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歌唱教材における歌詞の位置づけに関する一考察

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著者 松下 允彦

雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 教科教育学篇

巻 30

ページ 49‑59

発行年 1999‑03‑23

出版者 静岡大学教育学部

URL http://doi.org/10.14945/00008309

(2)

静岡大学教育学部研究報告 (教 科教育学篇 )第 30号 (1999.3)49〜 59 49

歌唱教材における歌詞の位置づけに関する一考察

A Study of Melody and Lyric Teaching Methods

in Music Education

松 下 允 彦

Yoshihiko MATSUSHITA

(平 成 10年 10月 5日 受理

)

I  はじめに

学校音楽教育 において歌唱教材を扱 うにあたって、最終的な仕上げまでの過程に、必ずその 曲の表情をつける重要 な段階がある。それは曲想 ということばで表現 され、情景 とい うことば で説明されることが多い。その曲の表す情景を思 い起 こし、その情景を想 いなが ら歌 うとい う ′ 指導がなされるのである。

しか し、 この指導法には次のような問題点が考え られる。

①、情景を思 い起 こせなければ、不可能なのか。

②、情景を頭 に浮かべなが ら、歌 うことがで きるのか。

③、情景 は音楽の表す情景でな く、歌詞が表す情景 になって しまわないのか。

例えば、① は、 「尾瀬 に行 ったことのない人 には中田喜直の [夏 のお もいで ]は 本 当の意味 で歌えない」 という言 い方がある。 これは、 「西洋音楽を理解す るにはキ リス ト教 を理解 しな ければ不可能である」 と言われるのに似ている。朽 ちた荒れ城を見たことのない子ども達には、

滝廉太郎の [荒 城の月 ]は 歌えないのだろうか。

②の問題 は、歌詞 にうたわれている情景を思 い浮かべなが ら曲のイメージを作 り上 げる過程 は、作品の背景の理解 に欠かす ことができない作業であるが、それを演奏 しなが ら行 なお うと す ることである。 これは、中学生が授業の中で主体的な活動をす るときよ く目にす る光景 だ。

「 なつが く―れば」 と歌いなが ら、炎天下の暑 い浜辺 を想像 し、 「お もいだす―」の所 で は、 う つろな目を遠 くに見やり、 「 はるかなおぜ―」 と歌 いなが ら、写真で見 た尾瀬 の光景 を思 い浮 かべ るというのである。 これでは、歌を歌 うことがおろそかになるのは当然である。逆 に、歌 に感情を込めて歌おうとす るな らば、情景 は頭の中か ら抹消 されるであろう。曲の演奏段階は、

あ くまで もで きあが った解釈を実現す る場である。歌詞 にうたわれている情景を具体的に思 い 起 こす ことと、表現活動 を同時に行 うことにどんな意味があるのだろうか。

③ は、曲の情景 ということばを もちいる時、それは一般的に歌詞の情景 として捉え られて し まうことである。歌詞 は、あ くまで も歌曲の構成要素の一つであるが、その歌曲の情景 を代表

して表現 しているものではない。その曲の情景 とは、詩 と音楽の両方を総合 して捉えるべ きも のであろう。つまり、音楽教育 において 情景 "と いう言葉を音楽抜 きで理解 して しまっては、

本質を見誤 ることにな らないか。

(3)

本論では、 このような曖昧な情景の指導法について考察を深めてみた。

Ⅱ   歌詞 と旋律

ことばと音楽には多 くの共通点が指摘 されている。たとえば、同 じように音を使い、同 じよ うに リズムやアクセ ントを持 ち、同 じように表現する者 と聴 く者がいる。またどちらも時間の 中で実現 される。言語の用語が音楽用語 に転用 されてさえいる。さらに重要なのは、 これ らの 要素が狂 ったりずれたりして しまうと、意味が壊れて しまう点である。

1、

ことばとメロデ ィー

歌詞 と旋律 とは互 いに密接な関係にあり、名曲ほどその結びつ きは強 く、歌詞のイン トネー ションやアクセ ントや リズムが、メロディーラインと一致するとされてきた。 日本語のアクセ ン トは強弱のアクセントではな く、高低のアクセントである。 ことばの正 しいアクセントを生 かす ことが、 ことばを自然 にうつ くしくひびかせ、意味が正 しく伝わると言われてきたのであ る。 しか し、実際に曲の中でそれほど優先 されているのだろうか。

