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シオン城、バイロンそして透谷 : 『楚囚之詩』論のための序 利用統計を見る

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Title

シオン城、バイロンそして透谷 : 『楚囚之詩』論のための序

Author(s)

黒木, 章

Citation

キリスト教と諸学 : 論集, Volume11 : 73-99

URL

http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=2811

Rights

聖学院学術情報発信システム : SERVE

SEigakuin Repository for academic archiVE

(2)

パイロンそして透谷

ー﹃楚囚之詩﹄論のための序│

黒木

二三己

はじめに﹃楚囚之詩﹄は︑透谷文学の誕生を告げるものである︒しかし︑その世界は誠に混沌としている︒

明治二二年四月六日の日付を持つ﹁自序﹂には︑国冒頭に﹁余は途に一詩を作り上げました﹂とあり︑中程に﹁余は

此﹃楚囚の詩﹄が江湖に容れられる事を要しませぬ然し︑余は確かに信︑ず︑吾等の同志が諸共に協力して素志を貫く

心になれば途には狭陸なる古来の詩歌を進歩せしめて︑今日行はる斗小説の如くに且つ最も優美なる霊妙なる者とな

すに難からずと﹂︑そして末尾には﹁元より是は吾園語の所謂歌でも詩でもありませぬ︑寧ろ小説に似て居るのです︒

左れど︑是れでも詩です︑余は此様にして余の詩を作り始めませふ﹂と書かれていて︑新体詩運動の中での透谷の詩

だが︑周知のように透谷は発売直前にこの詩を排棄する︒その事情は︑四月一二日の﹁日記﹂が語る︒即ち﹁去る

九日に印刷成りたるが又熟考するに儀りに大臓に過ぎたるを漸悦したれぼ︑急︑ぎ書臨時に走りて中止することを頼み直

(3)

ちに印刷せしものを切りほぐしたり︒自分の参考にも成れと一冊を左に綴込み置く﹂というのがそれである︒﹃楚囚之

詩﹄は︑作者によって排棄されたものである︒﹁自分の参考にも成れと一冊を﹂日記の中に綴込んでくれたことで辛う

じて現存することになったわけだ(もっとも︑その他に数冊が書屈に出回ったことも周知のことだ)︒

初歩的な疑問として︑作者が排棄したものを以て﹁透谷文学の誕生を告げるもの﹂とか﹁透谷の詩の達成﹂をいう

のは如何かという人があるかも知れないが︑その点はムキになるほどのことではない︒問題は︑﹁自分の参考にも成れ

と一冊﹂を残すという彼の唆味な処理法よりも﹃楚囚之詩﹄そのものの混沌なのである︒

湖に容れられる事を要しませぬ然し︑余は確かに信︑ず﹂云々といいながら﹁是は吾園語の所謂歌でも詩でもありませ

ぬ︑寧ろ小説に似て居るのです︒左れど︑是れでも詩です﹂と宣言しようとするとき︑彼は﹁吾園語の所謂歌でも詩

でも﹂ない自己の﹁詩﹂がどのような内実を表現しうるものになりえているというのか︒あるいは︑自己の﹁詩﹂が

﹁小説﹂とどのように連続しまた断絶しているというのか︒さらに﹁儀りに大臓に過ぎたるを慨慌したれば﹂とは何

がどのように﹁徐りに大臓に過ぎ﹂るというのか││︒明治二二年はじめごろの透谷の言語表現︑﹁余の詩﹂における

その混沌が問題なのである︒

﹃楚囚之詩﹄が持つ混沌は︑暗渠のようなものである︒この暗渠は︑窺き込む者をして越境せしめるべく不思議に

誘惑する︒しかもそれは窺き込む人自身の言語の根底を衝くものである︒

例えば︑﹃楚囚之詩﹄は︑パイロンの

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‑ 8 3

の換骨奪胎だとの指摘が早い段階でなされた︒﹃蓬

莱曲﹄もまた

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昨包=に依っているとして︑﹃楚囚之詩﹄ひいては透谷文学全体の評価を反しめる論もなかったわけ

