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『宗教研究』229号(50巻2輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

シェリング『自由論』における悪の積極的なる意味, 細谷昌志, Die positive Bedeutung des Bösen in

Schellings Abhandlung über das Wesen der menschilchen Freiheit, Masashi HOSOYA, pp.1-19.

2,

南北両アビダルマの修行道論:『倶舎論』と『清浄道論』について, 田中教照, On the Dirrences in the

Practices between Sarv

āstivāda and Theravāda, Kyōshō TANAKA, pp.21-42.

3,

グノーシス主義における physei sòizesthai の問題:エイレナイオス『異端反駁』第1巻1-8章を中心

として, 小林稔, On φὑσει σᾡζεσζαι in Gnosticism, Minoru KOBAYASHI, pp.43-65.

4,

韓国陜川地方における祖先祭祀儀礼の一分析:「祖霊の類型」モデル構築に向けて, 江嶋修作, An

Analysis of Behavior Pattern in Funeral System in Habcheon Counties, Korea, Sh

ūsaku EJIMA, pp.67-90.

展望

5,

第7回国際教父学会議に出席して:第1部会「グノーシス主義」を中心に, 荒井献, Sasagu ARAI,

pp.91-99.

書評と紹介

6,

池田昭著『ウエーバー宗教社会学の世界』, 宇野光雄, Mitsuo UNO, pp.100-102.

7, E.Castelli(ed.), Le Sacré: Études et Recherches,

田丸徳善, Noriyoshi TAMARU, pp.102-105.

(2)

シェリソグ 丁 自由論 コ Ⅴ = % げ ろ 悪の積極的な 意味

も 困難な問題があとに残されることとなる。 一 切を神からの帰結 と る シェリングの思弁にある。 ︵ 2 ︶

論の体系﹂である︵

序 し 的

り と こ

ち は い 来 謁 暗 9 は な 。 す せ く 田 悪 ら こ ろ ね 根 ぎ

理 八 ぅ あ ら な 頭 を 体 な ろ ず も 9

導系全う

V

てか 悪か

0

目 ))

T

せ か は 。 の ら を ん ら 古 た ぅ の 形 と す く ん ち 神 祠 す れ 二 に に 来 上

リング

﹁自由論﹂

積極的

にお

ける

る意

租容月

日日

士心

(3)

︵ 6 ︶

全体を形成する ヒ ﹁実在論と観念論との交互 透入 ﹂ すキ の 5% ︶をシェリングは要請す

性は否認されざるをえないのである。スピ

ぎた 貧きめ臣俺 ︶ 神 ︵および自然︶が確認され ︵ 5 ︶ ﹁暖かき愛の息吹きによって魂をいれられる﹂ ノザ 主義の欠陥は生成 るべきである。かの 硬 べきであるよ う に 、

艇め

、一切を生気な

それが万物である へ| ゲルであった 帰結せしめない。 い 。むしろシェリ ー生命的な相貌が

ネ甲

が 誤りなのではなく、

、 彼

独自の体系をめ︵

上 、しかも体系の う ︵ 90 ︶

もののほうが改変されねばならない。

、むしろその﹁ 一 に 悪の実在性を根基︶

造物の不完全性とし

(4)

、 ンェリソグ

して意欲においての︶ ︵ 8 ︶

妥当する。﹂まさしく

リングがそのように 匠 自由論 コ における悪の 積極的なる意味

て 、フィ ヒ

う ちに用意 さ

るかぎりの 存

、自然は実存

は ﹁神のうち

えていたもの

のものである

物は総じて

には、物は神

の 矛盾はただ

でないところ ︵ 7 ︶

午 有するということによってである。﹂ここで シェリンク

論 的な。ハル メ

ている。運動

真に実在的で

(5)

は な

) 王

9 4 3 2 ま 白

た 然 の た の

蝶目。

るとに

忠鉢書伝が一目

す 対 く 。 極

才 Ⅰ ァこ 概

お存る悪

前年木

て お 神 い 学 て の 特 墓 石

礎 の づ 役 げ 割 で, を も ・ 化こ あ 」 な

現況はは

る っ て

現 出 す

ノ Ⅰ 田 は な し

Ⅱ こ

',. @ よ ネ甲 的期 も

た の 円本 l 申 積積 と @

そ い汗 目

に者理

把全

が 極極 な

ら へ へ な 移の り 移 格

, 一 行行 ,一 上 は

本洞在

つ め 決 書票 理 た接 定 ので 由 か の さ 主 あ に をを れ 題 り お 老な ( 干 で, 、 い 察 し 宙 る 。 あ そて すて る し ど る い と て の

際る

自 さ 、 よ 由 ノン れ 悪 う そ し き合 ︵ 9 ︶

する。神と神のうち

い う 積極的で実在的

個物性︵有限的個物

いする へ| ゲル 9 批

とを可能にする地平の

ことで彼が志向した

(6)

ジェリング『自由論 コ における

付 する 暗 ︵て土︶

持せんと

い 根底は

悟性のな ︵ 2 ︶ しめられず永遠に根底に残るものである。﹂ すべての出産は闇から光への

で 悟性は生れた。

あるから する 黒なしには 力 ︵ 我 ﹁万物にお かに解消せ

出産であ

この根源 腐の積極的 シェリングによれ。は の憧慣 ︵のの プ 日月江︶﹂

感 する意志であり、したがって﹁深い夜の意 味 二万物の創造と精神の誕生 意僻 な

ここに開ける

開くこととな

されるに至る。

上、へ| ゲル

ポ 合理性に置

存する。それ

ゲルが、特殊

| ゲ ルノ の土日 噂 5@ (117)

(7)

は 自己のうちにかかる根底を 永遠の暗い根底に先行し 、光 ︵ 8 ︶ えないであろう﹂ごとくに。

神に先行する。ちょうど﹁重力が光の

すらも夜をとじこめている封印をとき するよさに、﹁神が現勢的に実存しなか

自然をエレメント と

、 神のうちなる自然

精神の誕生たる第二

作用﹂︵ 音 Ⅰ づ 0 ︵の ロ ・

永遠なる一者として ︵ く Ⅰ︶

であるが。︶

①根底あるい

神の最初の発動が存 ︵ 几 Ⅰ︶

ということである。

にすぎない。しか ︵ 7 ︶

らない。﹂たしかに 神

う ちに閉じこもらん 的 み に る

目よ

取 初 ぅ

のに

己 神 客 が 観 よ イヒ っ で、 て あ ち る っ て ネ中 宮 の 己 う、 自 ち、 身 に、 を う 一一 み っ だ の さ 写 れ 像 た に 神 お 白 い

たる

ノ てみると

としてまた、

の 自 ヰ中 已 め の 自 う 己 ち 内 な 表 る 象

て 端 (118) ︵ 4 ︶

己の姿を鏡に写して

(8)

、 ンェ リソグニ 自由論 団 にお け 悪の積極的な 意味

ぃ 原理の全力が存す な も く の し で、 て あ 十 よ り

の 神 実 の 存 勢

位高

は現 勢 揚 せ の ず 作

し の た 真 が 諦 っ に て ほ 歴 か 史 な 約 9 世 な 弄

い 無 人 と 間 化 に す ぉ

人 人 間 間 (1 Ⅰ「 9)

