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『宗教研究』204号(44巻1輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

智顗における禅から止観への展開の意味, 新田雅章, The Practical Meaning of Chih I’s Adoptation of

the Method of Practising “Chi-kuan”, the Method of Practising

śamatha vipaśyana, Masaaki NITTA,

pp.1-23.

2,

存在と自由:フィヒテの『知識学叙述』(1801年)に関する一考察, 大峯顕, Sein und Freiheit: Eine

Studie über Fichtes Wissenschaftslehre von 1801, Akira

ŌMINE, pp.25-48.

3,

R.オットーと現象学的問題, 堀越知巳, Rudolf Otto und das phänomenologische Problem, Tomomi

HORIKOSHI, pp.49-69.

4,

プトレマイオス派のグノーシス神話:その展開と構成, 荒井献, Entwicklung und Struktur des

ptolemäischen Mythos, Sasagu ARAI, pp.71-89.

書評

(2)

智 頭における禅から 止観への展開の 意味

業 、 吋 几 案 さ 一

智 ; , く、 の

(1)

新田

雅章

展開の意味

(3)

の 構想は体系化されたわけである。

まる﹁ 禅観 ﹂体系

されてきた実践体系

体系との間には、 修

系の確立が い かなる 、後期実践体系の基

同も、 智 顎の実践 観 重要な視点といわなければならないであろう。

法の拡充、整序に で 本論に入るに先立

約 がある以上、止観 修習を基調とする﹁ 次

にする方法を通して 中止 坑観ヒ ﹁ 摩 河上 " 止観, b に

うした止観体系の思 所収拙稿︶で残され

系 化がいかなる思索

ろう。したがって 、 (2) 2

(4)

智 頻における禅から 止観への展開の 意味

か こ

の種

を明 ら め 安 藤 俊雄 博 モ

コ大 ム口洋ず 禅 [- し 第十一章もとづ

そく

式の

実践 勺自 特

とづ で 形

徴さ

格 { 実 式 と ヰ手 徴 つ

s

%

修 - サ ,り れ る 所 実

か 問 に 題 し の な 究 が 明

らの

準 智 備 顎 も に か お れ い

き ィ本 た 系 こ と と の め そ 薫 れ 味 ぞ る れ 問 が @) つ @ ) こ か と な が る

木 銭 稿 姿 の 勢 課 を 題 担 と ・ っ な 行 ろ 業

ぅで

あ る, 3 (3)

(5)

なわち四禅等の﹁ 世

ょ び法華三昧・念仏 ︵ 5 ︶

構成からなる正修行

法 ︶ 、 ㈲﹁ 色 ﹂ の

る 方法︵Ⅱ出世間上

下 、通明観にいたる

三昧等の非世間井出 せられる関係が示される。︵ 6 ︶

息 ﹂の三種の方法

息 ﹂とは、﹁忽然 と

物を見る﹂︵ 7

︶といわれ

観察する方法を いう

如ニ 芭蕉・ 聚沫 ・ 雲 ・

いは自己の身体が 芭

わけである。

ている。正修行と︶

よび土門以下の五種

(6)

智 頻における禅から 止観へ の 展開の意味 がってそれ さて最後 ているよ う す,る 方法の 同次第禅門﹂ 理解するこ は 、客観的世界の諸存在を観ずるという 占 に 第三の実践方法である心を・介して 修 ぜら に、 心のありかたの推究を目指す、純粋に ,三ノ しだ特徴 は 、法華三昧・念仏 般舟等 、 一 ﹁浅瓜 章 ﹂非有漏 非 無漏法の 項干 にみられ とができる。 で、より客観的性格 れる修法についてみ 内省を中心としたい 非世間非出世間神所 心 のありかたの をおびた 方 てみよう。 わば主観的 摂の禅法の 把捉態度に 法 とみることができる。 ︵ 2 ︶ ,て れは、﹁ 反 観心性﹂といわれ 万法にほかならない。心に依拠 修証 事態を総括的に解説した、 関する説明からもより具体的に︵ 乙うした一連 自らの身体の非 さて続く色に 背 捨 ・大不浄観 で は、 他の男女 見て、定心を安 の修法である、 食 、山林樹木等 っっ、これら 諸 と 説明されてい このように﹁ 看破しっ っ 一切

的に

目 お 心 、 ・

とづく禅法の具体的な修法が明らかにされる。 そこ ︵ ハソ ︶

骨を ︵ 叢 ︶

地目 栓拍

服飲

得し

臣几 V@@ ︵Ⅰ︶ l , Ⅰ へ る 。

浄を

した

(7)

をはか

せ 知得

自注・ が 説の禅 観 体系である、と。 自性・空を観 得 かたを観察しっ ﹁次第禅門 b

有 ・無の対立を超えたもの︵ 無 自性・ 空 ︶ いるが、こうした説明は、法華三昧等の心に

省を中心とした純粋に主観的方法であるこ プの 無量である禅門も﹁修禅方法﹂の観点か 身体の非実体性を観得して行く﹁ 息 ﹂に依拠 しつつ、その 無 自性・空を看取する﹁ 色 ﹂に て 行く﹁ 心 ﹂に依拠する主観的方法、以上の されているわけである。

こうした三種の方法に従って修せられ、 としての心のありかたの 依拠する方法が 、心 それ とを物語ってくれてい らみれば、基本的に 、 Ⅱ する万法、㈲自己の身体 依拠する客観的方法、円 三種以外にない、と了解 しかも四禅以下の諸禅法 観 体系﹂とはつぎのよう

随 二 %

侶盃

里心窩 不 。

捧肴

" 無二 辺 - 、以ニ景因縁 - 、生見陣亡心 名二

非有︶

︵ 轄 ︶ 漏 非無漏小 - ・一 @ 死 - 、不。恭二 浬 6

(8)

智 頻における禅から 止観への展開の 意味

れているからとい

しておかねばならな

、したがってそれの

智 顎は明らかにする。

。 然 、今 依 弘二教 - 、

依拠する方法と 等

けられている関係を如実に物語っている。

性 ・空なるありか

系なのである。 註

に 検討を加えた。

ら 個々の理法の相互

る 問題﹂︵﹁東方

詳述した。

1千Ⅰ原文は紙数の関係上割愛した。

(7)

(9)

いるだけに、止観が

であろう。

つぎには、止観

止観形式の実践的 特

、ついで、止観構想

特徴を尋ねてみた

実践的特徴

は 、 智顎 にあって (8)

