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混血するナオミの不潔な肌 : 『痴人の愛』の背理

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混血するナオミの不潔な肌 : 『痴人の愛』の背理

著者名(日) 内藤 千珠子

雑誌名 大妻国文

40

ページ 131‑149

発行年 2009‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001318/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

混血するナオミの不潔な肌

いつでも二つの貌で男たちを誘惑する︒母が子を包み込むような︑すべてに許しを与え︑あたたか

に癒してくれる清らかな聖女のイメージと︑性的な魅力をふんだんにたたえ︑ときに男を破滅に導きさえする︑邪悪にし

て抗いがたい娼婦のイメージ︒すでに数々の研究や批評が明らかにしてきたとおり︑近代的な論理が形成した︑聖女と悪

女の二元的な女性表象は︑近代文学の時空にあっても繰り返し上演され続け︑その両義性は︑あらゆる物語に定型として

行き渡っている︒男たちはその両義性に魅了され︑清らかさに憧れながら︑邪悪さを嫌悪する︒女性嫌悪に裏打ちされた

男性的な欲望の回路もまた︑反復され︑遍在するパターンと化す︒そしてこの二元的な論理構造に宿る両義性の魅力は︑

排除と抑圧を導く︑近代の差別的な論理の骨格そのものであり︑ステレオタイプとしての女の二つの貌は︑物語の論理が

苧んだ差別を華やかに代行しているのだといってよい︒

母と娼婦という女性表象の二つの型を飽かず描き続けた谷崎潤一郎の小説にあってもまた︑両義性を帯びた二元構造は

複数の角度から幾度となくたどり直され︑重ね塗られ︑小説の表層は︑濃厚な物語の粘液によって覆いつくされている︒

本稿では︑帝国の言説論理という大きなテ1マを意識しつつ︑谷崎潤一郎﹃痴人の愛﹄︵前半部﹁大阪朝日新聞﹄

二四年三月二

OE

i

i

六月一回目︑後半部﹁女性﹄一九二四年十一月一九二五年七月︶を取り上げ︑とりわけその掲載誌

(3)

一一

との関わりを重視しながら︑

0年代の言説論理と同期する小説テクストの構造について素描してみたい︒語り手

の回想によって構成される﹃痴人の愛﹄の世界では︑聖母と娼婦の二元構造が︑ナオミのなかの﹁聖/

悪﹂﹁女神/娼婦﹂の二面性として︑あるいは﹁私﹂の母とナオミという登場人物の対比において可視化されているのを

はじめとして︑種々のレベルに設けられた対構造とその両義性が︑あからさまなまでに幅鞍され︑同時代の論理との共鳴

がテクストを織りなしている︒

物語の枠を豊かにふくらませるアンビパレントな両義性︑矛盾に満ちた論理を考察することは︑物語の背理に分け入る

混血の表象

ことは容易い︒女と男︑ ﹃痴人の愛﹄において︑二元化されたものの対比が︑そのまま二層化する階級の比聡に置き換えられる構図を確認する

日本人と西洋人︑下層階級と富裕な中産階級あるいは上流階級︑無知な労働者階級と教養ある知

識階級︑醜さと美しさ︑不潔と清潔︑客体として語られるナオミと語る譲治という主体︑あるいは都市論的なアプローチ

をとるならば︑田舎的伝統の論理と都市的ハイカラな論理といったように︑数えあげればきりがない︒一一項が対置させら

その対関係には上下の価値が附与され︑小説テクストのなかには︑諸々の階級の重層化した差別構造が派生し

掲載誌﹃女性﹄において︑﹁今日は性は一つの階級である︒性的区別は階級的区別である︒男は一つの支配階級であり︑

女は一つの被支配階級である︒この階級はもとより打破しなくてはならぬ︒階級打破は︑凡ての解放運動にとっての必要

条件でなければならないのである﹂︵室伏高信﹁知識階級の女へ﹂﹃女性﹄一九二五年四月︶と記され︑あるいは﹁今の社

(4)

会は二つの重大な問題の解決を要求されてゐる︒その一つは労働階級解放の問題で︑いま一つは婦人解放の問題である﹂

L

の欲望を軸に表象されるナオミという記号において︑性をめぐる支配/被支配の関係と︑階級の序列が構造的な重なりを

一九二五年十二月︶と並置されているのをみるとき︑語る譲治の︑すなわち﹁私﹂

帯びるという小説テクストの布置は︑複合する差別構造を可視的領野にとらえた同時代の言説と同期しているといえるだ

さらに︑邪悪な娼婦でありながら聖なる女神でもある︑という二律背反を抱えもった存在として定位されてきたナオミ

が︑下層階級出身でありながら高貴で︑しかも﹁日本人Lでありながら﹁西洋人のよう﹂であり︑加えて﹁女らしく﹂も

あるが﹁男らしく﹂もあると語られているのを読めば︑二元化されたテクストの構図に宿るのは︑単なる階級化の力学と いうことだけではなく︑階級化を含んだ二律背反が︑両義的なものとして同時に含みもたれる︑というしかけであること がわかり︑ナオミという記号は︑ほとんど図式的とさえみえるほど︑二律背反を含みもった両義性そのものを体現してい

るということになるだろう︒

そうしたアンビパレン卜な両義性にこそ︑語り手﹁私﹂は欲情を深めてゆくことになるのだが︑このように表象される

ナオミに︑﹁混血児﹂の比喰が与えられていることから︑テクストの論理を開いてみたい︒二つのファクターを同時にあ わせもつナオミの機能を︑ふたつの﹁血﹂が﹁混﹂じりあうという比喰が支えているように思われるからだ︒