かに闇がふたたび 根

全過程の中核をなす

︵ 光

︶としての神を

下ざ じでもある。 こ

い う 特異な神 観 ︵ そ

神 ﹂︵ 臼コ 日の臣の。 巨ずず

呈することとなるが、

歴史的世界が展開す るのである。

写像にすぎない。

ちぇ んがためにほか

光 ︶に起因する。 し

あって神にあらざる

造物であること︶に

って 闇と 光の両原理

(9)

との非を説く。﹁ 人

ら 、人間はただ獣の ) こ 応 る な 念 悪

の 可

能 性

明ら

漸 は グ暗

にい光

ち にお 8 の 沈

かと実かい

と ) ぅ

失で っ在ら

て 現 実 ] 生

㏄極っ

流対調あ

物 的最

出者せ

っの

)も

物 よ の て 、 た

㏄いた純生そは

だる対成

こ、

白 己

光る出の悟

客 がも 説

実性観

( 1 1 そ

のもな

ろで在な化

性き ) )

光ろい

も もは

12 て

十悪る

と な

もののい

ねい 相 に自 るに 即 お覚

くしの

で、

関 あ そ 係 の し ぅて ち観 (120) 8

る ク つ ぴコ 注 ぅ 天

た と ま 胚 が さ 芽 、 に で っ お

なじ

ある(

2@

まり

の 。

た 、

火光

の 意 力

可志が

能は存

性 、 す

(な

とお

る。

塊 根 彼

実性 底に ) と ち の ど に

すまは

べる

最 て に 深 が す の

深淵

畳み ぎな

め る と

(10)

シ,リソグニ 自由論 コ における悪の 積極的なる意味

つ して悪ではない。 ︵ 2 ︶

悪 とは善の積極的

スキーの世界のごと 性 に根ざす 悪 と同じ

動的なあるものに 帰

﹂というライプ ニ "

シェリングは確認す のの打目 円笘 ︶ げつし

。それは、時間系列

、 悪の形態化の仕方 極 的な意味であり、

が 、シェリングは そ ︵ 4 ︶ と 呼ばれる。﹂

思想である。堕落

の 現勢でなければな

間 実存の自由および

性の普遍的根拠を求

あり、後者は端的に 9 ( Ⅰ 2 Ⅰ )

(11)

成するものである。

惟を可能ならしめる思想的源泉をなしている。 したがって以下われ

惟の内的構造を究明する。

く かつ普遍的に根

れわれ自身の行であ

に 先立ちしたがって

根底を貫く自由と 必

とらえ、性癖はかか

して時間的にではなく論理的に︵超越論的に︶ 先行するものとなす

的につまり神の万物

つげる、それに ょっ

対する形而上学的解

は カントの根元悪の

シェリング特有の存

て 言葉があらわれでるのが第一の創造である。 光の誕生である 元

あり、かくしてはじ ( Ⅰ 22) 10

(12)

シヱリ ソグ 正 自由論 コ における悪の 積極的なる意味

︶にももう一つの 別

自然根底の激発によ

て ・愛の精神︵ 神 ︶

止 させる。神に よ る

であることの所以が

根底の反作用によっ

癖 はすでにそこで 形

人間にすでに出生に ︵ 8 ︶ おいて分与されている﹂からである。 ︵ 9 ︶

摘出する。人間は

市原理︵光と 闇 ︶ の

ては裂くべからざる

際して、あたかも ︵ⅠⅡ︶

、 暗い自然からの 牽

もかかわらず、おの

ば 、善、悪は叡智的

とに存するが、かく

んとする。 シヱ リン 11 (123)

(13)

上述のごとく、悪の可能性の探究は根元 可能性はいまだ現実性を含まない。いかに 明瞭であり特別な研究を要する。可能性と 眼目であることは、すでに ヵント の説くと 的に可能であるかぎり、それは、幾何学の 角 的に道徳的 | 実践的なるものが対立する 恵規定の問題であって・それの可能性を形 とって、体系のうちに悪の実在性を思惟 す とを鑑みる時、︵悪の︶現実性はけっして 現実性ということでその可能性とは異なる 悪 とは、前述のごとく、原理を積極的に しには悪はけっして現実に遂行されえない しめること﹂︵守のぎ・の い の プ ・ ず P 臣監す ・ 甲お目 存在者にお して個々の 現実性の組 ころである 作図題のご 後者にお 市 上学的に ることは、 カント的な 何ものを 思 逆転せしめ ものである & のの的 且ヰの臣 げる 両 原理︵閣と 光 ︶の可分裂性の解明に存 人間のうちに 悪 あるいは善への決定がなされ 結の関係が意志の因果関係として理論と実践 ヵント に ょ れば、可能であると考えられる とく、技術的 | 実践的なものとして理論哲学 い てのみ自由を旨とする実践哲学が成立する 探究することは不毛な努力なのである。しか とどのつまり、悪の可能性の形而上学的探索 - 意味での実践の問題とはなりえない。では シ @ しうるのであろうか。 る 自己の心胸の最内奥の意志に発するもので 。悪の現実性は﹁善いあるいは悪い原理を自 ︵Ⅰ 蝸 ︶ oH 口のⅡ す ㏄のの 口下ぎぃぢ の︶という叡智的行の 次 していた。しかし るかは、いまだ不 とを分つところの 一切のものが実践 に属し、それと 鋭 。それは端的に意 るにシェリングに にほかならないこ ェリソグ は 、 悪の あり、自己の行 な 己のうちに行為せ 元で問題とされね と 問 の グ 暗い カ への思弁的関心 神のもっそれに置きかえ のごとき 欝勃 たる始源 力

,,

えに は力 ならなし ︵ 、 2 1 0 ︶ 的 ら に な れ 支 暗 る え い 。 ら 根 悪 れ 底 の て の 積 い 力 極 る 動 的 の な そ

れに

ち 5 る意 に 床 ょ 看 は っ 取 、 て さ も れ は ヵ る や ン こ 人 ト (1%) 12

(14)

・ ンェ リ ソグ 匠 自由論コにおける な 的 極 積 悪 意味 ない。重力にも似た は 、端的に神からわ ︵㎎︶

目ゆ こ ﹂である。シェ

何ものかになすと 自 身の行である。 意 認識であることに 先 グは 考える。それは、 質は本質的に彼自身 我 哲学を論及し 、そ

あり時間の外に位 す

も曲げることもいず

性 にゆだねられるこ

ント の義務を意味し

とにほかならない。

彼は分岐点にた ︵一め︶

は 許されない。﹂ 人 自由概念をあたえる 。﹂実在的で生きた Ⅰ 3 (125)

(15)

