著者 松下 允彦
雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 教科教育学篇
巻 30
ページ 49‑59
発行年 1999‑03‑23
出版者 静岡大学教育学部
URL http://doi.org/10.14945/00008309
静岡大学教育学部研究報告 (教 科教育学篇 )第 30号 (1999.3)49〜 59 49
歌唱教材における歌詞の位置づけに関する一考察
A Study of Melody and Lyric Teaching Methods
in Music Education
松 下 允 彦
Yoshihiko MATSUSHITA(平 成 10年 10月 5日 受理
)I はじめに
学校音楽教育 において歌唱教材を扱 うにあたって、最終的な仕上げまでの過程に、必ずその 曲の表情をつける重要 な段階がある。それは曲想 ということばで表現 され、情景 とい うことば で説明されることが多い。その曲の表す情景を思 い起 こし、その情景を想 いなが ら歌 うとい う ′ 指導がなされるのである。
しか し、 この指導法には次のような問題点が考え られる。
①、情景を思 い起 こせなければ、不可能なのか。
②、情景を頭 に浮かべなが ら、歌 うことがで きるのか。
③、情景 は音楽の表す情景でな く、歌詞が表す情景 になって しまわないのか。
例えば、① は、 「尾瀬 に行 ったことのない人 には中田喜直の [夏 のお もいで ]は 本 当の意味 で歌えない」 という言 い方がある。 これは、 「西洋音楽を理解す るにはキ リス ト教 を理解 しな ければ不可能である」 と言われるのに似ている。朽 ちた荒れ城を見たことのない子ども達には、
滝廉太郎の [荒 城の月 ]は 歌えないのだろうか。
②の問題 は、歌詞 にうたわれている情景を思 い浮かべなが ら曲のイメージを作 り上 げる過程 は、作品の背景の理解 に欠かす ことができない作業であるが、それを演奏 しなが ら行 なお うと す ることである。 これは、中学生が授業の中で主体的な活動をす るときよ く目にす る光景 だ。
「 なつが く―れば」 と歌いなが ら、炎天下の暑 い浜辺 を想像 し、 「お もいだす―」の所 で は、 う つろな目を遠 くに見やり、 「 はるかなおぜ―」 と歌 いなが ら、写真で見 た尾瀬 の光景 を思 い浮 かべ るというのである。 これでは、歌を歌 うことがおろそかになるのは当然である。逆 に、歌 に感情を込めて歌おうとす るな らば、情景 は頭の中か ら抹消 されるであろう。曲の演奏段階は、
あ くまで もで きあが った解釈を実現す る場である。歌詞 にうたわれている情景を具体的に思 い 起 こす ことと、表現活動 を同時に行 うことにどんな意味があるのだろうか。
③ は、曲の情景 ということばを もちいる時、それは一般的に歌詞の情景 として捉え られて し まうことである。歌詞 は、あ くまで も歌曲の構成要素の一つであるが、その歌曲の情景 を代表
して表現 しているものではない。その曲の情景 とは、詩 と音楽の両方を総合 して捉えるべ きも のであろう。つまり、音楽教育 において 情景 "と いう言葉を音楽抜 きで理解 して しまっては、
本質を見誤 ることにな らないか。
本論では、 このような曖昧な情景の指導法について考察を深めてみた。
Ⅱ 歌詞 と旋律
ことばと音楽には多 くの共通点が指摘 されている。たとえば、同 じように音を使い、同 じよ うに リズムやアクセ ントを持 ち、同 じように表現する者 と聴 く者がいる。またどちらも時間の 中で実現 される。言語の用語が音楽用語 に転用 されてさえいる。さらに重要なのは、 これ らの 要素が狂 ったりずれたりして しまうと、意味が壊れて しまう点である。
1、
ことばとメロデ ィー
歌詞 と旋律 とは互 いに密接な関係にあり、名曲ほどその結びつ きは強 く、歌詞のイン トネー ションやアクセ ントや リズムが、メロディーラインと一致するとされてきた。 日本語のアクセ ン トは強弱のアクセントではな く、高低のアクセントである。 ことばの正 しいアクセントを生 かす ことが、 ことばを自然 にうつ くしくひびかせ、意味が正 しく伝わると言われてきたのであ る。 しか し、実際に曲の中でそれほど優先 されているのだろうか。
① ことばのアクセ ン トとメロディーの不一致
歌詞 にメロディーをつける場合、まず、 ことばとメロデ ィーがよく合 っていなければな らな いと言われる。「おはよう、ということばに、一番 自然な リズムと、 アクセ ン ト