)(くし)ⅠⅠⅠⅠ・Ⅰ

ハし

)(Ⅱ 丹 (

3

Ⅰ。

) ⅠⅠ " Ⅰ

ヰ ・ ヘ寸Ⅰ レ Ⅰ 上 ヘ

0

十六

iL

Ⅰ と -

) 行

翼以

」 次 「

ⅠⅠ 爪革 『 ョ 巻 原 上、 文 大 - ー - - Ⅰ 己 エ 正 載 蔵 紙 数 巻、 関 係 上 セ 九 中 割愛

(10)

智 頻における禅から 止観への展開の 意味

心 の 麓乱 を対破して

い るかを明確にす

・ 外 両方便の項を拡

れた 司摩珂 止観 ロの ︵Ⅰ l ︶

れている。すなわち

覚魔 事の内方便五種

の 予備的行法Ⅱ二十

を認 知﹂ し 、﹁ 魔事を

いう構成からなっている。

法を提示するの

習 のあと必要に応じ ︵ ワ @ ︶

る 第六章﹁ 修 止観法 門 正修行﹂の 項下 に詳述されている。

して 修 ﹂せられる

治し、㈲便宜に随っ

・件件・言語の六 縁

れている。

の 説明の中でもも (9)

(11)

が 正親 と 呼ばれる

上意せしめる形で

践的 特徴と解されているわけである。 善法 不善 法 無記 法 、 応作。苦行者、知工 別本 レ可 。 取 、若不二 OO

因 。 心有 。 故 十地絡 云 、三界無二別法 - 、唯是 一

夫 無為者、即是諸法文本源、若能宏二心本源 - 、 ﹁大行者、 於 三端坐 中 - 、 正念恵三性 一 切 諸法真実左相 - 、 OOO 諸法者、 OOO 即是約 。 心 明 。 -0 切 。 法 。 也 。 女 - 口 切

りたたしめる﹁ 心 ﹂

地絡 ヒの 一節﹁三界 ︵ ユリ ︶

との関係はともか

いるのである。煩を

ている。

も 明白に 誇 示する 規 ︵ ︵ 4 ︶ ︵Ⅰ 0 ︶

治親ではなく、 休真 ︵ 5 ︶

相を思惟する行業を

が め べられ、止と観 0

三上、観は対治 観 ,

(12)

智頻 における禅から 止観への展開の 意味 は を 「 為 切 。 行 法

わが憲明

若干、

緑、

b

@c 随 治 る り る 自

わ 惨 痛 は を ヵ エ 同 - 、 一 雄 を 知 4 日 子

し て 顛

超 当 。 止 克 す る

@. 才 ん ム の で

あ 規 つ 。 く を 心 と を る

定 て 結 第 静 の が い 心 労。 業 西 安 沈 で ぅ

そ の な 浮 き の べ く で て 闇

正規ら

恩主し対。

るで

あ も

ユ 1 (11)

(13)

に 対して修せられ

みておかねばならな

止観業の特徴をみて

せて修せられる止観

的 特徴の全貌を ぅか がぅ ことができる | 可 で得、 則 妄念 不 。

口悪等﹁故君 為レ行、 ︵㎎︶ 、 畢寛 空寂 - 、 是名 。 修 。 観 ﹂

の 法が、一法とし

勢 をいい、 観 とは、

る 実践的姿勢を意味

でも止観は 、 先の規

解されている、 とぃ えるであろう。

せて修せられる止観業の特徴を尋ねてみよう。 なおここでは﹁ 意 ﹂

・身の五境が主題と

いうのか。 智顎 によ (12) 12

(14)

智 頻における禅から 止観への展開の 意味

すことはきよう上意

@

Ⅱ︶

のそれぞれが空寂で

る行業と理解されて

いるのである。

みてきたが、

かかわる実践

を意

しているわけである。

止観﹂の

実修

に移

りながら実践の遂行

止観とは直接心にか

確立は、﹁

止観

L

Ⅰ 3 (13)

(15)

︵ 8 ︶ 司小 止観 L 三四 0 頁 、

小 止観 L 三五三頁︶

する関係におか

同じようにいわれている。

内外 有 レニエ 違

心治レ病 方法上﹂ 角巾止観 L 三五六頁︶

する必要がある

行業であることが示される。

にあっては 必

のである。

- 軸 敬二台小止観 L 三三九頁︶

碩志 上﹂︵﹁ 小 止観 L 三四 0 頁 ︶

事相﹂と規定され、

ずしも止観の基 本 的な修習姿勢でないことが述べられている。

られる行業であるか

究 L ︵三五一一一 |

ては玉城博士上 掲婁 ︵ 二 二九 | 二三六頁︶に詳しい。

ヒ 三巻、大正

ることをもことわっておこう。 ︵ 7 ︶向 か 止観し三三九頁、 (14) 1 を

(16)

@@ @@ Ⅴ 。 頻に おける禅から 止観への展開の 意味 (15) す 智

」 """

ら 境、 ね 」

実 践

智 を 、 が 降 理 実、 当 に 解 相 、 面 諭 し 把、 の 述 て ま足 、 課 さ 、 の、 題 れ 似 た 、 0 6 下 め 、 究 「 後 の、 明 十

し)ⅠⅠ く 14@ 13@ 12@ 11@ 10@ &

三 原 四 文 一 一 "

、紙数

関 み と 係 上

割愛 以 T 本

註 的 立

Ⅰ 0 場 I1 色 ム

2 1 ●

水中

一 Ⅰ

TT

沃、

ユ 波 諸 場 ム 原

文 宝り 口

四 一、 意 大 下

(17)

用いて、より客観

あっては、一切法は

えば﹁

転読文﹂に

、﹁

﹂に観点をお

であることを、また

︵ 2

われかたは、同一時

一二三、不継木積

︵ ク Ⅰ︶

、十如是の﹁

転読

﹁ 作

﹂は、一切法が

ぬ是相

、如是性、

﹂の解釈に着目し

﹂の説明箇所に注目

たからである。

(18)

るわけであるが、

に従って行われて

いるとみることができる。

ての一切法を意味

関係の中にあって

﹁華厳経

︵ 工 八十

心仏衆生、日三二無差

︵ 8

にならい

﹁華厳正、心仏

衆生、

宙正

一一一

ぬ wW

左 セ @

Mm@

﹂︵

9

のまた心法を解釈する形で、 意

かと述べる。

れる論理的根拠をなして

であってみれば、己心

捉の方法は初学の行人の

、と実相の把捉過程にお

をける理想的方法が提示される。

17 (17)

(19)