白日的の ガ の ゴ Ⅱ ヰ 0 Q0 ⅠⅠ︶

らわかたれた一つの深淵を覗きみるのである。 フィヒテの最大の功

かる深淵にまで達する自我性の洞察にあると、 シェリングは評価す ︵⑳︶

目的に根基する。 シ

をもっ六根元悪 V か

グ によって人間実存の深淵と化す。

、そこに神からわ

におⅠ 叶て、 ︵ 先 ハリ 亜但

われわれに 露 わに た

る 。しかし、逆に 、

こともなく、したが

存在者における閣と

学的につまり存在者

が 、実在的で生きた

系 のうちで悪の可能

帰結である。 (126)@ 14

(16)

ヱリソグニ 自由論 コ Ⅴ こ % げ る 悪の積極的なる 意味 注 ︵ 2 ︶目の心 O@t ㏄㏄ 0 ︵ 3 ︶ 匡 ㏄のの ︵ 1 ︶旨の日の ︵ 5 ︶目の㏄㏄ ︵ 4 ︶Ⅰ コ ㏄㏄㏄

の田 ︵ 8 ︶ ノ 串の㏄ ト ︵ 9 ︶ プ 申の㏄ ト ︵ 7 ︶ ピ 目のⅡⅡ ︵Ⅱ︶目のの ト ︵㎎︶匡の oA

コールへの傾きな

︶と厳に区別

のとして、 そ

の 謂であり、

う ちへの採用

動機の道徳 秩

心情の腐敗が

、傾向性が違

来 的に真の敵

た い 自己欺 蜻

したがって 、

の e の レ ココ E 品︶ を

て 貫かれてい

って誰にでも

本質的であり⑫ 必要である。﹂︵ ぃ匡 ・の・のめ︶

㎎︶目ののの,

(17)

らざるものであり﹁彼にたんに貸与

ないからである。一切の光明も歓喜

はそのような人間実存の深淵のうちに ︵ 3 ︶ る 悲哀﹂をみてとる。 ︵ 2 ︶ され、彼から独立なるもの﹂で 6 階 ぃ 苦悩の坤吟の変貌にすぎ ﹁あらゆる有限な生命に附着す

約 はかの創造の元 初

の 全き明るさのもと 神のうちなる自然と

力は ﹁自我存在にま

に 努力するかぎり、

て抗

) 亜 (Ⅳ) ) 2 ( O

たぎ た な シ目

自そ ン

での 哲

(行学

㏄) ヰ " し で い

" 「

フィヒテしかも、

そは

箆そ

の神)れ目 ヴ の し 制 で身 っ た 約 は の な行

とが

つ っ ( 抵 くに

(128) 16

(18)

シ,リソグ 『自由論 コ における悪の 積極的なる意味 ﹁ 神 自身のうちにも一つの悲哀の源泉がある。﹂︵ 4 ︶

いのであるから。

リー︵ プ自 0% ㌧ 0 ア。Ⅰ ぴ ︶ ︵ 5 ︶

はたんに存在ではな

悩 と生成のもとにあ

苦悩と生成に自発的

﹂シェリ ソグ にとっ

純粋な尊敬の念にも

ものと、それから 独

一つとなった全き 結 ︵ 8 り

げられる。﹂フィヒテ

が 故に、必然的に﹁一つの非人格的な存在者﹂ ︵四目二ロ ロ のⅡの 0 田 8 プ のの 目 ののの 口 ︶にすぎないと、シェリングはいう。

あるというような

ち 自由に行為する、

ものが神から離れて

を苧 むことにおいて

絶えず自らを高めて

れにともな う 悪を 、 17 ( Ⅰ 129)

(19)

人間︶が個物である 時 、神が神となるのである。

︶なる概念にいた

ぬりつぶしてしまう

あられされる。そし

であると、シェリン

に 存在しないで、 他 ︵ 9 ︶

の 弁神論は完成する。

全 き 宗教性へと変貌せしめられる。

何か、この問いに

性 をその極限まで 思

よ う に考えるのが 至

面上半11神の 、愛

立 せるものを包み、

0 スピノザの精神と

じを論理的に考えぬ

であった事は驚くべ

るか、あるいはそれ ( Ⅰ 30) 18

(20)

、 ンェ リング 庄 自由論 コ における悪の 積極的なる意味 注

4 ︶目ののの

8 ︶ 巨 のの い ︵ 9 ︶ 自 Ao

㏄︵

m ︶目の A ㏄ ︵㎜︶

眼差しには、すべて

0 発現がある。 19@ (131)

(21)

を 修する。 身 ・ 受 ・ 21

げる。これを身につけ、︶

一 ﹁倶舎論﹂の修行道 修行

いと思 う 。 通論

浄 者 を み か 派

仏教

道論 は本 重 ね が認 で行 』 論 た め , 時

とににらぅ代

を お ち れ と の ゴヒ 取 ぃ が る し 仏 り て い 。 て 教 上 、 な 称 い 徒 げ 凡

い 尊 た は

の の

倶 「 そ 五 そ 生 で 仏 こ 世 し 涯 あ 道 に 絶 て と ろ を 杢目

笘珊

み に そ そ り か ヒ ノン ら 著 こ の か か れ わ か 教 ヰァ し と

る さ ら 説 仏 実 修 れ 彼 を 弟 践 待 た ら ど 子 す

道 、 白 の 達 べ 論 世 身 ょ が ぎ 輪目 スー サ 丁 を 親 の う 多 で に

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い 百冊 る 毘 ぎ し 派 考 て こ 達 道 ほ え と 磨 を 評 離 て に 倶 修 価 合 い ょ 合 符 す 集 た つ 論 道 べ 散 の て L 論 き せ で 田

の仏「倶

まと いて 得な 教 会 め 被 か 釈 徒 論 て ら っ 尊 が 釈

L

いはたの

幾昔遺

尊 称 た 度 貴 徳 な す と と に を ぽ、 な は ど ど ぅ )

とわく

し 昔 。 し の に 自 著 、 深 承

(22)

﹁倶舎論白はその 伝 次のように明示され

諦を十六行相によっ て 観察すると説かれている。

なすものとして 四 ︵ 2 ︶

り 、見道 位 に順ずる

かにして 超 入する

道 すじを踏む筈だか ︵ ll ︶ の 説く修行道のあらすじである。

の 決答 忍 ︵ 年 アキヨ 曲 古曲 口 pF ゅ wp ︵ ト ︶を生ずる。

れる。見道以上は い わかる﹁四諦十六 位は聖道の初位であ

る 。以上が﹁倶舎論﹂ ミ臣 白 る

が そ 生 ぅ じ

す 忍、 と 父 媛

しハ

、 行

善根

作意

に に

)次の世 隼 ずい 臣 Ⅰ (134)

・法を総括的に観

2

(23)

南ゴヒ両アビ ダルマの修行道論

四聖諦 法 、引 諸 有情、今出生死 得 大淫薬。 生死の苦から淫薬 の

㌔ここには、四集 ロ

ま 諦を分析し、疑 い

聖 諦を見て 、 自らの

情の疑惑を断じ 抜済

くべきなのである。

を 味読するならば、﹁倶舎論﹂の立場が一層明 瞭 になるだろう。

って、臨機応変 倶舎論 L の名品の 構 23 (135) 四聖諦 法 、従兵 令 入道 及 得道果、故格技 済 。 堅調法、引諸有 情 、従位第一法、入苦渋 智忍 。改名 抜済 。 ている。