L

は︑近代の初頭︑明治期にあっては︑差別的な意味合いが色濃く渉む負の記号であったが︑

0年代には

両義的な揺れをはらんでいた︒明治期における﹁混血﹂の表象については︑たとえば広津柳浪の新聞連載小説﹃異だね﹄

イギリス人の妻である﹁洋妾﹂の子として生まれた﹁雑種子﹂の主人公

1

の︑赤い髪と緑の眼という異質な﹁美﹂が差別的に有標化されるという様式ゃ︑財産目当ての男に編されて棄てられ︑そ の子を出産するという苦難と不幸が配置された物語の形式から︑同時代の﹁混血﹂をめぐる差別の密度を想像することが

一一

(5)

︵ 叩

0年代の﹃大阪朝日新聞﹄を眺めてみると︑﹃痴人の愛﹄の掲載に先立つ一九二四年一月には︑﹁混血

児﹂を主人公として好意的に取り上げた連載記事﹁青い眼と黒い眼恋の生んだ混血児物語﹂を認めることができる︒初

回記事には︑﹁パ︑さんは西洋人︑マ︑さんは日本人︑混血児と生れた少年少女の教育や結婚には︑そこに又普通の人と

は違ったゆき方と世界とがある﹂︵﹃大阪朝日新聞﹄一九二四年一月一二日︶といった姿勢が示され︑各国とも記事と一緒

に﹁混血児﹂たちの写真が大きく掲載されていた︒伝えられるのは︑﹁混血児﹂とその両親に関する物語であるが︑次の

記述にみられるとおり︑﹁混血﹂をめぐる一元的な差別構造は変容を被っている︒

夫にすがる新妻を見て自ら去った﹃お蝶夫人﹄

映画女優のやうに美しいクララさんのお婿さん選び

﹇:﹈婦人は横浜の生れ︑関東武士の家に育ったが幼き日父を失ひグラトフさんとは横浜で知りあって神戸で結婚し

た︑それは今から二十二年前︑かうして九年間︑二人は幸福そのものであった︑大正二年の春である︑グラトフさん

は一旦夫人を日本にのこして本国へ帰った︑本国には許嫁の女が待ってゐた︑翌年五月再び日本に戻ってきた時には

グラトフさんの腕に見慣れぬ新夫人が寄りそってゐた︑ワ:﹈グラトフさんが初めて打明けた時にはお蝶夫人のむら

さんの心は煮くり返った︑今更に悲しい自分の来し方ゆく末を思ひ入つては一層身を無きものにとまでも決心したが

それさへも出来なかった︑結局一子クララさんの手を引いて武庫郡西灘村原因に去った︑それから今の御影の家に移

るまで十二年間その後日独戦争が始まってグラトフさんはアメリカに去りクララさんは何も知らずに今年廿二の春を

迎へた︑横浜と神戸の外人学校を卒業して英語と日本語と独逸語の三箇国語を自由に話し洋服の上から日本の羽織を

ひっ被っていつもニコ/\と南窓によりそって編物の針を動かしてゐるところなどまるで映画にでも出てくる女優の

(6)

やうに美しい︑お母さんはもうそろ/\良いお婿さんを探して居るやうだが本人は一向平気で晴れた日にはポチを伴

﹁恋の生んだ混血児物語﹂というタイトルが含意するのは二人の主人公であり︑﹃蝶々夫人﹄の物語そのままを生きた

﹁むらさん﹂の過去の﹁恋﹂と︑美しい﹁混血児﹂である﹁クララさん﹂の現在を表と裏に貼り合わせることで︑物語が

完成しているという構造が読まれよう︒﹁混血児﹂の﹁クララさん﹂の現在時は︑母の体験した﹁心﹂が﹁煮くり返﹂る

瞬間や﹁悲しい﹂運命という過去に裏打ちされているものの︑そのことを彼女自身は何も知らない︒物語の主人公となっ

た彼女は︑﹁二一箇国語を自由に話し﹂︑﹁まるで映画に出てくる女優のやうに美しい﹂︒映画女優と﹁混血児﹂との聞の記号

的親和力は︑﹁痴人の愛﹄の前身的作品とも評される﹁肉塊﹄︵﹃東京朝日新聞﹄

i

の混血の美少女グ

ランドレンとナオミとををつなぎ合わせる共時性を現しているといえようが︑強調しておきたいのは︑記事のなかに︑不

幸や不運と︑憧れをかき立てるような叙述とが対比的に一示されている点である︒主人公の現在には︑﹁お母さんはもうそ

ろ/\良いお婿さんを探して居るやうだが﹂と︑この先の未来に﹁混血児﹂である彼女の恋や結婚がいかなるかたちで到

来するのか︑想像力をかきたてる記述が呼び込まれてくるが︑予見される未来は︑読者の想像を二つの異なる方向へと増

というのも︑この連載記事を見渡すと︑﹁混血児﹂の物語の行く末が︑引き裂かれた二つの方向にむかつて提示されて

一方には︑﹁悲劇に終った姉妹の結婚姉は千里の異郷で夫に死別れ妹は新婚の日に発病﹂︵一九二四

年一月一五日︶と題された記事があり︑横浜で大震災に遭い︑その難を一人娘とともにかろうじて逃れた姉と︑かつて結

婚式の夜に発病し︑そのまま亡くなった妹という﹁混血児﹂の姉妹の﹁悲劇﹂が紹介されている︒他方では︑﹁素的な五

(7)

̲ L .  