て 修せられる行業であることが宣明される。

人界の中から五陰

けるもっとも中心の ﹁ 陰八 一環、常宮現前、若 発 不発、

一旦日子。 日 んマ

﹁ 陰

花机考二義、一現前、一一俵

経 ﹂︵ 2

1

㈹ 業 相、㈱歴事、㈲禅定、㈲ 諸 見、㈹増上慢、 ㈲二乗、㈹菩薩の

止観が、現前的性格

ねばならない関係 が、 特に強調されている。

為レ難 、熱心仏 及 ︵ ユ︶Ⅰ ブ

行人当 三 自選三沢河道 可 で従﹂

と 考えられている のである。

で つぎには、止観

、止観業が担 う方

にことわった どと

十 境の説明であろう。 (18) 18

(20)

智凱 における禅から 止観への展開の 意味

﹁ 摩討 止観 ヒ の上 記 の一節﹁ 陰在 祝着⋮⋮﹂を理解して、 ︵Ⅱ︶

既因レ観 。陰雨 生 ﹂ また﹁今生 去レ 文献 レ尺 ⋮⋮﹂について

所摂寛多 - 、 陰唯

老優 含 二心友心所 - 、今旦 観 二心王 - 、直二股心所 OO ︵Ⅱ︶

ある、と述べてい

業 であることを了解 できるわけである。

された 息 ・色に依 ︵㎎︶

中で理解すること

に ﹁ 観境 ﹂たること

んは 何ぞ観ずる所あ ︵㎎︶

う 止観とは、基本的

ろ う 。

地足される実践姿勢

いては﹁ 観 不思議 境 ﹂ 19 (19)

(21)

︵ 鈴 ︶

課題の究明に必要な で が の

観 ﹂体系の﹁止観﹂

なる。しかし両者

期 実践体系のもと

されている。この ︵ 2 ︶ 6 。

法在レ前、

亦 不可。 ︵Ⅱ 什 ︶

である。そし 思議 境二 を観 得して

﹂︶を実践的 理解されて ぃ

﹂の二種の

差継。

異 、玄妙

として

業の、す

の ﹁あり

トハープ ま、司

わけであ ・ 具 切 4 ム 法 ( - 」) 20

OO

当レ 知己己心

いる。

(22)

推究がより主体化されて 元いるわけである。

いう 止観の意味をさらに

践 姿勢を日次第禅門 L

所り

にみたように禅に依拠 す

いわば客観的方法に 此心幻 師旅三一日 意 選択 OO + 河道 可

従 ﹂ 味

別の認識系列として

て 全く同じである 関

常に十界のうちの 一

ことを迫る同法華 玄 きる。

0

把捉の仕方にまだ

問題点に 解するに 有る﹂ 三

の 命題を理

心に 因って

いう﹁観心﹂

(23)

ぅ した説明は 、

べたものであるとみられる。

るであろう。

下 ︶

実践の主観化︵﹁ 小

的 実践の最初から

称 でもって呼んで る 、といえるであろう。 註

﹁法華玄義 L 二巻上、大正蔵、三三巻、六九三十︶

定 相如是性毛 旧 、点二空相性一、名字施設、 遁迄 不同、 即仮 義也。 若 伸二

ヒ 二巻上、大正蔵、三三巻、六九三十︶

照 。特にこの種の 題は ついては、 一セ ニ ー 一九六頁に評しい。

窟ド 三三巻、六 九 問 が目 い 、 止

度の全体を意味し

る 方法として体系化

説明がなされる同小

(24)

智頻 に おける禅から 止観への展開の 意味

であろう。

ないが、 司摩珂 止観 L

を 同じくするものである。 日摩珂 止観 L 九巻参照。

上 ︶

一 00 中 ︶ ︵㌍︶玉城博士前掲書工二九 | 二三六頁。

原文をあげておいた。 ︵ あ ︶玉城博士前掲 善 二三二ー二三五頁参照。

中 ︶

O 下 ︶

一七︶

に 代表される唯識系

なくとも、 湛伏 23 (23)

(25)

存在 と 自 由 さ が み い わ の 底 れね

自らこずしに

見う らと

的 「 自 ﹂もしく 開示しよう て掴んでい ︵むしろそ ぁ とは極めて れており、 覚 そのもの かった。 自 25 (25)

で ろ 原 ッ 自 の 要 と

ヒ こ ど い て よ 上 本 テ で ま て 目 っ 学 的

にはっは撃てはな

お「

て "

さ規

" 現 い 白 い こ れ 定 も 象 、 て 己 る の 、 さ ち に 初 」 。 原 そ れ ろ フ め は か 理 の て ん ィ て い れ は 本 い 何 ヒ

り ば の の そ こ か ほ 、 斜 、 視 認 の と の ど お 視、 線 識 も は 意 執 そ さ は を の 事 味 物

ヒ で な る 究 。 」 テ あ も も 明 そ そ そ 以 っ の の を れ 原 の 外 て に と 受 に 理 根 の 、 向 し け も 的 抵 と 百、 っ て る か な を こ 視、 た の と か も 徹

と自

| フィヒテ ユ

知識学叙述

[ 主ゴ ロ ︵一八 0 一年︶ サ -

関 す る一

(26)

の眼ですらなく、 た

われわれの対象で

ガ ︵では全然なく、

﹁知の教 説 ﹂

は 知識学のこ

な 究明という

﹂はフィヒテ

が 、たとえば

にいたり、 自 中の ゴ Ⅱの とであ 仕方で 哲学の 一八 O 己 自身 ︵ 3 ︶

本質は﹁学問一般の学問﹂ということにあり、 哲学のこの本質は 一 ヒ の の の ︵ⅠⅠ︶ といってよいほどである。

では哲学の諸問題

学の立場というも

である。実際フィ ︵ リマ ︶

ある。ひとが従来 て 識 し の ま 上 っ へ て 拡 い 大 る さ 力冤 フ て イ り ) ヒ る テ が 以 後 "@ " て 現 の 代 反 に 西 い に た

-

自 覚 ま の で 質 酋 帥 学 な は 統 フ

d

イ 性 ヒ は テ 次 が 第 ッ 遜 tc 行 稀 し 薄 た に 根 な

な っ 洞 い 努終 lC を は 七 , じ、 一 劫 初 し の て も お の

な へ し 揮 ろ 発 こ し (26)

覚の原理は一切の認

(27)

存在 と 自 由

ほ であり、かれがそ

い 。それを所有して

かれは知識学を生

識 学を持つのではな ︵ 4 ︶

とはないし。知識学

︵であったところの

すものであり、﹁ 自

は ﹁自己﹂が自己 自

しておこなわれる。

学 そのものになって

目しているのであっ

ばわれわれの実存 と

存 とでもいうべき 立

をもって、﹁ 学 ﹂と﹁ 自

ち えないことは当然

されている。それは

洋 哲学の全歴史の中 27 (27)

