政的決定が個人的な選好レベ
ルとは無関係に導出される︑いわゆる財政の権力モデルといわれるものであり︑他方は︑社会の構成員である個人の
選好にもとづいて財政的決定が導出される︑いわゆる財政の個人主義的民主主義モデルである︒すでにイタリア派財 ︵1︶政学では︑基本的な財政モデルとして︑財政の独占国家モデルと協同組合的財政モデルの二つをあげていたが︑英米
派の財政学のなかでは︑冨ヨΦωζ・しdβ09轟づが︑一九四九年の論文︑..↓げ①勺弩①日げΦo昌ohOo︿興昌ヨΦ耳胃ぎ︐ ︵2︶弩︒①︾ω信びqαq⑦ω8Ω﹀薯国︒帥︒げ..において︑財政の二つの基本モデルとして︑︿有機主義理論﹀昏⑦o贔螢巳ωヨδけげ①︐
oqとく個人主義理論﹀菩Φぎ凸≦αβ呂ω江︒昏Φo蔓という︑二つのポーラー.モデルをとりあげている︒おそら
く︑イタリア財政学派をのぞいた伝統的な財政学の文献では︑財政理論の基本的な政治的フレームワークについて明
示的に検討したのは︑この論文が最初のものであろう︒
まず︑最初に︑この二つの財政モデルについて考察する︒本来︑財政の純粋理論は︑財政的決定単位をどのように
規定するかによって︑すなわち︑国家理論に関する︑あい異なる二つのフレームワークの︑どちらの方で定式化する
かによって︑その理論構造はまったく異なったものになるであろう︒しかし︑国家を単一の有機的実体とみなして︑
これが財政決定の主体となる有機主義モデルと︑国家を︑集合的行動者としての︑個々の社会的メンバーが合計され
たものとみなし︑個人の集合的選択を通じて財政的決定がおこなわれる個人主義モデルという︑基本的に異なるアプ
ローチは︑伝統的な財政学の文献のなかでは︑それほど明確に︑また意識的に区別されてはこなかった︒.たとえぽ︑
英米派の伝統的財政学の発展のなかで︑有機主義的なアプローチが公共支出の側面に適用されたし︑また租税配分の
利益原則にすぐれて代表されているように︑個人主義的分析手法が︑租税負担の配分の問題に導入されたことは︑周
知のことである︒ところが︑限界分析を採用することによって︑公共支出の側面にも︑個人主義的なアプローチが導
入されてきたし︑さらにまた︑租税配分の問題も︑伝統的租税原則論のなかにみられるように︑利益主義にもとつく
個人主義的アプローチとならんで︑個々の納税者間への相対的な負担の問題として︑有機主義的な観点からも論じら
れてきた︒このように︑伝統的財政論のなかでは︑一般的に︑これら二つの理論上の基本的フレームワークが明確
に︑そして明示的には区別されないまま︑それぞれの定式化が試みられたことが指摘されなければならない︒
財政モデルについて
ω これについては︑一.竃.切口︒昌昌9︒登︑.い簿ω9魯母∪①=①男ぎ碧器︑︑旧↓け①早尾=Φ昌↓鑓隠江︒昌ぼ霊ω8一↓けΦo﹁ざぎ
︑恕ミ↓ミ︒遷亀嵩職ぎミ勘亀︑肉ら︒ミ︒§ざHΦ①9切Pboら〜刈♪ならびに︑ミミ苛︑§騎ミ鳴§b帖ミミ瞳ミ思︑こ驚鈎噂HO①8
0冨暮.HO・を参照のこと
吻 この論文は︑はじめ︑↓ミ風袋§ミ︒︑国ミ讐ミ肉8§§事いく目︵H︶ΦOO5P一︶①﹁℃ HΦ軒O︶層b戸お①〜㎝O㎝に発表されたもの
であるが︑のちに多少修正されて︑い蜜・ロU自訂轟二身偽ミ寒S遷§南国§勘ミ両8§§事の箋§譜人肉跨途9おOρ
131
OPco〜卜︒ωに収録された︒
132
さて︑有機主義的な財政モデルでは︑国家は全体社会に代って行動する︑単一の意思決定単位と考えられており︑
ここでは︑当然︑国家の選択的目標を比較するための︑一つの基準が設定されなければならない︒つまり︑ある選択
的目標と他の選択的目標との優劣を判定するためには︑ある公分母が必要なわけである︒イギリスでは︑ドイツの伝
統的財政学のようには︑有機的実体としての国家についての明示的な論究はおこなわれなかったけれども︑一つの有
機主義的なアプローチをとった︑イギリスの国αぴqゆ≦霞筈−国oqo5の財政論や公共支出の現代理論をとりあげれば︑こ
のような判定基準には︿一般的厚生﹀の①⇒Φ﹃巴芝①罵鷲①あるいは︿社会的効用﹀ωoo巨¢けま畠という概念が採用
されてきた︒
さて︑いまこの︿社会的効用﹀についてみれぽ︑これは多数の変数によって規定され︑そしてこの社会的効用を極
大化するプロセスは︑もちろん︑財政理論の対象外の多くの変数の操作を含むものである︒しかし︑財政的プロセス
で決定されるべき変数は︑支出変数と租税変数の二つに大別できる︒そして︑特定の租税負担総額の配分パターン
は︑全体的な租税変数の組合わせについての︑一つの解を示しているわけであり︑同様に︑特定の選択的用途間への
支出の配分パターンも︑すべての支出変数についての︑ 一つの決定を示すものにほかならない︒そして︑ この過程
で︑︿社会的効用﹀を極大化するように諸変数の大きさを決定するという作業は︑ここでは︑個々の市民とはきりは
なされた︑︿財政的ブレーン﹀の機能になる︒だが︑極大化のプロセスでは︑租税−支出両側面の︑全変数の同時的
