あまのはしだて
近 世 丹 後 国 「天 橋 立 」
‑ 名 所 ・ 名 勝 の 危 機 と 景 観 保 全 の 論 理 ' 神 罰 と 民 衆
は じ め に
大 江 山 い ‑ 野 の 道 の 遠 け れ ば ま だ ふ み も み ず 天 の 橋 立 長 谷 川 成 一
和 泉 式 部 の 娘 小 式 部 内 侍 が 詠 ん だ 右 の 和 歌 は ' 源 俊 頼 の 撰 に か か る 「金 葉 和 歌 集 」 雑 上 (﹃ 八 代 集 ﹄ 下 巻 博 文 館
一 九 三 一年 九 二 頁 ) に 収 め ら れ ' 小 倉 百 人 一 首 に も 採 録 さ れ る こ と に よ っ て ' 多 ‑ の 人 々 に 丹 後 国 「 天 橋 立 」
への
想 い を か き た て る 契 機 と な っ た 。 天 橋 立 を 和 歌 に 詠 み こ ん だ の は 、 な に も 小 式 部 内 侍 が 初 め て で は な ‑ ' 周 知 の 如 ‑
彼 女 の 母 で あ る 和 泉 式 部 も ' 夫 の 藤 原 保 昌 が 国 司 と し て 丹 後 国 に 赴 任 し た 関 係 か ら 同 国 へ 赴 き ' か の 地 で 天 橋 立 に 関
す る 和 歌 を よ ん で お り ' こ の ほ か に も 天 橋 立 を 題 材 と し た 和 歌 は 、 ま さ に 枚 挙 に い と ま が な い ほ ど で あ る 。 こ の よ う
に い わ ゆ る 都 人 の 和 歌 に 詠 み こ ま れ た 「 天 橋 立 」 は ' 古 代 以 来 、 わ が 国 の 多 ‑ の 人 々 ' と り わ け 文 人 ・ 知 識 人 に と っ
て ' 一 度 は 訪 れ な ‑ て は な ら な い ' 歌 枕 の 地 も し ‑ は 景 勝 探 訪 の 地 と し て 認 識 さ れ て き た 。 す な わ ち 和 歌 の 世 界 か ら
伝 統 的 な 名 所 ・ 名 勝 の 地 と し て ' 天 橋 立 は 人 々 の 脳 裏 に 広 ‑ や き つ け ら れ た の で あ っ た 。 与 さ かた 本 稿 で は 、 先 年 発 表 し た 拙 稿 「近 世 出 羽 国 ﹃象 潟 ﹄ ‑ 名 所 ・ 名 勝 に お け る 歴 史 的 景 観 の 保 存 と 開 発 ‑ 」 (﹃ 文 経 論
39叢 ﹄ 第 二 七 巻 第 三 号 一 九 九 二 年 弘 前 大 学 人 文 学 部 以 後 「拙 稿 象 潟 」 と 略 記 ) に 続 い て ' 右 に 述 べ た ご と ‑ 、 日
94
本 三 景 の 一 つ と し て ' 広 ‑ 人 々 に 愛 さ れ た 名 所 ・ 名 勝 の 丹 後 国 「 天 橋 立 」 に つ い て 、 そ の 景 観 保 全 の 問 題 が い か な る
認 識 の も と で 展 開 し た の か 、 前 近 代 な か ん づ ‑ 近 世 に お け る 領 主 権 力 と 景 観 保 全 、 民 衆 に と っ て の 名 所 ・ 名 勝 の 問 題
に つ い て も 検 討 を 加 え て ゆ き た い 。 な お 文 化 元 年 へ l八
〇四) の 象 潟 大 地 震 に よ っ て 従 来 の 景 観 が 滅 失 し た 、 象 潟 の 景 観 保
かんま
ん じ 存 に 関 わ っ て 、 領 主 権 力 と 出 羽 回
田満寺の 覚 林 と の 、 公 家 を 巻 き 込 ん で の 戟 い を 叙 述 し た 「拙 稿 象 潟 」 に お い て は 、
幕 藩 領 主 、 公 家 ' 寺 社 な ど の 名 所 ・ 名 勝 観 、 伝 統 的 な 王 朝 文 化 の 継 承 に 対 す る 認 識 な ど に つ い て 言 及 し た 。
本 稿 で 述 べ る 天 橋 立 は 、 丹 後 国 宮 津 に 所 在 す る 智 恩 寺 の 飛 地 境 内 で あ っ て 、 幕 藩 体 制 中 期 に 橋 立 切 断 と い う 、 景 観 (‑ 一 損 壊 の 危 機 に 遭 遇 し た 。 そ の 事 態 を め ぐ る 智 恩 寺 と 領 主 権 力 、 地 元 漁 民 と の 争 い は 、 象 潟 と は ま た 異 な っ た 歴 史 的 様
相 を も つ も の で あ っ た 。 以 下 の 章 に あ っ て は 、 前 近 代 に お け る 丹 後 国 「 天 橋 立 」 の 位 置 付 け を お こ な い 、 丹 後 国 宮 津
に 居 城 を お い た 各 領 主 の 天 橋 立 に 対 す る 対 応 、 幕 藩 体 制 下 に お け る 山 野 河 海 と 名 所 ・ 名 勝 の 問 題 を 押 さ え て お き た い 。
そ の う え で 橋 立 切 断 の 危 機 に 遭 遇 し た 智 恩 寺 と 領 主 権 力 、 地 元 漁 民 と の 争 い の 経 過 を 明 確 に し 、 名 所 ・ 名 勝 に お け る
景 観 保 全 の 論 理 を 明 ら か に し て ゆ く こ と に す る 。
「 天 稀 立 の 前 近 代 に お け る 位 置 ‑ 近 世 に お け る 名 所 ・ 名 勝 の 成 立 ‑‑
周 知 の 如 ‑ 、 京 都 府 宮 津 市 に 所 在 す る 天 橋 立 は 、 同 市 府 中 の 江 尻 か ら 南 対 岸 の 文 殊 に 向 か っ て 突 き 出 し ' 宮 津 湾 と
阿 蘇 海 を 仕 切 っ て 南 西 に の ぴ る 、 長 さ 三 二 七 二 メ ー ト ル 、 幅 四 〇 か ら 二 〇 メ ー ト ル の 砂 塀 で あ る 。 昭 和 二 十 七 年 (完 五 二) 年 に 特 別 名 勝 に 指 定 さ れ 、 若 狭 湾 国 定 公 園 の 西 端 に 位 置 す る 。 現 在 、 橋 立 の 途 中 が 切 れ て 北 の 大 天 橋 と 南 の 小
天 橋 に 分 か れ 、 唐 橋 風 の 通 称 大 天 橋 が か か る 。 中 天 橋 と 本 土 (文 殊 堂 智 恩 寺 ) 間 に 狭 水 道 の 切 戸 (別 称 文 殊 の 瀬
戸 ) が 阿 蘇 海 に 通 じ 、 回 旋 橋 が 両 者 を 結 ぶ 。 詳 し ‑ は 別 図 を 参 照 さ れ た い 。
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五つg.㌔
虹 冊 謙 冊 誹 ⁝ \\ っ ′1 )
天 橋 立 を 訪 れ た 人 々 で ' 前 述 の 如 ‑ 和 歌 を 詠 み 紀 行 文 を 草 し た 文 人 墨 客 は 、 そ れ こ そ 数 え 切 れ な い ほ ど で あ ‑ ' 紙
6
9
幅 の 限 ら れ た 本 稿 に お い て は そ れ ら を 全 て 紹 介 す る 余 裕 は な い 。 し た が っ て 天 橋 立 に 関 し て ' そ の 名 所 ・ 名 勝 と し て
の 景 観 を 表 現 し 論 評 を 加 え た ' 代 表 的 な 史 料 類 を 検 討 す る こ と に し た い 。
ま ず 古 代 に お い て は ' 丹 後 国 の 風 土 記 逸 文 「 天 椅 立 」 (﹃ 風 土 記 ﹄ 日 本 古 典 文 学 大 系
2岩 波 書 店
一九五八年復刻四七
〇 頁 ) に ' 次 の よ う に 見 え る 。 たに
はの み
ちのしりよさこほりこほりのみやけうしとらすみかたはやしさとさと丹後
の 園 の 風 土 記 に
臥は く '
輿謝の
郡。郡家の
東北の
隅の
方に
速石の
里あ り 。 此 の
里の 海 に 長 ‑ 大 き な さ
きつゑ つ
ゑよりしもつゑよりかみつゐよりしもさきあまはしだ
てしりる 前 あ ‑ 。 長 さ は 一 千 二 百 井 九 丈 ' 贋 さ は 或 る 所 は 九
丈以下'或 る 所 は 十