ノ\

歳のスポーツマン父は外人蹴球界で光りの王者英語時間に出席を禁ぜられた母さんL︵同・一月一八日︶という見出

しのもと︑﹁神戸外人団に於ける光りの王者﹂である英国人の父と︑﹁英国人の血を混へた﹂母の聞に生まれた兄妹の﹁楽

しい家庭﹂の様子が描き出されている︒すなわち︑これらの記事にあっては︑﹁混血﹂であるがゆえに生まれる光と影︑

憧僚を誘う幸福と不幸な悲劇とが同時に表出し︑いずれも主人公たちは﹁普通の人とは違ったゆき方と世界﹂に行き至る

のだ︒﹃痴人の愛﹂の語り子がテクストの冒頭で﹁私は此れから︑あまり世間に類例がないだらうと思はれる私達夫婦の

間柄に就いて︑出来るだけ正直に︑ざっくばらんに︑有りのま﹀の事実を書いて見ょうと思ひます﹂︵一︶と書き記して

いることを思いあわせると︑﹃痴人の愛﹄の背景にはメディアを通して生産された﹁混血児﹂の物語群が灰見えてこよう

し︑それらの物語の軌跡からは︑限りなく上位区分化もされ︑逆に下位区分化される可能性をも同時に携える︑﹁混血児L

の記号的効果が析出されてくる︒

比喰によって﹁混血児﹂の物語と類縁化されるナオミは︑上下に伸張する正負の因子を背負いつつ︑さまざまに与えら

れる両義性の意匠によって︑物語の骨格を支えている︒血が混じり合うこと︑ふたつの異なる要素が混在するイメージは︑

読者の期待の地平に︑﹁普通﹂から遠くへだたる正負の道筋を描きだすのだ︒

ナオミの身体

階級の﹁打破﹂がうたわれ︑新たな価値体系が呼び込まれようとしていた時期にあって︑﹁混血児﹂の比輸がナオミの

身体に呼び寄せる二元構造と両極に広がる想像力は︑大日本帝国において編成された言説のなかに小説テクストが編み足

した論理の綾にほかなるまい︒五味湖典嗣が排日移民法言説のなかの﹁アメリカ﹂に取り巻かれた﹃痴人の愛﹄から捕捉

してみせたのは︑小説テクストが﹁アメリカ﹂を語る語りを﹁徹底的に模倣

U

反復し︑それらの言説が依拠する文脈を前

(8)

景化させるだけでなく︑その論理が行き着くだろう先までも︑予示的に露呈﹂させ︑﹁様々なプレテクストゃ︑同時代の

コードが呼び集められて︑模倣と反復がくり返される﹃痴人の愛﹄という現場では︑どちらがどちらをまねているのかわ

︵ ロ ︶

からなくなるほどに︑言葉どうしが浸透しあって︑あらゆるものが叫てしまう﹂という事態であった︒そうした様相を念

ナオミの身体表象と同時代の言説状況との関係を概観した上で︑小説テクストの構造について具体的

実際のところ︑中村三一代司が︑時代状況と近似した﹃痴人の愛﹄は﹁社会現象とも共時的な関係に﹂あると指摘したよ

うに︑テクスト上のナオミの身体は︑同時代の情報を複綜させるようにして描き出されている︒カフエーの女給見習いを

していたというナオミの設定と︑その﹁貞操﹂を云々する﹁私﹂の語りの交差する地点には︑﹁震災後の東京に︑

国に貞操を売り︑又は侵される女性が多いならば︑それは誰の罪でもない︒昨日の日本が今日の日本を生んでゐる迄であ

って︑その責任は私共社会連帯である﹂︵和田富子﹁吾が娘の問題として考へよ﹂﹃女性﹄

あるいは﹁婦人はいかに職業がなくても直ちに筋肉の労働に変るといふことの出来ない体力のものが多い︒此処に当然来

る事は||当然と一五ふ言葉を用ひ度くないけれど事実として起る故に||彼女等の貞操問題である﹂︵三宅やす子﹁別に

一九二四年一月︶といった指摘にみられる︑関東大震災後の︑女性の労働と﹁貞操﹂と

を重ねづけて提起しようとする問題軸が透見される︒また︑教育を施すといって少女を引き取りつつも︑その少女と性的

関係をもっという譲治のありようには︑﹃源氏物語﹄的な物語定型の引用ばかりではなく︑千葉亀雄が﹁福知山の女学校

長が︑女生徒に在るまじい関係を結んだために︑世間の騒ぎを惹き起しました﹂︵﹁女性と職業問題﹂﹃女性﹄一九二四年

五月︶と語る︑当時のメディアを賑わした女学生教育をめぐるスキャンダル︑福知山事件の影が見え隠れする︒また︑運

動能力を誇り︑水泳をして体を鍛えるナオミの身体には︑﹁去秋の震災後︑女性よ強かれと言ひ︑また女性よ体力を鍛へ

よといふ注文が存りにあるやうになりました﹂︵三宅花園﹁強かれと望まる﹀女性﹂﹃女性﹄一九二四年一月︶と説かれた

(9)

