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- イデガ-の思想 における"教 えること"と"学ぶ こ と"について

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(1)

‑ イデガ‑の思想 における" 教 えること"と" 学ぶ こ と"について

成 凹 真 一

は じめに

小論 は,ハ イデガーが フライブル ク大学で講 じた講義 ( 1 951 /52 年冬 学期 な らびに1 952 年 夏学期) 『 思惟 とは何 か』 と,更 に レプラ トンの真理論』 ( 1 947 年) を手がか りに して,ハ イデガーの捉 える "教 える こと" と "学ぶ ( 習 う) こと" について,更 にパイデイアの問 題 を考察す る ことにす る.右記 の両作品 とも,或 る意味 において は,教育学的 な問題性 へ の直接的 あるいは間接的 な関係 を持 っている作品 として,読 む ことが可能 である と筆者 は 考 えている. とはいえ, 『 思惟 とは何か』の中で は,教 えることと学ぶ ことの問題 はご く限 られた箇所 において触 れ られているにす ぎない . 『 思惟 とは何 か』の作品 の主題 の解明 の方 が よ り重要 な研究課題 である と考 えられ るが,小論 で は 『 思惟 とは何 か』 における,ハ イ デガーの言明 を摘 出す る ことによって,教 え と学 びの問題 をみてい くことに したい. また

『プラ トンの真理論』 において,ハ イデガー は, アレーテイア としての真理 との関係 にお いて, プラ トンの 「 洞窟 の比喰」の問題 を論 じている.小論 で は,"教育 と陶冶 の過程"に ついてのひ とつの説明 とい う観点か ら, 『プラ トンの真理論』を取 り上 げてみ ることに した い .

1.学ぶ ことについて

学ぶ こと ( 習 うこと) を巡 って は,ハ イデガーな りに捉 え られた "学 び' 'における "磨 型的 な もの' 'が別扶 されて論 じられてお り, ここで は 『 思惟 とは何 か』 を中心 に してみて み ることにす る.

まず 『 ‑ル ダー リンの詩 の解 明』 で は次 の ように述べ られ てい る

.

「 人 間 は相続者 であ り, あ らゆる事物 を習 い覚 える者である 」( EH. 3 6 ) . この言明 は,教育 における文化遺産 の継承 ・発展 とい う営 みを表明 した もの と解す ることもで きる.つづ けてハ イデガー は言 う

.

「 事物 は しか し,矛盾 ( 抗争)の内 にある.事物 を矛盾 ( 抗争)の内に見分 け, それ を 以 て同時 に統合 す るものを‑ルダー リンは 「内面性」 と名づ ける. この内面性 へ属す る も のの証明 は,世界 の創造 とその出現 によって と同様 に,世界 の破壊 とその堕落 を通 じて, 行 われ る.人間で在 ることの証明 とそれ と同時 にその本来的な遂行 は,決断 の 自由か ら生 ず る.決断 は必然 を把握 し,そ して最高 の要求 の束縛 に立 たせ る 」( EH. 3 6 ) . 従 って,この 箇所 か ら判断す る限 り,人間的現存在が学 ぶ ことによって,( 世界 の破壊 とその没落 の方向 に向か うので はな く)世界 の創造 とその発展 に寄与 しうるような人 間の内面性 の陶冶が教 育 によって望 まれ るであ ろうと考 える.

ところでハ イデガー は "学ぶ こと"を次 の ように捉 えている

.

「思惟 す ることがで きるた

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めに は,我 々 は学 ばな けれ ばな らない.人間 は彼 の行 い を, その都度本質的 な事態 に即 し て与 え られ ( z u ge s pr oc he nwer den) る も0 )へ,相応 の内へ ともた らす限 りにおいて,人 間 は学 ぶ 」 ( WD 1). この言明 は,学 びにお ける適応 ( 順応 ) とい った ことを言い表わ し た もの と解 す る ことも可能 であ るが,吏 に,習 うこ とにお け る本来的 な学 び とは どういっ た場 合 に生 じてい るのか を言 い表 わ してい る とも思 われ る.教 える者,習 う名,具体 的 な 教育 内容 といった関係 において,教 えが行 われ るのであ るが, それ に よって教 え られ た こ との全 てが学 ばれ るか どうか は,確証 のない こ とで もあ る. その意味 で は,学 ぶ ことに対 す る先 の言明 に は,本来 的 に思惟 す る こ と,本来 的 な学 びが行 われ る事態 とは どの よ うな

こ となのかが表明 されてい る と思われ る.

『 思惟 とは何 か』の中で は,‑ イデガ‑ は 「 思惟 す る ことを学 ぶ」とい う言 い方 を してい る.何 を学 ぶか とい えば,思惟 す る こ とを, であ る.元来 「 人 間 とは思惟 しうる者 の こ と を言 う. ‑ ( 中略)‑. 理性 , ラチオ ( r at i o) は思惟 の内で展 開 され る 」 ( WD. 1). ところ で先 に 「思惟 す ること」を学ぶ とされ たが, その ことは,<最 も熟慮 ( 考慮 )を要 す こと>

が熟慮 させ る ことに我 々が留意す る こ とに よって ( WD. 1) とされ る.ハ イ デガー は熟慮 を求 め る もの,思惟 の贈 り物 ( Ga be) を熟慮 を要す る もの と名付 け る. ハ イデガー は我 々 の熟慮 を要す る時代 において,最 も考慮 を要す る ことは,「 我 々 がい まだ思惟 していない と い うこと」で あ る ( WD. 3) とす る. 凶 日谷 敬子氏 は, 「 我 々が い まだ思惟 していない と い うこと」 はハ イデガー哲学 の概 念 であ る 「 存在 」 , あ るい は 「 存在 す る もの」 と r 存在」

の二重 の ものの こ とで ある とす る. そ してハ イデガーが ここで言 う "思惟' 'とは,現代 の 我 々が馴 染 んでい る従来 の,前 に立 て る ( vor s t el l e n) 思惟,即 ち常 に何 か を表 象す る思惟 ( 表 象的思惟 ) とは異 な る思惟 であ る. ところでハ イデガー は この吾 において,最 も熟慮 を要す る こ とを,存在 と存在 す る ものの二重 の もの ( Zwi e f al tYonSe i e nde m undSe i n ) としてい る ( vgl , WD. 1 4 9 ) . 四 日谷 敬子氏 は r 存在」 と 「 存在 す る もの」 との二重 の t ) の は,我 々 にそれ 白身 を思惟 せ しめ る と解説 してい る.史 に氏 は,「有 o j真性 に呼 び出 され つつあ る思惟 」をハ イデガー は ここで問題 に してい る とみてい る. そ うす る と,思惟 さる べ きもの は,声 な き存在 か ら贈 られ た もの と解 す る こ とが で きるか も知 れ な い. 「思惟 は

‑‑・( 中略 ト ・ ・ ・ ‑かの もの ( Jenes)を回想 す る場 合 に初 めて思惟 で あ る. そのかの もの と は,存在 す る もの と存在 の二重 の もので あ る. その二重 の もの は,本来 的 に思惟 せ しめ る ものであ る.それ 自身 をその ように与 える もの は,最 も間 うに値 す る ものの贈 り物 であ る」

( WD.1 4 9) .