(音の高低 )
を合わせ」 Dて 作曲す ると言 うのだ。 しか し、実際 にことば とメロデ ィーが一致 している曲を 探 してみると、歌曲・ 唱歌では殆 ど見つけることができない。 ところが、童謡 と演歌 には、不 思議 とぴった り合 っている作品が多い。
○童謡 [ぞ うさん]ま どみちお作詩、日 ・ 伊玖磨作曲
は な が な が い の ね
か あさん も が い の よ
[ぞ うさん ぞうさん おはながながいのね そうよかあさん もながいのよ ]と いう歌詞 の 持つアクセ ン トやイン トネーションがそのまま旋律 になっている。そ して実際の象の様子のテ ンポと、歌のテンポも似ているか ら、自分の腕を象の鼻に見立て、振 りなが らこの歌を歌 って も、情景 までがぴったりと合 うわけである。
①演歌 [津 軽海峡・冬景色 ](阿 久
悠作詞、三木たかし作曲
)うえのはつのやこうれ‐ や おりたときから あ おも リー えき は ゆ きくセ月か
4分 の 4拍 子で 1拍 を 3連 音符 に分割 されているこの曲は、詩を読んでいるだけでメロディー が浮かんで しまうくらいに、歌詞 と旋律が旨くマ ッチ している。演歌の場合、 このような例が ほとんどである。だか ら反面、演歌 は皆 どれ もが同 じ様な曲に聞 こえて くるのか もしれない。
これ らは、童謡 0歌 謡曲が、歌詞の意味を音楽よりも重視 し、最優先 させてきた結果 と考 え られる。
あ おも リ ー えき は ゆ
…
歌唱教材における歌詞の位置づけに関する一考察
② 文節 とメロデ ィーとの不一致
た しかに、歌詞の意味を最優先 させ る考え方で作曲された名曲は数多い。しか し、ポピュラー 音楽の分野がほとんどであって、歌曲においては、 ここでいう、 ことばと音楽が一致な くして も名曲 とされる場合が少な くない。それは、 「旋律の魅力のためには、 アクセ ン トをあ る程度 犠牲 に して も、 どうもさしつかえないように思える」 2)の である。
山田耕律作曲「赤 とんぼ」などは、 日本語の美 しさを歌曲化 したその代表的な例 として良 く 取 り上 げ られる。た しかに、 [赤 とんぼ ]の [あ か ]の アクセントが逆である以外は、メロディー ラインとことばの高低 アクセ ントは一致 している。 しか し、 この旋律が ことばを優先 して作曲 されたとは到底思えない。それは、 ことばの持つ リズムを全 く壊 して しまっているか らである。
[ゆ ― やけ ]と 言 う 2拍 の ことばの リズムを [ゆ うやああけ ]と 言 う具合に、 2+4拍 に変換 しているのだ。 これでは日本語のことばとしては意味をなさない。
他 にも、 日本語の歌曲 として代表的な土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の [荒 城の月 ]で も同 じ ことが言える。
春
高楼 の花 の宴
はる
こう ろ う の
1 2 1 2 1
め ぐる杯
影 さ して
め ぐ る さか ず き
かげ
1 2 1 2 1
千代の松が枝 わけ出 し ちよ の まつ がえ わけ
1 2 3 4 1
昔の光 今いず こ むか しの ひか り いま
このようなイン トネーションと拍の感 じを持 っていなが ら、実際のメロディーか らは次のよ うに感 じられる。
はるこう /ろ うの /は なのえ /ん ―
め ぐるさ /か ず き― /か げさ― し /て ―
ちよのま /つ がえ― /わ けい―で /し ―
むか しの /ひ か リー /い まい―ず /こ ―
「荒城の月」土井晩翠作詞、 .滝廉太郎作曲
υ
rJl
し り O p り い ま い ず ここのような例 は、これ ら以外にも容易に見つけることができる。歌詞 と旋律が一致 していな い歌唱曲の例を挙げてみる。
1 2 3 4
は な の え ん
2 3 4
さ し て
2 3 4
いで し
2 3 4
いず こ
あし― /た あは一 /ま あベー /え を一 はるの一う /ら あらあの /す みだが
/わ―
「浜辺の歌」
「隅田川」
「 こいのぼり」
「 もみ じ」
「おぼろ月夜」
「星の世界」
「故郷の人々」
「 こぎつね」
f*ty g . tv+TJ ty t-)v,/+4 T-
い一ら一か― /の な一み―と― /く ―も―の一な /み ―
あ―きのゆ /う ひ―に一 /て る一や /ま もみ― /じ ― なの /は 一な /ば た /け ―に /い リー /ひ うす /れ ―
