アラゴンとサン・ジュスト
一九六〇年のある対談の一節をめぐって
高 村 智
駒
アラゴンは一九六一年の一月︑新刊紹介誌︽リーヴル・ド・フランス︾Uぞ器瓢Φ鳴鑓鋤oΦのアラゴン特集号にお
いて一連の質問に答えているが︑そのなかで︑﹁あなたの地上の幸福の理想は?﹂という問いにたいしては︑﹁終る
ことのない愛﹂と答え︑また﹁わたしの夢は?﹂という欄には︑﹁幸福への夢﹂と書きこんでいる︒そしてさらに﹁現
実生活における︑あなたの最愛のヒロインは?﹂ー﹁エルザ﹂︑﹁想像上のヒロインは?﹂1ーヨルザ﹂︑﹁自分
のいちばん好きな名前は?﹂ーヨルザ︑エルザ︑エルザ﹂と︑くりかえし自分の妻の名を挙げている︒アラゴン
はこうしたアンケートの類はなにより嫌いだと言いながらも︑そのほか彼の人となりや人生観︑芸術上の趣好などを
知る上ではまことに興味ふかい︑かずかずの皮肉でユーモラスな︑しかし適確で暗示に富んだ回答をあたえている︒
そして︑それらを通じて︑とのわけ﹁幸福﹂︑﹁愛﹂︑﹁エルザレの三つの理想がたがいに呼応しつつ︑アラ︑瓢ンの生活
とその作品のなかで︑きわめて重要な役割を演じていることがうかがわれるのである︒
ところでまず﹁幸福しとは一体なんであろう︒哲学者アランは﹃幸福論﹄℃騰○℃oωω霞訂じσ○欝げΦ¢がH800の中で
つぎのように前置きしている︒﹁昔の賢人たちは幸福を探求したのだった︒隣人の幸福をではなくて︑かれら自身の
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幸福を︒今日の賢人たちのあいだでは︑自己の幸福というものは探求すべき高貴なことがらではないと教えることに
意見が一致している︒ある人たちは︑徳は幸福を軽蔑する︑としきりに言おうとするのであるが︑そのように言うこ
とはべつに難しいことでもない︒またある人たちは︑共同の幸福こそ自己の幸福の真の源泉である︑と教えている︒
( 1 )
しかしこれはおそらくもっとも内容の空虚な意見であろう︒﹂アランの言葉が示すように︑﹁幸福﹂は人びとのあいだで種々異ったものに考えられてきたし︑また考えられている︒のみならず﹁幸福﹂について無関心な人たちもある
( 2 )
し︑﹁幸福﹂について考えることは無意味であるという人たちもいるし︑また﹁幸福﹂のイデ1を曖昧であるとして( 3 )
拒否する人びともあることはもちろんである︒そしてアラゴンは書いている︒﹁わたくしの思うに︑ほとんどすべての人が︑もし自分にとって幸福とは何であるかと尋ねられたなら︑つぎのことを認めることでわたくしと一致するだ
ろう︒すなわち︑そのような幸福とは何であるかをはっきり∵口えないときは︑自然のなかにそれのイマージュをみつ
けることができるし︑そしてそれはなにか春の訪れのようなものである︒それはにわかに春のように︑春のようにそ
れはひとびとに侵入し︑春のようにそれ暴物のそれぞれの価値を変えてゆく⁝3
西欧における﹁幸福﹂の観念は︑まず古代の諸道徳において大きな役割を演じており︑そのことはギリシャ語の
窪創巴ヨひ⇔(げΦ霞の償図)から来た﹁幸福説﹂2獄欝O巳ω鑓Φという名によってもうかがわれる︒そうした道徳は︑た
とえ快楽説やエピキュリスムのいう快楽にょろうと︑ソクラテス︑プラトン︑アリストテレスのいう理性によろう
と︑あるいはストイシスムの苦痛や情念の統御によるのであろうと︑すべてそれは個人の幸福の追求を醸的とするも
のであったし︑古代においてはこの幸福が最高の﹁善﹂とかんがえられた︒
その後のモラリストたちは︑幸福より以上に別の道徳的観念に没頭したかのようにみえる︒たとえばカントの﹁純
粋理性篇︑キリスト教の﹁犠牲﹂と﹁仁愛し︑あるいは社会学者たちの﹁社会偏︒しかし︑平和な良心の幸福︑彼岸の救い︑
規律のなかの幸福︑といったようなこれらの道徳的探求の最後の目的はやはり依然として幸福ということにあった
し︑それぞれの信奉者たちに対して暗黙のうちに幸福を約束しないようなモラルはほとんど考えることができなかっ
たと言えるだろう︒
しかしながら﹁幸福﹂の観念そのものはいくたの変化をうけ︑拡大されて︑ゆたかになっていった︒純粋に個人主
義的でエゴイスティックな古代の快楽説のあとに︑次第にますます各人の幸福を他人の幸福にむすびつけようとす
る道徳がつづいた︒アダム・スミスやエルヴェシウス︑ジャン・ジャック・ルソー︑ロベスピエール︑サン・ジュス