ところで, 『 思惟 とは何 か』 にお いて は次 の ように述 べ られ てい る. 「 我 々今 日の もの は, 特 にただ学 び うるのであ る,我 々が しば しば また忘れ る ときには 」 ( WD.5 ) .更 に 「 我 々 が思惟 の従来 の本質 を根本 か ら忘れ る場 合 に我 々 はただ学 ぶ こ とがで きる. しか しその た め に は我 々 は思惟 の従来 の本 質 を同時 に学 び知 る ことが必 要 で あ る 」 ( WI ) .5 ) と言 われ る.更 にハ イデガー は思惟 す る ことを一 つの手 仕事 にた とえて い る.「 思惟 す る こ とその も の は最 も単純 な, それ ゆ え最 も困難 な手仕事 であ る 」 ( WD. 51 ) . 手 は一切 の摘 む器官 ( 前 堤,蹴爪 な ど) とは異 な ってい る. ただ語 る存在者 だけが , 即 ち思惟 す る存在者 だ けが手

‑ 2 0

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を持 つ こ とがで き, そ して手 の取扱 いの内で手 の諸 々 の仕事 を成就す ることがで きる.手 の仕事 は我 々が通常考 えてい るよ りも, よ り豊 かで あ る.手 は保 つ.手 は担 って行 く.辛 は しる Lをつ ける.手 のあ らゆ る仕事 は思惟 の内 に基 づ く. ( vglWD.51)

ところで学 ぶ こ とにおいて は,静寂 が前提 とな る.ハ イデガー は聴覚的 にみた場合 の学 び について も触 れ てい る.確 か に我 々 に は聞 きた くない話 し もあ るのであ るが,「 我々が今 の場合 にお いてで きる こと, あるい はその都度学ぶ こ とが で きる ことは,精確 に傾聴 す る ことで あ る.聴 くことを学 ぶ こともまた,学 ぶ者 と教 える者 の共通 の事柄 で ある」( WD. 5 5) とされ る.

ところで 『 存在 と時間』で は次 の よ うに言 われてい る. 「く現 ) ( Da) の存在 は,理解 とそ の投企性格 によってその構成 を得 るゆ えにのみ,即 ちそれ ( 現存在 ) が成 る もの, あ るい は成 らない ものであ るゆ えに,現存在 は理解 しつつ, みずか ら自身 に ( 汝 が存在 す る もの と成 れ ( We r de,wasdubi s t ! )) と言 い聞かす ことがで きるので あ る 」 ( SZ.1 4 5 ) . 更 に

B

形而上学入門』 において もハ イデガー は, 「 汝,学 びつつ,汝 が あ る ところの者 として, 現 われ出 よ」 とい うピング ロスの言葉 を引用 している. こうした こ とは,ハ イデガー にお いて は Sei n が Vor hande nhei t よ りは We r de n ( 生成)と捉 え られ る傾 向が ある ことか らも 十分理解 で きる ことで はある.ハ イデガー は,人 間的現存在 に は優 れ た開示態 が そなわ っ て い る とす る. そ こ で 現 存 在 の 開 示 性 と し て,理 解,情 態 性 ( 存 在 論 的 な 気 分) ( Be f i ndl i c hke i t ) ,語 り ( Re de) が上 げ られ た.現存在 は, 世界 内存在 として人間的現存 在 とともに, それ以外 の存在者,即 ち物 や道具 へ の関係 を もっ こ と, そ してた とえ前存在 論 的 な意味 において も存在 の理解 を もってい る とされ る.現存在 は存在 す る ものが存在 す る もの として出会 われ る根拠,存在根拠 を理解 してい る. ここで は "学 び"に関係 す る "哩 解' 'の問題 について触 れ てみ たい.ハ イデガー において は理解 は世界 内存在 の根源 的遂行 形 式 であ って,本質 的 に存在可能性 に関わ り,人間 の存在様 式 と根源的 に同一 で あ る.彼 は現存在 の根本 的 な存在 の仕 方 としての理解,世界 内存在 の開示性 として,理解 を規定 す る. また理 解 の投 企 の うち に は,存 在 全 般 の開 示性 が含 まれ て い る とされ る ( vg l .S乙 1 4 7 ) .吏 に存在埋解 に塞 いてのみ実存 は可能 で あ る ( KM, 21 8) . 理解 は根 源 的 に 自己理解 の形 態 を とって いる . 「 世界 の うちで物 につ いての我 々 の知識 は,この 自己理解 の働 きとし てのみ可能 とな る. 自己理解 は我 々 の存在可能性 を構成 し,我 々 の存在 す る とい う人 間的 能力 あ るい は世界 にお ける行為者 においての能 力 を構成 す る.理解 は知識 の主張 や客観 的 判 断 をめ ざす能力 として再現 されず, あ るい はその ような能力 に制 限 され ない. む しろ前 客観 的で実践 的で あ り,目的論的 で あ る

」〔1).

現存在 は学校 や それ以 外 にお いて前以 て多 く の こ とを学 んで い る.現存在 は現実 的 な もの に限定 され なが らも一方 で可能性 へ と開かれ てい る.人 間 は存在 に対 して開かれ て もお り, 自己生成 へ と発展 させ る こ とが可能 で あ る.

その意味 で もハ イデガーの理解論 は学 び と自己生成 に とって意義 を もってい る と考 え られ る.

ところで 「 存在」について簡単 に触 れ てお きたい . 「 存在者 の存在 は, それ 自体 ,一種 の 存在者 で はない 」( SZ. 6) ので あ り,「 存在 とは,存在 者 を存在者 として規定 す る もの」( i bi d. )

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で あ る.存在 とは存在者 で はないゆ えに,存在者 を存在者 としてあ らしめる ものであ る と され る.或 る意味 で は存在 は,存在 者 をあ らしめ る根拠 ともい える. そ うして,存在 は顕 現 しつつ隠れ る もの ともいわれ る. そ して,存在 は,存在 者 において対 象的 に把握 され え ない.存在 と存在 者 の差異 ( 存在論 的差 異) を問題 に したのがハ イデガー の哲学 的世界観 で あ る.

ところで 『 形而上学入門』 において は, 習 う ( 学 ぶ) ことに関 して次 の ように述べ られ てい る . 「 知 る とは しか し,真理 の内 に立 つ こ とがで きる とい うこ とを意味 す る.真理 は存 在 者の開明性 ( Of f e nbar ke i t ) であ る.知 る とはそれ に従 って,存在 者 の開明性 の内 に立 ‑ )

ことがで きる とい うことで あ り, それ に耐 える ことが で きる こ とであ る. ‑ ( 中略) ‑知 る とは,習 うこ とが で きる とい うこ とを意味 す る

」 ( EM.2 3f ).「日常 の理 解 はた しか に,習 い ( 学 び)尽 くして しまった ために, もはや習 う必 要 のない者 が知 を持 ってい る と 考 えるが, いや, そ うで はない.彼 が いつ も再 び習 わ な けれ ばな らない こ とを輝解 しそ し て こうした理解 に基 づ いて, なかで も彼 が絶 えず習 うこ とが で きる ことにみずか らを仕向 けて い る者のみが知 りつ‑ )あ るのであ る 」 ( E M .24) .知識 の構 造 と成 り立 ちに‑ )いての解 明 もわ た したちの課題 とな るが, この箇所 においてハ イデガー は実学的 に知識 を習得 す る 以 前の段 階 につ いて述 べ てい るよ うで あ る.今 この部分 を 『 根拠 の本 質 について 』を参照 しつつ考 えるな らば,人 間的現存在 は,存在 す る ものの諸領域 , 諸層 につ いて広 くあ るい は詳 し く知 っていな くとも,存在 が顕 にな って こそ,存在 す る ものが存在 す る もの として 開かれ る可能性 が了解 され うる ものであ る. その ことは また,存在 的 な関 わ り合 いの前 に すで に存在論 的 な次元 に現存在 が立 ち開かれ てい る必 要が あ る こ とを意味 してい る. とこ ろで,先述 の箇所 にお いて は, 「習 うこ とがで きる ( 1 er nenk6nne n) 」とい う語句 がイ タ リ ック体 で強調 され て記 され てい るが, 「 知 る こと ( Wi s s en) 」がハ イデガー にあって は まさ に 「 習 う こ とが で きる こ と」 そ の もの を言 っ て い る と考 え られ る.彼 に あ って は 「 知 ( Wi s s e I l )を持 つ」 とい うことは 「習 うこ とがで きる こ と」を意味 して い るのであ り,絶 えず習 うことがで きるよ うに させ るよ うにす るこ とを言 ってい る. その限 りにおいて,ハ イデガー に とって知 る とは学 ぶ ことの前提 ,学 ぶ態度 が で きて い る こ と,学 ぶ ことの姿勢 に関 わ る もの として捉 え られ てい る と見倣 す こ とがで きる.

