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慶長14年(1609)東南アジア海域の 我国海運について
松 竹 秀 雄
第1章 序 説 ・ きゆう
第2章己酉約条と対馬藩の貿易 第3章朱印船主有馬晴信 第1節 マカオにおける事件
第2節 マードレ・デ・デウス号焼沈事件 第4章島津藩による琉球進攻と貿易 第1節 琉球の明への進貢
第2節 島津藩の琉球進攻と貿易 第5章大航海時代の曙光
第1節 序 説
第2節琉球と日本本土とのかかわり 第3節 大航海時代へ
第6章海外貿易記憶序曲
第1章 序 説
慶長14年といえば,慶長3年(1598)に豊臣秀吉が没して在鮮諸将を召還してから11年後,
そして慶長5年(1600)3月のオランダ船デ・リーフデ号豊後漂着,同年9月の関ヶ原戦役,
及び1600年末のイギリス東インド会社発足から9年後,徳川家康の征夷大将軍江戸幕府成立 の慶長8年から6年後,そして二代秀忠が征夷大将軍となった慶長10年(1605)から4年後 に当る。 、
この慶長14年には様々な出来事があって,ある面では海外貿易が正に隆盛になりかかろう とする様相が見える反面,逆にそれを真向から否定するかのような幕府命令も出て,我が国 近世の海運の大きな曲り角の年であった。
月日順に大凡の出来事をひろって行けば,正月11日には7船主8隻の朱印船が出航,2月 に島原半島日野江の城主有馬晴信は徳川幕府の内命を受けて台湾に将兵を派遣し,同じく2 月26日に薩摩島津家は「琉球渡海之軍衆法度之条々」を発して,3月4日に全艦船は薩摩郡 山川港を発航して奄美・沖縄へ向つた。4月から5月にかけて,対馬の宗氏は杜絶した朝鮮
きゅうとの国交回復を,偽国書を以てする交渉ではあったが己旧約条を締結して貿易再開を達成し た。5月28日(西暦6.29)にはポルトガル船マードレ・デ・デウス号が長崎に入港し,その 年末,有馬晴信が長崎港外に之を襲って焼沈める大事件が起る。5月30日(西暦7.1)には オランダ船ローデー・レーウ・メット・ベイレン号及びブリフーソ号の2隻が平戸に入港
し,以後平戸侯と長崎奉行の紹介を得て,駿府に赴き家康と会見し7月25日付オランダ船通 商許可朱印状を得,8月22日(西暦9.20)平戸にオランダ商館建設決定し,ジャックス・ス ペックスが初代館長となる。そして12月12日(西暦1600.1.6)には前記有馬晴信のポルトガ ル船襲撃事件が起るが,それに先立って,9月,幕府は西国大名の船500石積以上を没収す べき旨の命が出,11月から翌年にかけて悉く没収を終る。
本稿では,このような変動の,それぞれの事件を調査しつつ,特に島津氏による琉球進攻 が,歴史的な或る流れの中に於て行われたことに照明を当てて行なってみたい。
きゆう
第2章己酉約条と対馬藩の貿易
慶長4年(1599)に日本軍の朝鮮からの引揚げは完了したが,勿論朝鮮との交易は杜絶し てしまった。
倭憲が盛んに朝鮮及び明国の海岸を荒らして廻っていた1419年,朝鮮側からの対馬進攻即 ち我国足利義持の時代の応永26年の外憲,朝鮮でいう世宗己亥東征が失敗したものの,朝鮮 側はこれによって日本側の事情に通じることとなって,朝鮮側から一種の勘合印であるとこ りろの「図書」を日本各地の修好の意志ある有力者に贈与し,また九州探題からの書信(書契 と称した)をも要することとしたが,書契の発行を対馬の宗氏に限るということで落着き,
地理的に当然のことながら,宗氏が対明貿易を独占する形で続いていたものであった。
よしとし
であるから,朝鮮の役で杜絶した朝鮮との通交回復は対馬藩主宗義智にとって,藩財政の かけはし よし 命運を左右する大事業であった。そこで宗義智は,日本軍引揚完了直後に,梯七太夫と吉
そえ ヒ 2)
副左近を朝鮮に派遣したが,朝鮮側に殺されて交渉は失敗した。然し宗義智は交渉を続けて 行った。朝鮮側の史料によれば,「三三33年(1600)対馬守宗義智,三智三等を遣し被虜の 男婦300余口を刷還し,以て和好を要し開市を通ぜんことを乞う。(これに対し朝鮮側は)柳 お 根等を遣し,由を具して奏聞し,東回の人朴三根を差して公文を持し対馬島に往復す」と。
のこれはその前年,朝鮮側が韓応寅を謝恩使となして明国に赴かしめたが,そのまま下国に ラ 留まって居り,且つ明国の指令がない限り勝手な講和は出来ないとする内容の返状であっ たが,これが交渉再開のいとぐちとなった。そしてこの慶長5年(1600)6月,伏見に抑留
きょうこう
されていた姜抗が開放されて帰鮮し,日本側には朝鮮に再出兵する様子がないことを報告 した。それに依ってか,同年8月から明の駐留軍が撤退を始めたので,以後朝鮮は明の指令 のを仰ぐ必要がなくなった。そして同年9月には講和に関する朝鮮側の回答に接した。.ところ が,慶長5年(1600)9月に関ヶ原戦役があり,交渉は中断せざるを得なかったが,慶長11 年に再開された。李史によれば,「宣祖39年(1606),この年,日本徳川家康使を朝鮮に遣わ
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について . 一 49 し和を求む。是より先,徳川家康関ヶ原に勝ち,朝鮮の旧交を思い,宗義智を召し謂いて日 うらく,朝鮮は我が隣邦たり,相善からざるは両国の利に非ず,われもとより彼に憾む所なく,
彼誠に仇視すべからず,彼もし和を欲せば,われ且つ之を許さん。然れども強いて求むべき に非ず。汝の家,彼と旧交あり,宜しくわれの意を領し,彼に至り善く之を謀れと。宗義智 因って使を遣わし,朝鮮に告ぐるに修好の事を以てす。宣祖,日本将士の侵掠を恣にしたる を憤り,また通信和睦を欲せず。然れども宗義智之を求むること甚だ切にして,和を許さざ れば兵禍図り難きを云うや,王大いに恐れ,僧松雲を日本に遣わし情状を探らしめ,且つ戦 時とらえられし男女3,000人を還さんことを請う。しかも和義未だ調わず,次いで柳永慶,