ではない︒もちろん︑﹃楚囚之詩﹄の構造や語句とE

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のそれについての異同を検討するのは必

要な作業ではあるが︑そのことが﹃楚囚之詩﹄の本質を解明するために第一義的な問題なのではない︒両詩の比較検

(4)

討は︑透谷が﹁吾園語の所謂歌でも詩でも﹂ない﹁寧ろ小説に似て居るのです︒左れど︑是れでも詩です﹂と主張す

る彼自身の﹁詩﹂を構想せんとする衝動の内部に分け入るための前提として必要なのである︒

わたくしは一九九四年五月下旬にシオン城(の

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OD)を訪ねる機会を得た︒

シオン城を訪ねた目的は︑パイロンがシオン城に幽閉されたボニヴァ1

98 ES

三)をどのように描いている

か︑その背景と殊にシオン域内の牢獄をどう描いているか︑そして透谷はE

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利用して己れの﹁詩﹂を達成しようとしたのかを探る手掛かりを得ることであった︒

ここではその折の報告を中心に斗

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と﹃楚囚之詩﹄との連関を考えることにする︒無論︑両.

詩の細かな語句の異同などには触れない︒くり返すが︑これは﹃楚囚之詩﹄が持つ混沌に分け入るための前提的作業

である︒わたくしの﹃楚囚之詩﹄に関する論考は別に用意しなければならないと考えている︒この拙文をエッセイと

して提出する所以である︒

※ 

シオン城は︑レマン湖

(Z FR

5 8 )

の北東の端︑湖をバナナの形に警えれば凸形に湾曲した尻の部分に位置し

iの﹃新エロイiズ﹄と特にパイロンの詩で全ヨーロッパに知られるようになり︑今では世界中の人々

が訪ねる観光名所の一つである︒

ここを訪ねる人々の多くは︑ジュネーブ(の

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雪︒)←ロ!ザンヌ

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←ヴェヴェイ

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←モント

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というように︑湖の北側に沿ったルlトを辿るようである︒もちろん︑湖の南側に比較してこちら

の方が道路や鉄道を作り易かったこともあるだろうが︑南に湖を眺める位置に別荘地を開発する方が好都合だったか

一八一六年六月二七日にシオン城を訪ねたパイロンの辿ったルlトもそうであった(特に破壊された

(5)

家族関係に苦悩していた彼は︑ロ!ザンヌの近くで湖に身を投げるほどであったというが︑﹃新エロイlズ﹄の叙述を

ひとつひとつ辿ってシオン城を訪ね︑その夜のうちに

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lザンヌのホテルを数日間利用することにしたので︑鉄道を使ってヴォ

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26

州のこのル

1

を幾度も往復することになったのだが︑レマン湖の北側を走る列車の窓からの眺め︑少くともジュネーブとヴェヴェ

イの聞の眺めは実に広々としてゆったりしたものである︿初夏の好天に恵まれたことも手伝ったとは思う﹀︒鉄道の

南側には緩かな下り勾配になって森や畑が広がる︒その奥にときどきレマン湖の青く穏やかなようすが見える︒さら

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5

だろう)が震んで見える︒鉄道

の北側も広い牧草地や畑また森を隔てて遥か彼方に低く重なる山があり︑

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ぬだろう)が見える︒森や畑の緑から想像すると︑南側はいうまでもなく北側も含めてこH