丈以上'升
丈以下な り 。
先を
天の
橋立と 名 づ け '
後‑ し は ま し か い く に う い ぎ な ぎ
のみ こ
とあめかよ い
はし を 久 志 の 演 と 名 づ ‑ 。 然 云 ふ は ' 囲 生 み ま L L 大 神 ' 伊
射奈聾命、天に
通ひ
行で ま き む と し て '
棒を 作 ‑ 立 て か
れはしだ て い み
ねあひだ た ふ
ふすなは
くしぴあ
やした ま ひ き 。
故'天 の
橋立と
云ひ き 。 両 の
御寝ま せ る
間に
什れ
伏し き 。
偽ち
久志備ま す こ と を
惰み た ま ひ き 。 かれ
くし
ぴはまい こ
なか
つよくし い
これひ
ひが
しよ さ あ そ
うみい故、久志備
の
演と
云ひ き 。
此を
中間に
久志と
云へ ‑ 。
此よ り
東の 海 を
輿謝の 海 と
云ひ ' 西 の 海 を
阿蘇の
海と
云二 ふた
おもて
くさぐさう
AJか
ひど
もすた
だう
ひざす
くな ふ 。
是の
二面の 海 に '
雑の
魚貝等住め ‑ 。
但'蛤は
乏少し 。
こ こ に 「 天 椅 立 」 の 地 名 が 初 め て 見 え ' 「 天 橋 立 」 は 伊 射 奈 聾 命 が 天 に 通 わ ん と し て 作 っ た 梯 で あ っ て 、 そ れ が 倒
れ て 海 上 に 横 た わ っ た t と し て い る 。 さ ら に 「神 の 御 寝 ま せ る 」 (「 神 御 寝 坐 」 ) の 場 と し て も ' す な わ ち 神 の 住 み 給
う 場 と し て 「 天 橋 立 」 は 認 識 さ れ て い た 。
柳 田 囲 男 は ' こ の 伝 説 に 疑 問 を 投 げ か け て お ‑ ' 「 ハ シ ダ テ と 云 へ ば 梯 を 立 て た や う な 峻 し き 岩 山 を 云 ふ の が 常 の
こ と で ' 其 の 梯 が 倒 れ て 後 に 之 を 橋 立 と 云 ふ の は 不 自 然 な る の み な ら ず ' 風 土 記 に 大 石 前 と あ る の が 今 と 合 は ぬ 。 此
は 寧 ろ 湾 の 外 側 の 岩 山 の こ と で あ っ た の を 名 称 と 口 碑 と が 何 時 か 湾 内 の 砂 塀 に 移 っ て 来 た も の と 見 ら れ る 。」 (「 地 名 な り あ い の 研 究 」 ﹃定 本 柳 田 国 男 集 ﹄ 第 二 十 巻 所 収 筑 摩 書 房
一九七一年一八九頁)と あ ‑ ' 橋 立 本 来 の 名 前 は '
成相97
(宮 津 市 の 成 楯 山 ' 西 国 三 十 三 観 音 霊 場 二 十 八 番 所 の 成 相 寺 が そ の 中 腹 に あ る ) の 方 が 当 た っ て い る と 述 べ て い る 。
し た が っ て 前 記 小 式 部 内 侍 が 詠 み 込 ん だ 天 橋 立 は ' 現 在 の 天 橋 立 で は な い 可 能 性 が あ る (「 北 国 紀 行 」 同 前 第 三
巻 所
収一 六 八 頁 ) t と す ら 記 述 し た 。 本 稿 の 目 的 は 地 名 の 適 否 を 判 断 す る も の で は な い の で ' 柳 田 の 疑 問 は こ の
際 措 ‑ と し て ' 天 橋 立 を 柳 田 の い う 成 相 で は な ‑ ' 現 在 ま で 広 ‑ 認 め ら れ 、 人 口 に 腺 炎 し た 天 橋 立 に 焦 点 を す え て 検
討 を 加 え て い ‑ こ と に し た い 。
中 世 に あ っ て は ' 貞 和 四 年 ( 二 二四 人 ) ' 本 願 寺 三 世 覚 加 が 訪 れ て お り (「 慕 帰 絵 詞 」 巻 九 ﹃続 日 本 絵 巻 大 成 ﹄ 四 中
央 公 論 社 一 九 八 五 年 所 収 七 二 ‑ 七 四 頁 ) ' 室 町 幕 府 三 代 将 軍 足 利 義 滴 ら は 前 後 六 回 に も わ た っ て 文 殊 堂 に 来 て
い
る (「 東 寺 王 代 記 」 等 ) 。 ま た 連 歌 師 紹 巴 は ' 永 禄 十 二 年 ( 一票 九 ) 橋 立 に 至 り ' 「 見 ぬ 人 に は か た り て も 詞 残 り ' ゑ L
と 云 と も 筆 か き り あ る べ し 」 (「 天 橋 立 紀 行 」 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 蔵 ) と ' そ の 景 観 を 称 揚 し た 。
近 世 に お け る 名 所 ・ 名 勝 の 成 立 近 世 に 入 る と ' 京 都 の 公 家 や 著 名 な 文 人 の み で な ‑ ' 中 世 と は 比 較 に な ら ぬ ほ ど 多
‑ の 人 々 が 各 地 を 旅 行 す る よ う に な っ た 。 そ の よ う な 人 々 に 対 す る 旅 の 案 内 へ も し ‑ は 見 る べ き 有 名 な 名 所 な ど に つ
い て の ' 「‑ 名 所 記 」 な ど の 手 引 書 が 作 成 さ れ る よ う に な っ た 。 旅 行 の 案 内 記 自 体 は 近 世 中 後 期 に い た っ て 数 多 ‑ 板
行 さ れ る が ' 国 内 に お け る 名 所 ・ 名 勝 に 関 す る 関 心 は 幕 藩 体 制 成 立 期 よ り 次 第 に 高 ま り ' 「 三 景 」 も し ‑ は 「 十 二 景 」
な ど に 数 え 上 げ る こ と が お こ な わ れ る よ う に な っ た 。 そ の な か で 最 も 早 ‑ 日 本 三 景 を 掲 出 し た の は ' 「本 朝 通 鑑 」 の
編 纂 で 名 高 い ' 儒 者 の 林 春 斎 で あ ろ う 。 春 斎 の 「 日 本 国 事 跡 考 」 (﹃ 松 島 町 史 ﹄ 資 料 編 Ⅱ 松 島 町 一 九 八 九 年 六 五
四 頁 ) に よ れ ば '
松 島 此 島 之 外 有 二 小 島 若 干 1 殆 如 二 盆 池 月 波 之 景 一 境 致 之 億 、 与 下 丹 後 天 橋 立 ・ 安 芸 厳 島 上 ' 為 二 三 処 奇 観 二
寛 永 二 十 年 八 月 十 三 日
とあり、松島'丹後天橋立、安芸厳島が「三処奇観」として掲げられており、寛永二十年(一盃三)の段階で'このよ
8
9うな日本三景観が形成されていたのである。なお春斎の父林羅山は、「本朝地理志略」(﹃続々群書類従﹄八国書刊
行会一九
〇 六 年 六 頁)
のなかで天橋立を「一州之美景也」と形容しており、この段階では三景の表現はみえない。しかし寛永二十年という時期は、春斎が二十五歳の時であり、父羅山も生存中であることを想えば、当時の学者の間(2一ではこのような「三処奇観」‑日本三景の考え方が広‑認められていたともいえよう。
しかし天和三年二六八三)に天橋立をおとづれた大淀三千風はその景色を愛でて、「本朝十二景第四の風光也」と記し
た
(「日本行脚文集」第1﹃校訂紀行文集﹄博文館l九〇
七年所収二九三頁).三千風は著作の冒頭に「本朝十二景」(同前三四九頁)を掲げておりへその十二景とは'次のようなものであった。
第一田子の浦
四
橋立(丹後)七
厳島(安芸)十 松 江 (出 雲 )
(駿河)二松島(奥州)三箱 崎 (筑前 )
五若浦(紀
伊 )
六鳩 湖 (近 江 )
ママ人相象(出羽 )
九朝 熊 (伊 勢 )
十 一 明 石 (播 磨 ) 十 二
金沢(武蔵)と'いずれも名所・名勝として世に知られた地であった。なおこれによれば天橋立は第四位にランキングされてお
り、十七世紀末の時点で天橋立は三景から除外されることもあったようである。しかしなぜ第四としたのか、残念な
がらその根拠は示されていない。
日本十二景については、幕藩体制後期の安永初年から天明の末年まで諸国を旅行した、京都の豪商百井堵雨の紀行