更 に学 ぶ こ とが 「問 う こと」 と関係 して い る . 「習 う ( 学 ぶ) こ とが で きる とい うこ と は,問 うこ とが で きる こ とを前提 とす る. 問 うことは, 前 に説 明 した よ うに知 る こ とを志 す こと( Wi s s e nwol l e n) ,即 ち存在 者の開明性 の内 に ( Lつ こ とがで きる こ とへ の決意 ( Ent

‑ s c hl os s e nhei t )であ る」 ( EM.2 3) .

ところでハ イデガー は既 に 『 存在 と時間』 にお いて 「問 いの構造」 に言及 していた よ う に, しば しば "問 い" とい うことにつ いて触 れ てい る. 問 うことはやみ くもに問 うことで はな く , √問 い に値 す るこ と ( Fr ag W t i r di ge)」 ( WD.1 61 ) であ る こ とが必 要 で あ る. ハ イ デガー は問 うこ との尊厳 を教授学 のため に新 し くした とい うこ とがで きる.

ところで学 ぶ こ とにおいて は興味 ( I nt e r e‑ e s s e)とい うこ とが或 る意味 で は人世]な もの とな るが,ハ イデガー の もとで はそれ は否定 的 に捉 え られ てい る . 「 興味 とは,事柄 の もと

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に,事柄 の間 に在 って,或 る事柄 の内で, u l中 に立 ち, その もとに留 まる ことをい う. しか しなが ら今 口の興 味 に とって はただ興味 をそそ る ことだ けが重 要 であ る. それ は次 の瞬 間 に は既 に無関心 で あ り, そ して他 の もの に よって交代 させ られ る こ とを許 す もので あ り, 以前 の もの と同様 に人 に接近 して こない とい うこと, その ような ことであ る.人 は今 日 し ば しばそれが興味 を起 こさせ る と認 め る こ とに よって,或 る もの を特 に評価 す る と考 えて い る.真 実 の ところ,人 は こうした判 断 に よって興味 あ る もの を既 に重要で ない ものや た だちに退屈 な ものへ,押 しや るので あ る」 ( W r ) .2).ハ イデガー において は興 味 は b 存在 と時間』でいわれ ていた憂慮 ( Sor ge: 関心 ) と区別 して考 え られ るべ きもので あ る

.

『 存 在 と時間』 で は,規存在 の存在が憂慮 として規定 され た.人 間存在 は存在 を理解 しつつ, おのれ 自身 の存在 へ の憂慮 の内 にあ る. しか も憂慮 に は,共 同存在 してい る他 の人 々へ の 気遣 い ( Fi i r s or ge)と物 へ の気遣 い ( Bes or gen)が あ る.憂慮 は人 間 の学 び と成長 に とっ て重 要 な意味 を持 ってい る. それ は他者 に対 して は教育的行為 として人 間形成 と成長 への 援助 とな る.「 人 間が可能性 へ と開かれ,存在 しうる もの に成 る とい う形成 (:人 間 の完成) は,憂慮 の仕事 で あ る 」 ( vg lSZ.1 9 9 ) .

2. 教 える こ とについて

ハ イデガー は, 『 思惟 とは何 か』 において次 の ように述 べ てい る

.

「 事 実,教 える こ とは 学ぶ こ とよ りももっ と難 しい.人 は この こ とをよ く知 ってい る. しか し人 はその ことをめ ったに考慮 しない. なぜ に教 える こ とは学 ぶ こ とよ りも難解 なの だ ろ うか.教師が,諸知 識 の大 きな総和 を所有 し, そ してそれ らをいつで も用意 しておか なけれ ばな らないか らで はない.教 える ことが学 ば しめ る ( l er ne nl as s en) こ とを意味 す るゆえに,教 える ことは 学 ぶ ことよ りもよ り難 しいのであ る. その うえ本来 の教 師 は学 ば しめ る こ とにはか な らな い. それ ゆ え,人 が今, ( 学 ぶ こと)の もとで単 に役 に立 つ知識 の入手 をいつの まにか理解 す る限 り,教 師 の行 い は しば しば,人 が彼 の もとで は本来何 も学 ばない, とい う印象 をい だかせ る.教 師 は,彼が見習 い達 よ りもはるか に多 く学 ばな けれ ばな らない とい うこと, 即 ち学 ば しめ る こと, においてひ とえに見習 い達 に先 ん じてい る.教師 は見習 い達 よ りも よ り教導可能 ( bel e hr bar e r ) で あ る こ とがで きなけれ ばな らない.教 師 は,学 びつつあ る 者 が 自身 の事柄 について確信 してい るよ りも, はるか に少 ししか彼 の事柄 につ いて確信 し ていない. それ ゆ え教師 と学 んでい る者 の関係 において はその関係 が本 当の もので あ るな らば,博識家 の権威 や委託 され た者 の権威 的 な影響 は決 して考慮 に入 って こない. それ ゆ えひ と りの教 師 にな る ことは高度 な事柄 ( ei nehoheSac he)で あ り, ‑‑ ( 中略) ‑‑・

今 日で は,全 てが, ただ下へ向か って そ して下 か ら,例 えば商 売 ( Ges c haf t )か ら測 られ るのであ るが, この ような今 日で はだれ も教 師 にな りたが らない とい うことは,恐 ら くこ の高度 な・ 事柄 とその高 さにあるので あ ろう」 ( W D. 5 0 ) .

ここで は,教 師 は学 ぶ こ とを教 える こ と, あ るい は教 える こ とは,学 ぶ ことを させ るこ と,学 ば しめ る こ とであ る と捉 え られ て い る とい うこ とが で きよ う.史 にハ イデガー にお いて は,教師 の もつ教 育 にお ける委任 され た権威 的 な影響 や機能 が考慮 に入 って こない も

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の として捉 え られてい る. そ こで,ハ イ デガーの この ような教 師観 に対 して は反論 もl l i J . て くる と思 われ る.例 えば公教育 の歴史 をみた とき,学校 は知識 を中心 に して,組織 的, 系 統 的 に教育 と人 間形成 を行 う機 関 として存在 して きた, ともいえる (とはいえ,遺徳教 育 や人格性 の陶冶 が ないが しろに されて もよい とい うこ とで はないので あ るけれ ども . ) . 学 校 は文化遺産 を前代 か ら後代 へ と伝 達 しつつ,更 に創造 してゆ くことに寄与 す るが, そ こ での教師 は,教科 の教授 ・学習 を通 じて さ まざ まな芋 的知識 を伝 え る とい う役割 を も担 っ てい る. また例 えば,人 文主義 の教育 において は しば しば …教養" とい うこ とが言 われ る.