①   ことばのアクセ ン トとメロディーの不一致

歌詞 にメロディーをつける場合、まず、 ことばとメロデ ィーがよく合 っていなければな らな いと言われる。「おはよう、ということばに、一番 自然な リズムと、 アクセ ン ト

(音

の高低 )

を合わせ」 Dて 作曲す ると言 うのだ。 しか し、実際 にことば とメロデ ィーが一致 している曲を 探 してみると、歌曲・ 唱歌では殆 ど見つけることができない。 ところが、童謡 と演歌 には、不 思議 とぴった り合 っている作品が多い。

○童謡 [ぞ うさん]ま どみちお作詩、日 ・ 伊玖磨作曲

は な が  な が い の ね

か あさん  が い の 

[ぞ うさん   ぞうさん   おはながながいのね   そうよかあさん もながいのよ ]と いう歌詞 の 持つアクセ ン トやイン トネーションがそのまま旋律 になっている。そ して実際の象の様子のテ ンポと、歌のテンポも似ているか ら、自分の腕を象の鼻に見立て、振 りなが らこの歌を歌 って も、情景 までがぴったりと合 うわけである。

①演歌 [津 軽海峡・冬景色 ](阿 久

 

悠作詞、三木たかし作曲

)

うえのはつのやこうれ‐ や おりたときから     あ おも   リー えき は   ゆ きくセ月か

4分 の 4拍 子で 1拍 を 3連 音符 に分割 されているこの曲は、詩を読んでいるだけでメロディー が浮かんで しまうくらいに、歌詞 と旋律が旨くマ ッチ している。演歌の場合、 このような例が ほとんどである。だか ら反面、演歌 は皆 どれ もが同 じ様な曲に聞 こえて くるのか もしれない。

これ らは、童謡 0歌 謡曲が、歌詞の意味を音楽よりも重視 し、最優先 させてきた結果 と考 え られる。

あ おも リ ー えき は 

(4)

歌唱教材における歌詞の位置づけに関する一考察

②   文節 とメロデ ィーとの不一致

た しかに、歌詞の意味を最優先 させ る考え方で作曲された名曲は数多い。しか し、ポピュラー 音楽の分野がほとんどであって、歌曲においては、 ここでいう、 ことばと音楽が一致な くして も名曲 とされる場合が少な くない。それは、 「旋律の魅力のためには、 アクセ ン トをあ る程度 犠牲 に して も、 どうもさしつかえないように思える」 2)の である。

山田耕律作曲「赤 とんぼ」などは、 日本語の美 しさを歌曲化 したその代表的な例 として良 く 取 り上 げ られる。た しかに、 [赤 とんぼ ]の [あ か ]の アクセントが逆である以外は、メロディー ラインとことばの高低 アクセ ントは一致 している。 しか し、 この旋律が ことばを優先 して作曲 されたとは到底思えない。それは、 ことばの持つ リズムを全 く壊 して しまっているか らである。

[ゆ ― やけ ]と 言 う 2拍 の ことばの リズムを [ゆ うやああけ ]と 言 う具合に、 2+4拍 に変換 しているのだ。 これでは日本語のことばとしては意味をなさない。

他 にも、 日本語の歌曲 として代表的な土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の [荒 城の月 ]で も同 じ ことが言える。

 

高楼 の花 の宴

     

はる

  

こう ろ う の

1   2   1    2     1

め ぐる杯

 

影 さ して

    

め ぐ る さか ず き

 

かげ

1   2   1    2     1

千代の松が枝   わけ出 し    ちよ の まつ がえ   わけ

1    2    3   4    1

昔の光   今いず こ       むか しの ひか り   いま

このようなイン トネーションと拍の感 じを持 っていなが ら、実際のメロディーか らは次のよ うに感 じられる。

はるこう /ろ うの /は なのえ /ん

め ぐるさ /か ず き― /か げさ― し /て

ちよのま /つ がえ― /わ けい―で /し

むか しの /ひ か リー /い まい―ず /こ

「荒城の月」土井晩翠作詞、 .滝廉太郎作曲

υ

 rJl 

   O p               

このような例 は、これ ら以外にも容易に見つけることができる。歌詞 と旋律が一致 していな い歌唱曲の例を挙げてみる。

1    2   3  4

は な の え ん

2   3  4

さ し て

2   3  4

いで し

2   3  4

いず こ

(5)