文「笈挨随筆」(﹃日本随筆大成﹄第二期第六巻日本随筆大成刊行会一九二八年五
〇
四頁)に、「本朝に十二の絶景あり」として、前記「日本行脚文集」と同様の地名が列記されている。ただし百井塘雨は天橋立を第四と位置
づけていないことを注意しておきたい。また「笈填随筆」では天橋立について'「橋立は神書に日‑'陰陽の二神'
天の浮橋に立て誓言し給ふと'其手相を宴に現す。(中略)誠に奇景絶勝な‑」(同前)と記述し、前述した「丹後国
風土記逸文」を踏まえた内容を紹介している。この「丹後国風土記逸文」を紹介して天橋立の由来を叙述したのは「笈填随筆」だけではな‑'代表的な事例としては'明和・安永頃に同地をおとづれた上田秋成の「秋山の記」にも'
「此国の風土記に」として、橋立の由緒に触れているのが注目されよう(「秋山の記」﹃校訂続紀行文集﹄博文館一
九
〇 〇 年
五六二頁)。さて天橋立が日本三景の一つとして定着をみるのは'元禄期頃ではないかと推察される。近世における偉大な博物
学者の貝原益軒が近畿地方の旅行に出たのは元禄二年(一六八九)閏正月のことであって、その旅行における見聞を克明に
記したのがへ「己巳紀行」中の丹波丹後若狭紀行であった。京都を出立して園部'福知山'大江山を過ぎて宮津に
入ったのは'同月二十八日のことであ‑、彼は早速「五台山久世戸寺」(智恩寺)を拝観Lt天橋立に至った。そこ
で「己巳紀行」(﹃東路記己巳紀行西遊記﹄新日本古典文学大系九八
岩 波 書 店
一九九1年ll四頁)にあっては'次のように天橋立を批評した。
橋立に松多し。甚'美也。是よ‑江の尾まで十町斗の間、海中に一条のひき、沙原の岡あり。横は七八間'十余
間'廿間にたらず。老松茂れ‑。此十町許の所'恰'海中に橋をわたせるが如し。故に「橋立」と号するならん。(中略)其景絶言語。日本の三景の一とするも宜也。
とみえ'貝原益軒の目にも天橋立は絶景として認められたのであった。しかも日本三景と明確に記している。しか
し丹波や丹後から帰って後に'高野山や和歌山など紀伊方面へ出かけた'同じ「己巳紀行」の南遊記事ではtと‑に
9
9和歌の浦の景色を見て感動の余‑'「日本三景の内'松島はいまだ見ず。安芸の厳島'丹後天橋立も尤美景也といへ
ど も 、 お そ ら ‑ は 此 浦 の 個 景 に は 及 ぶ べ か ら ず 。 予 が 遊 観 せ し 諸 国 の 佳 境 多 L と い ヘ ビ も ' か く の ご と ‑ な る は い ま
畑 だ 見 ず 」 (同 前 1 四 一 頁 ) と 評 し て お り , 和 歌 の 浦 が 日 本 三 景 を し の ぐ 景 観 を 保 持 し て い る こ と を 強 調 し た . こ の
こ と は 、 当 時 に あ っ て 日 本 三 景 の 概 念 が あ る 程 度 固 ま っ て い た こ と を 示 す も の で あ り ' そ れ と の 比 較 に お い て 景 観 の
優 劣 が 論 評 さ れ て い る こ と を 我 々 は 汲 み 取 る べ き で あ ろ う 。 日 本 三 景 の 固 定 化 が ' 十 七 世 紀 末 に 始 ま っ て い た の で あ
る 。 な お 天 明 二 年 ( 一七 八 二) に 成 立 し た 天 野 信 景 の 「塩 尻 」 (﹃ 日 本 随 筆 大 成 ﹄
一六第 三 期 吉 川 弘 文 館 一 九 七 七 年
五 六 頁 ) に お い て は ' 天 橋 立 に 加 え て 「陸 奥 松 島 ' 出 羽 の 象 潟 と 合 せ て 三 勝 景 と 云 」 と あ り 、 安 芸 厳 島 で は な ‑ 出 羽
象 潟 を 日 本 三 景 の な か に 含 め て い る 。 し か し 大 部 分 の 人 々 が 記 す 日 本 三 景 の 中 身 は 、 象 潟 で は な く 厳 島 で あ る こ と は
間 違 い な か ろ う L t 前 述 の 如 ‑ 文 化 元 年 の 象 潟 大 地 震 の 結 果 象 潟 が 滅 失 し た 状 況 に あ っ て は ' な お さ ら で あ っ た と 考
え ら れ る 。 (3 ) こ の よ う な 随 筆 、 紀 行 文 で は な ‑ ' 地 誌 書 に あ っ て は い か が で あ ろ う か 。 京 都 と 畿 内 に 関 す る 主 要 な 地 誌 書 で あ る 「京 華 要 誌 」 (﹃ 新 撰 京 都 叢 書 ﹄ 第 三 巻 臨 川 書 店 一 九 八 七 年
所収 四 二 ‑ 四 二 1頁 ) に 見 え る 天 橋 立 を ' 次 に
掲 げ る 。
与 謝 海 の 中 央 に 当 り て 北 の 方 ' 成 相 山 の 麓 よ り 南 の 方 ' 智 恩 寺 の 近 傍 ま て 突 出 せ る 一 条 の 長 洲 に し て ' 丹 後 風 土
記 に 其 長 二 千 二 百 二 十 九 丈 ' 幅 九 丈 二 尺 と あ り 。 青 松 疎 に 其 間 に 並 列 し て ' 白 波 蒼 潤 と 相 映 し ' 漁 舟 布 帆 左 右 を
往 来 し て 勝 景 殆 と 名 状 す へ か ら す 。 所 謂 日 本 三 景 の 一 な れ は 、 地 は 北 海 の 辺 隅 に 僻 在 す れ と も ' 内 外 遊 人 四 方 よ
り 至 り ' 其 名 字 内 に 聞 ゆ 。
と あ り 、 こ こ に お い て も 天 橋 立 が 日 本 三 景 の 一 つ と し て 記 さ れ て お り 、 揺 る ぎ な い も の と し て 地 誌 に 登 場 し た の で
あ っ た 。 な お 「京 華 要 誌 」 (同 前 四 一 〇 ‑ 四 二 頁 ) に 見 え る 丹 後 国 智 恩 寺 に 関 し て 注 目 し て お ‑ べ き は 、 智 恩 寺
101
の南二町余りが昔は殺生禁断の地であったという記述である。後述する智恩寺への禁制の問題とも含め、ここでは一
応注意を喚起するのみにとどめておきたい。
古川古松軒の名所・名勝競天明八年(T七八八)九月二十九日'松島に至り'名勝の地をみた古川古松軒は'その素晴ら
しさを手放しで称揚した。そこで'国内における名所・名勝に関する論評を次のように記述した(﹃日本庶民生活史
料集成﹄第三巻三一書房一九六九年五七一頁)。
昔時よりも丹州天の橋立⊥云州厳島'この松島とをして'本朝の三景とす。鳴呼愚眼なるものかな'橋立・厳島
をならべ論ずべき松しまにはあらず。予'山水の癖ありて'諸州を巡り'予が見る所の勝景をもって考へおもふ
に'富士山・田子浦および清見ケ関'三穂ケ崎の風景を日本第lとして、碁にたとへて云は
.,,
'松島の景四'五(薩)目も劣るべし。それより芸州坊の津の海連'丹州天の橋立一双として'松島に劣る事九日も弱かるべし。(下略)(傍注筆者)右にみえるように古松軒は'囲碁にたとえて'景観の序列づけをおこなっており'その前提として「丹州天の橋立'
芸州厳島'この松島とをして、本朝の三景とす」と'日本三景が厳然として存在することを述べている。しかしこの
三景論は、ナンセンスであると論断Lt松島は別格であり'新たな序列づけを試みた。ここにみえる古松軒の考えは'
今まで述べてきた三景論'「日本行脚文集」などに見られる「本朝十二景」論とは全‑相違する'彼独自の景観論と
みなしてよかろう。それは古松軒自身でも述べているように「予、山水の癖ありて'諸州を巡り'予が見る所の勝景
をもって考へおもふに」と、実際に各地を踏査して実見した結果をもって判断の材料としているところに'その特徴
が認められよう。また象潟の箇所でも古松軒が述べていたように'従来の名所・名勝は'西行や能因'松尾芭蕉など
によって和歌に詠まれ'それでもってはじめて歌枕としての地位を獲得し'名所・名勝としての資格を得ることが可