教養教育 には人文 科学 や社会科学 な どの知識 を広 く学 ぶ ことに よって, い ろい ろな観点 に 立 って もの をみれ る こと, み る観点 を豊 か にす る こと, あ るい は‑ 一方向的 にな らない こと,

そ うした素養 を育 て る こ とが本来意 図 され てい る と考 え られ る. この場合 もなん らかの意 味 で広 く学 的知識 を学 ぶ こ とが必 要 にな って くる と思 われ るが,教 え と学 び につ いてのハ イデガーの見解 は,知識 を学 ぶ こ との人間形成 的 な意味 について はその ポジ ィテ イヴな面 について論 じて いないので, そ うした点 において, ハ イデガーの教 師論 に対 して は異議 も 出て くる もの と思 われ る.

ところで,ハ イデガー は教 師 にな る こ とは高度 な ( hob )事柄 で あ る としてい るが, この ことは何 を意味 してい るので あ ろ うか.生 徒 は未成熟 な人 間 であ りまだ低 い状 態 にあ るに も拘 らず,教 師,生徒 とt )に同 じ一 つの共通分野 で出会 う と考 え られ る ところに教育作 用 の本質 的 な特色が あ るので あ るけれ ど, その際,教 師が高 い ところにあって呼 びか け引 き 上 げる こ と,導 くこ と, その よ うな こ とが言われ てい るのであ ろうか. いずれ に して もハ イデガーの先 の言明 か ら,学 ぶ こ とを教 える こ と,芋 ば しめ る こと等 い くつかの面 で見習 い に先立 ってい る とす るこ とで,ハ イデガーの場合 にお いて も教 師が超越 の場 に r Lってお

り,教育 的行為論 が超越 にお いて考 え られ てい る と見徹 す こ とが で きる と思 われ る.

ところで 『 思惟 とは何 か』 にお いて は,家具職人 ( 指物師) の親 方 と見習 いの場合 を例 に して教 え と学 びの問題 が説 明 されて い る. 「 家具職人 ( 指物 師)の見習 いが,例 えば家只 や これ に類似 の もの を建造 す る こ とを習 う ( 学ぶ) ( だれ か) あ る人 は,習 うことの際 に, 工具 の使用 にお ける巧 み さ ( 技能 ) を練 習 して覚 え込 むばか りで はない.彼 はまた,彼 が 建造 しなけれ ばな らない諸物 の,一般 に絹 い られ てい る諸形式 にただ精通 してい るだ けで はない.彼 が真正 の家具職人 にな ろう とす るな らば,彼 は と りわ け材木 の さまざまの諸性 質 に, またその中 に眠 ってい る諸形態 へ と, ( 即 ち) その本 質 の覆蔵 され た豊富 を もって, 人 間 の住 む ことへ と運 び入 れ るよ うな材木へ と, みずか らを対 比せ しめ る.材木 へ の この 関連 が その うえ全体 的 な手仕事 を担 ってい く. こうした材木 へ の関連 が なか った ら,手仕 事 は空虚 な, せかせか した こ との内 に付着 した ままで あ る. そ こでの仕事 はその とき,早 に商売 に よって規定 され る. II( 中略) ・ ‑家具職人 の見 習 いが しか し, 習 うこ との際 に, 材木 へ ま・ た木製 の諸物 ‑,対応 の内へ と達 す るか あ るい はそ うで ないか は,明 らか に見習 い に この ような こ とを教 える人 が, そ こにい る ( das ei n ) とい うこ とに,依存 してい る」

( WD. 4 9f ) .以 前 に指摘 した よ うに上 の場 合学 ぶ とい うことは,その都度本質的 な もの に 即 して我 々 に語 り渡 され る ものへ,行 い を対応 ( 適合 ) の内へ と持 って行 くこ とを意味 す

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る. この本質的な ものの種類 に応 じて,話 しか けがや って くる領域 に応 じて,対応 ( 適合) す ることは, それ とともに学ぶ ことの仕方 は,異 なる ( W D.49)とい うことであった.先 の引用か ら,見習 いに とって必要 な ことは,習 ってい る際 に材木 や木製 の諸物 に,対応す ることがで きるか どうか,即 ち材木等への関連 の問題 である. しか しその ことは見習 いに 理解 させ る ことがで きる教 える人 ( 親 方)が そ こに居合 わせ る とい うことに依 っている ( 左 右 され る).従 って教 える人 は,見習 いが材木等への呼応 の内に達 す るか否かに対 して配慮 す るのみな らず,見習 いに対 して も教 えるとい う点で また学 ばせ るとい う点 で,配慮 を必 要 とす る と見倣 す ことがで きる.

3 .F プラ トンの真理論』 における,陶冶 の根源 と しての Pa J ' de l a

ハ イデガー は, プラ トンの 「洞窟 の比喰」 は,パ イデイアの本質,更 には陶冶の本質 を 具体的 に示す ことに収欽 す る とみてい る. そ して, それ は同時 に,「 真理」の問題 とも関係 して くるのであ り,即 ち,「陶冶 と真理 を,一 つの根源的 な本質統一 の内へ結合す る もの は 何か」 ( PW .21 8)とい うことが問題 になるのであ る. そ こで,ハ イデガー は,古代 ギ リシ アの真理,即 ちア レーテイア ( ん入 神 eL α) [ 非覆蔵性 :隠れな さ]としての根源的真理 の本 質事態 との関係で,陶冶 あるい は教育 の根源的事態 を捉 えようとした といえる.

「洞窟 の比倫」とい う物語 りの内実 は, おお まか にみた場合,洞窟 の中で縛 られて陰 ( 影) の世界 を見 ていた囚人 が,解放 されて洞窟 の外部 の明 るみへ上昇 し,太陽の光,善 のイデ ア (イデアのイデア) を認識 す るに至 る様子 を示 している と見倣 す ことがで きる と思 われ る. そ こで次 の ように述 べ られている

.

「とい うの は, その比略 は諸経過 を物語 ってお り, 洞窟 の内部 と外部 にお ける人間 の諸々 の滞在 と状態 についてだけ報告す るので はないか ら である.報告 されてい る諸経過 はしか し,洞窟 か ら白昼 ( 太陽) の光 の下へ出て行 く移行 で あ り, そ して再 び 白昼 ( 太 陽) の光 か ら洞 窟 の 中 へ 戻 っ て行 く移 行 で あ る」 ( PW . 21 5f ) . 「それ に続 けて今,囚人が束縛 か ら解放 されて,そ してそれ と同時 に無分別か ら癒 さ れ る とい う経過 を,追跡 してみてほ しい」 ( PW .207). ところで, 「 洞窟 の比倫」に示 され る過程 は,解放 された囚人が洞窟 の内部 に居住 し残 っている囚人,縛 られている人 々の所 へ降 りて帰 って行 き, それ らの人々 を超越 へ と導 く段階 を含 めて四段階か ら成 ってい る.

そ して次の ように述 べ られている

.

「非覆蔵 な る もの く Unver bor ge ne) とその非覆蔵性 を 以 て,人間の滞在領域 においてその都度 閲放 されて居合わせてい る者 である ものが, その 都度名づ け られてい る」 ( PW .21 9).「だが, 「 比喰」 は或 る滞在地 か ら別 の滞在地‑の移 行 ( 変わ り目)の出来事 を物語 る. そ こか ら,全体 として まず この出来事が,特有 の向上 と向下の段 階づ け ( AufundAbs t uf ung) において,四つの相違 せ る滞在地 の一系列へ と 区分 され る」 ( PW .219). ところで, この著作 で取 り上 げ られてい る先述 のア レーテイア としての根源的真理,即 ち非覆蔵性 について は,「 非葎蔵 なる ものは,覆蔵性 ( Ve r bor ge n‑

hei t ) か らもぎ取 られ なけれ ばな らない.覆蔵性 か ら或 る意味 で奪 い取 られなければな らな い」 ( PW . 2 23) と述べ られている.更 に, 「 真理 は最初 に覆蔵性 か ら奪 い取 られた ものを 意味す る.真理 はまたその都度顕現 ( Ent be r gung) の仕方 において もぎ取 る ことであ る」

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( I ) W.2 2 3 ) とされ てい る. そ して以 Lを踏 まえて 見 る とき,次 の言明 は教 育の問題 を考 える とき,更 に重 要 な もの となる.「 解放 され た者 は,今 や この縛 られ てい る者達 を も,か れ らに とって0 )非覆蔵 な る ものか ら引 き離 して, 最 も非覆蔵 な る もの ( dasUnver bor ge n‑

s t e)の前 に ( 案 r j lして)導 き 卜げ るべ きであ る」 ( PW.22 2) , そ こでハ イデガー は, この ア レー テ イア としての根源的真理 を,教 育 あ るい は陶冶 の過程 に関わ らせ て根源 的 に思索 した, と考 え られ るのであ る.