話題が相関し︑﹁西洋の方は体が出来ていらっしゃる﹂︵八︶と評される︑シュレムスカヤ夫人の西洋的な体格に並置され

るナオミの身体には︑﹁体力を鍛へ﹂た︑﹁強かれと望まる冶女性﹂の身体像が複合するだろう︒

いわば同時代の情報が集積する場所として可視化されていたのが︑ナオミの身体にほかならない︒そのナオミの身体と︑

身体を象る皮膚とは︑共時的な言説論理との聞に往還的な関係を取り結び︑次にみるとおり︑立ち現れる描写は物語との

華麗な共犯関係を演じることとなる︒

を備えているのであり︑ ﹁混血児﹂の比喰に媒介されたナオミの身体は︑まず第一に︑西洋人ではないのにもかかわらず︑西洋人のような白さ

それゆえに︑皮膚の﹁白さ﹂が終始強調されている︒しかしながらその肌は︑いつでも白いとい

うわけではなく︑﹁その肌の色が日によって黄色く見えたり白く見えたりする﹂︵十一二︶と語られ︑変化や錯視の可能性が

ほのめかされるばかりか︑

のナオミの手は︑﹁白いやうでもナオミの白さは冴えてゐない︑ シュレムスカヤ夫人との比較においては︑﹁西洋人の手のやうに白い﹂と褒められていたはず

一旦此の手を見たあとではどす黒くさへ思はれま

す﹂︵九︶と意味づけられてしまう︒

白いけれど白さを欠くナオミの肌においては︑西洋人の白さとの比較によって欠如が際だたせられるというまなざしが

作動しており︑西洋と非西洋とを人種的に対比させ︑肌の白さという人種的特徴に価値を与えるオリエンタリズムの力学

があけすけに展開されているといってよい︒その上で︑白くもなり︑黄色くも黒くもなるナオミの︑西洋と非西洋との問

を行き来する混血的な肌の振れ幅は︑彼女の身体イメージに奥行きを与え︑譲治とナオミの立場や関係︑物語のなかでの

ナオミのポジションに関する︑逆転や反転の運動性を保証することとなる︒

対比という側面からいえば︑ナオミという記号には︑西洋人としてのシュレムスカヤ夫人ゃ︑上流階級の婦人たちとの

比較において︑暇庇が与えられていることにも注目しておくべきだろう︒肌の﹁黒さ﹂がシュレムスカヤ夫人との対比に

おいて発見されているのと同様に︑鎌倉行きに際して︑上流階級の夫人や令嬢と﹁ナオミとを比べて見る﹂とき︑﹁私﹂

(10)

が見出すのは﹁社会の上層に生れた者とさうでない者の聞には︑争はれない品格の相違﹂︵四︶のあることなのだった︒ つまり︑ナオミは﹁私﹂によって美しさや貴さを賛美されながら︑スタンダードな価値のなかで標準化された比較対象と の関係ではたえず劣位におかれ︑テクスト上の階級構造において下位区分化を被っているというわけだ︒

﹁世間に類例のない﹂︑﹁普通﹂とは異なる物語の道筋をふたつながら附与されてある︑﹁混血﹂するナオミの表象は︑差 別化を欲望する物語の原理に親しい︒加えて︑ナオミを彩る回収庇や欠如は︑物語が負性を好む性質を指し示しているだろ う︒両義性が回転したあかつきに訪れる世界は︑ナオミを優位に導くかもしれないし︑劣位に押しとどめるのかもしれな ぃ︒だが︑語り手は折に触れ︑そのナオミの身体に負性の傷があることを︑特筆し続けている︒

一般に︑差別の構造を原理として字みもった物語のなかでは︑聖性と賎性とが反転可能な表裏の関係を結ぶといった両 義的な力学が作動している︒プロレタリア運動やモダニズムの文脈が交差し︑既存の価値を覆しもする風俗的記号が連鎖

していた一九二0

年代の言説体系においては︑物語の原理に内包された反転の運動性を増殖させる力が絶えず作動してい たということになろうが︑価値の逆転を導くナオミに欠性が刻印されているというありようにこそ︑小説テクストの重心 を感知するべきなのではあるまいか︒むろん︑ナオミの﹁白い﹂肌の描写のなかに︑矛盾や論理の破綻があるといえばい えようし︑矛盾の魅力を描出したり︑矛盾の超克にむかつて論を進めることもできようが︑むしろここに広げてみるべき なのは︑そうした論理の破れ目を含みもった背理が︑同時代の日本語言説の論理に書き足すしくみであり︑物語的感性の

行く末についてである︒

劣性や欠如を宿しながら︑二極構造を回転させるナオミの皮膚は︑語り手の欲望と交わる地点で︑

その表象の論理を露

わにするだろう︒﹁私﹂がナオミの肌に接触する瞬間は︑何よりも︑﹁洗う﹂という行為によって表層化している︒行水の

折︑﹁私﹂がパスマットや西洋風邑を据え︑

スポンジを使って洗うという行為は幾度となくテクスト上に現れているが︑

﹁私﹂によって清潔に清められるそのナオミの体の表皮は︑同時に︑汗をかき︑垢のたまった︑脂の匂いが悪臭として鼻

(11)

O

をつくような︑非常に不潔なものとしても描出されており︑その点にこそ︑細心の注意を払う必要がある︒ナオミの肌の

﹁不潔﹂は︑小説における人種と階級︑そしてジェンダーをめぐる帝国の論理を思考するための契機を吸引する磁場とし

不潔な皮膚

ナオミの肌を特徴cつけるのは︑﹁白さ﹂のイメージだけではなく︑その対瞭をなす﹁不潔﹂という記号である︒彼女の

肌の叙述をたどると︑白さばかりではなく︑不潔な匂いそれ自体が︑﹁私﹂による愛着の対象として意味づけられる一方

で︑忌避の対象ともなっていることが読まれうる︒渡部直己はナオミにおける﹁汚物﹂の描写がシュレムスカヤ夫人の

﹁肢臭﹂と連続していることを指摘した上で︑谷崎の初期作品から反復される﹁汚物晴好﹂に関連づけながら︑﹁悪行もふ

くめた彼女の﹃だらしなさ﹄﹃不潔﹄さは︑いっけん嫌悪の対象のごとく語られてありながらも︑そのじったえず両義的

なのだ﹂と論じている︒たしかに︑ナオミの皮膚と︑その皮膚がじかに触れる彼女の衣服は︑﹁不潔﹂をイメージさせる

描写に取り巻かれている︒

﹁脱いだものは脱ぎツ放し︑喰べたものは喰べツ放し﹂で﹁垢じみた肌着や湯文字だのが︑いつ行って見てもそこらに

放り出してある﹂ので︑﹁部屋へ這入るとさう一五ふ場所に特有な︑むうツと鼻を衝くやうな臭ひ﹂︵九︶がし︑﹁ナオミの

肌や着物にこびりついてゐる甘い香と汗の匂とが︑発酵したやうに龍もってゐるL

なく︑おまけに彼女はそれを素肌へ纏ふのが癖でしたから︑どれも大概は垢じみてゐました﹂︵五︶と語られる︑

オミの肌の﹁白さ﹂といえば︑﹁真つ昼間の︑限なく明るい﹃白さ﹄とは違って︑汚れた︑きたない︑垢だらけな布団の

ナオミの幻が﹁おくびナオミが家を出て行った折には︑

(12)