あし― /た あは一 /ま あベー /え を一 はるの一う /ら あらあの /す みだが

/わ

「浜辺の歌」

「隅田川」

「 こいのぼり」

「 もみ じ」

「おぼろ月夜」

「星の世界」

「故郷の人々」

「 こぎつね」

f*ty g . tv+TJ ty t-)v,/+4 T-

い一ら一か― /の な一み―と― /く ―も―の一な /み

あ―きのゆ /う ひ―に一 /て る一や /ま もみ― /じ なの /は 一な /ば た /け ―に /い リー /ひ うす /れ

か―が /や くよぞ /ら ―の一 /ほ ―し /の ひ /か り /よ は一 /る かなるスワ /ニ ーがわ― /そ ―のし /も こぎつね /コ ンコン /や ま /の なか

このように、何気な く歌 っていると、 日本語の歌詞 は、 ことばとしての意味をなさない もの に変容 している。外国曲に日本語の歌詞をつけた場合 は、なおさらである。日本語のイントネー ションやアクセン トに気をつけなが ら歌 って も、修復 は難 しいであろう。

③詩のテ ンポと歌のテンポの不一致

[か たつむ り ]文 部省唱歌

この歌 は、子 ども達 に歌 い継がれてきている、かわいらしく子 どもらしい名曲である。 この 曲の速度表示 は」 =92〜 112と 記 されている。実 は、 この 92と いう速度 は、一般に歌 われている

[か たつむ り ]の 速度か らはかなり速 いのである。おそ らく、普通 に歌われる速 さは J=76位

はなかろうか。 ところが、実際小学校で この歌が歌われるとき、 は じめは J=76位 で歌 われて いるのだが、教師の指導のもと、カタツム リの写真やお話を聞いたり、本物のカタツム リを観 察 して頭の中にカタツム リのイメージを描 き、あるいはカタツム リになったつ もりで この歌 を 歌 ったとき、曲のテンポは Lento"と なって しまうのである。そこには、 この曲が カタツム リの様子を うたったとす る想像のみが、解釈 として優先 されているか らであるが、本来 は [カ タッム リで遊んでいる子 どもの情景 ]と 解釈するべ きであろう。なぜな ら、作曲者の用 いた速 度記号や付点音符 との関係 に矛盾が生 じるか らである。

次 に [夕 やけこやけ ]を 例に挙げる。

この曲の歌詞 は、美 しい夕闇の訪れを思 い起 こさせ る。 この歌詞の情感をフルに発揮 させ よ うとす るな らば、ゆっくりしたテンポで気持ちを込 めて歌おうとす るであろう。 しか し、 この 中村雨紅の詩 に作曲 した草川信 は、はた して夕焼 けを [夜 が訪れる寂 しさ ]と 考えたであろ う か。 4分 音符でな く 8分 音符を用いている点、付点 8分 音符の使 いかた、 さらには」 =72〜

84

という速度表示か ら、作曲者の意図は [子 どもたちは一 日遊んだ後、お友だちにサヨナラをし、

これか ら家族団 らんの食事が始 まる喜び ]を 表現 している詩 と、解釈 したのではないか と推察 で きる。

り せ

(6)

歌唱教材 における歌詞 の位置づ けに関す る一考察

「夕やけこやけ」中村雨紅作詞、草川   信作曲

 ―て て つ ない で み な か え    か ら す と い っしょに か え り ま しょう

2、

ことばとアーティキュレーション

① ことばの発音 と音楽の発音       

音楽同様、私たちは言語を耳で音 として捉える。その音 は子音であったり母音であった りす る。子音 にも有声子音・ 無声子音等があり、母音にも発音する際の回の開 き・ 舌の位置の相違 によって、あるいは促音や撥音、長音や短音によって無数の音色 として認識 され、そうした意 味を持たない最短単位のシラブルが連結 されることによって、そのことばにアクセ ントや リズ ムやイ ントネーションが生 まれる。