領相となるに及び,壬辰の時,二二・靖陵を発掘せし賊を送らば和を為さんと云う。義智す わ ラ まごさく またなわち2人を縛送す」と。森山論文によれば,縛送された2人は二二二九(孫作)・下多
化之(又八)の両人で,実は対馬島内の罪人であった,と。これは李史には「二二曰く,我は ち
が容貌を見よ,我尚わかし(年皆20余),壬辰にはすなわち児童なり,いずくんぞよく陵を 掘らんと。大臣に命じて議せしむ。サ承勲曰く,此を以て陵を犯せる賊と為さば,是れ神明 を欺侮せんと。王遂に永慶の言に従い,市にはなして和を許し,夷知金継信・録事孫文或等
を対馬に遣わす」とある。
また森山論文によれば,このとき宣陵・靖陵を発掘した犯人を引渡せという要求とは別に,
「いままで徳川家康からの答書がないので,至急国書を送られたいということであった。そ れは対馬藩が,豊臣秀頼がいるにも拘らず家康への国書を朝鮮側にしきりに希望したことは,
どうも納得しかねる疑問であるとして提出された要求である。…いずれも対馬藩にとっては 無理難題の要求であった。朝鮮側は,日本からの回答が容易に返ってこないことを見越し,
その間に日本の国情を詳細に分析しようという意図があった。……回答使と通信使の準備を ととのえて,徳川家康の国書を待った。ところが対馬はすぐにこれに応じた。……家康の国 たくみ書は,柳川智永と島川内匠との偽作であった。……朝鮮側は不意をつかれたが,……直ちに
さっかん し
「回答兼刷還使」を日本に送ることに決定した。これによってようやく国交回復の道が開か れることになった。そして,このため宗義智は家康から肥前国内に2,800石を加増された。(但 し,寛永12年に国書偽造が露見し,家老ら関係者が処分された)」とある。ところがこの慶 長11年(1606)は秀頼滅亡の元和元年(1615)よりは9年前ではあるけれども,家康が征夷 大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開いた慶長8年(1603)の3年後,二代秀忠が征夷大将軍
となった翌年であって,正式には家康からの国書でなくて,秀忠の国書であるべきであった ろう。但し翌年の李史に次のようにある。1607年,不宣祖40年日本慶長12年,遂に正史呂祐
けいせん
吉・副使慶逞・従事官丁好寛等を遣わし,江戸及び駿府に遣わして国書宝物を献じ,隣交の 礼を修せしむ。之を徳川時代朝鮮来聰の始となす。其国書の略に曰く,弊邦何ぞ貴国にそむ かん。壬辰の変,故なくして兵を動かし禍を構え,惨を極め,先王の丘陵をあばくに至る。
二言の君臣皆痛心三二,義として貴国と共に戴かず,数月来,対馬の主,和事を請うと錐も,
実に己れ二三の二つる所,今貴国前代の非を改め,旧交の道を行わんとす,まことに斯くの
しるし如くんば豊両国の福といわざらんや。故に使俳を馳せて和好の験をなす。………然るに秀忠 の答書は,日本,朝鮮に和を請うに非ずして朝鮮に向て和を許すの語あり,祐吉等恐催して
のぼ り
敢て弁ぜず,還るに及び旧例にしたがい使臣は資を陞さる。物議謹然たり……」と。通航一 覧には次のように出ている。「慶長12年,朝鮮の三使呂祐吉・慶逞・丁好寛といえる官人来 朝す。閏4月江戸へ来り,御礼も御饗応もおわりて駿府へつかわさる。駿府にてはお目見ば かりにて,本多上野三宅にて飲食を繋りて,直に帰朝す。右通故,権現様へぽ朝鮮王より書 エ ラ
翰さしあげ申さず候。勿論御書翰もこれ無く候」と。
このようにして交渉そのものは動き始めたものの,二条締結には至らず,翌年宣祖は亡く なって,幼帝光海君が立った。そしてその翌年1609年,「光海君2年,日本徳川回復た宗義 智に命じ,僧玄蘇・柳川景直をして国書を齎らし,去年の来聴に報ぜしめ,後また使を遣わ
し,館を釜山に設け,富船貿易条例を約す。此に於て通商貿易既に旧に復し,使聴往来絶え
ユの きゆう
ざること足利氏の時の如し」と。この長船貿易条例が我国でいう私設断線である。
森山論文によれば,「対馬は強引にも翌14年(1609)4月に征夷大将軍の使者と称して国 書を持たせた。この国書も明らかに偽書であったが,この国書をもって来朝と貢路の2ヶ条 を要求したのである。だが朝鮮側はその要求をしりぞけて,国書だけを受取り,日本国王宛 の返書を対馬側に与えたにすぎなかった。然しその後,南条締結問題は急速に進展し,翌5 の月には一挙に約定成立の運びとなった」とある。つまり,対馬は江戸幕府と朝鮮側に偽書を 送りながらも,念願の約条を成立させた。平戸オランダ商館長ジャックス・スペックスの らう
1610年11月3日長崎発信十七人会宛書簡によれば,「……錫は朝鮮向けに需要多く,当地に ては多量購入せられます。私,当日本より朝鮮向け貿易の可能なりや,いささか試してみる 処がございました。即ち去る3月,店員1名に胡椒20ピコル(60キロ換算)を持参させ,当 地より30哩ばかりのフシマ(対馬?)に遣わしました。この地の住民と貿易し,年3〜4回 は彼地に向う便船をもっているのでございます。………支那貿易は全く不況と申す外なきに
よって……」とあって,対馬藩の対朝鮮交易が半独占的に成功していることを裏付けている。
ラ通航一覧によれば, 「慶長16年辛亥年,宗対馬守i義智,先に点鼻(慶長14年)豪富の後,こ としはじめて送使船を渡す。是より毎歳渡海交易あり。慶長16年辛亥,始遣第1船,二三内 野勘左衛門平話直,都船主小田庄右衛門平調近,二進石田伊兵衛藤智清,これより二十船次 第渡海絶えず……」。三二二二その他は次の通りである。
歳 遣 船 数
第 1 船 1隻 シ還再三1隻かかんさいと 水木船1隻 同仮眼目渡1隻 第2必至第17船 17隻 (中戻り船)
(各1隻)
1領送使1号船 1隻 同 上 1隻
〃 2号船 1隻 〃 1隻 同 上1隻 2野送船1号船 1隻 〃 1隻
〃 2号船 1隻 〃 1隻 〃 1隻 3特送使1号船 1隻 〃 1隻