能 な の で あ る と し て お り (同 前 四 八 三 頁 ' 「拙 稿 象 潟 」 一 〇 三 頁 を 参 照 の こ と ) ' 古 松 軒 は そ れ と は 異 な る 名 所 ・ 名 2 10 勝 観 を 打 ち 出 そ う と し た 。 そ の お お よ そ の 枠 組 み が 右 に 見 ら れ た 各 地 の 名 所 ・ 名 勝 の 地 名 で あ り ' ま た 序 列 な の で
あ っ た 。 す な わ ち 古 来 の 歌 枕 、 文 人 墨 客 の 紀 行 文 な ど に よ ら ず ' 景 観 に 対 す る 伝 統 的 な 観 念 の 枠 組 み を 脱 却 し た 姿 が
そ こ に 見 ら れ る の で あ り ' 新 た な 名 所 ・ 名 勝 観 の 成 立 と 称 し て も よ か ろ う 。 こ こ に 大 藤 時 彦 氏 が い う よ う に 、 地 理 学
者 と し て ' ま た 当 時 の 科 学 的 な 合 理 主 義 者 と し て (﹃ 東 遊 雑 記 ﹄ 解 題 東 洋 文 庫 二 七 平 凡 社 一 九 六 四 年 ) の 古 川 E・T. ) 古 松 軒 の 一 側 面 を 認 め る こ と が で き よ う
。し か し 古 松 軒 の 提 唱 し た 名 所 ・ 名 勝 観 は ' 必 ず し も 全 国 的 な 普 及 を み た と は い え ず ' 文 化 十 一 年 ( 一八 一四 ∵ 八 月 十 三 日 '
天 橋 立 を お と づ れ た 修 験 者 野 田 成 亮 は ' 旅 行 記 「 日 本 九 峰 修 行 日 記 」 に ' 「 此 橋 立 と 云 ふ は 幅 二 十 間 計 り に し て 良 さ
一 里 ' 東 は 成 相 の 万 よ ‑ 南 西 に 流 れ し 砂 原 也
。日 本 三 景 の 一 つ 也 。」 へ﹃ 日 本 庶 民 生 活 史 料 集 成 ﹄ 第 二 巻
三T書房一 九 六 九 年 九 l二 頁 ) と ' あ い も か わ ら ぬ 日 本 三 景 論 を 記 述 し て い る 。 こ こ に 見 え る よ う に ' 古 川 古 松 軒 の 景 観 論 は '
幕 藩 体 制 下 に あ っ て は 広 範 に 認 め ら れ る 状 況 に は な か っ た よ う で あ る ユ
な お 近 代 に は い っ て か ら ' 大 正 十 丁 年 二 九 三 一 三 月 ' 内 務 省 告 示 第 四 九 号 を も っ て 、 天 橋 立 公 園 並 び に 文 殊 境 内 と そ
の 付 近 の 要 所 は 、 史 蹟 名 防 天 然 紀 念 物 に 指 定 さ れ 、 種 別 は 名 勝 に 認 定 さ れ た (﹃ 丹 後 宮 津 志 ﹄ 京 都 府 与 謝 郡 宮 津 町 役 へlJ 一 場 一 九 二 六 年 九 九 頁 ) 。 大 正 八 年 に ' 史 蹟 名 勝 天 然 紀 念 物 保 存 法 が 制 定 さ れ て か ら 三 年 後 で あ っ た 。
二 、 近 世 宮 津 藩 の 各 領 主 と 智 恩 寺 ・ 天 橋 立 ‑ 山 野 河 海 と 名 所 ・ 名 勝 ‑
近 世 に お い て 宮 津 に 居 城 を お い た 幕 藩 領 主 は ' 慶 長 五 年 二 六
〇〇)の 時 点 で 当 地 方 を 支 配 し て い た 細 川 氏 を 含 め て 、 七
家 に の ぼ る 。 す な わ ち 細 川 ' 京 極 、 永 井 ' 阿 部 ' 奥 平 ' 青 山 ' 本 庄 の 各 氏 で あ り ' 各 々 の 宮 津 在 城 期 間 ' 入 封
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別表 宮津藩侯主の変遍
霊前小倉へ転封 改易 改易
下野宇都宮へ転封 豊前中津へ転封 美濃郡上へ転封
‑慶長5年11月
‑寛文6年5月
‑延宝8年8月
‑元禄 lD年2月
‑享保2年2月 一室暦8年12月
‑維新 に至 る 細川藤孝 ・忠典、丹後へ入部
京島高知、信州高遠 より12万3千石余で移封 永井尚征、山城淀 よ り7万3千石余で移封 阿蘇正邦、武蔵岩牧より9万9千石余で移封 臭平畠成、下野宇都宮 より9万石で移封 青山幸秀、信州東山より4万8千石で移封 本庄資昌、遠州浜松 より7万石で移封 天正8年8月
慶長5年12月 寛文9年2月 延宝9年2月 元禄 川年2月 享保2年2月 宝暦8年12月
r丹後宮津誌」 (京都府与謝郡宮津町役場 1926年)、 r青史捻覧」 (新人物往来社 1977年)、
r内閣文庫諸侯年表.I (東京堂 出版 1981年)などを参考にした。
と 移 封 な ど は ' 別 表 を 参 照 さ れ た い 。 各 大 名 の 移 封 と 入 封 の 時 期 に は 若 干
の 空 白 が あ る が ' そ の 間 は 一 時 幕 府 領 で あ っ た 。 宝 暦 八 年 二 七五 八 ) に 入 封 し
た 本 庄 氏 が 最 も 長 期 に 宮 津 に 在 城 し た が 、 お お む ね 永 井 氏 を 筆 頭 に ' 格 式
の 高 い 有 力 な 譜 代 大 名 の 封 地 で あ っ た こ と は 間 違 い な い 。 と り わ け 本 庄 氏
は 周 知 の 如 ‑ 五 代 将 軍 徳 川 綱 吉 の 生 母 桂 昌 院 の 出 身 家 で あ っ た こ と か ら ' lr ) 幕 府 で も 寺 社 奉 行 ・ 老 中 な ど の 有 力 な 役 職 に 就 任 す る 家 柄 で あ っ た 。 こ の
よ う に 宮 津 藩 は 京 都 の 北 西 の 後 背 地 を 守 護 す る ' 幕 藩 体 制 下 に お け る 有 力
譜 代 大 名 の 封 地 と し て ' 位 置 づ け ら れ た の で あ っ た 。
こ こ で 智 恩 寺 に つ い て 簡 単 に 説 明 し て お ‑ 必 要 が あ ろ う
。同 寺 は 臨 済 宗
妙 心 寺 派 に 属 し 、 本 尊 の 文 殊 菩 薩 は 日 本 三 文 殊 の 一 つ と い わ れ ' 切 戸 の 文
殊 堂 ' 九 些 P の 文 殊 堂 ' 単 に 九 世 戸 と も よ ば れ た 。 寺 伝 に よ れ ば 延 喜 年 間
の 創 建 で 、 五 台 山 と 号 L t 「拾 芥 抄 」 に も 寺 名 が 見 え (﹃ 日 本 歴 史 地 名 大 系
27
京 都 府 の 地 名 ﹄ 平 凡 社 一 九 八 一 年 七 五 七 頁 ) 、 前 記 「京 華 要 誌 」 (四 二 百 ハ) に は ' 「寺 領 五 十 石 を 食 む 」 と あ り 境 内 の 南 側 二 町 余 ‑ は 昔
時 殺 生 禁 断 の 地 で あ っ た と い う
。さ て 宮 津 の 各 領 主 と 智 恩 寺 ・ 天 橋 立 と の 関 係 に つ い て は ' 細 川 氏 と の そ
れ か ら 申 し 述 べ た い
。中 世 に あ っ て 一 色 氏 の 支 配 地 で あ っ た 丹 後 地 方 が 、
織 田 信 長 の 命 を 受 け て 明 智 光 秀 と と も に 細 川 藤 孝 ・ 忠 興 父 子 (こ の 時 期 は '
1 0 4
長 岡 氏 を 称 し て い る ) に よ っ て 平 定 さ れ た の は ' 天 正 八 年 (三 八
〇)の こ と で あ り ' 同 年 八 月 に 細 川 氏 は 丹 後 を 与 え ら れ
て 入 国 し た (奥 野 高 広 ﹃増 訂 織 田 信 長 文 書 の 研 究 ﹄ 下 吉 川 弘 文 館 一 九 八 八 年 復 刻 五 二 二 頁 ) 。 当 時 に あ っ て 第
一 級 の 歌 人 で あ り ' 文 人 で も あ っ た 細 川 藤 孝 は ' 「 丹 後 入 国 の 刻 橋 立 を ミ に ま か り て 」 (﹃ 綿 考 輯 録 ﹄ 第 一 巻 扱 古 書
院 一 九 八 八 年 二 二 三 頁 ) と あ る よ う に へ 丹 後 入 部 に あ た っ て き っ そ ‑ 天 橋 立 を お と づ れ ' 次 の よ う な 和 歌 を 二 首