のやうに胸をむかつかせ﹂︑﹁彼女の臭ひや︑汗ゃ︑脂が︑始終むうツと鼻についてゐる﹂︵二十︶︒﹁無精な彼女は汚れ物

などを洗濯もせずに︑丸めて突っ込んで置くものですから︑それが今では風通しの悪い室内に龍﹂もり︑そうした﹁彼女

の肌の臭﹂は︑﹁私﹂によって︑﹁不秩序︑放持︑荒色の匂﹂として定位されてゆく︵二十四︶︒肌の匂いの両義性は︑譲

治がナオミに対して抱く︑愛着と憎しみ︑崇拝と軽蔑といった両義的感触とも呼応していようし︑シュレムスカヤ夫人の

﹁肢臭﹂を媒介に︑白さの価値とも響きあう︒肌の﹁不潔﹂には︑﹁混血﹂的なナオミが象徴するテクス卜の二極性が折り

たたまれているばかりではなく︑もともと負の価値によって有標化されていたものが︑プラスの価値によって再度意味︒つ

けを受ける︑という倒錯の刻まれていることが確認できるだろう︒

着目しておきたいのは︑﹁不潔﹂をめぐる描写が︑ナオミとの過去を回想するという形式をもったテクスト上に︑過剰

なまでにくり返し現勢化しているという点である︒

﹁不潔﹂への愛着と忌避は︑作家論的な諸研究にならって︑谷崎的な快楽のコlドとして読解することも︑あるいは

﹁棄却されたもの﹂︵クリステヴァ︶の表象として考察することもできようが︑ひとまずそれを帝国主義の言説論理と対照

させてみるならば︑西洋人の身体から発せられた﹁肢臭﹂と連接させられることによって︑ナオミの﹁不潔﹂がテクスト

上に亀裂を走らせていることに気づく︒不潔と清潔という二項対立は︑明らかに︑未聞と文明︑野蛮な自然と衛生的な文

化︑といった帝国的な秩序に対応し︑人種や階級︑ジェンダーをめぐる欠性を有徴化する指標として機能しているのだか

︵ 却

ら︑語り手によって幾度も言及される不潔な香りは︑そうした言説秩序の軸を覆す位置を占めているということになる︒

そこに︑階級秩序の転覆の契機とその可能性が兆すのであり︑下位が上位に︑負が正に読みかえられる力学がテクストに

行き渡ることになる︒

ただし︑読み落としてはならないのは︑その匂いを嘆ぐ語り手の側に生じた反応に︑ふたつの非対称性が浮かび上がっ

てくることである︒

(13)

l構造を検証する過程で生方智子が言及する︑﹁譲治はシュレムスカヤ夫人に接触する

と︑病的なまでに自らの身体を意識し︑自己の身体を不快に感じる﹂のに対し︑﹁ナオミの身体に向かい合う譲治の身体

は決して語られない﹂という差異である︒シュレムスカヤ夫人の肌を前にした﹁私﹂は︑﹁真っ黒な私の顔が彼女の肌に

触れないように﹂遠慮し︑﹁自分の息が臭くはなからうか︑このにちゃにちやした脂ツ手が不快を与へはしなからうかと︑

そんな事ばかり﹂を気にかけているのだが︵九︶︑ナオミに対して自分の匂いを気にする素振りは一切認められない︒

ナオミに﹁あたし酒飲みは大嫌ひさ︑口が臭くって!﹂と言わせ

︵ 十 ︶ ︑

その上で﹁酒の匂﹂を﹁ぷん/\﹂さ

せながら︑﹁私﹂から﹁ばいた!淫売!ぢごく!Lと罵られる場面︵十五︶を設定するテクスト上で︑﹁私﹂が酒を飲

む場面はいくつもあるのにもかかわらず︑語り手自らの酒臭さがナオミによってとがめられる場面は描かれない︒

もう一点は︑語り手がほどこした︑隠微な操作に関わる表象の力学である︒シュレムスカヤ夫人の匂いと親和するナオ

ミの匂いの表象をより厳密に分析しなおしてみるならば︑テクス卜上に︑言語化される項目と︑一語られずに不可視とされ

る項目とが設けられていることに気づかねばなるまい︒そもそも﹁夫人の体﹂に嘆ぎとられた﹁一種の甘い匂い﹂とは︑

﹁私﹂が﹁西洋人には版臭が多いさうですから︑夫人も多分さうだつたに違ひなく︑それを消すために始終注意して香水

をつけてゐたのでせうが︑しかし私にはその香水と版臭の交った︑甘酸ツぱいやうなほのかな匂が︑決して厭ではなかっ

たばかりか︑常に云ひ知れぬ墨惑でした﹂︵九︶と述懐するとおり︑二重性を備えていた︒だから︑ナオミの身体にシユ

レムスカヤ夫人と同じ匂いを唄ぎとり︑﹁私﹂が﹁うすれて行く匂を︑幻を追ふやうに鋭い唄覚で追ひかけ﹂る︵二十五︶

とき︑読者は匂いの二重性を思い起こすことになるだろう︒しかしながら︑﹁私﹂はその匂いを︑香水と肢臭の混ざった

匂いとも︑甘さと不潔さが入り交じった匂いとも語ってはいないのだ︒語り手による回想を振り返ってみれば︑匂いのも

つ二重性は瞭然とするのだから︑語り手は︑匂いの要素のうち︑﹁不潔﹂﹁悪臭﹂の項目を︑あえて書き落としているといっ

てよい︒対応関係を示すシュレムスカヤ夫人の肢臭/香水と︑ナオミの悪臭/香水とのうち︑香水のかぐわしい香りのみ

(14)