情 、依北修道、見四聖諦、 断白 疑惑。

(24)

(136) 24 か は れ 済 表 、 ぞ す 以 と ね 修 れ る 上

で か 煩 を に ぅ

四一調

、す

る。

悩め 月 Ⅱ々 説か な四 べ 消 に れ 聖 と て 滅 弁 た 諸 沢 の に 別 法 の 滅 有 漏

法 て こ 聖 道 保 の 股 と 調 へ 択 階 に で の 滅 づ ょ あ 位 Ⅰ ま げ つ る 置 唯 よ て か づ ぅ 、 9 げ つ で, は な しマ

の か

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外 に 諦に それ そ 以ノ で、 は な 0 表 で、 サま ど あノ な の か

答 あ わ 束 縛

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よ 数 く そ は を ナ 。 Ⅰ - 言 れ そ 抜 と と ア か ( 成 い っ で す ビ せご 。 賢 は ぅ の あ 法、 る ダ 撫 せ 聖 男 ア

散 る の 作 ル 編 ん 品 品 " 弁 円 マ の と ) と ダ な そ 別 で 論 意 し ・ 根 か し れ に あ (書 を て 遺 品

義 井 階 煩 、 を 論 る 定 は で の 終 は す ま

払拭

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ロ 口ロ 、 き 弁 児 抜 る た い な 法 な 刑 さ 済 た @ うヲ Ⅱ の い の せ 怯 め そ 四 輪 分 か た る で の の 諦 と 別 ら め す あ も 資 に し す で に ぐ る の 料 め て な あ ( ァ れ 四 で と

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っと っ す 四 ル 法 と と か て れ 聖 マ は 考 い ら 組 は み の

立 木 弁 か 。 こ そ ダ て 論 肋ゴ Ⅱ ら む ま と れ 苦 て 諦 ノ伶ノ

え が る た ね

L

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( 5 ( 世 と 聞 有 。 法 れ 。 )間 @."" し @ く 清 か の る 官 従 品 帰 。 を く 弁 。 ) つ ) す な 輪 て 別 て る こ 集 で、

二戸 の 諦 あ な 大 の Ⅱ 論 " ( ろ 善 業 ノづノ

口 ロロ 口 Ⅰ 斡 体 が 随 と 四 眠

コ ロコ

諦 ) い を を ダ る 明 滅 か め と ら 諦

(25)

南ゴヒ両アビ ダルマの修行道論

ての煩悩の消滅を

不必要になるだ る ︵ 。 ふノ ︶ 0 ︵ 騰 ︶

をも見る﹂のである

見 吉所断の煩悩を断

うことが不要にな

につ Ⅱ リ千 Ⅰ舌口, えるハりネ Ⅰ

張 するのである。

沙論ヒ巻 七八にほ次のように説かれている。

。 無一 煩悩 総迷四 ︵Ⅱ︶ 諦 。 故於 四諦、下総 現観 。

時 、四諦の理に迷う

れば十分である、 と い う のである。

て 、その 調 理を明

ぅ ことができる。 こ れは、 ︵ W ル ︶

諦 25 (137)

(26)

三浬

架と

択滅

断滅であるとしな

いのではないかとの

口論﹂の修行道との 対 てみよう︵ 4 1 ぴ @ 危 めように、得らるべ き ものではないから。

る 方便によって 得

きないものは 存

ってしまうから。

ってしまう。 こ

道は滅に 向ぅ もので 諦を学 ・無学法とい 、これら三道はいず 基づく 択滅 のための 道 ということができるのである。 (1%) 26

(27)

南ゴヒ両アビ ダルマの修行道論

挺 し、それを究極の

ぃ 修行道といわれる のである、と答えている。

方 に問いを移して Ⅰ @0

存在を獲得させるからではないのか。

るが 浬磐が 得られているわけではないから。

なわち現存してい

が 生ずることは ないという過失に陥るから。

﹂とであれば過失はないのではないか。

しないことを淫楽

修行道は浬架を得さ

存在とか、煩悩の非

。そうで は げれば 修

聖道以前に 浬磐は実 27 (139)

(28)

が 崩れてしまう。 こ れは認められないというわげである。さらに、 M 。 n 貧等の u 滅尽が 浬盤 である。

浬磐 であるとする

ら 。また、有為

であるというこ とになる。

さしつかえないの ではないか。 が 克服されないか

@ う ノ いて滅尽 と 三二ⅠⅡ くなるのである。 n 滅尽以後ではない。 u

架 u に近似する ものとして滅尽といわれるのである。

は 、煩悩がすっかり

対しても不可と答え

阿羅漢果の人にも実現されていることであり、 浬 磐は未だ有為をは

浬 盤と矛盾する。 故 (140) 28

(29)

帝ゴ ヒ両アビ ダルマの修行道論

させる手がかりとなるものである。

ない。それ 故 最後 に 次のように言っている。 ないのではないか。

によって獲得さる ものではないっ 、すぐれた智に 29 C Ⅰ 441)

化す

への

道が

ば湿盤は実現されないのである。

力 である。 ないのか。

な 生するものではない︵串も p す才笘セの ︶。 み得 。 阻 転 る 原 上 仙 よ 因 し な う と て 克 な

な い 服 こ で, 共 な @ る し と あ で い か て は

(30)

四 ﹁清浄道 諦ヒの 修行道

ばならない。

いても清浄を得る。

義 において自性

比丘たちょ。 不

無為︵笘の pp オア p 蕾 ︶なるものあり " と 。

っ たことである。他

によって 証 得さる べ

証 得され得る実在で あると断ミ 目 されて Ⅵ ト るかり である。

るのである。淫薬

々は考えていたことがわかる。 ついて説明する文では、

% 6 ︶ o

。彼らは 択滅 よりも

よう に 滅諾さ 諸訳 滅 る 筈である。 (142) 30

(31)

せ 曲目 ぎキ宙巨ド ︶ とはぱ同 も 決して聖道ではない。 かれている。 道 智見清浄とい︵ 0 2 ︶ じ呵 な う べきである。 31 く 143)

︵㎎︶

︵Ⅱ @ ︶

ている。この智を得

︵ませ PHpmpH 守 P ︶、小頭 流 ︵ W@ ︶

である。

様相を見るよ う に た る 。これが 見 清浄である。 る 。 ︵ 肋 @ ︶

をありのままに見ることが 見 清浄である。 ・ 度疑 清浄・ 道 非道智見清浄・行道智見清浄・ い わゆる 七 清浄が﹁清浄通論 ロの 修行道であ る 下 の 慧 修習について修習過程をみてみよう。 見 清浄については次のように説かれている。 確知 し 、それによって有情想︵の p ま曲田 ひ寸 卸 ︶ 智見清浄という慧の 。本節では 見 清浄以 を打破すると、名色

(32)