音楽の場合 も、最小単位の一音ずつは母音か、子音 と母音の組み合わせである。 これ は音の 発音に際 しての立 ち上げ方を指す ものであ り、 リコーダーのタンギ ングを例に出す と、

[ti]と

か [tu]と か [du]と いった音の立 ち上げ方の違いによる音色の種類を示す。 さらに、長音や 短音が連結す ることでアーティキュレーションが形づ くられる。 このように、意味を持たない 最短単位のシラブルを連結することによつて、そのモチーフにアクセントや リズムやイントネー ションが生 まれ、音の重心や進行のエネルギーを生み、フレーズに導かれるところは、 ことば と音楽 は非常 に類似点が多いと言える。

② ことばに含 まれるアーティキュレーション

わた したちは「春   高楼の   花の宴」 と朗読 を聞けば、自然 に滝廉太郎のあのメロデ ィーが 浮かんで くる。反対 に、あの美 しいメロデ ィーを楽器で演奏すれば、譜例のごとく日本語 の歌 詞における子音 と母音が持つ音の連結がスラーをよび、自然にアーティキュレーションが形成 されるであろう。すなわち、よく知 られた歌曲を器楽で表現するとき、歌詞のシラブルの子音 と母音の箇所 に、無意識のうちにスラーを付 けていることに気付 くはずである。

「荒城の月」土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲

「浜辺の歌」林   古渓作詞、成田為三作曲

 

      

  

  

・ ―

   

 

 

た 」 ま

 

ま ― ベ

 

ー を

 

さ ― ま

 

― よ

 

え ― ば

また、次の例 に示す「虫の声」の歌詞 は、 4小 節間はレガー トで歌い、 5小 節 目の擬声語 は 撥音だか らスタッカー トで歌 い、 6小 節の長音 はテヌー トで歌 うよう暗示 している。

53

(7)

「 虫の こえ」文部省唱歌

あ れ す ず   む しも    な き だ し   た

リンリンリンリン  リ ーン リン

3、 詩 と音楽

ことばが音楽 と大 きく違 うところは、そのことばの概念か ら意味が生 まれ、このことば と意 味の関係 は、完璧 にとまではいかないまで も、かなりの精度を持 って対応 している点である。

(書 かれたことばの場合 も、視覚的な表情を持 ってはいるものの、基本的 にはことばの音 を記 した ものである。 )

ところが、 ことばがさらに詩 になると、概念だけでは詩の意味に対応 しきれなくなってくる。

ことばの概念 はおおむね一般的な意味を示 しているが、このことばか ら作 られた詩 は、 ことば の概念を変容 し、具体的に物や行為を表すに止 まらず、抽象的な世界に引 っ張 り込 もうとす る のである。すなわち、言語で読 まれ言語で書かれた詩 は、 もはや言語で表現する意味の枠 を逸 脱 し、別の意味 (雰 囲気 )を 持 ちだすのである。それは、心 の内面を意味 させようとす る もの であり、音楽では感情表現 ということばで表 される。

詩は、それ自体完結 しているものである。すでに大変音楽的なことばである。その詩 に音楽 を作曲 したり、歌 うということは、詩が持つ音楽性を、本来語 られるべ き リズムやアクセ ン ト (高 低 )や イントネーションを、作曲家や歌 い手 によって本質的に異 なった音楽性 に変容 させ ることである。 したが って、歌詞 と旋律が合わないのは当然 と言えるのである。

詩を本当に理解 しようとす るのな ら、自分で声を出 して読んでみるか、だれかに朗読 して貰 うべ きである。その詩 に音楽をつけたり、歌 ったりすることは詩を変容 させる事だか らである。

われわれが歌詞を読むとき、そのことばは音 として捉え られる。 ことばはテンポや強弱、 ア クセ ン トやアーティキュレーションを伴 いなが ら発せ られるのである。 ここまでは、 ことば と 音楽 は非常 に類似点が多い。 しか し、 ことばは「音だけで成 り立 っているのではな く、 その音

に含 ませて我々が掴んでいるもの、すなわち概念 と共 にあ り、 それが言葉の意味である」のと 言われる。 ことばは、音 とそれが意味する概念 との上 に成 り立 っているのであるが、音楽 は、