詠 ん で い る 。
そ の か ミ に 契 り 初 つ る 神 代 ま て か け て そ 思 ふ 天 の 橋 立
い に し へ に 契 り し 神 の ふ た 柱 い ま も 朽 せ ぬ あ ま の は し 立
と あ り ' 前 記 「 丹 後 国 風 土 記 逸 文 」 の 内 容 を 踏 ま え た 右 の 和 歌 に は ' 当 時 に あ っ て 一 流 の 教 養 人 で あ っ た 藤 孝 の 面
目 躍 如 た る も の が あ ろ う 。
さ て 細 川 氏 は ' 丹 後 に 入 部 し た そ の 月 に 早 ‑ も 宮 津 築 城 の 許 可 を 信 長 に 対 し て 求 め て お り (前 掲 奥 野 ﹃増 訂 織 田 信
長 文 書 の 研 究 ﹄
下五 二 五
〜五 二 六 頁 ) ' 本 格 的 な 領 国 経 営 に 乗 り 出 し た 。 つ い で 入 部 の 翌 月 へ 天 正 八 年 九 月 二 十 五
日 ' 細 川 氏 は 藤 孝 ・ 忠 輿 父 子 両 名 の 名 で ' 智 恩 寺 へ 次 の よ う な 文 書 を 発 給 し た (東 京 大 学 史 料 編 纂 所 蔵 影 写 本 「智 恩
寺 文 書 」 ) 。
当 山 儀 為 無 双 霊 境 上 ' 本 寺 相 国 法 住 寺 事 外 祖 三 上 帰 依 之 由 緒 在 之 間 ' 不 混 自 余 御 寺 領 等 如 先 々 申 付 候 ' 被 仝 所 務
可 被 励 興 隆 事 肝 要 候 ' 恐 憧 謹 言 '
天 正 八
九 月 廿 五 日 長 岡 兵 部 大 輔 藤 孝 (花 押 )
同 与 一 郎 忠 興 (花 押 )
105
天 橋 山
智 恩 寺 役 者 御 中
細 川 氏 は ' 智 恩 寺 を 「無 双 霊 境 」 と 位 置 づ け 、 ま た 由 緒 深 き 寺 院 で あ る か ら 寺 領 を 安 堵 す る と 述 べ て い る 。 「無 双
霊 境 」 と は ' そ の 境 内 に 天 橋 立 を 包 含 し て い る 点 を さ し て い る と 考 え ら れ ' 前 述 の 藤 孝 が 天 橋 立 に 臨 ん で 詠 ん だ 和 歌
の 内 容 か ら し て も ' こ の こ と は 間 違 い な い で あ ろ う 。 右 の 文 書 で は ' 細 川 氏 入 部 に よ る 領 内 の 混 乱 を 押 さ え る 意 図 か
ら 従 来 の 寺 領 を 認 め る と い う 文 言 に し た も の と 思 わ れ ' 具 体 的 な 寺 領 の 石 高 や 面 積 が 記 さ れ て い な い 。 そ れ が 天 正 十
年 八 月 に は ' 智 恩 寺 文 殊 知 行 分 と し て ' 石 河 ' 須 津 ' 宮 津 に 知 行 地 が 定 め ら れ た (前 掲 「智 恩 寺 文 書 」 ) 。 こ の よ う に
本 格 的 な 寺 領 の 安 堵 を 実 施 し た 細 川 氏 は ' こ れ 以 降 智 恩 寺 の 支 配 統 制 を 強 め た の で あ る 。 す な わ ち 天 正 十 一 年 十 一 月
七 日 に は ' 次 の よ う な 禁 制 を 忠 輿 一 人 の 名 で 発 給 し た (同 前 ) 。
禁 制
一 ' 山 林 竹 木 伐 採 事 '
一 ' 橋 立 於 裏 向 放 鉄 他 事 '
一 ' 於 仏 前 責 馬 事 '
右 修 々 於 相 背 輩 者 可 成 敗 者 也 ' 如 件 '
天 正 十 一
十 一 月 七 日 越 中 守 (花押 )
右 の 禁 制 は ' 当 時 に あ っ て は こ と め ず ら し い も の で な い が ' 第 二 条 目 の 「橋 立 於 裏 向 放 鉄 他 事 」 は ' 注 目 さ れ よ う 。
す な わ ち 前 述 の 如 ‑ 智 恩 寺 の 境 内 が 殺 生 禁 断 の 地 で あ っ た こ と は 「京 華 要 誌 」 に 見 え る と こ ろ で あ っ て ' こ こ に お い
て 天 橋 立 の 裏 向 で 鉄 砲 の 射 撃 を 禁 止 し て い る こ と は、 同寺 の 境 内 一 帯 の 殺 生禁 断 を さ し て い る も の と み て 支 障 な か ろ
誓
つ .ま た 橋 立 が智 恩寺 の 境 内 に 属 す る こ と も , こ の 条 に お い て 明確 に 示 さ れ て い る。 た だ し 右 の 禁 制 内 容 は, な に も
細 川氏 が 最 初 に と り 決 めた こ と で はな ‑ ' 古 代 中世 以 来 の 智 恩寺 と 橋 立 と の 関係 を '領 主 権 力 が 同寺 の 支 配 統 制 を 強
化 し てゆ ‑ な か で ' 従 来 の 慣 例 に 基 づ い て 追 認 した に すぎ な い と 推 察 さ れ る 。 な お細 川 氏 の 後 に 宮 津 に 入 部 した 京 極
氏 は、慶 長 五 年 (一
六〇〇)十 二月 二 十 五 日 に ' 京 極 高 知 生 双 の 名 で 、全 ‑ 同 文 の 禁 制 を 智 恩 寺 へ 発 給 し て お り (同 前 ) '
こ の 禁 制 自 体 が 智 恩 寺 に た い す る 代 々 の 各 領 主 の ' 基 本 的 な支 配統 制 の 根 幹 を な した ので あ っ た
。右 の 禁 制 に 加 え て 細 川 氏 は ' 文禄 三 年 二 五 九 四) 六 月' 次 の よう な 統 制 令 を 智 恩寺 へ 対 し て 発給 した (同 前 ) 。
於 当 寺 中 相 撲 喧 嘩 口 論 之事 堅御 停 止 之 候 ' 若 相 背 族 在 之 者 注 進 次 第 可 有 御 成 敗者 ㌔
筆)文 禄 三 年
六 月 廿 四 日 細 川家 御 家老 一 之 番
宗 堅 (花 押 )
発 給 者 は細 川 氏 の 家 老 米 田 宗 堅 で あ っ て '前 記 天正 十 一 年 の 忠 興 に よ る 禁 制 を 踏 ま え て さ ら に より 近 世 的 な 統 制 を
実 施 した 。 こ こに 智 恩寺 は' 前 述 し た よう に 文殊 知 行 す な わ ち 寺 領 の 宛 行 と と も に 領 主 権 力 の 支 配 も 同 様 に 受 け る こ
と に な り 、 細 川 氏 によ っ て 開始 し た 近 世的 な 支 配 の 形 態 は '宮 津 に 入部 した 各 大 名 達 に 受 け 継 がれ た 。 ま た 天 橋 立 は
智 恩 寺 の 境 内 と し て 、 同 寺 の 管 理 の もと に あ る こ と が 各 領 主 に認 め ら れ た 。
別表 宮 津 藩 領 主 の 変 遷表 に み るよ う に '慶 長 五 年 に 細 川氏 が豊 後 小 倉 へ 転封 し て 後 、 信 州高 遠 か ら 新 た に入部 し た
京 極 氏 は 、前 述 した よ う に 、 丹 後 に入部 し て た だ ち に 細 川忠 興 が 天正 十 一 年 に 発 給 し た の と 同文 の 禁 制 を ' 智 恩寺 に
対 し て 出 し て い る
。そ れ に 加 え て 京 極 高 知 は 、 翌 慶 長 六年 五月 ' 次 の よ う な寺 領 宛 行 状 を 智 恩 寺 に 対 し て 給 付 し た
(同 前 ) 。
当 山 儀 為 無 双 霊 境 間 ' 為 寺 領 如 先 々 五 捨 石 申 付 候 、 仝 所 務 可 被 励 興 隆 事 肝 要 候 、 恐 憧 謹 言 、
慶 長 六
五 月 晦 日
羽柴修理大夫生 双 化 押 )
天 橋 山 智 恩 寺 役 者 御 中
こ こ で 初 め て 寺 領 の 総 石 高 が 示 さ れ た の で あ り (天 正 十 年 の 宛 行 は 面 積 で 表 示 ) ' そ れ は 細 川 氏 以 来 の 寺 領 高 で あ