そ う すると聖道があらわれる。

﹂という。

︵ 然 ︶

あらわれ﹁この ょぅ ︵ 2 ︶ は障礎 として現われる。 智の後に 智 ︵日田 0 日き倒握 ︶が起るのである。

止住

すべ 傾 する 諦 随順 滅させる。 す

の葉から 水

円ゆ Ⅰ 笘臣 ︶︵ H ︶曲中 曲 ︶

では四善根忙中の頂

の あろう。

田かオす WHE づ 薄ォ ず曲ひ 曲中 p ︶に至る人智を獲得する ナ - Ⅰ に 修行すると説か いであろうか。し になってしまうで めに修得する。 行

の 彼岸に到る 0 そこ

明らかになってくる︵

の ppp が ゅ 七曲︶が獲得さ

(33)

南ゴヒ両アビ ダルマの修行道論 33 (145) か あ ぎ 磐 れ 『 ら る を と は 倶 に め

それ

切まて

。 見し仙台

"

の論数人

も "

貧しがさ

繭て

聖れは

ま は っ 疹 様 用 す す で る で 艦 え た た て 行 で を る べ な 預 あ と ら ヶブ し よ て そ

の 智 サ ブ し 結 び つ ぎ つ つ

。 七

て述

るの 古万全 と考 雀口 曲 こ

o

未 ま 里 で な え 握 れ べ た 財 あ 道 て ) は て を だ撃 破 る 智 い の 滅 い そ 現 さ 。 を る は 諦 る れ 所 れ 得 の た を 似 せ ず た で ろ 浬 そ 外 し 粉 4 ド 司 道 保 あ 智 会 ら 見 識 た 清 』 め 五 浄 め て か 修 『 『

清浄倶舎

9

行道 道 が 道 諦 智 釈 論 』 児 曹 』 [l[ Ⅰ 清 の に お 海 抜 お け に 済 げ る か 法 る 智 げ と Ⅲ 多 て し 行 " て 道 無 亜 を 帯 祝 ふ ・ し り 苦 た 返 回 り 無 諦

口論

清浄

一一一 相

L

(34)

むしろ智を主体にし

とそれによって生ず くと説かれている。

を 説く﹁賢聖 品 ﹂

ついて次のように 述 べている。 誰がいくつの智を備えるのか。

口 備えているⅡ

筈 だけを備えて

これより上位は 、

、 集法智と 滅法 智

ことになる。しか

は 修行道の進展に対

う な独立した意義を

那 ︵欲界の苦諦を現

簡択したこと、浅香

る 。 (146) 34

(35)

南ゴヒ両アビ ダルマの え い て く す い の で た で に の あ 述 六 で る べ あ か て 南 る 。 き 方 か 釈 だ 上 。 尊 よ 座 そ が ぅ 部 れ 四 な に が 諦 商 お 次 を 方 け に 故 上 る 問 済 座 四 題 法 部 諦 V こ と の さ し " れ て 道 ょ 説 を う い 正 。 た 視 の し で、 よ - な 修 し 、 , 一 仔 と 通 す " "@ @ ム 口 " 拝 町 れ か ば ら キ 釈、 る 尊 と は

を 諦 有 な ,清 る v= も 赤 め し は た ど の の で, ょ あ ぅ る に と 取 彼 扱 ら わ は れ 考 て D Ⅰ 47)

てみるならば、智もまた

り 起 は

に 直接修行道にお

。勝義としての

㈹ 行 相によって 苦

別される U 。 行 相と

智が 区別される。︵以下㈲ 、

︶︵

かり ヤ @ Ⅴ & 小旧ガ含 / ︵ 田 9 2 ︶

明しているにすぎないことがわかる。

︵ 日ゅ ︵ mp で 尽 古曲︶ と

は 道諦を簡択して

とは四諦を手がか

簡択 し 煩悩を対治

(36)

は ﹁ 無擬解道 ﹂ を

は 次のような見解で ある。

色の味とは一体 しゆつ @ け ん と 。比丘たちょ。

・変易 法 であるこ

る 。 " と 。︵中略︶

証如 したから、 天

︵ 組 ︶

にあてはめている。

・ 苦 ・変易 法で

断 すること、これ

語 ・ 業 ・ 命 ・ 精 ︵ 銘 ︶ 進 ・ 念 ・ 定 という修習通達が道諦である。

。つまり、彼らは 釈

よ う にして悟りを 開

である集を捨 断し、

わち 味 ・ 患 ・離の証 (148) 36

(37)

四諦の十六行

11

抜済

法として

義諦

としての四聖諦とは

後にそれらを総評する

ると述べているので

知 とも重なると考えているのである。

て 達成すべきこと

として道管の 四 作用 をあげて次のように述べている。

これら通知 等の ︵㌍︶ 四 作用を行ほうと説かれている。

、四諦を一時に現 観 するということになる。 37 ( Ⅰ 49)

(38)

義諦 の 理 として示している。この 理と なかろう。この理は、たとい 苦 ・非常 真理を示す証左であったにちがいない

十六行相とは根木的に相違してい 苦 11㈲ 逼悩

㈲有為㈹愁苦㈲変易

集 Ⅱ |

㈲増益㈲因縁㈲結樽㈹障碍

11㈲出離㈹遠離㈹無為㈹甘露

道|

㈹ 出 ㈹ 因 ㈹ 見 ㈹増上

﹂とによって、まず自性として 逼 憎相 益せられ、作為され、集積されたもの 見ることによって 熱 苦の義が明瞭にな

ね 、有為相は集の増益 相 との関連か である 滅 との対照から知られるという

の 滅をも見る。苦の滅に至る道をも ぅ ことができる。

の 十六行相とは全く異ることは 一 頓 親親のため、他方は漸 現観 のためな のある苦の有為の義が明瞭にな であるから。また、道は煩悩の る 。︵中略︶また、不変易 法で 行 相が関連し合っている。苦諦 ら 知られ、 熱 吉相 は 愁苦を取り のである。この ょう な四諦相互 見る﹂という 頓現観 論の 教証を 目 瞭然である。有相を立てる 意 のである。 等 しての十六行相が彼らにいかに の 行 相の吟味に解釈の相違を る 。次にそれを挙げる・ (150)@ 38

(39)

南ゴヒ両アビ ダルマの修行道論論 磐 にも言及しつつ

観点の相違を如実に

現われ来るもの或は

と浬 盤を所縁とする 智見清浄 道 とのちがいである。

はどういうわ け

らに詳しい研究を必

い 。今日の日本にお

て 描く見方と二様 あ

信者とでは釈尊に 対

よう とするかに ょ わりをど う 評価する

よって与えられたも

の 弁別︶を修行の方法とする立場である。

根 として基盤にお 八

結び

39 (i5i)

(40)