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 51
かかんさいと
3特送使2号船 1隻 仮還再渡 1隻 水木船1隻
(中戻り船)
以 酊 送 使 1隻 〃 1隻 義真返送使船 1隻 〃 1隻
万馬取工船 1隻 〃 1隻 〃 1隻
副急送使1号船 1隻 〃 1隻
〃 2号船 1隻 〃 1隻 〃 1隻
該船数 47隻(但し,鳥合計数:48隻)
例として第1船のみの積荷をみれば次の通りである。
看品(代官のところで検する積品物の意)
第1船1.銅2,800斤(単価毎100斤価公木(木綿)数不明)
1.銅2,800斤(〃 〃 60匹)
1.鐘 1,551斤( 〃 〃 200匹)
1.水牛角297本(毎1本価公木 3匹)
1.円木 325斤(毎100二三公木 33匹3合3勺)
右価公木 115束31匹3合3勺 封進物(朝鮮国王に献ずる品物)
第1船胡椒300斤
明ばん 300斤 円 木 700斤
日本朱 2斤(但160目)
細物一色三代 14匁
同封進返礼物 価公木(綿布)15束48匹
第3章朱印船主有馬晴信
第1節マカオにおける事件
島原半島の日野江の城主有馬晴信は,朱印船主であった。その朱印状取得は次のようにな っている。
慶長10年(1605)5月3日
〃 〃 〃 5月16日
〃 〃 〃 8月28日
〃11年(1606)8月15日
〃12年(1607)10月4日
〃 〃 〃 10月6日
〃13年(1608)
い つ
西洋渡航の朱印状
かんぽじや
束憎憎〃 〃
ちゃむば
占城 〃 〃
しゃむろ
逞羅 〃 〃 占城 〃 〃 束哺塞〃 〃 占城 〃 〃
当時の大名朱印船主は次の通りである。
はるまさ 慶長9年(1604)5隻 島津忠恒3.松浦鎮信1.五島玄雅1.
〃10年(1605)9隻 島津忠恒3.松浦鎮信1.五島玄翁1.
有馬晴信3.鍋島勝茂1.
〃11年(1606)1隻 有馬晴信1.
〃12年(1607)9隻 島津忠恒1.松浦鎮;信2.
鍋島勝茂2.亀井三二1
〃13年(1608)1隻 有馬晴信1.
〃14年(1609)4隻 島津忠恒1.亀井薮矩1
〃15年(1610)1隻 亀井薮矩1.
〃16年(1611)2隻 松浦鎮信2.細川忠興1 これ以後は寛永7年(1630)まで中断する。
有馬晴信2.
加藤清正1.
加藤清正2.
ラ 有馬氏は,晴信の11世の祖経澄が「鎌倉将軍実上卿の時,、建保の頃,常陸国より肥前国」
に地山として派遣されたといい,有馬に城を築き日野江の城と称した。後,明応5年(1496)
貴純の代に原城を支城として築き,晴信の父義直(義貞)の永禄5年(1562)に,i義直の弟
大村純忠の仲介により島原領内にキリスト教が伝わり,ロノ津を貿易港としている。晴信 が朱印船主として活躍する素地は父の代からあったのであるが,戦国時代を経過し,朝鮮の 役・関ヶ原の役が終って,領地に落着いた西南大名たちは,持てるエネルギーを積極的に海 外進出に向けたのである。(鳥取県)因幡の領主亀井武蔵守山矩の如きは,その居城鹿野が さいよう内陸にあったにも拘らず,慶長12年に西洋,14年と15年に逞羅宛朱印状を受けているが,「因 幡民談」によれば,「亀井武州この利倍を考えられ,我も舟をやらんとて,蓄え給う財宝限
りなければ,長崎に於て数十貫目の船を買い,京都・堺にて,その国々へ赴く商買の物,或 いは刀・脇指・金銀の細工物・京染の小袖・奈良の曝布染・蒔絵の諸道具・絵屏風など色々 の物を調え下し,是を船に積入,両郡へ役にかけ,百姓共を舟子とし,シャム・カボチャ所 の々に渡されけるに,案の如く売買ことのほか利潤ありて,金銀の殖たること限りなし」とあ
り,殆ど独立全額出資の朱印船経営者であったことがわかる。
さて通航一覧によれば,「慶長12戊申年,肥前国日野江の城主有馬修理大夫晴信,仰をう けて香材を求めんがため,占乱国に商船を渡せしが,三富港にて蛮人等,悉くこれを焼害せ りしよし上聞に達す」とあり,また「……10年乙巳年8月28日,有馬修理大夫晴信に占城渡海 の御朱印を賜わる。同11丙午年8月15日,明人林三官に御朱印を賜い,さきに商船の便をも て,かの香木を御所望ありしが,答書も奉らざるにより,猶御書及び鎧等を彼に附して贈ら せ給い,これをもとめらる。然るに三官洋中にて賊のために害せられしかば,かの国に達せ ずして帰朝す。同12丁虚心10月4日,また晴信に御朱印を賜わり,前年の御書信物に,豊光 寺承免が書簡を添えられ,その船より達すべしと命じ給う。よって明年晴信,家臣を南蛮船
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 53 に乗組せ渡海せしむ。この三三婿港にて順風を待し内,国人のために害せられ,また彼国に
の ちゃんぱ
達せざり」ともある。長崎港草によれば,「慶長14三酉の年,東照宮占城伽羅をお求めあり,
長崎奉行長谷川左兵衛に仰せ遣わされけれども其品これなく,有馬修理大夫晴信才覚を以て 少しばかり是を献じられければ,御機嫌よくて,其の後三門へ伽羅求めに遣わさるべきとて,
晴信へ才覚すべきよし仰せられ,銀子60貫目其外諸々の器物御渡なされ,修理大夫も色々の 進物など調え,よき唐船を仕立,長崎に於て占城の案内よく存じたるアンヂ(按針)を雇い,
たいわん
久兵衛と云う者に道具の者3人,人夫の者2人差遣しぬ。つつがなく大志に着き,占城への 順風を相待居たるに,右6人の者,彼の蛮夷の従者どもと丁丁の町にて喧嘩を仕出し,蛮夷
どもを数人撃殺しければ,其夜蛮夷の者ども70〜80人,久兵衛が宿所に押寄せ,6人の者ど もに打てかかり,散々に叩き伏せてこれを殺し,荷物悉く奪いとる。アソヂは元南蛮人(ポ ルトガル人)にて所の案内はよく知れり,其場をひそかに遁れ出て,他の船に便を乞い,其 年の9月に日本に帰り来り,晴信へかくと申しければ,晴信アンヂを召連れ駿府へ参勤仕り ・・」、とあり,日本出航の年がややずれているように思える。これは長崎市史の「朱印は慶 長12年10月4日附であったが,その船の出帆したのは同年末又は翌13年初であったろう。而 して同船は帰航の時期が遅れて順風を失ったためマカオに寄港した」,長崎県史の「家康よ りの依頼の伽羅などを求めての帰途,季節風の関係でマカオに立寄り,1年間滞留すること