の一帯の地味が肥えていることがわか右︒

広々とした緑と豊かな光││この一帯のどこでもよい︑遠くレマン湖を眺める位置に立ってその風景に圧迫感を覚

える人はまずあるまい︒まして光の乏しい極寒の北ヨーロッパ地域(つい近年まで人々が暖房のために燃した石炭の

煙︑がどれほどすさまじいものであったかは︑多くの都市の古い教会堂の外壁︑が殆んど真黒になって残されていること

を見れば簡単に想像できる︒因みに夏目激石は冬のロンドンの市街地を歩きながら︑ガラスに映る黄色い顔をして黒

く汚れた貧弱な自分の姿を嘆いたり︑疫を吐くとそれが真黒であることに驚いたりしている︒あれは一九O

のロンドンの実状だろうと思う﹀から難渋する山越えの果てにやっとここにたどり着いた人々の感動ぶりがわかるよ

うな風景である︒誠にこの一帯は光豊かな開放空間だというにふさわしい︒

(6)

ヴェヴェイからモントルlに近づくにつれて︑鉄道の北側には徐々に山の斜面が近づくようになる︒それでも緩や

かな段々畑に葡萄が栽培されており︑南側には緑の森の中に点々と別荘などを見ることができる︒

モントルーからシオン城に近づくと山が急にレマン湖に迫る︒特にシオン城の近くは急傾斜の鋭い岩山になってい

て︑まるで山が湖に突っ込むような形になっている︒そのような湖面に突き出た岩を利用してシオン城は作られてい

る︒ヴェヴェイ︑特にモントルーから湖畔に連なる別荘群もシオン城の手前約四

00

メートルのところで見られなく

※ 

既に書いたようにジュネーブを出てヴォ

l

州の一部モントルーまでの聞の風景は︑この一帯︑か誠に広々とした光豊

かな開放空間であることを思わせるが︑これとはまったく対照的なのがロl

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川流域の風景である︒

シオン城は︑ヴォ!の領主サヴォワ公が代々にわたって築いたもので︑時に公の住居であり砦であり︑また牢獄と

7 7  

して改修をくり返してきたものといわれている︒殊に一三世紀の初めサヴォワ公が︑ヴァ

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いたシオン

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5

の大司教からロ

l

ン川流域の領有権を譲り受け︑=二四年にシオン城の東隣り︑

l

川河口の三角洲にヴィルノ

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詔)の町を聞いて交易の拠点を作って以後︑この城は極めて重要な砦として

の役割を担ってきたものである︒

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ロョの背景になったサヴォワ公の権益をもたらしたロlン川流域のようすも見

る必要があると考えていたので︑

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古口)←

ヴィルノlブ←モントルl←ヴェヴェイ←ロlザンヌというように(ジュネーブ←ロ

i

ザンヌ←ヴェヴェイ←モント

ルーとは辿るル

l

トとは逆方向になる)ローン川を辿る鉄道によってシオン城を訪ねる旅を試みた︒

(7)

クアの近くに源をもっロ

i

ン川がレマン湖に注ぐヴィルノ

i

ブまで︑その流域は殆ど深い山の中であり︑その距離

は二五

0

キロメートル以上に及ぶ(問題のシオン城は︑ヴィルノlブのすぐ西側に位置している︒城のすぐ上に小さ

な駅があるが︑特急は停車しない︒わたくしはロ

i

ザンヌを拠点に動くことにしていたので︑一旦車窓のすぐ南側に

シオン城を見下ろしながら通過し︑

i

ザンヌでホテルを確保した後にシオン城を訪ねることにした︒一回は鉄道で

モントルーまで引き返してそこからレマン湖畔を徒歩で辿って五キロメートルは続くかと思われる別荘群を眺めなが

ら城に到達するという方法︑もう一回はモントルーから路線パスを使って城のすぐ上で降りるという方法をとった﹀︒

ジュネーブからレマン湖の北側を辿ってロl

lそしてシオン城へと至る風景と誠に対照的なのが

ローン川流域の風景である︒この流域を辿ると︑車窓からの風景は変化に富んでいるのだが︑厳しいアルプスの腸を

くぐっているような感じがする︒鉄道の旅でもときに恐怖を覚えることもある︒所謂オーバーランド

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メートルを超す山々がものすごい重量感・圧迫感を与えて重なり合う僅かな裂け目(恐らく雪