(28)

︵ 6 ︶

る 。

このことは自覚が

粋 理性批判 ヒ はこの 的に測量せんとする ていない。カントの つめ 距離、むしろ 一

ことから、自覚その

ことへの移行である。

つけられねばなら ︵ ヶ 1 ︶

一七九 セ年 ︶にお い

ぎのように引用して

兄 なされることはで

という 1 。 あらゆる

一であるところの ︵ スリ ︶

からは導き出されえない自覚であるから﹂。 フ ィヒテ の解釈によれ

、ただ自己自身によ

我 はこの思惟にお ︵ R フ ︶

思惟されたもの、 (28) 28

(29)

く 書いている。﹁ わ 2

れ 自身が意識され、意識

約 である。ところで従来 ︵ H Ⅱ︶

にともな う ﹁ 我れ思

るとは考えなかった。

示している。﹁自覚﹂

内意識の立場から斜視されたのである。

る 体系の基本傾向であり、 ︵ 皿 ︶

な う ﹁たんなる意識﹂ 0 フ て の な れ 頭 つ し - ィ 、 概 生 る し ま か 致 ヒ 全 会 成 の て り し る テ 意 に の で い 届、

す 体 て 識 対 ヵ て る 系 て さ は の 家 ン い の 的 い か な 主 で ト

自。

るで

あ 導

来、

るのら休は

ぼぬ がな

身 は

こ こ ィ 日 省 る , 思 、

に 間 見 う 識 ら 用 」 と

諭 す し 反 身 、 で 積

の ト な と よ を る

く の く 経 に に て 力 な こ 「 験 す 到 れ ン く の 糸屯 的 る る Ⅱ ヤ ー ユ ネ ト と 目 秤 意 と た そ と も 己 自 調 い め れ 自 身 と し て

は で と し 宰 的 さ 没

(30)

の が の に は に そ 詑 た 対 こ か あ 在 し こ れ 亡 ,じ、 、 作 お な お こ 弁 も 象 、 れ 目 る り し な こ わ 却 当 用 い が け で 的 の に は 覚 脆 、 な が か れ

予対と

る 意 彩 へ れ 、 と れ が は 学 基 の 識 で 還 た そ 煮 、 る 意 、 的 礎

で そ 成 る も の 識、 も 誠 意 に 的 力 前 の れ の だ あ の り の の よ さ、 の す 識 量 な ン 提 場 わ 意 わ る も 立 で が う れ、 と る す 初 誤 ト す 台 れ 識 れ

の薫

意識ま

にも・ 立

ぃ| 』 きの 認す 意識 のあ もの ると 意識 化し て

えも るが 認な 説明 るの の --@n 噂 @- @ 。 る 、 さ い と い さ て フ の 、 る さ で 識 正 に に 解

いれ

だ の う れ 挺 ィ 根 し も れ あ を 場

働 お は の、 た の 南 区 る え ヒ 本 か の な っ 再 れ て 至 誠 も と 的 意 統 と こ そ た か 情 た こ 観 そ い 観 の の 今 な 誠 一 が る の わ か の 、 の に て で と 己 で 土

な る 切 省 る さ 問 る の で る お し は ぅ 無 こ が 。 り の こ れ 題 と い あ 誤 い て 客 い 際 と ら す 鹿 佳 作 と た に こ う る 解 て 見 鋭 う 限 に 、 な そ 用 を も さ る 自 。 で も つ と 次 に よ そ ね う そ 意 の れ か 覚 意 あ 語 か し 第 す っ ら て な す て の

立、

ちとれ味とてらで

す回

すの

ぃ出あ

識 す

るっ

て な 受 ら ん の 場 白 6 身 6 回 ろ 登 る る 意 い い け い で み か と か ゆ 生

は 化 で て 。 こ 。 れ に 識 自 す

ある

い意、

る識

o

隠 、 と あ 、 自 と 自 ゆ 右 さ 身 る 。 の も し し さ そ る こ 覚 で 覚 え の れ を に か で 存 か て ( 丈 ) 30

(31)

存在 と 自 由

自覚なのである。 そ

求めて遂にこれを 得 ない状態にほかならない。

て 分離されえず、 ︵ Ⅱ︶ @

われの自己そのもの

によって制約されて ︵ 廿 @ ︶

覚を把捉する立場と

は フィヒテの思惟は

れた知識学叙述 は、

る フィヒテの発掘作業の諸段階に他ならない。 ところで知識学のこ

あって、 両 時期はそ

0 基礎 L を中心に形

捉えられた。第二期

をあられす根本概念

の 、すなわち﹁絶対

立 以後 ご ある。これによってフィヒテの体系は 、 その開始以来隠れて

在 性を貫きながら、

するのである。一八 0 一年の叙述はもちろん、 フィヒテの発展の日収 3

(32)

﹂リ ブ の 0 ︶ 由 ⅠののⅡの ゴ

3

( ⅠⅠⅠⅠ 5 ( 4 1 釜 ⑰

す,

。 、 , ・ 、 宜

?T,n,

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註 ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ひ " Ⅰ c@/i " en) " Ⅱ ⅠⅠ ト @. 絹 巾 ""'" Ⅰ

( 金 子

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( ・ ゴ Ⅱ ヨ ニ 識

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学 コ帳一 O コ せ 由

卯 拐 叙 由の 旧 鯛 述 Ⅱ 由 円 ・ ぺ 目ア

下拝 コの ( c 零 お

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コの

Ⅰ ⅠⅠ Ⅱ ""," ⅠⅠ ハ Ⅰ 序

0 仁

o

臣 - 文

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キコ

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臣、 O ゴ の

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年 場 封 域 0 目 後

を 台 場 た 自 の ど 我 原

な構

とに ぎゴ甘

。 の す 概 で 念 に

@ し 八 て O い 一 る 年 と 0 玉 「 つ 絶 て 村 よ 如 い 」 の わ 概 ね (32) 32

(33)

根源的な自己定立の働き

33

の 内に持つべきであ

に 且 つ 一切の根拠なしに 由

ものはどこにもない ︵ 99 ︶

付 する純粋活動の思 想を フィヒテは特色鮮かに貫徹したのである。 ︵ 4 ︶

の方︵のによって生ず

は 十分には明らかに

につ ぎのように説か

みならず、自己を自

として三の定立すべ ︵ⅠⅠ︶ ︵ り乙 ︶

。これは依然として

目 身の存在を定立す

と 同生天 践 理性批判﹂における﹁自由﹂の概念

らわれわれ自身の明白な直接的意識となっ

の 現実的な地盤であり且つ客観それ自身なの

のように静止した実体とか存在︵の まコ ︶ と

じた。フィヒテの純粋自我は働きそのもの

るでる

粋一

純統

かこ

て は る と れ フ も は ら ィ は 自 存 に ヒ や 覚 征 矢 テ 哲 の

(34)