ところで,人間存在 の 卜降 か ら上昇へ あ るい は婿 さか ら光 へ とい う運動 において は,慎 重 に準備 され た階梯 が あ り,一 つ一 つ を踏 まえなが ら慣 れ を媒 介 とす る , 即 ち慣 れが必 要 条件 であ る といわれ る. 「 洞窟 か ら白昼 ( 太陽)の光 の下 へ出 て行 く移行 と白昼 ( 人陽)の 光 か ら洞窟 の中へ戻 って行 く移行 ( 変 わ り H) は,暗 やみか ら明 るい状態 へ U jまた明 るい 状 態 か ら暗 やみへの, それ ぞれ 目の順応 を必 要 とす る. いつ もその際, それ もそれ ぞれ正 反対 の理 由か らHカミ 混乱 させ られ る」 ( PW.21 6). この こ とは次 の ことを意味 す る とされ る.「 人間 は,ほ とん ど気づ かれ ていない無知 か ら出て,存在 す る ものが それ 白身 を彼 に よ り本質的 に示す ところへ到達 しうるが, その際 に彼 は差 し当 た りその本質的 な もの に達 し ていないか, しか らずん ば,人間 は, また本質的 な知識 の姿勢 か ら転 が り落 ちて,普通 の 現実性 o) 優位領域 の内 に押 し流 されて, ここで通例 の もの に して手慣 れ た も0 )を現 実的 な る もの として承認 す る とい うこ とが しか しで きないでい る」 ( PW̲21 6).そ して以下 に取 り上 げるい くつか の言明 は, この 『プ ラ トンの真理論 』 にお け る教 育 と陶冶 の観 点 か らの 問題 考察 に とって核 心 とな る部分 であ る.「肉眼が,明 るい状態 に対 してで あれ,暗 や みに 対 してで あれ, まず ゆっ くりとそ して不 断 に順応 しな けれ ばな らない よ うに,心 もまた, が まん強 い心 を以 てそ して事柄 に即 した歩 みの連続 において, それが晒 され てい る存在 す る ものの領域 の内‑ と慣 れ な けれ ばな らない. その ような慣 れ させ る こ とは しか し,予 め 身体 全体 が対応 した立場 に入 った ときに, それ どころか 目 もまたその とき正 し くまた至 る 所 へ と見 る ことがで きるように, すべ て に先 だって,心 が全体 にお いて その努力 の根本 方 向へ と向 きを変 え られ る とい うこ とを要求 す る 」 ( PW.21 6). そ こで, この場 合何 故,杏 断 にそ して徐 々にゆっ くりとで在 らね ばな らないか とい えば, その転 向 は人間 で在 る こ と に関わ り,人 間存在 の本質 の根底 において遂行 され る ( PW 21 6)か らであ る とされ る.

つ ま り,人間 で在 る ことその ことは,教育 と陶 冶 を必然 とす る もので あ り,人間存在 に と って教育 と陶冶 の過程 は,慣 れ を媒 介 としつつ徐 々 にそ して不 断 に行 われ る もので あ る と 見倣 され てい るのであ る.

以上 を踏 まえつつ,ハ イデガー は,「この ように人 間本質 にその都 度 あてがわれ た領域 の 内‑人 間本質 が順応 しそ して慣 れ る こ と( Um‑ undEi nge w臼hnungdesMe ns chenwes ens ) が, プ ラ トンがパ イデ イア (

7Tα

L G E Z α) と名 づ ける ものの本質 で あ る」 ( Ⅰ ) W.21 7) と言 う.

更 に付言 すれ ば, そのパ イデイア とい う言葉 は翻訳 が困難 な 言葉 で あ る ともされて い る.

そ してハ イデガー は, プ ラ トンの本質規定 に従 ってみ る と, パ イデ イア は,魂 全体 の転 向,

「 人間 の本質 にお ける人 間全体 の転 向 ( Umwendung de sganz en Mens c hen i n s ei nem We s e n)への案 内」 ( PW. 21 7 )を意味 す る としてい る. ところで, パ イデイア は, その よ

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うな転 向 として常 にアパ イ デ ウ シア ( &7 r α6EUdT L α) に関係 して い るので あ り, そ して それ の 克服 で あ る とい うよ うな こ と も言 わ れ て い る.「パ イ デイ ア はそれ故 本 質 的 に,或 る移 行 ( 変 わ り目) ( Obe r gang) で あ り, それ もアパ イ デ ウ シア ( 無 教 育) か らパ イデ イ ア ( 教 育) へ の ( 移行 ) で あ る. そ の移行 とい う性 質 に従 って, パ イデ イア は絶 えず アパ イ デ ウ シア に関係 づ け られ て い る 」 ( PW.21 7) .

ところで, ハ イ デガー は, 最 も早 くだが決 して完全 で はな いので あ るが, パ イデイ ア と い う呼称 を満足 させ る もの は, ドイ ツ語 の Bi l dun g [ 陶冶, 教養 ( 教 育 ),形 成 ( 生 成 )]で あ る として い る.そ して彼 は次 の よ うに述 べ て い る.「我 々 は勿論 そ の際 に, この言葉 にそ の根 元 的 な名辞 力 を時 間的 に さか の ぼ って与 え, そ して この言葉 が 1 9 世 紀 末期 にお い て陥 る誤 解 を忘 れ な けれ ば な らない .Bi l dung は二 重 の こ とを言 い表 す.陶 冶 は第 ‑ に発展 的鋳 造 の意味 にお いて形 成 す る ( Bi l de n) こ とで あ る. この ( 形 成 す る こ と) は しか し同時 に, 規 準 的 な眺 め ( maβge be nde rAnbl i ck) へ, それ はそれ故 に手本 ( Vor‑ bi l °: 範型 , 典 型 )

と呼 ばれ るので あ るが,先取 りしつつ合 わせ る ( 適 合 させ る) こ とに基 づ いて,形 成 す る ( 鋳造 す る) の で あ る. 陶冶 は,鋳造 で あ り,特 に或 る形像 ( Bi l °) を通 じた案 内 で あ る.

パ イ デイ ア に対 す る反対 活 動 は, アパ イデ ウシア, 陶冶 の無 さ ( Bi l dungs l os i gkei t )で あ る. 陶 冶 の無 さにお いて は,根本 的 な心構 えの展 開 も臼ざめ させ られ てお らず, また規 準 的 な手 本 も立 て られ な い 」 ( PW.21 7) . こ こで はハ イ デガ ーが捉 えた陶 冶 の概 念 につ いて 述 べ られ て い るが, それ は言葉 の よ り原義 的 な意 味 を捉 えて い る とい う点 で,十分 評 価 で きる もので あ る. 他 方 で, その言葉 が 1 9 世 紀 末期 にお いて陥 った誤 解 とは具体 的 に ど うい う こ となのか, ハ イ デガ ー は まった く言明 して いな い.