財政モデルについて
定決が必要である︒たとえば︑租税変数の最適値は︑支出変数の一定値が与えられないかぎり︑単独には決定できな
いし︑また︑厚生の極大化に導く搬出配分も︑同様に︑租税変数の関数であって︑部分的には︑特定の公共サービス
がもたらす社会的効用は︑相対的な租税負担の配分に依存しなければならない︒ ︵1︶ このようなフレームワークで︑租税配分原則の定式化をはかったのが︑国£Φ≦o辞げ−国αqoqであり︑かれらのいわゆ
るく最小総犠牲﹀のアプローチでは︑選択的方式の比較基準として︑課税による︿社会的厚生﹀あるいは︿効用﹀の縮
小という概念を設定した︒つまり︑支出変数を一定とすれぽ︑ ︿均等限界犠牲﹀あるいは︿均等限界控除﹀という原
則が︑租税負担配分のための︑満足すべきルールを提供するというわけである︒公共支出が各費目に配分されている
とき︑この原則は︑ ︿社会的効用﹀からの控除を最小にするような租税負担の配分を明示的に要求するのである︒し
かし︑重要なことは︑このような社会的効用からのく控除﹀は︑個人的な効用概念ではなく︑社会的な効用概念に関
連させて︑はじめて有効になるということである︒与件としての公共支出配分にたいする︑租税負担の最適配分のた
めの必要条件は︑各経済単位への単位租税額が︑総体的な︿社会的効用﹀から︑同等のものを控除する場合に達せら
れるのである︒このアプローチでは︑このような租税比較についての経済的実体は︑個人であるかもしれないし︑そ
うでないかもしれない︒
同様に︑租税変数を一定とすると︑ ︿社会的厚生﹀を極大にするような︑選択的な用途間への総体公共支出の配分
を︑定式化することができる︒すなわち︑ ︿均等限界便益﹀という原則を設定することによって︑各々出遅月におけ
る限界単位支出が︑同等の社会的限界効用をもたらすとき︑最適のための必要条件を満足させることができる︒この
ような支出の最適配分は︑すべての租税変数が一定とされたとき︑はじめて︑単独に導出できるのであって︑租税負
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担の配分が変化すれぽ︑最適な支出配分の解は当然修正されなけれぽならない︒
イギリス財政論のなかでとりあげられてきた︑以上のような︿社会的厚生﹀ないしは︿社会的効用﹀という一つの
規範のもとに︑租税の配分や支出決定を分析するアプローチは︑効用の限界分析という本来個人の効用体系にもとづ
いた分析用具を応用しながらも︑租税︑支出等の財政的決定が︑個人的選好体系とは︑結びつけられてはいないとい
う意味で︑有機主義的なフレームワークで理論展開がおこなわれているといえる︒しかし︑このような有機主義的財政
理論のフレームワークにおける︑決定基準としての︑ ︿社会的効用﹀あるいは︿一般的厚生﹀という概念は︑ばくぜ
んとした︑不明瞭な価値概念であって︑政策的論議にはほとんど役にたたないというのが︑しd⊆9塁β︒⇒の有機主義モ ︵2︶デルにたいする基本的態度である︒このアプローチがとっている︑理論的な︿社会的効用﹀極大化のステップは︑政
府の財政政策の直接的道標をほとんど与えることはできないというのである︒しかし︑かれは同時に︑このアプロー
チが︑予算決定の理論に適用されたことを評価し︑その領域では︑争点が論議され︑政策が定式化され︑決定がおこ
なわれるための準拠体系を提供するものであることを認めている︒
134
ω 団・団.国αぴq①霜︒上貫↓ゴ①℃偉目①↓げΦo﹁団oh↓9×鋤口︒ジ肉ら︒§oミ閑月ミミミ耀く︒ピ<一旦HQ︒Oこおよび︾・O・℃凝og︑山
硫ミ魯ミ︑黛ミ蹄ミミミ♪ωa.①α二H㊤9●なお国匹ゆq①≦o円昏の論文は男盛●国ασq①毛︒昌貫︑轟鷺δ物鳴︑ミき偽ミぎミ詩ミ
肉ら︒§QミきHObo窪く︒ピ目・ならびに6冒多々物§き鳴↓譜︒遷◎︑︑黛ミ勘︑§貸ミ魯Φα搾Φαげ団菊.︾﹂≦⊆ω映錯<Φ鋤昌α︾・日
勺Φp︒oooぎH㊤㎝Q︒に再録されている︒
②﹄.冨●ゆ¢o冨轟員ミ恕ミ↓ミQ遂§職ぎミ母ミ肉8ミ§事oO.2叶こO.同ごなお︑これについては︑﹀づ昏8︽Uo≦昌ρ
︾§肉8謹§詩↓勘塁建ミb鳴§︒らミ逗℃お㎝8℃・窃を参照のこと︒
三 財政モデルについて
財政の個人主義モデルにおいては︑まず︑個人が国家に代って︑基本的な構造上の単位になる︒そして︑ここで
は︑個人だけが目的構造をもち国家は︑みずからの厚生関数をもたないと考えられ︑その個々のメンバーの目的とは ︵1︶異なった目的をもつことはありえないので︑国家の決定は︑究極的には︑個人の集合的な決定なのである︒
このようなアプローチでは︑公共サービスの範囲は︑個人的需要にもとつく集合的選択によって決定され︑これら
のサービスは総体的な限界便益が限界費用を超過するかぎり︑拡大されることになる︒このように︑このモデルで
は︑財政的プロセスを︑政府と集合的な個人との間の報償的関係として︑概念的にとらえており︑これは︑租税配分