甘匡か q& の絆 ︶に説かれている。

Q. か Q め ⑧Ⅰ か苗由め ヒ心 束ぷ a の まかぬ さ隠蓮武 づ ︵︵︵ - ㌧㏄︵ コ p-PO の づノ セロ・㏄㏄白1ののの ︵ 2 ︶ヨ田・ 七 b. ㏄ ト印 @@ ㏄ 卜ひ

八 、幸全土 二セ 、 四 0 一頁 下 。 ︵ 4

︶も

トか ∼乱悪さⅠまさ 討 0 抹 Ⅰ・ サ か曲 セ ㎏Ⅰ・ づ ・ ト

︶二五頁。 ︵ 6 ︶ ト迂 寸寸心 苗ぬ Ⅰまぬか心体Ⅰ・ 駄 下旬 めセ a. せ,め ゴ汀団コの が コ のガふ︵ 毛 0 ﹁ アの 絆 ﹁ 田 小いの の 実体験に迫ろ うと 由里主ロ の 、独覚として

修行道論は最後に 具 道者としての生涯を次のように述べている。 続 において四道

を 奪 い 去られ、 そ

を 引き起して後 有 くなった火のよ う ︵ 舘 ︶ 尊の道を進も う とするのである。 (152) 40

(41)

南ゴ ヒ両アビ ダルマの修行道論

れらは阿羅漢 果に 41 おいて獲得される。 ︵ お ︶田す 円 ハト @ 0. 什 Ⅰ づ小リ ・ コ ・Ⅱ り侍 1@ り ハ いれい ︵ 打 ︶ 卜 けか∼ 隠苗 Ⅰ へ まぬ討も本心・ 迂こ 幼セ ヒ Ⅰ・ ロ ・ ら 0 切 ( Ⅰ 53) ︵ 7 ︶Ⅰ げ w&. や・㏄・︶・ 卜 ︵ 8 ︶申 す日 ・で せ ・㎏11㏄ ︵ 9 ︶レヰ レ 山ハ 坤 ・ せ ・トド

Ⅱ 0 ㌃ せ ・ せロ ・ 脂 ㏄の @@ か ㏄Ⅱ ︵は︶ 司婆 妙諦口巻 セハ 、大正二 セ 、 四 0 六頁上。

巨 甲ユ㊥, vo ︶・ 自

l1. かの 田 ︵ M ︶㌔∼ い ま簿もこ 由ま Ⅰ叱叱 Q- つつ ・ ムの サー か ㏄㏄ ︵ 旺 ︶ い す ご ・ b.A ひ ひ ︵㎎︶ 田び弍 ・や・ mPN ︵Ⅳ︶ 田ヴ p&.b. のⅡの ︵ 穏 ︶ ぴご ・ 0.oH の ︵㎎︶Ⅰ ヰ甲 山ロ・ づ ・ 川 Ⅵ 卍 ハリ ︵ 舘 ︶田ヰ 目 Ⅰハ出・Ⅰ ソ ・いの。 ︵ 午ぬ ︶Ⅰ ヴ Ⅰ 巨 ・ づ ・の肚の ︵ 牡 ︶け田 隼 ・ づ ・ 鐸 Ⅱ べ ︵ 為 ︶ レヴ 山色・㌧・のⅡ べ ︵ 穏 ︶ 田ヴ 由江・㌧・ 銅 Ⅱの・ 目 ・の1ト。 ︵ 朽 ︶Ⅰ ヴ 日・ 弓 ・ 収 Ⅱの・ 目 ・Ⅱ 01 。 ト色

(42)

︵ 9 ︶ ︵ 而棚 ︶ ︵ 1 ︶ ︵ 2 ︶ ︵ 3 3 ︶ ︵ 3 4 ︶ ︵ 3 5 ︶ ︵ 3 6 ︶ ︵ 3 7 ︶ トけ 下へ 荘下 a Ⅰまぬ 汗 。 抹 Q. サ 下旬 めヒ Ⅰ・㌧・のの 印 ・ 憶ミ牙 Ⅰ ま むか∼ 軋隠 まぬ叱叱Ⅰ 、ロ ・ 円め ・㌧・Ⅱ 0 の

㏄ ぺ|め ㏄ ㍉ ぬ さりⅠまけ 蓮 ∼ 簿 Ⅰ ま Q 叱叱 Q, や目 。 ㌔ 漱 乱簿朝 Ⅰ まぬ叱叱 Q, ワ 臼のの ﹁ 婆 妙諦ヒ巻 セセ 、大正二 セ 、三九九頁 下 。 べ 済まももか∼ ま Ⅰ人心 Q. づ ・切のか ぃ ヴ山色・ せ b. 臼のか | 臼 0 釧 レす レ立臼のは (1 打 ) 42

(43)

グノーシス主義における ダ Uaec イ ㏄ a み 化の問題 一 問題点と資料

知られていた グノ

題 がある。荒井 献氏

期の時代思潮なる グ

1フ を 有する創作神

性の認識、第二は現

己 ﹂の啓示者ないし 一のモチーフに対する古典的な定義である。

の 定式により、 グ

関与する余地はな い

三 の ヨ拐 ︶に陥った と 43 C Ⅰ i55) を 中心として

小林

プせ

の ハ

O

田 ・ N

のの

侍さ

注の問題

(44)

唆する通り、クレ

ハシ レイデース派 と

なり、旧約と新約の

をム 患 qm 。 ミ qq へりホ険 ∼

解を問題にする際に

げる必要があるであろう。 ︵ 托 ︶

められているとこ

に 依拠しているよ う ︵Ⅱ︶

、第二巻以降は専ら 昔 へ く し ノ ィ 考 書 ン " と て l ス え ︵ 3 ︶

論 に関しては ク ︵ 4 ︶

ヨハネ神学が グ ︵ く Ⅰ︶

︵知了 日 のの す 0 ㏄ ざ ︶が以上のようなグノーシス 救済論を前提と ︵ ムリ ︶ 、教父 達によ る恩恵論の展開を説明している。

行為ばかりでな ︵ 7 ︶

こととなった。

トマスによる 福

ている。︵ 8 ︶ (156) 44

(45)

グノーシス主義における 剋 0 ㏄

と 次頁の表のように ︵ M ︶

なるで占めろ う 。︵ 6 ︶Ⅰ ︵Ⅱ︶

て ソフィア とアカ ︵ 毬 ︶

﹁霊的なもの﹂や﹁種子﹂と呼ばれる。他方﹁ 形成﹂︵ セ &b モ eq 。の︶に

フレーローマ、 山 , 間

も 貫かれていて、人れ

心魂的なものが中間 4

構造

を挿入している。して、

中に

B

イレナイオスの︵

4 1

れるもの︶について書き

ンティノろ脈につい

々が互に異なる 教説

ス派 ︶の 教 説の起源 ︵は︶

オス﹁異端反駁﹂ 第 一巻の八章までを扱ってみたい。

(46)

プレーローマ 界 一 な w 旭

終末論 セ 1 キリスト論 3 1 4a 預言者とデー ミ ウール ゴス 4b 来臨した ソ ーテール とデ 一 ミウ一ルゴス 四 1a キリストによる アカ モートの形成 アカ モートのパトス とエ ピストロ ペ| 5a ソ ーテールの派遣と彼による アカ モートの 形成 この世の三要素︵の材料︶の成立