でテクストの表皮は満たされようとするのだ︒

多くの論者が主題化してきたように︑﹃痴人の愛﹄は語り手﹁私﹂が現在時から過去を振り返るという形式をもってい

︵ お︶

る︒﹁二分化﹂された﹁私﹂の意識において語り手と作中人物は見る/見られる関係となり︑物語内部の﹁私﹂と︑すべ

てを知る現在の﹁私﹂との聞には仮構された境界が生じるのであって︑そこに﹁語り手の詐術﹂が携えられているわけだ

M︶ が︑確認したいのは︑すべてを知る語り手の現在という審級に近づくにつれ︑ナオミの肌と匂いから﹁不潔﹂という記号

が次第に消去されていくことである︒

私はさっき︑彼女が此処へ這入って来た時︑早くも彼女の服装に注意したのですが︑それは見覚えのない銘仙の衣類

で︑而も毎日そればかり着てゐたものか︑襟垢が附いて︑膝が出て︑よれよれになってゐるのでした︒彼女は帯を解

いてしまふと︑その薄汚い銘仙を脱いで︑此れも汚いメリンスの長橋祥一つになりました︒︵二十四︶

ナオミと別れた﹁私﹂が︑久方ぶりに家に戻ってきたナオミを眼にしたとき︑彼女は﹁襟垢が附いて︑膝がでて︑よれ

よれになった﹂﹁薄汚い銘仙﹂の下に︑﹁汚いメリンスの長嬬枠﹂を身につけていた︒ところが︑数日後に再度現れたナオ

ミは︑私が﹁何処かの知らない西洋人﹂と見紛うほど︑﹁いくら視詰めても全く生地の皮膚のやう﹂な﹁肌の色の恐ろし

兎に角今迄のナオミには︑いくら試つでも拭ひきれない過去の汚点がその肉体に渉み着いてゐた︒然るに今夜のナオ

︑︑︑を見るとそれらの汚点は天使のような純白な肌に消されてしまって︑思ひ出すさへ忌まはしいやうな気がしたもの

が︑今はあべこべに︑その指先に触れるだけでも勿体ないやうな感じがする︒||此れは一体夢でせうか?

(15)

なければナオミはどうして︑何処からそんな魔法を授かり︑妖術を覚えて来たのでせうか?

ナオミの肌は︑﹁二三日前のあの薄汚い銘仙の着物﹂とはっきり対比されているのに︑こののち︑語り手が前景化する

のは︑﹁湿り気を帯びて生温かく︑人間の肺から出たとは思へない︑甘い花のやうな薫り﹂や﹁内蔵までも普通の女と違

ってゐるのぢゃないか知らん﹂と思われる﹁なまめかしい匂﹂︵一エハ︶ばかりである︒その香りは︑事後的にナオミから

﹁唇へ香水を塗ってゐた﹂と明かされることになるが︑最終的にナオミと復縁したのちの﹁私﹂は︑一切彼女の肌の﹁不

潔﹂に言い及ばなくなり︑五官がそれを感知する機会は︑物語現在の外側へと追いやられ︑周緑化されるのだ︒

テクストの背理

以上の議論をふまえ︑テクスト上の両義性と二律背反を映しだす︑混血するナオミの不潔な肌が編みなす背理について

ナオミの肌の﹁不潔﹂は︑帝国主義やオリエンタリズムの論理における︑不潔と清潔︑野蛮と文明というこ項対立を狂

わせる装置として機能している︒なぜなら︑その﹁不潔﹂は︑西洋人の﹁肢臭﹂と結合した上で︑不潔と対置される肌の

ナオミの身体に西洋人の身体に等しい価値を与えるからであり︑その地点から︑上下の体系が

入れ替わる余地が生成してくる︒

最終章の語り手は﹁欠点を取ってしまへば彼女の値打ちもなくなってしまふ﹂︵二十八︶というのだから︑﹁欠点﹂によっ

て装飾されたナオミの﹁値打ち﹂を象徴する記号として︑ほかならぬその﹁不潔﹂が立ち現れてもよさそうなものだが︑

(16)

語り手の最終審級の現在からは︑﹁不潔﹂は抹消されている︒語り手が封じようとするのは︑﹁不潔﹂にともなわれた非対

称性にほかなるまい︒﹁不潔しがナオミという女の身体を彩るとき︑男である﹁私﹂の不快な匂いはかき消され︑西洋人

と同一化されたナオミの肌からは︑プラスの価値を帯びていたはずの﹁不潔しな匂いが脱臭されてしまう︒

位性を与えられた﹁不潔﹂は︑負の要素として処理され︑不都合なものとして消去されている︒ いったんは優

先の引用部にみられるとおり︑二十四章と二十五章との間で︑マイナスの方位から葬られた﹁不潔﹂は︑化粧をほどこ

された﹁天使のやうな純白な肌﹂が﹁汚点﹂や﹁悪行﹂を消し去る︑という叙述と同期している︒それゆえ︑﹁不潔L

負性は彼女の肌に補筆された︑スタンダードな標準との比較による劣性や欠如と結びあったものだといえるだろう︒物語

時聞を巻き戻してみればすぐさま立ち現れるのだから︑﹁不潔﹂の記号は︑語り手にとっての不都合をとりあえずは不可

それが日に見えない領域にたしかに存在していることを映し出す鏡となっていることがわかる︒現在の視

界から削除された﹁不潔﹂は︑消去されるべきものとして過去の空間において可視化され︑現在のなかからは忘却されて

L的な場としてのナオミの身体は︑﹁不潔しという記号がもたらす撹乱性を併せもち︑その表象のレベルで︑あら

ゆる反転がおこりうるという可能性を浮上させる︒物語時間の最終的な審級では︑ナオミは階級や人種︑ジェンダl

値体系を転覆させたポジションを獲得していると読めるのは︑そのためである︒だが同時に︑その同じ構造において︑まっ

たく逆の解釈||たとえば︑ナオミの経済的優位は譲治の所有する金銭によって保証されているのだから上下関係は移動

ナオミの現在の優位は擬似的で仮構されたものにすぎない︑未来における破滅を読み込みうるといった見解

ーーを主張することもできてしまう︒ここにみられる二様の解釈は︑先に確認した﹁混血児物語﹂の物語論理と相似を描

いているといってよい︒物語の主人公は︑﹁普通﹂から限りなく上に︑そして限りなく下に伸びゆく物語展開のいずれを

も選びうる地点に立たされているのである︒

(17)