の準則としての利益原則の発展のなかで︑すぐれて採用されたフレームワークにほかならない︒
ところで︑課税がおこなわれるとき︑個人の経済的資源は︑その租税負担額だけ減少し︑そして︑実質所得は︑政
府サービスから受け取る便益分だけ増大する︒だから︑このような理論的フレームワークの完全を期そうとすれぽ︑
個人間への租税負担の配分は︑公共サービスからの便益の配分と結合されなければならない︒.つまり︑予算勘定の支 ︵2︶出の側面と租税の側面との架橋が要求されるわけである︒しかし︑伝統的な利益原則では︑ほとんどの分析的努力は︑
租税負担の配分の問題に集中され︑特定便益の個人的帰属の問題は︑相対的に無視されてきたといってよい︒しか
し︑個人主義的財政モデルの認識のうえに︑正しく利益原則が設定されるなら︑当然︑支出の側面を看過することは
i35
︵3︶できなかったはずである︒イギリスでは︑一七世紀および一八世紀に頃︒σσΦωあ目凶昏により定式化され︑のち一八
︵4︶八○年代に︑ヨーロッパ大陸で℃餌暮巴①8凶0り帥×堕∪Φ<三ユ⑦ζ費oo等により︑さらに理論的に精密化されて再度
導入された利益原則は︑その基本的前提として︑政府と個人の問に報償的財政関係を認めるものであるが︑租税負担
配分の普遍的な規範としては︑つぎの二点から拒否されてきた︒まず第一は︑公共サービスからの総体的な︑共通便
益を特定の個人に帰属させる正確な方法がないということであり︑第二は︑基本的な報償の概念は︑現代の国家では
まったくうけいれられないというものであった︒しかし︑切ロ︒げ餌冨昌の指摘のとおり︑この二つの批判は︑基本的に
異なった観点からおこなわれているもので︑前者は︑政策上の行政技術上の困難性に︑そして︑後者は︑個人的な報
償関係という︑倫理的前提の拒否にもとつくものにほかならなかった︒もし報償というモデルを認めるならぽ︑利益
原則は理論的には適正である︒たとえば︑U①<三αΦ竃碧ooは︑便益の個人的帰属の問題を理論上の問題ではな
く︑技術的な問題とみなし︑利益原則の倫理的標準を採用して︑便益帰属を所得に比例するという仮説によって︑比
例課税の体系を導出したのであったが︑この場合︑個人的便益帰属が同等なものであるとすれぽ︑人頭税が主張され
たはずである︒だから︑課税の利益原則を拒絶するためには︑特定便益の個人的帰属の困難性からではなく︑個人的
な報償という倫理的概念を否定することから論議されなければならないのである︒ところで︑伝統的な財政理論で
は︑支出の側面が無視され︑個人主義的なアプローチをとるものでも︑公共支出の総額の決定とその各用途間への配
分は︑財政理論の範囲外にあるものと考えられてきた︒そして︑すべての租税は社会の所得からの純控除であり︑こ
れが個人に還元されることはないという想定のもとに分析がおこなわれたのである︒
136
ω oh.﹀昌昏︒身Uo≦房噂8.6罫
②9.一.宮.じd旨冨葛登も偽ミ8蕊ミ︑鴇8器即8■9けこ︒訂営.刈筒臣︒ヨ霧国︒σびΦ9トミミ隷§ミ︑曹ミミ§き§§亀ぎミミミ﹄6§§§爲§・騨鳥§§ミミ§丸Qミ・
一①㎝ごbユ凶日ω∋搾F日げ①きミミ︸.o︑き驚︒§勲一ミ9
ω製表8霊孟8旦︒自けユげ琶88昏︒↓冨︒蔓︒断昏①u陣ω巳9口8︒h℃昏一ざ野芝aぎ亀嵩ヨニ留×・雷① <巴毒けδロ円9︒q︒h↓β・×餌け6昌ぎΩ黛造畠ミ妹譜§竃透ミ︑§ミ題遮§罫︒o簿二︾簿8δαΦ<三α⑦ヨ興︒p
国誘鳳︑︑ミ9黛騎◎︑︑§鞭qミ蕊黛ミ♪おω①.
財政モデルについて
しかし︑公共サービスからの便益が集団としての個人に生じるものとすれぽ︑個人間への共通便益配分の技術的困
難性にもかかわらず︑特定の便益が特定の個人に帰属することになる︒この点に関連して︑内.芝8犀ω①=は︑便益の
側面を省略することが︑各個人は政府サービスからは︑実際上︑いかなる便益も受け取らないと結論するのと同じで
あることを︑明快に指摘した︒だから︑ゼロをいくら加えても︑結果はゼロにしかならないので︑このような便益の ︵1︶側面を認識しないという仮定のもとでは︑総体便益はこれまたゼロでなけれぽならないというわけである︒このよう
な基準のもとでは︑いかなる公共支出も理論的に容認されないことになる︒この場合には︑個人にとっての納税の正
当な理由は存在しない︒ただ︑財政理論の実質的な問題が︑租税の側面に限定され︑租税負担の配分にだけ︑分析的
努力を集中することが︑理論的に正当化されうるのは︑公共サービスからの総体便益の個人的帰属部分が︑すべて同
等である場合だけであることに注意しなければならない︒
要するに︑租税と支出の二つのレベルに︑一元的な架橋を試みようとする︑しU⊆o冨コ窪の個人主義財政モデルから 臆すれぽ︑租税収入によってまかなわれる公共支出からの便益を︑同時的に考慮しないでは︑課税の負担について論ず
ることはできないわけである︒したがって︑便益帰属についてのなんらかの︵できるだけ検証可能な︶仮説にもとづ