か―が /や くよぞ /ら ―の一 /ほ ―し /の ひ /か り /よ ― は一 /る かなるスワ /ニ ーがわ― /そ ―のし /も ― こぎつね /コ ンコン /や ま /の なか
このように、何気な く歌 っていると、 日本語の歌詞 は、 ことばとしての意味をなさない もの に変容 している。外国曲に日本語の歌詞をつけた場合 は、なおさらである。日本語のイントネー ションやアクセン トに気をつけなが ら歌 って も、修復 は難 しいであろう。
③詩のテ ンポと歌のテンポの不一致
[か たつむ り ]文 部省唱歌
この歌 は、子 ども達 に歌 い継がれてきている、かわいらしく子 どもらしい名曲である。 この 曲の速度表示 は」 =92〜 112と 記 されている。実 は、 この 92と いう速度 は、一般に歌 われている
[か たつむ り ]の 速度か らはかなり速 いのである。おそ らく、普通 に歌われる速 さは J=76位 で
はなかろうか。 ところが、実際小学校で この歌が歌われるとき、 は じめは J=76位 で歌 われて いるのだが、教師の指導のもと、カタツム リの写真やお話を聞いたり、本物のカタツム リを観 察 して頭の中にカタツム リのイメージを描 き、あるいはカタツム リになったつ もりで この歌 を 歌 ったとき、曲のテンポは Lento"と なって しまうのである。そこには、 この曲が カタツム リの様子を うたったとす る想像のみが、解釈 として優先 されているか らであるが、本来 は [カ タッム リで遊んでいる子 どもの情景 ]と 解釈するべ きであろう。なぜな ら、作曲者の用 いた速 度記号や付点音符 との関係 に矛盾が生 じるか らである。
次 に [夕 やけこやけ ]を 例に挙げる。
この曲の歌詞 は、美 しい夕闇の訪れを思 い起 こさせ る。 この歌詞の情感をフルに発揮 させ よ うとす るな らば、ゆっくりしたテンポで気持ちを込 めて歌おうとす るであろう。 しか し、 この 中村雨紅の詩 に作曲 した草川信 は、はた して夕焼 けを [夜 が訪れる寂 しさ ]と 考えたであろ う か。 4分 音符でな く 8分 音符を用いている点、付点 8分 音符の使 いかた、 さらには」 =72〜
84という速度表示か ら、作曲者の意図は [子 どもたちは一 日遊んだ後、お友だちにサヨナラをし、
これか ら家族団 らんの食事が始 まる喜び ]を 表現 している詩 と、解釈 したのではないか と推察 で きる。
り せ
歌唱教材 における歌詞 の位置づ けに関す る一考察
「夕やけこやけ」中村雨紅作詞、草川 信作曲
お ―て て つ ない で み な か え ろ か ら す と い っしょに か え り ま しょう
2、
ことばとアーティキュレーション
① ことばの発音 と音楽の発音 、
音楽同様、私たちは言語を耳で音 として捉える。その音 は子音であったり母音であった りす る。子音 にも有声子音・ 無声子音等があり、母音にも発音する際の回の開 き・ 舌の位置の相違 によって、あるいは促音や撥音、長音や短音によって無数の音色 として認識 され、そうした意 味を持たない最短単位のシラブルが連結 されることによって、そのことばにアクセ ントや リズ ムやイ ントネーションが生 まれる。
音楽の場合 も、最小単位の一音ずつは母音か、子音 と母音の組み合わせである。 これ は音の 発音に際 しての立 ち上げ方を指す ものであ り、 リコーダーのタンギ ングを例に出す と、
[ti]とか [tu]と か [du]と いった音の立 ち上げ方の違いによる音色の種類を示す。 さらに、長音や 短音が連結す ることでアーティキュレーションが形づ くられる。 このように、意味を持たない 最短単位のシラブルを連結することによつて、そのモチーフにアクセントや リズムやイントネー ションが生 まれ、音の重心や進行のエネルギーを生み、フレーズに導かれるところは、 ことば と音楽 は非常 に類似点が多いと言える。
② ことばに含 まれるアーティキュレーション
わた したちは「春 高楼の 花の宴」 と朗読 を聞けば、自然 に滝廉太郎のあのメロデ ィーが 浮かんで くる。反対 に、あの美 しいメロデ ィーを楽器で演奏すれば、譜例のごとく日本語 の歌 詞における子音 と母音が持つ音の連結がスラーをよび、自然にアーティキュレーションが形成 されるであろう。すなわち、よく知 られた歌曲を器楽で表現するとき、歌詞のシラブルの子音 と母音の箇所 に、無意識のうちにスラーを付 けていることに気付 くはずである。