解けの激流がくり返し岩石を削ってできたものだろう﹀を奔流するのがロ

l

ン川である︒列車は︑川に沿って狭く険

しい峡谷の断崖の中腹や真下をあえぐようにゆっくり走る︒車窓のすぐ近くに激流が見えるかと思うと︑いまにも崩

れるかと不安になる路肩の真下二

00

メートルのところにエメラルドグリーンの淵が見えたり︑あるいは岩壁を穿つ

トンネルの中で車内燈が消えて真黒聞になったりする︒

ローン川流域の深い山の中で唯一視界の広がる場所がシオン

( ω

一︒ロ)の小さな町である︒人の胃袋のような形の盆

地で︑周囲をとり囲むように雪をいただく山々が押し寄せている︒川の両岸に僅かな耕地と町の家並みがみられる︒

盆地は︑長さ約五キロメートル︑幅も広いところで三キロメートル程度だろうか︒この盆地の出入口の断崖には砦や

砲台の跡が幾つも見られた︒万年雪を冠するかと思われる山々の麓には

l

lそれもかなりの急斜面だが│!随分高い

(8)

所まで葡萄の段々畑が見える︒地味は明らかに痩せていよう︒町の北側に尖った小高い山がある︒それは古い城跡だ

ということがわかる︒段々畑も城跡も石が積み上げられていて薄汚れた感じであり︑盆地特有の湿気のためか︑全体

が黒い沈んだ眺めである︒五月下旬なのに殆ど緑は見えない︒大自然の圧迫の中で時間が滞留しているように感じら

シオンの盆地を通過して︑再び険しい峡谷を七︑

0

キロメートル辿ってやっとレマン湖畔の町ヴィルノl

ブに到

着する︒この間もゆっくり走る列車の窓からは高い垂直の岩壁から噴出するような白い滝が幾条もみ与えたりする︒列

車は鉄で組まれた誠に貧弱そうな橋の上で故意に停まるようで肝を潰す︒ヴィルノl

ローン川がレマン湖に注

ぐ三角洲の小さな町である︒さすがに緑も多く︑急に光は隊しく感じられる︒この町を西側から抱きとめるような形

の急斜面の山があり︑その斜面の突端にシオン城︑があるというわけだ︒

長々︑とロlン川に沿って走る鉄道の旅のことを書いてしまったが︑わたくしが書こうとしたのは二五

0

キロメlト

ル以上にも及ぶこの流域が今日でも文字通りの閉塞地だということであった︒

このような閉塞地であるにも拘らず︑ローン川流域は︑例えばウィーンの文化圏とロlマの文化圏とを往還する殆

ど唯一の交通路であったということが確認されなければならない︒南は︑レマン湖から流れ出るロ

l

ン川を下ってイ

タリアに出ることができる︒北は延々とロ

l

ン川を遡り︑クアからさらにパックス(回

5F ω)

を経てオーストリアとが

繋がるわけだが︑それゆえにレマン湖からロlン川に沿ってウィーンに至るこの交通路をめぐって古くから争奪戦が

くり返されてきたことを忘れてはならない︒なぜならこのル

l

トの支配権を持つということは高い通行料を確実に徴

収できるということだったからである︒

一三世紀はじめにシオンの大司教からロ

l

ン川流域の領有権を得たことによってサヴォワ公の権勢は格段の飛躍を

(9)