とんきん
となった」ということかもしれないし,また「このとき東京からの帰途遭難した日本船の乗 組員が支那船を掠奪し,之に乗ってマカオに寄港したが,二品の日本船員等は30〜40人,隊 を組み,官憲の注意も聞かず,弓矢・刀鎗・銃器等を携帯して市街を練り歩く間にポルトガ ル人と衝突し,数人を殺傷した後,1軒の家に籠って防戦の準備をした。有馬の家臣2人は 之に加わって指揮をした。司令官ペッソアはこの報を聞き,兵を率いてその家を囲み,投降 すれば生命を助けることを伝えたか所が,数人は降伏して牢に入れられ後に免されたが,多 数は戦を続けたので砲撃されて悉く殺された。他の日本船員約50人は別に家に籠っていたが 耶蘇会の教師達が騒擾の報に接し駆けつけて説諭しためで,唯1人処刑され残余はゆるされ た,ということがマドリッド市の史学科学士院図書館所蔵の文書に載せてある」とある。但 し,諸文献から復航の可能性が高いと思えるが往航の途次の事件であったとする武藤論文
もある。
船については,長崎県史に「晴信は家康の命により,長崎奉行長谷川藤広と協力して占城 へ回船したが,同船はマカオに於てポルトガル人のために掠奪破却せられた」とあり,他の 論著もそのようである。
長崎市史・長崎県史の日本人数と長崎港草の人員等とは差異があるが,長崎港草のは概ね 藤原有馬世譜によっており,但し同世譜によれば,按針(航海士)と久兵衛は別人ではなく,
「高針雇久兵衛」が1人であり,「あんし久兵衛はもと南蛮人なるゆえ,其の場をのがれ,
唐山に渡り,その年の9月本朝に帰り,事のよしをともに注進す」とある。帰国した人数は ともかく,マカオに於ける事件は大日本史料第12編8に引用するオランダ東インド商会史の
1611年(慶長16)8月8日付の記事中に,ポルトガルの大使は我国に渡来し,3年前マカオ にて日本人を殺せしは正当の理由ありしことを説明し,長崎に於てポルトガル船を焼きたる は不当な.りとて数百万ドカットの賠償金を要求したと書いてあるから,その3年前といえば
1608年(慶長13)であるし,ヨゼフ・シュッテの「長崎の創立と発展におけるイエズスの コンパニア」には1608年11月30日に事件が起ったと明記してある。そして報告者の帰国は 慶長14年(1609)の9月である。「前に掲げた争闘の後,免されてマガオから還った船員等 はマードレ・デ・デウス(号)より遅れて帰朝し,マカオの事件が彼らから初めて我国に知
れたので晴信は出府して幕府に報告した」とあることからもそれがわかる。そしてポルトガ ル船マードレ・デ・デウス号(別名ノッサ・セニョーラ・デ・グラサ号)の長崎入港は,「慶
ヨヨラ ヨ ヨの
長14年10月に来航」,「10月,右の南蛮の二三,長崎に入津:す」と10月説があるが,当時の 帆船は南東季節風を利用して来日していたのであるから,日欧通交史の「6月29日(邦暦5 ヨらう
月28日)マードレ・デ・デウス号長崎着」が正しい。これは「蘭船の日本着より2日前に無 事入港里,「(二二)両船は北航し慶長14年5月30日(1609年7月1日)に長崎港外に着き,
ポルトガル船が2日前に入港したことを聞き,それから水先案内人を雇うて直に平戸に向っ
ヨの ヨ う
た」,平戸オランダ商館日記の「(蘭船)2隻が1609年7月1日平戸に入港した」等からも証 明される。
とろこで,ポルトガル船は慶長12年(1607),13年(1608)の両年,長崎入港はない。これ は,「オランダ人が東洋の天地に出現してから,ポルトガル・スペインの領土は頻々としてそ の攻撃を被る。1606年5月から12月までマラッカを攻撃したマテリーフの艦隊は,1607年7 月支那海に入り,広東附近で待機しているため,マカオから例年の通り日本へ向って船を出 すことが出来ない。それが1607年ばかりでなく,翌年も繰返されたので,マカオの商人も日 本の商人も双方共に非常に難儀した。それ故,1609年本年はいよいよ日本に向って船を出す という段になると,マカオの商人は2年間の無利益を取返す意味で盛んに荷物を積んだ。,
1609年バンタムに来たオランダ国司令官フェルフーフはローデー・レーウ号外1隻を日本に 派遣するに当り,多年日本に往来した船の中,最も積荷に富んだこの船を捕獲せよと命令し た。……船はマードレ・デ・デウスと称し,縦48間・横18間・吃水線上の高さ9間,橿48間
という大船で,司令官アンドレア・ペッソアはもとマラッカのポルトガル商館に勤務し,マ テリーフの攻撃を防御した1人で,1607年以来マカオの司令官を勤めている。本来,司令官 は1年限りのものだが,船が出ないから例外として継続していた。彼はフェルフーフの計画 をマラッカからの通知によって知」っていたからオランダ船より2日早く長崎に着航したの
である。
もともと、マカオでは日本船の寄港を喜ばない。それはポルトガルの対日本交易利益が減 少するからである。そこで,マカオ事件を好機とし,マードレ・デ・デウス号長崎入港後,
るの
二二が定例の江戸参府をしたとき,日本人マカオ不寄港に関する幕府の朱印 (次頁)を得
ている。
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 55
あまかわ
1 7月20日晩,学校へ上州より使者あり。天川へ御朱印遣わされ候。日本人天川 へ参り候こと迷惑申し候。御停止有るべしの御朱印也。文書双談申し右回右筆へ
申渡す。
日本人天川津へ寄港候に付て,そのところ迷惑の由尤もに候。その儀に於ては 堅く停止を令し,もしこの旨にそむく者は,その地法度の如く成敗致す可きも の也。