る こ と を も 明 記 し て い る 。 ま た 京 極 氏 は ' 智 恩 寺 を わ ざ わ ざ 「 無 双 霊 境 」 と 表 現 し て お ‑ 、 こ れ も 細 川 氏 が 天 正 八 年
に 入 部 し て 寺 領 を 安 堵 し た と き の 文 言 と 同 様 で あ っ て ' 智 恩 寺 に た い す る 認 識 は 、 細 川 氏 の そ れ が ほ ぼ 京 極 氏 へ と 引
き 継 が れ た の で あ っ た 。 と こ ろ が 寛 文 九 年 ( 云 ハ九 ) に 山 城 淀 か ら 宮 津 に 入 っ た 永 井 氏 に な る と 、 寺 領 宛 行 状 の 文 書 は 、
次 の よ う に 変 化 し た (同 前 ) 。
文 殊 領 如 先 規 高 五 拾 石 目 録 在 別 紙 申 付 華 、 仝 可 有 所 務 者 也 '
永 井 信 濃 守
延 宝 四 年 尚 長 (花 押 )
十 一 月 晦 日
天 橋 山
智 恩 寺
近 世 に あ っ て は 、 格 別 め ず ら し い 文 書 で は な ‑ ' 通 常 の 寺 領 宛 行 状 に 過 ぎ な い が ' 智 恩 寺 の 「無 双 霊 境 」 と い う 文
701言 が 消 え ' 細 川 氏 以 来 の 同 寺 に 関 す る 認 識 が 永 井 氏 に 至 っ て 若 干 変 化 し た と も 受 け と め ら れ る 。 し か し こ れ は 通 常 の 、
108 江戸幕府の寛文末印改めの際の寺領の朱印状と同様'各諸藩においてもみられる寺領宛行状に変更したのにすぎない
のであって'逆に智恩寺への寺領宛行が近世初頭においては「無双霊境」の文言を用いる特殊な形態であったことを
示すものであろう。さらに領主権力がそのように'強力に認識していたことを物語っているのであった。
智恩寺への寺領宛行のほかに'積極的な天橋立の保護を各領主は実施してきた。年不詳であるが、明和以降に成立
したと推定される'「橋立一件之和書」(智恩寺蔵本稿では宮津市史編纂室所蔵マイクロフィルムから焼き付けたも
のを使用。同史料は破損が著し‑'解読に不十分な点もあるので'その点をご容赦いただきたい)によれば'細川氏
の時代つまり天正から慶長五年にかけて、おそら‑現在中天橋とよんでいる付近の破損がおこった際'家臣団の知行
高に応じて石垣の築造による橋立の補修を試みたことがあったようで'当時の「石垣之形」が残存していると記して
いる。また阿部対馬守正邦の'延宝九年(二ハ八こから元禄十年(二完七)にかけての宮津在城時代にも「両三度之大風波」
によって橋立を含む海辺が打撃をこうむり'「古例」をもって智恩寺はその修復を藩庁へ願い出た。ここにみえる「古例」とは、おそら‑右の細川氏の事例を踏襲することを指し示していると推察され'阿部氏は領内全域に普請役
を賦課Lt橋立の石垣を修築した。そのおりに宮津から遠方の各村には'村高に応じて智恩寺へ米穀を寄進させたと
あ
る
(前掲「橋立一件之拍書」)。ここにみえる領主側の対応は'智恩寺並びにその境内の天橋立に対する積極的な保‑)護姿勢であり'名所・名勝の景観を守ろうとする態度であろう。右の経過を記した書類を'享保期に宮津城主であった青山氏の家臣岩尾五郎左衛門へ披露したところ、同人は、「橋立は霊跡之義政切さらへ成り不申候ハ二往古より
申来候」(同前)と述べたとあり'橋立切断の不可なることを認識したのであった。これらの経過などについては'へ8)次章において詳述する。
山野河海と名所・名勝さて幕藩体制下における名所・名勝は'周知の如‑いわゆる「山野河海」'なかでも河海に
1 0 9
所 在 す る こ と が 多 い 。 近 年 ' 古 代 か ら 近 世 に か け て の 各 時 代 の 国 家 に お け る 山 野 河 海 に 関 す る 研 究 は ' 多 ‑ の 蓄 積 を へ9 ) 有 し て き た 。 近 世 に あ っ て は ' 山 野 河 海 は 大 名 旗 本 に 授 け た 知 行 の 外 に あ っ て ' 公 儀 ‑ 幕 府 が 支 配 す る も の で あ る と
い う 観 念 が あ り 、 享 保 七 年 二 七 二 二) 九 月 の 「新 田 開 発 場 私 領 一 円 之 所 ハ 従 公 儀 御 構 無 之 と の 御 書 付 」 (﹃ 徳 川 禁 令 考 ﹄ 後
集第一
創 文 社 一 九 七 八 年 二 七 ‑ 二 八 頁 ) で は ' 「海 辺 之 出 洲 内 ' 川 之 類 」 は 公 儀 に 所 属 L t 公 儀 よ り 開 発
を 仰 せ 付 け ら れ る も の で あ る t と 認 識 さ れ て い た 。 た だ し 宝 暦 七 年 (一 七 五 七 ) 三 月 、 同 九 年 正 月 の 幕 府 令 達 で は ' 対 象 の
山 野 河 沼 が 私 領 一 円 に 含 ま れ て い る と き に は ' 例 外 と す る 旨 が 規 定 さ れ た (「 聞 伝 叢 書 」 ﹃ 日 本 経 済 叢 書 ﹄ 巻 十 日 本
経 済 叢 書 刊 行 会 一 九 一 五 年 五 四 六 ‑ 五 五 〇 頁 ) 。 幕 藩 体 制 後 期 に 入 っ て ' こ の よ う な 例 外 規 定 が 存 在 す る と は い
え ' 本 来 大 名 は 自 分 の 領 内 に 接 す る 河 海 を 独 占 的 に 支 配 す る も の で は な い と い う 観 念 が あ っ た こ と を 示 し て い よ う 。
本 稿 で 取 り 上 げ て い る 天 橋 立 も ' ま た 「拙 稿 象 潟 」 で 問 題 と し た 象 潟 も ま さ に 私 領 一 円 に 含 ま れ て い る 山 野 河 海 の
内 の 「海 辺 之 出 洲 内 」 で あ り ' 幕 府 の 山 野 河 海 の 法 な い し 観 念 に 規 制 さ れ る も の で あ っ た 。 象 潟 は 水 深 が 浅 ‑ し か も
新 田 開 発 が き わ め て 容 易 な 状 況 で あ っ た に も か か わ ら ず ' 文 化 元 年 の 象 潟 大 地 震 で 大 地 が 隆 起 し ' 景 観 が 滅 失 す る ま
で ' 本 荘 藩 が 開 発 を 抑 制 し 、 む し ろ 景 観 の 保 持 に 努 め た の は 、 名 所 ・ 名 勝 の 保 全 と い う 観 念 的 な 動 機 だ け で な ‑ ' 実
は 古 代 国 家 以 来 の 山 野 河 海 の 法 に 縛 ら れ て い た か ら に ほ か な ら な い 。 さ ら に い う な ら ば ' わ が 国 に お け る こ の よ う な
山 野 河 海 に 関 す る 国 家 的 な 認 識 が 基 底 に あ っ た か ら こ そ ' 山 野 河 海 に 多 ‑ 存 在 す る 名 所 ・ 名 勝 と い わ れ る 景 観 が ' 時 一ー0 ) の 支 配 者 に よ る み だ り な 開 発 の 危 機 に さ ら さ れ ず ' そ れ が 守 ら れ て き た と も い え よ う 。 し か し 象 潟 の よ う に 山 野 河 海
の 規 定 か ら ' 災 害 に よ っ て t は ず れ る 自 然 状 況 が 出 現 し た 時 ' 大 名 領 主 は 容 赦 な ‑ 新 田 開 発 に 乗 り 出 し た の で あ っ た 。
前 稿 の 「拙 稿 象 潟 」 で は 、 右 の 観 点 に ま で 考 察 が 至 ら な か っ た の で ' 補 訂 の 意 味 も 含 め て 付 け 加 え て お き た い
。天 橋 立 も 、 次 章 で 展 開 す る よ う に 新 田 開 発 の 危 機 で は な い が ' 漁 民 の 漁 業 維 持 の た め の 橋 立 切 断 の 要 求 に 直 面 し た 。