、その意識様相は

であり、他方では 考

︵ 8 ︶

ィヒテ が﹁知的直観﹂ ゴっ 異 フ は れ る 々 根、 て で ヒ 源、 い あ テ 的、 す な 反

わ 省 こ が

活動

ち、

活動 れは 白日

自そ

哉の

基身

性 も 礎 へ は の L 還

還帰 以外の何ものも属さない﹂ ︵ 7 ︶ 、 と

省 活動を捉えた仕方とは明らかに

み ﹂には明らかにつぎのごとく 云

住 ののの︵ お臣 ︶であって 、 決して 単 、、、 の 純粋な活動とは、 ︵ く Ⅰ︶

逆転である求心的方

に 他ならない。これ

る 。

ある。活動が いか

新叙述の試み﹂と ぃ

﹁自己定立﹂と﹁ 白

撃 せんとした。

それであるところ (34) 34

(35)

存在 と 自 由

はなく、知的直観と呼ばれる。ここにおいて、 自我性は直接に自己

れる客観とに分裂し

ある。それゆえ ブイ

。知的直観は自己 意

性の内奥が切開され

現われた自我性が 、

、中心︵統一面︶ か

すところの知的直観

分離されるところの

内で直接的に一つと

よっても意識に到達 ︵ⅡⅡ︶

ことができる。自我

つ 。逆に活動はその

帰ってゆくことであ

くして自我性はいま

えられたのである。

いている。﹁知的

が 或るものを知るの 35 (35)

(36)

︵。。︶Ⅰ ユ は 上に示された自我 を 直観し ぅ るために かれはかれの働きを ︵Ⅱ︶ あるから﹂。 1, と 知的直観は自己定立 場

に求めるのであ

想 によってでなく、 を 知る、なぜなら、 は 明らかに、知の根 の 貫徹を示すものである。 知ることとの直接 ことが知ることであ からである。自我の また働くことの一種 これを根拠づける 立 (36) 36

(37)

山 在 一八①一年

存係

において 展 一 の如説 字 叙述においてフィ 開 しだ。 肛 対立臼Ⅰ 口我佳の ヒテ ははじめて、知の日 己 把握 自党が成り立つ基盤として考え ︵自覚︶を﹁ るのである。 ︵ 1 ︶ 姑卍 対立臼﹂ かくして Ⅰ帯下 汀 0 二 % 知 詩学の立場は 「 と の 対 関 37 ︵Ⅰ 0 ︶㏄・ トく ・ ロ ・鼻のゆ ︵ アサ ︶の ,トミ ・ ト ・のⅡ ︵ 5 ︶㏄・ ンコ Ⅱ・Ⅰ 、めべ性

︵ @ り ︶㏄・メコ コ ・Ⅰ・肚の㏄

ミ ・ H 、のま ︵ 0 Ⅰ︶の・ノ ン Ⅱ・Ⅰ・ ト Ⅱ ト ︵ 騰 ︶の・ ミ ・︵・ A のの

の 概念は後期の﹁ 絶

主体と超主体﹂ 宍 宗教研究﹂一八八号︶参照。

ろのもの﹂ 韻窃ぎオ

捉えるのに対し

るのみである﹂

q@ 牡 ︵ののⅠの下お

するであろう。 ︵㎎︶の , ンント・Ⅰ , p のの ︵Ⅱ︶の・ ミ ・ H .&0 ︶

(38)

このテーゼ ある。フィ ヒ 超えていると らば、それは かる客体化作 の場合、知の 知の形式とし 性 と主体性に

叙述 群 全部︶をつらぬく墓木

透明化する分析に他ならぬ。

対象的な関係と解されてはな

捉えられた客体はすべて相対

ち 知の形式の把捉の立場にお

い 。知の形式の直接的な自己

である。それは知の自己反省

まり主体性としてのわれわ ・的な 侶 格を先取したもので 一体、絶対者が絶対知をも らない。もしそう考えるな 的である。絶対者は知のか いてのみ現われてくる。そ 把捉を貫通している当体、 すなわち自覚の立場の直接 れ 白身の直接的な背後であ

フィヒテは一切の

を 廃棄する。﹁絶対

とはできず、絶対知 ︵ ク し︶

︶であるならば、 こ

、知識学の根本課題

においてのみ、知の

対自的には決して 人 ︵ ノ Ⅹ︶ ってこないであろうし と 。 (38) 38

(39)

である。フィヒテに

の 内在的な自己把捉

辿対知

がそれ白身の

対日的展開、絶対知

することである。

﹁ほついての

すべ

ののの 対日。丁

推 る﹂ ,

6

,てれ であ﹁ o ﹂

れ口耳が可能になるので

39 (39)

(40)

︵ ハ Ⅰ︶

もない。﹁ 見 ﹂ ろ は れた当の事柄をその事柄自身の本質に 点は 、純粋活動としてよりも見ること 根源的なものは働きをも見る立場であ ある。そこに絶対に対象化されえない くは﹁ 眼 ﹂をさらに見る立場というも 眼 という包括的で透明な圏内にある。

不断にそこに立脚して来た原

働きは未だ根源的ではない。

のはこの立場のもう一つ手前 卸

れゆえ、かかる﹁見る﹂もし

い 。﹁どこか﹂ということも、

にあるのでもない。﹁眼は自己 ︵ 8 ︶

観 ﹂等の語でっかま

絶対知の特質のいろいろな表現を試みている。 たとえば、﹁対自

﹂年ののの 仁すい侍 口目 ビ 0 二の 二つの 倒 してかく 的の口が テ が考え 知るとは

り 立つ。 そ

Ⅰの ゴ ⅠⅡトロー

来のブイヒ

のである。

つ 0 ︶

。それがあらゆる知の根本である。その場合、 存在と目白とは知の

である。知はこれら㏄ なわち絶対知として︶成り立っことの底には、

すい 0 ︶ 仁 Ⅰの 舶出の ゴロ ロ Ⅱ |

(41)