いて分析をはじめることが望まれるのである︒このような観点から︑しdβ9磐餌ロは︑個人が︿国庫Vと関係をもった
後の︑その最終的な位置は︑財政勘定の二側面の間のバランスという形態で表わすことができると考え︑つぎのよう
な定式化を試みたのである︒もし報償という前提を容認するならば︑この租税負担と便益とのバランスはつねにゼロ
であるはずであるが︑ともかく︑この二側面のバランスは財政的余剰︵h一ωO曽一 ﹁①ω一二自亘ゴP︶と呼ぶことができるもの
で︑ある個人にとって租税負担が便益を超過するならぽ︑そこには正の余剰があるわけで︑その個人は純租税を支払
うことになる︒もし便益が租税負担額をこえるときは︑余剰は負であり︑個人は純便益を受け取ることになる︒そし
て︑この余剰を比較することによってはじめて︑財政制度の全体的効果を分析し︑評価することができることにな
る︒だから︑租税負担の比較だけでは︑まったく異なった︑そして誤った結論に達するというわけである︒そして︑
このようなアプローチをとれぽ︑財政制度の一般的な三つの分類が可能になる︒第一のものは︑低所得層が正の余
剰を示し︑︵租税が便益を超過するケース︶︑高所得層が負の余剰を示すもので︑この方式は実質所得の不平等を助長
するものである︒第二は︑すべての個人に︑その納税額とほぼ同等の便益をもたらすもので︑現行の実質所得の分配
には中立的効果しかもたないので︑へ現状のまま﹀ω冨εωρ口︒のシステムとして分類される︒これは︑すべての所得
区分に属する個人の財政論余剰がゼロになる場合である︒第三は︑低所客層の租税負担額がその帰属便益よりも小さ
く︑高所得道では︑逆に財政的余剰が正になるケースで︑この方式のもとでは︑実質所得の分配は平等化の方向に修
正される︒この第三の方式は︑収入の大部分が累進所得税により微収され︑支出の大きな部分が社会サービスに向け
られているようなケースで︑これは︑現代の財政制度の一つの特徴を示すものにほかならない︒
138
財政モデルについて
さて︑このような財政方式のいずれにおいても︑政府と全体としての個人との間には︑報償の関係が存在するはず
であって︑第一および第三の方式では︑この関係は︑ある個人の支払う純租税と︑他の個人の受け取る純便益とのバ
ランスによって表わされ︑第二のシステムではじめて︑便益と租税との集合的均等化という概念は︑各個人が納税額
とほぼ同等の便益を受け取ることを意味することになる︒このような分類そのものは︑もちろん目新しいものではな
く︑租税制度の伝統的な分類としての逆進︑比例︑累進という概念と対応している︒しかし︑ここでの財政余剰とい
う基準による分類は︑財政制度を問題としているのであって︑単なる租税制度について言及しているのではないとい
うこと︑そしてこのような財政制度の分類こそ︑特定の諸問題を討議するための︑基本的な準拠体系として採用され
ねばならないというのが︑しU⊆o正書昌の主張なのである︒たとえぽ︑累進所得税が正当化されたのは︑それによっ
て︑個人間の所得分配の平等化が促進されるという理由であったが︑この命題は︑厳密にいえば︑財政制度の︑便益
というもう一つの側面についての︑ある仮定を導入した場合に︑はじめて整合的なものとなる︒つまり︑公共支出か
らの受取便益の個人的帰属部分が︑平等である場合は︑この累進所得税方式によって︑より平等な所得分配が実現さ
れることになる・しかし・この命腰・比例課税にも同様にあてはまるであろ短だから・・あ・うな個人的便益の
帰属の問題を考慮にいれないかぎり︑累進課税が再分配効果をもたらすという結論は正しくない︒このように︑ ︿逆
進﹀︑︿比例V︑︿累進﹀という租税方式に関する概念は︑それだけでは︑分配上の効果の方向を決定できないのであっ
て︑それぞれの租税方式での収入が︑いかなる支出パターンをまかなうかによって︑再分配効果が決定されるわけで
ある︒
139
140
ω 國9芝ざ認四一ミ︑N§恥︑ミミミ魯ぎS§蕊ミミミ鷺きミ婆bミ魯ミ・蕊晦ミミ映ミミミ三島鳶象偽ミ塁Q舘9︑ミ艇ヘミジ
Z窪臼g閃α興︾器σq①げ①﹄㊦昌鋤一〇︒09お8ω●○︒b︒●
② 回.と.じdg冨8pミ象ミ﹃詠ミ透§織︑︒ミ母ミ肉亀ミ℃塁8.9δこ署・蜀塗
⑧ 累進課税は所得を再分配するが︑比例課税はこのような効果をもたないといわれる︒しかし︑このことは︑便益が所得や富 に比例して︑細入に与えられるという前提にたっての結論であり︑ここでの個人の均等便益という前提にたてば︑比例課税の
場合にも再分配効果があることになる︒
さて︑個人主義的な財政モデルでは︑社会によって採用されるべき個々の財政制度を詳細に論じるのではないけれ
ども︑このフレームワークによって︑社会的に選択されたのぞましい結果をもたらすような︑租税負担と公共支出の
交互的な分配を示すことが可能になる︒たとえぽ︑社会が︑現行実質所得分配に効果をおよぼさないような財政制度
を選好するならぽ︑それを達成するような財政構造︑すなわち租税負担と公共支出の配分を定式化することができる