音 と音 との関係の上 にしか成 り立 たないと言 うことができる。

歌詞の持つ音楽的要素 と、その曲の音楽的要素 は、音楽的になればなるほどぶつか り合 い打 ち消 し会 うことになる。そんな場合の殆 どは、音楽が優先 され、   詩 は破壊 される "と 受 け取

られるのであろう。実際音楽 によって破壊 された歌詞 は、耳か らはいる音か らだけでは、 こと ばとして認識 しに くくな り、歌詞を書 きだ した文を見なが ら聴 くこと・になる。詩を読みなが ら、

そのことばの意味を味わいなが ら曲を聴 くことを余儀な くされたとき、音楽 はバ ックグラン ド ミュージックと化すであろう。

音楽作品 は、楽譜や記号で書 いて も音楽 としては成立 しない。そ こには、 「 音 を通 じて感 じ 取 られるその意味 されるもの」 のがぁると言 うことができる。音楽は、「意味を理解すべ き対象 ではな く、そこにあるものとして、諸音の必然的な結 び付 きを実感すべ き物」 Dな のである。

すなわち、言語の範囲内においては、 ことばと概念 はほぼ対応 していると考え られるが、詩は、

ある意味では、ある範囲では対応 しているものの、それ以外 は別の性格を持つ。音楽に至 って は、概念、すなわち共通認識の範疇にあるのは、楽譜 くらいであろう。

ことば・ 詩・ 音楽それぞれのこの性格 は、個別 に存在す る時にのみに見 られ、作品 として結

(8)

歌唱教材 における歌詞 の位置づ けに関す る一考察

びつ く場合、音楽が優先 されるのである。そ して我々は、あ くまで もその作品を鑑賞 し、表現 す るべ きであろう。

Ⅲ   音楽は何を表現するか

1、

標題音楽 と絶対音楽

標題音楽 はことばで表現可能な音楽以外の内容を表現 しようとす る、作曲者の意図を持 って いるということが特徴である。その何かが聴 き手に伝わることを、作曲者がどれだけ欲 してい るかの度合いは様 々であるが、正確に伝わることを欲すれば欲するほど、曲に与えられる説明 的なことばが多 くなっていると考え られる。

実際には、標題音楽の曲その ものに言語的要素 は認め られない し、聴 き手の表現認知の観点 か らは、絶対音楽 との決定的な違いさえ浮かんで こない。 しか し、作曲者の立場で考えれば、

標題音楽 は当然、標題を知 った上で聴 くことが前提 になる。標題やそれに伴 う解説が果たす役 割 には幾つかの効果が考え られるが、最 も大きいものは、標題を知 ることによって集中 した鑑 賞がされやすいことであろう。途中に入れる標題や解説が多いほど、つ ぎの展開への期待 も生 まれる。はっきりとしたス トー リーのなぃ曲で も、作曲者が、その表現 したイメージや情緒を 得た対象を示 した標題 は t聴 き手 には興味深 い。 どのような内的昇華がなされたのか、その芸 術を味わ う基準 になりうるのである。

一方、標題が、 自由な音楽鑑賞を妨 げる、という面を持ち合わせていることは否めない。標 題を目や耳 にす ることによって、聴 き手の想像力 は一定の方向に向けられ、ただそのことばに 示 されている内容を、曲の中に発見す ることだけに終始 して しまうことが、考え られるか らで

ある。

標題 とは、器楽曲につけたわか りやすいことばで書 いた序文であ り、 その多 くは、「 ある事 件、ス トー リー、音、絵が引き金 になっている音楽 にす ぎない」のもの と して捉 えるのが一般 的である。あとは聴 き手の想像力にゆだねるのが普通であろう。 ほとんどの標題音楽 は、で き

ごとの内容を情緒的に表 したものである。

ベー トーヴェンの ピアノソナタ <悲 愴 >を 鑑賞す る場合、 ここで一つだけ明確に言えること は、 「音が鳴 り始めた瞬間か ら、 [悲 愴 ]と い うことばの意味す る感情 などは全て消えて しま う」 つということである。その点で、標題音楽と絶対音楽 とは本質的に異なった音楽であるわ けではないのである。