慶長14年7月25日
天川湊年寄中
右回右筆九左衛門書之
※「学校」とは足利学校の円光寺元倍のこと さて,9月に帰国した船員からマカオ事件を知った幕府は,事件の晴信船が幕府の朱印を 与えられたものであり,且つ家康の書簡と進物を載せて占城に渡航したものであったから,
この事件を重大視し,晴信に事件の責任者であったペッソアを訊問して,適当な処置をとる ことを命じた。
第2節マードレ・デ・デウス号焼沈事件
有馬晴信のマードレ・デ・デウス号撃沈事件日については,1610年r1月6日(慶長14年12 るの月12日)説と,1月9日(邦暦12月15日)説とがあるが,ヨゼフ・シュッテの「長崎の創
ラ るヨラ るの
立と発展におけるイエズスのコソパニア」と,藤原有馬世譜及び通航一覧,並びに1610年
るらう
の日本耶蘇会年報によって,1月6日(邦暦12月12日)説をとる。記せば次の通りである。
「」の中の文章は藤原有馬世譜による。
慶長14年
12月6日 晴信,(江戸より)日野江に帰着。
12月7日 晴信,御手廻20人ばかり召倶して長崎へ。長崎奉行長谷川藤広と相談。r謀て,
カピタンを呼寄せとりこにすべきとの商議にて藤広より使を遣わし,交易の議に付談 合すべきことあれば庄屋の所まで来るべしと云い送られけれども,彼早くその機を察 せしにや,敢て来らず。これはその頃耶蘇の徒ありて,その様子を内通せしに因てなり」
るの
イエズス会フランチェスコ・パシオの1610年3月19日付書簡によれば, 彼らがナウ 船に対し先手を打って攻撃を加えながら,港の入口に向けて同船が去ったために,こ れを捕獲できなかった時のことであった。彼(長崎奉行)・は公方に対し,司教と私と
が今後何が起るかをカピタンに通報したから,あのような行動に出たと書き送った と非難めいたことを書いている
12月8日 再び使いを出し,「決して別条なき旨を告諭すといえども敢えてこれをきかず,あ
まつさへ船を出すべき用意をなす」。(1610年日本耶蘇会年報によれば,ここより2里 を距てたる一三(福田港か)に至らんと欲し,予め船長に命じて夜に入るを待ち,時刻 を計り,急を要するにより錨鎖を断ちて出港せり,とある)
「此度,黒船三三さるるに於ては御生害の外なし,此節の儀両人(家臣林田・鬼野池)
無刀にて懐剣を用意し,カピタンに面談して刺違え申すべき旨仰せ含めらる。両人畏ま りて,直に相向うといえども,鉄砲を放ち寄せつけず……其後,風波少し穏やかになり て船を出せしかども,沖は猶風波強くして,津を出るとと僅に3里,西風に吹きもどさ れ,碇をおろして繋り居たり」
長崎名勝図絵によれば, やむを得ず深堀で碇を下した甥,長崎港草には 未だ風強く る ラ
深堀まで三里出てここにて碇を卸し繋りける とあり,通航一覧には 外国入津記に は深堀を二三に作ぢ。》とある。
12月9日 黒船は逆風のため港外に碇泊中。晴信側は,長崎浦の漁船数隻に焼草を積み,民 かや
家(の軒先)をこわしてその萱を積み,火をつけて風上から黒船に流しかけたが,思う ようにならなかった。
「たまたま流れ寄るは船より大筒を放ちしゅえ,この術も行われず,然らば十五端帆の せいろう
船を2艘もやい,黒船の高さに井楼を組上げ攻寄せんと,その用意を仰せ付けらる」
12月10日 黒船は港外に碇泊中。
12月11日 黒船は港に碇泊。有馬から新手の兵士が到着。
12月12日 黒船は,夕暮にはまた出帆しようとした。
「夜中,風鳥きなば船の出んこともまた計り難ければ,只今攻めかかるべきの由申上げ しかば,公尤もに思召され,然らば早く攻め討つべし。又,右の兵船6艘取りかじおも かじに3艘つつ上矢を打つべき由仰付けられ,其夜戌の刻(夜8時頃)井楼船を黒船の もとに打寄せ,我先にと乗移る」。
らり
1610年の日本耶蘇会年報によれば, (ポルトガル船は)碇を棄て,順風に乗じて出 回したるが,風力微にして遠く去らざる内に日本人に囲まれ,諸方より攻撃せられたり。
初めはポルトガル人の砲撃によりて有馬方危うかりしが,ポルトガル船は側面に運転す ること能わざるを以て,前記の機械船(ポルトガル船と同じ高さの,三層にして塔に似 たる機械を据付けたる井楼船)は擢を用い,ポルトガル船の後方に到れり。此所には唯 1門の砲ありしのみにて,ポルトガル人は銃及び火を以て之に当り,双方此所彼所に雄 々しく戦いしが此際ポルトガル人にとり不幸なこと出来せり。ポルトガル人の1人,機 械船に向い湯壷を投ぜんとしたるに,未だ投ぜざるに当り火を発し,中帆に燃え付きた れば,ポルトガル人の多数は消化に尽力し,戦に従事する能わざりき。この事件は敵に
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運にういて 57 十分なる勝利の望を与えしも,これのみにては猶さしたる害なかりしならんに,ボルト ガル人は消火を容易ならしめんため,帆を船尾に押しやり,却って此所にて火勢を増し,
火災にわかに拡がり,船尾の乗組をして退却の余儀なきに至らしめたり。船長はこの惨 状をみて,船員に神意に任すべき旨を説き,死するの準備をなさしめ,直に火薬庫に火 を投ぜしめたり。けだし生命と共に諸物皆灰儘となり,キリスト教徒のもの一つも異教 徒の手に落ちざらんが為なり。是に於て船は恐ろしき響を発して破壊し,敵にも少から ぬ損害を与えたり。アンドレア外数名は水中にて銃丸又は弓矢に当りて最後を遂げたり と。
イエズス会フランシス・パシオの1610年3月14日の書簡にも, 日本人は4日間にわ たって4度攻撃を加えたが,彼らは決してそのナウ船に入ることが出来なかった。しか し主はその戦闘の最終段階に於て災難によりナウ船に火がつくことをお望みになった。
しかもこれを消すことは不可能であった。カピタンはこれを見て,ナウ船が爆発するよ う火薬庫に点火することを命じた ,とある。