そ こで, 哲学 の辞 典 は ,Bi l dung は まず第 一 に,人 が文化 領域 の遺徳 的 ( s i t t l i ch) そ し て精 神 的諸価 値 に関 して獲 得 した人 間 の精 神 的形 態 を言 い表 してお り, また, この形 態 へ 引 き入 れ る教 育 の過程 を も, 自己教 育, 感 化 ,鋳造 の過程 を も表 示 して い る, として い る.

また人格性 との融 合 や 自立 的 な処 理能 力 が その と き重 要 で あ る とされ る.更 に ,Bi l dung は 形 式 的 ( f or ma l )で あ り,即 ち (その都 度 の材 料 St of f に左 右 され ない)精 神活 動 あ るい は 精 神 能 力 で あ り, また実質 的 ( mat er i a l )で もあ り,即 ち陶 冶 内容 ( 中味 )へ と向 け られ る とされ て い る.ところで ,Bi l dung とい う言葉 は,その今 口の意 味 を 1 8 世 紀後 半 にお い て と りわ けペ ス タ ロ ッテ‑や新 人文 主義者 を通 じて与 え られ た とされ, 当時,啓 蒙 主義 者 の方 法 的 な,信 心深 い教育 技術 に対 して,精 神 的 な形成 ( For mung) の全過程 を言 い表 す もの で あ った とされ る. それ以 来 , その言葉 の意味 は拡 大 して きて い る (2 )とされ て い る.

ドイ ツにお け る Bi l dung( 陶冶 )の主 な意 味 は上 の辞 典 の よ うな もので あ るが, 喜 多川 忠 一氏 は, 形成 あ るい は陶冶 につ いて次 の よ うに述 べ て い る. 「 …形成 " とは, 一般 的 にい え ば,何 もの か を他 か ら外 か らあ る形 に形 づ くって い くこ とで あ る. しか し教育 学 で ̀ 形成 ' ' とい う場・ 倉に は, そ う した本 来 の意味 を存 置 しなが ら も, よ り内面化 され た意味 に用 い ら れ て い る. とこ ろで形成 とい う こ とばが頻 繁 に用 い られ る よ うに な ったの は,第 二 次大戦 後 で あ る. それ は従来 "陶 冶" といわれ て きた こ とを, もっ とわ か りや す い "形 成 " とい う こ とば に改 め た と言 って よいの で はなか ろ うか. 陶冶 とい う こ とば も, も と もとは陶器

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や鋳物 をつ くる こ とで あ るが, すで に古 くか ら 「 万物 を陶冶 す る」 ( 准 南子) な どの よ う に, かな り内面化 され た意味 に用 い られ て きた. しか しそ こで はまだ人 間が人間 を陶冶 す る とい うよ うには用 い られて いなか った. ところが明治以後 ドイツ語 の ビル ドゥング( Bi 1 ‑ dung) の訳語 として, この陶冶 とい うことばが 当て られ るよ うにな って, た とえば, 人格 の陶冶 とか僅格 の陶冶 な どの ように,一層 内面化 され精神化 され た意味 に用 い られ る よう にな ったのであ る. ビル ドゥング ももとは外形 的 な意味 で の …形 づ くる' 'であ ったのが, 次 第 に内面 的 な意味 での "形 づ くる" に転化 して きた こ とばであ る. ‑‑ ( 中略) ‑‑陶 冶 も形成 もた しか に もともとは,他 か ら外 か らあ る形 に形 づ くって い くこ とを意味 してい る. しか しそれ は必 ず し も対 象の 可能性 や特性 を無視 して, ただ一 方的 にあ る一定 の枠 に はめ こむ とか鋳型 に作 りあげ る とい うことで はない. 陶器 や鋳物 を作 る場 合 で さえ,粘 十 や金属 の特性 をで きるだ け正 し く深 く知 り, それ を生 かす こ とな くして は, す ぐれ た作品 を産 み出す ことはで きない. まして人間 の教育 の場 合 に は,相手 の価値 可能性 ‑人 間性 を 尊重 し, それ を正 し く開発 す るこ とこそが第一義 であ る( ㍗」

以上, ドイ ツにお ける或 る辞典 と日本 の研 究者 に よる もの を一 つの事例 として取 り上 げ てみ たが, 実際 の ところ陶冶 とい う概 念 の意味 が使 用 す る学者 に よって異 な って い る とい う事情 もあ り,陶冶 とい う概 念 は,一義 的 な群解 が困難 であ る ともいわれ る. ここで,更 に,先 の喜 多川氏 の説明,即 ち他 か ら外 か ら形 づ くる ことに加 えて,主観性 を伴 うのであ るけれ ども,主体 的, 自発的 な形成 とい う側面 も挙 げ る こ とがで きる. ところで,ハ イデ ガーの陶冶観 は, 『プ ラ トンの真理論』 の ほか にい くつか の諸著書 ( F I 講演 ・ 論文集』 ,1 954 午,等) において触 れ られ てお り, とりわ け近代 的 な陶冶論 に対 す るハ イデガー の 見解 の 解釈 は,筆者 に とり今後 の検 討課題 で あ る.

ところで また, プ ラ トンが規定す るパ イデ イアについてハ イデガー は次 の よ うに も述 へ てい る.「プ ラ トンは誤解 を防 いで,同時 に,パイデイア は,空 の,任意 の前 に差 し出 され た容器 の中への ように不用意 な心 の小へ単 なる知識 を注 ぎ込 む ことにその本質 を もつので ない とい うこ とを示 そ うとす る.真 の陶冶 とは これ に対 してそれが人間 を予 めその本質 の 場所 に移 し置 きそ して これ に慣 らす ことに よって,心 その もの を,全体 において掌握 し, 変化 させ る」( PW . 21 7).そ して また次 の ように述 べ られて い る.「パ イデイア は,差 し当 たって出会 われ る ものの領域 か ら存在 す る ものが そのなか で現 れ る ところの別 の領域 へ と, 慣 らしつつ移 し置 くことの意味 において,人 間全体 の転 向 を意味 す る. この移 し置 きは, 人間 に これ まで明 白で あ る もの ( 周知 の もの) とそれが明 白で あった仕 方が,別 の状 態 に な る とい うこ とを通 してのみ可能 で ある.人 間 にその都 度,非番蔵 な る もの と非覆蔵性 の 仕方が変化 しな けれ ばな らない.非覆蔵性 はギ リシア語 で ア レー テイア と呼 ばれ てお り, その語 を人 は真理 と翻訳 す る」 ( PW . 21 8). ここで,「 慣 らしつつ」「 移 し置 くこ と 」 「明 白 で あ ったも のが別 の状 態 にな る こと」「 転 向」と言 われ てい るが, この ことに古代 ギ リシア の真理, ア レー テイアが関わ って くるので はないだ ろ うか と筆者 には思われ る. いずれ に して も先述 の各段 階 ( 居住) か ら次 の階梯 へ と至 る ことにおいて,人 間存在 の基本 的 な変 容 が あ る と見徹 す ことがで きるか も知 れ ない.以前 に周知 で あった ものの在 り方 が変容 を

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とげ る とい うこ とで混乱 が起 こる こともあ りえ, そ うした経験 をす る ときに, そ こでハ イ デガー哲学 にお ける 「 不安」 の概念 を用 いて 自己存在 の生成論 の問題 として, このプ ラ ト ンの 「 洞窟 の比 喰」を読 む こ とも可能 な こ とで はあ る. また, 『 存在 と時 間』にお ける世界 内存在 の内存在 ( I n‑ s ei n) にお ける人 間 の実存 の仕 方 の問題 として 打 プ ラ トンの真理論』

を読 む こ とも可能 と思 われ る.