標題 は一つの示唆、 きっかけ、として聴 く人の意識 に働 きかけて くる程度の力 しか持たない と考えるべ きであろう。

2、 音楽の意味

わた したちは、音楽の喜びとは、音楽が解 るとか理解するという範疇か らはずれた処 にある

ことを知 っていなが ら、 この前提を忘れがちである。「音楽の美 しさを解 る。」と理解すれば済

む ものを、音楽の内容 (具 体的意味 )を 解 ろうとするか ら話 は難 しくなって くるのであ る。 こ

れは、音楽教育の現場 においてよく投げかけられる「 この曲はどうい う感 じがす る ?」 「 この

曲は何を表現 している ?」 という発間にも起因 していると思われる。すなわち、このよ うな質

問に対 して満足のい く答えが無 いのである。ある曲の感想を求められた場合、「美 しい曲で し

た」で済めばよいのだが、なお具体的に求められた場合、その曲か ら思い起 こせる情景 を説明

するしか、他に方法 は見あたらない。 さらに詳細に求められた場合、その情景 とその後 に想像

(9)

で きる情景をつなぎ合わせ、即興的にス トー リーを展開す る。 ここまで しないと「音楽を解る」

という評価が与え られないのである。

①音楽鑑賞 による情景指導の一例

小学校 4年 生の鑑賞共通教材 にサ ンサーンス作曲 [白 鳥 ]が ある。 この教材の扱いについて、

教科書出版社の指導書か ら抜粋 してみる。

A教 科書出版社 :音 楽の美 しさを感 じとり、情景を想像 しなが ら聴かせ る。

○想像するヒントとして、何か動物 (鳥 )を 描 いた音楽であることは、伝えてお くとよい。

0想 像 した情景 について話 し合 う。

○話 し合いの後、 「 白鳥」であることを知 らせ る。かけ離れた内容 を想像 した児童が鑑賞す る 意欲をな くさないように、配慮す る。

・ 白鳥の様子を想像 しなが ら聴かせる。 (白 鳥の様子を頭の中に描 きなが ら聴 く。映画 や写真 などを見なが ら聴 く。 )

○ 白鳥が泳 ぐ様子を想像 しなが ら聴かせる。 (作 曲者の描 きたか った情景 を知 り、 白鳥 が泳 ぐ 様子を思い浮かべて聴 く。 )

B教 科書出版社 :「 白鳥」を静かな心で聴 く。

0情 景を想像 しなが ら聴 く。

・ ピアノが何を表 し、チェロが何を表 しているかを話 し合 う。

C教 科書出版社

:し

ずかに泳 ぐ白鳥を思いうかべなが ら聞 きましょう。

○曲は、ゆるやかな ピアノの前奏で始 まります。 ピアノの分散和音が、静かにゆれ動 く水 の様 子を描 いています。やがてチェロが次のような主題で、水の上を静かにすべるように して動 く清 らかな白鳥の姿を表現 していきます。 ピアノ伴奏 は、前奏の音形、 リズムを受 けつ ぎ、

独奏のチェロと美 しくとけ合 って進みます。 ときどき聞 こえて くるアルペジオなどはあたか も白鳥が向きを変えるときに広がる水の輪を思わせ るようです。

[白 鳥 ]サ ン・ サーンス作曲

(10)

歌唱教材 にお ける歌詞 の位置づ けに関す る一考察

以上 は、指導書 に書かれている内容であるが、 ごく一般的な中学校の鑑賞教材の取 り扱 い方 といっていいと思える。

もし、生徒が この曲を聴 きなが ら、 「 白鳥」の姿を追 い求 めていると した ら、 それ は正 しい 鑑賞活動 と言えるだろうか。

②「 白鳥」を演奏する側か ら

「 白鳥」を演奏する場合、はた してハ クチ ョウの泳 いでいる様を想像 して演奏するだろうか。

確かに、ハ クチ ョウの美 しさ、優雅 さ、穏やか さ等を想像す ることはイメージ作 りには欠かせ ない作業である。 しか し、演奏 と同時に、ハクチ ョウの様子を頭の中に描がこうとして も、 そ んなことはとて も不可能である。ハクチ ョウの姿を思 い浮かべていたら神経が 想像力 "の

にいって しまい、演奏 に必要 な 創造力 "が ルスになって しまうためである。つまり、演奏中 は、音色 はこれでいいか、音程 はこれでいいか、 ビアノの リズムに乗 って演奏できているか。