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但しこれには異説もあり,通航一覧によれば, 修理(晴信)方に黒船のわりを委し く存知候牢人あり,此者計上を以て二三の内のわりをつもり候て,大将分の在処,又玉 薬の在処を能くかんがえ候て,合戦にもかまわず,楯にて上をよく囲い小船を用意して 黒船へ乗寄せ,船底をほらせ,玉薬をほりつけ,火をさして船を漕のけ候えば薬に火入 二二候。声は一声天地にひびき,唐人300人ほど焼死,水中に入申候。彼牢人も己れずし て忽ち焼亡する条,黒船沈み滅却,前代未聞の次第なり。無罪南蛮人少々船にて送り返 す。諸国より集る町人,手を空しくして帰る ともある。
の
前記フランシス・パシオの書簡に, 日本人たちが船内にあった財をわが物に出来な いまま,ナウ船は爆発し,海底に沈んだ。このナウ船によって我々は2万ドゥカド以上 を失った。……我々が日本の価格で,生糸を売ったら得られたであろう額(に換算する と)我々が蒙った損害は3万ドゥカド以上である。それは今年は異常な高価になったか らである。 とある。
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この黒船の沈没の場所は,通航一覧に強風のため引返し碇泊した場所の各説をそのまま 列記してあり,「①高鉾」「②ゆわう.(伊王島)という処」「③香焼島の外港に漂い来て碇を の
卸せり」と。長崎名勝図絵に ④昔有馬晴信が南蛮船を焼討ちにしたのは,この島(神ノ 島)の沖の方である。……(黒船と共に沈んだ荷物の中に銀2,600貫があり,21年たった寛 永9年……銀600貫を引揚げ……全部で1,000貫目が揚った),残りは今も神ノ島の海底に有 るという 等とあることから,高鉾島・香焼島・伊王島及び神ノ島に囲まれた水面であるこ とになる。武藤長蔵先生の論文に 昭和3年8月に香焼島と神の島の中間の海底から引揚 げられた,総長7尺7寸5分(2m34.8),口径3寸8分(11cm 51),厚み2寸5分(7㎝57),
外径6寸3分(19c皿09)の大砲は,マードレ・デ・デウス号のものと推定され,砲身のE.
R.の文字については,ラテン語Emanuel Rex (エマヌエル王の意)であろう,とするの
がある。
昭和3年8月22日の長崎日々新聞によれば,「蔭の尾東端と伊王島西端の連結線と,福田 岬と中島連結線のクロス地点で……分厚なチーク材をみつけ,船体の一部なる見込みで愈々 気勢を得,捜査続行の結果;数日前同船備付けの大砲3門を発見。(8月)20日砲1門の引揚 に成功した」とある。旧蔭の尾島の南端部は,現在は三菱長崎造船所香焼工場の俗称100万 トソドック部分であって,蔭の尾東端は,図の長刀鼻東部に当るので,新聞所載の2連結綿の クロス地点は図の●A印の所となる。但し,天理大図書館より得た「マドレ・デ・デウス」
号引揚後援会の資料「マドレ・デ・デウス号の沿革と引揚作業」によれば,香焼島玄牛鼻と 四郎島の連結線と平瀬・高鉾島南端の連結線とのクロス地点●Bとなっていて,軽度の差は あるが, 今はこれ以上の資料は望むべくもない。
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慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 59
呼 称
口 径 (サンチ) 砲 長 (メートル)
記 事 砲学通志所載 陸用鉄蛇砲 12ポンド砲 11.99 2,638 19世紀の砲 同 上 海用鉄蛇砲 同 上 11.15 2,679 同 上 カルテン,海上
C術全書所載 海軍用砲 同 上 12.15 2.45 同 上
長崎引上砲 マードレ・デ・デウX号の といわる 11.5 2,348 マノエル王(1495−
P521 という
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引揚げられた大砲は昭和5年以後に移動あったらしく,現在は奈良県天理市天理大学図書
おう館の正面玄関にある。その大砲がマードレ・デ・デウス号のものかどうかについて,有馬成 甫氏によれば,「型式は18世紀末にヨーロッパで流行した12ポンド砲型式と寸法に似ている
ら ラ
」とあって比較表(二七)も添付されている。但し1750年から天保11年(1840)に至る長崎 の実録大成(正と続)及びその後の明治に至る間の新長崎年表の中に於て,幾つかの難船沈 没記録があるが,当該箇所に最も近いもので,文化6年(1809)秋出帆巳三番楊酸亭船の「佐
嘉領中ノ嶋に於て破船に及ぶ……積荷物残らず沈没す」の唐船であって,蘭船等西欧船は無 い。依て,当該大砲はマードレ・デ・デウス号のものと見倣すべきであり,当該箇所が同船 沈没の場所であると認定するものである。
なお長崎県史によれば,「この事件には台湾視察に派遣されたと思われる谷川角兵衛も参 回しているから遣台湾船(朱印とは別か)は既に帰朝していたと考えられる」とあるが,当 時台湾は交趾・マニラ等と共に外国貿易の仲継地であったので,幕府は有馬晴信をして,対 外貿易の拡大を策して調査せしめようとしたのであった。
第4章島津藩による琉球進攻と貿易
第1節 琉球の明への進貢
沖縄では,1187年(文治3)源為朝の子といわれる尊敦が舜天王と称して即位し,舜天王 統から英祖王統(1260年以降)へ,この王統の4代目玉城王の頃から山北・中山・山南が分 立しその間を三山分立時代と称し,続いて察度王統(1350年以降)・尚思紹王統(1406年以 降)等を経て,中山王尚巴志が1429年に山南王を討滅して琉球を統一し,1470年から尚円王 統となって行ったが,琉球と中国(明)との交易は1372年に始まっている。明実録によれ ば次の通りである。
1372年2.6 遣楊載,持詔諭,琉球国……