わけである︒さらに︑この︿現状のまま﹀という理想が選択され︑そのうえに︑公共支出のある配分が与︑兄られた場
合には︑もっとも適正な租税構造を示すことができるであろう︒もちろん︑同様のアプローチは︑現行所得の再分配
にも︑ひとしく有効である︒もしのぞましい再分配の状態が知られているとすれぽ︑この結果をもたらす租税負担と
公共支出の配分の︑交互的な組合わせを示すことができる︒そして︑このような再分配上の規範と︑公共支出のパタ
ーンが与えられている場合には︑所与の条件のもとで︑目標が達成されるような︑租税制度を設定することが可能で
財政モデルについて
ある︒逆に︑再分配状態の規範と租税負担の割当てが与えられれば︑支出パターンをそのように設定することができ
るのである︒しかしながら︑社会が決定するのは︑通常は︑のぞましい再分配の大きさに関してではなく︑用途間へ
の支出の配分と租税負担の分配であって︑これらが組み合わされて︑財政制度が再分配的な効果をもつわけである︒
したがって︑ここでのフレームワークのなかで︑財政プロセスを通じておこなわれる︑実質所得の再分配の大体の大
きさを︑予測することは可能であり︑さらに︑ほぼ同等の再分配効果をもたらすが︑経済にたいしては︑まったく異
なった効果をもたらすような︑選択的な租税−支出配分を指摘することもできるというわけである︒
さて︑じd⊆oげきき自身は︑個人主義的な財政モデルを選ぶのであるが︑要するに︑財政理論の有機主義的アプロー
チにしても︑個人主義的アプローチにしても︑もっとも必要なことは︑財政過程の二つの側面の相互依存関係が明確
に認識されなければならないというのがbd§・§の基本的立場であり︑どちらの場合にも︑支出配分と租税負担
の割当ての決定には︑同一方向の考慮が必要なのである︒予算の両側面の架橋は︑どちらの理論においても欠かせな
いわけである︒有機主義的フレームワーク酒は︑個人の選好と財政的決定は結びつけられないので︑財政当局にたい
して︑ずっと完全な規範的行動パターンが与えられることになる︒ここでは︑政府が基本的な実体であるから︑財政
理論は︑一つの応用極大化理論に還元される︒しかし︑この場合︑行動の理論的道標を︑実際の政策への現実的アプ
ローチにひきなおそうとするときに︑大きな障害が横たおっている︒すなおち︑理論的フレームワークを経験的内容
で埋めることは︑不可能ではないにしても︑きわめて困難になるというのがじd二〇げmコppの︑有機主義モデルに示し
た難点にほかならなかった︒ 盟 個人主義的アブp!チにおいては︑政府は単に個人の集合的意思を代表するものであって︑これを抽象的な意味で
の行動の創始者と考えることはできない︒国庫が何かを極大化するという想定はできないわけである︒財政制度は︑
ある集合的欲求が達成される一つのチャンネルとして存在している︒このような観点から︑じUooげ餌重宝は個人主義モ
デルの精緻化をはかることになる︒
もちろん︑前掲の一九四九年の論文では︑財政理論の基本的フレームワークを︑財政的決定が︑市民一納税老−
受益者の選好と結びつけられるかどうかによって︑二つのモデルに分類したものの︑個人主義モデルにしても︑有機
主義モデルにしても︑その政治過程の基本的な仮説については十分な考察が加えられているとはいえない︒また︑市
民−投票者一納税者−受益者としての個人の選好から︑集合的な結果を導出するという︑より包括的な個人主義的民
主主義モデルは︑十分定式化されてはいない︒しかし︑その後︑政治的な前提について︑詳細な考察を加えているイ
タリや財政学の文献に接し︑また社会的選択理論や厚生経済分析をたくみに吸収しながら︑より包括的な個人主義的
民主主義財政モデルが構成されるにいたるのである︒
142 四
現代財政学のなかで︑個人主義的民主主義の財政モデルで︑エネルギッシュな分析的努力を続けている代表的財政
学者は︑いうまでもなくしd仁︒げ9昌9︒ロであるが︑かれの個人主義的民主主義の財政モデルの︑一つの重要な出発点を提
供している芝8吋ωΦ=の財政論では︑一般的には︑い言αp︒巨とともに︑特に租税配分原則としては︑利益説のアプ
ローチを展開して︑公共財の任意交換原則を定式化したといわれている︒しかし︑スウェーデンの財政学説におい
ても・その租税論において・かならずしも利益原則で一貫されているわけではな覧わたくしは・﹂・では・特に
芝搾犀ω①=を中心にして︑財政モデルという観点から︑ ︵2︶この問題を検討してみたい︒
ω この点については︑井藤半弥教授が第二八回日本財政学会︵昭和四十六年︑神戸商科大学︶において︑この点を強く指摘さ
れ︑これを認めることが︑利益原則からの離脱であること︑そしていぎ畠三の主張する価格説が︑市場経済における価格概
念を︑財政という強制経済に不当に導入するものであることを強調された︒
② 芝8犀ω①=の財政論については︑主として︑閑.芝♂犀ωΦ貫ミ§§ミ譜︒︑ミ詠ら譜§器誘ミ簿§題誤H㊤OPおよび︑O鋤二〇.