ダイナ ミックスはこれでいいか、など考え られる限 りのデータをチェックしなが ら、なおかつ 歌 っているのである。 ここにはハクチ ョウの ハ "の 字 も入 り込む余地 はないであろう。

③情景を拠 り所 とす る

私 たちは、いわゆる通念 としての思想、すなわち文字で しか表現で きないような普遍的な共 通観念を基本 に して生 きてきたと言える。 したが って、それ以外は今一つ しっくりこないので ある。なにごとも共通認識で きないと気が済 まないと言 うか、不安 というか。それが音楽 に も そのまま当てはまるのである。その現れとして、絶対音楽よりも標題音楽が好 まれる傾向があ る。描写音楽や ソネッ トが付 いているものに安堵する。そこには、情景を思い浮かべ られ る安 心感があり、情景をつなげてス トー リーを作 って音楽の流れの中に身を置ける充実感があるの であろう。

ことばであれば、誰で も共通認識できるのに、音楽 は何を想像するように求 められているの かを不安 に思 う人 にとって、標題は情景を想像するのに大 きな拠 り所 となり、安心感を生 むで あろう。

情景を思 い起 こす ことは、鑑賞の一過程 として、あるいは鑑賞指導の一方法 として有効では ある。 しか し、情景 は音楽その ものではな く、鑑賞の要因で もないのである。

音楽を聞 きなが ら情景を想像す ること事態、すでに鑑賞活動か ら離れているという事が言えよ う。 「鑑賞 と表現 は表裏一体の関係にある」 と言われ、どちらの活動 も創造力 を フルに発揮 さ せるとはいうものの、表現 と鑑賞は正反対の もので もあるのだ。

④音楽による言語表現の崩壊

音楽 はしば しば ことばとの比較で捉え られ、音楽 は言語 の一種 と見なされることがよくある。

音楽 とことばは共通す る面が多 く見受 けられる。 Ⅱ ‑3で も述べたが、 ことばや音楽の表す意 味について、 もう一度 ここではっきりさせておかねばな らない。

「言語であれば、必ず しもことばと意味が一対一 に対応す るわけではないものの、辞書 を作 ることがで きる程度の明確 さで意味の広が りを画定す ることがで きる」ののであるが、 これは あ くまで言語の話 しであって、同 じ言語を用いた詩 となると、その意味する範囲は遥かに拡大 し、辞書や百科事典でさえ も推 じ量 ることはで きないほどに変容する。 これは作者がその効果 を狙 っているのだか ら当然 と言えば当然である。そこには言語の意味を越えたポエムとしての 意味を推 じ量 らねばな らない。 これを曖昧にして言語 としてだけの意味を追求すると、歌曲 と

しては大 きな過 ちを犯す ことになる。

(11)

また、作曲者 は、言語の意味にとらわれて作曲するなら │よ ことばの持つ リズム、メロディー、

アクセ ント、 フレーズと言 った要素を忠実 に音楽 に生か していけばよいのだろうが、現実には、

言語の意味を越えたポエムとしての意味を表現す る必要がある。そのために、言語の要素 が犠 牲 になることはよくあることである。

それは、歌詞 と音楽の目指す方向付 けがはっきり異なっているか らであり、歌詞の言語 はそ の音が意味 と結びつ くことによるのに対 し、音楽 は音 と音 との関係の上 にのみ成 り立 ってい る

と考え られるか らである。 ここに両者、互 いに相容れぬ ものがあることは否めない。

しか し、それでは両者がそれぞれ独立 しているのか と言えば、そうではない。それぞれの意 味合いにおける目指す方向は異なっているものの、一つの歌曲の表現を完成 させる点では一致

している。

しか し、意味するものはそれぞれ別の ものを持つ以上、 ことばの意味を聞 こうとすれば音楽

の言わんとすることを聞き取れないし、音楽を聞こうとすれば、ことばを聞き取ることができ

ない。

このことは、器楽曲における標題音楽や描写音楽の情景描写 にも同 じことが言える。すなわ ち、情景を頭に描 きなが ら聞 こうとすれば音楽 は聴 けない し、音楽を聴 こうとすれば情景 を思 い浮かべることはで きない。