〃 12.26 楊三三瑠球国,中山王三度,遣弟泰;期等,奉表貢方物,三三察度大統暦及織 金文綺紗羅各五匹,泰期等文綺沙羅襲文,三差。
1373年1.2 太常司言,外夷琉球諸国,巳入朝貢……
〃 11.15 琉球国中山王察度,遣其弟泰期等,奉表貢馬及方物…・
1375年1.3 命刑部侍郎李浩及通事深子名,使琉球国,賜其王察度……
〃 3.3以外夷山川,……福建則宜附祭日本・琉球……
1376年4.2 刑部侍郎李浩,還自琉球,弓馬四十匹硫黄五千斤……
1377年2.9 琉球国中山王二度,遣其弟泰期等,進表賀正旦,貢馬十六匹硫黄一千斤…
1378年5.2 琉球国中山王二度,遣使来貢方物……
1380年4.6 琉球国記山王三度,遣二二馬及方物……
〃 10.29 琉球国山南王承察度,遣其臣師惹等,奉表貢方物……
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 61 1382年2.14 琉球国中山王二度,遣其弟泰期及其臣亜蘭三等,奉表貢馬……。
1383年2.3 是日琉球国中山王察度,遣其臣亜蘭砲。山南王承二度,遣其臣師三等,進表 弓馬及び方物
〃 12.25 琉球国山北王柏尼芝,遣旧臣摸旧習,三方物,賜衣一襲 1384年1.23琉球国中山王察度,山南王承察度,山北王柏尼芝
〃 6.2 琉球国中山王察度,遣其臣阿不可等,上表貢方物・・…
1385年2.1 賜琉球国朝貢使者文綺紗錠,及以駝紐鍍金銀印二,賜山南王承三度・山北王 柏尼芝,又賜中山王察度・山南王承察度海舟各一
1386年1.3 琉球国中山王三度,遣旧臣亜蘭三等,上表貢馬……
1387年2.19 琉球国中山王察度,遣使亜蘭鞄,三方物弓馬三十七匹 1388年1.10 琉球国山南王承三度,三三耶師姑,進表献馬三十匹…
〃 2.9 琉球国山南王……三賀,三方物。山北王柏尼芝……中山王察度……
〃 10.1 琉球正中山王二度・山北王伯尼芝,遣其臣……
(以下,年月日のみ記入)
1390年1.17 1391年3.7
1392年5.2/8.1/11.15/12.14/1393年2.12/5.12/6.10/9.7/12.4/1394年2.1/4.1/
5.1/10.25 1395年1.22/4.2/9.14/ 1396年2.10/3.10/5.8/6.6/10.3/12.1 1397 年2.28/8.23/9.22/12.201398年1.19/3.19/4.171402年9.271403年2.22/3.23/
8.17 1404年3.12/4.10/5.10/6.8/10.5/11.3 1405年3.31/4.29/5.28/10.23/11.
22/12.221406年1.20/3.20/5.18/9.131407年4.8/5.8/6.61408年3.28/11.
181409年4.16/6.14/12.7 1410年4.5/5.4/7.2/11.27/12.261411年2.23/4.23/
6.22/11.161412年1.14/3.13/5.11/7.91413年2.1/3.3/4.30/5.30/8.27/12.
231414年6.18/9.141415年1.11/4.10/5.9/6.7/7.7/9.4/10.3/12.21416年1.30
/4.28/6.25 1417年4.17/6.15/9.11/10.10 1418年 3.8/4.6/11.28 1419年1.26/
4.25/7.23/12.171422年10.16 1423年9.5/12.5 1424年3.1/6.27/8.24/10.23/12.
211425年2.19/4.19/8.14/9.12 1426年1.9/4.8/5.8/7.5/9.2/10.1/10.31/11.
29 1427年4.27/7.24/10.20/11.19/12.181428年9.10/10.9/11.8/12.71429年1.5
/2.4/5.4/6.3/8.1/10.28/11.271430年6.21/9.18/10.17/11.16 1431年9.7/10.
7/11.5」432年2,2/4.1/6.28/12.231433年2.20/3.22/5.19 1434年4.10/5.9/8.
51435年1.30/2.28 1436年/1.19/2.17/3.18/4.17/8.131437年3.7/6.4/7.
4.1438年2.24/8.211439年4.14/8.10/10.81440年3.4/4.2 1441年12.131442年2.
11/4.11/5.10/8.6 1443年1.2 1444年2.19/4.18/5.16/7.16 1445年2.7/3.9 1446 年2.26/4.26 1447年2.15/3.17/6.141448年2.51449年3.24/8.19/9.171450年1.
13/4.12/6.10/9.6 1451年2.2/3.4/5.11452年3.22/5.19/9.14 1453年4.9/5.9/
9.3 1454年2.28/3.29/9.22 1455年2.17/3.18/4.i7/5.17 1456年4.5 1457年2.24/
3.26 1458年1.16/2.14/3.151459年3.5/4.5/8.281460年3.231461年3.131462年 3.1/4.31/5.30 1463年2.16 1464年4.71465年3.271466年4.151467年4.51468年 2.24/10.161469年2.12/4.12/5.12/12.41470年5.11471年3.22/6.19 1472年3.
10 1473年4.271474年4.171475年4.§/5.5 1476年3.261477年4.14/5.131478年5.
3 1479年3.24 1480年4.10/5.10/(…皆一年一貢……令三二年一貢,此誠臣之罪也……)
1482年3.20/4.18(琉球国中山王尚真,復旧不時進貢,不許……) 1484年3.27 1486年5.