みせる︒その原因の一つはロ

l

ン川沿いのル

l

トの莫大な通行料徴収によるのである︒この権益を確実にするために

サヴォワ公はヴィルノ

l

ブに港を作り(もちろん︑交易港と軍港にするためであった)職人を集め︑両替所を聞いた

のであり︑元来は保養地であった西隣のシオン城を改修して堅固な砦にしてきたのであった︒このルlトの通行料収

入がいかに莫大であったかは︑それ以後サヴォワ公の大型ガリア船団が頻繁にジュネーブを脅かしたり︑北方のハプ

スブルグ家の領地に侵入するようになったことや︑シオン城やヴィルノ

i

ブに集まる財宝を隠すために公や軍人たち

が競って柱や壁を穿ったとか︑巧みな商売で権益を侵食するユダヤ人を魔女狩り的流言などによって追放したという

逸話を示せばわかろう︒

ところで︑重要な交通路や交易地に﹁自由の精神﹂が育くまれることは民俗学や歴史学が教える常識である︒これ

を逆にいえば︑歴代のサヴォワ公がこの流域から得られる莫大な権益を守るために︑そして領民たちの精神的共同性

を維持するために如何に神経を使ったかということを想像させる︒シオン盆地の出入口にみられた古い砦や砲台跡が

裏側から教えてくれるのは領民たちの秩序や精神的紐帯維持に害を及ぼす者に対しては如何に苛酷な刑罰を加えたか

ということでもあろう︒

一六世紀初めごろのサヴォワ公の権勢は絶大であったことが伺える︒しかし︑宗教改革運動がヴォ!とロl

域に及んで領民たちに動揺を与えたその早い段階の一五三二年︑旧教を守りたいサヴォワ公が軍事力にものいわせて

ジュネーブの宗教改革運動に圧力を加えたことでジュネーブ市民の反抗運動を生み︑それを抑えるために公は市民の

抵抗運動の指導者であったサン・ヴィクト

l

ル僧院長ボニヴァ

l

ル(彼はもとはサヴォワ公家の血筋の人である)を

シオン城に幽閉したのであった(彼がジュネーブとベルン(回

25

の連合軍によって解放されたのは四年後のことで

ある︒この後サヴォワ公はベルンに従属することになる︒このような公に対して︑ルソーを学びまたフランス革命に

(10)

刺激されたヴォ

l

人たちはベルンから独立することを要求︑公がその指導者四人をシオン城に投獄するのは一七九一

※ 

年である︒因みにパイロンは﹂宮司号

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わたくしはE

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を手にシオン城の牢獄をやや詳しく調べることにした︒

参考のために︑観光案内のパンフレットに書かれている略図を示しておこう︒

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牢獄の広さ(大きさ)︑天井の高さ︑七本の石柱の配列と間隔︑石柱の環や鉄鎖の位置︑特にボニヴァ

i

ルが縛られ

たとされる石柱からレマン湖側(南)に穿たれた窓までの距離︑窓の配列とその大きさ︑窓の下辺枠の床面からの高

(11)

さ︑窓から見るレマン湖と湖を隔てて見える山々のようす︑窓からはいる光と音の量とその変化︑牢獄内の湿気の具

合││このようなことを調べるためにメジャーを持ち︑朝の開門時間から夕方の閉門まで城に留まってみたのである

(わたくしの訪問は︑パイロンがここに来た季節より丁度一ヶ月早い︒城には絶えず観光客が出入りした︒また城の

すぐ裏手の城の屋根とほぼ同じ高さのところに鉄道と普通自動車道路︑さらにその後に迫る山の斜面約七︑Ol

トルの高さのところに高速道路も作られていることなどのために問題なしとはいえないが││﹀︒

さて︑問題の牢獄の位置についてE

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レマンの湖水はシヨンの城壁の傍にありて︑

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多くの水︑合流して注ぎ︑

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82波に取り圏まれし雪白き城壁より︑

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測量締の垂下されしことも幾度なりしか︒

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壁と波とを二重に繰らすこの獄舎は︑

湖水の表面よりもなほ低く︑客あり︑

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さながら生者の墓のごとく︑

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その中にわれ等は横たはれり︒

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夜となく壷となく︑

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打ち寄する波の響を頭上に聞きぬ︒

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(12)