お ょび 彼の虹 知 5 1 6 人間の創造 上ハ 1 人間論。主要素間の関係、この世 とソ ーテ 一 ル 来臨の目的

﹂ おょバゾ 木口 スに トよスリ救い 4b ソフィアの事件の結末

に 対するかれらの役割 6b ソ ーテールとその天使達の発出 呈 1 1 6 以上の聖書による証明 人間の三つの種族 七 5

ヱ " " 者の放博行為︶ 五 四 批 質 判 " ト 杵

的 皮 ス 在 府 の 在 将 Ⅴ こ つ 来 て に関 す の 詳 述 説 と れ に 対す 二 3 1 4a 同じ記事に関する B による重複記事 とそれに対する批判し 一 1 1 2 フレーローマの成立 以上の聖書による証明と エ イレナイオスの批判し 何一 3 (1%) 主 婁 姿 冶

英 姿 檸

46

(47)

グノーシス主義における 押 a ㏄Ⅳ CGag 化の問題 Ⅰ◆ - 一 - -.- ◆一 一◆ -.- - 一 .-. 一 - -- ● - - 一 一一 . - ● - -. 一 . 一 .-. 一 . 一 -,- - ◆ -

や ・一‥ -. 一・一・ --.--,-. 」 M 且 ﹁ @l.. ゆ , 1.lllil し ME KO 田 Ⅰ ヰ

㏄Ⅱ 仕入

︵Ⅰ ⅠⅠ @ 八 Ⅰ @ll 47 (159)

(48)

三 エイレナイオスの論敵の人間 論

状態︵パトス︶が 生

な 状態によって生じ

等は安息の状態を獲得するのである。

成る神話論には 内

に一般的な知識を与

説明する よう に 、ヴ ︵ 花 ︶

つ 八章までを書いた と 結論できるわけである。

Ⅰ㈹無知

㈹無限者

貫 界 徹 し に さ か れ も 質 て 神 料 い 諾 約 る 2 輪 な 。 )の も 月 Ⅱ 月巨 き の( ち 開 がぎ

左に

言 - 己 は この に 、 世

で ャ も 滅びに至る。 即 ル ︵ q., 目 ・・ 目 きるよ う に 、 ㈲ ま ち すべてが白 の曲的 臣曲 Ⅱ 隼 ︶ の ず、 知られざ らに相応するところへ帰着するので 指摘するひとつの基本構造が三つの る無限の原理があって 、 ㈲各領域の ある。 領域を通じ 霊的存在者 に て ( Ⅰ 60) 48

(49)

ることに注目した ノーシス ヨ

中には、アカモート ︵四︶

としているのである。 (161

霊的な人からも何らかの お ける 叫 aec a ゅ Ceog% た ぶかってショットロ

る 。 状態としての救いではない 0 なぜなら第一に 、 中間 界のアカモ|

よ る救いを必要とし

モートが上のものを

の放

塔主義の問題に

触れてみたい。

a

主要資料︵

A ︶の人間

史の見解には大筋に

当 しそうに見える。 去し、 残った部分︵ A ︶

(50)

b 三種族 説 ︵ 七 5 ︶の人間論

5 に、人間には二一

また預言者について

心魂を通じても語っ ︵㏄︶

レナイオスの総括で

、この世で心魂的な

とともに教育される よう 遣わされている。﹂と いわれるのである。

れている可能性が

、これらの中に宿っ

および﹁心魂と対を なしての教育﹂が必要なことは否定できない。

なものと質料的なも

そちらの方へ行く﹂もの③。こである。

く 、生来持って い

& の mq も ミ の思想があ

れる人は同時に質料

したがって彼の救い

自然的なものではないと結論できる。 (162) 50

(51)

グノーシス主義における WUaet 軽 Ce<7 や僻の間 題

よっても三つの本性

、 彼はこの

教説

を七

よう

とするその証明

︵ 舘 ︶

由来するとは考え難

子を受容

しぅる本

れる。フェルスター

魂が

質料的なものを

︵ 鍋 ︶

51 (163)

(52)

︵ 何 ︶

そこには A との 間

救 い をもたらすもの c 論争部分︵Ⅰ ハ 2 、 4 ︶の問題 に 蓋然性が認め ただここでも ︵ ヒも Ⅱ へ Q の︶ としダ 性の役割が薄め られよ う - 車 一皿 的 種族 ﹂の救い ぬ られてい ま、、い Ⅲ

﹂ある。 るとは ︵ 蛇 ︶ 魂 な ﹁教育し﹂守口 へめ mGm 通 ︶しつつも﹁育ま したがってわれわれの問題に関する限り、 れる﹂ 七 5 えるで ︵ ぬ hqb 恢も mq も Q 。︶ 末尾の心魂二分 あろう。 必要のある﹁幼児﹂ の説においては自律

体 的な人間であり、︵ % ︶

属するものと考えられていることになる。

ら ﹁要素﹂に 移 ︵ 鍍 ︶

るであろう。ところ

ソ ーテールの天使 達

在 と考える思考が前

も 裏にある思考に差 ︵Ⅱ︶

するフェルスター 説 (164) 52

(53)

グノーシス主義における 緩 a ㏄確 Ceat) 磁の問題

必要としているので 末尾はこの 教説 を説

なら A は一八ーの後半

﹂とし、異説をも

論敵に反駁し、自説 ﹂とする説を批判し 彼はクレメン 子 と同

A をわれわれとは 違 みムロ わない彼の反論

も プトレマイオス 自

間の事情を了解しや ︵㏄︶

留 する 六 2 、 4 の論 敵についても扱わなければならないと考える。

れる﹂ ぶ 二︶の 一

人々﹂③二︶に変わ 53 (165)

(54)

て な 種 の す る 「 法 て 六 - し

いく

る全が点ばで

視れの受で

げ放 キし

りか

と こ " か " あ て わ ス し ろ

はに

な志

位 の

そとこ

るる者れこ

ことわれ

は本

く みでで完 の用 の対 れは 寵は 力 こ

% 対 の れは 六 の ,

) 型 の 彼 し 主 著 め き か す た え 調 を ぃ 者 わ 貸 な 。 際 統

れ と ロ 「 っ

0 が 」 プ っ ③ レ そ る 救 の に し ス て

わ は な 主 ら 震 る 義 ず 的 話 者

」とな人

は論 の 々 敵 縦 用 に の な 役 対 て が 了 ③ と 者 の

否 定

報れ

いてくる

じぅ

(とれ「

い、

剛一

さ で か も 。 ね そ の 貫 れ は る A と れ の 方 し 語 約

帰田諾

桁行

が 刀ダ な

り 分 「 を た で 調 役 者 こ は 何 等 慮 れ は し に

レ の の け く ナ 快 も れ も ィ 楽 の ば の オ に は な と ス 保 岡 る し の く 酌 ま て 皮 隷 な い 列 内 属 人 。 挙

も な e l か も も シ か め ) ス (166) 54

(55)