ト︑バブーフ︑ブオナロッティーのような人びとにとって︑個人の幸福の基本的な条件は他人の幸福であり︑他人の
幸福を通してはじめて個人的幸福を望むことができる︒他者そのものがますます自己の発展の内部で重く考えられ︑
それがカントのいうような抽象的な人間でなくて︑社会を構成する個人の総体︑つまり家族から国家︑さらに人類全
体にまでおよぶ社会︑として考えられる︒そのとき道徳の目的は︑もっとも多数のひとびとの幸福︑万人の幸福とい
うことに帰着する︒このような広大な目的に到達するために︑近代のモラルは︑︽共同の幸福︾ぴ○謬げ①霞oOB諺¢嵩
の物質的・精神的諸条件をつきとめるための︑きわめて様々な認識をともなった︑抽象的であると同時に具体的な探
求︑といった姿をとるのであった︒フランスの二十世紀の作家旋ちのあいだにおいても︑﹁幸福﹂をめぐつてすでに
いくつかの著作が書かれており︑さきに引いたアランの﹃幸福論﹄のほかに︑たとえばモーリヤックの﹃キリスト者
の苦しみと幸福﹄ωOa陣9謬o①簿び○諮げΦ霞q償oげ鼠蔦ΦP遍⑩ωH︑モーロワの﹃夫婦の幸福についての講義﹄00鶏ωαΦ
び○郎げΦ償村oO且藁9q勲r騨Φ窃遍︑B・グラッセの﹃幸福についての考察﹄幻①§[鋤門ρ郎①ωω¢吋冨び○類げΦ9が縛⑩窃日︑マルセル・
ジュアンドーの﹃生活と幸福に関する考察﹄菊恥冨×δ⇒ωω葺鴎幣く冨Φけδぴ○欝ぴogお]b醸○︒やアルフレッド・ケル
ンの小説﹃こわれやすい幸福﹄いのび8び①霞ヰ9︒面二ρおα○︑アンリ・プティのエッセイ﹃幸福について﹄O¢
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アラゴンとサン・ジュスト山ハ○
ぴo潟げ①償吋などがあり︑またサン・テクジ講ペリやエリュアール︑あるいは第二次大戦後の若い詩人シャルル・ドブ
ジンスキーなども﹁幸福﹂についてしばしば触れている︒アラゴンの揚合は︑幸福についてとくにまとまった文章や
論文を発表しているわけではないが︑彼の詩や小説や評論のなかには︑幸福をめぐる数多くの言葉がちりばめられて
( 5 )
いる︒たとえば一九五五年の秋に書き︑詩集﹃未完のロマン﹄ピ①同○露鋤郎騨鋤o犀Φ︿少おα①の最後におさめた長詩﹁幸福とエルザについての散文﹂℃同oω①創償ぴ○郎げΦ離同Φけ臼国一ω鋤には︑つぎのような美しい一節がみられる︒
幸福それはおそろしいほどにがい言葉だ
なんという怪物がここではまとっていることか理想の仮面を
そのスフィンクスの被りものとそのシメールの両腕を
愛し合った恋びとたちの墓石のうえにつっ立ったまま
幸福とは黄金のように映えたてられる言葉なのだ
それは石のうえをころがってゆく般子のひびきをたてながら
幸福について話すひとはしばしば眼がかなしげだ
それはふかい失慧のすすり泣きではないのか
ギターをひくゆびで断たれた絃ではないか
しかし君らにわたしは言う幸福は存在するのだ
夢のなかとは別のところに雲のなかとは別のところに
"熱
大地よ大地よここだそれの未知なる碇泊地は
私を信じようと私を信じまいと私がそれの証言をするとき
不幸について私が知っていることが私にその権利をあたえる
太陽にむかってすすむとき太陽がとおざかろうとも
人間のうなじが死刑執行人のこぶしのために
つくられようともかれの腕が十字架に約束されようとも
幸福は存在するのだわたしはそれを信じる
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アラゴンとサン・ジュスト
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アラゴンにとって︑この讐幸福レの問題は︑まず彼が﹁愛﹂に対して与えている位置によって提起されるのであ
る︒﹁私にとって愛とは︑一箇の人問生活のもろもろの限界や広がりのなかにおける︑歴史的なオプティミスムの転
( 6 )
写の礁一の可能性にほかならない︒﹂言いかえれば︑こういう段階の幸福︑すなわち愛こそが︑歴史的な幸福というものの唯一の可能な予示と考えられている︒ところで︑アラゴンのいう﹁歴史的なオプティミスム﹂とはどのようなもの
であろうか︒自分の作晶のなかで育春・恋愛・老年・死・後悔などのテーマを好んでとりあげ︑そのためにしばしば
ペシミスチックであるとが︑オプチミスティックであるとかの非難を浴びてきたアラゴンにとって︑過去はあくまで