ところで, これ まで も触 れ て きた非覆蔵性 とい う古代 ギ リシアで い う真理 の原初 的 な観 念 についてハ イデガー は次 の ように述 べ て もい る

.

「 最 も非葎蔵 な る もの はそれ 自身 を,そ の都 度存在 す る ものが何 であ るか において示 す.何 で あ るか ( Was ‑ s ei n) 即 ち理念 ( I de e n) の 自己示現 な しには, この ものやあの ものや その ような ものすべて,従 って あ らゆ る もの は隠れ た ( ve r bor ge n) ままに留 まるで あ ろう. (最 も非覆蔵 な る もの) は, すべ ての出現 ( 顕現 )す る もの にお いて予 め ( z uvor ) 現 れ てそ して出現 ( 顕現)す る もの を通路 づ け ら れ るようにす るゆえに, そ う呼 ばれ るのであ る」 ( PW . 221 f ) . ここで は,最 も非覆蔵 な る ものが存在者 の うちで予 め顕現 し, それ によって存在 す る ものが開示 され る と考 える こ と が で きる と思 う. しか し, この 『プ ラ トンの真稗論』で は最 も非覆蔵 な る もの は, 「 何 で あ るか」 のイ デーの 自己示現 に関わ る とされ て い る. ところで, この最 も非覆蔵 な る もの は 解放 に関わ る とハ イデガー は見,次 の よ うに言 う

.

「ところで しか し,すで に洞窟 o )内部 で 影か ら火光 へ そ してその中でみずか らを示 してい る物 へ と眼差 しの向 き変 えは困難 で あ り, 失敗 しさえ もす る とすれ ば, まして洞窟 の外部 で戸外 で 自由にな る ことは最 高の忍耐 と努 力 を更 に要求 す る. その解放 は,束縛 す る こ とを解 くこ とか らは まして生 ぜず, また無統 制 な ことにあ るので な く, む しろ形相 ( Aus s e he n) において確立 され てい る物 の確実 な限 界へ眼差 しを固定 させ る こ とに不断 に慣 らす こ ととして, まず始 まる.本来 の解放 は, そ の形相 において現れ る ものそ して この現れ る こ とにおいて最 も非覆蔵 な る もので あ る もの へ向 ける こ との連続性 であ る. 自由 は, ただその よ うな諸性 質 を付与 され た向 ける ことと して あ る. しか しまた, この向 ける ことは或 る転 向 としてパ イデイアの本質 を まず成就 す る. 陶冶 の本質完成 は,最 も非覆蔵 な る ものの,即 ちア レー テスタ トンの,即 ち最 も真 な る ものの,即 ち本来 の真理 の領域 において, そ して この こ とを根拠 に して, ただ行 われ る ことがで きる.陶冶 の本質 は, ( 真理〉の本 質 において基 づ いてい る」 ( PW . 2 22) .ハ イデ ガー は この書 において,教育 の本質 が,真理 の本 質 ‑ この場合,最 も非覆蔵 な る もの とし て理解 され た真理 冊 に依存 す る と見, その最 も非覆蔵 な る もの としての真理 が転 向 に関わ る とし, それがパ イデイア ( 教育 ) の本質 を成 す として い る と考 え られ る. この 「洞窟 の 比 喰」 において, プラ トンの真理 の観念 とパ イデイア ( 教育 ) の間 の関係 が,即 ちパ イデ

イア とア レー テイア は関連性 があ る と見倣 す ことがで きる と思 われ る.

ところで, ハ イデガー によれ ば, この 『プラ トンの真理論』 において は,元来覆蔵性 が それ 自身 を覆蔵 す る こととして,存在 の本質 を隈 な く支配 す る こ と ( PW . 22 3) ,真理 の本 質 に は非覆蔵 な る もの を獲得 す る こ とが属 す る こと ( PW . 224) , ところで また洞窟 内で あ らゆ る解放 に反抗 す る囚人 の例 の よ うに,人間 に は秘 匿性 を示 す居住 が ある とい うこ とで あ った. 日常性 において人 間 は,太陽 の光 の世界 ( 善 のイデア) に住 まず,非本来性 にお

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いて とどまる こ とを好 む こ とが あ る としゝうこ とであ る. それ は また世 界 内存在 としての人 間 の実存 が非本来 的実存 か ら本来的実存 への可能性 とともに,本来 的実存 か ら非本来 的実 存 へ頑 落 してゆ ( L J J ‑ 能性 が ある とい うこ ととも考 える こ とがで きる.他 方で,現存在 は現 実性 の堕落 の只 中 に 自己 を見川 していた状態,影 の世 界に とどまっていた状 態 か らその存 在 の本来的在 り方へ の超越 が可能 で もあ る.「 非番蔵 な る もの は覆蔵性 か ら奪 い取 られね ば な らず,或 る意味 にお いて葎蔵性 か ら剥奪 されね ばな らない ( 」) 」( Ⅰ , W .22 3) .「だが しか し, パ イデイア ( 教育) は, その本質 を全 人問 の本質 にお ける転 向へ の導 きにおいて もっ てい るゆ えに, それ はその よ うな転 向 として絶 えず アパ イデ ウシア ( 無教 育) の克服 に留 まってい る.パ イデ イア ( 教育 ) はそれ 白身 の うちに,陶冶 ( 教育 ) の無 さ ( 欠如) に対 す る本 質的 な背後関連 を含 んでい る」 ( PW.2 22) .従 って, 自己存在 あ るい は人間存在 の 非本来性 か ら本来性 へ の超越,世 界へ U j超越 に とって, この 『プラ トン0) 貞理論 nにお け る如 くパ イデイア ( 教育 ) は, その超越 や転 向 を助 ける もの として重要 な役割 を果 たす と い うこ とが い える.

終 りに

ハ イデガー は Uプラ トンの真群論』において, 「 洞窟 o )比

Jには非覆蔵性 としての真理 観 が一万 にある こ とを認 め, そ うした真理 の原初的 な本 質 をパ イデイアの問題 との関連 に お いて取 り 卜げた. そ こで その場合, パ イデ イア は ものの 見方 の変化, あ るい は魂 の転換 として理解 され てい る. そ うした こ とは善 のイデア との関連 でみ る と,生 まれ つ き備 わ っ てい るが,向 いてい る方向が間違 って い る魂 の機能 を善 の イデアの万 に向 け変 える とい う こ とと考 え られ る. その際,ハ イデガー は単 な る知識 の獲得以上 の こ とを述 べ てい る, と い う解釈 も可能 と思 われ る. ところで,教 える こ とと学 ぶ こ とは多 くは内容 ( 教育 内容 ) と結 びついてお り,即 ち教科 の内容 を授 け,教科 内容 を学 ぶ とい うことを意味 してい る.

現実 に は学習指 導 にお いて は,実質陶冶 と形式陶冶 は相互 関連 しつつ進 め られ るが,便宜 上 ここで は, それ らを分 けて考 えるこ ととす る. その場合,ハ イデガー は,学習指 導 にお いて,習得 され た文化 内容 の客観 的側面,即 ち知識 の習得 を主 とす る内容的側 面 にお ける 陶 冶 につ いて は論 じてお らず,少 な くとも実質陶冶論者 で はない よ うに思われ る.小論 で み た よ うに,教師 の役割 は学 ぶ こ とを教 える こと,学 ぶ ことを させ る こ とと見倣 され てい る. その際, 「 学 ぶ こと」は 「 思惟 す る こと」 と関係 づ け られ てい る.形式陶冶論 は知識 に 働 きか ける能力 の育成 に重点 をお く精神 の形 式的側面 にお ける陶冶で あ り,ハ イデガーの 場 合,学 ぶ こ との諸前提,更 に は学 び方 を学 ばせ る といった側 面 を論 じてい る点 で形 式陶 冶諭 に近 いので はないか と考 え られ る.