4 1487年12.15 1488年1.14(命却琉球国入貢使臣之従三江来者,旧例琉球二年一丁……)
同年4.12/5.121490年3.21/4.201492年4.271494年5.51496年5.131500年3.
301502年4.71507年5.121509年2.19/5.191510年2.91511年4.281512年7.
131513年12.271515年4.141516年4.21517年3.22 1518年4.10 1520年4.18 1522年 5.251524年5.4 1526年5.111528年4.19 1530年3.29 1532年5.51534年6.121535年 12.25(琉球国中山王尚清,以受封,遣王舅長史毛貫等,進表謝恩献方物……)1536年1.
231538年3.311540年4.71541年6.21543年11.271545年9.6 1547年12.121549年
12.19 1550年1.18
(この頃から嘉靖大憲期となる)
1554年1.4 1555年10.161557年12.211562年7.11563年11.16/12.16 1565年12.
231568年11.19 1570年1.71571年11.17 1573年11.251574年12.14 1575年9.51576 年1.1/1.31(7.26封琉球自世子尚永為中山王) 1578年1.8 1580年11.7 1581年10.
28 1583年11.51587年5.8/11.1
1591年12.16 琉球中山王世子尚寧,差官鄭礼等,照例賞賜,……速請三三……
1594年12.12
1595年6.8 琉球国使者干瀟等,為世子尚寧請封,……侯世子具表前来,然後許封,聴使臣 面領,従之
1597年11.10 1600年1.16
1601年7.30/8.28/9.26尚寧准襲封琉球国中山王・・…
1602年11.14 1604年1.31
(1605年8・15 命冊封琉球,兵科二三中夏子陽行人王士禎作速渡竣事).
1606年20.2(2月20日の誤りか)/(2.30 冊封琉球正使夏子陽・副使王士禎,竣役同)
1607年10.21琉球国中山王尚寧,奉献前使所郡金,上嘉其三三,並以礼金還其来使,三兵 科右給事中夏子陽,行人司行人三士禎,冊封琉球,事竣将行…琉球国中山王尚寧,以 洪永旧例,初賜閲人三十六姓……
1609年1.7 宴琉球国進貢使臣鄭子孝等一十三員
1610年8.19 琉球国中山王尚寧,春遣陪臣王舅毛鳳儀・長史金応魁等,急報倭警,致緩貢期,
福建巡撫陳子貞以聞,下所司議奏,許続修貢職,賞照陳奏事例減半,傍賜毛鳳儀等金 織練段,各有差。
慶長14年(1609)東南アジア海域の我国海運について 63 さて1610年(慶長15)8月19日,琉球国王尚寧は明朝廷へ向けて,「急報倭警,致緩貢期」
と異変を知らせたのであるが,前年の進貢の時期に薩摩の軍衆は南下準備を始めていたので
ある。
第2節 島津藩の琉球進攻と貿易
島津藩の琉球進攻は琉球側からみれば「三軍の入憲」であったが,通航一覧によれば「慶 長14年(1609)己酉2月21日,少将家久,老臣樺i山権左衛門・平田太郎左衛門を将として,軍
やぶつ え ら ぶ
卒3,000,兵船100余丁を琉球国に発向せしむ。頓て大島を攻取,徳ノ島を抜,また永良部・
ようん の
与論等の諸島を平らぐ。よて此よし家久より本多上野介正純の許に告ぐ」とある。
ラ
但し,鹿児島県史によれば(島津)邑久・義弘・義久連名を以てする軍律「琉球渡海之 軍衆法度之条々」は2月26日付となっている。そして2月28日,家久・義弘も軍の出発を見 送るため山川(港)に至り,3月4日全艦船は山川を発航した。同県史には,「七島勢を案 内として口永良部島を経て大島に向つた。難風のため諸船は分散したが,7日前後して大島 うふや うっち 諸所に着岸し,次いで徳之島・沖永良部島に進んだ。各地に於て三脚たる大親旧は掟等が島 民を率いて抗戦したが,薩軍の鉄炮には敵せず,悉く平定された。三軍は更に進航して25日,
沖縄島運天港の対岸なる古宇利島に達し,次いで主将樺島鷹下の6士及び七島勢240人は沖 な き縄島に上陸して那覇に向かい,また副将平田増宗及び伊集院久元肥の1隊は,27日海路今閉
じん
仁城に向つたが,城兵は風を望んで退去したので,其屋舎を焼閉したという。…4月朔日,
薩軍は水陸より首里・那覇に入った。…(4月)4日,三三も下城したので,5日丁丁は首 里城を接収した。戦闘はかくして終了したが,此の役に三軍の戦死者は雑兵300人に過ぎな かったという」。琉球側は約100年前の「尚真時代の刀狩りで武器を棄てていた沖縄にとつ のて 棒の先から火の出る 鉄砲戦の前には手の施しようがなかった」のであった。
このように,琉球王朝域は簡単に島津藩の占領するところなり,与論島以北の所謂「道之 島」については,「琉球役後の慶長15年10月,大島に黒葛原吉左衛門・宇田小左衛門を代官 とし,翌16年4月,相良勘解由・有馬次右衛門を派して徳之島を干せしめ,慶長18年道之島 全体を支配する大島奉行を置き,元和2年徳之島・沖永良部島・与論島に対し徳之島代官を 置いた。従って大島奉行は大島・喜界島のみを支配したが,寛永16年,大島奉行を大島代官
と改めた。その後,元禄4年徳之島代官支配のうち沖永良部島・与論島を割いてジ之に沖永 ラ良部島代官を置き,同6年喜界島を大島代官支配から分けて喜界島代官を置いた」というふ うに,直轄の薩摩藩領にくり入れられたが,琉球に関しては,「琉球王を臣従せしめ(貢賦 の額を定め),且つ王位継承者を決定する権能を握った。……即ち島津氏より王位継目を申 し付けた後,幕府へ届出れば足りるので,之は将軍徳川秀忠の定めた例規であるという。更 らに支那朝廷は,之を関知せずとはいえ,かくして王位継承者が決定した後,それに封冊を 授ける」という,島津の属領でありながら,明朝廷からも授封という二重性格をもつものと
なった。