110その際にも海は地先大名の領海ではないという幕府の観念=山野河海の法が機能したものと考えられ'それについて
は'次章で触れることにしたい。いずれにせよ近世における名所・名勝は'その立地する場所が山野河海の地である
ということにより'個別領主権力の悪意的な開発にさらされる危険はかなり回避される構造となっており'それは国
家的な基底として認識されていたことは間違いない。
三、橋立切断の危機と智恩寺の対応
天橋立が切断の危機に遭遇したのは'幕藩体制中期にはいってからであった。前後四回の危機が「橋立一件始終之(;)記録」(智恩寺蔵、以下'「橋立7件」と略記)によって確認され'青山氏宮津在城の時が三回'本庄氏の時が1回で(12)あった。以下'各時期の危機についてその経過と内容を検討してゆ‑ことにしたい。また出典は特に断らない限りは'
すべて「橋立一件」に依拠していることを'あらかじめお断りしてお‑。
享保期の事例「橋立一件」によれば、残念ながらこの件の正確な年代が判明しない。このたびの橋立切断の要求は、(13)領内の溝尻村(別図参照のこと。智恩寺の対岸に位置し'阿蘇海での漁業によって生計を立てていた村)より'漁業
が不振のため橋立切断を宮津藩庁へ願い出たことを端緒としたものであった。それに対して智恩寺が藩庁へ提出した'
切断不可を願う三ヵ条の願書が次に掲げたものであった。若干長文であるが'橋立切断に関する係争の基本的な問題
点がほぼ網羅されていると考えるので'願書の全文を掲げることにする。
奉願口上之覚
二先年奥平大勝大夫殿御代従江戸表諸国絵図御改被仰付、当国之絵図上り候節、当寺境内諸伽藍'橋立之道法'
間数'委細書付差上候'尤和書所持仕候、然所此度他村之願二付橋立裁断候事可被仰付之旨、尤従御城主被仰
111
付候事違背可申上義二は無御座候へ共'先年書付差上置候二付一応御公儀江御窺申上'其上二而御受申上度奉
存候事'
一㌧橋立は天下無双之絶境'六里松之称今古不変之儀ハ不及申上候'然所穐一村之困窮御救之為として橋立裁断
候義被仰付候は'諸国往来之者迄噸晴可仕義二奉存候'乍然当御代之御為筋二而被仰付候上は不及是非候'然
共到後代其時之住持一応之御断‑をも不遂申候段無調法之沙汰二可罷成義'於住持迷惑二奉存候事'
一㌧天浮橋は橋立之儀と諸書二詳二候段御存知之事不及申上候'然は二神降下之神跡を仮初にも裁断と候義天下
之聞江不吉第二l奉存候'定而神道奥秘をも相究候仁ハ甚歎敷義二可被存候'依之諸人之噸晴不可有止事二候'
自余之境内道橋等とは格別二存罷在候'是等之義乍存知一応之御断りをも不遂候ハ、住持無調法之沙汰難遁'
迷惑至極二奉存候事'
右之三ヶ条御城主尤之趣二被聞召届候而'則当寺願之通二相成り候'(傍線筆者)
第一条は'享保年間の幕府による国絵図改めに際して'奥平氏時代に提出した国絵図に智恩寺の伽藍をはじめとし
て'同寺の橋立が詳細に調査されていることから'橋立切断については幕府へ伺いを立てる必要があ‑'勝手にその
ようなことはできないというものであった。享保期の国絵図改めとは'享保二年(一七一七)八月頃から'将軍吉宗が勘定
奉行大久保忠位らに命じて元禄国絵図の吟味を命じ'建部賢弘らに地図補正の作業を実施させて'日本国絵図の作成(14)を目指したものであった。近藤正斎の「好書故事」巻三七(﹃近藤正斎全集﹄第三第一書房一九七六年復刻一lL;)二
〇 ‑
一四一頁)や従来の研究史によれば'このたびの国絵図改めは'高山望視による方位測定法が用いられ国境地域の正確な把握をおこない'よ‑精密な日本図の作成に目的があったという。したがって智恩寺の伽藍をはじめとす
る橋立の詳細な調査に関しては'「日本御絵図仕立候覚」(大田南畝﹃竹橋余筆﹄竹橋余筆別集
巻 十 二
汲古書院1 1 2
一九七六年六八三‑七一四頁)などにみえる、国絵図改めについての幕府の調査項目には見当たらない。幕府へ伺
いを出さなくてはならないとまで申し立てる智恩寺が'藩庁へ虚偽の申し立てをしたとは考えがたく'あるいは幕府
が享保期の国絵図改めにおいて由緒ある名利の調査を命じたのかもしれない。それはともか‑智恩寺は'橋立切断不
可の理由を'幕府の国絵図改めで実施された橋立の調査に求めており'橋立保存の根拠を個別領主より上位権力の権
威に依存する姿勢を見せた。
第二条においては'橋立は「天下無双之絶境」であり'溝尻村など1村の困窮を顧慮して橋立を切断したならば'「諸国往来之者」にまで「噸晴」されることになると述べている。これは前章でも明らかにしたように'宮津に居城
をおいた歴代の大名が'智恩寺へ対して有していた「無双霊境」の寺内という認識(前述した'細川氏の天正八年九
月二十五日の寺領安堵状にはじまる)と相通じるものであろう。右の点を同寺から主張された場合'大名領主として
は'橋立切断を強力に主張するわけにはゆかない背景が存在したのである。
さらに第三条では'橋立は「二神降下之神跡」なのであるから'かりそめにも橋立を切断するということになれば'
それは「天下之聞江不吉第一」であり'神道の奥義をきわめた人々にとっても許しがたいものであって'その点から
も「噸晴」の対象となるであろうtと主張した。ここに見える橋立に対する考え方は'「丹後国風土記逸文」から連
綿として伝えられた'神の住み給う「神跡」として尊重され'古来からの聖域なのであるという観念であった。加え
て橋立切断による名所・名勝の破壊は、人々の噸笑を招き'天下に対しても不吉のきわみであるという主張である。
出羽国象潟では中世以来の霊場という言及もなされていたが(「拙稿象潟」九七頁)'この「神跡」という文言に関わ
るところを除けば'名所・名勝の破壊は天下・世間'世の人々が許さないのだとする主張は同一の論理である。さら
に象潟相浦寺の覚林が'個別領主をこえて開院宮家へ象潟の景観保存を依願したのは、智恩寺が国絵図改めを桂にし
113
て幕府へ提訴の姿勢を示したことと相通じるものがあろう。
元文四年の事例享保期の橋立切断の要求に対する智恩寺の拒絶は'宮津藩庁の認めるところとなり、落着したよう
にみえたが'元文四年(一七三九)'再び溝尻村より橋立切断の願いが提出された。それに対する智恩寺の返答書は'次の
ようなものであった。
奉願口上之覚
橋立近年洲崎出候而内海より之通船不自由二付'橋立之内切抜申度趣願有之旨承申候'橋立之義神代之霊跡二御
座候処'切抜候義歎入申候'然共通船不自由二而御用向こも指障り'井二往来難義二相成候へハ是又諸人迷惑ニ
奉存候'何とそ橋立切抜不申候而'通船自由之筋も御座候ハ、御了簡之上何分宜奉願候'以上'
五月朔日
右之書付指上候処'尤之趣二被聞召届'当寺願之通二被仰付候'
(傍 線 筆 者 )
溝尻村の主張は、橋立の洲崎が土砂の堆積によ‑出張ってきたので内海(阿蘇海)から外海(与謝海)へ船の出る
のが不自由になったことから'橋立を切断して通船に不自由のないようにしてはしいというものであった。これに対
して智恩寺の言い分は'前回の享保期と同様'橋立は「神代之霊跡」であるから切断は不可であるというもので'た
だし通船の不自由については認めるところであるから'その間題については切断せずに対処してほしいと申し述べて
いる。智恩寺の主張は'前回同様へ藩庁が認めるところとなり切断の危機は回避された。
寛延二・三年の事例「橋立一件」によれば'寛延二年(一七四九)の橋立切断に関する件は'前二例と比べて比較的詳し
‑内容を知ることができる。一連の経過を'史料に即して明らかにしてゆきたい。発端は例の如‑溝尻村からの橋立
切断の要求を藩庁が智恩寺へ伝達したもので'寛延二年春のことであった。それに対して智恩寺からはへ同年三月二
(前略)此度又々奉願由承之候'妙峰住持之時口上書仕指上候通り'橋立ハ二神降下之霊跡二御座候を'切申候1 14 十九日に'次のような願書が提出された。
事第一不吉之儀卜乍恐奉存候'此以後洲崎弥浅ク罷成'船往来難成候ハ,首寺より橋立切申候様二被仰付被下候
様二奉願候'若シ二神降下遷軍跡を切申候神所之各メも有'当寺住持1人之身二受申候事御代々寺領頂戴仕'住