「荒城の月」土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲
は る こ ―
「浜辺の歌」林 古渓作詞、成田為三作曲
―
▼
―
―
ヾ
・ ―
―
あ
し
た 」 ま
ま ― ベ
ー を
さ ― ま
― よ
え ― ば
また、次の例 に示す「虫の声」の歌詞 は、 4小 節間はレガー トで歌い、 5小 節 目の擬声語 は 撥音だか らスタッカー トで歌 い、 6小 節の長音 はテヌー トで歌 うよう暗示 している。
53
「 虫の こえ」文部省唱歌
あ れ す ず む しも な き だ し た
リンリンリンリン リ ーン リン3、 詩 と音楽
ことばが音楽 と大 きく違 うところは、そのことばの概念か ら意味が生 まれ、このことば と意 味の関係 は、完璧 にとまではいかないまで も、かなりの精度を持 って対応 している点である。
(書 かれたことばの場合 も、視覚的な表情を持 ってはいるものの、基本的 にはことばの音 を記 した ものである。 )
ところが、 ことばがさらに詩 になると、概念だけでは詩の意味に対応 しきれなくなってくる。
ことばの概念 はおおむね一般的な意味を示 しているが、このことばか ら作 られた詩 は、 ことば の概念を変容 し、具体的に物や行為を表すに止 まらず、抽象的な世界に引 っ張 り込 もうとす る のである。すなわち、言語で読 まれ言語で書かれた詩 は、 もはや言語で表現する意味の枠 を逸 脱 し、別の意味 (雰 囲気 )を 持 ちだすのである。それは、心 の内面を意味 させようとす る もの であり、音楽では感情表現 ということばで表 される。
詩は、それ自体完結 しているものである。すでに大変音楽的なことばである。その詩 に音楽 を作曲 したり、歌 うということは、詩が持つ音楽性を、本来語 られるべ き リズムやアクセ ン ト (高 低 )や イントネーションを、作曲家や歌 い手 によって本質的に異 なった音楽性 に変容 させ ることである。 したが って、歌詞 と旋律が合わないのは当然 と言えるのである。
詩を本当に理解 しようとす るのな ら、自分で声を出 して読んでみるか、だれかに朗読 して貰 うべ きである。その詩 に音楽をつけたり、歌 ったりすることは詩を変容 させる事だか らである。
われわれが歌詞を読むとき、そのことばは音 として捉え られる。 ことばはテンポや強弱、 ア クセ ン トやアーティキュレーションを伴 いなが ら発せ られるのである。 ここまでは、 ことば と 音楽 は非常 に類似点が多い。 しか し、 ことばは「音だけで成 り立 っているのではな く、 その音
に含 ませて我々が掴んでいるもの、すなわち概念 と共 にあ り、 それが言葉の意味である」のと 言われる。 ことばは、音 とそれが意味する概念 との上 に成 り立 っているのであるが、音楽 は、
音 と音 との関係の上 にしか成 り立 たないと言 うことができる。
歌詞の持つ音楽的要素 と、その曲の音楽的要素 は、音楽的になればなるほどぶつか り合 い打 ち消 し会 うことになる。そんな場合の殆 どは、音楽が優先 され、 詩 は破壊 される "と 受 け取
られるのであろう。実際音楽 によって破壊 された歌詞 は、耳か らはいる音か らだけでは、 こと ばとして認識 しに くくな り、歌詞を書 きだ した文を見なが ら聴 くこと・になる。詩を読みなが ら、
そのことばの意味を味わいなが ら曲を聴 くことを余儀な くされたとき、音楽 はバ ックグラン ド ミュージックと化すであろう。
音楽作品 は、楽譜や記号で書 いて も音楽 としては成立 しない。そ こには、 「 音 を通 じて感 じ 取 られるその意味 されるもの」 のがぁると言 うことができる。音楽は、「意味を理解すべ き対象 ではな く、そこにあるものとして、諸音の必然的な結 び付 きを実感すべ き物」 Dな のである。
すなわち、言語の範囲内においては、 ことばと概念 はほぼ対応 していると考え られるが、詩は、
ある意味では、ある範囲では対応 しているものの、それ以外 は別の性格を持つ。音楽に至 って は、概念、すなわち共通認識の範疇にあるのは、楽譜 くらいであろう。
ことば・ 詩・ 音楽それぞれのこの性格 は、個別 に存在す る時にのみに見 られ、作品 として結
歌唱教材 における歌詞 の位置づ けに関す る一考察
びつ く場合、音楽が優先 されるのである。そ して我々は、あ くまで もその作品を鑑賞 し、表現 す るべ きであろう。
Ⅲ 音楽は何を表現するか
1、