存在 と 自 由

の 生き生きとした 自 ︵㎎︶

るとは明瞭には云っ

るにこの絶対性は 、

。それが絶対者 とぃ

未だこの知識学叙述

な ﹁ 眼 ﹂が﹁超越論的観念論の性 言 ⋮。 ,申 各 ︵ ﹂である。 、 1 ︶ フィヒテは云う。﹁ か

この眼が自己の外に

:﹂

、る ︵ 1 2 ︶と。

色射的である﹂。1 3 % ︵ 3 l ︶

臣 乞田がすの 0 日ダミ 曲の

自らの 内へ 反射して

省 によってのみ実現

ると共に 、 知の本質

が かの二せ超えて、

かくして反省とは、

を 実現することであ

、照明してゆくとい 41 (41)

(42)

。しかし一般に知が ︵ 為 ︶

能 なのである﹂。ここ

尖端に震動し、崩落 ︵ 践 ︶

は 必然的に自由︵ 拘

たび知が在るならば、

発現であり、それゆ ︵㎡ れ ︶

無 との連関において ︵ 初 ︶

の 空性Ⅰのの芽ユ︵﹂ 、

約二元論はこの矛盾の突破を試みるのである。 今や絶対自由の思想がその底面まで貫かれる。

しない限り、知は

ならば私に対して 無 ︵ 腱

絶対性を廃棄する﹂

矛盾ではないのか。

己 自身でありなが

講学の中心課題はこ

と の い 自 Ⅰ ぅ 己、 火ロ 7 ョ 、 の 還、 臼 、 行、

る汀

o 目

そ年

つ - り 。

如 き 0 目

自己自身を超えて、知の自己否定を軸にす 、、 、、

に る つ も い の に で は あ 絶 る 文才 こ 者 42

(43)

のま乙のの コ のという

と りレ 9 ぬ ︶でなく、 作

は ﹁作用への静止的 能 ︵ 乙 ︶ ︵ 醍り ︶

る 。それは

下ニの

える。かかる能力は へ、

むしろそれは レ乙

な 事実にまで高めら

ることと、自己以前 から発することとは一つなのである。

三の卸の︵︶一︶ ユ ︵であり、

る 。すでに現に在る知は 、 存

や佃 くなるのだから 4

一体何故であるか。 ォてコ Ⅱ円月、

よヰ

は 何であるか。

むしろ在るの 刀 Ⅰ。 そ むところのこの

(44)

︵ 鞄 ︶

もよいとフィヒテは ︵㌍︶

下 す甘曲 ロ収∼㎎左のざ白目Ⅰ の の 臼 お目のざで ュ やる。これは A と示される。

﹁一なる、自己自身

ヒテ に従って、その過程を追跡しよう。

知への関係からが ︵ 皿 ︶

性 である。しかも 純

超越的な自己把握 ︵ 0 ︶ て 絶対的存在へ ,イ テ くのである﹂。 む庁う 0 ︶ 仁 時の兜コロコロ め庁い 0 ︶ 仁こ のの ご ︶ ユ のの の山二の︶ ︵四︶

極 的な非存在を通過し

、 知の存在と非存在

間 ︵ ぃ毛巳のア のコ % おア侍

そこへゆくところの

るのである。それゆ㏄

考えられ ぅる 。 つ ま

もしくは消滅 点 へ向

知はそこからのみ

こへ回って消えゆく

(45)

存在と 自 由

なくてはならぬ。

身の内からのみ見ら

場合は絶対知ではな

目 的になっていな

に 対しては未だ成立

Ⅰしてい

とハりい ので十かり

60

45 (45)

(46)

ところ 鮫コカ の 臣 極 とその る 。﹁ 如 し 限界その 知は今 毛俺 のの コ の し 、かくて自己白身

や 知は生き生きと そ

って、自己の絶対的

ロ田 。,もしくは

いてである。すなわ ︵㏄︶

が ︵︵Ⅱ 卜 ︶・︶。

入り来らねばならな ︵ 的 ︶

目的に︵Ⅱ 弓 ︶ 、そ かくして知の課題はっ ぎ の テ れがあるところのもの︵毛が 巴 |ゼ の中に示され であると同時に 、 る 。すなわち 端的にあるが ﹁絶対知︵ レ干 し ゆえに︵毛の二︶ ︶は対自的に︵ B ︵㏄︶ 在るのである﹂。 の 内で︶、端的にそ 図式で示せば㏄Ⅱ (46) 46

(47)

存在と 自 由

の形而上学に出会う のである。 註

シェリング宛書簡に

との論争につい

語 大学法経学会刊 コ 評林 L3 ︶参照。

体系上の類似を指摘

っていたとはい

や 下目ョ ︵ 3 ︶︵ 4 ︶㏄・レコⅡ・Ⅰ・いの ︵ 5 ︶の・ セく ・ 目 ・ トの ︵ 6 ︶の・七ぺ・Ⅰ ,トづ ︵ Ⅰ︶︵ 4 00 ︶の・ ミ ・ ド ・ P の ︵ 9 ︶ か り・ ンコ Ⅱ・ ツ ・の㏄ ︵ 皿 ︶の・ 毛 ・ ロ、 ︶ の ︵Ⅱ︶︵は︶の・ゼペ・Ⅰ ,のべ ︵は︶の・ イく ・Ⅰ・ oN ︵ M ︶の・ ミ ・Ⅰ・ No

ィヒテ の立場 勿が

態度である。しかし

てゆく。それは光源

射 的だからである。 47 (47)

(48)

︵㎎︶の・ ヨ ﹁・Ⅰ・ NA ︵ 邨穏 ︶の・ ミ ・ 目 ・の 肚 ︵ れ ︶の・ セく ・Ⅰ。︶ 肚 ∼ ︵ 盤 ︶の・ 宅く ・ 目 ・のの ︵㏄︶の・ 之く ・Ⅰ・のめ

ミ ・

チ毘

︵ 乃 ︶の・ ヒく ・Ⅰ・ ひの, ︶ Po ︵ 祁 ︶の・ キ ・ ロ, m の・のの ︵ 符 ︶一一の 註 ︵Ⅱ︶参照 ︵ 柊 ︶の・ 韻 ・Ⅰ , 0 の ︵㏄︶の・ ミ ・ ツ, 0 ︶ ︵㏄︶の・ ゼへ ・ 目 ・のの ︵何 % ︶の・ ミ ・ 目 ・の の ︵㏄︶の・ ミ ・Ⅰ・の ト