持相務申候者之職分二御座候'右願之通二被仰付被下候ハ,難有奉存候'以上'(傍線筆者)
右の願書によれば'智恩寺としては'橋立は「二神降下之霊跡」でそれを切断するのは不吉であるとの理由で切断
を拒否しており'それを強行すれば「神経之答メ」(神罰の降下)も免れないとしている。ただし洲崎が堆積して通
船が不自由になった場合にはやむをえないと'姿勢の後退を若干みせている。智恩寺の願書に対して'宮津藩庁では'
同年四月十二日の月番郡代の書状で同寺の言い分を妥当と認め'切断の停止を通知してきた。溝尻村の願書も返却さ
れた。
宮津藩では'こののち橋立切断の件については智恩寺と溝尻村との相対で交渉させること'すなわち藩庁が介在せ
ずに内済で決着をつけさせようと次のように方針を転換した。
橋立ノ儀ハ智恩寺之境内二候へハ智恩寺住持合点無之候而ハいつ迄も相成り不申候間へ兎角溝尻村より直二智恩
寺江願出可申候段御役人中より溝尻村へ内意被仰付候二付'又寛延二巳八月'溝尻村より当寺納所迄願出候而橋
立切申度段達而相叶候様ことの義二候へ共'此時節完道初任之鋤故へ多用二付取上不申'又時節も可有之卜申留
メ置候'同三年午之正月十二日より廿二日迄ノ内溝尻村中之猟師不残当寺江詰掛ケ毎日願出シ如何様二申候而も
退き不申候故'則当寺より郡代所江右狼籍之趣相達シ候へハ'則御役所より退キ申様二溝尻村江被仰付'早速引
取'その後ハ願二来り不申候'(傍線筆者)
1 1 5
右の史料によれば'橋立は本来智恩寺の境内であり'同寺の住持の同意がなければ何ごとも解決できないのである
から'溝尻村から直接同寺へ要望を提出したら如何tと藩庁が同村へ示唆した。その結果寛延二年八月'溝尻村では
智恩寺へ橋立切断の願書を提出'それに対して同寺は住持の多忙と不適切な時期であるという理由でその要望を本気
で取り上げようとしなかった。そのため翌寛延三年正月'溝尻村の漁師達がこぞって智恩寺へ押し掛けて橋立切断の︼旧E要求を繰り返し'強訴の様相を呈した。同寺では郡代所へ助けを求め'領主権力の手によって溝尻村の人々を退散さ
せたという。ここで注意しなければならないのは'智恩寺が藩庁に対しては橋立の由来などを含め'神罰降下の脅威
まで持ち出して橋立切断の不可を唱えたのと対照的に'溝尻村の人々に対してはそのような手立てを取らず'門前払
いをしてついには強訴に近い状況に至らしめていることである。ここに民衆と名所・名勝'その景観を保持しようと
する保護者と民衆'神罰降下と民衆など'さまざまな問題が横たわっているように考えられ'これについては最後に
私見を開陳することにしたい。
寛延三年八月'右の経過を踏まえて宮津藩の郡代が智恩寺へ'次のような相談を持ち掛けてきた。
橋立洲崎次第二出申候而水戸口浅ク相成候故'溝尻村近年不猟'依之橋立之内切さらへ申度段願出候'一村困窮
及渇命候義其分二難捨置候'殊二船往来も時々ハ滞り候義も有之'又ハ殿様御船も難通筋も可有之候'左様二相
成候而ハ諸方之指間二而'先住代御指出候書付之趣キも候へハ兎角橋立之内渡へ見申度段'寺より願書御出候而
可然哉と内意二而相談(下略)'
(傍 線 筆 者 )
主旨は'橋立と文殊との間の水戸口=切戸が狭‑なり'不漁のため溝尻村が困窮に陥っていること'船舶の往来も
不自由をしており中でも藩主の船も迷惑をしていることから、先代住持の書状にもあったように橋立の内を渡藻した
らいかがなものであろうかtというものである。智恩寺の回答は'溝尻村の困窮は別に措‑として'「諸方之船運送
も不自由」になることは'同寺としても不本意なことであるから'橋立の内を漢藻することについては同意せざるを
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11えないであろうとして'寛延三年十月'次の願書を藩庁へ提出した。
奉願口上之覚
当寺境内橋立七八十年来洲崎出申候而切戸狭ク罷成候二付'御船井二内海往来運送之船等も渡海及難義二候由'
依之先住仁英代以書付申上置候品も有之候故'今度橋立二潮路ヲ開キ見申度候'右為御届如是二御座候'以上'(傍線筆者)
智恩寺は'洲崎の堆積による切戸の狭隆によって「御船井二内海往来運送之船等も渡海及難義」ことを認め'橋立
の「潮路」開聖を渋々了承した。しかし同寺は橋立切断の文言を慎重に用いず'これは溝尻村の主張する橋立切断と「潮路」開聖とは相違することを暗に示したものと推察される。「潮路」を開‑のは切断ではな‑'郡代との交渉過
程でもみられたように'狭‑かつ浅‑なりつつある切戸の「切さらへ」=渡藻ならば容認しようとの回答とみてよか
ろう。また同寺の論理には'前述のように不漁による溝尻村の困窮は組み込まれておらず'もっぱら船舶の内海と外
海との往来に不便を来たすこと'「御船」すなわち藩主の御用船の航行に支障を来たすことが'「潮路」開聖の理由と
して述べられた。橋立漢漢とはいえ'橋立に手を入れることには変わりな‑'橋立切断不可の根拠として'「神跡」
「天下無双之絶境」の景観を保持しなければならないのだという'あれほど主張した議論は全‑影をひそめたように
みえた。
ところが当該の智恩寺の回答に対して'宮津藩は全‑意外な反応を示したのである。回答を提出して二十日余り後
に'月番の郡代より同寺へ次のような申し渡しがあった。すなわち「橋立さらへ」(漢藻)については'藩主自身が
そのことに関して「御不同心」であるから'藩主直々の下知によって'今後智恩寺と藩庁との間で橋立の件について
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(17)は互いに問題としないことに決定したへというものであった。藩庁の態度豹変の理由は藩主の「御不同心」によると
いうだけで'他に関係の史料を管見の限りでは見出せないため'これ以上の言及ははばかられるが'案外真実に近い
のかもしれない。その根拠は'「拙稿象潟」でも明確にしたように'個別領主権力にとり幕藩体制下における名所・
名勝の景観保存は'かなりデリケートな問題でありへその保存に関する上位権力の音苗心や世の人々の意向は簡単に軽
視するわけにはいかない背景があった。加えて智恩寺が主張するごと‑「二神降下之神跡」である天橋立を'かりそ
めにも切断するということになれば'「天下之聞江不吉第一」なのであり'神罰降下の桐喝までされては'藩主とし
ては'それに関わりたくないとする意向は理解できるのではあるまいか。また前章で論じた'海は地先大名の領海で
はないという山野河海の法の問題も'念頭になかったとはいえないのではなかろうか。
それはともか‑'宮津藩ではこれ以降橋立切断に関わる問題には触れないようにしたことは間違いない。しかし溝
尻村は'次の事例にみるように違っていた。
明和四年の事例「橋立一件」の末尾に'抹消線が引かれた次のような史料が認められる。抹消線が太‑引かれてい
ることと'字のかすれなどによって判読困難の部分があるので(その部分は'[]で示した)'正確に文意を取る
ことは難しいが'とりあえず左に掲げることにした。
又明和四年二月二溝尻村より当寺江六ケ敷願書相認指出シ'橋立切呉候様ことの義二候へ共'三門建立多用之醐
[]取[]不申候'然所当夏又直々御役所へ願出[]風説故[]申候溝尻村へ願[]候へ
右によれば'明和四年(一美七)二月'溝尻村は宮津城主が青山氏から本庄氏へ交替して後も'橋立切断の要望を智恩
寺へ提出した。それに対して同寺は「三門」の建立中であることを理由に受理しなかったようであり'そこで溝尻村
では藩庁へ改めて提訴したとみえる。その経過は仝‑不明であり'また結末もどのようについたのかわからないが'
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けlそ の 後 橋 立 切 断 の 事 実 が 見 当 た ら な い の で ' 同 村 の 要 求 は 貫 徹 し な か っ た 可 能 性 が 高 い
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