ところで ドイツで は しば しば …教育 と人 間形成 ' '( Er z i e hungundBi l dung) とい う言 い 方が され る. その名称 について はい くつか の理解 の仕方が あ る と考 え られ る. その一 つ と して, 前者,教育 を教育者 の はた らきか けに よる意 図的 ・計 画的 な営 みで あ り ,Zi e hen と い うこ と,十分引 っぼって行 くことと解 し,後者,人 間形成 ( 陶冶) を s i c hbi l de n ( みず か らを形成 す る こ と) と解 す る ことも,許 され るので はないか と考 える. ハ イデガーの場

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合,人 間形成論 の方 に比 重 をおいて論 ぜ られ うる と思 う.教 える こ とと学 ぶ こ とは人 間 の 全生涯 を通 じて行 われ るプロセスで もあ る.ハ イデガー は レ 存在 と時間』 にお いて現存在 の最 も基礎 的 な構造 は時間性 で あ る とした.更 に彼 は世界 内存在 にお ける人 間の存在様 式 を分析 した.思惟 に して も時間 の地平 にお いて形成 を開 くともい える. また人 間形成 ( 陶 冶) は人 間 の生 きる こと,生涯 に広 が る事象 であ る.教 育 と人 間形成論 が誕生 か ら死 まで 杏,人 間 の人生航路 の歩 み を問題 とす る ことか ら も, 『 存在 と時間』で論 ぜ られ た諸事項 は 人 間形成論 に とって意義 を もってい る と考 える. その解明 を筆 者 の次 の課題 としたい.

( 近)

(1)Wal t e rC. Oks he vs ky, " Epi s t e mol o g iC alandHe r me ne ut l CConc e pt i onsoft heNat ur eOf Unde r s t andi ng.TheCas e sofPaulH. Hi r s tandMar t i n He i de gge r ' ' ,Educ at i onal The or y,Wi nt e r1 9 9 2 ,Vol ume4 2 ,Numbe r1 ,pp.5 ‑ 2 3 .

(2)Phi l os ophi s c he sWOr t e r buc h,St ut t gar t ,Al f r e dKr ( ) ne r ,1 9 6 7 ,S.6 4 (3 )喜多川忠一

,

『 人間‑その生成 と形l 成 』 ,明治図書 ,1 9 67 ,pp 2 82 9 .

(4 ) この箇所 は,新たな見方を獲得すること,あるいは新たな見方が得 られること, ものの見 方が変化することを言い表わ していると考えられる.

( 参考文献)

*ハイデッガー全集別巻 3 , 『 思惟 とは何の謂いか』,四E j谷 敬子他訳,創文社 ,1 9 8 6 . 本文で引用 したハイデガーの著書 とその略記 弓1ま次の通 りである.

Mar t i nHe i de gge r ,

・SZ二 Se l nundZe l t ,1 9 2 7 ,1 5 .Au f l ,MaxNi ( J me yer ,1 9 7 9

・EH : Er はut e r un ge nz u HOl de r l i nsDi c ht un g,Ge s amt aus gabeBd.4 . ,Vl t t Or i oKl os t e r mann,1 9 8 1 .

・WD:Washe l S S tDe nke n7 ,1 9 5 4 ,MaxNl e me ye r

・EM : Ei nf t i hr ungi ndi eMe t aphys i k,Ge s amt aus gabeBd.4 0. ,1 9 8 3 .

・PW :Pl at onsLe hr eYonde rWahr he i t ,i n:We gmar ke n,Ge s amt auS ga beBd.9 . ,1 9 7 6 .

・KM :KantunddasPr o b一 e m derMe t aphys i k,1 9 2 9 ,Fr i e dr l C hCo he n.

( 東北大学教育学研 究科 ・博 士前期課程修 了)

Summar y

I ts eemst o met hatHei de ggerexami neshow and wher e aut hent i c l ear ni ng or l gi nat es .Hedes cr i best hepr er equi s i t esandt hear che t ypeofl ear ni ng.I nconnect i on wi t hl ear nl ng,heal s odi s cus s esf or get t i ng,at t ent i vel i s t enl ng,i nt er e s t ,ands i l e nce.

Whenwel ea r n,i tmeanst hatwer e s pondt ot hecal loft hatwhi c hbe ckonst obe l ear nedandcons i der ed,Ort hatweadaptourconductt owhati scommuni cat edt ous i nconf or mi t ywi t hes s ent i alconc ept s .Now,t heunder s t andi ngofBei ngwi l lpl ayan i mpor t antpar ti nt hef or mat i onofi ndi vi dual s .Toknow meanst obeabl et ol ear nand

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t obeabl et os t andi nt hemani f e s t at i on( Of f enbar ' ke i t )ofbei ngs . Hei de gge ral s o al l a】 yz e sl e ani ngi nr e l at i ono ft hi nki ng. Hes t at e st hatwhatwe( humanbe i ngs . pe r s ons ,pupi l s )l e ar ni st ot hi n k.

Ac c nr di 1 1 gt OHei de gger ,t e ac hi ngi smor edi f f i c ul tt hal ll ear ni ngbe cat l S eWhat t e ac hi ngcal l sf ori st hi s : t ol e tl ear n.I nf ac t , t het e ac he rof f er sanoppor t uni t yt ol ear n not hi n gexc e ptl e ar n

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唱 l t S el f Hei de gge rdoe sl l Ott akei nt ocons i de r at i ol lt hef unc t i on andaut hor i t at i vei nf l t l e I I C e( 1 fat e ac he ront hepupi l se nt r t l S t e dt ohi sc ar e.Ibel i e ヽ ・ e He i de gge rc ons i de r st het he or yofe duc at i onalconductf r om at r ans c e ndent alvi e wI poi l l t .Car e( Sor ge )i ss i gni f i cantf ort hel ear ni ngandgr owt hofpe r s ( ) ns .I l lt hes hape oft het e ac he r ' se duc at i onalconduc t ,c ar es uppor t st hef or mat i on andgr owt h of pe r s ons

Now.Pl at o7 smet aphoroft hec avei sonei l l us t r at i onoft hepr oc e s sof I , al l dc i ( I ( e ducat i on) .Pl at ode s c r i be s I , ai de i a a sagui di ngpr oc e s st hatl e adst oat uni ngar ound oft hee nt i r epe r s oni l 一hi sorhe re s s e nc e. Pai de i a me ansat ur nmgar oundoft hee nt i r e s ( ) ul ,nrani l l ne rt r ans f or mat i onoft hes ou l .Thepr oc e s sofe ducat i on( n 1 01 di ng)i s gr adual l yandcons t ant l yc ar r i e doutbyme ansofhabi t uat i on. P( 1 Z

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l ( 1al s ome anst hat t hee s s e nc eofahumanbe i ngad j us t si t s el ft oi t sas s i gne df i el d. Paz ' de i a i sunder s t ood ast het r ans f or mat i onandt r ans i t i onofs i g htorout l ook,Eac ht r ans i t i onr e qui r e sa habi t uat i ont ot hel i ghtofane ws i t uat i ol l Al e , t he i l l( t r ut h)i sunde r s t oodasdi s cl os ur e Pl I i d e l ‑ aand l i l e t hL , t aar er el at e d,Thees s e nc eofe duc at i oni sgr ounde di nt hee s s e nc e oft r ut h Ibel i e vet hatI I e i de gge r ' snot i onofmol di ng( e duc at i on)i sf or maldi s c i pl i ne,

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参照

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