と描いている︒(囚人が聞く波の音が床面から五メートルもの高さになる天井││一列に配された七本の石柱に支え

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1

ム状の石組みであるーーにはね返って︑あたかも波が頭上にざわめいているということでないのであれ

ぼ﹀牢獄の床は湖面より下に設定されていることになる︒だが︑問題の牢獄は││ボニヴァ

l

ルが縛られたものとさ

れる石柱にパイロンが自分の名前を刻んだとして︑今日ではその部分にプレート状の保護板がつけられている︒これ

は後世人によるまことしやかないたずらであってもよいのだがーーその床面が湖面よりは四メートル以上も上になっ

ている︒もちろん︑この牢獄の更に下に地下牢があったとの説明書もあって錯層している︒くり返し改修されている

のだから確実なことはいえないが︑シオン城︑がもともとレマン湖に突き出た岩の上に築かれたものであることや問題

の牢獄の北側の壁(レマン湖に接して作られた南側の窓のある石壁ではない﹀が部分的に天然の岩の面をそのまま生

かして作られており︑裂け目から僅かではあるが水が診み出る斜面になっていることなどから推量すると︑この牢獄

の下にさらに七本の石柱と囚人の弟の亡骸を埋めたという土の床面を持つ同規模の地下牢があったとは考え難い︒も

とより︑東隣りには問題の牢獄より床面が約一メートル低く作られたこつの小部屋がある(図の

5 )

︒これらの小部屋

の天井の高さは二メートル程度であり石柱もない︒床面も湖面から約三メートル以上のところにある︒これらは牢獄

でありまた穀物部屋だったと説明書にある︒

問題の牢獄はレマン湖の水面下に設置された地下牢ではないだろうと推量できる理由を

E

斗宮司母 820

z ‑ ‑ O R .

の中からも説明できると思う︒例えぼ︑囚人が弟の死を悲しむあまり大声をあげて叫びながら跳び上がった

はずみで鉄鎖が切れるのだが︑その後の場面﹁

X

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一僚の光わが頭上に閃めきたり︒

(13)

It  was  the  carol  of  a  bird; 

1t  ceased

, 

and  then  it  came  again

, 

The  sweetest  song  ear  ever  heard

, 

And  mine  was  thankful  till  my  eyes 

Ran  over  with  the  glad  surprise

, 

And  they  that  moment  could  not  see 

1  was  the  mate  of  misery; 

〈告笹〉

But  through  the  crevice  where  it  came 

The  bird  was  perch'd

, 

as  fond  and  tame

, 

And  tamer  than  upon  the  tree; 

A  lovely  bird

, 

with  azure  wings

, 

And  song  that  said  a  thousand  things

, 

And  seem'  d  to  say  them  all  for  me 

1  never  saw  its  like  before

, 

1  ne'  er  shall  see  its  likeness  more: 

~笠も岨~Q書~~~'õQ話。

揺さ~~tぜど心--\.l~A'吋....)';R'制ど~A~.t.:!心。

イミ〉勺9四割J物語拘置冷u.t.:!l'(d ~J--\.l朝m\-J~....)。

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盟会l出心'

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~J Q謝礼)ド田史的~J--\.l1Ql'(d制'心。

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(14)

弟の精霊の化身かとも思い︑われを慰めるために楽園から来たかとも思う小鳥は﹁光射す壁の隙間﹂というのだから

恐らく牢獄の南に聞ける窓枠に止まって鴫っているの︑だろう︒また︑﹁苅﹂の末尾と﹁班﹂の官頭部分︑が

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今一度︑高き山脈を凝視めたり︒

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麓には庚く長く湖水横たはり︑

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穿たれし巌︑倒れし樹にせかれ︑

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跳びほとばしる流れの音を聞きぬ︒

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遥か彼方に︑白壁の町々浮び︑

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白帆の波を掠めて走り行く様も見ゆ︒

(15)

となっているのをみると︑この窓枠は湖面の上に設置されていなければならない︒牢獄が﹁湖水の表面よりもなほ低

く︑客あり﹂という地下牢ならば明らかに矛盾を生じる︒

わたくしが実見したシオン城の牢獄(図の

7 )