グノーシス主義における 可 aei a ゆ LsaQ 磁の間頭 55

ス 卜者との論争に

、われわれの見たの

たなければなるま

輿 HH.H ム 。さに 関

| シス主義との判別

論 できるであろう。 (167) す 共 ③ 福 あ れ と 住 二 % る 人 ば す す ) 書記 。 間 結 な 、 触 提 め柵

れ 込 れ も ら ん て 解 (で 戦 六 の だ い 明 ㊥列 か

行 て 意 ぅ 「 の 一 為 も 図 。 白 桃 騎 、 と ェ 公 儀 打

ス は は テ キ と か

に 出掛ける人々は彼等の中で ナグ ・ハマデイ文書の﹁。 ヒ う に欲情のうちに結ばれるの をこめて述べる﹁姉妹とのよ ある。 であり、偶像に対する無関心 ︵ 抑 ︶ ﹁ 放 塔主義﹂とはいえないで も 少数者で リポ に よ る ではない﹂ う に謹厳に 主義を別に あろう。

(56)

﹁霊的本性﹂

全く超越的な

と 説明された というのである。

る放埼 な諸行為を

超越性の自覚

するのであ る 。

きの考える グノ

られてはいる

、 即ち 、 恵み

︶の間には 本

い う時 、彼も 同じ観方をしているといえるであろう。

新約聖書神学 1 、

の 二元論を比

であり、人間

︶であるのに

における人間

魔的爾 ねから

3% め ・ ト ㏄・下目 巨

判 に注目し、

グ避

波 書店、一九 セ 一年、三三セー二五 0 頁 、参照。

(57)

グノーシス主義に おけ 6 %do ㏄ 研ゐ Ceo 舌は ( 0 間 @

0 ぎ ・・ せ ・ドド ト ・ コ ・の︶

のョハ 、平袖

スに 決断の余

いか 0 ﹂との 指摘を い ただいた。

﹁与えられ

がョハ 、不神学

スを 決定論と 決めつげていることは否定できないであろう。

に 一 0 四頁︶。後

シス観を植え つけたことを否定するものではな

のが救われている

示 欲の倫理が

セ九 、九九︶ 、

れている 人

一二一卵 叩 1 ㏄︶ 、

1 8 ︶が求められるのである。

ぎパ 0 ヨョ 0% ︵ p ﹁:・パ ン いい㏄の 、 ︶のの A. n. のの ト

観を説明する 75

ある。

(58)

であろう。

Pomo 、 b づ ・で ト参ダ 昭お

もエ イレナイオスからである。

・ ま ・のり 幅づ餓 P ぃⅠ

略した二一二 早 は 簡単なグノーシス批判に当てられている。

の肚、ト 。

小さな挿入の中に

﹁他方、彼等

れを自認して

々に会 い もして彼等の意見を把握し⋮⋮﹂︵Ⅰ 下 ・ ど などのことば

アレンティ

い ﹂ ざ如 0 随 。Ⅱ e. ㌧ 曲

あぽ Ⅰの 圧岸 ︵ 曲的 キヰ ︶ののの・で づ ・ HO の l め 0 ト

的には個人 58

別にして、 実

いるが 目 ︶ 0.

制 する際に 禽

教説 に基 く行

かのように﹂ と 解するべきであろう。

(59)

グノーシス 主義にお け 兜 50ec a ゆ CeafP 篠の間 題 から確認できるであろう。

︶。神話論の大筋

晃資料に由

が 主要資料の

の 1 %@ 印 ・の・の @ の,

一 3 と三章、八章の資料分析はより複雑である。

︵ m.P ︶と質

レ ーの創造は

かにヒュレ|

スをヒュレ|

ぇ れば、その

る 。

のを参照したが、

したので、目がのの E 卑のものとは多少異なっている。

3 参照︶ 0 も え aR と

参照︶、これ

Q でだといわれる︵ 五 1 ︶のである。

には プレーローマ

より﹂︵二 % ︶

も う ひとつのⅢ

できよう。

﹂と記されている

(60)

あり、また 異 資料

のものに対し

ことは右の引 用からも明らかである。 ︵ れ ︶ nh. 紅幅 コリⅠ 卸 ・ Ob. 住 h : づ b.N の 収 1%0 町

ち % か Ⅰ 宝お ⅩⅩ HH ∼ ト わの伝えるような﹁フトレ マ イオス﹂の 教説で

である。本文

照 。

いうのは フ

Ⅱ㌧Ⅰ め ︶ 月 ﹂重目

マイオスは は

Ⅱ、 Ho に﹁ フ

文書は 、 少なくとも A と内容的に矛盾しない。

︵ 盤 ︶のの す 0 ︵︵ HOHh,Ob. 住 ︵: せ 0.0 切 10 日 一ヴのの・ せ Ⅰ・のの 1 のの

め壷 ⅠⅠ ド ・トー㏄ ,卜 ︶・ -

たので、ここ

荘田 コ N ︶で な

掲 拙論は セ 5

した。

霊に 因んで聖霊と呼ばれる﹂となっている。

勾 山色 幅 e 毛 o0 Ⅰ

Ⅱ。 ロト ︵ ︵ e い ・︶ , 60

(61)

グノーシス 主義における Pd0ef ヴゆ 亡さ 伊舌はと の 問題

9

33

( ) 1 ) ( 0 2

6

2

) 28 ) 7 2 り乙 ) 5 ずの 影 」 ㌧の) 0

と こ ろ

「 。 ( 立 毎 づ の ,

約 ニ 種子

やの

に る ぎ 「 は にお 自 し ト己 @

三 % Ⅹ あノ て 乙経 魂 に 酌

人 『

61@ (173)

(62)

35 ) ) 3 4

む t

づ O お ト

@.

く ミコ S い ら ( こ

(174) 62

(63)

グノーシス主義に % げ 蛆 60ez 研ゆ Ce ヴ捜は の 問題

いないのであ る 。

ものども﹂ 父 ・ じ

苦 Ⅰ 仁洩 Ⅱの︶ Ⅰ ネ し

尾部分にその 解答を見る。

めげる めへ K ︵ X ︵ o の及び めへネ漠 ︵ 0q 駄 ぷの用法。

じないのである。

しかし、

て 明確な差異 のあることを否定できないであろう。

三頁、注口、参 阻卜 切 ハ 0 ︵Ⅱ︶㍉ 0 の 毎荻 r 、 之づひ , o 、 u. め ㏄

れる﹂こととな る O

してはこのことを認めている。

みが ︵ A とは異な

︵ 蝸 ︶用いられている箇所は四九頁に記した。

0 校訂に

ょけ

質 規定︵ モ Gq ∼の

なものどもを蒔きつける﹂からふ明らかである。

(64)

︵ 訪 ︶Ⅱ ヰ ㌧ 甘 H ド ド︵Ⅱのの・ ト lPO ︶ ︵㏄︶の D ⅠのⅩ 目トの N. め Ⅱ・㏄ 0 (㏄) ( ) 5 4

5

52 1 50 4 9 48

6

44

( 7 な る をの 性を ま る 素 し

にき し は 。 、 て い蕊り、

ぇ は ず o,

れ % ダ ひし

も。

具 おへ も V こ 田 ㏄

・。

∼ へ 0

か し

) の 的な

(176) 64

参照

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