の 0 ゴ ・ q げけ ︵のの オ の 由

のの 3% コ ︵ 旧ざ坤 三コ 的 Ⅱ げ下措の 。 紳 ㏄か下コヨ ︵ 縫 ︶︵㏄︶︵㏄︶︵ W ︶︵㏄︶の・メイ・Ⅰ・のの ︵㏄︶︵㏄︶︵Ⅱ︶の・ ま ﹁・ 目 ,のの ︵ 蝸 ︶の・ ま ﹁・ 目 ・ 0 べ ︵㎎︶の・ ミく ・Ⅰ, NA ︵ M ︶の・もく , Ⅰ , N ∼ ︵㎎︶の・ ミ , 目 ・のめ (48) 48

(49)

R. オット一と現象学的問題 て l い る い る ず Ⅰ 2) は

@

も 従 初 る 多 れ の

の方向を見定めておきたい。 オットーの所説を現象学的問題系列 ばしば客観について舌口 及 しながらも ︵Ⅰ l ︶ つまり存在論的 支 えがない。 がたてられていないというこのこ 6 ナケし えず、従ってⅠ コ ︵のコ円Ⅰ 0 コ % ト占め 蒔 そは 正当な判断である。ただ、これ ないし 目 Ⅱ∼ののに近寄せ、専ら予感 ︵ コリ ︶ いであろう。 勿払班 その間にオット | のなか 、結局 とから、 が問題 らの 把 ︵ 下ゴコ 。 自身の

の 主な

連 がは

内在 ︵ り 4 ︶ となってこない。

ツト

になっ

問題

堀越

(50)

ら 、カント派 か 現象 いかにして主観の う

柵 である。

時 ト串・ づ ・ 由 uq コ unF

満足とが走った﹂と述べるほどの衝撃を与え、︵ 8 ︶ 同時代の広範な共感

たが、また一方で 現象学派からの不満

|は 全く孤立してい

るってオットーを 理

具体へ﹂という宗教

た 記述の範囲内で、

教の真理の側面、

よ ナ -

の 0 ゴ 出目を味方に ︵ 6 ︶

、オットーにおいて 主観と客観の関係﹂ ︵ くり ︶

を 使 う わけでもない (50)

ののの コ であることも

(51)

R. オ 容 取 ナ 乞 り

受 け さ

と そ

れで

論ず る 終 こ ろ と で

『 口 ロ , つ

題を

才 フ亡 ツ fb ト す l ろ は

つ こ ま の @ コ 士 不 ヌ

教 ノ 験 l が ゼ 徹

借 屋 ば あ 「 る そ 客 れ 観

@ こ 身 よ 疑 っ り卜 @ ケ に な 規

さく、

定 まず

第 対 一 家、 に か フら そ 内 51 ト一と現象。 学酎

観においてあらわに

興奮や情緒のうちに ︵ Ⅱ︶ @

ものの非合理のみが

り 年男甲田堺の体験で に 観 ど 従

し の う っ そ く 知 た 相 し て れ さ の ら れ よ

0 6 う い と 関 観 更 も tc 3 玉 わ に に の ㍉ 間 観 れ 関 背 で 百ロ 二 % 三 題 と な 係 後 は な 一 方 の い し に な る 一 旬 間 と た あ い も が め り 主 る と の 立 木 ぅ 観 て 質 主 」 咳

うの

珪 ら 的 客 と つ こ さ 甘 @ し の オ ま と し て 必 厳 ッ り の あ い 然 格 ト 生 種 た る 的 な l 命 調 っ と 関 区 が と に て 体 あ の 験 っ 主

と た 張 か め と と か 。 は

か二

る契っ

いき

ら 弓 打。 な 数 台 危 機 て そ る は 理 度 で 第 こ 最 教 主 か あ 二 に も 義 義 ら る に は 内 , に の が 、 二 な 教 た 百 Ⅱ 甘 " 杓 っ る 説 い ゴ小 そ 自 の 基 や す を 0 株 局

意 場 に 面 で 徳 反 回 合 は が あ ・ 対 し こ 触 働 る 律 lc て め れ ぃ 。 法 あ い 事 え て る 態 ぬ い や儀この

り、

宗 和 宗

わけ

を生

理、

る。

教 ・ 教 で ぬ

軒の

即 体 制 は あ の 構 ち 酸 度 客 る 問 成 算 は そ 観 。 題 で 一 価 の 化 と は に ィ 直 も に し な の の よ て く 客 体 で っ 明 て 親 験 は て ら " fC で な 汲 か 主 は ︵ 托 ︶

こう﹂と表現する。 にかかわってくるめ に 非合理の要素を区

(52)

非合理あるいは超合 しない。むしろ彼の の 関係の場を明らか 理 との関係を分析す 名 づける方向を問題内容として意識しつっも 、 それを明白にしえな 一見逆の方向をとり、カント的な図式化︵のの︶︶ の 三 % ︵ pN ︶のⅠ 仁コ帥 ︶を 用 あることが察せられ るであろう。 合法則的関係に立 で カントのこの術語 の 内容からして止む れが生じてきてい 役を果している。 はこれを 仁コ特 リコ・ にある或る実在の客 はない。オットーが の 内在主義において (52) 52

(53)

スに 寄せて解釈すれ

じ く す るだけで根木 ︵ 舛 ︶

する﹂立場であると

批判主義の含む問題が 、

でである。 ︵ 咲 M ︶ @ ゐ ヵ

目標になるのは当然であ

学的意味での根拠であ まった。このののの乙ヲ

カント的意味における 53 (53)

のコ

︶曲は批判主義の根

もその際、この必然

題の関係点は或る ギ

、非合理な ヌ ミノ | ︵ 初 ︶

あり、﹁現存在の感

内意味を厳しく制限

の カテゴリーと感性 の 綜合する第三者た

或る実在的なもの﹂︵ 9 1 ︶

(54)

9 、 覚 的 ろ う が

リオ

的て、のみ

係 より 関係 特殊 力 ら

, 、

態で

叫い

う、

る感綜

の さ 4 ラ ン 観 理 訳 出 い っ ね 、 車 力 題 て れ 感 で テ 領 、 わ 覚 あ ゴ 域

い れ 似 る り が

ゆ そ の こ 概 が る れ ・ の 念 っ

" を反 感覚 輩 か に年

の 能 え ッ の か

のの

仁 困

内 な た ト と か 容 誤 所 @ 局 の 離 恨 ま な い こ 発 に り 与 は じ 視

は だ の

ュと ,母人 支 @c あ lc こ 従 ッ 判 明 見 と 見 そ 味 か

し よ

甘 t Ⅴ Ⅱ よ @ Ⅰ t の説 な研

る 「 無 と と り な れ 。 「

わ 視 理 非 才 が る

な窮

」とも」

れが ) 3 ( 0 関係 的な |

ま、

ント の 知 依 に も ま 的 極 苅 る 然 あ の さ ァ の る 立 の と る の し プ 心、

を は し と 必 く り 理、 (54) 54

(55)