¢げひ肉亀ミ§苛bミミミ恥ミ映ミミ葦審亀きお①Oを参照︒
財政モデルについて
芝ぎ犀ωo=の財政論は主として︑ミミ自§Nミ鴨ミミ蹄ら弓鳴§鷺壕的ミら壽ミ§鷺§HQ◎㊤伊のなかで展開されており︑ここでは︑
理論的フレームワークとしての︑財政モデルについての︑詳細な論議がおこなわれているわけではない︒毛δ犀ωΦ=
は︑主として︑租税の問題を二つの領域に分類し︑それぞれ分析を試みている︒ 一つは︑租税の転嫁論であり︑他
は︑課税の公正に関する研究であった︒ここでは︑個人主義的民主主義の財政モデルという観点から︑特に野老につ
いて検討することにしよう︒
まず置け閃ω①=は︑あらゆる状況のもとでの課税の公平という︑大きな問題に︑直接的にはいっていったのではな
い︒かれがとりあげたのは︑もっと限定された問題であって︑現行の所得や富の分配については︑社会的な合意がえ 43 1られている場合に︑課税のための公正の基準はいかなるものであるのか論じたのである︒ 一九世紀の後半以来︑﹄●
︵1︶oD●ζ崔や﹀α巳嘗芝帥ぴqコ臼は︑租税を︑収入調達の手段としてばかりではなく︑より平等な所得再分配のための
手段として強調して︑いわゆるく社会政策的課税の見地∀窪Φωo鼠巴O&二ωoゴ①OΦω8犀ωO信づ讐住興しUΦω8qΦεpαqを
うちだしていた︒しかし︑芝ぎ犀ω①=によれば︑課税権がある形態の資産の徴発︑きびしい累進利潤税率︑資本課徴
といったものによって所得平等化的改革のために利用されるとすれぽ︑このことは︑不公平な富の分配状態が存在し
ているという社会的判断があることを意味する︒市民の集団間の資産関係が大きく変化している間は︑課税の公平の
問題を有効に考察することはできない︒しかし︑この変化が完了したときは︑修正された資産︑所得関係は︑おそら
く︑一般的な社会的合意にもとつかなければならない︒その場合には︑どのような市民の集団にたいしても︑徴発的
方式で︑課税権を利用すべきではないというわけである︒芝搾犀ω①=の場合には︑このような社会の公平な分配状態
を前提にして︑課税の公正を考えるのである︒
ところで︑課税の準則としては︑ ︿相対的な均等犠牲﹀ならびにく利益V原則が定式化されてきたが︑租税による
犠牲のく相対的均等Vあるいは︑相対的課税︿負担能力﹀は正確には測定されえないので︑それらは︑個人の所得に
よって測定されるものとされた︒個人所得の増大に応じてその限界効用は逓減するので︑︿均等犠牲Vの準則は︑︿給
付能力Vのもっとも有効な方策としての︑純所得への累進税を正当化する原則であるとされたが︑芝8犀ω①犀もこの
ことに反対はしなかったし︑一定の租税負担を配分するための正当な基準として容認したのである︒しかし︑かれは
基本的には︑ω曽×やζ醤Noぼにしたがって︑その理論体系を︿利益﹀原則のうえに基礎づけようとしたのである︒
能力説は公共支出の総額の決定︑さらには︑それらの選択的用途間への配分については直接利用できないし︑また︑
支出決定に関する明確な準則が存在しないところがら︑公共支出が無制限に拡大されるかもしれない︒もし︑それに
ユ44
ともなう租税負担の増大が︑厳密に︿相対的均等犠牲﹀にしたがって配分されると︑極端な場合には︑課税後の所得
の完全な均等をもたらすかもしれない︒ところが︑これは私的なイニシャティーブならびに経済的誘因に非効率的な
結果をもつかもしれないというわけである︒
ω 9ω.冨⁝︾℃蔑§魯︑霧︒︑ぎミ詩ミ肉昏§oミ噂巴噸芝・い︾ω巨Φざおb︒一︑︾毛9︒伽q器鴇℃β︒・鋤.ρ
② O曽ユ9口汀卑§o§讐bミ︑︑§覇ミ§ミ§審恥ミき一〇①ρ戸①①〜08肉.葦葺偽ミ噛§妹ミ恥§趣§題ミ為.霞●O.9︒︒①.
財政モデルについて
他方︑利益原則は収入方式のみならず︑支出の側面にも適用することができるし︑またそうしなければならない︒
公共財の供給で問題になるのは︑特定の公共財の供給を継続するか︑あるいは全面的に廃止するかということではな
く︑つねに︑ある公共財の供給量が拡大され︑他の公共財が縮小されるべきか︑そして全体的な租税が︑そのために
ひき上げられるべきか︑またどの租税をどれだけ増税すべきか︑ということなのである︒これらは︑私的財やサービ
スを購入する場合に︑消費者が直面する問題と︑本質的に異なってはいない︒これらの形態の決定には︑限界効用分
析が有効なわけである︒しかし︑利益説とは︑市民の負担する租税が公共財からえられる便益に等しい︑あるいは比
例していなければならないという意味ではない︒まず第一に︑これら財の多くは︑特定の個人に個別化されえないよ
うな一般的便益を提供するものであり︑警察︑公衆衛生等はこの例である︒しかし︑これ以外のものについては︑利
145
益説のもとで公共支出を正当化するためには︑追加的な公共財の価値が︑少なくとも︑それをまかなうのに必要な租
税に等しいとみなされなけれぽならない︒このことは︑しばしぼ︑ある人びとは︑他の市民よりも大きな便益を受け
とること︑場合によっては︑その便益は自分が支払わなけれぽならない租税を︑大幅に超過していることを意味す
る︒たとえば高い所得層は︑ ︿無料の﹀公共教育のために累進税率で課税されるが︑その子弟の多くは︑私立学校で
教育を受けているので︑低所得層の市民よりも︑公共教育制度からの便益は小さいはずである︒しかし︑純粋の利益
説にもとつくなら︑高所得層は︑個人としての︑あるいは階級としての︑自分にたいする公共教育制度の便益が︑少
なくとも自分が負担する租税に等しいと考えているかぎり︑公共教育のための租税負担に︑賛成投票することにな
る︒公共教育が普遍的であるような社会︑教育の普及したレベルでの世論が︑個人の行動と同様政府の行動をも︑吟