ナオミの肌が上演してみせるのは︑既存の価値体系を転覆する可能性に満ちた両義性が︑実のところ︑固定化を促して

いるという背理にほかならない︒宙づりにされているというよりはむしろ︑両義的で対置されたものがいつでも反転可能

であるかのように仮構され︑その位置に定着させられている︒それは︑どちらとも読みとりうる自由があるという様式で

あり︑物語には反転可能という軸をもった固定性が逢着する︒どこまでも延長し︑物語に振れ幅と奥行きを与え︑逆転の

自由を許容しているようにみえるこの様式は︑その実︑表面からは洗い落とされてしまった非対称性と︑差別されるべき

ものの欠如や劣性を内在させている︒逆転が上演されるたびごとに︑不可視にされた不都合な部分は必ず増殖してしまう︒

ナオミの負性の傷は忘却の過程で︑鮮やかによみがえる︒その意味で︑両義性の逆転という力学は︑既存の論理

による価値基準を強化するばかりなのだ︒﹃痴人の愛﹄が差し出すのは︑錯覚される逆転の妙であり︑そのとき同時に︑

不都合なものを見ずにすませる感性が形成されてゆく︒

たしかに存在しているはずの要素を︑不可視にしてみせるという︑描写と物語との相乗効果は︑混血的な肌の両義性を

とおして﹃痴人の愛﹄の背理を編みなしている︒﹁女の二つの貌﹂が女性嫌悪の回路を生んだのと同じように︑両義的な

ものの背理は読者を幻惑し︑差別の構造を回転させながら︑物語の定型に奉仕するだろう︒

﹇ 附

記 ﹈

O巻︵中央公論社︑一九八三年︶に拠った︒引用文中のルビや圏点は適宜省略し︑旧漢字は新字に改めた︒なお︑本稿の一部は︑小林多喜二記念シンポジウム︵オックスフォード大︑二OO

l

ナオミの身体がもっ聖性︑俗性の両義性についてはつとに論じられており︑たとえば野口武彦は谷崎の﹁文学的想像力の世界

使

(18)

2︶ 

男を凌駕し︑足下に屈従せしめる超精神的な女﹂になったナオミは﹁卑賎と聖性を体現﹂していると記している︵﹁神になった 女

| |

﹃ 痴

人 の

愛 ﹄

に つ

い て

﹂ ﹃

海 ﹄

一 九

七 七

年 七

月 ﹀

こうした﹃痴人の愛﹄における二項対立的な図式ゃ︑ジェンダ

1

論的な問題を考察するための前提に関しては︑金子明雄﹁ジェ ンダ!とメディア﹂︵中山和子ほか編﹃ジェンダlの日本近代文学﹄翰林書房︑一九九八年﹀が明快に整理している︒

田口律男﹁谷崎潤一郎﹃痴人の愛﹄を読む||一九二

0

年 代

・ 都

市 ・

文 学

︵ 一

﹀ ﹂

︵ ﹃

近 代

文 学

試 論

﹄ 一

九 八

七 年

一 二

月 ︶

で は

河合譲治のもつ﹁︿ハイカラ﹀な思考法﹂と﹁︿田舎育ちの無骨者﹀というイメージ﹂の二面性がナオミの虚像と実像の二面性 に対応しており︑相反する要素が錯綜しつつ混在する﹁一九二