は湖面より上に作られたものである︒

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牢獄もレマン湖の水面下に作られた地下牢ではないだろう︒

次に牢獄内の構造などを報告することにしよう︒七本の石柱は︑先述のようにもっとも長いもので五メートル程度︑

最短のもので三メートルだろうか︒その間隔も約一一一メートルである︒窓はレマン湖側に五つ穿たれている︒細い縦長

の形で︑窓枠の下辺は牢獄の床面から二メートルちょっとの高さになっているから︑立っただけでは窓を通して外の

風景を見ることはできない(﹁溜﹂で窓から山脈や湖水さらに帆船を見る囚人は壁に足場を作っている﹀︒多量の湿気

を含む土床は深い黒色をしている︒内部は全体が暗く(特に初夏の日射しの中からこの牢獄にはいると真暗な感じで

足元もおぼつかないが︑目が慣れてくると窓からの光を舷しく感じるようになる︒しかし幅七メートルしかない牢獄

の北側の天然の岩でできている壁面を詳しく調査するには懐中電燈を要するほど暗いて城が湖水に接することや部

厚い石で作られていることも影響してのことだろうが︑内部は非常に湿度が高い︒従って五月下旬の昼間に窓から射

し込む光は硬質ガラスの反射光のように鋭く感じる︒厳冬期の光また月光も恐らく身を刺すように鋭く且つ冷たく感

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20

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﹂は次のような描き方になっている︒

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奥深く︑歳経しシヨンの獄舎に︑

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ゴシック風の七基の国柱あり︑

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加 円 3柱は太くして灰色

(16)

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かそけく漏れ入る陽の光線は︑戸惑ひて

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濃潤れる床上を伺旬ひっ斗︑

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沼地の鬼火のごとく射し入る︒

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﹁厚き壁の裂締を貫﹂く光線は寧ろ鋭いというべきで︑翻訳にみられるように﹁かそけく漏れ入る﹂とも思えない︒

パイロンが見た六月の光線はもっと強烈で鋭いものであったのではなかろうか︒牢獄の床を湖面より下に設定すれば

この描き方は妥当かも知れない︒いや石壁の堅固さと弟たちの死後どれほどの時聞を経たかも分からなくなっている

囚人の暗欝な気分︑さらに冬の季節の光線とを重ねれば

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志 向

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匂﹂(﹁潟潤れる床上を伺旬﹂うような︑また﹁沼地の鬼火﹂のような)という形容は効果的な強調用法と読むこと

約三メートルの間隔に配された石柱と鍛鎖に繋れた三人のようすについて︑﹁E﹂では

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(17)

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われ等三人

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互ひに顔を見合ふことすら叶はず︑

︿

蒼白き光さを受けて︑

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O E H ω 一 ∞ 宮 一

見知らざる人の如くに見ゆるのみ︒

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V R l u

かくも︑わが同胞相連れて︑

互ひに距てられ手柳かけられしも︑

と書いている︒極めて現実的なことを指摘すれば︑そして実際にそれを使ったのだとすれば︑囚人が使う排便の場所

は石柱から約三メートルは離れた南側の石壁の下の土聞に作られているのだから鉄鎖の長さも三メートルはあったろ

うと想像される︒そうであれば﹁一足も歩む能はず﹂は誇張である︒もちろん︑三人の兄弟が一本おきに石柱に繋れ

ているのであれば︑例えば︑弟の死を描く﹁刊﹂で

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ーあふ︑彼は死せり︒

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俗 語

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われ︑目のあたり見たりしが︑彼の頭を手に支ふること叶はず︑

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mE E1 57 1

lその臨終の手を

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﹄否︑死せる手をすら握る能はざりき︒

というのもありうることではある︒これも囚人の孤独を強調するための虚構と考えるべきであろう︒もちろん︑この

参照

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