味したり判定したりする社会での︑社会生活から生じる安全︑快適はこれらの便益にほかならない︒
さて︑富の分配がほぼ満場一致的な社会的合意にもとつくべきであると同様に︑租税ならびに公共支出の決定の問
題も︑理想的には満場一致的同意︑現実的には︿条件付満場一致﹀ のルールによって決定されるべきだというのが
ヨ︒匿6見解である鱈.これがいわゆるかれのく℃ユ喜量︵話一瓢亀穿・言昌蚕;三国釜邑辱簿
畠興ω90臼σ⑦三乗⑰q5昌降︶にほかならない︒ここでは︑公共麦出の決定と租税の決定とは同時的におこなわれなけれ
ばならな覧議会のメンバーは・これらの決定をお・なうさいには︑サ壱み限界便益と限界租税壷用を比較
し︑そして︑これが条件付の多数決による承認をえなければならないわけである︒
.ただ二一〇犀ω①=は︑例外的に︑単純多数決ルールで決定される三つのケースを認めている︒すなわち︑ω二つだけ
の︑相互にあいいれない選択対象が与えられていて︑第三の対象は︑達成されえないか不可能であるような問題︒ω
146
財政モデルについて
政府の債務をまかなう問題︑特に公債の利子支払い︑ならびに償還のケース︑㈲個々の租税や他の財源が︑いくつか
の政府サービスのグループに︑暫定的に︿使途指定﹀あるいは配分される︑最初の予算提案における分類を決定する
場合︑である︒第一のケースでは︑社会が︑ある所得あるいは富の形態を︑不公平なものとみなし︑したがって︑徴 ︵4︶発的課税の形態が必要な場合以外は︑租税に直接影響を与えない︒第二の例外的ケースでは︑公債の利子や年金の支払
い等は︑確定負債であって︑これらの支払方式は︑単純多数決ルールで決定されるべきであると考えられている︒し
かし︑公債の拡大︑新規発行等は︑もちろん︑条件付多数決決定ルールが適用されなければならない︒その理由は︑
階級としての資本家は︑公債を拡張することによって︑帰属する利益をえているということであった︒なぜなら︑か
れらが公債利子の支払いのために負担しなけれぽならない租税は︑政府証券所有者の資格で︑国庫から受けとる利子
支払いよりもずっと小さいからである︒いずれにせよ︑政府の︿債務﹀をまかなうには︑芝皆屏ω①昌によれば︑まず︑
政府企業からの収入があてられるべきである︒それが不十分である場合にはじめて︑能力原則にもとづいた租税が利
用されるべきことになる︒しかし︑ある市民の集団や特定地域が︑その負債によってまかなわれた公共財から︑平均
的なものをこえた便益を受けとるならぽ︑これらの税率は︑それに照応して変化しなけれぽならない︒つまり︑公債
によって︑ある地域に公園が建設されたとすれぽ︑その公園から主たる便益を受けとるその地域の納税者は︑その公
債の利子の支払いや償還のために︑他の納税者よりも︑所得税や資産税をより多く負担すべきことになる︒しかしな
がら︑便益が全面的に地方的なものでないかぎり︑納税者は︑それらをまかなうのに︑一般的に納税することを求め
︵5︶られるであろう︒第三の単純多数決が認められるケースは︑芝皆閃ωΦ=のいわゆる︑課税の任意性の原則を︑議会に
導入するために必要なプロセスにほかならなかった︒この暫定的な配分決定は︑議会の予算会期における︑討議︑妥
147
協︑支出および租税項目の修正のための協議事項として有用である︒最終予算はこの仮予算とはまったく異なること 幽が予想され︑これはもちろん︑条件付多数決によって承認されるべきものであった︒
さて︑このように芝8吋ω巴は基本的には︑この任意主義的な租税体系を市場の類推にもとづいて︑またかれの時 ︵6︶代の自由の拡張と政治制度における民主主義的な発展の動向にそって定式化したのであったがこれについては︑さら
に詳細な考察が必要であろう︒
さて︑以上のように︑芝ざ犀ωΦロが能力原則を部分的に導入していることは︑たしかに否定できない︒しかし名一〇犀︐
ωΦ嵩では︑その後継者いぎ9三とはちがって︑利益課税と能力課税との関係については︑それほど明確に示されて
はいない︒たとえば︑芝零叶ωΦ=のつぎのような主張はこのことを示している︒すなわち︑最低生活費以下の所得階
層は︑実質的な支払能力をもたないから︑税を免除されるべきであり︑また労働階級は︑その意味で︑必需品税に反 ︵7︶対する正当な理由をもっているが︑相対的に軍卒的な財にたいする課税を主張する理由はない︒そして︑この租税の
もたらす収入が︑労働者の賃金ならびにこれらの財の消費が上昇するにつれて増加するかぎり︑そして︑賃金の下落
とともに減少するかぎり︑これらの消費税は能力課税の方式にしたがうものである︒しかしながら︑課税についての
力点は︑ますます課税制度における直接税の役割の拡大の方向に︑そして︑間接税の役割を縮小する方向に移るわげ
︹8︶で︑霜8閃ωΦ二では︑すべての商品税の撤廃をのぞましいものと考え︑労働者は︑最低生活費をこえた所得にたいす
る比例所得税を賦課することを主張したのである︒
①ぐ伽q一●囚.毛8厨Φ一一9.餌.ρω.一ミ
② 國.乏一〇吋ω①=﹁p⊃︒9︒.O・QoGo.H一〇〜困b︒心
⑧ 国・芝8吋ω①=旧ppρωω巳=㎝〜一δ
㈲ ohρ口ξ℃8嘘2けこOロ.H①O〜旨O
㈲ ohρ己げび︒写9け二戸一謡
㈲ 芝一〇吋ω①一一の財政論において︑近代民主主義社会への志向がみられるその背景は︑ 一八九〇年代のスウェーデンの政治的状
況と無関係ではない︒その当時のスウェーデンの選挙権は婦人には認められなかったばかりでなく︑ほとんどの都市労働者︑
小作人︑農業労働者︑その他選挙権に付されたかなり高い財産資格をもたない人達にも許されていなかった︒堵8屏ω①=は選