0

年代における都市生活のイロニ

1

性 ﹂

が 論

じ ら

れ て

い る

註︵

1

︶にも挙げたとおり︑谷崎文学における女性の二面性という問題系を扱った先行論は数多いが︑たとえば笠原伸夫は

﹁邪悪不倫のゆえに聖なる女神と化す︑という背理的な命題は︑試行錯誤を重ねながら︑いまナオミのしなやかな女体のうちに

結実しようとしている﹂と述べる︵﹃谷崎潤一郎||宿命のエロス﹄冬樹社︑一九八

O

年 ︑

二 二

九 頁

︶ ︒

柴田勝二﹁遡行する身体|

l e

﹃ 痴

人 の

愛 ﹄

の 文

化 批

判 ﹂

︵ ﹃

東 京

外 国

語 大

学 論

集 ﹄

OO

三 年 三 月 ︶ は ︑ ﹁ 西 洋 人 ﹂ 化 す る ナ オ ミ

の身体に︑日本の﹁古代︑中世的な身体﹂に還元される過程を読み取っている︒

﹃痴人の愛﹄における記号や記号としての風俗のもつ両義性︑二極性については︑﹁︿シンポジウム﹀方法の可能性を求めて﹂

︵ ﹃

日 本

近 代

文 学

﹄ 一

九 八

六 年

O

月︶において議論されている︒その延長で︑金子明雄は﹁風俗の記号﹂が﹁語り手の意識を

超えて物語の進むべき方向を潜在的にコード化﹂し︑﹁潜在的な可能性を伴って章一層化される物語の流れ﹂のあることを指摘し

ている︵﹁谷崎潤一郎﹃痴人の愛﹄﹂﹃園文事解釈と鑑賞﹄一九九三年四月三

辻 本 千 鶴 ﹁ ﹃ 痴 人 の 愛 ﹄ 論 | | 痴 人 の 夢 ・ 虚 空 に 紡 ぐ 幸 福 ﹂ ︵ ﹃ 立 命 館 文 学 ﹄ 二

OO

六年二月︶は︑頭脳と肉体︑不潔と盛惑︑淫

婦と女神といった要素がアンビパレントに譲治を惹きつける﹁必須の条件﹂だと指摘している︒

本論とは視点が異なるが︑中谷元宣﹁﹃痴人の愛﹄の構造||︿混血児﹀としてのナオミと譲治の︽社会︾意識をめぐって﹂

︵ ﹃ 国 語 と 教 育 ﹄ ︵ 大 阪 教 育 大 学 ︶ 一 九 九 八 年 三 月 ︶ は ︑ 明 治 二

0

年代の谷崎文学や人種論などを参照しつつ︑﹁混血児﹂という

記号に注目し︑その差別や偏見に基づく負の意味づけが︑ナオミに与えられた社会の﹁客観的判断﹂を示しているのだと論じ

3︶ 

4︶ 

5︶ 

6︶ 

7︶ 

8︶ 

9︶ 

ただし︑﹃異だね﹄においては︑主人公に近い登場人物のまなざしが︑混血的﹁美しさ﹂を人種的差異として有標化するシステ

ムを無効にする地平が設定されるなど︑言語を背景とする暴力に対する反逆が企てられでもいる︒

混血するナオミの不潔な肌

(19)

︵ 叩 ︶

明治期には大日本帝国が植民地支配の正統性を証明する装置として︑﹁日本人﹂と植民地人の閣の混血者を設定する小説も数多

く認められた︒詳細は︑拙著﹃帝国と暗殺﹄︵新曜社︑二

OO

五年︶の第三章︑四章において論じた︒

同種のものとして︑﹁混血児の悲哀が今日のわが身を助けるし︵﹃大阪朝日新聞﹄一九二四年三月四日︶と題した記事も見受けら

れる︒同記事は︑連載記事﹁ビルディングではたらく女﹂として﹁混血児の女事務員

L

を︑﹁黒い髪と黒い眼︑ガツシリと落つ

いた肉体が濃い紫のワンピース・ドレスに包まれてゐる︑世の惨苦を嘗め尽して来たやうな理智の女だ﹂と紹介している︒

五味測典嗣﹁われわれの内なる︽アメリカ︾||﹃痴人の愛﹄と︿排日移民法﹀言説﹂﹃日本近代文学﹄二

OO

三 年

五 月

中村三代司﹁︿夫婦小説﹀としての﹃痴人の愛﹄||谷崎文学と活字メディア﹂﹃日本近代文学﹄一九九七年五月︒

福知山女学校の風紀問題とは︑教師と女学生との関係が新聞報道等で問題化された事件︒稲垣一恭子﹃女学校と女学生﹄︵中公新

書 ︑

OO

七年︑一四

O

頁 ︶

等 を

参 照

﹃痴人の愛﹄の﹁白﹂や﹁白人﹂に注目した論としては︑﹁白

L

と﹁女﹂の観念的な形象化を︑﹁方法としての西洋﹂という主題 で論じた前回久徳﹃谷崎潤一郎物語の生成﹄︵洋々社︑二

00

0

年︶︑﹁白人女性﹂と若くて美しい空想の母が重ねられ︑憧れ

の対象であると同時に死や恐怖と結びつく不吉な存在として形象化されたと論じる細江光﹁﹃痴人の愛﹄論ーーその白人女性の

意味を中心に﹂︵﹃国語と国文学﹄一九八八年四月︶や︑ナオミの﹁白﹂の作用に西洋化のプロセスを読み取った︑中野登志美

﹁谷崎潤一郎﹁痴人の愛﹄論||﹃痴人の愛﹄に於ける拝脆の美学﹂︵﹃日本文整研究﹄二

OO

二 年 一 二 月 ︶ な ど が あ る ︒ 物語展開の上で︑譲治とナオミの上下の立場が︑最終的に逆転するという構図に︑一見したところジエンターの反転可能性を

読み込みうるという点については︑生方智子が︑﹃痴人の愛﹄の論理は︑近代的な知の枠組みを失効させるようでいて支配され ているのであり︑反転もまた擬装でしかないと批判的に論じている︵生方智子弓痴人﹂の戦略||﹃痴人の愛﹄におけるジェ

ン ダ | の 枠 組 み ﹂ ﹃ 明 治 大 学 大 学 院 文 学 研 究 論 集 ﹄ 一 九 九 六 年 九 月 ︶ ︒

たとえば中上健次による一連の物語論ゃ︑それと小説とをあわせて論じた渡部直己の論考などを参照︵渡部直己﹃日本近代文

学 と ︿ 差 別 ﹀ ﹄ 太 田 出 版 ︑ 一 九 九 四 年 ほ か ︶

0

前田久徳は︑ナオミの肌をめぐる﹁白さ﹂が﹁眠胃りされた肉体﹂において顕現することを﹁ひとつの矛盾﹂ととらえ︑その矛

盾の超剖に﹁生身のナオミの肉体の不在﹂が作用すると論じている︵前回前掲書︑九

01

九 九

頁 ︶

渡部直己﹃谷崎潤一郎||擬態の誘惑﹄新潮社︑一九九二年︑二八

1

六 七

頁 ︒

帝国が本国以外の﹁人種や民族を支配するために差別し︑序列化していく体制﹂においては︑科学的な装いをもった社会ダ!

U︶ 

︵ ロ

︵ 日 ︶

H︶ 

︵ 日 ︶

︵ 日 ︶

︵ げ

︵ 同 ︶

2 0   1 9  

J 、、J

参照

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