歌詞 は、本来具体的な意味を伝えようとはしないで、非常 に暗示的であると言えよう。 た と えば、心の動 きを細か く描写す ることはめったにな く、それを暗示す るような表現手法 に依 っ ている。

これは音楽について も同 じで、音楽 には心の動 きを具体的に描写す る能力 はない。あ くまで も抽象的な暗示であって、 ここでは詩 と音楽 は同 じ方向を目指 していると言えよう。

問題 は、 この暗示だけでは意味を理解 したとは思えないで安心することがで きない聴衆が、

なん とか具体的な描写 に頼 ることである。

このようなことは歌曲に限 らず、器楽曲で も行われている。標題音楽や描写音楽が、絶対音 楽に比べて、 もてはやされているの もこのためである。絶対音楽のように、単 に音か らだ けの 暗示では自分の解釈 に不安を感 じるため、短 い表題の中にその暗示のよりどころを求めた り、

あるいは、その曲にまつわる話 しや、付記 されたことばや ソネッ トか ら、具体的な情景 を作 り 出すよりどころとしているのである。

Ⅳ   おわ りに

教育現場 において、歌曲や標題音楽を扱 うとき、 ことばにある情景を共通認識することは、

あ くまで もその作品へのアプローチの一つ と考えるべ きである。その過程において、歌詞 や標 題 は非常 に有効 に働 くであろう。また、指揮者や指導者などが、音楽的ニュアンス等を ことば で伝達 したいときにも、歌詞や標題の中か らイメージできる具体的な事柄を使 って表現 され る ことが有効である。 しか し、作品を表現す る段階においては、それ らは抽象化 され音楽的 レ ベ ルに移行 しているべきであると考える。

つまり、 「かたつむ り」 (文 部省唱歌 )は 、カタツム リの動 きの様子を、 「花」 (武 島羽衣作詞、

滝廉太郎作曲 )は 、ゆったりとした川の流れる様子を、 「 とんび」 (葛 原 しげる作詞、梁 田   貞

作曲 )は 、 「 とべ !  とべ

!」

と叫ぶ子供の呼びかけを、 「 うみ」 (林   柳波作詞、井上武士作

曲 )は 、力強 く荒 々しい波が うち寄せ る様をそのまま頭 に思い浮かべて歌 っていては、 ことば

(12)

歌唱教材 における歌詞の位置づけに関す る一考察

の表現 にはなって も、音楽の表現 にはな らないのである。

「かたつむ り」はカタツム リと遊ぶ子供の雰囲気を、 「花」 は春が来 る喜びを、 「 とん び」 は 大空を旋回す る滑 らかな爽快感を、 「 うみ」は一人海 にたたずむ佗 び しさを表現すべ く、音楽 的表現要素を十分 に考察す るのである。その結果 は じめて作品の音楽的表現が可能 になる。

したが って、音楽を演奏 しようとしているとき、情景を思 い巡 らす ことはで きない し、情景 を思 い起 こしているとき、音楽を演奏す ることはで きない。同 じように、情景を思 い巡 らして いるときには音楽 は聴 けないし、音楽を聴 こうとすれば情景を思い起 こす ことはで きないので ある。

歌唱教材を扱 う場合、 [こ とば ](=歌 詞 )に ある概念の共通認識 (=意 味 )は 、 あ くまで も 曲の解釈の導入であることを忘れてはな らない。それ以上の意味を持たせてしまうと、   音楽 "

を見誤 ることにな りかねないのだ。

引用文献

1)中 田喜直

2)別 宮貞雄

3)前 川陽郁

4)渡 辺

 

5)前 川陽郁 6)ア ンソニー 7)西 澤昭男

8)前 り │1陽

「 メロディーの作 り方」 音楽之友社  p.26 1965

「音楽に魅せ られて」   音楽之友社  p.293 1995

「音 は生 きている」    勁草書房  p.115 1991

「音楽美の構造」   音楽之友社  p.77 1969

「音 は生 きている」   勁草書房  p.118 1991

0ス トー   佐藤由紀他訳   「音楽す る精神」   白揚社  p.128 1994

「音楽教育の原理 と実際」 音楽之友社  p.86 1989

「音楽 と美的体験」   勁草書房  p.36 1995

参照

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