挙権についてのすべての財産制限の撤廃を主張し︑そして︑一定の最低年令以上の︑社会のすべてのメンバーにそれを拡張す
ることを主張している︒o捗ρqげび︒軍9ぼこロO・H①㎝〜一b︒①
① 閑.芝圃︒認①=鳩︒.騨ρωω●Hb︒㎝〜H卜︒①
⑧ 囚●芝一〇厨ΦF鉾帥.ρω.Hb︒佃鉱.ρ口耳噛8●9什二〇℃・HQ︒刈〜同○︒Q︒
財政モデルについて
五
さて︑このように芝8犀ωΦコの財政論は︑厳密にいえば︑ =兀的な利益課税の原則で統一されているわけではな
い︒しかし︑ここで重要なことは︑♂<ぱ犀ω①=の理論上のフレームワークが︑基本的にいかなる性格をもつものであ
るかである︒たとえぽ︑能力原則が明示的に導入されている︑公債費の問題にしても︑それは︑根底的には多数決決
定ルールという準則と結びつけて考え︑厳密な条件つき多数決ルールが緩和される︑例外的ケースとしてとりあげて
149
いるのであって︑財政モデルからいえぽ︑むしろ市民の選好と無関係な財政決定という︑有機主義的モデル︑もっと
極端な言い方をすれぽ︑財政の権力モデルの見地から主張されているのではない︒≦︑8犀ωΦ=ではい首α帥匡ほど明
確にはされていないが︑基本的には両者とも︑公共財配分の効率性の問題と分配上の問題が︑二元的にとら︑兄られて
いる点では共通しているように思われる︒ここでは︑基本的には︑両者とも公共財の配分決定においては︑自発的交
換原則が定式化されており︑しかもそれは︑公平な分配状態という前提のうえで︑展開されているのである︒それ
は︑一つには︑効率性と公平という選択的目標が︑競合的な関係としてとらえられていることによるものであるが︑
しかし芝8犀ωoコでは︑公平についても︑社会的合意が基本的要件としてあげられている点からみれば︑財政モデル
からすれば︑個人主義的モデルにもとつくものといってよいであろう︒このような考察から︑わたくしは︑特定の財
政理論を︑利益原則と能力原則という伝統的なカテゴリーに分類することに︑いかなる重要な意味があるのであろう
か︑むしろ︑財政理論の基本的なフレームワークによって分類する方が︑より建設的ではないのか︑このように考・兄
るのである︒
さて︑最近の公共財の理論をテーマにした︑公共経済学や財政理論は︑ほとんどが︑個人主義的なアプローチをと
っている︒たとえば︑しd=oげ国⇒鋤Pb鳴ミ織§織亀§亀のミ慧ミミ︑︑ミミ母題Q織勲H㊤①Q︒は︑一つの典型であるが︑このなか
で展開されているものは︑個人主義的なモデルに立脚した︑公共財の決定理論の︑まさに︑文字通りω犀色︒け8目︒ユ2
であって︑これが直線的に︑集合的な決定解の導出に結びつくものではけっしてない︒したがって︑これらの定式化
は︑より包括的な公共財選択理論への一ステップとして提出されているにすぎないのである︒ここでは︑少なくと
も︑個人主義的な民主主義の財政モデルをとるかぎりでは︑伝統的な財政理論︵フィスカル・ポリシーをも含めて︶
150
財政モデルについて
のような︑財政の権力モデルにおける接近方法とは︑基本的に異なったアプローチがとられなければならなかったの
であって︑公共財の決定と個人の効用関数が結合されなければならないとすれば︑そこに市場機構におけるのと類似
の分析用具が利用できないかということが問題となったのである︒
近代の資本主義経済の発展は︑人びとの個別的な欲求を充足するための財やサービスの配分機構として︑いわゆる
価格メカニズムを創出し︑これを発展させてきた︒つまり︑これが近代社会の配分メカニズムとして︑他のいかな
る︑人間の案出した機構よりも︑すぐれたメリットをもつものであることが認識されてきた︒そして︑市場経済学
は︑人びとの︑価格メカニズムを通じての︑個別的な財やサービスの需要︑供給の問題を解明しようとしてきた︒
ところが︑現代の公共財の理論は︑少なくとも財政論の側からいえぽ︑基本的には︑個人主義的民主主義の財政モ
デルを基礎としているもので︑それは︑個人が私的財やサービスを︑市場機構を通じて︑需要し供給しているのと同
じように︑集合財やサービスについても個人は需要︑供給の要因をもっており︑したがって︑個人の厚生関数を構成
するという意味では︑両者の問に基本的な差異はないという認識にたっている︒
もともと近代資本主義は基本的には︑個人主義的な社会観に支配されるもので︑配分機構としての価格メカニズム
は︑その基本的要素であった︒しかし︑もちろん︑個別的な財の配分機構としても︑普遍的に︑市場機構が唯一のメ
カニズムではないし︑ ︵価格メカニズムが配分機構として万能でないことは︑最近の経験によって認識されつつあ
る︶︑また︑別の社会観をもつ経済では︑異なった方式が有効性をもつであろう︒いかなる財が生産されるべきなの
か︒それらの生産のために︑資源がどのように組み合わされるべきか︒また︑最終的な財やサービスはどのように分
配されるべきか︒こういう経済の基本問題を決定する方向は決して一意的である必要はない︒だからわれわれは︑公
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共財の配分についても︑ここで特定の財政モデルについて規範的判断を下す必要はない︒
しかし︑ここで考察した︑財政モデルは︑単純な二分法にもとつくものであって︑財政理論が具体的な政策的提言
に結びつくためには︑これらのモデルが︑さらに拡充され︑高められていかなけれぽならない︒ここであげたのは財
政のポーラー・モデルであり︑より有効な︑もっと別のモデルが注意深く形成されることがのぞまれるのである︒
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