オットーをこのよ

とは予感であり自己

主観にではなく、 客

であって、主観はこ

質的アプリオリを 唱

ち 本質直観において ︵ 好笘 ︶

るから、かかる直観

1 0 図式化が、もし

ら 、またもしフナー

。しかしオットーは カテ

ゴ のし﹂と明白に規定し 、 ︵ 辞 ︶

お Ⅱ リて のの プ 二のⅠは 、 Ⅱ リ

い 。そして﹁提示さる べ

の 皮を剥いでやるという

なった現象を精神の 55 (55)

確保した直接的認識 疑問 点は 、まったく甲ヱ仁ののの ユ の見解を受け 継いだものである。︵ 3 2 ︶ るといえる。そして

(56)

如上 ツト| 異性は に由来 批評の する感 から﹂ まさし

圭 - 旧

連 一

し ・Ⅰ

の バ ・

姦ョ

によって、 させて頻りに説いて に負うているわけで り、 従って質的に異 だろう。オットーは 帥 ㏄ コの ︵︵のであるとい︵ 2 4 ︶ るのであり、その 意 指示にあるといって 以下のように捉えられている。即ち﹁ オ い るが、しかし宗教的根木感情の質的特 はなく、却って超世界的なるものの存在 った 印象を呼びおこ

のこの︵

丸 1 。﹂

爵ヨ

聖を宗教以前の事実から導きだ そ -0 と 、ぅ のであるから、宗教経験のいわば﹁ 下 図するところは、宗教体験がその内容を よい。つまりオットーの主張は卜 守ヨ さて以上 一瞥してき 問題方向が 浮き彫りに 目ののお コ は

介して、 相反する

式 化﹂が

ように、 乖離として性格づけて ぃ,ぢ ︵ 0 ︶ 四

、ただただ﹁事実﹂

であっても、かかる

ていると評価するのである。︵ 3 9 ︶

(57)

同時に働いていた 方向があることを ︵ 4 ︶ なるもの﹂と述べ 鞭のものであって、 ⅡⅡⅠ 判教現象学の上に根 一 ㌍ % 台には、宗教の

オな

証明を必要とし て 客観的実在とし 。そして 司 聖なる 次第に強く示して る。この表現によ 主 目の宗教的作用 を据えている。 っ である。宗教の真 根本的体験の分冊 ないという形をと ての聖の体験 は、 そ つ 呈 埋 ま で つ い も 証 すべく、如上とはまた別途の 観は ﹁聖書にとってのみ問題と りも先す主観が志向ずる対象 そ 仝 c にあるのではなく、自己の宗 ちに、オットーは既に決定的な 下 におかれるだけである。この を P 卜してⅡ リて、が ﹁ pQ の︵Ⅱの二四 % プ甲 は 図式化を必要としない。そし いうこと、これは現象学一般の 57 (57)

かという問題契機が

保するために用い

ではカテゴリーに よ

他 のものから 導 びか

いう形をとった。 し

ョの

一致点としての

表現の真意を、直接 の 認識に目三日 ぎ巴ざ

(58)

的ないし宗教心理学

︵われわれの︶ 諸価

そのものの反射以外

うにして被造物の自

は 、この世とあの世

感じない。⋮⋮ が し

て " 現象する " 。 そ

の中の一点において

コス は、永遠に神 か

ものは世界の原理と

し 、われわれ

ら 世界のうちにいわ

ット ーの発言は、神学へのすりかえであって 、 これはもはや宗教学

のアンティノ

、、、|

﹂︵

5

4

自由と必然 ヒ からの 的 g 、 オ

考ツ

過ト

下里 を は 用 こ い の る よ 力 ) , つ も ァよ 知 別 れ 途 な の い コ許 一

児 子 6 %L 若 し に な ょ が ,り て も

ま、|

正 明確 こ @C の は 矛 意 盾 識 @C し 苛 て 異 お

抱 晩 く 年 で の あ 著 ろ 作

し い か て し も こ 依 の 然 矛 と 盾 し は て - - - u ム 冊 批 連 判 (58) 基底であろう。

(59)

ころの﹁関係の感情

5

自己感情ではなくして、︶ (59 自体ではないし、もち ろ と 現象学的問題

場 をとる限り、依然 ﹁ ヌ ミノー ゼ の感情

、それ以外の方法で 心ヱ ノ几 レヰへヰ バ ン が ﹂と ︵ 0 5 ︶ 質

求めてみたい。 座 がそこに据える の 本質連関に働く直接的﹁ 視 ﹂に 、 一つの特殊な理解の場が開けてき 五

、かくして理性と

とは、人間にとって も 、その背後では 主 である。ただわれわ

ていたということで あり、それ以上ではない。

(60)

づける当のものである。︵

6 0

かなるものかを、 オ

︵ 0 眩申田 ︶という二二口

て 固定されている。

る ニ ⅠⅠ ノ三 Ⅰ レ リマ:・・ ll この要素が

客観とは関係しない

からである。苦しみ

その点において

、由ョ 0 ︵ ざ局 そのもの

いるということであ

の 意味を失ってしま

客観の理解であり、

い す尺まるではなくて、

の 内容は、一切の自

てくる﹂︵ 6 5 ︶ のである。

性の根拠として前提

であり、第四には感 ︵ 榔 ︶ ︵㏄︶

れるものと性格を同 (60) 60

(61)

的 過程を詳しく検証する

つまり

攻めハミりの

右の事情による。即ち

(61) と 現象学的問題

・間 ヰ八 し 個 接 か

知 解 ォ 覚 る に 王 ト お 張 l い す の て る 所 表 の 説 ゑ、 み に す で 対 る る し 限 っ て

りで

ナミ ⑧ 届

性力

またま、

こ 力 lL 、 の ン ,清 客 ト か 観 的 L へ な と の 綜 い 直 合 う 接 す 設 小生 る 日当 己 を 第 を す

三老。

手に

す を 誤 る 入 り こ れ を と る お は 方 か で 法 し き は 、 ナ

不功加速

・Ⅰ,

よ、

、内

。 感 的 批 の 客

主 接 に 義 性 関 の に し

を 規定して

規定されて

る 。

的確実性

えば z の 仁

のような 直 いるので ︵ 2 ︶ いる。 そ をもって のの ア op い の | 接的視を

律は神津に埋没する

よく理解とか次第に明瞭にといっているのは、 間接的理解から直接

教 的作用は、図式

さしくこの直接的 視

よりふかく現象の核

拠 が実は主観自身の

参照

Outline

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